仮面的世界



【1】仮面考・再起動の辞と前口上(壱)─今福龍太「仮面考」

 かつて「仮面」もしくは「仮面的なもの」に対する興味・関心が嵩じて(あるいは仮面の魔力に魅入られ、取り憑かれて?)、手元にある文献や資料 を摘まみ食い的に眺め、拾い読みし、そこからいくつかの素材あるいは「思考細片」のごときものを抽出・蒐集し、決して網羅的・体系的にではなく、 「仮面考」の標題のもとで仮編集したことがあります。
 それらは、いずれ取り組まれるべき‘後の考察’のための準備作業として行ったものであり(少なくとも心積もりとしては)、しかも当初予定してい たところまでやり通すことなく、中断し放置したままになっていました。
 あれからほぼ四半世紀が過ぎて、この間も「仮面(的なもの)」への興味や関心は涸れることなく細々と続き、あたかも伏流水のように時々の関心事 の底辺に淀んでいました。(例によって網羅的・体系的ではないけれども、目についた文献や資料を入手し、時々に頭に浮かんだ‘アイデア’類似の思 いつきを書き留めてもきた、読み込みも反芻も‘後の考察’に委ねたままで。)
 ここにきてようやく、再開へのモチベーションが高まってきました。やり残した作業を完遂し、仮綴じのまま寝かせ発酵もしくは腐敗のプロセスが進 行するに任せてきた断片的な‘着想’や‘考察’(と言えるものであれば)にまともな形を与えておきたいという思い、というか内圧が強くなってきた のです。
 こういう時は、最終的目標や着地点のイメージに拘らず、とにかく行けるところまで行く、気が変わったら方向転換し、行き詰ったら中断を恐れな い、という緩い方針のもとさっさと着手してしまうに限ります。
 とりあえず、前回の試みの‘成果’(と言えるものがあれば)をダイジェストし、枝葉末節を削除して足らずを補い、新たな文献や資料から知見や創 見を引き出してみる。そうすることによって、「仮面(的なもの)」という観点から見た世界、すなわち「仮面的世界」の概形を描き、さらなる‘探 究’への道筋をつけていく。
 おおよそ以上のような‘構想’のもと、気儘な作業に取り組んでいきたいと思います。

     ※
 前口上として、仮面考の再起動を‘決意’するに至った背景について述べます。
 間接的な理由となったのは、今福龍太氏が『すばる』誌上で「仮面考」の連載を始めたことです。
 私は到底、多産・豊穣な今福本の良き読者だとは言えませんが、それでも、『荒野のロマネスク』『ここではない場所 イマージュの回廊へ』『身体 としての書物』『薄墨色の文法──物質言語の修辞学』といった、濃密なマテリアルと深甚な思索を湛えた書物に接し、強い刺激を受けてきました。 (とりわけリリカルでポエティックでマテリアルな文章で綴られた『薄墨色の文法』からは深甚な影響を受けた。)
 その今福龍太が「仮面なるもの」に対して真っ向から、‘満を持して’取り組みを始めるというのですから、心穏やかではいられません。

《思い起こせば、あの[子供時代の鬼ごっこにおける──引用者註]両手で自分の顔をおおう仕草にはじまり、私はさまざまな「仮面なるもの」と出 会ってきた。(略)それらを渉猟し、探究しながら、仮面はいつも私が世界を見、人間について考えるとき、その想像力の飛躍のための特別な手がかり でありつづけた。
 「面[めん]」は「面[おもて]」でもあり、それは「心[しん]」をその反面として持つことによって、「実存」なるものの一貫性にたえず深い亀 裂を刻みつづけ、その安定を揺るがしつづける文化的媒体である。いいかえれば、仮面は人間の存在論的な自省と批判のための特権的なメディアなのだ といえるだろう。そしてそのために、「仮面」は人間の創造的な表現のもっとも深い様態としての、社会的・文化的・神話的「演技[ドロメーノン]」 が練り上げられる高度な表現作用の場ともなった。世界に厚みのあるリアリティを付与するために、仮面という演劇的な仕掛けは実際にも、また象徴的 にも、きわめて重要な媒体として歴史のなかではたらいてきたのである。》(「仮面考第一回「恐怖と仮面──ポーからボルヘスへ」」,『すばる』 (2022年2月号)167-168頁)

 いま抜き書きしたこの一文は、「仮面なるもの」をめぐるほとんど窮極の発言のように思えます。ここまで言われたら、あとはただ今福氏の議論を丹 念にトレースし、そこに描出・剔出される世界に身を委ねるだけでいいのではないか。
 それはそうかもしれないけれど、やはり、今福氏の議論に注目しつつも、やりかけのままだった作業に一応の‘かたち’を与えて、自分なりの「仮面 的世界」を造形してみたい。それが、仮面考再起動の間接的な動機です。


【2】前口上(弐)─洞窟壁画・神話文字・韻律

 仮面考再起動の動機となったもう一つの、より直接的な背景について述べます。

 昨年暮れ、安藤礼二著『縄文論』にしばらく没頭していました。今西錦司の主体性の進化論から西田幾多郎の場所論へ、そして縄文とラスコーへ── アンドレ・ルロワ=グーランとジョルジュ・バタイユと岡本太郎が躍動するその物語世界に浸っているうち、かつて心惹かれた洞窟ないし洞窟壁画の世 界への、ひいては「洞窟的なもの」それ自体への関心・嗜好が再熱しました。そして、旧仮面考の(中断直前の)最終局面において、「仮面(的なも の)」の「原型」としての洞窟の存在が大きく浮かび上がってきていたことを、まざまざと思い出したのです。
 このあたりの経緯については、これまでnoteに‘勝手に’連載してきた韻律論の(幻の)最終回に書きました。『身ぶりと言葉』のアンドレ・ル ロワ=グーランの洞察に(ここでもまた孫引きのかたちで)触れたもので、いったんは‘没’にした文章ですが、「韻律的世界」から「仮面的世界」へ と考察(関心)の対象が移行するこの局面で、その使い道がみつかりました。

 ……安藤礼二氏は『縄文論』で、北京原人を発掘したティヤール・ド・シャルダンからの刺激を受け中国を目指しながら、日中戦争の勃発によって日 本での滞在を余儀なくされたアンドレ・ルロワ=グーランが、列島北端の狩猟採集の民アイヌの集落を訪れ、女たちの身体に文身(いれずみ)として彫 り込まれ、また衣服にシンボリックに表現された抽象的で複雑な紋様に衝撃を受け、やがてそれらの紋様と縄文人が土偶に刻みつけ造形した紋様とを関 連づけたことを紹介しています。

《しかし、より重要なことは、ルロワ=グーランが、「文字」をもつことはなかったが、豊かな口承文化、リズミカルに歌われる無数の「神話」をもつ 人々がおり、彼ら彼女らには同時に豊かな装飾文化もともなわれていたということに目を見開かれされた点にある。人間の「口」と「手」がただ一義的 に結びつけられることによって「文字」が生み出されたのは新石器革命以降、都市が生まれ、国家が生まれ、「文明」が組織されて以降のことだったの だ。書くことと語ることが一義的に結びつかない、つまり、装飾的な文様をあらゆるものに刻み込み、同時に多声的に語られる「神話」に包み込まれて 日常の生活を送っている人々が現実に存在していたのである。しかも、彼ら彼女らの生活は、国家以前にして「文明」以前に位置づけられる採集と狩猟 にもとづいていた。》(『縄文論』197頁)

 ここに述べられたこと、すなわち「口」(歌う=語ること、リズミカルに歌われかつ多声的に語られる神話)と「手」(刻む=書くこと、装飾的な文 様)との並行関係は、洞窟壁画における具象的な「図像」(フィギュール)と抽象的な「記号」(シーニュ)の並行・共振とパラレルなものです。

《後期旧石器時代の狩人たちが遺してくれた洞窟壁画を前にしたアンドレ・ルロワ=グーランは、ジョルジュ・バタイユと同様、そこに具象的な動物の 「図像」だけでなく、抽象的な思考の「記号」が刻み込まれていることに深い関心を抱く。特にその「記号」は、過剰な装飾性に満ちた世界を生きてい たアイヌの人々や縄文の人々が自分に示してくれた「文字」以前の「象徴」、絵を描くこと(「絵画」)と文字を書くこと(「エクリチュール」)をい まだに分けることができない野生の「表意文字」にして野生の「象形文字」なのではないか。それは、ヨーロッパ人には当たり前となってしまった音声 (聴覚的な言語)と形態(視覚的な言語)が一対一の関係で結びついたアルファベットとはまったく異なった成り立ちをした、人類の表現がもつもう一 つ別の可能性だったのではないか。音声(「口」が発する聴覚的な言語)も形態(「手」によって描かれる視覚的な言語)も、それぞれ一対一の対応に は限られない、豊かに並行し共振する多種多様な可能性に満ちたものだったのではないのか。新石器の革命がそのことを忘れさせてしまった。》(『縄 文論』199頁)

 ルロワ=グーランは、洞窟壁画を構成する具象的な図像と抽象的な記号を一括して「神話文字」(ミトグラム)と総称しています。安藤氏が言うとこ ろの野生の「表意文字」にして野生の「象形文字」、つまり「文字」以前の文字。それはまた、洞窟を共鳴体とする音楽と、洞窟の形状に即して重ね描 きされた絵画との合成によって上映される映画、あるいは霊的身体(変容意識体)によって演じられる聖なる舞踊のごときものである、と言ってもいい でしょう。
 ここに、ライムとモアレの並行関係とそれを支えるリズムの共振によって導出される韻律的世界の原型が示されています。そしてそれと同時に、私が 構想する伝導体の原器たる「仮面的なもの」の実質もまた、過不足なく明らかにされています。
 ──かくして、「韻律(的なもの)」から「仮面(的なもの)」へと、探究のトポスが移行していく。洞窟の内部から外部へ、精確には内部と外部と の「あわい」、すなわち媒介にして媒質たるもの(坂部恵が「あわい」を英訳した“Betweenness-Encounter”)の方へ。……

 ここで私が考えていたのは、(広義の)「仮面(的なもの)」の原型的形態としての洞窟、その生成原理としての韻律、そして(狭義の)「仮面(的 なもの)」としての「文字」(「文字」以前の文字=ミトグラム)といった事柄でした。ただし、ここから先は「前口上」の守備範囲を逸脱するので、 続きの議論は後の機会に委ねたいと思います。


【3】前口上(参)─『仮面の道』『仮面の解釈学』『〈個〉の誕生』その他

 本論に入る前に、もう少し‘余談’を続けます。

 前々節で、四半世紀前に「仮面(的なもの)」をめぐる考察を中断してからも、関連する文献や資料は目につく範囲で入手してきたと書きました。集 めるだけで、肝心の中身を確認することはあまりできていないですが、そもそも蒐集の対象から除外してきた(敬遠していた)ジャンルがあります。文 化人類学や民俗学における仮面研究、仮面論の類、古今東西の仮面劇にかかわる論考がそれです。
 このことは、旧仮面考の段階でも、なかば意図的に採用していた‘方針’でした。たとえば、クロード・レヴィ=ストロースに言及したのはただの一 度だけ、それも川田順造の『聲』を「驚くべき豊穰さをそなえた名著」と称えたという話題のなかで間接的なかたちでその名を出しています。また、能 面についても直接的には触れていなくて、仮面論ときけば誰しもが思い浮かべる和辻哲郎の「面とペルソナ」への言及も皆無なのです。
 いま「なかば意図的に」と書いたのは、一つには、仮面の文化論や芸術(表現)論のごときものには、当面の基礎的・原理的・理論的な考察を、自分 なりに一応の得心がいくまでやり通した次の段階で、いわば応用篇として向き合いたいと考えていたからであり、いま一つの理由は、そうした具体の世 界での仮面をめぐる諸現象は膨大深甚かつ錯綜していて、到底自分の手には負えないと見切っていたからと、あらためて振り返ってみて思い当たったか らです。
 とはいえ、「仮面(的なもの)」をめぐる基礎的思考をめぐらせるためにも、レヴィ=ストロースが華麗な事例分析を通じて抽出した「構造」を参照 することは必須であるし、和辻哲郎の議論のエッセンス、あるいは、今福龍太氏が「仮面考2「顔、面、ペルソナ──和辻哲郎に導かれて」」で、和辻 の思想を引き継ぎ「人間の顔と仮面をめぐる現象学と存在論とを精緻な哲学的な展望のなかに置きなおした」と評した坂部恵の『仮面の解釈学』への目 配りを忘れることは決してできないでしょう。

 そういうこともあって、私はかねてから、仮面考を本気で再開する気になった際には、なにをおいてもまず、それまで遠ざけてきたレヴィ=ストロー スの『仮面の道』を入手することから始めようと心に決めていたのでした。
 そして同時に、「仮面(的なもの)」をめぐる考察の‘本丸’もしくは‘最終到達点’であると、実は密かに見定めていた坂部恵(と和辻哲郎)の思 考に対して、少なくともその原理的・理論的な部分に関しては、真っ向から挑まねばならないと覚悟を決めていたのでした。
(覚悟を決めるとはまたずいぶん大仰な物言いだが、私はこれまで坂部恵の著書に何度も挑み、その都度、心ゆくまで存分に咀嚼しきれた実感がもてな いまま読過してきた。刺激が大きすぎ深すぎて容量を超え、また当方の興奮が制御不能となって処理しきれなくなるからだ。だから坂部恵を本気で読む ことは、もしかしたら帰ってこれない世界へ足を踏み入れることである。)

 実質のない話題を、あと一つ付け加えます。
 レヴィ=ストロースの『仮面の道』(ちくま学芸文庫)を購入したのとちょうど同じ頃、坂口ふみ著『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人 びと』の岩波現代文庫版が刊行されました[*]。これはきっと幸先の良い符合に違いないと、その時直感しました。というのも、私はかつてこの書物 を読み、「仮面(的なもの)」をめぐる考察への重要な手掛かりを得たからです。
 このことについては、後に、旧仮面考を‘回顧’する際にでも触れることにして、もう必要以上に長くなった「前口上」をここで閉じることにしま す。(『〈個〉の誕生』以外にも上述の『聲』や『ジンメル・コレクション』所収のエッセイ、ディディエ・アンジューの『皮膚-自我』やミシェル・ セールの『五感 混合体の哲学』、そして洞窟壁画への関心を強く刺激された木村重信著『はじめにイメージありき』など、当時気を入れて読み込んだ (抜き書きした)書物がいくつかある。これらについても、できれば四半世紀ぶりの再読を通じて新たな転回へのヒントを得たいと思っている。)

[*]山本芳夫氏が『〈個〉の誕生』の文庫解説「かけがえのない「個」への導きの書」の中で、次のように書いていた。これを読むにつけ、坂部恵が 「仮面考」の最重要人物であることにあらためて気づかされる。

《本書が一九九六年の春に刊行されたことをいち早く私に教えてくださったのは東京大学を退官されたばかりの坂部恵先生であった。古今東西の思想に 通じておられた坂部先生は、『ペルソナの詩学』(岩波書店、一九八九年)の著者でもあり、『〈個〉の誕生』の中心概念でもある「ペルソナ(人 格)」概念についても、古代におけるその誕生から、西洋近代とりわけカントにおける展開、そして和辻哲郎の人格論など、日本の近代哲学における展 開まで含めて、その重要性を熟知しておられた。
 その坂部先生が、大学院でトマス・アクィナスを研究し始めていた私にくださった励ましの言葉は、「中世哲学を、近現代の哲学との対話という広い 土俵へと引っ張り出してください」というものであった。(略)
 そして、そのような励ましの言葉を私に語ってくださったさいに、「つい最近刊行されたばかりの坂口ふみさんの『〈個〉の誕生』という本などは、 まさにそのための手がかりを与えてくれる書物だと思う」と付言してくださったのである。…このコメント以上に的確に本書の存在意義を捉えたコメン トを私は知らない。
 本書は、古代末期のキリスト教の教理論争を背景に生まれてきた古代末期から中世にかけてのキリスト教的な神学・哲学という、一般読者にはほとん ど無縁とも思われる分野を、現代を生きる一人ひとりの生と接続させてくれる稀有な書物なのである。》(『〈個〉の誕生』(岩波現代文 庫)401-403頁)


【4】旧仮面考─舞は声をもって根となす(前段)

 これより本論に入ります。まず、旧仮面考の概形の確認から。

★仮面考・第一回「音=声を通して」
《http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/19.html》
★仮面考・第二回「顔=貌に面して」
《http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/21.html》
★仮面考・第三回「身=実を割いて」
《http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/22.html》
★仮面考・第四回「名=徴を超えて」

 「仮面(的なもの)」を構成する声・顔・身の三つの要素、あるいは(必ずしもこの三項と専属的な対応関係にあるわけではないが)、機能(現象) と形態(形相)と物性(質料)に関する原理的考察、およびそれらの契機の三位一体的な関係をめぐる理論的探究を試み、その‘成果’の上に「仮面の 記号論」なる第四のものをうち建てたい、それが、当時漠然と思い抱いていた目論見でした。
 作業を再開するにあたって、いま一度その原点に立ち戻り、かつ、「それは実はこういうことだったのだ」との後知恵による‘発見’と、これにもと づく補足を加えたうえで、原理的考察と理論的探究の趣旨を確認しておきたいと思います。(これより先、「仮面(的なもの)」を「仮面」と略記す る。)
 初めに、旧仮面考に取り組むに際して、その理論的な起点となった坂部恵の文書を、長くなりますが引きます。『仮面の解釈学』の冒頭におかれた論 考「〈おもて〉の境位」から。

《さて、〈おもて〉は、原初のカオスの不安から、方向づけと意味づけをもったコスモスがかたどられ、かたり出る、まさにそのはざまに成立の場所を もち、わたしたちのいわゆる相互主体的な了解の領野の〈おもみ〉の方向としての〈重て〉すなわち重心を定め、〈おもみ〉=〈思ひ〉をかたどり、か たり出る。では、この〈おもひ〉と、〈おもひ〉の場所としての〈おもて〉のその〈かた-どり〉と〈かた-り〉の「かた」すなわち形は、つまるとこ ろ、どこからしてその究極的な統一を得るのか。
 〈かた-どり〉と〈かた-り〉の「かた」=形の統一は、ほかならぬその〈かた-り〉=語りに由来する。ここに、〈おもて〉のかたどりにとって、 広い意味での音声による〈かたり〉が不可欠の根底として要請される所以がある。
 「舞は音声より出でずば、感あるべからず。一声の匂ひより、舞へ移る堺にて、妙力あるべし。又、舞ひおさむる所も、音感へおさむる位あり。」 (『花鏡』舞声為根)
 ギリシャ悲劇の登場人物がもと合唱隊から分出したものであることを説いたのはニーチェであった。〈仮面〉を意味するペルソナ(persona) の語が、もと、「音」sonaを「通して」per-の意味をもつことは、その来歴について何ほどかのことを語っているとは考えられないだろうか。 〈素顔〉に対する〈仮面〉が二重化された主語であり。二重化された〈意味されるもの〉であるとすれば、地謡や合唱隊に対する〈おもて〉としての仮 面や舞台面は、反対に、派生的に二重化された述語であり、二重化された〈意味するもの〉であるということができるだろう。
 「舞は声をもって根となす」(同前)。同一性と差異性の固定されがちな視覚空間とちがって、対象化されえぬ述語面にいわばより密接した〈声〉 は、まさにどのペルソナ(仮面・役柄)のものでもありうると同時にどのペルソナにも固定的に属しないことによって、同一性と差異性のたわむれのう ちに、〈おもて〉の自在なメタフォルと変身をかたどり、かたり出す〈根〉となる。》(『仮面の解釈学』16-17頁)

 文中に、素顔に対する仮面が二重化された主語であり、二重化された意味されるものである、云々、とあるのは、引用の個所に先立つ次の議論を踏ま えたものです。

 いわく、素顔(近代的・自己同一的な自我)との対立のもとで見られた仮面(外部からかけられた覆い)が表象・現象としてしか感受されない「おも て=表面」であるのに対して、本来の〈おもて=仮面〉は、一義的に固定されることなく、自在な「メタフォル」によって変身をとげつつ、西田哲学の 言い方をかりていえば、「述語となって主語とならない」根源的な述語面、目に見えぬ「心」の統一をあらわし、かたどる。
「時枝誠記の説くように、述語は、具体的場面におかれ、ひとの口にのぼることによって、完全なものとして生きる。〈仮面〉もまたこのような〈述 語〉にほかならない」(9頁)。「〈おもて〉は、ものごとのあらゆるかたどりの源としての根源的な〈述語面〉であり、あらゆる同一性と差異性の源 である」(10頁)。
 またいわく、意味するものと意味されるものの統一としてのソシュール的な記号の概念をもってしては〈おもて〉はとらえられない。〈おもて〉に対 応する客体、充実した現前をもった実体的なものが考えられないからである。強いていえば、〈おもて〉は「意味されるもののない意味するもの」(ロ ラン・バルトがとらえたマラルメやカフカの極限のことばに似たもの)である。
「〈おもて〉とは、自我と世界、自己と他者との一切の意味づけの失われるわたしたちの存在の場の根源的な不安のなかから、はじめて同一性と差異性 とが、意味と方向づけとが、〈かたどり〉を得、〈かたり〉出されてくる、まさにそのはざまの別名にほかならない。」(13頁)

 ここのところは、今後機会があれば立ち帰り、あらためて沈潜し熟考するすることにしたいと思います。


【5】旧仮面考─舞は声をもって根となす(後段)

 前回抜き書きした坂部恵の文章から、声・顔・身(舞)の、いわば‘仮面三態’が導き出されることを、簡単な模式図をもって示します。

        [コスモス]

          ┃
         【舞】
          ┃
       δ  ┃  γ
          β
          ┃
  ━【顔】━━━━╋━━━━【声】━
          α
          ┃
         【身】

         [カオス]

 説明を加えます。まず、図中の直交する二本の線が、カオスとコスモスの「はざま」[*1]としての仮面(素顔に対する仮面ではない広義の仮面= 「おもて」)のあり様を示しています。次にαは「おもい」(重心、思ひ)を、βは「形」を、γは「かたり」を、そしてδは「かたどり」をそれぞれ 表します。こうした「仮面的世界」の布置の上に、あるいはその下絵として、「声」と「顔」[*2]の水平軸と「身」の垂直軸が、すなわち、思ひを かたる声と思ひをかたどる顔が、そして「自在なメタフォルと変身」を表現する舞=身が、三位一体の関係を切り結ぶことになるわけです。

 およそ以上のような予備的考察を念頭において、私は旧仮面考の試みに、すなわち仮面をめぐる資料蒐集と若干の基礎的な考察の作業に入っていきま した。まずは、ペルソナの語の来歴にそくし、「音=声を通して」。

[*1]カオスとコスモスの「はざま」は、死と生の「あわい」でもある。坂部恵著『モデルニテ・バロック──現代精神史序説』に収録された講演録 「生と死のあわい」から。

《…私なりの生と死の相互浸透、Ineinander、のあり方とその位置づけを考えてみたいと思います。その手がかりとしてとりましたのが、 〈あわい〉という現在では古い言葉となりましたが、皆様当然この言葉の持つニュアンスはお分かりになると思います。この語の通常の意味は、間、ド イツ語でいうZwischenraumという意味ですね。しかし、それは単なるstatischな、静的な、静かな間とは違う。むしろ、〈あわ い〉という言葉が、語り・語らい、はかり・はからい、というような造語法と同じで、「あう」という動詞そのものを名詞化するところでできた言葉、 〈あわい〉という言葉はそういう意味で、元来スタティックというよりはダイナミックな動的な意味、あるいは…、動詞的な意味、述語的な意味をはじ めから非常に強く含んでいる言葉であります。これは西田哲学の根本概念である「場所」というのがやはり動的な述語の「場所」として考えられている ことと符合、一致することだと思います。私は外国語で〈あわい〉という言葉を表すときには、自己流でありますけれどもZwischenheit- Begegnungとか英語の場合にはBetweenness-Encounterと、フランス語ではentreté-rencontre、そう いうふうにして〈あわい〉という日本語のニュアンスを伝えようとしております。》(『モデルニテ・バロック』17頁)

[*2]仮面(顔)には二つの裂け目、孔がある。すなわち口と目。口からは声が洩れ(宣り)、目からは邪霊を祓う視線が照射される。『仮面の解釈 学』所収の「仮面の論理と倫理にむけて」から。

《仮面[マスク]ということばは、一説によれば、ギリシャ語のβασχαίνωすなわち、他人にのろいをあびせる、もしくは他人からの邪視を防 ぐ、という語と、語源的に関連を有するという説がある[斎藤正二「仮面の原始性」(『理想』1970年7月号)]。この説の当否の検討はさておく として、日本語の「のろう」という語も、また、「のる」(宣る)の延引形として、元来、邪霊やもののけをはらい、カオスを追放して、あらたな「の り」(法)を宣り、告げ知らせ、コスモスをあらたに建て直すという意味をもっていたと考えられることをおもいあわせるとき、この説は、仮面という もののあり方について一つの示唆を含んでいるものとみることができる。ペルソナ(ラテン語のpersonareに〝ひびかせる〟〝声高にいう〟と いう意味があることはよく知られているところ)を通じて、告げ知らされ、宣られる「のり」(法)は、間柄のかたどり、〈わけ〉 différenceの基礎的な枠組・間柄(ないしはその体系)をして間柄たらしめる限度としての「のり」(度、軌、矩)のありようを素描する。 〈のり〉としての神語[ことば](ロゴス)が、いわば人間界を含めた宇宙の間柄の束の構成の原初の分節のあり方を示すように、マスク、ペルソナも また、間柄のなかにおかれた人柄あるいは役柄の原初の分節を、たとえば、何らかの自然物にかたどられた善神、悪神などとして、隠喩的に表示するも のにほかならない。》(『仮面の解釈学』81頁)


【6】声=仮面をめぐって─仮面三態論(壱)

 これより旧仮面考の、引用と断想の未編集の織物を任意にひもとき、そこに書きつけた事柄、すなわち声・顔・身の「仮面三態」をめぐる‘考察’を 素材として、新仮面考への序奏、あるいは助走を試みようと思います。

◎「語源からして」と川田順造は書いている。「ペルソナ(仮面)は、「音(声)によって」(per son)声を発している主体を認知させることにかかわっている」と。
 いわく、一、二、三人称のペルソナを「単子」として想定したコミュニケーションを純粋・標準とみるのは近代的偏向の所産であって、近代以前のペ ルソナは重層性をもち集合的な性格を帯びたものであった。

「ペルソナと語りの人称の融通無碍な性格が、能ほどあからさまな領域もないだろう。地が感情移入してシテの人称でうたったり、掛ケ合でワキとシテ が融合するなど、人称の離合が自在であるだけでなく、死者や霊界、植物、動物、果ては雪や山の精と人間との主体の変換も、ごく自然に行なわれ る。」(『聲』)

◎仮面とは穴を穿つもの、あるいは穿たれた穴そのものである。
 そこから音=声が発出する穴。風(精霊)の通い路。すなわち仮面とは「楽器」である。宇宙に飛び交う「音的存在」(「動き」そのもの、精霊的存 在)を捕獲し培養し顕現させる「器」(霊的コミュニケーションの媒体)として、仮面は機能してきた。
 白川静によると「器」の字は、出陣に際して犬(その鳴き声が悪霊をはらう力をもつとされた)を供犠に供する儀礼をかたどった字形である。器には 犠牲獣の血と断末魔の声が封じ込められている?

◎楽器をめぐる三つのギリシャ神話[*]。
 マルシュアースの神話に出てくるシカの骨で造られた二本の管のフルートとアポロンの(五弦の)竪琴。アポロンによって生皮を剥がれたマルシュ アース。パノプテス(アルゴス、神の不倫の一望監視者)を眠らせたヘルメスのパンの笛。ヘラによって剥ぎ取られたパノプテスの百眼の皮膚。

「音響的空間は、最初の心的空間である。(略)音響の空間は…洞窟のような形態を取る。胎内や口腔-咽喉のように空洞になった空間なのである。… その内部がざわめきと反響と共鳴とに満ちあふれている広がりである。聴覚的な共鳴という概念が、…心理学者や精神分析者の集団には人間同士の無意 識的な交流のモデルを提供したということは決して偶然ではない。それ以後子供がつぎつぎと住むようになる別の空間、つまり視覚的空間、視覚-接触 的空間、運動的空間、そして最後に書記的空間等々は、自分に属するものとそうでないものとの相違、「自己」とまわりの環境との相違、「自己」の内 部での相違、環境の中にある相違等々を子供に教えていく。」(ディディエ・アンジュー『皮膚-自我』,福田素子訳)

・アポロン由来の(七弦の)竪琴を奏で、エウリディケーの名を歌うオルフェウス。オルフェウスによってソフト(名=墓碑銘、影、イメージ)から ハード(肉体)へと変換されるエウリディケー。トラキアの女たちによって引き裂かれるオルフェウスの肉体。

「音楽はソフトをハードに変えようと試みる。(略)招魂とはすなわち、何かが、あるいは肉が、声から出てくることなのだ。」「オルフェウスは祈願 し、彼の声と弦は振動する。彼は呼び、叫び、歌い、しきりに呪文を唱える。彼は音楽を作曲し、エウリディケーを組み立てる。」(ミシェル・セール 『五感』,米山親能訳)

◎建築物には必ず穴(窓)がある。穴を通じて区別された空間が(あるいは異なるペルソナが)邂逅する、交通する、溶融する。これもまた仮面の機能 である。
 銅鐸、梵鐘は下方に穴を穿ち、陶器は上方に穴を穿つ。いずれも仮面である。そこでは空間が捻れる、あるいは精霊が交通する場が創られる。

[*]少し先走るが「身」としての仮面の観点から「三つの楽器─仮面の三つの形態」を箇条書きにしておく。

①骨=笛
 ・管と穴、そしておそらく舌=膜をもつ笛(共鳴盤)
 ・マルシュアースの神話に出てくるシカの骨で造られた二本の管のフルート
 ・アポロンによって生皮を剥がれるマルシュアース
②筋=琴
 ・一次元の糸=弦(筋)を張った琴
 ・アポロン由来の(七弦の)竪琴を奏で、エウリディケーの名を歌うオルフェウス
 ・トラキアの女たちによって引き裂かれるオルフェウス
③皮膚=鼓
 ・無数の窪み(眼差しの集積盤)をもつ高次元の皮膚
 ・パノプテス(アルゴス)を眠らせたヘルメスのパンの笛
  (眼差しの集積盤に対する共鳴盤の勝利)
 ・ヘラによって剥ぎ取られたパノプテスの百眼の皮膚。

 パノプテスの百眼の皮膚は孔雀の羽根にかぶせられ、誘惑の「しるし=記号」となった。それはもはや仮面ではない。少なくともそこには(一説では 「マスク」の語源に関係するとされる)邪悪な眼差し=邪視は介在していない。邪悪な眼、すなわち捕食者の眼?


【7】顔=仮面をめぐって─仮面三態論(弐)

◎顔は穴を穿たれた壁(平面)である。あるいは、顔は「虚ろな器」である。顔、すなわち仮面の原器。「人間の顔は、沈黙と言葉とのあいだにある最 後の境界である。つまり、顔はそこから言葉が発生するところの壁なのだ」(マックス・ピカート)。

◎穴を縁どる襞(魂の襞)として表情が宿る。襞は立体的なもの(空間的ないしは時空的なもの)を平面へと折り畳む。あるいは聴覚的無限を、すなわ ち時間を平面へと折り畳む。顔とは積分された時間ではないか。そして表情とは微分された時間ではないか。

◎ジンメルは「容器は同時に二つの世界を生きることになる」と書いている。たとえば水差しは、実用的な目的をもつ道具として物質的な現実空間(事 物の秩序)に属し、同時に芸術作品としての形態・美的価値において現実のかなたにある理念的空間(理念的秩序)に属している。
 
「さてここで、水差しが占めるこの二重の地位がもっとも顕著に現れるのは、その取っ手の部分においてだ。…水差しはこの取っ手によって目に見える 形で現実世界に、すなわち芸術作品それ自体にとっては本来存在していないはずのあらゆる外部との関係の世界に身を乗り出している。」(「取っ 手」,『ジンメル・コレクション』(鈴木直訳))

◎仮面とは境界を設営しつつ境界において在るものである(水差しにおける取っ手のように? あるいは来世と現世の境界に建てられた梵鐘のよう に?)。
 仮面は知覚世界と想起世界の境界を設営し、かつ視覚化する(自らを媒質として?)。そして顔は、それぞれ知覚世界と想起世界の双方にまたがる現 実世界と理念世界(論理世界、可能世界)の境界を設営し、かつ視覚化する。

◎仮面は「存在の自乗性」をかたどり造形化したものである。自乗作用そのものの可視化(現実化)としての仮面。
 仮面とは変換作用それ自体を形態化したものである。存在の自乗性の造形化。あるいは仮想的な存在を無限(級数)に展開しつつ、リアルな存在(有 限)へと収束させるもの。

「こんなふうにイメージすることは可能だろうか。(略)ひとつの音のなかにそこからたちあらわれてくる音楽の全体が含みこまれている状態と、或る ひとつの音楽全体がただひとつの音から発して積分されてゆく状態を。或るひとつの音から発生するのだが、それが最終的にたどりつく──言葉として は不適切かもしれないが──音楽全体としてのひびきは、じつははじめにあったひとつの音でもあるというクラインの壷のような音楽。」(小沼純一 『武満徹 音・ことば・イメージ』)

◎「液体と固体の中間のようなどろどろしたもの」から「顔」ができる。──坂口ふみ『〈個〉の誕生』によると、レヴィナスの思想のキーワード「イ ポスターズ」の語源であるギリシャ語の「ヒュポスタシス」は、ラテン語化されず西ヨーロッパの哲学的概念の群にはいりそこねた。その理由の一つは ヒュポスタシスがラテン語で「ペルソナ」と翻訳されたからなのだが、しかしペルソナは本来ヒュポスタシスとはまったく異なった意味の語である。

「興味をひくのは、この語[ヒュポスタシス]のもっとも早期の意味に、液体の中の沈澱とか、濃いスープとか、膿というものが見られることである。 沈澱とは流動的な液体が固体化したものを言い、おそらくそれから濃いスープや膿などの液体と固体の中間のようなどろどろしたものという意味が出て きたのであろう。そしてこの基本的な意味は、哲学的に用いられるようになっても、残りつづけていると思われる。ギリシア語の『七十人訳聖書』その 他の、「存在を得る」という意味にも、非存在から存在が現われてくるという、動的変化のイメージがある。これは液体から沈澱が生ずる時のイメージ と共通のものである。そしてレヴィナスが使うイポスターズにも、この「液体の中に固体が現われてくる」というイメージは生きている。」(『〈個〉 の誕生』)

「ヒュポスタシスは、存在するものを存在せしめているアクチュアリティそのものであったし、ペルソナは、これこそ劇場や社会のうちでの主演者で あった。しかし、ヒュポスタシスは宇宙的循環の一要素であるし、劇全体の構成や社会全体の依存関係と関連性なしにはペルソナはペルソナたりえな い。劇は成立しない。この両概念がそのまわりにひろげる関連の場は、異質なものである。しかし、両者とも個存在性と関係性の両面をにらみ、両面を 必須とする概念であることは共通している。そして、この両者が等置されるとき、結合された概念のもつ場は、宇宙的かつ人間的、自然的かつ法的・社 会的、非人間的かつ日常人生的なものが重なり合い、混じり合い、対位法的に関わり合う不思議な場となった。」(『〈個〉の誕生』)

◎仮面の形態変化。穴(楽器、声)から穴の空いた平面(虚ろな器、顔)へ。器の三態──盤[ban!]、碗[wan!]、壷[ko!]──を経 て、開口部(穴)が二つある管(身)へ。

◎人間の身体は穴のあいた筒、すなわち管である。自らに折り返ったもの(存在の自乗性)としての「虚ろな器」、その形態は「管」において完成す る。あるいは自然もまた仮面を造形する、「洞」や「洞窟」として。


【8】身=仮面の機能論をめぐって─仮面三態論(参)

◎仮面の第一の機能。──「器」(笛、梵鐘)の虚ろ(空洞、音響空間、母胎空間)に音が懐胎し、増幅し、通い響きあい、そして穴を通して外へと発 する。無人称のものの声(根源語、あるいは祈りの言葉)として。
 声は再び穴(あるいは我=割れ目)を通して侵入し、膜(鼓膜、皮膚、界面)を震わせ、身に浸透する。人称をもったものの名=汝として。

◎仮面の第二の機能。──変換作用そのものの媒介と境界の造形。仮面は自らを痕跡として可視化する。たとえば顔は「虚ろな器」(盤・椀・壺)を原 器とし、膜=界面をもって形象化される。それは細胞膜のように、異なる浸透圧によって物質と魂を変換する。
 顔には無数の穴がある。(無数の隙間があいたスクリーンを通って、電子は自らに干渉する、歴史の痕跡をいっさい止めずに。)

◎仮面の第三の機能。──自らに折り返した穴(虚ろ)は、器の表面を二層化する。そして虚ろによって型取られ(象られ)たもの、すなわち「管」が 虚中の実として産出される。
 生殖する身、食らわれる身、死にゆく身、腐敗する身、乱舞する身、変貌する身、浮遊する身、等々。

◎仮面の第一の変換。──生体を死体へと脱魂する鎮魂儀礼としての能。死体(自動機械、人形)に生命的な力(獣性、霊性)を憑衣させ生体へと変貌 させる芸能としての歌舞伎。
 これらは、いずれも「第二の管」(内部世界をもった管)のレベルでの出来事だ。すなわち、内部世界(有限空間、知覚世界)と外部世界(超空間、 無限空間、想起世界)との媒介=変換、あるいは生殖による(再)物質化と死による物質の崩壊。
 ここでの変換は、「第一の管」(笛)のメカニズム(声の発生)を介して遂行される。水平的変換、あるいは三次元的「厚み」での出来事。物質から 生命へ、あるいは生命から物質への変換。

◎仮面の第二の変換。──神の受肉(内在)と人間の神化(超越)。
 これらは、いずれも「第三の管」(心的システムをもった管)のレベルでの出来事だ。すなわち、経験的世界と超越的世界との媒介=変換、あるいは 受肉による物質の更新(新生、創造)と神化による物質の廃棄。
 ここでの変換は、「第二の管」のメカニズム(声の共鳴・合成と沈黙)を介して遂行される。垂直的変換、あるいは四次元的「深み」での出来事。物 質から精神=歴史へ、あるいは精神=共同体から物質への、生命を媒介とした変換。
 しかし、ここでいう「物質-(生命)-精神」の変換プロセスは容易にその垂直性を喪失し、「物質-生命」の変換プロセスへと崩壊するだろう。と いうのも、受肉の思想は絶えざる緊張関係に支えられなければ、憑依の思想(というより憑衣感覚)や輪廻転生の思想へと推移する傾向にあるからだ。 とりわけ精神が、共同体意識に呪縛された霊性(≒生命)のレベルにとどまっている場合。

◎ここで第三の変換を考えることができるかもしれない。すなわち、精神を生命(≒霊性)のレベルではなく「意識」のレベルへと‘高める’ことに よって、物質と精神を媒介する変換を。あるいは「第一の管」(二つの穴をもつ管もしくは多孔体)のレベルでの出来事と「第三の管」のメカニズム (たとえば夢)を介して遂行される変換。


【9】身=仮面の形態論をめぐって─仮面三態論(肆)

◎ジャン-ルイ・ベドゥアン『仮面の民俗学』(斎藤正二訳)に「仮面形態学のごく大ざっぱな輪郭」を述べたくだりがある。そこでは、人がすっぽり 身を隠してしまう「人形」と生硬幼稚な仕掛けで顔につける「一片の樹皮、一本の細縄、一本の木の葉」とが対比されている。
 このことに関連して、同書の「訳者追い書き」には、「弥生式の時代に海(天)の彼方から渡ってきたポリネシアないしは東南アジアの水稲耕作民の 伝えた仮面」の最も古い形のものが「わたくしたちの常民生活の底辺」に現在にいたるまで生き続けている事例が指摘されている。

「…年ごとに田圃に立てられる案山子は、もとは仮面ではなかったかと想像されるのです。…仮面といっても、狩猟民の作る木製ないしは籐製の仮面で はなくて、水稲耕作民の作る藁製の仮面ではなかったか、と想像します。藁製の仮面は、かならずしも、人間の顔かたちを具える必要はなかった。藁を 一と束括れば、そこに祖霊がやってくる、と信ぜられた。…どうやら、藁というものは、地上に翳すだけで、祖霊の憑りしろとなりえたらしいので す。…『古事記』に見えたクエビコは、この意味の藁仮面の起源を説明したものではないでしょうか。」(『仮面の民俗学』訳者追い書き)

◎仮面の形態をめぐって、これまで穴や平面といった幾何学的な次元から盤・椀・壷、そして管へと至る道筋を探ってきた。
 ここでは、藁から案山子へ、あるいは樹皮・細縄・葉から人形に及ぶ(植物由来の)仮面形態学の「輪郭」をヒントに、より抽象度を高めた類型化の ラフスケッチを記しておく。

・樹皮や細縄や木の葉や藁は多孔体つまり「多くの穴をもつ管」であり、とりわけ藁は「二つの穴をもつ管」という可視的な形態をもつ、「身」のレベ ルから見た仮面の原形にほかならない。そして、この「第一の管」(皮膚、笛)から発するのは「声」である。

・藁=管が束になって相互に織り合わせられ、一つの空洞を囲いこむようになると、可視的には身を隠すものあるいは人形として造形化される「内部世 界をもった管」になる。この「第二の管」(弦・弓=筋、あるいは椀を逆しまに吊した半鐘=反照体)が型取る=象るものは顔貌や身体のかたち、すな わち「情報」(生命情報、感情)にほかならない。

・藁=管が湾曲して自らに折り返し重ね合わされると、それは「心的システムをもった管」になる。この「第三の管」が産出するものは「意識」ではな いかと私は考えている。

・要約。仮面を割って、いや身を割いて取り出せる実は、虚ろな空間を象る──声や顔や身(や名)や心的プロセスの──「かたち」すなわち「情報」 である。仮面とはまさに情報のアルシーブにして孵化器、変換器にほかならない。


【10】記号=仮面をめぐって─仮面三態論(伍)

 気体・液体・固体の物質の三態から、「エーテル」を加えた物質の四態へ。──これとパラレルな関係を切り結ぶのが、声・顔・身の仮面の三態か ら、「記号」を加えた仮面の四態への拡張です。旧仮面考では道半ばで中断したこの作業に、‘後知恵’による加筆を施しながら、再挑戦してみます。

◎第四の管を考えることができるかもしれない。すなわち、「おもて」と「うら」が一つながりになるメビウスの帯(顔=仮面)の拡張版としてのクラ インの壺=管を。
 あるいは、自ら裏返ることによって二つの穴が一つになり、内部空間と外部空間が一つながりになった第三の管。この心的システムをもった第三の管 によって産出される「意識」こそが第四の管であるといっていいかもしれない。
 第四の管において、空間の‘おもて’と‘うら’が連続すると同時に、時間の‘おもて’と‘うら’もまた一つながりになる。あたかも夢の中の時空 のように。

◎ここで自己引用を一つ。かつて「哥とクオリア/ペルソナと哥」第4章で私は次のように書いた。

 ……夢もまた神託であった。西郷信綱著『古代人と夢』に、「私は夢を信じた人々を、ここではかりに古代人と呼んでおく。」と書いてある。その古 代人たちは、「夢は人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた。」また、詩人イェイツが、詩は目覚めたト ランス(夢幻の境)であるといったように、古代人にとって、夢は一つの独自な「うつつ」であった。
 今昔物語に、「太子、斑鳩ノ宮の寝殿ノ傍ニ屋ヲ造リテ夢殿ト名付ケテ、一日二三度沐浴シテ入リ給フ。明クル朝ニ出デ給ヒテ、閻浮提ノ善悪ノ事ヲ 語リ給フ。」とある。そのような「夢託」を乞うて聖所にこもることを、古代ギリシャ以来、西欧では「インキュベーション」(孵化、巣ごもること) と呼び習わしてきた。聖所とは洞窟であり、夢殿もまた洞窟である。洋の東西を問わず、おそらくは石器時代以来の古い伝統に根ざしている「洞窟信 仰」において、人はカミとの交信を果たし、自らの再生を果たし、死者の魂との交流を果たしたのだ。
 西郷氏は「古代人の眼」の章の末尾に、「私は死者の魂の遊行を正目に視たであろう古代人の視覚の独自性を取り出してみようとしたまでである。彼 らに、夜寝たときにみる夢が一つの「うつつ」として受けいれられ、強い衝撃をあたえたのも、また彼らが神話という幻想的な文化形式を作り出したの も、視覚のこの独自性と関連しあっているであろう。」と書いている。ここでいわれる「古代人の視覚」をもたらす「洞窟」での体験を通じて、人は (言語的主体として)もう一度生まれなおすのである。……

◎ここで示唆したかったこと。──仮面の第四態、すなわち記号=仮面が(メトリカルに)生成し稼働する、あるいはそれ自体が記号=仮面である「第 四の管」とは「洞窟(的なもの)」の異称であり、かつ洞窟=仮面において窮極的にインキュベートされるのは文字=仮面(フィギュール、ミトグラ ム)であるということ。


【11】記号=仮面をめぐって(補遺)─仮面三態論(陸)

◎洞窟壁画をめぐって。木村重信『はじめにイメージありき──原始美術の諸相』の議論から。
 
・ロゴスに先立つイメージは心的操作がつくりだす想像であって、知覚作用がつくりだす表象ではない、つまり「知覚は概念によって意識を構成する が、想像は意識の中に構成される」。

・想像的意識を直接的知覚から分離することで、そして感覚的事物からもたらされ記憶の中に貯えられた無数のイメージを形象化したうえで現実との間 に種々の対応関係を見出したのが、旧石器時代の呪術的心性をもった人々の表象作用の特質である。

・プレ論理的な心性をもった彼らの記憶力は、あたかも高速シヤッターによる写真のように、とりわけ食糧となる野獣の瞬間的なイメージをダイレクト に定着させるものだった。だからそこには抽象作用も、意味するものと意味されるものという象徴関係も成立しない。

「記憶は普通過去に属する。しかし旧石器時代人の場合、このような記憶のイメージは常に現在の感情と結びついていた。(略)従ってかかる記憶が想 起されて意識の用に供される場合にも、それは常に現実的な事物との関連をはなれることはなく、形象がおかれる壁面もそれ自身未限定の空間で、現実 の空間から遮断された別の空間として限界づけられることはなかった。しかし一方では、かかる記憶のイメージにしばられていたからこそ、彼等は個々 別々の形象をつくりだし、それに現実的な呪術的な機能を与えることができたのである。」

・旧石器時代の人々の手になる「記憶のイメージの自動的な投影」としての美術、すなわち物的素材と結合し形象化・客観化されたイメージの記号は、 ある特定の感覚的事物(たとえば動物)の模造や何らかの対象を意味する記号ではなく、それ自体が一個の存在であるところの実物像すなわち「オブ ジェ」にほかならない。

・旧石器時代美術はやがて変貌をとげ、中石器時代の美術がうまれる。その特徴を箇条書風に列挙すれば、洞窟壁画では稀だった人物像の普遍化、人物 と動物の結合による場面・構図の登場と物語的性格の具備、強い形式化(影絵のような動物像と極度に抽象化された人物像)、そしてそれら全体を通じ ての(初歩的な)観念的空間の実現、を指摘することができる。

・中石器時代の中期以降に多く見られる「頭蓋骨埋葬」は、何らかの霊魂観念の存在をうかがわせるものであって、それは「人間が自らを観察し、自己 の内部に自らの分裂を認めたということ」にほかならない。

・動物(あるいは壁面に描かれた動物のイメージ)を「見る」ことから、動物を見ている自分という場面を「視る」ことへ。あるいは「聞く」から「聴 く」へ。身体の単なる延長としての投矢から、身体から分離された抽象的な力を用いる弓矢へ。そして霊魂に関する意識がもたらすこの世とあの世の区 別。

・ここに見られるものは、旧石器時代人にとっての呪術空間=現実的空間とは別の空間、つまり新石器時代人にとっての観念的空間(意識の深みからイ メージとしてうかび出る霊魂=超越的存在の形象が所属する空間)の萌芽であった。

「新石器時代美術における最も明白なコンポジションのあらわれは、シンメトリーであろう。(略)矩形の象牙または石板という空間の枠の中に、人物 と動物とをひとつのコンポジションのもとに秩序づけること、ここに我々ははっきりと、新石器時代人が実在の非現実化という作用によって、現実とは 別の次元の観念的空間を意識したことをよみとることができる。(略)旧石器時代人のイメージは暗黒の洞窟内をさまよい、その記憶像を一定のフレー ムに集める力をもたなかったが、新石器時代人は、現実的空間とは異なる抽象的な空間の枠の中に現実のイメージを集め、変形し、単一に還元して形象 を作りだす。」

・ここで注意しなければならないのは、新石器時代人にとっては、現実のイメージを一つの構図のうちに形象化するだけでは充分ではなく、それらの 「働きとその力」(客観的現象を抽象してえられる観念)をも象徴的に表現したものでなければならなかったこと、つまりそれは現代の我々におけるよ うな純粋に表象的なものではなかったことである。

「…それ[観念]は象徴的な姿を思いうかべることによってのみ、視覚的に表現されうるのである。すなわち、形態が特殊な観念ないし感情の象徴とな る。かくして、例えば旧石器時代の女性裸像が此岸の秩序の一部に属する妊婦の科学的表現としてのオブジェであったのに反して、新石器時代の女性像 は彼岸の秩序に属して、豊穰を意味するシンボルとなるのである。従って意味するものと意味されるものとの関係に即していえば、旧石器時代の女性像 は意味として抽象化されていないが、新石器時代の豊穰の女神には、意味するものとしての抽象化があらわれる。」

・新石器時代人の心性を表現する語はアニミズムである。「新石器時代人のアニミズム的心性においては、霊的なものと実在的なものとの二つの次元は 相補的」であって、シンボルがもつ象徴的な意味(超越的な価値)と実用的な機能(現実的対象としての直接的価値)、つまり「内と外」はひとつなの である。

「従って形象と観念との関係も、形象をはなれて観念があるのではなく、観念と別に形象があるのでもない。つまり形象は観念のシンボルではなく、む しろ…イメージから観念が抽象されたという意味において、観念こそ形象のシンボルなのである。新石器時代人は、現象の背後にある超越的な観念を単 に絵画的にアレゴリーしたのではなく、心霊化と形象化によってシンボルを作りだし、それによって現象の世界と霊的な世界にかかわる内容と意味との 関連づけを行ったのである。」

 ──以上の議論を略図にまとめてみる。

        [観念世界]

          ┃
     シンボル ┃ 言 語
          ┃
     オブジェ ┃ 表 象
          ┃
 想像━━イメージ━╋━概 念━━━知覚
          ┃
          ┃

        [現実世界]


【12】予備的考察─仮面的世界の基本構図

 旧仮面考の‘振り返り’を通じて、声・顔・身・記号の「仮面四態」が浮かび上がってきました。ここで、天下り式に、これら四つの項について定義 めいた規定を与えておきたいと思います。(第4項が、旧仮面考で予告していた「名=徴」ではなく端的に「記号」となっているのは、ここで言う「記 号」が名=徴を超えた「メタフィジカル=メタフォリカル」な次元に棲息するものだから。)

1. 声 =仮面 「知覚」と「物自体」の‘あわい’(通路)
2. 顔 =仮面 「想起」と「過去自体」の‘あわい’(媒質)
3. 身 =仮面 「ここ here」と「よそ there」の‘あわい’(境界)
4. 記号=仮面 「おもて」と「うら」の‘あわい’(媒体)

 簡単に説明します。
 第1項は、仮面の基本的機能に着目しています。もっともプリミティブな現象に即して言えは、仮面とは、遮蔽物に穿たれた穴、裂け目を通して、あ ちら側(区画された別空間、化外・人外の地、死の界域、物自体の世界、等々)から聞こえてくる「声」であること、その意味で、仮面とは楽器にほか ならないことを念頭においています。というか、そのような「空間性」において、まず私は仮面を捉えたということです。

 第2項について言えば、「顔」という遮蔽物もしくは感情のスクリーンに穿たれた(声の通路とは別のもう一つの、いや二つの)切れ目(両目)から 覗き覗かれる、物語性を帯びた対他関係の「時間性」に着目して、仮面の形態そのものが孕んでいる、インメモリアルな時間と地(時)続きの媒質性を イメージしています。

 第3項は、声と顔(目)を伴った仮面が、見えるものと見えないもの、語りうるものと語りえないもの、「個的なもの=確定的なもの」(「世界と思 考のアトム的な構成要素」)と「個的なもの=非確定的なもの」(「汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在を分有するもの」)との境界にあっ て、「物質的な死」(マテリアルな界域)と「言語的な生」(メタフォリカルな界域)を媒介する、演劇的な「場」を設えるものであることを想定して います。(「個的なもの」をめぐる二項は、西洋中世哲学における「唯名論(ノミナリスムス)」と「実在論(レアリスムス)」の対立に関する坂部恵 の議論を援用している[*]。)

 言葉が朦朧としてきました。夢現のまま、先走ったことを書いています。
 第4項の「おもて」と「うら」は、言うまでもなく、第4節で引いた『仮面の解釈学』所収の「〈おもて〉の境位」や、同書刊行の後に発表され『鏡 のなかの日本語』に収録された「日本文化における仮面と影──日本の思考の潜在的存在論」などの坂部恵の論考を踏まえたものなのですが、私にはま だ、これらの概念を「確定的なもの」として‘駆使’するだけの準備ができていません。ですから、ここでは、これ以上の先走りを自粛します。

 最後に、以上の四つの項を、(「韻律的世界」の基本構図と対応させながら)図示し、今後の議論のための見取り図を作成しておきたいと思います。

     [メタフォリカルな界域]

         【記号】
          ┃
          ┃
      想 起 ┃ 知 覚
          ┃
          ┃
 【顔】━━━━━━╋━━━━━━【声】
          ┃
    (過去自体)┃(物自体)
          ┃
         【身】

      [マテリアルな界域]

[*]坂部恵は『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』の第七講「レアリスムのたそがれ」で、「定まらないもの」(the unsettled)を原初の状態と見るスコラ的実在論の側に真実があるとするC.S.パース(「形而上学ノート」)の議論を取り上げ、次のように書いて いる。

《さて、このように見てくると、一四世紀の哲学のメイン・イシューである、「実在論」と「唯名論」との対立は、通常そう理解されるように、個と普 遍のプライオリティ如何という問題をめぐるものというよりは、むしろ、(パースはそこまで明言していませんが)、個的なものをどう捉え、ないしは どう規定するかにかかわるものであることがあきらかになってきます。
 すなわち、個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが肝心なところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するも のと見なすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与件として、しかも単純で確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構 成要素と見なすか。
 「実在論」と「唯名論」との対立の因ってくるところは、このような考え方のちがいにあるとおもわれます。》(『ヨーロッパ精神史入門』 47-48頁)

 余分なことを加える。私は坂部恵が「汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するもの」と規定したものを、坂口ふみが『〈個〉の 誕生』で述べたヒュポスタシスに、すなわち「濃いスープや膿などの液体と固体の中間のようなどろどろしたもの」に重ね合わせてイメージしている。


【13】予備的考察(補遺ノ壱)─鏡の構造と反転・反映の戯れ

 前回触れた坂部恵の「日本文化における仮面と影──日本の思考の潜在的存在論」(『鏡のなかの日本語』)からの引用を二つ。
 この論考において坂部は、日本語の目立つ特徴のひとつとして、「元来の日本語(やまとことば)においては、仮面と素顔を言い表すのに、ただひと つの語すなわち、〈おもて〉という語をもってする」ことを挙げ(41頁)、また、「おもて」に関していまひとつ注目に値することとして、それが 「面(おもて)」、「仮面」、「顔面」を意味するにとどまらず、「表(おもて)」、「表面」という意味をもあわせもつことに注目している(46 頁)。

 前段について。「まな-ざし」という語が一方向的な志向性以上のものを含まないのに対して、「おも-ざし」(顔貌、顔付き、顔の志向)は「双方 向的に交錯する重層的な志向性」を含んでいると分析した上で、坂部は、「おもて」もこれとおなじ構造をもつこと、すなわち「他者によって見られる ものであると同時に、また、みずから見るものであり、さらには、おそらく、みずからを一個の他者として見るもの」にほかならないことを指摘し、能 舞台におけるある仕掛けに言及している。

《〈鏡の間〉において、演者は、面を身に着け、鏡のなかにみずからの顔ないし面を見、同時に鏡のなかの面によって見られ、さらには、みずからを神 ないし霊に変身を遂げたものとして見ます。つづいて、かれは、神ないし霊に変身を遂げた演者として、あるいは、つまりはおなじことですが、演者た るみずからの身のうちに化身した神ないし霊として、舞台へと歩み出るのです。
 おなじことを、かれは、他者に変身を遂げた自己として、あるいは、自己のうちに化身した他者として、舞台へと歩み出る、といいかえてもよいで しょう。
 ここには、このようにして、いましがたわれわれが規定した〈おもて〉の構造の典型的なひとつの顕現ないし顕在化が見られます。》(『鏡のなかの 日本語』44-45頁)

 坂部は続けて、このような「おもて」の構造は「仮面」の構造であると同時に「素顔」の構造でもあることを指摘し、ローマ時代の「仮面」からキリ スト教神学における神の「位格」を経て近代の個的で自律的な「人格」にいたる変遷を経たラテン語の「ペルソナ」と比較している。

 後段について。いわく、日本語の思考における「表面」はイデアや物自体といった実体的な実在に対立する「見かけ」を意味するものではない。すな わち「おも-て」と「うら-て」は原理的に反転可能ないし可逆的・相互的である。
 ここでは、「離見の見」と「幽玄」の概念が、可視性(おも-て)と不可視性(うら-て)の反転可能性ないし可逆性の例として挙げられる。

《いずれにせよ、日本の伝統的な思考においては、デカルト的な実体のカテゴリーも、あるいは、精神と身体、内と外、見えるものと見えないもの等々 のあいだの、ある種の堅固に固定されて動きの取れない二元論も存在しないのです。(略)
 要するに、くりかえし言えば、日本の伝統的思考においては、〈おもて〉、〈表[おもて]〉、〈表面〉しか存在しない。いいかえれば、すくなくと も原則的にいって、厳密にたがいに反転可能なもろもろの〈おもて〉の束しか存在しないのです。
 われわれがさきに見たように、(〈鏡の間〉をふくめた)能の舞台は、象徴的にも現実的にも、幾重にも、鏡の構造にとり囲まれており、そこには、 (いうまでもなく、〈謡い〉や〈地謡い〉をもふくめて)いわば、さまざまな〈おもて〉〈表面〉と反映の戯れを措いてほかの何物もありません。もし お望みとあれば、そこには、みずからのうちにさまざまな成層ないし次元をふくんだ、一種の〈エクリチュール〉ないし〈テクスト〉があると言うこと もできるでしょう。ということになれば、そこには、〈音声中心主義[フォノサントリスム]〉のいかなる痕跡もないということになるでしょう。
 そこには、いかなる厳密に固定された同一性をももつことのない、同一性と差異性の戯れをおいて何物もありません。(一人称、二人称、三人称と いった)〈人称〉ないし〈人格〉さえも、そこでは、厳密に固定されることがないのです……。
 能の舞台においては、死者たちの世界ないし〈幽界〉とわれわれの地上の世界、あるいは、見えないものと見えるものさえもが、ついには、たがいに 反転可能な可逆性と相互性の関係のうちに置かれるのです。》(『鏡のなかの日本語』49-50頁)

 ──本論に直接関係しない話題になるが、「おもて」という語をめぐる坂部恵の議論は、より広く「やまとことば」一般がもつ特性に拡張できると思 う。すなわち、①相反する意味をもつ語、「コントロニム」(contronym;Janus-faced word とも)と、②可視性(おもて)と不可視性(うら)の反転可能性・可逆性。
 そうだとすると、それは、私がかねてから考想してきた「やまとことば=ネオテニー説」にとって大きなヒントになるだろう。(あるいは「やまとこ とば=鏡=仮面説」を呈示することによって、再び本論に引き戻すことができるのかもしれない。)


【14】予備的考察(補遺ノ弐)─素顔と仮面、言文一致をめぐって

 やまとことばの“おもて”が、仮面と素顔の両面を意味しているという、前回引いた坂部恵の議論に接して私が想起したのは、柄谷行人氏が『定本 日本近代文学の起源』において、「素顔=音声的文字(アルファベット)」と「仮面=表意文字(漢字)」を対比させて論じていることだった。
 ──伊藤整が『日本文壇史』第一巻で、鹿鳴館時代の演劇改良運動を担った九代目市川團十郎の「写実的でかつ人間的な迫力のある演技」をめぐっ て、「彼は古風な誇張的な科白をやめて、日常会話の形を生かした。また身体を徒らに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝へる表現 を作り出すのに苦心した。」と論じたことを受け、柄谷氏は次のように書いている(第2章「内面の発見」)。

《団十郎の演技は「写実的」であり、すなわち「言文一致」的であった。もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使った ものである。「古風な誇張的な科白」や「身体を徒らに大きく動かす派手な演技」は、舞台で人間が非人間化し「人形」化するために不可欠だったので ある。歌舞伎役者の、厚化粧で隈取られた顔は「仮面」にほかならない。市川団十郎がもたらし、のちに新劇によっていっそう明瞭に見出されたのは、 いわば「素顔」だといえる。
 しかし、それまでの人々は、化粧によって隈取られた顔にこそリアリティを感じていたといえる。いいかえれば、「概念」としての顔にセンシュアル なものを感じていたのである。それは、概念としての風景に充足していたのと同じである。したがって、「風景の発見」は素顔としての風景の発見であ り、風景についてのべたことはそのまま演劇についてあてはまる。
 レヴィ=ストロースは、素顔と化粧・刺青の関係についてこういっている。《原住民の思考のなかでは、すでにみたように、装飾は顔なのであり、む しろ装飾が顔を創ったのである。顔にその社会的存在、人間的尊厳、精神的意義を与えるのは、装飾なのである》(『構造人類学』荒川幾男他訳、みす ず書房)。顔は、もともと形象として、いわば「漢字」のようなものとしてあった。顔としての顔は「風景としての風景」(ファン・デン・ベルク)と 同様に、ある転倒のなかではじめて見えるようになるのだ。
 風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとしてみえるようになるのは視覚の問題ではない。そのため には、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が「意 味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深くみえはじめたのである。それこそ私が「風景の発見」と呼んだ事柄である。
 伊藤整は、市川団十郎が「精神的な印象を客に伝へる‘表現’を作り出すのに苦心した」というのだが、実際は、ありふれた(写実的な)素顔が‘何 か’を意味するものとしてあらわれたのであり、「内面」こそその‘何か’なのだ。「内面」ははじめからあったのではない。それは記号論的な布置の 転倒のなかでようやくあらわれたものにすぎない。だが、いったん「内面」が存立するやいなや、素顔はそれを「表現」するものとなるだろう。演技の 意味はここで逆転する。市川団十郎がはじめ大根役者とよばれたことは象徴的である。それは、二葉亭四迷が、「文章が書けないから」言文一致をはじ めたというのと似ている。
 それまでの観客は、役者の「人形」的な身ぶりのなかに、「仮面」的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところ が、いまやありふれた身ぶりや顔の“背後”に意味されるものを探らなければならなくなる。団十郎たちの「改良」はけっしてラディカルなものではな かったが、そこには坪内逍遥をしてやがて「小説改良」の企てに至らしめるだけの実質があった。
 このような演劇改良の本質が「言文一致」と同一であることはすでに明らかだろう。私は「言文一致」の本質は「漢字御廃止」[前島密の建白]にあ るのだと述べた。音声から文字が作られたのではない。文字はもともと音声とは別個に存在するのである。大脳に文字中枢があるということは、人類が 生まれたときから文字能力をもっていたということを意味する。たとえば、ルロワ=グーランがいうように、絵から文字が生じたのではなく、表意文字 から絵が生じたのである。そのような文字の根源性あるいはデリダのいうアルシエクリチュールをみえなくさせてきたのは、文字を音声をあらわすもの とみなす音声中心主義の考えである。
 漢字においては、形象が‘直接’に意味としてある。それは、形象としての顔が‘直接’に意味であるのと同じだ。しかし、表音主義になると、たと え漢字をもちいても、それは音声に従属するものでしかない。同様に、「顔」はいまや素顔という一種の音声的文字となる。それはそこに写される(表 現される)べき‘内的な音声’=意味を存在させる。「言文一致」としての表音主義は「写実」や「内面」の発見と根源的に連関しているのである。》 (『定本 日本近代文学の起源』52-55頁)

 私はこの文章をこれまで何度も、数年おきに繰り返し読み返してきた。そしてそのたびスリリングな知的眩暈を覚え、なにか今まで見たことも考えた こともなかった新しい世界がそこから開けてくるのを感じた。しかしそれでいながらどうしても、なにかしら咀嚼しきれきないものが沈澱物のように澱 むのだった。
 それはおそらく、次のような事情によるものだろう。つまり、柄谷氏によって暴かれた「記号論的な布置の転倒」の前と後とでは、世界の見え方はも ちろん世界を見るこの私自身の「記号論的パースペクティヴ」がまるきり異なっている。そうであるにもかかわらず、私は、転倒後の(言文一致がもた らした)枠組みでしか物事を見たり考えたりすることができない。このギャップが、頭で理解したことと体(心)が納得することとの乖離をもたらすの ではないかと。


【15】予備的考察(補遺ノ参)─素顔と仮面、記号論的転倒をめぐっ

 前回取りあげた柄谷氏の議論を、(柄谷文字論[*1]を視野の片隅に入れながら)、「転倒」の前後途上に腑分けして再編集する。

Ⅰ.転倒前

       Α

 ・音声とは別個に存在する文字(アルシエクリチュール)=Α
  仮面による演技(誇張的な科白、人形的な身ぶり)  =Α
 ・顔はもともと「形象=意味」(漢字のようなもの)としてあった。
 ・人々は「仮面」にこそリアリティ(活きた意味)を感じていた。
 ・概念としての顔にセンシュアルなものを感じていた。

Ⅱ.転 倒

 -1.価値論的・記号論的布置の設定

    【一次的なもの】 【二次的なもの】
       Α    >    β

 ・事実として存在していたが見えなかった[*2]βが俎上に載る。
 ・Αは「意味するもの」かつ「意味そのもの」と位置づけられる。
 
 -2.価値論的・記号論的転倒

    【一次的なもの】 【二次的なもの】
       β    >    Α
    【意味そのもの】 【意味するもの】

 ・文字(Α)を音声(β)をあらわすものとみなす音声中心主義

 -3.記号論的転倒の完成

    【意味そのもの】 【意味するもの】
       (γ)   ←    Β

 ・言(β)文(Α)一致が成就し、音声的文字(Β)が成立する。
 ・写実的な素顔(Β)が“何か”を意味するものとしてあらわれる。
 ・素顔による写実的で言文一致的な演技
 ・観客はありふれた身ぶりや顔の背後に「意味そのもの」を探る。

Ⅲ.転倒後

    【意味そのもの】 【意味するもの】
       Γ    ←    Β

 ・内面=内的な音声(Γ)が“発見”される。
 ・素顔(Β)が内面(Γ)を“表現”する。

[*1]「柄谷文字論」については、別の機会にあらためて取り組みたいと考えている。おそらく「韻律的世界」「仮面的世界」に続く「文字的世界」 の中で。(仮面の記号論に向けた予備的考察の「補遺」として、坂部恵の「日本文化における仮面と影」の抜き書きから始まった考察は、「文字的世 界」をめぐる論考の‘先触れ’であると言えるかもしれない。)
 いま朧気に思い抱いている三世界の‘構図’をスケッチしておくと次のようなものになる。(韻律的世界と文字的世界が形成する水平世界を仮面的世 界が──マテリアルな界域から「韻律・文字」の世界との交叉(キアスム)を経てメタフィジカル=メタフォリカルな界域まで、たとえばデスマスク、 劇場の仮面、神のペルソナ、等々の変態=相転移を重ねながら──垂直方向に突き破ってくといったイメージ。)

          ┃
          ┃
          ┃
          ┃
    文 字   ┃   韻 律
    ━━━━━━╋━━━━━━
          ┃

         仮 面

[*2]『日経サイエンス』2023年5月号の記事「数学の数学「圏論」の世界」(エミリー・リール、荒武永史訳)に、ライフゲームの考案で有名 なジョン・ホートン・コンウェイの言葉が紹介されている。「それらは間違いなく存在するのに,思考する以外に調べる方法がない。この事実は実に驚 くべきことで,私はずっと数学者をやってきたのにいまだに理解できない。実在しないものがいかにして存在しうるのか?」
 原文を確認したわけではないが、ここで言われる「実在」と「存在」をそれぞれ「something that exists really:現実に(事実として)存在するもの」、「something that exists conceptually:概念的・観念的に(思考において)存在するもの」に置き換えて考えると、本文中の「事実として存在していたが見えていなかっ た」は「“実在”していたが“存在”していなかった」と書き換えられる。


【16】予備的考察(補遺ノ肆)─やまとことばの特性

 ここで、以前(第13節で)抜き書きした坂部恵の議論を引き合いに出してみると、柄谷氏が(歌舞伎の演技を題材としながら)描いた「転倒前」の 概念・形象としての仮面は、坂部恵が(能舞台における仕掛けを例に挙げながら)見出したやまとことばの「おもて」の特性に通じている。一言で括る と、そこには「うら」(=心)がない、となる。
 ただ、注意しないといけないのは、転倒前の言語世界は、転倒によってもたらされた「音声中心主義」によって隠蔽され、本来のものとまったく異 なって見えている可能性があることだ。
 柄谷氏は『〈戦前〉の思考』所収の講演録「文字論」において、近代のネーションが生まれる過程で生じた「言葉の変革」をめぐって、次のように 語っている。
 いわく、世界帝国の言語つまりラテン語や漢字やアラビア文字といった共通の書き言葉によって表現されてきた普遍的な概念を、身体的・感情的な基 盤にもとづくものにすること、すなわち「音声言語あるいは俗語」をつくり出す動きが生じた。西洋においても「言文一致」つまり「新たな文章表現の 創出」が必要だった。
 デリダは『グラマトロジー』のなかで、音声中心主義はアルファベットを用いる西洋に固有の考えで、プラトンに遡られるものだといって批判してい るが、必ずしもそんなことはない。音声中心主義はきわめて近代的なもので、ナショナリズムと結びつくものだが、別にプラトンから派生してきたわけ ではない。というのは、十八世紀日本の国学者のなかにもすでに音声中心主義があるからだ。(144-145頁)

《…国学者たちは、『万葉集』とか、『古事記』あるいは『源氏物語』などに、漢字によって浸食され汚染される以前の日本人のあり方、すなわち、 「古の道」を見ようとしたのです。
 しかし、…彼らが完全に見落としているのは、『万葉集』とか『古事記』だとか『源氏物語』とかいったものがその当時あった音声を表記したのでは なくて、すでに漢字を前提にしたエクリチュールによって可能になっていた、ということです。たとえば、ダンテがイタリア語で書いたといいました が、しかし、正確にいうと、彼の書いたものがイタリア語となったのであり、また彼の書いた文章は、その地域の音声言語をそのまま表記したのではな く、ラテン語をその言語に翻訳したものです。(略)
 古代の日本も同じことです。たとえば、紫式部は漢字・漢語を使わないで仮名文字・大和言葉で書きました。だから、宣長などはここに真の大和心を 見ようとしている。しかし、紫式部は非常に意識的にそれをやったのです。彼女は漢字が非常によくできたということをさりげなく日記に書いていま す。(略)ところが、紫式部は、あえて意図的に、仮名と大和言葉のみを使ったわけです。しかし、それは漢文でいっていることを大和言葉らしく翻訳 したというべきです。》(『〈戦前〉の思考』149-151頁)

 坂部恵が言う「元来の日本語」すなわち「やまとことば」は、「音声言語」のことではない。より精確には、決して「純粋な音声」といった(国学 的)想像物を指しているわけではない。
 むしろ坂部は、「おもて=表面」における反映(同一性と差異性)の戯れをめぐって、「そこには、みずからのうちにさまざまな成層ないし次元をふ くんだ、一種の〈エクリチュール〉ないし〈テクスト〉がある」と言っている。それは、柄谷氏が「転倒前」の顔すなわち仮面を、「文字の根源性ある いはデリダのいうアルシエクリチュール」になぞらえていることとパラレルだ。
 私は第13節で、「やまとことば=ネオテニー説」なる自説に言及した。詳しい論述は省くが(というか、私はまだ整然と語れる理路を持ち合わせて いない)、これを言い換えると、やまとことばは「はじまりの言語」の記憶を「かたち」(フィギュール)として伝えている、となる。
 そして、この「フィギュールとしてのことば」は、洞窟壁画に描かれた文字以前の形象に対してアンドレ・ルロワ=グーランが命名した「神話文字 (ミュトグラム)」と‘地続き’だと私は見立てている。
 柄谷氏がルロワ=グーランの議論を借りて書いていたように、「絵から文字が生じたのではなく、表意文字から絵が生じた」のだとしたら、そこで言 われる(音声や音声的文字との対比を超えた)「表意文字」──根源的な「原イメージ」とでも名づけるべきイメージ以前のイメージ(マラルメやヴァ レリーが踊り子の動きのうちに見てとったような)、あるいは木村重信著『はじめにイメージありき』に描かれた観念やシンボルに先立つ“はじまりの イメージ”──こそが、転換前の仮面(原仮面)、すなわち「フィギュールとしてのことば」(やまとことば=幼体成熟した言語)だったのではないか と。


【17】予備的考察(補遺ノ伍)─やまとことばのメカニカルな展開

 第14節で引いた柄谷行人氏の文章に、「もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使ったものである」と書かれていた ことから、私は和辻哲郎の『歌舞伎と操り浄瑠璃』を想起した。和辻はその序文に、歌舞伎や操り浄瑠璃の通り一遍の鑑賞者にすぎない自分がなぜこの ような書物を書いたのかを弁明している。

《…これらの演劇[浄瑠璃劇]において舞台上に作り出されてくる世界、すなわち‘想像力によって作り上げられた世界’には、一種独特な、‘不思議 な印象’がある。それはただ現実の世界を芸術的に再現したというにとどまらず、何か‘現実と異なったもの’、といって単に非現実的あるいは夢幻的 であるのではなく、むしろ‘現実よりも強い存在を持ったもの’を作り出しているように見える。そういう意味で‘エキゾーティック’な(外から来た ものらしい)‘珍しさ’や、超地上的な‘輝かしさ’が、そこには感ぜられるのである。そういう不思議な印象は一体どこから生じたのであろうか。》 (『和辻哲郎全集 第十六巻』3頁)

 和辻はつづけて、本朝二十四孝や忠臣蔵のような正真正銘の歌舞伎芝居と思っていたものが「もと浄瑠璃で語られるに伴って‘人形が演じた’ので あって、歌舞伎役者が演じたものでなかった」ことに気づき「初めてはッと思った」(7頁)と書き、「日本の戯曲のなかの最も戯曲らしい種類のもの は、皆‘人形芝居の脚本’である」ことのうちに「あの疑問を解く鍵があるであろう」(8頁)と書いている。
 和辻が言う「鍵」はおそらく、それぞれ独立した起源をもつ能楽と操り浄瑠璃と歌舞伎の「構造論的ないし構造変換論的」(坂部恵『和辻哲郎』32 頁)な関係性のうちにあるのだろう。以下、本書の「総論的な構造分析」(同書37頁)を担う第一篇から、「操り浄瑠璃の三つの要素」について書か れた文章を引く。

《浄瑠璃は、まず第一に、平家がたりのような‘叙事詩朗唱’の伝統をうけ、そうしてその伝統をみずから重んじている。もちろん浄瑠璃が浄瑠璃とし て立ち始めたときには、在来の伝統の上に‘根本的な変革’が加わったであろう。その変革は、‘抒情詩をうたう’という歌謡としての要素を強度に注 入し、それと結びついて三味線による音楽的な性格を全面的に浸潤させることであったであろう。しかしそういう変革にもかかわらず、浄瑠璃は決して 物語を「語る」という立場を捨てたのではない。浄瑠璃は「歌う」のではない、「語る」のだということは、この技を学ぼうとするものに対しても、ま たそれを鑑賞しようとするものに対しても、常に警告されていたことである。このように「語る」ということを、すなわち叙事詩朗唱の伝統を、堅く 守っていたということが、何よりもまず浄瑠璃の特徴に数えられてよいであろう。
 しかし第二に、この伝統に対して加えられた変革も、決して軽視することを許さないほど重要なものである。三味線やその小唄の節による浄瑠璃節の 変貌は、恐らく当時の人を驚かすに足りたであろう。それは人をして浄瑠璃節は「語る」のではなくして「歌う」のであると誤認させるほどに、強度に 音楽的性格を帯びていたであろう。だからこそ「歌う」のではなくして「語る」のであるということを、わざわざことわらなくてはならなくなったので ある。とすれば、浄瑠璃は、「語る」のか「歌う」のかの区別が素人に明らかでないほどに、叙事詩朗唱のぎりぎりの限界点にまでに達していたのであ る。そうなると、在来の代表的な演芸であった能楽の、謡を「うたう」態度と、浄瑠璃を「語る」態度とは、ただ一歩の差違に過ぎなくなった。従って 浄瑠璃に伴って演技する人形も、謡に従って演技する能役者と、ただ一歩の差違に過ぎない。いずれも‘音楽的表現’に即して‘形象的表現’をやるの である。悲しみの歌が耳に響いてくる時には、悲しい姿が眼に見える。そういう楽劇として、操り浄瑠璃と能楽とは、ほとんど同じ立場に立っていたの である。
 がそれにもかかわらず、第三に、浄瑠璃は「語る」立場を固守し、それによって人形の演技を明白に能役者の演技から分離せしめた。浄瑠璃の叙事詩 的な描写は、謡曲の抒情詩的な詠嘆よりも、一層具体的に人間の出来事を取り扱うことができる。そうしてそれを舞台上に表現する場合に、「うた」に 伴なう演技はおのずから‘舞踊’になって行くに対して、「語られる」人間の動作はおのずから‘しぐさ’となってくるであろう。だから人形の演技 は、生きた能役者の演技よりも、一層具体的に、また写実的に、人間の生活を表現することとなったのである。》(『和辻哲郎全集 第十六巻』54-55頁)

 坂部恵は『和辻哲郎──異文化共生の形』の第一章「見出された時」で、浄瑠璃劇における「現実よりも強い存在を持ったもの」をめぐる和辻の問い を、「人間と世界の存在の宗教的次元」にかかわるものと捉えている(9頁)。
 そして、幼年期の和辻における「一種の脱我体験ないし憑依体験に近いもの」(33頁)、あるいは「神に隠されやすい子供」であった柳田國男に通 じる「神話的想像力」(34頁)や「一種の脱我と神隠しの体験」(35頁)などに言及した上で、「『歌舞伎と操り浄瑠璃』一巻は、一面で、民衆の 構想力のかくされた古層への探究と発見の旅であると同時に、そうおもってみれば、著者自身にもなかば隠されたみずからの心のはるかな奥行へ向けて の果てることのない旅という性質を、他面で色濃くもっていたと考えられる。」(38頁)と述べている。
 和辻=坂部の議論は、「はじまりの言語」の記憶をフィギュールとして保持するやまとことばのメカニカルな展開を、すなわち憑依=表意(意味の受 肉)のプロセスを内側から叙述したものなのではないか。私はそんなことを考えている。

 ……舞台上で操られる人形は「仮面」であり、そのメカニカルな動きは「脱我的な憑依体験」をかたちとして現わすフィギュール(文字)である。 フィギュールすなわち文字、あるいは「心の声」(鈴木朖)としての辞。
 すべては「おもて」すなわち舞台上の外面的な関係性の中のメカニカルな出来事なのであって、そこにはただ文楽を構成する「三つのエクリチュー ル」(ロラン・バルト)のうちの一つ、すなわち太夫が絞り出す鍛え抜かれた声しか響かない。それは「内面」から洩れ出る声ではない。そこには「う ら」(=心)はない。……


【18】予備的考察(余録ノ壱)─直立二足歩行がもたらしたもの

 仮面の記号論へ向けて、草稿や古い書付を整理していると、今現在の議論にはうまく当てはまらないが、どうしても記録しておきたい断片が捨てられ ずに残る。そのなかから、「ネオテニー」に関するものを選んで余録として書いておく。

     ※
 今西錦司は、直立二足歩行に関する「ネオテニー的起源論」を提唱している。
 いわく、「人類を人類たらしめている、人類のもっとも顕著な特徴である」直立二足歩行への足どりを考えるとき、四足歩行でも二足歩行でもないと いうような移行状態を考えられるであろうか。翼とも前肢ともつかないものを与えられたトリがどうして生きてゆけるであろうか。もはや四足歩行の練 達の士になってしまったものを、二足歩行の練達の士に変えることは至難の業であるだろう。成獣あるいはおとなになってしまったものでは、もはや手 おくれである。

《変えるんだったら、子供のときに変えねばならない。ゴリラでも子供のときなら、わりあい楽に直立二足歩行ができるのを見た。だから人類の直立二 足歩行も、おとながはじめたものでなくて、子供がさきにはじめたものにちがいない。ではどうして。ゴリラは直立二足歩行に定着できないのかといっ たら、それは生長とともにゴリラに、ゴリラの特徴とする形態が現われてきて、それが直立二足歩行を困難にするからである。それゆえ人類において も、もし子供に可能な直立二足歩行を、いつまでも持続さそうというのだったら、すくなくとも基本的には、子供の形態ないし体形を、失わないように することが、肝心であるだろう。ネオテニーということを取りちがえていないかぎり、以上が人類の直立二足歩行にたいする、私のネオテニー的起源論 とでもいえようか。》(『主体性の進化論』(中公新書)188頁)

 ここで、直立二足歩行が人類にもたらした出来事に関するアンドレ・ルロワ=グーランの議論を引く。
 いわく、直立二足歩行によって自由になった手(道具と身ぶり)と顔(発声)が、それぞれ視覚と聴覚にかかわる言語活動の二つの極を受けもつこと になった。これらのあいだにはハレーション効果があって、身ぶりは言葉を翻訳し、言葉は図示表現を注解するのである。

《書字を特徴づける線形図示表現の段階では、手と顔という二つの領域の関係が新たな進化をみせる。空間で音声化され線形化される書き言葉は、時間 のなかで音声化され線形化される口頭言語に完全に従属し、口頭-図示という二元論は消滅する。こうして人間は、言語学的に単一のしくみ、つまりこ れもますます一筋の推論の糸に論理的に統一されてくる思考を表現し保存する手段を保有するにいたったのである。》(『身ぶりと言葉』(荒木亨訳、 ちくま学芸文庫)335-336頁)

《象形行動は、言語活動と切り離すことができない。それは、現実を形象[フィギュール]によって口頭の表象や身ぶりの表象や物質化された表象[シ ンボル]のなかに反映するという、人間の同じ能力から出ている。もし言語活動が手を使う道具の出現と結びついているなら、象形化[フィギュラシヨ ン]は人間がそこからものをつくったり象形したりする共通の源と切り離せない。》(『身ぶりと言葉』563頁)

《…象形は技術や言語活動と同じ道を歩むのである。すなわち体と手、眼と耳の道である。それゆえわれわれがダンス、物まね、演劇、音楽、図示[グ ラフィック]芸術や造形芸術として区別するものは、他のもろもろの表出と同じ源をもつことになる。(略)語や構文において口頭言語形象は、道具や 手の身ぶりと等価であって、物質やもろもろの関係の世界にたいする有効な手がかりをひとしく確保することを目指しているのにたいし、象形はそれと は別にリズムや価値の知覚という生物すべてに共通な生物学上の場に基づいているという違いはあるが、道具、言語活動、リズム的創造は同じ過程の連 続した三つの側面である。
(略)音と身ぶりにおける象形のもつリズム性は、言語が技術の発達と時を同じくしていたように、おそらく地質時代が展開するにつれて出現した。》 (『身ぶりと言葉』567頁)

 文脈と論脈を考慮しない摘まみ食い的な抜き書きに終始した。ルロワ=グーランの世界に沈潜し始めるとしばらく戻ってこれなくなるので、このあた りで切り上げることにする。
 ここで注目したいのは「手と顔」あるいは「体と手、眼と耳の道」という語彙である。私はこれを、つまり直立二足歩行が人類にもたらしたものを次 の四項に分節して考えたいと思う。それはおそらくかの仮面の四態もしくは四相と関連してくるはずだ。

1.「体(足)」:戦闘・舞踏する身体、移動する足
2.「手」  :舞う手、描画・造型する手
3.「口(耳)」:歌い・詠い・語る口とこれを聞き・聴き・訊く耳)
4.「眼」[*]

(ルロワ=グーランの議論からは、洞窟=仮面や文字=仮面をめぐる考察のためのヒントをいくつか引き出すことができるが、ここでは先を急ぐ。)

[*]直立二足歩行がもたらしたものに関する三浦雅士氏の論考から。

《ベジャールの『春の祭典』は、四足歩行を捨てて直立二足歩行を始めた人類が、眼を通常に倍する高さに持ち上げて世界を眺める、その「視点がまる で空中に浮かび上がりでもしたようなたよりない不安」──つまり飛翔──のさなかで、「地平線」というものを発明した、という事実、その経緯を、 はっきりと主題化しているのだ、と、私はいまは思っている。
 見渡す限りの平原のさらに向こうに天と地が合する密度の濃い一線がある。その一線が誘う未知への憧れと不安が、人間を人間にしたのだ。いや、そ れを地平線として発明し、それにかかわる存在としての人間を発明したのだ。ベジャールは、『春の祭典』において、地平線こそ生と死の出会う一線 ──男女の出会う一線──であり、人間とはすなわち地平線的存在なのだということを、まるで人間という「考える身体」そのものを可視化するよう に、告知しているのである。》(『考える身体』(河出文庫)311頁)


【19】予備的考察(余録ノ弐)─聖堂のような心をめぐって

 ネオテニーに(も)関連するもう一つの話題。山田仁史著『人類精神史──宗教・資本主義・Google』から、スティーヴン・ミズンの『心の先 史時代』[*1]を取りあげた文章を引用する。

《人間の心がどう進化したか。それはどうすれば分かるのだろうか。先鞭をつけたのは認知考古学のスティーヴン・ミズン(マイズン)だった。彼は 「個体発生は系統発生をくりかえす」という命題を心の領域にも適用し、さらに先史遺物ともつきあわせることで、大きな展望を得ることに成功した。
 彼によれば初期人類の考古学的資料を説明するには、現生人類がもっているのと根本から違う型の心を想定するしかない。それは、子どもたちの心が 大人の心と異なっているのと似ている。そして両者のアナロジーを立脚点とする認知科学をとりいれた結果、人間の心の劇的な変容は六万年前から三万 年前のホモ・サピエンスに起きたとし、この爆発的変化を「文化のビッグバン」と呼んだ。
 ミズンによると変化の核心は、認知能力に流動性が生じたことだという。つまり初期人類の心では、蹄の跡などの「自然のシンボル」を解釈するよう な博物的知能、意図的な伝達をおこなう社会的知能、心の中で作った型をもとに人工物を作る技術的知能、といった領域が別個に機能していた。ところ が現生人類になってはじめて、こうした各領域が流動的にむすびつき、連動して働くことが可能になった。それにより芸術の開花をはじめとする大きな 革命が起きたというのだ…。》(『人類精神史』73頁)

 山田氏の要約の出来が素晴らしかったので、孫引きによる‘省力化’を図った。
 スティーヴン・ミズンの「聖堂のような心」──複数の特化した知能の「礼拝堂」群と一般知能という「広間」からなる心──をめぐる議論には、博 物的知能、社会的知能、技術的知能のほかに言語的知能という第四の礼拝堂が登場する。
 そして、これらの礼拝堂が認知的流動性によって直結するようになった現生人類の心は、「比喩」や「類推」や「無限の想像力」による思考様式を獲 得する。この心をスティーヴン・ミズンは「音と空間と光が相互作用してほとんど無限の空間の感覚をもたらす」(96頁)ゴシック様式の聖堂に喩え ている。

 ──以上の(スティーヴン・ミズンの)議論を踏まえて、かの「仮面的世界の基本構図」の別バージョン[*2]を作成し、仮面の記号論に向けた予 備的考察を終えます。

     [メタフォリカルな界域]

         【Ⅱ】
          ┃
          ┃
      想 起 ┃ 知 覚
          ┃
          ┃
 【Ⅲ】━━━━━━╋━━━━━━【Ⅰ】
          ┃
    (過去自体)┃(物自体)
          ┃
         【Ⅳ】

      [マテリアルな界域]

 ※【Ⅰ】博物的知能:「蹄の跡」
  【Ⅱ】技術的知能:「型」
  【Ⅲ】社会的知能:「伝達」
  【Ⅳ】言語的知能:「虚構」

[*1]ネオテニーに(も)関連すると思われる個所を含む文章を『心の先史時代』から引く。

《…言語は、社会的なものから汎用の機能をもつものへと切り替わり、意識は、他者の行動を予測するための手段からあらゆる行動領域にかかわる情報 をカバーする心のデータベースを管理するものへと切り替わった。心には、新しい処理能力ではなく新しい連関を反映した、認知的流動性が現れた。そ のため、この心のあり方の変形には脳の拡大は伴わなかった。それは本質において人間の心に固有で、…狩猟採集民の行動に多種多様な影響をおよぼし た、象徴の能力の始まりだった。そしてここまで来ればわかるように、この特化型の心から一般型の心への切り替わりは、最初期の霊長類にまでさかの ぼる一連の振動の最後の振れだった。
 …この認知的流動性を導いたいちばん強力な選択圧の一つは、女性に食物を供給することだったらしい。脳の拡大は大人に依存する幼児期を長期化さ せ、そのことが女性のエネルギー消費を高め、また、女性は自分の食物を工面することが困難になった。そこで男性が女性に食物を供給することが欠か せなくなったと考えられ、それによって博物的知能と社会的知能の間に連関が必要になった。だから、この二つの認知領域が最初に統合され…、技術的 知能はすこし遅れてから加わったと見られることも、もしかすると驚くことではないのかもしれない。それだけでなく、幼児期が長くなったことで認知 的流動性が発達する時間も生まれた。》(『心の先史時代』275頁)

[*2]平井靖史氏は『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』で、時間スケールをめぐる四つの階層を呈示している。

《…時間の流れを体験する〈持続〉の水準を中心にして、ベルクソンの議論は、上方[階層2・階層4]と下方[階層1階層0]に時間階層が広がって いる。(略)
 階層0には「物質」が位置し、階層1との時間スケールギャップを通じて「感覚質」(現代でいう感覚クオリア)をもたらす。これが、ベルクソンが 『物質と記憶』第四章で展開している「凝縮説」であ[る]…。凝縮のメカニズムは、上の階層まで貫く…。
 階層1と階層2のあいだに持続が成立するわけだが、ここでは上下の時間階層間の‘縦方向の’相互作用が必要になる…。なお、「注意的再認」(意 識的にものを見聞きすること)におけるトップダウンのイメージ投射…もこの現場で起こる。つまり、私たちの外界認識というものも、下の速い処理と 上の遅い処理からなるハイブリッドな仕方で構築される。今のところは、「持続」と一口に言っている現在の流れが、実際には‘下と上の時間スケール が合流する’ことで成り立つらしいということを押さえておいてほしい。
 階層2は体験の現象的側面の「記憶」(これを本書では「体験質」と呼ぶ)を構成し、それらが累積した 階層3は「心」の現象的側面を構成する(同じく「人格質」と呼ぶ)。私たちは、現在の枠内に切り詰められた物体ではない。人生という巨視的な時間を貫いて 存続する一人の人格である。この巨大な時間的リソースが、その粒度をダイナミックに変動させうるようなシステム形成を可能にする。これが「意識の 諸平面」を擁するベルクソンの記憶の逆円錐モデルのコアを成す考えであり、ここから私の意志的活動・志向性が与えられる…。
 そこに含まれる膨大なリソースを展開し、自動的あるいは能動的に操作することで得られるのが想像や想起、一般観念、注意といった高次認知の働き である…。》(『世界は時間でできている』54-56頁)

 私は、ここに示された「感覚質」「体験質」「人格質」に「語質」とでも言うべき第四のクオリアを加え、それぞれ本文図中の【Ⅰ】~【Ⅳ】に対応 させたいと考えている。(あるいは、語クオリアを感覚クオリアに対応させ、体験クオリアと人格クオリアに対応するものとしてそれぞれ「文クオリ ア」「文章クオリア」なるものを立てたいとも考え始めている。)


【20】仮面の記号論(序)─無から有へ

 私が構想している仮面の記号論には、広義と狭義の二つの相があります。
 狭義の仮面記号とは、チャールズ・サンダース・パースによる記号の三分類、すなわち「イコン」「インデックス」「シンボル」に加わる、第四の記 号としての「マスク」であり、広義の仮面記号とは、いま述べた四つの記号が連動して作動するフィールドそのもの、あるいはそのようなフィールドを しつらえる力としての第五の記号類型のことをいいます。狭義の仮面記号に限定して「マスク」を用いるならば、広義のそれは「アレゴリー」などと呼 んでいいかもしれません。
 以下、まず狭義の仮面記号たる「マスク」が生まれるプロセスの概略を、順を追って述べていきたいと思います。

  1.無から有へ

 始めに(霊ならぬ)零すなわち「無」がある。
 「無」(零)から「有」(壱)が生起する。──神すら無い絶対的な「無」からの「創造」(思考不可能な真正の奇跡)であれ、無規定・無分節の 「無」つまり「空」のフィールドにおける「真空妙有」の力ないしメカニズムを介した存在発現であれ[*]。
 無と有、零と壱、これらが合成されて「多」(弐、参、…)が成る。──かつて私は、ヘーゲル大論理学の「最初の概念、あるいは最初の命題」であ る「無(Nichts)・有(Sein)・成(Werden)」をカントールの超限順序数に準えて考えたことがある。

 ……カントールは、いかなる存在も仮定しないで集合だけからなる世界を考えた。何も存在しない世界における最初の集合は空集合φである。φはそ れ自身一つの元ももたないと同時に、集合{φ}の唯一の元である。このように、空集合φから始めてそれまでにつくった集合全体の集合を順次つくっ ていく過程でできる集合を「超限順序数」という。

  0=φ,1={φ},2={φ,{φ}},3={φ,{φ},{φ,{φ}}},………

 ここで、 φと{φ}の関係を無と有の関係に置き換えて考えることができるならば、{φ,{φ}}こそが成の表現である。
 まず、何も存在しない世界において唯一存在する集合φは「純粋の無規定性であり、空虚」であり、「だからこの有、無規定的な直接的のものは実は 無」である。いいかえれば、φは「無に対する関係としての有」である。φはまたすべての集合の元である点で、「始元をなすもの」であるとともに 「後続の全ての根底に存し」ている。
 次に、φを唯一の元とする集合{φ}は、「何ものも直観または思惟されない」ことを意味するφが「われわれの直観または思惟の中に有る」ことを 表現している。この意味で、{φ}は「有に対する関係としての無」である。したがって、{φ,{φ}}は有と無の二つの契機をもつもの、すなわち 「いまもまだ互いに区別されてはいるが、しかし同時に止揚されているような二契機」をもつ成を表現している。……

[*]ベルクソンは『創造的進化』で二つの「ゼロ」を区別している。

《…ここで二種類の無意識のあいだの相違がひとつ指摘されなければならぬ。それは、意識が‘無い’という無意識と意識が‘無くされた’ための無意 識とのちがいで、いままで注意されなさすぎたものである。無い意識と無くされた意識とはどちらもゼロにひとしい。しかしはじめのゼロは何もないこ とをあらわし、のちのゼロはふたつの量が大きさはひとしく方向が反対で相殺し中和しあうという事態をあらわしている。》(真方敬道訳『創造的進 化』(岩波文庫)176-177頁)

 本文で「絶対的な「無」」と書いたのがベルクソンの言う「何もない」ゼロに、「空」が「中和」したゼロに該当する。


【21】仮面の記号論(序)─言語の二つの側面

  2.言語の二つの側面
 
 ヘーゲル大論理学の「成」({φ,{φ}})は自然や精神や歴史における、したがって言語における「弐」を表わしている。──言語がもつ二つの 側面について、安藤礼二氏の論考[*]を参照して整理すると次のようになる。

 ◎ 外的事物の「指示」と内的感情の「喚起」
  :オグデン、リチャーズ『意味の意味』(1923年)
 ◎「知性」的機能と心象喚起機能=「感性」的機能
  :フレデリック・ポーラン『言語の二重機能』(1929年)
 ◎「間接性」の言語と「直接性」の言語
  :折口信夫『言語情調論』(1910)
 ◎「現実」(自然)的側面と「超現実」(超自然)的側面
  :西脇順三郎『超現実主義詩論』(1929年)
 ◎「外延」(論理)と「内包」(呪術)
  :井筒俊彦『言語と呪術』(1956)
 ◎「指示表出」と「自己表出」
  :吉本隆明『言語にとって美とはなにか』(1965)

 言語の二側面は、ソシュール以後の言語学・記号学におけることばの二つの軸と呼応する。
 ──ヤーコブソンは「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」(『一般言語学』)で、失語症には、①「結合」能力の障害(「連辞」関係がこわれ る)と、②「選択」能力の障害(「連合」関係がこわれる)の両極の型があり、前者では「換喩(メトニミー)」型ディスクール(「隣接性」によって 話題が進行する)が阻害され、後者では「隠喩(メタファー)」型ディスクール(「類似性」によって話題が進行する)が阻害されるとした。(以下、 佐々木考次『文字と見かけの国──バルトとラカンの「日本」』の記述を参照して整理する。)

◎ヤーコブソン
 ・結合(combination)─隣接性(contiguity)─換喩(metonymy)
 ・選択(selection)  ─相似性(similarity) ─隠喩(metaphor)
◎ソシュール
 ・統合、連辞(syntagme)
 ・連合(association)
◎イェルムスレウ
 ・統合、連辞(syntagme)
 ・範列(paradigme)

 以上のことを図示すると次のようになる。(ヤーコブソンの結合(連辞)の軸を水平方向に、選択(連合)の軸をこれに直交するかたちで垂直方向に 引いたのは、私の直観に従ったもの。)

         【Ⅱ】
          ┃
          ┃
          ┃
          ┃
          ┃
          ┗━━━━━━【Ⅰ】

 ※【Ⅰ】論理・外延:間接性:指示表出 結合・連辞─隣接性─換喩
  【Ⅱ】呪術・内包:直接性:自己表出 選択・連合─相似性─隠喩

[*]井筒俊彦『言語と呪術』の解説「井筒俊彦の隠された起源」(『折口信夫』収録の「言語と呪術──折口信夫と井筒俊彦」の増補改訂版)におい て、安藤礼二氏は次のように書いている。

《言語は論理[ロジック]であるとともに呪術[マジック]である。
 『言語と呪術』は、その冒頭(第一章)で、高らかにそう宣言する。言語は、世界を論理的に秩序づける力とともに世界を呪術的、すなわち魔術的に 転覆してしまう力をもっている。井筒は、言語のもつ両義性にして二面性を、さらに【「外延」(デノテーション)】と【「内包」(コノテーショ ン)】という術語を用いて言い換えてゆく。それこそが『言語と呪術』を成り立たせている基本構造であり、著作全体を貫く中心課題であった。「外 延」とは、言葉の意味を明示的、一義的に指示する外的な機能であり、「内包」とは、言葉の意味を暗示的、多義的に包括する内的な機能である。「外 延」が有限者と有限者(人間と人間)のあいだにむすばれる水平的かつ間接的なコミュニケーションを可能にするならば、「内包」は無限者と有限者 (神と人間)のあいだにむすばれる垂直的かつ直接的な啓示を可能にする。「外延」は秩序を構築し、「内包」は秩序を解体し再構築する、すなわち 「脱構築」する…。
 言語は、論理にして「外延」、呪術にして「内包」である。》(『言語と呪術』「解説」227-228頁、【 】は原文ゴシック)

《神の聖なる言葉、すなわち超現実の言語、あるいは、直接性の言語が発生してくる場所に、西脇は前人未踏の詩的世界を作り上げ、折口は共同社会の 発生と文学の発生が重なり合う「古代」を幻視した。そこに井筒俊彦による「哲学的意味論」にして詩的意味論の一つの起源が確実に存在している。
 そしてもう一人、井筒が『言語と呪術』をまとめる上で理論的な柱としたオグデンとリチャーズの『意味の意味』からの大きな刺激を受け、独自の言 語論を練り上げていった人物がいる。吉本隆明である。吉本がまとめ上げた全二巻からなる『言語にとって美とはなにか』(一九六五年)、特にその理 論篇である第Ⅰ巻の冒頭で展開される、きわめて詩的であると同時にきわめて理論的な考察は、ある意味で、『言語と呪術』と瓜二つである。そこで吉 本は、やはり言語がもつ二つの側面、自己表出性と指示表出性を厳密に区別する。その区別は、西脇=ポーランによる言語の感性的機能と知性的機能と いう区別と完全に等しい。オグデンとリチャーズとともに、吉本が第Ⅰ巻の冒頭で参照するカッシーラー、ランガー、そしてマリノフスキーは、そのす べてが井筒の『言語と呪術』でも参照されている。また第Ⅱ巻全体を通して、詩から物語、さらには劇へと至る、吉本による言語芸術の発生史において 理論的な支柱となっているのは、一貫して折口信夫の営為なのである。折口信夫と西脇順三郎、井筒俊彦と吉本隆明。近代の列島に生まれた日本人の手 になる独創的な言語理論は、ほぼすべて同一の系譜の上に成り立ち、またそれ故、同一の構造をもつものだった。
 その起源においては、やはり「文学的内容の形式」を「認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合」から論じ尽そうとした夏目漱石による『文学 論』の試みもまた共振している。》(『言語と呪術』250-251頁)


【22】仮面の記号論(基礎)─パースのパースペクティヴ・前段

 かつてパース記号論に心躍らせていた頃、基本書となった米盛裕二『パースの記号学』(1981年)や『パース著作集2記号学』(内田種臣編訳、 1986年)とは別に、いまも尾を引く深甚な刺激と影響を受けた三冊の書物から、そのエッセンスを、というより強く記憶に刻まれた個所を抜き書き して、狭義の仮面記号へ向けた助走を完遂します。
(瀬戸本は当初、河本本と同じ海鳴社のモナド・ブックスから刊行された『レトリックの宇宙』(1986年)で読んだ。その後『認識のレトリック』 に改訂増補版が収録されたので、引用は後書からとした。)

  3.パースのパースペクティヴ

(1)河本英夫『自然の解釈学──ゲーテ自然学再考』(1984年)

 その1.原型
 ゲーテ自然学の核心をなす「原型」について、河本氏は次のように書いている。

《動物を例にとるなら原型とは「全動物の形態をできるかぎりそのなかに包摂できるようなものであり、動物一匹一匹を一定の順序にならって記載でき るような普遍的形象」のことである。特定の典型例の中に読み込まれたこのような原型をもとにして、植物や動物総体の展開系列をつくり出そうという わけである。近接する諸部分は互いに形態を異にしていながら、近親関係がある。葉、萼、花冠、花糸のように相つづいて展開する部分は、すべて外見 上異った形態ではあるが、「類似した相違」として関連づけられている。同一の器官が多様に変化してみえる作用が、かの「メタモルフォーゼ」と呼ば れるものである。》(『自然の解釈学』18-19頁)

 ここに出てくる「類似した相違」はヤーコブソンの「結合(combination)」の軸に、メタモルフォーゼ」は「選択 (selection)」の軸にそれぞれ対応する。(私の直観はそう告げる。)

      【メタモルフォーゼ】
          ┃
          ┃
          ┃
          ┃
          ┃
          ┗━━━━━━【類似した相違】

 その2.分類学とその比喩的表現
 リンネの分類学と、原型を媒介とするゲーテの分類学の違いは、二つの比喩的表現の様式によって説明される(22頁)。

 ◎リンネの分類学:「換喩(metonymy)」
  ・ある個体の一部分(例:雄蕊)の名称や数量によって個物全体を置き換える。
 ◎ゲーテの分類学:「提喩(synecdoche)」
  ・個体の部分(例:顎と歯と腸と足)の意味連環を「型」によって代表象する。

 リンネの分類法(換喩的表現様式)は結合(連辞)の水平軸にかかわり、ゲーテの分類法(提喩的表現様式)はおそらくこれと同じ水平軸においてそ の方向を逆にする。(私の直観はそう告げる。)

                 (隠喩)
          ┃
          ┃
          ┃
          ┃
          ┃
 【提喩】━━━━━┻━━━━━【換喩】

(2)瀬戸賢一『認識のレトリック』(1997年)

 その1.比喩の三つ組
 瀬戸氏の議論の要約。──広義の換喩(メトニミー)に分類される比喩表現のうち、(西欧中世の普遍論争にもかかわる)類と種の論理的関係に基づ くものは提喩(シネクドキ)である。したがって、狭義の換喩は「現実世界」(仮構された世界を含む重層的な世界)におけるモノ(個物)とモノ(個 物)の時間的・空間的な「隣接関係」にかかわり、提喩はカテゴリーとしての「意味世界」(概念と論理の世界)における「類-種」の「包含関係」に かかわる。これに対して、隠喩(メタファー)は現実世界と意味世界のそれぞれに属し、新たな「類似関係」の発見=創造を介して両世界を結び橋渡し をする[*]。

         【隠喩】
         類似関係
          ┃
          ┃
     意味世界 ┃ 現実世界
          ┃
          ┃
 【提喩】━━━━━┻━━━━━【換喩】
  包含関係           隣接関係

[*]『認識のレトリック』から、メタファーについて書かれた文書を引く。

《カテゴリーとしての意味世界は私たちの内にあり、モノとモノとが隣接する現実世界は私たちの外にある。その両世界を結ぶメタファーは、私たちの 身体によって仲立ちされる。知覚感覚器官が体表あるいは体表付近に張り巡らされた身体をもって、私たちは外の世界と対面する。境界に立つ身体は、 外部世界と直接に接することによって、新たな類(似性)を発見=創造し、世界の新たな分類と再分類を行う。身体的知覚によって区分された世界は、 言語表現を与えられて、意味世界に向う。メタファーは内の世界のカテゴリーと対面するとき、固定的な意味関係に振動を与え、惰性的な意味を活性化 し、意味の再布置化を行う。私たちは、こうしてできたことばの新しい網目を持って再び世界と対峙する。その網目を通して世界を眺め直す。メタ ファーは世界を開き、意味を生む。
 メタファーは、また、これと逆方向の働きも示す。右に述べたメタファーは、主として身体的知覚の仲立ちによって現実世界から意味世界へ向う。こ れは「感性的メタファー」と呼んでよいだろう。「感じる」メタファーである。他方、メタファーには、主として意味世界の内部で相互に隔たったカテ ゴリー間に類似性(あるいは関数的な対応関係)を発見するもうひとつの類がある。これは、意味世界から発して現実世界を眺め直そうとするものであ り、「悟性的メタファー」と呼んでよい。悟性的メタファーは、「案じる」メタファーである。反省的・思索的色彩が濃い。たとえば、「明るい未来」 の「明るい」は感性的メタファーであり、「時は金なり」の「金」は悟性的メタファーである。》(『認識のレトリック』197頁)


【23】仮面の記号論(基礎)─パースのパースペクティヴ・後段

(2)瀬戸賢一『認識のレトリック』(1997年)・承前

 その2.記号の三つ組
 瀬戸氏はさらに、「メトニミー/メタファー/シネクドキ」の比喩の組合せ(瀬戸氏はこれを「認識の三角形」と呼ぶ)をパースによる記号の三分法 に対応させて、「換喩=指標記号(インデックス)=隣接関係」、「隠喩=類似記号(イコン)=類似関係」、「提喩=象徴記号(シンボル)=包摂関 係」の三つ組へと展開していく。

        《イコン》
         【隠喩】
         類似関係
          ┃
          ┃
     意味世界 ┃ 現実世界
          ┃
《シンボル》    ┃   《インデックス》
 【提喩】━━━━━┻━━━━━【換喩】
  包含関係           隣接関係

(3)前田英樹『言葉と在るものの声』(2007年)[*]

 その1.パースの記号分類
 パースは記号を三つの在り方(記号それ自体・対象・解釈)によって分類する。これらはそれぞれに三種類の記号を成り立たせる。(102-104 頁、119-123頁)

Ⅰ.それ自体で捉えられた在り方(第一次性)
 ①性質記号(qualisign):声が持つ潜在的な「質」の前個体的現存
 ②個物記号(sinsign) :私の声
 ③法則記号(legisign) :私の声が言語的に獲得する同一性の絆

Ⅱ.対象との関わりにおいて捉えられた在り方(第二次性)
 ①類似記号(icon) :肖像(→人物)
 ②指標記号(index) :動物の足跡(→獲物の進んだ方向)
 ③象徴記号(symbol):「人」の字(→「ヒト」という言語音や言語観念)

Ⅲ.解釈との関わりから捉えられた在り方(第三次性)
 ①名辞(rheme) :ある物をAだと名指す
 ②命題(dicisign) :AはBだと断言する
 ③論証(argument):AがBであるは真だと言明する

 私的な註。──瀬戸氏による「隠喩=類似記号(イコン)=類似関係」、「換喩=指標記号(インデックス)=隣接関係」、「提喩=象徴記号(シン ボル)=包摂関係」の三つ組(いわば認識=存在の三角形)における「イコン/インデックス/シンボル」の三つ組は、パース・オリジナルの(第二次 性における)記号の分類を「狭義」のものとして含む、より「広義」の記号の存在様式を示している。少なくとも私はそのように捉えている。
(たとえばイコンは、第二次性のレベル(狭義)ではインデックスやシンボルと相並ぶが、「広義」では第一次性のレベルの記号の在り方を包括的に併 せ持ち、第三次性のレベルにおける名辞(名=徴)のうちに含まれる。)

 その2.記号と実相
 パース的な意味での「記号」は、空海の「声/字/実相」における「字」に近い。「「声」は、このような記号を意味に向かって収縮させ、現働化さ せる力そのものであろう。「声」のそとでは、「字」すなわち記号一般は、潜在的状態のなかで弛緩したままである。「声」は「実相」から発し、「声 字」となって「実相」を表現する」(141頁)。

《「声」は「字」を引き寄せ、「字」のなかに「実相」を顕われさせる。「声」は、万物、万象の動きから生じる。「内外の風気、わづかに発すれば、 必ず響くを名づけて声といふなり。響は必ず声に由る。声すなはち響の本なり。声発[おこ]つて虚しからず。必ず物の名を表するを号して字といふな り。名は必ず体を招く、これを実相となづく。声と字と実相の三種[さんじゅ]、区[まちまち]に別れたるを義と名づく」(『声字実相義』)。 「声」が起こらなければ、「字」は沈黙している。起これば、「必ず物の名を表する」。物の名となることに向けて、言語記号は収縮する。「名は必ず 体を招く」。つまり、収縮した言語記号(「名」)は、質料世界の内側に入り込み、そこで効果を持つ。
 「声」と「字」と「実相」との存在論的区別(「義」)は、なくてはならないものである。「声」の力と質料世界の生命的な力(実相)とは、互いに 異なる。前者だけが、言語と生との両側に直接に通じ、二つの弛緩と二つの収縮を結び付ける。生は、それ自体において収縮と弛緩とを繰り返す。言語 は、「声」の力の緊張と共に収縮し、その弛緩と共に弛緩する。「声」が弛緩の果てに達すれば、言語は潜在的なシニフィアンの不確かな連鎖となり、 言語単位はその区分を融解させていく。「声」の力が緊張していけば、言語の収縮は、生の収縮に重なり合い、そこで生にとっての意味や効果を引き起 こすのである。》 (『言葉と在るものの声』237-238頁)

 私的な註。──広義の「声」(力)は狭義の「声」(インデックス)と地続きであり、広義の「字」(記号一般)は狭義の「字」(シンボル)を包含 する。そして広義の「実相」(質料世界の生命的な力)は狭義の「実相」(意味、言語観念)を生産する。私はそのように考えている。

     [メタフィジカルな実相]

          ┃
          ┃
          ┃
          ┃
          ┃
 [字]━━━━━━╋━━━━━━[声]
          ┃

      [マテリアルな実相]

[*]以下の議論は「韻律的世界」の最終節で取りあげた話題とほぼ重複する。いや、精確には瀬戸氏の「認識(=存在=表現)の三角形」をめぐる議 論、そして次節で論じる第四の比喩・記号をめぐる話題を含めて、「韻律的世界」の最終段階における論点と完全にオーバーラップしている。それは究 極的には「韻律/仮面/文字」の三つ組の概念に関する考察の果てに‘到達’するであろう「伝導体」の理論(私論)に通じている。


【24】仮面の記号論(狭義)─オクシモロンとマスク、認識の四角形

 瀬戸賢一氏による「認識の三角形」の説を拡張し、そこに第四の比喩として「逆喩」(撞着法、オクシモロン)[*]を、第四の記号として「仮面記 号」(マスク)なるものを導入し、‘独自’の「認識(と存在と表現)の四角形」を打ち立てる。これが、私の構想でした(「韻律的世界」第35節参 照)。
 このことについて、実は、論考群「哥とクオリア/ペルソナと哥」(Web評論誌「コーラ」に連載)の第7章で、私は次のように論じています。大 幅に加工の上、自己引用します。

 ……瀬戸氏のいう「現実世界」すなわち「換喩(メトニミー)/指標記号(インデックス)/隣接関係」の世界が、実在する世界と仮構された世界と いう異なる層で構成されていたように、「意味世界」すなわち「提喩(シネクドキ)/象徴記号(シンボル)/包含関係」の世界もまた、実在する意味 世界と論理的に可能な意味世界という二つの層を区分することができる。
 これらの、いわば静態的かつ水平的な重層世界に棲息する比喩もしくは記号が、二つの動態的かつ垂直的な認識=存在の力をもった比喩もしくは記号 のはたらきによって駆動する。
 第一、「現実性」(アクチュアリティ)という「現」(もしくは「生」)の上昇軸に沿って収縮させ媒介する「生きた隠喩(メタファー)/類似記号 (イコン)/類似関係」。
 第二、「潜在性」(ヴァーチュアリティ)という「空」(もしくは「死」)の下降軸に沿って弛緩させ解体(=逆説的に媒介)する「死んだメタ ファーとしての逆喩(オクシモロン)/仮面記号(マスク)/反転関係」。
(にわか勉強で、ヤーコブソンの「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」(川本茂雄監修『一般言語学』)を眺めていると、「換喩と隠喩の両手法 の間の拮抗は,個人内であれ社会的であれ,あらゆる象徴過程に明らかに見られる.たとえば,夢の構造の研究で,決定的な問題は,象徴や用いられた 時間的順列が,隣接性(フロイトの言う,換喩的な“転位 displacement”と提喩的な“圧縮 condensation”)に基づいているか,それとも相似性(フロイトの言う,“同一化 identification”と“象徴化 symbolism”)に基づいているかである。」(43頁)という文章が目についた。
 前後の文脈はさておき、また語彙の不整合には目をつむるとして、ここに出てくる「転位」「圧縮」「同一化」「象徴化」は、それぞれ「メトニミー /インデックス」「シネクドキ/シンボル」「メタファー/イコン」「オクシモロン/マスク」に関係づけることができるのではないか。
 ヤーコブソンは続けて書いている。「魔術儀式の基盤をなす原理は,フレーザー Frazer によって,二つの型に解消された。相似性の法則に基づく呪文と、隣接性による連合を基礎とするそれである.交感的魔術のこれら二種の大枝のうち,先の型は “同種療法的 homeopathic”あるいは“模倣的 imitative”魔術と言われ,第二の型は“伝染性 contagious 魔術”と呼ばれてきた。この二分画法は実に啓示的である.」(同)
 同様に、「伝染性魔術」は「メトニミー/インデックス」と「シネクドキ/シンボル」に、「同種療法的・模倣的魔術」は「メタファー/イコン」と 「オクシモロン/マスク」にそれぞれ関係づけて考えることができるのではないか。)……

 以上のことを、第19節の「仮面的世界の基本構図(別バージョン)」に重ね描いたのが下図です。(【Ⅳ】はオクシモロンやマスクの本性に即して 【〇】と表記しておきたいところだが、ここでは前例を踏襲する。)

         【Ⅱ】
         ┃
         ┃
      《実なる世界》
    意味世界 ┃ 実在世界
         ┃
 【Ⅲ】━━━━━╋━━━━━【Ⅰ】
          ┃
    可能世界 ┃ 仮構世界
      《虚なる世界》
         ┃
         ┃
         【Ⅳ】

 ※【Ⅰ】換喩[metonymy] /指標記号[INDEX] /隣接関係
  【Ⅱ】隠喩[metaphor] /類似記号[ICON]  /類似関係
  【Ⅲ】提喩[synecdoche]/象徴記号[SYMBOL]/包含関係
  【Ⅳ】逆喩[oxymoron] /仮面記号[MASK]  /反転関係

[*]瀬戸賢一『認識のレトリック』から。──以下の文章を抜き書きしながら、私は「やまとことば」のうちにその記憶の痕跡をとどめる「はじまり の言語」について夢想していた(第13節、第16・17節参照)。

◎対義語は同義語である
「オクシモロン[例:暗黒の輝き]が成立する根拠は、個々の意味がつねに弾性を秘めていることにある。AとBが対義語であり、かつ、その意味的対 立が鮮明ならば、その度合に応じて、AとBは、互いが互いを照らす鏡となる。AとBは、共通軸上で両極化すればするほど、両極を結ぶ軸は太くな る。両者の対立が極限化するということは、AB間の公分母である意味的共通項が極大化するというに等しい。つまり、極限状態では、AとBは、ある 一点を除いて完全に等しくなる。ここに、《対義語は同義語である》という逆説的心理が成立する。」(60-61頁)

◎潜在的オクシモロン─Aは反Aの超越を意味する
「…オクシモロンには、もうひとつ別な形式として、潜在的な結び付きのパタン[例:かわいさあまって憎さ百倍]が考えられる。AとBのどちらか一 方のみが現れる場合。このとき、表面化したAは、極性化した単独のAではなく、潜在的に、Bが反転してできたAだと考えるべき。極性化したBは、 究極の点を突破(超越)することによって、瞬時に、極性を反転させる。潜在的オクシモロンでは、Aは、反AとしてのBの超越を意味する。」 (61-62頁)

◎生きているオクシモロン─知覚と精神のオクシモロン
「…補色残像の名で知られる視覚現象にも、オクシモロンが現実に生きている。柱のなかほどを膨らませるエンタシスという技法は、膨らみのない柱が 中細に見えないようにするため。対立する要素は、直と曲。日本建築で、天井に多少のそりをいれておくのも、同じ発想に基づく。わび茶でひずみ茶碗 が好まれたりするのも、精神のオクシモロンによるのだろうか。」(63頁)

◎原初の、豊かな、みずみずしい意味の差異性
「オクシモロンは、このように[例:諺や忌みことば、ニコラウス・クザーヌスの「反対物の一致」]裾野を広げると、私たちの精神のもっとも奥深い 願望のひとつを表現する手段といえるのかも知れない。意味作用としてラディカルであり、日常語の惰性的な意味を揺さぶる。私たちは、ひょっとする とオクシモロンとともに、原初の、豊かな、みずみずしい意味の差異性を願っているのかも知れない。」(63頁)

 最後の一文に著者は次の註を付けている。──このような願望の宗教的な実践については、たとえば、エリアーデの『ヨーガ』を参照。その一節に、 「反対物が合体すれば常に面の裂開がおこり、原初的自発性が再発見されることになる」とある。


【25】仮面の記号論(狭義)─イコンとマスクとクオリア

 パースの記号論について考えるとき、いつも混乱することがあります。それは、パースの三つ組「イコン(第一次性)/インデックス(第二次性)/ シンボル(第三次性)」と、私が想定している記号の相互関係「インデックス【Ⅰ】/イコン【Ⅱ】/シンボル【Ⅲ】」──「インデックス(物の世 界)/イコン(媒介)/シンボル(心の世界)」と言い換えてもいい──との食い違い、つまりインデックスとイコンの位置づけの違いによるもので す。
 このことに関連する議論を、石田英敬著『新記号論』から引きます。石田氏はそこで、ダニエル・ブーニュー(『コミュニケーション学講義──メ ディオロジーから情報社会へ』)が提案した「記号のピラミッド」のアイデアを取りあげています。
 それは、パース記号論における三分類に独自の解釈を加え、「インデックス→イコン→シンボル」(底辺から頂点へ、自然的な物や接触というレベル から絵や図、そして法則的なコミュニケーションのレベルへ)と順番を変えてピラミッドのように積み重ねたものです。パース記号論では、ピラミッド のボトムを「基底 ground」と呼びます。パースの「グラウンド」とは意識や意味を経験するときの「観点」のことで、パースはブーニューの順番とは異なり「イコン」に記 号の一次性を認めていました。

《…パースの場合、…「いま・ここ」という現在に、純粋な質である quale の経験があって、その性質が記号として存在すると考えたわけです。quale の複数形は「クオリア qualia」です。たとえば、純粋な赤さという独特の質の経験がクオリアです。パースは、感覚の質(qualities of feeling)ということもさかんに言っています。たとえば、ぼくたちは音楽を聴いて、それが心地よいとか暗いとかいろいろな感覚の質を感じますね。音 楽をそのように気分として受け取っているときには、音を情動的な観点から暗いとか心地よいと聞かせる解釈過程が聴くひとの心に介在している。そう いう場合には、気分つまり情動の観点から音を聞き取る、「情動的解釈項 emotional interpretant」による解釈過程であるとパースなら考えるわけです。つまり、情動(emotion)の記号過程[セミオーシス]もパースの記号 論のなかには組み込まれているわけです。
 ものごとのクオリアこそが本質となる記号、それはパースの三分類の言う「類像」にあたりますから、パースでは類像記号に一次性を認めることにな ります。パースは、記号のピラミッドの基底には、「可能性としての類像」と呼ぶようなクオリアの経験があると言います。かれはそれを「純粋なアイ コン pure icon」と呼びました。ピュアアイコンにおいては、まだ、経験している質がどういうものかという対象化がありません。それに対して、対象化が行われたも のは、ヒュポアイコン(hypoicon)、つまり低次のアイコンと呼んだ。パースの枠組みで、さきほど指摘したブーニューによる指標と類像との 順序の逆転をあえて整理すると、類像にはふたつのレベルがあって、まずクオリアとしてのピュアアイコンがあり、つぎに対象との関係が指定された (つまり記号関係が二次化した)あとにヒュポアイコンが成立するというふうに整理されることになります。》(『新記号論』277-279頁)

 私は、石田氏の議論には説得力があると思います。そして、「インデックス【Ⅰ】/イコン【Ⅱ】/シンボル【Ⅲ】/マスク【Ⅳ】」は「純粋なイコ ン【〇】/インデックス【Ⅰ】/低次のイコン【Ⅱ】/シンボル【Ⅲ】」に書き改めるべきだと考えます。
 前節本文末尾の括弧書きの中で、「マスク」の位置は、その本姓から言えば【Ⅳ】(第四次性)ではなく【〇】(第零次性)と表記するのが本来では ないかと書きました。ダニエル・ブーニュー=石田説を導入するならば、狭義の「仮面記号」とはまさに第零次性のレイヤーに属する記号、すなわち 「純粋なイコン」(身体=情動=物表象と精神=感情=語表象との界面現象としての「クオリア」)にほかなりません。

 ただ、もしそうだとすると、解決しておかなければならない‘理論’上の問題が一つ残ります。それは、前節の議論の過程で、記号としてのマスクに 対応する比喩形象であるオクシモロンのことを「死んだメタファー」と規定したことに関連します。この規定を仮面記号にもあてはめると、そこに現わ れてくるのは、感覚質=クオリアとは似ても似つかぬもの、つまり慣習化・惰性化して生気を失った「死んだイコン」でしかないでしょう。
 このことについての現時点での私の考えは次の通りです。──この相反する性質をもった二つのマスク、すなわち生き生きとしたクオリア(ピュアア イコン)としてのマスク【〇】と、干からびた概念(空虚な形式、虚ろな器)としてのマスク【Ⅳ】という、まるで異なったものが同じ一つの記号形態 のうちに共在する、そこにこそ「マスク」の記号的特性がいかんなく表現されている。


【26】仮面の記号論(狭義)─イコンとマスクとクオリア・補遺

 石田英敬氏は「「記号の場所」はどこにあるのか──『新記号論』から西田幾多郎を読む」(『ゲンロン11』)において、西田幾多郎の「場所の論 理」を踏まえ、「私とは、知覚が記入され映される場所、ひとつの鏡面である」と書いている。「私とは場所であり、意識の拡がりであり、基体Xの影 像を「主語面」で受けとめ、「述語面」で把持して、〈私〉の経験的判断を述定──記号化──していく。」(199頁)

《判断が「一般者の自己限定」として考えられていたことはすでに見た。具体的一般者は、一方においては、「主語となって述語とならない」基体とし ての個物、他方においては、「述語となって主語とならない」一般者という、実世界からのボトムアップと一般概念からのトップダウンの関係軸上に自 らの術語化──「自己限定」──のプロセス(パースなら「セミオーシス」というだろう)を分節化する。判断作用の場所としては、今しがた見たよう に、私…の意識の野が、基体を指示する主語面(ノエマ面)と経験を思惟としてカテゴリー化する述語面(ノエシス面)という、両面が接する界面[イ ンターフェイス]に位置づけられている。
 そこは、鏡の表面のように物の影像を宿す「無の場所」である。なぜ無なのかといえば、鏡面で物は実体としては消えて痕跡と化し、そこに映る像と してのみ現れるからである(私としては、それはパースのいう「類像記号」だと言いたいが、西田は同意すまい)。》(『ゲンロン11』200頁)

 ──前節に続き、ここでもまた石田氏の議論の摘まみ食い的引用にとどまったが、少なくとも以上の記述から「私=意識の鏡=仮面(クオリア)」の 実相が浮かび上がってくる。

    [一般者(一般概念)]
         ↓
         ↓
         ↓セミオーシス(記号過程)
         ↓
         ↓
  ━━━━━《述語面》━━━━━
       仮面記号【〇】
  ━━━━━《主語面》━━━━━
         ↑
         ↑
         ↑
         ↑
         ↑
      [基体X(個物)]


【27】仮面の記号論(狭義)─イコンとマスクとクオリア・承前

 狭義の「仮面記号」とは、第零次性のレイヤーに属する「純粋なイコン」としての「クオリア」である。前々節で、そう書きました。本節では、以 下、クオリアという仮面記号をめぐって、『スピノザという暗号』における田島正樹氏の議論を援用します[*]。

 田島氏いわく、われわれの知覚経験は、言語表現が可能な「志向的内容・表示内容」と、言語的に表現するには無理がある「感覚印象・感覚質」とか らできている。遠ざかる人の背丈は「表示内容」としては同じ長さであるように見えるが、「感覚印象」としてはだんだん小さくなるようにも見える。 それは神経的機構が言語のように構文論的構造をもたないという事実に対応している。(102-103頁)

《ここでわれわれは一般に「感覚質」(qualia)と呼ばれるものの問題圏の分析に進むことができる。サングラスをかけていて眼のなかにはいる 光の波長が一様に青い方向へシフトしても、それに基づく色の感覚質は、やがてもとのように白く感じられてくる。このことは、すでに述べたように感 覚質が、対象の客観的性質をそのまま忠実に反映する「表示内容」ではないことを示唆している。しかしだからといって、感覚質がたんに「主観的」 で、なんら対象の志向的性質を「反映」していないとは言えないだろう。ここにはわれわれは、身体の変状の観念を説明するためには、刺激を与える対 象の本性のみならず、刺激を受ける身体の本性によって説明されねばならないとしたスピノザの考えによって説明するのが適切なものがあると思えるの である。
 スピノザの「身体の変状の観念」は、もともと感情のようなものを含んでいた。それと同様、われわれは感覚質を、知覚内容としてのみならず、感情 のようなものとして考えることができよう。感覚質は、それを実際に経験することによってしかそれに対する知識をもちえない点で、感情と似ている。 それらはスピノザの「身体の変状の観念」のように、対象の本性のみならずわれわれの身体の状態を表現しているものである(…[『エチカ』第2部定 理16系2])。したがって、異なる身体の本性をもつもの(コウモリのように種が違う動物)にはアクセスできない。
 われわれの知識には、命題知として表現できる内容(志向的内容、表示内容)のほかに、ある種の運動能力のような知がある。これは、もともとその 能力をもたない動物には、習得できないものである。感覚質が、物体の完全に客観的性質として科学によってとり扱うことができないのは、それが対象 化しうる命題知ではない部分をもつからである。それを経験するものには、その経験についての客観的条件などを命題知として表現することもできよう が、経験知のすべてをそれに還元することはできない。》(『スピノザという暗号』104-105頁)

 ──ここで「クオリア」を「記号」に、「表示内容」を「記号内容(メッセージ)」に、かつ、「反映」もしくは「志向」ないし「表示」あるいは 「表現」を「記号作用(意味作用)」と置き換えて考えるならば、仮面記号なるものの特質が、たとえば「それを実際に経験することによってしかそれ に対する知識をもちえない」もの(憑依体験や受肉もしくは“受言”=預言体験のような?)として浮き彫りになってくるはずです。つまり、仮面記号 の特質は仮面を被ってみなければ判らない。

[*]本文で引用した以外にも注目すべき議論がある。
 田島氏は、「感覚質は外的対象の客観的性質をまったく表示しないのか」という問いをめぐって、次のように書いている。「われわれの身体は、みず からの生まれつきの能力をもって、環境世界に適応するさい、できるだけ世界を有利なやり方で分別しようとするだろう。関心の向け方は、種特有とい う意味で「主観的」であるかもしれないが、その関心のもとで対象を「客観的に」(正しく精確に)弁別することが、生きるうえで有利であるのは明ら かである。したがって、この関心が一定である場合なら、われわれの身体が示す感覚質は、志向的内容を表示するものと見なしうる、あるいはそう利用 することができる。」(106頁)
 しかし、身体がいかなる関心のもとに対象を表示するものであるかは多様である。「結局、感覚質それ自身が志向的であるか否かを、…はじめから決 めつけることはできない。われわれの身体は、感覚質といういわば手持ちのシニフィアンを利用して、なんらかの志向的内容の表現にすることはできる が、それは、知覚的環境適応(環境への習熟と同時に感覚質利用への習熟)をとおしてなされる。しかし、この知覚的適応は、言語が志向的内容を表示 するのとは違って、いかなる対象に対しても普遍的に同一のものとして開かれているわけではない。知覚者としてのわれわれは、(言語使用者としての 場合と違って)種として、これまでの進化の結果割り当てられてしまった生活圏域(可視光線域など)をもち、それゆえ生活関心を完全に度外視した態 度や関心をもつことはできない(まぶしい光に対して虹彩を閉じてしまうなど)。」(107頁)
 ──「主観的」であるかもしれないが、つまり「いかなる対象に対しても普遍的に同一のものとして開かれているわけではない」にもかかわらず、 「客観的」に精確に弁別することができるもの。それはおそらく広義の仮面記号の特質につながっていくだろう。


【28】仮面の記号論(狭義)─仮面記号の機能、『仮面の道』から

 「インデックス(指標記号)/イコン(類似記号)/シンボル(象徴記号)」に加えて、新たに「マスク(仮面記号)」という第四の類型──充実と 空虚の(反転的)共在といった、いかにも‘仮面’らしいアイロニカルな存在様態をもった記号──を導入するとして、それではその「マスク」なる記 号は、認識や存在や表現においていかなる機能(はたらき)を持つのか、また具体例は何なのか。
 仮面記号の具体例については、九鬼周造がその「形而上学的押韻論」の実例を明らかにしなかったように(「韻律的世界」第10節・註1参照)、あ えて沈黙を貫くこともできるでしょう。しかし、第26節ですでに「感覚的クオリア」という実例を挙げたわけですから、そのようなミスティフィケー ションはもはや意味がありません。
 私がいまおぼろげに思い描いているのは、たとえば「シニフィエなきシニフィアン」などと言われるもの(ゼロ記号、固有名)、代名詞、指示詞、 「詞と辞」のうちの「辞」、あるいはオノマトペ、等々といったところですが、明確に特定するためにはまだ相当な吟味が必要です。
 ただ、間違いなく自信をもって実例として挙げられる具体物が(クオリア以外に)もう一つあります。それは、文字通りの仮面、それも人類学や民俗 学で取りざたされる呪術面にほかなりません。(能面をはじめとする演劇の仮面については、おそらく、憑依・トランス・変身といった体験・現象とも ども、広義の仮面記号におけるテーマになるのではないか。現時点では直観的にそう考えている。)
 ここで、レヴィ=ストロースの『仮面の道』(渡辺守章他訳,ちくま学芸文庫)を取りあげます。第Ⅰ部の最終章(Ⅺ)で、レヴィ=ストロースは次 のように書いています[*]。

《一つの仮面は、その傍らに常に存在するものとして、その代わりに選ぶことのできるような、現実の、あるいは可能性としての他の仮面を、前提とし ているのである。ある特殊な問題を議論しながらも、我々は、一つの仮面とは、まずそれが表わしているものではなく、それが変形するもの、つまり、 表わさ‘ない’ことを選んだものである、ということを示すことができればと考えたのである。神話と同じく、仮面もまた、肯定するのと同じに否定す るのである。仮面は、それが語り、あるいは語っていると信じているものによってのみ成立しているのではなく、それが排除しているものによっても成 立しているのである。》(『仮面の道』224-225頁)

 ここには、仮面記号の機能(はたらき)が、ほとんど余すところなく抽出されています。第24節の註で抜き書きしたオクシモロンの特性と組み合わ せて箇条書きにすると、次のようなものになるでしょうか。Aは「仮面記号」どうしの関係、Bは「仮面記号」とそれが指し示す「記号内容(メッセー ジ)」との関係をめぐるものです。

A:仮面は他の仮面と交換可能である。
 ①水平軸:対義語(共通軸上のA[実]と¬A[虚])は同義語である(A=¬A)。
 ②垂直軸:アクチュアルなAはヴァーチュアルな¬Aが反転・超越したものである(¬A⇒A)。

B:仮面とはそれが表わさない(否定・排除する)ものを表わす記号である。
 ①言語外の知覚と精神における生きた仮面記号(対立する要素を表現)
 ②惰性的な意味を揺さぶるラディカルな仮面記号(「原初の、豊かな、みずみずしい意味の差異性」を表現)

[*]レヴィ=ストロースは第1部の末尾で次のように書いている。──現時点での私の直観が告げるところでは、ここに記された「パラディグム(パ ラダイム)」の話題(とりわけその再創造)もまた、広義の仮面記号にかかわる問題だ。
(ちなみに引用文中の「神話の信仰、祭儀の実践、造形的作品」の三つ組は、広義の仮面記号の表現形態のうち、イコンの成分が濃厚なもの=神話、シ ンボルの成分が濃厚なもの=祭儀、インデックスの成分が濃厚なもの=造形、といった分類による理解が可能なのではないか。)

《全長ほぼ三千キロにわたる地域に、イデオロギー的な構造が足場のように組み立てられており、それは自分たちの頭脳的本姓に内在する制約をことご とく尊重しつつ、しかもそれらの制約にあわせて、環境と歴史の与えてくれる事実や情報を、今日的表現を借りれば、コードの体系に組み込んでいるの である。そのイデオロギー的な構造は、これらの情報を、すでに存在していた対比構造系[パラディグム]に組み込むと同時に、神話の信仰、祭儀の実 践、造形的作品という形で、新しい対比構造系をも創造していく。この広大な地域において、これらの信仰や実践や作品は、互いに密接な関係にあるの であり、それは、お互いを模倣する場合のみならず、互いに打消し合う場合ですら、と言うかこのような場合には就中、言えることである。》(『仮面 の道』231-232頁)


【29】仮面の記号論(狭義)─『夢みる権利』『イェイツと仮面』から

 ガストン・バシュラールは『夢みる権利』に収録された「仮面」において、「仮面とは定着された夢」であり「夢は束の間の動く仮面」であるとい う、ジョルジュ・ビュロー(『仮面』)の議論を引いたうえで、それゆえ、仮面の解釈は夢の解釈とそれほど遠いものではない、と書いています(渋沢 孝輔訳,ちくま学芸文庫270頁)。
 このバシュラールの“詩的エッセイ”から別の一文──「死は生きた顔のうえにひとつの仮面をかぶせる。死とは絶対的仮面なのである。」(280 頁)──を引き、ウィリアム・バトラー・イェイツの「真の生命は死せる人々によってのみ完全に保持されている」という「逆説の視点」(2頁)── もしくは「生を認識する〈死のパラドック〉としての仮面」(28頁)、「死による生の逆説表現」(342頁)──に関連づけたのが、木原謙一著 『イェイツと仮面──死のパラドックス』です。(この書物は同年(2001年)刊行の木原誠著『イェイツと夢──死のパラドックス』とあわせて、 「夢と仮面という二つの視点を通してイェイツの想像力の問題を考察」(10頁)したもの。)
 木原氏は、同書第五章「仮面の思考と仮面の詩法」の冒頭で、レヴィ=ストロースが『仮面の道』で考察した文明化されていない部族の仮面と異な り、文明社会の演劇において見られる仮面は「何かをアレゴリカルに表している」ことが多いが、それは仮面にある特定の「役割」を演じさせようと し、そのために仮面が作られるからだと書いています。
 同書によると、イェイツにとっての「仮面」は(レヴィ=ストロースが考察した古代的・原初的な仮面と同様に)、「生と死の狭間、物質と精神の境 界、他者と自己の意識の〈敷居〉」にかかわるものであって、「ある概念を表わすためにアレゴリカルに意味づけされた表象」ではありません。著者は このことを、坂口ふみ著『〈個〉の誕生』の議論を踏まえて次のように述べています。

《アレゴリー的表象は、いわば神としての作者が、その創作の設計図の上に配置する計算し尽くされた部品であり、ジクソーパズルのピースである。ア レゴリーが成り立つためにはすでに完成された世界、あるいはその設計図がなければならない。従って教訓は必然的にアレゴリーと結びつく。教えられ る教義はすでに完成されたものでなければならないからだ。ラテン語のペルソナに相当するギリシア語のヒューポスタシスという語は本来液体の中から 表出してくるどろどろした中間的な存在の様式、〈凝固〉という意味を有していた。近代的な〈素顔〉に対峙する役割としての〈仮面〉がジグソーパズ ルの各々のピースのように、すでに与えられた意味と役割を演ずるのに対し、原初的な仮面は、ちょうど大地から吹き出したマグマのように、周囲の環 境と接触し激しくぶつかり、自ら変貌し他を溶解し、異様な形を形成しながら凝固していくのである。ギリシア的なヒューポスタシスはローマ的な役割 としてのペルソナへと翻訳され、やがてかつてギリシアにおいて存在の受肉の概念であったものは、ローマにおいて失われていく。(略)仮面的象徴 は、意味づけされた世界を、もう一度未分化の存在の原初的な様式へと連れ戻す。仮面の領域はすでに成っているもの(being)」ではなく、成り つつあるもの、生成するもの(becoming)の領域であり、イェイツの生哲学の重心はこの領域にある。》(『イェイツと仮面』229頁)

 木原氏が言う「成りつつあるもの領域」にあるイェイツの仮面の源泉には、仮面劇の復活という(フェノロサからエズラ・パウンドを経て届いた能の テキストに触発された)実践的試みやニーチェの生哲学の影響とともに古代ケルト的な世界観が、すなわち『ケルズの書』を初めとする古代アイルラン ドの装飾芸術──マンデルブロー集合と類似した「(無限)螺旋紋様の自己相似構造」──が象徴するケルト的思考様式が潜んでいます。
 ケルト装飾紋様には(石器時代の洞窟に刻まれたミュトグラムともども)強烈に惹かれるのですが、ここでは先を急ぐことにします[*]。

 引用文中の「ローマ」を、ローマ文化を基礎とし発展した西洋(近代)文化と読み換え、これに対して「ギリシア的」と言われるものを古代的・原初 的な「はじまり」の位相において捉えるならば、ここで、狭義の仮面記号「マスク」をめぐる二つの相貌が示されていることになります。
 すなわち、①.「ギリシア的なヒューポスタシス」すなわち「存在の受肉の概念」を孕んだ「未分化の存在の原初的な様式」につながる「仮面的象 徴」(パースの記号類型における「象徴記号」のことではなく、端的に「生きた仮面記号」と呼んでおいていい)ものと、②「ローマ的なペルソナ」す なわち「与えられた意味と役割を演ずる」「近代的な素顔」につながる「アレゴリー」(死んだ仮面記号)。
 この対比は、「純粋なイコン」としての「マスク=クオリア」と「死んだイコン」としての「マスク」との対比とパラレルです。そして、相反するも の、対立するものが、(第零次性と第四次性のように異なるレベルに属するものとして区別されることはあっても、その本性においては)同じ一つの記 号類型のうちに共在するという、「仮面記号」に特有の存在様態がここでもまたいかんなく実現されていると見ることができるでしょう。
 ただ一点、付け加えておきたいことがあります。いま述べた「マスク」に特有の記号特性(「A=¬A」もしくは「¬A⇒A」)は、「ローマ」的概 念である「ペルソナ」や「アレゴリー」──精確には、「ギリシア」的概念である「ヒューポスタシス」や「仮面的象徴」との対比において、限定的な 位置づけが与えられた「ペルソナ」や「アレゴリー」の概念──そのものに対しても適用されるということです。
 マスクの記号作用の自乗化によって「再生」される「ペルソ」ナや「アレゴリー」は、もはや狭義の仮面記号の圏域にとどまることなく、「第五次 性」とでも言うべきレイヤー、つまり「広義の仮面記号」の世界を切り拓ことになるでしょう。

[*]ただ一点、東方のイコンをめぐる議論だけは記憶に留めておきたい。──木原氏は、三位一体の教義におけるペルソナの解釈をめぐる東方教会と 西方教会の対立(フィリオ・クエ論争)とその分裂について言及したあとで、次のように述べている。

《こうした東方と西方の三位一体の捉え方は、ヒューポスタシスとペルソナの意味の違いにも関わっているのである。ヒューポスタシスからペルソナへ の翻訳は、ヨーロッパがギリシア的な世界観からローマ的な世界観へと移行するための中核的な意味の転換であったのだ。
 東方の美術、なかでもビザンティン美術のイコンと向き合うとき、われわれはそこに通常「西洋的」として認識されているものとは全く異質な、通常 のイメージと呼ばれているようなものとも異なる、半ば物質的で半ば霊的な独特の神秘的な雰囲気と出会う。》(『イェイツと仮面』252-253 頁)

 ここで「半ば物質的で半ば霊的な独特の神秘的な雰囲気」と表現されているものこそ、「存在の受肉の概念」がもたらすものだ。

《イコンとイメージという言葉はいずれも「形象」を意味し、しばしばキリスト教文化の中で同義的に扱われるけれども、イコンはイメージではない。 ある意味で、キリストのイコンはキリストを表象している。しかし、それは単にキリストを表象するだけの似像、イメージあるいは記号ではない。キリ ストはイコンの中に自らを映し出し現実に現われるとされる。キリストのイコンはキリストを「秘蹟」として含んでいる。
物質そのものを聖化するイコンという考え方は当然のことながらその反発を生んだ。九世紀に起こった偶像破壊運動はその反発のもっとも大規模なもの である。東方のイコンはこうした激しい反発との戦いと対話のうちにその強固な足場を築いていった。イコンは神的な世界を自ら分有することで、天上 界を反映するだけのイメージに対して「否」をつきつける。イメージがイコンの破壊者であるように、イコンはイメージの破壊者である。イコンはキリ スト教における受肉のパラドックスをまったく日常的、大衆的レベルにおいて再現しているのである。西方においては、ペルソナの第一の位格と第二の 位格は明確に捉えられた。ロゴスとしての神とその目に見える顕れであるキリストという西方の明確な枠組みが、デカルト的な二元論を生み出す土壌と なったということは想像に難くない。その一方で、聖霊という捉えがたい第三の位格が抜け落ちていったのである。東方においては。このもっとも捉え がたい霊、形なき存在者にして直接的な働きかけである中間的な第三の位格が重視された。これは同じく中間的表象であるイコンを発達させた文化にし て可能なことであったと言えるだろう。》(『イェイツと仮面』254頁)

 東方のイコンはパースの記号類型における「類似記号」のことではない。それは「受肉」──もしくは「憑依」、あるいは(後に導入する語彙で言え ば、推論の一つの類型としての)「生産」──の器・場所としての「広義の仮面記号」につながっている。

《東方的イコンがケルト的な生命螺旋の幾何学と出会ったとき、『ケルズの書』に見られるような異様にして神秘的な装飾芸術を生み出した。その美学 はイェイツ風に言えば、まさに「髪の毛の逆立つような」戦慄を与えるものである。生命潮流のうねりである螺旋の中から一結節として〈凝固〉し、 ヒューポスタシスとして顕れ出てくるイコンたちよりも正確にイェイツの仮面の概念を視覚化するものはない。》(『イェイツと仮面』255頁)


【30】仮面の記号論(広義)─虚なるものの客観性

 私はかつて、論考群「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第39章で、藤原定家の「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」をと りあげ、(精確には、この定家詠をめぐる丸谷才一『新々百人一首』の考察をとりあげて)、言語的に造形されたフィクショナルな虚構世界における 「虚なる現象」の客観性という、定家歌論の実質にかかわる論点について思いをめぐらせたことがあります。
 そして、その「虚なる現象」すなわち「虚象、パンタスマ」のことを、九鬼周造の議論から切り取った「反-実象」という語に置き換え、そこに次の ような註を付しました(一部加筆)。

 ……九鬼周造の「講義 文學概論」に、「藝術は単に「ない」事柄をつくるのみならず「有り得ない」事柄迄もつくり出す」とある。

《近松が「藝といふものは實と虚[うそ]との皮膜の間にあるもの也」といふ場合の虚[うそ]とは単に「ないこと」だけではない.「有り得ない事」 をも含んでゐる.(略)藝術は單に「ない」事柄をつくるのみならず「有り得ない」事柄迄もつくり出すのである,藝術は‘積極的無’の世界から‘消 極的無’の世界へまで領域をおし進めてゐる.單に‘現實的存在でない’といふ無の領域から‘可能的存在でもあり得ない’といふ無の領域へまでも藝 術は行つてゐる.さういふところに藝術の藝術性がよく表はれてゐる.人形芝居といふやうなものは虚[うそ]が實として妥當してゐる場合である.女 形の俳優なども同様である.》(『九鬼周造全集 第十一巻』80-81頁、‘ ’は原文下線)

 九鬼によれば、「存在」に「現實的存在(ens reale,ens actuale)=狭義の存在(existentia)」と「可能的存在(ens possibile)=本質(essentia)」の二つの様態がある(25頁)のに対して、「無」(または非存在)には「積極的無」(「現實的存在でな いといふ無の領域」=「ない」事柄)と「消極的無」(「可能的存在でもあり得ないといふ無の領域」=「有り得ない」事柄)とがある。

《藝術にあつては虚[うそ]とか矛盾とか不可能とかいふことが生きて來る.即ち消極的無も藝術にあつては有として存在してゐる.さきに‘存在の表 現がそれ自身のうちに目的を有つてゐる’のが藝術であると云つた.また文學とは‘存在が言語によつて表現されることそれ自身’であると云つた.そ の場合の存在といふうちには積極的無のみならず消極的無も含まれてゐるのである.絕對的な意味で無といふ様ものはない.いはゆる無も何等かの意味 で有である,存在である.》(『九鬼周造全集 第十一巻』82頁)

 私がかねてから模索している「伝導体」の理論の構図、それは「空/現」(「ヴァーチュアルなもの/アクチュアルなもの」)の垂直軸(「現実性 (アクチュアリティ)」の軸)と「虚/実」(「イマジナリー・フィクショナル・ポッシブル・イデアルなもの/リアルなもの」)の水平軸(「実在性 (リアリティ)」の軸)という二軸の直交によって導出され、「現かつ実」(第1象限)から「現かつ虚」(第2象限)、そして「空かつ虚」(第3象 限)から「空かつ実」(第4象限)まで四つの象限で略示されるものなのだが、その構図によると、「現實的存在」は「現かつ実」の、「可能的存在」 は「現かつ虚」の、そして「積極的無=「ない」事柄」は「空かつ実」の、「消極的無=「有り得ない」事柄」は「空かつ虚」の領域に、それぞれ対応 させることができる。
 定家歌論における「虚なる現象」や「反-実象」は「現かつ虚」の領域における存在のことであって、この表現は、アクチュアルなものとしての「現 象」にリアルな「実象」(実なる現象)とイマジナリーな「虚象」(虚なる現象)の二つの様態があり、この二つのものは互いに「反」である(両立し ない)、という関係をふまえている。
 ただし、話がややこしくなるが、私が考察しようとしている「虚象、パンタスマ」は、九鬼のいう「有り得ない」事柄すなわち「消極的無」を含んで いる。つまり、「虚象」が棲息するのは「現かつ虚」及び「空かつ虚」の界域なのである。「現」と「空」にそれぞれ「実」と「虚」の様態があるよう に、「実」と「虚」にはそれぞれ「現」と「空」の二つの様態がある。したがって、「虚象」が「有り得ない」事柄すなわち「消極的無」を含んでいる ように、「実象」は「ない」事柄すなわち「積極的無」を含んでいる。
 問題は、いまここで「含んでいる」と書いたことの実質はなにかである。そのひとつの回答を、尼ヶ崎彬氏の次の文章のうちに見ることができる。

《詩的言語が、その意味をイメージに頼る限り、現実の法理を無視することはできない。「花」は常に「花」にとどまり、「雪」となることは許されな い。しかし、詩的言語が、その意味を、生活世界の映像ではなく、詩的世界内部での〈価値体験の型〉に依存する時(顕在的には〈引用〉、非顕在的に は〈含み〉)、〈言葉〉は日常の規約を超えて自由に結合し、自律的な世界を産出、展開することができたのである。
 このように、生活世界とは異なる意味組織をもつ世界という意味で、我々は詩的世界を〈つくりごと〉即ち[天台教学にいう空仮中の三諦のうちの ──引用者註]「空」と呼ぶことができるだろう。しかし、〈つくりごと〉にも拘らず、和歌は我々を感動させる。我々は現実を体験するのと劣らぬ深 さで、詩の世界を体験することができる。とすれば、それは我々にとって、もう一つの現実であると言ってもよいであろう。》(『花鳥の使』96 頁)……

 長々と自己引用しました。私はいまだここに書いたこと以上の考察をなし得ていません。アイデア呈示の段階にどどまり、‘理論’の名に値する細部 の検討が手つかずままなのです。
 ただここで一点、注記しておくべきことがあります。それは、本論考の第24節の図に書き込んだ「虚なる世界/実なる世界」が、ここで述べた「虚 /実」の水平軸に転じていることです。したがって、先の図における【Ⅰ】と【Ⅲ】は、下図における【実】と【虚】に対応していません。(強いて言 えば、図の‘こちら側’に「換喩/指標」が、‘あちら側’に「提喩/象徴」が位置づけられている。)
 同様に「実なるもの」の極限としての【Ⅱ】と【現】、「虚なるもの」の極限としての【Ⅳ】と【空】とはまるで異なる界域に属しています。【Ⅱ】 と【Ⅳ】は【Ⅰ】と【Ⅲ】と共に「実在性(リアリティ)」の界域、すなわち「物(res)」の世界に帰属し、「空/現」の垂直軸に沿って噴出する 純粋な「力(virtus)」の界域である「現実性(アクチュアリティ)」の埒外にある。
 そして、あと一点補足しておくべきことがあるとすれば、それは、「虚なるもの」にアクチュアルな側面ととヴァーチュアルな側面があるといった議 論、すなわち「虚なるもの」の客観性をめぐる議論は、いわば存在論的な(さらには表現論的な?)次元におけるものであって、これに対して、かの狭 義の仮面記号における「虚なるもの」の議論は、認識論的次元にあったということでしょうか。
 かくして、広義の仮面記号について考究するための「場(フィールド)」が設えられました。というか、この、あたかも「地球ゴマ」のように、内蔵 された円盤(第24節の図)が高速回転することによって存立する「場」こそが広義の仮面記号、私が先に与えた名で言えば「アレゴリー」そのもので あり、そこにおいて稼働する記号過程の特質を示す語が「アイロニー」にほかなりません。

         【現】
         ┃
         ┃
   可能的存在 ┃ 現實的存在
         ┃
 【虚】━━━━━╋━━━━━【実】
          ┃
    消極的無 ┃ 積極的無
         ┃
         ┃
         【空】


【31】仮面の記号論(広義)─アレゴリーとアイロニーと伝導体

 広義の仮面記号とは、「インデックス/イコン/シンボル/マスク」の記号の四つ組によって設えられた「場(フィールド)」そのものである。── 前回も書いたように、私は、そのような広義の仮面記号を「アレゴリー」と、そして、そこにおいて稼働する記号作用の特質を「アイロニー」として考 えています。
 そう名づけることによって、哲学や文芸の世界において、過去累々と蓄積されてきた先達の議論を参照し、今後の考察のためのヒントを入手すること ができるのではないかと期待したからです。累々たる遺産は膨大なものなので、そこから切り出し援用できるのは、たまたま私の目に触れ、かつ私の琴 線に触れたもののうち、私自身が朧気にイメージを描きかけている着地点へとダイレクトに導いてくれる(都合のいい)素材に限られてはいるのです が。

 先へ進む前に、いま述べた「着地点」について書いておきます。すでに何度か言葉として出てきた「伝導体」(“conductive field”とでも英訳しておこうか)の概念がそれです。仮にアレゴリーと総称してみることで、既知の体系への接続を図ることができないかと模索している 広義の仮面記号を、「伝導」[*1]という推論過程が作動する「場」あるいは(代数学の語彙を借用して、四元数「a+ib+jc+kd」が稼働す る)「体(field)」に属する一事例とみなしてみようということです(広義の仮面記号⊂伝導体)。
 伝導体という概念で私が想定しているのは、たとえば時空、たとえば身体、たとえば物語といった、物(身体)の領域と言語(精神)の領域、マテリ アルな界域とメタフィジカル(メタフォリカル)な界域、あるいは液体と固体、父と子、生と死といった異なる世界を「通態的 (trajective)」(オギュスタン・ベルク『風土の日本』)に結合するメカニズムを体現する装置です。
 ひらたく言えば、ある小説を読んで感動し、生き方はおろか人格までもが更新される経験をしたとしたら、その時生じているのが「伝導」の現象であ り、そのような以前には存在しなかった新たな現象をもたらす機構と過程と媒体と担い手を含めた全体が「伝導体」です。
(広義の仮面記号は伝導体の一事例にすぎないが、おそらくその原型もしくは原器の位置を占めている。時空や身体や物語といった個々の伝導体は、必 ず「仮面的なもの」であり得るということだ。あるいは広義の仮面記号に対して言えることは、必ず伝導体にも妥当するということである。)
 私が構想している伝導体には、三つの特質があります。動態性と創造性と推論性です。
 狭義の仮面記号である「マスク」が他の記号との関係性のうちに静的に位置づけられていたのに対して、広義の仮面記号(伝導体)はそのような制約 を受けず、自在にダイナミックに稼働する。それはオクシモロンの論理詞表現のうち「¬A⇒A」が示す運動性を基礎としています[*2]。
 そしてこの運動性、動態性がもたらすのが、物質的なもの(見えるもの)であれ非物質的なもの(見えないもの、たとえばクオリア、心、観念、 等々)であれ、あるいはそれらのハイブリットであれ、およそこれまで存在しなかったもの、考えられなかった新奇のものの発生、創設、流出、創造の 出来事です。何かが何かとして存在する、そのような出来事が成立する場そのものを産出すると言ってもいい。
 最後に、物やイメージ、型、振る舞い、言語、意味、概念といった諸々の要素が伝導体の内部を伝わっていくプロセスである推論。それは、「概念操 作または言語活動としての(狭義の)推論のことだけではなくて、時空構造を織り込んだ物質世界(宇宙)や生物の進化、精神世界における(言語以前 の、もしくは言語の外における)観念の運動、はては、神の存在の直観、あるいは、永井均氏の「独在性の〈私〉」の実在をめぐるメタフィジカルな論 証、等々を含めた、およそ物質と生命と精神と意識、つまり森羅万象の存在者の運動全般をつかさどる理法(ロゴス)のようなもの」(「哥とクオリア /ペルソナと哥」第7章)のことです(「受肉」や「憑依」を加えてもいい)。

[*1]「伝導(conduction)」とは、「帰納(induction)」「演繹(deduction)」「洞察(abduction)」 「生産(production)]」に次ぐ、「推論」の第五の形式のこと。
 アブダクションは、かのパースに由来する──アリストテレスの「アパゴーゲー」(還元法)をパースが訳した──もので、仮説形成法あるいは遡行 推論(「アパゴーゲー」のいま一つの訳である「レトロダクション(retroduction)」)などど和訳される推論形式のこと。
 プロダクションは、コンダクションとともに私が勝手に導入した推論形式で、「たとえば、芸術に関する理論や理念について多くを語るより作品一つ 創ってみせる、あるいは、生命誕生の機序を云々するより人工生命を現に造ってみせる、もう一つ例を挙げると、天地創造は神の思惟=推論の具現であ る、といったかたちで遂行される推論のこと」(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第7章)。
 コンダクションは「振る舞い(conduct)」という語との音声的な隣接関係のもとにあって、他の4つの推論形式を総括する推論形式(「翻訳 (traduction)」という語をあてていいかもしれない)。
 一点補足しておくと、「生産」と「伝導」は共に新規のものを造り出すことで共通するが、生産があらかじめ設計もしくは直観ないし想像されたもの を生み出す推論であるのに対して、伝導の創造性は無からの創造に匹敵するもの、つまり創造の前後の世界の連続性が断ち切られるほどに奇跡的な出来 事である点で異なる。

[*2]「韻律的世界」最終節の註で「伝導体」の理論のラフスケッチを描いた際、4つの記号に対応する推論形式ごとに論理記号を割り振った。若干 手を入れ、簡略化して再掲しておく(「A=B」は「死んだイコン・メタファー」に対応)。

【Ⅰ】指標記号[INDEX]:換喩[metonymy]:帰納[induction]:A∧B
【Ⅱ】類似記号[ICON]:隠喩[metaphor]:洞察[abduction]:A⇒B(A=B)
【Ⅲ】象徴記号[SYMBOL]:提喩[synecdoche]演繹[deduction]:A∨B
【Ⅳ】仮面記号[MASK]:逆喩[oxymoron]:生産[production]:¬A=A

 仮面記号の世界における推論の論理形式が¬A=Aから「¬A⇒A」に転じることを契機として、仮面記号は狭義から広義へと変質する。

【〇】仮面記号[allegory]:寓喩・反語[irony]:伝導[conduction]:¬A⇒A

 実在性のレベルにおける「虚」から現実性のレベルにおける「空」へ。──図式的すぎるが、私は、およそ以上のような見通しのもとで広義の仮面記 号の概形を描いている。


【32】仮面の記号論(広義)─アレゴリーをめぐる若干の覚え書き

 アレゴリーをめぐって、かつて私的に思考をめぐらせたことがあります(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第63-64章)。
 まだ確たるものになっていないその帰結を一言で括ると、アレゴリーとは、詩的言語(直接性の言語)と公的言語(間接性の言語)を媒介する「文字 像」(ベンヤミン)であり「私的言語」である、となります。
(ウィトゲンシュタイン由来の「私的言語」は、永井均氏の議論を(勝手に)踏まえて、本来言葉では表現できない「純粋経験」──「空(ヴァーチュ アリティ)/現(アクチュアリティ)」の現実性の垂直軸にかかわる出来事──を語る言語である、と定義した。)
 以下、アレゴリーと文字(像)、あるいは仮面との関係に関連する個所を、例によって加筆修文の上、自己引用します。

 ……私的言語とはアレゴリーである。
 何も表現しない「詩的言語」と、それとはまた違った意味で、何事をも言い表わさない「公的言語」。これらの領域の中間にあって、私的言語は両者 を媒介する。そのはたらき、すなわち詩的言語から公的言語を生成し、もしくは公的言語を詩的言語へと遡行させる媒介作用のことを、アレゴリーのは たらきに準えて考えることができるのではないか。
 山口裕之氏は、『ベンヤミンのアレゴリー的思考』の第Ⅲ章で次のように論じている。いわく、ベンヤミンは「アレゴリーがそのようなものとして振 舞おうとした文字」のことを「アレゴリー的文字像(Schriftbild)」と呼んだ[*]。それはアルファベットなどの表音文字ではなく、象 形文字のようにそれぞれの文字が断片としてすでに「意味」をもった表意文字である。
 ベンヤミンにあって音声(Laut)として語られた「ことば(Wort)」と「文字(Schrift)」とは両極的な位置を占めている。「こと ば」と「文字」の関係は、その初期言語論における「パラダイスの言語」(名称言語、直接性の言語)と、善悪をめぐる知によってそこから堕落した言 語(伝達言語すなわち何かを意味する言語、直接性を失った言語)との関係を引き継いでいるのである。「アレゴリーは「意味」と「事物」に結びつい ていることによって、あくまでも被造物の罪の連関のうちにとらえられている。」(176-178頁)

《「悲しみの基盤」としての「意味」(さらにそれが宿る場としての「文字」)に対置されているのが、…本来的には「パラダイスの言語」である純粋 な「音声」である。しかし「音声とされた(発された)ことば」であっても、それが単なる「名」を表すのではなく、何かを伝達し「意味」するものと なったとき、「罪」を負うものとなる。ベンヤミンにとって「悲しみ」は、被造物のもつある対象への本来的な志向・憧憬・希望・意思が遮断され、そ の指向の対象から疎外されるときに生まれる。その本来的な志向の遮断・障害となっているのが、罪にとらわれた被造物の連関のうちにある「意味」な のである。》(『ベンヤミンのアレゴリー的思考』180頁)

 ここで語られるアレゴリーの事物性、あるいは「(意味への)堕落」と「(対象へ向かう)構成的志向性」とにあいわたるその両義性(もしくは、受 動態でも能動態でもない中動態的なあり様)は、詩的言語と公的言語との中間にあって両者を両義的に媒介する私的言語の特質と同型なのではないか、 そして〈感情〉をめぐる私的言語こそ、そうしたアレゴリー的性格をもっとも色濃く帯びていたのではなかったのか。……

 ……アレゴリーは髑髏であり、死者のおもかげ(肖)であり、「仮面」である。アレゴリーは純粋経験、無内包の現実性の「記憶」の痕跡、お零れ、 幽霊であり、天使的質料性を「響き」として蓄える「空虚な器」である。アレゴリー(≒私的言語)は、神懸かりの言語(文字)であり、シャーマンの 語り(声)であり、仮面を被ったシテの語りである。……

[*]「「アレゴリー的文字像」に関連する道籏泰三氏の議論を二つ引く。
 その一、道籏泰三著『ベンヤミン解読』の二章「髑髏のにたにた笑い──廃墟からの構築としてのアレゴリー」から。

《恣意的かつ暴力的に意味を引き寄せ、言葉のもつ通常の意味を自由に歪曲し、変容させるアレゴリーは、それ自体が暗号としての謎めいた絵であり、 ヒエログリフ(象形文字)としての絵文字であり、さらに広くいえば、物質そのものとしての文字である。ベンヤミンがアレゴリーにおいて問題にする のは、ちょうどカフカにおける事物の名の攪乱の試みに似て、言葉の意味性、記号性に対立するものとしての文字、図像としての文字がもつ反乱性に他 ならない。文字像としてのアレゴリーは、慣習的な記号としての言葉の閉じた主観的世界から暴力的に排除されてゆくものを、言葉の意味や概念に媒介 されない直接的な図像のかたちで、いわばゲリラ的に奪回しようとする試みであり、そこには捨て去られ忘却されたものの痕跡が瓦礫の下に隠れひそん でいるという意味で、他でもない「それ自体が知に値する対象」なのだ。》(『ベンヤミン解読』66-67頁)

 その二、道籏氏は「「アレゴリー=文学」論──ベンヤミンにおけるアレゴリーの射程」(『ドイツ文學研究』第35号(1993年3月30日)) 《https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185028 /1/dbk03500_%5B110%5D.pdf》において、ベンヤミンにとってアレゴリーは「レトリックないしは芸術理論の枠をはるかに突 破して、存在論、認識論の根底にまで届く深度をもった言語的実践」だったのであり、バロックのアレゴリーを哲学的に考察することによってベンヤミ ンは「こうした言語の根底にまで届くアレゴリーの本質を、「アレゴリーは文字である」という言い方の中に凝縮して表現した」と論じている。

《暴力的に「意味」を収集し、言葉の通常の意味を好き勝手に歪曲、変容してゆくアレゴリーは、それ自体で任意の「意味」を引き寄せようとする謎め いた絵であり、絵文字であり、さらに視野を広げていえば、図像そのもの、物質そのものとしての文字に他ならない。一方において、言語音声そのも の、物質としての言語音声そのものが、言葉のもつ記号論的意味をいったん無と化さしめ、いわば音楽として、言葉をまさに記号とは全く別の次元に引 き込んでゆくものだとするならば、それに対して、文字そのもの、物質としての文字そのものは、図像として、世俗的な意味を「任意に」自らに引き寄 せてくる。アレゴリーは、そうした意味で、言語音声ないしは音楽に対置される文字に他ならないのであり、ベンヤミンはアレゴリーをこのようにとら えることによって、言語のもつ記号論的意味と音声と文字のかかわりそのものの問題にまで進んでいった…。》(『ドイツ文學研究』第35 号,111-112頁)


【33】仮面の記号論(広義)─アイロニーの運動が創り出すもの

 第30節で、広義の仮面記号の世界「実/現/虚/空」を、その内部において狭義の仮面記号の世界「インデックス/イコン/シンボル/マスク」が 高速回転する「地球ゴマ」に喩えました。
 内蔵する円盤の回転を通じて、その外殻である「アレゴリー」が重力に逆らって直立する。この無限のプロセスを通じて、「実なるもの」の極限とし ての「イコン」が純粋な「アクチュアリティ」へ、「虚なるもの」の極限としての「マスク」が純粋な「ヴァーチュアリティ」へと存在次元の転換を果 たすこと──永井(均)哲学のキーワードを使って表現すれば、「実在性(リアリティ)」から「現実性(アクチュアリティ)」への(「受肉」の逆過 程というあり得ない)飛躍を果たすこと──、その運動そのものを「アイロニー」の名で呼んでみよう、それが私のここでの主張です。

 柄谷行人氏が『ヒューモアとしての唯物論』に収められた同名の論考で、正岡子規や夏目漱石の「写生文」の特質を「自己の二重化」において捉え、 それが「ヒューモア」という論文でのフロイトの議論と「合致」すると書いています。

《フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分 自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己を──時には(三島由紀夫のように)死を賭し ても──蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不 快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。(略)しかし、私はヒューモアを心理学的に説明することに関心 がない。実際フロイトも、ヒューモアに、心理学的解明をこえて、ある高貴な「精神的姿勢」を見いだしている。というより、フロイトの姿勢そのもの がヒューモアなのである。》(『ヒューモアとしての唯物論』120頁)

 フロイトの言う「精神的姿勢」は、ボードレールが「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」のが「ヒューモア」だと規定したこと に通じている。また、「メタレベルは無い」としたスピノザや、理性による理性の自己吟味を敢行したカントに通じている。[*1]

《要するに、「超越論的」とは、ある種の「精神的態度」であり、「自己二重化」なのである。しかし、シュレーゲルは、ここから、「超越論的自己」 の優位を導き出す。それがロマン的イロニーである。イロニーは、自己の無力さを優越性に変える転倒である。しかし、「超越論的自己」などは存在し ない。たえず超越論的であろうとする構えにおいてしか。いいかえれば、超越論的であることはヒューモアである。それはいわゆる「超越論的哲学」に まったく欠落している。
 ここでつけ加えておくと、マルクスやフロイトの考えはスピノザやカントに由来する。たとえば、自分は世界(歴史)の中にあって、それを越えるこ とはできず、越えるという思いこみさえもそれによって規定されているという、超越論的な批判こそが、「唯物論」であり、それは何よりもヒューモア なのだ。》(『ヒューモアとしての唯物論』123-124頁)

 柄谷氏が、高貴な精神的姿勢・態度である「ヒューモア」とは似て非なるものとした不快な「イロニー」。私は、この相対立する二つの姿勢・態度が (オクシモロンの働きを通じて?)一つに合成されたものを「アイロニー」と捉えています。
 というか、そのように規定したうえで、アイロニーを、(アレゴリーによって総称される)広義の仮面世界におけるレトリック──「ヴァーチュアリ ティ/アクチュアリティ」の力の導管にそってはたらく「推論」のメカニズム──を総称させたいと考えているのです[*2・3]。

[*1]柄谷行人『力と交換様式』から。

《人類社会の初期は、遊動民の社会であった。それは、フロイトの言い方でいえば、原遊動民の「無機質」の状態である。私はそれを原遊動性(U)と 呼ぶことにする。だが、人類が定住したのち、さまざまな葛藤と対立が生じた。それを解消したのが、交換様式Aである。それは、フロイトの言葉でい えば、「忘却されたものの回帰」として生じた。それは反復強迫的である。ただし、「忘却されたもの」とは、殺された原父ではなくて、原遊動性 (U)である。それは定住後に失われたが、消滅したのではない。それは、贈与交換を命じる霊としてあらわれた。それによって、原父のようなものの 出現を決して許さないような兄弟同盟(氏族社会)が作り出されたのである。
 その意味で、氏族社会やその拡大しとしての首長制社会は、たんに禁忌によって縛られた抑圧的な社会なのではない。そこにはいわば、ユーモアに見 られるような高貴な自律性もまた存するというべきである。》

[*2]千葉雅也『勉強の哲学──来たるべきバカのために』のアイデアを借用するならば、私が想定しているアイロニーは「ツッコミ=根拠を疑うこ と=アイロニー」と「ボケ=見方を変えること=ユーモア」を合成したものになる。

[*3]瀬戸賢一『認識のレトリック』から。──アイロニーには、「意味の反転」(あることを言って、その逆の意味を伝える)という標準的な定義 に加えて、「エコー(引用)を伴うもの」(先行する発言に言及し、メタ言語的にコメントするもの)という新しい捉え方がある。「アイロニーは、… 各種のトロープ(転義)の交差点に位置する重要なことばの綾である。」(144頁)

◎意味反転─エコーを伴わないアイロニー
「…エコーを伴わないアイロニーは、…いくつかのトロープ[オクシモロン(oxymoron)・ユーフェミズム(euphemism)・語義反用 (antiphrasisi)・逆言法(paralipsis)・パラドクス(paradox)・曲言法(litotes)・緩徐法 (meiosisi)・当てこすり(sarcasm)・など]とネットワークを構成し、何らかの意味反転を綾の契機とする。」(144頁)

◎引用─エコーを伴うアイロニー
「エコーを伴うアイロニーは、…いくつかのトロープ[暗示引用(allusion)・パロディー(parody)・例示(exemplum)・寓 喩(fable)・たとえ話(parable)・諺(proverb)・直喩(simile)など]とネットワークを構成し、何らかの引用形態を 綾の手段とする。」(144頁)

 また、「アイロニーとは、エコーおよび/または意味反転の手段によって暗示的な批判を狙う方法である」(146頁)。

◎アイロニーは暗示的でなくてはならない
「…これから話すことがアイロニーだと前もって相手に知らせるメタ言語的手段は存在しない…。ハウスホールダーもいうように(『言語的思索』)、 アイロニーの魅力の一部は、話し手がアイロニーの意図を明かさず、聞き手を一種の宙ぶらりん状態に置くことにある。もしアイロニーが完全に透明な ら、アイロニーは即在に地に落ちる。アイロニーは、暗示的でなくてはならない。」(146頁)


【34】仮面の記号論(広義)─ケネス・バークのペンタッド、洞窟=仮面

 それでは、新しく定義されたアイロニー(柄谷行人氏が言う「ヒューモア」と「イロニー」の合体)による推論の運動──たとえば、無と有の相互反 転、裏と表の縫合、内と外の往還、一と多の連結といったアイロニカルな結合──の実質、そしてそのメカニズムはどのようなものか。
 このことを考える手がかりを得るため、ここで(チャールズ・サンダース・パースとともに、私が刺激を受けつづけてきたもう一人のアメリカの思索 家)ケネス・バークの「劇学」を取りあげたいと思います[*1]。
 森常治著『ケネス・バークのロゴロジー』によると、「バーク学」とも称されるその全仕事は、「象徴的行動(symbolic action)」「ロゴロジー(logology)」「劇学(dramatism)」の三大看板によって構成されます。

《劇学は「動機の文法」が働く典型的場面として劇をモデルにしたところから由来した名称で、ロゴロジーは言霊[ことだま]としてのロゴスが行った 自己表現として表向きには受け取られる聖典をモデルにしたところから由来した名称である。象徴的活動はもっとも色彩をもたない用語である。だが色 彩を欠如するために、象徴機能の客観的分析にはむくが、人間の情念が働く領域の分析にはやや迫力を欠く憾みがある。》(『ケネス・バークのロゴロ ジー』179頁)

《ロゴロジーが言語主義の視点を明確に打ち出すための用語、つまり、言葉を言葉外の視点、たとえば科学的方法によって分析するのではなく、言葉の 内的性格それ自体から抽出された論理を‘再帰的’に言葉に適用するための用語であったのに対し、劇学はロゴロジーによって摘出された言葉の特色が もっとも強烈なかたちで現われる場所である演劇をいわば全体系の戦略拠点として打ち出した用語である。》(『ケネス・バークのロゴロジー』184 頁)

 ケネス・バークは『動機の文法』において、劇学の「五つの鍵語」を呈示しています。すなわち、「行為(act)」があるためには、「行為者 (agent)」がなくてはならない。同様に、行為者が行為する「場面(scene)」がなくてはならない。場面のなかで行為するには、行為者は なんらかの「手段・媒体(agency)」をもたなくてはならない。さらにまた、行為が十全な意味で行為とよばれるためには「意図 (purpose)」をもたなくてはいけない。
 このケネス・バークの「五つ組(pentad)」を“応用”すると、能や文楽といった、やまとうたの系譜に属する劇的表現のあり様に即した独自 の「ペンタッド」を、考案することができます。すなわち、「舞(act)=文字」[*2]があるためには、「聲(agent)=哥」がなくてはな らない。同様に、聲が舞に成るための「設(scene)=舞台」がなくてはならない。設(しつらえ・しつらい)のなかで舞うためには、聲はなんら かの「面[オモテ](agency)=身」を装着しなければならない。さらにまた、舞が十全な意味で舞とよばれるためには「筋 (purpose)=物語」をもたなくてはいけない。
 ──以上のことを、第30節の図に落とし込むと、次のようになります。

         【筋】
         ┃
         ┃
   可能的存在 ┃ 現實的存在
         ┃
 【舞】━━━━【面】━━━━【聲】
          ┃
    消極的無 ┃ 積極的無
         ┃
         ┃
         【設】

 ケネス・バークのオリジナルな思考とはかけ離れてしまいますが、ここで、議論を“飛躍”させます。
 私は、この能舞台(という伝導体=広義の仮面)を表現する図を、かの旧石器時代の洞窟の概念を示すものと見ています。洞窟すなわち「仮面的なも の」の原型。そして、劇場=洞窟=仮面を、「インキュベーター」(孵化器、胞衣、胎盤)として捉えたいと思うのです。
 それではそこでインキュベートされるもの、つまり伝導されるものとはいったい何か。永井(均)哲学固有の符号を用いて表現すると、それは〈ペル ソナ〉である、となるでしょうか。本来、劇場=洞窟=仮面の内部に萌す存在は〈 〉と表示するしかないもの(形式、高階の仮面)なのですが、この (本来、二重否定を表現している)符合によって設えられた領域においてインキュベートされるものがあって、それを私は「ペルソナ」の名で呼んでい るわけです(ペルソナは意識と言い換えてもいいし、文字と呼んでもいい)。
 上図の中心に位置する【面】は、シテが装着する仮面であると同時に「鏡の間」でもあります。それはマスク=狭義の仮面記号(部分)のうちにアレ ゴリー=広義の仮面記号(全体)を映し出す。と同時に、後者が前者に憑依もしくは受肉する装置すなわちインキュベーターである。

[*1]ケネス・バークは『動機の文法』(森常治訳)第二章「二律背反する定義群」の冒頭、「本質(substance)」をめぐる議論のなか で、この語を「劇学」的視点──「この語が新しい状況のなかで経験する当惑、そして変形の潜在可能性を考察する視点」──から考察している。
 いわく、「ラテン語の背後にひそんでいる語源的地口」(substance=sub(下に)+stance(立つもの))に注目するなら、この 語は「あるもの、または行為者のなかにはじめから‘存在する’もの」を指示するために用いられてきた(48頁)。

《ギリシア語 hypostasis にもこれと同じ構造がみられる。それはやはり「下に立つ」という意味をもつ。さらに、下に立つすべてのもの、支え、基調、底、支持等を意味する。比喩的に 用いれば基本原理、主題、物語や詩の筋、主張、さらに出発点という意味も生じる。次に形而上学的領域に適用されれば、実在、現実、(見た目どおり の)ありのまま、性質、エッセンス、といった意味がでる。神学ではこのギリシア語はラテン語のペルソナに対応するもの、三位一体中のペルソナとし て用いられる。医学用語としては抑圧、たとえば表面に出てこようとする液体の抑圧といった意味がある。また尿の中の沈澱物質、さらに一般に沈澱 物、たまり、の意味がある。象徴学の立場から見るならば、「基本的なもの」を論じ、諸物の「奥底」まで到達しようとする形而上学的論文を調べると きわれわれが気付くことは、ギリシア語ヒポスタシスがもつ最後の意味のワンセットともいえる、「沈澱物質、沈積物、たまり」との関連である。フロ イトは一見全く抽象的にみえる思考にひそかなかたちで織り込まれている「排泄肛」衝動ともいうべきものについて言及しているが、このギリシア語は 形而上学的論文のこうした要素へとわれわれの注意を向けるのである。この面からいえば、世界を「受け容れる」ことは「排泄物」と和平を結ぶことで あるかもしれない。》(『動機の文法』49頁)

 ここには、坂口ふみ著『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』(岩波現代文庫、152頁)で言及された「ヒポスタシス=ペルソナ」 をめぐる話題(出典「リデル-スコットの希英辞典」)との符合がある。
 ただ、いま注目したいのは、ケネス・バークが続けて、「「本質」という語が、これまであるものがそう‘である’ところのものを指示してきたにも かかわらず、そう‘でない’あるもの[下に立つもの]を指す語から由来しているところに、きわめて峻烈な秘密がかくされている」(49頁)と書い ていることである。
 この「本質のパラドックス」は「純粋性のパラドックス」──「純粋なる個性」が個性の否定である「無個性」と同じになり、ヘーゲルが強調したよ うに「純粋存在」が「非存在」と同じであること(61頁)──に通じている。
 私は、このケネス・バークが言う本質・純粋性の「パラドックス」を「アイロニー」(¬A⇒A)の語に置き換えて理解している。ちなみに『象徴と 社会』の「訳者あとがき」で、森常治氏は「バーク的思考の中心にあるもの」を次のテーゼにまとめている。

《人間には言語を通して複数の思考ベクトルが動いている。それぞれのベクトル(A、Bとしよう)は互いに相互排除的で反対方向に働くが、実はその ベクトルに動力を与えているのは、そのとき忘却されている、あるいは敵視されている他のベクトル(B)なのである。両者はひとつの力学的系のなか にあり、互いに相手から遠ざかる運動もその系のなかで行なわれている。そのためにABは相互否定的であるが、同時に互いに見えない糸のようなもの で繋がれている。したがってA方向を追いすぎると、ある時点で逆方向の力が働いて、B極に出てしまうことになる。》(『象徴と社会』 525-526頁)

[*2]聲の形が舞である。あるいは哥の姿が可視化され、文字すなわち「動きつつある形」(大石昌史)となったのが舞である。「舞は声を根とな す」(『花鏡』)。
「そもそもマラルメの「芝居鉛筆書き」に読まれる「舞踏論」は、マラルメ自身が真っ先に指摘しているように、「バレエ論」なのであって、「バレエ は、本来的に言えば、ダンスの名を認めないことも可能」な、言うなれば「象形文字」であり、バレリーナが自分の身体で書いていく「文字」を観客が 読み解くという、「高度に詩的な」作業を前提としていた。」(「ピナ・バウシュあるいは「タンツテアター」──『魂と舞踏』の余白に」、『渡邊守 章評論集 越境する伝統』82頁)
 ──ここで言う「文字」は、本文で「ペルソナ」や「意識」と等値した「文字」とは存在次元が異なる。小文字と大文字、狭義と広義の違いを超えて 異なる。


【35】仮面の記号論(結)─ペルソナ的・文字的世界へ

 多くの‘宿題’を積み残したまま、四回目の仮面考の考察を終えます。とりわけ心残りなのは、今回もまた、和辻哲郎と坂部恵に到達できなかったこ とですが、しかし、これはなかば確信犯、というか最初からそうなることを予想していたものでした。
 今回の主要関心事は「仮面の記号論」の考察でした。その固有の議論は、マスク(狭義の仮面記号)やオクシモロンを取りあげたところで実質的に終 わっていて、アレゴリー論やアイロニー論といった領域に踏み込んだのは、韻律、仮面の次に来るものを炙り出しておきたかったからです。
 それは、つまり(狭義の)仮面世界の次に来るものとは、劇場=洞窟=仮面の世界から出現する「ペルソナ=文字」にほかなりません。(「ペルソ ナ」や「文字」も、私の考えでは伝導体=広義の仮面記号にほかならないので、「ペルソナ=文字=仮面」と表記してもいい。)
 ペルソナ=文字とは何か。このことを主題的に考察するためにこそ、長らく手つかずのままにしていた和辻=坂部の仕事に挑まなければなりません。 いまの時点で朧気に言えることは、次のようなものです。──文字とは、言葉では十全に表現できないもの、たとえばクオリアやペルソナのごときもの を、表現し伝達しあるいは生産し伝導する媒質である。

     ※
 「仮面的世界」を閉じる前に、本編に組み込めなかった落穂拾いを一つ。
 山城祥二編『仮面考 シンポジウム』(リブロポート:1982年)の第三部「憑依(トランス)の構造」は、小田晋、観世栄夫、栗本愼一郎、森本 公誠、山城祥二をパネリストに迎え、坂部恵の司会によって進行された‘豪華’な饗宴の記録です。(本書に収められた他の三つのシンポジウムも、河 合隼男、小泉文夫、中村雄二郎、といった面々による‘絢爛’な知的饗宴の記録で、これに山口昌男や丸山圭三郎、市川浩、武満徹といった識者が加わ ると、ある時代の匂いが濃厚に漂う。)
 仮面体験をめぐる「トランス」=「依る」と「ポゼッション」=「憑く」、「エクスタシー」(脱自)という三つの要素(これに「エントゥシアスモ ス」(神充)」を加えると四つの要素になる)、離見の見との関係、等々、刺激的な議論がいくつも出てくるのですが、ここでは坂部恵の一続きの発言 を二つに分けて引用します。

《さて、すでに多くの方が、憑依にしても仮面にしても、それが自我の二重化という事態に関わることを指摘されました。私が、ここではっきりさせて おきたいのは、そうした二重化の経験ということは決して特殊なことではなくて、むしろ、人間の経験の普遍的な基層と《ママ》をなすのではないかと いうこと、言い換えれば、われわれ自身、必ずしも文明社会に生きている場合には意識してないけれども、むしろわれわれの人格に、二重化の構造とい うものがつきまとっているというのが、最も基本的な事態なんではないかということです。
 これは、いろいろな角度から言うことができます。たとえば、ほかの動物と違って、人間だけが時間を知っているということが言われる。それは、つ まり、人間の自我がその都度の現在だけに縛られて生きるのではなくて、同時に、いわば未来にも過去にも自分を移し入れながら生きている、言い換え れば、脱自的な構造をもっているということにほかなりません。この観点からすると、私は、太古の人類がすでに墓をつくって祖先を追悼する、喪に服 するということを知っていたということと同じく、すでに旧石器時代から仮面が見られるという事実には密接な関連があることのように思います。言っ てみれば、両者は、時間の向きを異にするだけで──過去の死者の生前その人と過ごした時間に自分を移し入れるか、それとも逆に過去の、祖先の霊が われわれの現在に立ち返ってくるか──ひとつの同じ二重構造の表われだと考えられるからです。ほかならぬ憑依の体験もまた、同じ二重構造の別な ヴァリエーションにほかならないことは、言うまでもないでしょう。
 あるいはまた、人間だけが高度に発達した言語というものをもってることも同じ事態の別な表われと見られないか。つまり言葉は分離して区別する。 そして区別しながら、同時にまた、それをひとまとまりに統一して考えるという、いわば二重化された総合の構造…をもっていると言うことができそう に思います。》(『仮面考 シンポジウム』178-179頁)

 「人間の経験の普遍的な基層」とは、坂部自身が言うように、「太古の人類」の経験すなわち旧石器時代の洞窟体験に通じています(仮面の体験、す なわち憑依の体験と言語の体験、すなわち‘表意’の体験)。

《さて、ここで問題になるのは、このようないわば人間の自我の基層にある二重化の構造が、文明社会…では、ともすれば見落とされ、あるいは二次的 ないし病的な一段価値の低いものと見なされがちなことの意味です。
 詳しい話は抜きにして、結論だけを言えば、私は、文明人の自己同一的な自我と言われるものの基層にもやはり同じ二重構造は生きつづけている、し かも、その基層に生きている基礎的な体験に絶えずくり返し立ち戻って、いわばそこからエネルギーを汲み取ることなしには、それは、硬直化すること を免れないということを、今日では平凡なことながら、改めて強調しておきたいと思います。憑依や仮面が今日の私たちにとってもちうる意味という問 題も、言うまでもなく、このこととの関連において問われるべきものでしょう。
 最後に憑依についてひと言、憑依──依[よ]り憑[つ]くということですが──これは二つに分けて考えられるのではないか、つまりポゼッション [憑く]とトランス[依り]。「憑く」のほうから言えば、ヨーロッパの場合でも、ポゼッションというのは、伝統的に「悪魔憑き」で、悪い意味で使 われる…ことが多い。
 ところが、「依る」のほうは、ある時期からはかなり影が薄くなってしまうようですけれども、どちらかというとポジティブに評価される。「依る」 のほうはコントロールされた憑依。「憑き」のほうは、逆にそれに取り憑かれてしまうという形で、コントロールされていない憑依と言ってもよいかも しれない。ともかくそういうそういったよい憑依と悪い憑依が伝統的に区別されてきた。ときにその区別は、憑きもの同士の闘い、シャーマンの術比べ などという形で決せられることもあった。》(『仮面考 シンポジウム』179頁)

 ──文字がもつ呪術性にもまた「依り」と「憑く」の二重性がある。文(字)は人(ペルソナ)なり。