「本をめぐるキレハシ」(2008-2010)
☆2008
★1月11日(金):詩はレトリックと音楽との同時的表現による快楽である
この言葉は、毎日新聞の今年最初の「今週の本棚」で、第6回毎日書評賞を受けた『鶴見俊輔書評集成
全3巻』について書かれた丸谷才一さんの文章に出てくる。
書評の名手はたくさんいるが、一冊の本として見ると、途中で退屈する。その点、鶴見さんの書評集は、何か心にゴソリと来るものがあって、その摩
擦感、抵抗感がすばらしい。もちろん不満もある。「日本の批評家にしては珍しく好んで詩を扱い、よく引用するけれど、その詩はおおむね政治的モッ
トーや人生訓に類するものであって、詩がレトリックと音楽との同時的表現による快楽であるという局面は関心の埒外にあるようだ。」
詩はレトリックと音楽との同時的表現による快楽である。昨年来、紀貫之のこと、古今和歌集のことに思いを巡らせるなかで、おぼろげに掴みかけた
古今集的表現の実質をズバリと言い切った言葉として、心にゴソリと来た。
以上、このブログを書くことを止めてしまったわけではないので、その気になった時に何か書いておこうと思って書いてみた。
★2月14日(木):それは誰の過去か
ここ二月あまりの「朝の読書」の定番がサルトルの『存在と無』(ちくま学芸文庫)。ちょうど第1巻のなかば、第2部第2章「時間性」を読んでい
るところ。
なにしろ1日あたり10頁も読めればいい方だし、それに土日休店なので、なかなか遅々として進まない。遅々として進まないけれども、このテンポ
がしだいに躰に馴染んでくる。全3巻を読み終えるのに今年1年はかかる計算だが、ここ当分は続きそう。
躰には馴染んできたが、頭には馴染まない。訳者あとがきに、緒論があまりに難解と思われたならばただちに本編に入るべし、実例も豊富で「あたか
も小説を読むのと同じくらいの興味をそそられる」(箇所もある)だろうと書いてある。
いま、スタンダールの『赤と黒』と今野敏の『隠蔽捜査』を読んでいる。スタンダール本はやや微妙だが、すくなくとも今野本を読むようには『存在
と無』は読めない。
保坂和志さんがいうように、読んでいる時間の中にしかないのが「小説」だとしたら、『存在と無』を読んでいる20分の朝の時間には、たしかに
「小説を読むのと同じ」ものが立ち上がっている。でも、そういうことを「躰に馴染む」と表現したわけだから、やっぱり頭には馴染まない。
躰に馴染むといえば、「時間性」の章に入ってから、妙に躰がいきいきと反応するようになった。書かれていることが、(頭にではなくて)躰にすっ
と溶けこんでいく感じがつづいている。だから、毎朝とても気持ちがいい。たとえば、次の一節。
《たとえば、すでに死んだピエールについて、私は「彼は音楽を愛していた」と言うことができる。(略)ピエールは、彼の趣味であったこの趣味と、
つねに同時的であった。彼の生ける人格が、この趣味よりあとに生き残っているわけではないし。したがって、この場合、過去であるのは、「音楽を愛
するピエール」である。そこで私は、「この過去としてピエールは、誰の過去であるか?」というさっきの問いを立てることができる。それは、単なる
存在肯定である一つの普遍的な現在に対してではありえない。したがってそれは、私の現実性の過去である。事実、ピエールは私にとって存在したので
あり、私はピエールにとって存在したのである。》(319頁)
★2月19日(火):文字とシニフィアン
年明けから、佐々木孝次著『文字と見かけの国――バルトとラカンの「日本」』を読んでいる。
「記号の国――バルトの「日本」」と「リチュラテール――ラカンの「日本」」の二部構成。この二つの文章を同時並行的に読み進めていって、バル
トの部は一気に読み終えることができたけれども、ラカンの部ではたと止まってしまった。
さくさくと消化できない。立ち止まって、なんどもなんども咀嚼し、嚥下し、また吐き出して、反芻する。そんなことを繰り返しているうち、バルト
の部での議論が、まるで判っていなかったことにも思いが及んでくる。
一冊の書物を読み終えること、決着をつけることに、とても慎重になっている。臆病になっている。書物との外在的な関係を構築するだけでは、満足
できなくなっている。
このところ一月ほど、ずっとその周辺をさまよっている箇所を、抜き書きしてみる。
《相互性の関係がないほど異質な二つの領域の境界は、文字とシニフィアンが接するところでもある。言いかえると、文字という自己同一的なものと、
そうでない非―自己同一的なものの境界でもある。文字は書かれた跡として、それ自体で「ある」という自己同一性によって、現実的なものの近くにい
るが、いつまでもそこにとどまっているわけではない。それは読まれることによって、象徴的なものの領域に参入してくる。つまり、意味の運動のなか
に加わってくる。ただしそれは、そもそも自己を自己とは異なったものにさし出している、非―自己同一的なシニフィアンとしてではなく、書かれた跡
として、読まれるべきものとして加わってくる。自己同一的なものは、意味に関わらない。文字は、象徴的なものの領域に参入しても、つねに意味から
無意味に向かう運動を支えているのである。》(178頁)
この文章は、「無意識は、一つのランガージュ(言語活動)として構造化されている」と言われるとき、文字はその言語活動のなかで、どのような位
置をあたえられるだろうか、という問いをめぐる議論のなかに出てくる。
ここでいう「文字」とは、漢字やアルファベットのような体系的な文字のことではなくて、それらが作られるよりもっとずっと前からすでにあった
「印し、痕跡、しみ、きず、などといった文字」のこと。
シニフィアンは、それ自体が関係項の一つであり非―同一的であるという性質から、それと本質を同じくする「象徴界」の近くにある。これに対して
文字は、その有形的な物質性によって「現実界」の近くにある。ラカンは、そのような文字の性質から、それを「沿岸的」と形容した。「文字(la
lettre)は、まさしく沿岸的(littorale)ではないでしょうか。」
沿岸的とは、境界領域のことでもある。
ラカンは、最初の日本旅行を回顧して、「そこで私は沿岸的なものを体験しました」と話している。そのときラカンが体験した「沿岸的なもの」は、
とくに中宮寺の弥勒菩薩像を前にしたとき強く感じとったものとつながりがあるだろう、と佐々木氏は書いている。
「それは人が象徴的な領域に編入される以前に起こった、母親の身体からの分離によって表現されている根源的な切断のことで、いわば、現実界と象徴
界を隔てる皮膜のところで、つまり二つの領域の境界において、人が体験する悲しみの表現だった。」
これに続くのが、先に抜き書きした文章。
★3月2日(日):「特殊解」としての思想──『思考するカンパニー』
熊野英介著『思考するカンパニー──欲望の大量生産から利他的モデルへ』(幻冬舎)。
本書は、事業家という生き方を選んだ著者が、利他的モデルで世の中を変えたい、新しい産業革命をおこしたいという夢にかけた自らの思いを綴り、
メッセージとして社会に問うたものだ。実に志の高い本である。いや、事業家とは本来こういう志をいだき、かつそれを現実的なかたちにしてみせる人
のことを言うのだ。
《事業とは営利事業ということではなく価値をつくっていく行動を意味する。そして価値をつくる手法としては事業が最善の道なのだ。
私は、事業とは人々が「このような人生や生活を送りたい」と考えていることを形にすることだと思う。》
著者の志をキャッチフレーズ的に述べれば、次のようになる。
「物と物、人と物の関係性を技術化し、自然資本(ナチュラルキャピタル)と社会関係資本(ソーシャルキャピタル)を豊かにすること」。農業
Agriculture、工業 Industry の次に来る「心産業」(「フィロカルチャー Philoculture
=生活文化を愛する産業」または「マインダストリー Mindustry =心をつくる産業」)を構築するすること。
そのための手法が「カンパニー」である。それは、志を同じくする人たちが「立場や組織を越えて有機的に知識や行動を出し合い、知恵の構築を目指
す」プラットフォームであり、カンパニー(企業組織)を超えるカンパニー(仲間)である。
こうした「思想」を、著者は、世界史や日本史、和の生活技術、自然史、等々にわたる豊富な知識と独自の史観(それらは素人談義の域を超えて、本
書の読み所のひとつとなっている)をまじえ、そして何よりも事業家の強みである具体的な事例、体験を挙げながら縦横に論じている。
たとえば、著者が経営する環境ビジネス会社「アミタ」の赤字転落の経験から、環境が経済に優先する時代の到来を見越し事業モデルのシフトを図っ
たこと。そのアミタが現在実験的に取り組んでいる、西粟倉村や京丹後市での地域再生事業(森林酪農の経営、バイオガス発電所のプラント運営な
ど)。
そうした具体例をもっとたくさん読ませてほしいと思う。30年に及ぶ実践という名の試行、いや思考を企ててきた著者ならではの体験談を聞かせて
ほしい。もし本書に瑕(読後の不満)があるとすれば、この点だろう。
いま「思想」という言葉を使った。著者が本書に刻み込んだ思想について、プロの社会思想史家や経済学者だったらおそらくもっと上手に、気の利い
た術語や流行の概念、先達の名をあげながら、また昨今の世界的な潮流を体系づけながら、語ったことだろう。しかし、本書にはその種のよく整理され
た「一般解」を論じる言説にはない、ある「特殊解」としての思想の生の魅力が満ちている。そうした「思想」をかたちにしていくこと。それこそが、
事業家として生きることにほかならない。
印象に残った文章(「特殊解の連続性から法則を体系化する」)を一つ引いておく。
《利他的モデル創出の一つの手法として目指しているのは、同じ価値観を共有するコミュニティーという「特殊解」をあちこちにつくることだ。これは
たとえば華道や茶道、香道など日本文化で培われてきた「道」の世界に通じるものかもしれない。
華道では法則性や決まり事はあるが、どんな花を生けるかは個々に任される。したがって、生けられる花は四季折々で異なるし、地域によっても異な
る。共通の法則性を有した「特殊解」があちらこちらでできている。同じように、持続可能な社会を目指す基本的な法則性や価値観という「精神的文
化」を共有した社会が広く展開していくことは可能だと思うのだ。持続可能ということは、そこに法則性が確認できるはずなのである。
一般には伝播力がないのが文化で、伝播力があるのが文明とされている。だから工業では一般解を重要として、どこかで始まった事業を誰もが任意に
展開できるように進めてきた。特殊解は科学でないという理由で否定されてきたのだ。
だが私は、特殊解を共有するコミュニティーの集合からなる利他的モデルは伝播して水平に展開していくものと考える。
利己的なものは十人十色で、別々のカテゴリーが必要になる拡散型のモデルだが、相手のためという利他的な場合は収束型のモデルになると考えてい
る。
さらに人の役に立つような仕組みや宗教の違いを越えて、どんどん広がっていく。まねをしてもらってこそ、意味があるのだ。》
★3月30日(日):「逆翻訳」と「逆伝達」
昨日、今日と、ジャック・デリダの『声と現象』(高橋允昭訳、理想社)に「付論」として収められた「記号学と書記学」を読んでいる。
ジュリア・クリステヴァによる五つの質問に、デリダが寄せた詳細な回答。その第一の回答文を読んでいて、思いついたことがある。
デリダは、ソシュール型の記号学が果たした「絶対に決定的な批判的な役割」の一つとして、シニフィエ(意味されるもの)のシニフィアン(意味す
るもの)からの分離不可能性の明示を挙げている。(203頁)
ちなみに、いま一つは、記号機能における差異性と形式性の強調。言語的記号における音声的性格の非本質性の指摘。(204頁)
しかし、シニフィエとシニフィアンをただ単に同視することもできない。この区別がなければ、いかなる翻訳も不可能となる。そこでは、翻訳という
概念は「変形」という概念に置き換えられなければならない。(206頁)
ここで、私は「逆翻訳」という概念を思いついた。
ある言語表現物を「Sa/Se」と表記する。そして、このテクストを翻訳することを、「(Sa⇒Sa’)/Se」(もしくは
「(Sa/Se)⇒(Sa’/Se)」)と表記する。(ここで、翻訳の作用「⇒」を担うのは何か、または誰かという問題は素通りしておく。)
そうすると、「逆翻訳」は、「Sa/(Se⇒Se’)」(もしくは「(Sa/Se)⇒(Sa/Se’)」)と表記できる。
ちなみに、デリダがいう「変形」は、「(Sa⇒Sa’)/(Se⇒Se’)」(もしくは「(Sa/Se)⇒(Sa’/Se’)」)と表記でき
る。
そうした記号表記はどうでもよくて、翻訳が、たとえば新しき言葉で古き心を表現することだとすれば、「逆翻訳」は、古き言葉で新しき心を詠むこ
とに相当する。あるいは、聖書の霊的解釈。あるは、復号的読解。
心身論的な文脈でたとえると、外見(身体)は不変のままで、中身(魂)がすっかり入れ替わってしまうこと。
ただし、ソシュール自身は、シニフィエとシニフィアンの「二面をもつ統一」を、精神と身体との関係と類似の型のものとみなすことを拒んだ。
(203頁)
デリダはまた、「伝達」という概念について、それは、シニフィエ(意味、概念)の同一性を、一つの主観から他の主観へ移行させること(送達)を
暗黙裡に意味しており、シニフィエの(シニフィアンからの)分離可能性と変形不可能性、記号作用以前の諸主観の成立を前提にしたものだと書いてい
る。(209-210頁)
ここで、ある概念・意味がある主観の心的実在としてあることを「P/Se」と表記する。そして、デリダが批判的に図式化する伝達のプロセスを、
「(P⇒P’)/Se」(もしくは「(P/Se)⇒(P’/Se)」)と表記する。(ここでも、伝達の作用「⇒」を担うのは何か、または誰かとい
う問題は素通りする。)
さて、ここで、「逆翻訳」と同様に「逆伝達」という概念を考案すると、それは「P/(Se⇒Se’)」(もしくは
「(P/Se)⇒(P/Se’)」)と表記できる。
同様に、「変形」に相当するものは、「(P⇒P’)/(Se⇒Se’)」(もしくは「(P/Se)⇒(P’/Se’)」)と表記できる。
ここでも、そうした記号表記はどうでもよくて、伝達が、新しき主観のうちに古き概念・意味が宿ることだとすれば、「逆伝達」は、古き主観のうち
に新しき概念・意味が吹き込まれることを意味する。
逆翻訳にせよ、逆伝達にせよ、言葉の用い方が適切かどうかは吟味が必要だと思うが、どちらも、世界の外形的・客観的・質量的なあり方は少しも変
らないのに、その実質が根本から更新されているような事態を指し示している。
それは途方もなくすごいことのようだけれども、卑近な例でいうと、かつて読んだことのある書物(たとえば『声と現象』)を再び読んで、かつて理
解した(と思っていた)ことが根本的に覆されて、しかし、その新たな理解は、かつて理解した(と思っていた)ことを表現したのと同じ言葉でしか表
現できない、といった事態を指している。
★5月4日(日):空しさに耐える知恵──『破綻した神 キリスト』
バート・D・アーマン著『破綻した神 キリスト』(松田和也訳,柏書房)を読んだ。
人はなぜ苦しむのか。600万の無辜のユダヤ人は、なぜユダヤ人であるというだけの理由で、冷血に抹殺されなければならなかったのか。この地上
で、毎日4万人の男女、子供が、汚染された飲み水に起因する病気のために死んでいかなければならないのはなぜか。
神はどうして、そのような心を凍てつかせる悲惨な出来事を許すのか。全能の神、そして愛である神が。
著者は、キリスト教神学において「神義論」と呼ばれるこの問いへの答えを、預言書や黙示録、福音書といった古代文書に記された思索のうちに探
る。聖書には、苦痛と悲惨に関するさまざまな説明がある。
1.人が苦しむのは神に背いた罪に対する神罰である。(「アモス書」「マタイによる福音書」ほか)
2.悲惨を創り出すのは他者を虐待し抑圧する人間である。(「詩編」ほか)
3.苦しみには積極的な恩恵があり、神は救済をもたらすために苦難を引き起こしている。(「ローマの信徒への手紙」ほか)
4.苦痛と悲惨は、人がいかなる時にも敬虔でいられるかを試す神の試練である。(「創世記」「ヨブ記」ほか)
5.苦しみにはわれわれに理解できる理由など何も無い。(「コヘレトの言葉」)
6.苦しみは悪の勢力によってもたらされる。やがて死者の復活と最後の審判を経て神の王国が到来する。(「ダニエル書」「ヨハネの黙示録」ほか)
全9章からなる本書の2章から8章までが、こうした伝統的見解の紹介にあてられている。とりわけ、第1の古典的・預言者的見解と、第6の「黙示
思想」(アポカリティシズム)にはそれぞれ2章分が費やされている。
新旧聖書に纏められた諸文書からのおびただしい引用とともに、これらの文章を丹念に読み込んでいくと、ヘブライ預言者の神学の基盤をなす歴史性
が、そして贖罪と救済に関するキリスト教の教理を支える根源的な出来事が、ある生々しさをもって迫ってくる。
しかし、古代ユダヤ人や初期キリスト教徒が蒙った苦しみをいかに説明するかが問題なのではない。苦難や悲惨は、現に「いま・ここ」にある。それ
らは概念的な説明をではなく、現実的な反応を求めている。
著者はいう。聖書の中のどの書も現代のわれわれを念頭に置いて書かれたものではない。それは、その時代の人々のために書かれたものだ。「神の国
は近づいた」。ナザレのイエスはそう説いた。それから2千年を経た今、終末はまだ到来していない。
著者はまた、知的な神学者や哲学者が、苦難や悲惨をもたらす悪というものを単なる「概念」としてのみ取り扱っていて、「実在の人々の生活を引き
裂く現実の問題」として取り組んでいないと批判する。「苦しみには生きた人間としての反応が必要だ」。
これと同じことが聖書にも妥当するだろう。神の計らいによって7人の息子と3人の娘を奪われたヨブは、それでも敬虔さを失わなかった褒美とし
て、新たに7人の息子と3人の娘を授けられた。「いったいこの記者は何を考えているのか? 子供を失った悲しみは、別の子が生まれれば帳消しにさ
れるとでも?」
(終章で、幼児虐待事件にふれたイワン・カラマーゾフの言葉が引用されている。「いいか──もしも誰もが、その苦難によって永遠の調和を買うため
に苦しまねばならないのだとしたら、どうか教えてくれ、それと子供は何の関係がある?」)
こうして著者は、聖書のうちに記録された古代的な見解を、コヘレト(教師)が授ける知恵への共感を除いて、すべて棄却する。そして、かつて敬虔
かつ熱心な「ガチガチの」福音派キリスト教徒であった著者は、「私にはもはや、この世界の諸問題に積極的に関与する神という存在は信じられない」
と告白する。
この「棄教」がもたらす苦痛は、「空虚感」と表現される。「私には感謝の念を表明する相手がいない」。それは、「コヘレトの言葉」の冒頭と響き
合っている。「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。/…/かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これか
らも起こる。/太陽の下、新しいものは何ひとつない。」
《だが結局、私は苦しみの問題について最終的には聖書に同意することを認めざるを得ない。私が同意するのは、『コヘレトの言葉』に示される見解
だ。この世にはわれわれに理解できないことなどごまんとある。この世の多くの出来事には意味などない。時には正義などどこにもないこともある。物
事は計画や予想通りにはならない。悪いことは数限りなく起こる。だが人生には善いこともある。人生に対する解とは、生きているうちにそれを楽しめ
ということだ。なぜなら生は儚いものだから。この世は、そしてこの世のすべてのものは、儚く、移ろいやすく、すぐに消えてしまうものだ。われわれ
は永遠に生きるわけではない──永遠どころか、長くすら生きられない。だからわれわれは人生を十全に、可能な限り、できるだけ長く楽しむべきなの
だ。これこそが『コヘレトの言葉』の著者の考えであり、私も同意する。》
われわれはこの世界を、「われわれにとって」と同時に「他者にとっても」、この上なく快適な場に変えていくべく全力を尽くさねばならない。──
本書の最後に示された著者の見解は、それを「概念」として理解しようとすれば、空虚である。「生きた人間としての反応」によって、この空虚は埋め
られなければならないだろう。
(本書に描かれたキリスト教的な思索を、かつて「実在の人々の生活を引き裂く現実の問題」として苦や悪の問題に取り組んだ仏教思想と対比させてみ
るとどうだろう。)
★5月15日(木):村上春樹の大長編小説──「精神的な囲い込み」と「主観の混乱」
最近無性に、村上春樹の小説を読み直したいと思うようになった。ここ数年目にふれるたび買い求めてきた村上春樹論(内田樹著『村上春樹にご用
心』ほか)もけっこうたまってきたので、ついでにまとめて読みたいと思う。
『海辺のカフカ』以来となる「大長編小説」の執筆作業が、06年のクリスマスの日から始まりいまも続いている。毎日新聞(5月12日夕刊)のイ
ンタビュー記事にそう書いてあった。以下、要約するのがめんどうなので記事をまるごと抜き書きしてみる。
《新作の背景として、カオス(混沌)的な状況に陥った冷戦後の世界に関する認識も語った。その予兆は95年の阪神大震災と地下鉄サリン事件にあ
り、「9.11」事件後に顕在化した。「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は
枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしま
うと下手すると抜けられなくなる」
だが、そうした状況でこそ文学は力を持ち得るという。「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に
見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」》
ここのところを読んでいて、保坂和志が読売新聞(5月11日)の「半歩遅れの読書術」にフィリップ・K・ディックの『パーマー・エルドリッチの
三つの聖痕』について書いている文章を思い出した。これも関連箇所をスクラップしておく。
《『パーマー……』では、世界は巨大企業によって支配されていて、企業の外に出ることは半ば死を意味する。世界を動かしているのは国家や世界連邦
ではなく企業なのだ。そして、企業の中にいる個人は忠誠心を証明するために必死の努力を強いられるのだが、その根底には主体性を奪われた者の無力
感がある。この設定はディックの多くの作品に共通している。
ディックが書き続けたテーマは、“記憶に対する不信”や“主観の混乱”だが、これは「巨大企業によって主体性を奪われた者たちの社会」という未
来像とパラレルな関係にあるということが今回再読してわかった。リアルさの核は間違いなくそこにある。》
この文章は、保坂和志自身の文学観(物語観)を述べたものではない。ここに書かれているのは、フィリップ・K・ディックの小説の「リアルさの
核」とは何かである。
それでは、フィリップ・K・ディックの小説の「リアルさの核」とは何かというと、物語の登場人物の「主観の混乱」が、これとパラレルな関係にあ
る「巨大企業によって主体性を奪われた者たちの社会」という未来像とともに『パーマー……』のうちに描かれているということだ。
これに対して、村上春樹の作品では、(ディックにおける「主観の混乱」もしくは「主体性を奪われた者の無力感」に相当する)「精神的な囲い込
み」や「檻」とパラレルな関係にある社会像のようなもの、あるいはその背景をなす世界認識、たとえば「カオス(混沌)的な状況に陥った冷戦後の世
界に関する認識」といった事柄は直接的に書き込まれていない。
少なくとも村上春樹がこれまでに発表した作品には書かれていなかったし、いま書いているという大長編小説でも「カオス(混沌)的な状況に陥った
冷戦後の世界に関する認識」が直接的に書き込まれることはないだろう。
この「作品に直接的に書き込まれない事柄」を「作品の無意識」と呼ぶならば、村上春樹の作品の魅力のほとんどは、けっして書かれることのない
「作品の無意識」の喚起力・造形力にあるのだと思う。
物語を読み進めるうち、しだいに「無意識」という怪物が読者の心のうちにリアルで鮮明な像を結ぶようになる。物語の終末とともに怪物の呪縛から
解放される。怪物は殺されるのではなく、飼い慣らされるのでもなく、ただリアルに認識される。
(保坂和志もまた社会像や世界認識を作品のうちに書き込まない。しかし、村上作品のように「作品の無意識」を喚起するわけでもない。ディックとは
違う意味合いで、保坂和志は社会や世界そのものを立ち上げる。)
ところで、先の保坂和志の文章は次のように続く。
《“記憶に対する不信”というのは「自分の記憶は誰かによって偽造されたのではないか?」ということで、つまりは“主観の混乱”に行き着くのだ
が、ディック作品は手が込んでいて、予知能力を絡めたりする。未来が予知される世界にあっては、未来の出来事もまた記憶の一部となり、過去と未来
が一緒になって“主観の混乱”を引き起こす。
『パーマー……』では、パーマー・エルドリッチが宇宙から持ち込んだドラッグを一度でもやったら最後、その人の住む世界のいたるところにパー
マー・エルドリッチが侵入してくる。それは主観の世界の出来事のはずなのだが、主観と断定するにはあまりに生々しい。というよりも、主観とは本当
に自分の物なのか?ということだ。
事実、私たちの主観はすでにメディアと企業に浸食されている。メディアと企業が人から奪っているのは、時間の自由ではなく、内面の自由、つまり
個人の主体性なのだ。》
「パーマー・エルドリッチが宇宙から持ち込んだドラッグ」とは、「わるい物語」の比喩なのかもしれない。
「わるい物語」は、(「いい物語」が「人の心を深く広くする」のに対して)人の心を浅く狭いところに囲い込む。現代社会におけるメディアと企業
のように、私たちの主観に浸食する。「それは虚構の世界(物語の中の世界)の出来事のはずなのだが、虚構(物語)と断定するにはあまりに生々し
い。」
村上春樹の作品が「わるい物語」だといいたいわけではない。ただ、毒をもって毒を制す(悪をもって悪を浄化する)といったことが、村上春樹の物
語には生じている。
★ 5月21日(水):「怪物」の力を解き放つこと――『古代から来た未来人 折口信夫』
中沢新一著『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書)。
折口信夫は「古代人」だった。たとえば、『古代研究』冒頭の「妣が国へ・常世へ」に出てくる次の一節。
《十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の突端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなか
つた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝
(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。》
この文章をめぐって、著者・中沢新一は次のように書いている。
日本人のルーツのひとつは南方の海洋世界にある。一万数千年前、インドネシア海域に没した大陸スンダランドの高度な新石器文化が島づたいに日本
列島に渡り、縄文文化の基礎を築いた。この民族的な集合記憶が、長い休眠状態から隔世遺伝(atavism)のごとく突然めざめ、間欠泉のよう
に、折口信夫という近代人の心にほとばしり出たのだと。
そして、「作家」としての折口信夫が表現したいと思っていたのは、自らの内なる古代人の思考を近代のまっただなかによみがえらせるという、前例
のない精神的冒険だったのであり、折口信夫の思考と文章をとおして、日本語というローカルなことばの全能力が開かれ、思考のことばの深みで思考を
超えた「存在の根」になまなましいほどの感触をもってふれる「奇跡」が実現されているのだと。
しかも、この古代人の思考は、日本人という民族に特殊なものではなく、原生人類(ホモ・サピエンス)、すなわち技術とことば、宗教と芸術をもつ
人類に共通する普遍性をそなえたものだったのだと。
こうして、古代人・折口信夫の「奇跡的な学問」の精髄が一気に開示される。
人類普遍の「存在の根」に通じる他界(あの世)からの来訪者、すなわち精霊(スピリット)としての「まれびと」論。その末裔として、生と死を一
体のものと考える古代人の思考をそのままに生きようとした中世の芸能の民をめぐる論考。
以上が本書の前半で、後半になると、「未来人」としての折口信夫の(敗戦後の)思考が開く途方もない深さと広がりが解き明かされる。
いわく、『死者の書』以来、折口信夫が取り組んだ未完の宗教学は、「民族の自然智(Natural
Wisdom)の茫漠たる集合体」としての神道に、ユダヤ教やキリスト教の特徴である一神教としてのひとつの明確な組織と体系を与えようとするものだっ
た。
それは、「あらゆる宗教の誕生以前にあり、またあらゆる宗教の終焉の後の世界に生まれるであろう知性の形態」であり、「歴史の中でどこでもまだ
実現されたことのない、ひとつの理念の構造」であった。
このあたりにくると、本書の叙述はもはや折口信夫の「解説」の域を超えている。いや、そもそもこの書物は折口信夫の思想と学問を「解説」するた
めに書かれたものではない。それはむしろ、折口信夫という古代人の思考を自らの内によみがえらせたシャーマン・中沢新一自身の語りである。
たとえば、折口信夫が注目したムスビの神の内部では物質と生命と魂の三つが協同し、この三位一体構造はキリスト教の父と子と聖霊の三位一体に組
み込まれた聖霊の働き(増殖)と深い共通性を持っている。
これなどは、まさに中沢新一の未完の宗教経済学が切り開きつつある世界を告知するものである。
また、芸能史を取り上げた章では、金春禅竹の『明宿集』や折口信夫の『翁の発生』にふれ、この世とあの世、人間と人間ならざるものとの境界面で
おこなわれた芸能の不穏な力を論じた最後に、こう書いている。
《あらゆる芸能が、本質においてはみな怪物(モンスター)なのである。折口信夫は怪物としての芸能を誉めたたえ、怪物だからこそ好きだと語り続け
た。折口の学問の精神をよみがえらせることによって、わたしは日本の芸能をふたたび怪物として生まれ変わらせたい、と願っている。》
これもまた、中沢新一の芸術人類学がこれからつき進もうとしている方向を予告している。
怪物・折口信夫の思考にひそめられた未発の力を解き放すこと。それこそ、中沢新一が構想しているもう一つの「奇跡的な学問」の夢なのである。
それにしても、「折口信夫の著作を前にしたときほど、わたしは自分が日本語の使い手であることを、しみじみと幸福に感じたことはない」と、これ
ほどまでの賛辞を捧げられる対象をもつことは、ほんとうに幸福な生だと思う。
こういう書物を、もっと若い時分に読んでおきたかった。
★6月8日(日):大森哲学の流れとよどみ──『大森荘蔵』
野矢茂樹著『大森荘蔵──哲学の見本』(講談社)。
著者は本書で、大森哲学の「流れ」を、その源流の最初の一滴から上流・中流・下流へと、死後にも続くその「よどみ」にいたるまで、大森ゆずりの
明晰簡明な言葉で語っている。
目の前にコーヒーカップが見える。でも、見えているのはある特定の視点(パースペクティブ)からでしかない。たとえば、その背面は見えない。見
ようと思えば見えるけれども、回り込んで見たコーヒーカップの知覚像は、いま・ここで私に見えているそれではない。こんなシンプルな場面から大森
哲学は始まる。
知覚を超えたもの、およそ経験を超越したものを、われわれはどう理解しているのか。たとえば、知覚されない物、電子などの理論的構築物、過去や
他我。それらをどう認識しているか、ではなくて、どのように了解しているか。
こうした問いに答えるため、大森はまず、前期(上流)において、物と知覚の「重ね描き」の論を提示する。それが、中期(中流)において、知覚と
いう経験をより豊かなものにする「思い」や「虚想」を含んだ、「立ち現われ一元論」へと転回する。後期(下流)では、さらに、「思い的に立ち現わ
れるものは、思い的に存在する」とか、「過去世界もまた言語実践によって社会的に制作される」といったかたちで主張される「語り存在」の論へと進
化していく。
著者は、その堂々たる流れを克明にたどり、時々のよどみにおける悪戦苦闘のプロセスを丹念に腑分けして、大森荘蔵にとっての、かつまた野矢繁樹
にとっての「哲学するということの手触り」を、噛んで含めるようにして語る。そして、「どうだ、これが哲学だ」と誇らしげに見得を切るのだが、そ
れが虚しく空を切ることはない。(「噛んで含める」とは、文字どおり、死せる大森に噛みつき、論戦を挑み、著者自身の哲学的思考をそこから紡ぎだ
していくことだ。そして、実はこの点こそが、本書最大の読み所になっている。)
著者は、「大森は生涯経験主義者であり、かつ、独我論者であった」と書いている。
このうち、大森荘蔵が生涯独我論者であったことについて、別のところでは、「ただひたすら自分の生の現場からすべてを捉えようとする独我論的ま
なざしを、けっして捨て去ろうとはしなかった」と書き、また、立ち現われ論における「独我論への傾き」として、「すべてが立ち現われる「今」と
「私」。あたかも繭を紡ぐ一匹の蚕のように、大森はどうしてもそこへ戻っていく」とも書いている。
この意味での「独我論」は、「経験主義」と同義である。
大森哲学における「知覚の優位」について述べたところで、著者は、大森がとりわけ知覚を重視するのは、知覚こそ「私が生きている現場」だからで
あり、その意味での現場主義は「大森哲学を生涯貫く特徴」であったと書いていた。この「現場主義」は(ただひたすら自分の「生の現場」からすべて
を捉えようとする)「独我論」と同義で、かつ(知覚という「私が生きている現場」を重視する)「経験主義」とも同義である。
自らの死を体験した独我論者・大森荘蔵は、どこかでまだ哲学を続けているのではないだろうか。それは、おそらく「自我」をめぐる問い、われわれ
は、いや私は「自我」をどのように了解しているか、をめぐる哲学だろう。(もしかすると、本書での弟子・野矢茂樹による「噛みつき」こそが、死後
における哲学の存在様式なのかもしれない。)
★7月8日(火):定家的なもの(イタリア篇)
岡田温司著『イタリア現代思想への招待』(講談社選書メチエ)の、美学が大きな位置を占めるイタリア思想界の状況について書かれた第四章「アイ
ステーシスの潜勢力」から、これまで抜き書きしてきた三島由紀夫の文章と、あるいはそこにおいて見え隠れしていた「定家的なもの」と、どこかで響
き合っている(ような気がする)ところを抜き書きしておく。
◎イタリアの文化は、たとえレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロのような大天才を輩出したとしても、根本的には折衷主義的なもので、一般に
(近代的な意味での)独創性や創造性に欠けることは、これまでにも指摘されてきた。よしそれがルネサンスのものであれ、哲学も芸術も文学も、その
根はほとんど古代ローマにさかのぼるものであり、しかもその古代ローマは、ギリシアに多くを負っているのである(その意味で、中国に負うところの
大きい日本と状況は似ているかもしれない)。極言するなら、イタリアの文化はそもそもの起源からして、コピー、反復、シミュラクルにほかならな
かった、とさえいえるだろう。(171-172頁)
◎いかなる起源もないことが、イタリアの起源であるとするなら、反復こそがその起源にある。それゆえ、イタリアの文化を特徴づけてきた文献学への
愛も、実は、起源としてのロゴスへの愛に発するわけではない。ロゴスのための文献学ではなくて、いわば文献学のための文献学(反復のための反
復)、それこそがイタリアの文献学の最大の特徴であり、文化の伝達と反復はこの理念に支えられてきた。(173頁)
◎もしもイタリアという存在それ自体が(やはりどこか日本の場合と似て)漠然とポストモダン的であるとするなら、イタリアのポストモダンとは何で
あろうか。その差異や特徴はどこにあるのだろうか。(181-182頁)
◎ここでもういちどカラブレーゼの本[オマール・カラブレーゼ『ネオバロックの時代』1987年]に返ろう。この本は、「趣味と方法」と題された
最初の章と、「クラシックを好むだれかへ」と題された最終章に挟まれて、順に「リズムと反復」、「極限と過剰」、「細部と断片」、「移ろいやすさ
と変貌」、「混乱と混沌」、「渦と迷宮」、「複雑さと散乱」、「〈おおよそ〉と〈なぜかしら〉」、「歪曲と倒錯」というタイトルの各章から構成さ
れている。これら九組の対句こそ、バロックと「ネオバロック」──ポストモダン──の文化形態を形容するものにほかならない。(193-194
頁)
◎そこ[十七世紀の修辞家たち]において、主体は、近代におけるように内側から立ち上がってくるのではなくて、むしろ外から到来する。人間は、内
面としての存在でも、中心にいる存在でもないのだ。内面を空にしたまま、外からやってくるものにたいしてじっと聞き耳を立てている、そうして歴史
が望むところに静かに天秤を傾けていく、そこにこそバロック的な知の戦略的な意味がある、とベルニオーラ[『エニグマ』1990年]は考える。
そのためにバロックが培ったのは、言語の技術としての修辞──「機知[agudeza]」、「才知[ingenio]」、「綺想
[concetto]」はその代表──である。それゆえ修辞とは、たんに外面的な言葉の彩にすぎないものではないし、ましてや、主体みずからの主
義主張を他者に押し付けるための道具とみなされるものでもない。そうではなくて、修辞とは、人間存在にとってもっと根源的で本質的なものであり、
美的でかつ倫理的、実践的でかつ政治的なものである。
たとえば、「綺想(コンチェット)」を例にとってみよう。わたしたちは「綺想」というとき、「コンセプト」としての「概念」のことを考えがちで
ある。だが、それは実際には、カント以来のドイツ哲学が練り上げてきた「概念[Begriff1]」とは根本的に異なるもの、否、むしろ正反対の
ものですらある。というのも、ドイツ語の「概念」は、「つかむ、握る」という意味のラテン語 greifen
に由来するが、「コンチェット」は、逆に、「受胎する、いだく」という意味のラテン語 concepto
に由来するからである。つまり、何かを自分のものにするのではなくて、何かに場を与えることを意味しているのであり、客体を把握しようとする主体の働きで
はなくて、そうした主客構造を超えて、外から到来する何ものかを受け入れる心構えのことをさしているのである。(195-196頁)
★8月11日(月):物理的資源・情報処理の仕事・成功基準
いま、別冊日経サイエンス『不思議な量子をあやつる』を読んでいる。よく理解できた、とはとてもいえないけれど、とにかく面白い。その冒頭論文
「量子情報科学とは何か」(M.A.ニールセン/古澤明訳)に、情報科学の3つのステップとその基本的な問題が紹介されている。
ここに出てくる「物理的資源」「情報処理の仕事」「成功基準」の三つの語は、とても使い勝手がよい。いろいろな面で、応用が利きそうだ。
《2001年、ケニヨンカレッジのシューマッカー(Benjamin W.
Schumacher)は、古典的な情報科学でも量子情報科学でも、本質的要素は次の3つのステップに集約されると提唱した。
【ステップ1】情報を表現する「物理的資源」を特定すること。よく知られている古典的な例はビット列だ。ビットは抽象的な存在(0と1)と考えら
れることが多いが、どんな情報も現実の物理的対象に符号化されることによって表現される。したがって、ビット列は物理的資源と見なされる。
【ステップ2】こうした物理的資源によって実行可能な「情報処理の仕事」を特定すること。古典的な例としては、情報源からの出力(例えば本に書か
れた文章)をビット列に圧縮し、それを元に戻すという2段階の仕事がある。圧縮されたビット列を元の情報に復元するのが仕事の中身だ。
【ステップ3】この仕事が「成功したかどうかを判定する基準」を特定すること。上の例では、元に戻したビット列が圧縮前の状態と完全に一致するこ
とが基準となる。
こうしてみると、情報科学の基本的な問題は「ある情報処理の仕事(2)を成功基準(3)に照らして完遂するために必要な物理的資源(1)の最小
量はどれだけか?」に集約できる。この問題がすべてではないにしろ、情報科学分野の多くの研究を考察するうえでよい視点を与えてくれる。》
★9月15日(月):人生に必要な物語──『ゼロの迷宮』
ドゥニ・ゲジ『ゼロの迷宮』(藤野邦夫訳,角川書店)。
メソポタミア南部の都市ウルクに建造されたイナンナ神殿の女大司祭からイラク戦争下の考古学者まで、五千年の時を隔てた五つの物語に登場する同
じ名と顔と声と躰をもつ主人公。
この五人のアエメールに寄り添って物語を糾っていく男たちは、それぞれなんらかのかたちで数と計算と観測と記号の世界に(あるいは殺戮と破壊の
世界に)かかわっている。ゼロの概念の発見という五つの物語に伏流する趣向はそこに由来する。
それは性と死、破壊と復元、不妊の子宮とからっぽの墓とが交錯する、叙事詩か神話の文体で綴られた物語群が湛える静謐でどこか抽象的な幸福感の
隠し味となっている。
「これはどちらかといえば、飛び越えることなんだ。おれたちから見れば、死は消えてしまうことじゃなく、生命の特殊な形式なんだよ。ないことが、
あることの特殊な形式なのとおなじことさ。これでおれたちインド人が、空白の符号を考えだした理由がわかるだろう。」
生命の特殊な形式としての物語。
この作品が『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』の作者によるものだということを知らないで読むのがいい。そして、「空前のスケールで描く、壮大
な数学歴史ファンタジー!」と腰巻に書かれた謳い文句は無視して読むのがもっといい。
そういった予備知識はいっさい忘れ、物語の時間の流れに身も心もゆだねてこそ、第5章に登場する九世紀はじめのアラブ世界最大の詩人の次の言葉
が生きてくる。
「われわれは大王や大聖人や、大将軍や大学者のことを、耳にたこができるほど聞かされてきた。彼らがいなくても、人生はよくも悪くもないだろう
よ。必要なのは、物語作家だけだ。物語やコントや神話がなければ、われわれの人生はイヌの一生より悪くなるだろうな。」
☆2009
★4月19日(日):書かなかったことは消えてしまう
朝日新聞読書欄のコラム「著者に会いたい」で、現代詩作家・荒川洋治さんの新刊書『読むので思う』を取り上げた文章(2009年1月4日掲載)
に次の一節が出てきた。[http://book.asahi.com/author/TKY200901070145.html]
《ある本について書いた文章を10年後に自分で読みかえすと、「書かなかったことは消えてしまう」と気づく。書いたものがその本のすべてになる。
読む、思う、書く、すべてがつながっていることへの緊張がある。》
これが『読むので思う』からの引用なのか、インタビューに答えた荒川氏の言葉なのか、たぶん後者だと思うが、この発言と、本の中の一節とこと
わって記された文章、「本を読むと、何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさん
ある」をあわせ読んで、奇妙な感覚におそわれた。
それは、「本を読んだから思ったこと、しかし、書かなかったから消えてしまったこと」がもたらす取り返しのつかない喪失感と、そもそも「本を読
まなかったら思わなかっただろうこと、しかし、書かなかったから消えてしまったこと(思わなかったのと同じになってしまったこと)」にまつわる行
き場のない空白感とがないまぜになったものだ。
「一度は思考されたがその後消えてしまったこと」と「そもそも一度も思考されなかったこと」という、異なった種類のふたつの不在の思考が強いる
「緊張」のうえに、「読む、思う、書く」ことの「すべてがつながっている」。
「本を読んで思ったこと」は、それ自体がひとつの経験で、だから小説の題材になったり、詩や絵画や彫刻や演劇や映画や舞踊で表現することもでき
る。「書かなかったこと」、つまり表現されなかったことは「消えてしまう」し、逆にいうと、「書いたもの」、つまり表現されたものが「その本のす
べてになる」。そうした芸術を含めたあらゆる表現行為が、つまり最広義の言語表現が、「そもそも一度も経験されなかったこと」と「一度は経験され
たが、書かなかったので、その後消えてしまったこと」とが強いる「緊張」のうえになりたっている。
※
今年になって、言語と芸術について書かれた書物を二冊つづけて読んだ。斎藤慶典著『知ること、黙すること、遺り過ごすこと──存在と愛の哲学』
と、細見和之著『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』で、どちらもとても面白く、かつ刺激的だった。
ここに書かれていることは、かつて私が考えたことだ。読中、そんな思い(既視感ならぬ「既読感」のようなもの)がつきまとった。
その「かつて」とはいったいいつのことなのかと自問しても、答えはない。答えようがないのは当然で、それは「読んだから思ったこと」と「読まな
いでもいずれ思ったかもしれないこと」との取り違えがもたらしたものでしかないからだ。
それは誰が最初に思ったことか。言葉に書かれた思いは、もはや誰のものでもない。でも、それを最初に書いた者と、それを読んで思っただけの者と
では、その思いと身体とのつながりの強度がまるで違っているのではないかと思う。
まして、読んだから思ったけれど、書かなかったから消えてしまったことは、最初からなかったのと同じことになる。
こうして、「読む、思う、書く、すべてがつながっていることへの緊張」が高まってくる。
ほぼ半年、ブログを書かなかった。
書かなかったから消えてしまったことが累々と、不在の場所に降り注いでいる。いや、それほど多くはないかもしれないけれど、それでもいくつかの
思考はちりぢりになって消えていったはずだ。
いまあげた二冊の本と、それから二年ほど前に読み、同様に「ここに書かれていることは、かつて私が考えたことだ」と、これまた根拠なくそう思っ
た、前田英樹著『言葉と在るものの声』の三冊を当座の話題として、(最近、坂部恵著『不在の歌──九鬼周造の世界』を読み、いたく刺激をうけた九
鬼周造の文学論や押韻論のことや、ちょうど昨日から読みはじめた宇波彰著『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』なども組み入れて)、書
くことを再開しよう。
いや、特段のテーマなどは設けずとも、それこそ「不連続」であってもいいので、書くことを再開しよう。書かなかったことは、いずれ消えてしまう
のだから。そして、消えてしまったことは、最初からなかったのと同じことなのだから。
★5月17日(日):神も昔は人ぞかし─神仏習合と歌枕
先日、大岡信著『うたげと孤心
大和歌篇』(集英社)を読んでいて、「神仏混淆というまことに日本的な信仰形態の定着という事実と、一方、律令時代から摂関時代への移行、遣唐使の廃止、
平仮名の発明と普及、『古今和歌集』勅撰事業の推進と完成などにみられる、日本文化の大陸に対する相対的な独立の達成という事実とが、まさにこの
時期に軌を一にして生じている」と書かれているのが目にとまった。
これは、同書の最後におかれた「狂言綺語と信仰」の章にみられるもので、文中「この時期」とあるのは、「平安期、とくに宇多上皇時代以後」の時
代をさしている。
《私はあるいはまるで見当ちがいなことを言っているのかもしれないけれど、熊野信仰の隆盛という現象は、こういう時代をある意味で最もよく象徴す
る出来事だったと感じるのだ。数世紀にわたってせっせと学んできた仏教思想の摂取が一段落し、貴族階級はとくにその美意識において仏教思想を肉体
化した。別の言い方をすれば、仏教思想を美意識に偏した形で肉体化した。それが仏教の日本的摂取のいちじるしい特徴だったといえるだろうし、そこ
まできてはじめて、氏族神・祖先神崇拝のきわめて感性的な信仰である神道とのあいだに、混淆が成りたつ可能性も生じたのだろう。垂迹思想というも
のは、そういう意味で、まさしく平安時代に定着しなければならなかった。》(247-248頁)
大岡氏はつづけて、定家が『名月記』に記した後鳥羽院熊野御幸の様子を紹介した後、後白河院による熊野御幸の話題に転じ、「ちはやぶる神/神に
おはしますものならば、/あはれと思しめせ、/神も昔は人ぞかし。」(資賢)の歌に、神仏混淆という日本的信仰の独特さを見る。
《ついでにいえば、この一句[神も昔は人ぞかし]、ヨーロッパ的な神を考えるなら、ぎょっとするようなことを言っているわけだが、もちろんこれ
は、「仏も昔は人ぞかし」というのと大差ないのであって、神仏混交という日本的信仰の独特さがここにもあらわれているにすぎない。》(267頁)
(ちなみに、この「狂言綺語と信仰」の章で、大岡氏は、「うたげ」的世界のうちにあらわれた後白河院の「孤心」を抽出した「今様狂いと古典主義」
の章をふまえ、後白河院という「今様狂いの帝王」の思想的根拠を「狂言綺語と讃仏乗の一致を信じつづけること」にあったとし、これを特殊な個人だ
けのものとせず、日本における「信仰=思想」と「狂言綺語=文学」の問題のうちに、すなわち、「「狂言綺語」の価値を体質的・先験的に肯定してか
かるわれわれの古い古い民族的習性によって、つねに曖昧に、なしくずしにされる歴史」の鏡像として位置づけ、そして、「ちからもいれずして」云々
と和歌の力をたたえた貫之の思想の由緒正しい後継者と規定している。)
※
桑子敏雄著『環境の哲学──日本の思想を現代に活かす』(講談社学術文庫)第一章「空間の豊かさ」の「3
空間の意味づけの思想──本地垂迹思想と歌枕」に、「日本の思想では、言語による空間の意味づけが宗教的、芸術的な表現をとりながら、きわめて重要な役割
を演じていた」、「その第一は、神仏習合思想、とくに本地垂迹思想による空間の意味づけであり、もうひとつは歌枕のもつ意味である」と書かれてい
る。
桑子氏によると、習合思想は「ローカルな地点に立つグローバルな思想の統合という構図」をもち、また、歌枕の空間は「漢詩に対する「やまとう
た」の空間として、つまり、中国に対する日本というかたちで空間的な意味づけを与えていた」。
《さて、本地垂迹説と歌枕とは本来宗教的空間と言語文化的空間という別の意味づけのなかにあったのだが、この二つを根源的な意味で統合したのが、
平安末の歌人、西行であった。西行は、古来詠われた歌枕を実際にその足で訪ね、多くの歌を残すとともに、とくに最晩年、伊勢神宮に『御裳濯河歌
合』と『宮河歌合』というふたつの歌合を奉納することによって、神仏習合思想を和歌によって表現した。つまり、ふたつの空間意識、神道と仏教とい
う宗教的空間と和歌という文化的空間とに対する意識が、西行の詠歌活動によって統合されたのである。》(40頁)
(本地垂迹思想と歌枕。この二つのものは、近代国家によって、廃仏毀釈、地名・住居表示変更を通じて破壊されていった。)
★6月20日(土):なぜ難解な本を読むのか
なぜ難解な本を読むのか。「そこに難解な本があるから」というのは、それはそれで一つの答えになる。
私の場合、未読の哲学系難解本が書棚に山のように「寝かせ」られていて、それらの書物が一斉に「いつ読んでくれるのか」と日々恨めしげに背表紙
で訴えかけてくるものだから、鬱陶しくてしかたがない。
かといって「書庫」に移動し安楽死させようと企んでも、なにしろ敵は不死性をもった言葉で武装しているのだからそうはいかない。
読まないで読んだことにできる方法はないものか。常々そう思っていたら、高田明典著『難解な本を読む技術』(光文社新書)に、「読書の技術の真
骨頂は「読まない」ことにあります」と書いてあった。
それは、第5章「さらに高度な本読み」に出てくる。「読まない読書」(手にとり眺める読書)の技術マニュアルも示されている。
まず、目次をしっかり見る。目次の章題・小見出しから(自分にとって)重要な項目を探し出し、その部分をざっと読む。その部分が(自分にとっ
て)意義がある場合、少し周辺を読む。意義がなければ、すぐにやめる。適当にパラパラめくり、指のとまったところを(運にまかせて)読む。以上。
なんだ、結局のところ(少しは)読まないといけないんじゃないか。でも、それは「生涯の一冊」にめぐりあうための婚活のようなものだと思えばい
い。
それに、この訓練を意識してしっかり積んでいけば、いずれ本の背表紙を眺めるだけで「この本は自分にとって意義がある(ない)」と直感的に分か
るようになるのではないかと思う。
これに続いて「包括読み」の技術が紹介される。
関心があるテーマを中心に書籍を渉猟する。ただし、読書ノートはとらずに読み捨てる。(実は、この「読書ノート」のとりかたが本書の話題の中心
をなす。それは第3章(通読)、第4章(詳細読み)で詳細に述べられる。)
ここで肝心なのは、できるだけ多くの書籍を手にとり、目にすること。そのためにこそ「読まない」技術が必要になる。
そして、(読書ノートをとらないかわりに)文献リストを作成する。文献リストは多ければいいというものではない。少なくとも一度は通読するつも
りの本に限定する。
そうして、特定のテーマに関する「地図」をつくっていく。(この「地図をつくる」こと、おおまかな全体像を把握することが、難解本を読むために
かかせない準備作業となる。)
最後に、地図(文献リスト)にしたがって系統的に読み進めていく。
この本が素晴らしいのは、こうした方法論、マニュアルをただ示すだけでなく、実際にやってみせていることだ。「読書ノートの記入例」と「代表的
難解本ガイド」の二つの付録がそれで、「付録」といいながらほぼ半分くらいの分量があてられている。
とくにデリダ、スピノザ、ウィトゲンシュタイン、ソシュール、フロイト、フーコー、ラカン、ドゥルーズ、ナンシー、ジジェクの十人の難解本を紹
介したガイドが素晴らしい。ラカンの『エクリ』の解説など、それだけで単独の「ラカン入門」になっている。
本書を読んで、少し気が楽になり、かなり勇気がわいてきた。そして、(高田氏がラカンについてやってみせたようなかたちで)自分なりの「基本文
献リスト」を作成しようと思い立った。(そこでまず、無印良品で新製品のA4版ノート4冊とボールペン3色を買った。形より入れ。)
それにしても、なぜ、そこまでして難解な本を読まなければならないのか。
「わかりやすさ」ばかりが称揚される時代、あるいは「わかったつもり」が横行する世の風潮に流されないため、「わからなさの感覚」をしっかりと
身につけることが大切だ。「圧倒的な感動と驚愕の結論」を手にすることができるなら、莫大な時間と労力を費やす価値はあるというものだ。
その他、気の利いた言い方を本書からいくつか拾うことはできるだろう。でもやっぱり、「そこに難解な本があるから」という答えが一番しっくりく
る。
(「わからなさの感覚」はレヴィナスの著書をめぐる記述に出てくる言葉。「圧倒的な感動」云々はスピノザの『エチカ』について使われた言葉。本書
から拾ったのはそれらの言葉だけで、先に書いたような「なぜ難解な本を読むのか」という文脈で使われたものではない。だから、先の言い方が「気が
利いている」かどうかの責は、書評者が負う。)
★8月2日(日):政権を選択することの意味──佐々木毅『政治の精神』
先月、神戸・東京間の新幹線の中で、飯尾潤著『日本の統治構造──官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書)を読んだ。いまさらと思いながら、
それでも一心不乱になって読んだ。法学部系政治学、とでもいうのだろうか、歴史的・制度論的な思考の書物を読むのはずいぶん久しぶりのことで、と
ても懐かしく、そして新鮮だった。
続けて、佐々木毅著『政治の精神』(岩波新書)を読んだ。かつて丸山真男、ハンナ・アレントを読んでいたときの、頭脳と情動を同時に揺さぶられ
る感じが甦ってきた。政治学がもつ力を再認識した。引用された文献のうち、ルバート・O・ハーシュマン『失望と参画の現象学』(佐々木毅・杉田敦
訳,法政大学出版局)を是非読んでおきたいと思った。
※
可能性の術としての政治。政治的統合。政治的思考。政党政治の精神。──本書にちりばめられたこれらの語彙は、単なる心理学や経済学には還元さ
れない、(最古の学問と言ってもいい)政治学に固有の概念を指し示している。
それらはいずれも燦然たる、もしくは惨憺たる人類の歴史の過程を通じて培われてきたものなのであって、私たちは、(昔の人がたとえば「論語」を
繰り返し素読することで先哲の思想を体得していったように)、丸山真男、福沢諭吉、ハンナ・アレント、ウォルター・リップマン、マックス・ヴェー
バー、シュムペーター、トクヴィル、マキアヴェッリ、等々の綺羅星のごとき思想家の言説を、今ここでの現実かつ喫緊の政治的課題に照らし合わせな
がら読み解くことを通じてしか、これらの概念の内実をわが身に吹き入れることはできない。
しかし政治や政治学を職とするならまだしも、繁忙を極める現代人にはそのための時間的余裕がない。その時間を節約し、来たるべき「政権選択」の
時において考慮すべき論点に即し最短距離でそのエッセンスを提示するために、この書物は書かれた。
政治権力すなわち政権をめざし、協調して行動する人々の集団を「政党」という。著者によると、その政党の最大の機能のひとつは、言動を通じた内
部競争によって質の高い政治リーダーを育成することにある。日本の政党政治の実情が機能不全(リーダー不在)をきたしているとして、それは有権者
のあり方と表裏一体である。無関心やシニシズムを克服し、有権者を投票場に向かわせるものは何か。
それは、「正しく理解された自己利益」(トクヴィルが定式化した概念で、「ささやかで日常的な[市民相互の]協力関係を構築することによって人
間の弱さを共同で克服することを目指す」もの)の「体験学習」を通じて、投票=選択という「公的アリーナでの活動が自分自身を変化させ、啓発する
という快感」を(そして、失望を)知ることである。
《二○○八年秋以来の世界市場の大混乱は、他の先進国以上に日本に深刻な経済的スランプと社会的ストレスを生み出し、改めてこれまでの政策の貧し
さと行き詰まりを浮彫りにした。……踏みなれた利益政治の道に沿って微調整を試みる政治ではなく、正しく「頭脳で行う活動」としての政治の真価が
問われる歴史的段階に入ったのである。……政党は国民の自己統治のための手段であり、手段が手段としての機能を持つことが政党の存続のための条件
である。その機能を果たせない政党には退場してもらうまでのことである。》
この本書末尾に綴られた文章を読み、また著者の活動歴(「21世紀臨調」代表)を参照して、いわゆる「二大政党」の一方に肩入れしていると見る
のは早計である。著者の筆鋒は日本のこれまでの政党政治の実態そのものに、そしてその現実と表裏をなす有権者のあり方にも及んでいる。
★8月11日(火):子どももおとなも共に育つ社会──柏木恵子『子どもが育つ条件』
児童相談所に勤める知人から「読むと必ず目からウロコが落ちる」と薦められた。たしかに何枚もウロコが落ちた。
たとえば、第1章で紹介される「育児不安」の実態。著者は「育児・子どもがらみの不安や焦燥よりも、現在の自分についての心理的ストレスの方が
はるかに強い」という。育児には時間や労力など多大な「資源投資」が強いられる。その結果、子育てしている者(多くの場合は母親)が「おとなとし
ての成長・発達の機会から疎外」され、固有名詞をもった個人=主体としての「存在感・成長感」が損なわれる。このことが育児不安を深刻化させてい
るというのだ。
続く第2章では「子育ちの不在」が論じられる。戦後、子どもは「授かる」もの(子宝)から「つくる」もの(親の選択の対象)になった。この「人
口革命」が子どもの数と生活の豊かさをトレードオフの関係に変え、「少なく生んで良く育てる」という考え(少子良育戦略)をもたらした。その結
果、子どもたちから自ら成長・発達する機会を奪う「先回り育児」が蔓延する。そこには「子育て」はあるが「子育ち」はない。
第3章では「変化する家族」の問題が取り上げられる。ここでも、家族とは単なる集合ではなく相互に機能的に関係しあうシステムだ、家族を「も
つ」ことではなく「する」こと、すなわち主体的に家族の役割を果たすことが大切だ(子どもが家事を担当するのは、子ども自身の社会性と自立性を育
むチャンスである)等々、説得力のある「啓蒙」的な指摘が続く。
これらの議論を踏まえて、第4章で「子育ち」、第5章で「親育ち」の条件が論じられる。「子どもを「育ち」の主体として受容するためには、親も
自らが「育ち」の主体として生きることが必要」(育児は育自)である。だとすると、子どもが自ら育つことと子どもを育てること、そして親が自ら育
つこととが両立(鼎立)する社会、すなわち「子どももおとなも共に育つ社会」をいかにしてつくっていけばいいのか。その一つの解が「育児の社会
化」である。
《子どもの養育については、「誰がすべきか」はもはや最重要ではないこと、「母の手で」が至上でも絶対でもないことは、今日では明らかです。家族
が一番、母親との一対一が何よりとの考えは、偏見でしかありません。…いま「保育に欠ける」のは、母親がいない、あるいは母親が養育しないという
ことだけではありません。…(母親が孤独に養育し、しかも父親が育児に関わらない)「母子隔離」的な環境こそ、むしろ「保育に欠ける」とみること
もできます。…重要なのは、「誰が」よりも「どう関わるか」、すなわち養育・保育の質です。保育の質として重要なのは、子をよくみて理解し、それ
に基づいて応答的に関わることにつきます。…したがって、子どもと程よい距離をもって、子どもをよくみて、子どもの立場にたって応答的に関わるこ
とのできる人、すなわち「社会的親」「心理的親」と呼べるような立場の人間が、子どもにとって必要です。》(180-181頁)
いま一つの解が「男性の育児不在」の解消もしくは「男性の育児権」の制度的保障、すなわち「ワーク・ライフ・バランス」の確立である。
《ライフとは、家事・育児など家庭のことをすることではありません。家事は生きるうえで必須の労働であり、ワークです。ライフとは勉強、教養、趣
味、スポーツなど心身の成長・発達のための個人の活動です。こうした活動は経済と家事・育児といった生きるうえでの安定、すなわちワークの基盤が
あってこそ成り立つ活動です。家事・育児も、義務感や不公平感を感じることなく、また過度に負担とならなければ、ライフとして楽しむことは可能で
す。しかし、その条件が整っていません。男性は職業のワークを、女性は家事・育児、あるいは、それに加えて職業というワークを過重に担っており、
男女いずれも、ライフを享受する時間も心理的余裕もないのが現状です。
日本の課題は、まずワーク上の二つの問題を解決することです。すなわち、家事ワークのジェンダー・アンバランスの解消と、長すぎる労働時間の短
縮です。その解決なしに、ライフを考えることは困難であり、ましてワークとライフのバランスはとうてい望めないでしょう。》(222頁)
ジェンダーという語彙に不信感をいだき、男らしさ・女らしさの尊重や親学の必要性を力説する方がいる。そういう方には是非本書を読んでみてほし
いと思う。「それぞれの体験に根ざした論だけでは、今日の家族や子どもの育ちの問題は解決できません」。冒頭に記されたこの言葉が、本書を読み終
えたとき鮮やかに甦ってくる。実証に基づいた政策(エビデンス・ベイスト・ポリシー)とは、このような研究の上に成り立つもののことだ。
☆2010
★8月14日(日):私が死んだら世界が消える
週刊現代(8月6日)の「日本一の書評」に、中島義道著『明るいニヒリズム』をめぐる著者インタビューが掲載されていた。
現在の風景に過去の意味を付与するのは自分だから、自分がいなくなれば過去の世界はなくなる、とあります。これは「自分が死んだら世界は消え
る」ということでしょうか。──この質問に答えて。
《私が死んでも、世界から見れば、私が消えただけの話です。ただ、裏を返せば、「私から見て世界がなくなる」ということでもある。私にとっては
「私が死んだとき世界が消える」と言っていいのかもしれません。このあたりは、もっとよく考えねばなりませんが。》
文春文庫版『観念的生活』に、2011年2月28日と日付けのついた「観念的生活、その後」が収録されていて、その冒頭が『明るいニヒリズム』
につながっている。
《それは徐々に訪れて来た。そして、今年の初めに雪崩のように一挙に私を襲った。「それ」とは、この世界は、本当は「無い」ということである。》
★9月11日(日):腐敗しているのは誰なのか──真山仁『コラプティオ』
真山仁著『コラプティオ』(文藝春秋、2011年7月)読了。
質の高い政治小説を読みたいと思っていた。
海堂尊著『ナニワ・モンスター』が期待ハズレ(予告篇としてはそれなりによく出来ていたと思うけれど、本当に読みたいのは本篇)だったので、あ
まり気を入れすぎないようにして読むことにした。
さすが真山仁。期待は裏切られなかった。
この作品は様々な切り口で読むことができる。
たとえば、天才的政治家・宮藤隼人を中心に相対峙する二人の元同級生、つまり政治学者にして若き官邸スタッフ・白石望と経済部記者・神林裕太
が、それぞれ首席秘書官・田坂義崇と社会部の看板記者・東條謙介という手厳しい「師」との軋轢や試練を経て、やがて宮藤を乗り越えていく一種の
「成長小説」として。
本作にもし続篇があるとすれば、それは(田坂によって帝王学をたたきこまれ)宮藤の後継者となった白石と、東條に続く看板記者となった神林と
の、政治という場面における正義や愛をめぐる確執の物語となっていくだろう。
(「愛」と書いたのはいうまでもなく男女の恋愛・性愛のこと。本書の序章に登場した人物のなかで唯一、テレビ局の政治記者・澤地遼子の物語だけが
充分に展開されていない。この女性が続篇では白石と神林に、もしかすると宮藤にまで深くからんでいくのではないかと期待している。)
白石の政治学者としての専門は「政治への無関心と衆愚政治(ポピュリズム)」。これに第四の権力としてのマス・メディアの政治的機能の問題を組
みあわせてみる。
そうすると、カリスマ的政治家の功罪や政治における正義という政治学的論点(独裁者の誕生を阻止するために白石と田坂、神林がとった手段に正義
はあるか、彼らの行為こそが民主主義政体における最大の「コラプティオ」すなわち政治的腐敗なのではないか)、そして何よりも現代日本政治の停滞
に責任をもつべきは本当は誰なのか(それは政治家自身であり、それ以上にマスメディアであり、そして何よりも国民自身なのではないか)といった問
題を鋭く指摘し告発する作品として読むことができる。
いま二つの切り口をあげた。だが、それらが小説を読む醍醐味へとつながっていくためには、まず宮藤隼人の物語がしっかりと書きこまれていなけれ
ばならない。
東北大震災以後の政治のリアリズムに即しながら、政治家・宮藤がなしたことを克明に描き、とりわけ原子力を含めたエネルギー政策やアフリカ外交
をめぐる「情報」を豊富に提供すること。
(『ハゲタカ』や『マグマ』の作者ならできる。それも第一級の仕事が。)
白石と神林の物語に先行して、宮藤の視点に立った物語が必要だったのではないか。続篇ではない前篇が。
それほどの分量がなければ、ギリシャ悲劇かシェイクスピアに匹敵する「コラプティオ」の悲劇は描ききれなかったのではないかと思う。もっと傑作
になったはずなのに惜しい。
★9月17日(土):音楽をつくりあげること──『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか』
サイモン・ブラックバーン著『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか』(屋代通子訳、築地書館、2011年7月)読了。
「本書は、ニューヨーク公共図書館とオックスフォード大学出版局によるキリスト教「7つの大罪」についての講演企画のうち、『色欲』の翻訳版であ
る。」
そういう出自ゆえか、この本の著者には「色欲(lust)」を哲学の問題として論じる内的必然性や切迫感が感じられない。
読み物としては悪くないと思うが、いかにも気の利いた言い回しや素材(引用や話題)の切り出し方がときに鼻につく。邦訳のタイトルが軽いし、内
容と合っていない。
それでも第10章「ホッブスと快感のシンフォニー」(と、これに続く第11章「カントとフロイト」)は面白かった。
とくに(カントと対照的な)「ホッブスの和合」の話題(性の快感には、他者を喜ばせることから得る喜びや快感という精神の喜びが含まれている
云々)を経て、トマス・ネーゲルの引用(相手に感じとられているということが感じとられ、それが感じとられたということがまた感じとられる、そう
した相互作用を通じてパートナーがより一層自分のものになっていく云々──『コウモリであるとはどのようなことか』に収められた「性的倒錯」から
の引用:邦訳78頁)へとすすむあたり。
そうして「神との交感や他者との一体感が、なぜエクスタシーになるのか」をホッブス的観点から論じていくところが印象深い。
「これは、すばらしい音楽をつくり上げることと似ている。弦楽四重奏が最終小節に近づいてくると、演奏者たちはたがいの演奏に呼応し合い、ごくご
く微妙に調整しながら全体として音楽を奏でる。演奏が終わったとき、一体感をおぼえたとしても不思議はない。」
圧巻は、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』「13 ナウシカア」からのエピソードの紹介。
レオポルト・ブルームとガーディ・マクダウェルが浜辺で目を見交わし、おたがいに相手が興奮していることを感じ取って、自分でクライマックスに
達する場面をめぐって、「クリントン元大統領は違うと言うかもしれないが、わたしならばブルームとガーディはこのとき性交していた、と言いた
い」。
我ながら褒めているのか貶しているのかよく判らない。
恋愛や性愛をめぐる哲学の書、それも古代ギリシャの自然哲学者からレヴィナス、ラカン等々に至る西欧の系譜にもとづくものだけではなくて、たと
えば、永井均の「独在性の〈私〉」を踏まえたもの、あるいは、井筒俊彦がいう「古今、新古今の思想的構造の意味論的研究」を踏まえたもの、そんな
書物を読んでみたい。
★9月18日(日):存在の感じ方、男と女がどのように感じあえるか
昨日の話題、恋愛や性愛をめぐる哲学の書をめぐって。
松岡正剛さんが、千夜千冊の第九百十六夜[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0916.html]
で、ハイデガーの『存在と時間』という「とてつもなく難解な哲学書を柔らかく」するために、「女の話」をもちだしている。
「およそ世界に存在しないものなんてないはずだ。宇宙も杉も、ライオンも病原菌も、人間も書物もテーブルも、存在しているのは当たり前である。そ
んなことをわざわざ考えに考えて哲学にするには、世の中の存在というものをいったん否定するか、それとは逆に、まるごと許容する以外はなく、いず
れにしても、存在の発現が存在の終焉に触れあいながら存在しているのだということを、自分という存在を賭けて感じる必要がある。
このことを実感できる最も身近なことは、むろん虫や星や音楽に夢中になってもいいのだが、時期によっては男と女がどのように感じあえるかという
ことが、最もセンシティブである。とくに若いあいだは、このことに勝る存在の感じ方はない。それで女の話なのである。いや、男の話でもかまわな
い。」
松岡正剛さんがいう「女の話」とは、ハンナ・アレントのことだ。
「ハイデガーは自制心の強い男ではあったけれど、アレントの魅力が飛び抜けすぎていた。ハイデガーはアレントを、アレントはハイデガーを求めあっ
た。むろん不倫だった。」
「ハイデガーはアレントにぞっこんになった。その数年後、『存在と時間』の前半部が刊行された。時期からいえば、アレントを貪りながら草稿を書い
ていたといったほうがいい。」
「ハイデガーがアレントと不倫関係になったことと『存在と時間』が関係ありそうな書きっぷりをしたかもしれないが、まさにその通り。おそらく深い
関係がある。互いに濡れながら、互いに哲学したといってよい。そのことを証明する気はないが、そんなことはすぐに見当がつくことだ。最近では、
やっと刊行された二人の書簡集がそれを証している。」
「ハイデガーは『存在と時間』を書く前に、すなわちハンナ・アレントと密(蜜?)になっていたころ、『仮面論』『根拠とは何か』を書いて、そこで
「世界というものは日常的な現存在が演じている演劇のようなものだ」と指摘していた。」
「ハイデガーの時間とは、刻一刻、生起と消滅を同時化する時間なのである。
ところで、このZeitlichkeitの“Zeitlich”というドイツ語には、そもそもが「はかない」とか「無常の」という意味をもって
いるということには、もうすこし注目が集まっていい。ぼくは『花鳥風月の科学』(淡交社)では、この“Zeitlich”を、万葉の歌から採って
「まにまに」としたものだ。」
「ぼくはハンナ・アレントと燃えつつ綴った『存在と時間』のハイデガーの投企と放下にこそ、あいかわらず関心を寄せている。」
以上、松岡正剛さんがいう「女の話」に関連する箇所を抜き出してみた。
一部関係のないものも含まれているが、それにしても、「アレントを貪りながら草稿を書いていた」とか、「互いに濡れながら、互いに哲学したと
いってよい」とか、「ハンナ・アレントと燃えつつ綴った」とか、ずいぶん過激な表現がちりばめられている。
近いうちに、『アーレント=ハイデガー往復書簡』を手にとってみようと思った。