「本をめぐるキレハシ」(2011-2015)
☆2011
★10月16日(日):言いたいと思っていること
ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏訳、作品社/1998年3月)の第一章「感覚的確信──「目の前のこれ」と「思いこみ」」から。
《わたしたちは感覚的なものを一般的なものとして表現してもいるわけで、わたしたちのいう「このもの」は「一般的なこのもの」であり、「それがあ
る」というのは一般的な「ある」をいっているのである。むろん、その場合、わたしたちが思い浮かべているいるのは一般的な「このもの」や一般的な
「ある」ではないが、表現するものは一般的なものである。ということは、感覚的確信のもとに思いこんでいることをそのまま表現してはいない、とい
うことだ。が、いうまでもなく、ことばと感覚的確信を並べたとき、真理はことばのほうにあるのであって、ことばに身を寄せれば、自分の思いこみは
きっぱり否定するしかない。そして、一般的なものが感覚的確信の真理であり、ことばが一般的な真理だけを表現するものとすれば、わたしたちの思い
こむ感覚的な「ある」を、そのつどいいあらわすのは不可能だということになる。》(『精神現象学』69頁)
これと同じ文章を、ジョルジュ・アガンベン『言葉と死──否定性の場所にかんするゼミナール』(上村忠男訳、筑摩書房/2009年11月)から
孫引きする。(【】内は原文では付点で強調。)
ちなみに、『精神現象学』第一章の章名は、アガンベン本では「感覚的確信、あるいは〈このもの〉および言いたいとおもっていること」となってい
る。
《わたしたちは感覚的なものをも一般的なものとして【言葉で表現する】。そして、わたしたちが言葉で表現するものが【存在する】のである。〈この
もの〉とはすなわち【一般的な】〈【このもの】〉のことである。あるいは、〈それが存在する〉(es
ist)とはすなわち〈【存在する】〉【一般】のことなのだ。その場合、もちろん、わたしたちはその一般的な〈このもの〉、あるいは〈存在する〉一般をわ
たしたちの前に【表象している】(vorstellen)のではなくて、一般的なものを【言葉で表現している】(aussprechen)のであ
る。いいかえるなら、わたしたちはそれをわたしたちが感覚的確信のなかで【言いたいとおもっている】(meinen)とおりのままには言っていな
いのである。しかしながら、見られるように、言葉で表現されたもののほうが[言いたいとおもっていることよりも]いっそう真なるものである。言葉
のなかでは、わたしたちは直接にわたしたちの【言いたいとおもっていること】(unsere
Meinung)に背く。そして、一般的なものが感覚的確信の真理であり、言葉はこの真理を表現しているにすぎないのであるから、わたしたちが言いたいと
おもっている(meinen)感覚的な存在を言葉にして表現する(sagen)ことができるなどということは、とうていありえないのだ。》(『言
葉と死』36-37頁)
文中の「meinen」に付された訳注。「“meinen”は、わが国のヘーゲル研究者のあいだでは通常「思いこんでいること」と訳されるが、
アガンベンはこれに“volere-dire[言いたいとおもっていること]”という訳語をあてている。」
“volere-dire”はフランス語では“vouloir-dire”で、この語は、以前(2007年1月23日
[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20070123])引いた木村敏氏の「日本語で哲学するということ」という文
章(坂部恵第3巻月報)で知った。
★10月23日(日):最近買った本─吉行淳之介『夕暮まで』ほか
ある若い人が最近、吉行淳之介の文体に惹かれるものを感じたので読んでみたいと思っていると話してくれた。
吉行の作品は学生時代のある時期、かなり熱心に集中して読んだことがあって、もう題名はほとんど忘れたけれども長中短篇の小説の世界には孤独や
憂愁や寂寥の気分が濃く立ちこめていてその極上の読後感の余韻が今でも幽かに残っている。「軽薄のすすめ」(これくらいしか名前を覚えていない)
ほかのエッセイや対談も面白くてけっこうたくさん読んだと記憶している。
吉行淳之介をめぐっていくつか思い浮かぶことがあった。たとえば村上春樹のデビュー作を吉行淳之介が高く評価し、その村上が『若い読者のための
短編小説案内』で吉行の「水の畔り」を取りあげていたこと。(そしてその「水の畔り」が、村上の短篇集『神の子どもたちはみな踊る』に収められた
「UFOが釧路に降りる」に通じているのではないかと思ったこと。)
またつい先日読み終えたばかりの丸谷才一著『樹液そして果実』に収録された「『暗室』とその方法」という文章(「中央公論」1994年9月号に
掲載されたもの、ちなみに吉行は1994年7月26日に死去)に、戦後はじめて出来た東大英文科卒業生・在学生・休学者の名簿が夏目金之助ではじ
まり吉行淳之介で終わっていたと紹介されていたこと。そして吉行の作品から一冊だけあげるなら「暗室」だろう、その主題は「誕生と交合と死によつ
て規定されてゐるわれわれの人生、この厄介なものの厄介さ」であって、この作品の「実に独創的な方法」に先行するものとしては「断章が無雑作には
ふり出されて、脈絡があるみたいでもあるし、ないやうでもある」趣をもった「伊勢物語」が心に浮かぶと書かれていたこと。「そして吉行さんの文学
に王朝の色好みに通じるものがあるといふのは、かなりの人の認めるところだらう。」
ついでに書き足しておくと「暗室」は同じ随筆仕立ての小説でも「墨東綺譚」の遥か上をいき、もう一つの随筆体小説、川端康成の「禽獣」は短篇な
ので比較はしないが、川端のいわゆる「末期の眼」とは違うずっと成熟したゆったりしたものの見方を吉行の描く小説家(「暗室」の語り手兼主人公の
中田)に感じると書かれていたこと。
さらにさらに書き加えておくと「人はよく吉行淳之介の作品に濛々とたちこめる死と虚無の匂ひについて言ふ。もちろんそれは正しい。しかし、たと
へば孤独の深さを味はひつくすためには社交の達人であることが必要なやうに、死と虚無をよく知るならば生きることへの意志を持つてしまふだら
う。」云々の作家評にふれて、かつて座談の名手と呼ばれ艶福家(と言うと少しニュアンスが違う、女性遍歴者か)として鳴らし「腿(もも)尻三年、
胸八年」(ネット上には「桃尻三年、乳八年」とか「モモ膝三年、尻八年」などの諸説あり)なる名言を吐いた生前の吉行淳之介の顔かたちが思い浮か
んできた。
要するにかつて憧れ痺れた吉行淳之介の文章をそろそろ再読してみるかと思い始めていた矢先だった。
吉行の名を聞いた時それらのことが一気に心中に浮かんできたのだが、なぜだがそれを口にするのは話を合わせて迎合しているように思われはしまい
かと躊躇われ話題はそのうちほかへ流れていった。
社会人になってから吉行の文章を読むことは絶えた。思い起こせば就職した年に刊行されたのが『夕暮まで』だった。まずこの(流行語を生んで評判
になった)未読の作品から読んでみることにした。
その若い人が読んでいるというので『子供の領分』も買い置きした。ここに収められた短篇はもしかしたら読んでいるかもしれない。
これは後日談だが、その同じ人から梨木香歩にもはまっていると聞かされて再度驚いた。というのもこの春先、大阪勤務になった記念にというか近づ
きのしるしに大阪で建築事務所を開いている同年齢の親戚と仕事帰りに一杯やって別れ際によかったら読んでみてと渡されたのが梨木香歩の『家守綺
譚』。
基本的に人が薦める本を素直に読めない性質(たち)なのだがこの作者には妙にそそられるものを感じて、機会があれば読む待機本に分類して常備し
ておいた。これを機会に読んでみようと思っているが、しかしここまで偶然の一致が続くとちょっと怖い。
以上の話とは関係なく、昔愛読した作家の作品を時を隔てて読みかえすのは読書の歓び、醍醐味これに尽きることだと思う。
いま学生の頃の印象深い作家や作品を思い浮かぶまま挙げてみると、高見順(『嫌な感じ』や『如何なる星の下に』)、石川淳(評論、夷齊ものの
エッセイ)、五木寛之と野坂昭如。そして吉行淳之介から開高健へ移ろい名作『夏の闇』にめぐりあった。
※
吉行淳之介のことを話してくれた人との会話のなかで、原発と自動車は同じかということが話題になった。原子力発電所の電気を使うのと自動車を利
用するのとは同じことだという意見に、いやそれは違うんじゃないかなと咄嗟に応じたものの、なぜどうして「違う」のかは自分でもよく分からなかっ
た。
その時は『大津波と原発』で読んだ中沢新一さんの「原発=神殿」説をもちだして、原子力を制御するのは一神教の神を制御するほどに難しいことな
のだから云々と我ながら訳の分からない話でお茶を濁した。
後から考えたのは、第一に自動車を利用するかどうかは個人の判断で選択できるが原発はそうではない、第二に簡単で便利な高速移動手段は自動車し
かないが電力を安定的に供給する方法は原発だけではない、第三に自動車の原理や技術の基本は確立しているが原発の制御はそうではない(原理的にも
技術的にも未知の領域が多すぎる)の三点だった。
第二、第三の点はあまり自信がない。特に第三の理由はほんとうにそうなのかよく分からない。このことを考えたいと思って、『大津波と原発』のも
とになったラジオデイズでの内田樹・平川克美との鼎談「いま、日本に何が起きているのか?」が配信された4月5日の翌日から書き始められたという
『日本の大転換』を読むことにした。
中沢新一さんは「パンフレット」と呼んでいる。パフレットといえば「共産党宣言」を想起する。本書は、鼎談で「「緑の党」みたいなもの」の立ち
上げを宣言した著者が最後に約束した「宣言と綱領」にあたるものだと思う。
田口本(『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ──原子力を受け入れた日本』)は中沢本を買おうと思っていた日の朝、新聞広告でふと目にとまったので
併せて購入した。
ひと頃は「好きな作家は?」と問われれば「村上春樹と保坂和志と田口ランディ」と答えることに決めていた(一度だけ聞かれたことがある)。しば
らく遠ざかっていたものの、最近関心が高まってきていた。
★10月24日(月):最近読んだ本─中沢新一『日本の大転換』ほか
中沢新一著『日本の大転換』を読んだ。
ここに書かれている事柄の多くは、中沢新一さんがこれまでに書いてきた本のなかでもっと精緻に論じられている。
たとえば「太陽と緑の経済学」の先駆をなすピエロ・スラッファの「贈与的交換の部分を組み込んだ生産」の理論が、十八世紀のフランソワ・ケネー
による「フィジオクラシー(重農主義)」を原型としているという話題に続けて、「これについては、すでに『純粋な自然の贈与』に詳しく語ってあり
ますから、ここでは多くは繰り返しません」とあるのは著者自らが言及している例だ。
そのほかにも人間の心のトポロジーと贈与の経済の構造との相同性をめぐる話題については『愛と経済のロゴス』で十全に論じられていたし、日本文
明がもつ「インターフェイス性」や「ハイブリッド性」等々の話題も『フィロソフィア・ヤポニカ』で余すところなく論じられていた。
また本書で始めて、マルクスやバタイユやハイデガーの仕事を先駆形態とする「エネルゴロジー(エネルギーの存在論)」という新しい知の形態が提
唱されているのだが、これにしてもその議論の中身(すべてのエネルギー革命はそれに対応する宗教思想と新しい芸術をもっていて、来るべきエネル
ギー革命は一神教から仏教への転回として理解できる云々)を見ると、必ずしも初めて目にするものではない。
そもそも「媒介のメカニズムを使って生態圏の出来事を解釈する哲学的思考」としての神話や一神教や「第二種交換」としての芸術のあり方などは、
中沢新一のラフワークともいうべき対称性人類学をめぐる「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体のテーマである。
それではこの「パンフレット」はそうした中沢学とでもいうべき知的営為の簡略普及版にすぎないのかというと決してそうではない。
それはどうしてかというと、中沢新一さんがこの本を書いたのは事態が大きく進行している最中のことだったからだ。ミネルヴァの梟が飛び立つべき
時ではなかったからである。
この本は理論の書、解説の書ではない。文明のインターフェイスとしての思想家による新しい思考の宣言、あるいは誤解を怖れずにいえば、宗教学
者・中沢新一が始めて書いた新しい宗教の宣言(マニフェスト)である。そこに決定的な新しさがある。
《日本はいま、文明としての衰退の道に踏み込んでしまいかねない。その日本文明が大津波と原発事故がもたらした災禍をきっかけとして、新たな生ま
れ変わりへの道を開いていくために、私たちがとるべき選択肢は、ただひとつであるように思われる。幾重にも重なった困難のいばらを切り開いて、前
方に向かって、エネルゴロジー的突破を敢行すること、これである。
もとどおりの世界への復帰ではない、自然回帰的な後退でもない。私たちは前方に向かって、道を切り開いていくのである。私たちは、世界に先駆け
て自覚的に第八次エネルギー革命[アンドレ・ヴァラニャックはエネルギーの歴史を七段階に分類し、第二次大戦後の原子力とコンピューターの開発に
基づくそれを第七次革命と呼んだ]の道に踏み込んでいく、またとない機会を得た。そしてそれをとおして、袋小路に入り込んでいる現代の資本主義
に、大きな転換をもたらすのである。そのように今日の事態を理解するときにはじめて、私たちには希望が生まれる。》
最後に、原発と自動車の違いをめぐる先の論件について本書読了後の見解を述べておくと、自動車の場合は「媒介のメカニズム」もしくは「インター
フェイスの構造」が社会と人間と技術の間に組み込まれているが原発はそうではない。そこが決定的に違う。
勢いで田口ランディさんの『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ──原子力を受け入れた日本』を一気読みした。いろいろ思うところがあったが、まだ整
理できない。読後の感銘は、もしかすると中沢本以上の出来映えではないかと思った。
※
吉行淳之介『夕暮まで』を読んだ。
「言葉に酔う」としか言いようのない体験からひさしく遠ざかっていた。『夕暮まで』を読み進めている間中ずっと、吉行淳之介が繰り出す言葉に酔
い続けていた。文章に躰が反応する。至福であるが鋭く痛い。
梨木香歩の『家守綺譚』はまだ途中だが、映画「西の魔女が死んだ」を観た。素晴らしい作品だった。映画の感想を語る言葉がほしい、身につけたい
と痛切に思う。
☆2013
★01月20日(日):ベルクソンと空海をつなぐ即身成仏論
最近、また本の感想文が書けるようになった。
いつまで続くかわからないけれども、まとまったものが書けたら、ここにアップすることにした。
まとまったもののうち、少しは内容があるかもしれないものは、評価をつけて、「TRCブックポータル」というサイトに投稿することにした。
☆篠原資明『空海と日本思想』(岩波新書)
不思議な味わいをもった書物だ。大著をコンパクトに要約したチャート(海図)のようであり、いまだ書かれていない論考の骨格をなす命題を断定的
に書きつけた覚書のようでもある。
西洋思想の「基本系」(思想の基本的なありようにして変奏されつづける基本モチーフ)をプラトン哲学の「美/イデア/政治」にみいだし、これと
の対比のもとで日本思想の「基本系」となる空海の「風雅/成仏/政治」をあぶりだす。この空海思想が西行、慈円、九鬼周造、西脇順三郎、草間彌
生、等々によって生きられ、かつ変奏されてきたさまを描き、現代における変奏の可能性を探る。
このような要約ではこの本の感触は伝えられない。実地に使ってみなければその価値や意義がわからない文法書か工具箱のような書物といえばいい
か。
その意味で応用可能性に富んでいるのが「風雅の四方位論」(4章)だ。水平線で結ばれる「道具」と「物語」(系譜)は小さなものと大きなものと
の関係を、垂直線で結ばれる「建物」と「さび」は勢いと無化との関係をあらわす。ここでもまた(著者みずから桂離宮について試みているように)実
地に使ってみなければこの理論的枠組みの真価はわからない。
心敬へのたびたびの言及が本書の通奏低音をなしているのも示唆的だ。「‘あるなし間’から‘いまかつて間’への転回」(161頁)の議論がとり
わけ興味深い。
「どのような存在も、宇宙の過去を抱懐した現在なのだ…。どのような存在も、宇宙の原初以来の〈かつて〉の先端に立つ。〈いま〉とは、その〈かつ
て〉を包む心なのだ。(略)未来というものがあるとすれば、この心の広がりにしか存在しない。」(178頁)
「〈かつて〉を抱懐する〈いま〉、それは、まさにこの世に存在するものすべてのありようにほかならない。」(179頁)
「風雅は、確かに、〈いま〉を新しむことに主眼を置く。しかし、それはあくまで〈かつて〉をさびしむことと一体なのである。芭蕉は「新しみは俳諧
の花也」といいつつも、無常観を宗としつづけたのだし、西脇順三郎は、すでに触れたとおり、「新しい関係」の詩学を標榜しながらも、「私は「新し
い関係」を発見したとき…(中略)…自己の存在自身の淋しさが押し寄せてくる」としるすのを忘れない。」(184頁)
いまかつて間の立場から見いだされた新しみとさびしみという二つの極に関して、著者は最後に「さびしみつつ新しむ行為、すなわち成仏」(194
頁)と定義する。同じ岩波新書で6年前に刊行された『ベルクソン』(129頁)に「いまかつて間の成仏論」と「ありなし間の昇天論」の対比といっ
た議論があったことを思い出す。ベルクソンと空海が即身成仏論を通じてつながっている!
★01月21日(月):もっとずっと単純で純粋な現実
☆パスカル・メルシエ『リスボンへの夜行列車』(浅井晶子訳,早川書房)
読み終えるのに難渋した。いまなお読み終えた気がしない。
血沸き肉躍るとはとても言えないのに、なぜ最後まで読み終えることができたのだろう。
「人は書かないかぎり、きちんと目覚めることはできない。」(124頁)
そんな印象的な片言ならいくつでも拾い集めることができるのに、なぜだか読んだ気がしない。。
結局この書物には何が書かれていたのだろう。この書物のいったいどこが「哲学小説」なのだろう。
グレゴリウスが最後に思い出した『オデュッセイア』第二十二歌終盤にでてくる「リストロン」という言葉(434頁)の意味がわからない。
「いまこの瞬間に体験していることは──(略)──別の現実性を持っているのではないか? 単なる可能性とも、現実化した可能性ともまったく違う
別の現実性。それはもっとずっと単純で純粋な現実であり、密度と圧倒的な必然性を持ち、断固として「現実的」であるなにかではないだろうか?」
(44頁)
いま引用を省略した個所──「走る列車の鈍い轟音、隣のテーブルのグラスが触れ合うかすかな音、調理場から漂う腐った脂の匂い、コックがたまに
吸う煙草の煙」──にこそ「現実」の感触があり、小説という虚構世界の(そして言葉がもつ)旨味のようなものがあるはずなのだと思う。
★01月24日(木):技術と言語と美的創造活動の起源
☆アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言語』(荒木亨訳,ちくま学芸文庫)
暮れから年明けにかけて読み込んだ。なぜもっと早く、できれば翻訳書が刊行された四十年前に読んでおかなかったかと悔やまれる。もしかしたら生
き方(進路)が変わっていたかもしれない。
直立位(二足歩行)によって「自由」になった手と顔が、やがて視覚(図示表象)と聴覚(音声言語)にかかわる言語活動の二つの極をそれぞれ受け
もつことになる。
「二つの極のあいだには、あのハレーション効果があって、身ぶりは言葉を翻訳し、言葉は図示表現を注解するのである。
書字を特徴づける線形図示表現の段階では、手と顔という二つの領域の関係が新たな進化をみせる。空間で音声化され線形化される書き言葉は、時間
のなかで音声化され線形化される口頭言語に完全に従属し、口頭-図示という二元論は消滅する。こうして人間は、言語学的に単一のしくみ、つまりこ
れもますます一筋の推論の糸に論理的に統一されてくる思考を表現し保存する手段を保有するにいたったのである。」(第六章「言語活動の表象」
335-336頁)
こうして「技術と言語活動との地質学的な関係」(26頁)を物語る第一部が終わる。「記憶とリズム」の副題を共有する第二部、そして第三部へ、
人類の知的活動と美的創造活動の起源と実質と行く末をめぐる議論へと進む。
「象形行動は、言語活動と切り離すことができない。それは、現実を形象[フィギュール]によって口頭の表象や身ぶりの表象や物質化された表象[シ
ンボル]のなかに反映するという、人間の同じ能力から出ている。もし言語活動が手を使う道具の出現と結びついているなら、象形化[フィギュラシヨ
ン]は人間がそこからものをつくったり象形したりする共通の源と切り離せない。」(第十四章「形の言語」563頁)
「語や構文において口頭言語形象は、道具や手のみぶりと等価であって、物質やもろもろの関係の世界にたいする有効な手がかりをひとしく確保するこ
とを目指しているのにたいし、象形はそれとは別にリズムや価値の知覚という生物すべてに共通な生物学上の場に基づいているという違いはあるが、道
具、言語活動、リズム的創造は同じ過程の連続した三つの側面である。」(同567頁)
その叙述の力と理論的達成に圧倒された。魅力的な概念(「生理学的/技術的/社会的/象形的(美的)」の四つの表出の水準や、美学と技術と言語
活動との関係、等々)が惜しげもなくちりばめられている。
読み進めながら気になったことが二つ。いずれも類似した語彙をめぐるもので、その一は、「形象・姿」(フィギュール)や「象形化」(フィギュラ
シヨン)・「具象性」(フィギュラチフ)という語と「書字」(エクリチュール)、「しるし・表徴」(シーニュ)、「表象・象徴」(シンボル)、
「像」(イマージュ)との関係。
その二は、二足歩行に適応した人類の形態(114頁)をしめす際に使われた「形式」(フォルミュル)や「形」(フォルム)と「型」(タイプ)、
「様式」(スティル?)との関係。
後者について、松木武彦著『進化考古学の大冒険』(新潮選書)に出てきた、物の形の三段階の要素──「物理的な機能を担うフォーム=普遍かつ不
変の要素(例:衣服)」と「社会的な機能を体現するスタイル=時代や地域によってさまざまな、特定の社会や文化と深く結びついたもの(例:背広、
セーター、Tシャツなど)」と「モード=スタイルの形の規則をこわさない範囲での細部の形状やデザインの変化(例:背広の襟の幅、ボタンの数や位
置、色など)」──をめぐる議論が参考になる。
この松木本をはじめ昨年感銘を受けた『ヒューマン──なぜヒトは人間になれたのか』ともども、いずれ機会をみて再読したい。
★01月25日(金):中沢新一の思考世界を一望する
☆中沢新一『野生の科学』(講談社)
中沢新一の著作リストには『カイエ・ソバージュ』シリーズや『フィロソフィア・ヤポニカ』のような長編群のあいだに『ゲーテの耳』や『知天使
(ケルビム)のぶどう酒』や『ミクロコスモス』1・2といった美しい装いをもつ小品集がよりそっている。
『ミクロコスモス』はとりわけ気に入りの書物で、書棚の目に触れる場所に飾り、しばし眺め、時折り手にとって愛玩し、数頁(数頁だけ!)読んで
はまた元に返すといったことをここ数年繰り返している。いつまで経っても読み終えることはないし読み終えたいとも思わない。
『野生の科学』は長編、小品集ではなく短編集、序文の言葉でいえば「思考作品」集ということになる。三部に区画された書物空間のうちに、大雑把
にくくってしまうと「自然史過程」にそくした学問、現生人類の心の構造に深く根ざした人間科学の変革をめざす、中短あわせて21のエッセイと講演
録とインタビューが配置されている。
『ミクロコスモス』のようには「美しい」とは思えなかった(し、『カイエ・ソバージュ』や『狩猟と網み籠』や『アースダイバー』のようには引き
込まれることはなかった)けれど、中沢新一の思考世界を一望することができて面白かった。
異なる意味をループでつなぎ、その重ね合わせから自由に新しい意味を発生させる喩の機能。「一次過程」と「二次過程」という二つの活動層の統一
体としてできあがっている人間の心。生と死、この世とあの世がループ状につながる神話の構造。
こうした異なる階層を飛躍しながらループでつないでいく「不思議な環」を組み込んだ心的空間が「対称性の知性」である。
第11章に記された要約をさらに縮約すると、そこでは、
○過去・現在・未来が同じ空間に共存する、
○事物の意味は全体から分離できない、
○知的なものと感覚的情動的なものが一体になって働く、
○矛盾したものが(キアスムの論理によって)交差しつながる、
○ちがうもの同士が(ホモロジー論理学によって)アナロジカルに結ばれる。
本書でもっとも興味深かったのは付録の「「自然史過程」について」だった。そこで中沢新一は吉本隆明の「反-反核」の主張にとまどいながら意を
決して(?)反論を試みている。
最初読んだときは説得された。再読すると疑問がふきだし収拾がつかなくなった。それは、この本が(あくまで、『ミクロコスモス』のようには)
「美しくない」と感じたこと、「読み終える」のを強要されたように感じたことと関係しているかもしれない。
★01月28日(月):大阪都構想は政治的寓話を超えるか
☆砂原庸介『大阪──大都市は国家を超えるか』(中公新書)
大阪都構想は「政治的な寓話」(221頁)の域を超えることができるか。
明治維新以来の大都市をめぐる制度と政治闘争の歴史を、市長対議会、東京対その他の大都市、大都市対全国(農村)の三つの対立軸をもとに詳細に
たどり、2010年に提唱された大阪都構想がはらむ古くて新しい課題(強いリーダーシップによる成長か、財政制約のなかでの分権・民営化による効
率化の追求か)とそれが提示する選択肢(大都市が国家を超えるような自律性を獲得すべきか否か、220頁)を抽出して、橋下徹という「希有な政治
的企業家」(212頁)の登場がもつ意義とその帰趨を見定めるための有益な視点を提供する。
特に、大阪都構想が、本来トレードオフの関係にたつふたつの論理(成長を追い求める「都市官僚制の論理」と、効率化を志向する「納税者の論
理」)を内包しているという指摘が鋭い。
「「都市官僚制の論理」は、重商主義の都市における変奏、あるいは公共の福祉の観点から集権的に都市を作り替える「革新」の発想に近い。すなわ
ち、政治家の強力なリーダーシップのもと、民間企業の手法を用いて大都市の事務を効率化し、都市インフラを整備して大都市の経済的な発展を導くこ
とが強調される。大都市に居住することが住民にとってのメリットとなり、大都市に人を吸い寄せようとする。そして、周辺部に対しては、大都市から
のトリクルダウンへの期待と引き換えに協力を求める。
「納税者の論理」は、政府の社会に対する介入を否定する自由主義、あるいは一九八〇年代以降先進国で支配的な新自由主義の発想として理解できる。
特別区への分権や事業の民営化によって、大都市が一元的に行っていた事業を細分化し、支出と収入のバランスを強調する。」(205-206頁)
橋下維新の会は今後、相克するふたつの論理のバランスをどうとっていくのか。そして「日本という国が、ひとつの巨大な都市──言うまでもなく東
京である──の後背地であり続けることが望ましいのか、あるいはそれが持続可能なのか」(220頁)という究極の政治選択に対して大阪都構想がど
のような役割をはたしていくか。
興味深い提案があったので記録しておく。
それは大都市に限定して保育や教育といった「子どものための投資」に関わる国庫補助金(と義務付け・枠付け)を廃止し、その分を地方税の移譲で
埋め合わせるというもの。これによって大都市では全国一律の水準を超えて多様なサービスが実施される。
★01月29日(火):ゴジラ、あるいは国家の死を告げるリヴァイアサン
☆片山杜秀『国の死に方』(新潮新書)
映画「ゴジラ」が封切られた昭和29年11月、日本の政治は死に体だった。造船疑獄、指揮権発動、国会乱闘、警官隊の導入とつづく、政党再編前
夜の政治的空白を、水爆大怪獣・ゴジラが襲った。
政治は空転する。壊れた原発のように大量の放射性物質をまき散らすゴジラ退治を、あろうことか民間の東京電力に委託する。映画の中の日本政府
は、防衛力は最小にとどめ、いざというときはアメリカにお任せする吉田ドクトリンを地で行う。しかしゴジラは倒れない。
古老は言う。竜神ゴジラを鎮めるには島の娘を生け贄に捧げるしかないと。犠牲がなければゴジラの災厄は収まらない。
だが前年の総選挙で左派社会党は「青年よ、銃をとるな。婦人よ、夫や子供を戦場に送るな」と連呼し、躍進をとげた。日本は「人の命は地球より重
い国」になっていた。
ではどうやってゴジラを鎮めたか。自発的に犠牲役をかってでる一民間人の無償のボランティアによって。
「国家が国民に決して死ねとは言えない国。新たな犠牲の論理を与えられない国。犠牲社会は少なくとも表向きには片鱗さえ存在を認められない。利益
社会だけしかない。それはそれで素晴らしい。が、その国にはやはり死せる国体のあとのとてつもない空白がある。」(213頁)
──近代国家に死を賜る聖なる海獣(リヴァイアサン)・ゴジラとボランティアの物語。「身捨つるほどの祖国」(寺山修司)喪失の物語。最後の二
つの章で語られる迫真の論考が記憶に残る。
序章でふれられる『ゴジラ』の映画音楽と緊急地震通報のアラーム音とのつながりをめぐる話題とあいまって、本書がどのような問題意識のもとで、
またいかなる外的状況と対峙して書かれたか、その外枠をかたちづくっている。
通奏低音のように短いセンテンスで畳みかける緊迫した文体が、どこかパセティックな響きをともって、第二のゴジラの到来を告げているかのよう
だ。
政治思想史の研究者にしてクラシック音楽の評論家。新しい論客の誕生。
★02月01日(金):官僚・閣僚経験者の執念
☆堺屋太一『「維新」する覚悟』(文春新書)
近代日本の歴史のなかで、国家予算の全支出に占める税収の割合が5割を割ったことが三度ある。一度目は幕末、二度目は太平洋戦争の敗北の時、そ
して三度目が現在。つまり、総支出に対して税収が4割しかないのは敗戦の時なのである。現在、われわれは第三の敗戦を迎えている。
第一の敗戦に遭遇した日本は、開国、版籍奉還、廃藩置県、新貨条例、学制(教育改革)の五大改革で維新を成し遂げた。このうち最も重要なのは版
籍奉還、すなわち武士身分の廃止(身分社会から職能社会への転換)である。第二の敗戦からの復興でこれに相当するのが公職追放であった。
こうした歴史に学ぶならば、第三の復活を成し遂げるためにまずなすべきことは公務員制度の改革であり、次に中央集権体制の打破である。「自分の
お金を使うときは他人のお金を使う時よりも利巧だ」という「ニア・イズ・ベター」の原則のもと、官僚独裁・東京一極集中の国のかたちを地方自立
(究極は地域主権型道州制)に改める。その上で、教育改革(自由化)、開国(TPP参加問題)、エネルギー(原子力発電の存廃、エネルギー自
給)、財政再建と社会保障といった課題に取り組むこと。
以上が本書に書かれていることのおおよその概略。
集権・集中の戦後体制の分析や事例、たとえば大阪に本部事務局を置いていた繊維業界に対し通産省(当時)が圧力をかけ東京へ移転させた等々、官
僚・閣僚経験者である著者ならではの思い(執念という語を使いたくなる)がこめられた文章が印象に残る。
★02月02日(土):分離と結合
☆オクタビオ・パス『弓と竪琴』(牛島信明訳,岩波文庫)
オクタビオ・パスの文章は野性的で甘美だ。知性の経糸が荒々しく分離した断片を官能性の緯糸が繊細に縫合し結合する。
夢を見るようにして読み終えたいま、この巨大な書物からいくつかの美しい文章をきりだして書きとめる以上のことが私にはできない。
宗教(聖なるもの)と詩と愛(エロティシズム)の関係をめぐる論考「詩的啓示」のなかで、オクタビオ・パスは「愛の喜びは存在の啓示である」
(255頁)と定義し、「女の出現」=「愛の突然の〈現存[プレセンシア]〉」とともに「すべてが輝き始め、意味を獲得する」さまを次のように叙
述している。
(愛の喜びは存在の啓示である! この類の断定が本書のもうひとつの魅力で、かつて読んだ『二重の炎―─愛とエロティシズム』にも、「エロティシ
ズムとは肉体の詩であり、詩とは言語による性愛である。」や「詩的イメージは対立する現実の抱擁であり、押韻は音声の交接である。」等々の忘れが
たいフレーズがあった。)
《地中深く湧き出る水のように、また浜辺をおおう海のように、諸々の〈現存〉は表面に帰ってくる。すべて見たり、触れたり、感じたりすることがで
きるものである。存在と外見は一にして同じものである。何ひとつとして隠れているものはなく、すべてそこに在って輝き、それ自体によって充満して
いる。存在の潮。存在の波に運ばれて、わたしは君に近づき、君の胸に触れ、肌を撫で、その目を深くのぞきこむ。世界は消え去る。もはや何もなけれ
ば誰もいない──事物と、その名前、その数、そしてその記号は、われわれの足下にくずれ落ちてしまう。もはやわれわれはことばを持っていない。わ
れわれは自分の名前を忘れてしまった、そしてわれわれの代名詞は混同し、からみ合ってしまう──わたしは君であり、君はわたしである。投げ上げら
れたわれわれは、上昇する。そして、互いにしがみつきながら落ちでくるが、一方、名前や形態は流れ出し、消滅してしまう。君の顔は、川を上に下に
逃げてゆく。〈現存〉は足場を失い、深みにはまって、自らの中で溺れてしまう。肉体は肉体を失う。存在は虚無の中にとびこむ。存在は無である。無
が存在である。わたしは目を開ける──異質な肉体。存在はふたたびその姿を隠し、諸々の外見がわたしを取り囲んでいる。その瞬間、問いが湧き上
がってくるが、それは、このどうしようもなく異質な〈現存〉の向こう側には何があるかを知るための拷問である。この問いは、愛にあらゆる絶望を包
含している。なぜなら、この〈現存〉の虚無から、存在が起き上がってくるのである。
愛は死に流れこむ。しかし、われわれはその死から誕生に向かう。愛は死であり、生誕である。マチャードは「女は存在の表面である」と言う。純粋
な〈現存〉たる女の中において、存在は顕在化し、現前するようになる。そしてまた、彼女の中に沈潜し、隠れる。このように、愛は存在と虚無の同時
的啓示である。それは受動的な啓示、つまり演劇のような、われわれの眼前で現われたり消えたりするようなものではなく、そこにわれわれが参加する
ような、われわれがわれわれ自身のために作るような何かである──愛は存在の創造である。そしてその存在はわれわれの存在である。われわれ自身
が、われわれを創る時にわれわれを絶滅させ、われわれを絶滅させる時にわれわれを創るのである。》(257-259頁)
またエピローグ「回転する記号」には、次の叙述がでてくる。
(引用箇所に先立つ文章には「詩とは他者の探求、〈他者性〉の発見である。」という究極のフレーズがでてくる。正確に抜き書きすると、「詩的想像
は発明ではなく、実在するものの発見である。散乱した断片として現われているものの中に、世界のイメージを発見すること、ある‘もの’の中に他の
‘もの’を知覚することは、言語に本来の比喩力──他者を実在させる力──を戻すこととなろう。詩とは他者の探求、〈他者性〉の発見である。」
(440-441頁))
《〈他者性〉の体験は、物理学から生物学までの、存在のあらゆる発現に見られる、分離と結合という、ひとつのリズムの両極端の音を包含している。
人間にあっては、そのリズムは沈下、つまり見知らぬ世界における孤立感として、また結合、つまり全体との調和として表現される。われわれは例外な
く、瞬間的には、分離と結合の体験を持っているはずである。真実の恋におちいり、その瞬間が永遠であると感じたあの日。われわれ自身の無限の中に
沈潜し、時間がその内部をさらけ出す中で、自らを消えゆく顔として、また無効になることばとして眺めたあの時。野原の真ん中で樹を眺めながら、今
では思い出すことはできなくても、木の葉や、空のゆらめきや、夕日の最後の光を受けた白い壁の反射がささやくことを感得したあの夕暮れ。草の上に
横たわって、植物のひそかな生命の鼓動を聞いたある朝。あるいは、大きな岩の間に沸きあがる水を見ていた夜に。一人で、あるいは他人と一緒になっ
て、われわれは〈存在〉を見たのであり、また〈存在〉がわれわれを見たのである。それは〈もうひとつの生〉であろうか? それこそが日々の生、本
当の生なのである。(略)わたしの関心をひくのは、あの世の〈もうひとつの生〉ではなく、‘ここ’の生である。〈他者性〉の体験が、まさしく‘こ
こ’における、〈もうひとつの生〉なのである。詩は人間に対し、その死を慰めることを目的とするのではなく、生と死は不可分であること──全体を
なしていること──をかいま見せようとするのである。個々の具体的な生を回復することは、生=死のペアを結合し、他者のなかに自分を、わたしのな
かに君を取り戻すことであり、かくして、分散した断片のなかに世界の形姿を発見することになるのである。》(454-455頁)
オクタビオ・パスは続けてマラルメの『骰子一擲[とうしいってき]』にふれ、「来るべき詩にとってきわめて重要なこのテキストについて、これま
で書かれた最も濃密な、最も輝かしいエッセーのひとつにおいてモーリス・ブランショは、『骰子一擲』はそれ自体の読みを包含していることを指摘し
ている。」(460頁)と書いている。
私的な話題。これはまったくの偶然なのだが、そのブランショの文書を収めた『来るべき書物』こそ『弓と竪琴』につづけて読んでいる書物だっ
た。
※
書名はヘラクレイトスの断片に由来する。
その断片は鎌田雅年氏の「Eleutherion」[http://homepage2.nifty.com/eleutherion/]に掲
載されている[http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/gp
/node3.html#SECTION00012010000000000000]。
「いかにして相違しつつ和合するかを彼らは理解しない。それは逆に張り合うことによる調和なのだ──あたかも弓やリュラ[竪琴]のそれのように」
(断片51)
本書には(たしか)二度ヘラクレイトスの名がでてくる。
一度は「ヘラクレイトスのポレミックな存在論──宇宙は弓や竪琴の弦のような、緊張状態にある」(341頁)のかたちで。オクタビオ・パスはこ
れを「人間の神秘性は、人間が宇宙の秩序の一歯車、大協奏曲の一和音でありながら、同時に、自由であることに存する」(341-342頁)と敷衍
している。
二度目は本論の最後の文章のなかで。
《ヘラクレイトスによるひとつのイメージがこの本の出発点であった。その終わりにあたり、そのイメージがわたしの前に現われて来る──人間を聖化
し、かくして彼を宇宙に位置づける竪琴、そして人間を彼自身の外に向けて発射する弓。あらゆる詩的創造は歴史的なものである。あらゆる詩は、連続
を否定し、永続的な王国を樹立しようという願望である。もし人間が超越、つまり、自己を超えるものならば、詩はその継続的な自己超越の、永続的な
自己想像の、最も純粋な記号である。人間はイメージである。なぜなら彼は自己を超越するから。おそらく、歴史意識と歴史を超越する必要性とは、常
に自己から分離している、そして常に自己を探求している人間存在という、この古い、そして永続的な分裂に対して、今われわれが与えている名前に他
ならないであろう。人間は自分の創造物と一体化し、自身と、そして仲間と結合すること──自身であり続けながら、世界となること──を希求する。
われわれの詩は分離の意識であり、分離したものを結合しようとする試みである。詩において、存在と存在に対する願望は、果物と唇のように一時的に
和合する。詩、瞬間的和解──昨日、今日、明日、そして‘ここ’と‘そこ’、そして君、わたし、彼、われわれ。すべてが存在している──それは、
現存となるであろう。》(479-480頁)
※
断片、断章つながりでもう一つ書いておく。
ドイツロマン主義の詩人たちは本書では重要な位置づけがあたえられている。とりわけノヴァーリスの名は特権的な場所をしめていて、その断片も
再々引用されている。ドッグイアをたどって気がついたものを孫引きしておく。見落としがあるかもしれない(とくに「実体のないことば」の章の
405頁以降)。
「女性は至高の肉の食物である」(226頁)
「心が自らを感じ、あらゆる個別的で現実的な対象から解放されて、それ自体の観念的対象となる時、そこに宗教が生まれる」(235頁)
「矛盾律を破壊することは、おそらく高等論理の最も高度な仕事であろう」(282頁)
「詩とは野生の状態におかれた宗教のようなものであり、宗教は実践的な詩、生きられ、そして行為となった詩にすぎない」(パスの間接引用、
283-284頁)
「詩は作ることをしないが、人が作るのを可能ならしめる」(パスによる修正版、286頁)
「宗教とは実践的な詩に他ならない」「詩は人類の本源的宗教である」(400頁)
「自分が夢見ているのを夢見る時、覚醒は近い」(506頁)
★02月03日(日):現在進行形のソシュール言語学
☆ポール・ブーイサック『ソシュール超入門』(鷲尾翠訳,講談社選書メチエ)
この作品は一篇の小説なのではないか。読み進めながらそんな感想をもった。たとえばソシュールの言語思想を主人公とする新趣向のビルドゥングス
ロマン。あるいは新しい聖体(ラング)の探求を描いた血湧き肉躍る冒険譚。
読者は第一章で最終講義の聴講生となり、「メンドリが孵したアヒル」(139頁、233頁)のような言語の非合理性に向き合うソシュール教授の
「不安や悲しみ、当惑」(67頁)を直に体験する。
続く三つの章では、パリ時代の「すさまじく優秀でカリスマ性を備えた若き学者」(82頁)の相貌や、ジュネーヴ帰郷後の「異言[グロッソラリ
ア]、伝説、アナグラムといった、周辺的だがひじょうに言語学的な現象」(115頁)に魅了される「紳士的言語学者」の端正な外見と内面の格闘を
かいま見る。
第五章から第七章までの理論篇で、できあがったソシュール言語学の解説に学ぶのではなく、ソシュールが悪戦苦闘しながら(言語を歴史の対象では
なく科学の対象としてとらえる)一般言語学の理論を、すなわちラング(システムとしての言語)とパロール(使用されている言語)、聴覚イメージと
観念(概念)、シニフィアンとシニフィエ、恣意性、価値と意味作用、共時態と通時態といった概念を構築していく過程を生々しい産みの苦しみととも
に追体験する。
そして第八章で「ソシュール作と称して吟じられたラプソディーのような」(211頁)テクスト『一般言語学講義』の没後出版にまつわる顛末を知
り、第九章でソシュールの死後の生に思いをはせる。
その最後の節でブーイサックは、英語圏におけるソシュール思想のもっとも重要な紹介者(ただしソシュール理論を支持しているわけではない)ロ
イ・ハリスの次の言葉を引用する。「ソシュールをめぐる歴史はまだ終わっていない」。
そしてジュネーヴやパリの学者サークルのように無条件にソシュールを礼賛し文化的ヒーローに祭り上げるよりも、「不本意ながら」学究生活の大部
分をソシュール研究に捧げたハリスの愛憎半ばする態度のほうがソシュールの重要性を的確に反映していると書く。
《ソシュールは「言語学のアインシュタイン」などではない。そもそも、そんな人物はまだ現れていない。厳しい探求を通して、ソシュールは言語とい
う大きな謎に正面から取り組み、ときに戸惑った。しかし、答えぬままに終わった疑問は、おそらくあれだけの知性と誠実さを備えた思想家だからこそ
問うことのできた、最良の類の疑問だった。ソシュールの未完の仕事はかけがえのない遺産であり、考察を重ねていくべき問題だ。》(237頁)
この結末に万感の共感を覚えるとき、ソシュールの未完の仕事をかけがえのない遺産として生成途上のなまの姿で受領し、現在なお進行中の言語探求
の旅に加わることを慫慂し、促し、誘惑するこの読者参加型の小説(小説とは本来読者参加型のものなのだから同語反復だが)は完成する。
ラングやパロール、シニフィアンとシニフィエ、そんな概念のことならもうとうに知っている。
ソシュールの思想が弟子たちの手になる(ソクラテス以前の哲学者たちの断片集のような、203頁)偽書によって誤って、もしくは不十分に伝えら
れ、そうであるにもかかわらずプラハ言語学サークルやその主要メンバーであったニコライ・トゥルベツコイ、ローマン・ヤコブソン、さらにルイ・
イェルムスレウやミハイル・バフチンによって受け継がれ、やがてモーリス・メルロ=ポンティやクロード・レヴィ=ストロース、ロラン・バルト、
ジャック・ラカン、ジャック・デリダ等々のフランス現代思想の綺羅星のごとき担い手たちに引き継がれていったこと(ブーイサックいわく「ソシュー
ル思想の哲学的濫用」229頁)もよく知っている。
そんな聞きかじりの知識をいっぱいためこみ、とっくにソシュール入門を果たした気になっている(この本を読む前の私のような)読者こそ、周到な
企みと工夫が凝らされたこの超入門書をひもとき、「ラングをつくっているのは言語記号、つまり、聴覚イメージと概念の分離不可能な結合体なのだ」
(192頁)とか、共時態の視点から見た言語とは「複雑な差異のネットワークを通して単語のアイデンティティや意味を決定する関係性のシステム」
(198頁)であり「言語記号はお互いに虚定的[ネガティヴ]な関係によってアイデンティティをもつ」(236頁)のであるとか、「ソシュールは
言語における本質は時間だ、と主張していた」(232頁)といった整理された言い方ではけっして汲み尽くせない「ラング生誕」の血みどろの物語の
底知れない深さを体験すべきなのだと思う。
※
補遺。「ソシュール思想の哲学的濫用」について、ラカン、デリダに言及した箇所が(皮肉が利いていて)印象深いので抜き書きしておく。
《ラカンは『一般言語学講義』とプラハ学派の概念を二、三借用し、独自の趣のある用語を組み合わせて新しいフロイト派のパラダイムを提示し、長く
パリのインテリたちに影響を及ぼし続けている。言語の変化は無意識的なものだというソシュールの主張の微かなつながりを手がかりにして、ラカンは
フロイトの言う無意識も言語のような構造をもっており、「圧縮」や「置き換え」はヤコブソンの言うメトニミー(換喩)とメタファー(暗喩)の二項
対立に翻訳することができる、と主張した。フロイトとソシュールの概念体系を融合したラカンの主張は、翻訳不可能でこじつけのようなフランス語の
言い回しを体系的に使っており、わざわざひじょうに不明瞭な言説をつくりだしている。
(略)言語学については表面的な知識しかもっていなかったデリダは、手のこんだ詭弁を弄して、ソシュールの言語学の土台、すなわち話し言葉が書か
れた言葉に対して優位だとするヒエラルキー的関係をひっくり返し、逆説的に書かれた言葉が話し言葉に対して絶対的に優位性をもつと主張した。
面白いことに、デリダもバルトも、ソシュール主義の特徴と思われるものを拾い上げ、その偽りを象徴的に暴くというスタイルで名声を築いたのだっ
た。しかし、彼らの『一般言語学講義』の読解はバイアスがかかっており、都合のよいところだけを選択的に取り上げていたし、この本が出版されら特
殊な状況もまったく考慮していなかった。とはいえ、彼らの偶像破壊的態度そのものが、逆に、フランスの知的地平にソシュールの思想がつねにつきま
とい、没後五十年以上経って英語圏にまで波及したことを物語っている。》(227-228頁)
※
私的な補遺。本書付録2の「引用されるべきソシュール」に次の断片が収録されている。「言語の本質(「ラング」)の基本的性質とその関係は数学
的に表現される。このことが理解される日がきっとくるだろう。」(247頁)
ソシュールは「一つの言語という、複雑な記号システムを構築している多次元的かつ抽象的な関係を表現する適切な手段としては、代数しかない」と
確信していた(175頁)。ここでブーイサックがいう「代数」とはハミルトンの「四元数」のことである。
また、ソシュールによれば共時態と通時態を説明するには(垂直・水平の二つの座標軸によるよりも)三次元のほうがふさわしいとブーイサックは書
いている。「言語記号のシステム[あるラングを形成する共存的関係のすべてを示す平面]が、時間軸に沿って無数の時点ごとに積み重なっているよう
すをイメージすると、多数の層がかさなった六面体[キューブ]ができあがる。その一つ一つの層において、一つのラングがフルに機能しているの
だ。」(186頁)
これらの記述を読みながら、私はノヴァーリスの(あのめくるめく)断片群を想起していた。じっさい次の言葉はノヴァーリスについて語られるもの
と読んでさしつかえないものだと思う。「ソシュールの手稿そのものは、ソシュール自身と同じく、[本書第五章、第七章の解説より]はるかに豊かで
複雑だ」(230頁)「何千枚もの手稿とそこに書き残した図形から見えてくる、より複雑なソシュールが存在する」(240頁)。
★02月08日(金):読み終わらない本はいい
☆保坂和志『カフカ式練習帳』(文藝春秋)
昨年四月の刊行以後、ほぼ一定の進度で読み継いできた。
おもしろいと思うところとそれほどでもないところが交互にでてきて、そのこともふくめて総じてとてもおもしろいと思った。できればいつまでも読
み続けたいとも思った。
ただ、ペチャやジジやマーちゃん、等々の猫の話だけはどうにも苦手で(なんというか保坂和志の「臆面のなさ」のようなものが遠慮なくストレート
にでてくるので、そわそわ落ち着かず直視できなくなる)、最後はとうとう読み飛ばすようになった。
あとがきに「おもしろいと思うところを拾い読みしてくれればいい」と書いてあるので、そんな読み方でいいのだろう。あとがきにそう書かれていな
くてもそんな読み方をして楽しんでいい小説はきっとあるだろうとは思う。
あとがきには「変わった形式」という言葉もでてくるが、別に変った形式の本だとは思わない。
もっともっと実験的な書き方をしてもいいのではないかと思ったが、実験的な書き方をされていたらきっと早々と飽きてしまったことだろうとも思
う。
本書のちょうどなかほどに収められ「ここでキルケゴールの警告は注目に値する」と書き始められる文章にピンチョンの『逆光』を読んでいるという
話がでてきて、そこで「読み終わらない本はいい」と保坂和志は書いている。
これはそのまま私の『カフカ式練習帳』にたいする感想になる。
カフカのような断片を書きとどめようと思ったことの理由が語られ、「小説は書いているかぎり終わらない」(270頁)や「小説は読んでいる時間
の中にしかない」(271頁)といった保坂式命題がでてくるこの文章(「ここでキルケゴールの警告は注目に値する」という書き出しの文がそのまま
タイトルになった文章)はこの本の芯になると思った。
もちろんそんなことを思いながら読むのも自由だし思わないのも勝手だ。
★02月13日(水):時間の外、非人称的な読書空間(前半)
☆モーリス・ブランショ『来るべき書物』(粟津則雄訳,ちくま学芸文庫)
分量的な意味での本書の折り返し点にあたるブロッホ論を読み終えたところで、中間総括的な感想を書いておこうと思いたった。
「小説は読んでいる時間の中にしかない」とは保坂和志の至言だが、批評は読んでいる時間の中やその前後にあるのではなく、「読んでいる時間の
外」にしかない。「読んでいる」のは批評家で、批評文を読んでいる読者はその批評家が「読んでいる」小説を読んでいるわけではないからだ。
それは文字通り読者が批評の対象となった小説を読んでいない場合もふくめで、批評家の読書体験は読者のそれではない(批評家の「読んでいる時
間」を読者は経験できない)というしごく当たり前のことを言っている。
なにが言いたいのかというと、読んでいない小説や小説家について書かれた批評文を読む権利(精確には、読んで愉しみ思索をめぐらす自由)が読者
にはあるということだ。
カフカ、マラルメをはじめ、ジョイス、プルースト、アルトー、クローデル、ボルヘス、ヴァージニア・ウルフ、ブロッホ、そして、ヘンリー・ジェ
イムズ、ムージル、ヘルマン・ヘッセ、等々。本書はこれら20世紀文学の巨匠たちの諸作品を取り上げる。
その多く、いやほとんどの作品が未読もしくは未読了である(私の場合)にもかかわらず、なぜどうしてブランショの批評文を読むことができるの
か。その多く、いやほとんどの議論がまるで理解できないかもしくはおぼろげにしか理解できない(私の場合)にもかかわらず、なぜどうしてブラン
ショの批評文を面白く(精確には、読む価値があるものとして飽きずに)読めるのか。
それはきっとブランショだからだろう。
あの(「戦前のポール・ヴァレリーに比せられる戦後最大のフランスの文芸批評家」とウィキペディアに書かれている)ブランショが書いた文章だか
ら、そして『文学空間』とならぶ高名な(「文芸批評の金字塔」と文庫の帯に書かれている)書物だからこそなのだろう。
ここにはなにかしら決定的に重要な未聞の事柄が語られている。そんな心の構えをもって臨むからこそ、たとえばブランショの文章の「わからなさ」
さえもが一種のブランドとなって、読者(私)の脳髄に読み解かれるべき謎を刻印するのだ。
これは皮肉を書いているのではない。
高名な書物の前半を読み終え、あの巨匠たちの傑作群を相手どってこれに拮抗しうる文章を綴ることができるのはあのブランショだからこそなのだ
と、そしてここには紛う事なき真性の批評が息づいているのだという内容の伴わない形式的な、それでいてリアルな(精確には、書かれていることの内
容はよくわからないが、なにか確かなことが語られていることはわかるという)感想が立ち上がってきたことを書き残しておきたかった。
以上で感想は終わり。記念に二つ、引用しておく。前段は「プルーストの経験」から。後段は「ブロッホ」から。
《かくて、ゲルマント家の中庭の不揃いな敷石にけつまずいた一歩が、突然──まったくこれ以上の唐突さはない──かつてサン・マルコ寺院の洗礼場
の不揃いな敷石にけつまずいたあの一歩となる。これは、同一の一歩であって、「すぎ去った或る感覚のかげやこだまではなく……その感覚そのもので
あり」、ささいではあるがいっさいをくつがえす力を持った事件であり、それは、時間の横糸を断ち切り、その切断によって、われわれを或る別の世界
に導き入れるのである。時間のそとへ、とプルーストは、大急ぎで語っている。彼は断言するのだ、そうだ、今や時間はほろび去っている、なぜなら私
は、ヴェネチアでの一瞬とゲルマント家での一瞬とを、ひとつの過去とひとつの現在としてではなく、持続の流れ全体によってわけへだてられた両立し
がたいさまざまな瞬間を或る感覚的な同時性のなかに共存させる或る同一の現在として、束の間ではあるが否定しえぬ現実的なとらえ方で、同時にとら
えているからである。かくてここには、時間そのものによって消し去られた時間がある。ここには死があるのだが、この死は、中断され中性化され空し
い無害なものとされた時間の働きなのである。なんという一瞬だろう!》(32-33頁)
《ジョイスにおいては、思想とイマージュと感覚は並置されていて、それらを運ぶ巨大な言語の流れ以外にそれらを一つに結びつけるものは何ひとつな
い。ブロッホにおいては、人間的現実のさまざまな深みのあいだに交換作用があり、刻々に、感情から瞑想への、なまな経験から反省によってとらえら
れたより巨大な経験への移行がある。──そして、次いでまた、新たに、この巨大な経験が、より深い無知のなかに没するのであり、この無知がまた、
より内的な知へと変形するのである。》(254-255頁)
(前段の文章を読んだときに頭に浮かんだのは、小林秀雄が歴史について、頭を記憶で一杯にするのではなく心を虚しくして思い出さなければならない
と語ったことだった。過去の知覚体験を記憶のなかから想起するのではなく、現在の体験として経験すること。クオリアを媒介にして、過去の経験と現
在の経験が「同一」のものになる。後段の文章がなぜ記憶に残ったのかは、残念ながら思い出せない。)
訳者あとがきに、前半のブロッホ論と後半のヘッセ論にブランショの批評の技の冴えがみられるといった趣旨のことが書いてある。「ヘッセ論におけ
る精妙な対位法的構成、ブロッホ論の言わば重層的な論法」。
期待して後半を読み始めるとすぐ、カフカの手帖(「カフカがさまざまな物語の草稿を書きつけたあのノート」)について書かれた文章がでてきた。
本書冒頭の「物語とは、出来事の報告ではなく、出来事そのものなのである。」(21頁)というフレーズと響き合っている。
《そこには、多くの草稿が書かれているが、これらの草稿は、作品そのものである。時には、ただの一ページだったり、ただの一句だったりすることも
あるが、この一句は、物語の深みと関わっている。この一句がひとつの追求であるとしても、それは、物語自身による、物語の追求なのである。これら
の断片は、あとになって役立てられる素材ではないのだ。プルーストは、はさみや糊を使う。また「書き加えた原稿をあちらこちらにピンでとめ」、こ
れらの「紙きれ」でその書物を築きあげるが、「大寺院を建てるようにこまごまと語り尽すことまでは敢てせず、ただ単に、服を作るように語る」ので
ある。他の或る作家たちの場合は、物語は、外部から構成されえない。物語は、もしそれ自身が、あの進展運動を、それを通して物語が自己を実現する
空間を見出すあの運動を保持していなければ、いっさいの力と現実性を失うのである。書物の場合、このことは必ずしも人知れぬ非合理的な一貫性を意
味するわけではない。たとえば、カフカの書物は、その構造という点から見れば、ジョイスの書物以上にはっきりしている。プルーストの書物ほど読み
辛くもなければ入り組んでもいない。》(264-265頁)
★02月14日(木):時間の外、非人称的な読書空間(後半)
☆モーリス・ブランショ『来るべき書物』(粟津則雄訳,ちくま学芸文庫)
ヘッセ論(「H・H」)は素晴らしかった。『デミアン』について6頁にわたって論じられていたのが嬉しかった。(前半のヴァージニア・ウルフと
後半のヘッセにはとても誘惑された。すべての作品を読みたいと強く思った。)
ヘッセ論は素晴らしかったが、後半の圧巻はやはりマラルメ論(「来るべき書物」)だった。さっぱりわからないのだが、その難解さがたまらなく名
人芸的で魅力的なのだ。
20世紀文学の二人の巨魁が相四つに組んで一歩もひかない。しめあげられる筋肉のきしみが悲鳴となって聞こえる。「『骰子一擲』は、来るべき書
物である。」(496頁)この行司の勝ち名乗りは、非人称的な空間で闘われた文学的四つ相撲の「何の名前も持たぬ」勝者の名を告げている。
「書物の交流」というアイデアが面白かったので、ブランショの文章を引く。
《作者も読者も持たぬ‘書物’は、必ずしも閉じられたものではなく、つねに運動状態にあるが、もしこの‘書物’が、何らかのかたちで自分自身の外
に出ないならば、また、その構造にほかならぬ動的な内奥性に応ずるために、おのれのへだたりそのものと触れあうような外部を見出さないならば、い
かにしてそれは、おのれを構成するリズムにしたがっておのれを断言しうるだろう? この‘書物’には媒介者が必要だ。それが、読むという行為その
ものなのである。ここに言う読む行為は、つねに著作をおのれの偶然的な個人性に近付けようとするそこらの読者の行う読書ではない。マラルメは、こ
の本質的な読書の声となるだろう。作者として消滅し排除されるが、この消滅を通して、彼は、‘書物’の、立現われながら消え去っている本質と関わ
るのだ。この‘書物’の交流にほかならぬ絶えまないゆれ動きと関わるのだ。》(502頁)
《彼[マラルメ]は、真の意味で読者ではない。読む行為そのものなのである。それを通して、書物が書物自身に交流する交流運動そのものなのである
──、この運動は、まず第一に、用紙の可動性がそれを可能にし必然的にするさまざまな物理的交換(*)によって行われるのであり、次いで、言語が
さまざまなジャンルさまざまな芸術を統合することによって作りあげる新たなる理解の運動によって行われる。最後にまた、書物がそれを出発点とし
て、それ自身の方へ、またわれわれの方へおもむき、われわれを空間と諸時間の極限的な作用にさらすような、例外的な未来によって行われる。》
(502-503頁)
よくわからない。わからないけれど気になってしかたがない。
後段の引用文中「(*)」の印で示した箇所にブランショは、マラルメの「草稿によれば、書物は、ルーズ・リーフによって構成される」と註をつけ
ている。面白い。
前半でもふれたカフカの断片に関する文章を「日記と物語」から引いておきたい。
《われわれには、何故作家が、自分が書いていない作品の日記しかつけえないかがわかる。その日記は、想像的なものとなり、それを書く人間と同様、
仮構という非現実性のなかに沈むことによって、はじめて書かれうるということもわかる。この仮構は、それが準備している作品と必ずしもかかわりを
持たぬ。カフカの『日記』は、彼の生活と関係のある日付のついた記述や、彼が見た物会った人の描写ばかりではなく、数多い物語の草稿で出来てい
る。そのなかの或るものは数ページに及ぶが、たいていはほんの数行であり、多くの場合すでにはっきりと形をなしてはいるが、すべて未完成である。
そして、もっともおどろくべきことは、ほとんどどれひとつとして、別の草稿と関係がなく、すでに用いられた主題のくり返しではない点だ。同様にま
た、日々の出来事とはっきりした関係を持たぬ点だ。ところが一方、われわれは、マルト・ロベールが指摘しているように、これらの断片が「生きられ
た事実と芸術とのあいだで」、生きているカフカと書いているカフカとのあいだで「口にされている」ことをはっきりと感ずるのである。そしてまた、
われわれは、これらの断片が、おのれを現実化しようとしている書物の何の名前も持たぬ謎めいた足跡を形作っていることを予感する。だがそれは、こ
れらの断片が、それらの出発点だったと思われる現実の生活とも、それらがその接近を形作っている作品とも、何らはっきりした親近関係を持たぬ限り
での話である。こういうわけで、もしわれわれがここで、創造的経験の日記となりうるようなものの予感を抱くとしても(*)、われわれは同時に、こ
の日記が、完成した作品と同じように閉じられており、そういう作品以上にわけへだてられているという証拠をも手に入れるわけだ。なぜなら、秘密の
周辺は、秘密それ自体以上に秘められているからである。》(393-394頁)
ブランショの原註は、「他にもいくつかある」として『マルテの手記』やバタイユの『内的体験』『有罪者』を挙げ、「これらの作品が持つ密やかな
法則のひとつは、その運動が深まれば深まるほど、それが抽象作用の非人称性に近付くという点である」と記し、アヴィラの聖女テレサの打明話やマイ
スター・エックハルトの説教に言及している。実に面白い。
そのほかプルースト(431-432頁)やノヴァーリス(472頁ほか)に関する文章も引いておきたいが、これらは割愛。
※
1月29日に読み始めてちょうど2週間後の2月12日に読み終えた。時間にして(ほぼページ数に見合う)500分強。
いったん読み始めたらさいご意味がとれようがとれまいが、内容が理解できようができまいがいっさいこだわらず、とにかく一定の速度をもって期限
をさだめひたすら愚直に一気に読み進める。ただただ身をもって言葉の礫をうけとめる。
そんな読み方でしかその内部の(非人称的な)空間と時間(の外)を経験できない書物はある。
全行程のほとんどを重く垂れ込める闇に視界を遮られながら、たまたま木漏れ日となって到来した陽光にしばし時を忘れて全身で浸る。そんなことを
繰りかえしているうちになんとか最終地点にまでたどりついた。
何も残っていないが、何かが通りすぎていった。そのたしかな感触はしっかりと記憶のうちに残っている。空虚な充実感とでも言おうか。
もう一度はじめから読むとまったく別の空間と時間にまよいこむことになるだろう。それはとても蠱惑的な体験だろうが、いまはまだその気になれな
い。
そこで語られている書物を手にして実地に読んでみたい。あるいは埃をかぶった書庫から探し出してもう一度読みかえしてみたい。そんな思いを強く
読後に残す誘惑の力。それこそ文芸批評の力だと思う。
ブランショが語る作家や作品の多くが未読もしくは囓りかけのままになっている。数年かけて系統的に読み込んでみたいと切実に思い始めている。ま
ずはリストづくりから。
『偶然性の問題』『身ぶりと言語』『弓と竪琴』『来るべき書物』と続いた朝の読書・文庫篇。次はル・クレジオの『物質的恍惚』の予定。
★02月16日(土):二人の靜
☆九鬼周造「文學の形而上學」(『九鬼周造全集 第四巻』岩波書店)
九鬼周造の文章を読むと、心地よい眩暈のようなロジカル・ハイに襲われる。
昨年、『連続性の問題』を読んでいて、硬質の抒情味をたたえたあざやかな(まるで豆腐を縦と横と水平にスパッ、スパッ、スパッと刻み、瞬時に八
つの断片に切り分けるみたいな)論理の冴えにしばし陶酔した。
「文學の形而上學」は、四百字詰めの原稿用紙でいうと九十枚足らずの論考で、分量的には『連続性の問題』の四分の一に満たない短いものだが、そ
の短さゆえにかえって論理の切れ味に鋭さが増し、その抒情性に凄味が加わったように感じられた。
この文章が収められた全集第四巻には、そのほか「風流に関する一考察」や「日本詩の押韻」などが収録されている。つづけて読みたいが、そのため
にはしばしの休息が必要。(02/15)
※
九鬼周造の文章のどこに抒情性を感じるのか。哲学談義のなかにときおりまじる江戸情緒あふれる話題の味わいなど、なによりもその喩え、例示の面
白さに独特の旨味の秘密があるように思う。
たとえば、詩の押韻をめぐる議論のなかで、「ニツツジノ ニホハムトキノ」や「サクラバナ
サキナムトキニ」という頭韻をめぐって次のように書く。
《どうして韻が成立するかといふことを時間性の構造の上から考へて見ると、時間が多様性の相互侵徹を特色とする質的時間であるため、ニツツジノの
ニとニホハムトキノのニとが互に他の中に入り込んで相侵し合ふからである。またサクラバナのサとサキナムトキニのサとが記憶に於て持續しながら互
に浸透し合うからである。さうして、ニとニのやうに、またサとサのやうに、相應和する韻と韻とは、たとへ同音であつても、持續の潤色を受けてその
具體性に於て質的相違を示してゐることは、吉野山で別を惜んだ靜と鶴岡八幡宮で舞をした靜とのやうなものである。》(全集第四巻19頁)
吉野山で別を惜んだ靜と鶴岡八幡宮で舞をした靜! これと似た指摘が、リズムや脚韻(や頭韻)や畳句といった、小説(川端康成の『雪國』)の中
の詩的要素をめぐる文章に見られる。
《小説の中の詩的要素については川端康成の『雪國』を例に擧げることができる。この小説は非現實な夢幻の世界を喜ぶ主人公島村の性格によつて既に
内容上も詩的なものとなつてゐるとも考へられるが、内容の上だけではそれを打ち毀す程の強烈な現實的日常性も前面へ出て來てゐる。この小説を詩的
なものとしてゐるのはむしろ形式の上にあると思ふ。この小説には詩のリズムとか韻とか疊句に當たるやうなものが用ひられてゐて全體が深みを有つた
現在として直觀されてゐる趣がある。新緑の初夏と年の暮の冬と紅葉の秋と三つのリズムをなして同じ北國の温泉村の情景が繰り返されてゐる。駒子の
唇が美しい蛭の輪のやうに滑らかだといふ同一の形容が初夏と冬と秋と三度まで出て來てゐるのは三つのリズムに應ずる三つの脚韻のやうな役目をして
ゐる。汽車の窓ガラスに窓外の夕景色と車内の葉子の美しい姿とが一しよに寫つたこと、山の白雪を寫した鏡のなかに駒子の眞赤な頬が浮んだこと、待
合室のガラスが光つて駒子の顔がその光のなかにぽつと燃え浮んだこと、駒子が窓際へ持ち出した鏡台に紅葉の山と秋の日ざしが寫つたこと、鏡のなか
で牡丹雪の冷たい花びらが駒子の首のまはりに白い線を漂はしたこと、これら同一の非現實的感覺が詩の疊句のやうに適宜の間隔を置いてまたしても繰
り返されてゐる。また葉子の聲が悲しいほど美しく澄み通つて木魂しさうだといふ主題も三四囘繰り返して變奏曲のやうに響いてゐる。其他「嘘のやう
に多い星」、「氷の厚さが嘘のやうに思はれて」、「桐野三味線箱……これを座敷へ擔いで行くなんて嘘のやうな気がして」、「嘘みたいにあつけなか
つた」、「なんだか靜かな嘘のやうだつた」などと現實の非現實性を強調する同一の言ひ廻しが頭韻のやうにところどころに出て來る。「心にもないこ
と。東京の人は嘘つきだから嫌ひ」といふ同一の言葉を駒子は年の暮と翌年の秋とに繰り返してゐる。これらの反覆によつて小説の叙述は詩の直觀のや
うな形式となり、時間的性格に於て現在が特に著しく強調されてゐるのである。》(同52-54頁)
★02月17日(日):ケラチノサイトは偉い
☆傳田光洋『皮膚感覚と人間のこころ』(新潮選書)
とても勉強になったし、とにかく面白かった。科学啓蒙書として出色の出来映えだと思う。(先月読み終えた春木豊著『動きが心をつくる──身体心
理学への招待』と関連づけて考えると、きっと面白いことになる。)
よく練られた構成で読み手の関心をつなぎ(例:冒頭で「琵琶湖は生物か」と魅力的な謎をかけ、最後に本書全体を一言で凝縮する生物の定義をもっ
て答えを明かす)、随所に挿入された思想家・文学者の引用(例:朔太郎「猫町」、レヴィナス『存在の彼方へ』、リルケ『ドゥイノの悲歌』)で論述
に奥行きをあたえ、ついには読者を知的興奮へと誘う(個人的な例:第9章「新しい皮膚のサイエンス」で熱く語られる、神の与えたもう数学の神
秘)。
以下、読後の余韻がさめやらぬうちに、記憶に残った話題をいくつか箇条書きにしてみる。
1.スクリーンとしての皮膚─毛づくろいと言語のあいだ
人類が「毛づくろいしあう」体毛を失い裸になったのは120万年前。「コミュニケーション手段の中心である」言語を持つようになったのは早くて
も20万年前。この100万年の間、裸の人類はどのようなコミュニケーションの手段を持っていたのか?
第1章「皮膚感覚は人間の心にどんな影響を及ぼすか」で投げかけられたこの問いに、最終的な解答が与えられるのは第8章「彩られる皮膚」。
ヒントの1、衣服の発明が10万7千年前だったこと。ヒントの2、「体毛が極端に少ない人間の皮膚は、様々に彩られることによって、他者に対し
て多様なメッセージを発信する、スクリーンとしての機能も有していた」(153頁)。
答えは刺青や文身などの身体装飾。
著者は、コミュニケーション手段あるいは社会性を維持するシステムとしての身体装飾がもつ医学的機能(鍼灸医学との関連性)や情動・自己意識へ
の作用(アンジュー『皮膚─自我』への言及)にふれ、さいごに「喪われた世界の記憶を持つ詩人」リルケの詩句を引用する。
《古代も今もかわりはない。けれどわれわれはいまはもう、古い世の人々のようにその心情をしずかな形象[かたち]に化して眺める力をもたないの
だ》(「第二の悲歌」)
2.感覚と知覚の違い─皮膚の視覚と聴覚
感覚と知覚は違う(ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得─―進化心理学から見た心と体』)。感覚は受動的な生理現象で、外部からの刺激に対する一
時的応答。知覚は能動的で、感覚から得た情報の中枢神経系による解釈。脳がなければ、「熱い」という意識がなければ知覚は存在しない。
皮膚は音を感じる。皮膚の聴覚については、やっとその存在が明らかにされてきた段階。それは私たちの情動や整理に大きな影響を及ぼしている可能
性がある。今後の展開が楽しみ。
また、皮膚は光を感じる。今の段階では、皮膚に視覚があるとまでは言えないが、おそらく「無意識につながる情報」として処理されているだろう。
皮膚には電場も磁場もある。オキシトシンも合成する。ケラチノサイト(人間の表皮を形成する細胞)は偉い。
3.皮膚と意識 皮膚と言語
第7章「自己を生み出す皮膚感覚」から。
「皮膚感覚は、私と環境、私と他者、私と世界を区別する役目を担っているのです。」(143頁)
「意識は脳という臓器だけでは生まれません。身体のあちこちからもたらされる情報と脳との相互作用の中で生まれるのです。とりわけ皮膚感覚は意識
を作り出す重要な因子であるといえるでしょう。」(145頁)
「皮膚感覚は自他を区別し、空間における自己の空間的位置を認識させる。皮膚が自己意識を作っている、と言っても過言ではないでしょう。」
(146頁)
「皮膚感覚だけで、我々の言語的意識、あるいは論理的思考を発達させることができるのです。(略)有名なヘレン・ケラーの逸話では、水の触角と言
語を結びつける経験を糸口に、高度な言語的意識を構築しています。」(149頁)
「個人の認識と、実在との関係を突き詰めていくと、結局、頼りになるのは皮膚感覚である、という結論にたどり着くのです。皮膚感覚は自他を区別す
るだけではなく、最も信頼できる世界(自己を含む)認識の機能であると言えます。」(151頁)
※
若干の補遺。
著者による生物の定義は「さいごに」に出てくる「環境の情報を受容し選択する膜、広義の皮膚で囲まれた有機体」(188頁)で、これは松本元氏
の生命観「環境に接する境界に情報やエネルギーの流れを制御する機能がある」(182頁)に触発されたもの。琵琶湖は幕=皮膚をもたないから生物
ではない。
また、個人的な索引として、随所に挿入された思想家・文学者の引用箇所を(皮膚に関するものに限定して)記録しておく。
◎安部公房『第四間氷期』
「人間の情緒が、多分に皮膚や粘膜の感覚に依存していること」(32頁)
◎萩原朔太郎「猫町」
「とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。」(90頁)
◎トーマス・マン『魔の山』
「皮膚というものはつまり、あなたの外脳です」(120頁)
◎ポール・ヴァレリー「固定観念 あるいは海辺の二人」
「すべては皮膚の発明物なり」(140頁)
◎リルケ『ドゥイノの悲歌』
「おんみらが肌と肌とを触れあって至高の幸をかちうるのは、愛撫が時を停めるからだ」(149頁)
◎D・アンジュー『皮膚=自我』
「皮膚感覚は、人間の子供を出生以前からかぎりなく豊かで複雑な世界へといざなう。この世界はまだとりとめがないが、知覚-意識系をめざめさせ、
全体的また付随的な存在感覚の基礎を形づくり、最初の心的空間形成の可能性をもたらすものなのである。」(166頁)
ついでに、皮膚に直接言及していないその他の引用箇所も記録しておく。
◎アントン・チェーホフ「退屈な話」(130頁)
◎エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』(132頁)
◎『荘子』(136頁)
◎大森荘蔵『流れとよどみ』(151頁)
◎クロード・レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』(157頁)
◎『魏志倭人伝』(158頁)
◎川田順造『アフリカの心とかたち』(162頁)
◎パウリ/ユング『自然現象と心の構造』(171頁)
★02月18日(月):オペラント反応のこと・その他
傳田光洋著『皮膚感覚と人間のこころ』を読んでいて春木豊著『動きが心をつくる』を想起したので、先月の読書日記から。
☆池谷裕二・中村うさぎ『脳はこんなに悩ましい』(新潮社)
☆森川友義『一目惚れの科学──ヒトとしての恋愛学入門』(ディスカヴァー携書)
☆春木豊『動きが心をつくる──身体心理学への招待』(講談社現代新書)
池谷・中村本と森川本をつなぐのはオキシトシン、テストステロンとエストロゲン、右手の薬指と人差し指の比率、PEAといった体内ホルモンやホ
ルモンにまつわる話題。
森川本と春木本は、恋をしているからドキドキするのではなくドキドキしているから恋をするのだという吊り橋効果と、人は悲しいから泣くのではな
く泣くから悲しいのだというウィリアム・ジェームスの説でつながる。
脳と体と心、それに言語を加えた四つの項の関係。宇宙と数学(感覚)と音楽(感情)と記号(情報)の関係。この二つの問いがつながるかもしれな
い。そんなことを考え始めると眠れなくなる。
※
音を鳴らしてから餌を与えることを繰り返すと、音が鳴るだけで唾液が分泌されるようになる。パブロフの犬のこの反応をレスポンデント反応(反
射)という。
音を鳴らしてから電気ショックを与え、回避行動をとると音も電気ショックも停止する。この実験を繰り返しているうち被験者(白ネズミ)は音が
鳴っただけで、電気ショックが与えられる前に回避行動をとるようになる。これは単なる反射ではなく意図的な反応であり、オペラント反応と呼ばれ
る。
この白ネズミの行動は「音→不安→回避行動→音が消えて不安がなくなる→反応の持続」と要約することができる。ここに成立する「情動」(不安)
と「予期」と「選択」は心の現象の原初的な姿である。「最初から心があって、回避反応を起こしたのではなく、状況に対して動いた結果、心らしきも
のが形成された」のであり、「記憶の内容(心)は末梢の動きの結果なのである」(39頁)。
著者はこの二つの反応、反射(無意志的反応)と意図的反応(意志的反応)の両方の性質をもつものを「レスペラント反応」と名づけている。呼吸、
筋反応、表情、発声、姿勢、歩行、対人空間(距離)反応、対人接触という筋骨格系の反応がそれである。
「体」的性質をもつレスポンデント反応(反射)と「心」的(=意志的)性質をもつオペラント反応が二重になっているレスペラント反応(反射/意
志的反応)は、心身一如の経験、すなわち西田幾多郎の純粋経験につながっている。──以上、春木本から、忘備録として。
※
春木本は去年、最後のしあげのところだけ読まずに残しておいた。大切な本になるにちがいないと直感したからで、あらためて通読してみて確信にか
わった。ほぼ同時期に読んだいくつかの関連本とあわせて、できればなにかまとまった書評か感想文を書いておきたいと思う。せめて関連本をリスト
アップしておく。
◎石川幹人『人間とはどういう生物か──心・脳・意識のふしぎを解く』(ちくま新書)
◎石川幹人『人は感情によって進化した──人類を生き残らせた心のしくみ』(ディスカヴァー携書)
◎代々木忠『快楽の奥義──アルティメット・エクスタシー』(角川書店)
◎山鳥重『言葉と脳と心──失語症とは何か』(講談社現代新書)
◎岡ノ谷一夫『さえずり言語起源論──新版 小鳥の歌からヒトの言葉へ』(岩波科学ライブラリー)
◎平田オリザ『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書)
★02月19日(火):世界文学リスト[Ver.1]
読んだ本のことだけではなくて、買った本、借りた本、読みかけの本、読まずにすませた本、等々のこともたまには書いてみることにした。
☆ウラジミール・ナボコフ『ナボコフの文学講義』上・下(野島秀勝訳,河出文庫)
ブランショの『来るべき書物』を読みながら、いかに近現代の西欧文学から遠ざかっていたかを思い知らされた。いや、思い知らされた、というのは
間違った言い方で、『来るべき書物』に刺激されて西欧の現代小説を切実に読みたくなり、さかのぼって西欧の近代小説を、ひいては世界文学を系統的
かつ集中的に読みたくなった、というのが実情。
あたるをさいわい、やみくもに、四方八方読み散らかすだけの体力も気力も時間も残されていないので、間違った道に踏み入らぬよう、「小説読みの
達人」と評される先達に師事し、まずは自分なりの読書(計画)リストをつくってみることにした。
※
リスト作成の基礎作業として、モーム《a》と篠田一士《b》の十大小説、「海外の長編小説ベスト100」(『考える人』2008年春号)のうち
のトップ10《c》、それに、池澤夏樹が『世界文学を読みほどく──スタンダールからピンチョンまで』でとりあげた10冊《d》、『東京大学で世
界文学を学ぶ』の著者・辻原登が(『考える人の』アンケートに答えて)選んだベスト10作品《e》の計50冊、これにナボコフが『講義』でとりあ
つかっている7冊《f》を加えた合計57冊(重複があるので、実数としては28作家の39作品)のリストを作ってみた。
うち読了したものは3分の1程度。いま現在「休止」中のもの(プルースト、ジョイス、島崎藤村ほか)を含めても半分に満たない。今後このリスト
に磨きをかけ、さらに、現代西欧作家、非西欧、日本の作家、古今東西の古典、詩歌・演劇・紀行・ノンフィクション・歴史・神話・思想批評なども加
えて、100冊、150冊、200冊、等々のきりのいい数に仕上げていくつもり。もちろんリストにそって、計画的に(10年くらいかけて)読破し
ていくつもり。
『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー 《a》《c》《d》
『罪と罰』ドストエフスキー 《c》
『悪霊』ドストエフスキー 《c》
『死の家の記録』ドストエフスキー 《e》
『アンナ・カレーニナ』トルストイ 《c》《d》《e》
『戦争と平和』トルストイ 《a》《e》
『白鯨』メルヴィル 《a》《c》《d》
『百年の孤独』ガルシア=マルケス 《b》《c》《d》
『ユリシーズ』ジョイス 《b》《d》《f》
『失われた時を求めて』プルースト 《b》《c》
『スワンの家のほうへ』プルースト 《f》
『赤と黒』スタンダール 《a》《e》
『パルムの僧院』スタンダール 《d》《e》
『城』カフカ 《b》《c》
『審判』カフカ 《c》
「変身」カフカ 《f》
『ボヴァリー夫人』フロベール 《a》《f》
『感情教育』フロベール 《e》
『アブサロム、アブサロム!』フォークナー 《b》《d》
『高慢と偏見』オースティン 《a》
『マンスフィールド荘園』オースティン 《f》
『デイヴィッド・コパフィールド』ディッケンズ《a》
『荒涼館』ディッケンズ 《f》
『宝島』スティーヴンスン 《e》
「ジギル博士とハイド氏の不思議な事件」 《f》
スティーヴンスン
『トム・ジョーンズ』フィールディング 《a》
『ゴリオ爺さん』バルザック 《a》
『嵐が丘』エミリー・ブロンテ 《a》
『伝奇集』ボルヘス 《b》
『子夜』茅盾 《b》
『U・S・A』ドス・パソス 《b》
『特性のない男』ムジール 《b》
『夜明け前』島崎藤村 《b》
『ドン・キホーテ』セルバンテス 《c》
『ハックルベリ・フィンの冒険』トウェイン 《d》
『魔の山』トーマス・マン 《d》
『競売ナンバー49の叫び』ピンチョン 《d》
『紅楼夢』曹雪芹 《e》
『インドへの道』フォースター 《e》
『ある夫人の肖像』ヘンリー・ジェイムズ 《e》
★02月20日(水):一生に一度しか書けない書物
☆石井洋二郎『告白的読書論』(中公文庫)
書店の新刊本のコーナーで目にして以来、なぜか気になってしかたがなかった。
あとがきに「思春期から青年期にかけての読書体験がもたらしてくれたなんともいえない甘酸っぱさやほろ苦さには、やっぱり忘れがたいものがあ
る」と書いてある。
共感を覚えつつも、自分にとっての「甘酸っぱさやほろ苦さ」の記憶がいかに不鮮明であるかを思い知り、ついに訪れることのなかった読書体験の
累々たる屍に思いがおよんだ。
読み進めながら、あまりの共通項(読書体験の共有)の多さに驚き呆れかつ震えるほどの悦びを感じていた。
まるでこれは私が書いた、あるいは私が書くべき文章ではないか。そんな思いがわきあがり、ついには著者の真似をして、私自身の「告白的読書論」
を構想し始めていた。
読み終えて、これは私小説のひとつのあり方なのではないかと気づいた。
小中学生から思春期、高校時代へという特権的な時間と特異な身心の状況のもと、書物との接触という官能的な経験のなかから立ち上がってくる諸々
の観念や奇想天外な「空想[そらおも]い」(223頁)や淫靡な妄想やらを、まとまった言説、整序された概念のうちに補足される前のなまなましい
形姿においてすくいだし、言葉にする。
それはきっと、誰もが一生に一度は書ける、いいかえると一生に一度しか書けない幸福な私小説へと、一冊の美しい書物へと結実していくだろう。
《要するに、読書は固有の時間と空間と不可分の、けっして再現することのできない絶対的に一回きりの行為なのだ。だからこそ逆にいえば、わたした
ちは同じ本を何度開いてみても、そのたびに「別の本」を読むことができる。一冊の本を相手にして、何度でも異なる読書体験をすることができる。
この意味で、読書行為はわたしたちの身体感覚と密接に結びついている。一冊の書物を手に取り、活字を目で追い、指先でページをめくり、紙の匂い
を鼻から吸いこむ──それだけでも語感のうち少なくとも三つの感覚(視覚、触覚、嗅覚)が動員されるが、場合によっては、聴覚(そのときに流れて
いる音楽)や味覚(そのときに味わっている紅茶)などが経験の形成に関与することもありうるだろう。
読書はともすると純粋に知的ないとなみであるかのように思われがちだが、本の内容は忘れてしまっても、その本を読んだときの身体的な記憶だけは
消えないということは往々にしてあるものだ。》(271頁)
珠玉の言葉だと思う。まるで読書行為とは人生の出来事(たとえば恋愛体験)そのものであると言わんばかりではないか。
その他、心に残った言葉の落ち穂拾い。
「難解」で「むずかしい」本、たとえばニーチェの『ツァラトゥストラ』やランボーの詩をめぐって。「わたしたちはその「わからなさ」をそのまま
受けとめ、そこにうごめいている言葉のエネルギーに身をゆだねればそれでいいのである。ニーチェやランボーが「わかる」というのはそういうこと
だ。」(183頁)
「危険な書物」の効用をめぐって。「四十になっても五十になっても、一冊の書物を読むことで、体内に沈殿する思考の淀みが一気に浚渫され、それ
まであたりまえのように考えていたことが考えられなくなるということ、そして今度は晴れやかに澄みきった自由のなかで、逆にそれまでけっして考え
られなかったことが考えられるようになるということは、確かにあるものだ。」(223頁)
★02月21日(木):くり返し、それを求めて立ち帰ってくるように誘うことをやめない力
☆吉田秀和『マーラー』(河出文庫)
ここ一年近くマーラーの交響曲を聴きこんでいる。聴きこむというほど集中しているわけではないけれども、時にネットからダウンロードした楽譜を
眺めながら聴くこともある。(いつか「アナりーぜ」の真似事をやってみたいと思っている。)
きっかけは昨年の3月10日、金聖響+玉木正之『マーラーの交響曲』(講談社現代新書)を購入して読み始めたから。以来、未完成の第10番と通
し番号のついていない「大地の歌」を含めて全11曲の制覇をめざし、ほぼ月に1曲のペースでCDを買いもとめは繰り返し聴くようになった。
でもなぜ『マーラーの交響曲』を読みたくなったのか。読書日記を読み返すと、DVDで「マーラー
君に捧げるアダージョ」を観て、ほぼ全編を埋めつくす濃密なマーラーの響きに魅了されとりつかれたから、と書いている。
マーラーは聴かず嫌いだった。なのになぜ突然、一篇の映画を観ただけで強烈に惹かれ、大袈裟にいうと溺れるようになったのか。パーシー・アドロ
ン&フェリックス・アドロン共同監督の作品の力だというよりも、それだけの音楽力をマーラーの交響曲はもっていたということだと思う。
マーラーの映画はそれ以前にもケン・ラッセルの「マーラー」を観た。なにか濃厚で多層的な意味と官能と感情が塗りこめられた、重苦しくも忘れが
たい作品という印象が強く濃く残っている。
マーラーと映画はとても相性がいい。「君に捧げるアダージョ」に流れていた交響曲第5番第4楽章アダージェットが、かのルキノ・ヴィスコンティ
の「ベニスに死す」にも流れていた。それだけのことなのかもしれないが、マーラーの交響曲を聴いていると頭の中に映像が立ち上がる。それはいかに
冷酷で非情な大自然の映像であったとしても、どこかに人間的な感情や思想のドラマを潜めている。
マーラーの音楽は、一面でいうと旋律の音楽なのだ。これは、本書に収められた長篇論考「マーラー」のなかでの、シェーンベルクのプラハ講演をふ
まえての著者の発言だが、マーラーの音楽が連想させる映像が倒錯的な人間臭さをたたえていることの根はここにあるのかもしれない。
《マーラーの音楽の放射する魅力のうちの最も強烈なもの──聴く者を捉えて、全身的な陶酔の魔力の下におき、麻薬のように一種の中毒状態にまでひ
きずりこむ力。そして一度その甘美な恍惚にとらえられた経験のある者にとっては、およその中毒がそうであるように、もう、これでよいといって満足
することも、飽きるということもなくなり、くり返し、それを求めて立ち帰ってくるように誘うことをやめない力。この力の最大の資源は、この彼の旋
律の形成にあたっての「信じられないような」能力にあるのである。》(「マーラー」32頁)
★02月22日(金):くり返し、それを求めて立ち帰ってくるように誘うことをやめない力2
☆吉田秀和『マーラー』(河出文庫)
詩人か作曲家か数学者。子供の頃、いつか自分が就くことになる職業、というか天職はこのうちのどれか一つ、あるいは複数のものを兼ねることにな
ると信じて疑わなかった。「就くことになる」であって「なりたい職業」や「あこがれの仕事」ではなかった。天賦の才と運命によって、いつかおのず
からそのようなものになっていくのだと思いこんでいた。だから詩人や作曲家や数学者になるための努力などは一切しなかった。
長じて、人は生まれながらにして詩人や作曲家や数学者になるのではないことがわかってきた。
ヴァレリーの『カイエ』に「グラディアートル」と題された断章群がある。グラディアートルとは有名な競走馬グラディアトゥールをラテン語で表記
したものだが、ヴァレリーはこれを「精神の調教、鍛練」の意味で使った。そのヴァレリー的な含意をもったグラディアートルに、ラテン語の本来の意
味である「剣闘士」がもつフィジカルなニュアンスを加味した「調教」の長い期間をくぐり言葉や音や数理をさばく技術を体得してはじめて、人は詩人
や作曲家や数学者になっていく。
そのような調教の苦しみにたちむかい、かつこれに耐えぬく力(耐えぬこうと思える力)が天賦の才能であり、そうした調教の機会や指導者にめぐり
あうこと、めぐりあわざるをえないことが詩人や作曲家や数学者にとっての運命なのではないかと、今はそう考えている。
前置きが長くなった。
なにが言いたかったのかというと、詩人か作曲家か数学者かのいずれかになる、あるいはそれらを兼ねる(詩も書き作曲もする)のではなく、人は同
時に詩人であり作曲家であり数学者であることができるということだ。それが批評文を書くこと、とりわけ音楽批評家であることなのではないか。
吉田秀和に小林秀雄の「モーツアルト」を論じた文章がある。そこにこういった趣旨のことが書いてあった。いわく、あの論文の天才的独創性は日本
語の力、日本語の天才と結びついたものだ。ほかのどこの国の人たちよりも日本語のわかる人たちの共感を呼び覚ますものになっている。つまり、他国
語に翻訳されたら、ほとんどわからないのではないか。
吉田秀和の文章を読んで私が感じたのは、他国語に翻訳されたら…のところ(吉田秀和の小林秀雄批判)を除き、これと似たものだった。
そうして、詩を書かずに詩人であること、作曲をせずに作曲家であること、公式の証明をせずして数学者であること、つまり詩や音楽や数学の精神や
精髄、その技術性、客観性、形式性を過不足なく文章化し、かつそこに(けっして主観的、感傷的ではない、分析的といってもよい)抒情性や人を駆り
立てる冷めたマグマのようなものを織り込んで表現することの生きた見本をそこに見出したのだった。
たとえていうと藤原俊成や定家などの、日本の中世の歌論書が(ほんとうは)めざしていた文章が、小林秀雄という希代の文章家による屈折を経て、
吉田秀和において結実した。そんななことが言えるのではないか。ほかのどこの国の人たちよりも日本語のわかる人たちの共感を呼び覚ますものであり
ながら、同時に、他国語に翻訳されてもそれと同程度に、いやそれ以上にクリアーにわかる批評文。
それは、吉田秀和が本書のなかで書いている次の批判を、「心理」という語を「精神」(音楽や数学の精神というときの精神)におきかえ、かつ、
「論理的判断よりも心理的アプローチ」を「論理的かつ精神的アプローチ」におきかえたときにみえてくるものなのではないか。
《一般に、この国の批評用語には演奏の仕方そのものより、演奏にみられる奏者の心理的状態のあり方に敏感な評語が豊富にみられる。これもおもしろ
い、日本の音楽批評の特質の一つではあるまいか。いや、この国の批評に論理的判断より心理的アプローチがより強く、かつ敏感に出てくるのはひとり
音楽批評に限らず、文章や美術の批評文にもかなり強く出てきている傾向といってよいのではあるまいか。》(「カラヤンのマーラーふたたび」
113-114頁)
それにしてもずいぶんひさしぶりに「文章」を読んだ。一字一句、一文一文に深みと味わいがあり、批評があり、つまり精神の躍動がある。何度でも
くりかえし読みたくなるし、くりかえし読み、からだにしみこませることではじめて理解できる。それはちょうどCDを一度聴いたらそれでおしまいで
はなく、全曲もしくは気に入った箇所を何度も何度もくりかえし聴くことではじめてひらかれる世界があるのと同じことだ。
さて肝心なマーラーのこと。
これからしばらく、もしかしたら数年単位の長丁場にわたって、私はこの本を手引きに(とくに「マーラー」という題名の39の譜例が掲載された文
章に導かれながら)マーラーの交響曲を飽きるまでくりかえし聴くことになるだろう。私自身のマーラーをつかむまで。
吉田秀和のマーラーについて書くのは、そのときまで待たなければならないと思う。ここではただ心に残った箇所を抜き書きするにとどめておく。
《…マーラーの音楽で、まず、私のような聴き手にとって躓きの石になったのは、それがひどく主観的な性格をのっけから露骨に出していることだっ
た。音楽の「対象」──というのも、おかしな言い方だが──になっているものが、「宇宙」だとか「自然の様相」だとか「救済」だとか、といった表
象や思想であるような場合でも、それを考え、表現する作曲家の態度というのはきわめて主体的で、いってみれば、愛も宇宙の秩序も絶対自我みたいな
ものを離れて、その外部に存在するのではなくて、すべてが、これを想じる主体を通した視点、ないしは主体からの視点によって、価値づけられ性格づ
けられるといったところが、私には、はじめ馴染みにくかったのである。これはロマン主義といっても、シューベルトやシューマンといった人びとのそ
れとは、まるで、違うものだ。彼の交響曲がどのくらいの長さになるか、その楽章の一つ一つの性格と様式と構造がどう構成され決定されてゆくか、す
べてが、作曲家の「内部」の真実の表現としての役割からきめられることである。ソナタ形式とかロンド形式とか、あるいはレントラーとかいった形態
をとっているときも、あれはベートーヴェンやハイドンたちの音楽における形式とは、まるで違う根拠から生まれたものだし、結局は、同じ名で呼ぶの
がおかしいくらい、違ったものになってしまうのだ、マーラーは、ある崩壊感覚を同時代の誰よりも鮮やかに表現するのに成功した最初の交響音楽家
だった。
それが、次第に、この音楽を、外側からでなくて、内側から、作者の内的な必然としての芸術として見るようになったのについては、いくつかの機縁
があったのだが、その最大のものは、故バルビローリの指揮した《第九交響曲》を聴くようになってからである。》(「交響曲第八番」141-143
頁)
《要するに、アルバン・ベルク、アルノルト・シェーンベルクの音楽が、そこ[マーラーの管弦楽曲]から切れ目なしに続くその世界がここにあるので
ある。ベルクが詳細を極めた分析を捧げ、シェーンベルクが終生、マーラーのための熱烈な擁護にまえあったのも故なしとしない。
表現主義的なネオ・バロック。もし、こういう言い方が許されるなら、そうして、この言い方でヴィヴァルディたちのあの簡明なバロックでなく、モ
ンテヴェルディのあの極度の劇的迫力とバッハ、ヘンデルの極度の緊張感のみなぎった音楽を指向するものを考えてもらえるなら、そう呼びたい音
楽。》(「表現主義的ネオ・バロック 交響曲第九番」154-155頁)
《マーラーは、ヴァーグナーが楽劇のなかで総合したものを、交響曲の枠の中でやろうとした。つまり交響曲の形式と枠を維持しながら、思想的な深
さ、言葉を歌う人声、ロマン的な抒情性といったものを、そこに織り込もうとしたのである。その結果は曲は非常に膨大複雑なものにならざるをえなく
なった。
あるいは、もっと外側から見れば、彼の音楽は幾世紀にわたって蓄積されてきたヨーロッパ音楽文化の遺産の重みに押しつぶされ、それぞれの間で、
矛盾し排斥しあうものがあっても、それを選び分け、とりのぞくのでなくて、何も彼も一身に背負い込んでしまった、いわゆる世紀末の混沌と苦しみの
反映だともいえるだろう。マーラーの音楽までくると、われわれは、あのドイツ音楽の伝統が、あとからくるものにどれくらい重荷になってしまったか
を感ぜずにはいられない。
彼の作品には、天才的で絶妙な音楽的着想がふんだんにあるのだが、その反面あやうく通俗の域すれすれの感傷的な側面も聴き逃せない。》(「大地
の歌」174頁)
この最後の引用文を読むと、私は新古今時代、藤原定家の時代の和歌のありようを想起する。
★02月24日(日):知の妖怪と知の怪物
☆白川静+梅原猛対談『呪の思想 神と人との間』(平凡社)
奇人・梅原猛、大奇人・白川静。二人の知の巨人(知の妖怪と知の怪物)が今世紀の初頭、三度にわたって対峙した。歴史に刻まれるべきその対談の
テーマは、漢字(=饗)と孔子(=狂)と詩経(=興)。
2001年5月(「卜文・金文 漢字の呪術」)と8月(「孔子 狂狷の人の行方」)の二つの対談は、別冊太陽『白川静の世界 漢字のものがた
り』(2001.12.20発行)に掲載されたもの。再読して、高橋和巳『わが解体』のS教授が白川静であったこと、梅原猛が選ぶ「白川先生の三
作」が『孔子伝』と字統・字訓・字通の字書三部作と『詩経』研究であったことを再発見した。
別冊太陽刊行後の2002年2月の対談(「詩経 興の精神」)で、白川文字学の出発点(万葉との比較研究)となった「詩経」の二つの原理が明か
される。
すなわち、風・雅・頌の様式的規定と賦・比・興の表現、発想、修辞上の区分。賦は数え上げる、比はなぞらえる(比喩)、そして興は生命を呼び起
こし、土地の霊を呼び覚ます。貫之の「かぞへ歌」「たとへ歌」「たとへ歌」の訳も「まんざら間違いではない」(梅原)。
記念に白川静の発言を二つ。
「大体僕の考えではね、初期万葉は殆ど呪歌であったと思う。単なる叙景とかね、或いは想いを述べるというようなものではなしにね、相手に対して
もっと内的に働きかけるという、そういう意味合いを持った歌がいわゆる初期万葉であると。」(214頁)
「そもそも『万葉集』自体が社会生活の中で広く伝承されるようなものでなく、殊に最終の四巻は大伴家持の日記みたいなもので、大伴家に残されて
おって、大伴家が何か疑獄事件で被害者になって、家宅捜索された時に見つかった。」(283頁)
★03月01日(金):最後に現われるものが最初から存在する
☆岡ノ谷一夫『「つながり」の進化生物学──はじまりは、歌だった』(朝日出版社)
岡ノ谷一夫さんのことは小川洋子との共著『言葉の誕生を科学する』(河出ブックス)ではじめて知り(これは名著だった)、つづけて『さえずり言
語起源論──新版
小鳥の歌からヒトの言葉へ』(岩波科学ライブラリー)を読んで、「これは使える!」と感銘をうけながら、その後、特段の「使い道」を見つけられないまま今
日にいたっている。
「とにかく面白かった」としか言いようのない池谷裕二さんの名著『単純な脳、複雑な「私」──または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる
4つの講義』と同様、現役の高校生を相手の講義録で、出版社も同じ。それだけで期待がふくらむ。「1回の講義に、本1冊分くらいのネタを惜しげも
なく入れて」話をしたと「はじめに」に書いてあるのを目にすると、期待が烈しく高まっていく。
池谷本の副題をもじるなら、「さえずりから言葉へ、言葉から感情、そして心へ、コミュニケーションの進化をめぐる4つの講義」。
※
以前、山内志朗著『天使の記号学』に「最後に現れるものが、最初にあたかも原因であるかのごとく、いやたぶん実際に原因として存在する」と書い
てあったのを見つけて、とても刺激を受けた。
以来、西欧中世哲学について書かれた書物にでてくるこの命題の適用事例が、さまざまな分野において、とりわけ心や意識や言語の起源を問う文脈の
議論のなかでしばしば見られることに驚いてきた。
異なる領域間での概念や理論の流用には、尋常ならざる慎重な手続きが必要であることは重々承知しているつもりだが、それでもここには文科、理
科、その他の細々としたジャンルの区分を超えた何か深甚な理路が潜んでいると思わざるを得ない。
本書でもこの謎めいたループは、議論のキモにあたる箇所で出てくる。
《情動から歌が生まれ、そこから言語が生まれると、世界は言語によって切り分けられるようになります。言語を生み出した情動それ自体も、言語に
よって切り分けられ、より複雑な感情が生まれてきます。
こうして人間のコミュニケーションは、言語と、感情の2つの要素から成り立つようになりました。これら2つの要素は、同じ場面にあっても、必ず
しも同じ情報を伝えるわけではありません。》(216-217頁)
情動→発声→歌→(音の流れの切り分けと状況=文脈の切り分けが協調する相互分節化:143頁)→言語→感情。ここで感情とは分節化された情動
なのだから、情動(感情)→言語→感情。すなわち最後に現れるものが、実は最初に存在していた。
いまひとつ例をあげると、著者は、意識と感情の関係をめぐって次のように語っている。
《僕は、意識は、自分の感情や記憶など、心全体をモニターする仕組みだと考えています。われわれは意識を通して自分の心のありようを知るのだと思
う。》(226頁)
言語→感情→(自己)意識。ここで感情は記憶その他とあわせて「心」をかたちづくる。ところがその心は意識によるモニターの後に知られるのだか
ら、感情(心)→意識→心。すなわち最後に現われるものが、実は先に存在していた。
《自己意識ができる前に、「心の理論」と「ミラーニューロン」という2つのシステムがあった。最初は他人に心があると仮定して他人の行動をうまく
予想することが適応的になりました。次に、他人の心を予想するシステムをミラーニューロンで照り返し、流用することで、自分の心を予測するように
なったのではないか。
自分の心は、他者に心を仮定する能力の副産物としてできた。これが、前適応にもとづく心の起源の仮説で、「心の他者起源説」と呼んでいます。》
(251頁)
つまり、意識=心の理論(他者の心を予想するシステム、他者に心を仮定する能力)+ミラーニューロン(他者の行動を自分の行動に変換するしく
み)。この意識のはたらきによって、他人の心=「仮定された心」(概念としての心)が自分の心=「感情や記憶」(なまなましいクオリアを伴う心)
へと変換される。ここにも最後に現われるものが最初から原因として存在するというプロセスがみられる。
最後に、以上を総合する。
《言語が、他者に向けた歌から生まれたように、伝えたいと思う自分自身の心さえも、他者との相互作用から生まれてくる。僕は、心が、コミュニケー
ションが生み出した、最も重要なものなのではないかと考えています。》(254頁)
伝えるべき心があるからコミュニケーションができるのではなくて、そのような「伝えるべき心があるからコミュニケーションができる」という事態
そのものが、端的には「伝えるべき心」がコミュニケーションによって生まれてくる。ここにもあのループ、あの循環がある。
まだうまく整理できないが、だいたいこういった話題が本書のキモになる。これはもうほとんど哲学の世界である。
※
そういえば本書には印象的な問いが二つでてくる。
一つは、講義を聴講している高校生の発言にあるもの。「そもそも、なぜ僕たちは死ぬのが嫌なんだと思いますか。」という著者の問いに答えて、
「確かに、人って、この世にいない時間のほうが確実に長いのに、なんで死ぬのが怖いんだろう。生まれる前は存在しないのに。」(81頁)
もう一つは、世界には約6千の言語があるが、そのほとんどが他の言語に翻訳可能であるのはなぜかというもの。ただし本書(91頁)ではただ事実
として異なる言語間の翻訳可能性が述べられているだけで、それをなぜかと問うているわけではない。
これらの問いは、そこに答えのない問題を感じとる(感じとらざるをえない)人にとっては哲学的な問いになる。解明すべき問い、なんらかの方法に
よって解明できる問題ととらえる人にとっては、それらは科学の問題である。
本書にでてくる「哲学的ゾンビ問題」(231頁)も、そこに問題性を感じるか解明すべき謎ととらえるかによって、真正の哲学の問いになったり擬
似哲学問題(科学の問題)になったりする。
著者の問いのたてかた、もしくは問題性の感じ方、とらえ方はこの(哲学的と科学的の)二つの問いの世界にまたがっている。そこが面白い。
この本の面白さはほかにもある。いくつか備忘録として書いておくと、たとえば、再帰的な演算能力の物凄さについて(84頁)。
ヘレン・ケラーが初めて世界の事物に名前がついていることを理解したときに起こっていたのは、「AならばB」から「BならばA」(事物=水をさ
わることでそのシンボル=指文字をつくる)を推論する誤謬推論の能力の獲得、つまりシンボルと意味の対応関係を両方つくることだった(138
頁)。
言葉の超越性、すなわち過去、未来、地球の裏側のことも言えること(99頁)。
音の流れを切り分けること、文脈を切り分けること、シンボルと意味との対応が双方向的であること、これらの性質が、言葉のはじまりにとって大切
だったこと(139頁)。
相互分節化仮説。歌を切り分ける大脳基底核の働きと、状況(文脈)を切り分ける海馬の働き、このふたつの働きがうまく協働して、人間は言語を獲
得した(142頁)。
★03月02日(土):誰が語っているのか
☆ル・クレジオ『物質的恍惚』(豊崎光一訳,岩波文庫:2010.5.14)
昔、たぶん大学生の頃だったと思うが、アンリ・ミショーの詩やデッサンに強く惹かれていた時期があった。小海永二氏の著書か訳書を何冊か買い求
めたような気がするのだが記憶が不確かで、詩集『みじめな奇蹟』を所持していたかどうかも思い出せない。
もしやと思って検索してみると、千夜千冊の977夜[http://1000ya.isis.ne.jp/0977.html]が『砕け散るも
のの中の平和』をとりあげていた。「アンリ・ミショー! あれは、未詳。あられな、三娼。あんぐり未詳の、稀少倶楽部の、みせう、未詳。」
とくに共感したのは次の文章。というのも、私はミショーのメスカリン詩よりメスカリン・デッサンの方により強く惹きつけられていたからだ。
「ぼくははっきり告示することができるのだが、ミショーのドローイングこそは真の意味での図象文字であり、神経の運動知覚記号そのものであるにち
がいない。」
アンリ・ミショーのことを思い出したのは、『物質的恍惚』の文庫解説「ル・クレジオの王国を統べるもの」で今福龍太氏がル・クレジオのミショー
への傾倒について書いていたからだ。
「ミショーとル・クレジオは、言語意識の彼方からの異形の声に耳を澄ませ、客体としてのかたちを失った世界の無限定の輪郭を凝視しながら、詩的言
語を介して社会への敵意・呪詛を語り、物質的凝集への陶酔感を描きだす衝動を共有していた。」(446頁)
今福氏はつづけて、両者に共通する「二つの相関し合う、創造に向けての実験的主題」があったと書く。
その一は「麻薬体験による意識の拡張・深化への真摯な探究」。「やや大胆にいえば、『物質的恍惚』という前-言語意識の究極の探究を頭脳のなか
で完遂したル・クレジオにとって、インディオの幻覚性植物との出遭いは、ほとんど宿命として約束されたものであり、書きつづけるための唯一可能な
道程でもあった。」
その二は「言語の極北、具体性と観念の一体化への究極の試み」(448-449頁)で、それはまさに『物質的恍惚』がそのクライマックスにおい
て到達しようとするものであった。
今福氏の解説は力のこもった長編論考で、これを読むためだけにこの文庫本を買ってもいいほどの出来映えだと思う。(豊崎光一氏の「訳者のこと
ば」もこれに負けず劣らず素晴らしいものだった。)
本書は序章「物質的恍惚」、本篇「無限に中ぐらいのもの」、終章「沈黙」の三つからなる。誕生-生-死。今ちょうどその本篇を構成する9つの文
章のうち最後の「鏡」の直前まで読み終えたところ。
感想めいたものはまだかたちをなさないが、漠然と頭をよぎっているのは、(あたかも『ドクラ・マグラ』の巻頭で「胎児よ/胎児よ」と歌う歌い手
のような)この書物の語り手はいったい誰なのか、そして誰もしくは何にむかって語っているのかという疑問だった。
それは、つまり『物質的恍惚』の語り手たる「ぼく」とは「集団的なエクリチュール」(454頁)もしくは「匿名の、集合的な声として織り上げら
れた神話的思考」(455頁)のことなのだと、今福氏ならそう答えるだろうか。
「ロートレアモンやミショーとならんで、レヴィ=ストロースの著作[『野生の思考』や『神話論理』全四巻]のなかにも、ル・クレジオは集団的なエ
クリチュールの夢を探究するための道標を、確かに発見していたのだった。」(454頁)
あるいは、今福、豊崎の両氏が共通して引用している「ぼくは他人たちの考えでもって書く」(112頁:それぞれ415頁と453頁で引用)のう
ちにそのヒントが潜んでいるのだろうか。
語りとともにそこで語られる当の世界が(物質的に)出現し、その世界に向かって語りつづける声が当の世界のなかに(物質的な声として)響きわ
たってゆく。
それは神ではないか。語っているのは神なのではないか。そのような語りを語るもののことを神というのではないか。
それは言語なのではないか。語っているのは言語そのものにほかならないのではないか。
言語以前のことが、精確には物質(声、書痕)としての言語以前のことが、端的に言えば誕生以前の世界、そして死の世界が、今福氏の使った語彙を
借用すれば「前-言語的欲動」(455頁)をもって語られる。
今福訳によるミショーの『氷山へ』の一節が、その答えを示唆しているのだろうか。
《それは言葉なのだろうか? 言葉とはなんなのか、イメージとは、観念とはなんなのか、ぼくにはもうよくわからない。いや、それは物質なのだ。そ
れは輝き、おのれの力による重みを持ち、静かで美しく、どこからでも見える。それは隠しごとのない記号、明るいデッサン、踊る肉体、叫び、鵜の
ゆったりとした飛翔、氷河の海をすばやく横切る鮫、遙かに雪を戴いた尖峰、峡谷、船の航跡、エンジンからたなびく煙、そして砂の上に残された足
跡。》(「ル・クレジオの王国を統べるもの」450頁)
それは物質なのだ。語っているのは物質なのだ。クオリアは少なくともその身の半分が物質の領域に属している。
※
石井洋二郎著『告白的読書論』に、「わたしたちはその「わからなさ」をそのまま受けとめ、そこにうごめいている言葉のエネルギーに身をゆだねれ
ばそれでいいのである。ニーチェやランボーが「わかる」というのはそういうことだ。」と書いてあった。
「わからなさ」に身もだえしたわけではないし、賢しらに「わかる」を連発したいとも思わない。わかる、わからないの次元が違う世界に誘われたと
いう思いが強く残っている。語っているのは誰なのか。書いているのは誰もしくは何なのか。
『物質的恍惚』を読み終えたいま、ル・クレジオの言葉のエネルギーに身をゆだねきった希有の経験を記憶に深く刻みこむため、厳選した一つの文章
をここに記録することしか思いつかない。(厳選することなどほんとうはできない。最後にドッグイヤをつけた文章を転記した。)
《言語の彼方、意識の彼方、すべて形であって生きていたものの彼方に在るのが、全的な物質、生[なま]の物質、目的なくそれ自体に委[ゆだ]ねら
れた物質の拡がりだったのだ。ぼくの自我の彼方、ぼく個人の真実というプリズムを越えて、自己を表現しようとしないこの世界があったのだ。ぼくが
生きているかぎり、ぼくが見ているかぎり、ぼくは何ごとをも知りえまい。ぼくが感じることすべては、虚偽であるのではなく、まぼろしであるのでは
なくて、在るものではないだろう。ぼくが母のほうへ回帰しようとしても空しい、母はぼくを迎え入れはしないだろう。母は生きているぼくなどいらな
いと言うだろう。母がぼくを受け容れてくれるのは、ぼくがもはや何ものでもないときにすぎまい。それが母の掟[おきて]なのだ。》(「沈黙」
348-349頁)
★03月04日(月):小説の物語
☆ウラジミール・ナボコフ『ナボコフの文学講義 上』(野島秀勝訳,河出文庫:2013.01.20)
昔、阪神淡路大震災よりも数年前に読んだマヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』が面白かった。(1992年9月以降に読んだ本は記録しているが、
蜘蛛女はそこにでてこない。)
千夜千冊の270夜[http://1000ya.isis.ne.jp/0270.html]に、「この小説は映画の物語なのである。映画の
ような小説なのではなく、映画を見るということそのもの、映画を語るということそのものを取りこんだ小説なのだ。映画に体感エクリチュールという
ものがあるとすれば、その体感エクリチュールが文学になったといえばいいだろうか。」とある。
「モリーナが『千夜一夜物語』よろしく、毎晩、続きもののように、映画の物語を聞かせるわけなのだ。語られる映画は6本にのぼっていて、そうとう
細部まで語られる。そればかりかモリーナは脚本家の立場、監督の立場、批評家の立場をすべて引きとって、しかも役者にもなってみせている。バレン
ティンはその語りの中へ入っていく」
モリーナとバレンティンはホモセクシャルな関係にある男たちで、ブエノスアイレスの監獄にいる。
というようなことはこの際あまり関係がなくて、『ナボコフの文学講義』を読み進めながら、この「映画を語ることそのものを取りこんだ小説」のこ
とを、その無類の面白さの「体感エクリチュール」を思い出していた、そのことを忘れないように書いておきたかった。
いまちょうどジェイン・オースティンの『マンスフィールド荘園』をあつかった最初の講義を読み終えたところ。未読の小説なのにかつて味わった感
銘(体感エクリチュール?)を反芻する再読の愉悦に浸っているような、どこか倒錯した快楽に陶然となっている。
個人的な体験でいえば、私にとって映画を観ることはつねに、経験したことのない過去の出来事や心象風景を想起することであり、そして観終えると
同時にそれらはまた二度と再び再現できない忘却の彼方に消失してしまう。ちょうどそれと同じことがいま生じているわけだが、ただひとつ違うのは、
その経験が文章によってもたらされたものであるということだ。
そういえばオースティン関連の映画は、「ジェイン・オースティンの読書会」(ロビン・スウィコード監督)と「プライドと偏見」(ジョー・ライト
監督、キーラ・ナイトレイ主演)を観た。いずれも印象深いものだった。ただしそれらの映画を構成する細部の映像は二度と再び再現できない忘却の彼
方に消失し、それらの映画を観ていたときの「体感エクリチュール」は着地点を見出せないまま虚空を漂っている。
※
上巻を読み終えた。
オースティン(『マンスフィールド荘園』)の陶酔のあと、ディケンズ(『荒涼館』)で少し道に迷い、フロベール(『ボヴァリー夫人』)では圧倒
された。
「フロベールがこう論じてもらいたいと思っていたように、ここで『ボヴァリー夫人』を論じてみたい。つまり構造(彼はこれを「運動[ムーブマ
ン]」と呼ぶ)、主題の糸、文体、詩、それに人物の点から論じることにする。」(「ギュスターヴ・フロベール」310頁)
とりわけ構造と文体が肝要だ。そして技法。
たとえば、オースティンの「ナイトの動き」(167頁)や「独特のえくぼ」(169頁)、ディケンズの「物語の動かし手」や「かたつむり
(perry)」(249頁)、そしてフロベールの「対位法的手法」(347頁)や「構造的移行」(355頁)、等々。これらのナボコフ語による
技術論に説得力がある。
小説にとって大事なことをめぐるナボコフの言葉も印象深い。
「なによりも細部に注意して、それを大事にしなくてはならない。」(「良き読者と良き作家」53頁)
「文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年がすぐうしろを一匹の大きな灰色の狼に追われて、ネアンデルタールの谷間から飛び出してきた日に
生まれたのではない。文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかいなかったという、その日に生まれた
のである。」(「良き読者と良き作家」61頁:池澤夏樹氏の「解説──精緻な読みと巧緻な作り込み」でも引用)
「文学とはこういうつまらぬもの[ディールの海港の描写]から成り立っているのだ。事実、文学を成り立たせているのは、一般的な観念ではなく、個
別的な啓示なのである。」(「チャールズ・ディケンズ」287頁)
学生への試験問題の見本が「付録」に掲載されている。
『荒涼館』に関する第3問、「『荒涼館』の構造と文体について論ぜよ」。
『ボヴァリー夫人』の第5問、「『ボヴァリー夫人』のなかには、「馬」「石膏細工の司祭」「声」「三人の医師」といった数多くの主題の糸があ
る。これら四つの主題について完結に記せ。」
同第7問、「「そして」という言葉をフロベールがどのように使っているか論ぜよ。」
こんな切り口や視点で小説を読む!
☆2014
★01月03日(木):今年最初に読んだ本・買った本
今年の初読みは、安田登著『あわいの力──「心の時代」の次を生きる』。
昨年の暮れ、毎日新聞の渡辺保の書評文で知った前田英樹と安田登の対話本『からだで作る〈芸〉の思想』と一緒に購入した。
今日、全十章のうち二章まで読んだ。滅法面白い。
面白く読みやすいからといって読み急いではいけない。言葉が身体に染み入るのを感じとりながら、ゆっくりじっくり読み進めなければいけない本だ
と思う。
版元のミシマ社の本は、内田樹著『街場の文体論』を読んだことがある。装丁、紙質、活字、その他の仕様がとても気に入り、中身もよかったので内
田本としては『他者と身体』『死と身体』『レヴィナスと愛の現象学』『映画の精神分析』に次ぐ常備本となった。
『あわいの力』はその『街場の文体論』の姉妹編のような造りの本で、書店の棚に『からだで作る〈芸〉の思想』と並べられているのを手にとったと
きの感触で名著だと直観した。
安田本は『疲れない体をつくる「和」の身体作法』に次いで二冊目で、これも常備本になっている。
今までのところで特に面白かったのは、「ワキとはすなわち「媒介」である」の論と「こころ/おもひ/心(しん)」という日本的な心(こころ)の
三層構造の説。
「いまは昔」の現象や「終止しようとしない日本語の特徴」をめぐる議論も刺激的だった。
いずれも、いまとりくんでいる古典和歌における「心」の問題に直結している。
※
今年の初買いは、新潮文庫の『小林秀雄対話集──直観を磨くもの』。
講談社文芸文庫版の「対話集」が中断したままだが、新潮文庫版の装丁(カバー写真)、活字の組み方が気に入ったので先に読むことにした。(結局
また積読になるかもしれない。)
十二人の対談者のうち福田恆存、大岡昇平、永井龍男、河上徹太郎の四人が文芸文庫とかぶっている。
その河上徹太郎との「歴史について」は、音源が「小林秀雄最後の日々」を特集した『考える人』(2013年春号)の付録CDで公開されていた。
「対談」より「対話」がこの人の話芸に相応しい。できればすべて耳で読みたい。
小林秀雄と柳田國男の関係が気になっている。
講演「信ずることと知ること」で、ベルクソンと柳田國男(『故郷七十年』と『山の人生』と『遠野物語』)の話を聴いて以来のこと。そういえば文
芸文庫版の対話集も、相前後して同じ文庫から刊行された『柳田國男文芸論集』と一緒に買った。
昨年暮れ偶然『柳田国男論』(柄谷行人)と『小林秀雄の哲学』(高橋昌一郎)を並行して読みいろいろ触発されたが、記録していないので思い出せ
ない。残念なことをした。
だから今年は、できるかぎり書き残すことにした。
★01月04日(土):切抜帖──『あわいの力』から
安田登著『あわいの力』からの切り抜き。
◎ワキとはすなわち「媒介」である
ワキは「分く」の連用形。着物の脇の縫い目(ワキ)が着物の前後を分けると同時につなぐように、能のワキは「あっちの世界」と人間、「異界」と
現実世界を「媒介」する「あわい」の存在である。
「あいだ・あひだ」「あわい・あはひ」は「あふ(合う、会う)」と同根の語で、ふたつのものが出会う界隈が「あひだ」であり「あはひ」である。
シテ方に面(おもて)、笛方に笛、鼓方に鼓という「お道具」があるように、ワキ方は自分の身体を「道具」とする。
人間は、身体という「媒介」「あわい」を通して外の世界とつながっている。身体は「ワキ」であり、すべての人は「あわい」を生きている。
「身体は、「あっちの世界」と人間をつなぐ、呪術性を帯びた「道具」なのです。」(27頁)
◎「こころ/おもひ/心(しん)」という日本的な心(こころ)の三層構造
表層の「こころ」。その特徴は「変化する」こと。こころ変わりする、移ろいやすい感情が「こころ」。
その「こころ」の下に「おもひ」がある。表層の「こころ」を生み出すもとになる、動的な心的作用が「おもひ」。「おもひ」のなかで重要なのが
「こひ(恋、乞ひ)」。
「能というのは、この「おもひ」を圧縮した芸能で、そして能を演じるということは、その「おもひ」を解凍していく作業なのかもしれません。そこで
解凍された「おもひ」は客席にあふれ出ていき、それがまた観客ひとりひとりの「おもひ」と同期して、そこに何かを生み出す。
それが能という芸能なのです。」(32頁)
「能の舞において大事なことは、言葉にはならない「おもひ」を伝えること(「どう伝えるか」ではないのでお間違えのないよう)、あるいはその深層
にある「心(しん)」を伝えるエネルギーをいかに引き起こすかであって、「振り」には意味は必要ない。いや、必要ないどころか意味があってはいけ
ないのです。意味が付与されたとたん、それは理解可能な「こころ」の領域に属するものになってしまうからです。
これは芸能としては、とても珍しいことです。」(34頁)
「おもひ」の奥、もっとも深い層に「心(しん)」が存在する。「芯」に通じ「神」にも通じる、「おもひ」や「こころ」とは異質の神秘的な心的作
用。
言葉や文字を媒介とせず、一瞬にして相手に伝わる何か。以心伝心というときの、そして世阿弥が「心[しん]より心[しん]に伝ふる花」というと
きの「心(しん)」。
◎「いまは昔」の現象
能において、時間は独特な流れ方をする。
シテとワキが出会うと、ワキが生きる「この世」の順行する時間と、「あの世」から来るシテの遡行する時間が交わる。
シテとワキの会話が盛り上がり、地謡に引き継がれる。二つの時間が渾然一体となる。時間の統合を示す最初の地謡で謡われるのは、シテの思いでも
ワキのこころでもない。風景である。
「心のメタファーとしての風景ではなく、ただの風景なのです。すなわち、ふたりの思いが風景に流れ出し、心も体も風景も、すべてのものが渾然一体
となる。それが謡われるのが最初の地謡です。
そのとき、「いまここ」が昔になってしまうという、日本の昔話でお馴染みの、「いまは昔」の現象が生じます。」(41頁)
日本の昔話の語尾に使われる「けり」(「昔、男ありけり」)は、「き(過去)」に「あり」がついた語で、「過去の話であっても、いまここにあり
ありと「ある」」ことを示している。
「いまは昔」になったとき、そこには時制概念はない。いまと昔が渾然一体となる。そのとき表層の「こころ」は取り去られ、深い「おもひ」の世界
と対している。だから、感動(「おもひ」があふれ出ること)の意味を本来的にもつ「けり」が使われていた。
「日本の昔の物語は「おもひ」の世界の言語、すなわち歌のように、感動を高らかに表現していたのです。」(42-43頁)
◎終止しようとしない日本語の特徴
動詞の連用形が名詞になるという日本語の特徴。「分く」⇒「ワキ」、「こふ」⇒「こひ」のように、「い段」で終わる語は不安定で、いまにも動き
出しそうな動的な雰囲気がまとわりついている。
「これは連用形だけのことではありません。日本語そのものが安定や終止を嫌う言語なのではないでしょうか。いまも昔も渾然一体、「あっちの世界」
と「こっちの世界」を動き回ろうとする動的な言語。呪術的でもあり、身体的でもある言語のようだと感じています。
日本の物語や芸能の構造も、終止しようとしない日本語の特徴を受け継いでいます。たとえば浪曲の終わりは、「ちょうど時間となりました」で、話
そのものが終末を迎えることなく、次を期待させて終わります。日本の古典も、終末のよくわからないものがほとんどです。s」(43頁)
★01月30日(木):魂(アニマ)について
山内志朗著『「誤読」の哲学』から中畑正志著『魂の変容──心的基礎概念の歴史的構成』へ。そして神崎繁著『魂(アニマ)への態度』へ。
西洋古代・中世の哲学と現代の「心の哲学」をつなぐ(そして貫之、俊成、定家、心敬、世阿弥、芭蕉、等々の歌論、連歌論、能楽論、俳論につな
がっていく)ミッシング・リンクの探究。
山内本では「媒介の喪失と観念の参入」(=「三項関係から二項関係への移行」)や「虚(構)体」といった議論や語彙が濃く記憶に残った。
中畑本でとくに強く印象に残ったのは、「われわれの世界は認知されるべく自らを潜在的な情報源として提示しており、魂の能力は、そのような世界
のあり方を示す情報を受容する能力それ自身である」(31頁)という(生態学的心理学を思わせる)アリストテレス的な「埋もれてしまったヴィジョ
ン」(34頁)の発掘作業が示唆する心の哲学のあり方と、「歴史性に注目して考察することは、自然科学の仕事ではなく人文学の課題である」(36
頁)とする「心の人文学」をめぐる議論。
神崎本はやや想定外。「ハイデガーが「プシューケー」に与えた訳語が「現存在(Dasein)」だったことは、やはり重要なことだと言わなくて
はなりません」(211頁)。
引き続き田島正樹著『古代ギリシアの精神』を眺めている。
一昨年の秋に刊行されたイブン・シーナーの『魂について──治癒の書 自然学第六篇』(木下雄介訳,知泉書館)も読んでみたい。山内志朗の解説
「イブン・シーナー『魂について』をめぐる思想史的地図」だけでも。
★02月11日(火):最近買った本──『幽玄・あはれ・さび』ほか
久しぶりの大人買い(というほどの冊数でもないか)。
和歌と連歌と俳諧、能・人形浄瑠璃・歌舞伎、茶の湯を起点に花、書、香、そして美術建築工芸へと、日本の美学に関連する書物を集中的に読みたい
と思っている。ここ数年ずっと思いつづけている。
◎大西克礼『幽玄・あはれ・さび』(大西克礼美学コレクション1,書肆心水)
◎吉本隆明『源実朝』(ちくま文庫)
◎保田與重郎『後鳥羽院(増補新版)』(保田與重郎文庫4,新学社)
◎安田登『異界を旅する能 ワキという存在』(ちくま文庫)
昨年読んだ田中久文著『日本美を哲学する』がとても面白かった。
「大西の説く「あはれ」・「幽玄」・「さび」についての議論を、西田幾多郎、唐木順三、井筒俊彦らを援用しながら追いかけ」(第一部)、また
「大西の議論を中心におき、柳宗悦や久松真一らを援用しながら、日本と西洋との「芸術」に関する見方の根本的な相違点を明らかにする」(第二部)
と「はじめに」にある。
「哲学的にいうならば、「あはれ」はこの世界の本質をどう把握するかという問題であり、「幽玄」とはこの世界をどう超越するかという問題であり、
「さび」とは離脱した世界をどう再び回復するかという問題である。…「いき」の場合には、自己と他者との関係のなかで「美」が問題となってい
る。」
田中本をぱらぱらと眺め返してみて、やはり大西克礼の原著にあたらなければならぬと思った。「コレクション1」は『幽玄とあはれ』と『風雅論
──「さび」の研究』を収める。
「…「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった概念をめぐって展開された思索は、今日的にいえば芸術論・文学論・芸能論・演劇論などといわれる
形をとりながらも、実際には人間や世界のあり方全体に関わるものであり、しかも、何ものを前提とせずに[特定の経典や教義による制約を受けずに素
手で]世界を考えようとする、まさに「哲学」的なものであったといっても過言ではない。」
この個所を読んで坂部恵の著書と佐々木健一著『日本的感性』を想起した。大西本とあわせて熟読玩味したい。
電子ブックを試してみようと思いたち、あまり深く考えずに小浜逸郎著『日本の七大思想家』を選んで読んだ。
吉本隆明の章で印象に残ったのが『源実朝』(1971年刊行)に対する高評価。なにをどう評価しているかは読み返してみてもよくわからないが、
『初期歌謡論』(1977年刊行)に先立つ吉本和歌論をおさえておきたいと思った。
安田本は、いま読んでいる『からだで作る〈芸〉の思想──武術と能の対話』で前田英樹がしきりに保田與重郎に言及しているので前々からいちど読
んでおきたかった後鳥羽院論を手元におくことにした。
対談相手の安田登が『芭蕉』を読んだと語っているのでこれもあわせて購入しておけばよかった。
その安田登の本は『あわいの力──「心の時代」の次を生きる』でふれられていた「順行する時間」と「遡行する時間」の融合の話を読みたくて前々
から目をつけていた。
★02月12日(水):最近読んでいる本──『夢十夜』ほか
安田登さんの『異界を旅する能 ワキという存在』はほんとうに面白い。
その安田さんの夢十夜(第三夜)の朗読をユーチューブ[https://www.youtube.com
/watch?v=GaqUZFJWrKk]で観た。とても迫力のある声だった。
オリオンブックスからでている電子ブック(Kobo版)を買って読んでいる。
この作品は漱石が謡を本格的に習いだしたときに書いたもので、能そのものの構造をもっているという。
松岡心平さんの『能の見方』(角川文庫、Kobo版)と夢野久作の『能とは何か』(青空文庫、Kindle版)も読んでいる。
松岡さんの本は『宴の身体──バサラから世阿弥へ』と『中世芸能を読む』が常備本。
夢野本は書肆心水の『夢野久作の能世界』のホームページ[http://www.shoshi-shinsui.com/book-nou-
yumeno.htm]にあるPDFファイルでも全文読める。
★03月04日(火):身体のなかを竜巻がかけめぐる経験
前田英樹著『ベルクソン哲学の遺言』を半年ほどかけて断続的に読み進め、ついさきほどようやく読了した。
『言葉と在るものの声』のときもそうだったが、前田英樹の本を読むことは、身体のなかを竜巻がかけめぐるのを経験するのに等しい。精神をカンナ
で削られる体験といってもいい。
《彼の言葉は、言葉自身が持つ運動、そのリズム、リズムがもたらす一種の抑揚、そうした何かと完全に一致した「意味」によって語られなくてはなら
ない。そうした言葉は、それを受け取る者のなかに同じ波動を引き起こす。哲学者を理解するとは、このような波動を、自分のうちで経験することにほ
かならない。》(227頁)
ここでいわれる「彼」とは「直観を方法とする」哲学者のことで、「彼」は直観の対象となる「持続」を、まさに「持続において思考する」。
また「意味」について、ベルクソンは、講演「哲学的直観」(『思想と動くもの』)のなかで、「意味は考えられたものであるよりは、思考の運動で
す。運動であるよりは、ひとつの方向です。」と語っている。
★03月13日(木):切抜帖──『歌と宗教』から
鎌田東二著『歌と宗教──歌うこと。そして祈ること』(ポプラ新書)から。「俳句アニミズム論」とその解説。
1)「俳句」とは、「俳諧」である。
2)「俳諧」とは、「俳=人に非ず+諧=皆言う」ワザである。
3)したがって、「俳諧」とは、「写界主義」である。それは、世界の「界面」を「写す」ワザである。
4)それに対して、「短歌」とは、「写心主義」である。それは「心(情)」を「写す」ワザである。
5)この「俳諧」は、「徘徊=吟行」によって支えられる「地面の文学」である。あるいは、「地霊」を呼び出すワザである。
6)その、場ないしアニミズム文学としての「俳諧」は、「脱人間(中心)主義」、「脱主体(個人)主義」を基とする、「汎主体(俳諧=人に非ず・
皆言う)主義」である。
《このわが俳諧理論を少し詳しく説明してみよう。
「俳諧」とは、その文字を分解すると、「人」に「非ず」、「皆」「言う」という組み合わせとなる。「人に非ず」とは、人に限らず、天地万物が、岩
も根も草木も話すということである。したがって、俳諧とは、「万物が歌う世界」を写すことなのだ。それを、「写界主義」と名づけたのだ。そこで
は、みんなが歌を歌い合い、聴き合っている。
松尾芭蕉は、それを俳諧というワザに仕立て上げた立役者だ。
これに対して、短歌が「写心主義」だというのは、スサノヲの躍動する心「我が心清々し」という「こころ」を移し表現するワザだということだ。そ
れが、「ヤエガッキ~、ヤエガッキ~、ヤエガッキ~、ああうれしい~な~!」という喜びの感情を写していく表現だということである。
すべての物が声を放っている世界を写すのが俳諧で、これに対して短歌は心の世界を写すものとなる。
その俳諧はまた、「徘徊」すること、つまり「吟行[ぎんこう]」することで支えられる。「吟行」とは、歌いながら行くことである。それは、森羅
万象の声を拾い、地霊を呼び出すワザなのだ。
要するに、「俳諧」とは、「人に非ず=俳」「皆言う=諧」、天地人響応のワザであり、文芸なのだ。そこには、「草木」も「言語(ことと)う」と
見てとった、古事記や日本書紀や延喜式祝詞以来の、あるいはそれ以前のアニミスティックな言霊自然感覚があるのだ。
短歌がより人間的な側面を持つとするならば、俳諧はより大自然的な物の声を拾っている。その意味で、わたしは古事記以前の、短歌が生まれて来る
以前の歌の世界を、もう1度形式化したのが俳諧だととらえているのである。
そういう意味で、芭蕉の仕事はとても重要なのだ。草木も言問うような世界をもう1度、1つの文学形式、五七五という17文字の最も短い文学形式
に様式化し完成させたのだから。
短歌は31文字だから、およそその半分に縮めた。それでも、短歌よりも古い日本人の言語観、アニミズム的な自然感覚・世界感覚・生命感覚をその
中に呼び込んで再生させた。わたしはそんなふうに芭蕉の仕事と業績をとらえている。
これは、あくまでも、神道ソングライターとしての見方であるが。》(174-175頁)
★03月26日(水):カラダコトバのOS
田中泯×松岡正剛『意身伝心――コトバとカラダのお作法』。
対談の圧巻は田中泯と松岡正剛が語る「恋愛観」。二人の関係に嫉妬を感じながら読んでいた。
このところ松岡正剛にあまり如何わしさ、怪しさを感じなくなりかけていたけれど、やはりこの人は「ホンマモン」だと思った。
たとえばいま任意に開いた個所で、松岡正剛は、人の書いた文章やコトバを見るとき、それがどんな場面、手つきで使われたかを一緒に見ないとダメ
だ、一人で本を読んでいるときも、そこに書かれていることの中から場面や手つきを探す、「たとえばマルクスみたいなものを読むときも、マルクスが
卒業論文として書いた微分論を読みながら発見したことを使う」云々と語っている。
あ、これは…と思いかけると、すぐ続けて次のように語る。じつに深くて怪しい。どこか如何わしいが深い。
《…踊りの根源に直立二足歩行の時代があったように、言語の歴史にもあるものが先行していたはずで、おそらくはごくわずかなシソーラスだけで何で
も表現できる時代があったはずなんです。仮に現代のコトバのボキャブラリーが一〇〇〇くらいだとすると、古代語の世界では一〇くらいのわずかなコ
トバで、メシも食えるし、お悔やみも言えた。なぜそんなことが可能だったかというと、そこに共有しているカラダコトバのOSのような場面があるか
らです。そういう共有可能な場面を、谷崎やドストエフスキーの中にも発見する。》(280頁)
★03月27日(木):初めての電子ブック体験
小浜逸郎著『日本の七大思想家──丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉』を読んだ。
初めての電子ブック体験だった。
全体の分量が感覚的につかめないのが苦痛だし、後で文章を確認するのに苦労する。議論ではなく物語に溺れるのに向いているのでないかと思う。
この著者は信頼できると思っていたが、時折、通りすがりの批判のような浅薄なものが見受けられるのが気になった。
特に大森荘蔵に対するものはひどい。「哲学」と「思想」を混同している。
読むのをやめようかと思いはじめると、見過ごせない鋭い指摘が繰り出されたりするものだから、中断できないまま最後まで読んだ。
とりあげた七人の関係、その配列の仕方などは考え抜かれているのではないか。時枝誠記から大森荘蔵、そして小林秀雄へといたるところはとくに面
白い。
記憶に残ったのは39%あたり(ページ数で示すことが出来ない)。
時枝の初期の論文(「語の意味の体系的組織は可能であるか」、『言語本質論』)に、形容詞は物(客体)の状態と心(主体)の情状を両方表わすこ
とができるものがあると述べられているのを読み、著者がかつて『エロス身体論』で知覚と情緒の関係について考えたことと「シンクロ」するもので
あったと書いてあるところ。
《私が言いたいのは、形容詞という品詞または形容詞的表現は、もともとどちらかに分類可能なものではなく、「客体」とその知覚に不可分につきまと
う「主体の情」とを二つながらに表現するに適した言い回しなのであって、そこにまさに「物心一如」の世界が出現していることを語ろうとした言葉
(群)なのだということである。
吉本隆明流に言えば、それこそは理性によるコントロールを通過する以前の「自己表出」であって、「はじめに言葉[ロゴス]ありき」(ヨハネ伝第
一章)ではなく、「はじめに言葉[パトス]ありき」なのである。》
著者さらに、「真っ赤に燃え上がった怒り」や「哀しい光景」は言葉の比喩や転用ではなく、むしろ主体の思いと客体の状態とをはじめから一体的な
ものとして表現する形容詞本来の機能に根ざした表現であり、原始的な身体感覚にぴったり合うように訴えかけてくるのだと論じる。
そして、時枝の、言語の本性をなすものは述語格であるという説は、この形容詞に見られる「物心一如」的な世界把握とまさに同じことを表現してい
るのだと評価し、この考えは大森荘蔵の「立ち現われ一元論」へと連続していくと論じる。
このあたりのところは、かねて私が構想している四つの私的言語論につながっていく。すなわち「今」的言語、「此処」的言語、「私」的言語(狭義
の私的言語)、「感情=パトス」的言語(「共感覚・身体」的言語)。
★05月08日(木):記憶のインデックス──『これを語りて日本人を戦慄せしめよ』
☆山折哲雄『これを語りて日本人を戦慄せしめよ──柳田国男が言いたかったこと』(新潮新書)
柳田国男のことは(萩原朔太郎とともに)数年かけてきわめたいと思っている。究めることはできなくても、自分なりに見極めたいと思っている。
本書はいずれまた読み返すことになるだろうと思い定め、心に残る印象的な話題をインデックスのように記憶にとどめおきながら読んだ。
その記憶のインデックスをいくつか記録しておく。
◎柳田の「自然還元」。折口の「始原還元」。熊楠の「カオス還元」。
柳田国男の学問には「普遍化(=現代化)志向」とでもいうべき方法意識が底流している。
「民俗や文化をめぐる不可思議で珍しい事象を、どこにでもみられる自然的な現象へと還元して読み解こうとしている志向性」(31頁)。
たとえば「山人」を「縄文人のなれの果て」とみる。
これにたいする折口信夫の方法は「始原化(=古代化)」。
「不可思議な現象を、柳田のように合理的に解釈のつく自然的な現象へと還元するのではない。そうではなくて、合理的な解釈を拒むような、もう一つ
奥の不可思議現象へと遡行し、還元していく方法」(32頁)。
たとえば「翁」の諸現象を「山の神」に、そして「まれびと」という彼岸の始原へと還元する。
「柳田国男の手品には、自然科学的なカードさばきによる謎解きの魅力があるが、折口信夫の手品には同語反覆的トリックの鮮やかな手さばきが躍動し
ていて、意表をつく。」(34頁)
それでは、南方熊楠の「方法」とは何か。
狂気のごとき羅列の最後尾が出発点に接触し、一つひとつの材料を突然混沌の淵へと突きおとす「カオス還元」。
「逸脱から逸脱への無限軌道、迷路から迷路への多次元遊泳、──要するにすべての情報をわき返る混沌の溶鉱炉のなかに放りこんで宇宙を回転させよ
うとする熱望が、南方熊楠の誰にも真似のできない「学問」を形づくったといえないだろうか。」(37頁)
◎柳田と折口の「師弟」関係。(どこかしらフロイトとユングの関係を思わせる?)
柳田の「山人」と折口の「まれびと」。
柳田の「童子」(小さきもの)と折口の「翁」。
柳田は87歳の天寿を全うしたのにたいし、折口の方は志半ばにして66歳で逝った。
「柳田はすでに生きているうちから柳田「翁」と呼ばれ、成熟した晩年を迎えることができた。ところが、これにたいしてついに成熟の季節を迎えるこ
とのないままに人生を閉じた折口。いや、かれはみずから成熟の人生を拒否する生き方を選びとろうとしていたのである。」(176頁)
◎「維新」三つの選択
明治維新の段階において国の進路を定める選択肢にすくなくとも、福沢諭吉、内村鑑三、柳田国男の三つの可能性が存在した。
福沢諭吉=富国強兵、殖産興業にもとづく文明開化路線
内村鑑三=西洋文明の土台をなす精神原理(キリスト教)を欠く軽薄な文明摂取では本物の独立自尊を築きあげることはできない。(日本のキリスト
教は武士道の理想を実現するものでなければならない。)
柳田国男=食糧生産を確保する自立農業(農民)の立ち上げによる国づくり。「固有信仰」
◎遠野物語と柳田国男。古事記と本居宣長。
遠野物語はあの世の話とこの世の話が入れ子状になり、両者の世界のあいあだに分明な輪郭線を引くことができない。
「ヒト、カミ、オニの境界がはっきりしない。タマ(魂)とヒト、生霊と死霊のあいだの輪郭がぼやけている。死んだはずのものが死んではいない。死
の気配がいつのまにか生の領域を侵している。」(40頁)
遠野物語は古事記や日本書紀などよりはるかに古い物語の構造を示しているのではないか。(古事記や日本書紀では天上界(天つ神)と地上界(国つ
神)の境界がはっきりついている。)
◎海(「伊勢の海」)から山(『遠野物語』『山の人生』)、再び海へ(『海南小記』『海上への道』)という柳田の関心の軌跡。
★11月01日(土):アラベスクとアナグラム
論文のタイトルに惹かれて、宗像衣子さんの「宙空のアナグラム・宙空のアラベスク──マラルメ『骰子一擲』序論・〈形象の変容と思惟的像〉」を
読んだ。(『トランスフォーメーションの記号論』(記号学研究10)[東海大学出版会:1990.05.10]所収)
秋山澄夫訳の「骰子一擲いかで偶然を破棄すべき」[http://www.momoti.com/saikoro.htm]をパソコンの画面に
立ち上げて、ときおり眺めながら読んだ。
何が書かれているのかほとんどわからなかった。それなのに、なぜだかとてもおもしろかった。(この感覚は、井筒豊子の和歌論三部作に似たところ
がある。)
《詩人は宇宙にアラベスクを視、アナグラムを聴く。そのアラベスクとは、精神の視点が開き示す、宇宙の線描としての意味的図柄である、思惟的アラ
ベスクに他ならず、またそのアナグラムとは、精神のいわば聴点が開き示す、宇宙の谺としての音による意味連関である、思惟的アナグラムに他ならな
い。》(242頁上段)
この論文の最終場面にでてくる文章中の「思惟的アラベスク・アナグラム」という語は、次の文中の「思惟的像」につながっている。
《マラルメの空間は、思念的時間と協働している。イマージュ・形象の全体は、情動性の充実した一つの思惟的像である。音と統辞と意味の多様的統一
体としての別の時空の形成によってのみ表現される、可能態としての質の具現であり、精神的なイコン・思惟的像である。》(240頁上段)
(ついでに書いておくと、「思惟=恣意」という音韻的つながりの線も引かれている。「恣意的な離散記号を思惟により融合化しようとする指向のうち
で行われる、不定性や架構性によって支えられた仮象性の定位は、精神と宇宙との律動的気脈の相互浸透による融和行為に呼応する。」(239頁上
段))
アナグラムについては、丸山圭三郎著『ソシュールの思想』の「記号学と神話・アナグラム研究」の項に「ソシュールとマラルメの言語思想的類縁
性」に関して言及が見られる、との注記がある。
アラベスクについての注記はないが、司馬遼太郎が井筒俊彦の追悼文で、夫人が井筒眞穂の筆名で『新潮』57巻10号(昭和35年10月)に発表
した短編小説のタイトルが「アラベスク」であることに触れ、「井筒俊彦という稀代の哲学者の博捜と構築と表現を考えるとき、その鮮明さと流麗さ、
さらには高度の形而上性とリズム感が、アラベスクということばにふさわしいようにおもえる」と書いている。(「アラベスク──井筒俊彦を悼む」、
中公文庫『十六の話』61頁)
宗像衣子さんには、『マラルメの詩学──抒情と抽象をめぐる近現代の芸術家たち』と『ことばとイマージュの交歓──フランスと日本の詩情』の二
冊の著書がある。とくに『交歓』は読んでおきたい。
★11月02日(日):ジョン・ル・カレ
少し前からジョン・ル・カレの『誰よりも狙われた男』を読んでいる。
読み始めてすぐ他の本が読めなくなり、これ一本にしぼってゆっくり時間をかけ、一文たりともおろそかにせず細部を味わい尽くすようにして読み進
めている。
ちょうど映画も公開中のようで、とても評判がいいらしい。読み終えたら、時間をつくって映画館で観ようと思っている。
それまでの「つなぎ」に、2年前に公開された『裏切りのサーカス』をネットで観た。スマイリー三部作の第一作『ティンカー、テイラー、ソル
ジャー、スパイ』を映画化したもの。
一度では後半の流れがさっぱりつかめなかったので、伊藤敏朗さんの「よくわかる『裏切りのサーカス』全解説【再改訂版】」
[http://www.rsch.tuis.ac.jp/~ito/research/TTSS_description
/TTSS_description.htm]を手引きに、もう一度最初から観た。
この解説の出来は素晴らしいもので、『裏切りのサーカス』のことがよくわかっただけでなく、映画はこうして観るものだということを教えられた。
そのなかで、村上春樹が『スクールボーイ閣下』をジョン・ル・カレの最高傑作だと絶賛したことが話題になっていた。
そういえば、かれこれ20年以上前、『スクールボーイ閣下』に挫折したままになっていた。いや挫折したのではなくて、その時が到来するのを待っ
ていた。
※「その時」がきたと思ったので、先日、出石の永楽館歌舞伎の見物に出かけた際、実家の「書庫」に立ち寄って『スクールボーイ閣下』を探したとこ
ろ、「挫折」したままになっていたのは『リトル・ドラマー・ガール 』だったことが判明。
記憶はあてにならない。『リトル・ドラマー・ガール 』はその後、ダイアン・キートン主演の映画を観た。(2014/11/06)
★11月06日(木):「ホリゾンタル」な図式と「ヴァーティカル」な視点
このところずっと、『生命と過剰』とその第二部にあたる『ホモ・モルタリス』が収められた丸山圭三郎著作集第4巻を読んでいる。
読み始めた動機は、丸山圭三郎と井筒俊彦の思考の同型性を確認する、といったことだったが、そういった個別の関心事とはかかわりなく、この本は
端的におもしろい。
このおもしろさの理由は、加賀野井秀一さんが解題で書いているように、哲学の問題から精神分析の最先端まで「急速に…咀嚼してゆく」過程を、あ
たかも読書ノートや思索日記をのぞき見することによって、丸山圭三郎がその時感じていた興奮や刺激の熱量ごと、リアルに追体験できることからくる
のだろう。
ここには、ひとつの思考や思想が立ち上がってくる現場が保存されている。
ひとつ、印象に残ったことを書いておく。
『生命と過剰』の最終章に、「コスモス対アンティ・コスモスは、決してホリゾンタルな内と外なる二項対立図式を構成するのではない」(194
頁)という文章がでてくる。
この「ホリゾンタル」な図式という表現は、それ以前にも使われていた。
いわく、チョムスキーの表層構造/深層構造は「ホリゾンタルな言語/精神…の図式」である。チョムスキーの「精神」とはデカルト的コギト以外の
何もでもなく、「言語」は現実の諸言語を抽象化したもの(ソシュールのいう「ラング」)にすぎず、ソシュールが「言語=意識の深層」に見出した
「ランガージュ」とはほど遠い。これに対して東洋の哲学者は、「意識の深層におけるコトバの働きをヴァーティカルな視点から捉えていた」云々。
(128頁)
「ホリゾンタル」な二項対立図式(内と外)と、深層領域へと向かう「ヴァーティカル」な力動的視点(根源的一者と現象的多)。井筒俊彦と丸山圭
三郎との同型性のひとつがここにある。
★11月07日(金):夢の中に生きている貫之
周防柳さんの『逢坂の六人』を読み始めた。まだ序のなかばあたりを彷徨っている。
紀貫之が主要人物で、「六人 The Magnificent
Six」とは六歌仙のこと。目次(美しい!)をながめていると、貫之が狂言廻しになって、連作小説風に物語が進行していくのではないかと予想される。(な
ぜか、喜撰法師の名がでてこない。)
ちょっとわくわくしている。
《貫之は空想の世界に遊び、架空の天地にさすらうことが、なによりも楽しかった。屏風絵に歌を添えることはたんなる画賛を考えることではなく、そ
の絵の中の人間になりきって、野山を逍遥し、花鳥を愛でることであった。貫之には、いつも夢の中に生きているようなところがあった。》(26頁)
見てきたような嘘。嘘というよりは、つくりごと。じつに清々しい。
なによりも文章がいい。新鮮な果汁がとびちったあと、しばしただよう微香のように、初々しい。
※『逢坂の六人』目次
序 みやこの辰巳
一 夢のやまい──あこくそ
二 Born to be wild──在原業平
三 うつろい──小野小町
四 樹下の墓守──大友黒主
五 歌いらんかへ──文屋康秀
六 待ちぶせ──僧正遍照
終 六歌仙
附 むかし男ありけり
★11月11日(火):クローデルを探して
先週末、私用公用とりまぜた2泊3日の東京行きの車中の友を選ぶのに四苦八苦した。
ずいぶん前から『寒い国から帰ってきたスパイ』に決めていたのに、当日の朝になって『逢坂の六人』に変更し、その後あれこれとりかえたあげく、
最終的に平凡社ライブラリーの『大森荘蔵セレクション』に落ち着いた。
往復の5時間で全編読み切るのは無理としても、せめて「ことだま論」は熟読玩味したかった。が、結局、行きの新幹線で前半部分を読み終えただ
け。
帰りの列車では、神保町の三省堂で買った杉本秀太郎著『見る悦び──形の生態誌』冒頭の「宗達のこと」を読んだ。
ほぼ十年ぶりの古書店めぐりのテーマは、ポール・クローデルの『朝日の中の黒い鳥』(講談社学術文庫)。アマゾンで6千円から出品されている。
2時間ほどで探し疲れて、結局、前々から気になっていた『見る悦び』とジョン・ル・カレの『スクールボーイ閣下』を購入して退散した。
★11月17日(月):国学とプラグマティズム
昨日の朝日の書評欄で、柄谷行人さんが『哲学を回避するアメリカ知識人』(コーネル・ウェスト著)に関連して、とても興味深い指摘をしていた。
認識論を中心にした近代ヨーロッパの「哲学」を回避するアメリカ土着の哲学、つまりエマソンを源流とするプラグマティズム。
「これは、日本でいえば、漢心(からごころ)を斥けた本居宣長に始まる「国学」に似ている。それは本来、大陸の「哲学」に対して、感情や行動を重
視する柔軟な態度を意味したのである。」
★11月18日(火):和歌の勉強
三浦しをんさんが讀賣の読書欄(9月21日)で大絶賛していた、放送大学の講義「和歌文学の世界」──「和歌第二シーズン、バージョンアップし
ています!」(三浦しをん)──の第2学期分を毎週かかさず見ている。
全15回の第7回、佳境の「藤原定家の方法」まできたところ。滅法おもしろい。とくに、「抑揚つきまくりの絶頂朗詠にますます磨きがかかる渡部
泰明先生」(三浦しをん)の講義が濃い。
渡部泰明さんといえば、かの『うた恋い。』シリーズと『うた変。』の監修者。(『うた変。2』が出ている!)
なによりも『和歌とは何か』(岩波新書)が素晴らしかった。
いわく、和歌は人の心を表現するものではない。和歌は、言葉でする演技である。演技とは、本当の気持ちを探し求める営みのことであり、本当の気
持ちを自分のものだと引き受けようとする努力のことである、云々。(さすがは、夢の遊眠社の旗揚げ参加者!)
一昨日の日曜、その「渡部泰明先生」が編者となった『和歌のルール』を買いに街にでかけた。古典の日、11月1日の発行で、「和歌文学会」
[http://wakabun.jp/]の監修。
同じ笠間書院から出た『新古今和歌集の新しい歌が見つかった! 800年以上埋もれていた幻の一首の謎を探る』も気になったけれど、これはまた
の機会に。
渡部本では『読解講義
日本文学の表現機構』(共著)や『絵でよむ百人一首』も刊行されていた。「表現機構」は近いうちに入手することになると思う。
★11月22日(日):メカニカルな感覚、時間の劇。
吉本隆明の詩を読みたいと思っている。
その直接のきっかけは、中沢新一編著『吉本隆明の経済学』の第二部「経済学の詩的構造」を立ち読みしたこと。
いわく、人間の心の仕組みの奥には「詩的構造」と名づけるしかない根源的な活動があって、いっさいの心的現象はそこから立ち現れてくる、云々。
この本は結局、立ち読みですますことができなくなり、もう一冊の吉本本(宇田亮一著『吉本隆明 “心”から読み解く思想』)とあわせて購入し
た。
詩を読みたいと思うなら、さっさと読めばいい。それはそうなのだが、私は詩の読み方を知らない。
吉本隆明の詩なら学生時代にたくさん読んだ。でもいくら読んでも読んだ気がしなかった。(高校生の頃の中原中也や立原道造のようには読めなかっ
た。)
吉増剛造や吉岡実、吉田一穂に長田弘、最近では西脇順三郎と、気になった詩人の詩集を手にし(時には本人の朗読の場に身をさらし)、義務を課す
ようにして読んだこともあった。それでも、詩を読んだと確信できたためしがなかった。
数年前に、西洋音楽の聴き方や日本画の鑑賞の仕方を知らないことを知り、映画の見方を知らないことは最近になって思い知った。能・歌舞伎の見方
や詩の読み方はいまだに知らない。
日本の詩人が書いた詩は、ふだん苦もなく使っている日本語で書かれているのだから、なにも特別な技術をつかわなくても読めるはず。どこかでそう
思い込んでいるのだと思う。
詩を読むためには、技術を習得することが必要だ。どの分野であれ、技術を独学で習得することはできない。だから、詩を読むには師が必要だ。
師は身近なところにいた。
神戸の詩人・富哲世さんのことは、以前このブログに書いたことがある。(2005年10月07日「歌の心・富哲世さんの詩」
[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20051007])
富さんとはその後、神戸の「カルメン」というスペイン料理の店で食事をしたことがあるが、それがいつだったかよく覚えていない。
そのカルメンの大橋愛由等さんが、「まろうど通信」の記事(2012年08月05日)[http://blog.goo.ne.jp
/maroad-kobe/e/8f3b30adb26fea1e84a8604e991b1cce]に、神戸の詩誌『Melange』の読書会
での「富哲世/吉本詩を読む」の様子を紹介をしている。
「富哲世/吉本詩を読む01」[http://twitcasting.tv/gunshaku/movie/5794407]
「富哲世/吉本詩を読む02」[http://twitcasting.tv/gunshaku/movie/5794790]
「富哲世/吉本詩を読む03」[http://twitcasting.tv/gunshaku/movie/5795040]
「富哲世/吉本詩を読む04」[http://twitcasting.tv/gunshaku/movie/5795441]
いまその1を聴き終えたところ。
富さんはそこで「固有時との対話」の序にあたる詩をとりあげている。
「メカニカルに組成されたわたしの感覚には湿気を嫌ふ冬の風のしたが適してゐた。そしてわたしの無償な時間の劇は物象の微かな役割に担はれながら
確かに歩みはじめるのである…と信じられた。」[http://blogs.yahoo.co.jp/jintoku510
/38183665.html]
そしてそこから吉本詩を読むためのてがかりを六つひきだしている。
1.私の感覚はメカニカルである。
2.湿潤さを嫌うということ。
3.風の重要性。
4.時間の劇。
5.物象性が微かであり、かつ時間の劇の担い手であること。
6.信。
★12月14日(日)
ほぼ一月ちかく、宇田亮一さんの『吉本隆明 “心”から読み解く思想』を読んでいる。
フレミングの法則を下敷きにして、吉本三部作の鍵概念、現生的疎外・純粋疎外、共同幻想・対幻想・個人幻想、指示表出・自己表出(体壁表出・内
臓表出)を、まるで工具がなにかのようにフィールド上に並べていく。その理科系的な手捌きにわくわくする。