マルジナリア12 「遍在する私(二)」(2006/01)




●物や記号が「情報」であるとして、それではこれと対になる「システム」、つまりスルメに対するイカに相当するものは何かというと、それは物質、生命、精神である。システムの典型はもちろん生命だが、生命現象だけがシステムなのではない。物質(現象界=「諸法」)も精神(イデア界=「実相」)もシステムだし、もっと言えば物質・生命・精神の循環そのものもまたシステムである。(余談だが、ベルクソンの『物質と記憶』『創造的進化』『道徳と宗教の二源泉』はそれぞれ物質・生命・精神に対応している。)
 社会もシステムである。人間や動物の社会(狭義の社会=精神)はもちろんのこと、植物や菌類や鉱物や道具や機械類、はては観念や概念や神々までも含めたより大きな社会システムを考えることができるだろう。私もまたシステムである。私とはそのように拡大された擬似生命的な(というより生態学的な)社会システムにおける諸関係の総体を微分しあるいは積分する屈折点にあって、たとえば預言者や使徒、声聞や巫女(メディアム)といったかたちで出現する言語的現象である。

●説明・論証抜きの議論をつづけると、物質システムと生命システムの界面で立ち上がるものが物情報で、生命システムと精神システムの界面で浮かび上がるのが記号情報である。(立ち上がるとか浮かび上がるといった言葉の使い分けにはあまり意味はない。そもそもそういう言葉で表現できることなのかどうかも不分明だが、ほかの言い方や概念が思い浮かばないので仕方がない。)

●話が複雑になるが、ここで生命システムを二つに分類する。集合的生命(種)と個体的生命(個)。気分としては前者が物質システムとの界面の近傍に、後者が精神システムとの界面の近傍により多く分布している。太極図(白黒の巴がからまりあった円)を想像していただければいい。物質システムと集合的生命(より精密に言うと、集合的生命の濃度が高い生命システム)との界面に立ち上がる物情報は「食」や「性」にかかわる具象性・呪術性を帯びている(ラカンの想像界、あるいは王朝和歌)。個体的生命(個体的生命の濃度が高い生命システム)と精神システムとの界面に浮かび上がる記号情報は「名」や「死」にかかわる抽象性・象徴性を帯びている(ラカンの象徴界、あるいはアレゴリー)。
 もちろん物質や精神についても同様の分類ができようが、それはおそらく朧気な比喩の域を出るものではない。私に装備された知性は生命の圏域に属しているので、物質や精神のあり様については物質や精神に訊くしかないからである。汎生命主義の立場にたって一刀両断式に分析の刃をふるうことはできようが、そうして見出されるのは擬似生命化された物質であり精神であるしかない。

●物情報の「意味」(たとえばアフォーダンスや霊性)は物質システムと生命システムの界面に、すなわち環境のうちに立ち上がるものであって、その意味を固定する仕組みとして脳が設えるのが時空構造である。この時空構造を記号情報の局面に、つまり生命システムと精神システムの界面に浮かび上がる記号情報の「意味」(たとえば神のロゴスや魂)にあてはめようとすると、そこに様々な論理的パラドクスや形而上学的アポリアが発生する。たとえば、無限に分割できる空間や時間の観念。
 注記を一つ。いま括弧書きの中で断りなく「霊性」と「魂」の語を使い分けたことについて、気分としては前者が仏教的、後者がキリスト教的といった違いを念頭においている。山川草木悉有仏性と言われる集合的霊性と最後の審判によって裁かれる個別的魂。とはいえ所詮は同じスピリチュアリティの気分による言い換えにすぎず、ほとんど定義の問題である。

●このあたりの議論は、養老孟司『日本人の身体観』にほぼ全面的に準拠している。古い仏教の身体思想の論理が「自己相似」にあることを論じた「仏教における身体思想」に、ウパニシャッド哲学における絶対者は万有に遍在するというくだりが出てくる。
《これはキリスト教の神も同じである。万有に遍在するものとはなにか。私は脳しか認めない。それなら、脳が万有に遍在するとして認めるものはなにか。それは時空である。もっとも経験に明瞭なものは、空間である。空間は万有に遍在するからである。実際、神が遍在するというときには、一つには空間を意味し、もう一つには時間を意味している。神はどこの場所にも、どの時点を区切っても、そこに存在している。それが、「神の内容は時空だ」と私が言うことの意味である。》(日経ビジネス人文庫『日本人の身体観』236頁)
 神の概念は時空と結びついてわれわれの脳のなかにある。時空は「図」に対する「地」としての特徴を備えている。すなわち時空の無境界性と透過性(遍在性)。──時間も空間も、すべての物事を「通り抜けて」しまう。われわれの方が両者を通り抜けると感じる人もあろう。どちらにしても、さしたる変わりはない。われわれの方が時空を通り抜けると感じる人はニュートンの絶対空間に共感し、時空がわれわれを通り抜けると感じるならアインシュタインが定式化した時空にリアリティを感じる。
《こうして、時空の観念が強い存在感と結合して、神の観念が生ずる。時空の観念も、存在感も、生物が生きるためには基本的な観念と言わざるをえず、神の観念が人類に普遍的であるのは、そのためであろう。これは議論や説明というより、ほとんど定義というしかない。》(同237-238頁)

●ここに出てくる「存在感」は、数学者にとって数学的世界は実在する、哲学者にとっては抽象思考こそ実在する、と言われるときの「実在感」と同義で、世の中に心に対して実在感を持つ人や脳が実在する人(唯脳論者)がいておかしくない。
《心や脳の実在感が、心身論の紛糾の背後にあることは、間違いない。私はそう考える。しかし、学問はしばしば普遍性を要求するので、考えているのは本人の脳だということが、伏せられてしまう。こういう問題を議論するときには、正直なところ、理屈はともかく、本人の実在感はどうなのか、という問いを抜きにするわけにはいかない。》(「西欧の心身論」,『日本人の身体観』295頁)

●実証思考と対になるのは(想像力ならぬ)抽象思考であるというのが養老説。西欧における抽象思考はキリスト教であり、実証思考は自然科学である。「仏教における身体思想」では次のように書かれている。
《要は、わが国にも西欧にも、同じように抽象思考があり、その思考の形式に従って、「解毒剤としての実証思考」が成立するのではないか。もしそうだとすれば、わが国の実証思考を知るためには、わが国の抽象を支配する思考すなわち仏教を知らなければならない。ところが、面白いことに、仏教という抽象思考については、書かれたものがたくさんあるのだが、実証思考の方は、この国では「思想」として表明されない傾向があることが注意される。》(231頁)

●以下は私の仮説だが、養老孟司がいう日本の実証思考は歌論・連歌論・能楽論の類においてかろうじて「思想」として言語的に表現されてきたのではないか。(これに対して、宮大工の知恵やほとんどの芸能家・武道家の秘伝は「言わぬが花」である。)
 『日本人の身体観』に収められた論考「中世の身心」に、「私は、東洋の古い文献で脳を論じたものを知らない。「髄脳」ということばはある。しかし、これを表題にした書物は、要するに歌論書である」(266頁)というくだりがでてくる。『日本古典文学全集50 歌論集』(小学館)巻末の「歌論用語」に、髄脳とは「詠歌の法則、心得、秘説、またそれらを記した書物」とある。『八雲御抄』には「五家髄脳」として『新撰髄脳』(藤原公任)『能因歌枕』『俊頼無名抄(俊頼髄脳)』(源俊頼)『綺語抄』『奥義抄』があげられているとも。
 今引用した文章のすぐ後に「ところで中世の文献では、心ということばが頻出する」(267頁)とあり、養老孟司は続けて鴨長明の「あればいとふそむけばしたふ数ならぬ身と心との中ぞゆかしき」が、そして「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」他の西行の歌が引用される。「心の艶」を連歌論の鍵語とした人物はその名も心敬という。

●日本の実証思考が歌論のうちに表現されたのではないかという仮説の「例証」を続ける。荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅』に歌合の判定をめぐる話題がでてくる。荒俣宏いわく「歌合とは、歌と歌をぶつけあう歌の相撲である」(知恵の森文庫『「歌枕」謎ときの旅』40頁)。今日ならさしずめ「詩のボクシング」といったところだろう。ところで歌の良し悪しを判定するとはどういうことか。藤原清輔『袋草子』下巻「三十講歌合」に、赤染衛門の「かへるべきみちもとほきにかはづなくさはべにひをもくらしつるかな」に評者の藤原義忠朝臣が下した判定が記されている。蛙が夕暮れから鳴きはじめるものと知りつつ、沢辺に一日いたという。フィクションくさいので負け。
 荒俣宏いわく「研ぎ澄まされた美と雅の感性だけをもって、神のように「こっちが文学的にすぐれている」と託宣するのか、と思っていた。理屈というより師匠の趣味によって判定するものと信じていた。ところが実際は、歌の良し悪しを博物学的知識によって決していたのである」(42-43頁)。また「歌をつくるということは、まこと、文学である以上に理学に近い。数学や法律学に近い。そう、思った。そういうわけで、わたしは歌合の発見から、ようやく歌の理論すなわち歌学に興味をもつようになった」(45頁)。歌学は科学(博物学・理学)に通じる。

●ここで、以前(第9回)仮設した図式をもう一度取りあげる。アクチュアル/ヴァーチュアルの垂直軸とリアル/ポッシブルの水平軸との交叉図のことだ。今度は物質から生命を経て精神へと上昇する垂直のシステム軸と、これと交叉する水平の情報軸を組み合わせる。
 ここで垂直軸における物質・生命・精神の区分はあくまで水平軸との関係において事後的に定まるものである。したがって水平軸は必ず二本一組のものとして引かれることになる。すなわち第一の水平軸が物質と生命を分岐させ、第二の水平軸が生命と精神を切断する。第一の水平軸は物情報や実証思考に、第二の水平軸は記号情報や抽象思考に相当するわけである。この一対の水平軸は、それぞれが「差異性」と「同一性」を担う。養老人間科学では差異性はシステム(垂直軸)に、同一性は情報(水平軸)にかかわるものだった。つまり一対の水平軸はシステムと情報の関係を自らのうちに入れ子式に取り入れて反復表現している。

●ここに言語が発生する。養老孟司は『無思想の発見』で、「五感で捉えられる世界をここでは感覚世界と呼び、それによって脳内に生じる世界を概念世界と呼ぶ」(120頁)と定義している。この「感覚世界」は第一の水平軸に、「概念世界」は第二の水平軸に相当する。
《感覚世界つまり物体の世界を一つの楕円で示し、概念の世界を、その上に位置する、もう一つの楕円で示す。両者の重なりが「言葉」である。言葉という道具は、この二つの世界を結ぶ。感覚の世界は「違い」によって特徴づけられる。概念の世界は、他方、「同じ」という働きで特徴づけられる。説明はこれで終わりだが、いくらなんでも簡単すぎるかもしれない。ここで大切なことは、言葉自体は「同じであって、違うものだ」ということである。だから言葉は、「違う」という感覚世界と、「同じ」という概念世界を結びつけることができる。》(120-121頁)

●あるいはこの図式を社会にあてはめて伝統軸と共同体軸の組み合わせと考えてもいい。丸谷才一は『日本文学史早わかり』で次のように書いている。
《非常に図式的な言ひ方をすれば、横の方角に共同体があり、縦の方角に伝統があるとき、その縦と横とが交叉するところで詞華集が編纂され、そしてまた読まれる。といふのは、われわれは伝統を所有する際に、孤立した一人ひとりの力で持つことは不可能で、共同体の力によつて持つからである。孤立した個人にさういふことができるといふのは、ロマンチックな妄想にすぎないだろう。事実われわれは、そのことの不可能をいはば無意識的に知ってゐるゆゑに、もうずいぶん長いあひだ、詞華集を持つことを実質的には諦めてゐるのである。つまりわれわれの文明と文化は共同体的なものを失つてからすでに久しい。そしてそのことがどういふ弊害をもたらすかと言へば、いちばん歴然としてゐるのは言葉の衰弱である。言葉は過去から伝はつて来た力を失ひ、社会を築くことをやめてしまつた。》(講談社文芸文庫『日本文学史早わかり』85-86頁)
 ちなみに丸谷才一は大野晋との共著『光る源氏の物語』上巻で、西洋十九世紀の個人主義的文学理論と、フレーザーほかケンブリッジ・リチュアリストに由来する民俗学応用の集団制作的文学理論との対立がエリオットの「伝統のメディアム[媒介、巫女、霊媒]としての個人の才能」という理論によって解消されたと語っている。

●おそらくこういうことだろう。差異性に彩られたアクチュアル/ヴァーチュアルの垂直軸と、同一性を刻印されたリアル/ポッシブルの水平軸。この一対の概念をいま述べた二本の水平軸が入れ子式に反復する。そしてこの一対の水平軸を言葉が媒介する。だとすると言葉もまた入れ子式に差異性・同一性の関係を反復表現しているに違いない。
 パースは記号をイコン・インデックス・シンボルに三分した。瀬戸賢一(『レトリックの宇宙』)はこれを、現実世界における空間的・時間的隣接関係にかかわるインデックス、意味世界における類と種の包含関係にかかわるシンボル、そして意味世界と現実世界の境界上に存在し類似関係にもとづき両世界を橋渡しするイコンの三組みとして再構成した。この議論に準拠するなら、感覚世界=現実世界(インデックス)と概念世界=意味世界(シンボル)の重なりが言語(イコン)であるということになる。
 私はかねてから、そこに第四の記号を付け加えることができるのではないかと考えてきた。言葉遣いはまだ精錬されていないが、イコンが具象的でアナロジカルな類似関係に着目して現実世界と意味世界をつなぐ働きをもつのだとしたら、これと対になるかたちで、つまり抽象的でアイロニカルな相互否定関係に着目して両世界をつなぐ記号があるのではないか。そしてそれは「マスク」とでも名づけられるものなのではないか。この未完の理論が完成したあかつきには、「言葉」とは「イコン─マスク」の複合体である、という命題が成り立つことになる。
 水平軸はおそらく無数に引くことができるだろう。(それに応じて垂直軸もまた変容していくだろう。)そして「幽明境を接する仮面の無限の重なり合い」(坂部恵)として幾層にもわたって上書きもしくは重ね描きされる入れ子式の図式のうちに、私というシステム(インデックス─シンボル─イコン─マスクの複合システム)はあたかも倍音のように遍在している。