マルジナリア10 「フィロソフィカル・ハイ」(2005/09)



●数年前ヘーゲルの『大論理学』を十三箇月かけて通読したことがあった。ちょうどメーリングリストへの書き込みが面白くなってきた頃で、ある人の呼びかけに応じてネット読書会のモデレーター役をかってでた。参加者は十数名程度だったし(今から思うと相当いい加減な)要約と思いつきを書きなぐったレジュメを一方的に送りつけるだけで、ほとんど議論もなく淡々と進んでいった。それはとても幸福な時間だった。ほとんど毎日のように岩波全集版のあの面妖な訳語(中国人の名前かと見紛う「有」「定有」「向自有」など)に親しんでいると、やがてそれらの言葉が人格をもった固有名か何かのように思えてきて、相互の人間関係ならぬ論理関係をたどたどしく探っていくうち幾度となく陶酔(フィロソフィカル・ハイ)を覚えるようになった。長谷川宏訳もいいけれど、今ではもう武市健人訳が躰に染みこんでいる。
 最近ベルクソンの『物質と記憶』の独り読書会を始めた。毎日曜日の午前に一時間から二時間、一年ほどかけてじっくりと読みこみ、小林秀雄の『感想』やドゥルーズの『差異と反復』(翻訳が間に合えば『シネマ』も)につなげていきたいと思っている。手元にあるのは白水社の全集第二巻、田島節夫訳。新装版ではなく、かれこれ十五年ほど前に古書店で手に入れ第二章に入りかけたあたりで挫折していた旧版。小林秀雄が1961年の講演「現代思想について」で会場からの質問に応えて「君の問題は哲学の問題だ、なぜ哲学を勉強しないのか、ベルグソンをお読みなさい」とたたみかけるくだりがあって何度聴いても異様に迫力がある。ここで小林秀雄がお読みなさいと言っているのが『物質と記憶』で、百年に一人の天才の仕事だと絶賛している。八年間かけてただ一つの切実な問題を考え続けたベルクソンを尊敬するとも。八年どころか一年続くかどうかさえ不安だけれど、しばらくはこの本を基軸にしてやっていけそうだと確信している。

●保坂和志が『小説の自由』で「小説でも哲学書でも、それを楽しんだり理解したりするために、読んでいるあいだにいろいろなことを自然と思い出したり強引に思い出したりしているもので、読み終わるとそれの何分の一かしか残っていない。それらをすべて忘れずにいられたら私たちはすごいことになっているだろう。」(92頁)と書いている。ほんとうに「すごいこと」になっているだろう。その何分の一かの割合を少しでも大きくするため、『物質と記憶』を読みながら自然に思い出したり強引に思い出したりした「いろいろなこと」をなるべく時をおかず記録することにした。以下は、最初の「フィロソフィカル・ハイ」を経験した週とその翌週の記録から。第一章四節「イマージュの選択」を読んでいる時にそれは訪れた。

●この節はここだけ読んでも独立した哲学作品になっている。冒頭の「神経系は表象をつくり出さない」(衝撃的な仮説!)から末尾の「対象Pのイマージュが形成され知覚されるのは[脳の灰白質においてではなく]まさにPにおいてなのだ」(大森荘蔵!)まで、寸分の隙のない論理に導かれて(ベルクソンの思考でも私の思考でもない「純粋思考」とでもいうべき)思考が進んでいく。まだ二度読んだだけだが、読むたびに世界を覆う薄皮がはがれ落ち(けっして隠されていたわけではない)世界の実相が剥き出しにされていく。
 冒頭と末尾のこの二つのテーゼをつなぐのが、イマージュと純粋知覚のそれぞれについての二区分と相互の関係をめぐる議論である。イマージュ(物質界)には「現存するイマージュ」(あること=客観的実在)と「表象されたイマージュ」(意識的に知覚されてあること)の二つがあって、後者は前者が「減少」したものである(つまりこの二つのイマージュには程度の相違があるだけで、本性の相違はない)。知覚には「無意識的知覚」(無意識な物質の一点のもつ知覚=万物の可能的知覚)と「意識的知覚」の二つがあって、後者は前者のうちからフィルター(不確定=選択可能性の領域)を通じて浮き上がったものである。

●これらは結局同じ一つのことを言っている。物質(イマージュの体系)から「生気を呈するすべての性質」をはぎとると、そこに意識に属する「表象=物質の幽霊」と科学に属する「物質=空間的広がり」(たとえば脳)との二区分が生まれ、いわゆる「心脳問題」が発生する(物質である脳からいかにして主観的表象=意識的知覚が生じるのか)。ことの発端は物質(イマージュ)を二つに断ち切ったことにある。断ち切ったから、これを「縫い合わせなければならぬ」と錯覚するのだ。
《知覚がそこ[脳]から出てくることはありうべくもない。脳は他のイマージュと同じく一個のイマージュであり、大量のイマージュに包まれているわけで、容器から中味が出てくるということは、理屈に合わないからである。(略)意識的知覚と脳の変化は厳密に照応している。したがって、この二項のいわゆる相互依存は、どちらも意志の不確定という第三項の関数であることからくる。》(46-47頁)

●こんな要約ではとても汲み尽くせない。豊かな哲学的思考の種子が惜しげもなく蒔かれた沃土。──上に引用した「容器と中味」のくだりを読んでいて保坂和志の議論を想起した。たしか『小説の自由』の中に容器と中味云々という言葉が出てきたように記憶していたのだが、いくら探してもみつからない。みつからなくてもいい。意識的知覚と脳の変化、意志の不確定の三項関係は、保坂和志が書いている精神性と物質性とフィクション(第三の領域)の三項関係とほぼ相似形の関係にある。
 それは私の脳が勝手にそう思うだけのことにすぎないが、ついでに書いておくと、保坂和志がよく言及するチェホフの「学生」の過去と現在を結びつける鎖の話(「いっぽうの端に触れたら、もういっぽうの端がぴくりとふるえた」)は、ベルクソンがやがて導入する記憶の議論に関係してくる。石川忠司が『現代小説のレッスン』の保坂和志を取り上げたところで引用している、物的知覚物と身体を結ぶ「ロープ」(ウィリアム・ジェイムズ)も。
 ついでに『エックハルト説教集』から。《ある師は、目が歌とは関係なく、耳が色と関係がないように、魂はその本性においては、この世界のすべてのものと関係がないのであると言っている。それゆえに自然学の師たちは、魂が体の内にあるというよりも、むしろ体が魂の内にあるのだと言っている。ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである。》

●もう一つついでに書いておくと、茂木健一郎『脳の中の小さな神々』巻末の「特別講義」に「対象─脳内過程─意識」の三項関係が出てくる。これは脳科学が「見る」という体験を「(外界からの刺激を受けて)神経細胞があるパターンで活動すること自体が脳の中でのさまざまな情報の「表現」であり、そのような「表現」が集まって「見る」という体験ができあがる」(242頁)と説明するときに準拠している枠組みで、茂木健一郎いわく、この方法では「見る」という体験(視覚的アウェアネス)を説明することはできない。脳科学は外界(対象)からの視覚的刺激と脳内過程(神経細胞の活動)との対応関係を説明するだけで、脳の中で生み出された神経活動の一つ一つが「私」にとってクオリアとして成り立つメカニズム自体を説明するわけではない。「むずかしい言葉を使えば、私たちが「見る」という体験のなかにとらえている、さまざまな視覚特徴の「同一性」自体を説明するわけではないのである」(244頁)。

●これに対して提示されるのが「メタ認知的ホムンクルス」のモデルで、それは「「私」の一部である脳の神経活動を、あたかも「外」に出たかのように観察する「メタ認知」のプロセスを通して、あたかもホムンクルスがスクリーンに映った映像を見ているかのような意識体験が生じる」(256頁)というものだ。このモデルにあっては先の三項関係はいったん「物自体─脳内過程」の二項関係に置き換えられ(ただし「脳内過程」の項は「後頭葉=認識の客体」と「前頭葉=認識の主体」という二項が非分離の状態にあるものとされる)、その後「物自体─脳内過程─小さな神の視点」の三項関係へと修整される。ここに出てくる「小さな神」(ホムンクルス)という「主観性の枠組みは、脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される」(258頁)。
《「私」はこの宇宙全体を見渡す「神の視点」はもたないが、自分自身の一部をメタ認知し、自分の脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」はもっている。私たちの意識は、脳の中の神経細胞の活動に対する「小さな神の視点」として成立している。/私たちの脳の中には、小さな神が棲んでいるのである。/これが、私たちの意識の成り立ちを最新の脳科学の知見に基づき考察していったときの、論理的な帰結である。》(259頁)

●脳の中に棲む小さな神が見ているものは「表象されたイマージュ」である。それは脳内過程を通じて生み出されたものではなくて、あらかじめ与えられたイマージュ(物質)が神経系の活動を通じて縮減されたものである(何のために? 不確定=選択可能性=潜在性の領域を現実化するために、つまり行動のために)。そう考えることができるならば、そこにはいささかの困難(神秘)もない。「メタ認知的ホムンクルス」のモデルが優れているのは、そこに「神」が出てくることだろう(それは『小説の自由』最終章に出てくるKつまり樫村晴香の言葉──「神」(284頁)や「リアリティ・宗教性」(304頁)──と響き合っている)。心脳問題はすぐれて神学の問題である。そんなことは実はとうの昔から分かっていたことなのである。思わず吠えてしまった。

●ホムンクルスが脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される、といったくだりは(半分ほど読んで中断したままになっている)木村敏『関係としての自己』につながっているだろう。そもそもの発端であった三項関係については、(あまりの面白さゆえ何度試みても最後まで読み通すことができない)ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』や(これもまたそれと気づかぬうちに中断していた)ジョゼフ・ブレント『パースの生涯』を参照すべきだろうし(そういえば『関係としての自己』のどこかにパースの三項関係には垂直的次元がないといった気になる批判が出てきた)、ことのついでに(数年前にメインディッシュともいうべき最後の二章分を残して中断しておいた)大森荘蔵『流れとよどみ』も参照すべきだろう。忙しいことだ。

●最初のハイを経験してから、日曜の午前が待ち遠しくなった。第一章五節「表象と行動の関係」を熟読して、続く二節分を通読。四節「イマージュの選択」も少し読み返した。ハイの余韻が続く。これを読んでいた時に脳髄に浮かんでいたことをウロ覚えで書いておく(本を見ずに記憶だけで書くのは、なぜだかとても健康的なことに思える)。
 ベルクソンは書いている。児童の知覚は非人称である(児童の表象は非人格的である、だったかもしれない)。これは「私」というアナログがつくられる前の知覚の実質をさしている。児童のまだ朧気な意識のうちに、無人称の「脳」のはたらきによって縮減されたイマージュが浮かび上がっているということだ。知覚するのは「私」ではない。行動するのは「私」ではない。思考するのは「私」ではない。一人称の「私」を無人称の「脳」に置き換えても同断だ。「私」が「脳」のはたらきによって産出されたアナログであるとすれば、部分が全体を統治できないように「私」が「脳」を使って知覚し行動し思考することはできない。だからといって「脳」が知覚し行動し思考するわけではない。「脳」は伝導体である。神経系は伝導体である。(「アナログの私」とはジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』に出てくる言葉。この本を読んでいて、ウィトゲンシュタインが写像理論を「発見」するきっかけになったパリでの交通事故の訴訟記録を想起した。)

●ここでベルクソンが論じているのは「純粋知覚」なのである。それは権利上の存在であって、事実上の存在ではない。権利上の存在ということであれば、「無意識な物質の一点がもつ知覚」や「物質が神経系の協力なしに知覚される可能性」だって議論することができる。全宇宙を隈なく映しだす透明な写真。児童の非人称の知覚はこうした無意識の知覚に限りなく近い。三歳までのまだ言葉を使いこなせない(言語のはたらきを通じてつくられるアナログの私=三つ子の魂の輪郭がまだ朧気でしかない)児童。七歳までは神の内と言われる父母未生已前の世界に(まだ言語によって切断されきっていない臍の緒で)つながった児童。児童とは一個の身体である。児童は物質である。

●物質は屈折率をもっている。ベルクソンは、光が異なる媒質間の界面で屈折せず全反射する現象を知覚になぞらえている。この界面(身体の表面)は「自由」の名で呼ばれる。反射した光は虚の光源をさししめす。これが「表象されたイマージュ」である。実の光源すなわち「現存するイマージュ」から虚の光源を浮き出させるのが意識的知覚のはたらきである。この分離作用、弁別するはたらきは精神を告知する。ベルクソンはそう書いていた。(ずっと前から「スピノザの屈折率」というアイデアを温めてきた。スピノザが磨いたレンズを身体になぞらえ、あるいはモナドと見比べながら、身体と精神という二つの媒質の界面で生起することをみさだめたいと考えてきた。言葉にすると訳が分からないが、ベルクソンを読むことでその実相が少しずつあきらかになっていきそうな予感がする。)