マルジナリア11 「遍在する私(一)」(2005/11)




●いつどこで読んだのか思い出せないけれど「目はあっても見える」という言い方がある。「親はあっても子は育つ」と同類のレトリックとしてこれを読めば、肉眼はかえって物の本然の姿を眩ませてしまう、心眼をもってしてはじめて物の本質を見通すことができると解釈することができようが、それではいっこう面白くない。文字通り、物が見えるとは目と脳の生理的機能による現象なのではなく、すなわち目という感覚器官や神経系の有無にかかわらず物は見えているのであって、目や脳のはたらきはこの本来的視覚ともいうべきものを前提にしつつ、これを制御・限定しながら所期の機能(たとえば生体の環境への適応行動の導出)を果たしていると解するべきであろう。

●いま苦し紛れに本来的視覚と呼んだもののことをベルクソンは純粋知覚と名づけている。前回引用した「無意識な物質の一点がもつ知覚」や「物質が神経系の協力なしに知覚される可能性」あるいは「対象Pのイマージュが形成され知覚されるのはまさにPにおいてなのだ」のうちに含意されている「万物の可能的知覚」がそれで、そのような純粋知覚は宇宙空間のうちに遍く存在している。
《私たちを捉えている問題の困難さはみな、知覚をちょうど、事物を写真にとった景観のように思うところからきている。すなわちそれは、知覚器官という特殊な装置によって、一定の地点から撮影されたのち、脳髄の中で、何か不思議な化学的、心理的な仕上げの過程をへて現像されるのだろう、というわけだ。しかしかりに写真があるとしたら、写真は事物のまさしく内部で、空間のあらゆる点に向けてすでに撮影され、すでに現像されていることを、どうしてみとめないわけにいくであろうか。どのような形而上学、いや、物理学も、この結論をさけることはできない。》(田島節夫訳『物質と記憶』第一章,43-44頁)

●純粋記憶もまた、神経系の有無にかかわらず宇宙の時間のうちに遍く存在している。純粋思考というものが権利上存在しうるとして、それもまた宇宙のうちに遍く存在している(たとえば「エラン・ヴィタル」もしくはパース=ホフマイヤーの「記号過程」として)。純粋意識というものが権利上存在しうるとして、それもまた森羅万象のうちに遍在する。そして「私」もまた遍在する。私があっても思考することができる。あるいは、考えているのは私ではない(ラカンいわく「われなきところでわれ思う、ゆえに、われ思わぬところにわれあり」──「精神病の治療をめぐる二、三の問題」『エクリ』,坂部恵『仮面の解釈学』184頁からの孫引き)。

●最近、日本語による哲学的思考の可能性ということに思いをめぐらせている。日本語で西欧特産の哲学をするのはナンセンスではないか、あるいは逆に日本の伝統や文化に根ざした哲学的思考でもって西欧哲学の行き詰まりを打破することができるのではないか、つまり西欧原産の哲学を日本の風土や土壌のうちに根づかせハイブリッド化することが可能ではないか、いやそもそも日本原産もしくは特産の哲学がありうるのではないかなど、問いはさまざまに分岐していくが、そういった問題をかかえて日々悩んでいるわけではない。
 目下のところ私が関心を寄せているのは、坂部恵が「日本哲学の可能性」(『モデルニテ・バロック』)で論じていること、すなわち「日本文化の場と日本語というフィルター」を最低の条件とする哲学の可能性を考える際、ヨーロッパにおける精神史的転換期と日本におけるそれとの対比(エリウゲナと空海、ニコラウス・クザーヌスと一条兼良、『神曲』と『愚管抄』等々の比較など)とともに、日本文化圏の歴史的伝統のうちに眠っている「精神史的リソース」を抜きにすることはできないという指摘だ。とりわけ14世紀から15世紀にかけての「歌論、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」(247-248頁)と言われる、その歌論・連歌論・能楽論の類から発芽しうる「フィロソフィア・ヤポニカ」の可能性に惹かれている。
 中沢新一によると、「フィロソフィア・ヤポニカ」とは西田幾多郎や田邊元によって創始されたもので、彼らは西欧哲学のうち「有」と「同一性」の概念のみを否定し、「無(非有)」と「差異性(非同一性)」の概念を土台としたマテーシス(誰でも知っていることを間違いのないはっきりとしたことばで語ること)の論理を創造しようとした(『フィロソフィア・ヤポニカ』339頁)。それはまた「日本の列島に生きてきた人々は、西欧的な意味での「哲学」によって自分の哲学を語ることはしなかった。そのかわりに芸能や芸術をとおして、それを表現してきた」(『精霊の王』第九章「宿神のトポロジー」)と言われる、その芸能や芸術に深く根ざしているはずだ。

●芸能や芸術、歌論・連歌論・能楽論(さらに俳論)の類から発芽しうるフィロソフィア・ヤポニカの探求もしくは制作は他日を期すことにして、ここでは坂部恵「日本語の思考の未来のために」(『仮面の解釈学』)からサワリを抜き書きしておく。
《…基本的に「示差的」な構造をもつことを特徴とする日本語の言語は、その都度の思考の主体をくり返し死と時間によっていろどられた有限な現実の生存の場面のただ中へと送り返し解消する方向に働きがちであり、そのかぎりでは、たとえば、意識的・理性的主体のうちにうまくとりこむことのできぬ生の諸要素を〈無意識〉のうちへと追放し抑圧することによって、人間の生存の場の総体を包括的に統合することを苦手とする西欧の合理主義の形而上学の思考にたいする抵抗力は、良くも悪くもきわめて大きい、といえるだろう。》(147頁)
《…日本語の思考では、さきにもみたように、ことばは〈ことの─端〉として、つねにことば以外の現実とのつながりにおいて生きており、この意味で、西欧の歴史上における言語体験とのつながりを考えるとすれば、サンボリズムよりは、はるかに、ソクラテス以前のギリシャ的またルネサンス的な、フーコーが『言葉と物』でいう〈世界の散文〉における世界と言語の連続の相のもとでの言語体験に近い…。》(151頁)
《「言語は生活の道具ではなくして、我々の具体的な生活そのものである」という言語観を国学から受け継いだ時枝誠記の〈言語過程説〉は、その著『国語学史』…が詳細にあとづけているような、定家作とされる『手爾葉大概抄』から発して、契沖、真淵、宣長、成章、朗、春庭というように受け継がれるいわゆる旧国語学での〈国語意識の展開〉の伝統にあらためてたちかえることによって形成されたものにほかならない。ところで、この旧国語学の伝統が、連歌の〈切れ字〉における「てにをは」の用法への反省あたりを起点として、ほとんどもっぱら日本の詩的言語のあり方への反省的自覚(時枝のいい方によれば「古歌の解釈と和歌の作法のため」)を核にして形成されてきたものであることの意味を、わたしたちはあらためて考えてみなくてはなるまい。なぜなら、詩的言語(あるいは言語のうちにある詩的側面)こそ、たんなる伝達の道具としてではなく、有限な人間がその中に住まうものとしての言語のもっとも純化されたものにほかならず、詩的言語による示差作用こそ(〈主体〉の形成に先立って)、人間も自然をも含めたわたしたちの具体的な生存の場に原初の分節(デリダのいう‘trace’)を入れ、それを〈住まい〉として構成するものにほかならず、したがって、〈日本語とは何か〉〈日本語による思考とは何か〉という問いにたいする答えは、一般的な形で答えることには限界があり、究極的には、くり返し日本語の詩的伝統の現実の中にたちかえり、その創造的ないとなみにみずから立ち会い、いわば幽明境を接する仮面の無限の重なり合いとしての、世界とことばとのくり返してのあらたな発見の“おどろき”をともにすることをほかにしては、ありえないと考えられるからである。》(152-153頁)

●話を本題に戻す。本題とは、意識的・個体的な知覚や記憶(想起)や思考に先立って無意識的・集合的な知覚や記憶(想起)や思考がすでにそこに立ち上がっているのではないか、そしてそれらは「幽明境を接する仮面の無限の重なり合い」として幾層にもわたって上書きもしくは重ね描きされているのではないかということだ。これと同じ事態が、たとえば哲学的思考をめぐる外来語=漢字(概念語)と和語=かな(感性語)との関係のうちにも成り立っているのではないか。概念(語)に先立つ生の哲学的思考の可能性。あるいは、概念(語)はあっても哲学的思考はできる。
 ここで私はボードレールが『人工楽園』で人間の脳髄や記憶に準えたパランプセスト、すなわち書かれた文字を抹消して重ね書きされた羊皮紙のことを想起している。あるいはフロイトのマジック・メモ。「マジック・メモでは、そのたびに記載内容が消滅するが、刺激を受け取るセルロイドと、刻印された内容を保存しているパラフィン紙の間の密な接触は残っている」(中山元訳『自我論集』311頁)。
 あるいはデリダの基底材。「基底材というこの観念は絵画の記号体系[コード]に属しており、実体[シュプスタンス]とか主体[シュジェ]とか淫夢女精[シュキューブ]とかのように、言うならば下方に横たわっているもの(sub-jectum)を指し示している。上部と下部との間にあるもの、それは支持体であり同時に表面であり、時にはまた絵画ないし彫刻の素材であり、絵画や彫刻のうちにあって形態や意味や表象から区別されるすべてのもの、表象不可能なものなのである」(松浦寿輝訳『基底材を猛り狂わせる』7頁)。

●フロイトは無意識を象形文字として捉えた。ラカンはこれを踏まえて、無意識=象形文字を常に露出させている日本語のような文字の使い方をする者には精神分析は不要だと語っている。《どこの国にしても、それが方言ででもなければ、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なによりも──もっと強調すべき点ですが──、それが断え間なく思考から、つまり無意識から言葉[パロール]への距離を触知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。》(宮本忠雄他訳『エクリ』序文「日本の読者に寄せて」)
 山城むつみは『文学のプログラム』で、ラカンのこの発言を踏まえて次のように書いている。
《ところで「無意識から話し言葉への距離」──ヘーゲル的なもの言いをするなら、私念と言語との距離、つまり〈言わんとしたこと〉と〈言われたこと〉との間の距離──は、それ自体が「無意識」であり、精神分析の最終的な対象である。精神分析の任務は、通俗に理解されているように、潜在意識を顕在化してみせることにあるのではない。究極的には、無意識と話し言葉との間の距離としてある「無意識」のメカニズムを解明することにある。してみれば、そのメカニズムを言語的な装置、すなわち文字通りメカ、あるいはマシンとして持っているような言語──ラカンは日本語がそうだと言うのだが──においては、精神分析はそのような言語装置を、文字通り機械的に記述すること以上のものではなくなる。日本語を占有する人のだれひとりとして精神分析されることを必要としていないのは、日本語の構造そのものが、すでに精神分析的だからである。》(164頁)
 大澤真幸は『思想のケミストリー』で、ラカンのこの「皮肉混じりの指摘」(16頁)は日本語の使用、いや言語使用一般に常に伴う疎外(〈私〉が〈この私〉であることの基底をなす中核部分が〈私〉にとって最も外的な何か=残余として立ち現れること:17頁)の感覚に巧みに照準していると書いている。
《かなと漢字の分担に関して、常識的には、かな(訓読み)こそが漢字(音読み)を注釈していると見なしたくなる。たとえば「啓蒙」とは、「蒙(暗部)」を「啓く」ことである、といったような解説がそれである。だが、ラカンは、まったく逆に、漢字が、かなを注釈することにおいて、無意識を触知可能なものとして浮上させていると暗示したのであった。今や、ラカンのこの暗示に、日本語の書字体系に対する深く、正確な洞察が含まれていたことが明らかになる。述べてきたように、日本語にあっては、漢字は、かなから区別されることで、外来性を明示し続ける。発話に必然的に随伴するあの「残余」は、つまり無意識は、この漢字の外来性に感応し、そこに表現の場を見出すのである。》(19頁)
 ちなみに、本節冒頭の「ラカンはフロイトが無意識を象形文字として捉えたことを踏まえて」云々は柄谷行人の説(『日本精神分析』76頁,『定本柄谷行人集4 ネーションと美学』232頁)。その柄谷の『日本精神分析』が松岡正剛の千夜千冊(第九百五十五夜)に取りあげられていて、松岡はその末尾にこう記している。柄谷・松岡の「交歓」は実現したのだろうか。《念のため書いておくと、どうも世間の一部では松岡正剛は柄谷行人など意に介していないと思われているらしいのだが、これはまちがっている。/柄谷がぼくを意に介していないだろうとしても、ぼくはしばしば柄谷の文章や発言に注目し(たくさんは読んでいないけれど、この数年、集中して読むようになった)、唸らされてきた者なのだ。/しかし世間の風評というのはいつも邪魔くさいもの、おかげでこの先輩とはいまだ面識もないし、交歓できそうなきっかけもない。いつかはゆっくり情報通貨などの話をしてみたいけれど、さて、そういうことがおこるのかどうか。》

●私はなにも「かな=純粋知覚、漢字=純粋記憶」とか「抽象思考は常に外部から到来して野生の思考を注釈する」といった議論を展開したいわけではない。また、以下に引用する「物の学習」を「かな=純粋知覚=野生の思考(実証思考)」の系列に位置づけて、日本語を母語とする哲学的思考の可能性、とりわけ詩的言語を中核とするそれについて主題的に考えたいと思っているわけでもない。そもそも考えているのはいったい誰なのか。迂遠な言い方だが、ここ(『マルジナリア』)での私の関心はつねにこの一点の周辺にとどまっている。
 注記を一つ。日本語を母語とする哲学的思考の可能性を論じるとき、それもとりわけ西欧由来の概念の翻訳語とのかかわりでこの問題を取りあげる際、そこでいう「哲学的」という言葉の意味を明らかにしておく必要があるだろう。川崎謙は『神と自然の科学史』で、神のロゴスを思考枠組みとする西欧自然科学と「実相[イデア界]は諸法[現象界・物質界]なり」(道元)を思考枠組みとする「日本自然科学」(著者がそういう言葉を使っているわけではない)とを歴史的眺望のうちに置いて比較している。ロゴスなり諸法実相が、それ自体は無意味な世界である「素材の世界」に秩序を与え、それぞれを「ネイチャー」もしくは「自然」として認識させる。少なくとも、このような意味での自然科学的思考は「哲学的」である。

●前田英樹『倫理という力』に「物の学習」と「記号の学習」という対になる言葉が出てくる。動物の本能は群れの能力であり、人間の知性は個体の能力である。発達した知性は道具を使い、道具を使う知性は二つの方向に分化する。宮大工の棟梁が養う知性は、物の性質に入り込みさまざまな性質の差異を見分ける「物の学習」にかかわり、図面を引き機械を設計する知性は、ルネサンスから産業革命にかけて爆発的に進展した「記号の学習」を極める方向に進んでいった。そもそも人間の知性は記号と共に出現した。しかしこれらの諸記号は個体の知性を超えて社会を組織してしまう。ここには群れを組織する本能とは別のもうひとつの原理、生命とは無関係な何か自動的で抽象的な原理がある。
《どんなやり方であれ、〈物の学習〉を深めた人間なら誰でも知っている。〈心の学習〉は、〈物の学習〉によってだけ可能になることを。あるいは、その一部分でしかないことを。このことは、唯物論というような大仰な考えとは関係がない。木を削ることは、木の繊維が持つ性質の差異に深く降りていくことである。その時、削る道具はそれ自体が無数の性質を持った一種の繊維でなくてはいけない。木には木の無数の心が、鉄には鉄の無数の心が、変化しながら存在している。そうとしか言いようのない学習を宮大工はいつでもしている。学習する自分の心は、ひたすら木や鉄の心を追い、それと連続する何かになる。千年の堂塔が建つのは、そういう大工たちの心のあれこれが、誤りなく組み合わされた時である。(略)何らかの度合いで〈物の学習〉を持たない生活というものはない。ただ、私たちの日常生活では、この学習は〈記号の学習〉と混ざり合い、生活の要求を満たすところでとどまってしまう。それがとどまる地点は、生活のなかで〈記号の学習〉が占める割合が膨張するほど、すぐにやって来る。もう私たちは、木目の性質のことなど、まったく何も知らなくても暮らしていける。何らものの役に立たなくても、人は暮らしていけるようになった。これは、もちろん有難いことなんかではない、危険で恐ろしいことだ。》(158-159頁)

●この物と記号を養老孟司がいう情報の仲間だと考えてみる。ここで「情報」とはスルメやDNAのように停止し止まったもの、動かないもの、変化しないもののことだ。養老人間科学においてこれと対になるのが「システム」で、それはイカや細胞のようにひたすら動いて変化していく。
 養老孟司は『人間科学』で「細胞‐遺伝子」と「脳(社会)‐言葉」の二つの情報系を比較しながら、細胞と脳をひとまとめにして情報の翻訳・複製装置を含んだ「システム」と定義し、遺伝子と言葉という「情報(より正確には記号)」と対置させている。《さてこのように定義したときのシステムと、情報の違いはなにか。じつはシステムは生きて動いているが、情報は固定している。そこがいちばんはっきりした違いである。細胞は生きて動いているから、おそらく二度と同じ状態をとることはない。脳あるいは脳を含む個体も、まったく同じである。脳は二度と同じ状態をとらない。》(37-38頁)

●「木には木の無数の心が、鉄には鉄の無数の心が、変化しながら存在している」と言われる、その物との接触のうちに培われそれらと連続していく知性、いわば実証的で具体的な神話的思考にかかわる智慧のようなものを、記号をめぐる抽象的で論理的な科学的思考とひとまとめにしてしまうのは気がひけるが、そして「神話的」と使った手前思わず「科学的」とレッテルを貼ったことにも慎重な註釈が必要だとは思うが、それらの疵は素通りして先へ進むことにする。
 補遺。ジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』に関連する議論が出てくる。ニワトリが先か、タマゴが先か。「DNAは生体のデジタル化された自己記述である」のか、むしろ「生体の方がDNAのアナログ化された自己記述と見なされるべき」なのか。現在の知識ではこの二つの可能性のいずれも排除することができない。
《…私の理解では、生体とそのデジタル記号の両方が揃うことによって初めて、「自己」すなわち生命が存在できるようになった、となる。なぜなら、もしDNAがそれ自身のコピーに過ぎなかったなら、DNAの「メッセージ」は何の意味も持たず空虚なものであろう。逆に、もしDNAにその増殖が保証されていなければ、生体のメッセージについて語るべきものは何もない。カテゴリーと感覚認識についてのこの有名なねじれ現象はカントに負う。人はこれをカント哲学の問題と見るかもしれないが、私はそうではない。同じ問題が生き物一般の内にも認められる。/生命はこのデジタルとアナログの二つの形に託されたメッセージの間の記号論的相互作用に依っている。言い換えるならそれは記号双対性とも言うべきものである。生物の中ではこの二つの形態が互いに融合する。これこそが「自己」である。人間における自己が肉体と精神とから成るように、「生物学的自己」は原形質とDNAの両方から成る。》(松野孝一郎他訳78-79頁)
 デジタル記号=情報、アナログ記号=システムと見てもいいと思うが、ここでは「デジタル(記号)+アナログ(物)=情報」と考えておく。