文字的世界
【1】前口上、文字愛好家の告白
幼い頃から“文字”に惹かれてきました。
小学生の時、会社勤めの父親が自宅で毎日曜、子供相手の書道塾を開いていたことから、自然と筆をとるようになり、地方都市の書道会から高い段位
を認定されました(その片鱗は微塵も残っていない)。展覧会に出展する父の作品を家族会議で選考するようなこともあって、一端の評言を繰り出した
記憶があります。そんな経験が、もしかすると(意味や音を離れた純粋な形としての)文字への関心を募らせる一因になったのかもしれません。
中学生の時だったと思いますが、中公新書から出ていた加藤一朗著『象形文字入門』(1962年、50年後に講談社学術文庫版刊行)を小遣いで購
入し、夢中になって読み込んだ記憶があります。とにかくヒエログリフに魅了されて、なんとか使いこなしたいと日々練習していました。それ以後も、
象形文字にかぎらずおよそ文字全般への興味関心は細々と、しかし脈々と続いてきました。
長じて、鶴岡真弓さんの著書などを契機にケルトの文様や装飾文字に心躍らせるようになり、また西洋中東のカリグラフィーに陶然とし、レオナル
ド・ダ・ヴィンチやエドガー・ドガやパウル・クレーの素描に魅入られるようになったのも、その根っこのところに文字(的なもの)への愛好があった
からだと思います。
韻律、仮面と続けてきた、“マテリアルなもの”と“形象的なもの”との錯綜をめぐる素材渉猟と理論製作の試みが、しだいに当初の目論見になかっ
た三部作(ないし四部作?)の構想をはぐくみ、夢見がちな頃の驚嘆と憧憬の対象だったものがテーマとして浮上してきたのはいいのですが、いつしか
発想と思考の行き詰まりをすべて先送りするようになり[*]、おかげで第三部に託された課題へと重苦しくのしかかることになってしまいました。
そこで、今回はこれまでの路線というか叙述の方法・構成を変更し、あらかじめ結論めいた事柄をいくつか掲げておいて、以下、順次その「仮説」の
論証・実証の作業を行うといったかたちで書き進めていくことにしました。そのような「序文」は本来、全篇を書き終えてから執筆されるものだと思い
ますが、最初に鋳型のようなものを設えておかないと、過去の議論における積み残し事項や個人的嗜好に縛られ、また唆されて論考が空中分解しかねな
いと思うので。
[*]「仮面的世界」や「韻律的世界」からの先送り事項だけではない。それ以前にnoteに連載した「「私」がいっぱい(パート1.5)」から持
ち越された‘宿題’も多々ある。たとえば、その第18節「短い総括、エクリチュール、鏡像段階」で、共著『〈私〉をめぐる対決──独在性を哲学す
る』から永井均氏の次の一文を抜き書きしている。
《「そこに書かれている〈私〉をあたかもいま読んでいる自分自身であるかのように理解している」とき、そういう問題を考えている人物としての記憶
とともに、独在性の形式的・概念的理解もまた介在し、経由されている。と同時にまた、〈いま〉にかんするそれと同種の読み換えも介在し、経由され
ている。この例では、文字化によってそのことがあからさまになっているが、この構造自体は通常の〈私〉の持続においても避けることができない。そ
もそも記憶という現象自体がこの仕組みの介在によってはじめて可能になるからだ。ちなみに、ジャック・デリダが自己同一性の成立に不可避的に介入
するこの外在化の仕組みを、フランス人らしく隠喩的に「文字(エクリチュール)」と呼んだことは印象深いことであった。しかし私見ではむしろ、カ
ントの「観念論論駁」におけるデカルト批判のほうが、機先を制して隠喩的でない精確な問題提起をおこなっていたと思う。》(278頁)
この引用文中の「文字化」と「文字(エクリチュール)」という語が琴線に触れたのだが、後者に関して私は次のような「思いつき」を書いている。
──「デリダの「隠喩」を単なる文彩としてでなく、ある意味では文字通り、あるいは「文字」の概念を大きく拡張して受け入れる…。たとえば、「文
字は“仮面”である」とか「文字は“鏡”である」といった(隠喩に隠喩を重ねた)概念をこしらえることで」。
琴線を震わせるだけでなく、そこからどのような音曲を爪弾くことができるか。「文字的世界」の“連載”の中で取り組むことができたらと思う。
【2】序文、三つの仮説
韻律、仮面につづき文字をめぐる考察を進めるにあたって、あらかじめ次の三つの仮説を提示します。
第一、文字は独立して言語体系をかたちづくる。
第二、文字の発明が時間や心の概念をもたらした。
第三、声と文字が拮抗して世界の構図が描かれる。
それぞれの詳細は、次節以降、順次明らかになるはずですが、それはやってみなければ判りません。もしかするとこれと違った表現になるか、それと
もまったく別の命題が浮上してくるか。むしろそうなる方が面白いし、論考を立ち上げた意味があったと言えるかもしれない。
と、予防線をいくら張っても生産的ではないので、ここで、現時点で脳内に蠢いている「思いつき」を文字化しておこうと思います。
第一の仮説で「独立して」というのは、音声とは無関係にということ、あるいは無関係であるかどうかはともかく(たとえ何らかの関係性があったと
しても)、固有かつ自律的なメカニズムによって、文字は言語システムを形成してきたという意味です。
また、ここで言う「文字」は三つの仮説のうち最も広義のものを指しています。佐々木孝次著『文字と見かけの国』第Ⅱ部「リチュラテール──ラカ
ンの「日本」」における表現を援用すると、漢字やアルファベットのような体系的な文字(第二仮説の文字)が作られるよりもずっと前からすでにあっ
た有形の物質的な存在、すなわち「印し、痕跡、しみ、きず」といった、象徴的な記号体系のそとにある「現実的な」文字のことです(177頁)。
言葉遣いを間違えていないなら、それを「フィギュール」と呼んでもいいでしょう。というか、むしろ私はそのような意味で、これまでこの語を用い
てきたし(たとえば「仮面的世界」において)、これからもそうするつもりです。
もう一点、断っておかなければならないことがあります。「印し、痕跡、しみ、きず」の類によって一つのシステムが形成されるとしても、それはせ
いぜい(宇宙や生命の現象を統べる)記号の体系の一種であって、言語のそれではあり得ない。そう考えるのが一般的でしょう。
ですから、ここで対象にする「文字」は、少なくともヒトの精神活動と相即する次元に達した記号──たとえば、アンドレ・ルロワ=グーランが「神
話文字(ミュトグラム)」と命名した、洞窟壁画に描かれた形象──以後のものに限定されます。
第二の仮説は、実は安田登師からの請け売りです。
師によると、直近の「シンギュラリティ」である文字(外部記憶装置)の発明によって、脳の余白を使った精神的諸活動すなわち「心」が生まれ、リ
ニアな時間の観念(過去への後悔、未来への不安)やリニアな論理が発達した。心以前、文字以前の世界は、私たちの夢の中に閉じ込められていった。
それは、心以前の時代に書かれたシュメール語の神話や古代ギリシャの「イーリアス」を読めばわかる。
私はこの説を直接聴いて、(かつて白川静の文字講話第一回を肉声で聴いた時に匹敵する)興奮を覚えました。同趣旨のことは『身体感覚で「論語」
を読みなおす。──古代中国の文字から』に書かれているし、WIREDのネット記事「「紀元前に起きたシンギュラリティからの「温故知新」:能楽
師・安田登が世界最古のシュメール神話を上演するわけ」でも詳しく語られています。《https://wired.jp/2017/06/10
/yasuda-inanna/》
この安田説に加えて、私は、クオリアや共感覚やアウラやヌミノーゼといった“非言語的”ないし“超言語的”な体験も、そして、もしかすると永井
(均)哲学における〈私〉や〈今〉といった「独在的存在」もまた、文字発明というシンギュラリティの産物なのかもしれないと考え始めています。
ただ、この(途方もない)仮説に接近する技量も度量も持ち合わせていないので、ここでは、〈私〉に似て非なる「ペルソナ」やあるいは(物自体と
似て非なる?)「クオリア」といった、「仮面的世界」で(不充分ながら)言及した広狭二義にわたる仮面記号成立の核心部に、文字発明という出来事
があったとだけ付け加えておきます。
第三の仮説について。
体系的な文字の発明以降、もともと別系統であった音声言語のシステムと文字言語のシステムが同じ言語の範疇において拮抗し、一方で、通説的(通
俗的?)な見解として、文字言語は音声言語から派生しこれを補助する二次的なものであるとされ、他方で、こうした音声中心主義に対する批判とし
て、パロール(音声)に先立つエクリチュール(書くこと、文字)の根源性が主張されたりする。
普遍的な文字言語を基軸とする文明(帝国)の周辺で生まれた「言文一致体」というエクリチュール(文字表現)のうちに、倒錯したかたちで(近代
的ナショナリズムと結びついた)音声中心主義を見出す見解もある。
このような声と文字が拮抗し、あるいは“マテリアルなもの”と“形象的なもの”が錯綜する文字的世界において、たとえば“やまとことば”や“か
な”の動態性について考察し、さらに声と文字の融合によって生み出される韻律的世界や仮面的世界との関係性(世界の構図)を見極める。それが本論
考の第三の、そして最終的な課題です。
【3】パースの記号過程論─『生命記号論』から
文字は音声から独立して、より精確には、他のなにものとも関係せず、それ自体として自律的に言語体系をかたちづくる。
この第一の仮説について考えをめぐらせる手がかりを得るため、(ここでもまた)パースの記号論を参照したいと思います。読むたび新鮮な刺激を受
ける書物『生命記号論──宇宙の意味と表象』(ジェスパー・ホフマイヤー著、松野孝一郎・高原美規訳)から、パースの「三項論理」の解説と「記号
過程」の実例(今回)、そして意味の発生と言語の誕生をめぐる議論(次回)を引きます。
Ⅰ.パースの記号過程論
ⅰ)ホフマイヤーによるパースの記号論(三項論理のもとでの記号過程論)の解説(43頁)
・記号Ⅰ「記号そのものを表す物体」
:その意味に関わりなく記号そのものを担うもの(例:赤い発疹)
・記号Ⅱ「対象」
:記号Ⅰが示す物もしくは抽象物(例:麻疹)
・記号Ⅲ「観測者」(解読をするもの、翻訳者)
:記号Ⅰとその対象=記号Ⅱの関係を解釈する過程(例:医者の診断)
記号Ⅰ 記号Ⅱ
\ /
│
記号Ⅲ
ⅱ)記号の三項論理に基づく「意識」のはたらき
① 意識とは身体の環世界の空間的物語的解釈である
「私たちが私たちの身体[記号過程を行う身体‐脳システムの全体]で考えているという事実は、意識(そして言語)は物語でなければならないことを
意味する。(略)
そこで私は意識を純粋に記号過程による関係として見ることを提案する。意識とは身体の実存的環世界を、肉体が空間的物語的に解釈したものであ
る。[*]」(195-196頁)
環世界 意識
\ /
│
身体
② 神経系が意識を解釈することで神経ペプチドの音色が調整される
「内なる記号圏[脳内で起こる電気化学的現象を統御する記号過程]におけるコミュニケーションの手段のうち最も興味深いものは…神経ペプチドであ
る。(略)
…アメリカの生化学者ルフ(Michael
Ruff)はこの身体の神経ペプチドへの備えに対し、「神経ペプチドの音色」という表現を使い、ある考えを展開した。…生化学的なレベルにおける特定の精
神状態は身体‐脳における特定の神経ペプチドの音色に関連していると認めうる、というのがその骨子である。
このことから意識、神経系、神経ペプチドの音色の間の関係は…三項関係を伴う記号として描くことができる。」(201-202頁)
神経ペプチド
意識 の音色
\ /
│
神経系
③ 免疫系の細胞は神経ペプチドを細胞分裂を始めるシグナルだと解釈する
「細胞表面のレセプターが神経ペプチドと結合したときに細胞に起こることは、それがどんな神経ペプチドかということよりも、その細胞がどんな種類
のものか、またその時点で細胞社会の中でどんな位置にあるのか、また細胞の発達のどの段階にあるのかということの方に大きく依存する。(略)ここ
でも再び、記号それ自体が意味を持つのではないことを私たちは見ることができる。記号を受け取る細胞での解釈によって、初めて記号は意味を持つこ
とになる。この関係は…新しい三項関係を伴う記号を私たちに見せてくれる。」(202頁)
神経
ペプチド 分裂
\ /
│
細胞
──パース=ホフマイヤーの記号連鎖のプロセスで、要となるのは記号Ⅲの“位置”です。それは、たとえば“於てある場所”(西田幾多郎)などと
言い換えていいもの、もしくは、「ある」ものではなく「いる」もの、「何か」ではなく「誰か」と言うべきもののように思います。そして、この第三
項の存在が、パース=ホフマイヤーの記号過程を、単なる「記号」の動態ではなく「言語」のそれに近づける決定的な要素にほかなりません。
[*]ホフマイヤーはつづけて次のように書いている。
「しかし、もし意識をこのように想像上の物語として精神空間の内に配され、そこで意味のある繋がりが為され、絶え間ない自己言及によって構成され
るものであると見なすなら、この意識はどうやって私たちの思考や行動に影響を与えることができるのだろうか。答えは簡単だ。意識はいわばオン、オ
フの切り替えをするスイッチとして働くのだ。」
そして「スイッチ現象」をめぐるベイトソンの議論──「それは二個の導体(これ自体スイッチがオンのときしか導体としては存在しないが)の間の
単なる切れ目──無なるもの──にすぎない。/スイッチとは、切り換えの瞬間以外は存在しないものなのだ。“スイッチ”という概念は、‘時間’に
対して特別の関係を持つ。それは“物体”という概念よりも、“変化”という概念に関わるものである。」(佐藤良明訳『精神と自然』(岩波文
庫)205頁)──に言及し、次のように論じる。
「意識はもちろん一つのスイッチではなく、多数のスイッチ、巨大なキーボードのようなものである。そして身体がこの意識のキーボードを演奏する
と、意識はオルガンやトランペット、図形や単語、記憶や希望、筋肉や腺組織のスイッチのオン、オフを切り替える。この群れ集まった身体-脳は、新
鮮な行動、感情、空想をもたらす。これが身体による解釈である。」(196-197頁)
【4】言語の起源をめぐって─『生命記号論』から
Ⅱ.「誰か」─言語の起源をめぐって
ⅰ)意味の発生
ホフマイヤーはウィルデン[Anthony Wilden,“System and
Structure”(1980)]の議論を援用して次のように述べている。──“何かがないこと”すなわち「~ない」は円周、つまり穴にも穴以外にも属
さない境界である。それは観察者の心の中以外には存在しない。「これが意味の大本を形成する。別の言い方をすれば、その境界は「誰か」がその穴を
認識しないかぎり、この世の中には存在しないのだ。」(28頁)
「ウィルデンは、私たちは心の中で考えるときでさえも、AとAでないものの境界を引くことで、現実と非現実をともに含む全世界を二つの部分に分割
している。その境界を設定するという行為は、少なくともAにも非Aにも含まれない一つの系あるいは領域を定義している。/この系こそが「誰か」で
ある」(29頁)
ⅱ)言語の出現
① 生物学的自己
生命の誕生をめぐる生物学上の論争「ニワトリが先か、タマゴが先か」を、ホフマイヤーは次のように言い換える。生体すなわち細胞(原形質)が先
か、DNA上のデジタル記号が先か。そしていわく、その両方が揃うことによって、すなわち「デジタルとアナログの二つの形に託されたメッセージの
間の記号論的相互作用に依って」初めて生命が存在できるようになったのだと。
「言い換えるならそれは‘記号双対性[code
duality]’とも言うべきものである。生物の中ではこの二つの形態が互いに融合する。これこそが「自己[self]」である。人間における自己が肉
体と精神とから成るように、「生物学的自己」は原形質とDNAの両方から成る。」(79頁)
② 宇宙から切り離された孤独な自己
この「生物圏[biosphere]」における生物内部の分裂が「記号圏[semiosphere]」(ユーリー・ロトマンとは独立にホフマイ
ヤーが導入した概念)を生み、アナログな経験とデジタルな言語による新たな記号双対性の出現をもたらした。
「私たちが人間となって以来、言語はその菌糸を私たちの神経システムの奥深くまで伸ばしており、今日ではたとえ理論の上であっても、この二つを切
り離すことはできない。(略)そしてこの事実、音声言語が‘世界を共有する’ための手段であり、共有財産であるという点が、おそらく言語の出現を
説明する真の理由であろう。」(181頁)
「その時[ホモ=エレクトゥスの心のスクリーン上に、彼らを生んだ宇宙から切り離された孤独な存在としての自己の姿が浮かび上がってきた時]、世
界に存在する事物を分割する線、「~ない」の基礎となるものが効力を発揮し始めたに違いない。それは、AとAでないものを区別できる「誰か」がカ
テゴリーの間の線引きを行うということ、そしてその言語を操る彼らもまたその「誰か」であり、それゆえ相いれないもの、世界の外にあるものである
という事実の認識を迫ることになる。なぜなら、世界の内部にいるためには、「誰か」は「誰か」であることを止めなければならないのだから。
そしてこのことが、会話の発達をもたらす動機づけであることを、私たちに示すものだと私は信じている。(略)言語を持たない生物が自分自身の限
られた環世界を頼りに生きるしかないのに対し、会話によって世界は象徴的に作り上げられた共有の居住場所となった。そして私たちの祖先が世界の神
話を創るとき、彼らの周囲の世界を過度に捕まえたのである。ここに言語が立ち現れ、自走しだした。」(181-182頁)
③ 第三の断絶─生命記号論的自己と人類記号論的自己の調和
「言葉を話す生き物となることで、私たちは生物個体としての無垢な記号双対性を失い、その代わりに言語によって併合された共同体での記号双対性に
吸収合併されてしまった。こうして、私たちの個人の生命の物語は、その遺伝子のものだけではなくなって来る。別の言い方を擦れば、‘一つではなく
二つの物語が、人間の身体と意識の中で演じられるようになったのだ’。」(214頁)
「このようにして、三つの断絶がもたらされてきた。一つは生体とDNAの間の原理的なもの、二つ目は言語に伴う自己と自己のイメージの間の実存的
な断絶であるが、三番目の個人と社会との間のものは少なくともつかの間は癒されることができる。(略)
三番目の断絶は本質的に前の二つとは異なる。同時にこの二つの物語に関与しているという事実から来るものである。なぜなら、自意識を持つ主体と
なることで、私たちは自己本位な文化の迷宮に糸を繰りながら迷い込むこととなってしまった。そこでは肉体が残すねばねばしたカタツムリの這い跡の
ような痕跡はいとも容易に見失われてしまう。
第三の断絶に対する治癒も、共感に対して真摯に耳を傾けることからもたらされると期待される。ここで必要なのは、人間同士の共感だけではない。
地球に存在する生物全てへの共感である。私たちの祖先は模倣文化から石器文化へと至る境界のどこかで、自分を他者の心理の論理に従わせる方法を学
ぶのに成功したに違いないと、これまでに述べてきた。心理の論理という言葉を、私はできごとや話を支配する物語[*]の論理の意味で使ってきた。
だから、私たちの先祖は、他の人間が占めていると思われるのと同じ物語、心理、関係を理解する術を獲得した。
しかしながら、私たちの祖先はこの心理の論理に加えて、生物の論理も作ったようだ。この生物の論理に従えば、人は他の生物と自分を置き換えるの
を可能とする認知のモデル得ることができる。」(214-215頁)
「もしこの断絶を埋めることで、私たちが‘癒されたい’と願うならば、私たちの知性は私たちの身体が集団となることで作りだされたのであり、私た
ちはこの惑星の記号圏の中である地位を占めており、そこで私たちは他のすべての生物と共にある基本的な関係の中に組み込まれている、という事実を
受け入れること、それがその唯一の方法である。他の生物に共感することで、私たちは象徴的なレベルにおける二つの内なる主体、人類記号論的自己と
生命記号論的自己を一つに調和させることができる。」(218頁)
──第一の断絶における「デジタル記号」、第二の断絶における「音声言語」、そして第三の断絶における「文字言語」、すなわち数千年前に誕生
し、やがて音声と拮抗する「文字」へと“変質”していった《文字》ではなく、数万年前の石器時代の洞窟に出現した〈文字〉?
[*]言語の起源をめぐって、ホフマイヤーは、「模倣による表現が次第に標準化された音声パターンとして具体化されることにより、言語が出現して
きた…。それは崩した書体から、判じ絵紋の紋章(リーバス)がつくられるのに少し似ている」と書いている。
「話をもう一度まとめてみる。最初に個体間で伝えられるようになったのは物語であり、個々の単語は、そうした物語の一部が固定されることにより少
しずつ成立してきたのだと考えられる。(略)言葉を覚え始めた子供にとって文章が単位であり、文全体が一塊で一種の単語のように捕えられ、実際の
単語が文章全体の中から個別に切り出されるようになるのはもっと後になってからである。(略)
言語の起源についてのこのモデルは、言語が持つ二つの非常に重要な側面を明確にできるという点で、私には非常に惹かれるものがある。第一の側面
は、言語とは基本的には私たちが口を使って話をするための物であり、その構成からして根本的には物語風のものである。(略)そして第二に、…隅々
までまぎれもなく肉体的なものである。」(178頁)
──物語(神話)としての〈文字〉から文(物語の一部)としての《文字》へ、そして単語としての「文字」へ?
【5】原形質と洞窟─『パースの宇宙論』から
パースの記号論から文字以前の〈文字〉の話題へ進む前に、少し迂回して、伊藤邦武著『パースの宇宙論』から、パースの形而上学をめぐる議論を引
きます。
Ⅲ.原形質と洞窟
ⅰ)原形質をめぐって─物質についての新しい概念
第三章「連続性とアガペー──宇宙進化の論理」。全体が一つの原形質からできているアメーバの話題をふりだしに、「物質のもつ精神性の有無」を
めぐる議論(「アメーバの感情」「記号としての人格」等々)が展開される(141-149頁)。
いわく、アメーバは体全体が非分節的であるから、その運動は原形質の不定形な連続体のなかでの無秩序な変化の伝達である。それはまさしく、観念
の伝播、感じや感情の広がりと同じである。というよりも、原形質は感じそのものが外化した姿なのである。「われわれはアメーバのこの現象におい
て、一塊の原形質のなかに感じが存在していると考える──それは‘感じ’ではあるが、明らかに‘人格’ではない──」(パースの引用)。
パースの説明は曖昧だが、われわれは「粘菌」のようなものを想像することができるだろう。「スライム(粘液体)は化学的合成物にすぎない。…そ
れが合成されるならば、自然の原形質がもつすべての性質を発揮することであろう。その場合にはそれが感じるであろう。」(パースの引用)
人間の精神もまたアメーバと等しい。その観念の質的広がりにもとづく連続性は、観念の時間的な連続性とならぶもう一つの連続性である「他者との
むすびつき」というエレメントである。人格とは意識の連続性であり、それは一連の観念の連鎖以外のものではない。この連鎖の複数の融合が、すなわ
ち一般的精神、共同体的精神にほかならない。
まとめると、精神と物質はその根源、原初においてつながっている。精神とは、互いに孤立したアトミスティックなものではなく、一般化し成長する
作用としての観念=記号の世界である。人格は記号であり、人格同士もまた記号的につながっている。
世界は連続する精神と連続する物質からなり、さらには精神同士のあいだも、精神と物質のあいだも連続し合っている。このパースの存在論は、生気
論的・有機体的・精神主義的(純粋にロマン主義的)である。しかし同時に、こうした観念論の特徴が全面的な偶然主義と結びつき、物質についての新
しい概念[*]の示唆と結びついている点も、けっして無視されるべきではない。
ⅱ)洞窟をめぐって─異次元世界への導管
第四章「誕生の時──宇宙創成の謎」の冒頭。パース著『連続性の哲学』(伊藤邦武編訳、岩波文庫、242-245頁)から、「人が光のない洞窟
のなかで、自由に空中を遊泳しながら、さまざまな匂いと触覚とを頼りに空間の位置を確かめる経験を続けるうちに、空間の「特異面」を通り抜けて異
種的な空間との行き来を行い、やがて内と外とがその特異面でつながっている「クラインの壺」の構造の空間に生きるという、新しい体験のありかたを
習得する過程を記述した…ユニークなパッセージ」(183頁)が引用され、「この宇宙」の空間や時間が成立する「以前」の「質」の世界、連続性の
世界をめぐるパースの壮大な宇宙論が叙述される。
クラインの壺の構造をもった空間。表と裏、外と内をつなぐ特異面をもった空間。異次元世界への(ブルトンの通底器を思わせる)通路。それらはみ
な、洞窟体験をもたらす「宇宙空間の洞窟的世界」(228頁)の説明であると同時に、宇宙への「洞観」(227頁)に裏打ちされたパースの思想の
世界を言い当てている。
『二○○一年
宇宙の旅』の最後にでてくる「異次元の回廊」とは現代宇宙論の「ワームホーム」であり、その発想の基礎となる宇宙の特異点、すなわち「ブラックホール」は
「宇宙大の規模で想定された現代の哲学的洞窟であり迷宮である」(228頁)。この言葉は、パースの思想そのものの形容でもあるだろう。パースの
思想は、宇宙大の規模で想定された現代の哲学的洞窟であり迷宮である。
──そして、パースの方法は、洞窟を導管[duct]とする推論、すなわち「洞窟的推察」、略して洞察(=アブダクション
[abduction])そのものであった!
[*]まだ見ぬ物質についての新しい概念を予見させる原形質とは「プラズマ」だった。──固体、液体、気体につぐ物質の第四の状態をいうプラズマ
と、プロトプラズマ(原形質)のプラズマは、使用される文脈は違うが、ともに「基盤」を意味するギリシャ語に由来する(「コーラ」という語と響き
合っているかもしれない)。エクトプラズマのプラズマも同様。
以下、余録として。『電気的宇宙論Ⅰ──銀河、恒星、惑星の進化を書き換えるプラズマ・サイエンス』(ウォレス・ソーンヒル/デヴィッド・タル
ボット著、小沢元彦訳)という本のカバー裏にこんなことが書いてあった。
「宇宙はそれ自体が巨大な伝導体であり、電気の力が宇宙全体を結びつけていた。」
「電気的宇宙は、これまでまったく関係ないと思われていた古代の謎にも解明の光を当てる。古代の岩壁絵画に描かれた象徴・文様が、古代の空にプラ
ズマ放電が作り出した形と同じであることがわかったのだ。」世界各地の岩窟壁画に描かれた「スクワットをする人物」や「アイマスク」は、プラズマ
放電が作り出す砂時計型のパターンやトーラスの形と「あまりにもよく似ており、とうてい偶然とは考えられない」。
関連して『狩猟と編み籠──対称性人類学Ⅱ』(中沢新一著)から、旧石器時代の洞窟の壁に描かれた三層のイメージ群について述べられた一節を引
く。
「真っ暗な洞窟の中に入り込み、長時間まったく光の射さない状態に居続けますと、視神経が自己励起をおこして、眼の内部から光の微粒子がふんだん
にあふれ出す現象(これは生理学者によって「内部光学 entoptic
」と呼ばれています)がはじまり、さまざまなかたちをした光の抽象的イメージがあらわれるようになりますが、旧石器時代の人々は、その抽象的な光のイメー
ジをとおして、宇宙の奥底を流れる力の実在を認識して、それを霊の領域として理解したようです。これをイメージ群第一群と呼ぶことにします。」
(17頁)
──旧石器時代の古代人の深い意識変容状態において、内在的視覚現象(眼の内部からあふれ出す抽象的な光のイメージ)と外在的視覚現象(古代の
空にプラズマ放電が作り出した形)が通底する?
【6】神話文字と絵文字─『世界の根源』から
アンドレ・ルロワ=グーランは『世界の根源──先史絵画・神話・記号』のなかで、ラスコーをはじめ旧石器時代の洞窟壁面に描かれた抽象的な幾何
学記号群(点列、斑点、星形記号)は「文字の最初」なのではないかという質問に答えて、次のように述べています。
いわく、ある意味で、たしかにそれは文字のようでもある。「かつてこれらの図像は人々の間で読まれていたはずです。ただ、それは神話文字であっ
て、表意文字や絵文字ではありません。文字と言い切れなくもないのですが、あくまでもふつう我々が意味するところの《文字》[*]、すなわち、さ
まざまなシンボルの線的表現を含む文字とするわけにはいかないでしょう。」(282頁)
以下、ここで言われる「神話文字(ミトグラム)」と「絵文字(ピクトグラム)」の違いをめぐるルロワ=グーランの発言を抽出しておきます。
★神話文字(寓意的なイメージ)
「オーストラリアの先住民や後期旧石器時代人のように、文字をもっていなかったにもかかわらず、その表現体系にきわめて深遠な思想が認められる
人々の芸術を示すため、私が造ったかなり広義な用語」(110頁)。
「ある行為の継起的な状態ではなく、線的に構成されていない人物、すなわち神話的世界の主役を表現するもの」(112頁)。
「私にとって問題となるのは、何がしかの純然たる神話的思考法、つまり、慣習的な時空の埒外にある思考法を特徴づけることでして、わざわざ神話文
字なる用語をつくったのは、はっきり申しまして、実はそのためなのです。旧石器時代の各種‘作品’を読み取る──こう言ってよければ──には、そ
うした文字に注意することが必要でした。」(114頁)
★絵文字(時間的なイメージ)
「ある行為を具体的に描写するような一つないし一連の図です。文字とのかかわりにおいて絵文字を特徴づけるものは、それが線形表現だということに
なるでしょう。つまり、ある行為のさまざまな位相を継起的な図の配列によって示そうとするわけです」(112頁)。
「ラスコー洞窟には、ビゾンに斃されたとおぼしき男の壁画があります。これなどは絵文字、すなわち過去と現在と未来とを併せもつ図像といえるで
しょう」(112頁)。
「シンタックスの観点より見れば、過去や現在、未来の征服は、絵文字的な表現形態と結びついています。旧石器時代芸術では、その一連の動物表現の
中に図像がいくつか組み込まれていますが、これらは神話文字内部の絵文字と考えられます。」(115頁)
「言葉によって表現された思考の発達度は、手によって表現された思考作品の数々を通して測りえるのです。アルタミラの天井[飛びはねるビゾンた
ち]は、ラスコーの各洞窟[ビゾンに斃された男の壁画他]同様、物語や解釈芸術がそのまま保存されてきた冷凍庫にほかならないと言えるでしょ
う。」(115-116頁)
以上のことを、「韻律的世界」以来の図のうちに落とし込んでみると、次のようになるでしょう。
〈神話〉
↑
┃
┃
┃
絵文字━━━━━━╋━━━━━→《歴史》
┃
┃
神話文字
ルロワ=グーランが言う「神話文字」とは、いわゆる「文字」以前の〈文字〉、すなわち旧石器時代の人類の「手によって表現された思考作品」(旧
石器時代の芸術作品)にほかなりません。──ここで述べられた「手」(書き記す、象形、道具)と、これと対になる「口」(発音、音声、神話)との
パラレルな関係性について、『身振りと言語』では次ように書かれています。
「象形芸術はそもそもが言語活動に直接結びついており、芸術作品というよりは、最も広い意味での書字[エクリチュール]にずっと近かったとするの
が自然であろう」(308頁)。
それはまた、いわゆる「イメージ」以前の〈イメージ〉、あるいは「はじまりのイメージ」(木村重信)のことであって、私はそれを「フィギュー
ル」という、どこか謎めいた概念を拡張させることによって捉えていきたいと考えています(「仮面的世界」第2節・第16節参照)。
[*]ここで言われる「シンボルの線的表現」としての《文字》とは、「確実なのは最初期の文字がつねに系譜や計算にかかわっていたことです」とか
「最初期の文字は、何よりも王や神々を称賛したり、聖堂や王宮の簿記に用いられていたのであり、その痕跡を旧石器時代に用いるわけにはいきませ
ん」(284頁)と言われるときの「最初期の文字」のことにほかならない。
この発言のあと、「世界の線形図像や文字以前の人物像について何か云々する時、あなたの問には何がしかの郷愁が認められるように思えます」と水
を向けられて、アンドレ・ルロワ=グーランは次のように応じている。
いわく、私はかなり昔に中国語の学位をとった。漢字を読めば、ふつうはまずその全体的な意味が掴める。さらにそれを分析していけば、木とか葉、
女、動物とかいった、漢字をとり巻く世界全体までが明らかになる。
「密度の濃い文字や背景なり大きな寸法をもった文字というのは、非常に数が少ない。こうした意味で、漢字はほとんど唯一の事例と呼べるでしょう。
象形文字について言えば、これは一線に並べられた一種の神話文字で、その線的配置はそれぞれ表意法的な連鎖環をなしていますが、自らのうちに小世
界を構成してもいるのです」(284-285頁)。
【7】哲学的洞窟から旧石器時代の洞窟壁画へ
前回、チャールズ・サンダース・パースの「宇宙大の規模で想定された現代の哲学的洞窟であり迷宮」(伊藤邦武)から、アンドレ・ルロワ=グーラ
ンによって「神話文字(ミトグラム)」と名づけられた旧石器洞窟壁画の抽象的記号群へ、すなわち本論考の第一の仮説における〈文字〉へと話題を転
じました。
そこからさらに、「イメージ」以前の〈イメージ〉としての「フィギュール」をめぐる議論に進むための“伏線”もしくは“導管として、港千尋著
『洞窟へ──心とイメージのアルケオロジー』を一瞥しておきたいと思います。以下は、この洞見と洞察に満ちた知的刺激の書を刊行直後に読み、興奮
さめやらぬままに書いた“書評”の自己引用です。(文中の註については次回へ。)
……本書の最大の魅力は、コスケール(1991年発見)やショーヴェ(1994年発見)といった旧石器時代の洞窟壁画、フォンテーヌブローの森
の「木靴の岩」に刻まれた線刻をめぐる具象的思考や「図像的推論」[*1]の透徹さにある。
いや具象的というより「物質的」と形容する方が適切かも知れない。第5章「脳と洞窟」に出てくる文章を借用するならば、「ニュートンによって自
然のなかから締め出された感覚世界を、ゲーテ色彩論によって召還したハイゼンベルクの思想」(115頁)に共鳴しつつ、イメージ生成のメカニズム
を霊的物質(生命ある物質)ともいうべきものに即して腑分けする、その手つきが素晴らしいのである。
「洞窟は支持体や材料ではない。画像の保存容器でもタイムカプセルでもない。洞窟は石灰岩でできた「素材」以上の何ものかである。芸術的な生命を
与えられた場であり、生きた空間である。ショーヴェ洞窟を描いた人間たちは、長い時間をかけてこの洞窟の物理的な特徴を理解し、しかるべき場所に
しかるべきイメージを配置し、鉱物空間に生命を付与することに成功したのである。」(187頁)
著者はまず、イメージと美術の起源をめぐる「双方向的プロジェクション」という二項関係を提示する。エルンスト・ゴンブリッチの『芸術と幻影』
に典型的なイメージの起源をめぐる「心理学的投射」(あらかじめ頭のなかに描かれたメンタル・イメージを外界の対象に投射)と、プラトンの洞窟の
比喩やプリニウスの「美術の起源」神話以来の、そしてデカルトの視覚の生理学(網膜に結ばれる光学像)にもつながる「光学的投射」。
この「まったく異なる意味に使われているように見えるふたつのプロジェクションは、実は投射の方向が違うだけで、図式としては似通っている」と
著者は指摘している。それらは「共に、脳と世界のあいだで起きる認知過程の、双方向を描いている」のであって、「共通するのは、そこにイメージの
プロジェクションが行われるということ」だと言うのだ。
しかし、コスケールなど新たに発見された洞窟とその詳細な調査の結果は、イメージ誕生のプロセスが「投射」よりもっと複雑なものであることを示
している。こうして著者は、ホモ・サピエンス・サピエンスのなかにある「もうひとつの洞窟=脳」の世界の探索へと向かう。そこで提示されるのが
パースの三項関係──正確には、分子生物学者ホフマイヤーがパース記号論を生命論に応用した『生命記号論』──である。
「因果律は論理空間として見れば、二次元である。パースは二項関係で記述できる世界は、あまりに限られていると考え、「原因─結果」に対する第三
項として「観察者」を導入した。三項になると系は分岐することが可能になる。原因─結果─観察者の三項関係は、分岐しながら多次元の論理空間を
作ってゆく。パースの考える三項論理としての記号は、人間の「経験」を考える際にきわめて有効である。」(125頁)
著者の議論はさらに、洞窟芸術の動体写真(クロノフォトグラフィー)を思わせる動体描写や重ね描きのうちに「連続性」の感覚や遠近感、つまり
「時間的=四次元的パースペクティヴ」を見て取り(185頁)、アフォーダンスの概念を踏まえつつイメージの概念の転換(表象から運動へ)を図り
(200頁)、「洞窟とは身体化された心である」(204頁)と喝破し、最終章「変身の力」では、「内在光学 entoptic
」をめぐる議論(234頁)を経て「予感の力」や「触覚記号」、「内なる文字」[*2]へと説き及ぶ。
この目も眩む叙述の連続に接して、もはや言葉はない。本書は以上の「要約」では汲み尽くせない可能性を孕んでいる[*3]。……
【8】哲学的洞窟から旧石器時代の洞窟壁画へ・若干の註
[*1]「図像的推論」は『連続性の哲学』第六章に出てくる言葉。「このような主題は、その神髄が詳細な図像的推論にある以上、それを八回の講演
で述べようとすれば、過度に分かりにくいものになることは避けられないことであった」(274頁)。
パースはここで、「数学的形而上学、あるいは宇宙論」という主題をめぐって、たとえば「トポロジー」(パース自身の言葉では「幾何学的トピック
ス」)における「連続体をめぐる推論」を念頭においている。
[*2]「内なる文字」はエリアス・カネッティの言葉。『群衆と権力』(岩田行一訳)下巻収録の論考「変身」第一節「ブッシュマンにおける予感と
変身」においてカネッティは、視覚や聴覚によらず「遠隔で起きていることを知る」ブッシュマン(サン族)の能力を「身体のなかにある…文字が語
り、動き、かれらの身体を動かす」(97頁)と表現している。
港氏はこの「驚くべき「予感」の能力」を、サン族の岩絵をめぐってルイス=ウィリアムズが主張したこと──すなわち、そこにはシャーマニズムに
基づく宗教的経験が表現されており、トランス状態に入った人々が見る幻影が含まれている──が根底において連続していると述べている。
「カネッティが見抜いているように、両者は「変身」という点で連続しており、前者[予感の能力]は後者[シャーマンのトランス]の初期段階なので
ある。(略)これらの現象が、どれほど異様に見えようとも、それは「来るべきものを知る」ことが生きるために不可欠だという意味で、生の一部であ
る。彼らの変身は、感じるものと感じられるものが分断不能の状態に置かれているという意味で、ひとつのテオーリアである。アフリカのテオーリア
は、神話時代を超えて、悠久の時間からやってくるものなのだ」(『洞窟へ』257-258頁)。
悠久の時間、すなわち旧石器時代の洞窟芸術における「内在光(entoptic)現象」からやってくるもの(同書234頁)。
以下、場違いな備忘録を二つ。
その一。港氏は、ブッシュマンの岩絵(シャーマニックな図像群)と変身の予感の話題を旧石器時代の記号群──「ルロワ=グーランは記号の二元論
的解釈を通して、その背後に宗教的構造が横たわっていることを示唆した」(同書259頁)──に結びつけて「文字の発生」に説き及び、アリア・ギ
ンブタスの研究(『古ヨーロッパの神々』、鶴岡真弓訳)を取りあげている。
新石器時代ヨーロッパの記号群を研究したギンブタスが注目したのはジグザグ図形である。「多くの場合ヘビや水を象徴するこの図形は、アジア一帯
では「ナーガ」という水のシンボルとして知られ、また古代エジプトにおいてジグザグは水を表す象形文字であるが、新石器時代だけでなく、後期旧石
器時代の線刻にも見られる。ギンブタスはこうした歴史時代と先史時代をつなぐ、記号表現の共通点を重要視し、メソポタミヤにおいて誕生したとされ
る「文字」の歴史を、後期旧石器時代まで延長できる可能性を問うのである。」(同書261頁)
「象形文字からアルファベットへというリニアな段階的発展が、実は局所的なものであり、それ以前の氷河時代に別の体系をもった文字が広範囲にわ
たって存在していた可能性もあるのではないか。それを証明するには、文字の「ショーヴェ洞窟」が発見されなければならないが、しかしそのような大
発見がなくても、考えてみる価値はあるだろう。」(同書263頁)
その二。マーク・チャンギージーは『ヒトの目、驚異の進化』で下條信輔らとの共同研究の成果を紹介している。いわく、あらゆる言語の文字単位の
平均画数は3であり、3本の線の結合からなる文字の基本要素(かたち)の分布と自然界に現われるかたちの要素の分布は一致する。
後段については、石田英敬氏が『新記号論』でチャンギージーの共著論文をもとに紹介している。
《https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdf/10.1086/502806》
[*3]余録を二つ。
その一。『週刊読書人』(2001年8月31日)での中沢新一氏との対談「思考の臨界点を超えて」で、港氏は「洞窟を発見したのは子どもが多い
んです」と語っている。「子どもはイメージを変容する力のあるもの、変身を体得したもので、この世界の法を崩壊させてしまうから危険な存在でもあ
ります。」
また、『洞窟へ』の刊行とほぼ同時に発見されたラスコー以前の線刻画をめぐって、ここには人間の「現在」があると語っている。「今これを見て感
動できる僕らの心は、三万五千年前から変わっていない。それが唯一、僕らが信じられる「現在」じゃないかと思うんです。」
その二。上記対談での著者による自著解説。
「起源が刻印された小さなフィルムを発見し、そこに強い光を当てると、不思議なことに過去の生活が全部見えてくる。このカメラの図式が、西欧的な
思考、世界の見え方を強く拘束してきた。それは二重の意味でアルケオロジックな視線です。それを踏まえた上で、プロジェクションじゃない見方もあ
りうることを明らかにしようとしたのが、僕の採ったアプローチでした。
具体的に言えば、神経細胞選択説がとなえるような「選択」であり、バタイユが考えたような「変質」です。モノがゆっくり腐っていく。腐っていく
というプロセスは、プロジェクションではない。透視図法では描けないような、もうひとつのイメージの変容過程です。それを描こうとしたのがバタイ
ユでした。そうした「変質」あるいは「選択」によって、もうひとつのアルケオロジーが可能になるのではないか。」
──ここで私が想起したのが、幾何学的メトリックス(計量論もしくはユークリッド幾何学)と幾何学的オプティックス(射影幾何学もしくは透視幾
何学)と幾何学的トピックス(トポロジーもしくは「内在的幾何学」)をめぐるパースの議論だった。
「トピックスが扱う主題とは、連続体の各部分の結びつきの様相についてである。したがってこの幾何学的トピックスこそ、哲学者が連続性について幾
何学から何事かを学ぼうとすれば、まっ先に研究しなければならないものということになる。」(『連続性の哲学』232頁)
【9】フィギュールとしての洞窟壁画
中沢新一氏は、「あらゆる宗教現象の土台をなしている人類の心の構造というものが、今日私たちが楽しんでいる映画というものをつくりあげている
構造と、そっくりだという事実」の確認から始まる集中講義の記録『狩猟と編み籠──対称性人類学Ⅱ』のなかで、次のように語っています。
「映画が「洞窟的芸術」であることには、別の意味もこめられています。映画的イメージは美学の理論で言うところの「フィギュール
figure」としての特徴をそなえています。これは「ディスクール
discours」という言語学の概念に対立する概念で、ディスクールが主に情報の経済的な伝達をめざすコミュニケーション行為であるのにたいして、フィ
ギュールはむしろ情報の経済的伝達を阻害したり歪曲したりする、非コミュニケーション的な表現行為です。旧石器のホモサピエンスが洞窟内に描き残
したイメージ群は、あきらかにこのうちのフィギュールとしての特徴をそなえています。」(272-273頁)
中沢氏によると、旧石器及び新石器のホモサピエンスが洞窟内に描き残したイメージ群は、次の三つのグループに分類されます[*1]。
【第一群】
・非物体的・非表象的な抽象的イメージ群(はじまりのイメージ)。無意識の物質的プロセスに直接触れている唯物論的な層(現実界)。
・暗闇の中に長時間いると視神経が自己励起しておこる内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子
のようにはかない精霊たちの立ち現われ)がヒトの心の内側に開く超越的領域にかかわるイメージ群。
・映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこにはスクリーンにあたるものが欠けている。
【第二群】
・動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。
・ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)が現実の物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生
する、その(「無から有へ」向かう、「有」と「無」を転換させる)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第二イメージ群。
・それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージ(イコン)は洞窟の壁画をスクリーンとしてモンタージュの詩的効果とともに映
写される。
【第三群】
・言語的な意味を発生させ物語と結びつくイメージ群。
・垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」と自律的にメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動に
よって)水平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。
・こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽映画」(幻想界)が発生する。身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。
洞窟壁画の世界は、これらのイメージ群が層状に積み重ねられてつくられている。表面に近い層では言語的コミュニケーションに適したイメージ群が
全体を覆い、その直下には非言語的・非表象的な別のイメージ群が活発な働きを行っている(274頁)。──こうした構成を踏まえて、中沢氏は、旧
石器の洞窟画の本質を「フィギュール」として捉えているのです[*2]。
「フィギュールは層状をした表現物の内部を、垂直方向に横断して、言語的な意味作用を離れた無意識の領域に、通路を開いていこうとしています。そ
の無意識は、フロイトの「一次プロセス」やガタリの「機械状無意識」や私たちの「対称性無意識」などと、重なり合っています。視覚的イメージはほ
んらい、このようなフィギュールとしての層状のなりたちとしてつくられていますから、心の内部空間を動かす流動的知性にまで(物質的な神経組織を
なかだちにして)直結していく、横断性がはらまれていることになります。
そのことが、ホモサピエンスである人類が洞窟の中で最初におこなった、宗教的・芸術的な表現活動に、はっきりとしめされていることを、私たちは
この講義の中で確認してきました。そして、二十世紀になってようやく発明された映画において、このとてつもなく古い起源をもつフィギュールの精神
が、驚くべきよみがえりをとげていたことも、見届けてきました。映画はまぎれもなく、近代に復活した「洞窟的実践」[*3]の一形態にほかなりま
せん。」(276-277頁)
[*1]中沢氏は「現代の考古学者たちは、そこ[旧石器時代の洞窟の岩壁]に描き出されたイメージが、大きく分類すると構造の違う三種類のイメー
ジ群でできていることを見いだしてきました」(86頁)と記し、参考文献としてデヴィッド・ルイス=ウィリアムズの『洞窟のなかの心』(港千尋
訳)を挙げている。
ちなみに、中沢氏が第一群から第三群のイメージの例として挙げている図(『狩猟と編み籠』40頁)は、ルイス=ウィリアムズが神経心理学的モデ
ルに基づき「意識変容状態」における視覚的なイメージ(幻覚)の三つのステージを論じた箇所に付した図(『洞窟のなかの心』214頁)と同じもの
である。
[*2]中沢氏によると、こうした「フィギュール=洞窟」的活動は、誕生以来変わらぬ人類の「心」のトポロジーに基づくものであり、また、旧石器
のホモサピエンスによって発明された「結社=組合」(アソシエーション)も、フィギュール化された社会にほかならない。
結社=組合の成員は、洞窟でのイニシエーションを通じて、古い個体としては死に、新しい主体としてのよみがえりを果たす。
《新しい主体は「フィギュール」として、生まれ変わるのだ、と言いかえることもできるでしょう。フィギュールと呼ばれる美学的対象は、自分の内部
に流動的知性につながっている無意識への通路を保ったまま、意味表現の世界に立ち上がってくる、特異な表現です。フィギュールは意味を破壊したり
するのではなく、意味表現をそれが生まれてくる根源の場所である無意識という強度の場から、新しくよみがえらせようとしています。このようなフィ
ギュールの原理が、社会的な構成の場では、結社=組合[アソシエーション]として表現されるわけです。
じっさい美学で言う「フィギュール」は、洞窟的結社にそなわった①[脱テリトリー化]②[抽象化]③[新しい主体の生み出し]の三つの条件すべ
てを満たした表現となっています。フィギュールは、社会的慣習によって狭い意味内容に閉じ込められていた意味表現を、自由に解き放とうとします。
意味内容からの脱テリトリー化が図られるのです。そのために、フィギュールは自分の身体にたくさんの穴を穿ち(フラクタル化をおこない、と言うこ
ともできるでしょう)、そこから固定層を突き破って横断的な力が、流動的知性が表面へ向かって浮上してくる状態をつくりだします。流動的知性は、
異なる意味領域を自由に横断する能力をもっています。それはどの領域やジャンルにも所属しない、抽象的な力なのです。そしてその抽象的な力の中か
ら、いままで存在しなかった新しい意味が立ちあらわれてくるのを、フィギュールは手助けしようとしています。お気づきのように、フィギュールと詩
的であることとは、ほとんど同義なのです。》(『狩猟と編み籠』285-286頁)
[*3]河合俊雄氏が『ジオサイコロジー──聖地の層構造とこころの古層』で次のように語っている。
「『アースダイバー
神社編』は、考古学的・人類学的観点はなかなか評価しにくいのではないかと思います。この本を読んだ人からけっこう聞いたのは、「話としては面白いけど、
これって本当なの?」と(笑)。でも、ここに書かれていることは、心理療法の経験からは、納得できること、裏付けできること、あるいは、展開でき
ることがけっこうあるんですよね。だから、それは考古学的に見たらどうかわからないけれども、心理学的に見ると、あるいはこころのリアリティから
すると、「ああ、これは確かに当たっているな」と思うことが多い。」
心理療法の経験から、あるいは「こころのリアリティ」からすると確かに当たっていて展開できること。そのような、「学知」としては評価しにくい
知見のことを、私は「文学知」と呼んでみたい。深い洞窟の奥でくりひろげられる密儀の主宰者(シャーマン)が意識変容状態に陥って発する言葉との
つながりを考慮して「洞窟的実践知」と名づけていいかもしれない。
【10】フィギュールとしての洞窟壁画・続
旧石器的な洞窟の宗教における精霊(スピリット)たち、すなわち第一群(無から無へ)の唯物論的イメージ群が、組織的農業・家畜化や安定した交
易の開始、都市原型や王の出現をもたらした「新石器革命」を経て没落し、やがてイメージの第二群(無から有へ)や第三群(有から有へ:メタモル
フォーシス)にもとづいて造形された神々による太陽や月のもとでの宗教へと変貌していった。この転換の過程を、中沢新一氏は『狩猟と編み籠』で次
のように叙述しています。
「新石器世界は、いったんこの世のものとして出現した力や富を、いままでの世界のようにはかなく無の世界に手渡してしまうことを、潔しとはしなく
なりました。力を人間の身体に体現している王というものがあらわれ、その者が生きている間は王の権力はその身体の内にとどまり続け、その者が亡く
なったり弱くなったりすると、王権はそこを離れて、新しい王の身体の内に宿るようなやりかたで、この世で持続可能になる政治権力をつくるシステム
が、王権として確立するようになりましたし、自然が生んだかヒトの労働が生んだかは別として、ひとたびこの世の富となってあらわれた価値は、貨幣
や文字の中に保存されて、いつまでも現実世界にとどまり続け、交換をつうじてほかの人々の手を渡っていくようになりました。」(48-49頁)
ひとたびこの世にあらわれた価値、すなわち「貨幣」によって保存・交換される経済的な(呪物もしくは商品が身に纏った)富と、「文字」を介して
表現・反復(模倣)される詩的(もしくは喩的)な言語的意味。この二つの、“増殖”を本質とする価値(富、意味)の問題にかかわる先史時代の経済
学と詩学。(あと一つ増殖するものとして、イエス・キリストの教えに通じる「愛」の問題を挙げることができると思う。ここで『愛と経済のロゴス』
を参照したいところだが自粛する。)
これらのうち、中沢氏が主題的に取り上げているのは前者、貨幣の問題です(第三章「イメージの富と悪」)。そこでは、原初の貨幣(原貨幣)すな
わち「贈与にとっての貨幣」の表面に打ち出された仮面が、「有」と「無」が転換するインターフェイス上で働くイメージ第二群に属するものであるこ
と、イメージ第三群としての貨幣の運動法則が「……→G→W→G→W→G→W→G→W→……」の貨幣(G)と商品(W)のメタモルフォーシスであ
ること、等々の話題が展開されています。
これら議論を参照しながら、私の関心事である「文字」、精確には〈文字〉と表記すべきものについて自分なりの考えをめぐらせてみます。
まず、〈文字〉とは、超越的な「無」の領域に根ざした(無の領域からの“ギフト”として到来した)イメージ第一群の唯物論的な動態を垂直方向に
横断し、「有」の領域との境界線上にイコンとして、無を有に転換する力それ自体として自らを可視化(記号化)し、原初的な「意味」をその身に纏っ
た“フィギュール”である。
生まれたばかりの〈文字〉は、自らを無限に変態・変身させる水平方向の運動(記号連鎖もしくはイメージのモンタージュ)によって有の領域にとど
まり、その透明で質料零の重ね合わせ(“パランプセスト”)を通じて物語的・神話的な幻想界を造形する。
この第三群のイメージの世界を垂直方向に横断(エクソダス)することで獲得されるのが、「ヤハウェ」という、イメージを禁ずる超越神の〈名〉で
あり、(イメージ第一群がもつそれとは異なる抽象力を、すなわち概念形成力と象徴力をもった)《文字》であった。そして、そのような天上世界から
の転落、堕落によって、物質的な「声」と「文字」からなる地上世界(言語的世界)が生まれる。
このような「モーセのプログラム」とは逆の方向へ(上方ではなく下方へ)向かうオルタナティブとして、中沢氏はブッダの道、つまりホモサピエン
スの「心」の本体(流動的知性のしめす無限の働き)を知ることによるエクソダス(覚醒)を挙げています。
「私たちの心を縛っているイメージ第三群の働きから自由になっていくために、それが幻影としてつくられたものであることを知るのが第一歩です。そ
こから進んで、世界のものごとに同一性や個体性を生みだしていくイメージ第二群の作用を解体するための、「中道を歩む」実践を積み重ねなければな
りません。そして、そこから身体を使ってイメージ第一群の深い層に踏み込んでいく実践を通して、流動的知性に直接触れていくのです。」(70頁)
以上を踏まえた、洞窟壁画の三つのイメージ群をめぐるトポロジカルな位置関係を図示します。[*]
(図には書き込めなかったが、垂直方向の力の横断と平行してこれとは逆に下方へ向かって展開する二つの運動がある。その一つはメタフィジカルな層
を垂直に貫いてくだされる啓示、いま一つはマテリアルな層を突き破り「絶対無」とでも言うべき領域へ踏み込んでいく実践=修行。)
< 名 >
==[メタフィジカルな層]==
↑
↑
─── →○→○→○→ ───【第三群】PALIMPSEST
<メタモルフォーシス>
↑
《有》 ↑
↑
<文 字>
━━━━━━━◎━━━━━━━【第二群】FIGURE
↑
↑
《無》 ↑
↑
↑
………[マテリアルな層]………【第一群】GIFT
[*]本文で取りあげられなかった話題が二つ。
その一つは、本論考第一節の註で取りあげた永井均氏の文章に書かれていたこと──〈私〉の持続(自己同一性)や記憶現象の成立において避けるこ
とができない「独在性の形式的・概念的理解」という仕組み・構造が「文字化」(客観化・外在化)によってあからさまにされる、云々──と、イメー
ジ第二群としての〈文字〉をめぐる中沢氏の議論とを接続することができるのではないかということ。
いま一つは、中沢氏によって拡張された旧石器以降の洞窟壁画のイメージの分類論が柄谷行人氏の交換様式論(『力と交換様式』他)とパラレルな関
係を結んでいるのではないかということ。たとえば次のように。
<イメージ> <交換様式>
第一類型 A 互酬(贈与と返礼)
第二類型 B 服従と保護(略取と再分配)
第三類型 C 商品交換(貨幣と商品)
(第一類型) D Aの高次元での回復
【11】フィギュールとしての洞窟壁画・続々
『狩猟と編み籠』の書名の由来は、セルゲイ・エイゼンシュタインの映画理論にあります。
「人物と風景を一つに包み込むより大きな「風景」にアニマの気息が吹き込まれることによって、画面全体が一つの生命を得て運動している──映画は
すべからくそのような「アニメ」でなければならない[*1]。そう考えていたエイゼンシュタインにとって、もっとも純粋な発達をとげた芸術形態
は、ほかならぬ音楽でした。とりわけバッハの作品に最高のかたちで表現された「ポリフォニー(多声)」音楽こそが、映画のめざすべき理想だと考え
られたのです。」(235頁)
中沢氏によると、エイゼンシュタインはバッハのポリフォニー音楽の根底に、「狩猟の仕事と編み籠の技術」として発揮された旧石器的な人類の思考
の発展形態を見いだそうとしています(239頁)。──「一方の本能は、個々のモチーフから編み上げられる統一的全体の編み物のもつ魅力の原因で
あり源泉である。もう一方の本能は、統一的全体に編み上げられる声部群の密林のなかを通り抜けて個々のモチーフの線を追跡する狩猟の魅力の原因で
あり源泉である。」(『エイゼンシュタイン全集』第九巻)
狩猟と編み籠はまた、男性結社(フィギュール化された社会)と女子供と暮らす家族共同体に対応させて考えるとができるかもしれません。
「…新石器型文化の特徴を残すいわゆる「未開社会」…では、人が死んだときとか、お祭りのときとかのような特別な「聖なる時間」を除いては、謎々
[*2]のような言葉遊びをすることが、禁じられていました。謎々では、共通の音価によって異なる意味場が一瞬にして結び合うという事態がおこっ
てしまいますが、それこそはフィギュールの典型的な仕業であるとして、日常生活の場からは、慎重に遠ざけられていたのです。フィギュールではなく
ディスクールを[*3]。これがかつての人間の日常生活における大原則でした。
テラスでの日常生活の場には、イニシエーションを終えた男たちも、イニシエーションを受けて結社員となることが許されていない女や子供たちも、
いっしょに暮していました。洞窟内で使われていたような「神聖言語」の、テラスでの使用は禁じられており、言葉や身体のフィギュール的活動は極力
抑えられて、もっぱらそれらを記号学的に使用することが求められました。」(293-294頁)
──『狩猟と編み籠』からの素材蒐集作業を通じて、しだいに本論考のキーワードである“フィギュール”の実質が浮かびあがってきたのではないか
と思います。まだ生硬な言い方しかできませんが、それをあえて表現すると、次のようなものになります。
洞窟壁画(≒神話文字、神聖言語)≒映画的イメージとしての“フィギュール”は、メタフィジカルな言語世界とマテリアルなイメージ世界が交わる
ところ、すなわち神との交流(啓示)を含む言語的コミュニケーション(ディスクール)と無意識との中間領域における、非言語的・非表象的なイメー
ジ群であり、イメージ以前のイメージ、はじまりのイメージなのであって、それは音(聲)と形(〈文字〉)、音楽(哥)と舞踏と造形、聴覚と触覚と
視覚が流動化し、共感覚的に統合されるフィールドにおいて立ちあがる。
「フィギュールと呼ばれる美学的対象は、自分の内部に流動的知性につながっている無意識への通路を保ったまま、意味表現の世界に立ち上がってく
る、特異な表現です。フィギュールは、意味を破壊したりするのではなく、意味表現をそれが生まれてくる根源の場所である無意識という強度の場か
ら、新しくよみがえらせようとしています。」(285頁)
[*1]三浦雅士著『スタジオジブリの想像力──地平線とは何か』第一章「絵より先にアニメがあった」で、著者はゴンブリッジの「アニメーション
論」(18頁)である『芸術と幻影』を取り上げている。
《ゴンブリッジは、「いまここのこの瞬間」を捉えるというような考え方が発生したのはギリシアにおいてであって…、ルネサンスがそれを復興したの
だと述べています。(略)
ゴンブリッジが示唆しているのはルネサンス期に流行したネオプラトニズムが一種の逆説としてあったということである、とも受け取れます。プラト
ンのイデア論に、有名な洞窟の比喩があります。この世はイデアの影にすぎないという考え方が影絵すなわちアニメーションを思わせ、それがまた後世
の芸術家を興奮させるわけです…。
重要なことは、「いまここにこのようにしてあるわたし」──デカルトからパスカルへと展開する「私という現象」への固執──という実感的な自己
意識が、いまにも動き出しそうなルネサンス絵画の中心を形成しているということであり、それはつまりアニメーションと切り離しえないということで
す。だからこそその後に風景画の伝統もまた形成されえた。『芸術と幻影』の巻頭に、コンスタブルの「エセックス州のワイヴェンホー・パーク」が置
かれていますが、永遠の現在のような光景であるにもかかわらず、雲の動きも風のそよぎも、それを描いている「いまここにこのようにしてあるわた
し」である画家の捉えた歴史的瞬間において記録されているからこそ、重要なのです。
すると、アニメーションを構想したうえで、その一コマを切り取ってみせたのが西洋絵画だったのではないか、と、逆に考えることができます。》
(『スタジオジブリの想像力』33-34頁)
──旧石器時代の洞窟内でシャーマン(鳥人間やライオン・マン)の采配によって“上映”されたアニメーション、その「一コマ」(永遠の現在)を
なすフィギュール。フィギュールがもつ生命性、力動性はアニメーションがもつ動画性につながっている。
[*2]講演「国文学と人類学」(『二松学舎大学人文論叢』第79輯)で中沢氏は次のように語っている。ここで言われる「まれびと」は“フィ
ギュール”そのものである。
《文芸のおおもとの形は「まれびと」として考えることができる。つまり均質なシステムのなかに、外から異質な力を招き入れてくる宗教の様式として
「まれびと」は発展してきたけれども、それを言語で表現すると文学、文芸になると折口さんは考えたわけですね。これが有名な折口さんの国文学の
「まれびと」による起源説と呼ばれるものです。いろいろな側面から折口さんはこの問題を考えましたが、いちばん重要な問題は、文学が喩の構造
[*4]としてつくられているとき、その喩の根本的な構造のなかに「まれびと」の構造が入っているということを折口さんは知っていたということで
す。
人類がおこなった最古の文芸はなにか。十九世紀以来多くの人類学者によれば最古の文芸形態は、「なぞなぞ」であったと言われています。なぞなぞ
というのは、日常生活のなかでは遠く離れたところにあるふたつの意味場が、音の類似性などによって一瞬にして結合することによって生まれますが、
その結合の瞬間の驚きや喜びが文芸のおおもとになったと考えられています。このなぞなぞの形がやがて喩の体系をつくり、詩へ発展していったという
のが、十九世紀の人類学が明らかにしてきたことです。
たとえば「メはあっても見えないもの、なに?」というなぞなぞの答えは「じゃがいも」ですが、これはじゃがいもの芽と人体の目を重ね合わせてい
ます。この場合は、植物と人間の身体の器官が一瞬にして音の共通性でくっついています。この驚きは私たちに楽しみをもたらしますが、これが喩の構
造になっていきます。
あらゆる民族の文学において、喩を用いた表現、詩というものが最初の文芸形態になります。詩の命は喩であると思いますが、この喩の構造は「まれ
びと」と同じ構造をしています。》(『二松学舎大学人文論叢』第79輯)
吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』の第Ⅴ章において、文学作品を言語表出ではなく「言語芸術の価値」として扱うために「構成」の問題をと
りあげ、詩・物語・劇という三段階の言語構成の展開を示している。
中沢新一氏は『吉本隆明の経済学』の第二部「経済の詩的構造」で、「吉本隆明は言語の奥に潜む詩的構造を探るだけでは満足せず、経済というもの
の奥に潜む詩的構造まで明らかにしようとした」(341頁)と書いている。
同書第一部には吉本の講演「近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」」が収録されていて、そこではアダム・スミスの「歌」、リカードの「物
語」、マルクスの「ドラマ」といったかたちで先の構成論の成果が用いられている。注目したいのは、中沢氏がそこに第四の類型を導入していること
だ。
《私はこの[アダム・スミスからマルクスまでの古典派経済学の転形の]過程を、詩的構造の原始性からの乖離の度合いとして理解しようと思う。その
ことを理解するには、アダム・スミスの前に重農主義の思想家ケネーを付け加える必要がある。アダム・スミスが経済の「うた」を歌ったとすれば、ケ
ネーは何をしたか。ケネーの『経済表』はマルクスによって人類にとっての「スフィンクスの謎」と呼ばれた。ところで人類学は「なぞなぞ」が「う
た」に先行するより原始的な文芸形態であることをあきらかにしてきた。それは裸にされた詩的構造そのものである。吉本隆明のおこなった理論教判の
図式に、私はケネーの「なぞなぞ」を加えて、図式を完成させたいと思う。》(『吉本隆明の経済学』258-259頁)
[*3]中沢氏はここで、リオタールの議論を踏まえている。「美学で言うところのフィギュールは、言語コミュニケーションを邪魔したり、歪めたり
する力をもっています。そのことを、美学者リオタールの書いた『ディスクール、フィギュール』に引かれた「判じ絵」を例にとって、説明して見ま
しょう。」(275頁)
これより先の中沢=リオタールの議論は省略するが、一言付言すると、音における「謎々」と同じ関係を形(〈文字〉)に対して持つのが「判じ絵」
なのではないか。
(『狩猟と編み籠』(2008年)刊行後に翻訳出版されたリオタールの『言説、形象(ディスクール、フィギュール)』(2011年)を速攻入手
し、中沢氏の議論を確認しようと挑んだが、この作業はいまだ果たせていない。「文字的世界」の考察に際してぜひ完遂させたがったが、今回もまた宿
題として残った。)
[*4]中沢氏は、「潜在空間から現実世界へと向かおうとする言語の現象性の本質」にかかわる「垂直的な過程」を、ハイデッガーにならって意味の
「生起」と呼び、この生起を通じて潜在空間から立ちあがってきた「意味の胚」(AとBの双葉で表現される)を組織する働き、すなわち、たがいに似
ている事物を「同じもの」としてまとめる能力のことを「喩」と呼ぶ。そして、生起と喩からなる「潜在空間(X)⇒現実界(AとB)」に関して、次
のように語っている。
《現実界で分離されている諸事物[AとB]を結びつけるのは「因果性」である。この因果性を表現するのが、象徴界の記号連鎖である。ところが生起
の過程がつくりあげている想像界では、AとBはともに潜在空間Xではつながりあっていて、そのために喩のメカニズムはAとBを「同じもの」と見な
したのである。人間が想像界をとおして見た世界は現実界そのものではない。そこには歪みがある。その歪みを他の人間の認識との共同性によってより
現実界に近い像に「焼き戻す」ために、共同的な言語の場である象徴界が人間にはなくてはならないものとなる。
こうして想像界ではAとBとXがつくりなす「三位一体」の構造が、たえず心の動きに影響を与えることになる。事物Aについての認識には、潜在空
間Xの力が及ぼされ、それはいわば地下の通底路を通じて、喩が「同じもの」と認めた事物Bの認識にも入り込んでいく。さらにはBの認識がAについ
ての認識にも還流してくる。こうして、Aについての認識は喩のメカニズムを介して膨らんでいき、増殖していくようになる。このときの意味の増殖を
可能にしているのは、潜在空間からもたらされる(贈与される)力にほかならない。》(『吉本隆明の経済学』第二部「経済の詩的構造」)
ここで言われる「生起と喩」すなわち「X⇒AとB」の働きは“フィギュール”そのものである。
蛇足を加える。ここで私は、連句の付け合わせと夢の心理を比較して考察した寺田寅彦の「連句雑俎」を連想している。
《このようにして、[連句における]前句と後句とは言わばそれぞれが錯綜した網の二つの結び目のようなものである。また、水上に浮かぶ二つの浮き
草の花が水中に隠れた根によって連絡されているようなものである。あるいはまた一つの火山脈の上に噴出した二つの火山のようなものでもある。しか
しこれだけの関係ではあまりに二句の間の縁が近すぎ姿が似すぎて結果はいわゆる付き過ぎである。むしろ一つの非常に精巧な器械の二つの部分が複雑
きわまる隠れた仕掛けで連結していて、その一方を動かすと他方が動きまた鳴りだすような関係である。それほどの必然さをもって連結されていて、し
かもその途中のつながりが深い暗い室の中に隠れているような感じを与えるものが連句の上乗なものでありはしないかと思うのである。
これについて思い出すのは近ごろの心理分析学者ことにフロイドの夢の心理に関する考察である。(略)
フロイドの考えでは顕在的な「夢内容」の底には潜在的な「夢思想」なるものが流動している。前者の表面的な並列はいわゆる夢のような幻影の無意
味な行列に過ぎないのであるが、これらの「夢内容」を形成する象形文字のような影像を一つ一つ夢思想の国のこれに相当する言葉に翻訳してみれば、
それはちゃんとした文章となり、そうしてそれは驚くべくおそるべきわが内部生活の秘密を赤裸々に記述するものとなるのである。しかもその一つ一つ
の象形文字のような夢内容は驚くべく多様な夢思想の圧縮されたエッセンスであり、またはなはだしく複雑な夢思想の網目の接合点である。それらの接
合点のうちでも、その人のその日の、その前日の、また生涯の経験――意識的ないし無意識的――の最も多くを結びつけるに都合のいいような、そうい
う特別な接合点が、その夜の夢の内容の一つとして象形文字的に選ばれて現われて来るのである。》
【12】フィギュールをめぐって
にわか勉強のため、参考書として一瞥した『ジル・ドゥルーズの哲学と芸術──ノヴァ・フィグラ』の著者・黒木秀房氏は、ドゥルーズ哲学における
フィギュールの概念をめぐって、次のように書いています。
「イメージと言葉の連関を規定する特殊なイメージこそ、ドゥルーズが「フィギュール」と呼んでいたものだった」(118頁)。
「フィギュールはきわめて多義的であり、さまざまなコンテクストにおいて用いられるが、それはフィギュールがマジックワード化しているのではな
く、フィギュールを中心に旋回することで、さまざまな問題が展開されているからである。つまり、フィギュールは、内にありながらにして外の存在で
あり、この内なる外をめぐって取り結ばれる関係性が問題となる」(223頁)。
イメージと言葉(エクリチュール)、「見ること」と「話すこと」の中間(インターフェイス)にあって、両者の連関を規定する「内なる外」の存在
としての“フィギュール”は、事象や学問の領域、論脈や関心に応じて、様々に訳し分けられています。
いま黒木前掲書他の関連本から例を引くと、形、外形、形態、形象、表徴、像、図像、図形、図式、挿絵、肖像、容姿、顔付き、人物(像)、姿、詞
姿、文彩、喩、比喩形象、音型、等々と多岐にわたり、キリスト教神学の文脈では「前兆」の意で用いられることがあります[*1]。(ちなみにフラ
ンス語のフィギュールはドイツ語のゲシュタルト、ギリシャ語のリュトモス(リズム、かたち)の訳語。)
杉本秀太郎著『見る悦び』に「形の生態誌」という文章が収められています。これは、フォション『形の生命 Vie des
Formes』(平凡社ライブラリー改訳版)の訳者あとがきを「書き改めた」ものです。
著者はそこで、形はいのちをもつ限り「自在なメタモルフォーズをくり返し、絶え間なくみずからの必然からみずからの自由へ向かっている」という
フォションの言葉を引き(379頁)、1943年パリで刊行された際の副題「フォルムとスティル」をめぐって、「わたしたちが普通スティルを文
体、フォルムを形あるいは形態と訳しているときには、何か生き生きとしたもの、その動きが愉快をおぼえさせるようなものを想定している」(382
頁)と、かつての自身の小文を再録しています。
そして、水に映じる影から「絵すがた」、人形(ひとがた、この場合の「かた」は輪郭だけを描き、なお着色していない絵のこと)までの許容がある
「イマージュ」の語義にふれたあとで、「フィギュールという語になると、さらに事態は紛糾し、フォルム、スティル、イマージュがこの語のなかに流
入し、意味の渦を惹き起こしている」と書き、スタンダード仏和辞典(第二十版)が収載する16種の訳語(「トランプの絵札」や「剣術の構え」を含
む)を一覧しているのです。
「これを見ていると、フィギュールという語には、一目瞭然という含蓄のあることが理解される。縁辺の定かでないもの、不安定な、ゆれ動いてやまぬ
ものの形態は、イマージュの領分である。(略)それにしても、フィギュールに対応する日本語の語彙は、フォルム、イマージュの訳語と重複するとこ
ろが多く、トランプのキング、クィーン、ジャックの絵札には、様式となり型となった紛れもない形状があり、剣術のじょうずな構えには風格があるの
だから、フィギュールはスティルを飾り、スティルはフィギュールの集合核になる。」(385頁)
──以上の抜き書きから、“フィギュール”とは、自由に変身・変態をくりかえす生命的なもの(型、力)であり、その(ゆれ動いてやまぬ「イマー
ジュ」の)くっきりとしたあらわれ(姿)であることがわかります。小林秀雄の口吻を真似れば、「純粋な表現性」としての形に対する「瞭然たる表現
性」としての姿、といったところでしょうか[*2]。
[*1]塩川徹也著『虹と秘蹟―─パスカル〈見えないもの〉の認識』の第Ⅱ章「虹と秘蹟──記号から表徴へ」に、「時の流れにあって来るべきもの
を予告すると見なされた事実」、たとえば、ノアの箱船はキリスト教会の象徴であり、過越祭の犠牲の子羊はイエス・キリストの表徴であるといったよ
うに、「旧約聖書によって伝えられる人物、事件、制度などが、やがてキリストの来臨において開示されるより高い「実在」を、あらかじめ象徴として
おぼろげに表現していると考えられる場合」、それらは伝統的なキリスト教神学において「表徴」(figura,figure)と呼ばれたとある。
いわく、カトリックの聖餐式 (ミサ)
において、聖別されたパンとブドウ酒はキリストの体と血を表現するものであるとされる。しかし、そのような聖体を「象り(figure,type)、像
(image)、複製(antitype)等」として、記号やしるしの観念との明確な区別なしに用いると、「像である聖体は原型としての神キリス
トではありえないのではないか」という疑問にさらされることになる。そこでパスカルは、「表徴」(フィギュール)という観念を自らのキリスト教擁
護論の中心に据え、ミサにおいて繰り返され「反復される出来事」と、聖体の秘蹟の成立根拠であるキリストの受肉と受難という「一回限りの出来事」
との一致、あるいは「記号=像=コピー」と「もの=原型=オリジナル」との一致を、永遠ではない時間のただ中で実現する「出来事」として聖体をと
らえた。
《オリジナルは論理的観点からすればコピーに先行するが、表徴においては、コピーがオリジナルに時間的に先行する。しかもここでオリジナルとなる
のは、時空を越えたイデアではなく、イエス=キリストの受肉によって時のただ中に出来する出来事、その限りにおいて個別的な事柄なのである。表徴
の究極の根拠は、『ヨハネによる福音書』の冒頭に述べられる言[ことば]の受肉、初めに神と共にあった言、神であった言の受肉なのである。同じ個
所で、洗礼者ヨハネのキリストに関する証言、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」(第一
章一五節)という言葉が引かれているが、これこそまさに表徴と実在との関係に他ならない。》(『虹と秘蹟』103-104頁)
[*2]小林秀雄は『本居宣長』で「文(あや)ある声のカタチ」という表現を用いている。それは「あしわけ小舟」に「カナシミツヨケレバ、ヲノヅ
カラ、聲ニ文[アヤ]アルモノ也。」云々とあるのを引用した文章のなかにでてくるものだ。
《誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを湛え難いと思う
のも、裏を返せば、これに堪えたい、その「カタチ」を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずから文[ア
ヤ]ある声の「カタチ」となって捕えられる。宣長に言わせれば、この「カタチ」は、悲しみが己を導くその「シカタ」を語る。更に言えば、「シカ
タ」しか語らぬ純粋な表現性なのである。この模倣も利き、繰返しも出来る、悲しみのモデルとでも言っていいものに出会うという事が、各自の内部に
起る。私達は、誰もその意味合を問う前に、先ずこの悲しみの型を信じ、これを演ずる俳優だったと言ってもよかろう。》(『本居宣長』)
また、宣長が「石上私淑言」で「聲を長くし、詞に文[アヤ]をなす」のが「歌のかたち」だと述べたことにふれて、次のように書いている。「宣長
に言はせれば、歌とは、先づ何を措いても、「かたち」なのだ。或は「文[アヤ]」とも「姿」とも呼ばれてゐる瞭然たる表現性なのだ。歌は、さうい
ふ「物」として誕生したといふ宣長の考へは、まことにはつきりしてゐるのである。」
小林秀雄が言う「純粋な表現性」としての「カタチ」は“イメージ(イマージュ)”に、「瞭然たる表現性」としての「文」(「アヤあるカタチ」)
あるいは「姿」が“フィギュール”にそれぞれ対応する。やや図式的だが、私はそのように整理している。
ちなみに、ベルクソンの「イマージュ」をめぐって小林秀雄は次のように語っている。「この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳して
も、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。/「古事記伝」になると、訳は
もっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に「性質情状[アルカタチ]」です。これが「イマージュ」の
正訳です。」(江藤淳との対談「「本居宣長」をめぐつて」)
【13】フィギュールをめぐって・承前
フィギュールとは、まことに多様で、軽々に扱えない厄介な概念であり、一方で、人を惹きつける蠱惑的な磁力と、多産な生成力をもった存在でもあ
りました。それだけに、相当な理論的緊張感をもって接しないと、恣意的な概念の重ね着に堕してしまうことになりかねません。
そこで、私自身の関心事に照らして論点を絞り、前回挙げた訳語群のうち、「詞姿」[*1]あるいは(ペルソナ的な含みをもった)「姿」[*2]
という語に着目し、「喩」的な動態性もしくは生命的な力動性をもった「形象」、すなわち「動きつつある形」[*3]あるいは「動くイメージ」(映
画のイメージ)[*4]としての“フィギュール”を取りあげたい思います[*5]。(註については次回。)
私の関心事とは、言うまでもなく、「文字的世界」における最重要の登場“人物”である“フィギュール”の役回りとは何かにほかならないのです
が、この文脈を拡大していくと、それは、私がかねてから取り組んできた、本邦王朝和歌の表現世界をめぐる言語哲学的(?)な考察のうち、とりわけ
藤原俊成の歌の世界の実質にかかわってきます。
ここで、(かつて「韻律的世界」の第3節において通りすがりに言及した)「哥とクオリア/ペルソナと哥」第38章の議論を、精確にはそこで準拠
した尼ヶ崎彬氏の文章を援用します。(ちなみに、前節で援用した杉本秀太郎氏の議論や註で触れたパスカルのフィギュールをめぐる話題の“出典”も
これと同じ。)
古典和歌の系譜をかたちづくる三人の歌匠、貫之、俊成、定家の歌の世界を端的に言い表わす語として、それぞれ「像(イメージ)」、「喩(フィ
ギュール)」、「虚象(パンタスマ)」をあてはめ、それらの実質と相互の差異を探究する。──私がそこで着手し、いまなお継続中の作業の記録か
ら、俊成をめぐる考察の一部を抜粋・加工して、以下に再録します。
……俊成にとっての喩。これに関連して、いま私が想起しているのは、「和歌はイメージではない」という俊成の考えです。精確には、尼ヶ崎彬氏に
よってそのように規定された、俊成の和歌観です。『花鳥の使』で論じられたところを、抜き書きします。
「詩的世界において、花は雪のように降る(比喩)のではなく、花は雪として(複合)降るのである。また例えば、日常我々は露のような涙(比喩)と
いうことはある。しかし和歌に「袖の露」という時、それは草葉に濡れた袖であると同時に、恋の紅涙なのである(複合)。
だが、そのようなイメージの複合を、人は一体表象できるだろうか。むろんできはしない。ここで、和歌とは「姿」であるという俊成の考えを思い起
こそう。つまり、和歌はイメージではない。〈丸い四角〉は、日常言語としては、表象不能である故に背理だが、詩的言語の中にこの種の結合はいくら
でもある。和歌における価値体験とは、言葉によってイメージを思い描いて後、そのイメージに感動するというようなものではない。まず、言葉のもつ
「姿」に感動するのである。でなければ、見たこともない歌枕が、どうして題材となりえようか。」(94-95頁)
「詩的言語が、その意味をイメージに頼る限り、現実の法理を無視することはできない。「花」は常に「花」にとどまり、「雪」となることは許されな
い。しかし、詩的言語が、その意味を、生活世界の映像ではなく、詩的世界内部での〈価値体験の型〉に依存する時(顕在的には〈引用〉、非顕在的に
は〈含み〉)、〈言葉〉は日常の規約を超えて自由に結合し、自律的な世界を産出、展開することができたのである。」(96頁)
和歌における価値体験の型、つまり、「あはれ」や「艶」、「幽玄様」や「餘情妖艷の躰」といった美的体験(感動)の「モデル」となるのは、美的
対象とこれに対する心の構えとを結合させた「言葉の型」、すなわち「姿」にほかなりません。「〈価値体験の型〉(幽玄・妖艶など)を帯びたものと
して立現れる〈言葉の型〉が「姿」なのである」(93頁)。
尼ヶ崎氏によると、「価値体験の型」とは「主観の構えとそれが出会う意味の型」(100頁)であって、ここでいう「意味」は、色香や味のよう
に、言語的概念によって(「幽玄」「艶」「あはれ」等々の類に)分類することはできても、それを記述することはできません。ただ美的価値として体
験するしかないものです(99頁)。価値体験の型は現実状況に先立って存在し、実在する状況は「意味の型」すなわち「予めつくられた〈意味〉の範
例」のもとにとらえられます。「つまり、詩的世界に属する意味は、これを構成する時にも体験する時も、現実状況という契機を必要としない。それ
は、現実からは自立して在るのである。」(100頁)
また、「言葉の型」については、俊成の「歌はたゞよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆることのあるなるべし。もとより
詠歌といひて、声につきてよくもあしくも聞ゆるものなり」(古来風躰抄)という言葉をふまえて、次のように論じられます。
いわく、ここで問題になっているのは、深く考えてはじめて納得されるような内容の奥行ではなく、表面的な言葉の組み立てである「言い回し」と、
和歌を物理的に存在させる「声」である(101頁)。一般に音声とその言い回しとは抵抗感のない透明な媒体であって、我々は、じかに言葉の意味に
触れているように感じている。しかし和歌は、詠みあげられること(詠歌)によって、一個の音声的実体として人々の前におかれる。透明な媒体であっ
た言語に、不透明な、一種の物質感を与え、和歌を一個の「モノ」にする(102頁)。同様に、五七五の定型性をもつ和歌の言い回しも、和歌に一種
の物質感をもたらす。そして「この〈言い回し〉が、一定の外形(始めと終りのはっきりした全体性)と内部構造(各要素の緊密な統合関係)をもつも
のとして捉えられる時、これを我々は、〈言葉の型〉と言う」(103頁)。
尼ヶ崎氏の説くところにしたがって、歌の姿とはなにかを整理すると、それはまず、「価値体験の型=心」と「言葉の型=詞」とが表裏一体となった
結合物であり、このうち「心」にかかわる部分は「主観の構え」と「意味(体験される美的価値)の型」からなり、「詞」にかかわる部分は「言い回
し」すなわち表面的な言葉の組み立てと「声」すなわち音声的形象からなります。これが、いわば「姿」の広義の定義です。
これに対して、「定型性をもつ和歌の〈言い回し〉が、一定の外形と内部構造をもつものとして捉えられる時、これを我々は、〈言葉の型〉と言う」
とか、「言葉が一つの〈モノ〉となって或る「姿」をもつように〈言い回し〉ができていなければならない」などといわれるとき、そこで論じられてい
るのは、いわば狭義の姿であるといっていいでしょう。眼目は後者に、つまり「言い回し」としての「姿」にあります。……
……尼ヶ崎彬氏は『日本のレトリック』3章「姿──見得を切る言葉」(ちくま学芸文庫)において、次のように書いている。
いわく、人に内面の心と外面の姿があるように、歌にも心(深き心=後景)と姿(音の調べやイメージの重層=前景)がある。「歌人たちが歌の外形
について、「さま」よりも「姿」という擬人的な言葉を用いるようになったということは、歌の外形が、内容を運ぶための単なる媒体ではなく、人の身
体のように一つの統一的全体として自立していることの自覚の表れであった。」(87-89頁)
「言葉が、「姿」にとどまって「心」を表す媒体ではない時、まだ統一的な意味を形づくらない言葉はいかにして私たちを惹きつけるのだろうか。数百
年の和歌の伝統は既に無数の作品によって「花」や「雪」のイメージを豊かに色づけている。それらの過去の想いに満たされた言葉は、音の調べという
物理的な〈型〉に乗って私たちの前に現れる。それらは「姿」にとどまるうちは、まだ解釈によって一つの《内容》へと統合されてはいない。といっ
て、〈型〉を持つ以上、もはや無意味に並んでいるものとは見えない。隠喩をもって言えば、それらの言葉は、どこかへ向かって歩くのではなく、そこ
にとどまって自らの舞を舞うのである。私たちが「姿」に見出すものは、その舞の出来栄えである。そして言うのである。あれは「幽玄」だとか、これ
は「艶」だとか。」(『日本のレトリック』3章「姿──見得を切る言葉」(90頁)
ここで舞踏の比喩をもちだしたことについて、尼ヶ崎氏は、「この便利な比喩はヴァレリー以来多くの批評家に重宝され、今ではすっかり陳腐になっ
てしまったものである。しかし誰もが重宝したということは、非言語的な身体の動きにも実は同様の事情があることを示唆しているのではなかろうか」
(90頁)と書き、演劇における前景・後景の関係をめぐる考察へと歩行を進めている。……
【14】フィギュールをめぐって・若干の註
[*1]私が最初に“フィギュール”の訳語「詞姿」を知ったのは、明治時代の文法書『新文章講話』(五十嵐力)だった。国会図書館のデジタルコレ
クションで確認した。
ちなみに、宮城谷昌光『王家の風日』のあとがきに「私は若いころから漢字が好きで、川端康成流にいえば、『詞姿の美しさ』で、小説を構成しよう
と考えていたことがあった。」とあり、また(これはあまり関係ない話だが)本居宣長の『国歌八論斥非再評の評』に「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ、
然レバ姿詞ノ髣髴タルマデ似センニハ、モトヨリ意ヲ似セン事ハ何ゾカタカラン」云々とある。
[*2]大石昌史氏の論考「余情の美学──和歌における心・詞・姿の連関」(三田哲學會『哲學』第118集(2007年))が「姿」に
“figure”の英訳を与えている(“The aesthetics of suggestive
feelin[yojo]:exploring the nexus of mind[kokoro],word[kotoba] and
figure[sugata] in Japanese poetry”)。このことは「韻律的世界」第3節で触れた。
[*3]大石昌史氏は「余情の美学」で、「姿」を「動きつつある形」と規定している。(以下の文章は「哥とクオリア/ペルソナと哥」第54章で引
用した。)
《定家は『毎月抄』において、…和歌の「十体」とは別に、その理想的な「姿」を「秀逸体」として説明している。(略)このように和歌の「姿」は、
単なる比喩の水準を超えて、視覚的に明晰な具体的イメージとして語られている。
しかし、余情を伴う幽玄なる「姿」は、心と詞、すなわち、思考・感情・意志といった精神的内容と音声あるいは文字による-感覚的形式という、一
方が現れれば他方は消えるという反転的な関係に立つところの、本質的に異質なもの同士の危うい均衡の上に成り立っている。(略)このように矛盾を
はらむものであるが故に、余情を伴う幽玄なるものは、恒常的な「形」ではなく、逸脱し・揺れ動き・移ろい行く「姿」と呼ばれるのである。そこに
は、西洋における作者の意図に基づいて有機的に統一された「作品」を基準とする芸術観とは異なる、作品の周縁に漂う風・薫り・響きといった「空」
なるものに即した日本独特な芸術観が示されている。
心と詞が相関する「姿」は、「表現されているもの」と「表現されていないもの」、あるいは、対象の空間的な並存と時間的な継起とが反転的に相関
することにおいて力動的に立ち現れる。このような力動的な姿は、「消えゆくもの」(無化する有)であると同時に「立ち現れるもの」(有化する無)
であり、それが伴う「余情」は、有と無とが反転する予感もしくは残響、実在感と虚無感とが動的に共存する無常感として意識される。存在の「空し
さ」の自己否定的な現出が、対象の個別的形象性を逸脱した空間的周縁性・時間的前後性としての余情を形成する。「心余りて詞足らず」と特徴づけら
れる余情を伴った和歌の姿は、有と無とが反転的に交錯するところのけっして一つに重なり合うことのない隔たり(ずれ)を保った力動的な交わりにお
いて、心と詞、意味と残響、形象と情動とによって多層的に二重化される。「物」を、感覚が捉える実物そのままにでも、精神が捉える抽象化された形
においてでもなく、動きつつあるままに「姿」として捉えることは、物のなかに「心」を見ることになる。「形」が物の合理的・客観的な本質と捉えら
れるのに対して、「姿」は物と心(外的形態と内的原理)との曖昧な混交物である。形が主客の対立(相関)において外なるものとして知覚・認識され
るのに対して、姿は主客の融合(反転)において内面もしくは背後から現出する。活動(行為)する対象の形が、背景をなす地平(活動を規定する因果
的な関係性、あるいは、行為を動機づける感情や想い)と共に捉えられることによって、それは、時間と空間、心と物、内と外との間を「動きつつある
形」として、過去の運動の軌跡(記憶)を自らの周りに残像として残しながら、将来の運動の準備(期待)のために、その輪郭を揺動させつつある「余
情を伴った姿」へと変ずる。》(慶應義塾大学『哲學』第118集、191-192頁)
[*4]三浦哲哉著『映画とは何か──フランス映画思想史』の冒頭、著者が掲げる「根本的な問い」を記した一文。
《フランスにおける世界最初の映画興行で、動く映像をまのあたりにした観客たちがなによりも驚いたのは、背景で風に揺れる葉叢だったという。
(略)
曰く、スクリーンの後景で、誰に見られるために存在したわけでもない事物が、ほかのあらゆるものと同様に動いている。ゆらめきながら太陽光を反
射させる葉叢、その在りようの精妙さを言葉で描写し尽くすことはむずかしい。なぜならそこに映っているのは、人間がすっかり解明したわけではない
自然の神秘そのものであり、想像力が決して追いつくことのない何かだからだ。そもそも映画のイメージは、たとえば絵画におけるように人為的に再現
されたものではない。カメラによって自動的に保存された光景は、勝手に──人間に対してなかば無関心に存在する。それら光景を見ることに固有の驚
きがあり、あるいは、そのようにして「意味」から束の間、解放された事物そのものを見ることの‘やすらぎ’というものがあるのだ……。(略)
だからもう一度、問い直さなければならない。映像が動く。ただ‘それだけのこと’にただならぬ感動を覚えるまなざしがあるとすれば、それは具体
的にどのようなものか。》(『映画とは何か』9-10頁)
[*5]私が“フィギュール”としての〈文字〉(文字以前の文字)に対して思い描いているのが、この「動きつつある形」あるいは「動くイメージ」
という特質である。そして、その具体的な事象として“かな文字”を想定している。(かな文字は「文字以後の文字」であって〈文字〉ではない。しか
し、〈文字〉のフィギュール性は「文字以後の文字」に対しても及んでいる。もっと踏み込むと、“かな文字”の具現物と言えなくもない能役者の
“姿”にも“フィギュール”性は浸透している。)
ここで「哥とクオリア/ペルソナと哥」第4章の議論を自己引用する。(「かなと精神分析」は「韻律的世界」の第30節でも取り上げた。)
……夢の中の文字は、読めない。
矢口浩子・新宮一成著「かなと精神分析」(叢書・想像する平安文学第5巻『夢そして欲望』)に、石牟礼道子氏(「夢の中の文字」)が「生まれる
ことができないその文字は、わたし自身であるらしい。」と記した、川底から浮かび上がる「解読できない毛筆の文字」の夢の経験をめぐる考察があ
る。
《彼女は川底というあの世のくびきと、水面上のこの世の境で、「往きつもどりつして今日は生きそびれ、昨日は死にそびれ」ている自分の存在を、読
まれない文字に重ね合わせている。水の中にある限り、文字は「意味」をもつことができず、ただ漂っている。それはちょうど、果てしない時空の広が
りの中で、何の意味も持ち得ない、人間存在の救いようのない孤在の姿であるように思われる。それに対して、水の中から文字が浮上すれば、そのとき
私は私が存在することの意味を知ることができるように思われる。ただしこの世でその文字が解読されてしまったなら、私は他者に私の存在の意味を譲
り渡すことにもなるだろう。意味は普遍である。いったん普遍に入れば、文字は私だけのものではありえなくなる。私が私の存在の意味を知るときに
は、すでに私は普遍の主体であって、もうあの孤在のままの私ではなくなってしまう。
夢の中で文字が、普遍を拒絶しているとしたら、それは、私が私自身のまま存在しようとしているからである。書によって、意味や音を手放そうとす
る文字は、個別であろうとする私の存在なのである。その存在は意味を得ることはできず、あの世に沈むしかない。だが、読まれてしまうような文字も
また、普遍の中に疎外されて失われてしまうのである。
したがって、読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字の状態は、救いようのない孤在と、疎外された普遍的主体との間の、どちらともつ
かない位相を表しているといえよう。すなわち、文字が音や意味から剥離し、それによって不気味さを与えつつ、かえって美への可能性をも示すという
事実は、文字に託された我々人間の生の、個別と普遍の狭間で行き惑うあり方そのものに由来しているのである。》
佐々木孝次氏の「リチュラテール――ラカンの「日本」」(『文字と見かけの国』)での議論を援用するなら、ここで言われる「読まれない」文字
は、漢字やアルファベットのような体系的な文字のことではない。それらが作られるよりもっとずっと前からすでにあった「印し、痕跡、しみ、きず、
などといった文字」のことである。それはまた、無意識の素材であって(「無意識とは文字である」)、シニフィエ/シニフィアンの二項関係のうちに
とらえられるものでもない。シニフィアンが「象徴界」の近くにあるのに対して、文字はその有形的な物質性によって「現実界」の近くにある。
《文字は書かれた跡として、それ自体で「ある」という自己同一性によって、現実的なものの近くにいるが、いつまでもそこにとどまっているわけでは
ない。それは読まれることによって、象徴的なものの領域に参入してくる。つまり、意味の運動のなかに加わってくる。ただしそれは、そもそも自己を
自己とは異なったものにさし出している、非‐自己同一的なシニフィアンとしてではなく、書かれた跡として、読まれるべきものとして加わってくる。
自己同一的なものは、意味に関わらない。文字は、象徴的なものの領域に参入しても、つねに意味から無意味に向かう運動を支えているのであ
る。》
この「意味の運動のなかに加わ」りつつ「意味から無意味に向かう」フィギュールの運動は、無と有を媒介する第二群の「洞窟」的なイメージ(フィ
ギュール)の活動そのものである。……
【15】イメージ/フィギュール/概念
前々節と前節で、文字以前の〈文字〉、イメージ以前の〈イメージ〉としての“フィギュール”が、その発生の時(旧石器時代)と場所(洞窟)から
大きく“剥離”もしくは乖離・逸脱して、古代日本末期(平安京の宮廷)の芸術言語の“姿”のうちに息づいていることを、かなり先走って一瞥しまし
た。
私の直感が告げ知らせるところによると、“フィギュール”はいつでもどこでも、その根源的な場所から、声と文字を通路として立ちあがり(甦
り)、あたかも上映されたばかりの幻想の世界(言語世界)の残響、残像、残香のごときものとしてはかなく消え去っていく、きわめてとらえがたい、
しかし確かなリアリティ(私の語感に即して言えば、アクチュアリティがふさわしい)をもった存在です。
本稿は、そのような意味での“フィギュール”を、声の世界(韻律的世界)にではなく、形象の世界(文字的世界)においてとらえようとする試みで
した[*]。その第一の仮説としてあらかじめ呈示しておいたアイデア──「文字は独立して言語体系をかたちづくる」──をめぐる考察を収束するに
あたって、これまでの議論を脳内に浮かびあがらせながら、(集約するのではなく)ひとつの結構をつけておきたいと思います。
大嶋仁氏は、『生きた言語とは何か──思考停止への警鐘』の第二章「生命ある記号」のなかで、『野生の思考』の議論──「イメージと概念のあい
だに記号というものがある。(…)記号はイメージと似て具体的なものであるが、他のものに言及するという点では概念に似ている。」(大嶋訳)云々
──を引き、「ベルクソンが事物と表象のあいだにイメージを置いてこれを重視したとすれば、レヴィ=ストロースはこのイメージの代わりに記号を置
いて、人類はこれによって思考していると主張した」(90-91頁)と書いています。
この「記号」をめぐって、大嶋氏は、自然を道具と見る西洋の自然観が科学を発達させ、親しい兄弟のように思う日本の自然観が俳句を生み出したと
する寺田寅彦(「俳句の精神」)の議論に触れたうえで、次のように論じます。いわく、科学における数学的記号の意味が一義的に決まるのに対して、
暗示と喚起による俳句の記号(季語)は多義性と季節的文脈とに依存する。
「このちがいは、結局のところ概念と記号のちがいに帰着します。前者はその言及性が無限で、厳密かつ一般性を持つのに対し、後者は曖昧なだけでな
く、記号を使用する主体の情感や個人的経験と結びつき、固有の世界の表現となります。固有とは言っても、記号ですから他者と共有可能で、文脈の幅
を有したまま他者に伝わるのです。」(105頁)
つづけて、芭蕉の「古池や」の句の分析を通じて、「俳句の世界が単なる主観の吐露ではなく、西洋の科学に匹敵する自然観を提示していること」が
示されるのですが、大嶋氏の議論の援用はここまで。以下、「イメージ/記号/概念」の三層構造を借りて、
“フィギュール”がかたちづくる「独立した言語体系」について概観しておきたいと思います。
私が考えていることはきわめて単純です。レヴィ=ストロースの「記号」の代わりに“フィギュール”を置くだけのことです。つまり、「イメージ/
フィギュール/概念」。そして、「記号」をめぐる一連の議論──イメージと似て具体的なものだが言及性において概念に似ている、暗示と喚起、多義
性と文脈依存性を特徴とする、情感や個人的経験と結びつくが他者と共有可能である、等々──を“フィギュール”にあてはめる。そうすることによっ
て、意味の一義性と無限の言及性を持つ概念の体系としての「言語」とは異なる、もう一つの(はじまりの〈文字〉によって形象化される)「独立した
言語体系」の特質を推論する。
それはおそらく、レヴィ=ストロースが言う「感覚的なものの論理」に根差したコトバ、たとえばシャーマンの異言(glossolalia)に
よって語られる〈神話〉のようなものである。私は、そのように考えています。──『神話論理』第1巻の「序曲」で、レヴィ=ストロースは次のよう
に語っている。すなわち、「さまざまな感覚的なものに論理があること、そして感覚的なものの過程を跡づけ、感覚的なものに法則があるのを証明する
こと」が本書の目的であり、「わたしは、ひとびとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとび
との中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである」。
[*]〈文字〉に対応するはじまりの声(聲)、声以前の〈声〉とはどのようなものだろうか。その一つの候補を土取利行著『壁画洞窟の音――旧石器
時代・音楽の源流をゆく』から(孫引きのかたちで)引く。
土取氏は「芸術のビッグバン──認知考古学者スティーヴ・ミズンの音楽起源説」と題された第六章の最後の節で、ミズンの『歌うネアンデルター
ル』を取りあげている。
いわく、ミズンはこの著書において、ホミニド(600~200万年前の類人猿的な人類)のコミュニケーション体系を、全体的
(Holistic)、多様式(multi-modal)、操作的(manipulative)、音楽的(musical)の頭文字を並べた
「Hmmmm」の略語で表した。その後、初期人類では動物の呼び声などの自然音の模倣(mimetic)が加わり、「Hmmmmm」という単語・
文法のない「原型言語」の段階に至った。「Hmmmmm」はネアンデルタール人まで続き、ホモ・サピエンスになって「構成的言語」へと変化した。
《ところでネアンデルタール人は最後のHmmmmm後継者として君臨し、芸術的創造物の痕跡を残さずに消滅してしまったものの、「高次の
Hmmmmmによって複雑な感情をコミュニケートする選択圧と、類像的な身振り、踊り、擬音、音声模倣、音共感によって自然界の幅広い詳細な情報
をコミュニケーションする選択圧がいっしょになって、さらなる脳の大型化とあらたな神経回路の形成という脳内構造の変化を生んだ」。そして言語が
発達しなかったため、絶対音感の能力を維持したまま成長した可能性が高く、現生人類も含めたどの人類よりも高度な音楽能力を持っていたと、ミズン
は考えている。》(『壁画洞窟の音』155-156頁)
擬音、音声模倣、音共感に根差した〈声〉と、類像的な身振り、踊りに通じる〈文字〉。あるいは、絶対音感の能力に基礎づけられた〈声〉と、類感
的な“形象感覚”に裏打ちされた〈文字〉。この〈声〉と〈文字〉の通奏低音をなすのが“類似性”であり、両者による対話(ポリフォニー)を可能に
する共通原理が“模倣の能力”である。
【16】読まれない文字を読むこと
第14節で引用した「かなと精神分析」(矢口浩子・新宮一成)のなかに、「読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字の状態」という言
葉が出てきました。
文字が「読まれない」理由は、二つ考えられます。ひとつはそれが聴覚的現象と無縁であること、つまり音から「剥離」している(声に出して読めな
い)ことです。いまひとつは視覚的に見えないことで、これにはさらに二つの場合があります。そもそも視覚対象となる物的実体がない(見えない)
か、あるいは物的対象ではある(見えてはいる)のに、それが「文字」としては読まれない[*1]、つまり意味から「剥離」しているかのどちらかで
す。
くどいですが、この、音や意味から「剥離」した「読まれない」文字のことを、私は文字以前の〈文字〉、はじまりの〈文字〉として、すなわち
“フィギュール”の概念において捉えたのでした。そして、「かなと精神分析」に続けて引用した「リチュラテール――ラカンの「日本」」のなかで、
佐々木孝次氏が「文字は、象徴的なものの領域に参入しても、つねに意味から無意味に向かう運動を支えている」と書いていた、その「運動」こそ、象
徴的な言語体系のうちに組み込まれた「文字」が、それでも遺伝的・潜在的に孕んでいる“フィギュール”の力の働きに依るものであると考えているの
です[*2]。
さて、文字をめぐる第一の仮説から第二の仮説──「文字の発明が時間や心の概念をもたらした」──をめぐる話題へ移行するに際して、まず、「読
まれないのに文字であり続ける」ことの逆説(矢口浩子・新宮一成)、あるいは「読まれるべきもの」(=書かれた跡=自己同一的なもの)が意味に関
らないこと(佐々木孝次)の実例の探索、というかその“理論”的な深掘りのために、(私にとって、パースと共に尽きせぬ刺激と発想の源泉である)
ベンヤミンの言語論を援用したいと思います。その初期言語論について次回に、後期言語論については次々回で。
[*1]野矢茂樹氏が『言語哲学がはじまる』でフレーゲの『算術の基礎』第60節から次の文章を紹介している(43頁)。「語の内容が表象不可能
であるからといって、それは、その語にいかなる意味も与えず、使用を禁じる理由にはならない。」
野矢氏の引用(フレーゲの議論)はつづく。いわく、表象不可能な語、つまり心の中に対応するイメージが存在しない語が無内容に思えてしまうの
は、語を孤立させてその意味を問い、表象を意味と取り違えるからだ。文が全体として意義をもつなら、それによって語(文の部分)も内容を得る。
──イメージや一般観念(ロック)のような「表象」をもたらさない文字は“読まれない”。しかし全体(星座、人生)が意義をもつなら、それに
よって部分(個々の星、日々の生活)も内容を得る。
[*2]「かなと精神分析」における「文字」は声と意味との連関が同じ重みをもって意識されているが、「リチュラテール――ラカンの「日本」」の
「文字」は声よりも意味との連関が強調されている(あるいは意味との連関だけが問題にされている)。くどいが、ここでの私の関心は声より意味との
連関における文字にある。
声も文字もともに物的基盤をもっている。声について呪術性・魔術性を考えることができるように、文字もまた呪術性・魔術性を帯びている。しかし
声と文字には微妙な、だが決定的な違いがある。声から「剥離」した文字は、出エジプトを果たして約束の地へ、つまり物質的・魔術的な地上の国から
精神的・霊的な祝福の地へ向かう。ただし、この違いはあくまで相対的なものである。というのも、「乳と蜜の流れる地」も物的豊穣を表現する言葉だ
から。
声は感覚的・物質的なもの、つまり呪術性・魔術性との親和性が強く、文字はより抽象的・精神的なもの、霊的・神秘的な次元との関係性が濃い。
「象徴的なものの領域」により近いと言ってもいい。前節で引用した大嶋仁氏の言葉──「ベルクソンが事物と表象のあいだにイメージを置いてこれを
重視したとすれば、レヴィ=ストロースはこのイメージの代わりに記号を置い」た──を借用するならば、声は「事物」の領域により近く、文字は「表
象」の世界により接している。私の語彙で言えば、声は「マテリアル」な領域により近く、文字は「メタフィジカル」な領域により接している。
たとえば、「聞く」に物的な次元(音響)と精神的な次元(啓示)があり、「読む」にも同様の区分があるが、「読む」ことの抽象性・精神性の拡が
り(星座を読む、運命を読む、未来を読む、人の心(顔色)を読む、歌を詠む、等々)は「聞く」より大きい。ただ、この違いもあくまで印象的・相対
的なものである。
【17】神の語、純粋言語─読まれない文字を読むこと・続
ベンヤミンの言語論については、かつて「韻律的世界」の第29節で、「音(声)のオノマトペ」すなわち「擬音語」に対する「形(字)のオノマト
ペ」すなわち「擬態文字」の話題を取りあげた際、細見和之著『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』か
らの“孫引き”のかたちで言及したことがあります。
ベンヤミンが「言語はいかなる場合でも、伝達可能なものの伝達であるだけにとどまらず、同時に伝達不可能なものの象徴でもある」とし、また「名
前…がたんに伝達する機能のみならず、伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有していることは、きわめて確かなことである」(「言語一般およ
び人間の言語について」第25段落)と書いたことを受けて、細見氏は次のように述べていました。
「「名前」が「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有している」というのは、当然のことと思われるかもしれない。しかし、これがやはりかな
り特異な発想であることを…確認しておきたい。ランプを例にとれば、まさしく「ランプ」という名前・呼称に、伝達不可能なものとしてのランプの精
神的本質の「象徴」を見て取ろうとする態度だからである。ここで「ランプ」という音ないし文字はランプを指すたんなる記号であってはならない。
「ランプ」という音はランプという存在の、いわば‘擬音語’であり、さらには擬態語、‘擬態文字’でなければならないのである。
この傾向をもっとも顕著に示しているのが、一九三三年に書かれた「類似したものについての試論」であり、その続稿ないし改定稿として成立した
「模倣の能力について」…である。そこでベンヤミンは、そもそもすべての音声言語を擬音語として理解する方向を示すとともに、文字を「非感性的類
似の貯蔵庫」…と呼んでいる。擬音語が外的に理解しやすい「感性的類似」にもとづくのにたいして、擬態語は、…そのままでは類似を見て取ることの
できない「非感性的類似」にもとづいているのである。そして、文字が「非感性的類似の貯蔵庫」であるということは、すべての文字はそもそも擬態文
字であるということだ。」
話がいきなり後期に飛んでしまったので、元に戻します。ベンヤミンの初期言語論と言えば、まず細見本のタイトルにある「言語一般および人間の言
語について」(1916年)[*]、そして──山口裕之氏が『ベンヤミン・アンソロジー』の「訳者解説」で、「初期の言語論の思想的ヴァリエー
ションである」とした──「翻訳者の課題」(1922年)の二篇に極まります。ここでは、前者から「創造する神の語」を、また後者から「純粋言
語」の概念を(「読まれない文字」の原型として)切り出しておきたいと思います。
◎神の語
ベンヤミンは「言語一般および人間の言語について」において「事物の言語=存在の言語」/「人間の言語=認識の言語(名づける言語)」/「神の
語=創造の語」の三層構造にもとづく言語論を展開し、その最終第26段落で「言語についての純化された概念」を次のように語っている。
「ある存在の言語とは、その存在の精神的本質が自己を伝達する媒質[Medium]である。この伝達の途切れることのない流れが、自然全体を通っ
て、もっとも低次の存在から人間にいたるまで、そして人間から神へと流れている。人間は、自然と自分の仲間に対して、(仲間には固有名で)与える
名を通じて、自己自身を神に伝達する。そして、自然に対して人間は、自分が自然から受け取る伝達に応じて名を与える。というのも、自然全体もま
た、名もなき黙した言語に、つまり創造する神の言葉の残滓で満ちているからだ。この神の言葉は、人間のうちに認識する名となって、また、裁きを行
う判決となって人間の上に漂いつつ保たれてきた。自然の言語は、歩哨がそれぞれ次の歩哨へと自分自身の言語で伝えていく、ある秘密の合言葉に喩え
ることができる。しかし、合言葉の中身はその歩哨の言語そのものなのだ。あらゆる高次の言語は、低次の言語の翻訳である。それは最終的に明晰なも
のとなって、この言語運動の統一体である神の言葉が展開してゆくまで続いてゆく。」(『ベンヤミン・アンソロジー』35頁)
──水が自ら熱を帯びることによって熱を伝達する媒質であるように、言語は自ら名・固有名もしくは合言葉となって、自然の事物あるいは人間(話
し手)の「精神的本質」を伝達する。この媒質としての言語の流れを通じて伝達されるものは言語そのものであり、低次から高次へと向かう言語運動に
おいて翻訳されるのは(意味や事象内容といった実質ではなく、いわば形式としての)言語そのものである。
◎純粋言語
ベンヤミンは「翻訳者の課題」の第11段落で、翻訳の能力について次のように語っている。
「究極の本質を意味から解放すること、象徴するものを象徴されるものそのものにすること、形成されたもののかたちで純粋言語を言語運動へと取り戻
すこと、それが翻訳のもつ力強い、そして唯一の能力である。純粋言語は、もはや何も意図せず、何も表現しないが、表現を欠いた創造的な言葉となっ
て、あらゆる言語において意図されたものそのものである。この純粋言語のなかで、最終的には、あらゆる伝達、あらゆる意味、そしてあらゆる志向が
一つの層に達する。そこではそれらがすべて消滅すべく定められている。そして、まさにこの層から、翻訳の自由が、新しいより高次の権利を得ると確
信されることになる。」(『ベンヤミン・アンソロジー』105-106頁)
(文中の「象徴するもの」とはいわゆる「音象徴」やオノマトペ(擬音語、擬態文字)がその典型だろう。また「形成されたもののかたち」は文字以前
の〈文字〉である“フィギュール”もしくは生まれたての《文字》の新鮮な“姿”を思わせる。)
ここで先達の議論を援用する。宇波彰氏は『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』において次のように論じている。以下(「哥とクオリア
/ペルソナと哥」第13章の“再利用”)はその概要。
──ベンヤミンはつねに「事実的なものが理論である」というゲーテの教えに忠実であった(ボルツ)。
そのベンヤミンは「翻訳者の課題」で次のように書いている。「いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けら
れたものではないのだ。」ここでベンヤミンは、テクストが受け取るひとのために存在するのではなく、それ自体で価値を持つといっている。このよう
なベンヤミンの思想と深い関係があるのは、彼の純粋言語(reiner
Sprache)の概念である。純粋言語は、「もはや何ものをも意味せず表現しない」(「翻訳者の課題」)。それは意味を持たず、表現もしていない言語で
あるから、もとより伝達の手段ではなく、したがってそれを「解釈」することは最初から不可能である。
純粋言語という考え方には、ヴォーリンガー(『抽象と感情移入』)の影響がある。ヴォーリンガーは、感情移入、つまりミメーシスを原理とする芸
術を否定した。ミメーシスに代わる原理が「抽象」である。それはいかなる「表象」とも断絶した、リーグルのいう「芸術意欲」に基づく芸術の原理で
あった。
ベンヤミンは『ドイツ悲哀劇の根源』で、ヤコブ・ベーメの「永遠のことば、神の響き、神の声」ということばを引用している。「神の声」は表現や
伝達を目標としていない純粋言語であり、人間の堕落以前、バベル以前の「アダム語」である。芸術家はときにこのような「言語以前の言語」を用いた
作品を作る。たとえば、ジジェク(『幻想の感染』)はシューマンの「フモレスケ」について、「声にならない〈内なる声〉にとどまる、声による旋律
線」云々と書き、ラカン解釈のキーワードのひとつである「到達不可能なものとしてのル・レエル」(the
impossible-real)という概念を使って説明している。
地上の人間は「神の声」をなんとか聞こうとする。そのときに考えられる手段が、アレゴリーである。「アレゴリカーの手のなかで、事物はそれ自体
ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、この事物ではないなにかについて語ることになる。」(『ドイツ悲哀劇の根源』)ここでベ
ンヤミンが「事物」(Ding)といっているのは、パースの「対象O」(記号連鎖のプロセスにおいて最初に存在する解釈の対象)であり、「なにか
ほかのもの」といっているのは無限に継起する記号S、S'、S''…である。(そしてベンヤミンの「アレゴリー」とは文字である。)
[*]柿木伸之氏は『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』のなかで、ベンヤミンの「言語一般および人間の言語について」
とウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(1918年完成)が「一つの世界の崩壊を印づける出来事と言うべき第一次世界大戦を目の当たりにしつ
つ書かれたことは、覚えておいてよいことと思われる」(95頁)と書き、以下「ヴィトゲンシュタインとベンヤミン、あるいは像と名」の議論を展開
している。
《このとき二人は、言語が経験から乖離して世界に応える力を失い、それゆえに空虚な記号と化して蔓延っている危機的な状況に立ち向かいながら、世
界に応答しうる言葉の在り処を、言語の本質に求めているのである。ヴィトゲンシュタインが言語を、「語りうるもの」を明晰に表現する「像」と規定
したのに対し、ベンヤミンは、「語りえないもの」に言葉を与え、世界の現実として語り出すような「名」であることのうちに言語の本質を見て取って
いる。さらに、そうして名づけるという言語の根源的な働きは、彼にとっては翻訳にほかならない。言葉を発するとは、翻訳することなのだ。》(『ベ
ンヤミンの言語哲学』101-102頁)
また、中井秀明氏は「ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(2)――ウィトゲンシュタインの中動態」において、ウィトゲンシュタインの「論
理形式」を「アウラ」に見立てている。
《こうしてベンヤミンは、「命題」において「論理形式」が「示される」というウィトゲンシュタイン的事態を、「言語」において「言語的本質」が
「精神的本質」を「語る」という事態に読み替えたのである。あるいは、語ろうとしても同語反復にしかならないもの――「語り得ぬもの」――を、特
定の語り手ぬきに、言語において自動的・自発的・不可避的に「語られてしまうもの」として語った。言語が語るのだと。
「諸言語」は「それらが言おうとしていることにおいて互いに親近的な関係にある」という「翻訳者の使命」の表現で、この「言う(Sagen)」
は、以上見てきたような意味での「語る」の同義語として考えなければならない。つまり、「言語による伝達」ではなく「言語における伝達」の意味
で。「諸言語によって人間が言おうとしていること」の比喩ではなく「言語それ自体が言おうとしていること」の字義で。この「言う」において語るの
は、文字通り言語であって、人間ではない。言語から垂直に浮き上がるアウラとしての「論理形式」について、ベンヤミンは語っているのだ。》
[http://d.hatena.ne.jp/nakaii/20121022/1350885571]
──ウィトゲンシュタイン(1889-1951)とベンヤミン(1892-1940)、この二人の同時代人が言語というフィールドにおいて切り
結ぶ関係は途方もなくスリリングである。私の個人的関心を言えば、そこにハイデガー(1889-1976)を、さらに萩原朔太郎
(1886-1942)や折口信夫(1887-1953)、九鬼周造(1888-1941)といった面々を加えることで、言語と言語による表現を
めぐるある“連関”が見えてくる。
【18】非感性的類似性─読まれない文字を読むこと・続々
ベンヤミンの後期言語論は、前節でその名が挙がった二つの論考、すなわち、ナチス政権成立の前後(ベンヤミンの軌跡に即して言えば、フランス亡
命の前後)に執筆された「類似性の理論」と、その同じ年の夏にスペイン・イビザ島で書かれた「模倣の能力について」に極まります。
例によって、その道の先達、具体的には森田團氏の『ベンヤミン──媒質の哲学』の議論を援用します(以下は、「哥とクオリア/ペルソナと哥」の
第69章および第70章に書いた、なかば備忘録的な“摘要”をもとにしたもの。)
1.根源的産出
・ベンヤミン哲学の核心に「媒質
Medium」をめぐる思考がある。ベンヤミンにとって媒質とは関係する二項(自然と人間、等々)をはじめて根源的に産出する母胎であった[*]。「媒質
を絶対的に、かつ根源的に思考することによってあらわになるのは、媒介者であるものが、逆に媒介するはずの二項を構造的に含み込んでいることにほ
かならない」(16頁)。
2.原ミメーシス
・ベンヤミンは初期言語論において「言語=名(Name)」としての媒質を論じ、後期言語論では「イメージ(Bild)」としての媒質から「言語
(文字)」への変転過程──読むことがイメージを言語へと変転させるプロセス──の解明に取り組んだ。(334頁)
・無意識的なミメーシス、たとえば息子が父に似ていると言われる場合、それは息子が父を模倣することの帰結ではなく、生物学的要因による類似性を
除いても、なおミメーシスの働きを想定することができる。「似ること」の生起のうちで秘かに働いているこのような潜在的なミメーシスを、森田氏は
「原ミメーシス」と呼ぶ。(358-360頁)
・ベンヤミンによれば、線の受容は身体の模倣可能性と深い関連を持つ。このような発想を発展させれば、たとえば自然の音が音‘として’聞き分けら
れるためには、声による模倣が潜在的に前提となっていることになる。おそらく模倣は、根源的には、この〈として
als〉を可能にするような行為、あるいは行為以前の行為なのである。(359頁)
・セザンヌによって描かれたサント・ヴィクトワール山の原像[Urbild]は、セザンヌが‘直観’し、描こうとした対象であるが、実際に存在す
るサント・ヴィクトワール山の‘知覚’に存するものではない。また原像はセザンヌの作品において単純に知覚されるわけでもない。知覚の対象として
の作品には、基本的に原像は見出されることはないからである。(352頁)
この自然を自然として現象させるミメーシス的な出来事、原像を産み出すようなミメーシス的な出来事を、通常のミメーシスから区別するために〈原
ミメーシス Urmimesis〉と呼ぶ。(360頁)
3.非感性的類似性
・ミメーシスと言語(文字)との関係を規定するため、ベンヤミンは「非感性的類似性」の概念を導入する。この「非」はたんなる否定ではなく、感性
に先立ち感性そのものを可能にする「原感性」を指している。そうみなすことで、原ミメーシスを可能にしつつその彼岸に位置する起源の出来事に関係
するものとして「非感性的類似性」を解釈することできる。ベンヤミンのミメーシス概念は、イメージ経験の根柢にある類似性の経験、それも「非感性
的類似性」の経験との連関のうちで究明されねばならない。(372-373頁)
・ベンヤミンは、オノマトペが感性的な類似性によって理解されていることを批判する。語と意味の関係は非感性的類似性の概念によって説明しうるの
であり、しかも音声言語と意味されるものだけでなく、文字のイメージ(文字像[Schriftbild])と意味されるもの、書かれたものと話さ
れたもののあいだにも非感性的な類似性が支配している。(380-381頁)
・ベンヤミンが、「書かれた言葉が…その文字像[書体]と「意味されるもの」との関係を通じて、非感性的類似性の本質を照らし出す」(「模倣の能
力について」)と言うのは、太古(古代・神話に先立つ過去)のイメージ体験を支配する非感性的類似性が、言語能力の行使のたびに何らかのかたちで
働いているからにほかならない。(381-382頁)。
「非感性的類似性は、表意文字的なイメージが文字として固定されることによって、つまり物質的、記号的な基盤を持つことによって、衰弱していくの
ではなく、現象を文字として読むことのうちに、より確固として受け継がれる。」(399頁)
「文字は一定の形態に固定されることで、逆に非感性的類似性が出現する基盤となる。同時に文字は伝達内容の保存に資する道具として用いられ、表意
文字的な次元は抑圧されることになる。にもかかわらず文字は読まれる限り表意文字的なイメージの次元を保持する。読むことにとって必要不可欠なイ
メージは、逆にアルファベットにおいて最小限に還元されたかたちではあれ保存されるわけである。つまり、類似性を見るというミメーシスに源を持つ
能力は、言語能力に変転し、残余なく引き継がれるのだ。」(400頁)
・読むことは忘却されたもの(身体)を想起する試みでもある(401-402頁)
ベンヤミンはミメーシス論の第一稿「類似性の理論」で「魔術的な読み」と「世俗的な読み」の区別を呈示し、第二稿では省かれた「読むことの理
論」を展開している。(406頁)
「たとえば占星術師は星の位置をまず読み取る。天空のイメージは表意文字的なイメージとして受け取られる必要があるのだ。そしてこの表意文字的な
イメージから、ある意味が、すなわち「未来ないし運命」が読み取られる。魔術的な読みにおいては、そのつどイメージを文字と見立てなければならな
いうえ、このイメージを文字として見出す、〈時〉と〈意味〉とは密接に関連している。魔術的な読み方において、意味は文字に堅固につなぎとめられ
てはいない。むしろ意味はつねに過ぎ去るものなのだ。したがって、世俗的な読むこと[アルファベットを読むこと──引用者註]の安定性と引き換え
に失われたのは、意味との一回的な出会いそのものを読むという[魔術的な]読み方である。」(407頁)
・ベンヤミンの後期言語論(ミメーシス論)において、魔術的な読みの可能性の条件として「名」が新たに構想されている。「イメージをそのまま言語
へと反転させる可能性としての名」(413頁)。「イメージの翻訳可能性としての名」(414頁)。
「類似性の閃きが現在において一瞬のうちに過ぎ去るものならば、そして閃きの一瞬が同時に想起の瞬間であるならば、「類似性を見ること」(=イ
メージを見ること)を可能にするのはこの恩寵のような瞬間であるのであり、この瞬間はまたつねにすでに想起でもあるのだろう。そうであるとするな
らば、太古に位置づけられる原ミメーシスと同じ古さを持つものとして名が考えられているとは言えないだろうか。あるいは、「類似性を見ること」
(=イメージを見ること)の可能性そのものを与える瞬間という時間が名であると言ってもいい。
ところで、魔術的な読みは、まさにこの瞬間を再び想起することだとも言えよう。魔術的読みという行為が照準を定めるのは、イメージと意味が出会
う瞬間であるが、まさにこの瞬間──類似性の閃くとき──に、同時に名が、あるいはその可能性が想起される。」(415頁)
・読むことは「未来への想起」であり、そこでのみ名が「贈与」として与えられる。名が生きる時間、それはたんなる瞬間ではなく、「イメージと言語
の出会いの可能性そのものを与え続けている最古の瞬間」なのであり、いわば「イメージの‘名’を保持している瞬間」なのである。
「…この瞬間の古さはイメージの太古、原ミメーシスの太古を指し示すのではなく、太古とともに潜在的に与えられていた未来の絶対的な古さを指して
いると読むべきだろう。(略)読むことが試みるのは、太古における未来、すなわち最古の未来を名において想起することなのである。」(416頁)
[*]媒質による二項の根源的産出をめぐる森田氏の議論を私なりに咀嚼し定式化すると、次のようなものになる。
M(a,b)⇒AmB
※M:根源的媒質(絶対的媒介)
m:媒介
A:自然、感覚、直観、対象、個別、…
B:人間・精神・歴史、思考、悟性、概念、普遍、…
⇒:根源的産出(根源的媒質が消去され、A・Bの二項が自立する出来事)
森田氏のミメーシス論の構図を、「韻律的世界」の第18節から第21節にかけて取りあげた「身分け・言分け」の概念に基づき階層化すると、次の
ようなものになる。
【第一層】
・「身分け」以前の「太古」の世界
・「原ミメーシス」(本文参照)を可能にしつつその彼岸に位置する起源の出来事
=イメージ経験の根底にある「非感性的類似性」の世界
【第二層】マテリアルな帯域
・「身分け」後かつ「言分け」前の「模倣する身体」の世界
・「原ミメーシス」のはたらきによるイメージ(やオノマトペ)の産出(根源的産出1)
=イメージを文字と見立て、意味との一回的な出会いを読む「魔術的な読み」の世界
【第三層】メカニカルな帯域
・「言分け」後の記号としての言語(アルファベット)の世界
・「模倣する身体」によるイメージから言語への変転(根源的産出2)
=意味が堅固につなぎとめられた文字を読む「世俗的な読み」の世界
【第四層】メタフィジカルな帯域
・「言分け」後かつ「身分け」前の「意味」の世界
・第一層から第二層への変転(根源的産出1)を鏡像反転的に反復して導出される世界
=「未来への想起」(本文参照)としての読むことのうちに「名」が贈与として与えらえれる瞬間
【19】存在はコトバである─ベンヤミンから井筒俊彦へ
ベンヤミンの言語論から見えてきたものを一言で括ると、神の語や純粋言語が棲息するメタフィジカルな帯域(実相)と、根源的産出・原ミメーシ
ス・非感性的類似性といった概念がインキュベートされるマテリアルな帯域(実相)との中間地帯に、人間の諸言語が稼働する区画が設えられているこ
と、となるでしょうか。少なくとも私は、そのような関心をもって、謎めいたベンヤミンの秘教的言説に接してきました。
このことを空間的に表現すると、上方(メタフィジカルな帯域=実相)と下方(マテリアルな帯域=実相)を結ぶ垂直軸に直交して、人間の言語の
(“メカニカルな”と形容しておきたい)帯域が水平方向に拓かれる、となるでしょう。少なくとも私の直観するところでは、この水平軸の左方が
「字」の、右方が「声」の固有の領土となります(「韻律的世界」第4節および「仮面的世界」第24節の図参照)。
純粋言語 神の声
[メタフィジカルな帯域]
┃
┃
┃
<根源的産出2>
┃
[字]━━━━━━╋━━━━━━[声]
[メカニカルな帯域]
┃
<根源的産出1>
[マテリアルな帯域]
原ミメーシス 非感性的類似性
さて、ここでベンヤミンの言語哲学を井筒俊彦のそれへと接続し、議論をさらに深めていきたいと思います。まず、根源的産出・原ミメーシス・非感
性的類似性といった話題にかかわる、いわば“下から”のアプローチのもとでの言語をめぐって、『意味の深みへ』(岩波文庫)に収録された「意味分
節理論と空海──真言密教の言語哲学的可能性を探る」から、関連する議論を引用します。(今回と次回、井筒前掲論考から抜き書きした箇所は、先
日、Web評論誌「コーラ」で公開された「哥とクオリア/ペルソナと哥」第76章《http://homepage1.canvas.ne.jp
/sogets-syobo/uta-76.html》で取りあげたものと重複する。)
1.存在はコトバである─経験的次元の問題
井筒はこの論考で、真言密教の言語哲学的思想の中核を、「存在はコトバである」という根源命題の形で提示する(269頁)。そしてこのことを理
論的に、すなわち意味分節理論──「我々が普通、第一次的経験所与として受けとめている「現実」は、本当は我々の意識が、言語的意味分節という第
二次的操作を通じて創り出したものにすぎない」(277頁)──の観点から解明している。
その到達点は、「我々の言語意識の深層に遊動する「意味」が、様々に異なる形、様々に異なる度合において、存在喚起的エネルギーとして働いてい
る」(288頁)領域、つまり「言語アラヤ識」である。
《…表層的シニフィエの底辺部には、広大な深層的シニフィエの領域が伏在している。そればかりではない。言語意識の深層には、まだ一定のシニフィ
アンと結びついていない不定形の、意味可能体の如きものが、星雲のように漂っているのだ。まだ明確な意味をもっていない、形成途次の、不断に形を
変えながら自分の結びつくべきシニフィアンを見出そうとして、いわば八方に触手を伸ばしている潜在的な意味可能体。まさに唯識の深層意識論が説く
「種子[しゅうじ]」、意味の種[たね]だ。既に一定のシニフィアンを得て、表層意識では立派に日常的言語の一単位として活躍しているものと、い
ま言ったような形成途次の流動的意味可能体と、無数の「意味」が深層意識の底に貯えられている。》(『意味の深みへ』286-287頁)
井筒は「深層的意味エネルギー」の問題に関連して、「シニフィアンとシニフィエとの間に、時として著しい形で看取される不均衡性」に言及し、
「本論のこの個所で、いま問題になるのは、…シニフィエの側に起こる異常事態、すなわち、人がよく、コトバの意味的側面に感知する底知れぬ深淵の
ごときもの[例:ヌミノーゼ]のことである」と述べている。
2.存在はコトバである─異次元のコトバのレベル
シニフィエの側に起こることはシニフィアンの側にも起こる。かくして、議論は日常言語のレベル、すなわち経験的次元を超えていく。
《本稿の主要テーマにとって、より重要なことがある。それは、コトバの存在喚起エネルギーが、通常の経験的次元だけの問題ではなくて、実は、言語
意識の表層と深層とをともに含む全体を、さらに超えた異次元のコトバのレベルにまで遡及していく、ということである。少なくとも真言密教や、それ
に類する他の東洋的言語哲学はそう主張する。》(『意味の深みへ』288頁)
以下、異次元のコトバの「宇宙的スケールの創造力、全宇宙にひろがる存在エネルギーのようなもの」(289頁)をめぐる議論がつづくのだが、こ
こでは、まず空海の『声字実相義』について述べられた文章を引く。
2-1.真言密教の言語哲学─『声字実相義』
《無限にひろがった宇宙空間、虚空、を貫いて、色もなく音もない風が吹き渡る。天籟。この天の風が、しかし、ひとたび地上の深い森に吹きつける
と、木々はたちまちざわめき立ち、いたるところに「声」が起こる。
この太古の森のなかには、幹の太さ百抱えもある大木があり、その幹や枝には形を異にする無数の穴があって、そこに風が当ると、すべての穴がそれ
ぞれ違う音を出す。岩を噛[か]む激流の音、浅瀬のせせらぎ、空にとどろく雷鳴、飛ぶ矢の音、泣きわめく声、怒りの声、悲しみの声、喜びの声。穴
の大きさと形によって、発する音は様々だが、それらすべての音が、みな、それ自体ではまったく音のない天の風によって呼び起こされたものである、
という。
『荘子』全篇のなかでも、その文学性の高さにおいて屈指の一節、これを読んで、空海の著作中のいくつかの個所を憶い出すのは、私だけではないだ
ろう。》(『意味の深みへ』290頁)
(仮面もしくは仮面的なものをめぐる私の「理論」によると、ここに描かれた無数の穴を持ち、声(地籟?)を発するものは仮面の原初形態もしくは原
器的なものなのだが、それはここでは措くことにして)、井筒はここで『声字実相義』の「内外の風気、わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声とい
うなり」を挙げ、つづけて「五大にみな響あり、十界に言語を具す」を引いている。
《地・水・火・風・空の五大、五つの根源的存在構成要素は、普通は純粋に物質世界を作りなす物質的原資と考えられているのであるが、それが、実
は、それぞれ独自の響を発し、声を出しているのだ、という。すなわち、空海によれば、すべてが大日如来のコトバなのであって、仏の世界から地獄の
どん底まで、十界、あらゆる存在世界はコトバを語っている、ということになる。》(『意味の深みへ』290-291頁)
【20】文字神秘主義─ベンヤミンから井筒俊彦へ・続
前回に続き、ベンヤミンの言語哲学の前段部分、純粋言語や神の声といった概念にかかわる、いわば“上から”のアプローチのもとでの言語をめぐっ
て、井筒俊彦の「意味分節理論と空海」から、ファズル・ッ・ラーの文字神秘主義的世界像をめぐる議論を引用します。
2-2.ファズル・ッ・ラーの文字神秘主義的世界像
《ファズル・ッ・ラーによれば、力動的に働いてやまぬ四元素が触れ合い、ぶつかり合うとき、その衝撃で響を発する。響は、すなわち、四元素の
「声」であるという。四元素が、動いても互いにぶつかり合わなければ、「声」は発出しない。と、いうことは、ただ「声」が実際に我々の耳には聞こ
えないということにすぎないのであって、実は元素間に衝突が起こらなくとも、「声」はいつでも現に起こっている。この万物の響、万物の「声」こ
そ、ほかならぬ神のコトバなのである、と。(略)この「声」の究極的源泉を、空海のように大日如来と呼んでも、ファズル・ッ・ラーのように神
[アッラー]と呼んでも、もうここまで来れば、まったく同じことだ。とにかく、ファズル・ッ・ラーにとっては、‘いわゆる’物質は、実はすべて神
の声であり、神のコトバなのである。》(『意味の深みへ』295-296頁)
この不可視、不可触の、人間にとっては無にひとしい神(宇宙的存在エネルギー)は、その(①無記無相のコトバ→②根源アルファベット→③文字結
合(万物の「声」)へと段階的に進む)「自己顕現の位層」において、その本体であるコトバ性を露呈する(297頁)。
《神が、わずかに、自己顕現的に動くとき、そこにコトバが現われる。但し、コトバとはいっても、神の自己顕現のこの初段階では、我々が知っている
ような普通のコトバではない。一種の根源言語、つまりまだなんの限定も受けていない、まったく無記的なコトバ、無相のコトバ。それが、次の第二段
で、はじめてアラビア文字、三十二個のアルファベットに分岐する。(アラビア語本来のアルファベットは二十八文字だが、ペルシャ語に入ると四文字
加わって、三十二文字となるのである。)もっとも、そのアラビア文字も、この段階では、まだ純粋に神的事態であり、神の内部に現われる根源文字な
のであって、人間はこれを目で見ることはできないし、その字音は人間の耳には聞えない。人間の耳に聞えないままに、このアルファベットは全宇宙に
遍満し、あらゆる存在者の存在の第一現類として機能する。
ところで、この宇宙的根源アルファベットは、それ自体では、まだなんの意味も表わさない、つまり、無意味である。無意味であるということは、具
体的存在性のレベルには達していないということだ。有意味的なもののみが存在であり得るのだから。コトバが有意味的であるためには、なんらかの
‘もの’の名でなくてはならない。「声発[おこ]って虚[むな]しからず、必ず物の名を表わすを号して字というなり」という空海の言葉が憶い合わ
される。
そのようなことが起こるのは、根源的アルファベットの段階ではなくて、次の段階、すなわち、アルファベットの組合せの段階である。(略)…この
段階で、文字はいろいろに組み合わされ、結合して語(あるいは名)となり、それによって意味が現われ、意味は、それぞれ己れに応じた‘もの’の姿
を、存在的に喚起する…。(略)根源アルファベットの段階では、未分の流動的存在エネルギーであったものが、文字結合の段階では、その流れのとこ
ろどころに特にエネルギーの集中する個所が出来て、仮の結節を作る。その結節の一つ一つが‘もの’として現象する、というのだ。
こうしてファズル・ッ・ラーの文字神秘主義的世界像においては、すべては文字であり、文字の組合せである。この広い世界、隅から隅まで、どこを
見ても、人はただアラビア文字アルファベットの様々な組合せを見る。それ以外には何もない。存在世界は一つの巨大な神的エクリチュールの拡がりな
のである。》(『意味の深みへ』297-299頁)
3.総括
空海の言語哲学とファズル・ッ・ラーの文字神秘主義をめぐる井筒俊彦の議論を(やや強引に)前節の図のなかに落としこんでみる。
神のコトバ 神の声
[メタフィジカルな帯域]
┃
無記無相のコトバ┃
根源アルファベット┃
文字結合(万物の声)┃
┃
[字]━━━━━━╋━━━━━━[声]
文字言語 ┃ 音声言語
[メカニカルな帯域]
┃ 字(音素)
┃ 声
┃響
[マテリアルな帯域]
風
図中に「字(音素)」とあるのは、竹村牧男著『空海の言語哲学──『声字実相義』を読む』の解説に基づいている。『声字実相義』「釈名」の一節
「此の十界所有の言語、皆な声に由って起こる。声に長短高下音韻屈曲有り。此れを文[もん]と名づく。文は名字に由る。名字は文を待つ。故に諸の
訓釈者、文即字と云うは、蓋し其の不離相待を取るのみ。此れすなわち内声の文字なり。」をめぐって、竹村氏は次のように解説している。
《ここにも、言語は音が所依であり、その「長短高下音韻屈曲」が文(音素。母音・子音)であるとある。それ(文)は「名字に由る」とあるが、一
方、「名字は文を待つ」とあるように、言語は音の「あや」としての母音・子音に基づくものであることを述べているであろう。ここではまだ、字は音
ではない視覚の対象(色境)の文字をも意味するとは考えられていない。字も音としての母音・子音であって、文と字とは、要は同じものの別の名前と
見るべきものである。そこで訓釈者は、「文即字」と言っているわけである…。ここで空海は特に「内声の文字」と言っていて、個体(衆生等の身心)
が発する音声の母音・子音のことであると言っていることにも注意を要する。》(『空海の言語哲学』50頁)
【21】メカニカル=メトリカル・ライン、錯綜体=透過的身体
前々節と前節で、その場の思いつきのようなかたちで導入した、人間の言語の「メカニカル」な帯域の意義をめぐって、自分自身のための覚え書きを
残しておきます。
この概念、というより語彙を選んだ背景には、吉本隆明「固有時との対話」の「メカニカルに組成されたわたしの感覚」云々の詩句に触発されたこ
と、そして古代ギリシャ劇の「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」や、歌舞伎舞踊における「人形振り」という語がもたらすイメージに刺激
を受けたことがありますが、より直接的には、「仮面的世界」の第17節で和辻哲郎の『歌舞伎と操り浄瑠璃』を取りあげた際、坂部恵著『和辻哲郎』
の議論を踏まえて述べた(自己引用した)事柄が念頭にあります(「哥くクオリア/ペルソナと哥」第81章第4節「能楽と操り浄瑠璃と歌舞伎─やま
とことばのメカニカルな展開」参照)。
すなわち、浄瑠璃劇の舞台上に作り出される「現実よりも強い存在を持ったもの」(和辻哲郎)とは、「はじまりの言語」の記憶をフィギュールとし
て保持する“やまとことば”のメカニカルな展開がもたらす憑依=表意(意味の受肉)の体験そのものなのではないか。あるいは、これを言い換える
と、舞台上の“人形(=仮面)”のメカニカルな動きは、「脱我的な憑依体験」をかたどるフィギュール(文字)なのであって、すべては舞台上の外面
的な関係性の中のメカニカルな“おもて”の出来事であり、そこには“うら”(心)はない。
(念のために注記しておくと、ここで言う“やまとことば”や“人形(=仮面)”は、固有の歴史性を帯びた実在の物・現象であると同時に、より普遍
的なもの、つまり「はじまりの言語」の記憶や「脱我的な憑依体験」のかたちを保持する“フィギュール”として捉えられている。)
言葉遊びのようですが、私は、今述べた意味での「メカニカル」な動きが展開される帯域のことを、かつて「韻律的世界」の第15節の註で導入し、
第18節から第21節において複線化していった「メトリカル・ライン」──「生命界」を横断し、知覚(今ある現実)と想起・想像(様々な可能性)
をつなぐ「身体のライン」にして「リアリティ」の水平軸、「日常言語(‘うつつ’の言語)」の可動域──と重なりあうものと考えています。
メカニカル=メトリカルなラインは、歌謡、舞踊、演劇、芸能、祭祀、儀礼の帯域でもあります[*1]。
ここで引用しておきたいのが、養老孟司氏が「まさに古今東西にわたって、歌謡、芸術の起原を探求し、現在に至るまでを描く驚くべき書物」と推薦
の言葉を綴った、武田梵声著『野生の声音──人はなぜ歌い、踊るのか』の議論です。帯に記されたこの賛辞と、カバーのそでに印刷された「旧石器時
代、人類はみな、野生の芸能者であった。自在に歌い、語り、舞い、踊り、演じる力を持っていた──。」というコピーが、この書物の“本質”のよう
なものを語っています。が、すべてではない。細部に宿る息遣いを聴き取ってこそ、この書物の“精髄”に迫れるというものです。
採取しておきたい多くの言葉のうち、第4章「原初の歌唱芸能の姿を探る」から、次の一節を引いておきます。
《「文字」の発生が人の声や芸能に、多大な影響を与えたことは間違いない。しかし、ここではさらに過去にさかのぼり、分節言語の発生が原初の歌や
芸能に与えた影響を考えてみたい。(略)
…この分節言語発生以前には何があったか。それは「歌」である。…少なくとも分節言語と文字の発明の中で、徐々に「歌の喪失」が起きたことは間
違いないだろう。「言葉」を得ることにとよって、それまで人類が当たり前のように享受していた「歌」の力=神の声の喪失が始まったということだ。
発声の技法という点でも、分節言語は我々の「喉」が持つ可能性の、ほんの一部しか使わないことは明確となっている。その後、さらに文字言語が発
生することによって、それまで当たり前のように行われていた口承伝承も減少し、脳における声の原初的なネットワークの発達が抑圧されていったと考
えられる。(略)
誤解のないように補足しておくと、ここでいう「神の声」というのは、あくまでも脳内に鳴り響くいわゆる内部音であり、いわゆる狭義の歌、狭義の
原初の歌とは別のものである。しかし、内部音や神の声は原初の歌と感応しあうものと考えられる。
シャーマンが内的体験により精霊から習うとされるパワーソングなどの例から考えても、この内部音と原初の歌唱の能力との関係は極めて密接なもの
と考えられる。この内部音、もしくは内部音的なもののイメージが人類の歌唱能力を高め、倍音をたっぷりと含んだ声の語りや歌唱がまた内的音響を増
強するという感応しあう相互関係であったのだ。これがある段階まで、ほとんどの人類が当たり前に体験し、それがある段階で失われたのだとしたら、
ここでの仮象能力の喪失も極めて大きいものであったはずである。
分節言語の獲得と後の文字の発明によって、人類から原初的な歌の力は消え、「神の声」もまた沈黙したのである。》(『野生の音声』
102-105頁)
これだけだと、ここではなく「韻律的世界」で論じられるべき問題圏域にとどまるので、いまひとつ、身体性もしくは形象性により強くかかわる話題
を引きます。
第9章「アルトーと未来的祝祭演劇」において、武田氏はポール・ヴァレリーの「錯綜体(implexe)」の概念──「まず、自分が実感してい
る第一身体。他者から見た私の身体である第二身体。客観的、解剖学的、生理学的な身体である第三身体。そして、それら以外のあらゆる身体感覚のレ
ベルを内在した第四身体[=錯綜体]」(245頁)──を取りあげ、これを、たとえば折口信夫の「透過的身体性」[*2]、さらには武術的な身体
観に関係づけています。
《実は、こうした錯綜体の概念と通ずる捉え方は、古今東西の身体論にも、見出すことができる。禅竹の六輪一露論やアルトーの精神のアスリート論な
どがそうだ。近代では、和辻哲郎が、古代日本人の身体感覚は心=身体=自然が不可分な一体性を持っていたと指摘している。和辻は上代歌謡の分析か
らそのような身体感覚を導き出したわけだが、これは旧石器時代の思考法であり、身体感覚であると言われる浸透概念や流動概念とも重なるものだ。あ
るいは、中国における体内神の実感やその瞑想技法である存思[そんし]とも重なる。
折口信夫もまた、内外の境界が、生理的な皮膚ではなく、身体感覚的に拡張されたり縮小されたりするような身体感覚、すなわち透過的身体性を持っ
ていたと言われている。こうした身体感覚はこれまでにも空手家であり武道研究者であった南郷継正や、ゾーン・フロー理論で研究されてきたものに通
じている。(略)
錯綜体、あるいは透過的身体性というのは、武術の分野において特に重視され、研究されてきた概念だ。植芝盛平が到達した、敵と自分との境界線が
なくなり、あるいは溶け合っていく黄金体、すなわち武産合気[たけむすあいき]の境地も、こうした身体観に連なるものであろう。古柔術である竹内
三統流を基礎に持つ木村正彦の「透明な肉体」の境地も、またこれに類似するものである。
身体性という観点に立つと、武術と民俗芸能の間に共通点が多い。それも当然で、折口信夫が言うように、もともと武術と芸能は一つのものなの
だ。》(『野生の音声』246-248頁)
折口信夫の身体感覚は「まれびと」のそれに通じているはずです。そして、透過的身体は、“フィギュール”が持つ透明な(精霊的・幽霊的な?)肉
体に連なるものにほかならないでしょう。
[*1]メカニカル=メトリカルなラインは、「仮面的世界」の第34節で、ケネス・バークの「五つの鍵語」をもとに作図した劇的表現の「ペンタッ
ド」における水平線に対応している。
【舞】━━━━【面】━━━━【聲】
「聲(agent)=哥」の形が 「舞(act)=文字」である。あるいは哥の姿が可視化され、文字すなわち「動きつつある形」(大石昌史)と
なったのが舞である。また聲が舞に成るためには、聲はなんらかの「面[オモテ](agency)=身」を装着しなければならない。
[*2]津城寛文氏の論考「折口信夫の鎮魂論──研究史的位相と歌人の身体感覚」によると、「透過的身体境界」とは「霊魂の容器である人体・物体
がそうした「魂」の出入を防げ得ない状態」をさしている。
【22】はじまりの言葉、図象──白川文字学1
安藤礼二氏は『井筒俊彦 起源の哲学』で、次のように書いています。
「本居宣長に始まり平田篤胤を経て折口信夫に至る、そうした聖なる書物の解釈学の系譜は、折口で閉ざされてしまったわけではない。近世から近代に
かけて形づくられた極東の解釈学を現代に、さらには世界に開く。「憑依」を根幹に据えた折口信夫の「批評」を最も創造的に引き継ぎ、列島に固有の
解釈学を世界に普遍の解釈学へと磨き上げて行った者こそ井筒俊彦であったはずだ。(略)
折口も井筒も、「憑依」によって自他の区別が消滅し、森羅万象あらゆるものが一つに混じり合う地平にあらわれるものを、現実と超現実、内在と超
越を一つに結び合わせる「始まり」の言葉として捉えた。その「始まり」の言葉は、生命の種子にして意味の種子のようなものでもあった。そこから精
神的なものも物質的なものも、ともに産出される。なかば精神的でありなかば物質的でもあるような「意味」の萌芽。折口にとって森羅万象あらゆるも
のの源泉となる霊魂とは、そのようなものであったはずだ…。」(215-216頁)
はじまりの言葉がそこにおいて「発生」(発芽)する「地平」とは、前節で述べたメカニカル=メトリカルなラインにほかなりません。そして、そこ
からあらわれるものこそ、マテリアルな帯域とメタフィジカルな帯域の中間地帯にあってこれらを媒介する“フィギュール”そのもです。以下、この
「精霊的なもの」(霊魂)をめぐって、折口信夫の系譜に属するもう一人の“巨人”の発言を引いておきたいと思います。
詩経や万葉集に関する白川静の著書を読むと、その文学観に、白川が青年期から読んでいた折口信夫の『古代研究』の影響が濃厚に認められる。──
『折口信夫的思考』の第2章「白川静と万葉集」で、上野誠氏はそう書いています(102頁)。
いわく、折口の文学史観は「言葉の呪能」から説き起こされ、「神と交流するための言葉の形式」こそが歌謡であるとするものだが、白川もまた『詩
経──中国の古代歌謡』において次のように述べている。「歌謡は神にはたらきかけ、神に祈ることばに起源している。そのころ、人びとはなお自由に
神と交通することができた。そして神との間を媒介するものとして、ことばのもつ呪能が信じられていたのである。ことだまの信仰はそういう時代に生
まれた。」(中公文庫、30頁)
以下、白川静の文字学からいくつか話題を切り出し、その言葉を採集します。まず、『文字講話Ⅰ』の第一話「文字以前」から。
《そこで、漢字がどのようにして生まれてくるかというようなことを、一つの基盤になるような事実をお話しして、文字以前にあった状態、状況を理解
していただきたいと思うのであります。それで、〖資料9〗に移ります。
少し話をとばしますけれども、私は〔殷の基礎社会〕(〔白川静著作集〕第四巻所収)という論文を一九五一年に書きました。今では大そう昔のこと
になります。半世紀近くも昔に書きましたものですが、そのときの図版の一部を用いました。この〖資料9〗はaとbに分かれています。何かわけのわ
からないような形、絵のようで、しかし絵ではない、また記号のようで、しかし記号でもない、何かの実態を示しているらしいのですが、その実態のわ
からないものがある。そういう不思議な形のものが多いのですね。内容を特定できず、記号と呼ぶわけにもいきませんので、私はこれを「図象[ずしょ
う]」と呼んでおるんです。図であるけれど、単なる図ではなく、そこには何らかの意味が寄せられている、象徴的な意味をもった記号であるというこ
とで、私は「図象」と呼んでいます。》(『文字講話Ⅰ』42-43頁)
蛇足ながら、白川静が言う「図象」は、(読まれる「文字」にかなり接近した)“フィギュール”の訳語の一つであると考えていい。
【23】文字の世界、霊的世界──白川文字学2
前節につづき、白川静の言葉を採集します。以下は、『桂東雑記Ⅱ』に収録された、石牟礼道子との対談「日本語とは──「ことば」と「文字」をめ
ぐって」からの切り抜きです。
《文字が生まれるまでに、まず神話的な世界というものがありまして、この神話的な世界に対してどのように参加するか、単に物語として語り伝えると
いうだけでなしに、神話的な表象というようなものを形で示すことができないか、というので、実際はちょっと絵のような、われわれは普通それを神話
文字というているのですが、神様に対してだけ通ずるという、そういうものをまず作るのです。これは一つの図象みたいなものです。文字よりちょっと
以前のものです。ところがそれを文章化して、神様になんとか聞き届けてほしい、見ていただきたいというようになりますと、はじめて文字ができる。
これは神に対するものですから、はじめから神聖文字です。いわゆるエジプトのヒエログリフですね。だから文字が生まれるまでには、長い間の、そう
いう一つの願望があって、はじめて文字として結晶されるわけですから、できあがった時にもうすでに完成されておるのです。ぼちぼちできてくるとい
うんではない。長い間のそういう人類の願望といいますか、神聖王ですね。王様といっても神様と同列ぐらいの自覚があって王朝ができるわけですか
ら、そういう神聖王が神と直接に交流したいという、そういう観念があって、はじめて文字が形象化される。だから一番はじめに生まれた文字は、どこ
の国でも神聖文字です。民間で使うようなものではない。神様に自分の意思を伝える、神様と交通する手段であるという、そういう性格のものとして文
字が生まれてくるわけです。》(『桂東雑記Ⅱ』224-225頁)
ここで語られた「文章化=形象化」、すなわち、神話的表象を形で示す「文字よりちょっと以前のもの」──神話文字、図象、あるいは文様、縄文、
螺旋、市松模様、等々の“フィギュール”の最終形態──から、神との交通手段としての文字が形象化(結晶化)され、生まれ出てくるプロセスを通じ
て、文字以前の神話的世界における人間の生活そのものが、文字の世界の中に「呪的な世界の出来事」として入ってくる。それを、白川静は「霊」とい
う語彙を使って表現しています。
《霊というものは、われわれと離れてあるのではなくて、われわれもいずれはその霊の世界に入っていくことができる。そういうふうな彼我を包んだ、
両方を包んだものとして霊の世界があるわけです。だから古い時代のいろいろなものは、すべて霊とどう交渉するか、霊にどのように関与するか、霊を
どのように与え、受けとるかという、こういう関係において成り立つ。文字の世界はほとんどそういう基本の観念をもっていますから、それで文字の中
にはそういう呪的な世界の生活のあり方というものが、全部入ってくるわけです。文字は単なる形骸という、ある時期の観念の形骸というのではなく
て、その時代までの人間の生活の全部が、そういう呪的な世界の出来事として入ってくるわけです。》(227頁)
ここで白川静は、幸田露伴の「音幻論」に言及します
《ことばというものは、…本来、感性的なものです。たとえば、寂しい時にサ行音を使う。何か寂しい、沈静な感じの時には、だいたいサ行音を使う。
『万葉』では、
ささの葉はみ山もさやに亂[さ]やげども吾は妹おもふ別れ來ぬれば
ああいうふうなサ行音が重なるという、あの発想の仕方は、やはりサ行音が一種の寂寥感をもつということですね。たとえば、藤村の詩でもあるで
しょう。「千曲川 旅情の歌」に「雲白く遊子悲しむ」というように、ああいうふうな句にサ行音が多くなる。そういうふうにサアッと何か通りすぎる
という場合に、風、嵐、東風というふうに、ゼ、シ、チというような、ああいうふうなサ行とタ行が混じったような音、あれは風の摩擦音でないかと思
う。
幸田露伴が『音幻論』を書いて、そういうふうな近似音が同義語の中に多いという場合の、いわば根源的な発見として、音が感情をもつという議論を
している。ところがこれは、どこの国でもみなあるので、日本でも鈴木朖[あきら]という江戸の中期の国語学者が、『雅語音声考』であったと思う
が、雅語の音声、これの中に音が感情をもつという議論をしています。(略)そういうふうなものは、漢字の場合にもいえる。(略)そういう言語発生
論からいうと、ある種の音形はある種の意味内容をもつという一つの結論が出せる。ことばというものはそこから出てきとるわけです。》
(238-239頁)
白川静が「ことばというものはそこから出てきとるわけです」と言う「そこ」において、音と形、声と文字の素になるものは一致します。それを私は
“フィギュール”の概念でおさえ、霊的な存在として捉えてきたわけです。
しかし、これではいつまで経っても、文字以前の世界に足踏みするだけで終わってしまいます。言語が生まれる前の世界を言語を使って語ることが
“倒錯的”であるとしたら、文字以前の世界を文字を使って示すことは、“我思う”前に“我あり”と言明するような、不可思議の論理[*]を駆使し
ないと叶わないのではないか、そんな気がしてなりません。
[*]窮理舎のホームページに掲載された「哲学することの始まり――梅園と露伴へ通じる論理学」《https://kyuurisha.com
/philosophical-logic/》は、「条理」という三浦梅園が生み出した「日本人独自の論理思想」を取りあげている。
「例えば、上に挙げた形式論理[経験によって得られる個別の内容ではなく、論証の形式に注目する論理]と似たような例でいうと、自然界には「気」
が満ちているが、「気」を語るには必ず「物」をもって来なければならず、「気」は「物」と対立して初めて意味のあるものとなる、といったように、
梅園の論理思想には対立概念が全体を貫いています。「反観合一」という梅園の思想もこれに基づくものです。」
梅園の思想の中核ともなる「対立」や「矛盾」の概念には否定の論理が含まれているが、この否定の論理には、「ではない」と言ったとたんに「な
い」ものが現れ、否定することでそこにないものを見てとることができる、という「不思議なもの」がある。──以下、全文抜粋。
……この否定の不思議を追求した例として、幸田露伴の『血紅星』という面白い作品があるので、ちょっと紹介して結びとしたいと思います。この作
品に登場する主人公は、皆非居士という万巻の書を読み尽くしたが故に全ての欠点が目にとまり、知らずのうちに「皆どれも非ず」の世界に没入してし
まった男の、悲劇というか喜劇というか、まさに矛盾した世界観を表現した小説になっています。
例えば、その冒頭。
一も非なり二も非なり、三も非なれば四も非なり、五六七八九十、乃至百千万億悉皆非なり、昨日は素より非今日も又非昨日は又々非に極まったり、何
かは知らず生れ出でしがそもそもの非、・・・・
といった具合に、漢文調でテンポよく、お経のように綿々とこの「非」の調子が続いていきます。ある日、この皆非居士に月界から美しい仙女がやって
来て、月宮殿の姫宮が、万巻の書を読み尽くしたという皆非居士に会い、一篇の詩がほしいという。皆非は、自分の我が儘をきいてもらうのと引き替え
に月世界へいきます。美酒に酔い、贅を尽くす中、皆非は、姫君の好きな題で詩を吟じてみせようと話すと、姫君は「皆非先生御自身を題にして御筆揮
ふていただきたし」と優しい声で囁くや否や、
熱血霧となって八万四千の毛孔より飛び、黒烟頭上におこって奥歯の軋る音烈しく、見る見る眼は輝き渡り五体に火焔の燃え立つ途端、あっと一声叫ぶ
刹那、身を躍らすこと八万由旬、血紅の光りを放つ怪星となって流れおつる無辺際空
と、まるで超新星爆発のようなカタストロフが起き、皆非居士は血紅星となって消えていった、という結末で終わります。
すべてを否定することで、すべてを包含する空なる星と化していった、という露伴らしい作品世界が描かれています。梅園の世界とも重なる皆非の世
界。論理学と通じていることは面白いことだと思います。
¬ (∀x) P(x) ∈ ∅ ……
【24】最初のシンギュラリティ─『あわいの力』から
文字以前の世界をめぐって、今回は、能楽師にして古代文字研究家──あるいは、「柳田國男、白川静の学統を継」ぐ「世にもまれな『死語』の使い
手」(『あわいの時代の『論語』──ヒューマン2.0』に寄せた内田樹氏の推薦文から)──である安田登師の議論を援用します。(『白川静読本』
に収録された安田登の言葉に、白川文字学を通して古典を読み直すと、嬉しくて嬉しくて踊りだしたくなる、とある。)
取りあげるテキストは、『あわいの力──「心の時代」の次を生きる』です。数ある安田本のなかでも、その深度(震度=振動)において一、二を争
う傑作だと、読み返してみてあらためてそう思いました。以下、文字的世界にかかわる話題と、それに関連して日本語の特徴について言及された箇所を
切り出します。
1.文字から生まれたもの─心、時間、記憶、不安、論理、信仰
◎紀元前1300年前頃、中国で生まれた文字(漢字の祖先にあたる甲骨文字あるいは金文)には「心」に相当する語がなかった。文字以前の人間は身
体感覚(内臓感覚)で生きていたが、文字を使い始めたことで脳で思考することが増え、それによって心が肥大化していった。「心」という文字が確認
できるのは紀元前1000年前頃のことである。(はじめに)
◎文字から生まれた「心」によって、過去から現在、未来へ直線的に進む時間という観念や、それに伴う時制が生み出された。(40頁)
◎「心」による抽象的な思考が加速度的に発達し、やがて純粋数字を考え出す。これが西洋では「論理」に、東洋・日本では「情緒」に発展した。その
違いは、直線的な時間観念にもとづいた時制を持つ西洋の言語と、時制のあいまいな日本語という違いにおいてもあらわれている。(95頁)
◎時間がなければ「記憶」もない。(124頁)
「心」によって時間の流れを感知することはできても、それをコントロールすることはできない。その結果、人間は過去に対する後悔や悲しみ、未来
への不安や恐怖を感じるようになった。それが「心」がもたらした副作用である。(130頁)
◎「信じる」という行為も文字によって生まれた。「文字は何かをあらわす」という信仰がその存在基盤だからである。「心」とのつきあいに苦しむ人
たちのためにさまざまな教えを説いた孔子や釈迦やイエスの思想は、時間と信仰が基盤になっている。(131頁)
「「文字」を獲得した人類が、思考や言語を二次元で表現・記録することができるようになった。それによって過去という時間を目で見ることができる
ようになり、時間の流れを間接的に感じとることができるようになったのです。
つまり、「文字」が「心」を生み、「時間」をつくり出し、「時間」を知った人類が感じるようになった不安と向き合うために、孔子や釈迦やイエス
の思想が生まれたのです。」(133頁)
2.日本語の特徴─歌のための言語
◎「時制のあいまいさ」が日本語のひとつの特徴である。能において、ワキが生きる「この世」の順行する時間と「あの世」から来るシテの遡行する時
間が交わり、シテとワキの会話が徐々に盛り上がっていき、やがて地謡(コーラス)に引き継がれたとき、二つの時間が混然一体となる。「いまここ」
が昔になる「いまは昔」の現象が生じ、時制が消滅する。(40-41頁)
◎また、動詞の連用形が名詞になるという日本語の特徴は、日本語を「歌のための言語」[*1]と考えれば納得がいく。「分く」が「ワキ」に、「こ
ふ」が「こひ」に、すなわち、不安定でいまにも動き出しそうな動的な雰囲気がまとわりついた名詞になる。
連用形だけでなく、日本語そのものが終止を嫌う言語であり、いまと昔、あちらとこちらを動き回ろうとする動的な言語、呪術的でもあり身体的でも
ある言語なのである[*2]。(43頁)
◎文字は「これ」と「あれ」を区別する。境界を分明にしなければならない。日本人が文字を必要としなかったのは、それが「あいまいな境界」をもつ
日本人の心性に合わず、文字というものを信用していなかったからである。(189-190頁)
「…その根底には音声としての言葉に呪術的な力を感じていた、そういうこともあるでしょう。言葉に霊魂が宿るという感覚は、「言霊」ということば
にあらわれています。「言霊」ということば自体は『万葉集』にちょっとだけ使われているだけで、いまのような使われ方はじつはかなり新しいのです
が、それでも日本人は「生の言葉」に呪術的な力を感じていたようです。
それは文字に精霊の存在を感じていた、アッシリアの老博士を描く中島敦の「文字禍」のそれと対照的です。」(192頁)
──安田師が説く文字論や日本語論が、はたしていかほどの「実証性」を持つのか、私には判断できません。しかし、文字の発明という出来事の画期
性(安田師はこれを人類にとっての最初の、あるいは先のシンギュラリティと呼んでいる)を考えるとき、これくらいのスケールをもった仮説を立てて
臨まないと、事の真相に迫れないことは間違いないと思います。
[*1]私の個人的関心事にかかわることなので、関連する議論をもう少し抽出しておく。
◎文字の必要性を感じなかった日本人は「見立てる」力に優れた民族だった。能において「あそこに森がある」と指でさし示すとそこに森が出現する。
そこには「生の言葉」による詞章もともなう。そこにないものを存在させるという呪術的な「見立て」の行為が行われ、実際になにものかが出現するの
である。(192-193頁)
◎人類が「見えないものを見る」ために重宝してきたものが「歌」である。「歌」には目の前に幻影をありありと浮かび上がらせる呪術的な力がある。
日本人が「見立て」の能力に長けていたのは、「歌」と身近に接し続けてきたことにあらわれている。たとえば萩原朔太郎は、中学、高校の国語の先生
は授業で教科書を読むのではなく歌っていたということを語っている。(197-198頁)
◎能の「ふり」の本質は「歌」と同じく身体の動作を伴う「振動」にある。「歌」は(「訴える」と同様)「打つ」を語源にするといわれる。すなわち
「歌」の本質は空気の「振動」で他者に触れ、その人のなかにある何かを揺り動かし、その何かを目の前に出現させる。それは型としての「ふり」も同
じである。(204-205頁)
上記以外にも、日本の「心」の三層構造──「しん/おもひ/こころ」(30頁)──をめぐる議論や、西洋音楽における「リズムとメロディ」が能
の「拍子と節」に対応し(86頁)──「未来を決めるリズム」と「今を刻む拍子」(106頁)──、ワグナーの「ライトモチーフ」が能の謡の「掛
詞」に対応する──無意識の心(おもひ)を情景として表現する(98頁)──など、安田師の繰り出す話題は奔放にして深甚である。
付記。本文の最後の引用文で安田師が述べている、日本人は「生の言葉」(文字ではなく声)に呪術的な力を感じていたようだという指摘は、いずれ
取りあげる(西洋、日本に相通ずる)「音声中心主義」の問題とは別問題である。
[*2]これにつづけて著者は、漱石の『草枕』から「小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと
開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」という語り手の言葉を引き、「ミュートス(筋)」を重視するヨーロッパの物語に対して「日
本の物語は筋ではなく、読んでいる「いま」、聞いている「いま」こが大切なんですね」(44頁)と結んでいる。
漱石が言ってることは、私の語彙では、小説は「リアリティ」ではなく「アクチュアリティ」にかかわる言語表現である、となる。このことは、次回
取りあげる永井均の「独在性」の概念にかかわる。
付記。安田師が言うところの日本語の特徴(動的・呪術的・身体的言語)もしくは日本の物語の特徴(筋ではなく読み聞いている「いま」が大切)
は、これまで私が文字以前の〈文字〉として捉えてきた“フィギュール”(精確には、文字成立以後に間歇的にあらわれる“フィギュール”)のそれに
等しい。(さらに付言すると、私がかねてから抱いてきた「やまとことば=ネオテニー説」なるものの“論拠”が、ここにある。)
【25】独在性と文字─永井均の議論に即して
本稿の第2節で、次のように書きました。「この安田説に加えて、私は、クオリアや共感覚やアウラやヌミノーゼといった“非言語的”ないし“超言
語的”な体験も、そして、もしかすると永井(均)哲学における〈私〉や〈今〉といった「独在的存在」もまた、文字発明というシンギュラリティの産
物なのかもしれないと考え始めています。」
「安田説」とは前節で引いた議論、つまり文字の発明が心を生み、その心からリニア―な時間や論理が生まれたというアイデアのことを指していま
す。クオリアや共感覚[*]、アウラ、ヌミノーゼなどについてはさておき、ここでは、永井哲学における「独在性」の概念と文字の関係について、少
し立ち入って考えてみたいと思います。
その際のキーワードは、前々節で引いた白川静の言葉、すなわち「形象化」です。それは、これまで何度か引用した永井均氏の次の文章──自己同一
性(〈私〉の持続)が成り立つ複合的プロセスに説き及んだもの──に出てくる「文字化」と同義であることは言うまでもないでしょう。
《〈私〉が同一性を保って持続するには、《私》化と「私」化の媒介を経なければならず、そこには《今》化と「今」化が介在している…。「そこに書
かれている〈私〉をあたかもいま読んでいる自分自身であるかのように理解している」とき、そういう問題を考えている人物としての記憶とともに、独
在性の形式的・概念的理解もまた介在し、経由されている。と同時にまた、〈いま〉にかんするそれと同種の読み換えも介在し、経由されている。この
例では、文字化によってそのことがあからさまになっているが、この構造自体は通常の〈私〉の持続においても避けることができない。そもそも記憶と
いう現象自体がこの仕組みの介在によってはじめて可能になるからだ。ちなみに、ジャック・デリダが自己同一性の成立に不可避的に介入するこの外在
化の仕組みを、フランス人らしく隠喩的に「文字(エクリチュール)」と呼んだことは印象深いことであった。しかし私見ではむしろ、カントの「観念
論論駁」におけるデカルト批判のほうが、機先を制して隠喩的でない精確な問題提起をおこなっていたと思う。》(永井均・森岡正博『〈私〉をめぐる
対決──独在性を哲学する』277-278頁)
言葉の確認をします。『〈私〉をめぐる対決』第一章の「語句解説」(森岡氏執筆)を借用すると、まず「独在性」とは「私は、この世界のなかに、
他人とはまったく異なったあり方で存在している」と考えられる、そのようなあり方やその性質を指す。(ただし、「この世界に存在するのは私だけで
ある」という「独我性」とは異なる。)
次に、独在的に存在するもののうち、「即座に特定の対象を指示する」もの──もしくは「現在の世界にはなぜか存在している、一人だけ他の人間と
はまったく違うあり方をしている人」(永井『世界の独在論的存在構造』23頁)──が〈私〉、「独在性という形式を表現する」ものが《私》であっ
て、「無数のそのような主体(諸《私》たち)のうちから、唯一の現実の〈私〉はどのように識別されうるのだろうか、という問題が生じる」(永井前
掲書82頁)。
(若干補っておくと、永井氏が考えている独在的存在としては、〈私〉以外に〈今〉や〈現実〉がある。また、上記引用文で「私」や「今」の表記が指
し示しているのは、日常的な言葉遣いのもとでのそれ(概念)である。)
さて、以上の“道具立て”のもとで、永井氏が語っている事柄の前段部分を、試みに図式化してみると、次のようなものになります。
かつての〈私〉
│ │
<文字化=外在化> │持│
独在性の形式的 │ │ 人物の記憶
・概念的理解 │続│
↓ ↓
いまの〈私〉
これまでに製作した図(たとえば第19・20節)と関連づけるならば、「かつての〈私〉」と「いまの〈私〉」の間に拡がる圏域(事象内容もしく
は「リアリティ」の圏域)のうち、「人物の記憶」にかかわる右方は「声、パロール」の、左方は(文字通り)「文字、エクリチュール」の領域に該当
します。
(付言すると、「かつての〈私〉」と「いまの〈私〉」もしくは「かつての〈今〉」と「いまの〈今〉」が属するのは「アクチュアリティ」の圏域であ
る。さらに蛇足を加えると、《私》や《今》は形式的・概念的に理解された独在的存在として「リアリティ」の圏域に属している。「かつての《私》」
と「いまの《私》」が持続するとして、それはどの〈私〉なのかが問題となる。なお、「私」や「今」は「リアリティ」の圏域の中核もしくは基軸(水
平軸)をなす日常的・公共的・客観的言語そのものに属している。)
永井氏の議論の後段部分について、ごく簡単に言及しておきます(というのも、詳細に論じる準備が出来ていないので)。
まず、デリダのエクリチュールをめぐって。──高橋哲哉氏が『デリダ 脱構築と正義』第二章で、「プラトンのパルマケイアー」(『散種』)にお
けるデリダの議論を次のように括っています。「パロールはある意味ではまさにエクリチュールの一種であり、だからこそ、パロールの記述にエクリ
チュールの「隠喩」が必要とされるのである。このパロールのなかにあるエクリチュール性を、デリダは、のちに見るように、「根源的」エクリチュー
ルという意味で「原[アルシ]エクリチュール」と名づけている。」
デリダ入門篇ともいうべき基本的な記述ですが、ここで言われる「パロールのなかにあるエクリチュール」(もしくは、魂のうちに“書きこまれた”
パロール)が、〈私〉の持続をもたらす文字化=外在化のメカニズムを「隠喩」的に表現しているわけです。
次に、カントのデカルト批判をめぐって。──『〈仏教3・0〉を哲学する バージョンⅡ』で永井氏が「カントの議論のなかなか精妙なところ」と
して語った事柄。「何が問題かというと、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。つまり、客観的世界の存在を疑って、自分の存在は確かだ、
と言った。それに対してカントは、それに反対したわけではなく、しかし、もしその自分というものが時間的に持続していると考えるなら、そのとき、
客観的世界も持続的に存在していることを前提していることになるのだ、と言ったのです。そうでなければ、自己の持続は不可能なのだ、というのがカ
ントの主張です。」(204頁)
上図に即して言い換えると、「かつての〈私〉」と「いまの〈私〉」の持続が成立していると考えるなら、そのとき、客観的世界すなわち「リアリ
ティ」の圏域の持続的存在が前提(証明)されているのだ、となります。
[*]三浦雅士氏は『孤独の発明
または言語の政治学』で、共感覚とは言語現象であって、言語によって表現されなければたんなる生命現象にすぎない、と語っている。
《私には共感覚とは言語現象であるとしか思えない。
共感覚の問題は、言語の獲得とともに人間が直面しなければならなくなったさまざまな問題、すなわち社会的・政治的・宗教的問題の基層に潜んでい
る。共感覚すなわち感覚の転位にこそ、人間の基層を解く鍵が潜んでいる、と私には思える。
むろん、言語以前にすでにこの種の感覚の交響あるいは照応があったと想像することもできるわけだが、かりにそれがあったとしても現実には意味を
持たない。なぜなら、感覚の転位も交響も照応も、表現においてしか意味を持たないからである。(略)
要するに、感覚を比べるということ自体が言語以前にはありえない。コウモリであるとはどのようなことかと問うこと自体が言語以前にはありえない
のと同じである。人はコウモリを演じることはできるが、蝙蝠は人を演じることができない。演劇は言語でなされるからなどということではない。さら
に深く、演技という表現そのものが──つまり無言劇でさえも──言語という構造のもとにしか発生しないということである。感覚の交響があるにせよ
ないにせよ、表現されなければそれはたんなる生命現象であって、それだけのことにすぎない。》(『孤独の発明』447-448頁)
本文で使った永井氏の記法に関連させると、ここで言われる生物現象や感覚の交響は「生物現象」「感覚の交響」と、共感覚は《共感覚》と表記する
ことができる。山括弧(二重否定)の記号を使って表記すべき事柄についての言及はない。強いて言えば〈コウモリである〉ことが該当するかもしれな
いが、それは「《コウモリである》とはどのようなことか」という問いの中で既に転落している。
【26】アウラ、対象化、俯瞰する眼─独在性と文字・続
前回、独在性の概念と文字の関係について書いたこと──〈私〉や〈今〉といった独在的存在は文字発明の産物だったのではないか──に関して、若
干言葉を補います。というか、言葉遣いを正します。
文字発明というときの文字は、永井哲学オリジナルの山括弧(二重否定)の記号が付いた〈文字〉ではなく、日常的・公共的・客観的言語における
「文字」のことです。より精確に言えば、(アクチュアリティの圏域における)独在性そのものにかかわる〈文字〉ではなくて、その独在性の概念を、
あるいは「独在性という形式」を(リアリティの圏域において)表現する《文字》のことです。
この、独在性とは似て非なる(単独性と呼んでもいい)概念・形式に対して、たとえば、ベンヤミンは「アウラ(オーラ)」という語を割り当てまし
た。つまり、いま・ここにしかない(たとえば芸術作品の、あるいは「比類ない私」の生の)「一回性」という信仰、イデオロギーを示す語として。
三浦雅士氏は『人生という作品』に収録した同タイトルの書き下ろしエッセイに、次のように書いています。「そもそも、「いま」「ここ」にしかな
いという芸術作品特有の一回性などというものは存在しない。(略)たとえば「モナ・リザ」は「いま」「ここ」にしかないから輝いているのではな
い。その色彩によって輝いているのだ。だからこそ精巧な複製でも充分に魅力が分かるのである。」(13頁)
「概念化とは未知を既知に移すことだ。それが模倣の意味、複製の意味だ。/にもかかわらず、ベンヤミンがあたかも自明のように見なしている信仰、
「いま」「ここ」にしかないという芸術作品特有の一回性への信仰が、なぜ成立したのか。/人間に特有の一回性への信仰、つまり、私はこの世にたっ
たひとりしか存在せず、たった一度の人生を生きているのだという一回性への信仰が、この段階で成立したからである。」(15頁)
ここで言われる「人間に特有の一回性」、すなわち《人生》(もしくは《作品》)とでも表記すべき概念化された形式こそが、言語によって、とりわ
け文字の発明によって生み出されたものだった、これが前回の議論のテーマであったわけです。
ところで、三浦氏は、いま引いた議論につづけて、次のように論じています。いわく、ベートーヴェンからワグナー、マーラーまで、人間特有の一回
性を、つまり人生という物語を作品にした。彼らの音楽ははじめから「映画音楽」として作曲されたのであると。
映画音楽から映画が生まれた。映画音楽とは見るものを銀幕から引き剥がす効果である。感情移入の極限において、人は空中浮遊の快感とともに感情
移入している自分自身を眺める。それは言語が人間にもたらしたのと同じ効果である。つまり映画音楽は言語の起源を反復する。──以下、“圧巻”の
叙述をまるごと引用します。
《銀幕に生きるスター[*1]は幽霊のようなものだ、などと思ってはならない。逆に、銀幕に生きるスターにとっては、あなたたち観客のほうこそ幽
霊なのだ。映画音楽はこの幽霊の次元──言語の次元──を具体化する。幽霊をは映画を観ているあなたのことなのだ。
音楽にはじめからそういう効果があったわけではない。音楽はむしろ人を世界に没入させるのであって、世界から引き剥がすわけではない。声もまた
そうであっただろう。ルロワ=グーランが指摘するように、洞窟に描かれた文様、石器や土器に刻み込まれた文様は、その規則性によって言語を示唆す
る。文様は声を出しながら刻み込まれた、あるいは、文様を見るとき、そして擦るとき、人は声を出していたに違いないというのだ。要するにそれは規
則的な発声、つまり言語の記録であり記憶なのだ。レコードの溝のようなものである。
視覚と聴覚が入り混じって始原の言語を構成していたのだとすれば、まさにその混沌とした言語、人を包みこむ声の厚みのなかから、絵画も音楽も舞
踊も誕生したことになる[*2]。
だが、文字、とりわけ象形文字は違っている。文字へと向かう痕跡、たとえば刺青、あるいは何らかの人物形象[*1]は、違っている。それは対象
化なのだ。そして対象化とは、畢竟、自己の対象化なのだ。つまり、世界から離れて自分を見る眼、自分の身体から離れて自分の身体を俯瞰する眼を獲
得することなのだ。原初的な文字、文字のようなもの、すなわち何等かの痕跡を自分自身と見なさなければ、人は自分の身体を把握できない。要する
に、自分から離れなければ自分の身体を把握できない。自分の身体を把握できなければ自分自身も成立しえない。
このもうひとりの自分こそ、その延長上に神を想定させるものである。つまり、言語の獲得、とりわけ文字の獲得は、超越および超越論的次元なるも
のの獲得にほかならない。もしも言語が人間を人間たらしめるのだとすれば、人間は最初から、世界から離れていた、自分から離れていたのである。と
いうより、離れることによってはじめて自分が成立したのである。
声と象形文字、表意文字と表音文字のあいだで、人間は連続と不連続の震動を体験していたのだと言っていい。音楽はその震動の場であり、映画音楽
はその震動の場を個人的なものにしたのだ。人生という言葉とともに。[*3]》(『人生という作品』17-19頁)
三浦氏が言う「対象化」は、これまでに出てきた「外在化」や「概念化」、あるいは形象化や形式化、要するに「文字化」を言い換えた語群を構成す
るキーワードの一つです。そして、この対象化の延長上に、神という超越(論的)次元──私の語彙と構図にそくして言えば、“上方”における「メタ
フィジカル」な世界──が拓かれるわけです。(と同時に、もう一つの異界、すなわち死の領域、霊魂の世界が拓かれる。おそらく“下方”の「マテリ
アル」な世界において。)
ともあれ、こうして、“上方”から降下してくる文字と、“下方”から湧出する声という、本来は相交わることのない二つの別のものが、一つの
フィールドに繰り込まれ、やがて森羅万象、事物事象が生起するリアリティの圏域を造形することになります。(おそらくはまず、「ここ」にかかわる
空間が「俯瞰する眼」の作用を通じて設えられ、この空間において、文字と声との相克による「連続と不連続の震動」を経て、時間のはたらきが実現さ
れる,
といったかたちで。)
かくして、「声と文字が拮抗して世界の構図が描かれる」という第三仮説の出番が到来しました。
[*1]「銀幕に生きるスター」つまりペルソナ、あるいは「何らかの人物形象」つまりペルソナ。この「ペルソナ」すなわち「幽霊」──第21節で
話題にした折口信夫の「透過的身体性」あるいは“フィギュール”が持つ透明な(精霊的・幽霊的な)肉体──は、「文字的世界」に続く論考で取りあ
げるべきテーマである。
[*2]『人生という作品』の「あとがき──「考える身体」から「人生という作品」へ」で、三浦氏は「音楽も舞踊も言語芸術である」と書いてい
る。“圧巻”の叙述をまるごと引用する。
《身体といえば精神の正反対のように響くわけだが、ここで[音楽や舞踊の練習によって]習得される身体の動きとは、動きの「型」、すなわちフォー
ムのことにほかならないのである。あるいは動き「方」、すなわちウェイのことにほかならない。つまり、形相と質料という古来の言い方にのっとれ
ば、形相のことであって、質料のことではない。精神のことであって身体のことではないのだ。
音楽であれ、舞踊であれ、あるいはスポーツであれ、身体の厳しい修練によって獲得されるテクニックは、じつは精神であり、意識であり、要するに
言語にほかならない。模倣され、引き継がれてゆくものは、精神であり、意識であり、言語であって、物質としての身体ではまったくない。考える身体
というときのその身体とは、つまるところ言語にほかならないのである。
分かりきったことだが、これは肝に銘じる必要がある。伝えることができるのは、かりに無言のうちに習得されたにしても、すべて言語の領域にある
ものなのだ。
身体芸に限らない。行儀見習いの対象になる立ち居振る舞いはすべて言語に属している。話し方も笑い方も、坐り方も歩き方もそうだ。熟練とは、物
質としての身体ではない、言語としての身体に属しているのである。身体芸の高度なテクニックはもちろん、立ち居振る舞いのすべてが見習われるもの
であるということは、それがイマージュとして把握されるものだということである。そしてこのイマージュとは、言語のことである。
絵画の対象、写真の対象にしても同じことだ。写されるものは、写されるというそのこと、イマージュであるというそのことにおいてすでに、すべて
言語の領域にあるものなのだ。山は語り、海は吠える。あるいは山は黙し、海は囁く。このとき、山も海もすでに言語の領域に移行しているのである。
絵画や写真はまさに語りかけてくるところを切り取るのであり、切り取られた風景はだからこそ雄弁に語りかけてくるのである。
語りかけてくるその声を聴くのは詩人だけではない。
多くの社会学者、宗教学者の見解とは逆に、アニミズムは少しも終わっていないと言わなければならない。なぜなら、アニミズムこそ言語の本質と
言っていいからである。あるいは少なくとも、言語の本質はアニミズムにこそ潜んでいるのだ、と。
そもそも、どうして言葉を習得したものが世界に耳を傾けずにいられるだろうか。いや、耳を傾けたからこそ、言語が訪れたのではないか。実際、言
語習得によって明らかにされる最初のことは、沈黙こそ最大の意味であるということなのだ。
素晴らしいバレエの舞台からは言葉がこぼれてくる。一語も発しないにもかかわらず、まるで宝石のように光り輝く言葉がこぼれおちてくる。すぐれ
たバレエは、音楽も舞踊も言語芸術であることを一瞬のうちに了解させるのである。》(『人生という作品』314-315頁)
[*3]三浦氏はつづけて次のように書いている。「映画音楽がもたらしたものは、したがって、いわば人生を眺める神の眼である。(略)/観客は映
画を見ることによって神の眼に立つようになったのではない。自分自身とはもともと神の眼で自分を眺めることだったのだ。自分とは自分を見ている霊
魂のことだったのだ。映画はそれを反復しているにすぎない。」(19頁)
単独性の《私》のうちに独在性の〈私〉が形式的・概念的に“反復”する。いま・ここに生じた一回性が、何度でもはじめてのこととして“反復”す
る。キルケゴールが、プラトンの想起説を念頭におきながら、「ほんとうの反復は前方に向かって追憶されるのである」(桝田啓三訳『反復』)と書い
たのは、おそらくそういう事態のことだったのだろう。
そしてそれは、新宮一成氏が『夢分析』に書いた「初めての夢」の“反復”に通じている。「初めての夢という名に値する夢があるとしたら、それ
は、自己が自己の現実を言葉によって初めてとらえたときの驚きを含む夢のことである。この驚きを再現しようとすることが、我々が夢を語り合うこと
の最も深い動機である以上、その夢がたとえ今朝見られたのであっても、それはやはり初めての夢と呼ばれるのにふさわしいのである。」
【27】声と文字の捩れ、文字現象学─白川文字学3
白川静は、良くも悪くも、詩人であった。──三浦雅士氏は「白川静問題──グラマトロジーの射程・ノート1」の最後のパラグラフを、そのような
言葉で書き始めています。あたかも古代人であるかのように、縦横無尽かつ断定的に漢字の起源を語った白川静、その学説の芯を形成したのが、卜片の
トレースから筆耕、油印という身体的修練によって獲得した「飛躍すなわち詩的直観とでもいうべきもの」(50頁)であったことを踏まえての評言で
す。
このことは、白川文字学の孤立性や自己完結性に、つまり貝塚茂樹や吉川幸次郎が抱いた「違和感」(50-51頁)、あるいは「白川静に触れては
ならないという禁則があるのではないかと疑われても仕方がない」(38頁)学会の沈黙につながります。(白川文字学のこの孤立を、三浦雅士は「白
川問題」と呼んでいる。)
前回につづき、『人生という作品』に収録された三浦氏の論考から、デリダのグラマトロジーに言及された箇所を三つ、まるごと抜き書きし、白川文
字学というプリズムを通じて見えてくる文字的世界の拡がりを見定めておきたいと思います。(論じようと目論んでいた、それと同じ事柄をより濃く深
く鋭く描いた文業に接したなら、潔くその麾下に入るに如くはない。)
◎声と文字の捩れ─忘却の淵に沈んだ起源
《古代ギリシア哲学は文字の一般への普及によって生まれたとはエリック・ハヴロック『プラトン序説』(一九六二年)の説くところだが、これもまた
パリーの衝撃[ミルマン・パリーの博士論文「ホメロスにおける伝統的な形容辞(The Traditional Epithet in
Homer)」(1928)──「『イーリアス』にせよ『オデュッセイア』にせよ、もとは楽人たちによって朗誦されていたものであることを、枕詞あるいは
序詞ともいうべき修飾句の使い方に法則があることを突き止めることによって立証してみせた」(53頁)もの──が後のホメロス研究に与えた影響]
の三十年後の残響である。プラトンがその国家から詩人を追放したのは、詩人とは当時、朗誦者すなわち日本で言えばさしずめ琵琶法師のような存在
だったからだというのだ。プラトンは暗誦によって人生に対応してゆくものたちを嫌った。柳田国男風に言えば諺で物を考える人間、集団的思考に身を
委ねる人間を嫌ったのである。そして、物を書く人間たち、すなわち思考する個人に未来を託した。
デリダによって人口に膾炙することになる音声中心主義は、逆説的にも、文字の一般への普及によってもたらされたことになる。孔子もソクラテスも
文字によって声が定着されたのである。個人的思考の登場ははじめからこの声と文字の捩れとともにあったのだと言わなければならない。文字の一般へ
の普及こそが口承文芸すなわち叙事詩を変容させ、哲学や歴史や抒情詩を生み出したとするハヴロックの着想は、この捩れの仕組みを解明する企てにほ
かならなかった。》(『人生という作品』54頁)
三浦氏によると、内藤湖南は、春秋から戦国時代にかけて文字が一般のものになったその衝撃が諸子百家を生み、五経を生んだと考えることで、パ
リー、ハヴロックに近接している。「文字は、誰もが用いるようになってその意味を変えてしまったのだ。原義は忘却の淵に沈んだのである。」(55
頁)
ここで言われる「原義」は、「文字の起源は占卜に、詩歌[山川草木、鳥獣虫魚への挨拶を根源とする詩歌、枕詞や序詞を(古代的)発想法とする詩
歌]の起源は呪術にある。漢字の起源は詩歌の起源と時をへだてはしても重なり合うのである。」(43頁)とされる、その「起源」にかかわる。「白
川静がその詩的直観によって解明したのはこの忘却以前の世界の、見ようによっては美しい、また見ようによっては恐ろしい姿なのだ。」(53頁)
◎文字現象学─表意文字から音声文字への移行・巨大な転倒
《占卜の文字は必ずしも声に出して読まれる必要はない。文字として機能していたとしても、刺青が声に出して読まれる必要がないのと同じことだ。だ
が、それが一般の読み書きにまで下ってきたときには必ず声に出されなければならなかった。形声の必然もそこにあった。それはほとんど表意文字から
表音文字への移行に匹敵する事態である。漢文から漢字仮名混じり文への移行に等しい。(略)
表意文字と表音文字の差は同じ次元における差ではない。文字はそれを用いるものによって表意にもなれば表音にもなる。それこそデリダがその初期
の著作『ド・ラ・グラマトロジー』すなわち『文字学について』で力説しているところである…。物にはすべて記号の要素があるとはパースの説くとこ
ろだが、意味──たとえば食べられるものと食べられないもの──を付与するのが生命である以上、それは当然のことだ。
記号作用とは概念作用のことであり生命現象のことである。記号作用が言語現象へ、言語現象が文字現象へと飛躍する過程は、その過程そのものを忘
却する過程にほかならなかった。図と地という語を用いるならば、図は地が変容するつどその意味を大きく変えなければならなかった。それは生命現象
から離れる過程、生命現象を転倒させる過程であったというほかない。
むろん、生命現象そのものがひとつの巨大な転倒であると言えばそれまでだが、いずれにせよ、現象学は文字にこそ適用されなければならないのであ
り、デリダがはじめに意図したものもまさにそれであった。声すなわち表音に執着する言語学は、逆説的にも、文字によって切断されたまさにその文字
の側を右往左往しているだけである。》(『人生という作品』55-56頁)
「占卜の文字は必ずしも声に出して読まれる必要はない。」という指摘は、文字は独立して(音声とは無関係に)言語体系をかたちづくるという、か
の第一仮説を裏書する有力な“論拠”になる。
また、「漢字仮名混じり文」の成立が、表意文字から表音文字へという異次元の移行に匹敵する事態であるとの指摘は、前節で論じたこと、すなわち
「“上方”から降下してくる文字と、“下方”から湧出する声という、本来は相交わることのない二つの別のものが、一つのフィールドに繰り込まれ」
る事態に通じている。
◎デリダは白川静を必要としていた
《白川静は何度かデリダの名に言及している。だが、その所説に言及しているわけではない。当然のことだ。白川静を必要としていたのはデリダのほう
であって、逆ではない。マルセル・グラネはデュルケームの弟子である。周口店の発掘に参加したのはテイヤール・ド・シャルダンである。モースやグ
ラネに学んだルロワ=グーランもまた同じような流れのなかにある。フランスのシノロジーの伝統は考古学の伝統と交差して長く豊かだが、白川静を生
むにはいたらなかった。呪術に遡る文字の起源を精密に分析するにはいたらなかったのである。年代的に不可能であっても、理論的には『ド・ラ・グラ
マトロジー』は白川静を参照しなければならなかったのである。》(『人生という作品』58頁)
【28】象形から形声への飛躍、鏡像段階─白川文字学4
問題は文字という現象そのものに潜んでいる。三浦雅士氏は「起源の忘却──グラマトロジーの射程・ノート2」にそう書いています(『人生という
作品』71頁)。ここで言われる「問題」とは、「文字は呪的な行為がさかんに行なわれた時期に、その儀礼の必要に応じて成立した」(61頁)こと
が、つまり文字の起源が「忘却の淵に沈んだ」ことにほかなりません。
三浦氏は、白川静の『説文新義』「通論篇」を読み解き、いわゆる六書をめぐる白川の考えを次のように括っています。いわく、漢字は大きく「象
形」と「形声」に分かれ、「指事」「会意」は前者に、「転注」「仮借」は後者に含まれる。重要なことは、象形が起源にあって、形声はしかる後に生
じたことである。
「象形も形声も造字法である。だが、たとえて言えば象形は創字法、形声は増字法である。形声では、ふつう偏によって義を、旁によって音を表わす
が、逆もあれば、義と義を合わせるだけのものもある。辻も畑も峠も働も国字すなわち和製漢字であり、訓読みだけで音読みはないわけだから形声では
ありえないが、しかし同じ原理でできていると感じさせるのである。だから通用するのだ。(略)/象形文字の解明において白川静が行なったことは、
しかし、そういう類の造字法とはまったく違っている。」(86-87頁)
三浦氏はここで、「神が昇り降りする梯子」の象形文字の例を挙げ、また甲骨文字の多くが人間や犬や羊の生贄の数を問うものであったことを述べた
上で、形声の体系と象徴の体系の違いをこう括っている。「それ[白川静が想定した形声の体系]は分類し整理する体系である。それは水平に無限に広
がってゆく。だが、白川静が描き出す象形の体系は、血みどろの犠牲を撒き散らして神に縋ろうとする垂直な体系である。(略)/とすれば、起源の忘
却は象形と形声のあいだにあるということになる。」(88頁)
三浦氏によると、白川静は「象形の体系が形声の体系へと移行するまさにその移行期を生きたのが孔子である」と考えていた(92頁)。『孔子伝』
に描かれた孔子は、神の声を聞く人、巫祝の伝統のなかに生きている人だった。都市国家から領域国家へ移行する過渡期を生きた孔子は、「声の文化か
ら文字の文化へ、そしてさらに、声の代理としての文字の文化、表音文字の文化への移行」を、つまり起源の忘却を象徴する存在であった(97頁)。
「白川静は、孔子がソクラテスやイエスと同じように、みずから書く人ではなかったことに繰り返し注意を促している。「聞くことと話すこと」と「書
くことと読むこと」との違いに注意を促しているのである。「耳と口」の対は、「目と手」の対と違っている。たとえば巫女は「耳と口」の伝統に属
し、占卜は「目と手」の伝統に属す。この二つの伝統の交叉するところに孔子は位置していたと、白川静は考えている。」(103-104頁)
このすぐ後に、とても大事なことが書かれています。「書に臨むとき人が思い浮かべているのは声ではなく形である。表象であり、概念である。象形
の字そのものであり、指事そのものである。(略)聞くこと話すことと、読むこと書くこととはまったく違うことだ。だが、表意文字が表音文字に転化
するということは、それが合致したということである。この合致こそが、個人の思想を生み、思想としての個人を生んだのだ。(略)神意を聞くとき、
神はそこにいる。だが、神意を読むとき、そこにいるのは読んでいる自分であって、神ではない。」(104-106頁)
《声は超越にかかわるが、文字は超越論的次元にかかわる。声は現象を、生を意味するが、文字は永遠を、死を意味する。神学は超越にかかわるが、哲
学は超越論的次元にかかわる。だが、文字が声として振る舞いはじめたとき、ほとんど不可避的にある捩れが生じたのだ。デリダが『声と現象』から
『グラマトロジーについて』にいたる過程で問題にしたのはこのことにほかならなかった。(略)
声も文字も言語の現象である。デリダのいう差延とはこのことである。デリダの示唆したかったことを一言でいえば、要するに言語は光に似ていると
いうことだ。アインシュタインがほかならぬ二十世紀、言語の世紀と呼ばれる二十世紀において一般相対性理論を提起したのは偶然ではない。光が宇宙
の限界を示すように、言語は人間の限界を示しているのである。(略)
文字が声として振る舞いはじめたとき、すなわち象形文字が義である以上に声として振る舞いはじめたときに生じた捩れを、たとえば「私はなぜいま
ここにこのようにしてあるのか」という問いのかたちで考えることができる。》(『人生という作品』106頁)
三浦氏はここで、ラカンの鏡像段階論を持ち出します。いわく、鏡に映った自分の姿に気づいて幼児が狂喜するのは、イシスがオシリスの散乱した屍
体を取り集めたように、自分の散乱した身体を、世界を鏡のなかに取りまとめるからだ。ラカンはここで「私はなぜいまここにこのようにしてあるの
か」という問いを相対化している。
《…原初においては文字こそが鏡だったのだ。白川静が「文とは文身であり、出生・成人・死葬の際の通過儀礼を示す字である」と繰り返すのは、畢
竟、そういう意味である。(略)
通過儀礼において身体に文字が付されるのはなぜか。その文字こそが、私という破片を取りまとめ、私を私として存らしめる結節点となるべきもの
だったからである。私の意味はその文字なのだ。(略)
だが、刺青は見るべきものではあっても、声に出して読むべきものではない。象形文字は、鏡と同じように、意味は持っていても声を持っていたわけ
ではない。持っていたにしても、声に出してはいけないものだったろう。だが、世界を、そして自分を、意味として立ち上がらせる端緒としては完璧
だったのである。
象形から形声にかけて起こったことは、文字が果たした最初の役割を忘れることだったと言っていい。忘れたからこそ、声に出すことができるように
なったのである。》(『人生という作品』110頁)
【29】表層の意味語が深層の機能語によって下支えされる関係
第26節から前節まで、ほとんど三浦雅士氏の議論の祖述、というより、ほぼ丸写しのかたちで叙述してきました。なにも付け加えるべき知見も見解
も持ち合わせていなかったからです。
ここでいったん、これまでのことを“総括”しておきたいと思います。便宜上、文字の誕生(垂直的体系の成立)、象形の体系から形声の体系への移
行を経て、表意文字の表音文字への転化(水平的体系の成立)へと至る過程を三段階に区分し、それぞれに三浦氏の言葉を割り当てます。期せずして、
このプロセスは、かの三つの仮説に対応しています。
1.文字誕生─呪術に遡る起源
〇文字の起源は占卜に、詩歌の起源は呪術にある。漢字の起源は詩歌の起源と時をへだてはしても重なり合うのである。
〇声は超越にかかわるが、文字は超越論的次元にかかわる。声は現象を、生を意味するが、文字は永遠を、死を意味する。
2.象形と形声のあいだ─起源の忘却
〇記号作用とは概念作用のことであり生命現象のことである。記号作用が言語現象へ、言語現象が文字現象へと飛躍する過程は、その過程そのものを忘
却する過程にほかならなかった。
〇形声の体系は水平に無限に広がってゆく。だが、象形の体系は、血みどろの犠牲を撒き散らして神に縋ろうとする垂直な体系である。とすれば、起源
の忘却は象形と形声のあいだにあるということになる。
〇白川静は、孔子がソクラテスやイエスと同じように、みずから書く人ではなかったことに繰り返し注意を促している。「聞くことと話すこと」と「書
くことと読むこと」との違いに注意を促しているのである。「耳と口」の対は、「目と手」の対と違っている。たとえば巫女は「耳と口」の伝統に属
し、占卜は「目と手」の伝統に属す。この二つの伝統の交叉するところに孔子は位置していたと、白川静は考えている。
3.表意文字の表音文字への転化─個人の誕生
〇書に臨むとき人が思い浮かべているのは声ではなく形である。聞くこと話すことと、読むこと書くこととはまったく違うことだ。だが、表意文字が表
音文字に転化するということは、それが合致したということである。この合致こそが、個人の思想を生み、思想としての個人を生んだのだ。
〇文字が声として振る舞いはじめたとき、すなわち象形文字が義である以上に声として振る舞いはじめたときに生じた捩れを、たとえば「私はなぜいま
ここにこのようにしてあるのか」という問いのかたちで考えることができる。
三浦氏は、象形から形声への飛躍を、表意文字から表音文字への移行に匹敵する事態であるとし、また漢文から漢字仮名混じり文への移行に等しい、
と書いていました。文字誕生にはじまる三段階のプロセスの最後のステージにおける、声と文字の拮抗・相剋の問題が、漢字とかな、意味語(自立語)
と機能語、あるいは詞と辞の関係性のうちに集約的にあらわれているということでしょう。
藤井貞和氏は、『日本近代詩語』に収録された論考「漢字かな交じり文、神経心理学、近代詩」において、「『万葉集』以来、日本語の表記は一三〇
〇年、漢字かな交じり文であり続ける。」(63頁)と書いています。「中世には和漢混淆文など、漢字かな交じり文で書かれる。近、現代では物語文
学(例えば『源氏物語』)が、教科書を始めとして漢字かな交じり文として書き直されるようになっており、そのことをだれも疑わず、ほぼ困りもしな
い。」
藤井氏は、この「漢字かな交じり文問題」をめぐって、岩田誠著『脳とことば──言語の神経機構』に準拠して、意味語と機能語とでは脳内で取り扱
う場所を異にすることに触れた上で(72-73頁)、「人類史上の音声言語から表記言語へという流れのなかに位置づけられるのでなければ、依然と
して日本語特殊説(比類ない言語だとか、よい加減な言語だとか言われる毀誉褒貶)に終わることになりかねない」(74頁)と論じています。
《意味語と機能語と、言語が意味と機能という別個の回路を有することは、…日本語以外でも言えることではないか。とともに、漢字かな交じり文以前
の話しことばにおいてそれらが成長したということも、世界の諸言語において言えることになる。真には表層の意味語が深層の機能語によって下支えさ
れる関係であり、たまたま日本語が意味語と機能語との居場所を別にすることによって見ることのできた区別に過ぎない。〈表層と深層〉という差異に
意味語と機能語とは対応しそうに思える。
それらを西洋語にあてはめるならば、まず〈冠詞、助動詞、前置詞〉が〈かな〉に相当し、その他の意味語が〈漢字〉になる、ということではなかろ
うか。》(『日本近代詩語』81-82頁)
《…人類約五万年と見て、巨大な高次連合野の〈第一の飛躍〉によって、内部メモリーを拡張させ、話しことばを獲得したヒトは、情報量を増大させ
る。ついで、五五〇〇年ほど前か、〈第二の飛躍〉によって、時間と空間の壁を越える自由なコミュニケーションの能力を獲得する。
私の推察すべきこととしては、意味語と機能語という差異を、文字以前のかなた、約五万年かもしれない第一の話しことばのなかに用意してきたとい
うことだ。第二の、文字の使用に至って、それらの二種が分化するするようになり、書記言語を成立させてきたおおもとに、音を言語とする話しことば
のうちなる文法的成熟が、たまたま日本語にあって漢字かな交じり文として現前したということである。》(『日本近代詩語』84頁)
藤井氏の問題意識は、萩原朔太郎が『詩の原理』の「結論」を「島国日本か? 世界日本か?」で終えたことを踏まえています(25頁)。すなわ
ち、日本語で書かれる詩が世界文学の一部となるためには、数や性といった文法上の問題についてルーズであってはいけない──「古池や」の蛙は何匹
かという問題を避けて通ってはいけない──ということです。
とても大事な視点だと思います。たとえば、明治の言文一致、これもまた漢字かな交じり文の問題と同様、声(パロール、言)と文字(エクリチュー
ル、文)の拮抗・相剋の問題に通じています。それは、「第三の飛躍」と呼んでもいい巨大な転換であり、かつ日本特有の問題ではありません。
いまひとつ付言します。橋本治は「「和漢混交文」という概念は、言文一致体が出来た後になって登場するか一般化するようなものだ」と書いていま
す(『失われた近代を求めて(上)』第一章五節「大僧正慈円の独白」)。だとすると、「漢字かな交じり文」という概念自体が、言文一致体の成立後
に遡及的に一般化したもの、いわゆる遠近法的倒錯にもとづくものだということになるのでしょうか。
以上の二点、つまり日本語における出来事の普遍性とその転倒性(の普遍性)、そして藤井氏の議論に登場した「深層/表層」の構図、これらのこと
が第三のステージにおける論点になります。“柄谷文字論”の出番が到来しました。
【30】言文一致と音声中心主義──柄谷文字論1
“柄谷文字論”は、複数の論文にわたって展開されています。ここでは、『〈戦前〉の思考』(1993年)所収の「文字論」を基本テキストとし
て、「言文一致」と「漢字かな交じり文」(柄谷の表記では「漢字仮名交用」)をめぐる議論の概略を抽出し、適宜、他の論考によって補うことにま
す。
(言文一致については、「仮面的世界」の第14・15節で『定本
日本近代文学の起源』における議論を一瞥したことがある。そこでは、柄谷文字論についていずれ「文字的世界」のなかで言及すると予告していた。また、続く
第16節では「文字論」の議論を(先走って)引用している。)
1.言文一致の問題──音声中心主義
◎近代日本における「言文一致」という出来事がもたらした“転倒”あるいはその問題点。──第一、話し言葉を書き写したものが言文一致体である
(「言→文」または「言>文」)という“錯覚”
(音声中心主義の問題)。第二、それが文語をもとに作られた新たな「文」であり、話すように強いられた「国語」(規範化された標準語)であったこと(「言
←文」または「言<文」)の“隠蔽”(ナショナリズムの問題)。そして「古代」に起きた出来事へのそれらの“投射”。
【近代の言文一致】
◎明治20年代、小説家を中心に進められた「言文一致」は、「言」すなわち話し言葉を「文」すなわち書き言葉に書き写したものではない。言文一致
とは、実際のところ、それまでの文語体(ある程度日本全域に共通していた書き言葉)の語尾を江戸弁で口語化すること、つまり新たな「文」をつくり
だし、それを標準語として「話す」よう日本全域に強制することだった。
◎明治から大正にかけて。日露戦争後、西洋に対する緊張がなくなり、「日本的」なるものが出てきた。その典型は、文学では私小説である。それはプ
ロット(筋)もない、構成もないような小説で、もともと西洋近代小説の影響からはじまったのだが、私小説家たちは徐々に独自の意味づけを与えはじ
めた。芥川龍之介がそうだったように、こうした小説の非構築化は西洋に比べても尖端的なものだといっている。
◎このような「日本化」はもともと「西洋化」があってこそ生じたのである。しかし、明治時代の「西洋化」は別の面から見れば「中国化」でもあっ
た。それは西洋の概念が漢語に訳されたということにもとづいている。したがって、文字の問題は重要な鍵を握っている。
【古代の言文一致】
◎古代の日本における「中国化」は、明治時代の「西洋化=近代化」と類似している。また、明治から大正にかけて起きたのと同じことが奈良から平安
時代にかけて起きている(私小説の先端化≒仮名文字による歌や物語の繁栄)。
◎『万葉集』は、歌われたもの(話し言葉)を万葉仮名(書き言葉、表音文字)を使って表記したものではない。『万葉集』の歌人は文字を前提にして
いる。日本語のエクリチュールは漢文を「読む」ことからはじまっている。読まない人は書かない。
◎奈良から平安時代にかけて。中国における帝国の衰退があり、日本との関係が希薄になった。形の上では律令制を保っていたが、実質的にはそれと異
質な政治経済システム(摂関政治、荘園制)が出てきた。文学でいえば、仮名文字による歌や物語が栄えた。
◎『源氏物語』は仮名で書かれているからといって、同時代の口語(大和言葉)すなわち話し言葉を書き言葉に書き写したものではない。すでに存在し
全国で通用していた文語すなわち漢文、あるいは漢文を読むことによってつくりだされた日本語のエクリチュール(書き言葉)に依拠し、それをあたか
も「言文一致」のように書いたものだった。参勤交代で江戸に集まった各地の武士が、互いの話し(方言)が通じないので、謡曲や漢文にもとづく侍言
葉を作りだしたように。だからこそ『源氏物語』は広範囲に読まれ、規範的な古典になっていった。
【国学者の音声中心主義】
◎本居宣長をはじめ賀茂真淵以後の国学者たちは、『万葉集』『古事記』『源氏物語』は仮名で書かれているから本体の音声をとどめていると考え、そ
こに漢字によって浸食され汚染される以前の日本人の思考のあり方、すなわち「古の道」を見ようとした。しかし、「古代」とはせいぜい十八世紀後半
に見いだされた想像物にすぎない。もともと音声があってそれが仮名で表記されたというわけではない。それらの書物はその当時あった音声を表記した
ものではなく、漢字を前提にしたエクリチュールによって可能になっていた。
◎音声志向は国学より先に儒者の荻生徂徠からはじまった。国学者は『古文辞学』の影響を全面的に受けている。徂徠は漢語であれ日本語であれ言語は
音声なのだという視点を提出し、音声から中国語に入らなければならない、つまり奇妙な読み下し文(漢字仮名交じり文──註に掲げた鼎談における柄
谷の発言)ではなく口語で意訳すべきだといった。徂徠が言語を音声としてみようとしたということは、いわば、身体、感情というものを重視するとい
うことであった。これはヨーロッパと並行している近代的な考えである[*]。
[*]子安宣邦・酒井直樹・柄谷行人による鼎談「音声と文字/日本のグラマトロジー 十八世紀日本の言説空間」(『シンポジウムⅠ』(1994
年)所収)は、徂徠、仁斎、宣長の江戸思想史とスピノザ、カント、ヘーゲルの西洋哲学史との並行関係を背景に、国学における漢字と仮名、翻訳と文
法、等々の論点をめぐる刺激的な討論の記録で、汲み取るべき示唆に富んでいる。
通りすがりに一瞥して済ますことなど本来できないのだが、ここでは、音声文字と表意文字の対立は、話し言葉と書き言葉の対立とは別のものである
という(酒井直樹の)指摘にかかわる柄谷の発言を引いておきたい。
《話すことと書くことは、根本的に違いますね。(略)ところが、「音声文字」のごときものができあがると、あたかも文字は音声を写すものであるか
のような観念が生じる。また、話すことと書くこととの差異が、音声文字と表意文字の差異にすり替えられてしまう。これもどこでも生じることです。
(略)
日本の場合が特異なのは、やはり漢字仮名交用ということを歴史的に続けてきたからだと思うんです。つまり、概念は漢字で、テニヲハは仮名で書く
という歴史的な慣習があった。そうすると、本来はどこでも共通する事柄なのですが、日本では、それが、文字の差異という問題に、また、宣長が「玉
の緒」と言ったように、漢字で書ける部分と仮名でしか書けない部分の差異という問題に転化されている。そして、それが漢心と大和心の差異にまで転
化される。》(『シンポジウムⅠ』270-271頁)
漢字仮名交じり文に関する「文字論」の議論は後に取りあげる。テニヲハ、玉の緒、あるいは辞の、漢字や玉や詞に対する優位的な位置づけが、国学
における音声中心主義(ただし、それは東西を問わずどこでも生じることであった)のあらわれであることは見やすい。
ここで気になるのは、前節で引いた藤井貞和氏の議論との“整合性”である。藤井氏はそこで、「深層の機能語(辞)/表層の意味語(詞)」という
垂直的な構図を呈示している。このことと、柄谷氏による「表音文字・仮名(大和心)/表意文字・漢字(漢心)」の構図との関係をどう考えればよい
のか。先走った議論になるが、たとえば次のような図式で両者を“和解”させることができるのだろうか。
書き言葉
表層の意味語(詞)
┃
┃
┃
┃
表意文字━━━━━━╋━━━━━━表音文字
漢字(漢心) ┃ 仮名(大和心)
┃
┃
┃
深層の機能語(辞)
話し言葉
【31】言文一致とナショナリズム──柄谷文字論2
明治‐大正‐昭和とつづく近代日本に起きた出来事は、奈良‐平安‐江戸へ至る古代日本の出来事とパラレルです。それは、言文一致による、世界言
語(文字)の翻訳を通じた新しい「文語」の創造がもたらした──あるいは、言文一致運動推進のイデオロギーとしてはたらいた──音声中心主義の転
倒性において、そして、江戸期の国学がはらんでいた近代ナショナリズムへの傾斜と、昭和ナショナリズム(日本浪漫派、ファシズム)とのアイロニカ
ルな(?)関係性において、西洋近代のナショナリズムとの並行性を示してもいます。
2.言文一致の問題──ナショナリズム
◎日本語の文章はしゃべられていたものを書き写したものだとわれわれは思っているが、それは言文一致以後の錯覚に陥っている。われわれは書かれた
文章をしゃべっているのである。そもそも「日本語」(国語)自体が、明治以降の近代国家において形成された新しい概念である。江戸時代に国学者が
「大和言葉」を見いだそうとしたが、それは萌芽的に近代ナショナリズムにつながるものだった。近代のナショナリズムは、どこでもつねに言文一致の
運動とつながっている[*]。
【西洋のナショナリズム】
◎近代のネーションは俗語(ヴァナキュラーな言語)で書くこと、俗語での書き言葉を作りだすという過程と並行して生まれた。西洋においても、「言
文一致」は新たな文章表現の創出であり、それはその時代の人間がしゃべっていた言語ではない。
◎ダンテはイタリア語で『神曲』を書いたのではなく、ダンテが描いたものがイタリア語となったのである。彼の書いた文章は、その地域の音声言語を
そのまま表記したのではなく、ラテン語をその言語に翻訳したもので、だからこそ一地域の音声言語が、のちにイタリア語(国語)として規範化された
のである。またデカルトはラテン語とフランス語の両方で書いているが、彼のフランス語がのちに規範的になったのは、それがラテン語の翻訳だったか
らである。そもそもラテン語が規範的となったのは、それがギリシャ語の文献を翻訳することによって形成され整序されたからである。
【日本のナショナリズム】
◎大和朝廷がたんなる部族連合から「国家」へと発展するためには、「世界言語」すなわち漢字の存在が不可欠であった。漢字の到来は、①律令制(中
国周辺の東アジア全域に並行的に生じた一種近代的な政治的技術)というユニヴァーサリティをもった法制度と、②(中国における翻訳を通じてさまざ
まな技術・医術などをともなう文明として伝来した)仏教すなわち部族・血縁を超えた普遍的な「世界宗教」の導入をもたらした。
◎紫式部は漢文が非常によくできたが、あえて意図的に仮名と大和言葉のみを使って『源氏物語』を書いた。しかしそれは漢文でいっていることを大和
言葉らしく翻訳したというべきである。根底に漢文があって、それを翻訳したからこそ広範囲に読まれ、規範的なものになった。なぜそれができたかと
いうと、政治的な問題を省いて、主題を男女の愛の問題にしぼったから、政治的問題が絡めば必ず漢字を使わなければいけないこれと同じことをダンテ
もいっている。
[*]柄谷氏は「ネーション=ステートと言語学」(『定本柄谷行人集4
ネーションと美学』(2004年)所収)で、音声中心主義は近代のネーションに固有の現象であると書き(186頁)、次の註を付けている。
《デリダはプラトンの『パイドロス』に西洋における音声中心主義の源泉を見ている。たとえそのような「伝統」があるとしても、音声を重視する見方
はロマン派以後のものであり、彼らによって、プラトンのテクストに論拠が求められたのである。その点でいえば、八世紀の日本にも、漢字に対して表
音的な仮名を高く評価した思想家がいた。中国にわたり、密教を導入した空海である。彼はマントラ(真言)が音声であることから、それを表記できる
仮名がより優れていると述べ、また、仮名による日本の歌や物語を称揚した。だから、遡れば、八世紀の日本に音声中心主義があったといえなくはな
い。しかし、現実には、漢文が優位に置かれており、また、仮名よりも漢字仮名交用の文が標準であった。そして、仮名で書かれた古典──『古事記』
であれ『源氏物語』であれ──を重視したのは、一八世紀後半の本居宣長とその学派である。つまり、古典が評価されたことは、この時期の音声中心主
義によるものであって、たんにそのような古典が事実としてあったからではない。》(『定本柄谷行人集4』)
また、ソシュールについて次のように書いている。「一九世紀の史的言語学は、ネーション=ステートの拡張としての帝国主義のイデオロギーとなっ
た。私のみるところでは、それを最初に批判した言語学者こそがソシュールである。」(176頁)「たとえば、彼は文字を言語にとって外的なものと
見なした。しかし、それは文字が音声にとって二次的であるという考えからではない。音声言語を第一次なものみなしたのは、ロマン派の言語学者なの
だ。」(180頁)
【32】意識をつくる言語、意識がつくる言語─余録として
エクリチュールと声、漢字と仮名の関係をめぐって、個人的な関心事にそくした一文を余録として挿入する。個人的関心事とは、紀貫之の歌論(古今
集仮名序「やまとうたはひとのこころをたねとしてよろづのことのはとぞなりにける」)の解読、貫之歌の世界をどうとらえるかというもの。
以下に自己引用するのは、神田龍身氏(『紀貫之──あるかなきかの世にこそありけれ』)と山田哲平氏(「日本、そのもう一つの──貫之の象徴的
オリエンテイション」(『語りのポリティクス──言語/越境/同一性をめぐる8つの試論』所収))の議論を“素材”として(勝手に)編集した“偽
装”の論争をもとにした文章(出典は「哥とクオリア/ペルソナと哥」第16章)。
■二つの世界と二つの言語
……屏風歌や鏡像歌の詠歌体験を通じて、まこととまことならざるもの、リアルなものとフィクショナル(イマジナリー、ポッシブル)なものとの水
平的な交換関係を発見した貫之は、この二項関係が、実はもう一段下位のフィクションの上に成り立つものであることを自覚していた。そして、その根
源的なフィクション(何もないこと)を「地」として、「ある」と「ない」との水平的な交換関係が「図」として立ちあがるのか、あるいは逆に、「あ
る」と「ない」の交換を「地」として、「何もない」が「図」として透かし彫りにされていくのかはともかく、そのように二重化された交換関係こそ
が、森羅万象の世界を造形し稼動させる原理であり、かつ、言語というものがもつ根本的な構造にほかならないとの認識に達した。
貫之が、あくまで歌を詠む、あるいは編むという体験を通じて見出していった、この、世界と言語の構造的な相同性は、さらに高次元の交換関係を切
り結んでいく。すなわち、言語の構造は世界の実相を反映する写像なのか(世界内存在としての言語)、あるいは逆に、世界のあり方の方が言語をな
ぞっているのか(世界の造形・稼動原理としての言語)、端的にいえば、「世界が先か言語が先か」をめぐる二つの立場が、対等の権利をもって成り立
つことになる。この二者択一を前にして、貫之自身は、万象は言語の産物であり、「歌の心」(クオリア)や「人の心」(ペルソナ)もまた、言語がか
たちづくるコンテクストのうちに立ちあがってくるとする言語一元論の立場を採った。精確には、そのような「世界を創造する言語」へとつながる言語
観を“偽装”し、かつ、自らが“偽装”した領域内において「歌が歌を生みだす(アナグラム的な)プロセス」を探究した。
いや、問題は「言語が先か世界が先か」ではない。「ヴァーチュアル/アクチュアル」の垂直的な二者並立関係において、「言語/世界」なのか「世
界/言語」なのかということこそが、問われなければならない。(「言語/世界」や「世界/言語」がいかなる事態を表現しているかは、この際、措
く。肝心なのは、いずれの描像にあっても、両者の「垂直的な」並立関係が表現されていることである。)
しかるに、「言語が先で、世界は言語によって産出される」と主張するとき、言語の側がアクチュアルかつリアルである(言語の方が現実存在で、世
界はその言語によって仮構される)とするか、逆に、世界がアクチュアルかつリアルである(世界の方が現実存在なのだが、それは、言語によってその
ようなものとして制作される)とするか、そのいずれの場合にあっても、一方の側のヴァーチュアル性は否定され、リアルなものに対するフィクショナ
ルなものの側へと繰りこまれてしまう。つまり、言語と世界の関係が、「ヴァーチュアル/アクチュアル」の垂直的な並立関係から「フィクショナル
(イマジナリー、ポッシブル)/リアル」の水平的な交換関係におきかえられ、その結果、両者は同じ平面上で図地反転の関係を切り結ぶことになる。
それは、「世界が先で、言語は世界の内部にあって世界を映しだす鏡像である」と主張したところで同断である。
それでは、そもそも貫之において言語はどのようなものとして認識されるのか。
貫之歌(「二つ来ぬ春と思へど影見れば水底にさへ花ぞ散りける」)にあらわれた鏡像(水面に映じた桜)は、現実世界のたんなる写像ではなく、そ
こから現実世界と並行して存在するもう一つの自立世界が開いている。つまり、貫之の鏡像歌において、世界は二つあった。一つは、「中国」「仏教」
という普遍的文明や世界宗教によってかたちづくられた(アクチュアルかつリアルな)「現実世界」であり、いま一つは、その現実世界に投げこまれ、
そこにおいてたゆたうもう一つのローカルな世界、そして、「現実世界」からの自立や離反をめざす(ヴァーチュアルかつリアルな)「自立世界」であ
る。
この二つの世界に対応して、言語もまた二つある。貫之の場合、現実世界に対応するのが漢字・漢文であり、もう一つの自立世界に対応するのが仮名
文字・仮名文だった。そうだとすると、先の、言語と世界の関係をめぐる問いへの回答は、それが貫之における言語の位置づけをめぐるものであるかぎ
り、「言語/世界」でも「世界/言語」でもなくて、「ローカルな世界(=日本)/ユニヴァーサルな世界(=中国)」という垂直的な並列関係と、
「ローカルな言語(=仮名文字・仮名文)/ユニヴァーサルな言語(=漢字・漢文)」というもう一つの垂直的な並行関係とが、それこそ並行的に成り
立たなければならないというものになる。ローカルな世界がユニヴァーサルな世界からの自立をはたすためには、ユニヴァーサルな言語に拮抗しうる
ローカルな言語を確立しなければならないということだ。……
■意識をつくる言語、意識がつくる言語
……意識は、言語によってかたちづくられる。そうした力をもつ言語(意識をつくる言語)を「ユニヴァーサルな言語」と呼ぶならば、この言語が造
形する意識によっては掬いとることができない残余の意識(たとえば、神仏由来の光が達しない、あやなき闇にうごめく「あるかなきか」の音や匂いや
気配)、もしくは、そのような言語がかたちづくるコンテクストのうちにはすまいすることができない体験(たとえば、クオリアとしての「歌の心」や
ペルソナとしての「人の心」)が、ユニヴァーサルな言語に拮抗するものとしてつくりだす言語(意識がつくる言語)のことを「ローカルな言語」と名
づけることができる。
一つの言語には一つの世界が対応する。ユニヴァーサルな言語には「ユニヴァーサルな世界」が、ローカルな言語には「ローカルな世界」がそれぞれ
対応する。ところで、ユニヴァーサルな世界の住人にとっては、言語と世界(と意識)の関係はあまりに身近で自明なものであり、「世界が先か言語が
先か」(あるいは、「意識が先か世界が先か」「言語が先か意識が先か」)といった問いは意味をなさない。そのような問いを意味あるものとして受け
とめる(受けとめざるを得ない)のは、ローカルな世界の住人である。(「ユニヴァーサルな言語」や「ユニヴァーサルな世界」は、ここでの文脈でい
えば、それぞれ「漢字・漢文」であり「中国」である。しかし、これを一般化して、それぞれ「母語としての○○語」、「○○語が母語として使用され
る世界」におきかえて考えてもよい。)
ローカルな世界の住人の立場から、言語と世界(と意識)の関係を、「アクチュアル/ヴァーチュアル」の垂直的な並立関係にそくして構成すると、
まず最初に成立するのが、「ユニヴァーサルな言語/ユニヴァーサルな世界(意識)」である。この図式は、二つのことを同時に表現している。ローカ
ルな世界の住人にとって、ユニヴァーサルな世界(とそこに住む人間の意識)の実質は(ともに)ヴァーチュアルでうかがいしれないものであり、ただ
その言語(文字や音声)だけがアクチュアルで知覚可能なものであるということと、ユニヴァーサルな言語を永年にわたって使用しつづけることで、や
がて、そのような言語生活者のヴァーチュアルな心の次元に、ユニヴァーサルな世界の住人のそれと同等の意識が造形されていくということである。
意識は、言語によってかたちづくられる。このことを、ユニヴァーサルな世界の住人は自覚できないが、ローカルな世界の住人は痛切に自覚する(自
覚せざるを得ない)。なぜなら、そこには残余の意識と、ユニヴァーサルな言語をもってしては表現できない体験がうごめいているからである。いや、
そのような残余の意識や体験が、(たとえば、「からごころ」に対する「やまとごころ」のように)、ヴァーチュアルかつフィクショナル(イマジナ
リー、ポッシブル)なものとして仮構(制作)される、というのが精確かもしれない。しかし、たとえそうだとしても、残余の意識・体験は、いずれ、
ヴァーチュアルな次元におけるリアルなものとフィクショナルなものとの図地反転を通じて、ヴァーチュアルかつリアルなものとしての地位を獲得し、
やがて、あくまでヴァーチュアルな次元においてではあれ、ユニヴァーサルな言語に拮抗するローカルな言語をつくりだす。こうして、第二の図式、
「ユニヴァーサルな言語/ローカルな言語(意識)」が成り立つ。
(ちなみに、ここで、ヴァーチュアルかつフィクショナルな「やまとごころ」が、ヴァーチュアルな次元での「リアル/フィクショナル」の水平的交換
関係を介することなく、したがってユニヴァーサルな言語との拮抗関係を経ずして、直接的に「やまとうた」のうちに自らの表現を見出すのだ、といっ
た議論を展開することも可能である。たとえば、「はじまりの歌(=やまとうた)/人の心(=やまとごころ)」という描像を「偽装」することで。
ところが、その場合、「やまとうた」は「やまとごころ」から受け継いだフィクショナルなものという身分を保持したままアクチュアルな次元に位置
づけられることになり、すると今度は、アクチュアルな次元における「リアル/フィクショナル」の図地転換を通じて、アクチュアルかつリアルなもの
としての地位を獲得するに至る。その結果、「ローカルな言語/ローカルな世界(意識)」という図式が得られることになる。
しかし、これは、かの第一の図式「ユニヴァーサルな言語/ユニヴァーサルな世界(意識)」と同型であって、その意味するところは、ローカルな意
識(ユニヴァーサルな言語が造形した意識によっては掬いとられない残余の意識)が、自らに表現を与えるローカルな言語をつくりだし、そして、その
言語こそがユニヴァーサルな言語(意識をつくる言語)であると主張しているに等しい。もちろん、そのような主張をするのは勝手だが、少なくともこ
れは貫之の歌論とは似て非なるものである。)
ローカルな言語は、「ローカルな世界(意識)」を造形する。すなわち、「ローカルな世界(意識)/ローカルな言語」。(この議論の最初からでて
くる「ローカルな世界の住人」は、実はこの段階にいたってはじめて登場するものだった。)しかし、この図式は、たちまちのうちに、「ユニヴァーサ
ルな世界(意識)/ローカルな世界(意識)」という第三の図式におきかえられてしまう。なぜなら、ユニヴァーサルな言語(意識をつくる言語)の方
がローカルな言語(意識がつくる言語)よりも強力だからであり、したがって、ユニヴァーサルな世界とローカルな世界は、あたかも帝国と植民地の関
係のように、一つの政治権力が統治する平面上で対等の関係をむすぶことはできないからである。
かくして、「ユニヴァーサルな世界/ローカルな世界」と「ユニヴァーサルな言語/ローカルな言語」が並行的に成り立つ貫之の言語観が確立され
た。……
【33】漢字仮名交用をめぐって──柄谷文字論3
柄谷文字論は、たとえば言文一致のように古代と近代、洋の東西を問わない“普遍”的な事象と、漢字仮名交用のように日本固有の“単独”性をもっ
た事象とを峻別すること、そしてそれらの対を、非歴史的で“一般”的な事象(たとえば文法)とその特殊で“個別”な形態との関係と混同しないこ
と、この二点が、文字の分析にあたっての(あるいは柄谷行人の思考そのものの)方法的基軸となっています[*1]。
3.漢字仮名交用の問題─日本的なもの
◎日本では漢字と平仮名、カタカナを交ぜて書く二重三重の表記法が発展した。(三種類の文字を使って語(概念)の外来性を明確に区別している文字
組織は、日本のほかには存在していない。)それはたんに制度や思想を文字によって表記するという技術的な事柄ではなく、むしろ表記法自体が一つの
制度・思想としてあるのである。こうした文字の形態(漢字仮名交用という日本語のエクリチュール)が事実として一千年以上も存続してきているこ
と、それが「日本人」の心理・思想の形態を規定し「日本的なもの」を形成してきた。
【文字(抽象的概念)の外来性】
◎文字は外から来る。──抽象的で外来的なもの(文字的抽象語)と大衆的で土着的なもの(音声的日常語)との二重性は日本に固有なものではない。
輸入された概念が現実の生活と隔たったものであることは後進国ならばどこでも見られることである。逆に、隔たりがないことが抽象的概念の理解を妨
げる。たとえば日本語の「わび」「さび」は日常語(わびしい、さびしい)とつながっているから日本人はそれらを「概念」だと思っていない。(哲学
や数学は一種の外国語であると見なしたほうがいい。)
◎日本に固有なものは、(哲学言語と日常語との)隔たりがいつも文字表記において明示され分離されること、そして外来的なものがけっして内面化・
内部化されないということである。それは漢字仮名交用という表記法と密接に関連している。十八世紀に賀茂真淵や本居宣長が意識したのはそのことで
ある。
◎漢字・片仮名で表記されるとき、その語が外来語であるということがよくわかる[*2]。つまり漢字・片仮名で書かれると一定の価値(外来性)が
生じる。同時に反発も生じ、日本語・大和言葉が意識される。外来語と大和言葉の区別は、実は漢字・片仮名で書くか平仮名で書くかという区別にすぎ
ない。
【漢字仮名交用の歴史性】
◎漢字仮名交用は非常に「歴史的」な出来事(偶然)である。シンタックス・文法のような「非歴史的」な構造とは関係ない。
◎徂徠も宣長も漢字仮名交用という形態を純粋化しようとした。国学者は、漢字の部分は知的・道徳的あるいは理論的・概念的であるのに対して、仮名
の部分は具体的で「情」的でありさらには本質的であると価値を逆転したのである。こういう傾向は特別に日本的なものではなく、ヨーロッパにおいて
はロマン派としてあらわれている。そこでは、ヘルダーが典型的だが、言語を民族の精神的核として見いだしている。もし日本に独特なものがあるとし
たら漢字・仮名の対立として表象されたことであり、それは漢字仮名交用が「歴史的」に存続してきたからである。
[*1]柄谷氏が『トランスクリティーク──カントとマルクス』で導入した「普遍性─単独性」(異なるシステム=共同体間の交換=コミュニケー
ションにかかわる社会的で無媒介・直接的な回路)と「一般性─個別性」(同一の規則をもったシステム=共同体間の交換=コミュニケーションにかか
わる被媒介的な回路)という二組の概念を念頭においている。
試しに、第30節の註で導入した図式と重ね合わせると次のようになる。──この図を使って、たとえば書き言葉(エクリチュール)によって現実化
(アクチュアライズ)されるのが「ペルソナ」であり(文は人なり)、話し言葉(パロール)のうちに潜在するものが「クオリア」である、そして実在
(リアリティ)の世界、経験の世界において、この「パロール/エクリチュール」の動態が水平方向に“反復”される、などといった議論ができるかも
しれない。
(書き言葉)
単独性
┃
┃
┃
┃
一般性━━━━━━╋━━━━━━個別性
(表意文字) ┃ (表音文字)
┃
┃
┃
普遍性
(話し言葉)
[*2]「文字の地政学──日本精神分析」(『定本柄谷行人集4
ネーションと美学』)において、柄谷氏は、「漢字を訓で読むことは何を意味するか」という問いに対して次の二つの答えを与えている(228-229頁)。
「第一に、それは外来的な漢字を内面化することである。日本人は、もはや漢字を訓で読んでいるとは考えず、たんに日本語を漢字で表現すると考えて
いる。」「第二に、もっと重要なことは、訓読みによって、漢字は日本語の内部に吸収されながら、同時につねに外来的なものにとどまるということで
ある。」
訓読みに関して、ラカンは『エクリ』の日本語版序文に「音読みは訓読みを注釈する」云々と綴った。このよく知られた一節をめぐる柄谷氏の議論を
(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第78章から)自己引用する。
……柄谷行人氏は、講演録「日本精神分析再考」(ちくま学芸文庫『柄谷行人講演集成 1995-2015
思想的地震』)でラカンのこの文章を引いて、「実のところ、私は、これが何を意味するのか、いまだにわかりません」と書いています。「ただ、私はかつてこ
う考えたのです。日本人は漢字を受け入れたときに、それを訓で読んだ。つまり自国の音声で読んだわけです。その結果、自分の音声を漢字を使いなが
ら表現するようになる。これはありふれたことのようですが、実はそうではないんですよ。」(80頁)
ここで「かつて」と言われているのは、「日本精神分析再考」(2008年)のほぼ二十年前(1991年頃)に書かれた論文「文字の地政学──日
本精神分析」を念頭においた発言で、そこで柄谷氏は次のように書いていました。
《音読みは訓読みを注釈するのに十分だとは、何を意味するのか。それは、日本語の音声は、ただちに漢字の形態に変えることができるということであ
る。いいかえれば、音声とは別に、それを漢字で表示して意味を知ることができる。ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導
き出した理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよい。精神分析は無意識を意識化することにあるが、それ
は音声言語化にほかならない。それは無意識における「象形文字」を解読することである。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識
においてもあらわれる。そこでは、「無意識からパロールへの距離が蝕知可能である」。したがって、日本人には「抑圧」がないということになる。な
ぜなら、彼らは無意識(象形文字)をつねに露出させている──真実を語っている──からである。》(『定本 柄谷行人集4』232頁)
柄谷氏の解釈は、「音読み=文字(漢字)」が「訓読み=声(やまとことば)」を注釈する(翻訳する、通訳する、解釈する)ということです。ここ
で私は、ちょうど読み終えたばかりの辻邦生著『西行花伝』に、「森羅万象[いきとしいけるもの]」や「存在[あるまま]」といった独特のルビを
振った漢字が使われていたことを想起しています。このほかにも、任意に開いた頁から拾うと、理想[のぞみ]、連帯[むすびつき]、所管事項[なす
べきこと]、倫理規範[いきかた]、影響[かげのちから]等々。
漢字(象形文字)とルビの関係は「マンガの絵とフキダシ」の関係である(養老孟司)とか、少女マンガのフキダシは「心の中の声」や「無意識の
声」まで語っている(内田樹)といった議論をここに持ち込むと面白いと思いますが、私が気になっているのは、音読み(シンラバンショウ)も訓読み
(いきとしいけるもの)も共に「読み」であること、すなわち音声を対象にしていると捉えるのが素直なのではないかということです。
また、「ムソオシンニョ」すなわち能における「音と動きの流れに添って謡われる歌、…歌というより、むしろ一種の呪術的な祈りのことば」をめぐ
る観世寿夫の議論(「無相真如」,『観世寿夫
世阿弥を読む』)にあっては、文字(漢字)ではない、字義通りの「音(読み)」がマテリアルなかたちで露出しています。
あるいは、「音読み=文字(漢字)」に対する「訓読み=文字(かな)」を考えるることもできるはずです。山城むつみ氏は「文学のプログラム」
で、次のように書いています。
《…日本語においては、〈訓読みによる音読みの注釈〉と〈音読みによる訓読みの注釈〉と両方の可能性があるにもかかわらず、ラカンが特に後者に注
目したのはなぜだろうか。と問うことで気になってくるのは、音読みにより訓読みを注釈するという場合、この注釈において隠れた核となっているのが
文字の機能だということである。「よむ」という音声の下には外来の文字(読、詠、数、節、誦、訓などの漢字)の力が働いている。だからこそ「音読
みは訓読みを注釈するのに十分」たりうる。端的に言えば、音読みにより訓読みを注釈するということが可能なのは、日本語が中国語から文字を借用し
ているからである。〈音読みによる訓読みの注釈〉にラカンがとりわけ注目したのは、そこに外来の文字の機能が含まれているからなのである。「本当
に‘語る’人間のためには……」「……を‘話す’などという幸運」など、ラカンはもっぱら音声言語に注目しているように見える。だが、より接近し
て‘読む’ならば、すなわち聞くだけで流しさえしなければ、彼が発見しているのは、実はむしろ、日本語の話し言葉[パロール]の内部における文字
[エクリ]の機能の方であることがわかる。》(講談社文芸文庫『文学のプログラム』180-181頁)
山城氏の議論、すなわち「音声(パロール)の下の文字(エクリ)」という解釈は、柄谷氏のそれに通じています。そのことを確認したうえで、あえ
て誤読をして、次のように言っておきたいと思います。すなわち、山城氏が言う「音声」(=日本語の話し言葉)とは、実は、中国語から借用した日本
語の文字としての「かな」(偽装された日本語音)のことであり、したがって、ラカンがもっぱら注目したのは、「文字(かな)の下の文字(漢字)」
すなわち「表音文字の下の表意文字」であったと解釈することが可能なのだと。……
【34】詞辞論をめぐって──柄谷文字論4
柄谷文字論の射程は広く、かつ深いものがありますが、今の段階ではその全貌を見渡すに力及ばず、漢字仮名交用に由来する「詞辞論」をめぐる議論
の摘録をもって、とりあえずこの話題を終結させます。
これはずいぶん先走った話になりますが、いま強烈な関心を寄せているのは、日本語文法と日本の思想との関係、いやもっと一般的に、そもそも文法
と思考(物思いや漠然とした感じを含めて)との関係はどうなっているのか、といったことです。その手始め、というか手がかりになるものの一つが詞
辞論ではないかと直観しているのですが、いずれにせよ今の段階ではここまで。
このテーマをめぐっては、いずれ、柄谷文字論に強い関心を寄せる浅利誠氏をはじめ、藤井貞和、金谷武洋、山本哲士といった(反時枝誠記・親三上
章派の?)面々の著書も読み込んだうえで、あらためて取り組みたいと目論んでいます[*1]。
4.漢字仮名交用の問題─詞辞論
◎漢字仮名交用における漢字と仮名の区別が、日本語文法における詞(意味語)と辞(機能語、てにをは)の区別につながる。国学派の言語論を再評価
した時枝誠記は、 be
動詞(コプラ、繋辞)の両側に主語と述語がある西洋語を「天秤型」と呼び、日本語は「詞」を「辞」が包む「風呂敷型」であるとした。時枝は国学者よりも
もっと根本的に考え、何も無い「空」が「詞」を包んでいると考え、「花が咲く」は「花が咲く*」が原型であり、文全体を構成する「ゼロ記号
(*)」には「のだ」や「だろう」など何が入っても構わないとした。
◎時枝は西田哲学の影響を受けている[*2]。つまり、こうした問題はたんに文法構造から来るのではなく、ロマン派以後の問題関心から来るもので
ある。だからそれを文法の問題、非歴史的な構造の問題にもっていってはいけない。詞と辞の区別は、理論的・道徳的な部分は漢字で、感情・情動・気
分は仮名で書き分けてきた歴史的出来事にもとづいていて、国学者は後者を中心においた。これは日本にだけ起こったことではないが、西洋ではそれが
「存在(being)」という語に集約され、日本では「てにをは」に集約されたのである。
◎「詞」に何を入れようと「辞」(てにをは)が変わらないかぎり「述語的同一性」は保たれる。この構造は、どんなものが外から来ても変わらない。
丸山眞男は『日本の思想』で、ヨーロッパの思想には原理的な座標軸があるが日本の思想にはそれがない、たとえ外来思想を受け入れても座標軸と交錯
することはなくたんに空間的に雑居していくだけだといっている。竹内好は中国やアラビアでも思想の座標軸があるといった。日本の原理はゼロ記号み
たいなもので、外のものに「抑圧」(フロイト)されない「排除」(ラカン)の構造をもっている。それはあの漢字仮名交用という文字の表記法に深く
関係してる。
[*1] 以下に(一切の説明抜きで)掲げるのは、門外漢ながら貫之歌論に思いをはせているうち、しだいに私の脳髄に沈澱してきた、推論(「虚構
の現実化」他の夢の体験)と文法カテゴリーとの対応関係をめぐる「仮説」である。これらの実質については、いずれ「推論的世界」や「文法的世界」
のタイトルのもとで取り組みたい。
Ⅰ.類似(analogy)
①「内と外」の往還:帰納(induction)⇔「虚構の現実化」
:第一次内包:様相(modality)
②「一と多」の連結:洞察(abduction)⇔「自己の分裂」
:第〇次内包:人称(person)
Ⅱ.照応(correspondence)
③「裏と表」の縫合:演繹(deduction)⇔「時間の変容」
:第二次内包:相(aspect)・時制(tense)
④「無と有」の反転:生産(production)⇔「他者への変身」
:マイナス内包:態 (voice)・法(mood)
N.伝導(conduction)
:無内包:無様相・無人称・無時制・無態
[*2]西田幾多郎と時枝誠記を結ぶ系譜を、貫之にまで遡って考えてみた。
〇貫之歌論のエッセンスは「ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」。「ひとのこゝろ」=言詮不及の「純粋経験」(西田哲学
の起点)を一般的に語る言語が可能なのは、純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を宿していたから、というのが永井均氏の説(『西田幾
多郎』)。
〇かくして「ひとのこゝろ⇒ことのは」の貫之歌論と「純粋経験⇒言語」の西田哲学が響き合う。この歌論と哲学の間を国語学が、そして貫之と西田の
間を本居宣長が繋ぐ。西田の「場所の論理」と時枝誠記の「言語過程論」が響き合い、時枝の「詞辞論」が宣長の「てにをは(詞の玉緒)」論と結びつ
く。
〇時枝誠記の『国語学原論』が刊行された1941年、今西錦司は最初の著書『生物の世界』を上梓した(泥沼化する日中戦争下、いわば「遺書」とし
て)。「明らかに」と安藤礼二氏は書いている。今西の『生物の世界』は「師」である西田の生命論(「論理と生命」他)から生まれていると(『縄文
論』56頁)。
〇今西にはもう一人の「師」があった。柳田國男である(『縄文論』56頁)。鶴見太郎によると柳田の下に継承者は育たず、柳田の学問はその影響を
受けた「周辺の人々」よって継承された。オオカミに関する伝聞を調査し、三高時代に『遠野物語』を「暗記するぐらい読んだ」(『自然学の展開』)
今西の仕事がそうであったように。
〇柳田國男の民俗学は江戸期の国学に通じる。「もののあはれを知る」ことをめぐる本居宣長や弟子の平田篤胤に通じる。かくして紀貫之と今西錦司を
結ぶ複数のラインが完結する。貫之に発し俊成・定家の歌論、心敬・世阿弥・利休・芭蕉の芸論を経て宣長へ、そして(時枝誠記と並行しつつ)西田幾
多郎を介して宣長から今西錦司へ、あわせて柳田国男を介して平田篤胤から今西錦司へ。
〇安藤礼二氏によると、平田篤胤とエドガー・アラン・ポーは同時代人にして「分身」である(『迷宮と宇宙』21頁)。柳田國男は平田篤胤の「幽冥
界」に並々ならぬ関心を抱き、そこから民俗学を立ち上げた(同書22頁)。西田幾多郎はポーの詩の翻訳者ボードレールをめぐって「象徴の真意義」
という論文を書いた。
○金谷武洋氏は『日本語と西欧語』にこう書いている。「今西錦司は三上章と旧制三高で同期だったが、三上がいなかったら僕の進化論はなかったとま
で言明している、」──貫之と今西錦司を結ぶラインのうちに、時枝誠記ではなく三上章を据えるもう一本の系譜を考えることができる。
【35】声の文化と文字の文化・その他、後口上として
『枕草子』(ピーター・グリーナウェイ監督)の映画パンフレットをはじめ、文字特集を組んだ『ユリイカ』(1998.5)や『批評空間』
(1993 No.11)等々の多くの手元にある素材を活かすことができないまま、「文字的世界」を閉じることにします。
石川九楊氏の文字論その他の文献、たとえば『プラトン序説』(エリック・A・ハヴロック)や『プラトンと反遠近法』(神崎繁)等々、そしてなに
よりジャック・デリダの著書を主題的に取りあげられなかったことが心残りですが、声と文字の拮抗をめぐる第三の仮説、というより論題に関する最後
の話題として、ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化[ORALITY AND
LITERACY]』(桜井直文他訳)から、「神の声」と「神のことば」に関連する個所を抜き書きして、本稿を(いったん)閉じることにします。
(文中の〔 〕は訳者による補足。なお、第一の引用文で言及されているのは、意識は右脳がささやく神々の声を左脳が聴く幻聴に基づく「両脳的」な
精神(bicameral
mind)、直訳すれば「二院制」の精神構造の衰弱とともにほぼ三千年前に誕生したとする、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興
亡』の議論。)
《ジェインズは、脳が強固に「両脳的」であった意識の原初的な段階を、つぎのような特徴によって識別する。つまり〔その段階では〕、脳の右半球
が、制御不能な「声」を発し、その「声」は神々に帰せられ、そして、脳の左半球がそうした神々をことばで言いあらわしたのだ、と。「声」は、紀元
前二千年から千年のあいだに、その有効性を失いはじめた。注目すべきは、紀元前千五百年ごろのアルファベットの発明が、この時期をきれいに二分し
ていることである。明らかにジェインズは、書くようになったことが、原初の両脳性の衰弱に手を貸すことになったと信じている。『イリアス』が、
ジェインズに、自意識に災いされていない両脳性の実例を提供する。『オデュッセイア』は『イリアス』に百年遅れてあらわれたとかれは考え、才知に
たけたオデュッセイアは、もはや「声」の支配に屈することなく、自意識をもった近代的な精神へと飛躍的な前進をとげたのだと信じている。(略)声
の文化と両脳性の問題は、おそらくもっと研究されてもよいことである。》(『声の文化と文字の文化』68-69頁)
《人間のすべての宗教的伝統は、声の文化に根ざした過去のうちにその遠い起源をもっている。また、そうした伝統はすべて、話されることばを非常に
重んじているように思われる。しかし、世界の主要な宗教は、聖なるテクスト(ヴェーダ、聖書、コーラン)の発展によっても内面化されてきた。キリ
スト教の教義においては、声の文化と文字の文化の二極性がとくに先鋭化している、おそらく他のどんな宗教よりも(ユダヤ教徒とくらべてさえも)先
鋭化している。なぜなら、キリスト教の教義においては、唯一神性の第二位格
Person、人類の罪をあがなうこの第二位格が、「神の子」と呼ばれるばかりでなく、「神のことば Word of
God」とも呼ばれるからである。この教義にしたがえば、父なる神はかれの「ことば」、かれの「子」を口に出す、あるいは話すのである。神はけっしてそれ
を書きつけるのではない。「子」の位格はまさに「神のことば」からなりたっている。しかしながら、キリスト教の教義の核心には、神の書かれたこと
ば、すなわち聖書もまた存在している。聖書は、人間の著者たちの後見として、他のどんな書物ももたない、著者、神をもっている。神の「ことば」の
この二つの意味は、たがいにどのようにかかわっているのだろうか。また、この二つの意味は、歴史における人間とどのようにかかわっているのだろう
か。》(『声の文化と文字の文化』363-364頁)[*]
※
落穂拾い、その一。
小津夜景著『ロゴスと巻貝』に、「詩とは読めない文字で書かれた、詩としか言いようのないもの」という印象的な一節がある。この「読めない文
字」とは扁額に墨書された字であり、「心という紙」に書かれる「発音することができない意識の粒立ち」のこと。(それは、かの「読まれないのに文
字であり続ける」夢のなかの文字(矢口浩子・新宮一成)に通じる。)
《西洋では古くから、言葉においては声(パロール)こそ意識のオリジナルであり文(エクリチュール)はそのレプリカであると考えられてきた。いう
なれば声は生花、文は造花というわけである。でもほんとうにそうなのだろうか。言いたいという衝動はあれど、頭がつっかえて声にならない、そんな
もどかしい状態というのは大人でもよくある。そしてそんな状態のとき、ひとは心という紙の上に、ああでもないこうでもないと落書きをしている。記
号の分化をうながす未踏のリフ。概念が固まろうとするヴァイブレーション。そういった、発音することができない意識の粒立ちを、ごしごしとこすり
つけている。少なくともわたしは喃語の出口をうろついているころからそれを続けてきた。》(『ロゴスと巻貝』22-23頁)
※
落穂拾い、その二。
奇しくも『声の文化と文字の文化』と同じ年(1982年)に原著が刊行された『言葉と死──否定性の場所にかんするゼミナール』(上村忠男訳)
から、ジョルジュ・アガンベンによるヘーゲル『精神現象学』第一章「感覚的確信、あるいは〈このもの〉および言いたいとおもっていること」の引用
を孫引きする。
《わたしたちは感覚的なものをも一般的なものとして‘言葉で表現する’。そして、わたしたちが言葉で表現するものが‘存在する’のである。〈この
もの〉とはすなわち‘一般的な’〈‘このもの’〉のことである。あるいは、〈それが存在する〉(es
ist)とはすなわち〈‘存在する’〉‘一般’のことなのだ。その場合、もちろん、わたしたちはその一般的な〈このもの〉、あるいは〈存在する〉一般をわ
たしたちの前に‘表象している’(vorstellen)のではなくて、一般的なものを‘言葉で表現している’(aussprechen)のであ
る。いいかえるなら、わたしたちはそれをわたしたちが感覚的確信のなかで‘言いたいとおもっている’(meinen)とおりのままには言っていな
いのである。しかしながら、見られるように、言葉で表現されたもののほうが〔言いたいとおもっていることよりも〕いっそう真なるものである。言葉
のなかでは、わたしたちは直接にわたしたちの‘言いたいとおもっていること’(unsere
Meinung)に背く。そして、一般的なものが感覚的確信の真理であり、言葉はこの真理を表現しているにすぎないのであるから、わたしたちが言いたいと
おもっている(meinen)感覚的な存在を言葉にして表現する(sagen)ことができるなどということは、とうていありえないのだ。》(『言
葉と死』36-37頁、‘ ’は訳文では傍点)
文中の「meinen」に付された訳注。「“meinen”は、わが国のヘーゲル研究者のあいだでは通常「思いこんでいること」と訳されるが、
アガンベンはこれに“volere-dire〔言いたいとおもっていること〕”という訳語をあてている。」
[*]第二の引用文を読みながら念頭に浮かべていた“構図”を(ここでもまた、一切の説明抜きで)記録しておく。「ペルソナ的世界」への踏み台と
して?
神の声
<クオリア> 音声言語
α ……………… α´
\ \
\ \
\ \
\ \
β ……………… β´
文字言語 <ペルソナ>
神の書かれたことば