「本をめぐるキレハシ」(2006)
☆2006
★1月23日(月):『全体性と無限(下)』解説
レヴィナスの『全体性と無限(下)』(熊野純彦訳,岩波文庫)を買った。第一刷発行の日付けは1月17日で、奇しくも阪神・淡路大震災11周年
の日。章節が小刻みに区画されていて、それぞれにタイトルがふってある。いかにも少しずつ小分けして読むのに向いている。ここ半年ほど続けてきた
『物質と記憶』の独り読書会にならって、ノートをつけながら読み始めてみようかと真剣に考えている。副読本はもちろん、これまた積ん読状態のまま
塩漬けになっている斎藤慶典著『レヴィナス──無起源からの思考』。内田樹著『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』もいつか再読したいと思っ
ていたことだし。
とりあえず、熊野純彦氏の解説を読んだ。二つの話題が記憶に残った。
その1.『全体性と無限』(1961)に対するデリダの批判「暴力と形而上学」(1964)とこれによるレヴィナスの「転回」、そしてデリダそ
の人へのレヴィナスの思考の反響。簡潔な叙述でもって要約される西欧思想のドラマ(旧約対新約?)。
その2.『全体性と無限』ドイツ語版序文でレヴィナスは、フッサールとハイデガー(『存在と時間』)からの決定的な影響を告白した。この両者と
ならんで名を挙げている哲学者の一人がベルクソンである。そのベルクソンについてレヴィナスはある回想のなかで、ベルクソンの作品は「一篇の詩の
ように」すでに完成されたものであったと書いている。
1月25日(水):最近読んだ雑誌
『クロワッサン』2006年1月10日号
年末年始の休みに読んだ。特集が「女の住まい方、男の住まい方」。最近、といっても数年前からのことだが、「老後の住まい」ということをけっこ
う真剣に考えるようになった。きっかけは「書庫」にしまい込んだ書物たち(私の無意識)をきちんと整理整頓して、老後の仕事部屋に収蔵したいと
思ったこと。でも、藤原和博さんによると、「本棚に囲まれた書斎」という「憧れの風景」のイメージは「吹き抜けが欲しい」とか「リビングにはゆっ
たりとしたソファ」などと同様、映画やテレビや雑誌の世界からやってきた夢の「イコン」でしかない。「「書斎」を作れば“できるビジネスマン”に
なったり“充実した老後”を送れると考えることも、このような勘違いの延長だ」(ちくま文庫『人生の教科書[家づくり]』39頁)。これは賢者の
言葉だ。「女の住まい方、男の住まい方」の記事にもそのような記号、「自分らしさ」といった実体のない夢をめぐるシンボルやイコンやインデックス
がふんだんにしつらえられていたが、これはこれでよくできていた。それより、第2特集「小説家の小説案内」が面白かった。なかでも恩田陸さんの
『春の雪』(三島由紀夫)をめぐる文章「ケレンと様式美、スター三島に酔いしれたい。」が出色。
『季刊チルチンびと』35号(2006 WINTER)[特集|新しい住まいの「和」]
『男の隠れ家』2006年2月号[特集|愉悦の読書空間 156人の384冊]
この二冊も年末年始の休みに読んだ。いや眺めた。いずれも「幸福のイコン」に満ちた雑誌で、眺めているだけで愉しめる。和風の住居の写真もいい
けれど、たくさんの書物の写真にそそられる。子どもの頃の切手蒐集を思い出す。倒錯している。どこか淫している。いっそ(お菓子の家ならぬ)本で
造った家に住むか。
『BRUTUS』No.586(2006.2.1)[特集|Garden Love]
『GRAPHICATION』142号(2006.1)[特集|子どもたちは、いま…]
結局、グラフィック雑誌は読まずにインテリアのように飾っておく。壁に掛けた絵画のように、時折ぱらぱらと表層を眺めて時間を潰す。雑誌の活字
を読むという体験は、一般の書籍を読むときのそれとまるで異なっている。言葉が記号になって、自在に結びついていく。対談であっても、一般の書籍
からの引用であっても、それは変わらない。切り取られた言葉が写真のキャプションのように、まったく違う相貌を見せている。雑誌を眺める時間とい
うのは、何かとつながっている感覚とそこには何もないという空虚感がないまぜになっている。欲望が編集されていく。本を読む、マンガを読む、写真
を見る、映画を観る、音楽を聴く、絵画を鑑賞する、スポーツを観戦する、雑誌を眺める。それぞれまったく異なる体験である。
★1月26日(木):最近読んだ雑誌(続)
『中央公論』2006年2月号
日本文化再発見シンポジウム「伝統と美意識は永遠なり」を読む。語り手は辻井喬、小倉和夫、千宗屋、ドナルド・キーンの各氏。活字で読むと気が
抜けたビールみたいな議論だが、会場で生身で聞くとそれなりにコクとキレがあるのだろうな。
ドナルド・キーンが、日本の心は具体的に定義しにくいが、だいたい室町時代の東山文化は日本の心ではないかと語っている。「足利義政の築いた文
化が、現在のほとんどの日本文化だと思います。お茶、生け花や墨絵もそうです。畳部屋や庭園も同じです。」これを受けて千宗屋が「いま和風と言わ
れるもののほとんどは、まさに室町時代に生まれたと言ってよいと思います」と応じ、内藤湖南の説(応仁の乱でそれまでの日本文化は一度壊滅した)
を引用し、「わび、さび、も昔は今で言うサブカルチャーだったのではないでしょうか」と続ける。「ですから、日本文化はクレオール文化という本質
をもっていたのではないかと思うのです」と辻井喬。小倉和夫が「あらゆる文化は雑種文化」と応じ、ドナルド・キーンが「いろいろな文化が混じり
合ったとはいえ、どこの国でも何か独特なものがあるのです」と流し、千宗屋が「文化の雑種性と言いますと、茶道はその最たるものだと思います」と
受ける。
《結局、茶の湯が日本文化とされるいちばんの理由は何かと言うと、わび、さびに代表される『新古今集』的な「冷え枯れる」という和歌の美意識をお
茶のなかに持ち込んだからです。さらに、「一座建立」という考え方も、連歌の席の即興性や瞬間性を茶のなかで重要視するようになったことから、取
り入れられるようになりました。そうして、精神的、思想的な部分での受け入れ方において、茶の湯はどんどん日本化したのだと思います。》
そのほか印象に残った発言を拾うと、辻井喬が紹介しているある数学者の言葉。「今後は、日本から数学の天才は出ないだろう、なぜかと言うと、美
しい環境に育った人でないと数学の才能が開花しない、崇高なものに跪く精神がないと数学は無理、そして経済的なものよりも精神的なものを大切に思
うという風土がなければいけないからだ」。ドナルド・キーンの『古今集』の部立ての話、千宗屋の型の話も面白かった。
『文藝春秋』2006年2月号
三浦展の「下流社会 団塊ニートの誕生」を読む。『下流社会』の主役が団塊ジュニア世代などの若者だけであるとするのは誤解で、他の世代にも
「下流」は存在する。現在の下流化した若者の意識の大本にあるのは、親である団塊世代の価値観である。三浦氏はそう書いている。「ちなみに下流と
は、単に所得が低い人というだけでなく、コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学習意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低い人々
を指す。」三浦氏が腑分けした団塊世代の8つのクラスタのうち、男女とも全体の25%を占める「団塊ニートクラスタ」がまさにこの意味での「下
流」の典型である。他に「貧乏文化人10.5%」と「ヒッピー6%」を加えた4割以上が「下流な傾向」を示す。
多くの団塊世代は、無精ひげを伸ばし汚いジーパンをはき、何もせずに、ぶらぶらするだけ。きっと街がどんどん汚く、うるさくなるだろう。だっ
て、そういう、何の役にも立たない無為で「下流」な生き方こそが、団塊世代の理想だったからだ。──『団塊世代を総括する』のあの小気味よい議論
を思い出す。三浦氏が腑分けした8つのクラスタが面白いので、その要約を抜き書きしておく。
・ニューファミリークラスタ=高学歴、高所得、勝ち組で、消費好きな中流
・社会派クラスタ=高学歴、学生運動経験者多く、上流志向が強い
・団塊ニートクラスタ=低学歴、ややブルーカラー系、全体に意欲が低く、やや下流
・下町マイホームクラスタ=家族でアウトドアを楽しむのが好きな中流の自営業系
・スポーツ新聞クラスタ=ゴルフ大好き、ギャンブルも好きなオヤジ系
・アンノン族クラスタ=散歩とショッピングが好きな元祖アンノン族おばさん
・ヒッピークラスタ=元ヒッピーで古民家好きなサラリーマン
・貧乏文化人クラスタ=創造性を重視するが階層意識が低いアーチスト系
★1月31日(火):『芸術新潮』
久しぶりに『芸術新潮』を買った。2月号の特集は「古今和歌集1100年
ひらがなの謎を解く」で、石川九楊の解説。これと似た趣向の特集では、「橋本治がとことん語るニッポンの縄文派と弥生派」(2003年10月号)、「磯崎
新
日本建築史を読みかえる6章」(2004年6月号)、港千尋解説の「写真よ、語れ!」(2005年9月号)がある。いずれも常備している。ついでに『芸術
新潮』のその他の常備本を書いておくと、「ケルトに会いたい! 魂の島アイルランド」(1998年7月号)、追悼特集「バルテュス
なぜあなたは“少女”を描くのですか?」(2001年6月号)、創刊55周年記念大特集「フィレンツェの秘密」(2005年1月号)。これで常備本は七冊
になる。
躰が重たく、活字を追う気になれず、ただただ美しく撮影された書跡を眼でなぞっている。疲れが癒える。別冊太陽の常備本『白川静の世界 漢字の
ものがたり』をひっぱりだして併読する。気持ちが(少し)高揚する。末木文美士『日本仏教史』に、漢文訓読の(日本語の発想による)解釈が日本の
仏教思想の自由な発想、もしくは恣意的な解釈をもたらしたことが、親鸞、道元の場合で例証されていた。言葉と思想の一筋縄ではいかない関係。
姫路市立美術館で『デルヴォーとマグリット』展が始まっているらしい。広告が掲載されていた。これは忘れず出かけよう。
★2月1日(水):『象られた力』
飛浩隆著『象られた力』を読んだ。読み終えたのは先月末で、ちゃんとした感想文を書こうと思ってぐずぐずしているうち、時間がとれなくなってし
まった。そんなことはもうどうでもよくなった。面白かったのなら、それだけで十分だと思う。
収められた四つの作品は、いずれもどこか懐かしい。忘れたことさえ忘れてしまった記憶の細片化されたかたちと、希釈された力がひとつの物(たと
えば言葉や身体)のうちに再現されて、私と私でないもの、見るものと見られるもの、記号と意味の隔てがその物のうちで消失する。仰々しく表現すれ
ば、そんな感じ。作者の物語の紡ぎ方、語り方はとても初々しく、かつ瑞々しい。音楽、絵画、映像、とりわけ漫画がもつ言葉を超えた表現力に拮抗す
るイメージの喚起力に満ちている。
「感情の力」(「デュオ」14頁)。「楽譜には作曲家の感情の振幅が記録されている。それを演奏家が解放する。非常に難しい作業だが、まれにう
まくいくと、我々は天才たちの感情に同期して翻弄されることになる」(同26頁)。「人間は五官を通してしか宇宙とかかわってはいけない。五官の
外にあるものを、人はついに理解することができない」(「夜と泥の」194頁)。「スローな意識」(同243頁)。「そうとも。ものを見ること
は、見られることは、それほどに淫らなことなのだ。人は眼差しによって事物を犯し、見ることによって事物に犯される。だからこそ、人は見ずにはい
られない。形と、力を」(「象られた力」399頁)。
これらの断片をつなぎあわせて、なにかもっともらしいことを書こうと思えば書けるかもしれないが、そんなことはもうどうでもいい。
★2月2日(木):『20世紀絵画』
宮下誠著『20世紀絵画──モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)を読んだ。これも読み終えたのは先月末のこと。ちゃんとした書評を書こ
うとぐずぐずしているうち、時間切れになってしまった。この本は図書館で借りて読んだので、返却期間がきたら返さないといけない。だから大事な本
は自腹を切って読まなければだめなのだ。以下は、うろ覚えの記録。
絵画は画家が筆と絵の具を使ってキャンバスの上に描いたものだ。このあまりに自明な事柄の「発見」から20世紀絵画は始まる。それは絵画につい
ての絵画の歴史でもあった。人間は自分が見たいものを見る。見たもの(本質)だけを描く。それが抽象ということで、だから絵画とはすべからく抽象
なのだ。ヨーロッパの具象絵画は抽象に取り囲まれている。北方ケルトの抽象的組み紐文様。東方ビザンティンのイコノクラスム(偶像禁止)。西方ス
ペインのイスラム的装飾。南方エジプトの幾何学的造形、北アフリカのユダヤ教的抽象世界。これらの厳格な宗教的規律を思わせる抽象の奔流に抗し
て、古代ギリシャに淵源する有機的具象性や「愛」に基づくキリスト教的なヒューマニズムという「物語」を対置させたところに具象絵画の根拠の一つ
がある。それは極めて特殊な思想に根ざしたものなのである。20世紀絵画は、こうした抽象と具象の切実なせめぎ合いの中からその豊饒さを紡ぎだし
ていった。
こうした「要約」は虚しい。本書の場合、著者自身も認めているように、叙述の進行につれて最初のテーマ(「わからない抽象/わかる具象」という
二項対立の無効化)が、旧東ドイツ絵画という「わからない具象」に対する著者自身の個人的「衝撃」を介して微妙にずれていく。だから読者も、著者
が本書にちりばめた「理屈」を拾い出して20世紀ヨーロッパ絵画史の手っ取り早い理解を得ようとせずに、著者のガイド(けっして懇切丁寧とは言え
ないが)を参考にしながら、個別の作品に入れこむことから始めるしかないのである。ただ、それにしては本書に掲載された図版はあまりに小さすぎて
細部が判別できない。
★2月3日(金):『クレーの絵本』
好きな画家は誰かと訊ねられたら、きっとたくさんの名前をあげることだろう。ただ一人にしぼれと言われたら、さんざん迷ったあげく、たぶんアン
リ・マティスかパウル・クレーの名を告げるのではないかと思う。どちらになるかは、その時々の感情のかたちと身体のあり様いかんによる。
『20世紀絵画』でも、第一章「抽象絵画の成立と展開」と第二章「具象絵画の豊饒と屈折」の両方に取り上げられているのはこの二人とパブロ・ピ
カソの三人だけだった(たぶん)。同書に図版が掲載されていたマティスの「赤のアトリエ」や「ダンス」や「金魚のパレット」や「河辺の浴女たち」
や「装飾的人物」、クレーの「ガラスのファサード」(裏面も)や「インヴェンション」や「チュニジアの赤と黄色の家」や「インスラ・ドゥルカマー
ラ」や「もくろみ」や「泣く女」などは、いくら眺めていても飽きることがない。
好きな画家の話に戻って、今ならマティスとクレーのどちらが好きかとくどく追及されたら、クレーと答える。谷川俊太郎さんが『クレーの絵本』
(講談社)の最後にこう書いている。
《クレーは言葉よりもっと奥深くをみつめている。それらは言葉になる以前のイメージ、あるいは言葉によってではなく、イメージによって秩序を与え
られた世界である。そのような世界に住むことが出来るのは肉体ではない、精神でもない、魂だ。/クレーの絵は抽象ではない。抽象画には精神は住め
ても魂は住めない。言葉でなぞることは出来ないのに、クレーの絵は私たちから具体的な言葉を引き出す力をもっている。若いころから私は彼の絵にう
ながされて詩を書いてきた。ちょうどモーツァルトの音楽にうながされてそうしてきたように。「詩」は言葉のうちにあるよりももっと明瞭に、ある種
の音楽、ある種の絵のうちにひそんでいる。そう私たちに感じさせるものはいったい何か、それは解くことの出来ない謎だ。》(「魂の住む絵」)
★2月12日(日):『太陽の黙示録』
私は、同じ映画を何度でも初めて観るという特技をもっているが、漫画についてもこれと似たところがある。似たところがあるというのはちょっとし
た嘘で、映画のストーリーはからっきし憶えられないが、漫画はしっかりと記憶している。ではどこが似ているのかというと、映画の場合は何度でも初
めて知る物語の筋に興奮できるが、漫画の場合はすっかり馴染みになった物語にあたかも初めてのように没入できるというところだ。別に似ていようが
似ていなかろうがどうでもいい話だが、疲れているとそんなことが気になって仕方がない。そういえばミステリーの読書体験は、映画のそれに似てい
る。犯人が誰だったか、謎解きのキモは何だったかがほとんど憶えられない。
かわぐちかいじの『太陽の黙示録』(9・10巻)を読んだ。この手の作品は、新刊を1冊だけ読むくらいならいっそ禁欲して読まない方がましだと
思うくらい、読み終えて欲求不満が残る。だから最低でも2、3巻分まとめて読むことにしている。『太陽の黙示録』は去年の秋に9巻が出て、たぶん
今年になって10巻が出た。11巻が出るのはだいたい4ヶ月先のことだから、春になるまで我慢して、5月の連休明けあたりにまとめ読みをする予定
だった。そんな思惑は自分でも忘れて、つい手を出してしまった。次々に重要な役回りを担うキャラクターが登場してきて、この先どういう展開になる
のか。まあ、だいたいのところは想像がつくが、そういう予感(期待)を読者に抱かせるのが作者の腕の見せ所なのだから、もうすっかりその術中には
まっている。蛇の生殺しのような真似はやめて、早く完結してくれ。同じ作者の『ジパング』も14巻まで買っていて、これはたしか21巻まで出てい
るはずだ。そろそろまとめ読みをしてもいい。
★2月24日(金):最近買った本──『日本人は思想したか』
近頃は買った本の話ばかりで、読み終えた本の感想、書評もどきの文章がまるで書けない。そもそもまともに読めないのだから、どうしようもない。
とっかえひっかえ本を手にして活字を眺めてはいるのだが、まるで頭に入ってこない。心に染みこまない。一月近くに及んだ「激務」からようやく解放
されて、また以前のように静かな、しかしそれなりに気忙しい日常に戻ったら、これまでの睡眠不足を取り戻すかのように躰と頭がだるく弛緩して、
かっことした輪郭の手触りがまるで感じられない。スポーツのあとの心地よい筋肉の虚脱感とはまたニュアンスの違う類の感覚で、乾ききった不毛の砂
がさらさらとこぼれていくように、時間が私のテリトリーから離れていく。活字が薄れていく。
★2月24日(金):最近買った本──『日本人は思想したか』
吉本隆明・梅原猛・中沢新一『日本人は思想したか』(新潮文庫)を買った。この本は昔、単行本が出た時に買って、それなりに面白く読んで人にプ
レゼントした。調べてみると、11年前の夏のことで、その時の感想は一言「吉本の発言が難解」とだけ記している。昨年から、日本中世の歌論、連歌
論の類にいたく関心をいだくようになり、年が変わる前後から日本仏教思想に惹かれるようになった。そうした関心から、いつか再読しなければと思い
始めた矢先、いきつけの古書店の店頭に、定価514円のところほぼ半額の250円で新刊同様の文庫版が並んでいたので買い求めた。
鼎談の仕切役・中沢新一が、最初の方で次のように語っている。「すこし大げさなことを言えば、これは日本人にとって大切な意味を持つ話し合いに
なり得ると思います。僕たちは、もう精算すべきものと、そうでないものを、分別する時にきています。そういう曲り角で行われた、重要な話し合いに
してみたいのです。」(14頁)
全体が五つの章に別れていて、その3が「歌と物語による「思想」」、その4が「地下水脈からの日本宗教」。「日本人にとって」どうかは判らない
が、少なくとも私にとって、この話し合いはとても重要な意味を持つもののように思える。
★2月25日(土):最近買った本──『〈心〉はからだの外にある』
河野哲也著『〈心〉はからだの外にある──「エコロジカルな私」の哲学』(NHKブックス)の序章「心理主義の罠」と第一章「環境と共にある
〈私〉──ギブソンの知覚論から」とあとがき「心理学と探偵小説」を読んだ。乾ききった不毛の砂に慈雨が注ぎ、濃密な時間が私のテリトリーのうち
に帰還してくる。久しぶりの熱中本になりそうな予感がする。チェックを入れた箇所をいくつか、任意に抜き書きしておく。(あとがきは、それ自体が
一篇のすぐれたエッセイになっているので、部分的な抜き書きなどできない。)
序章から。「本来は社会的・政治的であるはずの問題を、その人たち個人の問題へとすり替えて、問題を「個人化」することは政治的プロパガンダの
典型的な手法である。」
「デカルトの原理が「我思う、ゆえに我あり」ならば、生態学的立場から引き出される、それに対抗する原理は「私は死ぬ」である。」
「「障害は個性である」もミスリーディングな主張であり、そこにおいて本来希求されているものは、自分の属してきた共同体を相対化して、参加すべ
き社会を選択しようとする個人主義の原理である…。」
第一章から。「エコロジカルな自己とは、環境と相互作用する身体そのものに他ならない。」
「「自分探し」とは本来、「自分」を探すことではなく、既存の環境のなかで自分が居やすい場所を見つけたり、つくり出したりすることだ。」
「私たちが知覚している世界は、人間の心(ないし、脳)が生み出した表象やイメージではなく、私たちがそれを知覚しているか否かにかかわらず、そ
のままの姿で実在している。(ギブソンの直接知覚論)」
「ギブソンによれば、神経のなかを移動しているものがあるとすれば、それは単なるエネルギーや興奮である。「情報」「信号」「記号」「メッセー
ジ」「命令」といった言葉に類比的なものが神経内で伝達されていくという想定はミスリーディングである。」
「知覚世界は、私たちの身体の外側に、まさしく見えているそこに存在している。」
「デカルトにとって「思惟」とは、「自分で自分の声(言葉)を聞くこと」である。「考える」とは、黙読のように音量をゼロにまで絞った発話に他な
らない。」
「作用(action)の本質は、求められている一定の効果を生み出すことにある。心の作用も、それだけで抽象的に存在することはできず、それが
向かう対象の変化のなかに己の姿を現している。」
「計算が何であるかは、その過程ではなく、「数字を使った問題に回答を与える」という結果から定義される。したがって、計算という「心的機能」
を、不可視の精神の内的な動きとして捉えてはならない。それは、ある種の道具や器具を通して、一定の結果を現実世界にもたらす実践的な行為のこと
である。」
「…私たちが同一の存在でありつづけているのは、世界(あるいは、環境)が同一であるからだ…。心的作用の同一性が維持されるのは、それらを支え
るさまざまな内部機構が同じ対象に関わり、外部の対象に収斂するように組織化されているからである。」
「環境知覚と自己知覚はいつも同時に生じており、相補的な関係にある。自己知覚は環境についての知覚なしにはありえない。」
「知る自己の働きは環境のなかに書き込まれているのであり、透明な幽霊のような心的機能などありえない。」
「結局、デカルトが自己意識と呼んだものは、「フランス語によって自分の状態について報告できる」ということ以上ではない。」
「自分の経験だけを論じる主観主義の哲学にとっても、死は身体である他人にだけ生じる事態であり、心である自分は死ぬことがないのである。」
「これに対して、生態学的立場にとって自己とは、身体的自己のことである。したがって、私は死ぬ。私はひとつの身体である。」
「デカルト的な「私」は死なない。だが、エコロジカルな私は死ぬ。」「誰の死であろうと死そのものが邪悪なのである。」
「生態学的な立場から言えば、道徳や倫理の最終的根拠は、死体への共鳴にある。」
★2月28日(火):最近買った本──『RATIO』
たぶん読まないだろうな、と思いながら『RATIO[ラチオ]』(1号)を買った。講談社初の思想誌なのだそうだ。巻頭論考「今、われわれの根
本問題をどう考えるか、どう考えうるか」では小泉義之(「自爆する子の前で哲学は可能か──あるいは、デリダの哲学は可能か?」)、大澤真幸
(「「靖国問題」と歴史認識」)両氏の文章が掲載されている。大特集「アジアのナショナリズムを問う」に続く特集「世界の現代思想を読む」には、
リチャード・ローティ(「予測不能のアメリカ帝国」)とジョルジュ・アガンベン(「人間の仕事」)の特別寄稿が掲載され、これが本号のウリである
らしい。最後の特集「現代哲学はどこへ向かっているか」では、再び小泉義之氏が登場して、郡司ペギオ‐幸夫氏との「生物学と哲学を越境する渾身対
談」に挑んでいる。
とりあえず、この対談「物語をやめよ!=「生きる」このと哲学を構想する」を読んだ。あいかわらず難解で、しかし妙に気になる(蠱惑的な、と
いってもいい)議論が展開されている。よくは判らなかったが、郡司ペギオ‐幸夫がいう「質料」や「肉」の概念が気になった。フロイトの「夢」の概
念が質料に似ているとか、夢や質料は非論理的なものをつなぐ「糊」であるとか、糊が無際限に「ない」ものをつなぎ合わせていくと、結果、「ある」
ものを作ってしまうとか、腐っていくという過程は糊と同様、存在を不在へと帰る過程であるとか、いずれもよくは判らないが、判らぬなりに面白い。
それにしても、本書には刊行の辞も編集後記もない。雑誌ではなくて一般書籍だからかもしれないが、一般書籍にだってまえがきやあとがきというも
のがある。論文集だと、編者の序文のごときものがしばしば寄せられる。あまりにそっけない。装幀も含めてあまりにそっけない。まるで同人誌のよう
な趣が漂う。掲載論文のタイトルや特集名を見れば、この「思想誌」のねらいは判るということか。それは判るが、本書を構成する四つのパーツを貫く
ものが見えない。寄せ集めの印象が拭えない。どういう方針でこれらの論考が同じ書物のなかに並列させられているのか。ウェブ上で、ある個人があち
こちのページにリンクを張ってこしらえた「本」がそのまま物質化した感じ。
講談社のホームページ[http://shop.kodansha.jp/bc/books/ratio/]に「刊行の辞」が掲載されている。
これを読むと、やはりこの本はネット上で編集されるべきではなかったかと思った。ペースとしておく。
《日本を含めた世界は、今まさに、これまで経験したことのない新しいステージに立たされています。それをもっとも端的に象徴するのは、9.11後
の国際社会の現実でしょう。現代は、あらゆる理論、思想、政策が無効になり、誰もが新たな解答を見出せないまま、途方に暮れているように見えま
す。
人類はこれまでこのような事態を、さまざまな思想を提出しあうことによって、解決してきました。それが人類の歴史でもあります。今、出口なしの
状態にあるということは、逆に言えば、これから、新たな思想の時代が到来する、という前ぶれに他なりません。RATIOは、そのような新しい思想
の可能性を探り、吟味し、検証するために生まれました。
今、来たるべき思想の時代を予見するかのように、日本にも世界にも、新しい思想の萌芽が見られます。若い言論が生まれつつあります。そのよう
な、可能性に満ちた論考が自在に参集する場として、この雑誌が枢要な役割を演じられることを念じつつ、02号、03号と続けていきたいと考えてお
ります。
ぜひ一度、のぞいてみてください。どれでもいいから、読んでみてください。どれも意外に読みやすく、しかも深いことがおわかりいただけるはずで
す。》
★3月2日(木):『はじめての〈超ひも理論〉』
川合光著『はじめての〈超ひも理論〉──宇宙・力・時間の謎を解く』(講談社現代新書)を読んでいる。内井惣七著『空間の謎・時間の謎』の同時
併読本として買ったもの。スーパーストリングの話は昔から好きだった。物質の究極とか、宇宙の起源や成り立ちとか、数学的概念の振る舞いといった
事柄について書かれた書物を読むことは、昔から私の精神衛生法の一つだった。スーパーストリングにはそれらのすべてがつまっている。松岡正剛さん
が「千夜千冊」の第千一夜目のお題にブライアン・グリーンの『エレガントな宇宙』を選び、中断をはさんでつごう5回、字数にして4万5千字におよ
ぶ長大なエッセイを寄せていたことを想起する。
まだ冒頭、第1章の途中までしか読んでいない。ここまでのところでは、超ひも理論以前のクォーク誕生をめぐる四つのステップの話が面白かった。
その第三ステップが「クォーク・グルオン・プラズマ状態」と呼ばれるもので、それはクォークと反クォークがどろどろにくっつきあった「スープ状
態」(53頁)のことである。この「プラズマ」や「スープ」という言葉には妙に惹かれる。クォークを「概念」にたとえると、「プラズマ状の概念」
とか「概念のスープ」といったアイデアを導き出すことができる。グルオンすなわち「糊の粒子」という言葉にも惹かれる。『RATIO』に掲載され
ていた小泉義之との対談で、郡司ペギオ‐幸夫さんが語っていた「質料=夢=糊」という謎めいた概念を想起する。
★3月3日(金):脳が喜ぶ時空の問題
内井惣七著『空間の謎・時間の謎』が、俄然面白くなってきた。いま、第Ⅰ章「空間とは? 時間とは?」と第Ⅱ章「ライプニッツとニュートンは何
を争ったか」を読み終えて、ようやく第Ⅲ章「ニュートンのバケツから相対性理論まで」に入ったところ。以下、第Ⅳ章「マッハ流力学の行方」、第Ⅴ
章「宇宙と量子」と、魅力的な章名がつづく。いまだ読書脳が回復していなくて、実をいうと議論の細部が充分にフォローできていない。それでも面白
いと思うのは、この本であつかわれている問題そのものが、脳を喜ばせているからだろう。時空の問題を考えることは、意識や善悪の問題を考えるよ
り、よほど脳のはたらきの根っこのところにつながっている。生命の根源につながっていると言ってもいい。これほど具体的でありながら、かくも抽象
的な問題は他に思いつかない。哲学的問題であり同時に科学の問題であり、数学や神学の問題でもあるようなものは他にないのではないかと思う。
★3月4日(土):ライプニッツおそるべし!
『空間の謎・時間の謎』第Ⅱ章では、時空の関係説(ライプニッツ)と絶対空間・絶対時間の理論(ニュートン)との対決が、後知恵をもって白黒を
つける単純な裁定ではなく、それぞれが依って立つ科学観にまで遡って腑分けされている。議論の詳細はもうとうに忘れているけれど、時空をめぐる問
題が実に奥深いものであったことと、充足理由律や予定調和の説、不可識別者同一の原理、モナドロジーといったライプニッツ哲学のキモになるアイデ
アが深甚かつ広大な射程をもつものであったことを、あらためて思い知った。(あいかわらず、言葉だけで内容のない文章がつづく。)
なかでも、モナドロジーの情報論的解釈のくだりが刺激的だった。すべてのものはモナドの集まりからできている。モナドは部分を持たず、広がりも
形も持たない。物理的現象は、いくつかのモナドが「知覚」する現象にすぎない。モナドは、それぞれの観点から他のモナドを自分のうちに表象する。
このことが「知覚」と呼ばれる。モナドの知覚は刻々と移り変わる。モナドの知覚を変化させる内的原理は「欲求」と呼ばれる。著者は、この「知覚」
を「情報」に置き換えてはどうかと提案する。そして「欲求」を「情報を変える」と翻訳する。モナドの形而上学を「情報の担い手を究極的な実体と見
なし、宇宙の変化を情報の流れに着目して解き明かす」試みと解釈する。
モナドの知覚(情報)には、判明なものとそうでないものの程度の差がある。ライプニッツの用語では、より判明でより完全なものが「能動的」で、
逆が「受動的」である。人間の心(これもモナドである)による知覚は能動的で、道端の石の知覚(日に当たって熱くなるなど)は受動的である。しか
し、能動的な知覚も、意識下の多数の受動的な情報処理プロセス(これも知覚である)からなるものである。人間の内に宿るモナド(心)による認識
(知覚)は、モナドのある集合体から別の集合体への情報の流れ、ひいては宇宙全体の情報の流れのダイナミクスによって決定されている。
《空間と時間も(モナドの世界には物理的時空はない)、モナドの知覚の中ではじめて成立する概念である。このように、あるモナドと別のモナドが他
方を「映す」(知覚する)とか、他方に「映される」という関係を基本に据えたのは、宇宙のすべてが互いに関係しあっていることを強調し、宇宙の変
化を情報の流れから解明しようという野心的な試みのためだったことがわかるのである。また、電子や陽子など、「素粒子」と見なされた対象を、微少
なひもの振動から生まれる現象だと見なす現代の「ストリング(ひも)理論」の発想は、ライプニッツが晩年にたどりついた思想の再現にほかならな
い。いまから三○○年も前にこのような発想をしていたとは、まさに「ライプニッツおそるべし!」。》(81頁)
★3月11日(土):最近読んだ本
最近読んだ本。内田樹・釈徹宗『インターネット持仏堂1 いきなりはじめる浄土真宗』(本願寺出版社)。三好由紀彦『はじめの哲学』(ちくまプ
リマー新書)。ブライアン・フリーマントル『知りすぎた女』(新潮文庫)。池井戸潤『金融探偵』(徳間書店)。
『はじめの哲学』がよかった。この人の詩を読んでみたくなった。「人間の唱える哲学はもう聞き飽きた/ぼくが聴講生になりたいのは/犬の認識
論、樹の心理学、/そしてミミズの形而上学だ」(『生歌』)。著者が主宰する「紀元アカデミア」にも興味を憶えたが、ホームページ
[http://www.kigen-acd.com/index.html]には見るべきコンテンツがない。信濃八太郎のイラストがとてもい
い。この本については、元気になったらきちんと「書評」を書いておきたい。
★3月18日(土):最近読んでいる本・買った本
福井晴敏『Op.[オペレーション] ローズダスト』上下(文藝春秋)を買って読んでいる。『亡国のイージス』『ローレライ』に続く長篇。この
二つの作品、とくに前者は傑作だった。映画もビデオで観たけれど、どちらも(とくに前者は)ひどい出来だった。福井作品の「本質」がわかっていな
いシロモノだった。たしか『ローズダスト』の新聞広告に、映像では表現できない、といったフレーズが出てきた。たとえば『亡国のイージス』に込め
られた「濃厚な感情」は、もともと文字でしか表現できないものだ。『ローズダスト』には、村上龍の『半島を出よ』を思わせるところがある。
河野哲也『〈心〉はからだの外にある──「エコロジカルな私」の哲学』(NHKブックス)。半分ほどまで読み進め、はじめの頃の「熱中」が醒め
てきた。だらだらと断続的に読んでいると、議論の本筋が頭に定着しない。こういう本は、最初の勢いを借りて一気に読むにかぎる。
吉本隆明・梅原猛・中沢新一『日本人は思想したか』(再読、新潮文庫)。じわじわと面白くなってきた。ようやく「歌と物語による「思想」」の章
に入ったところ。「地下水脈からの日本宗教」の章がこれに続く。昨年来の関心事である「歌と仏」(あるいは「性愛」と「霊性」)に、新機軸がもた
らされるか。
今週買った本。ベルクソン『笑い』(林達夫訳,岩波文庫)。いきつけの古書店でみつけた。ベルクソン自身もさることながら、久しぶりに林達夫の
文章が読みたかった。
石井敏夫『ベルクソンの記憶力理論──『物質と記憶』における精神と物質の存在証明』(理想社)。『物質と記憶』を「一冊の書物」として読むこ
とに徹した論考。「序論」を二度読んだ。吉本隆明『カール・マルクス』(光文社文庫)。久しぶりの吉本隆明もさることながら、「あとにもさきに
も、日本にもヨーロッパにも、これほど深いマルクス論に、私は出合ったことがない」と書く、中沢新一の解説「マルクスの「三位一体」」が読みた
かった。
★5月20日(土):紙一重
文庫本で吉本隆明の著書を二冊、同時に読み進めている。『カール・マルクス』(光文社文庫)と『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)。なんど読み返
しても、咀嚼しきれない濃厚な残余が後を引く。思想家としての吉本隆明の凄さがようやく判りかけてきた。そんな気がする。中沢新一の解説(「マル
クスの「三位一体」」,「二十一世紀へむけた思想の砲丸」)がついていて、どちらも力がこもっている。この二冊を存分に読み込めば、そこからヒン
トを得てなにか自分なりの思索を展開できそうな気がしている。けれども、それはまだ朦朧としている。今日のところはただ一点、二つの書物の冒頭に
あたる箇所にでてきた共通する語彙をめぐって、前後の文脈をぬきにして抜書きしておく。
《ひとは、たれでもフォイエルバッハのこの洞察が、ほとんどマルクスと紙一重であることをしることができるはずだ。そういった意味では、この紙一
重を超えることが思想家の生命であり、もともとひょうたんから駒がでるような独創性などは、この世にはありえないのである。
マルクスにとっては、フォイエルバッハのように、〈自然〉は、人間と自然とに共通な基底ではなかった。それは〈非有機的身体〉と〈有機的身体〉
として相互に浸潤しあい、また相互に対立しあう〈疎外〉関係であった。わたしのかんがえでは、フォイエルバッハが、あたかも光を波動とかんがえた
とすれば、マルクスはそれを粒子という側面でかんがえてみたのである。それは、マルクスがギリシア〈自然〉哲学の原子説を生かしきったことを意味
している。フォイエルバッハの〈共通の基底〉を、〈疎外〉にまで展開させたおおきな力は、この紙一重の契機であった。》(「マルクス紀行」,
『カール・マルクス』41頁)
《けれど法然と親鸞とは紙一枚で微妙にちがっている。法然では「たとひ一代ノ法ヲ能々学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ」という言葉は、自
力信心を排除する方便としてつかわれているふしがある。親鸞には、この課題そのものが信仰のほとんどすべてで、たんに知識をすてよ、愚になれ、知
者ぶるなという程度の問題ではなかった。つきつめてゆけば、信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題であった。そして、これが云いよ
うもなく難しいことをよく知っていた。
親鸞は、〈知〉の頂きを極めたところで、かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉をしきりに説いているようにみえる。しかし〈非知〉は、
どんなに「そのまま」寂かに着地しても〈無智〉と合一できない。〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の課題だが、どうしても〈非知〉と
〈無智〉とのあいだには紙一重の、だが深い淵が横たわっている。》(『最後の親鸞』17-18頁)
★5月21日(日)
福岡伸一さんが、食べることつまり消化とは情報を解体することだと書いていた(『ソトコト』6月号)。ここでいう「情報」とはタンパク質のこと
で、情報の解体とはタンパク質(文章)をアミノ酸(アルファベット)に分解することである。
《体内に入ったアミノ酸は血流にのって全身の細胞に運ばれる。そして細胞内に取り込まれて新たなタンパク質に再合成され、新たな情報=意味をつむ
ぎだす。つまり生命活動とは、アミノ酸というアルファベットによる不断のアナグラム=並べ替えであるといってもよい。/新たなタンパク質の合成が
ある一方で、細胞は自分自身のタンパク質を常に分解して捨て去っている。なぜ合成と分解を同時におこなっているのか? この問いはある意味で愚問
である。なぜなら、合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ効果であるからだ。》
(福岡伸一「食べることは情報を解体すること」,ソトコト連載「等身大の科学へ」)
★5月26日(金):思考を対象化すること
レヴィ=ストロース『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』の「序曲Ⅰ」を読んだ。序章でも序文でも(序でに書かれた)たんなる序でもない。
いかにも序曲と名づけるのがふさわしい、湿気をたっぷりとふくんだ濃密な霧がたちこめた文体。モーツアルトというよりは、ワーグナーを思わせる。
出だしの文章が決まっている。
《生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民俗誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれ
ば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ
て命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。》(5頁)
続くパラグラフには、こう書いてある。
《わたしの実験室となる先住民の社会から借りてきたわずかな数の神話を使って、これからある実験をおこなうのであるが、それが成功した場合には、
結果は普遍的なものになるであろう。この実験に期待しているのは、さまざまな感覚的なものに論理があること、そして感覚的なものの過程を跡づけ、
感覚的なものに法則があるのを証明することだからである。》(5-6頁)
感覚から抽象へといたる思考の過程を跡づけること。いや、そのような神話的思考を生きること。神話をもって神話を語ること。音楽でもって音楽を
語るように。
《わたしは、ひとびとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らな
いところで、どのようにみずからを考えているかである。
そしてたぶん、すでに示唆してあるが、さらに踏み込んで、主体というものを取り除いて、ある意味では、神話たちは互いに考え合っている、と想定
すべきであろう。(略)神話それ自体を支えているのは二次的コードであるので(一次的コードは言語活動である)、本書が提供したいのは三次的コー
ドの素描であり、素描の目的はいくつかの神話間相互の翻訳の可能性を手に入れることである。だからこの素描は神話であると思っていただいても間違
いではない。それはいわば神話学の神話である。》(20頁)
そして最後に、「人類学の究極の目的」は「思考を対象化し、思考と思考の仕組のよりよい理解に貢献することである」(22頁)とくくられる。思
考を思考すること。繰り返し繰り返し読み込まれるべき文章。神話を繰り返し語り継ぐように。
★5月27日(土):「写真は、映画によってみずからの静止性を発明した」
『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』に納められた鈴木一誌さんの「重力の行方──レヴィ=ストロースからの発想」という文章が滅法面白
かったので、少しばかり抜き書きしておく。
レヴィ=ストロースと音楽という、ありきたりといえばありきたりな切り口からではなく、写真や映画(鈴木氏はこれをひとまとめにして「非連続を
生きるという意味で、写真と映画をともに写真メディアと言っておこう」と書いている:171頁)からレヴィ=ストロースを論じる。「映像を使用し
た人類学なのではなく、映像的な視角による人類学」(170頁)。しかも、それが最後になって、重力と無重力の対比を通じて、写真・映画と音楽と
神話が同じ次元で論じられる。「写真が切りとる〈薄さ〉には、おそらく重力が写っていない。」(175頁)「物音は現実世界に根をおろし、いわば
重力をもっているのに対し、「音楽以外のなにものも模倣しない」音楽をなりたたせる楽音には、重力がない。」(178頁)「重力のある地平と無重
力の場の往還、つまりは「天と地のコミュニケーション」から神話の駆動力が生みだされている。」(177頁)
なんの要約にもなっていないが、とにかく「重力の行方」はスリリングな論考だった。以下、とりわけぐっときた一節を引用しておく。
《映画監督ロベール・ブレッソンはこう書きとめている。/「トーキー映画は沈黙を発明した」/映画が音声をもつことで、表現としての〈沈黙〉が出
現したのだと言う。サイレント映画における単層は〈沈黙〉をもちえなかったのだ。ブレッソンにならって言えば、写真は、映画によってみずからの静
止性を発明したと思えるのだが、かといって、映画には運動があらかじめ与えられていたのではない。静止写真の集積にほかならない映画は、見る行為
によって連続化され、運動を獲得する。静止写真の非連続性をつなぎえたことが、観客の「映画を見た」との達成感の基本にある。写真は世界の複写で
ある、と言え、写真が世界の複製であるかぎりで、写真は世界へと連続している。対称に従属することなく、被写体の物語に誘引されずに、写真を、
フィルムや印画紙上の感光材料や顔料にすぎない〈薄さ〉へと滞留させ、結果的に写真と世界のあいだに非連続をもちこむことが、写真を生きることに
ほかならない。》(170-171頁)
ここに出てきた「物語」という語に関連して、もう一節、抜き書きしておく。
《ドキュメンタリーは、地球上のあらゆる生きものが甘受せざるをえない重力を写すものなのではないか。重力に抗いながら身体を動かす労働者や病者
をドキュメンタリーがよく写してきたのはそのためだろう。多種多様なテーマがえらばれているにせよ、それとは別に、重力とともに生きるほかない存
在として生きるものを描きだす、これがドキュメンタリーを定義する最低限の基準だと思える。対する劇映画は、たしかに役者は重力下にあるにして
も、物語は、重力を無化する権限をもっている。スーパーマンやクンフー映画のように極端にではなくとも、殴り合いや殺陣においては重力が微細に省
略されている。スローモーション撮影も重力感の操作の一方法だ。》(174-175頁)
それにしても鈴木一誌さんの文章は刺激的で面白い。レヴィ=ストロースのゴダールの対比など、ひりひりするほど興奮させられる。以前、入手しか
けてやめた『画面の誕生』を早速買い求めて読んでみよう。
補遺として。「物語」について、中沢新一さんが『芸術人類学』で次のように書いている。
《神話はこのような思考空間の上を動くのである。対称性の知性をとおして世界をみつめ、宇宙の中の人間の位置や人間がそこに生きていることの意味
を思考しながら、その思考を物語構造をとおして表現する。物語がここでは論理思考のための役目を果たすことになる。物語は時間の流れにそって語ら
れるものであるから、がっちりとした継起性をもっている。それは「はじまり」をもち、「おわり」をもつ。しかし、論理的な語りとちがって、その語
りはバイロジックの生み出しているものだから、内部に特徴のあるねじれをはらむのである。》(「神話公式ノート」76頁)
ここに出てくる「このような思考空間」というのは、「ペンローズの三角形」のように、あきらかな論理的矛盾(ねじれ)をはらんでいるのに、その
矛盾が図形の全体に存在していて、それを局所化して取り出すことができない図形、「いたるところにねじれが含まれていて、しかしそのねじれを全部
集めてみると、どことなく変だが全体としてはもっともらしい顔をしている」、そのようなパラドキシカルな図形をつくりだす思考空間のことだ。
★5月30日(火):『はじめの哲学』
三好由起彦さんの『はじめの哲学』を読み終えたのも、ずいぶん前のことだ。
「世界がある」ということの神秘と謎めぐる八つの冒険でつづられた本書は、存在の国の広さの問題から始まる。やがて議論は、この世界にあるもの
すべてを説明してくれる「いちばん最初の根っこ」をめぐる冒険へ進み、素粒子を観察する眼をさらに観察する眼、見ることをさらに見ることができる
ような能力、すなわち意識の問題にたどりつく。そして、「あるもの」を知るためには「ないもの」のことも知らなければならないが、「ないもの」を
知ることなど絶対に不可能であるという矛盾にぶちあたって、存在の国の外部、つまり「死」の問題へと屈折し、「この存在の国の中にあるものすべて
は、私たちが生きているからこそ、そこにある」という「結論」にいたる。そして最後の章で、死後の世界の実在をめぐる二つの「真理」の選択の問題
が述べられる。
存在の問題にほんとうの答えなどない。なぜなら、ほんとうの答えがみつかった段階で、最初の問題はもはや問題ではなくなってしまうのだから。な
くなってしまった問題に対する答えなど、もう答えではないはずだ。生まれ変わった時、その人はもはや以前と同じ人ではない。だとすると、生まれ変
わりなどなかったことになる。これと同じ構造だ。だから、哲学書を読むことの意味は、いやそもそも哲学するということ自体、最初の問題に何度でも
たち帰ること以外のなにものでもない。忘れていたことさえ忘れていた最初の問いにたち帰ること。「クイちゃん」が発する問いに何度でも向き合うこ
と。
『はじめの哲学』を読みながら、保坂和志の『季節の記憶』と『もうひとつの季節』を想起した。いずれも、クイちゃんの「哲学的問い」への「僕」
(クイちゃんのパパ)の応答をもって小説世界がはじまっていた。「時間ってどういうの?」から宇宙の問題に話題が広がっていった『季節の記憶』。
『もうひとつの季節』では、クイちゃんがおばあちゃんに「僕」がまだ一歳かそこらの時に猫と一緒に写った写真を見せてもらって、「猫はもう死ん
じゃった」と聞いて腑に落ちない思いをし、「パパにも赤ちゃんだったときがある」はわかるけれど「この赤ちゃんがパパになった」の方がどうしても
納得できないところから小説世界がひらかれていった。たしか保坂和志さんの本にも挿絵がついていた。挿絵がこれほど強く記憶に残る本はめったにな
い。『はじめの哲学』もその希有な例の一つだ。
★6月7日(水):『東京タワー』と『杯』
リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社)
《人の一生のうちでただ一度だけ起こること》
だれでも一生に一冊、小説が書けるという。笑いや涙、感動や共感を誘う小説。誘わなくとも、読者の心の奥深いところ、情動にはたらきかける小
説。ありのままの事実をただ書き連ねるだけでは、そのような小説は書けない。人生は小説ではない。ありのままの事実をありのままに書くことなど、
並の力量ではできない。そもそも、ありのままの事実などどこにもない。ありふれた出来事などどこにもないように。ありのままの事実であれ、ありき
たりの出来事であれ、それはそのような事実や出来事を生きる人の、当の事実や出来事に対する態度のうちにしかない。
小説を書くということは、小説を書くという強い意識を伴う行為である。知らぬ間に小説を書いていた、などということはない。知らぬ間に書いた文
章が、それを読む人の心の奥深いところ、情動に知らぬ間にはたらきかける、などということはもっとない。しかしそのあり得ないことが、人生に一度
だけ起こる。それが書物として世に現れることは、もっともっと稀有なことだ。リリー・フランキーの『東京タワー』を読むということは、そのような
あり得ない稀有な出来事に遭遇することである。
この人の文章はひどい。とても読めたものではない。しかし、そのような文章でしか表現できない実質がある。というより、ある実質がそのような文
体を強いている。この作品を、たとえば堀江敏幸の文体で読むと、読者はより深い文学的感銘を受けるかもしれないが、それはもう『東京タワー』では
ない。当たり前の話だが。リリー・フランキーは、堀江敏幸とは異なる次元で、小説には「いま」しかないということを作品を通じて表現している。こ
の作品には、ほんとうは相互に無関係の異なる複数の「いま」が、それぞれの「いま」に固有の感情と体感にくるまれて息づいている。だから、この作
品はけっして回顧譚ではない。読者はほんとうはそのことに気づいている。だから、リリー・フランキーにとってのかけがえのない「いま」が、だれに
とってもかけがえのない「いま」としての輝きをもって表現されていることに愛惜の涙を誘われるのである。人の一生のうちでただ一度だけ起こる表現
の奇跡に立ちあえたことに、深い感銘を覚えるのである。
沢木耕太郎『杯〔カップ〕──緑の海へ』(新潮文庫)
《疲労の名前》
日本と韓国をくりかえし移動しながら、日韓ワールドカップの主要なゲームを観戦する。なんと贅沢な「仕事」だったことだろう。羨ましさと妬まし
さが入り交じった冷ややかな視線をもって読み始めた。
沢木耕太郎の文章は「疲労」の影を深く濃くたたえていた。そこに混じっている感情の質も量も私のそれとは比較にもならないだろうが、この疲労感
は私自身もたしかに経験したものだ。この一点を確認できたことで、このドキュメンタリーは、ある精神のかたちをめぐる優れた考察の書として、忘れ
がたいものとなった。
リアルタイムでTVで見、ビデオで何度も確認しては、鈴木の初ゴール、稲本の勝ち越しゴール、中田のだめ押しゴールの感動をすりきれるくらいに
反芻した。しかし、それらはすべて対トルコ戦の終了とともに凍りついたままだ。あの時の熱狂の疲労が、いまでも休火山の地底奥深くでとぐろをまい
ている。
《決勝トーナメントの初戦で敗れたことは間違いなく残念なこと、悔しいことだった。もしかしたら、私たちが、日本代表とともに、このワールドカッ
プで手に入れることのできた最大のものは、敗北を受け入れるのではなく、敗北を無念なことと受け止める、この思いなのかもしれない。》(403
頁)
愛国心やナショナリズムといった言葉でくくってしまっては、その実質はとらえることができない。あの体験を名ざす言葉を、すくなくとも私はまだ
手に入れていない。あれから4年経った。「臥薪嘗胆」にかわる新しい語彙を見つけることができるだろうか。
★6月21日(水):月と蛙
中沢新一さんが「壺に描かれた蛙──考古学と民俗学を結ぶもの」(『芸術人類学』)に、次のように書いている。──料理の火の発見という「技術
革新」を通じて、人類社会は自然から文化へと移行した。火を使って「焼くこと」と「煮ること」。前者が自然から文化への移行をストレートに表現し
ているのに対し、後者はそこにふたたび自然への逆行を導入している。縄文文化は、「煮ること」に重きを置いて独特な土器を発達させてきた。土器は
粘土と水を混ぜ合わせて製作される。煮炊きに利用されることで、食材(非連続な個体)をどろどろの液体に溶け込ませてしまう。
《こうして土器は成形時と調理の際と、二度にわたって水と深い関わりをもつことになる。ところで神話的思考においては。水はしばしば火と対立しあ
うものとして思考されている。火を使った調理は「焼くこと」では、湿ったものから乾いたものへ、連続しているものから非連続なものへ、液体状のも
のから固体状のものへの変化をつくりだすのに、「煮ること」はこの過程をふたたびもとの状態へ逆行させようとする。こまかく切り刻まれた材料は土
器の中で、水気をたっぷり含んだ、どろどろの液体とひとつに溶け込んでいく。
このように、土器を使った煮炊き料理は、火の使用に関してあきらかに両義的な性質をしめすことになる。「煮ること」を社会的コードに移して隠喩
的に思考すると、Endogamy
的な行為につながっていく。これは、小さな家族関係の中に閉ざされた状態で食事やセックスをする傾向であり、家族関係や母子関係の外に広がる大きな社会関
係に広がっていこうとする Exogamy 的な行為と対立しあう。「焼くこと」が Exogamy 的であるならば、「煮ること」はあきらかに
Endogamy 的なのだ。》(『芸術人類学』324頁)
ここから中沢氏は、縄文中期の土器にあらわれた月と蛙のイメージの解析へと進んでいく。蛙=大地性。月=周期性。──もう家に帰って食事の準備
を始めないと、早朝のイングランド対スウェーデン戦の録画を観て、ポルトガル対メキシコ戦をリアルタイムで観戦するのに間に合わない。以下、駆け
足で「要点」のみ記す。蛙は重力に縛られた選手たちであり、月は切り落とされた首(サッカーボール)であり、土器はピッチである。何が言いたかっ
たのかというと、サッカーの試合は、(料理と同じように)感覚と抽象のこねあわせ、観念の蒸留と概念の精錬の場であるということ。そして、サッ
カーとは何かについても「焼くこと」と「煮ること」と同様の二つの見方があるのではないかということ。
★8月18日(金):「耳と心」でたどる日本宗教芸能史──山折哲雄『「歌」の精神史』
「歌」とは身もだえする語りである。「ひとり」をめぐる感受性と情調の千年におよぶ歴史のうちに育まれた伝統的な「叙情という名の魂のリズム」
(41頁)である。「ひとり」とは外来語としての「個」に対応するひびきをもつ大和言葉で(121-122頁)、「魂鎮め」や「魂乞い」というと
きの魂のことだといっていいだろう。
「歌」には、実人生へのリアリズム感覚に裏打ちされた深く清冽な情感(悲哀感)が湛えられている。中世という「聴覚の時代」(79頁)に淵源す
る「無常観と生命の昂揚感」(216頁)の伝統が流れている。この魂の律動、生命の律動を聴き取るには「耳と心」(93頁)をもってしなければな
らない。
それでは今日、日本の詩歌の世界にかつてのような叙情の息吹や香りを感ずることができるだろうか。著者は美空ひばりの死とともに、いやそれに先
んじて叙情はすでにアスファルトのように乾ききっていたと嘆じる。
宗教的世界観(無常観)と叙事的文学(生命律)を分離し(77頁)、歌唱の伝統に背を向けてテキストの内部に自閉する(91頁)ひからびた知性
の跋扈が、この惨状をもたらしたのである。それは「語りを忘れた人文学」(65頁)が陥った衰弱と対をなす現象でもあった。
こうして人文学者・山折哲雄による、日本文化の「遺伝子」あるいは「ウィルス」(50頁)ともいうべき「伝統的な生命リズム」(43頁)の系譜
をめぐる探求が開始される。
萩原朔太郎を介して古賀政男と石川啄木が並置され、啄木から西行へ、西行から親鸞の和讃へ、そして今様歌謡などの法悦文芸へと、「叙情の源流」
(109頁)を尋ねる旅は遡行していく。その過程で挽歌と相聞歌の同質性や釈教歌の意義(道元における歌の切実さ)が明らかにされ、最後に、瞽女
唄と盲僧琵琶の調べを経て北原白秋の童謡へと降る。
歌唱の伝統のうちに息づく「歴史の旋律、精神の鼓動」に寄り添いながら、著者の筆致は時に軽やかに、時に沈痛に、そして演歌、歌謡曲、童謡の歌
詞が引用された箇所ではおそらく自ら節をとり唄いながら、自在に進んでいく。とりわけ「流離と放浪のなかで浮沈をくり返す盲人の精神史」をあつ
かった章では、著者は静かに高揚している。
「芸能と信心が未分化のまま支え合う哀感の歴史、といってもいい。瞽女の唄と語りのかなたから能の詞章が蘇り、浄瑠璃や常磐津のリズムがきこえて
くる。中世の和讃や今様の旋律までがひびく。」(178頁)
「小林ハルさんの瞽女唄と永田法順さんの盲僧琵琶の語りが、一瞬、そのような長い長い宗教芸能史の起伏に富んだ流れをわれわれの眼前に蘇らせてく
れるのだ。小林ハルさんの瞽女唄語りも永田法順さんの釈文語りも、それをきけばわかるように感傷の涙に曇らされることのない強い響きと鋭い感情表
現をもっている。物語の主題をみすえた対象把握の全身的な構えは、おそらくそのきびしい盲目の生活体験によってきたえられ培われたものであったに
ちがいない。
現代の歌謡や詩歌からはすでに見失われてしまった叙事的な哀感の調べが、そこにはわずかに流れつづけているように思えてならないのである。」
(191頁)
雑誌連載という出自がもたらした制約とそれと裏腹な表現の自由度が、著者をして新しい人文学の書を書かしめた。あとがきにいう「瓢箪から駒」と
は、おそらくそのことだ。「思索と体験が出会う究極の到達点」(141頁)。道元の歌に寄せて語られたこの言葉は、「耳と心」でたどる宗教芸能史
という人文学の新しい語り方(親鸞の和讃に匹敵する)を的確に形容している。
★8月27日(日):休日の読書事情──『数学的にありえない』ほか
金曜の夜、ひさしぶりの衝動買いでアダム・ファウアー『数学的にありえない』上下(矢口誠訳,文藝春秋)を購入し、これも随分ひさしぶりの一気
読みで土曜一日をしっかりと棒にふった。
「徹夜必至の超高速超絶サスペンス!」とか「ここに前代未聞のアイデアを仕込んだジェットコースター・サスペンスが幕を開ける」とか「前代未聞、
徹夜必至の物語のアクロバット。記念すべき第1回《世界スリラー作家クラブ新人賞》受賞作」とか、まあ仰々しい売り言葉がたっぷりとちりばめられ
ている。どことなく以前『ダ・ヴィンチ・コード』(角川書店)を衝動買い・一気読みしたときの雰囲気に似ていると思っていたら、案の定「ダン・ブ
ラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』が切り拓いた知的サスペンスの分野に、それをはるかに凌駕する傑作が誕生しました」とも書いてある。どう評価し
ようが勝手だが、「はるかに凌駕する」とはいくらなんでも言い過ぎだろう。
一日棒にふってでも読む価値があったかどうかは、この作品になにを期待するかにかかっている。確率論や統計学と脳科学と深層心理学が薄っぺらく
結合した現代版アカシック・レコードのアイデアを「前代未聞」と言われてもにわかに賛同しかねるし、数学や量子力学の講義が説明口調で長々と挿入
されるのは興をそぐ。そういう趣向、味付けの部分は別にして、「ジェットコースター」の方面でも、上巻のストーリー展開がどこかもたもたしている
し、唐突で都合のよすぎる出来事の連続に後で説明がつくことは判っていても「なんでそうなるの」とイライラが募るし、随所にはさまれる回顧談が流
れを遮断するし、そもそもいったいどの人物に感情移入したらいいのか気持ちが定まらない。
とまあ悪口ばかり書いたけれど、最後まで飽きず一気に読めたし、それなりに快感があったのでよしとしよう。これは映画だと思って、自分なりに映
像を想像しながら読めばけっこう楽しめる。上巻の終わりあたりでこのことに気がついた。一つだけ映像では表現できないトリックがあるのだが、それ
も工夫しだいでなんとかなるだろう。こういう作品だとわかっていてもう一度金曜の夜に戻ったら衝動買いをしたかどうかはなんともいえない。ディレ
クターズ・カット版でもプロデューサーズ・カット版でもどちらでもいいので『ブレードランナー』のDVDを買った方がよかったと今この時点では思
うけれど、それは既に決定された現在だからそう思うだけのことなので、実際その時になると結局は衝動買いの誘惑に負けているかもしれない。
エンタメ系の小説にしろ映画にしろ、読んでいる時、観ている時はそれなりに楽しんでいたくせに、本を閉じ映画館を出る(DVDをパッケージにし
まう)と、それがよく出来た作品であればあるだけ理不尽な不満がおしよせてきて「ああまた時間を棒にふった」という思いが嵩じてくる。それは「楽
しい時間が終わってしまって、また退屈な時間が始まる」という不満に近いような気もするが、たぶんそれとは違う。「よく出来た作品であればあるだ
け」と書いたが、その「よく出来た」の部分が関係してくるのだと思う。
それは、ここ一月ばかり断続的に読み進めてきてちょうどこれから最後の第四巻を一気に読みきろうと思っている『播磨灘物語』にもあてはまること
で、読み終えたときに襲われるに違いない不満の感触がいまのうちから想像できる。『数学的にありえない』や『ダ・ヴィンチ・コード』と司馬遼太郎
の長編小説とではまるで作品の仕立て方が違うので一律にはあつかえないが、「ああとうとう終わってしまった」という虚脱感、こう書くと先ほどの
「楽しい時間が終わってしまって、また退屈な時間が始まる」に似ているけれど、これとは微妙に違う不満がやっぱり到来するに違いない。「よく出来
た」作品は、その出来具合の違いを超えて「終わってしまう」という一点で共通する。どれほどの熟達や天才の筆をもってしてもこれだけはどうにも避
けられない。
ただ、最近つづけて観ているヒッチコックの作品や、いま読みかけていて『播磨灘物語』のあとでもし時間があればこれもついでに最後まで読みきっ
てしまおうと思っている小島信夫の『残光』などは、たとえ観終わり読み終えてもそれ(作品を観、読んでいる時間)が「終わった」という感じがしな
い(後者については「と思う」と書くべきだが、最後まで読まなくてもわかるのであえて断定しておく)。
『残光』をいまそれについて書いているエンタメ系の作品と同列に扱うのはどうかと思うが、作品中に再々登場する保坂和志の言葉を借りて「読んで
いる(観ている)時間の中にしかない」作品が、それを読み終えた(観終わった)後でも続いていると感じるのは、元祖「ジェットコースター」のヒッ
チコックと同質とまではいわないまでも少なくとも私には分別できない。
エンタメ系の作品は「つくりもの」で、そうでない作品はそうではない、などと言ってみてもはじまらない。「つくりもの」といえばすべての作品が
そうなのだから、とにかく「終わってしまう」ものと「終わらない」ものがある、それがなぜだかは判らない、としか言えない。それは趣味、好みの問
題だといわれれば、それはそうかもしれないとしか言えない。
★9月1日(金):ボルヘスの詩
ボルヘスの第五冊目の詩集『闇を讃えて』(斎藤幸男訳,水声社)を読んだ。最初に読んだ表題作があまりに素晴しかったので、まるごと引用してお
く。
闇を讃えて
老い(人々がそう言い習わしている)は
幸せな時間ともなりうる。
動物は死んでいるか、ほとんど死んでいて、
残っているのは人間とその魂だ。
明らかな形と、闇に沈んではいない
霞んだ形の間にわたしは生きている。
ブエノスアイレスよ、
かつてはひき裂れ場末となって
果てなき平原の彼方へと伸びていったおまえは、
今レコレタ墓地やレティロ広場となり、
オンセ辺りのとりとめのない通りとなり、
今なお南地区と呼ばれる
心もとない古い家並みとなって帰ってきた。
わたしの人生には物事が溢れていた。
アブデラの人デモクリトスは思惟の妨げになるからと両眼をくりぬいたが、
時間こそがわたしのデモクリトスだった。
この薄明は歩みが遅く、しかも痛まない。
穏やかな坂道と異ならず、
永遠にも似通っている。
友人たちには顔がない。
女たちは何年も前の顔のままだ。
どの街角も互に入れ替わる。
本のページには活字が見当たらない。
これらすべてはわたしを怯ませるはずだが、
実のところ帰り着いた安堵の気持なのだ。
地上に残された書物の数は夥しいが、
わたしが目を通し、
記憶の中で読みつづけ、読み替えつづけている章句は、
ほんの僅かだ。
南から東から西から北から
数多の道が集い合い
わたしの秘められた中心へとわたしを導いた。
その道はこだまであり足音であり、
女たち、男たち、苦しみ、蘇り、
日日と夜夜、
まどろみと夢、
わたしの過去や世界の過去の
それぞれの刹那刹那、
デーン人の硬い剣とペルシア人の月、
死者たちの勲〔いさおし〕、
共感された愛と言葉、
エマソンと雪と、そして多くの物事だ。
わたしは今すべてを忘れようとする、わたしの中心に、
わたしの代数学、わたしの鍵、
わたしの鏡に達するのだ。
わたしは誰か、今それを知るだろう。
その昔、まだ多感な子どもだった頃、気に入った詩をノートに一つ一つ書き写して自分だけの詩集を編んだことがあった。そのノートは探せばまだど
こかに残っているはずだ。
詩を読むということは、ほとんど自分が書いたものと誤認するほどまでに繰り返し読み続けることで、それはレコードが擦り切れるほど繰り返し気に
入った音楽を聴きこむことと同じことだ。そうやって、ほんの僅かな章句を「記憶の中で読みつづけ、読み替えつづけて」いくことだ。やがて言葉は肉
となり、わたしたちのうちに宿るだろう。
ある、あった、あるだろうわたしは
絶え間のない時であり表象である言葉へと
ここに再び立ち返るのだ。
──「ヨハネによる福音書 一章十四節」から
「序」でボルヘスはこう書いている。
「この本が詩集として読まれることをわたしは望む。一冊の本はそれ自体では美的存在となりえず、他の事物たちと同じひとつの物だ。美的行為はそれ
を認〔したた〕める時、それを読む時にはじめて生ずる。自由詩は印刷上の見せかけにすぎぬと論じられもするが、この主張には誤りが潜んでいるよう
に思われる。詩行の印刷上の形態は、リズムの彼方で、読者に伝えようとするのが情報でも論証でもなく、私的感情なのだと表明しているのだ。」
あるいは次のように。
「詩はこの世界のあらゆる要素に劣らず神秘的な存在だ。数少ない幸福な詩行さえわれわれの自慢の種とはなりえない。なぜならそれは偶然あるいは精
霊の賜なのだから。」
詩は、「それを認める時、それを読む時にはじめて生ずる」。何度でも「はじめて生じる」。──それはたかだか一時間ばかりのことにすぎなかった
のだが、ボルヘスの詩篇を読んでいるとき、私の肉体はたしかに「ある、あった、あるだろう」すべての言葉、記憶、時間へとつながっていた(と思
う)。
わたしは他者たちだ。あなたの粘り強い厳しさが
救ってくれたすべての人々だ。
わたしはあなたが知らずに救う人々なのだ。
──「ジョイスの霊に」から
全的な死をこそわたしは望む。伴侶であるこの肉体とともに死ぬことを望む。
──「祈り」から
★11月17日(金):『定家明月記私抄』
先日、夢のなかで藤原定家の『明月記』が出てきた。『明月記』が出てきたとはおかしな言い方だが、この高名な、しかしこれまで見向きもしなかっ
た書物をいちど読んでみたいとか読まねばならないといった思い、というのではなくて、『明月記』にふれてみることで何かしらこれまでにない展望が
ひらけるのではないかという予感めいた思いが夢のなかに浮かび上がった。
それがだれの思いだったか、あるいは誰かからのお告げのようなものだったかが朦朧としていて、はたしてそれは夢だったかどうかさえも怪しい。ま
してや、難解で知られる『明月記』をいきなり繙いてもとても歯が立たない、たしか堀田善衛に『明月記』を題材にした作品があってちくま学芸文庫に
入っているはずだからそれを読めばいい、などという思いがこれに続いたのだから、それはやはり夢のなかの出来事ではなくて、なにか考え事をしてい
た時に白日夢のごとく胸中にふと去来した思いだったのだろう。
そういうわけで、さっそく書店めぐりを敢行、『定家明月記私抄』正続二篇を入手した。松岡正剛千夜千冊の第十七夜にとりあげられていて、その冒
頭に「こんなに先を読みすすむのが惜しく、できるかぎり淡々とゆっくりと味わいをたのしみたいと思えた本にめぐり会ったのは久々のことだった。
「惜読」などという言葉はないだろうが、そういう気分の本である。どうしたらゆっくり読めるだろうかと懸念したくらいに、丹念で高潔なのだ。」と
記してある。まだほんの数頁を読んだばかりだが、たぶんこれとよく似た感慨をいだくことになるだろうと思う。
同じちくま学芸文庫の『完本 風狂始末──芭蕉連句評釈』(安東次男)や岩波文庫の『郷愁の詩人
与謝蕪村』(萩原朔太郎)、小学館から出ている『日本古典文学全集』の「歌論集」や「連歌論集 能楽論集
俳論集」等々の「惜読」本(後半の二冊は眺めてすごす積ん読本か)の仲間が増えそうで、ということは『定家明月記私抄』もまたいつか息切れしてしまうかも
しれない。
でも、ざっと眺めただけでも、正篇序文の「雪さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる」をめぐる「二つの傾斜」の告白(「それは高度き
わまりない一つの文化である」という驚嘆と「だからどうだと言うのであろう」という虚無感)や、続篇序文の日欧中世文化並行説の提示は、なにか途
方もなく深甚な世界を告げる序曲のようで、読んでいて興奮させられる。この興奮がしだいに醒め、氷のように冷え冷えとした「艶」の域に達するか、
それとも夢幻のごとく溶けて流れてしまうか。
「雪さえて…」のことは千夜千冊でもとりあげられている。「堀田善衛が言いたかったことは、たんに一作品一文化を例外的に定家がなしえているな
どということではなく、定家は詠んだ歌をもって文化を残すにもかかわらず、その定家はその歌から平気に遠のいていること、そのことに定家の前に残
されたわれわれは驚嘆しているということなのだ。」
あらためて松岡正剛さんのすごさに感じ入った。この後に続く定家論が実に素晴らしかったので、そのさわりだけペースしておく。(松岡正剛の定家
論は素晴らしい、そんな評言をくりだすだけの研鑽をつんでいるわけではないが。)
《第一に、リアルな出来事やリアルな感情の数々をあまり出さないで、できればたったひとつの景色だけを歌にのこして、その歌の場から去っていこう
と考えた。(略)
第二の指摘になるが、定家はいわばリアルなものを負の領域にもちこんで、その場をヴァーチャルな雰囲気に変え、それでいて一点のリアルを残しつ
つ、その場のリアル=ヴァーチャルな「関係」だけを残響させるという方法をつくろうとしたのではないかということだ。(略)
そこで第三に、定家は言葉をつかうにあたって、実在を指し示す言葉や不在を指し示す言葉では満足できずに、言葉そのものを実在とも不在ともする
ような詠み方に進んでいった。
これをさしずめ「言葉から出て言葉へ出る」と言うといいのかもしれない。念のため、言葉に出るのではなく、言葉へ出た。》
第 十七夜から第千八十九夜にリンクが張ってあった。冒頭「颯爽たる一冊だった。」と記されているのは尼ヶ崎彬の『花鳥の使』(勁草書房)で、
いまは『花鳥の使 歌の道の詩学1』と『縁の美学 歌の道の詩学2』の二冊本になっている。これは未読。
「心敬の『ささめごと』はいずれ「千夜千冊」に入れようとおもいつつ、ついついその機会を逸してきた絶品の書であって、それゆえぼくとしてはつい
口を極めたくなるのだが、ここでは静かに著者とともに心敬を味わうにとどめたい。」
そんな文章がでてくる。そういえば、古本屋をめぐって『日本古典文学全集』の二冊を入手したのは、『ささめごと』が読みたかったからだ。定家と
心敬。この二人のことが「歌の道の詩学1」で主題的にとりあげられているらしい。さっそく次の休み、書店めぐりを敢行することになりそう。
★11月20日(月)
歌論を基軸とした芸能論を通じて日本の文化や思考の様式について考えてみたい。考えるなどとは烏滸がましいのであって、まずは昨今ブームの
「和」なるものへの心静かな入門を果たしたい。そうした思いが日々高じている。(偶然の賜だが、師について茶の真似事を始めたりもしている。)こ
れに日本の建築、造形芸術への関心が重ね着されていく。一点突破でのぞまねば、いずれ空中分解してしまう。
養老孟司の『身体の文学史』に、都市型・建築型の意識定着法(エジプトのピラミッド)と文字型・文学型の定着法(ユダヤの旧約聖書)はなぜかし
ら矛盾する、万里の長城と焚書坑儒のごとく、といった話題がでてきた。歌論と日本建築、歌人もしくは芸能者と宮大工もしくは庭師。これら二つの
「意識の表現」のジャンル、二つの類型の表現者に焦点をあわせ、楕円形に関心を育んでいくしかない。