「本をめぐるキレハシ」(2007)
☆2007
★1月8日(月):シネマ2
ジル・ドゥルーズの翻訳本はだいたい揃えている。揃えているだけで、最後まで読み通したのは『アンチ・オイディプス』くらいで、ほとんどが読み
かけか手つかずのまま、本棚に常備されている。
冬弓社の2007年度刊行予定リストに、湯山光俊さんと中山元さんの共著『ドゥルーズのABC』(仮題)があがっている。この企画のことは数年
前から耳に(目に)していて、(蓮田攻さんの『よい子の社会主義』とともに)ずっと心待ちにしてきた。この本が出たら、それをきっかけにドゥルー
ズに没頭してみようかと思っているが、同様の常備本にパースとベンヤミンの翻訳本があって、収拾がつかなくなるかもしれない。
ドゥルーズ翻訳本コレクションにもいくつか欠落がある。『感覚の論理』や『シネマ2*時間イメージ』も、あわてて買うことはないと、これまで気
になりながらも放置していた。昨日の朝日新聞の書評欄に、中条省平さんが『シネマ2*時間イメージ』について書いていた。「映画を論じることが、
即、人間精神と世界の深みを潜りぬけることに通じる稀有の書物であり、約20年前に書かれたが、世界が混迷を深めるいま、現代的な意義はかえって
増している。」
これを読んで、とうとう我慢ができなくなった。で、即効で購入し、宇野邦一氏による「訳者あとがき」を読み、目次を眺め、ぱらぱらとページを
繰っていて、次の文章を見つけた。「スチレン状の物質」とは何のことか知らないが、そもそもここで何が言われているのか判らないが、こういうドゥ
ルーズ節にはどうしようもなく惹かれる。
《映画においては、「イメージのまわりで、イメージの背後で、そしてイメージの内部でさえ」何事かが起きるにちがいない、とレネはいう。イメージ
が時間イメージになるときにそれは起きる。世界は記憶になり、脳になり、もろもろの年代あるいは頭葉の重なりになった。そして、脳それ自体は意識
になり、諸年代の継続に、つねに新しい頭葉の創造あるいは成長に、スチレン状の物質の再創造になったのである。スクリーンそのものが脳膜であり、
そこでは過去と未来、内と外が、定めうる距離もなく、あらゆる固定点からも独立に、じかにむかいあう…。イメージを基本的に性格づけるのはもはや
空間と運動ではなく、位相[トポロジー]と時間である。》(173-174頁)
★1月11日(木):歌の発生と歌の道
ここ数年、古書店めぐりが面白くなってきた。「ぞっき本」という言葉の正しい意味はいまひとつ明確につかめないのだが、新刊書が刊行と同時に廉
価で売られている場合(どういう流通経路で出回るのかは不明)、新品同様の本が古書として売られている場合、店頭で雑多な書物が見切り価格で売ら
れている場合、だいたい以上の三つのケースをひとまとめにした「ぞっき本」あさりがだんだん面白くなってきた。
稀覯本や初刊本などの値の張る書物には興味がなくて(「蔵書」とか「書物蒐集」といった言葉にはあまり惹かれないし、そもそも潤沢な資金を持ち
合わせていない)、安くてちょっと気をひく掘り出し品を見つけることが面白い。では、これまでにどんな戦利品があったのかと問われても、ここで披
露できるほどのものは見あたらないので、この話題はここまでにしておく。
昨日、一昨日と二冊の古本を買い求めた。小泉文夫『音楽の根源にあるもの』(平凡社ライブラリー)と谷川健一『うたと日本人』(講談社現代新
書)。いずれも上に書いた志にかなうものではなくて、つまり、手に入れるだけでほぼ所期の目的が達成される類のものではなく、実際に読みたいと
思って買ったものだ。
小泉本はいま手元になくて、先に谷川本を読んでいる。その入り口のあたりで、著者はこう書いている。「私には『古今和歌集』や『新古今和歌集』
などの勅撰集に、日本の歌を代表させることを拒みたい気持ちがある」。「歌の本源は無名者が集団の中で口に出してうたう歌であった…。それは後れ
て発生した宮廷歌人の伝統と別の流れを形成し、民間にながく伝承された」。「私は「うた」の始原を、草も木も石ころも青い水沫[みなわ]も「事問
う」時代までさかのぼって考えている」。
宮廷歌人の歌の流れに強烈な関心を寄せている私としては、アニミズムの時代に歌の「発生」を見ようとする谷川説と紀貫之、藤原俊成、定家と続く
歌論の世界とを高次元で調停できないかと思っている。今様とモダニズムの不即不離の関係、アニマ(霊魂)と「歌の心」の不可思議な関係、生活者と
創作者(職業歌人)の二つの共同体の表裏一体性。
でも、これはまだ譫言でしかない。とにかく谷川本と尼ヶ崎本(「歌の道の詩学」)をきちんと読み終えてから、あらためて考えてみよう。その時
きっと、小泉本が役に立つだろうと見込んでいる。
★1月12日(金):〈道〉という共同体、道を伝えること
黒川信重著『オイラー、リーマン、ラマヌジャン──時空を超えた数学者の接点』の副題に関連して、尼ヶ崎彬著『花鳥の使──歌の道の詩学Ⅰ』
のあとがきに興味深いことが書いてあった。
大学の研究室で六年間、著者は「日本美学の最良の遺産」である歌論を読みつづけた。そのきっかけは、藤原俊成の『古来風体抄』を読んである疑問
にとらわれたことにある。俊成は『摩訶止観』初段に記された釈迦以来の仏法相承の系譜について「尊さも起る」と書いている。このマタイ伝冒頭の
「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み」云々と続くキリストの系図に似たうんざりとさせられる記述の何が俊成の感動を呼んだのだろう
か。
「疑問は胸の底にわだかまったまま日が過ぎた。そしてある時、ふと思い当たったのである。俊成の考える〈歌の道〉とは〈仏の道〉と同じものではな
いのか。それは、和歌という作品の集積であるよりも、世界を見る見方そのもののことではないのか。この時、私には、俊成がなぜ仏法の相承の系譜に
感動したのかがわかったような気がしたのである。」
以下、下手な要約をほどこすより、原文を丸ごと抜き書きしておく。
《釈迦は世界の実相を見てしまう。その瞬間に彼は孤独となる。彼の外に誰一人、世界をそのように見ている者はないからだ。人々は〈世間〉の中を生
き、釈迦一人が〈出世間〉の人となって、異邦人の如く立っている。しかし真実を見てしまった者は見てしまった者であって、もう元に戻ることはでき
ない。彼は自分の見たものを人に伝えようとする。しかしその言葉は、たとえば「花は紅、柳は緑」というような不器用なものである外はなく、誤解の
種を増やすにすぎない。伝えるべきは、世界の新しい姿ではなく、世界を見る新しい眼でなければならない。しかし、この眼の伝承は、説法によっても
訓練によっても、うまくゆかない。真理を求めて弟子は数多く集まってくるが、彼らは師の言葉を〈世間〉の基準で理解して有難がるばかりである。禅
門の伝えによれば、言葉に絶望した釈迦は、ある日講壇でただ花を拈ってみせる。その時、聴衆の中の迦葉が、ただ一人彼に微笑を返したという。釈迦
は、この時はじめて、自分がもはや孤独ではないことを知った。少なくともここに一人、自分と同じ眼をもって世界を見る者がいるからだ。心は継承さ
れた。すなわち、〈道〉の成立である。同時に、迦葉には責任が生じる。いかにして〈道〉を伝えてゆくか。彼は、自分の心と同じ心を持つ者を、少く
とも一人は育てねばならない。釈迦にとってさえ困難であったこの仕事が、彼に容易であったはずはない。しかし、とにかく彼は、阿難という同志をつ
くることに成功する。〈道〉は滅びなかったのである。そして、代々伝えて二十三人、釈迦を含めて二十四人。この二十四人の名が伝わっていること
は、殆ど不可能と見える心の伝承のために手を差しのべた二十三人の師と、それに応えてついに世界の真実を見ることに成功した二十三人の弟子との、
一つの共同体が確かにあったことの証しである。そう思えば、この伝法の系譜を見て「尊さ」を感じないわけがあろうか。──俊成はそう考えたにちが
いない。そして、彼にとって〈歌の道〉とは、まさにもう一つの〈出世間〉の心を伝える道であった。天才は孤独かもしれないが、道の人は孤独ではな
い。同じ道を行く仲間がいるからである。ただ、この仲間は、必ずしも同じ時間と空間を生きているとは限らない。遠く唐天竺のこともあれば、数百年
を距てることもあるだろう。しかし〈道〉という共同体は、時空を超えて成立しているのである。道の友は、たとえ時代を距てても、同じ心を分けもつ
仲間であることを確信し、優しく微笑みを交すことができる。私は、俊成が、道の先輩の古人たちと、手をとりあってなか空を歩むイメージを思い泛べ
ていた。そして、なぜかそのイメージにたわいもなく感動していた。
道を継いだ人は、道を伝える義務がある。俊成は、自らの心を誰かに伝えねばならない。しかし俊成は、「この心は、年ごろも、いかで申のべんとは
思ふ給ふるを、心には動きながら言葉には出しがたく、胸には覚えながら、口には述べがたく」と言う。つまり〈歌の道〉も、言葉によって語り伝える
ことのできぬものである。しかし、遠からぬ死を予感しつつ、彼はこれを何とか語ろうとする。天台智顗が『摩訶止観』で試みたように。
このように考えた時、『古来風体抄』は、私にとってその姿を一変した。一言一句にこめられた俊成の思い(皮肉・苛立ち・願ひ・訴え等)が、紙上
から自ら立ち上ってくるように思われた。そして「苔の袖も朝露繁きにつけて、する墨もかつ(涙で)洗はれ、老の筆の跡もいとゞ乱れながら記し終り
ぬるになん」という序文の結びに、確かに俊成の涙を見たように思ったのである。》(266-267頁)
眼は自分自身を見ることはできない(認識主体は認識客体ではない、あるいは能動態と受動態は異なる)とは言い古された言い方だが、「世界の実
相」(たとえ不器用なものではあっても、それは言葉でもって語ることができる)をではなく、言葉には出しがたく口には述べがたい「世界の実相を見
る眼(心)」そのものをいかにして伝えるか、現に伝わってしまうのかという問題は、たしかに謎めいている。
ここに出てくる「心」もしくは「眼」を「〈私〉」に、「仏の道」や「歌の道」を「哲学の道」(ハイデガーは死の数日前に「全集編集上の留意」と
して、「道。著作ではない」(Wege-nicht
Werke)という覚書を書き残した)に置き換えて、「哲学を伝えること」(永井均)の実相を考えてみる。それが現下の私の関心事である。
★1月14日(日)
『男はつらいよ』と『源氏物語』はつながっている。たとえば第42作からはじまる「満男と泉」のシリーズは、いわば宇治十帖に相当する。その証
拠に(?)、第41作『寅次郎心の旅路』で御前様が「元々、寅の人生そのものが夢みたいなものですから」と語る。吉村英夫著『完全版「男はつらい
よ」の世界』に、「さくら=藤壺」説というものが紹介されている(34頁)。
また著者は「シリーズのマンネリズム」がもたらしたプラス面をめぐって、歌舞伎や能や落語、はては「ギリシャ悲劇を筆頭にシェークスピアやモリ
エールやチェーホフの上演だって同じだろう」(318頁)と書いている。このあたりの経緯も、『源氏物語』や王朝和歌につながっていくと思う。
《シリーズが洗練されていく過程に、文化芸術が様式化され芸術性を高めていく、要するに人類遺産としての古典となっていく様子が凝縮されていると
いってよい。四半世紀で磨きに磨かれた。だから初期のごった煮的なものはなくなり、毒もなくなっていった。対立葛藤も非和解的ではない。次のシー
ンに何が映るかが次第に観客に見えてくるようになった。
一つの風俗的現象にすぎなかったものが本物の文化として生き残ることは、次から次へと新しい試みをして皮をむいていくことだけではない。あるい
は新たなる部分や異質な要素を付け加えていくだけでもない。目新しいものを求めての試行が新しい文化を生む重要な側面であるのは言うまでもないも
のの、単なる流行的現象を本物の文化に昇華させ結晶させるためには、創造者も享受者もふくめて協同的に磨きぬく試練を経なければならないはずであ
る。本物の文化は人類が長年月にわたって営々と築きあげてきた遺産を継承するところからはじまる。》(318-319頁)
★2月12日(月):ミシェル・ビュトール『時間割』その他
永井均『西田幾多郎』の三度目の通読を終え、ためいきをつき、中村真一郎『女体幻想』の「1乳房」と『坂部恵集1』の月報(柄谷行人と鷲田清
一)と「人間学の地平」の序文を読み、ためいきをつき、『物質と記憶』の解説とあとがきと『サライ』の落語特集を読み、付録のCDで落語を聴き、
図書館で借りてきた伊藤邦武『パースの宇宙論』と富岡幸一郎『悦ばしき神学──カール・バルト『ローマ書講解』を読む』とベンジャミン・リベット
『マインド・タイム──脳と意識の時間』と内田樹×三砂ちづる『身体知──身体が教えてくれること』の背表紙を凝視し、ためいきをつき、ようやく
本箱に整理できた「蔵書」を眺め、ためいきをつき、川端康成『美しい日本の私
その序説』英訳つきと中村真一郎『色好みの構造──王朝文化の深層』を買い、ハンナ・アーレント『アウグスティヌスの愛の概念』と藤枝守『増補
響きの考古学──音律の世界史からの冒険』は買わずに、今度こそ書こうと決めていた確定申告の書類は放置したまま三連休は静かに死んでいった。
読み終えたばかりのミシェル・ビュトール『時間割』の感想文でも書くかと思ったけれど、この五部構成の作品は記憶語り(過去の月日の浚渫作業、
時間割の綿密な再構成)の五つの方法によるカノン(輪唱)の形式をとっていて、それらが錯綜していくにつれてそこで書いているのはルヴェルなのか
ブレストンなのか、書かれているのはルヴェルのブレストン滞在一年間の個人的な記憶なのかブレストンという中世都市の血塗られた歴史なのかが濁っ
た牛乳まじりの陽光のようにしだいに曖昧になっていく──と思いついたところでそんなことはとっくに作者自身が自作解説のなかで明かしている(と
訳者の解説に書いてあった)し、第一、小説の「時間構造」や作品世界の礎石のところにしつらえられた二つの神話(旧約聖書のカインとギリシャ神話
のテセウスの物語)や作中にしつらえられた推理小説(『ブレストンの暗殺』)とのつながりの構造などを暴いてみせたところでそれはそれだけのこと
で、五つの記憶語りがオーバーラップする最終章はかなり難渋したものの総じて読み進めていくことの愉悦を与えてくれた(ゴダールの『勝手にしやが
れ』のようなタッチで全編ルヴェルのモノローグつきの映画にしたら面白いだろうと思った)この作品の「時間構造」や構築された(あるいは断片のま
ま放置された)物語世界のなかでどういう体験をしたかを我と我が身を抉るようにして書いてみないと何も書いたことにはならない。
★2月25日(日):概念のポリフォニー
ラテン語のペルソナは、三位一体の神の三つの「位格」(父・子・聖霊)を示す語として採用されるはるか以前から、劇場での仮面や劇中の人物、文
法上の人称などの意味をもつ語として使用され、キケロ以降、法的人格や社会的役割、人柄、さらに抽象的な「人間」(英語の person
につながる)など、その意味を広げ今日に至っている。これは、坂口ふみ著『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』からの受け売りです。
ところで、この書物には、東方ギリシア語圏のキリスト教神学では、神の三つの位格を示す語として「ペルソナ」ではなく「ヒュポスタシス」が使わ
れていたことが記されています。この、プロティノスが好んで使った語は、「下に立つ」という意味の動詞から生じた名詞(ラテン語
substantia
の語源)で、その古い意味に「液体の中の沈澱物、固体と液体の中間のようなどろどろしたもの」があります。このことを踏まえて、坂口氏は、「ヒュポスタシ
スは比較的新しいヘレニズム・ギリシア語で、存在のアクチュアリティー、実存、といったニュアンスをもち、動的はたらき、流動のうちのいっときの
留まり、という性格をもつ」と書いています。
では、これらまったく出自を異にするする二つの語が、西方キリスト教神学においてなぜ等置されたのか。『〈個〉の誕生』は、古代ギリシャから中
世キリスト教世界へと響き渡る微細な「歴史の倍音」の聴き取りを通じて、ギリシャ語のヒュポスタシス(沈澱・基礎)とラテン語のペルソナ(仮面)
の等置という「概念のポリフォニー」が生じるに至った経緯を、余すところなく描ききっています。その詳細に立ち入ることはできないので、ここで
は、ヒュポスタシス=ペルソナという多義的な概念が孕むことになった、豊饒かつ多様なその後の思想的展開に説き及んだ一節を、長くなるけれども加
工や省略の手を入れずにまるごと抜き書きしておきます。
《なぜ沈澱イコール仮面なのか? それはさきに述べたように、「沈澱」は流動する存在の流れのうちのいっときの留まりであり、仮面は舞台と劇のう
ちの一役割であり、共に交流の一結節として存在をもつものであり、しかも共に、この時代には「個存在」の意味をもつ語であったからだということ
は、すでに述べたとおりである。これは静と動を併せ、個存在と交流を併せる、矛盾と多様をうちに含む概念であった。さらにその「動」「静」「交
流」「個」はヒュポスタシスでは存在的・宇宙的なもの、ペルソナでは社会的・人間的なものであった。このようにして、この概念ほど包括的なものは
またとないような概念が生じてきた。
広義な概念はいくらでもある。しかし、うちに矛盾を含むことをその中核とする概念というのはめずらしい。ヒュポスタシス=ペルソナという概念は
まさにそういう概念である。しかしこれは、その由来、つまりキリストという複雑で逆説的な存在を言いあらわすために生じてきたということを考えれ
ば、当然なことである。そしてこの、矛盾を本質とする、しかも、人間的・宗教的要請の筋金で一本太く貫かれている概念が、キリスト教を母体とする
ヨーロッパの思想の営みに(意識的・無意識的に)与えてきた影響は絶大なものがあると思われる。ヨーロッパ思想の胚種、原動力、ストアなら種子的
理性〔ラチオ・セミナーリス〕とでも言うだろうものが、この名で呼ばれているのである。
この概念はまったくの空虚とも解されうるし、また逆に存在と生の充実そのものとも解されうる。「本質」や「構造」を人間の内実と見る立場から
は、どうしてもそれに解消されきれない残渣、どうしても本質からは説明できない存在性という、理論にとっての必要悪、じゃまなものであり、学問の
枠からはみ出る傍若無人な、計算できない厄介者である。
他方逆の立場からは、それは世界の存在の根源であり、人間の人格性や自由の源であり、理性的・情意的なあらゆる活動の源でもある。アウグスチヌ
スによって、内省のうちにあらわれる「わたくし」ととらえなおされたこのものは、デカルトのコギトを通して、カントの空虚な先験的主観の統一のは
たらきにもなっていった。これはヒュポスタシス=ペルソナの一つのすぐれた解釈と言えよう。フッサールの「超越論的主観性」もこれを受けつぐもの
であることは言うまでもない。
人間の芯であり、全存在の芯でもあるこのものは、ポジティヴに見ればあらゆる限定を超え、あらゆる限定を統合・包括するもの、「存在の充溢」で
もあり、ネガティヴに言えばまったくとらええぬもの、「無」「空虚」「残渣」でもある。
「わたくし」の主観の集約をもたらしたこのものは、また、「非-わたくし」的な、私の意識を完全に超える、意識的、または無意識の、宇宙的な生
と存在の流動とも解されうる。したがってこれは個別者とも考えられるし、全体とも考えられる。ネオプラトニズムのヒュポスタシスはまさしくそのよ
うなものであり、キリスト教のヒュポスタシスもその色を濃く保っている。とくに東方ではこの傾向が強かったことも、何回か述べてきた。
さらにこの生と存在の流動も、一方では欲望や欲求やリビドーの流れとも解されうるし、他方ではエラン・ヴィタールのようにも解されうる。人間を
動かし、支え、生むものとして、ヒューマニズムの根にもなりうるし、理性的で意識的であるはずの人間の本質とは異なる、形なき流動として、反
ヒューマニズムの根を形づくることもできる。
同様に、自でもあり他でもあるこのものは、レヴィナスのような「絶対的他者への開け」の考えを支えることもできるし、逆にすべてを呑みこむ同一
的なエネルギーの思想を生むこともできる。「わたくし」として一回きりの顔をそなえたものでもあり、また顔なきエネルギーとも解されうる。理性を
生み、まず理性と結びつくものとも考えられる──理性の普遍性・交流性をペルソナのそれの中心をなすものとしたトマスのように。しかしまた、多く
の近代の生や物質や欲望の哲学のように、理性に反するもの、理性をあやつる力とも考えうる。
それぞれ細かく差異化され、時には正面から対立するようにみえるこれらの諸思潮に、しかしきわめて大まかに見れば共通の構図が一つないだろう
か? そのときどきの限定と制約と固定化への異議申したてという「ビザンツ的インパクト」がそこに働いていないだろうか? そのインパクトはしか
し、「本性」や「構造」や機構を否定的に超えると共に、それらを自ら創り出すものでもある。それはすでにネオプラトニズムの体系がそうだった。キ
リスト教の神も、もとよりイデア世界・物質世界の創造者であり、キリスト教はこのとらえがたい個の概念を基本にして、あれほどのスコラの体系と、
強大な教会の制度・組織を造ったのだった。》(280-282頁)
これほどまでの壮大さと射程の奥深さをもった文章を目にしたら、あとはもう、ただひたすら反芻・玩味・検証し、沈黙のうちに撤退するしかなすべ
きことはないのかもしれませんが、あえて言葉を紡ぎ出すとすれば、ここには、クオリアをめぐる問題と同型のものが、とりあえずは「主体」の成立と
呼んでおいてさしつかえのない事象をめぐって、生じているのではないか。すなわち、「キリストという複雑で逆説的な存在」あるいは「とらえがたい
個の概念」(ヒュポスタシス=ペルソナの概念)という、言葉を超えた暗号をいかにして言葉(ロゴス)のうちに捕捉するか、という困難な課題が潜ん
でいるのではないかと思うのです。(「哥とクオリア」から)
★3月14日(水):ノヴァーリスの断章
古今東西、老若男女、聖俗貴賎を問わず、一番好きな作家は誰かと問われたら、たぶん迷わずノヴァーリスと答えるのではないかと思う。そんなこと
を訊ねる人はいないだろうし、それに、きっと時と場合で答えは違ってくるだろうけれど、今のところはノヴァーリス。それも、断章。沖積舎の全集で
も、断章、草稿、研究ノートばかり収録した第2巻だけ買って常備している。
ノヴァーリスにはもとから関心はあった。読書日記を繰ってみると、1999年10月、今泉文子著『ロマン主義の誕生──ノヴァーリスとイェーナ
の前衛たち』(平凡社)を読み、いたく感銘を受け、2001年10月に、中井章子著『ノヴァーリスと自然神秘思想──自然学から詩学へ』を読ん
で、決定的になった。特に、中井本にふんだんに引用されたノヴァーリスの断章群には圧倒された。
ちくま文庫から作品集が出ているのは知っていたが、迂闊にも、沖積舎版全集の文庫化だと思いこんでいた。昨日、坂部恵さんの『和辻哲郎』(岩波
現代文庫)を探しに出かけた書店の新刊書コーナーで、第3巻「夜の讃歌・断章・日記」が目にとまり、胸騒ぎがしたのでて手にとってみてびっくりし
た。
この作品集は、今泉文子さんが単独で翻訳した文庫オリジナルだった! しかも各巻の内容を見てみると、第1巻「サイス弟子たち・断章」にも、
「断章と研究 一七九八年」や「フライブルク自然研究(抜粋)」が収録されている!
というわけで、『和辻哲郎』は見つからなかったので後日を期すことにして、『ノヴァーリス作品集3』を速攻で買い求め、ぱらぱらと頁を繰って
は、幸福な夜の時間を味わった。この際、『ベンヤミン・コレクション4』とあわせて腰を据えて読み込み、引き続き、ノヴァーリス作品集とベンヤミ
ン・コレクションの同時並行的読破に突き進むか。
「記念」に一つだけ、任意に開いた頁から、ノヴァーリスの断章を書き写しておく。(ジョージア・サバスの『魔法の杖』みたいに、ノヴァーリスの
断章との偶然の出会いが、何かしらの出会いや啓示を与えてくれるかもしれない。「ビブリオマンシー(書物占い)」ならぬ「ノヴァーリス占い」。)
《もしかしたら、チェスに似たゲームに基づいて──象徴的な思考構築ができるかもしれない──昔の論理学的な弁論試合は、盤上ゲームとまったく似
ている。》(286頁)
★4月8日(日):私は死ぬまでにどれだけの本が読めるだろうか
光文社の知恵の森文庫から、丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』が出た。2001年にマガジンハウスから刊行されたもので、そのときは結局、購
入しなかったけれども、以来、なんどか図書館から借りてきては、編著者の序文や、収められた21篇の書評のうち気に入ったもの、たとえばベンヤミ
ンを扱った「エヴァがアダムを誘惑したときいったいどんな言語で誘ったのか?」などを繰り返し眺めてきた。
書評で大事なのは、まずは本の紹介で、次に評価という機能(それに、文章の魅力も)。しかし、書評にはそれよりももっと次元の高い機能があっ
て、「それは対象である新刊本を」肴に、ではなくて「きっかけにして見識と趣味を披露し、知性を刺激し、あはよくば生きる力を更新することであ
る。つまり批評性」。そのためには、書評の雑誌掲載枚数が充分に与えられないといけない、云々。何度読んでも、丸谷才一の序文は面白いし、なぜか
しら元気になる。
この本を初刊時に買い求めなかったのは、それ以前(1999年)に、『鳩よ!』という雑誌で丸谷才一の文章やベンヤミンをめぐる書評などを読ん
だことがあって、当時はまだ掲載号を所持していたからだ。でも、それもその後の引越しや在庫処分でいつのまにか行方不明になってしまい、それに、
大半の文章は未見の『SWITCH』掲載分なのだから、いつでも読みたくなったとき手にできるよう常備しておきたいと思っていた。文庫化はとても
嬉しい。
(そういえば、とうに文庫化された須賀敦子の『本に読まれて』も常備しておきたいと思いながら、そのままになっている。最近になって、河出文庫版
の全集第四巻に、これまたとっくに文庫化されていた『遠い朝の本たち』やその他の書評、映画評と一緒に収められていた。うっかり買い忘れてい
た。)
瀬戸内寂聴の解説「ロンドンの書評家たち」に、次の文章がある。「数え八十にもなって、いよいよ残る時間が少いとせかされる心境の中で、私は死
ぬまでにどれだけの本が読めるだろうかと考えないではいられない。すると、自分の机のまわりに積まれている未読の本の山を見てため息が出るのであ
る。しかしそれでもやはり残る時間に、一冊でも多く愉しい本を読んで往きたいと思う。/もし、安心して、信頼出来る読書案内になる書評の満載され
た本があれば、どんなに便利だろう。」
ほんとうに便利だろうと思う。
★5月13日(日)
先々月、遅ればせながら『自壊する帝国』を読み、佐藤優という人物にいたく興味を覚えたこと。魚住昭や手嶋竜一との共著を含めて、佐藤優の本を
図書館から借り出しては摘み読みをしたこと。でも、ほとんどが貸し出し中で、なかなか入手できなかったこと。『PLAYBOY』誌で「役に立つ神
学」の連載が始まるというので、さっそく買って読んだこと。この先、中沢新一の「映画としての宗教」を読むためだけに『群像』を隔月で買っている
のと同じことになりそうなこと。
沢木耕太郎『危機の宰相』や村上春樹訳『ロンググッドバイ』やさそうあきら『神童』を読んだこと。いずれも、とても面白かったこと。トマス・ハ
リス『ハンニバル・ライジング』も読んだけれど、この本はやや薄味だと感じたこと。
永井均『西田幾多郎』と尼ヶ崎彬『花鳥の使』『縁の美学』をあいかわらず読み続けていること。(そろそろ「哥とクオリア/ペルソナと哥」のつづ
きを書かなければいけないこと。)
いま、坂部恵『和辻哲郎』と前田英樹『言葉と在るものの声』と中沢新一『ミクロコスモス』とミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』を読んで
いること。ジョルジョ・アミトラーノ『『山の音』こわれゆく家族』とグレッグ・イーガン『ひとりっ子』を読み始めたこと。そのほか、読みたいと思
う本がたくさんあること。
と、いろいろ書くネタはあるけれども、そこから話が展開していかない。再起動のきっかけがつかめない。
★6月24日(日):『歌舞伎と操り浄瑠璃』─「うた」と「語り」、舞踊と「しぐさ」
今日、雨があがった午後の公園を操り人形のように直線状に歩行し、図書館で和辻哲郎の『歌舞伎と操り浄瑠璃』を借りてきた。岩波版全集の第十六
巻、七百頁に及ぶ大著で、和辻の作品で三番目に長いもの。昭和三十年初刊時の書名は『日本芸術史研究 第一巻(歌舞伎と操浄瑠璃)』。
序と第一篇の冒頭を読んだ。梅雨の晴れ間の清清しい涼風のように、私の頭と体と心がすっかり更新された。そう書いておきたいところだが、「すっ
かり更新」されるかどうかは、もう少し先まで読み進めてみないとわからない。第一、このまま最後まで通読できるかどうかもわからない。
と、否定的なことばかり書いていてもしかたがないので、今日ざっと眺めたところから、気に入った箇所を抜書きしておく。
《浄瑠璃は、まず第一に、平家がたりのような叙事詩朗唱の伝統をうけ、そうしてその伝統をみずから重んじている。もちろん浄瑠璃が浄瑠璃として立
ち始めたときには、在来の伝統の上に根本的な変革が加わったであろう。その変革は、抒情詩をうたうという歌謡としての要素を強度に注入し、それと
結びついて三味線による音楽的な性格を全面的に浸潤させることであったであろう。しかしそういう変革にもかかわらず、浄瑠璃は決して物語を「語
る」という立場を捨てたのではない。浄瑠璃は「歌う」のではない、「語る」のだということは、この技を学ぼうとするものに対しても、またそれを鑑
賞しようとするものに対しても、常に警告されていたことである。このように「語る」ということを、すなわち叙事詩朗唱の伝統を、堅く守っていたと
いうことが、何よりもまず浄瑠璃の特徴に数えられてよいであろう。
しかし第二に、この伝統に対して加えられた変革も、決して軽視することを許さないほど重要なものである。三味線やその小唄の節による浄瑠璃節の
変貌は、恐らく当時の人を驚かすに足りたであろう。それは人をして浄瑠璃節は「語る」のではなくして「歌う」のであると誤認させるほどに、強度に
音楽的性格を帯びていたであろう。だからこそ「歌う」のではなくして「語る」のであるということを、わざわざことわらなくてはならなくなったので
ある。とすれば、浄瑠璃は、「語る」のか「歌う」のかの区別が素人に明らかでないほどに、叙事詩朗唱のぎりぎりの限界点にまでに達していたのであ
る。そうなると、在来の代表的な演芸であった能楽の、謡を「うたう」態度と、浄瑠璃を「語る」態度とは、ただ一歩の差違に過ぎなくなった。従って
浄瑠璃に伴って演技する人形も、謡に従って演技する能役者と、ただ一歩の差違に過ぎない。いずれも音楽的表現に即して形象的表現をやるのである。
悲しみの歌が耳に響いてくる時には、悲しい姿が眼に見える。そういう楽劇として、操り浄瑠璃と能楽とは、ほとんど同じ立場に立っていたのである。
がそれにもかかわらず、第三に、浄瑠璃は「語る」立場を固守し、それによって人形の演技を明白に能役者の演技から分離せしめた。浄瑠璃の叙事詩
的な描写は、謡曲の抒情詩的詠嘆よりも、一層具体的に人間の出来事を取り扱うことができる。そうしてそれを舞台上に表現する場合に、「うた」に伴
う演技はおのずから舞踊になって行くに対して、「語られる」人間の動作はおのずからしぐさとなってくるであろう。だから人形の演技は、生きた能役
者の演技よりも、一層具体的に、また写実的に、人間の生活を表現することとなったのである。》(『和辻哲郎全集 第十六巻』54-55頁)
この引用文のすぐ後で、「が、これらの特徴だけでは、操り浄瑠璃が何ゆえに世人をあっと言わせたかのゆえんがわからない。そうしてその点が最も
重要なのである」と和辻は書いている。そこから先がとても面白いのだが、今日のところはここまで。
★10月13日(土):最近買った本・読んでいる本
入不二基義さんの新刊が出ていると知ったので、散歩の途中、明石のジュンク堂に立ち寄り、速攻で買い求めたのが『時間と絶対と相対と──運命論
から何を読み取るべきか』(勁草書房:2007)。個人的には、『相対主義の極北』と『時間は実在するか』(いずれも名著)の続編のつもりであ
る、と「まえがき」に書いてある。秋の夜長、入不二ワールドにしばし浸るのも一興と思うが、さて、いつ読むか。
哲学思想のコーナーに、内田樹『村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング:2007)をみつけた。内田本は何冊か買ったまま読んでいない
し、村上春樹関連本も同様の状態だし、さてどうするかと、『時間と…』を片手にしばし逡巡しつつ、ふと隣の日本古典文学のコーナーに視線を泳がせ
ると、小松英雄『古典再入門──『土左日記』を入りぐちにして』(笠間書院:2006)が目に飛び込んできた。この本も以前ずいぶん悩んで、結局
買うのをやめたことがあった。悩むほどのことでもない。ついでにまとめて三冊かかえレジに直行した。
入不二本、内田本は、たぶんすぐに読み始めることはないだろうが、小松本は、いよいよ読むべき時を迎えていたようで、たまたま今朝、図書館で借
りてきた『日本語の歴史3 言語芸術の花ひらく』(平凡社ライブラリー:2007)や、一昨日、これは別の図書館で借りた大岡信『うたげと孤心
大和歌篇』(同時代ライブラリー:1990)ともども、貫之現象学への道案内として格好の書物。摘み読みしかしていない『みそひと文字の抒情詩』
の要約も織り込まれていて、とても重宝。
貫之現象学といえば、いま再読している前田英樹『言葉と在るものの声』(青土社)が直接につながっている。このことは前に書いた。今朝も少し読
んで、前田英樹のいう「声」とはクオリアのことで、それは貫之がいう「物」でもある、と手帳に書き込んだ。この前田本と中沢新一「映画としての宗
教」をネタにして貫之現象学の序説をしたてようと思っていたら、『群像』11月号に「映画としての宗教〈特別篇〉
洞窟の外へ─TVの考古学」が掲載された。で、いま読んでいる。
鶴岡真弓『黄金と生命──時間と錬金の人類史』(講談社)も断続的に読んでいるが、なぜか気が乗らない。その他、蔵木由紀『非線形科学』(集英
社新書)と加藤文元『数学する精神──正しさの創造、美しさの発見』(中公新書)、それから亀山郁夫『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』
(光文社新書)とロバート・ウォード『四つの雨』(田村義進訳,ハヤカワ・ミステリ文庫)を通勤電車の行き帰り、とっかえひっかえ読んでいる。山
内志朗『〈畳長さ〉が大切です』(岩波書店)も読んでいる。
★10月25日(木):哲学という最も畳長な営み――『〈畳長さ〉が大切です』
山内志朗著『〈畳長さ〉が大切です』(双書哲学塾,岩波書店:2007)を読んだ。
阪神・淡路大震災の後、リダンダンシー(redundancy)という言葉をよく耳にした。基幹道路一本で地域が結びつく都市構造は脆弱で、大
規模災害に弱い。平時には無駄とも思われる複数の交通アクセスを確保しておくことが、いざという時のバックアップ機能につながる。確かそういう趣
旨のことだった。
都市計画や建築物の構造といった分野だけではなく、暗号や情報理論やコンピュータ科学でもリダンダンシーは重要な概念である。たとえばいまたま
たま読んでいる『宇宙を復号する――量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』(チャールズ・サイフェ著)という本もリダンダンシーをめ
ぐる話題から始まっている。
一般に冗長性と訳されるこのリダンダンシーのことを、著者は畳長性と呼ぶ。冗長性すわなち余贅、蛇足、冗漫といった否定的なニュアンスを打ち消
すためである。冗長どころか、畳長性は人間の生き方をめぐる、いや生命そのものの、はては世界における存在の基本原理ともいえる大切なものだから
である。
そういう意味では、畳長性はリダンダンシーの新訳語というより、著者が始めて世に提示する独自の新しい概念であるという方が正しい。それもすで
に出来上がったものではなくて、これから磨き上げられていくべき概念である。
だからなのだろう、この本はとてつもなく難解である。冗漫というと著者に怒られるが、畳長性をその形において示そうとしたらしいライブな語り口
で叙述された七日間の講義と長い補講からなる本書は、その細部の議論はとても面白いのだが、情報理論にコミュニケーション論にサイバネティクス、
柳家小三治にベイトソンにパース、等々と矢継ぎ早に繰り出される話題がうまく一つにまとまらない。
安全性の確保や誤謬の自己訂正といった機能をもつ畳長性。コミュニケーションの可能性の条件としての畳長性。存在論や生命論にかかわる多様性の
条件としての畳長性。それらの規定がバラバラなままでつながっていかないのである。
圧巻は「畳長性とは何か――存在論からコミュニケーション論へ――」と題された補講だ。読者に判ろうが判るまいがもうどうでもいい。そういう些
事にはかかわらず、著者はただ夢中になって創発途上の概念の輪郭と深層と有用性を描いていく。
アッシジのフランチェスコの歌を踏まえていわく、畳長性とは受肉の別名である。キケロの修辞学を踏まえていわく、文章における畳長性を扱うのが
修辞(詞姿=フィギュール)であり、会話における畳長性を扱うのが表出である。等々。
いわく、畳長性は偶有性である。またいわく、西欧中世の普遍論争における実在論は、普遍の実在性というよりも、多様性(畳長性)の賛美に一つの
中心を持っていた。(この普遍論争と畳長性との結びつきについて、著者は『存在の眩暈』という書物を予定しているらしい。刊行が待たれる。)また
またいわく、人間の五感にも畳長性は見られるのであって、たとえばリンゴの「おいしさ」は畳長性なのだ。等々。
そうした多様な(畳長な)議論を通じて「畳長性とは、創造性と多様性が潜在的なものとして宿り、集積している場所なのです」という定義が示さ
れ、はては、畳長性とは現実を別の次元から見直す「藝」であって、その意味では哲学とは最も畳長な営みである、と見得を切る。
この本が難解でつかみどころがないのは、出来合いの概念に寄りかかった解説本ではないからだ。まだ誰も考えたことのない未知の概念をつくりだそ
うともがいている哲学の現場がさらけ出されているからだ。だから読者も何かを勉強しようなどとは思わず、惜しげなく投げ出された概念の積み木を
使って自分の哲学を組み立てればいいのである。