「さまざまなキレハシ」(2005-2015)



☆2005

★4月2日(土)

 せっかくの休みがあっという間にすぎていった。五時間ほど映画を観ているうちに一日が終わってしまった。『仁義なき戦い』の第二弾「広島死闘 篇」もよかったが、『悪名一番』がとりわけよかった。シリーズ第八作で、最初から順番に観てきてこのところややマンネリ気味だったのが、東京篇で がぜんよくなった。最後に観た黒澤明の『どん底』の群像劇は鮮烈だった。

★6月13日(月)

 奈良の「万葉文化館」へ行った。所在地は明日香村飛鳥10番地。展望ロビーから耳成山と香具山を見た。この地にはたぶん学生の頃に来たことがあ るのではないかと思うが、明晰な記憶がない。どこにでもある山里の風景なのにどこか余所とは違う独特の雰囲気が漂っていた。「懐かしい未来」とい うのはこういう感覚のことなのだろうかと思った。

★6月24日(金)

 コンフェデレーションズカップのブラジル戦は興奮した。惜しかった。テレビで某キャスターが「でもブラジルはベスト・チームではなかった」など と間抜けなコメントをしていたのには呆れた。自分の力で勝ち取った引き分けでもないのだから素直に感動を表現すればいいものを妙な「批評心」を発 揮してケチをつけるなど勘違いも甚だしい。

★7月9日(土)

 今日から神戸市立博物館で「ベルリンの至宝展」が始まった。東京で見逃したので早速足を運びたいと思ったけれど、初日の混雑が予想されたので県 立美術館で今月いっぱいまでやっている「ギュスターヴ・モロー展」を見に行った。サロメを題材にした「出現」とか「エウロペの誘拐」などの大作や 数点の習作を堪能して至福の時を過ごした。絵葉書を6枚買った。


★8月5日(金)

 映画を四本観た。中平康監督の『狂った果実』(1956)。あのフランソワ・トリュフォーが絶賛し、かのヌーヴェル・ヴァーグの先駆けとなった 作品(だそうだ)。そういう先入観があったからかもしれないけれど、映像はとても懐かしくて(イマドキの映画ではたぶん味わうことができないだろ うという意味で)斬新。裕次郎はイマイチ。岡田真澄がいい。北原三枝(のエロティックな肢体)がいい。続いて『猟奇的な彼女』を観た。『僕の彼女 を紹介します』もよかったけれどこの前作もかなりいい(それにしても映画体験を語る語彙の貧困にはわれながら嫌になる)。続いてヒッチコックの 『裏窓』を観た。加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』を読んでから観ると、なるほどセールスマンによる妻殺しが本当にあったことな のかどうか映画だけでは判断できない。それ以上にこの作品にはまだまだ汲み尽くせない謎がいっぱい仕掛けられている。続いてヒッチコックの『レ ベッカ』の前半を観た。傑作の予感。

★9月9日(金)

 東北大学の大見忠弘教授の講演を聴いた。以前東京であった講演の記録を読んでいたので格別新しい情報はなかったけれど、肉声と肉顔に接しながら 聴くとさすがに迫力がある。基礎研究から実用化までのプロセスをリニアにではなく産学官連携の「ターゲット・ドリブン」方式で進める。これは組織 経営から個人の仕事にまで応用できる。会場からの質問への応答が面白かった。「日本にこれまで金融があったんですか」。深い絶望としなやかな楽 観、怒りと情愛が複雑に同居した人物。「週刊新潮」にスキャンダル記事が出ていたが、あれはかえってこの人の「奥深さ」を語っている。講演の前、 昼食を共にして、会場の片隅の喫煙コーナーでも立ち話をした。いまやっていることが世界初のことなのかどうか気になって、一刻が惜しいんですよ。 記憶がはっきりしないが、紫煙のなかでこの人はたしかそんなことを口にした。

★9月15日(木)

 東京であったセミナーに参加して、毎日新聞社特別編集員の岸井成格さんの講演を聴いた。演題は「政局大激動」。あまりにもタイミングのいい企画 で、いつになくギャラリーは多い。地殻変動とも形容すべき自民党の圧勝をもたらした「小泉旋風」とは何だったのか? ポスト総選挙の政局の動向 は? この二つのテーマで質疑応答を含め約2時間。最前列で聴いた。

 小泉自民党の勝因は第一が郵政民営化の争点化に成功したこと(分かりやすい争点の設定)、第二に首相が直接国民の意思を問うたこと。殺されても いい、国民の意見を聴きたい。首相にここまで言われて国民は応えないわけにはいかなかった。その背景に「制度の特質」がある。この言葉が今回の講 演のキーワード。制度とは小選挙区制度のこと。その特質は巨大政党に有利な選挙制度であること。したがって二大政党制を導きやすいこと。その帰結 が政権選択であり、総理の選出である。つまり事実上の首相公選制。今回の選挙は、政治改革十年余にしてこの小選挙区制度の特質がいかんなく発揮さ れた。ということは、次の総選挙で民主党に風が吹くこともありうるわけだ。

 これ支えた最大の要素が「無党派層」の存在。小泉純一郎はそれを「宝の山」と呼んだ。従来の支持母体を切って、都市周辺のサラリーマン夫婦を ターゲットにする。これをまともにやったのが変人・小泉だった。自民党が選挙で負ける3つの条件(投票率のアップ、分裂選挙、シングル・イッ シュー)が全部そろったにもかかわらず大勝するという、これまでの常識をくつがえす結果が生まれた理由である。それともう一つ。小選挙区制下の政 党政治は中央主導であるべき。反対派の公認剥奪も「くノ一」刺客(この言葉の生みの親は岸井さんだった)も政党政治ならば当然のことで、変人はそ の当然のことをやっただけ。小泉は女性的である、だからあれほど非情になれたという見方もある。

 今後の政治日程。権力闘争は決着がついた。野中が完璧にやられ、亀井も死に体。小泉の一人勝ちである。ポスト小泉の動向については慎重にならざ るを得ない。なにしろ変人、何をやるかまったく想定できない。11月15日の紀宮成婚後、突然辞任して靖国に参拝するかもしれない。そうなると福 田の線も出てくる。無難なところで麻生、谷垣。安部は次の次か。いずれにせよ次の組閣が注目される。幹事長、財務相、外相あたりがポイント。来年 の通常国会以降、社会保障制度全体の見直しとこれに連動する消費税問題が争点化されることを考えると厚労相も重要になる。安部厚労相の線もありう る。

 と、メモを書き写したが、これではあの臨場感を再現できない。肉声、肉顔のいかに情報量に富んでいることか。それに、死んだふり解散(中曽根) やハプニング解散(大平)や細川政権誕生前後の政治改革の動向など、そう言われるとつい昨日のことのように思い出すここ二十年ほどの現代政治史に 関することがらを一切省いてしまった。これでは表面的に流れる。政治は人である。政治は歴史である。これはただそう書いただけのこと。

★9月17日(土)

 夜『ビューティフル・マインド』を観た。これは老年の素晴らしさを讃えた映画だ。ジョン・ナッシュのノーベル賞授賞式でのスピーチは感涙もの。 リーマンの名前が二度出てきた。嬉しい。DVDのボーナスにカットされた映像が監督の解説つきで収めてあった。実に面白い。ここ [http://coda21.net/eiga3mai/text_review/A_BEAUTIFUL_MIND.htm]にある「テキス トによる映画の再現」レビューはとても便利。

★9月26日(月)

 一昨日『セロニアス・モンク THELONIOUS MONK STRAIGHT NO CHASE』を観て、久しぶりに1枚だけ持っていたモンクのCDを聴いた。モンクを聴くのが久しぶりだという以上に、そもそも音楽を(何か他のことをしな がらではなく)聴くのが実に久しぶりだった。音楽を聴くのは文字を読むのとは違う体験である。そんなあたりまえのことを忘れかけていた。

 東芝EMIの『ベスト・クラシック100』を買った。CD6枚組みで「超有名曲」のさわりを100曲、7時間分収録したオムニバス。『ベスト・ ピアノ100』や『ベスト・モーツアルト100』も出ていた。先日東京でお会いした山瀬理桜さん(ハルダンゲル・ヴァイオリニスト)の『クリスタ ル ローズ ガーデン』も目について大いに迷ったが、これは(心を鬼にして)次回にまわすことにして初志を貫徹した。

 楽曲の一部だけをパッチワーク状につなぎあわせたCDなど、一昔前だと絶対目もくれなかったと思う。小林秀雄が『音楽について』(新潮CD)の 中で語っている言葉を聴いて心を入れ替えた。というより音楽というものに対する考え方、感じ方がガラッと変わった。(丸谷才一さんの詞華集を軸に した日本文学史の説に説得された目で、いや耳で聴くと、この西洋音楽版「百人一首」の部立て、配列、趣向がどう響くか。)

《どっかの温泉場でもってラジオでショパンのマズルカが鳴ってきたとする。三小節ぐらいで僕はあっショパンだとわかる。後はよく聞こえなくても とっても楽しいんです。感動をちゃあんと受ける。これは中から来ている感動ですよね。ちょっとした音のきっかえさえあれば後は全部埋めることがで きる。この音のきっかけがなきゃおそらくないね。これは不思議なことだ。全部聴いているわけじゃないけど聴く以上のものはちゃんとある。僕にはハ イドンを聴いた記憶がある。モーツアルトを聴いた記憶もある。で今度はベートーヴェンを聴こうと思うからベートーヴェンの音楽がちゃんと聴こえる んだ。これは歴史じゃないか。音楽というのは文学と同じように伝統と長い歴史があってそれを追わなければ絶対理解できない。音楽というものは歴史 をしょった実に難解な意味なんだよ。音ではないんだよ絶対に。》

★10月8日(土)

 押井守の『イノセンス』と浦山桐郎の『キューポラのある街』を観た。『イノセンス』の映像にはしばしば息をのんだが、つづけて観た昭和37年封 切の『キューポラのある街』の白黒の画像の前にすっかりかすんでしまった。くらべる方がおかしい。

★10月9日(日)

 東京で見損ねた『ベルリンの至宝展』を神戸市立博物館に見に行く。明日が最終日。それなりに人が多くて、じっくり時間をかける余裕がなかった。 「祭壇の浮彫:太陽神アテンとアクエンアテン王の家族 前1345年頃」「アプリア製渦巻型クラテル:巨人族との戦い(ギガントマキア) 前350‐前325年」「サンドロ・ボッティチェリ“ヴィーナス” 1485年頃」の三枚の絵葉書を買って、小一時間ほどで会場を出た。クルト・シュテーフィングの肖像画「フリードリッヒ・ニーチェ」(1894年)がよ かった。

★11月22日(火)

 昔、夢日記をつけていたことがある。幼い頃住んでいた家や地域の風景など繰り返し同じ夢を見ることが多くて、それが本当にそうなのか、それとも 何度も同じ夢を見るという想い(体感)とともに一つの夢を見終わっただけのことなのかを確かめたいと思った。結局、確かめることはできなかった が、夢日記をつけるのは、同じ文章を書く経験でも昼間の冴えた頭(あくまで睡眠時との比較の話で、私の頭がふだん冴えているといいたいわけではな い)で書くのとはまるで違う。躰の奥底に沈殿している発生期の言葉を、それにまとわりつく具体性を帯びた観念群や微妙な体感とともにまるごとサル ベージしていくこと。それがうまくいったときの快感はくせになる。(また始めようか。「不連続な夢日記」とか。)

 夢は脳が記憶を編集している時に見るものらしい。根を詰めて文章を読み書きし、ほてった頭のままで眠ると、活字が出てくる夢を見ることがある。 先日の夜など、一篇の短編小説のあらすじを悪戦苦闘して考えていた。退職間際の高校の漢文教師。妻には十年前に先立たれ、一人息子は幼い頃に亡く した。貿易商をやっている恰幅と実入りのいい友人がいる。「女友達」の有閑未亡人と画策して、男にある女性を紹介する。独身の書道塾師範。初老の 男女の合コンというわけだ。なかなか進展しない漢文教師と書道師範。友人とその女友達の誘いを受けて、四人で鎌倉に一泊二日の旅行に出かける。そ の夜、男は女にその半生を語る。女は……。

 また別の日の夜中、もどかしい身体感覚とまとまらない言葉とがからまりあった奇妙な夢にうなされ、身もだえしながら目覚めた。何かの文章を懸命 に考えているのだが、「ナダ、ナダ、ナダ」と不気味な音がどこかから響いてきて、思考がまとまらないのだ。この「ナダ、ナダ、ナダ」には出典が あって、その前日に読んでいた柳田邦男さんの『言葉の力、生きる力』にヘミングウェイの短編「清潔で、とても明るいところ」からの一文が引用され ていた。「おれは気づいている、そう、すべては無[ナダ]、かつ無[ナダ]にして無[ナダ]、かつ無[ナダ]なのだと。無[ナダ]にましますわれ らの無[ナダ]よ、願わくは御名の無[ナダ]ならんことを……」(“nada”はスペイン語で虚無を意味する)。この二つの夢は実は私の中では一 つにつながっているのだが、これはあまりに個人的な事柄なので省く。

 ナダつながりではないが、先の土曜、JR灘駅の南方にある兵庫県立美術館に『オランダ絵画の黄金時代 アムステルダム国立美術館展』を観にでか けた。ここ数年、コンサートやスタジアムやシネマに出かけることはほとんどないけれど、(時おり招待券を入手する細いルートがあることもあって) 各地の美術館にはほぼ季節ごとに出むいている。

 アムステルダム国立美術館は現地で訪れたことがある。仕事で北欧にでかけた際に立ち寄り、一日のオフを最大限活用して、風車、国立美術館、ゴッ ホ美術館、コンセルトヘボー=コンサートホール(残念ながら出演は「王立アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団」ではなかった)と歩き回っ た。スピノザの生家(ユダヤ人街)にも立ち寄りたかったが、事前の調査不足ゆえ断念。

 美術館に出かけるとき、ジャケットの内ポケットにしのばせて往復の車中で読む薄い本(150頁から200頁程度の文庫本)の選択に迷い、スピノ ザの『エチカ』(岩波文庫の上巻)にいったんは決めたけれど、最後で別の本にとりかえた。『オランダ絵画の黄金時代』はよかった。たった1枚だけ のフェルメールや数枚のレンブラントもよかったし、肖像画や風景画もよかったけれど、とにかく静物画がよかった。じっと見入っていると心があらぬ ところにいってしまいそうになる。あまり長時間見入っていると、帰ってこれなくなる。で、小一時間ほどでさっと一通り眺め(会期中、あと2回ほど は観ることになるだろう)、美術館の近所にあるJICAの食堂で遅い昼食をすまし、サンパルにあるMANYOで古本二冊と三宮のジュンク堂で新刊 書一冊(アントニオ・R・ダマシオの『感じる脳──情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ[Looking for Spinoza]』)を買って、元町の大丸で一目見て気に入ったハーフコートを買って、あたたかい気持ちで帰宅した。

★11月24日(木)

 今日、兵庫県立美術館で催事があって、夜、館長の木村重信さんも含めた懇親の機会があった。岩波新書の『はじめにイメージありき──原始美術の 諸相』はかつての愛読書で、ぜひ著者のサインをいただきたいと思っていたのだが、あいにく手元においてなかった。かわりに中公新書の『ヴィーナス 以前』を持参したけれど、まだ読んでいなかったのでこれは遠慮しよう。と思っていたけれど、結局サインをいただいた。「これは力を込めて書いた本 なんですよ」とのこと。(書名を『ヴィーナス誕生』と言ったような気がする。酔っていたのでよく憶えていない。)

★12月3日(土)

 「臨床仏教カウンセリング協会」[http://www.geocities.jp/bukkyoucouncelling/]というのがあ る。定款を見ると第四条に「本会は、「臨仏カ」に関連して、次の活動を行う」と書いてある。「臨仏カ」とは面妖だが仏の力の臨在を思わせる力強い 言葉だと感心していると、これは「臨床仏教カウンセリング」の略称で「力」はカタカナの「カ」だった。そのホームページを見ていると、NHKの 「ニュース10」(2004年9月20日放送)で紹介された「健康長寿・日本一の秘密」が掲載されていた [http://www.geocities.jp/bukkyoucouncelling/fl-kunou/fl-roujin/nhk- 0920.htm]。「山梨大学医学部の山縣然太朗教授は、「どうして山梨県は健康寿命が長いのか」アンケート調査によって分析研究した。その結 果、興味深い結果がみられた。……」 

 昨晩、その山縣教授を招いた私的な講演会「山梨県の長寿の秘訣」[http://www.indranet.jp/jinsha /051202yamagata.html]が神戸であった。主催者から「面白いよ」と声をかけられていたので参加した。講演には間に合わなかっ たが、質疑応答と引き続きの懇親会に顔を出して深夜までつきあった。仕事でやつれていたけれど、午前様で帰宅した時分にはすっかり元気になってい た。

 山梨には無尽(講)という互助組織の伝統が残っている。無尽を楽しむ人のADL(生活活動能力)が高いことが疫学的に立証されたのだという。山 縣教授が用意されたレジュメ(パワーポイント原稿)にはこう書いてあった。

・金銭の融通を目的として、一定の期日ごとに講の成員があらかじめ定めた額の掛金を出し、所定の金額の取得者を抽選や入れ札などできめ、全員が取 得し終わるまで続けること。鎌倉時代に成立し江戸時代に普及した。現在でも、農村を中心として広く行われている。無尽。頼母子講。
・山梨では「定期的な会合、食事会、飲み会」として、現在でも盛んにおこなわれている。
・沖縄の「模合(もあい)」など全国に残っている。
・「無尽」は、山梨県で今も盛んに行われる人付き合いの形態であり、社会的ネットワークのひとつの形である。仲間と健康の話をしたり、世の中の話 をしたりして無尽を楽しむことも健康寿命延伸に寄与すると期待される。

 山梨では一人で複数の無尽に入っていることはざらなのだそうだ。気心の知れた仲間内の集まり、単なる飲み会との違いはいまひとつ実感として判ら ないが(でも昨晩のような飲み会が無尽の楽しさなのだとしたら、それが健康寿命につながることは体感で判る)、社会的にも経済的にも認知されてい るらしい。「今日は無尽ですから早く帰ります」といったことが官民の組織で通用するし、たとえば甲府湯村温泉のホームページ [http://www.yumura.com/news/pr/mujin.htm]などを見ると、「無尽会幹事さん」向けに「無尽会専門プラ ン まわる湯村の厄除け無尽手形」という年間予約のコースが用意されている。
 会場からの質問に答えて山縣教授が、「無尽の基本は閉鎖性なんです、何年暮らしてもよそ者(山縣教授は山口県出身)にはなかなか声がかからな い」と発言をされたのが印象に残った。懇親会で、メールは便利だがチェックに2時間もかかると「なんだこれは」と思うといった話題になったとき、 おおよそ次のようなことを話した。

 すでに人間関係ができている人とのメールのやりとりはとても重宝だ。それは無尽の閉鎖性とも関係する。ネットの世界で認証システムが課題になっ ているように、社会関係でも完全にオープンなシステムはとても危険だ。そこで必要なのは承認システムではないか。マズローの欲求五段階説では最後 の自己実現欲求がよく(皮相に)とりあげられるが、実はその一つ前の承認欲求の方が重要なのではないか。(これは太田肇さんの『認められた い!──がぜん、人をやる気にさせる承認パワー』[http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/NIKKI3 /285.html]の受け売り。余談ながら、この承認の問題をドイツ観念論に遡って考えると面白い。)

 承認欲求は相互性をもっているはずで、他者を承認したいという欲求もある。同郷のよしみであれなんであれ、人は偶然の一致にかこつけて他者を承 認(信用)したがっている。それが、閉鎖性をもった社会がその閉鎖性を守りながら他者を受け容れる際の口実、方便になる。閉じつつ開く仕掛けに なっている。閉じつつ開いているのは躰も同じこと。この中間性、偶然性がネットワークの本質なのではないか。閉じつつ(偶然を奇貨として)開き、 開きつつ(承認のルールを守って)閉じる中間性。


☆2006

★1月7日(土)

 録画していた「NHKニューイヤー・オペラコンサート」を眺めながら午睡をとり、ヒッチコックの『汚名』と『白い恐怖』を観た。この二つの映画 に出演しているイングリッド・バーグマンの美貌に痺れた。精神分析による殺人事件の解明をあつかった『白い恐怖』が面白かった。犯罪場所と真犯人 特定のきっかけとなる夢のシーンは、サルバドール・ダリが担当したもの。
 なぜアリシア(バーグマン)はデヴリン(ケーリー・グラント)の提案を受け入れ、諜報活動に従事したか(『汚名』)。なぜコンスタンス(バーグ マン)は殺されたエドワード博士を自称する男(グレゴリー・ペック)に惹かれたのか。あとでスラヴォイ・ジジェク監修『ヒッチコックによるラカ ン』の該当個所に目を通した。ひどいものだった。というか、よく判らない。

★2月21日(火):「ヒボコ」

 先週の土曜(18日)の晩、西宮にある県立芸術文化センターの大ホールでミュージカルを観た。日本ミュージカル研究会主宰の高井良純氏が作・作 曲・演出した「ヒボコ 天日槍物語-水と炎と愛の伝説-」。この作品は、以前も別の劇場で観たことがある。木の香りがあたりいっぱい漂っている真 新しい会場で、最初のうちは睡眠不足(このところ、ナポレオン級の睡眠時間しかとっていない)ゆえの眠気にしばしば襲われながら、そのうち、なに ゆえにかにじみ出てくる涙のごときもの、フィナーレでは思わず嗚咽しそうになりながら見終え、気力充実して帰宅した。体力はあいかわらず最低最悪 だが、実にいいものを観た。

 演劇であれ舞踏であれ音楽であれ、舞台芸術を観ていると、最初のうちは必ず冷ややかな批判的気分が蔓延している。それほど経験を積んでいるわけ ではなく、見巧者どころか超がつく初心者でありながら、頭だけがでっかくなって、あら探しのようなことばかりしている。ところが1時間ほど経った あたりからそういう賢しらな気分がしだいに薄れはじめ、終演まぢかのクライマックスを迎えると今度は目も当てられないくらいに高揚して、最後はな かば放心してしまう。冷静さを失って、なんでも受け入れられるし、受け入れたい気持ちになってしまう。うまくいくと、躰と頭と心と魂が更新され て、生まれ変わった人間として劇場をあとにする。ナチスの時代のドイツに生まれていたら、きっと熱烈なヒットラーびいきになっていたのではないか と自分を疑う。

 舞台芸術に接したあとは、きまってつづけて観に行きたくなる。毎月一度くらいは通いたくなる。DVDやビデオで観る映画、CDで聴く音楽、録画 して観る演劇やスポーツでは味わえない、躰の中から勝手にわきあがってくる情緒と情感の質と味わい(要は感動)が忘れられない。しかし、数日経つ とすっかり元にもどってしまう。祝祭的高揚は、日々の些事にかまけているうち、ビット数のレベルを対数的に落としてしまう。なんどもくりかえしコ ピーしていくうち画像の鮮度が落ちていくように、気持ちの濃度が薄まってしまう。

★5月27日(土)

 このところ毎晩のようにヒッチコックの映画を観ている。なるべく安いDVDの新品を探して、全部で53ある長篇作品をひととおり揃えようと、こ れまで少しずつ買いためてきたものを順不同で観ている。いま現在、25のタイトルが手元にある。一番安く買ったのは、百均のダイソーからでていた 『第3逃亡者』と『サボタージュ』で、これはどちらも税込み315円で入手した。

 映画や音楽やスポーツについて語る語彙も発想も貧困なので、感想はなにも書けない。ただただ画面を眺めて時間を潰しているだけのこと。それだけ で十分に楽しい。古い映画には、つねに新鮮な発見がある。(それを具体的にいうとどういうことか、と問われても困る。なにしろ映画の体験は、私の 場合、言葉にならない。)トリュフォー・ヒッチコックの『映画術』など、関連の書物も徐々に買いためているが、なにか一つヒッチコック論か映画論 でも書こうかといった野心があるわけではない(いまのところ)。

 DVDで映画を観るなど邪道だ、といわれるかもしれないが、別にいわれても構わない。それはもはや映画ではない。ならそれでいい。私は映画では ないものを観て愉しんでいるのだ。それに、映画館では味わえない楽しみ方もある。その一つが、静止画の取り込み。たまたま使っているソフトに、そ の機能がついていて、気になった画面をためしに切り取っているうち、やみつきになった。何度もDVDを止めて、ベストショットを撮影するのに時間 をかけるようになった。2時間の映画を観るのに、うっかりすると3時間くらいかかるようになった。主に、女優の表情、都市の情景、その他、それが どういう訳か自分でもわからないが、とにかく気に入ったショットを蒐集している。1本の映画で最低でも20枚くらいはたまる。ためて、この後どう 使うのかあてはない。あてはないが、映画を観終わって、切り取った画像を1枚1枚チェックしていくのが無類に楽しい。日本語字幕がついていたりす ると、なぜかわくわくさせられる。

★6月21日(水)

 W杯がはじまるともういけない。毎晩やっていることといえば、食事の用意・後かたづけとサッカー観戦だけ(入浴もする)。新聞はW杯関連記事を 再読・三読・未読し、サッカー関連の雑誌を繰り返し眺めている。本など悠長に読んでいる暇がない。というか、睡眠不足で頭がまともに働かない。俄 もしくは筋金入りのサポーターの浮かれっぷり(とくに韓国)を報道で目にするにつけ、それよりもテポドンの方がもっとずっと大事だろう(やしきた かじん)と私もそう思うのだが、部屋にこもって黙読ならぬ沈視しているよりは、はるかに「健康的」かもしれない。

 それにしても、ワールドカップ・サッカーにこれほど惹きつけられるのは一体なぜなのだろう。サッカーのボールは切り落とされた首(「ころがる 首」=生命力の象徴=杯ならぬ胚)であるとか、国別対抗戦は戦争の代替であるとか、ゴールは一つの奇蹟(神の降臨、脱自=エクスタシーの瞬間)で あるとか、いずれにせよ人心を深層から揺さぶる何か(太古的なもの)がそこに潜んでいるからに違いない。でも、それだけでは何もいったことになら ない。メディアの商業主義が演出した一時的な熱狂にすぎないのかもしれない。

 中継、録画でいくつもの試合を観戦しているうち、しだいに毎晩つくって食べている料理の味わいとだぶってくる。大量に仕入れたじゃがいもとたま ねぎをベースに、手近な野菜とベーコンやソーセージ状の豚肉を適当に刻んで放り込み、スープの素と一緒にぐつぐつ煮込むだけの初心者料理。もうた いがい飽き飽きしているのだが、このいたって原始的な味わいがサッカーの試合を観ている時、観終わった時の、興奮と静寂、苦痛と鎮魂の感情と不思 議と似通っているのだ。個々の食材(選手)のかたちが崩れ、しだいに一つのスープ状のものに煮詰まっていく。すべてが終わった時、そこにはただ 「スピリット」とでも表現するしかない、かたちのないものだけが残っている。

★9月1日(金):温泉と和牛

 一昨日から夏休みをとっている。つごう5連休で、今日が中日。
 連休の初日の夜に岡山の湯原温泉で美作牛をしゃぶしゃぶとステーキで食べて、もちろん温泉にも三度ゆっくりつかって、翌日、蒜山高原を車でのん びりうろうろして、150円で買ったペットボトルに塩釜の冷泉の水を詰めて、途中立ち寄った勝山という街で草木染めの工房を見て、坂の上のカフェ で冷たいバニラアイスに熱いエスプレッソ・コーヒーをぶっかけたのを食べて、帰りに佐用牛を1キロほど買って(三日月町の三坂という精肉店をひい きにしている)、二日続けて和牛を食べた。
 温泉と和牛で夏の疲れが体の表面にひきだされた。つねに眠気を感じていて頭がよく回らない。活字を読んでもうまく頭に定着しない。でもこの疲れ は心地いい。

★11月20日(月):大徳寺黄梅院見聞抄録

 昨日、小雨まじりの京都紫野にでかけ、大徳寺に数ある塔頭のひとつ黄梅院を訪れた。特別公開最終日、靴下だけの足下からひたひたと浸透してくる 冷気を気にしながら、本堂室中の雲谷等顔筆襖絵「竹林七賢図」や大徳寺開祖大燈国師の遺墨を扁額に懸けた「自休軒」(一休や利休の名が由来す る)、武野紹鴎作の茶室「昨夢軒」、枯山水「破頭庭」「作物庭」、利休作の「直中庭」等々を京都古文化保存協会の学生ボランティアの解説をたより に鑑賞した。

 同行の知人が書家としても高名な黄梅院住職と面識があり、以前、「無声呼人」(声無くして人を呼ぶ)の色紙をいただいたことがある。今回の京都 行はその住職、小林太玄師からの招待を受けた一行に同伴させていただいたもの。抹茶を頂戴して記念写真を撮影し、紫野和久傳からとりよせた鯛ちら し二段の弁当をご馳走になり、豪奢な茶室を拝見させていただき、月に一度の勉強会の末席で師の説教を聴く機会を与えていただき、松屋常盤の味噌松 風をお土産にいただいた。磊落にして剛毅な人柄で、戦国時代に生まれていれば稀代の政僧として歴史に名をとどめたろうと思った。

 その後、これもまた公開最終日の聚光院、常時公開の龍源院に足を運び、夜、京都駅で住職と待ち合わせ、夕食をご一緒した。三つの塔頭で国宝(狩 野永徳の聚光院障壁画)、重文の数々に接し、住職からは大徳寺と播州との深いつながりや京都経済界のこと、茶道家元批判やチタン葺きの普請のこと などいろいろなお話をうかがった。こうした見聞を、それらは今頭のなかでぐちゃぐちゃになっているが、あたう限り印象を反芻し、調べものなどして ひとつひとつ丹念に書き残しておけばいつかきっと役に立つだろうにと思いつつ、この程度の記録でお茶を濁すしか能がない。



☆2007

★1月14日(日)

 一昨年の夏から毎土曜、NHKのBS2で『男はつらいよ』全48作品が放映されている。たまにこの番組にチャンネルをあわせるのだが、たいがい の作品は一度か二度、見ている。封切り映画館で、旧作を上映している場末の映画館で、ビデオでTVで、それと意識しないまま、結構見ている。昨晩 も『寅次郎の縁談』(第46作)を見ていて、これも前に見たことがあると途中で気がついた。
 ヒッチコックの全長編作品をDVDで見る。単身赴任先での夜の無聊をいやすために考案したのはこれだったのだが、最近では、中古ビデオを買い込 んでほとんど毎晩『男はつらいよ』を見ている。いま手元に持っているのは、『寅次郎夕焼け小焼け』(第17作)、『寅次郎ハイビスカスの花』(第 25作)、『寅次郎恋愛塾』(第35作)、『柴又より愛をこめて』(第36作)、『寅次郎心の旅路』(第41作)の五作で、『ハイビスカス』など は三度見た。いずれ近いうちに全作品を揃えることになりそうだ。

★10月6日(土):高田純次のギャグ

 昨夜のテレビで、高田純次が、「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか、それは親指を立てるとグラスが落ちるから」とギャグを飛ばして笑い を取っていた。このギャグのどこが可笑しいのだろうか。
 親指以外だったら、人差し指でも中指でも薬指でも立てられるのに、なぜことさらに人は小指を立てるのか、その理由を高田純次は答えていない。 もっと厳密にいうと、片手でグラスを持って床に落とさないようにするためには、親指とあと最低1本の指を使えばいい(親指以外の指を1本立てて も、2本立てても、3本立ててもいい)のだから、その組み合わせの数を計算すると、合計14通りの指の立て方がある。それだけの選択肢があるなか で、どうして人はことさら小指を1本立ててグラスを持つのか、その理由を高田純次は答えていない。
 これに「グラスを片手で持つとき、指を立てない」という選択肢を含めると、「片手でグラスを持って床に落とさない」ための指の立て方の組み合わ せの数は合計で15通りになる。それだけの選択肢があるなかで、どうして人は……、というより、そもそも「なぜ人は片手でグラスを持つときに指を 立てるのか、そしてその場合、なぜ小指を立てるのか」という二段の問いに、高田純次はまるで答えていない。

 でも、高田純次のギャグの可笑しさは、そういう論理的な穴や綻びにあるわけではない。人は、奇妙な論理におかしさを感じるけれども、それだから といって思わず笑ったりはしない(意図的な冷笑や嘲笑は別として)。いや、あまりに破天荒な論理の飛躍には思わず笑ってしまうことがあるかもしれ ないが、高田純次のギャグがそこまで飛んでいるとも思えない。
 「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか」という問いは、そのような論理的な次元のものではない。また、人の指の筋肉の生理学的な構造や機 能をめぐる科学的な答えが求められているわけでもない。そのような問いを立てるとき、人はたぶん人間の心理や行動、社会の文化や慣習などをめぐる 何か気の利いた答えを望んでいる。しゃれた答えを提出した人に喝采をおくりそれを肴に会話がさらに弾んでいく、そうした効果が期待される場面でこ そ、「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか」などというどうでもいい問いが意味のある問いとして(会話を弾ませるバネのようなものとして) 成り立つのだろう。

 高田純次がギャグを飛ばしたのは、まさに会話が弾むこと自体を目的としたテレビ番組の中でのことだった。出演者も視聴者も、そこで高田純次一流 のギャグが飛び出すことを期待していた。だからこそ「親指を立てるとグラスが落ちるから」という答えは可笑しかったのだろう。このギャグを笑った 人は、笑いたかったから笑ったのだ。そういう意味では、答えは何でもよかったのだ。何も答えず、あるいは「わかりません」と答えても、もしかする と高田純次は笑いを取れたかもしれないのである。
 ただ、「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか」という人間の心理や行動、社会の文化や慣習に関連づけられた問いに対して、「親指を立てる とグラスが落ちるから」という物理学の法則に則った答えを出したところに、高田純次のギャグの冴えはあった(人間的なものの機械的なこわばり云々 の議論をもちださないまでも)。

★10月24日(水):映像化されたポアンカレ予想

 一昨日放映のNHKスペシャル「100年の難問はなぜ解けたのか~天才数学者 失踪の謎~」が面白かった。ポアンカレ予想の証明でフィールズ賞を受賞したグリゴリ・ペレリマンの謎の失踪をテーマにした「CGと実写の合成を駆使し、 “天才の頭の中”を映像化する知的エンターテイメント番組」。その内容はここ[http://ameblo.jp/cm115549901 /entry-10052152328.html]に詳しく書いてある。

 ペレリマンの生い立ちやポアンカレ予想に取り組んだ天才数学者たちの物語にも心惹かれたが、なにより面白かったのはCGを使って映像化された天 才アンリ・ポアンカレの頭の中の世界、つまりポアンカレ予想とは何か、それが証明されるとはどういうことかを映像イメージでもって直感的に理解で きたと視聴者に思わせるところ。言葉で記録することができないのが残念だ。
 宇宙のかたちを宇宙の外に出られない人間がいかにして認識できるのか。そういうことがポアンカレ予想に関係しているらしい。

 人間の頭が考えたこと(ポアンカレの場合はトポロジーという数学)が、実在する宇宙のあり方と深くかかわっている。人間の精神だって実在する宇 宙の中の事象だと割り切ればそれまでだが、こういうことにはいつもワクワクさせられる。数学は精神科学の粋だという岡潔の言葉を想起する。

 たまた読んでいた加藤文元著『数学する精神』(中公新書)の第4章「コンピューターと人間」に、計算する我とそれを反省するメタな我という二つ の我があり、後者があってはじめて数学的帰納法の原理に適用できるパターンが見出されるのであるといった議論が展開されている。そしてそのような 「メタな我」つまり「パターン」を発見する我とは一体どのようなものかをめぐって、かの『科学と方法』に紹介されたポアンカレのアハ体験にふれて いる。
 この「メタな我」という言葉が、CGを使って映像化されたポアンカレ予想と響きあった。

★10月29日(月):狩野永徳の屏風絵

 先の土曜日(27日)、京都国立博物館の狩野永徳展に出かけた。
 会場に入るのに40分並び、洛中洛外図屏風を歩きながら見るのにも行列ができていたのでこれはパスして遠くで眺め、最後の部屋でゆっくり間近で 唐獅子図屏風と対面した。織田信長像と檜図屏風が強く印象に残った。
 会場出口の看板に、長谷川等伯展の2010年開催が予告されていた。

 その日の夜のTV番組「美の巨人たち」が永徳の唐獅子図屏風を取り上げていた。
 高さ2.2メートル、幅4.5メートルもの巨大な屏風がなぜ必要だったのか。
 答えは、これは本来屏風絵ではなかった。天下人秀吉の威光を示す壁絵として描かれたのを切りつめて屏風に貼ったものだったというもの。

 いま、紀貫之周辺の本をいろいろ漁っていて、屏風歌というものにいたく興味を持ち始めている。
 永徳の屏風絵にはどのような歌がふさわしいのだろうか。等伯の屏風絵に書き込まれた歌を想像できるだろうか。そんなことを漠然と考えている。
 屏風歌はフィギュールである。そもそも屏風絵がフィギュールである。そんなことも考え始めている。


☆2008

★5月10日(土):三つの時間、三つの世界

 映画はいつだって三つの層からできている。三つの時間の層、三つの語りや経験の空間といってもいい。──『白いカラス』と『めぐりあう時間た ち』をDVDで立て続けに観ての、これが感想。
 『白いカラス』では、作家ネイサン・ザッカーマンの回想を通じてコールマン・シルク教授(アンソニー・ホプキンス)とフォーニア・ファーリー (ニコール・キッドマン)の物語が語られ、その物語の中にコールマンの回想が挿入される。
 『めぐりあう時間たち』では、時代と場所を異にする三人の女性──1923年、イギリス・リッチモンドのヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッ ドマン)、1951年、ロサンゼルスのローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)、2001年、ニューヨークのクラリッサ・ヴォーン(メリル・スト リープ)──のある一日の出来事が重ね描かれる。
 そういった個別的なことを抜きにしても、映画はいつだって三つの層からできている。原作者と監督と観客の三つの主体。映像と映像以前と映像以 後。どんな言い方でもできる。
 三つの時間、三つの世界は、多重な回路でつながっている。俳優はもちろん、監督でさえ気づかない回路があるかもしれない。誰にも気づかれないま まの回路だってあるかもしれない。だから、映画は何度でも繰返し、そのつど初めて観ることができる。
 もう一つ。『白いカラス』と『めぐりあう時間たち』を続けて観て、映画は精神分析やエックス線といった「見えないことを見る」技術と同時期に誕 生したという、鈴木一誌さんの言葉を想起した。
 二つの作品を通じて、ニコール・キッドマンの演技が圧倒的。

★7月12日(土):対決―巨匠たちの日本美術

 東京国立博物館の特別展「対決-巨匠たちの日本美術」を観てきた。
 たっぷり時間があったけれど、2時間も経つともう限界だった。それ以上観ていたら、眼福を肥やしすぎて、日常生活に支障が出る。
 帰りに、ショップで、長谷川等伯昨「松林図屏風」の横長絵葉書を買って、早々に退散した。
 数日、余韻が続いている。

 ■運慶 vs 快慶―人に象る仏の性
   座像(運慶)と立像(快慶)。顔の大きさで運慶の勝ち。
 ■雪舟 vs 雪村―画趣に秘める禅境
   「秋冬山水図」が見事で雪舟の勝ち。
 ■永徳 vs 等伯―墨と彩の気韻生動
   「松林図屏風」に魅入られたので等伯の勝ち。
 ■長次郎 vs 光悦―楽碗に競う わび数寄の美
   なぜとは言えぬが長次郎の勝ち。
 ■宗達 vs 光琳―画想無碍・画才無尽
   「竹梅図屏風」に心奪われて光琳の勝ち。
 ■仁清 vs 乾山―彩雅陶から書画陶へ
   これもなぜとは言えぬが仁清の勝ち。
 ■円空 vs 木喰―仏縁世に満ちみつ
   自刻像を見比べて円空の勝ち。
 ■大雅 vs 蕪村―詩は画の心・画は句の姿
   「十便帖」(大雅)と「十宜帖」(蕪村)を見比べて蕪村の勝ち。
 ■若冲 vs 蕭白―画人・画狂・画仙・画魔
   蕭白は奇矯すぎるので若冲の勝ち。
 ■応挙 vs 芦雪―写生の静・奇想の動
   日本最大の虎を描いた「虎図襖」で芦雪の勝ち。
 ■歌麿 vs 写楽―憂き世を浮き世に化粧して
   美人画に惹かれて歌麿の勝ち。
 ■鉄斎 vs 大観―温故創新の双巨峰
   「富士山図屏風」に圧倒されて鉄斎の勝ち。


☆2015

★01月03日(土):フランソワーズ・アルディ

 今年の初買いは、篠綾子さんの『幻の神器』。定家が探偵役をつとめる平安京ミステリー、「藤原定家・謎合秘帖」シリーズの第一弾。胸が躍る。
 その翌日、なんの脈絡もなくフランソワーズ・アルディの『私小説』と『夜のフランソワーズ』を購入した。
 『私小説』は1973年の作品。二十歳をすぎた頃、毎日くりかえし聴きこんだ。『夜のフランソワーズ』はたぶん初聴だと思うが、とても懐かし い。
 フランソワーズ・アルディが憧れの女性だったことを思いだした。
 あの頃の音楽や映画はよく覚えている。なかでも「カトマンズの恋人」は、ジェーン・バーキンの魅力的な(フランソワーズ・アルディによく似た) 肢体とともにいまでも忘れられない。
 そのジェーン・バーキンがフランソワーズ・アルディと一緒に「さよならを教えて」を歌っている。ニコニコ動画でみつけた。
 ニコニコ動画では、フランソワーズ・アルディが出演した映画「スウェーデンの城」もみつけた。フランソワーズ・サガンの戯曲をロジェ・ヴァディ ムが映画化したもの。
 オフェリー役のフランソワーズ・アルディが可愛い。声がいい。