韻律的世界~it's a metrical world~



【1】序─世界の基底としての韻律

 韻律という現象をめぐって、文献渉猟と素材蒐集、想像と理論化の試みに興じたいと思います。着地点の見通しは立っていないので、関心と偶然 と運にまかせて、行き詰ったら迂回路を探し、見つからなければ中断して最初から出直すといったやり方で臨みます。

 私が韻律に惹かれるようになったのは、王朝和歌に関心を寄せたことがきっかけです。古今、新古今の和歌集、貫之、定家といった歌匠の世界に 足を踏み入れて最初に感じたのは、ほとんどの作品が内容空疎、レトリックも古拙または稚拙、退屈で面白くないということでした。
 その後、丸谷才一著『新々百人一首』を読み、和歌がいかに多層重層に組み立てられているかを知って驚嘆し、丸山圭三郎の(ということはソ シュールの、そしてラカンの)深層の言語学に親しんで、意味に先立つ音(声)の類似性が持つ力に目(耳?)を開かされ、吉本隆明の『言語に とって美とはなにか』や『初期歌謡論』に接して和歌的ロゴスの凄みに心を奪われました。

 吉本隆明が三浦つとむ著『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)の解説に次のように書いています。
 いわく、ある種の古典詩歌の作品が、意味をたどれば「ここに美しい花が咲いています」といった単純なことしか云ってないのにどうして感銘を 与えるのか。この疑問をめぐる俊成、宣長その他の多くの評者の議論は語義の解釈と声調(リズムと歌柄[たけ])に限られて、すこしも感銘の総 体には到達しなかった。
 これに対して吉本は「表現された言葉は、‘むこう側’にあるが、認識の動きは、その都度、‘こちら側’にある」という三浦つとむの「示唆」 を受けて、詩歌の美を保証しているのは「わずか三十一文字といった表現が、めまぐるしいほどの、認識の〈転換〉からできあがっていること」に あると気づき、これを緒口に「場面・撰択・転換・喩」(『言語にとって美とはなにか』では「場面」ではなく「韻律」の語が採用されている)の 四項が言語で表現された作品の美を成り立たせているという理論の根幹を形成した。

 私の作業は、したがって当面は詩歌、とりわけ和歌や俳諧における韻律の周辺をめぐることになるでしょうが、しかしその場合であっても「声 調」の段階にとどまらず韻律の総体に、すなわち吉本が「詩歌の本質」と指摘した「場面(韻律)・撰択・転換・喩」を含めた詩歌制作の規律、文 法、原理のごときものに迫っていければと思っています。
 さらには言語芸術の分野を超えて、人間社会や文化の動態や歴史といった、およそ言語による(もしくは言語を重要な要素として成立する)あら ゆる事象の基底として[*]──大風呂敷を広げるならば、おそらく人類が言語を獲得するはるか以前(宇宙創成の頃?)から、言語誕生の枢要な ファクターとなる韻律的世界が存在していたという、それくらいの拡がりと深さをもったものとして──韻律を考えてみたいとも思っているので す。

[*]坂部恵著『不在の歌──九鬼周造の世界』の「日本詩の押韻」を論じた文章中に、著者は次のように書き記している。「マラルメやヴァレ リーに深く学んだ周造にあって、<押韻>の問題が、単なる詩や歌の問題、あるいは単に文学の問題ではなく、むしろ、よりひろく、文化の基底と しての生の律動(はずみ)の問題、あるいは、共同の生の基底としての自己と他者のさらには宇宙の‘いのち’との共感や、共鳴の可能性の問題と して、生きられ、捉えられ、あるいは捉え返されていたことはたしかであるようにわたくしにはおもわれる」(201頁)。


【2】序─私を支えてくれたものは韻律である[*]

 中井正一は「リズムの構造」の冒頭に、次のように書いています。

《『レ・ミゼラブル』の中に次のような一節がある。「もはや希望がなくなったところには、ただ歌だけが残るという。マルタ島の海では、一つの 漕刑船が近づく時、櫂の音が聞える前にまず歌の声が聞えていた。シャートレの地牢を通って来た憐れな密猟者スユルヴァンサンは『私を支えてく れたものは韻律である』と告げている。」》

 岩波文庫『中井正一評論集』(105頁)からの引用ですが、便利なもので、中井のこの論考はインターネット上の「青空文庫」で読むことがで きます。もっと便利なことに、青空文庫の先輩「プロジェクト・グーテンベルク」にアクセスすれば、『レ・ミゼラブル』の原文を検索することま でできます。
 孫引きの文中に出てくる「韻律」の原語が気になって調べてみると、「rime」(英語では「rhyme」)でした。 [https://www.gutenberg.org/files/17518/17518-h/17518-h.htm]

  私を支えてくれたものは韻律である。
  Ce sont les rimes qui m'ont soutenu.

 「リズムの構造」で「韻律」の語が用いられているのは残り3個所、それらは同じ段落の中で、「リズム」と対のかたちで現われます。たとえば 「リズムならびに韻律」といったように。
 ちなみに萩原朔太郎の「詩の原理」には、韻律の語が49回出現し、「リズム」のルビが振られています。「詩とは韻律[リズム]によって書か れた文学、即ち「韻文」である」のように。
 中井正一(韻律=ライム)と萩原朔太郎(韻律=リズム)とで「韻律」への訳語の当て方が異なっていますが、これは概念の定義の違いではな く、重点の置き方もしくはリズムやライムの語感の違いと考えていいと思います。
 この二つの用語法を組み合わせると、「韻律=ライム+リズム」。九鬼周造の「日本詩の押韻」における次の分類が、まさにそれにあたります (『九鬼周造全集 第4巻』224-226頁)。

     韻 Reim  :音の特殊な質的関係
   /       ※真の韻=こころの音色
 韻律
   \
     律 Rhytmus:言語の有する音の連続に基く量的関係
           ※真の律=感情の律動
                 
 私はここに「形の特殊な質的関係」、いわば「形の韻」のごときものを加えるべきではないかと考えています。

[*]2022年5月29日付朝日新聞の読書欄に、島村一平著『憑依と抵抗──現代モンゴルにおける宗教とナショナリズム』をめぐる柄谷行人 氏の書評が掲載されている。その中に次の一節があった。

《モンゴルでは「韻を踏むという身体技法」が社会を変革する語りを生む、という指摘も興味深い。シャーマニズムだけでなく、社会主義以降に急 激に発展したヒップホップも、韻律を伴った言葉によってトランス状態(憑依)に入っていき、別の人格(精霊)を招き寄せる。チンギス・ハーン を題材としたナショナリズムも、とくに詩の形で普及した。》

 いま一つ『独自成類的人間 哲学日記2014-2021』から関連する議論を引く。
 永井均氏は「吉本隆明の罵倒文の力 2016.10.13」の項で、清水幾太郎の「棄教」を非難し嘲笑した丸山眞男らに対する吉本の「罵倒 の文体」を問題にしている。

《当時の私の心を打ったのは、「何が可笑しいのだ、……よ、……よ、……よ」の部分と、それに続く「……が、どうして……のだ」が繰り返され る部分の、いわば韻律であった。私はそれに説得されて、吉本とともにこの三人を侮蔑した。おそらく、同じ内容であってもこの文体でなければ、 そんなことは起こらなかったであろう。》(『独自成類的人間』39頁)


【3】序─字韻・型・フィギュール

 「形」にも韻がある。つまり、反復的に出現する「形」がある。だから、広い意味の「韻律」の定義に「形の韻」(あるいは「見る綾」 [*1])を加えるべきではないか。──前節の末尾にそのように書いたとき、私の念頭にあったのは、石川九楊氏の「字韻」というアイデアでし た。
 『日本の文字──「無声の思考」の封印を解く』(ちくま新書、2013年)から引きます。

《詩と文は区別される。韻律や音数律に従って作られていくのが詩である。韻律をともなった文が詩であるともいえる。この点においては西洋の詩 も東洋の詩も同じである。(略)
 しかし、東西で韻律のあり方が異なる例がある。西洋詩の場合には、言葉が音にもとづいた体系から成り立っているので、韻律が「音の韻」にな る。ところが、東洋詩、とりわけ日本の和歌の場合には、韻律が音にとどまらず、相当部分文字あるいは書字のそれとなる。いわば「書く韻」であ り、「字の韻」になるのだ。》(204頁)

 和歌には「音の律」(五・七・五・七・七のリズム、音数律)と「音の韻」(響きあいながら繰り返していくこと)がある。「この韻が、…音で はなくて、書字、文字の韻としてあらわれてくることがある。それがひらがな歌である和歌の性格を決定づけている。」(205頁)
 以下、石川氏は、掛詞ならぬ「掛字(かけじ)」や「掛筆(かけひつ)」、その延長上にある「縁語」、「見立」や「歌枕」、さらに「折句(お りく)」「詠込(よみこみ)」に説き及びます。そして、和歌の本質は、「音韻律を存在基盤とする」西洋詩とは異なり、「意味の韻律、字の韻律 を基盤に成り立」つ「ひらがな歌(女手歌)」であったと規定します

《声による韻律よりも、書字(掛筆)に発する掛詞が清音表記によってさらに増幅され、表現の可能性が広がり、和歌の表現が洗練されていった。 意味の韻、文字の韻、書くことから生れる韻律によって成り立つ和歌が、女手の誕生とともに生れたのである。》(224頁)

 和歌とは、文字を使って「書くことから生れる韻律」のうえに成り立つ「歌」である、というわけです[*2]。──ここは序論的考察の場です から、石川氏の議論の引用はここまでとします。

 「形の韻」については、このほかにも世阿弥が言う「形木」すなわち「型」や、俊成・定家歌論における「姿」(歌の風躰)なども重要な考察対 象になると思います。
 「型」については、日本の芸能、武道全般にわたる実践と思索の精華、より広く捉えれば、世阿弥能論における序破急、さらに守破離や真行草、 等々、そしてより普遍的には原型、母型をめぐる問題群がたちまち思い浮かびます。
 「姿」は、大石昌史氏が「余情の美学──和歌における心・詞・姿の連関」(三田哲學會『哲學』第118集(2007))で「figure」 の訳語を与えています。このフィギュールという概念は、修辞学で「詞姿」と訳されたことがあるようですが、レトリック論の範疇をはるかに超え た厄介(かつ蠱惑的)な概念です。
 私はWeb評論誌「コーラ」に連載している論考群「哥とクオリア/ペルソナと哥」で、断続的に「姿=フィギュール」の“解明”にチャレンジ していますが(たとえば第38章[http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta- 38.html]の第4節)、まったく歯が立ちません。
 これらの論点についても、(正面から取り組むための準備がいまだ整っていないこともあって)この程度にとどめおき、ありうべき本論での議論 に委ねたいと思います。

[*1]山中桂一氏が『ソシュールのアナグラム予想──その「正しさ」が立証されるまで』(ひつじ書房、2022年)で、ウィリアム・ベラ ミーによるソシュールのアナグラム論批判を紹介した文章。──「アナグラム法は第一義的には音声にいっさい関係せず、むしろ図形詩やある種の 見せ消ちのような「見る綾」、つまりは文字表記にかかわる字並びの問題である」(106頁)。

[*2]石川氏の「字韻」は、連綿や散らしといったかな書き特有の技法に裏打ちされた純粋に「形」に関する概念だが、これとは素性が異なるも のに「視覚韻」がある。不学ゆえつい最近、山中前掲書(84頁)に、「love~cove~move」のように「見た目は韻を踏んでいるよう でも発音の一致しない」ものを(聴覚韻に対して)「視覚韻」と呼んでいるのを見て知った。


【4】序─リズム・ライム・モアレ

 なぜ「音の韻」だけでなく「形の韻」を加えるべきか、の説明がまだでした。一言でいえば、「リズム」は「形」に(も)通じる、あるいは「リ ズム」は「形」を(も)生むからです。
 そもそも「リズム」は森羅万象(連なりあった形あるもの)の根源現象であって、それは「音の連続に基く量的関係」(九鬼周造「日本詩の押 韻」)と「形の連続に基く量的関係」とからなる。したがって、「音の韻」が「リズム」と緊密な関係を取り結ぶように、「形の韻」(たとえば螺 旋や楕円)もまた「リズム」から立ち上がってくる。
 私は、おおよそ以上のような考え方に立っているのですが、もちろんこれにはいくつかの“出典”(参考文献)があります。ここでもまた詳しく は述べませんが、その一端を抜き書きしておきます。

《ギリシアの哲人ヘラクレイトスは「万物流転」といった。森羅万象はリズムをもつの謂である。ドイツの生の哲学者ルードヴィヒ・クラーゲス は、このリズムを水波に譬え、その波形のなめらかな〝更新〟のなかに、機械運動の〝反復〟とは一線を画したリズムの本質を見出し、やがてそこ から「分節性」と「双極性」の二大性格を導き出すのである。》(三木成夫『胎児の世界』)

 ──さて、これまでの予備的考察を通じて、韻律をめぐる三つの項を抽出することができました。基盤となる「リズム」、これに根差した「音の 韻」すなわち「ライム」と「形の韻」すなわち……と、ここで一種の韻を踏んで──いや、韻(脚韻)を踏むのではなく、律(音数律ならぬ字数 律?)を刻んで──、「モアレ」という語を採用したいと思います。
 モアレ、すなわち、二つの周期的パターンが重ねられるときに現れる第三のパターン。“出典”は、グレゴリー・ベイトソンの『精神と自然── 生きた世界の認識論』(佐藤良明訳)です。

《韻文、舞踏、音楽といったリズミックな現象は非常に古い時代から──おそらく散文以前に──人間と共にあった。というより、たえまなく変奏 されゆくリズムの中にあるという点こそ、太古的な行動と知覚の特徴なのである。人間ならずとも数秒の記憶を有する生物であれば、二つの異なっ た時間上の出来事を重ね合わせて比較することができるはずだ。そのような方法で処理できるものを、韻律や音楽は含んでいるのである。
 世界中のどの民族にも見られる芸術的、詩的、音楽的な現象が、何らかの形でモアレと結びついているということはありえないだろうか。もしそ うだとしたら、個々の精神は、モアレ現象の考察がその理解の助けとなるような、非常に深いレベルで組織されているということになりそうであ る。…モアレの〝論理〟を構成する形式数学は、美的現象をマップする土台として適切なトートロジーになりうるのかもしれない。》(岩波文庫 『精神と自然』155-156頁)

 音の韻(ライム)、形の韻(モアレ)、そしてそれらに通底する律(リズム)。これら三つ組の概念の相関図、もしくは「韻律的世界」を散策す るためのマップのようなものを最後に作成して、この序論的考察を閉じたいと思います。
 詳しい説明は省きますが、私は、リズムはマテリアルな世界に接し、ライムとモアレはメタフィジカルな世界に繋がっていると考えています。自 然(マテリアル・ワールド)と精神(メタフィジカル・ワールド)の間に開かれるのが韻律的世界(メトリカル・ワールド)である、と言ってもい いでしょう。
 さらに。空海の『声字実相義』の「声」が「ライム」に、「字」が「モアレ」にかかわり、「マテリアルな実相」が「リズム」に接し、「メタ フィジカルな実相」がいわば天界の「ライム」と「モアレ」(聴こえない韻と見えない形)に繋がっている、などと言うことができるかも知れませ ん。

     [メタフィジカルな実相]

          ┃
          ┃
      モアレ ┃ ライム
          ┃
          ┃
 [字]━━━━━━╋━━━━━━[声]
          ┃

         リズム

      [マテリアルな実相]

 以下、和歌や俳諧の韻律について一瞥し、その後、ライム篇、リズム篇、モアレ篇と、網羅的・体系的にではなく、目に触れ手に入るがままに文 献や素材を渉猟・蒐集し、それらに共通する「論理」(形式数学)のごときものを探っていきたいと思います。


【5】萩原朔太郎─詩と韻律とは同字義である

 本編に入り、さて何から手を着けようかと思案していたちょうどその時、『恋愛名歌集』の岩波文庫版が刊行されたので、これを機縁として、萩 原朔太郎の韻律論の‘摘まみ読み’から作業を開始することにします。
 「序言」に、いきなり根本命題が出てきます。

《一つの本能的な事実として、詩は韻律と共に発生し、かつ韻律を求めて表現する。詩の概念定義は如何にもあれ、それが人を陶酔させる実の力 は、主としてその文学に特有して居る、言語の魔力的な抑揚や節奏──それが広義の韻律である──に係って居る。この音楽から来る不思議の酔 [よい]が、それ自ら「詩」と呼ばれる不思議の感情である故に、詩と韻律とは同字義であり、広義の韻文であることなしに、詩である文学は無い わけである。》(8-9頁)

 しかるに、と議論は続きます。今日の日本においては、歌以外に真の韻文が無い。歌のみが唯一の現存する詩形である。「真の韻律的なる詩的陶 酔」を欲するなら、伝統の和歌を読む外はないと[*1・2]。

《…日本語には建築的、対比的の機械韻律がほとんどなく、その点外国語に比して甚だ貧弱であるけれども、一種特別なる柔軟自在の韻律があり、 母音、子音の不規則な──と言うよりも非機械的な配列から、頭韻や脚韻やの自由押韻を構成して、特殊な美しい音律を調べるのである。この点に おいて歌は最上の発達を遂げてるので、特にその代表的な作について例解し、韻律を分類して押韻図式を示して置いた。》(14頁)

 こうして萩原朔太郎は、万葉から古今を経て新古今に至る歌集から、秀歌、名歌、名吟、秀逸、絶唱、圧巻を選抄し、若干の評釈を加え、本書を 著したわけです。

[*1]萩原朔太郎の韻律論をめぐって、渡部泰明氏は文庫解説で次のように書いている。

《和歌の韻律、すなわち声に出した時の言葉の固有のはたらきの大事さを訴えた書として、私たちはすでに八百年以上前に、藤原俊成の『古来風体 抄』を持っている。風体(姿)とは、心と詞の調和したさま、すなわち抒情が言葉において実現している様態を指し、韻律にほど近い概念であ る。》(251頁)

 それ以外にも、万葉集や八代集からの和歌の選抄であることや、独特の視点から和歌史を記述していること、何より本来の抒情性の再生による詩 の刷新への意志を同じくすることから、渡部氏は本書『恋愛名歌集』を「昭和の『古来風体抄』」と呼んでいる。
 俊成は『古来風体抄』に「歌はたゞよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆることのあるなるべし。もとより詠歌といひ て、声につきてよくもあしくも聞ゆるものなり」と書いた。
 俊成が言う「声」と「韻律」、「風体(姿)」そして「詞(文字)」との関係は微妙だ。それは、萩原朔太郎が言う「調」(音調・音象、音楽) と「想」(修辞、内容)の関係(166頁)に通じている。
 なお俊成の「声」については、渡部氏の論考「歌合の〈声〉──読み上げ、詠じもしたる」(『聖なる声 和歌にひそむ力』所収)参照。

[*2]哲学的韻律というものもある。内田樹著『レヴィナスの時間論』に次のように書かれているのは、武道と能の身体運用に通じた内田氏が体 験したその典型だと思う。

《彼の哲学史最大の功績の一つはその独特な修辞術にあると私は思っている。ある哲学者はレヴィナスの文体を「繰り返し押し寄せる波のような律 動」に比した。私もそれに同意する。レヴィナスの文体は寄せては返す波のようなリズムを刻む。同じような波形が何度か続く。不意に波が途絶え て、やがて遠く海嘯が轟き、異形の大波が頭上から崩れ墜ちて私たちを呑み込む。絶息しかけて必死で浮かび上がって肺一杯に息を吸い、しばし波 間に漂って息を整えていると、なじみのある波形が戻っている。それが何度か続くと、また波が途絶え……そういうことが繰り返される。
 それがレヴィナスを読む時に私が感じる‘身体的な印象’である。(略)
 寄せては返すようなレヴィナスの無窮律動的な文体は、決して文学的な感興に導かれて選ばれたものではない(詩的法悦と神秘的霊感をレヴィナ スはほとんど病的に嫌った)。あれは私たちに何かを理解させるためではなく、‘私たちに何かをさせる’ために精密に計算され、設計された装置 なのだと思う。重要なのは、テクストの叡智的な内容ではなく、テクストそのものが読者を造形し、読者を扶養するその力動的な過程なのだ。》 (『レヴィナスの時間論』105-106頁)

 宗教的韻律というものもあるだろう。『コーラン』(岩波文庫)の解説で井筒俊彦は次のように書いている。いわく、古代アラビアの砂漠に 「カーヒン」と呼ばれる預言者か巫者のごときシャーマン的人間がいて、突然精霊的な力にとり抑えられ「何者か」の言葉を語り出す。

《古代アラビアのカーヒンが、このような神憑りの状態に入ってものを語り出す時、それは必ず一種独特の発想形態を取るのを常とした。この文体 をサジュウという。「サジュウ」体とは、ごく大ざっぱに言って見れば、まず散文と詩の中間のようなもので、長短さまざまの句を一定の詩的律動 なしに、次々にたたみかけるように積み重ね、句末の韻だけで‘きりっ’としめくくって行く実に珍らしい発想技術である。これがまた、凛冽たる 響きに満ちたアラビア語という言葉にぴったりと合うのだ。著しく調べの高い語句の大小が打ち寄せる大波小波のようにたたみかけ、それを繰り返 し繰り返し同じ響きの脚韻で区切って行くと、言葉の流れには異常な緊張が漲って、これはもう言葉そのものが一種の陶酔である。語る人も聴く人 も、共に怪しい恍惚状態にひきずり込まれるのだ。》(『コーラン(上)』362頁)

 島村一平著『憑依と抵抗』から。「…モンゴルのシャーマンたちにとっての「憑霊」とは、韻を踏み続けることによって、意識外の言語≒精霊の 言葉を新たに生み出す営為を指すのではないか…。こうした押韻がもたらす、あたかも憑依のように無意識に自動的に発話する性質をここでは「韻 の憑依性」と呼んでおこう。」(273-274頁)

 詩的韻律、哲学的韻律、宗教的韻律はすべて同じ基盤を持っている。


【6】萩原朔太郎─韻律形式の一般法則とその解剖学的研究

 『恋愛名歌集』から、萩原朔太郎が個々の和歌作品について「韻律の構成を詳しく図解評釈した」(14頁)箇所を、いくつか引きます。

A.和歌の韻律形式の一般法則と若干の規範

①浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき
  Asajiu no
  Onono shinohara
  Shinoburedo,
  Amarite nadoka
  Hito no koishiki.

「この歌の音律構成は規範的で、短歌の韻律学が定める一般法則を示して居る。即ち上三句でNo音とShi音を交互に重ねて押韻し、下四句の初 頭において、主調音「浅茅生」のAを受けて対韻して居る。この押韻形式は短歌の一般的原則であ」る(102頁)。

②風をいたみ岩うつ浪のおのれのみ砕けて物を思ふ頃かな
  Kaze o Itami, Iwauthu nami no, Onore nomi;
  Kudakete mono o, Omo korokana.

「…この歌は上三句でtami,nami,nomiの三重対比を押韻して居る。そして第四句の起頭音を第一句の主調音たるKと対韻させてる。 また第五句以下を母音Oで延ばして行き、終曲に近く再度Kを出して主調音と軽く対比し、楽典的の自然法則で結んで居る。この音韻構成は前の 「浅茅生の小野の篠原」の歌と同じであって、短歌の韻律形式における一規範を示すものである。
 想としては一般の歌であるが、K・I等の堅い感じのする音を拍節部に使うと同時に、一方では開唇音の母音Oを多分に用い、その対照を巧みに 交錯させてる為、一首を通じての音律感が、あだかも岩に浪が当って砕けつつ、海波の引去りまた激するように感覚される。そうした音象的効果の 点で、かなり成功した歌と言えるだろう。」(111-112頁)

③由良の戸を渡る船人梶を絶え行方の知らぬ恋の道かな
  Yuranoto o
  Wataru funando
  Kajio tae
  Yukue mo shiranu
  Koino michikana.

「上三句までは序であるが、同時に比喩にも使われて居る。船の梶が絶えたように恋が絶えて、頼りなく行方も解らぬと言う失恋の歌である。声調 が美しく朗々として居り、あだかも船に乗って浪間を漂うような感じがある。第一句の主音U(Yは子音であるからUに韻が掛ってくる)を、第四 句で「行方」のUに対韻させ、かつ全体にUの母音を多く使ってるため、静かに浪のウネリを感じさせる音象を持ち、その点で比喩の想とよく合っ て居る。洗練された芸術がもつ、「美」の観念をはっきり啓示してくれる歌である。」(123頁)

B,和歌の韻律構成の解剖学的研究

①これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関

「この歌を詠吟すると、如何にも逢坂の関所あたりを、東西の旅客が右往左往して慌しげに行き交う様子が浮んで来る。その表象効果は勿論音律に 存するので、「これやこの」という急きこんだ調子に始まり、続いて「行くも」「帰るも」「知るも」「知らぬも」とMo音を幾度も重ねて脚韻 し、さらにKoreya Kono yukumo Kaerumo wakaretewaと、子音のKをいくつも響かして畳んで居る。こういう歌は明白に「音象詩」と言うべきであり、内容をさながら韻律に融かして表現した ので、韻文の修辞として上乗の名歌と言わねばならぬ。」(103頁)

②みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ
  Mika-No-hara Wakite-nagaruru
  Ithumi-kawa Ithumi-kitoteka
  Koishi-karuran

「上三句までは序で、四句の「いつ見き」を声調に呼び出すための前奏である。こうした序はまったく音律上の調子を付ける為で、内容的には何の 意味もないノンセンスである。しかしまたこうした歌に限って音楽的で、韻律上の構成が非常に美しく作られて居る。故に和歌の韻律構成を研究し ようと思う人は、この種の歌を親しく解剖するに限る。(略)
 即ちカ行Kの音と母音Iとを主音にして、一種の「不規則なる法則」による押韻対比を進行させて居る。そのため非常に音楽的で調子がよく、内 容の空虚にもかかわらず調子の魅力で惹かれてしまう。」(134-135頁)

③鵲のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜は更けにけり
  Kasasagi-no Wataseru-hashi-ni Okushimo-no
  Shiroki-o-mire-ba Yowa-fuke-ni-keri.

「…この歌を読むと不思議に寒い感じがして、霜に更ける夜天の冷気が身にしみて来る。その効果はもちろん想の修辞にもよるけれども、声調がこ れに和して寒い音象を強くあたえる為である。即ちこの歌の音韻構成を分解すれば、主としてKとSとの子音重韻で作られて居る。そしてこれ等の 歯音や唇音やは、それ自身冷たく寒い感じをあたえるからだ。」(165頁)

 ──『恋愛名歌集』には、万葉集の「建築美」と新古今集の「織物美」を二つの頂点とし、古今集を「未完成の歌集」と位置付ける、萩原朔太郎 独自の和歌史観が示されています(215頁他)。
 また、貫之・定家を一代の美学者にして二流の歌人もしくは没情熱の人工的歌人と評し(139頁)、人麿・西行・式子内親王を「真の本質的詩 情」をもった詩人と称える(147-149頁他)など、独自の批評眼による叙述が鏤められています。
 とても興味深い話題ですが、ここでは割愛し、先を急ぎます。


【7】萩原朔太郎─歌は調想不離の作を以て最上とする

 前回引いた〝鵲のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜は更けにけり〟(大伴家持)への評釈の中に、「想の修辞」と「声調」が和して寒い音象 を強くあたえる、と書いてありました。
 これと同様のことが、〝きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む〟(藤原良経)についても指摘されています。いわく、この 歌も如何にも寒そうな感じがするが、それは家持の歌と同様の音韻構成、すなわちK音とS音を主調とする重韻によるものであって、おそらく家持 歌の啓示を受けて試作したものであろう。
 このように述べた後で、萩原朔太郎はとても大切なことを述べています。

《因に言うが、歌では修辞と声調の音象とがよく調和し、前掲の二首の如く調想不離の作を以て最上とする。調と想とが別々になり、音楽と内容と が分離して居るものは二流である》(『恋愛名歌集』166-167頁)

 朔太郎の言う「調」(美しい音律の調べ、声調)は、韻・律の「韻」にかかわる概念です。それも、和歌の押韻形式の「一般法則」に則ったもの (前回のA)というより、「不規則なる法則」による押韻対比を進行させた作品(B)に即して使用されています。
 また「想」とは、歌に詠まれた「内容」のこと。この「想」が「調」と不離の関係にあるものを「最上」とし、分離しているものを「二流」とす る。そして、その中間に「上乗」もしくは「上」の作品──「内容をさながら韻律に融かして表現した」作品(B①:音象詩)あるいは「内容の空 虚にもかかわらず調子の魅力で惹かれてしまう」作品(B②)──が位置づけられるわけです。
 ところで、『恋愛名歌集』には、この調・想とは異なる対概念が登場します。それは、藤原定家について書かれた次の文章のうちに表現された 「詩学者」と「詩人」の対比です。

《詩学者には理論があって芸術がなく、詩のイムズがあって「詩そのもの」の魂がない。実に新古今の技巧的構成主義を美学した者は定家であった が、それを真の詩歌に歌った者は、他の西行や式子内親王等の歌人であった。定家その人に至っては、彼の美学を歌の方程式で数学公理に示したの み。それは単なる美の無機物にすぎないので、詩歌が呼吸する生きた有機体では無いのである。何となればすべての詩歌は──たとえ構成主義や技 巧主義の美学根拠に立つ者でも──本源における詩情の燃焼なしに有り得ないから。即ち換言すれば、真の詩人的性情のみが詩を生むのである。そ して定家は真の詩人的人物でなく、一代に号令する所の歌壇的英雄を範疇として居た。彼の歌に真の魅力がないのは当然である。》(140頁)

 これと同趣旨のことが、具体の定家詠に即して、次のように語られています。〝帰るさのものとや人の眺むらむ待つ夜ながらの有明の月〟のよう な「定家一流の技巧主義で作った歌」が、「趣向に余って詩情に足らず、一種の「判じ物」のような感じがする」のは、「詩が頭脳[ヘッド]での み構成されて居り、心情[ハート]から直接に湧出されてないからである」(163頁)。
 それでは、心情から湧出するところの「詩そのもの」の魂とは一体何か。それは恋愛、すなわちイデヤへの郷愁である。

《げに恋こそは音楽であり、さびしい夕暮の空の向うで、いつも郷愁のメロディを奏して居る。恋する者は哲学者で、時間と空間の無限の涯に、魂 の求める実在のイデヤを呼びかけてる。恋のみがただ抒情詩の真であり、形而上学[メタフィジック]の心臓であり、詩歌の生きて呼びかける韻律 であるだろう。》(86頁)

 ここで出てきた二つの対、調と想、詩の魂(生きた韻律、すなわちイデヤへの郷愁)と詩の方程式(美の無機物)は、相対する次元が違います。 このことを、第4回で掲げた図を使って表現すると、次のようになります。(この図には‘未熟’なところがあって、「調」は「ライム」に通じる が、「想」と「モアレ」の関係、「詩の方程式」と「リズム」の関係は微妙。)

       [生きた韻律]
         詩の魂

          ┃
          ┃
     想    ┃    調
          ┃
          ┃
    ━━━━━━╋━━━━━━
          ┃

        詩の方程式
       [美の無機物]


【8】日本語詩の韻律論─川本皓嗣『日本詩歌の伝統』

 萩原朔太郎の韻律論を概観するなら、「和歌の韻律について」をはじめ『詩の原理』や『郷愁の詩人 与謝蕪村』[*]を素通りするわけにはいきません。が、ここは網羅的な悉皆調査の場ではないので、というかそのような方針で臨んではいないので、今回と次 回、和歌や俳句の韻律構成をめぐる若干の‘素材’を蒐集したうえで、九鬼周造の押韻論へ向かうことにします。

     ※
 川本皓嗣著『日本詩歌の伝統──七と五の詩学』に収められた「七と五の韻律論」から、「日本語韻律」の「条件」と「基本」につい て書かれた文章を引きます。

《ごく些細な例外を除いて、七と五の枠を守りさえすれば、何を書いても韻文になる。日本語韻律の条件は、やはり字音の数を整えることに尽き る。だが一方、この事実からまっすぐ大西[祝]の主張するように、七五の大枠だけで満足しようという結論に飛びつく理由もない。なぜなら七字 句が「三四」で切れるか、「四三」で切れるかの違いは、明らかに聴き手に異なった印象を与え、それが偶然によるものであれ、意識的に作り出さ れたものであれ、ともかく七五調や五七調の単調なリズムに、微妙なリズム上の“あや”をつける働きをするからである。そうしたこまかな区切り の詮索は、詩を散文から区別する役には立たないが、ちょうど七五調と五七調を区別するのと同様、七字句や五字句内部の韻律パターンの種類と性 質を判別するために、必要不可欠な手段なのである。
(略)ここであらためて断るまでもなく、韻律とは基本的に、語句の音声面に表われるリズムのパターンを律するものである。あるいはリズムとい う語があいまいに過ぎるのならば、それは自由な時間の流れに一定の人工的な秩序と制約を課する「拍子」を規定するものと言い換えてもよい。そ こでは語の音声にかかわる何かの特徴(長短、強弱など)が、ある周期にしたがって繰り返される必要がある。》(245頁)

 それでは、内部の韻律パターンを刻む微妙なリズム上の“あや”、つまり自由な時間の流れに一定の人工的秩序をもたらすものは何か。──「日 本語詩の韻律」の基本的な「要素」と、その微妙かつ潜在的な韻律パターンが顕在化される場をめぐる文章を引きます。

《拍子のリズムや韻律的強弱アクセントの存在を抜きにして、日本語詩の韻律を語ることはできない。二音一泊の等時的な音歩や、そこから生じる 義務的な休止とともに、それらは伝統的な七と五の大枠や、あるいは旧来の「四三」や「三二」の句切りといった詩句のパターンを、音声的に支え ている基本的な韻律要素だからである。(略)
 日本の詩の韻律は、和歌の朗詠にみられるように、それぞれの字音や休止の相対的な長さにじゅうぶん注意を払って行なわれる朗誦のなかで、は じめて明確な形をとってあらわれる。逆にいえば、百人一首の読み手にみられるようなわが国独特の朗誦法は、何よりも、音数律という特殊な制約 をもつ日本語詩の微妙な韻律パターンを、もっとも鮮明に具体化するように工夫された読み方なのである。》(279-280頁)

 文中の「二音一泊の等時的な音歩」や「韻律的強弱アクセント」「義務的な休止」は、川本皓嗣による日本語詩韻律論(音節的韻律)の基本をな す概念群ですが、ここではこれ以上踏み込まず、「むすび」の文章の引用をもってこの回を終えます。

《「一個の詩人、長篇なくして止むべけんや」という[岩野]泡鳴の抱負にもかかわらず、もともと日本語詩の韻律は、長詩にぜひ必要な緩急と起 伏に富むリズムの動きを支えるだけの、強固な骨格をそなえていない。(略)
 これまでくわしく検討してきた韻律的アクセントや四拍子リズムの働きも、例えば英詩の強勢などのめざましい活躍にくらべれば、しょせんはつ つましい蔭の功の域にとどまるものである。韻律要素としてのそれらの役割は要するに、とかく安定を欠きやすい音節的韻律にいく分頑丈な枠組み を与えることで、リズムの変化に対する休止の強力な締めつけを、多少なりともくつろげるということにつきるだろう。
 おそらく日本語による長篇詩は、「やはり古体の」七五調に即しつつ、随時にその企画をふみ越えて、いわば七五音数の周囲をおずおずと、ある いはのびのびと遊び戯れるような、自由詩の形で書かれるのがもっとも自然であり、また事実、そのように書かれてきたように思われる。》 (321-322頁)

[*]『郷愁の詩人 与謝蕪村』附録「芭蕉私見」における「韻律」の定義。「「調べ」とは西洋の詩学で言う「韻律」のことであり、言葉の抑揚節奏する音楽のことである」。以 下、芭蕉と蕪村の比較論からの抜粋。

《芭蕉と蕪村におけるこの相違は、両者の表現における様式の相違となり、言葉の韻律において最もよく現われている。芭蕉の俳句においては、言 葉がそれ自身「咏嘆の調べ」を持ち、「歌うための俳句」として作られている。(略)故に芭蕉も弟子に教えて、常に「俳句は調べを旨とすべし」 と言っていたという。「調べ」とは西洋の詩学で言う「韻律」のことであり、言葉の抑揚節奏する音楽のことである。そして芭蕉の場合において、 その音楽は咏嘆のリリシズムを意味していたのだ。
 蕪村の俳句においては、この点で表現の様式がちがっている。蕪村は主観的咏嘆派の詩人でなく、客観的即物主義の詩人であった。(略)。即ち 蕪村の技巧は、リリカルの音楽を出すことよりも、むしろ印象のイメージを的確にするための音象効果にあった。例えば
  鶯のあちこちとするや小家がち  蕪村
  春の海ひねもすのたりのたり哉  蕪村
 の如く、「あちこちとするや」の語韻から、鶯のチョコチョコとする動作を音象し、「のたりのたり」の音調から春の海の悠々とした印象を現わ しているのである。蕪村が「絵画的詩人」と言われるのはこのためであり、それは正しく芭蕉の「音楽的詩人」と対照される。つまり蕪村の場合で は、言葉の聴覚的な音韻要素も、対象をイマジスチックに描写するための手段として、絵画的用途に使用されているのであって、本質上の意味での リリシズムとして――即ち音楽として――使用されているのではない。》(岩波文庫『郷愁の詩人 与謝蕪村』109-11頁)


【9】日本語詩の韻律論─山中桂一『和歌の詩学』

 山中桂一著『和歌の詩学』から、いくつか‘参考’になる事柄を抽出します。第Ⅰ章「和歌の詩的カノン」から、日本語韻律論の「根幹」にかか わる問題と、その「韻律構成法」をめぐる議論。
 いわく、五音と七音の反復を基本とする和歌の詩法は、「日本語における美的機能のもっとも基本的な発顕形式」をなしているが、詩的言語にお ける韻律に限っていうと、「少なくともリズムの構成要素をなす韻脚と、その展開形式をさす格式とのふたつが定義項として特定されなくてはなら ない」。

《この点から見ると、格式だけを指す五七体、七五体、詩形にたいする名称である短歌、長歌、俳句、あるいは句切れの感覚をさす五七調、七五調 などの呼び方は、まだ韻律の基盤をなす韻脚の認定を欠いている。これを何にもとめるかが、日本語韻律論の根幹にかかわる問題である。
 韻文は、いうまでもなく、何がしかの韻律要素の反復旋回をもって形のうえで定義される。韻律の構成法は言語によって異なり、強/弱、長/ 短、高/低その他の韻律要素のうち、概して当の言語において意味の弁別にかかわらない要素によって、そうでない場合は、意味弁別を妨げないよ うなパタン化によって行なわれる。日本語では長短と高低アクセントが意味の弁別に関与するので、うえの原則によれば、音節の強弱を利用する、 各行のアクセント核の数をそろえる、その他、ごく限られた韻律構成法しか選択の余地がない。
 リズムと韻脚については、二音が一単位をなし、これが、「強弱」のリズムをになって和歌の詩律を構成しているとする、いわゆる等時拍[*] の仮説がある(川本、一九九一[『日本詩歌の伝統』])。強弱二音を一拍とする律動は、それ自体では際限のない起伏に過ぎないが、これにさら に四拍ずつのより大きな刻みが逓減しつつ被さることによって詩律が生まれると見なすのである。これはただちに、なぜ四拍を五音と七音で埋める か、また、なぜそれを交互に繰り返すのかという疑問につながる。》(28-29頁)

 引用文の最後に書かれた「疑問」に対する山中氏の応答は、「説得力のある答えは見出しにく」いというもの(47頁)。──以上、『和歌の詩 学』の序論的考察から。

[*]ここで言われる「等時拍」すなわち「二音一拍四拍子」は、たとえば次のように図示することができる(『日本詩歌の伝統』284頁及び 『和歌の詩学』31頁参照)。

  ▼     ▽
  ◎○|◎○|◎○|◎●|
  ◎○|◎○|◎●|●●|

  ※ ◎○:強弱二音一拍(韻脚)
    ●●:固定休止(短句の末尾)
     ●:移動(浮動)休止
     ▼:強拍
     ▽:やや強拍


【10】九鬼周造─押韻論・偶然論・時間論

 この「韻律的世界」で是非やりたかったことの一つが、九鬼周造の押韻論の‘概形’を素描することでした。短時間で極めることなど到底できな いし、手際よくエッセンスを抽出することも叶わないので、先達の手を(勝手に)借りて、間接的ながらせめてその香りだけでも味わっておきた い、ということです。

     ※
 九鬼周造の哲学は「押韻論」「偶然論」「時間論」の三大テーマより成る。それらは、いわば「三位一体的関係」にあるものとして論及された。 ──小浜善信氏の説です。以下、『時間論』(岩波文庫)に付された解説「永遠回帰という思想──九鬼周造の時間論」から、関連する議論を抜き 書きしていきます。
 まず、九鬼周造の「押韻論の形而上学」をめぐる文章(『文藝論』収録の決定稿「日本詩の押韻」の、間接話法による‘要約’と言っていいも の)から。

《押韻は形式ではあるが、たんなる形式に尽きるものではない。それはリズムの無限反復を可能にし、果敢なく移り行くその都度の現在に永遠を垣 間見させるものである。それは「詩を同じ現在の場所に止まらせて足踏みをさせているようなものである。詩を永遠の現在の無限な一瞬間に集注さ せようとする」…。押韻は、詩をいわば小宇宙として完成するために重要な役割を果たす。押韻のなかに宇宙の奏でる無限音楽を聴き取る「心耳」 をもたなければならない。宇宙の音楽を聴き、そこに永遠と無限を垣間見ることのできる日本人の感性と、それを律格詩のかたちで表現しうる日本 語の豊かな可能性への確信があったからこそ、九鬼は詩における押韻ということを強調したのだと思われる。》(『時間論』347頁)

 ここには「永遠回帰」(無限反復)、「永遠の現在」という、九鬼周造の時間論の到達点を表現するキーワードが登場します。そしてその背後に は、「同じ音韻の同じような偶然の邂逅が継起的に、つまり時間的に繰り返すことによってその邂逅は必然の、つまり永遠の相を帯びてくる」 (349頁)と叙述される九鬼偶然論の要諦が裏書されているのです。
 このことを、小浜氏は次のように要約しています。「九鬼の押韻論の根底にある思想は、同一の偶然の繰り返し、つまり回帰的偶然が必然(偶然 の必然)になるということ、そしてこれを時間の様相のことばで言い換えれば、同一の現在の繰り返し、つまり回帰的現在が永遠(永遠の現在)に なるということである。」(358頁)
 小浜氏は、『偶然性の問題』(岩波文庫)で九鬼周造が「一韻到底の偶然的関係によって無限に繰返される回帰的円形運動をなしている」と記し た(同書64頁)、“奥つ鳥(i)鴨着[ど]く島に(i)我がゐ寝し(i)妹は忘れじ(i)世のことごとに(i)”(『古事記』上巻、「火遠 理命[ほおりのみこと]」)を例に挙げて、次のように解析しています[*1]。

《過去(のもの)が現在に、現在(のもの)が未来に、そして未来(のもの)が現在に、現在(のもの)が過去に円環を描いて無限回帰する。横軸 は、脚韻〈i〉という同一者が水平的・現象学的時間の経過におけるその都度の現在に偶然に「またしても、またしても」という仕方で現れる、そ の同一の偶然の繰り返しが必然(「偶然の必然」)になることを表す(水平的脱自:extase horizontale)。縦軸は、現在吟唱されている句が「我がゐ寝し」であるとすれば、その脚韻〈i〉に過去の「奥つ鳥」の脚韻〈i〉と「鴨着く島 に」の脚韻〈i〉が想起されつつ共鳴することによって現在に再生し、また、未来の「妹は忘れじ」の脚韻〈i〉と「世のことごとに」の脚韻 〈i〉が予期されつつ共鳴することによって現在化し重層化する(垂直的脱自:extase verticale)。こうして、過去(のもの)が現在へ、現在(のもの)が未来へ、そして未来(のもの)が現在へ、現在(のもの)が過去へ円環構造を描 いて無限回帰しつつ、過去と未来における同一者が水平的時間のその都度の現在において、垂直方向の深みへと重層構造を形成し[*2]、果敢な く移ろいゆく時間の現在という瞬間の中に「永遠の現在」が生成することを表す…。》(『時間論』356-358頁)

 ここに出てきた「水平的時間」(横軸)と「垂直的時間」(縦軸)は、九鬼時間論のいわば起点(にして基点)を指し示すキーワードだと言って いいでしょう。(それは、この連載を通じて精錬していきたいと考えている韻律的世界の図式(第4回参照)の雛型でもある。)
 最後に、「永遠の現在」をめぐる小浜氏の議論から、気になる箇所を抜き書きして、次回につなぎます。

《無限回厳密に繰り返す時間と厳密に一回かぎりの時間とが不思議な一致をみる。無限回繰り返す時間は同一性をその本質とし、一回かぎりの時間 は差異性をその本質とする。同一性と差異性とが一致するのである。差異性が無限に反復することによって同一性を生み出す、あるいはドゥルーズ (一九二五~一九九五)の『ニーチェの哲学』の中の言葉を借りれば、差異性が無限に反復することによって同一性‘になる’(devenir) と言ってもよい。言いかえれば、いわば水平方向に移りゆく現象学的時間のその都度の「現在(今)」は垂直方向の無限の深みないし厚みをもった 重層構造においてあるということである。(略)いわゆる「永遠の現在」とはこのような、無限の深みをもった時間のその都度の「現在」のことで あろう。「永遠の現在」とは、彼方の永遠が此方の時間のその都度の現在において現象しているといったようなことではない。すなわち、「永遠は 時間の原型…であり、時間は永遠の動く似姿…である」(プラトン『ティマイオス』29A-37C参照)ということではなくて、時間の無限の反 復が永遠‘になる’(werden)、あるいは永遠を生むということである。》(『時間論』390-391頁)

[*1]不遜なことを書く。私は、九鬼押韻論における形而上的な‘志向性’と具体の詩歌をめぐる形而下での分析との間にギャップを感じてい る。牛刀を用いて鶏を割いている、とでも言おうか。
 押韻が「語呂合」や「地口」に類する音響上の遊戯であり無価値だとする断定に対して、ヴァレリーを引き合いに出して韻律の有する「哲学的の 美」を云々したり、「浮世の恋の不思議な運命に前世で一体であった姿を想起しようとする形而上的要求に理解を有たない者は、押韻の本質を、そ の深みに於て、会得することは出来ない」と突き放したり、富士谷御杖の「言霊の弁」を持ち出したり(「日本詩の押韻」、『九鬼周造全集第四 巻』231頁)と、言葉でいくら抗弁してみたところで、ただの一例でいいから講釈なしに批判者を圧倒する実例を示してみせないことには、空手 形、空証文の誹りを免れないと思う。
 この乖離を埋めるものは、おそらく「押韻のなかに宇宙の奏でる無限音楽を聴き取る」感性とそれをかたちにして表現する言語の力なのだろう。 それは、坂部恵が『かたり』で示した「はなし─かたり─うた」の図式における「うた」の水準にある言語のことだろう。(「はなし─かたり─う た」は「ふるまい─ふり─まい」とパラレルな関係性を持ち、これらの図式において左から右へと進むほど、俗なる水平の日常的言語行為から聖な る垂直の儀礼化された言語行為へと移行する。)
 小浜氏は、九鬼の「押韻論」はそれだけで見ると正岡子規の「新体詩押韻の事」を超えるものではないとし、「日本語にて詩歌をウタと云ひ之を 口ずさむをウタフと云ふが如き」云々の子規の文章(「詩歌の起源及び変遷」)を踏まえて、詩とは本来吟誦されるものであると書いている(『時 間論』345頁)。
 九鬼周造の形而上学的押韻論の真髄をつかむためには、詩歌を「うた」もしくは「ウタ」のレベルで聴き取る「心耳」を持たなければならないと いうことだろう。「はなし─かたり─うた」とパラレルな「きく1─きく2─きく3」の図式を想定するなら、「きく3」の境位において具体の詩 歌作品を読まない限り、九鬼押韻論の神髄に迫ることはできないということなのだろう。
(個人的備忘録。現代における「うた」もしくは「ウタ」のあり様とそれが歌われる場のしつらえの問題を含めて、ラップの韻律的世界をめぐる考 察、たとえば川原繁人氏の議論に刮目せよ。)

[*2]引用文中の「過去と未来における同一者が水平的時間のその都度の現在において、垂直方向の深みへと重層構造を形成し」云々を読んでい て、別のところ(Web評論誌「コーラ」に連載中の「哥とクオリア/ペルソナと哥」)で‘探究’している「アナグラム」のことが頭をよぎっ た。
 私はそこで「拡張されたアナグラム」という仮説をたてようとしている。概略を述べれば、「意識的でありかつ無意識的でもある」言語行為とし ての「本歌取り」、すなわち古歌(深層)の言語的世界から生起する「ペルソナ」──「和歌の産出過程においてのみ生じている、虚構の、しかし 動的な生命をもって「深くなや」むことのできる「心」」(尼ヶ崎彬『花鳥の使』153頁)──による無意志的想起として「本歌取り」を定義 し、これを広義の「アナグラム」として捉えようとするもの。ひいては言語体系そのものが本来アナグラム的重層性をもっていると極論したいと ‘構想’している(「コーラ」での掲載はたぶん来年半ばになる⇒「哥とクオリア/ペルソナと哥」第79章)。
 九鬼押韻論と(拡張された)アナグラム論は、実は同じ事態を別のパースペクティブのもとで照射しようとしているのではないかと思う。「韻律 的世界~it's a metrical world~」すなわち「アナグラム的世界~it's an anagrammatic  world~」?


【11】九鬼周造─押韻論・偶然論・時間論(続)

 『時間論』もそうでしたが、今回とりあげる『偶然性の問題』(岩波文庫)はとりわけ、小浜善信氏の注解が詳細精緻をきわめていて、その充実 した解説とあわせると、あたかも二書を同時に読むがごとき体験を味わわせてくれます。
 しかも注解どうしが緊密にリンクを張り合っていて、それらをたどり読み進めていくと、いくつかの論述の筋道が、まるで絡まった蜘蛛の糸がほ ぐれるようにして紡ぎ出されてくるのです。これに似た感じは、入不二基義氏の『現実性の問題』で味わいました。註が註に言及し、あたかもシナ プス結合が増殖していくように、複数の議論が紙上で自律的に展開していく…。
(私が‘別のところ’で考えている「拡張されたアナグラム」は、二連音や文字を最小単位とするのみならず、組み立てればひとまとまりの論考と なるジグソーパズルのピースのような断章(注解を含めて)を単位とし、かつ異なるテクスト群にまたがって現象する。)

 さて、その『偶然性の問題』第2章「仮説的偶然」に、「頭韻、脚韻、掛詞、枕詞、折句、廻文などの形で文学上に一定の価値を有っている」偶 然性をめぐる議論が出てきます(63-64頁)。
 九鬼周造は偶然性を次の三つに区分していて、ここで論じられる偶然(「鉢」と「蜂」と「八」にみられるような言語の音韻上の関係)は「仮説 的偶然」のうち「継起的偶然」に該当します(『時間論』解説、349-352頁)。

①定言的(論理的)偶然:個物および個々の事象の存在の偶然性
②仮説的(経験的)偶然:二元の邂逅の偶然性
 ・同時的偶然(二元の出来事の偶然の邂逅)
 ・継起的偶然(同時的偶然の反復→回帰的偶然(過去⇔現在)→無限回帰)
③離接的(形而上的)偶然:「無いことの可能」に関わる存在そのものの偶然性

 小浜氏は『偶然性の問題』のこの個所(63頁)に、次の注解をつけています。「本章注解(6)の「またしてもまたしても」…もそうである が、九鬼の押韻論が偶然論と時間論(形而上学的時間・回帰的時間)論と密接な関係をもつことが暗示されている。(本章注解(60)、「第三 章」注解(45)参照」(316頁)
 別の注解への言及や参照指示が三つでてきました。第一の注解は、「アルキメデスのπ」を少数であらわした値 (3.142857142857……)の循環節(142857)が「またしてもまたしても」(xaná kai xaná)繰り返されるという本文の記述(61頁)に付されたもの。「「またしてもまたしても」という表現、とくにそのギリシア語表現には「偶然論」と 「回帰的時間」(永遠回帰)の思想との関連、あるいは「偶然の必然」という思想が示唆されている。…(本章注解(60)参照)」(315頁)
 第二は、循環小数や前回とりあげた「一韻到底」の押韻の例(“奥つ鳥…”)にみられる「単一の同時的偶然が同一性をもって「またしてもまた しても」…無限回反復されることによって成立する継起的偶然」をめぐる本文(146頁)につけられた長文の注解です(337-339頁)。
 ここには、前回抜き書きした議論──九鬼哲学の三大テーマ、“奥つ鳥…”の歌の音韻分析、「時間の真の構造は、継起的・水平的時間に同時 的・垂直的時間が交差するところに成り立っている。」(339頁)云々──や、「九鬼が無限回帰の時間を象徴するものとして何度か引用する」 芭蕉の句“橘やいつの野中のほととぎす”をめぐる九鬼の注釈──そこでは、「九鬼流の形而上的想起説」(339頁)が述べられる──が紹介さ れています(芭蕉の句をめぐる九鬼周造の注釈は次回とりあげる)。
 第三の注解は、第3章「離接的偶然」で言及された「押韻の起源」(239頁)[*]に付された注解で、九鬼押韻論の背景と内容を紹介し、簡 潔に要約したもの(『時間論』解説の「押韻論」の項に活かされている)。これも長文(368-372頁)。

 以上、小浜義信の注解的世界の一端をトレースしてみました。基本的には、前回抜き書きした議論と重なっていて、偶然論との関係のもとで九鬼 押韻論の実質を掴むためのほんの入り口に立った程度で終わっています。九鬼偶然論のなかで魅力的な概念だと思う「原始偶然」(離接的偶然の極 限、「この世界・宇宙の存在(の始原)そのものの偶然性」(421頁)──この境位の偶然性にまで達しないと、九鬼押韻論のほんとうの凄みは おそらく掴み切れない)に説き及ぶことは叶いませんでした。

[*]『偶然性の問題』の同じ頁に、ヴァレリーによる押韻の定義が紹介されている。

《ポール・ヴァレリーは一つの語と他の語との間に存する「双子の微笑」…ということをいっているが…、語と語との間の音韻上の一致を、双子相 互間の偶然的関係に比較しているのである。なおヴァレリーは詩を形式的見地から定義して「言語の偶然(運)の純粋なる体系」…といいまた押韻 の有する「哲学的の美」…を説いている。また、オスカー・ベッカーは「果無[はかな]さ」…「壊れやすさ」…が美的のものの基礎的特質である といっている…が、偶然ほど尖端的な果無い壊れやすいものはない。そこにまた偶然の美しさがある。偶然性を音と音との目くばせ、言葉と言葉の 行きずりとして詩の形式の中へ取入れることは、生の鼓動を詩に象徴化することを意味している。そうして「言霊」の信仰の中に潜在している偶然 性の意義を果無い壊れやすい芸術形式として現勢化することは詩の力のゆたかさを語っていなければならない。要するに偶然性が文学の内容および 形式の上に有する顕著なる意義は、主として形而上的驚異と、それに伴う「哲学的の美」に存している。》(『偶然性の問題』239-240頁)

 ──ここでもまた九鬼周造は「うた」っている。この哲学的思索に匹敵する強度と熱量をもった具体の詩歌作品、あるいは表現(吟誦)の実例は あるのだろうか。小浜氏が文中の「「言霊」の信仰」に付けた注解の中で挙げている例歌──“しき島の日本[やまと]の国は言霊のさきはふ国ぞ まさきくありこそ”(柿本人麻呂)や“そらみつ 倭の国は皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ”(山上憶良)──がそれなのだろ うか。
 おそらく実例は(書物の中で言及(印刷)されるようなかたちでは)挙げられないのだろう。「日本詩の押韻」の最終局面で、九鬼周造は次のよ うに書いている。「私は未来に於て、天才的詩人が出て来て、日本語の有する可能性の中から、真に美しい押韻詩を生んでくれることを希望してや まない。私はこの希望を抱きながら、またこの希望の実現される日の到来を信じながら、単に理論的指針のようなものを提供することで満足す る。」(『九鬼周造全集 第四巻』450頁)


【12】九鬼周造─現在は無限の深みを有った永遠の今である

 九鬼周造のオリジナルな議論を、『時間論』に収録された「文学の形而上学」から切り出した素材で確認しておきたいと思います[*1]。

1.重層性─文学の時間的本質

 音楽が音の「知覚」において成立している(音楽の質的時間の持続は音楽が実際に充たしている時間だけの持続である)のに対して、文学は言語 に基く「想像」(非現実的なものを直観させる機能)を領域としている。すなわち一方に音の知覚と他方に言語による想像とが存在するため、文学 の時間はすべて音の「知覚的時間」を下層とし、意味の構成する「観念的時間」を上層とする「重層性」を有つ。(129-130頁、135頁)

  橘やいつの野中のほととぎす(芭蕉)[*2]

「橘の匂いを現に嗅いでいる瞬間にかつて同じ匂いを嗅ぎながらほととぎすを聞いた瞬間が蘇ってきている。過去が再び現在として全く同じ姿で 蘇っている。全く同じ二つの現在、無限の深みを有った現在がそこにある。時間が回帰性を帯びて繰り返されていると言ってもよいし、永遠の今が 現に存在していると言ってもよいであろう。」(132頁)

2,永遠の今─詩の時間的性格

 文学の時間的本質は「重層性を有った質的な現在」であるが、この一般的性格はすなわち文学の種類によって種々に分化していく。すなわち文学 の時間的構造において過去に重きが置かれているものは小説であり、未来に重きが置かれているものは戯曲であり、現在に重きが置かれているもの は詩である。(142-143頁)

「過去を遠く辿れば未来に還って来るし、未来を遠く辿れば過去に還って来る。時間は円形をなしている、回帰的である。現在に位置を占めるなら ば、この現在は現在のままで無限の過去と無限の未来を有っているとも言えるし、また無数の現在の同一者であるとも言える。現在は無限の深みを 有った永遠の今であり、時間とは畢竟するに無限の現在または永遠の今[第四の形而上学的時間]にほかならない。」(145頁)

「詩の時間的性格は現在的であるといって差支えないが、なおまた詩の現在はいわゆる「永遠の今」であると見ることもできる。永遠の深みを有っ た現在が詩の形式的規定の上にあらわれている。詩のリズムの反覆ということは現在が永遠に繰り返すことである。(略)現在が限りなく繰り返す ことは、現在が永遠の深みを有っていることである。リズムのみならず詩が韻を踏むということも同様である。」(160-161頁)

  しづかにきしれ四輪馬車。
  ほのかに海はあかるみて
  麦は遠きにながれたり
  しづかにきしれ四輪馬車。
  光る魚鳥の天景を
  また窓青き建築を
  しづかにきしれ四輪馬車。
   (萩原朔太郎「天景」、『月に吠える』)

「現在が深みを有つように繰り返すのである[「しづかにきしれ四[し]輪馬車。」の中に「し」の音が四度繰り返され、この句自体が三度繰り返 される(畳句)]。多少長い詩形にあっても、すべてが現在の一点に集注するように、技術上リズムとか韻とか行とか畳句とかまた反歌というよう なものを用いてあくまでも繰り返すのである。長い詩形をそれによって謂わば短縮するのである。詩のそういう外形上の技術は詩を同じ現在の場所 に止まらせて足踏みをさせているようなものである。詩を永遠の現在の無限な一瞬間に集注させようとするのである。」(164頁)

3.歴史性─文学の時間的性格

「…音楽が時間の単層性によって生命ないし精神の持続の形式そのものを表現し、従って最も印象の直接な官能的な芸術であるのに反し、文学は時 間の重層性によって生命ないし精神を形式内容の両面にわたって全的に表現し、従って人間のいのちとたましいを有りの儘に示す最も深い人間的な 芸術であるということができるのである。要するに重層的な質的現在ということが文学の時間的性格であり、歴史の時間性を背景とする文学の時間 的性格を明かにして、文学の哲学的考察を終えようと思う。」(172頁)

[*1]檜垣立哉氏が『バロックの哲学──反‐理性の星座たち』第9章「九鬼周造の文学論──時間と韻」で「文学の形而上学」を取り上げてい る。

《あらゆる芸術が本来は現在的であり、とりわけ文学が現在的であり、そのなかで詩歌こそが現在的であるならば(まさに現在の独自の入れ子構造 に九鬼は詩を追いこんでいく)、そこで「現在の深さ」である「永遠の今」を知覚的に示唆するリズムや韻こそが、芸術の根源的な要素と考えられ るべきだろう。》(『バロックの哲学』276頁)

《詩が「韻」をもつ「繰り返し」を、観念的な重層性において描くことで、それは知覚的時間の水準で、つまりは水平的なエクスタシスの位相にお いて、垂直性をもった「永遠の今」の、感知不可能な実在を感じとらせるのである。それが、九鬼の時間論としての文学論の、もっとも本質的な主 張であるだろう。》(『バロックの哲学』277頁)

 「水平性、継起性、知覚性(感知可能性)」の横軸と「垂直性、同時性、観念性」の縦軸が交差するところに、瞬間としての現在が現象し、「永 遠の今」が生起する。
 ──場違いな補注になるが、檜垣氏が言う「感知不可能な実在」と、次註で孫引きするプルーストの文章中の「現実的ではないのに実在的」の 「実在」は、私の理解では「アクチュアリティ」であり縦軸のグループに入る。これに対して横軸に該当するのは「リアリティ」である。(ややこ しい話になるが、「アクチュアリティ」の訳語として適切な語は「現実性」であり、「リアリティ」には「実在性」がふさわしい。)

        《永遠の今》
        
          ┃
          ┃
      韻(字) α 韻(声)
  δ       ┃
  ↑       ┃
  想像 ━━━━━━╋━━β━━━ 知覚
          ┃       ↓
                  γ
          律

  α:「アクチュアリティ(現実性)」の垂直軸
  β:「リアリティ(実在性)」の水平軸
  γ:「マテリアルな実相」
  δ:「メタフィジカルな実相」

[*2]九鬼周造は講演録「日本芸術における「無限」の表現」(『時間論』所収)で、この芭蕉の句に対する注釈としてプルーストの『見出され た時』(『失われた時』第七巻)の一節──「かつてすでに聴いたことのある一つの音、また嗅いだことのある一つの匂いが、現実的ではないのに 実在的なもの、抽象的ではないのに観念的なものとして過去と同時に新たに甦るとき、たちまちにして、いつもは事物のうちに隠されている永遠の 本質が解放され…」──を与え(48頁)、続けて蝉丸の“これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関”を取り上げている。

《ここにも「失われた時」…と「見出された時」…の例がある。逢坂の関、…それは二つの道、すなわち過去と未来が出会う瞬間であり、無限に充 実した現在の時…、ツァラトゥストラが…それについて語った永遠の時であり、…聖なる時である。(略)またそれは、われわれがいまポンティ ニーのこのサロンで過ごしている時、私が蝉丸の詩句についてあなたがたに語り、われわれがかつてすでにこのこの同じ時を共に過ごしたことが あったかどうか、そして再びこの時を共に生きようとしているのではないかどうか、──われわれはすでに無限回知り合っていたのではないかどう か、そして再び新たに知り合おうとしているのではないかどうかをまさに自問する時である。われわれの尊敬すべき盲目の蝉丸に偶然と周回する時 間の問題…に関する考察は任せ、いまは‘琵琶’を取って、われわれのために古いやまと歌を奏でるよう、乞い願うことにしよう。》(『時間論』 49-50頁)


【13】九鬼周造─ロゴスがメロスとして目覚めたとき

 九鬼周造はなぜそれほどまでに「押韻」を問い、押韻が開く「詩的言語」の可能性を求めたのか。
 宮野真生子著『言葉に出会う現在』第二章「押韻という夢──ロゴスからメロスへ」は、冒頭でそのような問いを立てています。(これに対する 回答は、九鬼にとっての押韻は、その哲学のメインテーマである「偶然性」の具体的次元を可能にする一つの実践方法であった、というもの。)
 以下、宮野氏の論脈に沿って(肩に乗って)、その議論のきれはしをモザイク状にパッチワークすることで、浩瀚な「日本詩の押韻」を駆け足で 一瞥します。

1.「日本詩の押韻」概要

◎九鬼は「日本詩の押韻」で「偶然に対して一種の哲学的驚異を感じ得ない者は、押韻の美を味得出来ない」(全集第四巻231頁)と書いている が、宮野氏はこれに「疑問」を呈している(註(2))。(個人的な覚書:アナグラムが意識的かどうかというソシュールの問いと、押韻が「偶 然」かどうかという問いはパラレルだ。)

◎九鬼は日本詩における押韻の可能性とその具体的なあり方を押韻の量・質・形態において分析し、日本詩へのソネットの導入を提唱する。「十四 行詩として見るべきものは萬葉の長歌にはいくらでもある」(全集第四巻422頁)。九鬼は長歌・旋頭歌・今様のうちに押韻の萌芽を見出し、 「韻律の無いとこには言霊は宿らないというのが我等の祖先の信仰であった」(全集第四巻443頁)と結論づけている。

《…わが国の詩人は、自己に委託された国語の音楽的可能性を発揮させて詩の純粋な領域を建設することを、自分の使命の一つと考えなくてはなら ない。それには既存を回顧して伝統の中に自己と言葉とを確実に把握すればよい。与えられた可能性を与えられるべき現実性に展開せしめ、匿され た潜勢性をあらわな現勢性に通路させればよいだけである。またこの使命が果されたときに、すなわちロゴスがメロスとして目覚めたときに、初め て「言霊のさきはふ国」ということが、世界にむかって聊かの欺瞞なく云われ得るのである。詩は日本性と共に世界性に於て自覚しなければだめで ある。》(全集第四巻449頁)

2.呼びかけとしての押韻

◎自己と他者の「二元の応答」(伊弉諾、伊弉冉の呼びかけ)のうちに九鬼は押韻の起源(原型)を見る。それは、押韻が開く超越的次元の具体的 姿であった。押韻の偶然性が垣間見させる超越的次元とは、「独立の二元の邂逅」の刹那に宿る奇跡と不思議、自他の出会いを支える形而上的背景 であった。九鬼がここで語っているのは、具体的作品としての「詩」ではなく、「実存的な詩的言語」でしかないように見える。(40-41頁)

◎『偶然性の問題』結論部で九鬼が述べた「個物の起源は一者に対する他者の二元的措定に遡る」(岩波文庫版『偶然性の問題』277頁)をめ ぐって。

《それ[他者との邂逅の偶然性]は計らずも私たちの生にまとわりつく偶然性を暴露し、起源にあった存在そのものの根源的偶然性を掘り返してく る。こうして隔たり押しやられていた生の起源たる事実性[偶然性]が他者との邂逅の偶然性によって掘り起こされ、互いの「存在」そのものの端 的な偶然性が開示される。そのとき、自己は他者が役割における自己の片割れでもなく、絶対的他という超越的外部としてでもなく、ただ無の上を 漂う同じような偶然性としてあることを知る。(略)自己と他者は無根拠な世界において生み出された偶然的存在にすぎず、その世界を構成する交 換可能な等しい部分である。しかし同時に、互いに無根拠な偶然性の部分でありながら、出会うことができたという偶然の不思議がそこにはあ る。》(『言葉に出会う現在』44-45頁)

《…押韻による詩的言語は、出会いの奇跡を表現すると同時に二元の間で響きあう言葉…[で]ある。だからこそ、彼は押韻を単なる修辞ではなく 「ロゴスをメロス(歌)として目覚め」…させるものであると語ったのだろうし、それによってロゴスを超えた言葉のあり方を目指したのではな かったか。》(『言葉に出会う現在』47頁)

3.九鬼押韻論批判

◎偶然性が開く「呼びかけ」の間柄は「独立の二元の邂逅」なのであって、決して一元に辿りつくものではない。だが、押韻の先に「言霊」すなわ ち「自他を繋ぐ言葉」を夢見るとき、九鬼の押韻論は「独立の二元」というあり方を踏み外す。

《だがそもそも、自己と他者を直接に繋ぐ完全な言語など可能なのだろうか。表現と表現される対象、そして表現する主体のあいだには必ず常にズ レがある。ロゴスと呼ばれるものが、「意味を規定する」ことで、そのズレを隠蔽して表現の安定化を図るものであるとするならば、むしろ「ロゴ スを越えたもの」である「メロス」は、そのズレを暴くものであるべきではないのだろうか。そう考えるとき、九鬼の押韻論とは具体的次元をもた ない「夢」にすぎなかったと言わざるをえないのである。》(『言葉に出会う現在』50頁)

 ──九鬼周造の押韻論は具体的次元をもたない「夢」にすぎなかった。宮野氏のこの結論に、私は(なかば)賛同しています。「日本詩の押韻」 を読みはじめて、最初から感じていた疑問は、ここに記述されている押韻論を具現化する実例はあるのか(ありうるのか)というものでした。九鬼 周造自身が「天才的詩人が出て来て、…真に美しい押韻詩を生んでくれることを希望してやまない」と書いているのだから、答えはすでに出ている ようなものです。
 しかし、ほんとうにそうなのか? 九鬼音韻論が追い求めたものは「夢」もしくは「言語が見る夢」[*]に‘すぎなかった’のか? そうでは ない、それはむしろ(「現[うつつ]の言語」に拮抗し得る)「夢の言語」の可能性だった、あるいは、そのような(言葉と事物を繋ぎ、自己と他 者を繋ぐ)「詩的言語」そのものを産出する「天才的詩人」の可能性であった、そんなことが言えないだろうか。

[*]ウィトゲンシュタインは『哲学探究』で、次のように書いている。

《しかし、文に意味を与えるのはわれわれの思念ではないのか。(中略)そして、思念は心の領域に属する何かである。だがまた、何か私的なもの でもある! それは捉えがたい何かであり、意識それ自体とだけ同格でありうる。
 どうしてこの考えをあざ笑うことができようか! それはいわば、われわれの言語が見る夢なのである。》(『哲学探究』第三五八節、永井均訳 (『ウィトゲンシュタイン入門』))

 しかし、そのような「夢」は「煩悩」にすぎなかった(永井前掲書129頁)。
 野矢茂樹氏は『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』で、ウィトゲンシュタインがここで論じているのは「心が言葉に意味を与えるの ではなく、言葉が心に志向性を与える」(230頁)のであること、すなわち「音声や文字模様等が直接に相手の反応を促すのであり、意味なる何 ものかや意味理解なる心の状態がその間を媒介する必要はない」(265頁)ということであったと書いている。
 野矢氏はまた、「「シューベルト」という名前はシューベルトの作品と彼の顔にぴったり合っているかのように、私には感じられる。」(『哲学 探究』第二部、第二七〇節)というウィトゲンシュタインの所見を引き、ある言葉が「身につき、なじんだ道具がそうであるように、私の体の一部 と化している」とき、それを身から引き剥がし、別の言葉で呼ぶときに失われる「言葉にとってきわめて大きなもの」のことを、ウィトゲンシュタ インは「言葉の魂」と呼んでいると指摘する。

《その使用に際して言葉の「魂」がいかなる役割も果たさないような言語もありうるだろう。たとえば、ある言葉を任意に考案した新しい言葉で置 き換えることなど我々が全く意に介さない、というような言語が。》(『哲学探究』第五三〇節、古田徹也訳(『言葉の魂の哲学』))

 そして野矢氏はここで、ウィトゲンシュタインの「言葉の魂」と大森荘蔵の「ことだま」(「ことだま論──言葉と「もの‐ごと」」,『物と 心』所収)が、「同じかどうかは定かではないが、二人がここで同じような語を用いていることは興味深い」と注をつけている。
 
──私は、ウィトゲンシュタインが言う「魂」を「クオリア」や「ペルソナ」の概念を使って考察することができはしまいか、そして「夢の言語」 (という名の詩的言語)がもしあり得るとしたら、それは夢の中の事物と直接に繋がる完全な言語としてのクオリアであり、また夢の中の他者と直 接に繋がる完全な言語(「シューベルト」のような?)としてのペルソナそのものなのではないか、さらにそのような「夢の言語」のいわば論理な らぬ生理のようなものが「韻律」なのであって、それが白昼の日常言語の水準にあっては児戯に等しい言語遊戯として現象することになるのではな いか、などと考え始めている。


【14】九鬼周造─「永遠の今」の相の下に

 引き続き、宮野真生子著『言葉に出会う現在』の議論を参照します。今回は、第十一章「言語に出会う現在──永遠の本質を解放する」から。
 宮野氏はここで、「永遠の今」というアイデアが、九鬼哲学の三大テーマである押韻論・偶然論・時間論を結びつけているという見通しを立てま す。そして、次の二つの「永遠の今」の関係を詩的言語、とくに押韻の問題から明らかにすることを予告しているのです。

 ①偶然性の根柢で開示される「永遠の今」
  ・日常の時間の流れの根底にあるもの
  ・現実を可能にするもの
 ②回帰的時間における「永遠の今」
  ・ある事柄が同一性をもって無限に繰り返される瞬間
  ・形而上学的・神秘的体験として語られるもの

 以下、前回に続いて宮野氏の議論を「縮約」し、‘論評’は次回にまわします。

1.生命力─偶然性の根柢で開示される「永遠の今」

◎今ある現実は様々な可能性のうちの一つが現れたものであり、つねに「他でもあり得た」という不確定性や虚無に晒されつつ「このようになっ た」。九鬼は「偶然は現実性に於いて創造される」とし、それは「瞬間としての永遠の現在の鼓動」である述べた(『偶然性の問題』)。では、ど のようにして偶然の運動は引き起こされるか。放恣と遊戯の生命の力によってである。

《…流動する生命の力を彼は「永遠」および「究極的なもの」と考えていた。同時に、この生命の力は、「個性と自由」の根源、つまり、「このよ うな」形をもつ現実の個別的存在を可能にするものである。生命の力が働き、無が有へと生成し、可能が「ひょっこり」と「このような」形で現実 化すること、その動性を様相的に捉えたのが偶然性であった。このような偶然性と私たちは現在という「直態」において出会う。したがって、現在 における直接性とは、偶然の根底にある人間の力ではコントロールできない生命の力による触発と言えるだろう。私たちは偶然において、「このよ うな」現実を可能にする生命の力、すなわち永遠との遭遇でもあり、私たちはこうした偶然の動性において「瞬間としての永遠の現在の鼓動」を聴 き取るのである。》(『言葉に出会う現在』280-281頁)

2.潜勢力─回帰的時間における「永遠の今」

◎九鬼は「文学の形而上学」で四つの時間現象を論じた。過去・現在・未来のいずれかの契機が中心となり、時間の流れのなかを過ぎ去ってゆく三 つの時(水平のエクスタシス)と、繰り返し回帰する円形の時間としての第四の時間(垂直のエクスタシス)。この水平・垂直の「二面の交わりが 時間の構造にほかならない」。では、回帰的時間における「永遠」とは何を指すのか。無限の繰り返しの運動を担う潜勢力がそれである。

《九鬼は回帰する時間において「新たに生を開始し、新たに生を終結する」「万物再生」を語るが、こうした再生を可能にするものが、繰り返しの 運動を起こす潜勢力としての無限であり、永遠とはその運動のあり方を指す言葉だったと考えられる。その繰り返しが、現在における同一事の回帰 として経験されるとき「永遠の現在」が成立する。
 ただし、同一事の回帰とは、現在生じたことと同じことが過去にもあったし未来にも繰り返し起こるという事象レベルの同一性を経験するだけで はない。(略)回帰的時間の「永遠の現在」とは、…花の香のなかでホトトギスの声を聞く瞬間、その事象を含む世界に流れる時間全体が凝縮さ れ、その時間全体が繰り返し回帰する。(略)その事態が「無限の深み」をもつ「永遠の現在」が指すところのものである。》(『言葉に出会う現 在』283-284頁)

◎二つの永遠(「生命力」と「潜勢力」)は通底している。しかし、偶然性における「永遠の今」は虚無に接する尖端的刹那であるのに対して、回 帰的時間の「永遠の今」は時間全体を凝縮し厚みを増した瞬間である。「虚無性」と「厚み」という異なる「今」の様相はどのような関係にあるの だろうか。(284-285頁)

3.向こうから到来する言葉─押韻と偶然性

◎回帰的時間及び偶然性における「永遠の今」にアクセスする方法として注目されるのが詩、とくに押韻を用いた律格詩である。文学の時間性は 「重層性を有った質的な現在」を本質とするが、なかでも詩はきわだった形で「現在的現在」が表れている。この詩における現在への時間の凝集を 可能にするものとして、そして「永遠の今」を体験する方途として、九鬼はリズムや行分け、韻といった形式性を捉えていた(「文学の形而上 学」)。(285-286頁)

◎九鬼は、韻が言葉の韻、あるいは形としての「文字上の韻」(全集第四巻287頁)の偶然の一致にすぎないことを認めたうえで、その「偶然」 こそが「哲学的驚異」を呼び起こし、押韻の美の「味得」につながると述べている。では、韻がもたらす「この言葉」の「しっくりくる」感覚はい かに成立するのか。(288-289頁)

「ある言葉と言葉が実際に韻を踏み、それが豊かな意味の広がりをもたらす創造的な効果を発揮したならば、両者は韻を踏むのに‘はじめからふさ わしかった’もの──‘必然的’な結合であったとして──立ち上がってくる」(古田徹也『言葉の魂の哲学』189-190頁)。

「言葉と言葉との交わす微笑みとか色目とか云うべきものを生かし、‘言葉のもっている潜在的な素質を押韻という現勢的なものとして存在せしめ る’というところに詩の力のゆたかさがあらわれて来る。」(九鬼周造「文学概論」、全集第十一巻121-122頁)

◎「創造的必然性」(古田前掲書197頁)をもった言葉(韻)は自力で選びとられるというより「到来」するものである。「しっくりくる」感 覚、「ああ、この言葉だ」という感覚は「向こう」から訪れる。律格という詩の形式は、創造的必然性を宿す言葉を客観的に呼び込む場を開く装置 であり、押韻とは「言葉の有っている被投的素質を一つの新しい投企の機能」(全集第四巻233頁)とするものである。

《つまり、押韻は言葉の存在そのものに関わる。そこで提示される言葉[たとえば「ほととぎす」]は、長く多くの人によって使われ、意味やニュ アンスを深めながら、代替不可能な一つの言葉として使われてきたものだ。(略)私たちは言葉の被投性の無数の網目のなかにあり、その網目のな かから偶然に響き合う言葉がふと到来し韻が踏まれるとき、その偶然的な結びつきを通してある事柄が「これしかないもの」として浮かび上がって くる。それは詠み人の手が届かないところで言葉の自律性をもったものとして立ち現れる瞬間でもある。九鬼は、そこに押韻という形式の客観性を 観たのではなかったか。さらにこのとき大切なことがある。それは、このようにして到来する言葉をそもそも「私の言葉」と言えるのかという問い である。九鬼が自由詩に対して厳しい立場を取るとき見据えていたのは、偶然に到来する言葉の存在を「私」に閉じ込め、単なる主観的現実に貶め てしまうことの問題点であった。(略)むしろ、形式は「言葉の潜勢的素質」と九鬼が言う、存在そのものを開示する言葉のもつ潜勢力、その根柢 にある生命の力に触れることを可能にする通路なのである。さらに、形式のもつ客観性は、「私の言葉」を今ここの現実から解き放ち、言葉が宿す 長い時間と多くの人とつながることを可能にする。それは「私」だけの言葉ではない。いつか誰かが詠った/詠うであろうコトバなのだ。》(『言 葉に出会う現在』293-294頁)

4.言葉と出会う今─二つの「永遠の今」と押韻論

◎詩という形式は流れる時間を現在へと集注する。問題は、こうした現在が「偶然」および「回帰する無限」といかに関わるのか、また「潜勢力」 にどのようにして触れるのかということであった。

《押韻は、偶然に音や形が一致する瞬間であり、到来する言葉と邂逅する刹那でもある。そのとき私たちは、言葉の存在そのものに触れると同時 に、その言葉が創造的必然性をもって当該の事柄を「これしかないもの」と立ち現させることに「哲学的驚異」を覚える。それは言葉がもつ潜勢 力、言葉と事柄の根柢にある生命の力に触れる瞬間である。さらに、韻が踏まれるたび、言葉は「私」から解放され、その言葉を受け取る者は流れ る時間から自由になって、過去現在未来を含む時間全体を繰り返し体験することができる。それはまさに、偶然に言葉と出会う今が、回帰的時間の 無限へと開かれていく姿だったのではないだろうか。》(『言葉に出会う現在』294頁)

◎まとめ。九鬼の「永遠の今」における「永遠」とは「存在を可能にする生命の根源的な潜勢力」であった。その永遠をなぜ「今」という時間性で 限定せねばならないのか。

《現実が生成する偶然の消えゆく一瞬と、時間全体が繰り返すことで凝縮された現在という二つの「永遠の今」、この二つの時間経験が交わる位置 にあるのが押韻論であった。時は流れる時間を現在へと折りたたむことを可能にする。そして、押韻の偶然において言葉と出会うとき、「このよう にある」事柄がいきいきと立ちあがると同時に、私は「私」から解放される。それは事柄が一回性を持ちつつも、時間の限定から自由になって無限 に開かれるということである。もちろん、押韻の「永遠の今」は回帰的時間で示される同一の現在の繰り返しとまったく同じ現象とは言えない。し かし、言葉と出会う偶然の現在を、ただはかないだけの刹那ではなく、時間を超えた永遠へと接続する方法であったことは間違いない。》(『言葉 に出会う現在』295頁)


【15】九鬼周造─「永遠の今」の相の下に(続)

 前々回、前回と、九鬼周造の押韻論をめぐる宮野真生子氏の議論を、『言葉に出会う現在』から引いてきました。
 前回とりあげた箇所(同書第11章「言葉に出会う現在──永遠の本質を解放する」)で述べられたこと──すなわち、音声または文字による 「韻」を通じてある事柄が「これしかないもの」として立ち現れ、同時に、私は「私」から解放され、言葉が宿す長い時間と多くの人とつながるこ とを可能にする、等々──と、前々回とりあげた議論(同書第2章「押韻という夢──ロゴスからメロスへ」)──すなわち、押韻の先に「自己と 他者を直接に繋ぐ完全な言語」(言霊)を目指した九鬼の押韻論は、具体的次元をもたない「夢」にすぎなかったと言わざるをえない、等々──と は、はたして整合性がとれているのでしょうか。
 私の(勝手な)語彙体系にもとづく整理によると、前者は言語の「マテリアル」な帯域における「クオリア」の問題に関連し、後者は「メタフィ ジカル」な帯域における「ペルソナ」の問題にかかわってきます.そして、宮野氏によって解読されたかぎりでの九鬼周造の押韻論は、次のような 複層構造をもっています。

・偶然性の根柢で開示される「永遠の今」というマテリアルな生命的次元(からの力の噴出による存在創造)において、「韻」を通じて言葉(概 念)と経験(クオリア)が過不足なく一致する(アニミズム的な)詩的言語の自律性を摘出する。

・回帰的時間における「永遠の今」というメタフィジカルな神秘的体験の次元にあって、「韻」を通じて私と汝が過不足なく繋がる「言霊」(潜勢 力)という不可能な「夢」──極論すると、「時間を超えた永遠へと接続する方法」としての押韻、すなわち文字通りの(シャーマニズム的な) 「脱魂」、言い換えれば我や汝といった水平的な主体そのものの抹消もしくはより高次の主体(ペルソナ)への溶融という「狂気」の世界──を語 る。

 このような複眼的パースペクティヴのもとであれば、前々回の末尾でほのめかしたように、この「夢」を、たんなる夢に‘すぎない’ものではな く、むしろ現実がそこから生起する根柢的世界として、「夢の言語=詩的言語」がそこから生成するフィールドとして、ポジティヴに捉える途がひ らかれるでしょう。
 かくして、二つの「永遠の今」の相の下に「韻律的世界」が立ちあがり、そこにおいて言葉が到来しそこにおいて言葉と出会う、夢の言語=詩的 言語のフィールドがひらかれました。
 言葉のシステムや意味が先にあって、そこに表現における修辞としての韻律が生じるのではなくて、言葉のシステムや意味より先に、リズム (律)とライム(声の韻)とモアレ(形としての文字上の韻)の三つ組からなる「韻律的的世界」が立ちあがり、言葉のシステムや意味は韻律とい う現象を通じて生まれてくる。──このことを、かの「図式」に落とし込むと、次のようになるでしょう[*]。

    [メタフィジカルな潜勢力]
      回帰的時間における
        《永遠の今》

          ┃
          ┃
      モアレ α ライム
          ┃
          ┃
 様々な ━━━━━━╋━━β━━━ 今ある
 可能性       ┃       現実

         リズム

     [マテリアルな生命力]
     偶然性の根柢で開示される
        《永遠の今》

  ※α:「アクチュアリティ」の垂直軸
   β:「リアリティ」の水平軸

[*]この図には、第12回の「註1」で導入した「リアリティ」と「アクチュアリティ」の対概念を繰り入れている。

 若干の補足。「リアリティ」は物や事象が因果・縁起のもとにあることを言い、「アクチュアリティ」とは物や事象が原因・理由に因らず、端的 な事実としてあることを言う。過去・現在・未来とそこ・ここ・あそこの時空の制約のもとにあるリアリティの水平的な領域を、アクチュアリティ の垂直的な力が貫通し、世界の開闢以来はじめて生じた一回限りの出来事が何度でも繰り返し到来する通路となる。

 先走ったこと。図中の「リアリティ」の水平軸は「生命界」を横断し、知覚(今ある現実)と想起・想像(様々な可能性)をつなぐメトリカルな ラインを形作る。このライン(身体のラインと言っていいかもしれない)が下方に沈降すれば「物質界」に(果ては「冥界」、絶対無、虚無の世界 に)至り、上方に浮揚すれば「精神界」に(果てはその極みである「形而上界」、超越神、無限の深みの世界に)達する。「アクチュアリティ」の 垂直軸はこの物質界・生命界・精神界を貫通し、「虚無性」(冥界)と「無限の深み」(形而上界)をつなぐ媒質(「意識」と名づけておこうか) の導管をなす。
 「リアリティ」の水平軸は「日常言語(‘うつつ’の言語)」の、「アクチュアリティ」の垂直軸は「詩的言語(夢の言語)」の稼働域であると 言っていいかもしれない。あるいは、「リアリティ」は内容で「アクチュアリティ」は形式だと、そう言い切っていいかもしれない。
 前回引いた議論の中で、宮城氏は「形式」をめぐって次のように論じていた。──「存在そのものを開示する言葉のもつ潜勢力、その根柢にある 生命の力」=「存在を可能にする生命の根源的な潜勢力」に触れることを可能にする通路。「私の言葉」を今ここの現実から解き放ち、言葉が宿す 長い時間と多くの人とつながることを可能にする。それは「私」だけの言葉ではない。いつか誰かが詠った/詠うであろうコトバなのだ。


【16】リズム篇へ─ジル・ドゥルーズ『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』

 これより、リズム篇に入ります。
 例によって、リズムという現象と本質をめぐる素材や思考の蒐集作業からはじめます。まず、いま偶然手にしていた書物、ジル・ドゥルーズ著 『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(宇野邦一訳)から、リズムに関する記述をいくつか抜き書きします。

◎リズムとは多感覚的図像(フィギュール)を出現させる生命の力能である

《色彩、味覚、触覚、匂い、音、重さの間には、実在的な交通があって、これが感覚‘全般’の「感応的」(非表象的)運動を構成することにな る。(略)それゆえ画家の役割とは、いわば諸感覚の根源的な統一性を‘見えるようにする’こと、多感覚的な図像[figure]を、視覚的に 出現させることなのである。しかしこのような操作が可能になるのは、一定領域の感覚(この場合は視覚的感覚)が、あらゆる領域を逸脱し横断す る生命の力能にじかに結ばれるときである。この力能は〈リズム〉であり、視覚、聴覚等々よりも根本的である。リズムは、聴覚的水準に備給する ときは音楽となり、視覚的水準に備給するときは絵画となる。「感官[サンス]の論理」とセザンヌは言っていたが、それは合理的ではなく、頭脳 的なものでもない。最も重要なことは、したがってリズムと感覚の関係であり、これこそが、個々の感覚に水準と領域をもたらし、感覚はそのよう な水準と領域をくぐりぬけるのである。そしてこのリズムは、音楽を貫くように、絵画も貫くのである。これは拡張と収縮であり、私自身を捉えて 私自身の中に閉じこもる世界であり、世界にみずからを開き、みずからも開く私である。》(62-63頁)

 忘れないうちに注記しておくと、「多感覚的な図像(フィギュール)」は「形の韻」の原型だろう。また「あらゆる感覚の領域を逸脱し横断する 生命の力能(リズム)」は、宮野真生子氏が言う「生命力」である。

◎リズム的統一性としての器官なき身体

《もろもろの感官の基盤としてのリズム的統一性は、有機性を超えなければ発見できない。現象学的仮説はおそらく不十分である。それは生きられ た身体しか見ようとしないからである。しかし生きられた身体は、もっと深い、ほとんど生きがたい〈力能〉に比べれば、とるにたらない。リズム の統一性とは、まさにリズムそれ自身がカオスのなかに、闇のなかに潜り込み、もろもろの水準の差異がたえず暴力的に撹乱されるようなところに しか見出せないものだ。
 有機性の彼方に、さらには生きられた身体の限界として、アルトーが発見し名づけたあの器官なき身体がある。(略)それはひとつの波動に貫か れ、この波動は身体の中にその振動の変化にしたがって、もろもろの水準や閾を刻みこむのである。だから身体は器官をもたないが、閾や水準を もっている。(略)卵がまさに有機的な表象「以前」のあの身体の状態を呈することはよく知られている。それは軸とベクトル、勾配、帯域、運動 学的な意味における運動、力学的傾向などで、これに対して形態は偶発的または付随的なのである。》(64-65頁)

 宇野邦一氏によると、知覚するものと知覚されるものの交差(キアスム)としてとらえられた現象学的な「肉(chair)」の思考は、「主体 と客体の二元論を退けながら、根源的な間主観性を唱え、対象化しうる身体のカテゴリーを解体したとはいえ、この解体は決して十分ではなく、有 機体の外の知覚不可能なもの(「生きがたい力能」)を思考するところまではいかなかった」(「訳者解説」237頁)。

◎リズムそのものが感覚となり図像になる

《感覚を描くこと、感覚とは本質的にリズムなのだ……しかし単一の感覚においては、リズムはまだ図像に依存し、器官なき身体を貫通する‘振 動’として現れ、感覚のベクトルであり、それゆえ感覚は、ひとつの水準から他の水準に移動するのである。感覚の結合において、すでにリズムは 解放されている。リズムは異なる感覚の様々な水準に出会い、それらの水準を統合するからである。いまやリズムは‘共振’となるが、結合された 図像のメロディー・ラインや、もろもろの点や対位法とまだ一体化している。リズムは結合された図像の図表[ダイアグラム]なのだ。(略)もろ もろの図像は隆起し、大気に放射され、大気的な操縦具につながれ、突然それから脱落する。しかし同時に、この不動の落下とともに、実に奇妙な 再構成、再配分が生起する。なぜならリズムそのものが感覚となり、能動的、受動的、そして目撃者……というように分離した固有の方向にした がって、リズムが図像になるからである。》(100頁)

 ──ドゥルーズの議論は、哲理と詩が交差するその息遣い、文体を含めて、刺激的です。とくに文学や映画や絵画を論じた文章は、そこで論じら れている事柄の意味や実質が精確には掴めないときでさえ、美しい。
 そんな厳密性を欠いた読み方しかできないので、ここでは、ドゥルーズがフランシス・ベーコンについて、あるいは絵画について何を論じたかは ひとまず措いて、次のことを確認するにとどめ、リズム篇突入の前口上とします。
 すなわち、リズムがマテリアルで共感覚的な生命世界に根差していること、むしろリズムは生命力そのものであり、生命現象がそこから生まれ出 る根柢であること、そしてそのようなリズムを介して形が、字=形の韻が、フィギュールとして立ちあがるということ。


【17】川原繁人─音象徴、声色を使って意味を伝えること

 リズムはマテリアルで共感覚的な生命世界に根差している。むしろリズムは生命力そのものであり、生命現象がそこから生まれ出る根柢である。
 これが、前回の‘結論’でした。前々回の註で導入した‘語彙体系’に引き寄せて言い換えれば、リズムは物質界と生命界の境界線上に発する力 であり現象である、となります。それはまた、言語が生まれ出る前の世界を律する力であり現象でもある、と言えるでしょう。

 今回は、音声学者・川原繁人氏が、『談』(no.124/2022年7月1日)誌上のインタビュー「声に出すことば……言語と意味を超え て」で語った事柄にそくして、言語以前の世界のあり様を垣間見たいと思います。
 その議論は、次の問いから始まります。「なぜ「形」という概念が「音」に結び付くのでしょうか。」(40頁)──これは、「音[おん]象 徴」の一例として挙げられるヴォルフガング・ケーラーの実験において、丸っこい図形が「maluma(マルマ)」、角張った図形が 「takete(タケテ)」と名付けられたように、「形」と「音」が相関する現象を踏まえたものです。
 以下、川原氏の発言を適宜抜き書きします。その発言のどこがどうリズムにかかわってくるのか、この点については次回考察します。

<声色、音象徴の根源>

「これはまだ仮説なのですが、サルがヒトに進化する過程のどこかの段階で言語というツールが発明されたわけですが、ことばを使って意思疎通を するようになる前に、何かしらの「声色」を使って意味を伝えていたのではないか[例:外敵が空を飛んでいるか地を這っているかによって鳴き声 が変わる、敵の大きさや形に関する情報を音色を使って表現する]。「音象徴」の根源というのは、その声色だったのではないか…。」(41頁)

<音響、音と形を結び付けるもの>

「「形」に結び付いているのは、「発声」ではなく「音響」だと思っています。(略)音を「音響」的に分析してみると、圧力変化という「形」に なって表れるので、「音」は「形」[「音響的な形」]をもっていると言っていいでしょう。」(41-42頁)

「私の観点では、「音象徴」というのは、「われわれがどうやって発音するか」とか「音がどのような圧力変化をもっているか」といったところと 関連していますから、それは生理現象であり、かつ、物理現象です。だとすれば、言語の違いにかかわらず成り立つ現象であるという予測は成り立 ちます。」(42頁)

<音と意味のつながり>

「「音と意味につながりがあるのか」という問題は古代ギリシャの時代から議論されています[プラトン『クラチュロス』]。(略)「音象徴」の 研究が忌避されたのは、近代言語学をつくったといわれるフェルディナン・ド・ソシュールの影響がやはり大きかったと思います。ソシュールが 「音と意味のつながりは恣意的(arbitrary)である」と言ったわけです。(略)しかし、実際に観察される音象徴の例を考えると、「音 と意味のつながりは恣意的であり得る」ということであって、「恣意的でなければならない」ということではないと受け止めるのが正しいと思いま す。」(43-44頁)

<多感覚知覚としての音象徴、感覚としての意味>

「「音象徴」を「音声学」の枠を超えて、認知科学の立場から捉え直すと、「意味」を感覚の一つとして考えると、まさに「感覚間のつながり=多 感覚知覚」の一例と解釈することができます。…ここで「意味」を感覚の一つとして考えると、「音象徴」は「音(=聴覚)」と「意味」という 「感覚間のつながり」」として解釈できます。…[ケーラーの]実験で見られた「音象徴」では、「音(=聴覚)」とつながっているのは「モノの 外見(形)」でしたから、「音(聴覚)」と「視覚」がつながっているということが言えるかもしれません。」(45頁)

<オノマトペ、言語化され慣習化した音象徴>

「オノマトペというのは、もちろん「音象徴」的な側面もあるんですけど、それが言語化されて「慣習化」されたものがオノマトペなので、「音象 徴」的な意味をはっきりもっている[日本語がわからない人にも通じる]ものもある一方で、「慣習化」されたオノマトペというのもあるんで す。」(47頁)

「私が「音象徴」と言う時には、それは「発音」であり、「身体」感覚です。「調音」や「音響」的なものから湧き出るものを「音象徴」と呼ぶと して、そういう「音象徴」的な意味というのは、日本人がオノマトペで発しても日本語がわからない人にも通じるんです。(略)たとえば、喜びや 動作にかかわるオノマトペは日本語を知らない英語母国語話者も意味を推測できるが、心地よさや美しさに関する表現は推測が難しい、という報告 もあります。」(47頁)

<声色、論理的でない意味(感情)を伝えるもの>

「言語には「論理的な意味」と「それ以外の意味」があるんですよね。…われわれが実際にことばを発する時には、「論理的な意味」に加えて、話 者が誰であるとか、どんな感情であるとかという──それをパラ言語情報というんですけど──ものが足されているわけですよね、そこを一般的に 「声色」と言うのかな。」(47頁)

「先ほどの、生存のために必要な意味を伝えるための「声色」[外敵が空を飛んでいるか地を這っているかによって鳴き声が変わる]の例は、「論 理的な意味」でしょう。言語が成立する前には、「声色」をそういうふうに使っていたと考えられます。けれども、われわれが現代において「声 色」と言う時には、たぶん「論理的じゃない部分」の情報を伝えるためにそれを使っている[例:萌え声]。」(47頁)

<ラップ[*]、慣習を打ち破るもの(異化するもの)>

「…いま「慣習化」というキーワードが出てきましたが、その慣習を打ち破るのが[異化作用を及ぼすものが]ラップかなというふうに思っていま す。(略)日本語ラップは、母音を合わせて単語を組み合わせます。韻という「制約」があるおかげで、普段の会話では絶対に同じコンテキストに 出てこないような「この単語」と「この単語」が出会うわけですね。」(49-50頁)

<言語活動は身体運動である>

「伝統的な言語学は、言語能力と身体運動を切り離して考えていたんですよね[例:ノーム・チョムスキー]。(略)
 けれども、言語というのはやっぱり身体運動なんですよ。私がそれを強く感じた一つのきっかけは、声優さんのアフレコの現場に立ち会ったこと でした。彼ら・彼女らは声を変えるだけじゃないんですよね。表情も変えているし、身体も動かして演技しているんですよ。声を出すことって身体 運動なんだなと強く感じました。」(53頁)

「…「文字で音を考える」という呪縛がすごく強くて。(略)実際に発話する現場で何が起こっているかというのを考えれば、音を出すことは身体 運動なのですから、それを書かれたものとしての音だけから考えると何か大事なものを見失うのではないか、というのはすごく強く思いますね。」 (54頁)

[*]川原氏の次の文章を読んでいて、九鬼周造が「日本詩の押韻」の冒頭で同趣旨のことを書いていたのを想起した。

「ラップの言語学的な分析というものに火が付いたのは、「日本語はラップに向いていない」という主張を耳にした時です。英語は、単語が「母 音+子音」で終われますし、母音の数も非常に多いので、小節の最後にくる音の組合せは星の数ほどある。だから、それを組み合わせるのは技巧的 であり、スキルフルである。それに対して日本語は、母音でしか終われないし、その母音も五種類しかないのだから、小節末の母音が一つ合ってい たとしても二〇パーセントの確率で一緒になるのだからそれは技巧でも何でもない。ネット上の論争でそういう主張があって、ちょっと反論したく なったんですね。」(50頁)


【18】川原繁人─音象徴、声色を使って意味を伝えること(続)

 前回抜き書きした川原繁人氏の発言から、いくつかのキーワードを抽出し、言語の「発明」以前(下方)と以後(上方)に振り分けて整理し、強 引に図に落としてみました[*]。あえて名前をつけるならば、「音と形と意味のつながりをめぐる進化系統樹」とでも。

                      【精神界】
          <ロゴス(意味)>
    ─────────────────────

          <メロス(意味)>   【生命界】

   発明以後    [オノマトペ]
【言語】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   発明以前
         論理的意味+非論理的意味  【生命界】

        形 → [音象徴] ← 音

            ≪声 色≫
    ─────────────────────
            ≪ 響 ≫
                      【物質界】

 それでは、この図と、かの「リズム・ライム・モアレ」の三つ組の図とをどのように対応させることができるのか。試しに作図してみました。水 平軸(メトリカル・ライン)が複数化し、それぞれに面妖な概念「身分け・気分け・言分け」が紐づけられています。詳細は、次回へ。

     [メタフィジカルな実相]

          ┃
    ──────╂──────③
      モアレ ┃ ライム
          ┃
          ┃
 [字]━━━━━━╋━━━━━━②[声]
          ┃

         リズム
    ─────────────①

      [マテリアルな実相]

  ※メトリカル・ライン③:「言分け」
   メトリカル・ライン②:「気分け」
   メトリカル・ライン①:「身分け」

[*]言語発明以前の「声色」が担う「意味」のうち非論理的なものは「メロス」(生命界)と、また論理的なものは「ロゴス」(精神界)と結び つく。しかし実際にはメロスとロゴスは混然融合している。少なくとも画然と棲み分けているわけではない。(これと同様のことが「オノマトペ」 にも言えるだろう。オノマトペにもメロス的なものとロゴス的なものがありうる。)

 若干の補足。──平田篤胤「古史本辞経」に「物あれば必ず象あり。象あれば必ず目に映る。目に映れば必ず情に思う。情に思えば必ず声に出 す。其声や必ず其の見るものの形象[アリカタ]に因りて其の形象なる声あり。此を音象[ネイロ]と云う」とある。「声色」は「ネイロ(音 象)」に通じる。(『歌うネアンデルタール人』(スティーヴン ミズン)の「Hmmmmm」にも。)
 若松英輔氏は『井筒俊彦 叡知の哲学』で、井筒俊彦は『意識と本質』以降、「コトバ」を中軸にその哲学を構造化していったと指摘している。「バッハは音、ゴッホは色という「コト バ」を用いた。曼荼羅を描いたユングには、イマージュ、あるいは元型が「コトバ」だった。」(222頁)──「ネイロ」もしくは「コワイロ」 もまた「コトバ」だった。
(大森荘蔵が「ことだま論」で言う「声振り」と「声色」との関係も気になる。「身振り」や「面振り?」との関係も。)

 場違いなこと。──私はかねてから「やまとことばは‘幼体成熟’した言語である」という仮説(やまとことば=ネオテニー説)にとらわれてき た。これもまた別のところで‘探究’しているテーマの一つだが、本文の議論に関連づけて言えば、やまとことばはメトニカル・ライン①と③に よって区画された帯域(生命界)に棲息し、そのままの姿で言語システム(精神界)を形作っていったことになる。
 「音象徴」や「オノマトペ」や「メロス」(感情言語とでも?)が一切の論理的・知的反省を経ず、そのまま言語システムの基軸すなわち「ロゴ ス」となったのがやまとことばである。そう言ってもいい。
 誰がいつどのような状況で誰(何)に対していかなる「思ひ」でことばを発したか(パラ言語情報)が意味から切り離せない言語システム、すな わち「声色」や「音象」そのものである言語。そのようなやまとことばによって論理的思考を紡いだのがやまとうたをめぐる歌論や俳論、能や茶や 武道をめぐる伝書の類である。


【19】メトリカル・ライン─身分け・気分け・言分け(その1)

 前回留保したこと、すなわち三つのメトリカル・ラインに紐づけた「身分け・気分け・言分け」の三つ組の概念について。

1.身分け

 まず「身分け」は、市川浩提唱の概念で、『〈身〉の構造』(講談社学術文庫)において、「身によって世界が分節化されると同時に、世界に よって身自身が分節化されるという両義的・共起的事態」を意味するもの(188頁)、あるいは、より簡潔に「身が世界[や他なるもの]と感応 し、相互に分節化し合う関係」(186頁)と定義されています。
 市川氏はさらに、「身分け」は外部知覚によるものだけでなく、「自分の感覚であると同時に世界の感覚でもある」(190頁)ような両義性を もった「身体感覚」(内部感覚)による「身分け」も考えなければならないと指摘します。むしろ、身体感覚が「自己とかかわりつつ世界とかかわ る身」のあり方の基礎であり、基層の感覚なのだと。

《したがって身体感覚は、世界と身体が交叉している共通の根にかかわる根源的な感覚です。身体感覚はほとんど意識されませんが、意識される心 理的なレヴェルでは“気分”がこれに近いものです。だから気分には、単に‘自分の’感覚ということはできません。なかば‘世界の’、‘世界か ら生起する’感覚です。身体感覚を失うことが、世界を失うことにつながるのもこのためでしょう。》(『〈身〉の構造』190-頁、‘ ’は原 文傍点)

2.言分け

 次に「言分け」は、丸山圭三郎によって、市川浩の「身分け」の概念の拡張とあわせて呈示された概念です。『文化のフェティシズム』から、そ の入り口部分の議論(71-81頁)を抽出します。
 いわく、人間は「二重分節」(マルティネの用語とは関係ない)のなかに生きている。第一次分節が生み出すのは「身分け構造」である。種独自 の外界のカテゴリー化・ゲシュタルト化であり、身体と心の分化以前の「身」の出現とともに外界が地と図の意味分化を呈する「環境世界」(ユク スキュル)である。
 人間だけがこのような(生物学的差異のメカニズムの上に成り立つ)「本能の図式」に加えてもう一つの(非生物学的差異のメカニズムの上に成 り立つ)ゲシュタルトを過剰物としてもった。これが第二次分節の結果生じる「言分け構造」である。その網の目は「シンボル化能力とその活動」 という広義のコトバによるゲシュタルトにほかならない。
 過去も未来も言葉の産物であり、ヒトは言葉によって「今、ここ」の制限からのがれた。ヒトという動物はポジティヴな世界をゲシュタルト化す る「身分け」に加えて、ネガティヴな差異に基づく非在の世界を「言分け」る。この〈非在〉をあたかもポジティヴな実体であるように現前せしめ るのは、シンボル化能力のみが有する魔術がなせる業であろう。人間の幸、不幸はすべてここに源を発している。

《…〈言分け構造〉に見出されるもの、つまりはシンボル化能力の産物であって、もともと本能の図式には書かれていなかったもの、人間だけが ‘過剰’として生み出した文化の〈意味=現象〉群には、どのようなものがあるであろうか。それはまず何よりも、タブーであり、羞恥心であり、 エロティシズムであり、時間・空間意識であり、死生観であり、美意識である。》(『文化のフェティシズム』81頁)

3.気分け

 最後に「気分け」は、市川-丸山理論を参照しながら、私が──「見分け」と「言分け」との中間に、すなわち無意識の身体感覚が意識される分 岐点(市川)、あるいは「身」(器官なき身体)が身体と心に分化する特異点(丸山)に、第三の分節のラインとして──(勝手に)導入したもの です。
 初出の「哥とクオリア/ペルソナと哥」第52章(Web評論誌「コーラ」掲載)から、該当個所を一部修正加工のうえ、自己引用します。

 ……「身分け」と「言分け」のあいだに、第三の、たとえば「気分け」(気色や気配や気分、あるいはリズムないし韻律による分節化)とでも呼 べる次元を(あくまで仮説的に)導入することが有効ではないかと考えます。
 すなわち、前言語的・身体的次元と言語的次元の中間にあって、この二つの次元を媒介し結合する第三の次元。(生命=身体現象でも言語現象で もない、あるいは同時に生命=身体的かつ言語的な現象であるようなものの次元。たとえば、数覚やリズム感覚をはじめとする原初的感覚、共感 覚、原型的感情が分節される胎児的・幼児的な生命=身体のステージ。あるいは、声と文字の中間段階、絵文字とパラレリズムの世界。)
 それは、オギュスタン・ベルクが『風土の日本』(篠田勝英訳、ちくま学芸文庫)で「通態的(trajective)」と形容した、「同時に 自然的かつ人工的であり、集団的かつ個人的であり、主観的かつ客観的である」(185頁)ような次元、あるいは「時の経過とともに風土を産み 出し、風土を絶えず秩序化/再秩序化するさまざまな営みの次元」(同)、そしてまた「メタファと因果関係」を結合し、「線的時間性(因果関係 の連鎖)と循環的時間性(フィードバック)を非時間化(過去と現在、可能態と現実の隠喩的同化による時間の排除)に結合させる」(187頁) 次元に通じていることでしょう。
 私は、この第三の次元を、すなわち、同時に身体的(生命的)であり言語的であるような次元、(あるいは、音声言語と文字言語の中間段階)、 そしてこの二つの界域を「通態的」に結合する「あわい」の次元を、とりあえず「リズム的・倍音的」と形容したいと思います。……


【20】メトリカル・ライン─身分け・気分け・言分け(その2)

 前回、自己引用した文章中に規定した「気分け=リズム的・倍音的次元」に関連して、引用元の「哥とクオリア/ペルソナと哥」第52章では、 「註」として、中井正一「リズムの構造」、坂口ふみ『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』、佐々木健一『日本的感性──触覚と ずらしの構造』、中村明一『倍音──音・ことば・身体の文化誌』、樋口桂子『日本人とリズム感──「拍」をめぐる日本文化論』、真木悠介『時 間の比較社会学』といった文献に言及しています。
 これらのうち、ここでは「リズムの構造」と『倍音』を取りあげた箇所を、再び自己引用し、次の議論につなげたいと思います。(中村氏の議論 は、「気分け」のメトリカル・ライン②が、集団的かつ個別的な身体のラインであり、世界と異界が通底する(能)舞台のラインでもあることを示 唆している。)

〇中井正一は「リズムの構造」で、自然的肉体的な反復現象(潮、波、風、呼吸、脈拍、歩行)を原始形態とするリズムをめぐって、三つの解釈の しかたを示している。第一、反復現象を数的構造に射影する「数学的解釈」。第二、反復現象を生命的構造に射影する「存在論的解釈」。第三、反 復現象を歴史的構造に射影する「歴史的解釈」。
 本文で「リズム的・倍音的次元」と名づけたのは、これらのうち「和歌、俳句のリズム」に通じるとされた第二の解釈にもとづく(東洋的な)リ ズムを念頭においてのことなのだが、残念ながら、私には中井正一のこの刺激的かつ蠱惑的な論稿を、たとえば次の引用文に出てくる「偶然性」や 「邂逅」や「永遠(回帰)」という(九鬼周造の押韻論につながる)語や「パラエクジステンツ」という(オスカー・ベッカーひいては再び九鬼周 造につながる)語の概念的倍音の豊穣さを、存分に咀嚼し嚥下することができない。

《かかる‘瞬間性’と‘個人性’と‘偶然性’は、その最もよき組みあわせを恋愛の姿においてもっている。愛のたわむれ、心中のもつ気紛れ、そ こにブルジョワジーの美しい夢と華がある。リズムもそのコンビネーションの一つの姿としてあらわれる。存在論的リズムの解釈はその様式と共に かかる一点に凝集する。その美しさはその様式の美しさであり、その醜さはその様式の醜さである。リズムならびに韻律はかかる文化形態において は、かかる様式のもとに構造をもつ。そこでは自然と肉体現象の反復を‘邂逅のもつ美しさ’として理解する。宇宙的さまよいの、永遠の虚無の中 に、二つのものが同一であることのもつ欣び、その‘偶然’のもつ輝かしさ、‘瞬間’のもつおごそかさ、他のものでなくそれが‘自分’であるこ との尊さ、そこに韻律とリズムのもつ美しさがあるのである。自分で自分を求めてさまようそのさまよいの中にようやくみずからにめぐりあうこと のできた悦び。そこに、時の再びの邂逅としてのリズムの本質を見いだそうとする。かくて永劫回帰こそ、真のいっとう大きな韻律となる。かかる 存在への戯れをこそ、仮象存在[パラエクジステンツ]としてのリズムの現象として私たちはもつといえよう。念々に発見されゆく発見的存在とし てリズムはその意味をもつのである。》(岩波文庫『中井正一評論集』112頁)

〇中村明一著『倍音──音・ことば・身体の文化誌』(第5章「日本文化の構造」)によると、日本の言語、音楽、音響に境目はなく、化学におけ る「共鳴構造」の関係を結んでいる。そして、それぞれの境界を越えて総合的にコミュニケートする力を持っている。能における地謡、能管、鼓が そうであるように。

《元々、倍音が強い音というのは、火山の爆発、地鳴り、台風など、人間にとって異様な状況の時に現れる音でした。倍音が強くなると、脳はさま ざまな反応をし、脳の状態が通常とは異なった段階に上ります。時間・空間の感覚は、倍音によって歪みます。能舞台は、その歪みが遥か彼方にま で至る、歪みの極みを演出していると言えます。この世界(目の前の舞台)と異界(能の中で語られる異界)との懸け橋を、地謡[じうたい]、能 管、鼓などから繰り出される倍音が務めているわけです。能においては、倍音による歪みが極まり、ひとつの舞台の上に、まったく異なった次元の 場面を呼び出すことができるのです。
 居ながらにして、倍音によって異界にまで意識を飛翔させることを、日本人は感じ、味わってきたのです。》(『倍音』144頁)


【21】メトリカル・ライン─身分け・気分け・言分け(その3)

 「身分け・気分け・言分け」の概念にそれぞれ紐づけられた三つのメトリカル・ライン(ML①~③)は、また、リズムの三つ(ないし四つ)の 層の区分に対応しています。というか、私は、そのような多層性においてリズムを捉えたいと考えています。

  リズム⓪ < ML① ≦ リズム① < ML② ≦ リズム② < ML③ ≦ リズム③
       【身分け】     【気分け】     【言分け】

 ここで機械的に命名した「リズム①~③」の実質について、あくまでひとつの近似的イメージとして、萩原朔太郎、時枝誠記、吉本隆明の議論を 援用します。(リズム⓪についてはモアレ篇において、「字・形=モアレ」と「声・音=ライム」に通底する根源現象として考察したい。)

1.リズム③は以心伝心である

《私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことで ある。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言い現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩の リズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をと つて語り合ふことができる。》(萩原朔太郎『月に吠える』序)

2.リズム②の本質は言語に於ける場面である

《私はリズムの本質を言語に於ける‘場面’であると考えた。しかも私はリズムを言語に於ける最も源本的な場面であると考えたのである。源本的 とは、言語はこのリズム的場面に於いての実現を外にして実現すべき場所を見出すことが出来ないということである。宛もそれは音楽に於ける音 階、絵画に於ける構図の如きものである。かく考えて来る時、音声の表出があって、そこにリズムが成立するのでなく、リズム的場面があって、音 声が表出されるということになる。音声の連鎖は、必然的にリズムによって制約されて成立するのである。》(時枝誠記『国語学概論(上)』(岩 波文庫)180-181頁)

 ──「場面」をめぐる時枝誠記の記述。

《私は言語の存在条件として、一 主体(話者)、二 場面(聴手及びその他を含めて)、三 素材の三者を挙げることが出来ると思う。この三者が存在条件であるということは、言語は、誰(主体)かが、誰(場面)かに、何物(素材)かについて語るこ とによって成立するものであることを意味する。》(『国語学概論(上)』(岩波文庫)57頁)

《…それ[場面]は場所の概念と相通ずるものがあるが、場所の概念が単に空間的位置的なものであるのに対して、場面は場所を充す処の内容をも 含めるものである。この様にして、場面は又場所を満たす事物情景と相通ずるものであるが、場面は、同時に、これら事物情景に志向する主体の態 度、気分、感情をも含むものである。(略)故に場面は純客体的世界でもなく、又純主体的な志向作用でもなく、いわば主客の融合した世界であ る。かくして我々は、常に何等かの場面に於いて生きているということが出来るのである。》(『国語学概論(上)』(岩波文庫)60-61頁)

3.リズム①は指示表出以前/自己表出以前の指示表出/自己表出をはらんでいる

《この[時枝誠記の]韻律観は、とても興味深いが、わたしたちを満足させない。(略)
 わたしたちは、原始人が祭式のあいだに、手拍子をうち、打楽器を鳴らし、叫び声の拍子をうつ場面を、音声反射が言語化する途中にかんがえて みた。こういう音声反応が有節化されたところで、自己表出の方向に抽出された共通性をかんがえれば【音韻】となるだろうが、このばあい有節音 声が現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性をかんがえれば言語の【韻律】の概念をみちびけるような気がする。だから言語の【音韻】は そのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、言語の【韻律】は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる。
 対象とじかに指示関係をもたなくなって、はじめて有節音声は言語となった。そのためわたしたちが現在かんがえるかぎりの韻律は、言語の意味 とかかわりをもたない。それなのに詩歌のように、指示機能がそれによってつよめられるのはそのためなのだ。リズムは言語の意味とじかにかかわ りをもたないのに、指示が抽出された共通性だとかんがえられるのは、言語が基底のほうに非言語時代の感覚的母斑をもっているからなのだ。これ は等時的な拍音である日本語では音数律としてあらわれている。》(吉本隆明『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』(角川ソフィア文庫)59-60頁、【 】は原文ゴシック)

 ──私は吉本隆明がここで「音韻」と呼んでいるものを「音の韻(ライム)」と、「韻律」を「形の韻(モアレ)」と捉えている。


【22】日本語とリズム─樋口桂子『日本人とリズム感』他

 確たる目算もなく、ジル・ドゥルーズの抜き書きから始めたリズム篇。
 言語以前の生命世界(と物質世界との境界)における基層の身体感覚に深く根ざしたリズムが、「気分け」という分節化作用を経て、感情の言語 とも言うべき「メロス」へと分岐し、やがて(それ自身リズムの記号化、言語化であるところの)モアレやライムのはたらきを介して精神世界(純 粋な言語の世界)における「ロゴス」へと展開していく、いわばリズム生成進化のプロセスが、おぼろげに浮かびあがってきました。
 かなり強引な括りですが、そのプロセス(リズム⓪→①→②→③)をさらに強引に可視化してみたのが下図です。

      [メタフィジカルな実相]

     リズム③ 虚体 「ア」の場

  ────── 【言分け】 ──────

      リズム② 身体 「ソ」の場

  ━━━━━━ 【気分け】 ━━━━━━「ま」の場

     リズム①  身  「コ」の場

  ────── 【身分け】 ──────
 
      リズム⓪ 響体 「ゆ」の場

       [マテリアルな実相]

 リズム⓪は「五大皆有響」というときの「響」、リズム①はたとえば「原リズム」、リズム②は「現象としてのリズム」、リズム③は「虚のリズ ム」あるいは「テレパシー的リズム」などと呼んでいいでしょう。「響体」は「霊体」と、「虚体」は「エーテル体」と言い換えていいと思いま す。
 「コ・ソ・ア」や「ゆ・ま」については、以下、その出典を紹介します。いずれも「哥とクオリア/ペルソナと哥」第53章(Web評論誌 「コーラ」掲載)からの自己引用です。

 その1.樋口桂子『日本人とリズム感──「拍」をめぐる日本文化論』

《日本には視点を操作して情景を浮かび上がらせることに長けた歌が多かった。視点の移動によって外界と心象風景が二重映しになり、イメージが 絵画化される。そこでもまた、私とあなたの共有部分の橋渡しをする「ソ」の役割が大きく働いていたのである。
 とりわけ「本歌取り」はこの力を用いて日本独自の詩歌の形式をつくり上げた。》(『日本人とリズム感』207頁)

 ここで言われる「ソ」とは、コソアド言葉のうち「ア」(遠景)と「コ」(近景)の間の漠然とした中間地帯(中景)を指す語だが、「位置の指 示というよりも、私からもあなたからも対象を離してゆく、という‘作用の’指示詞であり、それによって何か特別な意味を生み出そうとする「力 の指示詞」であるという要素が大きい」(189頁)。

《「ソ」は、私にもあなたにも見えながら、同時に私からもあなたからも近く、処理が可能という位置にあることを‘意識させる’ことによって、 私と相手の間に共有の、中間地帯となるような‘場’にあることの力を発揮するのである。私にもあなたにも直接的であるような共有の場をつくり だすのもまた「ソ」の力なのである。》(『日本人とリズム感』190頁)

 たとえば、(J-ポップの歌詞における「私」のように)「日本語はただちに主体の位置をあちらへこちらへと、あるいはその間へと動かして理 解することができる」が、それはそこに「ソ」の力が働いているからである(206-207頁)。また、和歌の本歌取りの効果は、本歌と本歌取 り歌を繋ぐ「ソ」の力に負うところが大きい(208頁)。

《本歌取りは明確な本歌の提示をすることで成り立つ歌の一分野をつくりあげた。(略)
 そしてこのとき本歌取りは「ソ」の力を徐々に引き出していった。あるいは本歌取りは「ソ」の場を見据えることによって、詩歌の一形式を生み 出したと言える。新しいジャンルは、日本語の「ソ」の力を表層に引き出した。現実の、目の前にある「コ」に親しみ、それに接触したいと強く望 む古代に対して、本歌取りは中世の日本語の抽象化に方し、これを進行させた。接触性の「コ」に満ちていた歌世界は、中世になると「コ」から一 歩離れて「ソ」の領域を広げることになる。中世は言語の抽象化を進めた時代であったが、それは日本語の「ソ」の力の顕在化という別の面を暴露 したときでもあった。》(『日本人とリズム感』209-210頁)

《古代の万葉の人々は「もの」を愛し、眼前のものを愛し、「コ」を愛した。しかしただ眼前の「もの」にのみ惹きつけられていたわけではない。 そもそも眼前の「もの」は変化を必定とする。日本人の時間に対する観念は次第に移り行くものの姿を眺めることに傾斜していった。時間は「うつ る」ものである。(略)
 大野晋は、状態が変化して別の状態になることを、溶ける(‘ト’ク)、崩壊していくという意味で捉え、そこから、「とき」の意識が生まれた と考えた[『日本語をさかのぼる』188頁]。眼前の「もの」はいくら執着しても、変化し、逃げて行く。むしろ、「もの」は変化してゆくもの である。万葉人はゆるやかな変化の状態にあるからこそ、眼前の「もの」を強く慈しんだとも言える。「コ」はすでにそこに、その先にある「ソ」 の場と「ソ」の力の種を宿していた。》(『日本人とリズム感』211頁)

《日本的な感性の目は、「もの」が変化し別の「もの」に変わってゆくところに注がれることになる。こうして平安のころには、現物の「コ」を超 えて、ものの本来の姿である「心」に向かう。さらにウチの中のさらにその下にある、ものの「裏」側を見ることへと人々の重心は移っていく。裏 の原義は「心」と同じところにある。裏を見ることは、心の底にある真の姿のあるものを見ようとすることである。表を見ながら裏を見る。表層を 見ながらその心の奥底に向かう。意識のベクトルはねじれた次元に置かれている。裏へと向かう視線は裏へと向かうと同時に、静的な情景を好む傾 向と融合して、日本人の感性をかたどっていった。》(『日本人とリズム感』212頁)

 樋口氏が言う「ソ」と「ゆ」(「~と聞こゆ」の「ゆ」)、それに「ま」を組み合わせると、たとえば垂直的な「ゆ」(深浅)と水平的な「ソ」 (遠中近)、その両者の「間」=「ま」といった図式を考えることができる。そこに「渡る(渡す)」や「眺め(詠め)」などを加えることで、 「日本的パースペクティヴ」なるものの構図を仕上げることができるかもしれない。

 その2.北山修『評価の分かれるところに──「私」の精神分析的精神療法』

 北山氏は「ゆ」の音に即して「意味と音が分ち難く結びつく現象」について論じている(第9章「自然と「ゆ」」)。
 まず『日本国語大辞典』から「ゆ」「ゆう」の音で読まれる漢字の意味を渉猟し、それらがポジティブな経験(由、有、容(裕)、游、湧、愉、 癒、等々)をカバーしていること、しかしその一方で抑うつ的体験(憂)や神聖清浄・畏怖(斎(ゆ)、由々し)を意味することがあるのを見たう えで、「ゆ」の経験がもつ二重性、過渡的・中間的な特質(「ゆ」は覚める・醒める・冷める)を指摘する。
 そして「ゆ」の意味論で忘れてはならないのが、それが「自然に湧出する油田のごとく、心の地下に潜在する、価値あるエネルギーの湧き出る」 (218-219頁)ものであること、つまり「湧いてくる」という自然現象を伴うこと、また「ゆ」が外と内の間、境界、中間地帯にかかわるも のであることを強調する。「最も深刻で困難な状態として、精神分析で自我境界の問題と言われてきた、精神的に殻や皮膚のない心や、壁のない ケースがあります。融解の「ゆ」の中でその身が溶けてしまうというケースのあることも症例報告集……で述べました」(223頁)。


【23】リズムからモアレへ─アフォーダンスと指示表出

 山崎正和著『リズムの哲学ノート』は、「根源的に切れ目を内在した流動」(38頁)としてリズムを捉え、この遍在する現象を「森羅万象の根 源」に置かれるべきもの、あるいは「万物を載せて運ぶ運命そのもの」と見ています。

《リズムは不思議な現象であって、力の流動とそれを断ち切る拍子とが共存して、しかも流動は拍子によって力を撓められ、逆にその推進力を強く するという性質を持っている。これはあの「鹿おどし」の構造にも擬えられるものだが、このリズムの構造を諸現実の根底に据えることによって、 私は長く哲学を苦しめてきた病弊と闘えると予想してきた。
 その病弊とは古代以来、[形相と質料、主観と客観、意識と外界、精神と物質、といったように──引用者註]かたちを変えては連綿と続いてき た、いわば「一元論的二項対立」と呼ぶべきものである。》(『リズムの哲学ノート』「あとがき」252頁)

 この書物は、リズム篇の基軸とすべき文献なのですが、しかしその内容が広範に及び、かつ深すぎるので、というよりこれを咀嚼する力と余裕が いまの私の側になかったので、ここでは、本書刊行後の「哲学漫想3 リズムの哲学再考──反省と展開への期待」(『哲学漫想』所収)の議論を援用し、ライム篇への‘つなぎ’にしたいと思います。

1.山崎氏は、身体を「リズムの働いているときにのみ成立し、リズムが停止すれば消滅するもの」(66頁)と定義し、その空間的・時間的な輪 郭が不明確であり、その中心も見当たらないことを指摘する。

「…複数のリズムの輻湊体にすぎない身体に中心はありえない。まずリズムを乗せる媒体としての肉体を見れば明白だが、肉体の局所はどこをとっ ても全体の中心にはなりえない。(略)
 内発的に生まれたリズムが肉体に乗り、そこに何らかの全体性をつくりうるのは、むしろそれが肉体の限られた局所に乗った場合だけである。と きによってリズムは聴覚に乗って音楽を生み、視覚に乗って美術を生み、運動能力に乗って舞踊や演劇を生むが、そこでは身体に何らかの人工的な 抽象化が施されている。音楽作品は外郭を持ち、序破急に喩えられる完結性を帯びるが、それはあくまでも全身が聴覚を中心として再編成され、一 時的にリズムの輻湊が局限された結果にほかならない。」(72頁)

2.そのうえで、「身体はリズムの単位として発生するものの、そのまま存続することはない」(73頁)と考えるべきではないかと問う。

「じっさい現実世界の実態を見ると、身体の現象は別の意味でも不確実で、ほとんど儚いといいたくなる窮状を示すからである。というのは、身体 はかりにここにある事物として現象するとしても、現れるが早いか、ただちに事物ならぬ観念へと変質する傾向を帯びている。身体を見る側からい えば、姿態や表情のさまをつぶさに捉える代わりに、目をそらしてそれらに名前をつけ、その名前のほうを凝視するという弊風である。」(73 頁)

3.ある事物(たとえば愛玩する猫)が持つ「変わらないもの」(独特の柔らかい毛、愛らしさ)は直接に知覚される対象であり、分析や抽象化、 概念化の対象となる「類的な事物」の「類性」とは無縁である。こういう「変わらないもの」を知覚の原点に据えたのが、「アフォーダンス」の概 念を呈示したJ・J・ギブソン(『生態学的知覚論』)の功績だった(91頁)。

4.山崎氏はギブソンの先進性に敬意を払いつつ、「私としては「類的な個物」の孕む緊張、観念と事物の対立の考え方に固執したい」(91頁) と言う。ここで山崎氏が注目するのが「類型(type)」である。

「…丸顔、面長といった全体の類型、鉤鼻、頬髯、二重瞼など部分の類型が「変わらないもの」の端緒を形成する。類型は類的な個物の濃縮版とも いうべき現象であって、一面では概念化されているが、鉤鼻、頬髯などの事物性を十分に含んでいる。人はここから類型の事象性の拡大に努めるの であって、「鉤鼻がめだつ面長の髭面」といったぐあいに記憶像を充足してゆく。」(92-93頁)

5.山崎氏は「変わらないもの(invariants)」を一括して別の名で呼ぶとしたどんな命名がありうるのかと問い、「印象」や「相貌 的」(ウェルナー)といった術語を挙げた上で、次のように述べる。「私としてはそういう表現を総括する代名詞として、さしあたり「詩的」とい う命名がふさわしいかと考えている。」(99頁)

6.最後に、アフォーダンスとリズムの哲学の関係をめぐって、山崎氏は次のように言う。「アフォードするものとされるもののあいだには、 ひょっとすると同じ一つの力動的な関係、ほかならぬリズムの力が広く働いているかもしれない」(99頁)。

「少なくとも飛び石の配置はそれ自体の内部に運動を秘めていて、人間の習慣としての歩幅、前進する弾みの勢いをかたちのなかに含んでいる。そ れを踏んで歩く運動と、そうするようにアフォードする石塊のかたちは、もともと同じリズムを生み出していたと考えられるのではないだろうか。
 この事例を敷衍して、ギブソンのいういっさいの環境、大地や水や包囲光のすべてがその内部に潜在的なリズムを含み、生命体の生きるリズムと 照応しているかどうか。いいかえればアフォード現象はリズムの現象に包摂されるかどうか。これはリズムの哲学の展開にとては魅惑的な主題だ が、その本格的な解明にはいずれ稿を新たにしなければなるまい。」(99-100頁)

 次回へ続く。


【24】リズムからモアレへ─アフォーダンスと指示表出(承前)

 いまひとつ、ライム篇に向けた‘補助線’を引きます。以前(第21節)抜き書きした文章のなかで、吉本隆明は次のような議論を展開していま した。

1.音声反射が言語化する途中に、「原始人が祭式のあいだに、手拍子をうち、打楽器を鳴らし、叫び声の拍子をうつ場面」を想定し、こういう音 声反応が有節化されたところで、①自己表出の方向に抽出された共通性をかんがえれば「音韻」の概念を、②有節音声が現実的対象への指示性の方 向に抽出された共通性をかんがえれば言語の「韻律」の概念をみちびける。

2.だから言語の「音韻」がそのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、言語の「韻律」は、指示表出以前の指示表出をはらんでい る。
 対象とじかに指示関係をもたなくなって、はじめて有節音声は言語となった。

 ここで、吉本が言う「音韻」を「ライム」に、「韻律」を「モアレ」に書き換えると、私が想定している韻律的世界の図式に合致します。
 第21節では、吉本の言う「韻律」を単純に「リズム①」に置き換えましたが、これを精確に書き直すと、「原リズム(リズム①)」→「モアレ (リズム②)」→「指示表出(リズム③)」という(「音と形」のうち「形」にそくした)「言語化」のプロセスにおいて、「原リズム(リズム ①)」すなわち「非言語時代の感覚的母斑」を「基底」とする「モアレ(リズム②)」が、吉本の語彙で言えば「韻律」であったということになる でしょう。
 話が込み入ってきたので、模式図を示しておきます。前回引いた「アフォード現象」は、「原リズム→モアレ→指示表出」という「形・字」にお ける言語化のプロセスのうちに位置づけられます。

     [メタフィジカルな実相]

     指示表出 ┃ 自己表出
          ┃
         リズム③
    ──────╂──────
      モアレ ┃ ライム
          ┃
         リズム②
 [字]━━━━━━╋━━━━━━[声]
          ┃

         リズム①
    ─────────────
         [響]

         リズム⓪

      [マテリアルな実相]

 ここで、補助線として、山崎正和著『リズムの哲学ノート』から、オノマトペをめぐる議論を引きます。
 山崎氏は、鷲田清一著『「ぐずぐず」の理由』の「オノマトペは共感覚から生まれる」という見解を踏まえて、全身の身体感覚によって感受され るリズムは共感覚と同じものであるから、オノマトペがリズムを記述する最適の手段となるのは当然だ、と書いています(22頁)。
 そして、鷲田氏によるオノマトペの分類──①同じ二音韻を二つ重ね反復するタイプ(ぐずぐず、ずるずる、ざらざらなど、身体が受容した感覚 そのままの模写)、②異なる二音韻を二つ組み合わせるタイプ(ちぐはぐ、じたばた、めちゃくちゃなど、文明的な言語に近いもの)──を踏まえ て、次のような議論を展開します。

《幼児オノマトペはまだ自然的なリズムしか持っていないが、それでも二音韻二組ごとにまとまろうとする音の切れ目だけは備えている。この切れ 目による原始的なまとまりが言語の萌芽なのであって、幼児はこのリズムを携えて文明の世界にはいってくると考えられる。(略)
 オノマトペの教えるもう一つの事実は、それ自体が同時に二つの違った営みをしているということだろう。第一は鷲田がとりわけ注目する、オノ マトペの営む「感覚による抽象」であって、この場合は抽象されている当の対象もまた感覚である。鷲田によれば、たとえば「ね」は粘着性や執拗 さを表すにふさわしい音であり、現に「ねばねば」「ねとねと」など、粘りつく感覚のオノマトペに多様されている。(略)
 この主張は大いに説得的であって、オノマトペが感覚による感覚の抽象をおこなっていることを疑う理由はまったくない。しかし私にはオノマト ペには別のもう一つの営みがあって、それは感覚ではなく、直接にリズムを写しとる営みであると思われてならない。先にリズムの感受性はどんな 感覚からも独立して働くことを指摘したが、この事実はオノマトペに端的に現れているように考えられるのである。なぜならオノマトペがとかく二 音韻二組の単位をつくる現象は、このリズムがどのような音、または音韻を乗せるかとはまったく無関係に生じているからである。
 しかもこのリズムの感受性を感覚による感覚の抽象と比較したとき、程度の差ではあるが前者が後者よりも普遍的であるように感じられる。感覚 の模写がどちらかといえば地域や民族によって異なるのにたいして、リズムの表現は世界的に共通性が高いようにみえるのである。》(『リズムの 哲学ノート』24-25頁)

 ──以上の議論を参考に、「音象徴」や「オノマトペ」をめぐる川原繁人氏の見解(第17・18節)を、上の模式図の中に書き入れました。こ れは、モアレ篇の議論の‘見取り図’もしくは‘目次’になりうるのではないかと思っています。
 まず、言語発明以前のリズム①のレイヤーにおける「形象徴」を取りあげ、以下、リズム②、リズム③と‘飛翔’し、最後にリズム⓪へと‘ダイ ブ’します。

      [メタフィジカルな実相]

    <指示表出>┃<自己表出>
          ┃
         リズム③
    ──────╂──────
      モアレ ┃ ライム
          ┃
         リズム②
   [オノマトペ]┃[オノマトペ]
    リズムの表現 ┃ 感覚の模写
 [字]━━━━━━╋━━━━━━[声]
          ┃
         リズム①

     [形象徴] [音象徴]
    ─────────────
         [響]

         リズム⓪

      [マテリアルな実相]


【25】リズムからモアレへ─同期・引き込み・ポリリズム

 モアレ篇に入る前に、リズムから形が生まれるメカニズムをめぐって、野村直樹著『ナラティヴ・時間・コミュニケーション』の議論を援用しま す。

 野村氏は同書に収められた講演録「時間論編 「生きた時間」とはなにか」で、マクタガートの時間論(A系列、B系列、C系列)を拡張した「四つの時間」のアイデアを提唱しています。

【A系列】(例:自伝、主観的な時間)
 ・時制と順序と方向性を持つ時間(過去・現在・未来による時間把握)

【B系列】(例:動画、物理的な時間)
 ・時制がなく順序と方向性を持つ時間(「より前」「より後」による時間把握)

【C系列】(例:静止画、楽譜)
 ・時制と方向性がなく順序を持つ時間(非時間)
 ・区切るごとに何かが増えて行く場合はD系列(例:カレンダー)

【E系列】(例:ダンスの時間、祭りの時間、遊びに夢中になっている時)
 ・時制と順序と方向性を持たない時間(生きていることを示すリズムと変化)
 ・他者や環境との同調・同期(シンクロナイゼーション、エントレイメント)

 以下、野村氏の時間論のエッセンスを、橋元淳一郎・明石真両氏との共著論文「E系列の時間とはなにか──「同期」と「物語」から考える時間 系」(『時間学研究』第8巻(2015年3月)から引きます。

 いわく、E系列の時間は「同期」(synchronicity)=「引き込み」(entrainment)から創発する。
 相互作用が同期を誘発する。リズムとリズムが出会ったときに起こる事象が同期である。
 同期は物理世界(振子の共振)、生物世界(心拍・生命時計・群れ)、人間世界(ダンス・合唱・話)に共通する。
 物理学の法則は時間対称で過去と未来の区別がないから、その時間(相対論的時空)はA系列でもB系列でもない。観察者と無関係な客観的な時 空、すなわちC系列も存在しない。
 このような「観察者がいる空間での出来事」であるかぎり、物理世界に限らず生物世界でも人間世界でも、そこで創発するのは相互作用を通して 局所的に同期する時間、すなわち「E系列の時間」である。

《同期事象はこのように時間と空間を「時空」としてつなげ、 離れた場所における時間はお互い相対的、局所的、個別的になる。経験世界における時計は、いつも観察者を含んだものだから、時計と時間と観察者との三項関 係をつくるが、どこにでも当てはまるとして普遍時計(B系列)を携えてあらゆる分野に分け入っていく科学者たちは、観察者抜きの二項関係を描 成することになる(松野孝一郎『内部観測とは何か』,p164-166)。経験世界の時計の方は─それがダンスであれ、細胞同士であれ─他か ら独立したものではなく、内部からの観察者を想定し、その時間の読み方は「読み手」に依存している。喩えとして、時計を「言語」に、銀察者を 「話し手」に、時間を「意味」に準えたらわかりやすい。辞書にある言葉の定義がその会話での意味には必ずしもならないように、経験世界の時計 では、時間は、言葉の意味に似て、観察者抜きに同定することはできない。》

 またいわく、『正法眼蔵』に「いはゆる有時(うじ)は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」とある。「時は姿、様相をもっている。生きて いるさまも、物が存在することも、時の姿である」。
 すなわち、A系列からE系列までの「時間」は「時」の「姿、様相」である。「時」はこれらより一段上の「メタ時間(有時)」である。
 「時間」をリズムに喩えるなら、それぞれの系列時間が異なるタイミングで拍子をとることで重層的な「ポリリズム(複合リズム)」の領域が形 成される。
 「時間」を声に喩えるなら、それぞれの系列時間の「声」が相互に闘争する「ポリフォニー(多声性)」の世界が出現する。

 ──私見によると、「時(有時)」はアクチュアルな次元に属し、「物語の時間」を構成する四つの時間系列はリアルな次元に属しています。 (厳密に言うと、A系列に属する〈今〉は本来アクチュアルな次元に属する。)
 そして、E系列の時間は「物語の時間」の根源にあって、その「原型」をなしている。E系列の時間の上に、いわば「倍音」のようなかたちで、 異なる他の系列の時間が「(時の)姿」と「(時の)リズム」と「(時の)声」の三つの領域にわたって多層的に堆積している、というのが私がい だいているイメージです。


【26】形象徴─紋様・文様・装飾

 「形象徴」は「音象徴」に対応させて私が勝手に造った語彙、というか概念です。「音象徴」の「音」は「オン」と音読みするので、「形象徴」 の「形」も同じ呉音の「ギョウ」と読むのが筋でしょう[*1]。
 ある音が特定の形、イメージ、指示対象(意味)を呼び起こすのが「音象徴」なのだとしたら、「形象徴」とは、ある形が特定の音、イメージ、 指示対象(意味)と結びつく[*2]ことを指す、と定義していいかと思います。
 それでは、いかなる現象をもって「形象徴」と言うのか、と考えを巡らせて、思い浮かんだのは、擬態(ミメーシス、ミミクリ)、星座、風紋や 縞模様や蝶の翅の模様その他の紋様、トーテムポールや仮面、絵文字、呪符・護符・霊符、縄文、渦巻や螺旋や楕円、ケルトの組紐、アラベスク (唐草模様)などの文様、等々でした。
 抽象的に言えば、生命記号の世界[*3]、前言語的な形象的思考──平倉圭著『かたちは思考する』の語彙を借用すれば「韻の論理」──の世 界ということになるでしょう。「形象を読むとは、身をもって韻を辿り、辿ることで踊り、踊りながら自ら形象と似ることだ。」(平倉前掲書22 頁)
 これら多岐にわたる事象のうち、文様(装飾)に関する議論を、次回取りあげたいと思います[*4]。

[*1]「型[ギョウ]象徴」と綴っていいかもしれないが、「型」と「形」の関係がうまく整理できない。形は即自態であり、型は対自態であ る、あるいは形はオブジェクトレベル、型はメタレベルなどと言えるのかどうか。
 たとえば折口信夫が「日本文学における一つの象徴」の中で「型に這入る」というその「型」であれば、「型象徴」の典型と言えるような気がす る。

「我々の国の文学芸術は、世界の文学芸術がさうであつたやうに、最初から文学芸術ではなかつた。さうなり行くべき運命を持ち乍ら、併し頗はか ない詞章、表出として長く保持せられて来たに過ぎなかつた。其が次第に固定し、又飛躍して文学芸術らしい姿を整へて行つたのである。さう言ふ 進みの間に、型を作り/\して行つたことが、文芸を形づくる一歩々々であつた。文学芸術の発達時代には、型に這入るといふことが最大切な現象 であつたのである。而も最古い時においては、全くの緘黙の長い期間を経過して来た。」(青空文庫)

[*2]「結びつく」を「模倣する」とか「反復する」に置き換えると、ベンヤミンの後期言語論(「類似性の理論」、「模倣(ミメーシス)の能 力について」)における「非感性的類似性」や「無意識的なミメーシス」といった蠱惑的で生産性に富んだ概念と、それこそ結びつけて考えること ができる。
 とくに「非感性的類似性」は、リズム⓪から③までのすべてのレイヤーにおける「形の韻」の問題に深くかかわってくると思う。

[*3]発生は発声である、あるいは指揮者のいないマタイ受難曲をめぐって。──ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論──宇宙の意味と表 象』(松野孝一郎他訳)から。

《…私はDNAの暗号を料理の本に書かれたレシピにたとえた。だが、もっと適切な比喩は大編成の合唱曲の譜面に見ることができる。胚発生は実 際、同時に遺伝子を読み上げる、多数の「声」によって遂行される。ここの発声を互いに調整し、全体を合唱の形に統一させるのがこの発生過程で ある。そうであるからこそ、遺伝子の解釈に荘重さが現れて来る。
 胚発生では、個々の組織は正確に調律されており、組織間の統合は絶妙な協調効果によってもたらされる。要するに、個体発生過程において、指 揮者に当たるものは見つからない。個々の「歌手」あるいは「演奏家」は組織ごとに、私たちがまだおぼろげにしか分かっていない相互伝達過程を 通して、その全体調整を行う。いずれにしろ、ゲノム(遺伝物質の総体)はただの譜面にすぎず、どうひいき目に見ても指揮者にたとえられはしな い。いずれにせよ、それは指をぱちんとならしただけで全てが調整されるようにはなっていない。聖マタイの情熱(Saint Matthew Passion)の合唱演奏の場面を思い出していただきたい。》(『生命記号論』76-77頁)

[*4]それ以外の話題のうち、宇宙の「根原形象」としての渦と、文様的世界像もしくは「世界文様」(オルナトゥス・ムンディ)をめぐる文章 を二つ引く。

《宇宙の根原形象を渦流とすれば、それは、自転と公転によってつねに新しい宇宙空間に螺旋の航跡を描き続ける、わが地球の姿に端的に象徴され よう。ところで、永遠回帰のこの運動により、宇宙の天体相互の間には、それぞれ「時の波動」が生み出され、例えば地球では、年ごとに新たな四 季が廻り来ることになろうが、この時、この地球上の生物達はめいめいの「生の波動」でもって、その四季の推移に色どりを添える。》(『三木成 夫──いのちの波』137頁)

《文様は自然の具象性と人工的な抽象性とを最もエコノミカルにまとめあげた境界的な造形の位相にあって、他のどんな造形表現にも置き換えるこ とのできない、「文様的[オーナメンタル]」としか呼びえないかたちの美を表出する。人は、文様的方法によって組み変えられた世界をそこに見 る。そしてわれわれはケルトの装飾家が次々と送り出してくる組紐文様によって、無限の世界のパターンに対峙する。その組紐文様生成の情景は、 しばしば生長する生命のようであるとか、始めも終りもない循環的時間であるとか、生と死と再生の描写であるというように説明されてもかまわな いだろう。たしかにそのような意味がケルトの組紐文様に込められていなかったとはいえないし、今ではわれわれが知りうべくもない生や自然のい ちいちの意味が、その個々のパターンに担わされていたかも知れない。けれども、ケルト組紐文様の描法に示される止まるところを知らない広が り、文様によってすべてを覆い尽くそうとする欲動は、いちいちの項目の描写を超えたある普遍的な構造の提示に向かっているように思える。》 (鶴岡真弓『ケルト/装飾的思考』(ちくま学芸文庫)343頁)


【27】形象徴─紋様・文様・装飾(承前)

 山崎正和著『装飾とデザイン』(中公文庫)の議論を、個人的感想を省いて抜き書きします。

<「もの」を持たない形は見えない>

「…形のない「もの」[物質、材料、質料、素材──引用者註]と同様、逆に、「もの」を持たない形も肉眼には見えない。(略)形は手を使って 素材となる「もの」に移し、それを変形しさらに手直ししているうちに、ようやく自分にも明確に見えてくることが多い。」(61頁)

「…道具の製作のなかで人類はたぶんはじめて抽象的な形を学んだ…。たんに「もの」から離れた純粋な形を発見しただけでなく、より観念化され た幾何学的な図形をも同時に知ったと考えられる。」(117頁)

<「聖別」と印しづけ、指さす行為の延長>

「…装飾はなんらかの個物にたいする「聖別」であり、印しづけなのである…。(略)これにたいしてデザインは想像力の計画、造形の準備として 成立するものであるから、その後の制作の過程を欠いては意味をなさない。」(129頁)

「…装飾とはこの指さす行為[輪郭も細部ももたない「裸の存在」である個物を「確かな重み」(同一性)を帯びてそこにあるものとして「あれ」 や「これ」と指さす行為──引用者註]の延長であり、指先に力をこめて「これ」に印しを刻みこむ営みであった。しかし印しは必然的にそれ自体 の形を持たざるをえないから、逆説的なことだが装飾は隠された個物をいやがうえにも隠すことになる。そして個物は隠されることによってますま す「聖別」され、「聖別」された個物はますます装飾を要求した。この歴史的な過程のなかで、特定の個物はあるときついに神格化され、超越者の 憑り代と見なされるようになり、その延長線上に宗教の目覚めさえもたらしたというのが、私たちの推察であった。いいかえれば飾ることが飾られ る対象を生み、飾られる対象が一層の装飾を呼んで、その循環のはてにあの祭の日の賑わいが生みだされた。」(138頁)

<想念の装飾、模倣・再現の営み>

「装飾の根源は対象を見る行為ではなく、漠然と対象を崇める行為であって、そのために対象を心のなかで指さし、やがて思いに印しをつける行為 であった。
 最初に目に見える形を生んだのはこうした装飾それ自体の働きだったが、しかしそこに生まれた形[例:巨木の注連縄]はおよそ装飾される対象 の形とは縁もゆかりもないものであった。(略)振り返れば装飾物の形が装飾される対象の形と関係づけられ、後者が何らかの意味で前者に反映さ れたのは、装飾が漠然たる形さえ持たない、いわば内面の想念を飾り始めた時であった。(略)
 だがここで注意すべきは、この初期段階では装飾される想念を仰ぎ見たいという意識はあっても、現実の装飾はさしあたり想念の内容とは無関係 に始まったということである。人が自然の豊穣を女性の裸体で示したり、キリストを魚や羊で、仏を車輪や足跡で表そうと試みたとき、そうした記 号の形は巨木の注連縄の場合とまったく同じであった。それらは意味を表すという点でむしろ象形文字の形に似ていたのであって、想念そのものの 形はもとより、記号として借りられた形、裸像や魚や足跡の形ですら十分に形として凝視されていたわけではなかった。ただここで巨木の注連縄の 造形の場合と決定的に違うのは、想念にたいしては人がそれと正面から向かいあい、それを仰ぎ見たいという強烈な願望に駆られていたことであ る。一方に装飾物を造る造形の意欲があり、他方に距離を置いてものを見る志向的な意識が生まれて、それが重なって働いたときに造形は一つの飛 躍を迎えたのであった。
 いうまでもなく、それは「模倣」あるいは「再現」と呼ばれる営みであった。」(216-217頁)

<発声と造形、型と模倣>

「あたかも最初の言語の誕生が謎に包まれているように、造型的な再現の起源を探ることもむずかしい。だが両方に通じて確実に想像できること は、人類があるとき実用的で慣習的な行動連関から離れて、当面は目のまえに存在しない対象を思い浮かべ、その想念を集団で共有しようと願った ということだろう。そしてたまたまそれと並行して、人類は一方で発声という行動に反復可能な「型」(言葉)を与え、他方で造形の手の動きにも 一定の約束事(模倣)を生み出していたと推測できるのである。」(219頁)

<物語の装飾>

「…人間の想念をいちじるしく膨らませ、それを多彩に発展させたものは物語であり、とりわけ宗教的な神話であった。」(220頁)

「おそらく人類が初めて物語を生んだとき、…先史人はそれを身体を使って演じていたにちがいない。身体にはおのずから空間性があるから、彼ら はせりふを語りながら場面の同時性を直接に観客の目に伝えることができた。だがやがて物語が叙事詩人によって言葉だけで語られるようになる と、にわかにそのなかの空間的な要素は閉め出されて、表現の別の媒体を要求し始めたと想像することができる。そしてその媒体がほかならぬ造形 (物語絵)であったことは、古代ギリシャの文学と造形の並行的な発展を見ても明らかだろう。(略)
 こうしてかつて静止的な想念を装飾したのと同じように、人類は形によって物語を装飾し始めたのであるが、ここではもはやその形は装飾される 対象と無縁なものではなくなった。形は装飾される物語そのものの空間性に根ざし、それ自体の場面性を回復する媒体になったのであって、ここに 再現という観念が初めて根拠を持つことになったのである。」(222頁)


【28】形象徴─紋様・文様・装飾(補遺と余録)

 前回引いた文章の中で、「道具の製作のなかで人類はたぶんはじめて抽象的な形を学んだ」とあったことに関連して。

     ※
 道具の製作のなかで、人類はたぶんはじめて「モノの心」を学んだ。そして「モノの心」は「抽象的な形」に通じている。
 森山徹氏は『モノに心はあるのか──動物行動学から考える「世界の仕組み」』で、「あらゆるモノは隠れた活動体、心を持ちます」と書いてい る。そして、「モノを未知の状態に遭遇させ、予想外の行動を観察することで、その心の存在を確かめることができるはず」だと(188頁)。
 たとえば、熟練した石器職人は「石の心」を知っている。

《石の個性に気づいた職人は、石の内部でそれを生成する何者か、すなわち、「隠れた活動体」の存在を知ることになります。すなわち、職人は、 石を打ち、石がカツンと響くとき、石は、[打たれる、響く]を発動し、同時に、その内部に潜む、[打たれる、振動する]が響きを修飾すること を知るのです。そして、石の「響く」という行動を修飾する「振動」の多様性に興味をもつにつれ、石を様々な方法で打ち始め、やがて、振動の仕 方を職人は制御できないこと、すなわち、個々の石は多様な振動を自律的に発現することを体験するでしょう。
 そうするうちに、やがて彼は[打たれる、割れる]も当たり前に石の内部に潜むこと、更に、その活動を「石の自律性に任せて引き出す」こと は、多様な振動を引き出すことと同様に可能であることを知るでしょう。そして、やがては石核を打ち割る打ち方を見出すのでしょう。だから、職 人は「石は割れてくれた」と表現するのです。》(『モノに心はあるのか』394頁)

     ※
 以下、余録として。高橋義人著『形態と象徴──ゲーテと「緑の自然科学」』に「形象的言語」(自然自身が語る言葉、いわば自然の声)という 概念が登場する。

《自然に語らしめるということは、自然を‘説明’し、規定しようとする概念的言語ではなく、自然の「すがた」を生き生きと浮び上らせようとす る形象的言語を用いることにほかならない。自然は形象を通して人間に語りかけてくる。語りかけてくる自然は数多くの意味の予感に充ちてい る。》(『形態と象徴』423頁)

 このような「自然を形象的言語を用いて記述しようとするゲーテ自然科学」は、詩や造形芸術と密接な親縁関係に立っている(424頁)。

《ゲーテ的科学と詩や造形芸術を結びつけるもの──それは、両者がともに形象もしくは形態によって構築されているという事実である。(略)そ れは第一に「生き生きと生成する」形象であり、第二に諸部分の連関が直観のうちに把握される全体であり、そして第三に内なるものが外なるもの のなかに反映されている象徴である。画布に描かれた形象は、動かないのに生きて見える。同じくゲーテ的言語においても、語句によって示された 形象は生き生きと生成しているように感じられなければならない。したがってそこには存在と生成との間の相剋が認められよう。語句が形象を存在 として固定化・概念化しがちなのに対して、言語はその形象を生成するものとして蘇らせようとする。ゲーテを有機体学の創始者であると名づけた R・シュタイナーの顰にならって言えば、ゲーテ的言語は有機的な言語にほかならない。》(『形態と象徴』425頁)

 形象的言語、ゲーテ的言語、有機的言語、等々の概念は、物質としての声(リズム)と文字(複雑な文様)が、すなわち「音象徴」や「形象徴」 が、形象や意味としての声と文字の「下絵」になっていること、そして、これらのあいだを媒介する「トレーシング・ペーパー」のようなものとし て、「音のオノマトペ」と「形のオノマトペ」を想定できること、を示唆しているのではないか。


【29】モアレ─擬態文字・水の中のかな文字(その1)

 リズム②のレイヤーにおける「形の韻」(モアレ)をめぐる素材を三つ蒐集します。

1.擬態文字─形のオノマトペ

 第24節で引用した文章のなかで、山崎正和はオノマトペには二つの営みがあると言っていました。すなわち、「感覚による感覚の抽象=感覚の 模写」と「直接にリズムを写しとる営み=リズムの表現」。
 この議論を踏まえて、私は、前者を「声の韻」(ライム)に、後者を「字の韻」(モアレ)に関連づけて図式化しました。つまり、オノマトペに は二つの類型があって、それは「音(声)のオノマトペ」(=擬音語)と「形(字)のオノマトペ」(=擬態文字)である、と暗に主張したわけで す。
 それでは、「形のオノマトペ」とは何か。ここで私の脳内に浮上してきたのが、ベンヤミンの初期言語論です。精確には、細見和之氏が『ベンヤ ミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』で展開した議論でした。
 ベンヤミンが「言語はいかなる場合でも、伝達可能なものの伝達であるだけにとどまらず、同時に伝達不可能なものの象徴でもある」とし、また 「名前…がたんに伝達する機能のみならず、伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有していることは、きわめて確かなことである」と書いた ことを受けて、細見氏は次のように述べています。

《「名前」が「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有している」というのは、当然のことと思われるかもしれない。しかし、これがやはり かなり特異な発想であることをふたたび確認しておきたい。ランプを例にとれば、まさしく「ランプ」という名前・呼称に、伝達不可能なものとし てのランプの精神的本質の「象徴」を見て取ろうとする態度だからである。ここで「ランプ」という音ないし文字はランプを指すたんなる記号で あってはならない。「ランプ」という音はランプという存在の、いわば‘擬音語’であり、さらには擬態語、‘擬態文字’でなければならないので ある。
 この傾向をもっとも顕著に示しているのが、一九三三年に書かれた「類似したものについての試論」であり、その続稿ないし改定稿として成立し た「模倣の能力について」…である。そこでベンヤミンは、そもそもすべての音声言語を擬音語として理解する方向を示すとともに、文字を「非感 性的類似の貯蔵庫」…と呼んでいる。擬音語が外的に理解しやすい「感性的類似」にもとづくのにたいして、擬態語は、さきに「のしのし」の例で 見たように、そのままでは類似を見て取ることのできない「非感性的類似」にもとづいているのである。そして、文字が「非感性的類似の貯蔵庫」 であるということは、すべての文字はそもそも擬態文字であるということだ。
 このあたりもまたベンヤミンのもっとも難解であるとともに捨てがたい魅力をなしているところだが、少なくとも作家や詩人が「ランプ」と書く か、「灯り」と書くかで迷う場合、そこではたんなる「記号」を超えた次元で言葉が問われている、と言うことはできるはずだ。「ランプ」と「灯 り」をたんなる記号としてのみ捉えるなら、どちらでもいいことになるからだ。私たちが「語感の違い」などという言い方で通常安易に了解してい る要素とは何なのか。それは記号論で言われるコノテーションの違いという枠内には収まらない問題だと思える。そこで問われているものこそ、ま さしく「ランプ」ないし「灯り」という言葉、さらには‘文字’の、「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能」のことではないのか。そのように 問いなおすことができるだろう。》(細見前掲書229-230頁)

 ──細見氏の議論は、リズム①のレイヤーに属する「形象徴」に根差しつつ、リズム③の「文字」に及んでいて、肝心の、つまりリズム②に固有 の「形のオノマトペ=リズムの表現」にかかわる叙述が弱いように見えます。
 しかし、これは強引な‘読み’になるかもしれませんが、私は、細見氏が言う「伝達不可能な精神的本質」あるいは(安易な言い方になるが) 「メロス」憑きの「語感」を「リズム②」と捉え、ベンヤミンの「名前」が持つ「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能」を「リズム②の表現」 と関連づけることで、上に引いた細見氏の議論を、まるごとリズム②における「形の韻」をめぐるものと解していいのではないかと考えています。


【30】モアレ─擬態文字・水の中のかな文字(その2)

2.水(夢)の中の文字─読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字

 すでに述べたように、韻律について考えるようになったきっかけは、平安朝から鎌倉期にかけての王朝和歌への関心が嵩じたことにあります。
 井筒俊彦が司馬遼太郎との対談「二十世紀の闇と光」で、「私は、元来は新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にや ろうと思ったことさえあるくらいです」(司馬遼太郎『十六の話』(中公文庫)427頁)と語っています。偉大な先人の言葉を借用するのは不遜 ですが、王朝和歌をめぐる言語哲学的な意味論研究の真似事を、素人ながらやってみたいというのが。そもそもの発端でした。
 あれこれ文献を漁るなかで、王朝和歌をめぐる朦朧としたイメージが立ちあがってきました。それは、第3節で引いた石川九楊氏の「意味の韻、 文字の韻、書くことから生れる韻律によって成り立つ和歌が、女手の誕生とともに生れた」(『日本の文字』)という言葉に集約されます。
 これと同じ趣旨のことは、たとえば、古今集の表現上の特徴が、かな文字=「歌の文字」の連鎖・線条がもたらす「複線構造による多重表現」に あるとする小松英雄氏(『みそひと文字の抒情詩』『古典和歌解読』)によって主張されています。
 また、神田龍身著『紀貫之──あるかなきかの世にこそありけれ』では、貫之のかな文字(和歌の言葉)は「紙上のパロール」すなわち「偽装さ れた日本語音」であって、ピュアな日本語音を映しだす透明な媒体などではないと指摘されています。
 王朝和歌の実質は、「意味の韻、文字の韻」を通じた「複線構造による多重表現」を生成する「偽装された日本語音」、すなわち「かな文字」に ある。──ここで、私がかねてから刺激を受けてきた、矢口浩子・新宮一成の共著論文「かなと精神分析」を参照したいと思います。
 この論考は、石牟礼道子のエッセイ「夢の中の文字」を踏まえているので、まずその該当箇所を抜き書きします。

《この世とあの世の境には、往きつもどりつして今日は生きそびれ、昨日は死にそびれして、どちらの方へとも往きつけぬ世界がもうひとつあっ て、そこに居るものたちの位相を、迷う、とか、狂うとかいうのだろう。
 そのような世界をあらわすらしい分明ならざる闇の中に、一筋の川がかすかに光りながら流れてゆく夢をよく見る。(略)
 川はたぶん川自体の旅程をあらわすのであろうが、必ずその川底から、短冊様、あるいは長い巻紙様の、ひらひらとくねる古い紙が浮き上がって 来て、解読できない毛筆の文字があらわれようとする。濡れた髪のようになって、溶けて散りながら、その文字は一度も形になってくれないのであ る。生まれることが出来ないその文字は、わたし自身でもあるらしい。》(『石牟礼道子全集・不知火 第9巻』)

 ここに述べられた解読できない文字、すなわち川底と水面の境で往きつもどりつしている水の中の毛筆の文字(かな文字)をめぐって、矢口・新 宮前掲論文では次のように書かれています。

《彼女[石牟礼道子]は川底というあの世のくびきと、水面上のこの世の境で、「往きつもどりつして今日は生きそびれ、昨日は死にそびれ」てい る自分の存在を、読まれない文字に重ね合わせている。水の中にある限り、文字は「意味」をもつことができず、ただ漂っている。それはちょう ど、果てしない時空の広がりの中で、何の意味も持ち得ない、人間存在の救いようのない孤在の姿であるように思われる。それに対して、水の中か ら文字が浮上すれば、そのとき私は私が存在することの意味を知ることができるように思われる。ただしこの世でその文字が解読されてしまったな ら、私は他者に私の存在の意味を譲り渡すことにもなるだろう。意味は普遍である。いったん普遍に入れば、文字は私だけのものではありえなくな る。私が私の存在の意味を知るときには、すでに私は普遍の主体であって、もうあの孤在のままの私ではなくなってしまう。
 夢の中で文字が、普遍を拒絶しているとしたら、それは、私が私自身のまま存在しようとしているからである。書によって、意味や音を手放そう とする文字は、個別であろうとする私の存在なのである。その存在は意味を得ることはできず、あの世に沈むしかない。だが、読まれてしまうよう な文字もまた、普遍の中に疎外されて失われてしまうのである。
 したがって、読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字の状態は、救いようのない孤在と、疎外された普遍的主体との間の、どちらと もつかない位相を表しているといえよう。すなわち、文字が音や意味から剥離し、それによって不気味さを与えつつ、かえって美への可能性をも示 すという事実は、文字に託された我々人間の生の、個別と普遍の狭間で行き惑うあり方そのものに由来しているのである。》 (叢書・想像する平安文学第5巻『夢そして欲望』)

 ──ここで言われる「読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字」こそ、言い換えれば、普遍的な意味の領域に入った文字言語と、言 語の幼体とも言える擬態文字、あるいは言語発明以前の形象徴とのあいだ、個別と普遍の狭間を、往きつもどりつしている文字[*]、濡れた髪の ようになって、溶けて散りながら、一度も形になってくれないかな文字こそ、リズム②のレイヤーにおける「形の韻」の本体である。私はそのよう に考えています。

[*]いかにも自然現象との連続性を感じさせるかな文字の連綿と同様の事態が、漢字やアルファベット(を形づくる文字素)についても言える。 この点については、マーク・チャンギージーが『ヒトの目、驚異の進化──視覚革命が文明を生んだ』の第4章「霊読(スピリット・リーディン グ)する力──ヒトが文字をうまく処理できる理由」で紹介している、文字素の普遍分布に関する下條信輔他との共同研究 《https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdfplus/10.1086/502806》が参考に なる。


【31】モアレ─擬態文字・水の中のかな文字(その3)

3.修字法─複線構造による多重表現、あるいはモアレ

 前回、古今集の表現上の特徴が、かな文字の連鎖・線条がもたらす「複線構造による多重表現」にあるとする小松英雄氏の説に触れました。この ことを、もう少し掘り下げます。

 『みそひと文字の抒情詩──古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』によると、古典和歌は、短さの極限であった上代の短歌形式を土俵にして、 「切り詰められた仮名連鎖にどれだけ豊富な抒情表現を盛り込むことができるかを競うもの」(41頁)でした。上代短歌の三十一個の「音節」の 連鎖から、三十一個の「音節文字」の連鎖への転換、すなわち短歌の換骨奪胎によって平安前期に確立された、新たな韻文のジャンルが和歌であっ たということです。
 聴覚で捉える上代短歌から、視覚で捉えて読み解く平安期の和歌への転換。「そのための音節文字は清濁を書き分ける借字ではなく、清濁を書き 分けない仮名でなければならなかったから、その転換は、平安初期に仮名の体系が形成されたことによってはじめて可能になった。進化論にいう断 続平衡にたとえたように(序論1)、上代と平安時代との間には、日本語韻文史の断層がある。」(41頁)
 以下、かな文字の連鎖がもたらす複線構造による多重表現について、『古典和歌解読──和歌表現はどのようにして深化したか』の議論を援用し たいと思います。ここでもまた、「哥とクオリア/ペルソナと哥」第27章から該当箇所を、一部補修の上、自己引用します。

 ……上代の韻文は「借字」で記録されたから、清濁、たとえば「フ」(布)と「ブ」(夫)を重ね合わせる表現技法はありえなかった。ところ が、平安初期の和歌は、上代のような言語の線条ではなく、清濁を書き分けない仮名の線条であったから、たとえば、「やまたかみ つねにあらしの ふくさとは にほひもあへす はなそちりける」(山高み、常に嵐の、吹く里は、匂ひもあへず、花ぞ散りける)の第二句から第三句にかけて「しのふくさ」(忍ぶ草)を埋め込む(複線化す る)ことが可能であった。和歌の表現技巧は、聴覚よりも視覚が、音声よりも仮名が優先される。言語(音声)の線条は逆行(第五句まで読んで 遡って先行句の意味を読み取ること)を許さないが、文字(仮名)の線条ならそれが可能である。

《…[懸詞が「和歌の修辞法」と規定されるときの]修辞法[レトリック]は聴覚レヴェルの技法である。和歌の多重表現は、すくなくとも一次的 には、三十一文字の仮名の線条に基づく視覚レヴェルの技法であるから、修字法とでもよぶべきものであった、仮名の線条に埋め込まれているの は、不連続の言語の線条である。
 和歌の場合には、仮名の線条の任意の部分にことばを埋め込むことが可能であるから、何度でも読み返し、それぞれの表現を解析したうえで総合 する必要がある。したがって、当時の知識階級の人たちでも、一読して理解できるものではなかったはずである。》(『古典和歌解読』55頁)

 ここで、仮名の連鎖、文字の線条がもたらす「多重表現の極致とも言うべき和歌」としてとりあげられるのが、「おくやまに もみちふみわけ なくしかの こゑきくときそ あきはかなしき」(奥山に、紅葉踏み分け、鳴く鹿の、声聞くときぞ、秋は悲しき)で、著者によると、この三十一文字の仮名連鎖には、ひとつは「奥山に#紅 葉踏み分け」て鹿が鳴き、ついで作者が「奥山に紅葉踏み分け#鳴く鹿の声聞く」という、二種の和歌が重層的に組み込まれている。「鹿は妻を恋 うてしきりに鳴き、その声に触発されて、作者もまた、愛する女性が恋しくてたまらなくなる。作者も鹿も、同じ気持ちで紅葉を踏み分けながら、 やるせない恋に悩む。秋が切なく感じられるのはそういうときだ、ということである。」(56頁)

 ところで、こうした「言語の線条から仮名の線条への転換」は、「修字法」もしくは「字韻」(石川九楊)とよばれるべき新たな表現の可能性を 生み出すと同時に、二つの構造的欠陥を抱え込んだ。一つは、韻文の生命ともいうべきリズム[万葉集の五七調]を喪失したことであり、もう一つ は、三十一文字の仮名の線条だけで表現しきれない部分を、しばしば詞書に依存せざるをえなかったことである。
 これらの欠陥を克服したのが、新古今和歌集の和歌表現であった。まず、上の句(五七五)と下の句(七七)の二部構成を基本とする構文の操作 によって、元と末の二つの中心をもつ「五#七五(本)+七七(末)」の七五調を導入して、韻文のリズムを回復した。また、末尾に名詞を据える 言いさし形式によって、表現の完結を第三者にゆだね、また、既成の和歌と融合させる「本歌取り」を導入して、非結晶化が図られている。それ が、幽玄にほかならない。表現を完結させる必要がなくなったから、詞書への依存も解消した。……

 少し余分なところ、たとえば韻文のリズム、リズム③のレイヤーを本籍とする話題に関する議論まで引用しました。
 ここで(かなり無理があることは承知のうえで)言いたかったことは、小松氏が言う複線構造やこれに基づく多重表現をもたらす「かな文字の連 鎖・線条」こそが、形の韻をめぐる「モアレ」の現象そのものなのではないか、ということでした。少なくとも、古今集時代の和歌を成り立たせた 「かな」をめぐる現象のうちに、「モアレ」の一つの典型を見ることができるのではないか。


【32】広義の韻律的世界─ロゴス・伝導・型

 リズム③のレイヤーにおける形の韻について考察する運びとなりました。
 しかし、通常の意味での、あるいは狭義の韻律的世界は、リズム①ないし②の帯域における現象に尽きていると思います。したがって、これから 先、(リズム⓪のレイヤーにおける話題も含めて)、形・字の韻(モアレ)や音・声の韻(ライム)について述べる事柄は、いずれも広義の韻律的 世界における議論にほかなりません。──以上、形の韻らしくない話題に終始することへの事前の(自己)弁解でした

 リズム②からリズム③への移行を、一言で端的に表現するとすれば、「メロスからロゴス」へとなるでしょう。ただし、それは、歌もしくは感情 言語としてのメロスから遠く離れて、純粋な論理、無味乾燥な理路の世界に入ることを意味するわけではありません。
 少なくとも、移行の直後、すなわち言語が言語として成立した直後の「ロゴス」は、切れば血が出る「メロス」と不即不離の、というより表裏一 体の関係を切り結んでいるに違いないはずだからです。
 さらに言えば、(すなわち、メタフィジカルな実相の域にまで極まると)、ヘーゲル論理学におけるロゴスのように、この世界の「存在」(物= 自然)、「本質」(生命)、「概念」(精神)そのものを産出し、その在り様と弁証法的な推移(進化=推論)のプロセス自体を規定する力を持っ ているとさえ言えるのではないかと思います。
 第21節で引いた『月に吠える』の序文で、萩原朔太郎が、「内部の核心」である感情をリズムによって表現するのが詩である、リズムとは以心 伝心であって概念の説明ではない、と書いていたのは、リズム③における原初の(メロスと表裏一体の関係を切り結ぶ)言葉、すなわち詩の言葉の 在り様を記述したものです。というか、私はそのように解釈したわけです。
 ここで言われる「以心伝心」を、私はかねてから「伝導」という語で捉えてきました。人の心だけではなく、森羅万象にわたる普遍的な現象とし ての「以心伝心」を考えたいからです。そして、伝導を担う媒体を「伝導体」という語で捉え、詩をはじめとする文学作品や思想書、宗教書などの 言語表現物における伝導のはたらきを、自然現象を含めたより普遍的な形態における機能・作用のうちに位置づけて考えることがきないかと‘構 想’してきました。
 前口上が長くなりました。多くの論点がひかえているはずの、レベル③における形・字や音・声の韻をめぐる議論として、ここで取りあげておき たいのは、いま述べた意味での伝導体の一つである「型」をめぐる若干の話題です。
 以下、これまで何度か言及した「哥とクオリア/ペルソナと哥」第13章の話題を‘再利用’します。(第3節で触れた世阿弥の「形木」や俊 成・定家の「歌の風躰(姿)」、序破急・守破離・真行草、原型・母型といった話題、そして第22節で通りすがりに触れた「虚のリズム」や「テ レパシー的リズム」、「虚体」あるいは「エーテル体」については、他の多くの論点ともども別の機会に譲る。)

 ……岡田暁生氏は、『音楽の聴き方──聴く型と趣味を語る言葉』の第二章「音楽を語る言葉を探す」で、リハーサルで指揮者が使う「身体感覚 に関する独特の比喩」(たとえば、クライバーの「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」など)に注目 し、この「身体の共振を作り出す言葉」を、生田久美子氏の著書から借用した「わざ言語」(craft language)の概念で括っています。
(岡田氏の紹介によると、日本舞踊の伝承において師匠たちが好んで使う、「指先を目玉に」とか「天から舞い降りる雪を受けるように」といっ た、単なる身体部位の一パーツの表面的な「形」の模倣ではなく、動作の根源にある身体全体の構えとしての「型」の感覚を呼び覚ますことを目的 とした特殊な比喩を、生田氏は、『「わざ」から知る』のなかで「わざ言語」と呼んでいる。)
 そして、「音楽はいかなる感情も、いかなる情景も、絶対に表現することは出来ない」としたハンスリックの議論を紹介した上で、「だがハンス リックはこれらの記述において、まさに彼が躍起になって否定しようとしていたこと(=音楽は何かを表現する)を、極めて雄弁に肯定しているよ うに思える。つまり運動感覚を通して音楽は、ありとあらゆるものを極めて生々しく喚起するとも言えるのだ。」と書いています。
 以下、『音楽美論』(渡辺護訳)に記されたハンスリックの二つの文章(岡田氏が「これらの記述」として言及しているもの)を、岡田前掲書か ら孫引きします。

《[音楽は]感情に関して何を表現できるであろうか。ただ感情の動的なもの(dynamisch)だけである。音楽は物的な過程の運動を、早 いとか遅いとか強いとか弱いとか、上昇的とか下降的とかのそれぞれのモメントに従い模倣することができる。》

《私が雪片の降り来るさまや鳥の羽ばたきや日の出のさまを、音楽的に画くことができるのは類推的な聴覚現象、つまりこれらの諸現象に力学的 [ディナーミッシュ]な意味で似たところのある聴覚印象を私がもたらすことによってのみできる。音の高さや強さや早さやリズムを通じて耳に一 つの「形[フィグール]」が与えられる。種々異なった種類の感覚の間を互に接触することのできる類推[アナロギー]によってこの「形[フィ グール]」の印象が一定の視覚的な知覚をうるのである。》

 これを読んで、私が想起したのは、「言語はいかなる場合でも、伝達可能なものの伝達であるだけにとどまらず、同時に伝達不可能なものの象徴 でもある」、また「名前…がたんに伝達する機能のみならず、伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有していることは、きわめて確かなこと である」という、「言語一般および人間の言語について」第二五段落に記されたベンヤミンの文章、とりわけそこに出てくる「象徴」という言葉を めぐる、細見氏の解読でした。……

 運動感覚に根差した「型」、何事をも表現しない「型」、アナロジーによるフィギュール(形)の編集。──ここに描かれた「型」は、意味が受 肉(以心伝心)する器(伝導体)であるとともに、ロゴスの働きを介して「物質」が、すなわちリズム⓪のレイヤーそのものが産出される母胎 (コーラ)でもある。私はそのように考えています。(引用文中の「細見氏の解読」については、本稿第29節で引用した『ベンヤミン「言語一般 および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』の一文を参照。)


【33】広義の韻律的世界─コーラ・声字実相・身語意

 リズム⓪のレイヤー。原型的な人間たちによる根源的な表現(芸術)が立ちあらわれる場所(コーラ)、すなわち「はじまりの場所」(安藤礼二 『縄文論』序)。──そこ、つまり形而下のマテリアルな実相の世界は、空海の『声字実相義』の世界でもあります。
 以下、ここでもまた先達の議論を援用して、空海の深甚な思索を一瞥しておきたいと思います。

○『声字実相義』「釈名」の一節、「此の十界所有の言語、皆な声に由って起こる。声に長短高下音韻屈曲有り。此れを文[もん]と名づく。文は 名字に由る。名字は文を待つ。故に諸の訓釈者、文即字と云うは、蓋し其の不離相待を取るのみ。此れすなわち内声の文字なり。」をめぐる、竹村 牧男著『空海の言語哲学──『声字実相義』を読む』の解説。

《ここにも、言語は音が所依であり、その「長短高下音韻屈曲」が文(音素。母音・子音)であるとある。それ(文)は「名字に由る」とあるが、 一方、「名字は文を待つ」とあるように、言語は音の「あや」としての母音・子音に基づくものであることを述べているであろう。ここではまだ、 字は音ではない視覚の対象(色境)の文字をも意味するとは考えられていない。字も音としての母音・子音であって、文と字とは、要は同じものの 別の名前と見るべきものである。そこで訓釈者は、「文即字」と言っているわけである…。ここで空海は特に「内声の文字」と言っていて、個体 (衆生等の身心)が発する音声の母音・子音のことであると言っていることにも注意を要する。》(『空海の言語哲学』50頁)

 ──「字(文)」は音の「あや」すなわち「長短高下音韻屈曲」である。すなわちリズム⓪のレイヤーにおいては、モアレとライムは同じ一つの ものである。

○前田英樹著『言葉と在るものの声』における、「声字実相」と「如来の三密」の関係をめぐる議論。

・大日如来は「三密」の働きそのものとして在る。「「三密」のなかには一切の根底が、潜在性を極めるものがあり、その働きが如来という実体に ほかならない。「三密」は、「身」「語」「意」の三つの等しい「密」、すなわち潜在性で成り、これら三つはこの世の「六塵」となって顕われて くる。」「如来の「身」は「語」を発し、「語」は「意」を帯びて「文字」を顕わす。これらは三つにして、ただひとつの潜在的働きである。」 

・「三密」は「文字(もんじ)」となって顕われ、「六塵」(色塵、声塵、香塵、味塵、触塵、法塵)に現働化する。「ここで彼[空海]の言う 「文字」は通常のそれをはるかにはみ出している。(略)生きている者にとって、六塵、すなわち五種の知覚対象と思考されるその諸関係は、さま ざまな「文字」となって顕われざるを得ない。それらは、生きて行動する者に対して意味を持ち、何らかの解釈をいやでも迫らずにはいないから だ。したがって、こうした「文字」は、パースの言う「記号」の概念に極めてよく通じるものだと言える。」

・「如来の「三密」は、身、語、意が一体となった潜在性の働きのことだった。「声字実相」とは、この一体の働きがそのまま現働化して在る態 [さま]を言う。「声」はすなわち「語」の働き、「字」は「意」の働き、「実相」は「身」の働きを言い、「声字実相」三つの働きが、同時に互 いを支え合っていなければ、「三密」は顕われず、衆生は救われない。」

・「最も潜在的な宇宙の身体が、人の言葉(「文字」)を通して自己を明かす。如来の「声」は、人が用いる「文字」となってみずからの「身密」 を、「実相」を表現する。「声字実相」とは実にこのことを言う。
 空海のこうした考えは、宗教的であると同時に、極めて詩人風なものだ。詩人とは、宇宙の身体が、彼をして語らしめる機会を持つ人間のことで なくて何であろうか。」

【身密】
  この宇宙で最も潜在的なもの、潜在的質料の全体=「実相」
【語密】
  如来が持つ潜在的な言語能力、ランガージュ
  =「声」(記号活動の力)
【意密】
  記号が持つ潜在的次元の働き、六塵を通して「文字」へと現勢化するもの
  =「字」(パースの言う「記号」の概念)

 ──かくして空海の「字」が記号の分類をめぐるチャールズ・サンダース・パースの「驚くべき」(前田氏の評言)思考へと接続される。


【34】結─世界の根源的な三重性と身体の二重性

 狭義もしくは固有の韻律的世界(リズム①②のレイヤー)、および広義の韻律的世界(リズム⓪③のレイヤー)をめぐる概観と粗描の作業は、前 回をもって終了しました。
 多くの話題や論点を、その一部は意図的に放置したし、また、広狭二義にわたるライムとモアレの各レイヤーにおける相互関係をめぐる系統的な 分析も手つかずのままです。せめて最後に、結論ならぬ「結」の括りのもと、韻律的世界全体にまたがる体系的な考察の手がかりだけでも残してお きたいと思います。

 前回引用した議論のなかで、前田英樹氏は、空海の「声字実相」における「字」もしくは「文字」が、パースの「驚くべき」記号論に通じてい る、と指摘していました。このことについて、引き続き『言葉と在るものの声』に拠って、いま少し掘り下げてみます。

 ──パースは私たちの心に現われるもの(現象)には三つのカテゴリーがあると言う。第一、他のものと無関係に「それ自体において存在できる もの」。たとえば「花の香り」のような潜在的な「情態の性質(Quality of Feeling)」。第二、あるものが他のものと関わってできる存在様式。たとえば「反応(刺激/反応)」。第三、二つのものを(諸規則、法則、因果関係 などによって)結び付ける三つ目の要素。たとえば「記号・対象・解釈項」の三項関係からなる「記号過程」における「解釈項」。

「ある「情態の性質」が感覚にやって来るとしても、その「性質」自体は感覚と同じではない。「性質」は「第一次性」に属し、感覚された「事 実」は現象の「第二次性」に属する。「性質」は作用/反作用、刺激/反応といった関係を一切含まない潜在的な流動だが、「事実」は経験のなか に現われ、経験が衝突する個物、個体、現実対象として立ち塞がってくる。」(94頁)

「それは、胸いっぱいに吸い込まれる花の香りのように、どこからかやって来て、私の身体に流入する。この時、私の身体は抵抗せず、反応もせ ず、花の香りそのものとなって流れる。花の香りという「情態の性質」が潜在的であるように、私の身体もまたその香りと共に潜在的なものになっ ている。
 ところが、私の身体が花の香りを外からの刺激として捉え、反応し、行動する時、私の身体は諸器官を具えたシステムとして個体化し、花もまた 私の行動の対象として個体化してくる。現象の「第二次性」が、すなわち単なる「性質」ではない「事実」の領域が、ここに生じる。」(95頁)

「潜在的な流動性である「第一次性」は、相反作用を持つ二項関係としての「第二次性」に現働化する。このような現働化は、この世界が生命的な 本質によって貫かれていない限り、起こるものではない。(略)同じように、「第二次性」は、そこから現働化する「第三次性」との性質の差異を 通して、その次元に固有の潜在性を持つと言える。たとえば、声を聞くこと、いかなる意味も解釈も交えることなく、声を聞き、生の反応を引き起 こすこと、この状態は、現働化した「第三次性」から見れば紛れもなく一種の潜在性を示していて、もはや記号によっては正確に捉えられない。
 したがって、「第二次性」がその性質を完備できるのは、「第三次性」の現働化を通してである。「第一次性」と「第二次性」とが、生命的な本 質を通して不分離なものであったように、「第二次性」と「第三次性」とは、言わばあらゆる生き物の経験を通して不分離なものになる。パース が、経験一般における「推論」の役割をあくまで強調し、「直観」の存在を否定するのは、現象の「三つのカテゴリー」が持つこうした差異と連関 とを深く信じているからである。」(99-100頁)

「皮膚が知覚しなければ、〈この風〉という、私の身体に現働化した唯一の対象はない。そうした個物だけが、現象の「第三次性」のなかに入り込 み、記号の表意作用を持つことができる。純粋な性質としての風だけではだめなのだ。風は身体の抵抗となり、個物化され、〈この風〉にならなく ては、記号へと昇格することはできない。「第三次性」は、「第二次性」を経由しなくては「情態の性質」である「第一次性」を取り込むことはで きない。言い換えれば、生き物の解釈に満ち満ちたこの世界には、根源的な三重性があり、記号はすでにそのなかに〈生の二重性〉[=身体におけ る「第一次性」と「第二次性」]を含んでいる。」(101頁)

 ──前田氏の読解は、パースの思索が「驚くべき」ものであることに充分拮抗しうる域に達していると思います。この書物から汲み取るべきアイ デアは尽きませんが、ここでは、以上の抜き書きを通じて浮き彫りになった、パースによる「現象の三つのカテゴリー」と、前田氏によるその拡張 版、すなわち生命的世界の根源的な三重性と生=身体の二重性の議論を、広狭二義の韻律的世界のうちに、若干の私的拡充を施したうえで、落し込 んでおきたいと思います。断りなく導入した「第零次性」については、次回触れます。

     [メタフィジカルな実相]

      【第三次性】リズム③ 

    ──────↑──────

      【第二次性】リズム②

 [字]━━━━━━↑━━━━━━[声]

      【第一次性】リズム①

    ───────────── 

      【第零次性】リズム⓪

      [マテリアルな実相]


【35】結─韻律的世界から推論的世界へ、伝導体へ

 パースによる「世界の根源的な三重性」の原理は、記号の三つの──それ自体で捉えられ(第一次性)、対象を持ち(第二次性)、解釈される (第三次性)──在り方に及びます。そして、そのそれぞれのレイヤーにおいて三種類の記号を成り立たせ、計九種類に及ぶ記号分類をもたらすの です。
 以下、前田英樹著『言葉と在るもの』の議論を縮約します(103-104頁)。

1.それ自体で捉えられた記号の在り方
 ① 性質記号(qualisign):声が潜在的に持つ「質」の流れ
 ② 個物記号(sinsign) :記号として発せられる私の声
 ③ 法則記号(legisign) :私の声が言語的に獲得する同一性・一般性

2.対象との関わり(表意作用)で捉えられた記号の在り方
 ① 類似記号(icon)   :肖像写真が一人物の記号となる場合
 ② 指標記号(index)  :黒雲が雷雨の記号となる場合
 ③ 象徴記号(symbol)  :「禁煙」の文字が特定の命令の記号となる場合

3.推論や解釈との関わりで捉えられた記号の在り方
 ① 名辞(rheme)    :ある物を「A」だと名指す
 ② 命題(dicisign)   :「AはBである」と断言する
 ③ 論証(argument)   :「AがBであるのは真である」と言明する

 ここで注目したいのは「第二次性」の記号の在り方にかかわる三つの記号、すなわち「イコン」「インデックス」「シンボル」です。
 瀬戸賢一氏は『認識のレトリック』で、「メタファー(隠喩)」「メトニミー(換喩)」「シネクドキ(提喩)」による「認識の三角形」のアイ デアを提唱し、これをパースによる記号の三分法と対応させて、「メタファー=イコン:類似関係」「メトニミー=インデックス:隣接関係」「シ ネクドキ=シンボル:包摂関係」の三つ組へと展開しています。
 私は、そこに、第四の比喩形象として「オクシモロン(逆喩もしくは撞着語法)」あるいは「アイロニー」を、また、第四の記号として「アレゴ リー」もしくは「マスク(仮面記号)」なるものを導入して──すなわち、「第四次性」もしくは「第零次性」と名づけることができる現象の第四 のカテゴリーを創設して──、独自の「認識の四角形」を打ち立てることができないものかと思案してきました。
 さらに、これもまたパース由来の、「ディダクション(演繹)」「インダクション(帰納)」に次ぐ第三の「アブダクション(洞察≒洞窟的推 察)」、そして私が勝手に考案した「プロダクション(生産)」の四つの推論の形式を加えて、第32節で触れた「伝導体」(≒「認識の四角 形」)の理論を構成するエレメントとして位置づけてることを考想してきました。
 ちなみに、私の「理論」において、「伝導」すなわち「コンダクション」は。推論の第五の形式[*1]にあたるもので、現時点での直観が告げ るところによると、それは、狭義の韻律的世界に対して‘上方’(第三次性の彼方)から「意味」を注入し、‘下方’(第一次性の根柢、あるいは 第零次性の次元)から「存在」(=力)を噴出させる、広義の「韻律」のはたらきを表現する概念にほかなりません。

 ずいぶん話が混沌としてきました。韻律的世界の実相もまだよく掴めていないうちから、仮面記号や推論の第五の形式や伝導体の概念まで持ち出 して、茫洋たる世界に足を踏み入れてしまったので、このあたりで筆を擱くことにします。[*2]

[*1]「哥とクオリア/ペルソナと哥」第7章からの自己引用(一部加工)。

 ……伝導[conduction]とは、帰納[induction]や演繹[deduction]や洞察[abduction]や生産 [production]に次ぐ、「推論」の第五の形式のことです。
 アブダクションとは、かのパースに由来する推論形式。プロダクションとは、たとえば、芸術に関する理論や理念について多くを語るより作品一 つ創ってみせる、あるいは、生命誕生の機序を云々するより人工生命を現に造ってみせる、もう一つ例を挙げると、天地創造は神の思惟=推論の具 現である、といったかたちで遂行される推論のことで、これは私のオリジナル。
 また、振る舞い[conduct]という語との音声的な隣接関係のもとにあるコンダクションは、他の四つの推論形式と相並ぶものというより は、それらを総括したものなのではないか、というのが私の仮説。
 ここでいう「推論」とは、概念操作または言語活動としての(狭義の)推論のことだけではなくて、時空構造を織り込んだ物質世界(宇宙)や生 物の進化、精神世界における(言語以前の、もしくは言語の外における)観念の運動、はては、神の存在の直観、あるいは、永井均氏の「独在性の 〈私〉」の実在をめぐるメタフィジカルな論証、等々を含めた、およそ物質と生命と精神と意識、つまり森羅万象の存在者の運動全般をつかさどる 理法(ロゴス)のようなものをさしています。
 実は、先に取り上げた「比喩」や「記号」もまた、これと同じスケールで考えるべきものでした。そうであるならば、「認識の四角形」のうちに 推論の五つの形式をはめこみ、大きくいえば、世界の存在様式ともいえる「存在の五角形」のごときもの──「意味」と「存在」を「生産・貯蔵・ 流通・変形・消費」=「推論(最高義)」する媒体すなわち「伝導体」──を仕立てあげることだってできるはずです。……

[*2]本文で述べた「伝導体」の理論のラフスケッチ。

【第三次性】
 ・記号:象徴記号[SYMBOL]
 ・比喩:提喩[synecdoche]
 ・推論:演繹[deduction]:A∨B

【第二次性】
 ・記号:指標記号[INDEX]
 ・比喩:換喩[metonymy]
 ・推論:帰納[induction]:A∧B

【第一次性】
 ・記号:類似記号[ICON]
 ・比喩:隠喩[metaphor]
 ・推論:洞察[abduction]:A⇒B

【第零次性】
 ・記号:仮面記号[MASK]
 ・比喩:逆喩[oxymoron]
 ・推論:生産[production]:¬A=A