「本をめぐるキレハシ」(2005)



☆2005

★4月2日(土)

 安藤礼二『神々の闘争 折口信夫論』の「あとがき」に目を通した。2001年9月11の「世界史的な事件」を目にした「その瞬間、本書の全体の構成が、細部に到るまで一気に確定 された」という。「あとは、その時につかまえたヴィジョンを、自分なりの言葉にしていくだけだった」。松浦寿輝さんの名著『折口信夫論』の再読と あわせて、必ず読み切りたいと思った。ついでに折口信夫の芸能論も読んでおきたいと思ったが、結局読まないかもしれない。

 T.イーグルトン『新版 文学とは何か──現代批評理論への招待』の「新版のはしがき」と「訳者あとがき」を読んだ。廣野由美子『批評理論入門──『フランケンシュタイン』解剖講 義』の副読本にと思って図書館で借りたのだが、これは逆だったかもしれない。

 大森荘蔵『物と心』の「はじめに」も読んだ。最近再読した(といってもざっと流した程度)桑子敏雄さんの『感性の哲学』に大森荘蔵の「ことだま 論」の話がでてきたのでにわかに読みたくなった。次回の「マルジナリア」で大森晩年の三部作(『時間と自我』『時間と存在』『時は流れず』)を取 り上げようかと考えている(タイトルは「哲学のオーモリ」とでも)。この際大森本を何冊かまとめ読みをしておこう。桑子さんの本も『気相の哲学』 を借りてきた。これは大森荘蔵が最期に読んだ本らしい。

 辻信一『スロー快楽主義宣言!──愉しさ美しさ安らぎが世界を変える』の最後の第12章「野生という快楽」を読んだ。この人の文章にほんの少し 手を加えると(たとえば初期の村上春樹の短編小説のような味わいをもった)良質のフィクションになる。「ぼくはタヌキと話したことがある。本物の タヌキだ。いや、多分ホンモノだったと思う。」「ぼくはビーバーになったことがある。といっても夢の中の話だ。」

★4月3日(日)

 木田元『ハイデガー拾い読み』の前半を再読する。この部分は先々月に読み終えた。「〈実在性〉と〈現実性〉はどこがどう違うのか」とか「「世界 内存在」という概念の由来」とか、木田さんの本でこれまでからもう何度も繰り返し取り上げられてきた話題が延々と続く。読むたびに新しい刺激を受 ける。物覚えが悪くなったのを嘆くより、何度でも愉しめることを歓ぶべきで、これも「生きる歓び」の一つだろう。はやく後半に進みたいと思うが、 この本は読み急いではいけない。木田さんの名人の域に達した語り口にゆったりと身を寄せ味わいながら読まなければいけない。

★4月4日(月)

 河合隼雄さんを迎えた尼崎での講演会は大盛会。『父親の力 母親の力──「イエ」を出て「家」に帰る』にサインをいただく。講演の内容はだいたいこの本に書いてある。活字で読むとそうでもないのに、肉声で聴くと実 に味わい深い。著者から直接サインをいただいたのはオギュスタン・ベルクさんの『風土学序説説──文化をふたたび自然に、自然をふたたび文化に』 に続いて二冊目。その夜、芦屋浜を眺めながらフランス料理とワインと会話に酔う。四月四日は「おかまの節句」。せっかく用意したこのネタが使えな かった。白洲正子はかつて青山二郎に「おまえは、俺と小林[秀雄]のおかまの子なんだからしっかりしろ」と言われたことがある。河合隼雄と白洲正 子の会話「魂には形がある」にこの話題が出てくる。『大人の友情』でも言及されていた小林秀雄と青山二郎の「精神的おかま」の関係について河合さ んから直にお話が聴きたかったのだが、話題がうまくつながらなかった。村上春樹や村上龍のことも聞き忘れた。

★4月7日(木)

 白洲正子『おとこ友達との会話』はとてもよかった。対談でも討論でもなく会話、テーマや決まり事があるわけではない会話。この本を読んで何かた めになる知識や情報、気の利いた思想の手掛かりなどが得られるわけではない。得られないわけでもないが、この本を読むことの意味はそういうところ にあるのではない。ここに収められているのは良質のワインの香りや最高級の料理の匂いの記憶のようなもので、その残り香をたよりに白洲正子と九人 の「おとこ友達」との会話をいまここに立ち上げ、そこに流れていた贅沢で創造的な時間を反芻し追体験すること、そして読み終えて何も残らないこと そのものを味わうのでなければこの本を読む意味はない。

★4月8日(金)

 古書店でエチエンヌ・ジルソンの『神と哲学』を発見。ジルソンの本は一度は読んでおきたかった。序文に「天才とはこういう人をいうのであろう か、かれの講義を聞くとそれだけ自分の頭が作り変えられるような気がした」と讃えられているのはベルクソンである。ジルソンは「ベルグソンによっ て聖トマス・アクィナスの哲学的方法に導かれた者は、いまだかつてだれもいない」と書いている。ということは、ジルソンこそベルクソンによってト マス・アクィナスの哲学的方法に導かれた最初の人だということなのだろうか。訳文を読むだけではよく判らないが、そう解する方が面白い。實川幹朗 さんの『思想史のなかの臨床心理学』にトマス・アクィナスとベルクソンをつなぐ記述がある(72-3頁,233頁)。それはともかく、トマス・ア クィナスの研究を通じてジルソンは「デカルトの形而上学の諸帰結は聖トマス・アクィナスの形而上学との関係においてのみ意味をなすこと」に気づい た。話が佳境に入っていく。

★4月9日(土)

 ちくま学芸文庫から古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』が刊行された。この本は以前講談社の選書メチエ版で読み、とても興奮した。 図書館で借りたのでいつか常備用に買い求めておこうと思っていたし、なによりも永井均さんが解説を書いているので、選書メチエから同日(4月10 日)付けで出たばかりの『他界からのまなざし──臨生の思想』とあわせて速攻で買った。

 古東さんの本では『ハイデガー=存在神秘の哲学』も素晴らしかった。そのあまりの濃度に圧倒され序章だけ読んで中断している『〈在る〉ことの不 思議』ともども、しばらく古東さんの骨太の叙述に浸ってみよう。「骨太の叙述」は永井均の言葉。「私の哲学上の仕事は、いわば古東哲学の内部に あって、その細部を穿り返しては埋めなおすような作業にすぎない」と永井さんは書いている。

 山田正紀『神狩り』を読了。死の三年前、アイルランド東海岸に立つウィトゲンシュタインの苦悩と決意をプロローグとして、神戸の六甲で「古代文 字」が発見されるところから『神狩り』は始まる。論理神学もしくは言語神学のアイデアは面白い(きっと作品発表当時は斬新で画期的だったのだろ う)が、長い序章のままで終わった感じ。若書きの痕跡をとどめた文章が初々しい。

 管啓次郎『オムニフォン──〈世界の響き〉の詩学』も少し読む。「私とは私がこれまでに耳をさらしたすべての音の集積にすぎない」(6頁)。こ の人の本を読むのは初めてだが、高純度の文章は秀逸。


★4月13日(水)

 ひさしぶりに『ニューズウィーク日本版』を買う。ひところ新聞を読まないかわりに世の中の動き、国際情勢のさわりを仕入れるため毎週買って隅々 まで目を通していた。情報が濃いし、文章の質も良かった。副編集長ジェームズ・ワグナー氏の全身写真付きの時事コラムはいつも冴えていて、毎回 まっ先に読んだ。ある時期から編集方針が変わったようで、新入社員や30歳代のビジネスパーソン向けの記事や特集が増えて散漫な印象を受けるよう になった。誌面の構成にも飽きがきて、しだいに読まなくなった。今週号の特集は「国際情勢入門」。特集に惹かれたわけではなく News of the Week 欄の記事「燃え広がるネオ反日」が読みたかった。印象に残った語彙はインターネット署名運動、祖国へのプライド、もはや外交は中央政府の「聖域」ではなく なった、など。ワグナー氏いわく「(東アジアの人々に)まったく謝らないという手もある…日本は東アジアとの友好関係なしでもやっていけるだろ う」。

★4月16日(土)

 ジュリアン・ジェインズ『神の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』を購入。意識は生物学的進化によって生まれたのではない。それは言語に基づいて いる。意識は幻聴(右脳がささやく神々の声を左脳が聴く)に基づく「二分心」(bicamerai mind =直訳すれば「二院制の心」)の精神構造の衰弱とともに、ほぼ三千年前に誕生した。この仮説は、古代ギリシャ哲学が「神の死」(ギリシャ神話は神の殺害の おとぎ話である)の後の精神状況(死んだ神にかわる新しい至高性の希求)から生まれたとする古東哲明の議論とつながる。『現代思想としてのギリシ ア哲学』と同時進行的に読み始めた大森荘蔵の『知の構築とその呪縛』に出てくる「略画的世界観」から「密画的世界観」への転換の議論とも響きあっ ている。大森荘蔵に決定的に欠けている(『呪縛』前半を読んだかぎりでの印象)超越的なものとのかかわりで、中沢新一のカイエ・ソバージュ・シ リーズにもつながっている。木田元経由のハイデガー哲学(フィシスについて)にも通じている。

★4月17日(日)

 柄谷行人が今村仁司『抗争する人間』の書評を書いている(朝日新聞)。暴力に依拠する制度(共同体や国家)の廃棄可能性を「覚醒倫理」のうちに 見いだす今村の議論は仏教の悟達を思わせる。それはジラールが解決不可能な困難を執拗に示すとき、暗黙裏にカトリックという救済装置をもっていた ことと似ていて、根本的には保守派の議論である。「著者の今村氏もそうなのか。あるいはそうではないのか。本書では、その辺がまだ不明瞭であ る。」保守派の議論だとしたらどうなのか。悪いことなのか。柄谷氏の文章では、その辺がまだ不明瞭である。冗談はおいて、この本も買ったきりで一 月以上手つかずのままだった。すっかり読んだ気になっていた。本書の姉妹編『交易する人間』は面白かった。ちょっとできすぎていて、読後意図的に 熱を冷まさなければならなかった。だから『抗争』も読む時を選ばないといけないと思っている。夜、『仁義なき戦い 頂上作戦』と『仁義なき戦い  完結篇』を観て寝た。

★4月22日(金)

 開高健の特集を組んだ『サライ』。開高健の文章は時々読み返したくなる。「みんな酒を飲むときはそれとしらずに弔辞を読んでいる。」そんな名コ ピーにあふれたエッセイ集『白いページ』はかつてバイブルみたいなものだった。『夏の闇』は選集で読み、文庫で読み、英訳で読み、何度も繰り返し 読んだ。「無色透明のピュアモルトにも準えうるような、まだ溶解と流動の過程にある感受性の原型を、それに相応しい新鮮な言葉によって表現するこ とができないものか、この熾烈な祈りとも交錯する願望が開高健の一代を貫く文学的動機[モチーフ]であった」(谷沢永一)。平成元年12月、58 歳で永眠。生きていたら今年で75歳、はかりしれない深みに達した文章を残していたかもしれないし、あるいは開高健は終わっていたかもしれない。

★4月23日(土)

 藍川京の『炎』は源氏物語を下敷きに、序章の「紅の闇」から最終章の「灰色の別離」まで章名に十一の色彩を鏤めた香り高い名品だった。でもこの 人の作品はなぜだか続けて読む気になれない。で、またまた睦月影郎の新作を買って、半日仕事にかりだされた貴重な休日の残りの時間を費やして読ん だ。読んだのは『禁戯 かがり淫法帖』。シリーズ第四弾。この人の嗜好は性に関する禁圧がくっきりと明瞭にさだまっている社会を描いてこそ際立 つ。秘帖・秘図シリーズやこの淫法帖シリーズもよかったけれど、個人的な好みとしては「明治官能シリーズ」が新鮮。鹿島茂さんが「週刊プレイボー イ」での対談で「睦月さんは日本のトリュフォーだね」と発言している(鹿島茂対話集『オン・セックス』に収録)。対談を終えて、「偽物の変態が世 にのさばる中で、語の最も正しい意味での変態、折り紙つきの変態である。しかも、その変態の強度が、谷崎に匹敵するほどの、他に類を見ないものな ので、小説のポルノ度もまた高い」と評している。「語の最も正しい意味での変態」とは?

★4月24日(日)

 大森荘蔵の「ことだま論」(『物と心』)の前半を読む。129頁と130頁を読んでいて、開高健の文章のことを想った。「われわれは屡々表現を 求めて模索する。」「こういうとき、或る「もの」「こと」が立ち現われていて、それを適切な表現で描写する、といった平板な作業ではない。」「わ れわれは、それを凝視し、見定めよう、見極めようといら立つ。そこに、一つの表現(声振り、またはその想像)が立ち現われてくる。もしそれが的を 射た表現であるときは、それまで渋々立ち現われていた「もの」「こと」はきっとその姿相貌を変え鮮やかにくっきりと立ち現われる。」「われわれは その表現を文字に書きとめる。それはやっと立ち現われたその「もの」「こと」を逃がさぬように文字で縛りとめるためである。」「創作(物語りにせ よ詩歌にせよ)の場合は、ときに、初めに立ち現われる「もの」「こと」がなく、作者は或る立ち現われを作るのである。前にも述べたように、そうし て作られたものは、過去に遡って作られうる。今日、太古の森の何ごとかを作り、立ち現わしめることもできる。」

★4月29日(金)

 駅前の本屋で講談社の『本』を入手した。『スピノザの世界』の上野修さんが「スピノザから見える不思議な光景」という文章を書いているので読ん でおきたかった。スピノザは「地球に落ちてきた男」を思わせる、とても地球人とは思えない、スピノザは神を非擬人化すると同時に人間を非擬人化し た、スピノザの哲学は(「人間」的なものの籠絡からの)静かなデタッチメントの哲学だ、すなわち、われわれの身体が物質宇宙の一部分であるよう に、われわれの思考も無限な思考宇宙の一部分であると、われわれに思考があるのにわれわれがその部分である自然に思考がないとするのは不自然であ る、云々。スピノザと古東哲学と大森哲学がつながった(岩波文庫から復刊された『スピノザ往復書簡集』を買わねば)。その後、古東哲明『他界から のまなざし』の第二章「反転する浄土──世阿弥能の秘密」を読む。装置、機械、技法といった語彙が頻出する古東さんの文体はスピノザの「霊的自動 機械」(『知性改善論』)を想わせる。

★5月2日(月)

 この春復刊された岩波文庫の『スピノザ往復書簡集』を買った。仕事帰りに1時間近くかけて三宮センター街のジュンク堂、そごう新館の紀伊國屋、 三宮駅前のジュンク堂と神戸の大きな本屋を探し回ってやっと一冊みつけた。やっぱりこのての本は見つけたときに買っておかないとだめ。「スピノザ の往復書簡集は人がこの世において人間愛と誠実について読み得る最も興味ある書である。」これはゲーテの言葉(と解説に書いてあったし、確かにど こかで読んだ記憶がある。でもゲーテのどの作品に出てくる言葉なのだろう)。前々から「スピノザ式性愛」という言葉が頭に浮かんでいる。書簡集を じっくり読んで、ついでに『エチカ』も手にとって、いつかこの謎めいた言葉の実質を探ってみよう(スピノザの哲学を下敷きにした官能小説を書くと か)。夜、養老孟司・玄侑宗久『脳と魂』の前半二章を読む。1月に買って、第一章「観念と身体」と第四章「脳と魂」を読んで中断していた。第2章 「都市と自然」に仏教は抽象思考だという話題と一神教はエジプトで生まれたという話題が出てくる。

★5月3日(火)

 中公文庫から出たマゾッホの『魂を漁る女』を買って、第一部の冒頭を少し読んだ。国枝史郎の『神州纐纈城』とか白井喬二の『富士に立つ影』の虚 構世界を思わせるゾクゾクする書き出し(いま引き合いに出した二つの作品は、もうかれこれ十年単位の昔に途中まで読んで休憩中のまま現在にいた る)。「ジル・ドゥルーズが絶賛した知られざるマゾッホ最高傑作 謎の美女が繰り広げる官能と狂気の世界」。腰巻きにそう書いてある。後段はとも かく前段のドゥルーズ云々は、これがはたしてウリになるのかどうか。昨年の秋も深まった頃、種村訳『毛皮を着たヴィーナス』を再読した際、クロソ ウスキーの『ニーチェと悪循環』や『わが隣人サド』とあわせてドゥルーズの『マゾッホとサド』を同時進行的に読み進めていた(松浦寿輝さんの『官 能の哲学』や『口唇論』も)。毎日数頁ずつ熟読かつ玩味して、恍惚とはいかなくても陶酔しはじめていたのに、仕事が忙しくなって中断したままに なっている。スピノザとマゾッホ。この異様な取り合わせをドゥルーズでもって結合させてみるか。夜、『脳と魂』の第3章「世間と個人」を読む。こ の二人は呼吸が合いすぎている。養老さんがしだいにべらんめえ調(ビートたけし風?)になっていくのがおかしい。

★5月4日(水)

 上野修さんの『スピノザの世界』を数頁だけ読んだ。スピノザの異例・異様な思考世界をとても上手にコンパクトかつ無味乾燥に(これは悪口ではな い)解説している。でもちょっと気になるのは、たとえば『エチカ』第2部でデカルト由来の心身合一の問題がいとも早々と解決されてしまうことにふ れた箇所で、「…「物体B」の観念になっている思考も「身体Aの変状a」を漠然とでも知覚しちゃうのではないか」(123頁)と突然会話風の表現 が出てくるところ。これと似た表現が「あとがき」にも出てくる。「…それら観念がみな無限に多くの私の(?)並行する精神であるということになっ ちゃうのではないか」。これはやめてほしいと思う。

★5月5日(木)

 ニーチェの『キリスト教は邪教です!──現代語訳『アンチクリスト』』(適菜収訳)を買う。子どもの頃定期購読していた学年別学習雑誌に海外の SFやミステリーの翻訳を簡易製本した文庫が付録がついていて、愛読してかなり読みこんだ覚えがある。後にちゃんとした大人向けの本で読みかえす と随分と印象が違っていた。翻訳や抄訳ではなく翻案とでもいうのだろうか。「現代語訳」はたぶんそれと似た趣向なのだと思う(橋本治さんの桃尻語 訳とか、最近では逢坂剛さんの『奇厳城』なども)。実は以前『エチカ』の現代語訳を試みたことがあった。試みたといってもアバウトな構想をたてて 文体をちょっと模索してみた程度なのだが、スピノザとニーチェはいかにも現代語訳にふさわしい(ニーチェの書簡に「僕には先駆者がいるのだ」とい うくだりがある。先駆者とはスピノザのこと。『スピノザの世界』165頁)。湯山光俊さんの『はじめて読むニーチェ』が読みかけのまま中断してい る。あわせて読んでおこう。(湯山さんとは以前メールのやりとりをしたことがある。その湯山さんの初めての単著。心して読まねば。)

★5月7日(土)

 軽い気持ちで読み始めたジルソンの『神と哲学』が俄然面白くなって一気に読了。四つの講義(「神とギリシア哲学」「神とキリスト教哲学」「神と 近代哲学」「神と現代哲学」)を収めた二百頁に満たない小冊子だけれどけっこう濃い。たかだか四頁ほどのスピノザをめぐる叙述が際立っていた。 「スピノザの宗教は、哲学だけによって人間の救済に到るにはどうすればよいかという問に対する、形而上学的に百パーセント純粋な解答である。」 (128頁)「スピノザの形而上学的実験は、少なくとも次のような断案の決定的証明となったことは確かである。すなわちそれは、およそいかなる宗 教的な神であれ、その真の名が「在る者」でない神は単なる神話にすぎないということである。」(129頁)いっそ全頁を抜き書きしておきたい。

 スピノザを「神に酔える人」と呼んだのはノヴァーリスである。うかつにもジルソンの本を読むまで気がつかなかった。ためしに中井章子さんの『ノ ヴァーリスと自然神秘思想』を見ると40頁にその断章が引用されている。この本はかつて熱読したものだから、間違いなく知っていたはず。ノヴァー リスといえば、古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』第二章「逆接の宇宙──ヘラクレイトス」の扉に「矛盾律を否定することこそ、より 高次の論理学の最高の課題であろう」という断章が掲げられていた。ちなみに「キリスト教の神を見失った世界が、この神を見いだす以前の世界[タレ スやプラトンの世界]に似てくるのは、やむをえないことである」(『神と哲学』166頁)というジルソンの指摘は、というより『神と哲学』の第一 章そのものが『現代思想としてのギリシア哲学』と響きあっている。

★5月8日(日)

 大森荘蔵の「ことだま論」後半を読む。『時間と自我』の「はしがき」に、過去とは夢物語であり「限りなく無意味に近い制作物ではあるまいか、こ うした恐怖を感じさせる奈落に面しては立ちすくむ以外にはない」(8頁)と書いてあった。『時間と存在』の「はじめに」では「これまで度々経験し たことだが、自分で出した奇怪な考え[ここでは「自然科学的世界の空性」という結論]に馴れるのにかなりの年月が必要だろう」(13頁)と書いて あった。あわせて池田晶子さんの「埴谷雄高と大森荘蔵」に次のように書いてあったのを思い出す。《物質は「実在」しない、過去もまた「実在」しな い、それらは全て、言語によって制作された「存在の意味」なのだ、と落としどころに見事に落とす大森の論理の運びは痛快である。分析哲学者ならず とも、快哉を叫んだ人は多いと思う。けれども、快哉を叫んでいるこの自分は、すると、いったい「どこ」に立っているのか。足下に開いたでっかい暗 い黒い穴ぼこ、これはいったいなんなんだ、いったいどうしろと言うのだ。/このような感性と、そのような問いを、そもそも所有していないことが研 究者ということなのだということを私は理解していたので、研究会後の飲み会の席で、こっそり尋ねたことがある。先生、率直なところ、どのようにお 感じなのですか、と。/彼は、一瞬の沈黙のあと、いつものきっぱりとした口調で、こう言った。/「ゾッとします」》(『魂を考える』91-92 頁)


★5月12日(木)

 『神々の沈黙』第一部を読み終えた。面白い。「遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分[右利きの人にとっては右脳]と、それに従 う「人間」と呼ばれる部分[同じく左脳]に二分されていた」。そして「どちらの部分も意識されなかった」(109頁)。なぜなら意識は約三千年 前、言語表現の比喩機能(投影連想)によって生成された(78頁)からだ。著者ジュリアン・ジェインズのこの仮説の論拠は『イーリアス』の登場人 物たちには主観的な意識も心も魂も意思もなかったことと、側頭葉損傷による癲癇患者を対象としたペンフィールドらの実験結果にある。論証は緻密で はない。ほのめかしにとどまっている。それでも、ここで主張されている「二分心」の説には説得されてしまう。神の内在と超越。今後、神という語彙 が使われた文章すべてに影響しそうな気がする。同時に読んだ古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』第四章に出てくるシャーマンとしての ソクラテス、ダイモーン的人間としてのソクラテスはほとんど「二分心」の精神構造をもったミケーネ人(『イーリアス』の英雄)と同等だ。

 補遺の一。『神々の沈黙』第一部を読み終えて、信原幸弘『考える脳・考えない脳』を想起した。信原さんはそこで、脳は「構文論的構造を欠く ニューロン群の興奮パターンの変形装置」であって「そのような変形をつうじて、外部の環境のなかに外的表象を作り出し、それを操作することもでき る」、つまり「構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、この[脳と身体と環境からなる]大きなシステム全体によって産み出される」と結論づ けていた。

 補遺の二。そもそも意識は脳の中にはない。意識を紡ぎ出すのは脳の機能かもしれないけれど、少なくとも脳の中には意識はない。たとえば茂木氏の いう「脳内現象」は「(物質としての)脳の中の現象」ではない。言葉というものは脳から出力されるが、出力され記録された言葉は脳の外にある。そ して、意識は言葉にスーパービーンする。──上野修さんが『スピノザの世界』で書いている。「一般に、下位レベルでの物質諸部分が協同してある種 の自律的なパターンを局所に実現しているとき、その上に(現代風に言うなら)上位の個物ないし個体特性がスーパービーン(併発)している。」 (116頁)

 余録。養老孟司さんが毎日新聞(4月17日)で『神々の沈黙』の書評(「脳の右半球は何をしているのか」)を書いている。以下、抜粋。

《意識の問題は、脳科学の暗黙の中心的なテーマである。いちばん新しい意識に関する総説を探して、著者の本が引用されているかどうかを見たが、さ れていなかった。脳科学の現役の研究者は、人にもよるだろうが、だから読まない可能性がある。脳の左右半球に関する知見も、著者の時代からかなり 変わってきたからである。その点では、私自身の意見も、著者とは異なっている。/しかしこの本の価値は、そういう点に依存するのではない。現代社 会をまさに「支配する」意識、それが歴史的な時代になってはじめて出現したという議論が傾聴に値するのである。日本史の例でいうなら、本居宣長を 想起する人もあろう。現代における「意識中心主義」は、ほとんど病膏肓の域に達している。科学はまさに意識以外のものを否定する。意識以外のもの があるなら、それは「意識化されなければならない」からである。それが蔓延した社会で「理科系の大学院まで出たのになぜ」というオウム真理教事件 が起こる。意識中心主義を詰めていったら、本当にオウムは生じないのか。オウム事件の被害者、加害者は、果たして意識的理解によって救われるのだ ろうか。/著者の書物もまた、現代意識の産物である。しかし著者はそれを「知っている」。そこが重大な点なのである。近代意識の前提は、自分がな にをしているのか、各人がそれを知っているということである。近代科学者は本当にそれを「知っている」のであろうか。》

★5月13日(金)

 村上龍『空港にて』を買った。『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』(2003)の文庫改題版。「空港にて」は、僕にとって最高の短編 小説です。by 村上龍。帯にそう書いてある。日本文学史に刻まれるべき全八編。カバー裏にそう書いてある。カバー表の写真とデザインがよかったし、百八十頁ほどの手軽さ だったので、とりあえず買っておいた。良質の短編小説集をじっくり読みこみたいという飢餓感もあった。あわせて図書館で『昭和歌謡大全集』を借り た。『半島を出よ』のイシハラが登場する作品で、村上龍はあとがきに「これほど書くのが楽しかったのは『69』以来だと思う」と書いている。

 ついでに睦月影郎の『メイド・淫[イン]・蜜[ハニー]』を買って、これはその日のうちに読了。(睦月影郎の官能小説は密儀体験の叙述である。 それは言葉では表現できない。だから何度でも反復量産されるしかない。)しばらく睦月本はお休みにしようと思っていた。でも今月だけでも三冊目に なる新刊を目にしてつい手が出てしまった。「日本のトリュフォー」にして「現代の谷崎潤一郎」(by 鹿島茂)の筆はますます快調。官能系では神崎京介「女薫の旅」の新作&ハイライト版も出ていたけれど、このシリーズにはちょっと飽きている。ミステリー系 では、ミネット・ウォルターズの『蛇の形』と志水辰夫の『背いて故郷』が読まずにとってある。どちらも読み始めたら他のものに手がつかなくなりそ うで、ずるずると読む時を選んでいるうち旬を逃してしまった。マゾッホの『魂を漁る女』を終えたらどちらかを読むつもりだが、図書館で借りてきた 垣根涼介の『ワイルド・ソウル』が先になるかもしれない。

★5月15日(日)

 古東哲明『他界からのまなざし』読了。第一章「他界の近さ」で日本人の近傍他界観を、第二章「反転する浄土」で芸術(世阿彌の離見の見や見所同 心)を、第三章「プレシオスの鎖」で文学(グノーシスト宮澤賢治の成道精神)を、昨日読んだ第四章「空白の共同体」で哲学(フッサールの間主体論 や現象学的還元)を、そして今日読んだ第五章「遊体論」で宗教(プラトンの神秘思想=生や世界の遊戯性=宗教的身体技法)をとりあげ、エピローグ で「だからもう、バスを待つのはやめよう」と呼びかける(修業=遊戯の勧め)。中沢新一さんの本と同じで、結局ここには何も書かれていない。読み 終えて何も残らない。幸福な充填と愉悦に満ちた空虚。

 臨死から臨生、往路から復路を主題的に論じた第四章が本書のハイライトだと思うが、章末に記された「ある新しい予感にみちたエチカ」(=シュ ヌーシアの磁場がかたちをとった新しいエチカ)の詳細については「他日を期す」とされている。肝心要のところで他日を期されては欲求不満になる。 第五章が『現代思想としてのギリシア哲学』第五章「ギリシアの霊性」の引き写しだっただけにこれでは詐欺にひとしい。「シュヌーシアの磁場がかた ちをとった新しいエチカ」とはいったいなんだ。『「私」の考古学』(岩波書店「宗教への問い3」)に収められた論考「魂と自己―ギリシア思想およ びグノーシス主義において」で彌永信美さんが、グノーシス主義のシュジュギアー(合一)体験や『トマスによる福音書』(「ギリシアの霊性」の章末 でも引用されている)の記述から「シジジイ」(細胞核の移動と融合と再分裂)による単性生殖へと筆を運んでいたが、それと関係するのか。はっきり してくれ。

 いま『他界からのまなざし』の第五章が『現代思想としてのギリシア哲学』の引き写しだと書いたけれど、一箇所だけとても重要な加筆があった。 「青人草[あおひとくさ]」という言葉があるように、古代の日本人は身体を植物組織のようにみなしていた。カラダ=殻胴・枯胴、エダ=手足、芽= 眼、葉=歯、花=鼻ときて最後に実=耳(実々)=身。ここに出てくる「耳」が『神々の沈黙』の「二分心」の説に通じる(折口信夫の「神=マレビト の訪れ=音連れ」とか、鎌田東二さんが『記号と言霊』に書いていた「人類は言葉を話す以前に、何万年も、何十万年も、いやことによると何百万年も の長い期間にわたって、その[太古の]声を聴いていたのだ」にも)。

《このように、古代の日本人は、目で見えるもの以上に、音で聞こえるなにかを貴重で神意的で、だから最終的なことと感じていた。それは第一章でも ふれたように、音の訪れを神秘的なほど神々しいなにかの到来とみた古代人のルーツフィーリングと深く関わっている。だからこその言霊思想でもあっ たろう。そしてそんな音を聞く聴覚器官としての「耳」に、「生命の結実態」としての「実」を、あるいは「生命活動の最終兄弟」としての「実」を重 ね合わせたのだと、考えられる。/と同時に、そんな耳と実との類推から、人間の生命活動のほんとうの正体とか最終的な形態として「生きた身体」の 次元に、「身」という言葉を対応させた。そう考えることができる。》(171頁)

 上の文章に出てくる「身」のことを古東さんは「プシューケー」や「器官なき身体」になぞらえている。『現代思想としてのギリシア哲学』は再読し てもやっぱりこのプラトンの章がハイライト。プラトンのイデア論を背後世界論や背後世界論といった西洋形而上学特有の二世界論として解釈するのは 間違いだ。それは「生死を超脱した、しかも実在的な《この世界》についての理論」なのだ(224・229頁)。そもそも「プラトン哲学」なるもの はない。プラトンが書き残した対話篇は、「たましい」(=プシューケー=身・ミ=生命の息吹)の向き変え・改変(ペリアゴーケー=実存転調・身体 変容)への誘いであった(226頁)。その根底にエレウシスの密儀体験(死と再生)があると、古東さんは書いている。

《そもそも密儀なんかなかった。そういってもいい。生ける身体(身)の、語りようもない深部に起こる、まさに〈転身劇〉が、エポプテイア(奥義開 顕)だったからだ。それは、文字どおり、その〈身〉で示すしか、示しようもないことがらである。(略)かさねていうが、ポイントは、この世を生き るぼくたちの生き方(実存・ミ)に、根本的な革命がおき、それに呼応し、この世この生の相貌が全く変容する、ということだ。》(225頁)

 これを読んで大森荘蔵のことを想起した。正確には「大森哲学の感触」を想起した。そもそも「大森哲学」なるものはない。そこにあるのは、ただ神 秘体験なき神秘主義の感触(存在感触)で、それは永井均さんの書き物に通じている。

★5月17日(火)

 ニーチェ『アンチクリスト』の現代語訳『キリスト教は邪教です!』読了。「はじめに自己紹介をいたします。私は言ってみれば、北極に住んでいる のです。」既訳本と読み比べたわけではないが、これほど一気に読みきることができるニーチェ本、いや哲学書はない。ほとんど小室直樹の文体で綴ら れた(字義どおりの)啓蒙書。啓蒙書というよりはプロパガンダ本。ここで主張されていることは箇条書きにすれば数行でおさまる。キリスト教は病気 です。パウロは「憎しみの論理」の天才です。僧侶は嘘つきです。イエスは仏陀です。キリスト教に魂を汚されてはなりません。高貴に生きましょう。 キリスト教に鉄槌を!

 湯山光俊さんが『はじめて読むニーチェ』の中で、ニーチェは読むものとしてではなく聞くものとして文章を書いている、その文体は音楽がもたらす 効果と同じものを読者にもたらすと指摘している。

《…公共の場における演説というものの重要性を彼は見直していました。古代の広場における演説はまさに聞くものとしての、記号のテンポと身振りを もつ文体があったのです。それは生きた言葉であり、語るものの情動の動きをそのままに音楽のように表現しうるものでした。》(156頁)

『アンチクリスト』はまさに歌うように語られた扇動の書物。ひとつの「気分」を直接に読者の脳髄に立ち上げる演説であり説教である。密儀として の、あるいはダンスとしての読書。

 この本は、ドゥルーズの「ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」(『批評と臨床』第6章)を経てロレンスの『黙示録論』につながっ ていく。ドゥルーズのエッセイはかつて『現代思想』の増刊号(ドゥルーズ特集)で読んだ。『黙示録論』は福田恆存訳の『現代人は愛しうるか』(中 公文庫)を読んだ。どちらにも深い感銘を受けた。ここ数年の懸案事項だった『ギリシア悲劇』も読もうと思った。

★5月18日(水)

 古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』読了。再読してもやはり興奮する。「ギリシア哲学は、来るべき時代の哲学である」。思えば、シモー ヌ・ヴェーユの『ギリシアの泉』を読んでギリシャ的霊性の集大成者にして神秘家プラトンに心惹かれ、ハヴロックの『プラトン序説』を読んでイデア 論への強烈な関心をかきたてられ、井筒俊彦の『神秘哲学』を読んで(ギリシャ的形而上学的思惟の根源をなす)密儀宗教的な実在体験に戦慄し、そし て本書、とりわけプラトンを取り上げた第五章「ギリシアの霊性」を読んで「プシューケー=器官なき身体」説に驚愕した。プラトンの「ダイモーン神 学的発想」の背景にあるエレウシスの密儀をめぐる叙述など、いま読んでもゾクゾクする。

 こういう書物に巡り会えるのはほんとうに幸福な出来事だと思う。トゥールミン/ジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』や坂部恵『ヨーロッ パ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』、木田元『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』などとともに、汲めども尽きないインスピレー ションをもたらしてくれる哲学史の書。(唯一の不満はプロティノスを主題的に取り上げた章が欠落していること。アリストテレスの章もないけれど、 実はこの書物全体がアリストテレスを取り上げていると言えなくもない。)

 今回「再発見」したことが一つある。ストア哲学(M・アウレリウス)をめぐる第六章「あたかも最期の日のように」(永井均さんが解説で「この章 は格別に美しい」と書いているのに同感)の「誰でもない者への配慮」という節で、ストア派特有の「ト・ヘーゲモニコン」が取り上げられている。ス トア学派は精神的領域を七つに分ける。五感+生殖機能+言語機能。「この七つの領域のすみずみにプネウマをおくり、それらを活き活きと活動させな がら、しかしそれ自体は不可視の生命の息吹(プシューケー)や根源力(デュナミス)としてとどまるナニカを、叡智とかト・ヘーゲモニコンとい う」。血肉と吐息[プネウマ]でなりたつ公共的・役割的存在者としての「わたし」に生命をあたえそれを制御する指導的部分。内なるダイモーンとも いわれるト・ヘーゲモニコン。

《この〈内在しながら超越する自分自身〉。けっして皇帝(役柄自己)のように可視的ではないし、誰(ティス)と特定も内容規定もできない自己。だ からギリシアの伝統では、「ウーティス(誰でもない者)」とも呼称された自己自身。それが、ト・ヘーゲモニコンである。》(281-2頁)

 なにを「再発見」したのかは書かない。パウル・ツェランの詩句(「誰でもない者が…」)が関係しているのだが、ここでは書かない。いま一つ。古 東さんは『現代思想としてのギリシア哲学』を書くのに千冊の関連本を読んだという。(千冊の本に目を通すだけならたぶん三年か四年もあればでき る。でも、一つのテーマで千冊読むというのはすごい。)一冊の書物のうしろには千冊の本がひかえている。それくらいの迫力をこの本はもっている。 これに刺激をうけて、ある著作計画が浮上してきたのだが、これもこここでは書かない。

★5月20日(金)

 坂部恵『モデルニテ・バロック──現代精神史序説』を買った。「霊性と創造することばの形而上に汲む」「千年単位の歴史の展望」「エリウゲナと 空海などヨーロッパ精神史と日本の並行に心を澄まし現代性とは何かを問う」「時代の終りに立ち合うものの生と思考のスタイルとしてバロックは、モ デルニテと通底する。垂直の時間の底に、いま、新たな歴史の次元が発掘される」。腰巻きに印刷されたそれら謎めかした言葉たちが官能的に心地よく 身に染み入るのは、かつて『ヨーロッパ精神史入門』を読んだときの愉悦が甦るからだ。そういえば『ヨーロッパ精神史入門』を買ったのは元町の海文 堂書店だった。仕事帰りに何か哲学系の軽く読めて中身の濃い本を探していて、偶然目にとまり直感を信じて購入した。これは『モデルニテ・バロッ ク』の場合とほとんど同じ。期待が高まる。

★5月21日(土)

 諸星大二郎『孔子暗黒伝』を買った。昨年、集英社文庫から出た二冊の自選短編集(『彼方より』『汝、神になれ鬼になれ』)はとにかく素晴らし かった。あと一冊残った『暗黒神話』もいずれ買って読むことだろう。諸星大二郎のデビュー作「不安の立像」は(たぶん)リアルタイムで読んだと思 うし、77年から78年にかけて『孔子暗黒伝』が週刊少年ジャンプに連載されていたのも(たぶん)見知っていたはず。山崎浩一が解説エッセイ「麻 薬的諸星ワールド」を書いていて、大友克洋の「高度に洗練されたタッチ」と諸星大二郎の「シュールレアリスムや水墨画もどきのタッチ」を比較して いる。「この二人は同時代のマンガ界に生まれた、一見似ても似つかない二卵性双生児なのだ」。本箱に息子が残していった『AKIRA』全6巻が読 まずに置いてある。二十年遅れで二人の天才の世界に同時並行的に浸ってみよう。

  夜、村上龍の『空港にて』と『昭和歌謡大全集』の二冊をほぼ同時に読了。『空港にて』は素晴らしかった。開高健の短編を読んで以来のここちよ い精神の緊張を味わった。小説は描写である。すべてはこの言葉に尽きている。「この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかっ た」と作家はあとがきに書いている。「他人と共有することのできない個別の希望」を描写することは、ほとんど小説にできることの限界を超えてい る。

 『昭和歌謡大全集』は93年6月から94年2月まで「週刊プレイボーイ」に連載された作品で、この時期と連載誌、そしてそのときの作者の年齢が この作品の性格というか村上龍の活動の中での位置づけをかなり規定しているように思った。でも考えてみればそれはあたりまえの話で、作家は多かれ 少なかれその時代と発表媒体(読者層)を念頭において作品を書いている。このことはとくに村上龍の場合に重要なポイントだと思う。好きな小説では ない(中条省平さんだったと思うが「怪作」の一言で片づけていた)が、どこか松本大洋のマンガを思わせる作品世界は印象に残る。松本大洋のマンガ は『半島を出よ』を読んだときも頭に浮かんだ。あの作品はこれまで村上龍が書いたすべてとはいわないまでもほとんどの小説世界の「気分」のような ものが総動員されている。だから同じイシハラやノブエが登場する場面で同じ印象をもったとしてもおかしくはない。(イシハラとノブエは『昭和歌謡 大全集』では「高校の同級生だった」が、『半島を出よ』ではイシハラが49歳、ノブエが55歳になっている。)

★5月22日(日)

 木田元『ハイデガー拾い読み』の第8章「「世界内存在」再考」と第9章「専門的常識の誤り」を読む。今道友信氏によると、岡倉天心の『茶の本』 に荘子の「処世」を「Being In The Word」と英訳した箇所があって、そのドイツ語訳「Sein in der Welt」をハイデガーが剽窃して「In-der-Welt-Sein」としたのではないかという疑惑がある。『存在と時間』の刊行(1927年)に先立 つ1919年、今道氏の恩師伊藤吉之助がハイデガーに「Das Buch von Tee」をプレゼントしたというのがその論拠。木田元さんは、用語についてはそういうことがあったかもしれないけれど、「世界内存在」という概念そのもの をハイデガーが荘子なり天心から学んだかどうかは疑問としめくくっている。第9章に出てくる二つの話題、イデアリスムスとレアリスムス、トランス ツェンデンタールという語をめぐるハイデガー講義録からの議論の紹介も面白かった。勢いで最終章を読みかけたけれど、一気に読んではいけないと自 粛。この本には半年間楽しませてもらった。もう少し長引かせよう。

 続いて湯山光俊『はじめて読むニーチェ』の第二章「フリードリッヒ・ニーチェの思想──「発見」と「発明」」を少し読む。俄然面白くなってき た。昨晩、第一章「フリードリッヒ・ニーチェ年代記──「三段の変化」」と第三章「フリードリッヒ・ニーチェの主要作品」を読んだ。「年代記」 は、『ツァラトゥストラ』に出てくる精神の三つの変化に準えた駱駝の時代・獅子の時代・幼子の時代の三区分にそってニーチェの生涯をたどろうとい うもので、趣向は面白いがそれが十分にいかしきれていない印象を受けた。ヴァーグナー・コージマ・ニーチェとレー・ルー・ニーチェの二つの神話的 三角関係をめぐる叙述もやや物足りない。やっぱり本書は第二章がすべて。ここに「年代記」や「主要作品」も取り込んでふくらませ、ニーチェ自身の 文章もふんだんに引用して叙述を充実させれば、もっとすごい本になったのではないかと思う。

★5月24日(火)

 雑誌を買いだしたらとまらなくなる。『PLAYBOY』日本版創刊30周年記念号を買った。この月刊誌は昔から好きだった。表紙のデザインから 誌面構成、特集、コラム、連載、写真、イラスト、文章、広告まで、何をとってもクオリティが高くて確かなセンスを感じた。開高健の「オーパ」や藤 原新也の「全東洋街道」の連載がこれほど似つかわしい雑誌は他になかった。隅々まで読み眺めることはなくても、この雑誌を買うことは祝祭的にゴー ジャスな消費行動で、それ自体が一つのストレス解消策にさえなった。大袈裟にいうと、それだけの存在感のある雑誌だった。創刊号のミニチュア復刻 版が付録についている。柴田錬三郎がゴルフを語り、吉行淳之介短編を寄稿している。ノーマン・メイラーのノンフィクションを生島治郎が翻訳し、平 塚八兵衛がインタビューに応じている。次号は開高健特集。続いて購入することになりそう。

★5月25日(水)

 単行本も一冊買うと癖になる。先週の『モデルニテ・バロック』に続いて、昨日、木村敏の論文集『関係としての自己』を海文堂書店で買った。岡山 の美星町というところへ伯父の葬儀に出かけた帰りの電車の中で書き下ろしの序論を読んだ。短いけれど濃密な思考が凝縮された文章で、『時間と自 己』以来の読後の興奮を予感させる。

 ニーチェが自己(ゼルプスト)と呼びフロイトがエスと呼んだもの。一人称的な意識的自我と非人称的な無意識(動物的本能)、アクチュアリティ (現勢態)とヴァーチュアリティ(潜勢態)、そしてアポロン的ビオス(個体的生存/個の側の死すべき生)とディオニューソス的ゾーエー(集合的生 命/種の側の死を知らぬ生)とのあいだの「生命論的差異」を媒介するはたらき、関係としての自己=身体。

《…一方で個別的自我に接続しながら(そのかぎりで一人称的な個別性を保持しながら)、他方では非人称のヴァーチュアルな「種の生命」に根を張っ た、両義的な媒介者…。フロイトが「エス」と名づけようとしたもの、それはわれわれが「自己」の名で呼んでいるアクチュアルなはたらきのことでは なかったか。「エス」の避けがたい両義性は、それがそれ自体において、一人称の個別的な生のリアリティ(ただしそれは「リアリティ」として名指さ れたとたんに三人称化する)と、非人称の種的な生のヴァーチュアリティとの関係そのものであることを物語っている。》(16頁)

 ここに出てくる「アクチュアリティとヴァーチュアリティ」「一人称のリアリティと三人称のリアリティ」の組み合わせは、フェリックス・ガタリの 『分裂分析的地図作成法』に出てくる「アクチャルなものとバーチャルなもの」「リアルなものと可能的なもの」という二組の対概念と相即している (のかどうか)。序論には「個別化の原理」(自己を一人称的自我として成立させる原理)という言葉も出てくる。これは『モデルニテ・バロック』の 序章「レアリストの語法」に出てきた「このもの性」に結びついていく。そもそも木村敏さんの「ヴァーチュアリティ」と「リアリティ」の概念を知っ たのは、『善の研究』(哲学書房)の解題の中で山内志朗さんが紹介していたのを読んだからだ。意識の生成をめぐる心脳問題と西欧中世の神学的論争 (普遍論争)とが結びついていく(のかどうか)。

★5月28日(土)

 湯山光俊『はじめて読むニーチェ』読了。この本はやはり第二章が格段に素晴らしい。ニーチェの思想を紹介するこの章は三部からなる。湯山さんは そこで、ニーチェが発見・発明した三つの概念(アポロンとディオニュソス・永遠回帰・力への意志)と二つの心理学(ニヒリズム・ルサンチマン)と 四つの文体=方法(詩・アフォリズム・キャラクター・系譜)を、ニーチェの生理と生涯とその著作に、そしてデリダやドゥルーズやアドルノなどに関 連づけて解説している。わけても第三部の文体篇が画期的に素晴らしい。この本のハイライトをなすと同時に、その叙述のいたるところに湯山さんの独 創がちりばめられている。

 未来の文体であり音楽の精神を体現したリートである「詩」、未来に書かれるあらゆる書物の書き出しでありあらゆる始まりとしての永遠回帰そのも のである「アフォリズム」、身振りや声を備えた生でありニーチェの悩める身体そのものである「キャラクター」(概念的人物)、そして歴史のうちに 無数の中断(離接点)や不連続(分岐点)を見出す複眼的な遠近法でありそこで生成される価値を生存の法則としての力への意志として変換していく 「系譜」。このニーチェの文体をめぐる四つの論考を本書構成の中軸に据えて、その生涯と著作、概念と心理学をこれにそくして配列し直し、さらに ニーチェ自身の文章をふんだんに引用・抜粋し、そこに湯山さんの解読と飛躍を重ね書きしていけば、もっともっと素晴らしい本になったことだろう。

★5月28日(土)

 昨日、マゾッホの『魂を漁る女』第一部を読み終えた。面白い。この作品はゆっくりと時間をかけて頭と躰に言葉と情景と人物を染み入らせながら読 み込んでいきたい。

★6月2日(木)

 丸谷才一『綾とりで天の川』購入。丸谷才一さんの文章に惹かれている。文藝という言葉がこの人ほど似つかわしい現役作家、評論家、書評家、エッ セイスト、要するに物書きはいないと思う。昨年、一年遅れで『輝く日の宮』を読んでしっとり陶酔した。この人の小説はずっと前に『横しぐれ』と 『樹影譚』を読んだきりで、いずれも忘れがたい読後感。とくに『樹影譚』を読んだ時の濃い印象はいまでも残り香のように漂っている(と書きながら 気がついたことだが、この印象はどことなく保坂和志の『この人の閾』を思わせる)。その後、新潮文庫版の『新々百人一首』をほぼ毎晩一首分ずつ読 んでは言語にまつわる感覚や感性や情感、というよりも言語表現の母胎である躰のあり様そのものが更新される(エロティックと形容してもいいほど の)思いを味わい堪能し、ため息つきながら就眠する一時期をすごしたが、上巻の半分ほどまで進んだところでにわかに雑用が錯綜し精神が混濁しはじ めたので中断してしまった。朝日新聞に月一で連載されている「袖のボタン」はその一篇一篇がまことに上質で藝が細かく、かつ洒脱悠然と蘊蓄を傾け る筆法が熟しきっている。翻訳も素晴らしい。アイリス・マードックの『鐘』が素晴らしかったのは丸谷才一の文章によるのではないかと、これは後に なって気がついた。翻訳といえば『ユリシーズ』が全三巻の真ん中あたりで中断したままになっているが、これも素晴らしい文章だった。

 丸谷才一さんの文章のどこがどう素晴らしいのかは言葉では説明できない。名文はただ読み、ひたすら読み、時に書き写して眼と頭と心と躰にたたき こむしかない。『文章読本』に確かそんな趣旨のことが書いてあった。その影響もあって、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」と開高健の『白いページ』を繰り 返し読み込み、富山房百科文庫版の石川淳『夷斎筆談』を書き写したりしたこともあった。それと気づかぬうちに丸谷才一さんの門下生になっていた。 書評やエッセイも素晴らしい。これまで新聞や週刊誌や月刊誌での拾い読みで充分堪能してきたが、一度自腹を切って新刊書を買い求め、とことん咀嚼 玩味消化吸収してみようと思った。『綾とりで天の川』は『オール読物』連載のエッセイを集めたもの。掲載紙のキャラクターに応じて自在に文体を変 えながら、その実頑固なまでに文章の骨法を揺るがせない。凛とした姿勢と柔らかな息遣いが素晴らしい。(まことに手放しの絶賛につぐ絶賛でわれな がら気持ちがいい。)

★6月4日(土)

 『モデルニテ・バロック』を少し読んでパースとベンヤミンを繋ぐミッシング・リンクの話(43頁)やギリシャ語のロゴスがラテン世界に入ってラ チオとヴェルブム(世界を生み出すことば・息吹=神言)に分岐した話(52頁)やベンヤミンと萩原朔太郎の二人に共通する根っこの話(57頁)な どに刺激を受け、続いて最後の一章だけ残していた『ハイデガー拾い読み』を読了。いろいろ「素材」を蒐集したものの込み入った思考をめぐらすのが 面倒になり他日を期すことにして、最後に『綾とりで天の川』をだらしなく、ただただ丸谷才一さんの「受売り」の話芸に手玉にとられる愉悦に身をひ たしながら読みすすめていくうち、この語り口はどこか木田元さんのハイデガー哲学の祖述・語り直しの話芸と通じていると思い、和田誠さんの装幀と 挿絵を眺めているうち、ちょうど2年前にその素晴らしさを「発見」した小林信彦さんのコラム・シリーズを思った。

★6月8日(水)

 『ソトコト』7月号についていたチビコト「ロハス入門」で竹村真一さんが、ロハスの核心は三浦梅園の「枯木に花咲くより、生木に花咲くに驚け」 という言葉に表現されていると語っている。日本の文化遺伝子のなかに地球全体に贈与すべき未来のロハスの種子となる貴重なソフトウェアがたくさん あるのではないかとも。同じチビコトの巻末では、編集長・小黒一三との対談で坂本龍一さんが「ぼくはエロいエコがあってもいい、と思っているん だ。今はまだ世界中探してもどこにもないし、『ソトコト』もエロくないよね」と語っている。「和」と「エロ」に彩られたソトコトを読んでみたい。

★6月10日(金)

 この週はほとんど本が読めず、『神々の沈黙』『モデルニテ・バロック』『関係としての自己』などをとっかえひっかえ眺めてはそれぞれほんの数頁 進んだだけ。(『関係としての自己』の89頁に「クオリアは、一定の機構を備えてさえいればだれにでも観測可能なリアリティではなく、個人と世界 のあいだにそのつど新たに成立するアクチュアリティである」という文章が出てくる。この個人と世界の「界面現象」としてのクオリアというアイデア はとても刺激的でちょっと興奮した。)

 それでも『魂を漁る女』を読了。久々に長編小説を読む悦びを味わった。結末を読み急ぎたい気持ちを宥めるのに難渋した。ドラコミラとアニッタ、 この二人の対照的な女性をめぐるツェジムとソルテュクの(古代的と形容したくなる錯綜した)三角関係は、どこかゲーテの『親和力』に出てくる二組 の男女の(古典的な形式美を漂わせた)交差恋愛劇を連想させる。といっても『親和力』はまだ読んでいないので、たぶんそれは、「ゲーテの『親和 力』」(これも未読)のベンヤミンをめぐる数冊の書物(たとえば川村二郎『アレゴリーの織物』とか三島憲一『ベンヤミン』とかメニングハウス『敷 居学』とか今村仁司『貨幣とは何だろうか』など)を介して、『魂を漁る女』を『神の母親』とともに「マゾッホの最も美しい小説」にかぞえあげたジ ル・ドゥルーズ(『マゾッホとサド』122頁)にリンクを張りたいという無意識の願望がしかけた連想だろうと思う。

 実は、前々からチャールズ・サンダーズ・パースとヴァルター・ベンヤミンとジル・ドゥルーズを三位一体的に組み合わせて一望してみたいという思 いがあった。パースとドゥルーズはもともと『シネマ』でつながっている。パースとベンヤミンの「影響関係」は坂部恵さんの『モデルニテ・バロッ ク』で示唆されている。そこでも言及されていたドゥンス・スコトゥスやライプニッツにまで遡れば、パース=ベンヤミン=ドゥルーズはきっと一つの 思考の平面(内在平面?)に並置されるだろうという予感があった。(実際、これまで読んだ本では山内志朗さんの『天使の記号学』にドゥンス・スコ トゥスやライプニッツとともにこの三人が揃い踏みで登場している。)ベンヤミンとドゥルーズはマゾッホとカフカでつながるかもしれない。『変身』 の主人公グレゴール・ザムザ Gregor Samsa はマゾッホに捧げられたオマージュである。グレゴールは『毛皮を着たヴィーナス』で主人公がワンダから授けられた奴隷名であり、ザムザはザッヘル・マゾッ ホ Sacher-Masoch のアナグラムである。この説はドゥルーズが紹介している(「マゾッホを再び紹介する」,『批評と臨床』117頁)。面白い。

★6月11日(土)

 みすず書房から「教える‐学ぶ」ための新シリーズ「理想の教室」の刊行が始まった。ちくまプリマー新書とよく似たコンセプトで、ラインナップを 一覧すると文学・芸術系が中心。記念に一冊、ヒッチコックの『裏窓』(加藤幹郎)かパスカルの『パンセ』(吉永良正)のどちらにしようかと迷って いるうち、なにかひらめくものがあって亀山邦夫さんの『『悪霊』神になりたかった男』を買った。三回の講義のうち第一回分を読んで期待が高まっ た。スタヴローギンの「告白」に二つのテクストがあることは知らなかった。第二回目の講義にバフチンの「ポリフォニー」の話題が出てくる。この際 『ドストエフスキーの詩学』をあわせて読んでおきたいと思っているのだが、これはどうなるかわかからない。

 茂木健一郎訳『四色問題』を図書館で借りて通読(ほんとうは買ったきりでほったらかしている『リーマン博士の大予想』を早く読みたい)した後 で、小林秀雄の講演『信ずることと考えること』を新潮社のCDで聴いた。講演の内容は『考えるヒント3』(文春文庫)に収められているが、肉声の 面白さには及ばない。夜、DVDで『69』を観て寝た。結構よかった。続けて『テニスボーイの憂鬱』を映画で観てみたいと思った。(村上龍の小説 では『69』と『テニスボーイの憂鬱』が好きだ。)

★6月17日(金)

 斎藤慶典さんの『レヴィナス 無起源からの思考』を買った。この人の作品では同じ講談社選書メチエから出た『フッサール 起源への哲学』を読ん で陶酔したことがある。本書はその姉妹編。内田樹さんの『他者と死者』を筆頭にレヴィナス関連本にはハズレがないので期待できる。木村敏さんの 『関係としての自己』の101頁から104頁にかけてレヴィナスの「汝殺すなかれ」をめぐる考察が出てくる。いわく、レヴィナスの「存在の外部」 としての他性は、アクチュアルな「存在」(アポロン的・ビオス的生命=個別的生命)の背後に開けているヴァーチュアルな「生成」(ディオニューソ ス的・ゾーエー的生命=生命それ自身)の深淵を覗き見たものである。
《個別化の極限において、人間はいっさいの存在のアポロン的刻印を異物として抹消し、純粋無垢なディオニューソス的生成の陶酔に浸ろうとする。レ ヴィナスの他者が発する「汝殺すなかれ」の哀願は、この破壊衝動におののく個別的生命の叫びではないのか。》(103-104頁)
レヴィナスの思想に対する異和感(といってもレヴィナスの著書を実地に体験してのものではない)の理由がどこにあるのか、斎藤慶典さんの濃厚な議 論につきあって確認してみよう。

★6月19日(日)

 亀山邦夫『『悪霊』神になりたかった男』を読了。スタヴローギンの「告白」という「いくつもの真実を同時に隠しもつ、永遠に解くことのできな い、開かれたテクスト」(146頁)に仕掛けられた、あるいは隠蔽されたさまざまな謎──「告白」の文体はなぜ「壊れている」のか、母親に鞭打た れながらマトリョーシャはなぜ「奇妙な声をあげて」泣いていたのか、なぜルソーの名が出てくるのか、スタヴローギンの世界遍歴の謎(ゲッテインゲ ンでまる一年聴講したのは誰の講義だったのか、最後に行ったアイスランドで何を見たのか)、マトリョーシャ=スタヴローギンはなぜ縊死したのか、 等々──をくねくねと迂回しながら解明しつつ「ドストエフスキー文学のはかり知れぬ恐ろしさ」すなわち「意識という恐ろしさ、内なるポリフォニー (多声性)の地獄」(127頁)に迫る。そしてスタヴローギン的な狂気=ニヒリズム、すなわち世界をたんに見る対象として突き放す「神のまなざ し」の傲慢さへと解きいたる(158頁)。「九月十一日、神は死んで、人々が神になった」。

 東京新聞取材班『破綻国家の内幕』を読了。ついでにウッドハウス暎子『日露戦争を演出した男 モリソン』下巻と福岡伸一『もう牛を食べても安心か』と柳田邦男編『阪神・淡路大震災10年』と青木和夫他『古典の扉 第1集』と日向一雅『源氏物語の世 界』と廣野由美子『批評理論入門』を読了。ほんとうはどれも最後まで完璧に読み切ってはいないけれど、もうたぶん読むことはないだろうと思ってこ の際「棚卸し」をすることにした。福岡伸一さんの本は『ソトコト』の連載で断片的に語られていたことの集大成で、ほとんど思想書。『古典の扉』で は養老孟司さんの『解体新書』と木田元さんの『存在と時間』も面白かったけれど(いつにかわらぬ養老節と木田節)、『ドン・キホーテ』への関心が 高まったのが思わぬ拾いもの。『源氏物語の世界』は源氏物語という「複数の主題を重層させる小宇宙であり、多義的多面的な構造の作品」(9頁)の 世界を垣間見せてくれた。ひところ大切に読み進めていたのだが、源氏没後の匂宮や薫や浮舟の物語をパスしてしまった。いつか読むかもしれない。 『Wの悲劇』に続いて『セーラー服と機関銃 完璧版』を観た。これもほぼ二十年ぶり。やや冗長で間延びした感じ。

★6月21日(火)

 加藤典洋さんの『僕が批評家になったわけ』を買った。「ことばのために」という(ちょと趣旨のつかみにくい)叢書の一冊。編集委員の顔ぶれ(荒 川洋治・加藤典洋・関川夏央・高橋源一郎・平田オリザ)はとてもいいと思う。でも結局この五人がそれぞれ本を一冊ずつ書くのだったらわざわざ「編 集委員」と名乗ることもないのに。その編集委員を代表して加藤典洋さんが書いた趣意書の中にこの叢書は「世の小学生以上の広範な読者の前に、差し 出されるのです」とあるから、これもまたみすず書房の「理想の教室」やちくまプリマー新書の仲間なのだろう。先月出た本を今頃になって買い求めた のは、書店でぱらぱらと拾い読みをしていて「ムッシュー・テスト」(ヴァレリー)と「徒然草」だとか、「電子の言葉」と内田樹と「徒然草」だとか の話題が目についたからで、要するに加藤典洋と「徒然草」の取り合わせに惹かれた。

《誰もいない。部屋の壁に貼られた反古がはがれかかり、また机の上に残された写経が開けられた戸口から吹く風にめくられる。おや、裏に何か書きつ けられているみたいだぞ。/彼らはふすまを外す。それを丁寧にはがす、また写経の紙片を集める。/もし、それを集積したものが、『徒然草』になっ たのだとしたら──。/そうだとしたら、ここには先に述べた、ことばで出来た思考の身体としての批評というものの、ふつうわれわれが理解している ものの対極の像が、屹立している、ことになるのではないだろうか。》(39頁)

★6月24日(金)

 「ノンフィクション開高健」の総力特集を組んだ『PLAYBOY』日本版も買った。初期ノンフィクションを収録した小冊子「開高天国」が付録に ついていて嬉しい。編集後記に「編集者マグナカルタ九章」が紹介されている。「読め。耳をたてろ。眼をひらいたままで眠れ。右足で一歩一歩歩きつ つ、左足で跳べ。トラブルを歓迎しろ。遊べ。飲め。抱け。抱かれろ。森羅万象に多情多恨たれ。補遺一つ。女に泣かされろ。上の諸原則を毎食前食 後、欠かさず暗誦なさるべし 御名御璽 開高健」。次号の特集は「ボブ・ディランとプロテスト・ソング」。続けて買うことになりそう。

★7月2日(土)

 高橋留美子傑作集『赤い花束』読了。『Pの悲劇』『専務の犬』に続く第3弾で、いずれも「ビッグコミック」に年1回のペースで掲載されたもの。 すべて雑誌初出時に読んでいる。まとめて読む愉悦。養老孟司さんは高橋留美子の全作品を読んでいるらしい。

★7月29日(金)

 藤沢周平『秘太刀馬の骨』読了。冒頭、七年ぶりの藤沢節に気分が高揚。中盤、やや中弛み(でも、この丹念な物語の反復と変奏がラストの「急」を 際立たせる)。終盤、物語の深部で暗躍していた欲望の噴出、急転、そしてこれに続く静かなカタルシス。エピローグで、何やら清しいものがこみあげ る。出久根達郎の文庫解説「意外な「犯人」異説の愉しみ」が謎めいている。

★7月30日(土)

 加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』読了。カメラマンが「裏窓」越しに「目撃」した殺人事件は本当に起こったのか。カメラマンは なぜ、またいかにして美しい恋人からの求愛を拒絶しようとするのか。この二つの謎の提示から始まる三つのスリリングな論考が収められている。だ が、いわゆる「謎解き本」の単純明快で手っ取り早い理解(娯楽)を期待していると肩すかしをくらわせられる。謎は最後まで解き明かされることはな い。なぜならヒッチコック以後の現代映画はいまだ完結していない。映画のヒストリーはいまだミステリーのままだからである。

 本書を読み終えて、エリック・ロメールの作品を観たいと思った。ロメールの映画は基本的に「ヴァカンス映画」である。著者はそう書いている。そ こでは、浜辺や中庭や登場人物たちのいつ果てるとも知れないおしゃべりの中で省察される「現実」と映画のカメラが提示する多少なりとも客観的な 「現実」とは齟齬をきたしている。それこそ『裏窓』における外見と内実の乖離が先取りしていたものだ。ここを読んでいて保坂和志の小説世界のこと が頭をよぎった。実はとうの昔に観ていたのかもしれないけれど、映画的記憶能力に著しく欠ける私にとって映画体験とはけっして「過去」に属さずつ ねに「いま・ここ」に生起するものなのだ。だからロメールの映画を観てみたいと思う。

★8月3日(水)

 本屋めぐりをしていて「太田新書」というものが出ていることを知った。これがなんと官能小説のシリーズ──「もっと激しく、もっと淫らに、太田 新書新創刊!」──で、新創刊のラインアップは藍川京、丸茂ジュン、安達瑶、北山悦史の四人。記念に北山悦史『濡れた火艶』を買って読了。「書き 下ろし全編愛撫長編」の謳い文句に興味を覚えたからで(安達瑶『愛の道化師』の「オペラは官能だ」にも心が動かされる)、まるでロボットどうしの 性愛の情景を叙述したような「工学的」ともいうべき即物的で精確かつメカニカルな細部描写は(ちょっと煩雑ではあったけれどもそれなりに)新鮮。 新しい官能表現の可能性を(これとはまったく正反対の「純粋性感」描写の可能性とともに)感じた。「あの太田出版から官能小説!」と驚いたのは (無知ゆえの)勘違いで、「ウィキペディア」によると「1985年、お笑い系芸能プロダクション、太田プロダクション出版部から、有限会社太田出 版として独立。後に株式会社になる。 もともとは、太田プロに所属していたビートたけし(後に独立、オフィス北野)の本を出版するための会社だったが、現在は幅広く各種の書籍を出版してい る」。

★8月6日(土)

 加藤典洋『僕が批評家になったわけ』読了。批評とは何か。それは日々の生きる体験のなかで自由に、自分の力だけでゼロから考えていくことだ。本 を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシで勝負ができること。批評とはそういう言語のゲームなのである。だから批評はどこにでもある。「あ ることばを読んで、面白いと感じること。それはそのことばのなかに酵母のように存在している批評の素に感応することなのだ」。こうして著者は批評 の原型としての、批評の酵母に関する「みごとな見本帖」としての『徒然草』にいきあたる。

 小林秀雄が「純粋で鋭敏な点で、空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件なのである」と絶賛したように、『徒然草』には「公衆、世間、 一般読者」という「スクリーン」の出現とともに成立した近代批評(重く難しいことばで書かれた文学としての批評)の極北をなす「ムッシュー・テス ト」(ヴァレリー)の「無名」への夢に通じるところがある。著者はこのことを確認した上で、『徒然草』が導くもう一つの夢を粗描してみせる。それ は「ふつうのことをふつうにいう」こと、あるいは「わからない、わからなかったということを書く」こと、つまり「平明な批評のことばの果て」にあ る未来の批評である。ここで著者はインターネットに代表される「電子の言葉」が生み出した新しい批評の書き手、内田樹を引き合いに出す。

 『徒然草』序段と『ためらいの倫理学』(内田樹)のあとがきは似ている。それらはいずれも「書き言葉」と「話し言葉」という二つの力のせめぎあ いのなかから「自由に書きたい、自由に考えたい」という欲求を通じて生み出されていったものだ。漢字とひらがなの「和漢混淆文」とともに、あるい は(机の上の「スクリーン」にのみ存在する書き言葉であり、セーブしなければ消えてしまう話し言葉の要素をも濃厚に合わせもつ)「書き言葉=話し 言葉」的な新しいメディア=電子エクリチュールとともに。

 そもそもことばは分裂をかかえている。養老孟司は『唯脳論』で言語の本質は視覚・知覚系(文字記号)と聴覚・運動系(音声)という本来無関係な 二つの刺激が連合したものだと書いた。つまり言語は「難しいとか重いという以前に、平明なままで、すでにダイナミックな運動としてある存在」なの である。批評もまた二つ力のせめぎあいのなかで営まれる。著者は平明さの基礎は何かをめぐる終章で、内田樹=レヴィナスとの「対決と和解」(?) をまじえながら、平明と難解、野生と純粋、世間と世界、等々の二つの力の中間にあるものとしての「平明な批評」のあり方を語っている。

《批評の一番奥底にはこの世間のうごめきがある。頭上には世界がある。地上には世間がある。批評はすぐれた思考であろうとこの世間の風とせめぎあ い、その中間に、噴水の上のゴムマリのように浮かんでいる。(略)何かが中空に浮かび、とどまる。知識の量、頭脳の明晰さ、着眼の面白さに還元さ れないものが、そこにある。すぐれた批評に接したと感じるとき、私たちは、他なる思考の泳者がたしかに私たちのなかの世間にしっかりとタッチし て、私たちをその世間的思考から彼岸まで連れて行き、さらに私たちのなかの世界にタッチした後、もう一度、世間の場所に連れ帰るのを、感じている のである。》

 批評はなぜ平明でなければならないか。「それは批評が、誰もが、いつ、どのような出発点からも、どんなルールででも、参加できるものでなけれ ば、死んでしまう、ゲームだからなのである」。本書はそのような(来るべき)批評の酵母の見本帖、すなわち加藤版「徒然草」である。


★8月10日(水)

 沢木耕太郎『シネマと書店とスタジアム』。映画評(「銀の森へ」)と書評(「いつだって本はある」)、それから長野オリンピック(「冬のサーカ ス」)と日韓ワールドカップ(「ピッチのざわめき」)の観戦記を集めた沢木本は一気に読み切ってしまうのが惜しくて、折にふれ読み返したりしなが らここ一月ばかり「愛用」している。筆運びが達者で文体がきまっていていかにも「プロ」の書いた文章だと思う。対象との距離感覚、状況の中での書 き手の位置の取り方が経験によってのみ鍛錬され熟成する「技術」を感じさせる。

 是枝裕和の『ディスタンス』を取り上げた文章の中で、沢木耕太郎は演技における「虚」と「実」の関係を論じている。この映画の多くの場面で是枝 監督は、俳優に状況と大まかな方向を与えられるだけであとはその内発性に委ねるという演出法を採った。その結果、俳優の演技は一見「自然」で「リ アル」なものとなったが、前作の『ワンダフルライフ』で七十年分の時間の重さと厚みに支えられた老女の思い出話が虚構の部分を圧倒したほどの力は 持ち得なかった。「そこには見せかけのリアルさを必要としない内実があった。だが、『ディスタンス』の俳優たちの「リアル」な台詞には、その重み と厚みが決定的に欠けていた」(62-63頁)。

 沢木耕太郎は「実」は実であるがゆえに「虚」を圧倒する力をもっているといった軽率な主張をしているわけではない。ここにあるのはプロによるプ ロの仕事に対する(リスペクトに裏打ちされた)批評である。「私には、演技という「虚」なるものにおける「実」の導入の仕方において、是枝に微妙 な計算違いがあったように思われるのだ」。

 プロはまた己の仕事を知り抜いている。虚と実、アクションとリアクション、記憶と記録。それらが拮抗する状況に身を置き「微妙な計算」をもって 自らの立ち位置を定め対象との距離を測り言葉を紡ぎ出すこと。──沢木耕太郎はローレンス・ブロックの『倒錯の舞踏』を取り上げた文章の中で、 ハードボイルド小説の根幹は「アクション」ではなくアクションによって引き起こされた「状況」への「リアクション」だと書いている(121頁)。 またデヴィッド・ハルバースタムの『男たちの大リーグ』の書評では、スポーツ・ライティングの基本は「記憶」にあると書いている。「「記憶」は 「記録」をともなって再構成されるが、その「記憶」が人間によってなされるものであるかぎり、作品が「人間の物語」と無縁でいられるわけがない」 (111-112頁)。

 まだ半分しか読んでいない本のことを持ち上げすぎている。(己の仕事を知り抜いているプロの文章には安心して身を委ねることができる。読者もま た「微妙な計算」をもってわれを忘れることができる。でも「われを忘れる」ことと「われを解体する」こととは別の次元の話で、だからここに書いた ことは沢木耕太郎を持ち上げたことにはならないのかもしれない。じっさい『シネマと書店とスタジアム』に書かれていること、とりわけスポーツ観戦 記には得心がいかないところが多い。)

 「持ち上げ」ついでに書いておくと、平井啓之さんがドゥルーズ『差異について』の解題「〈差異〉と新しいものの生産」に書いていること──たと えば「一本の小灌木を個物として成立たせるものは、その個物の質である。しかし〈差異〉とは関係の用語であり、…その関係とは、個物相互の質の関 係に外ならない」(138頁)とか、「文学のディスクールとは何ものにも勝った〈差異〉の産出の特権的な場所」である(153頁)とか、「「自己 との間に差異を生ずるもの」としての、差異の生産の世界」=映画の世界像(161頁)、等々──を読んで『シネマと書店とスタジアム』を想起し た。文学と映画、それにサッカーを加えるならば、私にとっての「差異の生産の世界」が三つそろう。

★8月11日(木)

 加藤典洋『僕が批評家になったわけ』に小林秀雄と岡潔の対談『人間の建設』を取り上げた箇所がある(93-97頁)。──小林が「数学のいろい ろな式の世界や数の世界を、言葉に直すことはどうしてできないのでしょう」と問う。岡は最初、いや数学も言葉なのだと応じるが、「小林の質問がア インシュタインとベルグソンの論争にふれると、これがもっと遠い射程をもつ問いであることに気づく」。そして「数学は知性の世界だけに存在しえな いということが、四千年以上も数学をしてきて…はじめてわかった」、つまり数学をつきつめていったら数学とことばが違うことがわかったと答える。 岡「矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学ででき ることは知性を説得することだけなんです」。小林「わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね」。岡 「そうなんです」。

 加藤典洋はここで小林が「感情」といっているものは「現前」、つまり「ありありと現れていること」(=「ありありと心に感じる」こと=「実感す るということ」=「わかる」こと=「納得する」こと)と同義だと書いている。そしてデリダ(『声と現象』)の「現前の形而上学」批判をもちだし、 「批評は「わかる」ことの上に立つのか。「わかる」ことの切断の上に立つのか。難しい問題がまさに、口を開こうとしているのである」と結んでい る。

★8月12日(金)

 ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊、ふたたび──見えてきた心のしくみ』を買った。原題は“THE EMERGING MIND”で「暗闇から心」とか「立ち上がる心」(この「立ち上がる」という言葉は保坂和志の小説観のキーワード)とでもすればいいところ。ベストセラー になった前作の読者を丸ごととりこむつもりだろう。現に一人とりこまれた。『脳のなかの幽霊』(“PHANTOMS IN THE BRAIN”)は買ったきりで未読なので、この際あわせて読んでおこうと思う。
(岩波から下條信輔訳でベンジャミン・リベットの『マインド・タイム──脳と意識の時間』が出ていたのでどちらにするか迷った(リベットの話題は 『関係と自己』の序論にも出てきて気になっていた)が、気楽に読めそうなのを選んだ。)

 『群像』に連載していた三浦雅士の『出生の秘密』が刊行されていた。腰巻きの謳い文句に「衝撃作『青春の終焉』に続く新たな地平」とある。ぱら ぱらと眺めているとラカンの「想像界・象徴界・現実界」とパースの「イコン・インデックス・シンボル」の関係を論じた箇所があってぐっときた。い ずれ購入することになりそう(いったいいつ読むつもりなんだとの声)。

★8月15日(月)

 三浦雅士『出生の秘密』を買った。パースとラカンのことが書かれた「六 記号の階梯」と「七 鏡のなかの私」をざっと流し読んだ。アッと驚くこ とが書かれているようには見えなかったので妙に安心した。「あとがき」をじっくり読んだ。異様に高揚した文章だった。「一 出生の秘密」の冒頭、 丸谷才一『樹影譚』の内容紹介を少し気を入れて読んだ。上手い。いかにもプロの書き方。こういう読ませる文章、商業的な文章はいったん術中にはま るともう一気に読み切るしかないと思った。内容があろうがなかろうが読ませられてしまう。それはそれでとても愉しいことだ(と思っていた。ところ が、そこから先が一向に面白くならない。妙にドライブ感に欠ける。ここから「あとがき」のあの高揚感までの道は長い。以上、後日談)。

 ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』読了。ちょうど四か月かけて読んだ。最初の頃の興奮はしだいに薄れていったけ れど、一字一句おろそかにせずに、それでいて自由気儘に(連想、空想、妄想の類の跳梁を楽しみながら)読み続けた。

★8月20日(土)

 野矢茂樹の『他者の声 実在の声』に収められた同名のエッセイを読みながら、「心脳問題をめぐるテーゼ・私家版・覚書」というのを手帖に書きつ けた。

 その1.意識は言語から「生産」される。これは『神々の沈黙』でも主要な仮説の第一として提示されていた。無意識は言語(他者の語らい)ででき ているといったこととか、言語が「物質」であると言えるならばそれと同じ意味で意識は「物質」から「生産」されるといったこと。(ここで「生産 pro-ductin」というのは「五つの推論」のうちの一つで、他は演繹[deduction]・帰納[induction]・仮説形成 [retroduction,abduction]・伝導[conduction]。推論の五つの形式・方法というのは私のオリジナルで、その内 容・実質はこれから探求する。パースによれば、何かを探求しようとするとき「探求に際して使用される論理」と「探求の対象が従う論理」とが同一で あるという想定が前提されている。だとすれば、この五つの推論形式は同時に実在の存在形式でもある。)

 その2.意識と物質はつながっている。實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』によると「歴史的には、意識と物質は西洋においても古代以来、一九 世紀まで一体だった」(139頁)。このことはウィリアム・ジェイムズの「ロープ」とかベルクソンの「イマージュ」の概念に表現されている。 (「つながっている」という言い方はまだまだ未熟で、いずれこの概念を鍛えあげなければいけない。)

 その3.身体は意識を「表現」する。もしくは「身体の履歴」(桑子敏雄)が意識を充填する。あるいは身体とは「仮面」である。このあたりになる と自分でも何を言いたいのかよくわからなくなる。
(「仮面」の原型は「内部が空洞になった管」で、たとえば麦藁がそうだしシンプルな笛も濃厚に仮面的である。この「管」にいくつか切れ目を入れる と複数の音=声を発する高級な笛=楽器になるし、ひいては「顔」=仮面にもなる。本来、動物の身体は「管」である。だからどうなのだと言われると 困るが。)

 その4.使用価値と交換価値の分岐が心脳問題の起源である。これは『出生の秘密』の「あとがき」に書いてあったことをそのまま盗用しているし、 このままではテーゼとして使えない。いまはまだこの程度でしかないが、これらの断片・覚書をたくさん蒐集し、いずれ18ほどのテーゼにまとめあげ てベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」のようなカタチに編集していきたいと思う。

★8月25日(木)

 三浦展『団塊世代を総括する』を買った。一月前に書店でみつけた時から気になっていた。『ファスト風土化する日本』が素晴らしかったので、その 本を書いた著者が2007年問題に対してどのような処方箋を書くのか興味があった。団塊の世代は移民(異民族)である。団塊の世代は子育てに失敗 した。働くことの意味を子供に教えなかったからだ。団塊の世代はもう50年間ずっと消費してきた。人生の最後くらい消費だけではない人生を送って ほしい。まず自分の会社を作って仕事をしろ。そしてどんどん若者を雇え。この定年起業論は挑発的だが、きわめて合理的である。『ファスト風土』の 最後に書かれた政策提言にも通ずる。

★8月26日(金)

 太田肇『認められたい!』読了。本をいただいてから二ヶ月。なかなか手に取る時間がなかった。仕事をさぼって盗み読みを初めると、最後までほと んど違和感を覚えることなく一気に読み進めることができた(ただ一点、この本がどのような読者層を想定しているのかだけは最後まで見定めることが できなかった)。読み終えて、著者の人間観、社会観の「成熟」を強く感じさせられた。

 私はある時期から著者の人間観に違和感を覚えるようになっていた。それは本書の「あとがき」にも出てくる二つの言葉、「きれいごと」と「ホン ネ」の区分・対立のさせ方があまりに表面的すぎるのではないかという不満(懸念)によるものだった。ここでいう「きれいごと」とはたとえば「人間 にとって重要なのは自己実現だ」とか「(仕事の)意欲を引き出すのはお金ではなく仕事の楽しさや面白さだ」といった言い方のうちに示される型には まった思考のことで、これに対する「ホンネ」とは(本書の場合)名誉欲や自己顕示欲、功名心、プライド、メンツなどの「承認欲求」のことだ。「き れいごと」だけでは「組織で働いている人たちの行動やドロドロした現実の世界をとても説明できない」。「人間や組織をほんとうに動かしているも の」、つまり「心の深層」にある「ライバルや顧客、業界、学会などに、あるいは広く社会に認められたいという強い欲求」が「仕事の面白さや働きが いにつがっている」という事実を見据えなければならない。この認識自体は正しいと思う。

 私の限られた経験(社会的および私的経験)からいっても、「人間や組織をほんとうに動かしているもの」は裏返しの承認欲求ともいうべき嫉妬と羨 望である。著者の次の指摘は、人間集団のリアリティを鋭く抉っている。《世間では、嫉妬や羨望といえば不合理な感情の問題としてかたづけてしまい がちですが、実はそれがある意味で合理的な感情であり、そこから生まれる態度や行動もまた、論理的に説明できるということを見逃してはなりませ ん。つまり、お金やモノを求めて争うのと同じように、名誉欲、自己顕示欲やプライドをめぐる戦いや競争が繰り広げられていると考えれば理解しやす いのです。》(30頁)著者は、承認欲求を「タブー視せず、それを真正面から受け止めることからスタートしなければ展望は開けません」(151 頁)と語っている。それを裏返していえば、嫉妬や羨望を「心の深層」に秘匿すべき負の感情としてタブー視せず、真正面から受け止め公に語ることが できる言説の空間をつくらなければ人間集団の展望は開けない。

 しかし「きれいごと」と「ホンネ」は一方が虚偽で他方が真実だといった単純な区分では片づけられない。本来この二つは同じ次元に並び立つもので はない。理想と現実と言い換えても同じことで、現実を直視しない理想論は欺瞞だが、理想を現実のうちに回収してしまう議論は不毛だ。著者はそんな ことは百も承知で、前者の欺瞞を撃ちつつ、後者の不毛を回避する途を探ってきた。この方法も正しいと思うし、組織対個人の関係においていかにして 個人が「生きのびる」か、どのようにして組織を「つかいこなす」かといった問題設定とその処方箋はとても切れ味がよかった。

 ただ、そこで得られた知見・洞察を組織や人事政策に応用し、さらには一般社会に応用するためには、「きれいごと」対「ホンネ」の一見わかりやす い図式をもっと鍛えなければならない。さもないと「きれいごと」がもっている「人間や組織をほんとうに動かしている」力を見失ってしまう。いくら 「きれいごと」(政権公約)を掲げても、所詮、政治は権力闘争である。そんなことは誰でも知っている。本当の問題は「ホンネ」(権力欲)を暴くこ とではなく、「ホンネ」のうちに孕まれたエネルギーを通じてどのような「きれいごと」を実現するかということだ。いいかえれば「きれいごと」がも つ欺瞞性を人間集団や社会の実相として直視し、これを真正面から受け止め公に語ることができる言説の空間をつくらなければ人間集団や社会の展望は 開けない。

 私の不満(懸念)は本書を読むことでほとんど払拭された。次の二つの点で、著者の人間観や社会観の「成熟」を感じさせられたのである。第一は、 「ホンネ」を個人の内面のうちに限定して論じるとらわれ(あるいは「きれいごと」=「公」に流通する出来合の言説、「ホンネ」=心の深層にある 「私」的な欲望という二元論)から解放されていること。第二は、「きれいごと」と「ホンネ」の統合の可能性(あるいは背反する二項の一方を切り捨 てるのではなく、両者の統合へ向けた不断のプロセスこそが人間集団や社会の実相であるという見極め)を見出していること。

 第一の点は、たとえばE・L・デシ(『内発的動機づけ』)の「承認=情報」の説の紹介(45頁,235頁)やV・E・フランクル(『現代人の 病』)の引用(53頁)──人間本来の重要性は意味の可能性の充足にあるのだが、その意味の可能性は「自分の内に閉ざされたものとしての心理の中 に、と言うよりむしろ世界内に見出されるべきものなのである」──のうちに示唆されている。

 第二の点は「個人主義と集団主義の調和」と題された節(159-163頁)のうちに明快に示されている。(ただ、「会社や社会のために尽くすこ とがそのまま自分の名誉に直結する構造」を自分の中につくりあげている「超一流の域に達した」人物について、「もっとも彼らがこのような境地に達 することができたのは、たんに彼らの能力や姿勢が優れていたためではなく、彼ら自身が恵まれた立場に置かれていたためでもあることは見逃せませ ん」とあるのは、一面の真理ではあるのかもしれないが、そもそもこの指摘に「実証性」はあるのだろうか。)

 本書を読んで、前田英樹の『倫理という力』に出てくる「トンカツ屋のおやじ」の話を想起した。

《客から金を取って生活しているトンカツ屋のおやじにとって、客は手段である。けれども、美味いトンカツを食わせることに関するこのおやじの並外 れた努力は、客を目的とすることなしには成り立たない。客はおやじを尊敬する。おやじも味のわかる客を大事にするが、大事にするからといって、金 をもらわないわけにはいかない。これが、おやじの立てている文句のつけようがない尺度である。》(54-55頁)

「きれいごと」と「ホンネ」をめぐって先にくどくどと書いたのは、要するに、それらを真っ二つに分断することは、生の実相を損なうことになると 思ったからだ。しかしそのことと『認められたい!』が論じていることとはやはり別の話だったのかもしれない。

★8月27日(土)

 二ノ宮知子『のだめカンタービレ』読了。火曜日に#1を買って読み終え、水曜日に#2と#3を買ってこれもその日のうちに読み終え、とうとう止 まらなくなり、木曜日から土曜日まで3巻ずつ一気に#12まで読みきってしまった。#9までの桜ヶ丘音楽学校篇はこれだけで充分に完成・完結して いる。#10から始まったパリ編は物語の行方(というか感触)をまだ作者が手探りで探っている感じ。このあとどこまで進んでいくのかまだ見えない が、途方もなく長大な物語に発展・深化してきそうな気配を感じる(たとえば『ガラスの仮面』のような)。

 このマンガの面白さは「読んでいる時間の中にしかない」(C:保坂和志)。二ノ宮知子がつくりだすキャラクターの面白さも、読んでいるマンガの 中にしかない。この作品でとりわけ面白いのは演奏会の情景を描いた箇所──たとえばシュトレーゼマン指揮、千秋真一演奏のラフマニノフ・ピアノ協 奏曲2番(#5)とか千秋真一指揮のブラームス交響曲1番(#8)など──で、当然のこととしてそこに音は響いていない。しかし紙面の沈黙のうち にたしかに音楽が流れている。それも音楽の表現のひとつのかたちである。これはちょっと比類ない達成なのではないかと思った。

★8月28日(日)

 『芸術新潮』9月号を買った。特集は港千尋解説の「写真よ、語れ!」。橋本治が「とことん語る」日本美術史と磯崎新が「読みかえる」日本建築史 を特集した二冊に続く常備本。写真はつねに変わらぬ(詩的)インスピレーションの源泉だった。一枚の写真を凝視すること、その視覚の感触を言葉に おきかえること。それが詩作の作法だった(たとえば『葡萄状連詩』は集英社の世界写真全集第1巻から生まれた)。この習慣を失ってもうかれこれ二 十年が過ぎている。一枚の写真にかける時間の深さが足りない。ひとつの音楽にかける時間の深さも失っている。一篇の小説にかける時間の深さも。

★9月2日(金)

 瀬名秀明『デカルトの密室』を買った。『パラサイト・イヴ』から10年。あの瀬名秀明が、新たなる「脳と心」の謎に挑む!──三日前このキャッ チ・コピーを書店で目にした翌日、飲み会の会場に一番乗りしたけれどまだだれも来ていなくて時間つぶしに店の近くの本屋に出向き買い求めた。AI ものと聞くとグレッグ・ベアの『女王天使』だとかリチャード・パワーズの『ガラテイア2.2』だとかを想起する。最近読んだ関連作品では山田正紀 の『神狩り2 リッパー』も想起する(この作品だけは文体が好みに合わず閉口した)。旧作『BRAIN VALLEY』(「人類最後の秘境、脳とは何か。日本エンターテインメントの金字塔!」)も近く文庫化されるらしい。

 あとがき(謝辞)を見ると「本作を書くことができたのは、私が二○○二年から参加している「けいはんな社会的知能発生学研究会」での有益な議論 のおかげである」と書いてある。昨日、今日と「けいはんなプラザ」で泊まりがけの会議に出席していた。これもなにかの縁というものだろう。同研究 会編『知能の謎──認知発達ロボティクスの挑戦』が読みかけのままになっている。あわせて読むべし。

★9月7日(水)

 吉永良正『『パンセ』数学的思考』読了。モンテーニュの『エセー』と『パンセ』と『徒然草』は枕頭の書、無人島へのスプートニク(旅の道連れ) その他言い方はなんであれ、愛読書というよりはもう少し切実に身体の内側に寄り添ったかたちで読みつづけていきたいとかねがね思っていた。松岡正 剛さんの言葉を借りれば「言葉のチューインガムのように噛む」とか「本を噛む」といった感覚で(「千夜千冊」第三百六十七夜)。あと一冊日本の古 典を選び西欧と日本のバランスをとりたいとも思っていて、そんなことに気をとられているから肝心の『エセー』や『パンセ』や『徒然草』を読む(噛 む)時間がなかなかとれない。

 「理科系の哲学入門」とカバー裏に謳ってある『『パンセ』数学的思考』のテーマは「パスカルの思想には数学的思考が通奏低音のようにつねに流れ ている」(100頁)というもの。たとえば「パスカルは自然を見たままに観察したというよりも、数学的な構想力によってそれをモデル化し、そこに 無限から無までを貫く一様なフラクタル構造を想定していた」(98頁)といった具合。この話題が出てくるのが第1回「宇宙空間の永遠の沈黙」で、 第2回「無限大と無限小の中間」では章名に書かれている話題や真空をめぐる話題が取り上げられ、第3回「パスカルの数学的思考」では確率論の話が 出てきて『パンセ』後半の宗教論への入り口あたりまで案内してくれる。『パンセ』の断章のすべては祈りのなかで書き留められたものだ(132頁) とか、パスカルは二○世紀の思想家シモーヌ・ヴェイユとその兄で大数学者のアンドレ・ヴェイユをいっしょにしたような人物だった(133頁)と か、なかなか含蓄の深い言葉もちりばめられている。

★9月11日(日)

 途中まで読んで放置したままの本がたまっている。気になってしかたがない。いつかまとめて「棚卸し」をしなければと気持ちが焦る。最後まで読む ことへのこだわりがなかなか抜けない。「僕は、小説は部分だけ読んでいて構わないと思っているのね」(保坂和志)という境地にはやく到達したいと 思う。今日は小島信夫の『漱石を読む』を数頁、折口信夫の『かぶき讃』を一節、それから日夏耿之介の『荷風文学』とレヴィ=ストロースの日本講演 の記録を少々読んで、ヒッチコックの『めまい』の前半を観て、ブラームスの交響曲第1番を十分ほど聴いて過ごし、吉田一穂の詩を一篇しあげに朗読 して就寝しました。そんな日記を書いてみたい。

 内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』読了。内田樹はほんとうによくしゃべる。ホモ・ロクエンスとはこの人のことだ。放談集といってもい い本だが、随所に叡智の言葉がちりばめられている。ことばの力は身体感覚を変える。いい比喩(『ハウルの動く城』に出てきた、あの黒いドロドロに なったようなつもりで!)に出会うと人の動きはパットと変わる(110頁)。人格を変えなきゃ、声も変わらないですよ(184頁)。以上、内田。 残虐な行為は一度存在してしまったら、あとは次々と宿主を変えて取り憑いていく精神的な寄生体なのである(229頁)。これは対談を終えた春日の 言葉。いずれもほんの一例。

★9月13日(火)

 沢木耕太郎『シネマと書店とスタジアム』読了(書評とシネマ評で一部読み残したものがあるが、それは今後のお楽しみ)。やはりこの人のスポーツ 観戦記には得心がいかない。「人間の物語」へのやや過剰気味の傾斜が散見される。
 石川忠司との対談(『群像』10月号)で、保坂和志が「スポーツのよさって非人間的な次元で、その人の気持ちなんか関係のない次元なんだから、 その次元で物事を肯定したり完結したりできない」と言っている。スポーツには、結果がすべてだという意味でのリアリティ(実)とは別の次元のリア リティ(虚)がある。それを「人間の物語」といえばそれまでだが、状況への「リアクション」がひらくこの「非人間的な次元」を透視しないかぎりす べては後付けの理屈の趣を呈することになる。沢木耕太郎はすべてが終わった時点で書いている。そのことが本書に収められたコラムの切れ味を生み出 した。読者(私)は一瞬われを忘れ、次の瞬間われに戻る。文章はつかの間の閃光を放ち消費されていく。だが、それは決して非難されるべきことがら ではない。

★9月14日(水)

 打海文三『ハルビン・カフェ』読了。8月の頭に読み始めて以来ほぼ毎日、仕事帰りの電車の中で沈潜した。最後まで飽きることなく、それどころか しだいに熱が入り、この重厚に構築され、錯綜した人間関係と欲望の質がはりめぐらされた虚構世界に全身を浸すようになった。一気に読み通したくな る欲求をこらえにこらえて熟読した。物語の興奮にわれを忘れることなく、最後の一頁まで気持ちを乱さず、冷徹に、ハードボイルドに、読み終えた かった。頭の中に聞こえない音声を響かせたり、脳内スクリーンに映像を浮かべることをできるかぎり禁欲し、つまり純粋に文字を読むことに徹して読 むことを心がけた。そうすることがこの作品にはふさわしいように思えた。気がつくと頭の中で声を出し、映画を見るように読んでいた。最後の最後で 緊張にたえられなくなって、堪らず、結末まで一気に駆け抜けてしまった。それでも濃い読書だった。これほどの傑作にも欠陥はある。物語はいつか結 末を迎える。これだけはどうしようもない。原広司『集落の教え100』からの引用が決まっている。

★9月16日(金)

 三浦雅士『出生の秘密』読了。あとがきの高揚は浮いている。一つの概念というか問題系(言語空間)の誕生の現場に立ち会えた興奮が心から湧いて こない。面白い本ではあったが、はたしてこれほど長く書くだけの実質があったのだろうか。成長(進歩)・教養・青春(自意識)の誕生とその終焉の 実相を鮮やかに叙述しきった『青春の終焉』と比較して、冗長と迂回と停滞の感は拭えない。膨大な素材が自閉して放り出されている。一度熱を冷まし これらを再編集して最初から語り直せば、もっと濃く鮮やかな物語になるのではないか。(三角関係という自意識のドラマから主人・奴隷の二者関係 へ。この『青春の終焉』から『出生の秘密』への道行きに続くものは何か。それが「一なるもの」へと向かうのは見やすい道理だ。)

 「出生」の秘密には二つの次元がある。その一は未生以前の物質(死)から生命(生)へ、その二は動物としてのヒト(本能)から言語を獲得した人 間(知性)へ。そのそれぞれの境界(界面)のうちに「秘密」は潜んでいる。ラカンの概念を使って、前者は現実界から想像界へ、後者は想像界から象 徴界へと言い換えることができる。本書を支えている理論的骨格がこの現実界・想像界・象徴界の概念で、パースのイコン・インデックス・シンボルが これと不即不離の関係でからんでいく。そのもっと奥にあるのがヘーゲルの『精神現象学』。フロイトをヘーゲルによって読みかえる作業を通じてラカ ンは現実界・想像界・象徴界を切り出し、ヘーゲルの概念化作用(生命の本質)を記号化過程におきかえてパースは記号の三区分を導出した。

 以上が『出生の秘密』のいわば舞台と書き割り。その上で、丸谷才一の短編「樹影譚」をふりだしに中島敦(象徴界から想像界、現実界への下降)、 芥川龍之介(象徴界への停留)、夏目漱石(象徴界と想像界の界面)の三人の文学者とその作品群をとりあげ、最後にふたたび丸谷才一の『エホバの顔 を避けて』で締めくくる。なかでも全体のほぼ三分の一の分量を費やした漱石が圧巻。ヘーゲルと漱石のあやしい関係(漱石は大学時代に『精神現象 学』に感銘を受けて「老子の哲学」を書いた)を執拗低音とする長い叙述をくぐりぬけ、アウフヘーベンとは「僻み」である、つまりヘーゲルの弁証法 は「僻みの弁証法」であるという帰結が示される。

 僻みは「否定」と「抑圧」(保存)の二重の意味をもつ(「僻み」を九鬼周造の「いき」と比較すると面白い)。「意識そのもの、自己意識そのもの に僻みの作用がある。いやそれは僻みの作用そのものである」(538頁)。僻みの構造は食における晩餐、性における婚姻と論理的に相同である (541-543頁)。ここに想像界(食と性の世界)から象徴界(言語)への移行の「秘密」が隠されている。獲物をその場で食べずに仲間のもとに 持ち帰り共食したときに「魂」は生まれた。否定(すぐには食べない)と抑圧(食べるときまで待つ)が食物を「意味」に変えるからだ。

《否定と抑圧が祖霊という観念を引き寄せ、食物が供物になったとき価値が生まれた。使用価値から交換価値が剥離した。意味すなわち言語が発生した のだ。(略)食べられるけれど食べられないというこの二重性は、魂と身体という二重性、自己であると同時に他者であるという二重性と、同じことな のだ。二つの身体を持つのは王だけではない。名を持つ人間のすべてが二重性を帯びているのである。人間こそが交換されうるものなのだ。貨幣とは何 よりもまず人間のことなのであり、人間の発生と奴隷の発生とは軌を一にしているのである。自己とは自己の奴隷化にほかならない。》(あとが き,615-616頁)

 著者は「あとがき」で「出生の秘密を解明しようとするささやかな試みが、言語空間の探求へと進むほかなかった理由」を書いている。食べられるけ れど食べられないという二重性はそのまま言語・貨幣・社会・国家・宗教の二重性につながる。この二重性が次元の混乱を惹き起こし、ひいては人間を 豊かにも惨めにもしてきた。それは生命すなわち概念化作用による世界の階層化・次元化が錯覚と錯誤をもたらし、ひいては生命現象の豊かさを形成し てきたことに対応している。であるならば言語における物質と意味の二重性が精神の次元に錯覚と錯誤をもたらすのは当然というべきだろう。

 何が言いたいのか。想像界(生物)から象徴界(精神)への移行が根源的であること。すなわち世界は「言語空間」であること。父母未生已然の世界 すなわち現実界(物質)、それもまた「言語空間」であること。「人は言語空間すなわち死のなかで生き、生はただ言語によってのみ輝く。/言語空間 の探求はいまはじまったばかりなのだ」。これがこの「一冊の興味深い書物」(516頁)の末尾の言葉である。

★9月17日(土)

 木村敏『関係としての自己』の「序論」を読んだ。これでたぶん五度目。読み返すたびに新たな発見がある。冒頭にドゥルーズが引用されている。 「意識はけっして自己[ソワ]の意識ではなく、意識的でない自己に対する自我[モワ]の意識である。それは主人の意識ではなく、主人に対する奴隷 の意識であって、主人は意識的である必要がない」(5頁,邦訳『ニーチェと哲学』65頁)。

 ここに出てくる主人と奴隷の関係は、フロイトの「自我とエス」では騎手と馬の関係に喩えられている。「自我は、知覚・意識系の仲介のもとで外界 の直接の影響によって変化するエスの部分」である一方で、「理性とか分別とかと呼ばれるものを代表して、さまざまな情念を含むエスと対立してい る」。自我のエスに対する関係は「手に負えない力をもつ馬を制御する騎手に似ている》が、落馬を防ぐために《ふつうはエスの意志を、あたかも自分 の意志であるかのように実行に移している」(15頁,邦訳『フロイト著作集6』274頁)。

 主人と奴隷の関係といえば『精神現象学』。三浦雅士は『出生の秘密』で真理と非真理、現実と虚構(文化)、理想と現実を主人と奴隷に準えていた (548頁.556頁)。主人と奴隷の弁証法(僻みの弁証法)はルソーの『人間不平等起源論』の直接的な延長上に考察されたと見るべきだろうと書 いていた(552頁)。だからどうというわけではない。ヘーゲルとフロイトを掛け合わせるとラカンの現実界・想像界・象徴界になる。現実界と想像 界の界面に「ソワ」が、想像界と象徴界の界面に「モワ」が立ち上がる。そんなことが言えるのだろうか。

 村上春樹『東京奇譚集』を買った。「ねじまき鳥」以来の長篇・中編・短編のサイクルがこれで二巡した。『ねじまき鳥クロニクル 第3部』 (1995)、『スプートニクの恋人』(1999)、『神の子どもたちはみな踊る』(2000)の第一期。『海辺のカフカ』(2002)、『アフ ターダーク』(2004)、そして『東京奇譚集』(2005)の第二期。私がたてたムラカミハルキの法則によると二巡でパターンが変わるはずだ が、これは当てにならない。

 天外伺朗・瀬名秀明『心と脳の正体に迫る』を買った。副題は「成長・進化する意識、遍在する知性」。ここに漂う「いかがわしさ」がとても香ばし い。意識の成長・進化にはあまり惹かれないが、遍在知性(ユビキタス・インテリジェンスとでも?)は面白い。これにアフォーダンスがからんでくる ともっと面白い。フィリップ・K・ディックの『我が生涯の弁明』が読みかけのままになっているので、あわせて読めればいいと思う。あまり関係ない かもしれない。

★9月18日(日)

 三浦雅士の『出生の秘密』に、ハイデガーがヘーゲルの『精神現象学』をとりあげた講義で用いた図が紹介されている(524-7頁)。『精神現象 学』は論理学・自然哲学・精神哲学という知の体系『エンチクロペディ』へと進む導入・端緒である。『精神現象学』から見れば『エンチクロペディ』 はその註にすぎない。『精神現象学』が詩であるとすれば、『論理学』はそれを散文にしたようなものだ。しかし『エンチクロペディ』の体系でいえ ば、第三部「精神哲学」の第一篇「主観的精神」のBが「精神現象学」になっている。つまり全体が部分になり、部分が全体になっている。内と外が逆 転しているといってもいい。

《生命の発生において、卵割によって外胚葉、中胚葉、内胚葉が形成され、外胚葉から皮膚が、そして神経や脳が形成されてゆくさまに似ている。最大 の内部である脳は、最大の外部である皮膚からできあがっているのだ。同じように、ヘーゲルにおいては、知の体系そのものが、メビウスの帯、クライ ンの壺のかたちになっているのである・/このことは何を意味するか。『精神現象学』の記述は新生児の意識から、すなわち人間以前の意識から出発し ているが、はたしてそれは人間に許されることなのだろうかという問いに対して、ヘーゲルはその体系の変遷そのものによって答えようとしたのだとい うことを意味している。》(『出生の秘密』525-6頁)

 植島啓司『性愛奥義──官能の『カーマ・スートラ』読解』を買った。「われわれはなんと貧困な性愛しか知らなかったか!」「誘惑の作法から爪と 歯の使い方まで いまこそ学ぶ、古代の智慧」「卓抜な比喩と精緻な分類から豊饒なカーマの世界が浮かび上がる!」店頭でみかけた時からいつか買っ て読むことになるだろうと思っていた(退屈な分類と講釈が延々と続くだけなのではないかとこれまで慎重に構えていたけれど)。

★9月19日(月)

 村上春樹『東京奇譚集』読了。昨晩、就眠前に一篇だけのつもりで読み始めたら止まらなくなり、二時間ほどかけて最後まで読み耽った。ちょうど五 篇のオムニバス映画を観た感じ。でも読んでいる間、映像が浮かび上がることはなかった。NHK教育を小音量でつけていて誰かがピアノ・ソナタを演 奏したり義太夫を唸っていたが、ほとんど耳に残っていない。活字が音となって響くこともなかった。純粋に文章を「読む」ことに集中し、そこから立 ち上がる物語世界に没頭した。至福の二時間。私の頭の中に村上春樹のための場所が確立されているのだろう。短編集としては『神の子どもたちはみな 踊る』の完成度が高いように思うが、村上春樹らしい軽く浅い陰影が忘れ難い読中感を醸しだす小品集だった。

 ここには五つの断面が描かれている。異界へとつながる通路・裂け目、あるいは実と虚、生と死、男と女の「あわい」──「あう」の名詞化、坂部恵 はこれを“Betweenness-Encounter ”と英訳する(「生と死のあわい」,『モデルニテ・バロック』170頁)、村上春樹的形象でいえば「耳」または三半規管。これらの断面における奇譚的出来 事との遭遇がもたらす知覚(平衡感覚)と記憶(時間)の変容の五つのかたちが描かれている。

 誰よりも鋭い耳(34頁)をもった調律師は、十年ぶりの姉との再会に際して「物体と物体とのあいだの距離感」(36頁)を喪失する(「偶然の旅 人」)。
 絶対音感をもつピアニストは、息子が鮫に襲われて死んだ海を眺めながら過去と将来の「時制」を見失う(51頁,「ハナレイ・ベイ」)。
 異界へのドアを探している「私」は、階段の踊り場の大きな鏡に向かい合ったソファに腰を下ろしていて「25分」(102頁)の記憶の消滅を体験 する(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」)。
 人の名前を盗む猿に心の闇を言い当てられた女(みずき)は、身体がほどけ皮膚や内臓や骨がばらけてしまいそうになる(206頁,「品川猿」)。
 そして、何よりもバランスを大切にする女(キリエ)と本当に意味を持つ女性を探しつづける小説家の男(淳平)が登場する「日々移動する腎臓のか たちをした石」では、同名の作中作の中で腎臓石(胎児の象徴?)に支配された女医が現実へのいっさいの関心を失う(146頁)。

 とりわけ興味深いのはこの(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」と「品川猿」の間に配列された四番目の)短編で、そこでは断面が告知する もの──すなわち「肉体における腫瘍みたいに」(180頁)増殖する心の闇=「空白」(154頁)──からの救出ではなく、それとの親密な「バラ ンス」を通じて「自分という人間が変化を遂げる」(152頁)ことへ向けた作家のメッセージが、小説家の苦難(小説制作上の)を救ったキリエの口 を通じて伝達される。

《たとえば風は意思を持っている。私たちはふだんそんなことに気がつかないで生きている。でもあるとき、私たちはそのことに気づかされる。風はひ とつのおもわくを持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内面にあるすべてを承知している。風だけじゃない。あらゆるもの。石 もそのひとつね。彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。あるときがきて、私たちはそのことに思い当たる。私たちはそ ういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく。》(145頁)

 一昨日に続き『モデルニテ・バロック』を五十頁ほど読んだ。
・エスノサイエンス(土着の伝統科学)という言葉(147頁)。
・「あわい」は「語り・語らい」や「はかり・はからい」の造語法と同じく「あう」という動詞そのものを名詞化してできた言葉で、西田幾多郎の「場 所」(動的な述語)につながり、英訳すると“Betweenness-Encounter ”になること(170頁)。それは「生死の連続体」(174頁)あるいは「生死の可逆性」(176頁)、「相互浸透の関係」を含意すること。日本の古い使 い方では「あわい」は男女のペアをさしていたこと(178頁)。また「潮時」という別の日本語で表現できること(178頁)。
・「振舞い」という日本語は「振り」「振りをする」(Mimesis)と「舞い」(Tanz)に分解できること(173頁)。舞いは振舞いの極限 形態であり、ベルクソンが『時間と自由』の最初の方でその見事な哲学的分析をしていること(この本は一度読んだけれど覚えていない)。ポール・ク ローデルが「西洋の劇では何かが起こり、能では何かがやってくる」という言葉を残していること(177頁)。

 ざっと拾い出しただけでもこれだけのネタがある。「あわい=潮時」は今読んでいる木村敏『偶然性の精神病理』の「タイミングと自己」につなが る。全体に漂う西田幾多郎の影は『物質と記憶』にも関連していく。そして「男女のペア」は吉本隆明の「対幻想」(ラカンの想像界)を経て三浦雅士 『出生の秘密』の最終章(595-598頁)にリンクを張ることができる。

 『出生の秘密』に関連して思いついたことがあるので書いておく。『青春の終焉』『出生の秘密』に続く第三部のテーマについて。二つの方向があ る。
 その一は、最終章に出てくる「対幻想」を手掛かりに、生死・男女の「あわい」を描く妊娠小説とか情死小説を素材にして物質への夢を探求するもの (たとえば村上春樹『東京奇譚集』所収の「日々移動する腎臓のかたちをした石」に出てくる腎臓石=胎児の夢)。
 その二は、言語の二重性を手掛かりにするもの。ここでいう二重性は「物質と意味」のそれではなく、坂部恵『モデルニテ・バロック』の底流をなす ロゴスの二つの流れのこと。すなわち「理性(ラチオ)」としてのロゴスと「生きた(神の)息吹にほかならぬことば(ヴェルブム)」としてのロゴス (144頁)。とりわけ「ヴェルブム」(Verbum)──「世界を生み出すないし流出させる力としてのロゴス(ヘブライ語のダーバール)」 (94頁)のラテン語訳であるヴェルブム、(唯識や密教にも近い)新プラトン主義の伝統に根ざし(97頁)、バロックの源流としてのヘレニズム期 の中近東、とりわけビザンチンの伝統を汲んだヴェルブム(143頁)──に着目した言語哲学の書。

★9月20日(火)

 岡野玲子『陰陽師12 天空』読了。このマンガはとんでもない世界へ入ってしまった。中国数学(句股弦の法=ピタゴラスの定理)と平安京造営。 古代エジプトの物語(晴明と真葛の前世の記憶?)。この二つの世界(理と情)に浸食され、ほとんど溶解しかかったコマ割り。マンガでしか表現でき ない俗の世界が透視される。全編に霞のように音楽(雅楽)がたちこめている。晴明対道満の最終決戦(第13巻)へ、物語は緊迫の度を高めていく。

 二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#13読了。パリ篇のテーマがようやく見えてきた感じ。「のだめ」の場合はつい最近#1から#12まで通して 読んだばかりでまだ余韻が残っていたからすぐにその世界へ入っていけたけれど、やはりマンガは一気読みでないと心底愉しめない。

★9月22日(木)

 『レヴィ=ストロース講義』読了。レヴィ=ストロースの講演を京都で聴いたことがある。たしか日文研が主催した催しで、梅原猛の「日本人のあの 世観」についての講演の後だったと記憶している。内容はほとんど記憶になく、日本神話、それもスサノオの名が出てきたのを覚えている程度だが、 20世紀を代表する知性の肉声と肉顔に接したことは貴重な経験だった。本書に収められた三つの講演は1896年、いずれも東京で行われたもの。京 都公演と時期的にはほぼ重なり合うが、記憶が不確かなのであてにならない。以下、本書からの若干の抜き書き。

・「西欧では、人類学的探求は、ひどく異質な文化に触れることを可能にした大航海の影響のもとで始まりました。/一方、当時鎖国していた日本にお いては、それは「国学」によって始められたと考えられ、一世紀後の柳田国男の記念碑的な企てもその伝統につらなっている、少なくとも西欧から観察 するかぎりではそのように見うけられます。」(35-36頁)

・「文化とは、ある文明に属する人びとが世界ととり結ぶさまざまな関係の全体のことであり、社会とは、それらの人びとがお互いのあいだにとり結ぶ さまざまな関係のことをさしています。」(112頁)

・「人間の進化は、生物学的進化の副産物ではないのです。(略)おそらく人類の発生の初期には、直立歩行、器用な手の動き、象徴を用いる思考の能 力、発声および伝達能力など、文化以前の属性が生物学的進化によって選択されたのでしょう。ところが文化が形づくられはじめたとき、これらの属性 を確立し広めていったのは文化なのです。」(156-157頁)

 そのほか、文字のない社会の研究成果がいかに現代社会の問題解決に寄与するかを論じた第二講演でとりあげられた三つのテーマ──すなわち「性」 (家族・社会組織)と「開発」(経済生活)と「神話的思考」(宗教思想)──はとても射程の広い区分だと思った。また、レヴィ=ストロースが人類 学の方法は世阿弥の「離見の見」と通じ合うと述べたことについて、川田順造が巻末に寄せた文章の中で、それはアメリカ文化人類学でいう “detachment”に対応させられるだろう、しかし世阿弥の説は「離見の見にて見る所はすなわち見所同心[けんじょどうしん]の見なり」 (『花鏡』)という言葉に凝縮されているように、「為手[して]が我見[がけん]を離れることによって、見所すなわち観客と心を共有できる場を創 出することにある」のであって、「隔たりを置くこと」(デタッチメント)とは細かいようだが重要な違いがあるのではないかと書いていたこと (236-238頁)も印象に残った。

 『芸術新潮』9月号にレヴィ=ストロースの写真集『ブラジルへの郷愁』が紹介されていた。レヴィ=ストロースその人を撮影した写真集ではなく、 二十代半ばのレヴィ=ストロースが撮影したブラジル先住民の写真集。それまでの民俗学写真とくらべこの写真集のどこが画期的だったのかと問われ て、港千尋いわく「撮影者の視線の低さです。背の高いあのレヴィ=ストロースがしゃがみこんで、先住民の子どもたちを、上から見下ろすのではなく 子どもと同じ低い視線で撮っている。視線は対等になり、撮影者は子どもたちを見ると同時に、子どもたちから見られてもいる。このような視線の対称 性はそれまではほとんどなかった」。

 養老孟司さんが「鎌倉傘張り日記」(『中央公論』10月号)に面白いことを書いている。「言葉と文化」が今回のエッセイの題名。中国語は奇妙な 言葉で、西欧語にも日本語にも冠詞があるのに中国語にはそれがないというのだ。日本語に冠詞があるとは初めてきいた。養老孟司の説明によると、 「昔々おじいさんとおばあさん」と来ればそのあとは「が」である。次に「おじいさん」と来れば「は」である。先の「おじいさん」は概念としてのお じいさん(ア・おじいさん)で、山に芝刈りにいくのは具体的かつ感覚的なおじいさん(ザ・おじいさん)である。英語の不定冠詞、定冠詞と同じ働き を日本語の助詞「が」と「は」がはたしているのである。中国人が日本人というとき「ア・日本人」(概念的なもの)と「ザ・日本人」(感覚的なも の)の区別がない。だから個々のケースが全体とみなされやすい。中国が政治的であり原理的であるのは中国語の性質によるのだ。以下略。

 昔読んだ本の中で、何が正義かをめぐる個々の正義観は千差万別でもそこには共通の正義の概念がある、といったことが書いてあった。(昔読んだ本 というのが井上達夫氏の『共生の作法──会話としての正義』であることは間違いない。でも人にやってしまって今手元にないので議論の詳細が確認で きない。)言葉の使い方は逆転しているが、ここで言われる「正義観」が不定冠詞のつく概念的なもので「正義の概念」が定冠詞のつく感覚的なものと 考えてみると面白い。この場合の「感覚」はたとえば「生命感覚」とか「宇宙感覚」などと言われるときの根源的かつ普遍的な感覚を表現している。あ るいは数感、哲覚のたぐい。個別であれ普遍であれ何かがたしかに実在しているという感覚。

 これに関連して(いるかどうかはともかく)レヴィ=ストロース講義の一節を想起したので抜き書きしておく。《哲学的あるいは科学的思考が概念を 作り、概念の連鎖によって論理を進めるのに対し、神話的思考は、感覚的世界からとりだされたイメージによって展開されます。/神話的思考は、観念 のあいだに関係を設定するかわりに、天と地、地と水、光と闇、男と女、生のものと火にかけたもの、新鮮なものと腐ったものなどを対置します。こう して、色彩、手ざわり、味わい、臭い、音と響きといった感覚でとらえられる質を用いた論理体系が創り上げられるのです。神話的思考はこれらの質を 選び、組み合わせ、対置することによって、なんらかの形で暗号化されたメッセージを伝えるのです。》(119頁)

★9月24日(土)

 本村凌二『多神教と一神教──古代地中海世界の宗教ドラマ』。あとがきに、三十年におよぶ古代史研究のなかで「つねづね訝しく思っていたことが ある。それは古代の作品のなかでも古いものになればなるほど、なぜ神々の世界があれほど身近に感じられたのかという点である」と書いてあるのを読 んで、かの『神々の沈黙』を連想した。もしやと思って巻末の参考文献を見てみると、ちゃんと掲げてある。この人の本は『ローマ人の愛と性』を読ん だことがある。あれはとても面白かった。

★10月1日(土)

 『バルバラ異界』は二年前に第1巻を読み、いつかまとめて読むべしと我慢していた。第4巻の帯に茂木健一郎さんの推薦の辞が載っていた。いわく 「読んでいると、ふわっと心地よく意識がゆらぐ。その波が、切ないラストまで一気に私を運んでいってくれた」。
 萩尾望都対談シリーズ「科学者とお茶を」[http://www.poplarbeech.com/kagaku /kagaku_001.html]で萩尾望都が語っている。「茂木さんが「ふあっと」と、おっしゃったけど、女の人の作品は境界(枠)が非常に 曖昧なのです。特にコマとコマとの境界が、けっこう曖昧で、主人公がいきなりコマをはみ出して等身大で出てきても、アップで出てきても、あんまり 読者は驚かない。男性の漫画は、むしろコマからはみだすほうが珍しくて、コマをきちっと割っていきます」

 石川忠司との対談(『群像』10月号)で保坂和志が「漫画って、コンセプトを伝えやすいよね。小説は、細かく書くと、自然、コンセプトがあやふ やになるから」と言っていた。このことと関係するのかどうか分からないが、萩尾・茂木の対談に次のくだりがでてくる。

《茂木》さっきおっしゃってましたよね、漫画では「登場人物があって、背景では何か別のストーリーが流れている」と。登場人物だけを見るんじゃな くて、その背景でもまた別の出来事が起こっているのを読み取る――というのに相当することが、何かあるなぁ、と。だから萩尾さんの『11人い る!』も、ハードSFとしても読めるんだけど、読後感としてはストーリー・ラインの背後にある空気感、世界観といった感覚的なものが中心を占めて いる感じですよね。あらすじだけをまとめたら、本質的なものが抜け落ちてしまうと思う。これは他のジャンルでは見たことない気がします。という か、この感じは文字だと表せない、漫画じゃないと表せないんです、きっと。
《萩尾》ううん、すごい、そうなんですか。それは、マンガの評論の新しい方法として、見逃せないポイントですね。茂木健一郎著の、漫画はこう読 む、誰も知らなかった新しい読み方、なんて本、読んでみたいですねえ。

 養老孟司・牧野圭一(京都精華大学芸術学部教授)の対談『マンガをもっと読みなさい──日本人の脳はすばらしい』が出ている。本屋でざっと立ち 読みしてだいたいの感触はつかんだつもりだけれどほとんど思い出せない。茂木健一郎著『漫画とクオリア──漫画はこう読む、誰も知らなかった新し い読み方』が出たら、あわせて読み直そう。

★10月3日(月)

 前田英樹『倫理という力』読了。プラトンは『パイドロス』で正確に考える人(知恵を愛する人)を「巧みな料理人」に譬えた(82頁)。ベルクソ ンはこの比喩を愛好した。著者もこれを愛好する。だから倫理を語る本書にトンカツ屋のおやじが登場した。「トンカツ屋のおやじは、豚肉の性質につ いて、油の温度やパン粉の付き具合について随分考えているに違いない。いや、この人のトンカツが、こうまで美味いからには、その考えは常人の及ば ない驚くべき地点に達している可能性が大いにある。このことを怖れよ。この怖れこそ、大事なものである。」(8頁)なぜか。「怖れることができる には、自分より桁外れに大きなものを察知する知恵がいる」(10頁)からである。

 著者もまた「巧みな料理人」として倫理という食材を捌く。その旨味、すなわち「潜在的道徳」(20頁)や知性でも本能でもない「第三の能力」も しくは強い大きなひとつの力としての「倫理の原液」(30頁)をひきだすために。倫理とは人間の業である。しからば人間とは何か。道具を使う動物 である。言語を操る動物である。この最初の分割(捌き)が本書の基調(風味)をかたちづくる。

 道具は自然との接触において技術という知恵をうみだす。美味いトンカツを揚げる技とスピノザを註釈する技倆とが同じ価値で出会うような場所で成 り立つ技術、その技術を継ぐことが同時に人間というものを継承することであるような技術(83頁)。それは木(自然)に学ぶ宮大工の棟梁の信仰と 倫理学(152頁)につながっていく。「これは職人だけの領分ではない。生活の至る所に開けた自然への通路である。自然は私たちの知性に、ほんと うは何をさせたがっているのか、宮大工はどうやらそれを知っている。「物の心」、「人の心」を知る彼のやり方が、そのまま彼にその知恵を育てさせ る。このような知恵が発する声に、私たちは耳をすませたほうがよい。その声の向こうにもっと低いもうひとつの声が聞こえる。それは、自然が知性に 命じる声だ。道具を用いる知性が知性を超えて、ひとつの黙した倫理に達する路が、ここにある。」(160頁)

 言語は知性の発明品ではない。知性(個体の能力)が本能(集団の能力)から完全に分化したその地点に、言語は知性と共にすでに存在していた (114頁)。著者はそう考える。まず知性のエゴイズムから共同体を防衛するために、死後の世界や転生の物語を言葉や絵図で仮構する「静的宗教」 が生まれた。しかし、宗教は知性に対する自然の防衛反応である以上にもうひとつの源泉をもっている。すなわち「エラン・ヴィタール」(ベルクソン ではなく著者自身の言葉でいえば「倫理の原液」)。ある「特権的な魂」によって告げられる「あなたの隣人を愛せよ」というただそれだけの言葉のう ちに集約される「動的宗教」。「静的宗教のなかに点火されて人類のなかに燃え続けてきた何か、消えかかっては再燃し、飛び火していった何か、宗教 と呼ぶにはあまりに単純な言葉でしか表わすことのできない一つの力、私たちの社会を世界規模の危機から救うものは、まずこれだろう。これを動的宗 教の本質と呼ぶかどうかはどうでもよい。この力は、黙していて、個体の知性の上に、知性以上の強い動力としてやってくる。」(129-130頁)

 こうして調理の仕上げの段階を迎える。自分より桁外れに大きなものへの怖れ。自然が知性に命じる声。知性が知性を超えてひとつの黙した倫理に達 する路。個体の知性の上に、知性以上の強い動力としてやってくる沈黙の力。「私たちの生の目的は、自然という〈ひとつの生〉が創り出す目的と同じ 方向を向いている。私たちの理性は、この目的が何なのかを問うことはできる。が、明確な答えを引き出すことはできない。「在るものを愛すること」 だけが、ついにその答えになる。答えて、その目的に応じる行為となる。それなら、この答えがうまく出るような生への問い方を、私たちは絶えず工夫 しているほうがよい。それが、他のどの動物でもない、人間として生きるということではないのか。」(185頁)

 生の究極の目的は、決して忙しがらずに美味いトンカツを揚げること、毎日白木のカウンターを磨き上げながら自分の死を育てていくことである。人 はこの言葉に説得されるだろうか。「在るものを愛すること」という言葉は在るものを愛することへと人を動かすだろうか。もしそうであれば、ここに ひとつの奇跡が成就したことになるだろう。著者の綴る言葉は熟成したソース(倫理の原液)に浸された芳醇な料理としてさしだされる。

★10月7日(金)

 瀬名秀明『デカルトの密室』で、「中国語の部屋」に幽閉された尾形祐輔が「これは機械の振りをするのではない、人間の振りをするのでもない。本 当にぼくが人間であることを明示する戦いだ」「ぼくは文字情報だけで生身の人間であることを証明しなければならない」(100頁)と独り言を呟い ている場面を読んでいて、チューリング・テストで検証される「AIの心」とは心敬が「艶」と呼ぶ「歌の心」と同じ種類のものなのではないかと考え た。

 歌の心、つまり文字で表現された作品の心。それは比喩ではない。心は物に即して語られる。心は物とともに在る。物を離れて心はない。心が物に宿 るのではない、物の存在が心なのだ。(物来って我を照らす。)ここで昨日の会合でもう一つ成果があったことを思い出した。実験人文学というアイデ ア。それは自然科学の実験や社会実験とは異なる。価値を創り出すこと。文化、伝統、歴史、共同性その他、考究の対象を自ら創り出すこと。歌を詠む 作者の心、作品そのものにあらわれた歌の心、歌を鑑賞しこれに句を付け評定する者の心。自らの身体のうちにこの三つの「心」のはたらきを見出すこ と。実験神学。実験形而上学。

 詩人の富哲世さんから『イリプス』16号が届く。富さんとは先日、偶然に再会した。「移動」という詩が掲載されていた。「隧道横のバス停で/あ ふれる日差しに心まみれて/風の運ぶ海の落葉をぼんやり見ていた」。なにかが終わってしまって、世界は静謐な諦念のようなものにくるまれている。 世界はじつは狂っているし、壊れているのだが、そのことに気づく人はいない。いや、気づいているのだが、なにに気づいているのかをだれもしらな い。言葉は心とのつながりを失って、落葉のように、秋の日差しのように、ひらひら、キラキラと砕けていく。「仕方ないなぁ、わたしたちの/間違い さがし」。富さんの詩の言葉は、かつての自らの肉を切り刻んでいくような無邪気な凶暴さを失っている。屍肉が放つ死臭を帯びている。だが、その香 は芳しい。

★10月9日(日)

 萩尾望都『バルバラ異界』全4巻を読了。バルバラの謎が明かされる最終巻を読んでいる間、とりわけ夢先案内人・渡会時夫の記憶が上書きされてい く場面では、私自身の脳内過程が二重化されたかのような眩暈に襲われ、軽い頭痛と嘔吐感をさえ感じた。読み終えた刹那、一瞬のことだったけれど、 目に見える部屋の情景が夢の世界の出来事のように思えた。北方キリヤへのトキオの思いが切なく迫ってくる。自我の孤独と「ひとつになること」。

 記憶の「上書き」というと、ボードレールが『人工楽園』で人間の脳髄や記憶に準えた「パランプセスト」(書かれた文字を抹消して重ね書きされた 羊皮紙)を想起する。夢と現実の重ね描き。ここで「夢」とは「未来」(死後の世界)のことで、エズラ・ストラディの語るところによると、「人間の もつ抽象思考能力は未来の出来事に影響をおよぼす いわばみる夢は──実現するのだ」(第4巻60頁)。この言葉はこの作品そのものの成り立ちを 告げている。

 いや、漫画そのものがパランプセストなのだ(あるいは日本の藝能、文藝に通底するものとしてのパランプセスト)。岡野玲子の『陰陽師』と萩尾望 都の『バルバラ異界』。同時期に完成したこの二つの作品世界を縦横に遊弋し、そこに重ね描かれた観念や形象を存分に論じきった批評を読みたい(書 きたい)。とりあえず『バルバラ異界』については、先の抽象思考能力云々と死者の心臓に宿る記憶物質(福岡伸一『もう牛を食べても安心か』を参照 すべし)、そしてケルトが手掛かりになる。「わたしの一族の発生は古い エルベ川ぞいで鉱脈をさがしながらヨーロッパを南下したケルトの古い末え いだ……男も女も早く老いた 20歳をすぎると老人になった 背も低く そう…「白雪姫と七人の小人」の物語の鉱脈堀りの小人のような ハハ ハ…」(同53頁)。

★10月10日(月)

 前田英樹さんの『倫理という力』に、物の学習と記号の学習という対になる言葉が出てきた。以下は私の勝手な議論なので、前田英樹さんの議論とは ほとんど関係ないが、この「物」と「記号」を養老孟司さんがいう「情報」の仲間だとするとどういうことになるか。「情報」とはスルメやDNAのよ うに停止し止まったもの、動かないもの、変化しないもののことだ。養老「人間科学」においてこれと対になるのが「システム」で、それはイカや細胞 のようにひたすら動いて変化していく。

 では、物や記号と対になるもの、スルメに対するイカに相当するものは何かというと、それは物質、生命、精神である。なにか決まったこと、決着が ついたことのように書いたが、これは私がそう考えているだけのこと。説明抜きの「考え」の羅列をつづけると、生命と物質の界面で立ち上がるものが 「物」で、生命と精神の界面で浮かび上がるのが「記号」。立ち上がるとか浮かび上がるといった言葉の使い分けにはあまり意味はない。そもそもそう いう言葉で表現できることなのかどうかも不分明だが、ほかの言い方や概念が思い浮かばないので仕方がない。

 話が複雑になるが、ここで生命というシステムを二つに分類する。集合的生命(種)と個体的生命(個)。気分としては、前者が物質システムとの界 面に、後者が精神システムとの界面により多く分布している。太極図(白黒の巴がからまりあった円)を想像してもらえればいい。物質システムと集合 的生命(より精密に言うと「集合的生命の濃度が高い生命システム」)との界面に立ち上がる物情報は「食」とか「性」にかかわる呪術性を帯びてい る。ラカンの想像界。あるいは王朝和歌。個体的生命(「個体的生命の濃度が高い生命システム」)と精神システムとの界面に浮かび上がる記号情報は 「名」や「死」にかかわる抽象性を帯びている。ラカンの象徴界。あるいはアレゴリー。

 いったい何を書いているのか自分でもよく分からなくなってきた。ベルクソンの純粋知覚(物質過程)は物情報に、純粋記憶(精神過程)は記号情報 に関係している。生命システムの二分類は、ベルクソンの進化論や宗教・道徳論に関係している。というか、そのように関連づけて考えようとしている のだからそれは当たり前のことなのだが、ここで挫けずもう少しがんばってみよう。

 物情報の「意味」(アフォーダンス)は物質システムと生命システムの界面に、すなわち「環境」のうちに立ち上がるものであって、その意味を固定 する仕組みとして脳が設えるものが時空構造である。この時空構造を記号情報の局面に、つまり生命システムと精神システムの界面に浮かび上がる記号 情報の意味(魂)にあてはめようとすると、そこに様々な形而上学的アポリアが発生する。たとえば、無限に分割できる空間や時間の観念。エレア派の ゼノンのパラドクス。

 このあたり、養老孟司『日本人の身体観』からの剽窃あり。古い仏教の身体思想の論理が「自己相似」にあることを論じた「仏教における身体思想」 に、ウパニシャッド哲学における絶対者は万有に遍在するというくだりがある。《これはキリスト教の神も同じである。万有に遍在するものとはなに か。私は脳しか認めない。それなら、脳が万有に遍在するとして認めるものはなにか。それは時空である。もっとも経験に明瞭なものは、空間である。 空間は万有に遍在するからである。実際、神が遍在するというときには、一つには空間を意味し、もう一つには時間を意味している。神はどこの場所に も、どの時点を区切っても、そこに存在している。それが、「神の内容は時空だ」と私が言うことの意味である。》(236頁)

 神の概念は時空と結びついてわれわれの脳のなかにある。時空は「図」に対する「地」としての特徴を備えている。すなわち時空の無境界性と透過性 (遍在性)。「時間も空間も、すべての物事を「通り抜けて」しまう。われわれの方が両者を通り抜けると感じる人もあろう。どちらにしても、さした る変わりはない。」われわれの方が時空を通り抜けると感じる人はニュートンの絶対空間に共感し、時空がわれわれを通り抜けると感じるならアイン シュタインが定式化した時空にリアリティを感じる。《こうして、時空の観念が強い存在感と結合して、神の観念が生ずる。時空の観念も、存在感も、 生物が生きるためには基本的な観念と言わざるをえず、神の観念が人類に普遍的であるのは、そのためであろう。》(237-238頁)

 ここに出てくる「存在感」は、数学者にとって数学的世界は実在する、哲学者にとっては抽象思考こそ実在する、と言われるときの「実在感」と同義 で、世の中に心に対して実在感を持つ人や脳が実在する人(唯脳論者)がいておかしくない。《心や脳の実在感が、心身論の紛糾の背後にあることは、 間違いない。私はそう考える。しかし、学問はしばしば普遍性を要求するので、考えているのは本人の脳だということが、伏せられてしまう。こういう 問題を議論するときには、正直なところ、理屈はともかく、本人の実在感はどうなのか、という問いを抜きにするわけにはいかない。》(「西欧の心身 論」295頁)

 どこに行き着くのかほんとうに見えなくなった。「声」「顔」「身」につづいて「名」をめぐる(未完の)仮面考をいよいよしあげなければいけな い。私の直観がそう告げている。仮面の素材や形態や機能には、なにかしら原始的とでもいうべき感覚に根ざした根源的な「記憶」が蓄えられている。 「真正の」哲学的思考のうちには、そのような「仮面的なもの」が脈々と流れ、あるいは突発的に噴き出している。

 仮面的なものの原初的「形態」は、複数の穴をもった管(多孔体、たとえば笛や藁)や内部世界をもった器(たとえば洞窟や盤・椀・壷、壁面=表 層=皮膚に刻印された動物系・植物系の装飾を含めて)であって、それらが「音=声」「顔=貌」「身=実」といった物質の三態に準えることのできる 「機能」を備えた時、仮面的なものの原型がほぼ出来上がる。さらに物質の第四相、つまりプラズマに相当する第四の機能としての「名=徴」をめぐる 「仮面の記号論」(パースのインデックス・イコン・シンボルに次ぐ第四の記号としてのマスク、あるいはイェイツの「仮面」をめぐる考察が拓く世 界)が仮面的なものの実質と射程を余すところなく開示する云々。

★10月15日(土)

 ユーラシア旅行社というところから出ている『風の旅人』15号(2005年8月1日)を買った。前々から気になっていた雑誌。なによりも写真が 素晴らしい。執筆陣もけっこういい。近所の本屋に一冊だけ置いてあるのをみつけて買ったのだが、これは1号前の分で、いまはVol.16がでてい る。三宮のジュンク堂にバックナンバーが揃っていた。読んで気に入ったら順次買い求めていこう。佐伯剛編集長の「風の旅人は、心の旅に誘います」 という文章をみつけたのでペーストしておく。

《前略、お忙しいなか、失礼致します。/昨年2003年の春、弊社は、『風の旅人』というグラフィック・マガジンを創刊致しました。2ヶ月に一度 の発行で、この度第16号が2005年10月1日以降、全国の書店で発売されます。/『風の旅人』は、これまでの日本にはない地球規模の大自然や 人間のドラマを取り上げる“心の旅の雑誌”です。毎号、桁違いの映像美と言葉の共演によって、世界との新しい関わり方を提示していきます。/情報 が溢れ複雑怪奇に見える時代に、ヒトが生きることの原点にたち返りたいというのが、創刊の動機であり、編集の核です。/目の前を流れていく光景を ただ何となく見てやり過ごすという、テレビ風の受け身の情報文化に慣らされた時代に、思いを籠めて対象を見つめ、しっかりと向きあっていく、能動 的な媒体にしようと考えています。/単に時代の気分を匂わせるものではなく、何かの役に立つかどうかでもなく、未来につながっていく何かを、一人 称できっちりと伝えていきたいのです。/日頃、ご多忙のことと思いますが、『風の旅人』で、しばし現実の向こう側に旅立っていただければ幸いで す。》

 岡野玲子『陰陽師13 太陽』読了。読み終えて言葉を失う。「あとがき」に綴られた文章を読むにつけ、岡野玲子はとりかえしのつかない時空の彼 方にとんでいってしまった。この作品は白い光と化した音楽をかたどっている。『music for 陰陽師』(ビクターエンタテインメント)の「覚書」に記された著者の言葉を引用しておく。(このCDには、『陰陽師』完結のあかつきにこそ聴かれるべき祝 祭曲がたちこめている。)

《真の音楽とは、高等魔術である。そしてそれは、弾け散るような白い光の姿をしている。このCDに関わっていた一年の間、地球上に生まれたがゆえ に、ダークサイドではあるが、誇り高い怨霊も、存在する。勝利の曲は勝利の喜びを知るものの手で作られ、勝利の喜びを知るものの手によって奏され る。そんな言葉が頭の中を流れた。陰の極みと陽の極み両極に共通してあるものは、美と誇りと、存在することの祝福と、喜びである。雅楽の真髄は、 強靱である。》

★10月16日(日)

 昨晩、『陰陽師』を読み終えて、箸休めではないが『孔子暗黒伝』を少し読み進め、結局、今日の昼下がり、『music for 陰陽師』(ブライアン・イーノではなくて伶楽舎の雅楽の方)を聴きながら一気に読み終えた。読後、眼精疲労と軽い頭痛に襲われた。文庫では活字が小さすぎ る。描線が濃すぎる。少年ジャンプ掲載時に断片的に読んだ記憶があるが、もう少しのびやかな印象だった。奇譚、伝奇、異説(トンデモ)本としての 面白さは格別だが、なによりマンガとしての出来が破格。どこか身心の歪みと時空のズレを内蔵した描画とぎくしゃくしたストーリー展開が読者の想像 力をかきたてる。

 『孔子暗黒伝』を読んだら『暗黒神話』も読まなきゃダメ。だれかがブログにそんなことを書いていた。で、そのふたつを読んだら『西遊妖猿伝』も 読まなきゃダメとも。で、諸星大二郎『暗黒神話』【¥600】を買った。続けて読もうと思ったが、眼と頭のことを考えてひかえた。

 『ミーツ・リージョナル』(11月号)に「街人の「イマヨミ」読本。」という特集があって、筆頭に内田樹さんの「脳内リセット故人伝」というイ ンタビュー記事が載っている。そこにとりあげられた三冊の本のひとつが白川静『孔子伝』で、諸星大二郎『孔子暗黒伝』と酒見賢一『陋巷に在り』の 知られざる原作本として紹介されている。「読んでびっくり、世界は「呪い」に満ちている。」ちなみに、他の二冊は『氷川清話』と『明治人物閑 話』。

 古代社会において、呪い(呪術)とは政治である。この「呪い」でつながるのが、今日図書館から借りてきた丸谷才一『恋と女の日本文学』(講談 社)。あとがきを読むと、著者は、詞華集を手がかりにして文学と共同体の関係を論じた『日本文学史早わかり』(1978年)が本の形にまとまった ころ、三部作仕立ての日本文学史を書こうと思っていた。ケンブリッジ・リチュアリストたち(フレイザーほか)およびその弟子筋に当る折口信夫を参 照して日本文学と呪術との関係をあつかう第二部。日本文学が恋愛と色情に特殊な関心を寄せていることに注目した第三部。第二部は『忠臣蔵とは何 か』に、そして本書が第三部にあたる。

 講演をもとにした二編、「恋と日本文学と本居宣長」と「女の救はれ」が収められている。前者を読んでいると、王朝和歌でもっとも重きをなした恋 歌の伝統が俳諧にもうけつがれ、「芭蕉の名声のかなりの部分は、恋の座の付けとその捌きとによるものであった」(45頁)ことの例証として、越 人・芭蕉の両吟「雁がねの巻」(『阿羅野』)の話題が出てきた。「きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉/かぜひきたまふ声のうつくし 越 人」。『完本 風狂始末』に評釈がある。

 中沢新一『アースダイバー』読了。ほぼ五ヶ月、手塩にかけて断続的に読み継いだ。以前、仕事で東京へ出かけた際、空き時間をつかった散策のガイ ドブックとして携帯したことがある。その時は、渋谷・明治神宮から東京タワーまで、全体のほぼ半分ほどの文章(「水と蛇と女のエロチシズム」と 「死の視線」に彩られた土地とモニュメントの話題、とりわけ東京タワーをめぐる叙述は、後半の浅草をめぐる話題とともに本書の白眉)に目を通した ものの、結局、実用書としては使えなかった。

 霊的スポット探索のための手軽な道案内としては使えなかったけれど、その後、折りにふれ読み進めていくうち、この白川静の漢字学やベンヤミンの 『パサージュ論』にも通じる作品のうちに、「中沢新一の方法」ともうべきものがくっきりと輪郭をあきらかにしていることに気づいた。その方法と は、記憶や夢や観念の物質(アマルガム)、つまり「泥」をこねて「遊び」に興じることである。

(泥は存在のエレメントである。坂口ふみ『〈個〉の誕生』によると、ラテン語 substantia の語源となり、persona とも訳されたギリシャ語の「ヒュポスタシス」には古く「固体と液体の中間のようなどろどろしたもの」という意味があった。また、折口信夫『日本藝能史六 講』第四講によると、遊びは日本の古語では鎮魂の動作であった。)
 泥をこねて形象をつくること。あるいは、形象のうちに泥をイメージすること。王朝和歌の歌人のように。あるいはサイコダイバー、ドリームナビ ゲーターのように。それが中沢新一の方法、つまりイメージ界のフィールドワークである。松原隆一郎さんが朝日新聞の書評(7月31日)で「文学的 想像力」とか「遊び心」といった言葉を使っている。まことに適切な評言だ。

《興味をひくのは、この語[ヒュポスタシス]のもっとも早期の意味に、液体の中の沈澱とか、濃いスープとか、膿というものが見られることである。 沈澱とは流動的な液体が固体化したものを言い、おそらくそれから濃いスープや膿などの液体と固体の中間のようなどろどろしたものという意味が出て きたのであろう。そしてこの基本的な意味は、哲学的に用いられるようになっても、残りつづけていると思われる。ギリシア語の『七十人訳聖書』その 他の、「存在を得る」という意味にも、非存在から存在が現われてくるという、動的変化のイメージがある。これは液体から沈澱が生ずる時のイメージ と共通のものである。そしてレヴィナスが使うイポスターズにも、この「液体の中に固体が現われてくる」というイメージは生きている。》(『〈個〉 の誕生』116-7頁)

 ほぼ日刊イトイ新聞に、中沢新一と糸井重里とタモリの鼎談が載っていた。以下、若干の抜粋。「中州産業大学&ほぼ日刊イトイ新聞 presents はじめての中沢新一。アースダイバーから、芸術人類学へ。」[http://www.1101.com/nakazawa /index.html]

・第7回「資本主義が生まれる瞬間」から。
《タモリ》簡単な埋葬の時代と古墳を作る埋葬の時代は、死の認識が変わりますよね。
《中沢》根本的に変わるんじゃないですか。
《タモリ》変わりますよね。死の認識がはっきりするということは、おおきな意味でいえば、資本主義のもとがあるかもしれませんね。
《中沢》そのとおりですね。死の認識がなければ資本主義は動かないですからね。縄文時代は村があって、村は円環じゃないですか。その真ん中に、埋 葬していたから死体は身近ですよね、夜になるといっしょにおどるわけで。それがやはり墓が離れると……資本主義になってきます。

・第11回「なんか、皮がムケました」から。
《糸井》『アースダイバー』って、どのぐらいかかってつくったの?
《中沢》アースダイバーは一年。『週刊現代』の連載だよ?
《糸井》(笑)それもすごい。
《中沢》雑誌の中でも、だんだん、うしろにまわされてった(笑)。最終的には『特命係長只野仁』と『女薫の旅』にはさまれちゃった連載だよ。
《糸井》(笑)只野仁の隣にアースダイバーが連載されてたんだ!連載しようと思った人はえらいなぁ。(略)『只野』を読んでた人の心を冷まさない でくれという?(笑)
《中沢》(笑)そうそう。読者を冷まさないで、そのまま神崎さんの『女薫』に突入できるように。

★10月20日(木)

 瀬名秀明『デカルトの密室』読了。『BRAIN VALLEY』との比較でいうと、小説あるいは物語としては心底愉しめなかった。作者が考え抜いて仕掛けた(であろう)謎やパズルも、自力で解いてみたい という意欲がかきたてられない。他者の心が理解できない天才科学者フランシーヌ・オハラやクールな進化心理学者一ノ瀬玲奈といったキャラクターは けっこう魅力的だと思うが、車椅子のロボット学者兼作家の尾形祐輔やもう一人の天才真鍋浩也といった(やや生彩に欠ける)キャラクターが表にたっ て十全に造形されることはない。冒険譚の主人公ともいえるAIのケンイチは、わが子のように愛おしく思えない(当たり前だが)。

 登場人物に感情移入ができず、かといって、ユウスケと祐輔、レナと玲奈の場面ごとの書き分けや視点の移動、映画的手法を駆使した叙述、メタ・ フィクションの企みのうちに巧みにはりめぐらされた(に違いない)ミステリーにも心底心が動かされない。要するに作品が性に合わなかった(たぶん 私の小説観・物語観が頑なであったか古くさいものであったかのいずれかなのだろう)にもかかわらず、最後まで飽きずに(それどころかしばしばクー ルな興奮を覚えながら)読み進められたのは、やはり題材と趣向と素材に心をそそられたからだ。細部にちりばめられた「考察」が素晴らしかったから だ。これはもう小説や物語を読んでの感想からはかけ離れている。とりわけ印象に残った第三部の真鍋浩也と尾形祐輔との「対決」のシーンから、感銘 をうけた箇所を抜き書きしておく。

《「人間は己の視点から決して逃れられない」真鍋が言葉を継ぐ。「なぜだと思う。物語こそが自意識であるからさ。なぜ人間には意識がひとつしかな いのか。無意識の状態が存在しているのに、なぜ人間はそれを自分で知覚できないのか。自意識とはいったい何だと思う。ぼくが以前から考えていたこ とはこうだ。つまり自意識とは、身体という筐体を介して起き上がってくる物語なんだよ。人間は自らの身体という筐体をいったん潜り抜けることで、 自らの意識を認識する。自分の意識を知覚するには、いったん身体を通らなければならないんだ。だがその意識は身体という物理現象を擦り抜ける瞬 間、時間という要素を取り込んでしまう。そのプロセスは否応なしに人間の意識を物語化させる。自意識は身体を通り抜けた瞬間、“物語”というひと つの塊に収束してしまうんだ、まるで波動関数の振る舞いのようにね! それが人間の宿命であり、意識のハード・プロブレムの核心に他ならない。逆 にいえば物語を受け入れる視点こそが自意識であり、その物語を紡ぐ鮮やかな質感の集合こそが〈私〉という存在なんだ。ではその鮮やかさとは何だ。 それはどうやって獲得されるのか。身体機能を介した体験と自らの記憶との繋がり。そこには身体という檻の間を行き来する知覚作用が不可欠だ」》 (430-431頁)

《「ぼくたちは物語の中に入り込むと、〈私〉が切り離される」ぼくは腹に力を込めて告げた。「物語の中に描かれた自分は、自分でないような気がす る。喋った言葉が一字一句同じであっても、完璧で的確な描写であっても、正確に事実を伝えていたとしても、どこかでぼくたちはそこに書かれた自分 に違和感を持つ。物語に書かれれば書かれるほど、ぼくたちの〈私〉は物語から切り離されてゆく。しかしさらにその状態が続くと、そのことさえも物 語に取り込まれ、いくら抗おうとしても跳ね返され、やがてぼくたちは責任を呑み込んで、それでもよいのだと思い始める。そのときぼくたちの〈私〉 は物語にようやく入り込む。(略)デカルトの“われ考える、ゆえにわれあり”が意識中心主義だと一般に批判されるのなら、フランシーヌは考えたに 違いない、そこからさえも抜け出さなければならないと。彼女の瞳が力を持つその瞬間を見たぼくならわかる、デカルトの意識中心主義を最後の一点ま ですべて排し、自らを殺したとき、彼女の私が新しい〈私〉になるのかもしれないと……」》(432-433頁)

 小説を書くこと(ひとつの時空と世界観を立ち上げること)、物語を紡ぐこと、あるいは物語の中に入ること、物語という密室の中に他者を取り込み 閉じ込めること。人工知能(ヒト型ロボット)をつくること、あるいは子どもを産み育てること、子どもが大人になること、子どもを世界観という密室 の中に閉じ込めること。この二つの問題系が「本当に深い意義のあるお話」(『指輪物語』のサムの言葉)の中で渾然と一つに溶け込んでいく。

 物語とは、いや複数の物語(の可能性)を一つに収束させる小説とは、量子コンピュータのはたらきを夢見るための装置だったのかもしれない。ケン イチは小説を書くことを願いつづけた。あるいは『デカルトの密室』のうちにはケンイチが書いた小説が(尾形祐輔が書いた物語とともに)こっそりと 挿入されていたのかもしれない。

 最後に、この作品の最深部にしつらえられた自由意志をめぐる問題系に関連して、本書の第三部を読みながら私の脳内にしきりに浮かんでいた言葉を 記録しておこう。それはウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の草稿(1917年1月10日)に綴った次の文章だ。「自殺が許される場合は、全 てが許される。何かが許されない場合には、自殺は許されない。このことは倫理の本質に光を投じている。というのも、自殺はいわば基本的な罪だから である。」

★10月21日(金)

 茂木健一郎さんのブログで講談社文芸文庫版『小林秀雄対話集』がとりあげられていたのに刺激されて、いずれ入手することになろうと思っていた同 本を買い求めるべく決意をかためて書店に出向き(といっても毎日立ち寄っているのだが)、でも心変わりして同じ文庫の『柳田國男文芸論集』を購 入。収められた二十八篇のうち「歌と「うたげ」」を読んだ。ウタは本来ウタワルルものであったが、古今集と源氏物語のあいだで歌というものに対す る考え方が一変した。「書いた文字によって古今集を味わおうという気持、これが古代と我々とを枳殻[からたち]の垣根の様に遮断している。」 (172頁)それにしても柳田國男の文章は読みにくい。若い頃なんど挑戦し、いくど玉砕したことか。

★11月3日(木)

 昨夜、大阪で某懇親会に参加。ひさしぶりの談論風発を愉しみ、一晩ぐっすり眠って季節の変わり目の体調不良がすっかり恢復した(と思ってい た)。ひさしぶりに丸一日なんの予定も入っていない休日の朝を迎えて気力充実、読みかけの本を一掃せんと意欲を燃やしたものの、結局読了できたの は高橋睦郎『読みなおし日本文学史──歌の漂泊』と荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅──歌われた幻想の地へ』と本村凌二『多神教と一神教──古代地中 海世界の宗教ドラマ』とジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論──宇宙の意味と表象』の四冊で、いずれもこれまでに九割がたは読み進めてきたもの を仕上げただけのこと。それだけですっかりくたびれてしまった。

 読み終えた本はそれぞれ面白かった。とくに『読みなおし日本文学史』と『生命記号論』は後を引く。いろいろ抜き書きしながら考えを深めてみたい ことがあったけれど、どうにもその気になれない。星野之宣『宗像教授伝奇考』第一巻を買って少し読み、昔入手してまだ一度しか、それも断続的にし か眺めていなかった『リバー・ダンス』をじっくり通して観て(根源的な感動というと大袈裟だけれど、躰の奥底にとどく深い感銘を受けた)なんとか 心身の疲れを癒した。それにしてもなぜこうも疲れるのだろう。

 本村凌二『多神教と一神教』について。人類の文明史五千年のなかで、じつに四千年は古代なのである。あとがきに刻まれたこの一文に、著者の古代 地中海世界に寄せる思いが込められている。淡々とした筆致で綴られたこの古代の民族や社会の概念と感性の歴史、神々と言語の物語を手にして、単な る知識や情報の入手に汲々とするのはもったいない。できればゆったりとした時間の流れとともに、この小冊子の紙背から漂うエキゾチックな香を心ゆ くまで堪能し、はるかな土地と時の人々に思いをはせてみたい。それが同時に現代を生きる人々の、つまり私たちの心性のあるがままを遠眼鏡を通して 見ることにもつながるかどうかは、また別の問題。

 本書の内容をかいつまんで紹介することなどできない。なにしろこの本自体が、紀元前一千年ごろを境に古代人の心性が大きく変化し、それとともに 一神教への道が開いていったのはなぜかという一点を主題に、四千年におよぶ西洋古代の歴史を鮮やかにかいつまんでみせているからだ。

★11月6日(日)

 『日本人の身体観』のあとがきに養老孟司はこう書いている。(名著『身体の文学史』は本書と同時進行的にそれぞれ『新潮』と『仏教』に連載され ていたらしい。)

《「日本人の身体観」の次の問題は、「修業─道─型」という主題になる。「型」は身体表現の完成したものであり、身体という無意識の表現と、こと ばや芸術という意識的表現が、たがいにもたれあって、文化という一つの「表現」を形成する。社会の脳化つまり都市化は、意識的表現を拡大し、無意 識的・身体的表現を徹底的に縮小するようにはたらいてきた。われわれはいまや、それをどうするかという問題に直面しているらしい。どうするもこう するも、問題を意識することが、解決のはじまりであろう。》

★11月12日(土)

 川崎謙『神と自然の科学史』の全体を眺ざっとめ勘所と思われる箇所を摘み読みしてみたら予想通り、いやそれ以上の刺激・感銘が期待できそうな本 だった。
 著者の専攻は教育学部の理科教育講座で、本書執筆の動機は、西欧自然科学と「日本自然科学」(著者がそういう言葉を使っているわけではない)と を歴史的眺望のうちに置いて比較し、これら異文化相互の会話を促すことにある。(比較のためには共通の視点が必要だが、著者が依って立つのは文化 現象を言語に還元するという意味での「構造主義」、とりわけ丸山圭三郎の言語哲学である。)

 それ自体は無意味な世界である「素材の世界」に意味や秩序をもたらすもの、逆にいうと意味や秩序をもったもの(西欧における「ネイチャー」や日 本における「自然」)として世界を認識させる思考の枠組みが「ロゴス」(西欧)であり「諸法実相」(日本)である。ロゴスは「世界[ネイチャー] は数学的に記述されなければならない」(198頁)と要請する。これに対して諸法実相は、とりわけ「実相[イデア界]は諸法[現象界・物質界]な り」とする道元以来の枠組みのもとでは、自然は「人智ノ察慮・量測スルコト能ハザル」(安藤昌益『刊本・自然真営道』に寄せた門弟の序:114 頁)ものとされる。

 ロゴスの枠組みのもとにある西欧自然科学を著者は次のように定義する。《西欧自然科学とは、創造主である“Logos”がその心の内なる観念 (“Logos”によってのみ認識可能なイデア)によって創造し、本質的にはイデア(数=“Logos”)によって秩序付けられた万物を、理性で ある“Logos”によってのみ認識されるイデアとして表現する知的営み。》(87頁)

 これに対応する「日本自然科学」の定義は、本書を一瞥したかぎり明示には与えられていない。日本語を母語とする自然科学的思考の歴史とその現代 における(再生もしくは制作の)可能性。著者の意図はそこまで及んでいないように思える。これらのことは今後の熟読を通じて確認し、必要に応じて 考察してみることにしよう。とりわけ関心をひくのが、西欧自然科学のもとでの実験(創造主の秘密の直知=ひらめき)と諸法実相の枠組みのもとでの 実験(自分で実際にやってみる)との相違だ。

★11月15日(火)

 ひさしぶりに『ソトコト』12月号を買った。チビコトが二冊、CDも二枚ついている。最近買いそびれていたのは、(ローハスではなく)ロハスロ ハスとまるで本家争いに興じる新興宗教かなにかのように騒いでいる(失礼)のがうるさく感じられるようになったことと、「内田樹の研究室」 (2005年10月19日)に『下流社会』の「愉快な人物類型」が紹介されていたのを読んだからだ。愉快なのでその部分をまるごとペーストする。

《ロハス系は「比較的高学歴高所得」であるが、出世志向は弱い。/「自分の趣味の時間を増やしたいと考えているが、とはいえ忙しいので、それほど 趣味の時間が多く取れるわけではない。よって、雑誌、本などを見て代償する日々が続く。雑誌でいえば『ソトコト』『サライ』を愛読するタイプ。会 社の仕事だけでなく、社会活動、NPOなどにも関心があり、環境問題についてのセミナーなどにも個人的に参加するようにしている。」(78頁)/ なるほど。/「消費面では、有名高級ブランドには関心が弱いが、ひとひねりしたそこそこのものを買うのが自分らしいかなと思っている。外車が好き だが、ベンツやBMWではなく、できればジャガーやプジョーがよいと思っている。」/わかるねえ。/「品質、製造方法、伝統、文化などについての 蘊蓄があるものを好む。よって無印良品もやや好き。(・・・)古本、骨董、真空管アンプ、中古家具、古民芸など、やや古めかしいアナログ趣味の世 界に浸るのも好き。」/書いている人(三浦展さん)は明らかに「誰か」身近な人をイメージして書いてるね、これは。》

 ここにある「雑誌でいえば『ソトコト』『サライ』を愛読するタイプ」につい構えてしまったのだ。でも、やっぱりこの雑誌はいいし、今月号の特集 「森と音楽のロハス的楽しみ方」が気に入ったので買うことにした。このところ(もしかすると『のだめカンタービレ』にはまって以来かも)音楽につ いてよく考えている。音楽は考えるものではなく聴くものだ。それはそうなのだが、音楽っていったい何なんだと、そういうことが気になってしょうが ない。音楽の楽しみって、いったい何を楽しんでいることになるのだろう。

 本屋で平凡社の北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』を見つけた。ランダムハウス講談社から「ピュタゴラス・ブックス」というシリーズが出 ていて、店頭に並んだ四冊のなかに『ハーモノグラフ──音がおりなす美の世界』があった。今日のところは買わずにおいたけれど、いずれ買って読む ことになるだろう。

★11月16日(水)

 今日も音楽のことを考えている。考えているといっても、最近の私の(哲学的)確信は「考えているのは私ではない」だから、どこかから「考え」が 到来するのを辛抱強く待ちながら他人が書いた文章を読んでいる。『ソトコト』に載っていた福岡伸一さんの「音楽の起源」が面白かった。この人の書 くものはいつも面白い(『もう牛を食べても安心か』はとびきり面白かった)。「等身大の科学へ」の連載だけは欠かさず、『ソトコト』を買ったらい つも最初に(時にはそれが最後になることもある)読んできた。

 福岡さんは、コマドリやナガスクジラやギボンたちの求愛の歌が「音楽の初源的な形態、作曲の先駆けだったのではないか」とするライアル・ワトソ ンの進化論的な考え方に「徒労感」を覚えるようになったと書いている。私たちが音楽に求めるものは、進化論的なコミュニケーションの行方に思いを 馳せることではなくて、もっと個人的なことのはずではないかと。いい文章なのでまるごと引き写す。

《そこで私は思い至る。私たちは音楽から感得するその呼吸と脈拍と起伏は、まさに自分自身の呼吸と脈拍と起伏そのものではないか。つまりリズムで ある。生命はリズムの循環に支配され、かつ駆動されている。肺の規則的な収縮、心臓の鼓動、筋肉の収縮、鼓膜のバイブレーション、神経のインパル ス、セックスの律動。これらはすべて生命を刻むリズムであると同時に、私たちのいのちの実在性を確認させる音でもある。/つまり、音楽とは、私た ちが外部に作り出した生命のリズムのリファレンスなのだ。》

 いい文章だ。とくに「肺の規則的な収縮、心臓の鼓動、筋肉の収縮、鼓膜のバイブレーション、神経のインパルス、セックスの律動」はまるで詩文の ようだ。こんな文章をくりかえし読んでいると、それはいつか私の「考え」になっていく。(福岡伸一さんと茂木健一郎さんは、そういう、私にとって のいい文章を書く科学者の双璧。)

 しばらく『ソトコト』から離れていたとき、そのかわりに購読していたのが『風の旅人』で、「人間の命」を特集した15号に「ことばのルーツとし ての音楽」が載っていた。霊長類研究学者・正高信男さんの連載「ことばの起源」の後編。人間の感覚性言語中枢の情報処理は、音楽をベースにしてい る。だから人間の言語学習は、ことばを音楽として知覚するところからスタートする。前後の文脈は忘れたが、この結論部分だけは印象深く残ってい る。

 音楽は深い。で、北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』を買ってきて、さっきからずっと目次を睨んでいる。音楽における宇宙論の復活といっ た話題が最後に出てくるらしい。いまBGMに流している細川俊夫(『観想の種子』)の名もちらと見える。本を読む前のこの一瞬がいつもとても好き だ。もうずいぶん久しく行っていないコンサートの開演を、パンフレットを眺めながら薄暗い観客席で待っている時の感覚を思わせる。

★11月18日(金)

 『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937』。「死後42年たって新発見された幻の日記」「真の信仰を希求する魂の記録」「“隠された意味” は何か!?」。腰巻きに綴られた大仰なコピーを見て、迂闊にもウィトゲンシュタインをダシにした安手のフィクションだと思ってしまった。「イル ゼ・ゾマヴィラ編 鬼界彰夫訳」。この聞いたことのない編者の名や、いかにもつくりものめいた訳者の名(と、仕事疲れの頭で粗忽にも思ってしまっ た)を見て、ますますその確信が高まった。

 ウィトゲンシュタインが登場するフィクションというと、テリー・イーグルトン『聖人と学者の国』やジョン・L・キャスティ『ケンブリッジ・クイ ンテット』や山田正紀『神狩り』を思い出す(というか、私が読んだのはこの三冊だけ)。いずれもウィトゲンシュタインのある一面だけを誇張してと りあげていたように記憶しているが、フィクションとしてはそれなりに、イーグルトンのものは変則的な思想書としてとても面白かった。(「ある一面 だけ」などと知ったようなことを書いたが、ウィトゲンシュタインの複数性に通暁しているわけではない。)

 とにかく、装幀の印象もふくめて、新手のフィクションと勝手に思い込み、それでも気になって手に取ってみて、ようやく勘違いにきづいたわけだ。 鬼界彰夫といえば、あの傑作『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の著者だった! 私の部屋の蔵書数を限定した(あまりたくさんの本を収納できな い)本箱に、二冊だけ常備している現代新書のうちの一冊がこの本だ(他の一冊は、入不二基義『時間は実在するか』)。

 そういうわけで、ひさしぶりの速攻買い、別名衝動買いで手に入れて、家に帰ってぱらぱら頁を繰ってみると、この日記の解読を通じてウィトゲン シュタインという新たな哲学者が(鬼界さんの前に)登場したと書いてある(318頁)。この「日記が後期ウィトゲンシュタインの宗教性という、拙 著[『ウィトゲンシュタインはこう考えた』]においてすっぽり抜け落ちていた部分に関して決定的な内容を持っていることを知」(321頁)ったと も。巻末には「隠された意味へ」と題された40頁ほどの訳者解説もついている。気持ちが騒ぐ。(でも、いつ読む?)

★11月19日(土)

 季節の変わり目の浅い鬱に身心の困憊を覚えはじめ、なにか心を清らかにしてくれる文章を読みたくなり、森岡正芳の『うつし 臨床の詩学』を買ったのが先月末のこと。体調を崩して「風邪をひきました」と医師に告げ「病名を決めるのは医者の仕事だ」と説教されたことがあるが、「季 節の変わり目の浅い鬱」などと素人診断をくだすと臨床心理士や精神科医に叱られるかもしれない。でも、人は誰でも自分の心の専門家(本書にそう いった趣旨のことが書いてある)なのだから、他人にとやかく言われることはない。この本を読み終えた頃にはすっかり気持ちと身体が元気になってい たとしても(実際そうだった)、それはたまたま自然恢復と重なっただけのことかもしれない。たとえそうだとしても、浅い鬱におそわれた時にどうい うことをすればいいのか、どのような本を読めばいいかは、私にしか判らないことだ。

 心理臨床の現場で起こっていること、つまりクライアントとセラピストの対面・会話の場がひらく「中間世界」における言葉と感情の重なり合いと変 様の推移を丹念に綴った書物。そこに立ち上がる発生状態の主観性と自己性、そして「他者の私の生」(21頁)を「飼いならし」ながら、受動相 (pathema)から行為相(poiema)へと転換していく様を「うつし」という語の多義性──写し、映し合い、移し換え、移りゆき、あるい は転移[うつし:52頁]、再現[うつし:183頁]、制作[うつし:209頁]、等々──に寄り添いつつ詩的に、繊細に、理[ことわり]と感 [うご]きが同じ一つの糸で縫い込まれた断章の積み重ねを通じて記録した書物。

 とりわけその叙述のスタイルが素晴らしい。一続きの論述を微細に分節し、優れたセラピストの合いの手を思わせる印象的な節名や見出し(たとえば 「話しかけるとき私はそこにいない」)を付しながら、概念(精神性)の独り歩きを慎重に退け、同時に感情(生命性)の自閉を解きほぐす。感情を湛 えた概念と概念を孕んだ感情。概念は瑞々しさを失わず、感情は十全に物語られる。

 この叙述のあり様そのものが、「飼いならす」という本書のキーワードにつながっていく。そして、本書の基調をなす「うつしの構造」(西谷啓治 「空と即」から著者が切り出したもの)をかたどっている。──人と人、人と事物、概念と感情の出会いの局面において「AがBに自らをうつすとき、 それはBのうちでAとして現象するのではなく、Bの一部として現象する」(20頁,162頁)。

 それと同じことは、人と本との出会いにおいても生じる。すなわち「私がその文章を読むのではなく、その文章において私があらわれる[本のなかに 私が書き込まれている]」(145頁)という主客反転の感覚。そこにおいて私があらわれる本とは、たとえば「記憶」であろう。玄侑宗久は「御開帳 綺譚」で「我々僧侶が供養しているのは、結局のところ記憶ではないのか」(文春文庫『御開帳綺譚』50頁)と書いている。この「供養」のことを森 岡正芳は「共有体験[シェアリング]」と呼ぶ。臨床とは輪唱である。

《過去の記憶を過去のものとしてふりかえるだけでは人は癒されない。それを誰かに語り、再現する。そこに十分につき添う他者との再現[うつし]の 場が必要である。再現[うつし]をそれがある場において探求し、その道行きに他者が参加し共体験すること。このような再現[うつし]の力を借りる ことが必要である。
 思い出を語るという想起のあり方は、語られながらそこで語られていることを生きているようにみえる。語っている時間と語られている思い出のなか の時間が重なり合う。一つ一つの出会いやふれ合いを再創造する。このような再創造は過去遡及的であるが同時に、今この場において未来への見通しを あたえてくれる。そのような時間のなかで、その人がどこかに追いやっていた「私」が動き出す。》(183頁)

 著者の紡ぐ言葉は美しい。とりわけ感銘をうけた「対話的倍音」と「中間世界」の語が出てくる文章を抜き書きしておく。(「対話的倍音」は「概念 のポリフォニー」や「連歌的想像力」に、「中間世界」は坂部恵の「あわい betweenness-encounter」にそれぞれ重ね合わすことができる。)

《私たちは理解しようとする相手の発話の一語一語の上に、自分が答えるはずの一連の言葉を積み重ねる。相手の言葉に対して、話者がさらに声を重ね 合わせていく。新たなイントネーションが付け加わっていく。また相手の言葉との衝突を通じて、話者によって強調点の置き換えや省略、意味の付け加 え重ねあいが生じるのである。
 このような対話関係のなかで──声と声が重なり共鳴しあい、あるいは衝突するなかで──新たな意味や連想が生まれてくる可能性を「対話的倍音」 (dialogical overtone)と呼ぶことができる。(略)
 話者は相手の言葉を引用しつつ、そこに新しい意味を含ませながら、なおその意味がすでにもっていた意味を保持しておくということもできる。言葉 はいくつもの言葉の交錯であり、その言葉のなかに対立する感情も同時に包含することができる。》(119-120頁)

《セラピーの場面には、多様かつ根源的なうつしの営みが含まれている。それは生命性と精神性の相克、あるいは創造的な交叉という問題に集約され る。生命性のもつ直接的で一次的な持続は体験の下地を支えるものであるが、人間の精神は必ずしも生命の方向性と一致しているとはかぎらない。うっ かりすると、生命性からの解離に精神が加担してしまう。また心身に負荷のかかるストレスや外傷的事象に接すると、体験の下地は荒らされてしまう。 セラピーで対応が求められる状態の背景の多くにはこの問題が潜在するようだ。
 その回復への手がかりは生命性の世界にもどるということ、自然のあるがままを受け入れるということなのだろうが、そう簡単なものではない。その 探求にあたっては「うつし」という言葉の多義性そのままに、生活や文化の多面的な様相に入り込む必要が出てきた。人ともの、心と身体の交叉すると ころ、生命と精神、覚醒世界と眠りの世界の交錯するところ、生活世界と夢や空想イメージ、仮構物の交互作用の生じる場がある。さらに自己と他者が 交感する接触面、そしてある出来事とそれとはまったく別の系列の出来事の交錯するところ、過去をふりかえり語るとき、今この場に似たものがふたた び現れたり、生きた体験がテクスト世界に転換[うつ]されたときに新たな意味世界へと跳び越えたりと、これら中間世界の魅力は限りないものがあ る。このような場に生じるうつし合いを通じて、人はそれまでとは違った意味空間に移りゆく。それは日常世界のなかに詩的瞬間を胚胎するところとな る。》(215-216頁)

★11月21日(月)

 木村敏の『関係としての自己』と『偶然性の精神病理』(岩波現代文庫)を読了。『関係としての自己』を買ったのが5月末のこと(副読本として 『偶然性の精神病理』を買ったのは7月の頭)だから、もうかれこれ半年ちかくかけて読み終えた。じつに濃厚な時間だった。木村敏の文章には、つね に既読感を覚える。実際、書かれている事柄、臨床事例にせよ、ヴァイツゼカーやブランケンブルクやニーチェの引用せよ、木村独自の思索展開にせ よ、それらの話題はこれまでから何度も何度もくりかえし著書でとりあげられてきたものがほとんどだ。微妙な言い回しや使用された概念の風味のよう なものの違いはあっても、そして、アクチャリティとリアリティの概念の差別化など、その論考がしだいに精緻・精妙化され、事の実相に肉迫する迫力 は冴えわたっていくとしても、そのライトモチーフとバッソ・オスティナート(通奏低音・執拗低音)はつねに変わらない。

 木村敏における主題と変奏、差異と反復。それを一言で表現すれば「界面の思考」となろうか。鷲田清一が『偶然性の精神病理』の文庫解説で「差異 の思考、〈あわい〉の思考」(239頁)と呼ぶものがそれである。坂部恵が『モデルニテ・バロック』で「betweenness- encounter」と訳した「あわい」。そこにおいて関係が関係それ自身に関係するところの「あわい」=界面。そこから立ち上がるもの、浮かび 上がるもの、あるいはそこにおいて現象するものが「自己」であり「主体性」であり「時間」であり「クオリア」である。これらのことを見事に表現 し、さらには『偶然性の精神病理』から『関係としての自己』への導管の所在を的確に指摘した鷲田清一の文章を引く。

《ところで、〈偶然性〉は contingence/contingency という。con-tangere、つまり「ともに‐ふれる」ということである。そうするとこれは、偶然性と触れ(接触であり触覚である)の関係という問 題、そして「ふれる」とは触れるであり振れる(気がふれるというときの、そう「こころの病」としての「ふれ」)でもあることになる。木村氏は、 〈いのち〉というものを、生命一般が個々の生存へと個体化されてゆく過程で、それとそれでないものとの「界面」として現象すると考えようとしてい る。ちょっとこみ入った言い方をすれば、そういう界面の生成そのものを、自己表象として自己を隔てる意識の出来事と、自己触発として自己にふれて ゆくより根源的な身体の出来事との緊張関係のなかで問いただそうとしている。本書の議論の向こうには、〈偶然性〉をめぐるそんな問題が広がっても いる。》(鷲田清一「〈偶然性〉の思考」,『偶然性の精神病理』242-243頁)

 「あわい」としての界面。それは森岡正芳(『うつし 臨床の詩学』)がいう「中間世界」につながっていく。そして形而上学と生物学が出合う界面は、木村臨床哲学がよって立つ場所(臨床)であり、同時にその行 き着く先を指し示しているだろう。『関係としての自己』の最後におかれた文章を引く。

《従来の「古典的」な西欧の哲学は、プラトンのイデア論とアリストテレスの形而上学の流れを継承して、ある意味で「唯心論的」あるいは「観念論 的」な立場を堅持してきた。デカルト主義的な二元論も、哲学固有の形而上学的営為から物質的自然の法則性についての探求を分離する効果しかおさめ なかった。現象学的哲学ももちろんその例に洩れない。これに対して近年の神経科学・認知科学に定位する科学哲学は、意識的・精神的な現象のすべて を脳・神経機構に還元することによって、「唯物論的」な一元論を指向している。「心」や「自己」は物質過程の淡い影にすぎないということになる。
 これに対してわれわれの立場は、意識に代表される心的・精神的な事態も、脳に代表される身体的・物質的な諸過程も、いずれも人間が個別的な生を 「生きる」ために「生それ自身」という最終的な審級に根ざしているという事実から派生した二次的な現象にすぎず、デカルト的二元論の真の克服は 「生の一元論」によって達成する以外ない、というものである。二元論はそれ自体、「生きている」という原初的な事実が物心両面の現象界に投影され た幻影にすぎない。
 となると、ここであらためてメタピュシカとピュシカとの、形而上学と自然(科)学(それはわれわれの場合には生物学ということになるだろう)と の再接合が求められなくてはならないのではないか。真実はこの両者の「あいだ」にこそあるのではないか。》(『関係としての自己』299-300 頁)

 まだまだ書いておきたい事柄が残っている。汲めども尽きない。汲み上げて、共感であれ違和感であれ、その実質を自分なりの言葉で考えたいテーマ は無尽蔵といっていいほど残されている。ここではその一つ、これだけは見逃せない指摘を取り上げる(ただし、取り上げるだけ)。それは、もう一人 の「偶然性」の思考者パースについて書かれたものだ。

《語の意味が記号としての語そのものにアプリオリに含まれているのでなく、話し手と聞き手の相互関係という〈場〉において多様に解釈されうるとい う経験は、パースの三項関係の記号論を連想させる。パースは周知のように、記号とその指示対象を一対のものとする従来の二項関係とは違い、この両 者にそれを媒介する「解釈」という第三項を考えた。パースによると《記号、もしくはレプリゼンタメンとは、何らかの点で、あるいは何らかの能力に おいて、誰かに対しある何ものかを表意するものをいう。それは誰かに話しかける、つまりその人の精神のなかにそれと同等の記号、または多分もっと 発展した記号を生む、それが生むそのような記号のことをわたくしは最初の記号の解釈内容と呼ぶ。その記号は何ものか、その対象を表意する》。パー スに依れば、《たがいに理解できる共通の意味または解釈思想──すなわち第三項の媒介──がなければコミュニケイションは成立しない》のであっ て、彼はこの媒介 mediation のことを「中間性」betweenness つまりわれわれの言い方では「あいだ」とも呼んでいる。

 ただパースとわれわれとの大きな違いは、彼がこの第三項を第一項、第二項といわば同一平面上で考えていることである。したがって彼のいう解釈項 は、《それ自体がまた新しい記号となってそれと対処をつなぐもう一つの解釈項を生み、それはまた新しい記号となって更に次の解釈項を生んで、…… 記号と対象と解釈項という三項関係が無限に生ずる》(有馬道子)ことになる。これに対してわれわれのいう〈あいだ〉は、語やその標準的な意味内容 (ないし指示対象)とは位相の異なった次元にあって、それ自体がさらなる記号となることは絶対にない。むしろ、公共的・三人称的に固定された「位 相差」(これをハイデガーにならって「存在論的差異」と呼んでもいい)を見失わないことこそ、現象学的精神病理学にとってはその死命を制する要務 なのである。》(「〈あいだ〉と言葉」,『関係としての自己』139-140頁)

 これと同趣旨(かどうか)のことが、フロイトの「タナトス・エロス二元論」に関連して書かれていた。これらについては、いつか必ずまとめて決着 をつける(つもり)。

《このフロイトの「死の欲動」論の最大の問題点は、彼がわれわれのいう「生命論的差異」を考慮しなかったことにある。タナトスがそれを取り消して 生誕以前の状態にまで復元しようとする個体の生命とは「死すべきもの」としてのビオス以外のなにものでもない。だから「死の欲動」は、自分自身の ビオスに向けられるだけではなく、「破壊欲動」「攻撃欲動」として、他人のビオスにも向けられる。これに対して、「性の欲動」であるエロスが、そ れぞれ異なったビオスである「二個の胚細胞の融合」を通じて継続しようとする不死の生命とは、ビオスとなまったくその存在次元を異にするゾーエー にほかならない。それはヴァイツゼッカーが、「生それ自身は死なない」と述べた「生それ自身」の領域に属している。》(「生命論的差異の重さ」, 『関係としての自己』196頁)

 ちなみに、パースをめぐる文章にでてきた「同一平面」すなわち水平的な関係性と、存在論的差異であれ生命論的差異であれ垂直的次元との関係性を めぐって、関連する箇所を(前後の脈絡を抜きにして)引いておく。このあたりの議論を、たとえば坂部恵の「しるし・うつし身・ことだま」(『仮面 の解釈学』)や梅原猛の『美と宗教の発見』第二部「美の問題」を参照しながら、いつか王朝和歌の美学の問題に接続させていきたいと思う。

《「主体」は環境世界との──いわば「水平」の関係における──「出会いの原理」としてそのつど成立するのだが、そのような主体はその可能性の条 件(つまり「主体性」)を、有機体と「生それ自身」との──いわば「垂直」の関係における──「根拠関係」のうちにもっている。生きものを生きも のたらしめている「根拠それ自体」は、「対象となりえない」。ということは、それはもはやリアルな「もの」ではないということである。しかしこの 根拠それ自体は(あるいはこの根拠との根拠関係は)、「一定の具体的かつ直観的な仕方で」──アクチュアリティとして──経験される。》(「未来 と自己」,『関係としての自己』279-280頁)

★11月26日(土)

 最近買った本。その1。ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』(柴田元幸訳)。仕事帰りにほぼ毎日立ち寄る行きつけの古書店でみつけた 掘り出し物。定価2千円が新品同様で3百円。たぶん一度は書店に並び返品されたもの。あなたの好きな作家は誰ですか。そう聞かれたら(めったに聞 かれることはないが)、たぶん今なら保坂和志と村上春樹とオースターと答える。エッセイであれ何であれ新刊が出れば必ず買うのは保坂和志(と茂木 健一郎)で、小説だけなら村上春樹。オースターは、NY三部作と『孤独の発明』と『ムーンパレス』と『偶然の音楽』(と『ルル・オン・ザ・ブリッ ジ』と『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』)以外のフィクション系は未読。まだ摘み読みしかしたことのない『空腹の技法』とあわせてこの 「自伝的エッセイ」を(いつか)読み、未読の小説『最後の物たちの国で』『リヴァイアサン』『ミスター・ヴァーティゴ』に(そのうち)進むことに するか。

 その2。山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)。昨日、サントリー山崎蒸留所・ウィスキー館のファクトリーショップで、樽用オーク材で作ったシャープペンと一緒に買った。 20代から30代にかけての愛読書が開高健だった。『輝ける闇』『夏の闇』『花終る闇』の闇三部作は何度読んだことか(『花終る闇』は読んでいな かったかもしれない)。『夏の闇』は英訳まで読んだ。川端康成賞受賞作「玉、砕ける」を収めた『ロマネ・コンティ・1935年』(文春文庫)は、 いまだにこれを超える短編集をしらない(『神の子どもたちはみな踊る』くらいか)。エッセイ集『白いページ』は一種のバイブルで、釣りなどまった くしないのに『オーパ!』や『オーパ、オーパ!!』、『もっと遠く!』や『もっと広く!』まで愛読した。その開高健が「やってみなはれ──サント リーの七十年・戦後篇」を書いている。昭和44年「小説新潮」掲載のものだから、開高健四十歳前の文章。

 その3。星野之宣自選短編集『MIDWAY』の歴史編と宇宙編の二冊。同じ集英社文庫から出た諸星大二郎自選短編集がとても心に残ったので、二 匹目のドジョウを期待した。『宗像教授伝奇考』第一巻(潮漫画文庫)がまだ終わっていない。ついでに(星野之宣とは関係ないが)ヒッチコック『バ ルカン超特急』【¥476】も買った。これでヒッチコックの廉価版DVDは3枚目。つづけて買ってつづけて見るつもり。そのほか、斎藤晃司『女た ちの絵画サークル──淫らな絵画教室』(マドンナメイト文庫)【¥543】というのも買って読了。これはブログには書かない。

 最近読んだ本。その1。マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』。惜しみながら読み継いでいった。途中でリーマン予想の内容がよく判らなくなっ たが(いや、そもそも最初からよく判っていないが)、そんなことはこの書物を味わう上ではまったく関係がない。実に心地よい読中感は最後まで失わ れることはなかった。それにしても美しい書物だ。

 ピタゴラスによる「天空の音楽」(数学と音楽の基本的な関係)の発見。基音とすべての倍音を加えた「調和級数」(ゼータ関数にx=1を入れたと きの値:121頁)に発するオイラーのゼータ関数研究。そして、著者によって「数学界におけるワーグナー」(21頁)と形容されるリーマンの登 場。第四章のエピグラフがすべてを語っている。「素数は音楽に分解できる、ということを数学的に表現するとリーマン予想になる。この数学の定理を 詩的に述べると、素数はそのなかに音楽を持っている、ということになる。ただしその音楽は、近代概念では捉えきれないきわめてポストモダンなもの である。」(マイケル・ペリー)

 このあたりまでは、これまでから何度も数学啓蒙書でたどったことがある。本書はそこから先が素晴らしい。謎の人ラマヌジャンを経て、コンピュー タ・エイジにおける素数と暗号、そして「世界の両端の洞窟でまったく同じ旧石器時代の絵を発見した考古学者の驚きにも通じる」(406頁)量子物 理学とリーマン予想の驚きの出会い、さらにはグロタンディークの狂気へと、非人間的な美しさを湛えた素数の物語は進んでいく。失われたリーマンの 「黒いノート」(230頁)は、たぶん人間の言葉では書かれていない。

 引き続き、カール・サバー『リーマン博士の大予想──数学の未解決最難問に挑む』を読んでいる。『なっとくするフェルマーとオイラー』(小林昭 七)も常備している。今日届いた海鳴社の葉書に、オイラーの『無限解析序説』がついに完訳された(訳者:高瀬正仁)と書いてあった。生まれ変わっ たら数学者になりたい。

 その2。玄有宗久『御開帳綺譚』(文春文庫)。この人の作品を読むのは初めて。標題作では、無状と夕子の交合の情景描写がいい。《それはもう、 夕子ではなかった。無状もなぜか自分でないような気分で女を布団に押し倒し、光を背後から受けながら、その光の届かない部分に誰か解らない男を挿 入した。瑠璃色に染まってきた部屋が一瞬闇に戻り、そしてまた瑠璃色をとりもどした。なんの記憶も甦らず、ただ自分という輪郭も決壊してしまった ような気分のなかで、男は女の今を味わい、女も男を全面的に受け容れていた。女は混沌を求める男の動きに応じ、男の願いを感じとりながら慈悲深く 包みこみ、そして自らの内なる混沌を増幅してゆく。願いなど、無くなってしまった時だろうか、女が聞いたことのない声をあげて閉じながら開きき り、男は止まりつつもその中へ皆ながら入ってしまった。収縮する瑠璃色の混沌に包まれながら男は、女も自分のなかへ入ってきたのだと、初めて思っ た。》(「御開帳綺譚」,102-103頁)
 併録の「ピュア・スキャット」では、週に三日透析を受けている「あたし」の宇宙的な生命感覚の叙述がいい。

《そしてあたしは拡がりながら、あたし自身の濃度を取り戻すんだ。/カリウムもナトリウムもマグネシウムもカルシウムも、もちろんアルミだってリ ンだってそうだけど、この地球という星の圧力や温度で生成されることはありえない。全部太陽の三倍から八倍もあるような巨大な星の中心部で作ら れ、その星の死とともに宇宙に飛び散ったものだ。その星屑から、地球もあたしもできてるんだ。血の中の鉄分なんて、もっともっと巨大な星じゃない とできなかった。中性子星って呼ばれるらしいけど、一立方センチの重さが十億トンって云われても全く見当もつかない。だけどそんな星の爆発のおか げで、あたしの中にもこうして赤い血が流れてる。あたしも無数の星屑からできてるんだ。》(「ピュア・スキャット」,135-136頁)

 その3。柳田邦男『言葉の力、生きる力』(新潮文庫)読了。この人の文章を読むのは『犠牲』(文春文庫)以来。あの本にも書かれていた、次男の 自死という痛切な体験を踏まえた「二・五人称の視点」がいい。星野道夫をとりあげた文章もいい(文庫カバーに星野道夫の写真が使われている)。 《そうなんだ。私は気づいた。えもいわれぬ音をとらえているのだ。風の音、雪崩の音、動物の鳴き声、吠え声、足音──そういったはっきり識別でき る音はもとより、情景の奥底から伝わってくるささやきとも響きとも感じられる不思議な音が惻々と伝わってくるのだ。/いままで数々の写真家による 様々な動物や自然界の写真に魅せられてきたが、一枚の写真に虜になるほど見入ってしまい、そこに秘められた音まで感じたのは、はじめてだった。/ グスタフ・マーラーの交響曲第三番ニ短調を聴くと、マーラーは絶対音感以上の霊的な音感で、森や花たちや風や動物たちや小鳥たちのすべてのざわめ きや鳴き声はもとより、天使たちの深い愛のささやきや天上の音楽までをも聴き分けていたに違いないと思わざるを得ない。星野氏の場合は目で霊感的 にそういう自然界のポリフォニー(多声音楽)なささやき、ざわめき、響きの神秘を聴き取っていたに違いない。私はそう思わないではいられないの だ。》(「ガイアの声が聴こえる」,155-156頁)

★12月1日(木)

 堀江敏幸『熊の敷石』(講談社文庫)を買った。ほんとうは世評の高い『雪沼とその周辺』を読んでみたかったのだが、この人の作品は初めてなの で、初期投資額を抑えるために薄い文庫本を選んだ。表題作を含めて三篇収められている。いちばん短い「城址にて」と川上弘美の解説を読んだ。一人 称で書かれた文章なのに「鳥瞰感」が漂っている。空間的なものではなく時間的、視覚的というよりは触覚的。視覚的でないというわけではない。それ が巨視的パノラマ的でないというだけのことで、微細な動きに寄りそいながら、生理に即して表現されている。触覚的というより、感覚の原器のような ものに触れている。あたりまえのことだが、それは文章で造られている。文章の手触りがつねにつきまとう。ほとんど詩に近づいているようでいて、紛 れもない散文。その証に、短い叙述で造形される人物のかたちに揺らぎがない。小説を読むとは筋や情景描写を読むことではなく、文章を読むこと。

 あわせて長田弘の詩集を入手しようと思っていたが、適当な本が見つからなかった。検索して、ネット上の長田弘の文章や詩文を拾い読みしていて、 坂本龍一との対談「暴力の前に言葉・音楽は無力か」(2002年1月7日朝日新聞朝刊)の抜粋を見つけた。長田弘の発言の一部分をペーストしてお く。

《歴史には2つあると思う。「ファスト・ヒストリー」(手っ取り早い歴史)と「スロー・ヒストリー」(ゆっくりと見えてくる歴史)です。今は 「ファスト・ヒストリー」が世を席巻しているように見えるけど、「ファスト・ヒストリー」がもたらすのは結局、成りゆき。人々の生きる日々をつく るのは「スロー・ヒストリー」です。今、切実に問われているのは、一番大切なのは何だという問いただしだと思う。》

★12月2日(金)

 臨床哲学という語を最初に使ったのが誰なのか知らない。そもそもの発端は中村雄二郎さんが提唱した「臨床の知」あたりではないかと思うのだが、 よく知らない。外国語にあるのかどうかも知らない。私が知るかぎり、養老孟司さんにそのものずばりの書名の著書がある。大阪大学の鷲田清一さんの ところに "clinical philosophy" の訳語をふった研究室がある。木村敏さんは自分の仕事をそう呼んでいる。浜渦辰二「報告:臨床人間学の試み」 [http://anthropos.hss.shizuoka.ac.jp/shama/versuch-ka.htm]にはこう書いてある。

《この時期[大阪大学大学院文学研究科で倫理学専攻が「臨床哲学専攻」に改称されたことをさす]以降、他にも、臨床社会学、臨床文化人類学、臨床 政治学、臨床経済学、臨床法学、臨床歴史学というように、「臨床」という語を広義に使う用法が広まっていった。しかし、以上挙げたもののいくつか は、養老孟司の命名によるものであるが、養老の『臨床哲学』(哲学書房、1997年)は、「哲学を横から見てときどき何か言いたくなる」という関 心から、「それぞれの哲学者をとって、調べてみたい」「臨床哲学というのは、哲学の具体的な応用であると同時に、哲学者の臨床分析でもある」とい う主旨の書であり、本稿の脈絡からははずれる。それとともに私たちは、右のような「臨床」概念のインフレに組みするものではない。》

 養老孟司さんの臨床諸学に関する論考が収められた『毒にも薬にもなる話』には、「臨床時間学」「臨床生物学的歴史学」「臨床中国学」なる語も出 てくる。私はさらに臨床文学とか臨床言語学といった語を使って、臨床概念のインフレに与したいと思う。というのも、「対話・面接・インタヴュー・ 交流・調査・フィールドワークといった相互的な対面関係のなかで、それまでに学んだことを現場で磨きながら、そのなかからいろいろと学び取ること に比重を置いた研究と教育」という浜渦論文にある臨床の定義に賛同するからだ。

 いや、そういうことを書きたかったわけではない。臨床という語がインフレを招いたのには、それなりの時代なり思想の背景があるではないかという ことを考えたかったのだ。私はかつて、実験理性批判という語を考案したことがある。実験(室)という語が思考や社会のあり方を根底的に規定する格 別に重要なメタファーであった(現にある)時代を想定することができるのではないかと睨んでのことである。修道院や庵という語もそう言う意味では 魅力的だ。それと同じ意味合いで臨床の概念を考えることができるのではないか。そういう趣旨なのだが、今日のところは力尽きた。

★12月5日(月)

 熊野純彦訳のレヴィナス『全体性と無限(上)──外部性をめぐる試論』(岩波文庫)を買って20頁ほどの序文を読んだ。内田樹さんの『他者と死 者』(24頁)に、レヴィナスとラカンはわざと分かりにくく書く「大人」であると書いてある。また、彼らが量産する「邪悪なまでに難解なテクス ト」が狙っているのは、「あなたはそのような難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか?」という「子どもの問い」へと読者を誘導する ことである、とも。ここで云われる「子ども」は「追う者」のこと、つまり弟子である。私は別にレヴィナスの弟子になんかなるつもりはないが、レ ヴィナスのテクストを読むということはレヴィナスの弟子になることである、そういう構造をレヴィナスの「邪悪な」テクストが持っているのだとした ら仕方がない。腹をくくって弟子入りするしかない。それが嫌なら読まずに放置することだ。

 これまでレヴィナスについて書かれた書物や解説の類をいくらかは読んできたが、レヴィナスその人の著書は『実存から実存者へ』(西谷修訳,講談 社学術文庫)の序章と『レヴィナス・コレクション』(合田正人訳,ちくま学芸文庫)に収められた文章のうち『エティカ』の書評その他二、三篇を読 んだ程度で、『存在の彼方へ』(合田正人訳,講談社学術文庫)にいたっては訳者あとがきを眺めたまま頁すら繰っていない。強烈に惹かれているくせ に、私はレヴィナスが嫌いなのだ。どこか押しつけがましくて嫌なのだ。というより、怖がっている。斎藤慶典さんは『レヴィナス──無起源からの思 考』(35頁)で、「人間」の起源と誕生の「時」に関わる「太古の」哲学者と呼んでいる。その思考の「太古性」が私を怯えさせる。

 読まず嫌いはそろそろやめて、怖いモノ見たさで思い切って読んでみるか。幸い、序文を読むかぎりその難解さは邪悪とまでは思わない。分からない ところはいくらでもあるけれど、あまり気にならない。それどころか、「諸存在は、かくして、叙事詩のかたちをまとってあらわれるものであ」(15 頁)るとか、「倫理とは一箇の光学なのだ」(19頁,32頁)とか、「その冒険は結局は想像的なもの、オデュッセウスのみちゆきのようにわが家に 帰還するものなのである」(27-28頁)といった、訳が分からぬままでもグッとくるフレーズが散見される。存在の実現と啓示という本質的な両義 性をもつ「生起(production)」の概念(25頁)などは蠱惑的だ。謎を謎のまま頭に刻みつけて先へ進むことができそうな気がする。問題 は、いつ読むかだ。

★12月6日(火)

 レヴィナスは嫌いだし怖いが、ウィトゲンシュタインには昔から惹かれつづけてきた。実際に会って話をすると、レヴィナスは慈愛と親愛に満ちた師 であり、ウィトゲンシュタインは峻厳で冷酷な友なのかもしれない。もちろんそんな想像にはなんの意味もない。

 『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937』巻末の訳者解説を読んだ。鬼界彰夫「隠された意味へ」。力のこもった、でもこれは本当の話だろう かと目を疑うほどに判りやすい叙述だった。『論考』という自己の過去/原罪(偽善)に正対し、自らの死と再生を通じて自らを浄め離し、それによっ て『探求』という清らかな次元を実現できる新たな精神へ。いわば旧約(論理哲学論考)から新約(哲学探究)へといたる、特異な夢の到来によって 「パンクチュエート」された困難な精神の運動の記録。

《それは、別の角度から見れば、ウィトゲンシュタインの精神が「信仰」という特別な状態へと入ってゆくこと、あるいはそうした状態が彼の精神に訪 れることであった。それは彼の宗教の歩みにほかならなかった。そして『哲学探究』という記念碑的作品は、この宗教の歩みの結果としてのみ生み出さ れたのである。これこそが日記が我々に与える最大の驚きである。》(296頁)

 ウィトゲンシュタインにとって、聖書の教えは究極的に「神が世界を創造した」と「キリストは自らの命を犠牲にして人間を罪から救い出した」の二 つに収斂する。前者の教えからは「神はいつでもお前からすべてを要求できる」「神がお前に生の賜物を与えてくださるよう誓い願え!」(1937年 2月16日の日記)という態度(信仰)がもたらされる。後者の教えからはまずキリストにならい完全な者として生きること、すなわち「自らの此の世 での命と生活を犠牲として捧げる倫理的責務を負う」(302頁)という厳しく恐ろしい解釈がもたらされる。だが1937年3月26日、ウィトゲン シュタインの思考に劇的な転換が生じ、新しい態度(信仰)が訪れる。「それは救おうとする者から、救われる者への転換である」(304頁)。「私 は自分のあるがままにおいて、自分のあるがままに照らされ、啓かれている。私が言いたいのは、私の宗教はそのあるがままにおいて、そのあるがまま に照らされ、啓かれているということだ。」(1937年3月26日の日記)

 鬼界氏の読解がどれほどの正統性を持つのか。それは生の資料(日記)に実地にあたった上であらためて確認するしかない。ここでは、鬼界氏がウィ トゲンシュタインのテキスト分析に用いた「スレッド・シークエンス法」を取り上げる。『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の第一部「ウィトゲン シュタインのテキストの特徴と読み方」に、大要次のように書かれている。

 ウィトゲンシュタインのテキストは独特の内的構造を持っていて、通常とは異なる読み方を読者に要求する。その一つが「スレッド・シークエンス 法」である。ウィトゲンシュタインが哲学的思考を展開し、その結果を手稿ノートに書きつけてゆくとき、相互に密接に関連する二つないし三つの主題 (たとえば「独我論」と「私的言語」、「数学の基礎」と「規則」)を同時に考え、それぞれに関する思考を交互に書きつけてゆくのが習慣だった。い ま交互に登場する主題をスレッド(思考の糸)と呼び、A、Bで表示するなら、ウィトゲンシュタインのテキストの構造は「a1-a2-a3-b1- b2-a4-a5-a6-b3-b4-b5- ……」となる。
 これをそれぞれの主題の本性に即して読解するためには、まず「a1-a2-a3-a4-a5-a6- ……」と「b1-b2-b3-b4-b5- ……」の二本の繊維に分け、その上でそれぞれを理解しさらに統合するる必要がある。こうした作業の起点になるのが、テキストをパンクチュエートすること、 つまり句読点(切れ目)を入れて、「a1-a2-a3」「a4-a5-a6」「b1-b2-b3」「b4-b5」のシークエンスに区切ることであ る。

 これだけだとどうということもないが、そしてこれ以上のことを補うことはできないのだけれど、この「スレッド・シークエンス法」という方法に は、常に複数の書物を同時並行的に読み進める習慣をもつ(だから不連続な)私にとってとても他人事とは思えない「懐かしさ」がある。

★12月8日(木)

 岡田暁生『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』(中公新書)を買って「まえがき」と「あとがき」と目次を読んだ。北沢方邦『音楽入門──広が る音の宇宙へ』がまだ半分も進まないのに、ある人が絶賛していたのにつられて入手したのだが、この人の文章は実にいい。文章がいいというより、西 洋音楽史を「私」という一人称で語り、「私」という語り手の存在(プレゼンス)を中途半端に隠さないことに徹しようとする志が素晴らしい。歴史は たんなる情報や事実の集積ではない、事実に意味を与えるのは結局のところ「私」の主観以外ではありえないとする断念が潔い。音楽と音楽の聴き方 (「どんな人が、どんな気持ちで、どんなふうに、その音楽を聴いていたか」)とを常にセットで考え、だから西洋クラシック音楽を、たとえそれが世 界最強のものであるとしても徹頭徹尾「民族音楽」として、つまり音楽を聴く場に深く根差した音楽として見るその視点(聴点?)に惹かれる。「ただ 一つ、本書を通して私が読者に伝えたいと思うのは、音楽を歴史的に聴く楽しみである。」著者はそう書いている。音楽を歴史的に聴くとはどういう態 度なのか。本論を読むのが待ち遠しい。

★12月9日(金)

 堀江敏幸の短編集を二冊つづけて読んだ。なぜこれまでこの人の作品にふれることがなかったのだろうという、ありえたにちがいないたくさんの大切 な時間をとりかえしようもなく喪った悔いの思いと同時に、これからこの人のけっして多産ではない過去の作品群をいまちょうどもぎとられたばかりの 新鮮な果実を味わうようにして読めることへの歓びが静かにこみあげてくる。

 いつどこでどのようなかたちで聴こうとも音楽は音楽だという考え方がある。そうではなくて、音楽はそれを聴く時と場所、形態、それをとりまく状 況や文脈、身体のあり様に大いにかかわるという考え方がある。考え方というより、そのような特殊な環境のなかでしか経験できない(聴きとることが できない)音の質が事実としてあるということだ。どちらの考え方あるいは経験が正しいかを一般的に論じるのはあまり意味がない。たぶんある偶然に よってもたらされた後者(a music)の個別的な経験を通じて前者(the music)への普遍的な感覚が培われるというのが真実に近いのではないかと思うが、いきなり音楽そのものがイデア的な響きをもって聴き手の経験のうちに 到来することもありうるだろう。

 小説を読むのもこれと同様だ。とりわけ堀江敏幸の作品を読むという経験は、それが収められた器である一冊の書物の造本や装幀や紙質、活字のポイ ントや配置、行間、上下の余白、等々にはじまって、どのような生と思惟と感情の履歴をもった読み手がいつどこでどういういきさつで、またどのよう な場で、さらにはいかなる身体の構えでそれを読むのかに大いにかかわっている。しかしそれでいながら、そうした特殊で個別的な読書体験がもたらす 堀江敏幸固有の作品世界は、たとえそれを読む人が一人としていなかったとしても最初からそこにひっそりとしかし確かな感触をもって存在していただ ろうと思わせる普遍的な質を湛えている。それこそ言葉という、人が生み出したものであるにもかかわらず人を超えた実在性を孕みながら自律的にそこ にありつづける媒質の生[なま]のあり方というものだろう。

 『熊の敷石』に収められた三つの作品(「熊の敷石」「砂売りが通る」「城址にて」)はいずれも時間の三つの相、すなわち未来、現在、過去の厳密 な区画が融解した不安定な「あわい」において事物と記憶、瞬間と永遠がきりむすぶ鮮烈な経験を、一枚のスナップショットのくっきりとした輪郭や切 り出されたばかりの石の重量感と、波に洗われる砂の城のような危うく脆い均衡のうちに立ちあがった生々しいものあるいは熊の背でできた敷石のよう な腥いものとの対比のうちに叙述しきっている。

 その経験を綴る文章は複雑で鋭敏な時制感覚によって屈折し、過去の体験とあいまって累乗化される鋭い歯痛(「熊の敷石」)や、二度と到来するこ とのない未来の喪失の予感(「砂売りが通る」)や、永遠に見失われ現在に幽閉されることへの滑稽な恐怖に凍りついた瞬間(「城址にて」)を言葉の スナップショットとして定着する。読み手は本来表現されることのない「あわい」の時間に宙吊りにされ、一篇の作品が永続的に生きつづけるための濃 く深い陰影をともなった領域を心のうちにしっかりと穿たれる。それが堀江敏幸の文章が達成したことである。

 幕切れのあざといまでの鮮やかさは『雪沼とその周辺』の七つの作品(「スタンス・ドット」「イラクサの庭」「河岸段丘」「送り火」「レンガを積 む」「ピラニア」「緩斜面」)でも微妙な味わいの違いをもって反復される。しかしここでの堀江敏幸の文章は技巧性を奥深く内向させ、より事物と人 物に即したかたちで綴られている。ピラニアの歯か結晶の鋭角を思わせる極微のとげとげしさは溶けた雪のように跡形もなく消えさり、あるいはイラク サの葉陰にたくみに隠されて、その結果、思わぬことだがその文章に読み手の思惟と感覚の運動を凌駕するスピード感がともなうのである。

 遠隔から近傍、全体から細部へと空間を瞬時に移動する視覚。過去と現在と未来を一気に通り越す暗い暗渠をくぐりぬけて時間の襞にわけいる記憶。 七つの短編はこうして七つの生と老いと死の実質を透明な時空のうちに、やはり言葉で写しとられたスナップショットして鮮やかに定着する。堀江敏幸 の特異な時制感覚は、ここでは美しいイメージを喚起する地名をもつ土地に暮らす人々によってひそかに語り継がれるフォークロアの文体を造形してい る。(堀江敏幸の「特異な時制感覚」についてもう少し書いておきたいことがあった。が、このことは明日書くことにする。)

 『熊の敷石』の文庫解説「水を描くひと」で川上弘美さんが書いている。「繊細さに裏打ちされた勁[つよ]い知性によって」書かれた堀江敏幸の 「さらさらとした清潔な」文章の気持ちよさは「生理にねざした、野蛮といってもいいようなもの」につながっている。「淡いけれどもじゅうぶんに 禍々しい、予感。/静謐できもちのいい描写の中に、いくつもいくつも紛れこんでいる不安の種が、微妙ないろっぽさを、よびおこす」。

《水の上を流れていく一枚の葉の軌跡、を描くことが多くの小説であるとするなら、堀江敏幸の小説は、一枚の葉を流してゆく水のさまざまな姿、を描 いているのかもしれない。水はいたるところにあって、澄んでいたり濁っていたり、あるときは流れあるときは淀み、凍ったりもするし蒸発して空気に 溶け入ってしまったりもする。それらを描くとき、文章は移る。》

 評するも人、評されるも人。『雪沼とその周辺』が文庫化されるとき、その巻末に堀江敏幸の散文に拮抗しうるたしかな実質を備えた文章を寄せるこ とができるのはいったいだれだろう。

★12月10日(土)

 昨日、堀江敏幸の文章が「複雑で鋭敏な時制感覚」によって屈折していると書いたことについて。あるいは、堀江敏幸の「特異な時制感覚」といいう るものがあるとして、はたしてその実質はなにかをめぐって。
 私が念頭においていたのは、過去のある時点で撮られた写真を今この場で見ること(「熊の敷石」「城址にて」)、あるいは今この場に鋭く立ちあ がった身体の痛みが過去のそして未来の匿名の時点をリアルに想起させ予感させること(「熊の敷石」)、たとえばそのような経験のうちに言語以前の ものとして埋め込まれている時間感覚のことだった。より具体的には、点の過去・線の過去などと説明される複合過去と半過去、さらに単純過去、大過 去、前過去、あるいはラカンによって特異な意味づけがなされた前未来といったフランス語の文法における時制のことだった。

 これを作品に即していうならば、「熊の敷石」には今まさに進行しつつある現在と、その現在に近接する過去や遠い過去や語りの中にしか存在しない 歴史的過去、そしてすでに到来しもしかするとあらかじめ完了している未来、さらに加えると堀江敏幸がこの作品を書いている(作品内世界にとって の)未来といった複数の時制がきりひらく時空が重層的に設えられている。あるいは『雪沼とその周辺』の冒頭におかれた「スタンス・ドット」には、 よりシンプルなかたちではあれ完了した未来のある時点から回顧された現在、過去のうちに氷結した現在、さらにはありえたかもしれない現在といった ニュアンスの異なる直説法時制がやはり混在しているのである。

 これらのことを詳細に分析しそのニュアンスを味わいつくすためには、川上弘美さんが試みていたように個々のセンテンスをとりあげて、時制 (tempus)のみならず法(modus)、相(aspect)または態(voice)といった文法的概念にのっとって微細な表現の差異を腑分 けし吟味していくことが必要になるだろう。だが、今はその作業に没頭するだけの余裕と知見をもちあわせていないので他日を期すことにして、ここで は二、三の気になっていることについて(素材のみ)書きとどめてこれもまた他日の考察に委ねることにする。

【アオリスト】
 ある人いわく「ギリシャ語の未完了過去形はフランス語の半過去に、アオリストは単純過去に似ている」。──ギリシャ語の過去時制に「未完了過 去」と「アオリスト」の二つがある(らしい)。後者は「不定過去」とか「無限定過去」とか訳されていて、過去に起きたただ一度の出来事の記述やこ れから起こることが確実な出来事の預言として用いられる時制である(らしい)。現在に深く影響する過去の決定的な出来事を表現するもので、たとえ ば「言葉は神であった」「言葉は神である」のいずれでも訳することができ、未来の出来事としても訳することができる(らしい)。
 たとえば「ムーミンパパのバイブル研」[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3902 /bible.html]の「原書構文解析」から「ヨハネによる福音書序文」の頁をたどっていくと、『ヨハネ福音書』第1章3節をめぐって次のよ うに書いてあるのが目にとまった。ちなみに同福音書第1章冒頭の3節の日本語訳は次の通り(新改訳聖書刊行会、括弧は引用者による)。「初めに、 ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1節)「この方[言葉]は、初めに神とともにおられた。」(2節)「すべて のものは、この方[言葉]によって造られた[成った]。造られた[成った]もので、この方[言葉]によらずにできたものは一つもない。」(3節)
《3節は簡潔に天地創造の物語を表現していますが、主語は「(神と共にある)言葉」になっています。「芽生えさせよ」とか「群がれ」という神様の 言葉によって万物が出来たことを言い表しています。新共同訳では「成った」と訳されていますが、これも「存在」の概念が含まれていると考えてよい でしょう。「成った」("egeneto")はアオリスト形ですから、この場合は過去にスポット的に起こったという事をさします。時々起こった 「啓示」や「預言」も、言葉によるスポット的な神様の意志の伝達でした。一方で、「造られた」というのは完了形ですから、創造された行為の結果が 現在に及んでいる事を意味します。(英語の過去完了形とはアスペクトが違います。)
 1節と2節で「始めに」という言葉を2回繰り返して用いていますが、フォーカスは現在に有るとみていいでしょう。神様の業は言葉を以て成されて きた。今もそうです。また、万物の全てがその言葉によって現れた。言葉によらずに現れたものはなかった。いまだに例外はない、という微妙で繊細な ニュアンスが浮かびます。また4節以降の準備として「創造のはじめから今に至るまでの、連綿とした神の働きの形象としての言葉」ということを語っ ているのだと思います。》
 また「Pastor Nakao's Home Page」[http://penguinclub.net/nakao/]の「礼拝説教集」から2001年9月9日のメッセージをたどると、次のように 記されている。《ヨハネ3:3に「すべてのものは、この方によって造られた。」と言われている「造られた」という言葉は「アオリスト、不定過去 形」といって「いつかどこかで存在をはじめた」という意味がありますが、「初めに、ことばがあった。」という時の「あった」というのは「継続形」 で、「ずうっと継続して存在している」という意味があります。聖書は非常に注意深く言葉を選んでイエス・キリストが永遠の神であると、私たちに教 えています。》

【前未来】
 内田樹さんの「明日は明日の風と共に去りぬ-2002年2月」[http://www.tatsuru.com/diary/tomorrow /tm0202.html]にラカンの前未来をめぐる記述が出てくる。そこで原文とともに示されたローマ講演「精神分析における言葉と言語活動の 様態と領野」の一節を、内田訳で以下にペーストしておく。
《私は言語活動を通じて自己同定を果たす。それと同時に、対象としては姿を消す。私が語る歴史=物語の中に現れるのは、実際にあったことを語る単 純過去ではない。それはもう存在しないからだ。いま現在の私のうちで起きたことを語る複合過去でさえない。歴史=物語のうちに現れるのは、私がそ れになりつつあるものを、未来のある時点においてすでになされたこととして語る前未来なのである。》
 「暴力以前の力 暴力の根源」と題された今村仁司さんの講演の記録[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k- rsc/hss/bouryoku/r01.html]から、関係すると思われる一節をペーストする。
《普通の言語表現ではひとは「われわれの現在」というが、その「現在」を「言う」(知る)ことはできない。瞬間としての現在は「知る」ことができ ない。あえて「われわれの歴史的現在」を言おうとするなら、 すでにアルチュセールが指摘したように(『マルクスのために』)、また彼の後でデリダが述べるように(『法の力』)、フランス語文法の「前未来形」で語る ほかはない。要するに、過去の視点から瞬間的現在をあたかも未来の出来事として語るのである。すでに過去でありながら、未来的なものとして瞬間を とらえる。瞬間は非知であるから、それを語り知るためには比喩をもってするしかない。これはひとつのパラドクスである。もしそうならあらゆる瞬間 はこの逆説をかかえる。》

★12月12日(月)

 茂木健一郎『クオリア降臨』読了。読み始めに覚えた違和感(茂木氏の文学観に対する)が最後まで足をひっぱって、いまひとつ読中感が高揚しな かった。それでも、エピソード記憶と意味記憶をめぐって開高健『夏の闇』の「女」の話題が樋口一葉や小林秀雄と並んで出てきたのは嬉しかった (「「スカ」の時代を抱きしめて」140頁)。「人間は、未だ、情報というものをとらえ切れていない」(同149頁)とか、「「私」の脳の中の情 報を全てコンピュータに置き換えれば、「私」という体験が複製されるという技術者の冒険主義は、クオリアの私秘性という意識の現象学的存在基盤に よって否定されるしかないのである」(「複製技術時代」174頁)といったくだりにはぐっときた。

 また、坂口安吾や丸谷才一の小林秀雄批判のうちに深い愛を読みとったり(「愛することで、弱さが顕れるとしても」199頁など)、政治家や官僚 たちの体験のリアリティが文学的表現や鑑賞の対象とならなかったことを嘆き(「感じるものにとっては、悲劇として」226頁)、イギリスのTVコ メディの深い文学性を指摘するあたり(同236頁)や、長与又郎の「夏目漱石氏剖検」筆記に「ああ、ここに文学があった」と述懐するところ(「文 学と科学の間に」259頁)などには、茂木氏の文学観が徐々に深化し広がりをもったものに変貌していくさまが覗き見られて少し心が躍った。
 とりわけ私が惹かれたのは、漱石をめぐって綴られた次の文章である。

《意識を持ってしまった人間は、「反生命原理」と「生命原理」が交錯するところでしか生きられない。だからこそ、夏目漱石は私たちにとって特別な 意味を持つ作家なのだろう。漱石こそ、もっとも反生命的な危険な精神の狂気の気配を漂わせつつ、しかしあくまでも生活の現場に踏みとどまろうとし た、類い希なる文学者であったように、私には思えるのだ。/普遍と個別の間の相克に悩む者が陥る病理、別の言い方をすれば「適応」として現れるの が、ユーモアのセンスである。ユーモアとは、個別と普遍の間の裂け目から吹き出す一種の狂気に他ならない。死すべき「個別」たる人間が、宇宙の 「無限」やイデア世界の「普遍」とまともに向き合っていては、命がもたない。ユーモアの一つや二つでも処方しないと、やってられない。》(「言葉 の宇宙と私の人生」269頁)

 『クオリア降臨』は文芸誌連載という「制約」(茂木氏にとっては一つの「自由」をもたらす枠組みだったのかもしれないが)を離れて、むしろ漱石 論として最初から書き下ろされるべきであった。読後、つくづくそう感じた。そういう意味では、この書物は来るべき作家・茂木健一郎にとってのスプ リングボードなのかもしれない。

 つづいて『脳の中の人生』読了。「読売ウィークリー」に連載された文章と6つの章のそれぞれの頭に置かれた書き下ろしの「考えるヒント」を収め たコラム集。
 医学に基礎医学と臨床医学があるように、脳科学にも「一人一人の人生の中で起こる具体的な出来事に脳の視点から向き合う「臨床脳科学」があって もよいのではないか」(まえがき「人生という具体の海に飛び込まなければならない」)。これはほとんど茂木版「バカの壁」であり、茂木流「手入れ の思想」の書だ。これに、茂木氏いうところの「養老さん独特の、ひんやりと肝に響くロジックの痛快さ」(198頁)が加われば鬼に金棒だが、茂木 健一郎は養老孟司ほどにヒトが悪くない。『ケータイを持ったサル』の正高信男が茂木健一郎を「多動症」と診断したと本書に書いてある(119 頁)。なるほど多動症では目が、いや腰が据わっていないわけだ。

 それにしても、この人はほんとうに文章が上手い。この調子でいけば、政治や経済や経営のことを明快に論じることなど朝飯前だろう。実際、本書に は企業の研修会に呼ばれた経験を踏まえて「個人と組織の関係がどうあるべきか」と考える「あなたの会社は「野球型」?「サッカー型」?」が収めら れている。脳科学者兼サイエンスライターとしての茂木健一郎ファンたる私としては、茂木氏にはこういう種類の文章を書いてほしくないのだが、それ は茂木氏の勝手だろう。

★12月13日(火)

 佐々木力『数学史入門──微分積分学の成立』を買った。20周年を迎えたちくま(学芸)文庫から「Math & Science」というシリーズが出ることになった。「通勤電車のなかにピュタゴラス、カフェにはアインシュタインがいたりしたら、面白いと思いません か?」。本書はその初回、ディラックの『一般相対性理論』やヒルベルトの『幾何学基礎論』と並んで刊行された書き下ろし。書き下ろしといっても 「あとがき」を読むと、著者がこの本の原稿を書いたのは昨年暮れから年明けにかけての2週間のことで、「当初はどこかの新書向けにと計画していた のであったが,ちくま学芸文庫の一冊として吉田武著『オイラーの贈り物』が刊行されたのを思い起こし,その定評ある文庫の新たな一冊に加えていた だくべく」筑摩書房編集局に提案したとある。

 話はそれるが、ここに出てくる『オイラーの贈り物』は、序論「数学史とはいかなる学問か?」で言及される高木貞治著『近世数学史談』(岩波文 庫)ともども、いつの日かまた心静かに読みかえしたい名著である(私が推奨するまでもないが)。その『オイラーの贈り物』の文庫版あとがきには、 著者吉田武が「駅の売店で数学書が買える,これは“小さな事件”である」と感慨深く記しているらしい。これはまさに数学と自然科学を中心とした 「本格的理系文庫」発刊に寄せられるべき賛辞ではないかと思う。

 あとがきには「わが国では数少ない数学史のプロフェッショナルである私が渾身の力をふりしぼって書き下ろした」とある。ここまで書くのは相当な 自信に裏打ちされてのことだろう。私が選ぶ個人的な名著の殿堂入りを果たすかどうか、それは読んでみなければ判らない。で、さっそくざっと斜め読 みしたところ「ユーラシア数学」という聞き慣れない言葉が目に止まった。──その地理的条件から、アラビア数学はギリシャ数学とインド数学を特異 に結合発展させる国際的な数学文化となって開花した。

《アラビア数学は,開花期の9世紀から,その成果が「12世紀ルネサンス」(Charles H. Haskins)の精力的な翻訳運動を介してキリスト教ヨーロッパ世界に伝えられるまで,世界史上,きわめて枢要な役割を担った.それは,前述のような国 際的性格を有していたがゆえに,ユーラシア大陸全般にわたる数学文化としての特徴をもち,一般に「ユーラシア数学」(Eurasian mathematics)の一環として理解するのが適当であろう.われわれは,たとえば,中世ヨーロッパのピサの商人レオナルド(フィボナッチ=[一説で は,ボナッチ家の子]という名前でも知られる.1170または1180頃-1240頃)以降の数学をごく単純に西欧数学と見なすかもしれないが, 正確には,それをギリシャ,インド,アラビア,ヨーロッパの文化的特徴が混交した「ユーラシア数学」の西方的形態と呼ぶのが最も適当であろう.》 (98頁)
 
 なお、創刊20周年を記念して、これまで文庫巻末に寄せられた「解説」から傑作・力作をセレクトしてつくった「どこにも売っていない「ちくま文 庫」」が読者にプレゼントされるらしい。そのためには、ちくま文庫か学芸文庫の新刊を2冊買わないといけない。あと一冊。で、さっそく人選ならぬ 本選を始めたところ、ちくま文庫来月の刊行予告に、橋本治『大江戸歌舞伎はこんなもの』やミシェル・ウェルベック『素粒子』などと並び今泉文子訳 『ノヴァーリス作品集Ⅰ』(全3巻)が掲げられているのを見つけた。これに決まり。

★12月14日(水)

 図書館で借りた本は気楽に読めていい。摘み読みとか拾い読み、斜め読み、一点読みに部分読み、目次読み、速読、はては継続、継続の積ん読という 高度な(そして傍迷惑な)戦術まで、自在に駆使することができる。これに対して自腹を切って買った本は、投下資本に見合うなにかを回収せずにおく ものかという妙な思い入れがこもっていて、つねに恨めしげな圧迫感をもってにじり寄ってくるから鬱陶しい。長篇小説など買った日には、いつも時間 のやりくりに往生する。

 このところ私の部屋の机の上には、行きつけの図書館から借りてきた数冊のエッセイ本の類が所狭しとちらばっている。就眠前のひとときなど、とっ かえひっかえ手にしてはまとまった箇所を眺めて過ごし、その夜の夢の素材を蒐集している。

 そのうちの一冊、野崎歓氏の『五感で味わうフランス文学』に「夢の海鮮料理」というマンディアルグ論が収められている。そこに「マンディアルグ の美食家たち[『大理石』の主人公たち]は、「何かどろどろしたもの」を前にひたすら女性的な、受け身な存在と化し、刺激に満ちた異物をわくわく と体内に受け入れ、悦びにむせぶ。そして料理との交わりの結果、夢が胚胎されるのだ」と書いてある。これと関連して、「ある人々にとっては眠りは もう一つの人生であり、一種の長い小説のようなものである」と書いたブリア=サヴァランの『美味礼賛』に、「食餌は夢を規定する」との立場から各 種食物と夢の因果関係を説明したくだりがあることが紹介されるのである。

 野崎氏のいう「何かどろどろしたもの」とは、私の場合、就眠前に無造作に読み散らかした不連続な文章の切れ端が原形をとどめず渾然一体となった 様そのものだ。
 さてこの小論は、『大理石』『燠火』『城の中のイギリス人』『ボマルツォの怪物』『満潮』『海の百合』といったかつて私も愛読した作品群を、そ こに鏤められた形象や事物やイメージのエッセンスを生の触感ごとあまさず手際よく紹介し、そこから海と女、海産物趣味とエロティシズムとの「間然 とするところのない相互浸透」というマンディアルグの最初期からのモチーフを抽出したうえで、「マンディアルグ的な料理の夢、夢の料理はことごと く、娘たちの体を循環する海のエキスへの羨望からあふれ出たものではないだろうか」と結ぶ。まことに陶然とさせられる筆の運びで、その文章自体が 夢見の素材として良質極まりない。

 『五感で味わうフランス文学』は白水社の雑誌「ふらんす」に連載されたものが元になっている(ただし、マンディアルグ論は『ユリイカ』)。同じ く「ふらんす」連載稿をまとめたのが堀江敏幸氏の『郊外へ』で、これもまたまことに香しい散文集である。なお、同時並行的に眺め暮らしている他の 書物たちの名をあげておくと、『おぱらばん』『回送電車』『本の音』の堀江本と丸谷才一『ゴシップ的日本語論』。

★12月17日(土)

 岡田暁生『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』読了。「諸君、脱帽したまえ、名著だ!」

 本書は「音楽の聴き方」についてのガイドである。著者は自著をそう解説している。その意味は「音楽を歴史的に聴く」ということだ。西洋芸術音楽 は「書かれたもの(エクリチュール)」である。そのルーツは中世グレゴリオ聖歌に遡るが、それはまだ日本の声明にも似た一種の呪文(神の言葉)で あって、建築のように設計され組み立てられた「書かれた音楽」ではなかった(8頁)。西洋芸術音楽はまた必ずしも耳に聴こえる必要はなかった。 「音楽は現象界の背後の数的秩序だ」という「特異な考え方こそ、中世から現代に至る西洋芸術音楽の歴史を貫いている地下水源である」(23頁)。 たとえばバッハの偉大さは作曲家にしか理解できず、そのフーガの凄さは楽譜を「読んだ」時に初めて理解できる(89頁)ものだし、その「純粋な運 動感覚」としての面白さは演奏家にしか実感できない(93頁)。

 そのような西洋芸術音楽の誕生と転身、興隆と衰退の歴史を、著者は記譜法や楽器の開発といった技術面、教会・王侯貴族・教養市民といったパトロ ン層や音楽が演奏される場の推移、そして宗教や民族意識といった精神史的系譜との関係をたくみに織り込みながら達意の文章で物語る。躍動感をもっ て綴られるその叙述には過不足がない。あまつさえクラシック音楽という、私たちが好むと好まざるとにかかわらずその中に生きている「音楽環境」も しくは「音楽制度」をあたかも異文化として聴く(いや「読む」)態度へと導いてくれる。

 私がとりわけ惹かれたのは、第二次大戦後の現代音楽の状況を前衛音楽・巨匠の名演・ポピュラー音楽の三つの相に分節して論じ、かつては福音で あった実験・過去の伝統の継承・公衆との接点という三位一体がなぜ20世紀後半以降ことごとく呪縛に転じたかを描く終章だ。著者はそこで「一つ確 実にいえることは、われわれはいまだに西洋音楽、とりわけ一九世紀ロマン派から決して自由にはなっていないということ、その亡霊を振り払うのは容 易ではないということである」(228頁)と語る。そしてその唯一の例外がモダン・ジャズであったと書いている。

《第二次世界大戦以後の最も輝かしい音楽史上の出来事は、私の考えでは、一九五○─六○年代のモダン・ジャズである。大戦前のディキシーランド・ ジャズやデューク・エリントンのビッグバンドやペニー・グッドマンのスイング等は娯楽音楽の領域を大きく超え出るものではなかったが、それに対し て戦後のモダン・ジャズは、一種の「芸術音楽化」の路線を歩んだ。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、セロニアス・モンクやビル・エ ヴァンズ、あるいはバッハ演奏でも知られたMJQなどにおいては、「即興」はほとんど見せかけにすぎない。楽譜として書き下ろしていたかどうかは ともかく、演奏の細部に至るまで、彼らはあらかじめ相当緻密に設計していたはずだ。またマイルスのいわゆるモード・ジャズでは、頻繁にフランス印 象派を連想させる旋法が現れるし、コルトレーンのポリリズム(異なるリズムを並走させる手法)──彼はアフリカやインドの音楽からも強い影響を受 けたといわれる──は、ストラヴィンスキー並の複雑さだ(有名なアルバム《至上の愛》[一九六五年]には、もはや娯楽音楽の要素はまったくな い)。ほとんど「作品」と呼んでさしつかえない構成の緻密さ、そして複雑かつ独創的な音システムの飽くなき探求の点で、モダン・ジャズは西洋芸術 音楽と同様の性格を示しているのである。》(226頁)

 読後あらためて感じたのは、本書の通奏低音をなす二つの要素、すなわち宗教と経済、あるいは西洋音楽の始点に位置する「神の顕現する場としての 音楽」とその対極をなす「商品としての音楽」、そしてそれらの中間にあって両者を媒介する「感動させる音楽」、すなわち西洋音楽のハイライトとし てのロマン派との三つ巴の相互関係の複雑かつ精妙なありようである。本書最終章の末尾に著者は次のように綴っている。

《現代社会において音楽が、ジャンルを問わず経済原理に呑み込まれ、消耗品となりつつあることは確かだ。クラシック音楽であれ現代音楽であれ、あ るいは「世界音楽[ワールド・ミュージック]」と呼ばれる各地の民族音楽であれ、この事情に大差はない。よくポピュラー音楽がその元凶のようにい われるが、…そもそも音楽の商品化は一九世紀西洋ではじまったとすらいえるだろう。それでも今なお音楽は、単なる使い捨て娯楽商品になりきっては いない。諸芸術の中で音楽だけがもつ一種宗教的なオーラは、いまだに消滅してはいない。カラオケに酔い、メロドラマ映画の主題歌に涙し、人気ピア ニストが弾くショパンに夢見心地で浸り、あるいは少ししか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々は心のどこかで「聖な るもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか? 宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の 洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。》(228-229頁)

 神なき時代に生きる人々にとって「聖なるもの」が降臨するもうひとつの場が劇場ではないか。いや、電子テクノロジーと映像技術によって仮想化さ れた映画館こそがそうなのではないか。少なくとも20世紀のある時期、そのような時代があったし、今なおそうなのではないか。たとえば本書の随所 に、名演を収録したCDとともにかつて音楽が聴かれた場を追体験できる映画がいくつか紹介されている。たとえばグレゴリオ聖歌が唱えられた中世修 道院世界(『薔薇の名前』:8頁)、「王の祝典のための音楽」が奏でられたバロック時代の宮廷(『カストラート』『王は踊る』:68頁)など。映 画と音楽のあいだには、(おそらく)いまだ汲み尽くされていない水脈が流れている。

★12月19日(月)

 イグナシオ・マテ‐ブランコの『無意識の思考──心的世界の基底と臨床の空間』(岡達治訳)を買った。以前、『現代思想』(vol.24- No.12,1996)でブランコの「分裂症における基礎的な論理─数学的構造」(廣石正和訳)を読んだことがある。無意識の論理は、科学的な二 値論理を代弁する「一般化の原理」とそれからの違反・逸脱としての「対称の原理」からなるバイロジカルなものである。ブランコはそのように規定し た上で、数学の無限集合論を使って対称の原理の一つの帰結である部分と全体の同一性を考察している。以下に、その「原理」を書き写す。

【一般化の原理】
1.無意識は個体(人間、事物、概念)を、他のメンバーもしくは要素を含む集合もしくはクラスのメンバーであるかのようにあつかう。無意識はこの クラスを、より一般的なクラスのサブクラスとしてあつかい、このより一般的なクラスを、さらにより一般的なクラスのサブクラスもしくは部分集合と してあつかい、以下同様に進んでいく。
1-1.クラスや上位のクラスを選ぶにあたって、無意識は、一面では一般性を増すとともに他面では出発点となった個体の個別的特徴を保持してもい るような命題関数を選好する。

【対称の原理】
2.無意識は、あらゆる関係の逆をその関係と同一のものとしてあつかう。いいかえれば、非対称的な関係を対称的であるかのようにあつかう。
2-1.対称の原理が適用されるとき、時間的継起はありえない。
2-2.対称の原理が適用されるとき、部分は全体とかならず同一となる。
2-2a.対称の原理が適用されるとき、ひとつの集合もしくはクラスのあらゆるメンバーは互いに同一のものとしてあつかわれ、また全体の集合もし くはクラスと同一のものとしてあつかわれる。したがって、それらのメンバーは、そのクラスを定義する命題関数をめぐって互換的なものとなり、また それらのメンバーを区別するあらゆる命題関数をめぐって互換的なものとなる。
2-2aa.無意識は個体を知らず、クラス、あるいはクラスを定義する命題関数しか知らず、それゆえ個体を命題関数であるかのようにあつかう。
2-2aaa.クラスもしくは命題関数は個体の特徴をもつかのようにあつかわれる。すなわち、それらは「拡大された」もしくは「一般化された」個 体のようなものである。
2-2b.対称の原理が適用されるとき、pかつpの否定というタイプに属するものを命題関数とするクラス、つまり定義のうえでは空となっているク ラスが、空でないかのようにあつかわれることがある。
2-2c.対称の原理が適用されるとき、全体の各部分のあいだに隣接の関係はありえない。

 この論文も含めてブランコのことは、中沢新一『対称性人類学』(カイエ・ソバージュⅤ)でも再々言及されていた。ブランコの研究は、中沢人類学 (対称性人類学)において、神話の思考と無意識を結ぶ最後のリンクであったという(7頁)。

 神話の思考の特徴は、現実世界の非対称性を反転する対称性の論理、イメージの圧縮や置き換えによる高次元的リアリティの表現、全体と部分がひと つながりになる「クラインの壺」の構造(高次元トポロジー)の三つに要約できる。レヴィ=ストロースは「神話は無意識のおこなう思考である」と 語った。だとすると、ここにあらわれた特徴はすべて「無意識」のうちにそっくりみいだされなければならないはずだ。無意識といえば精神分析学の特 権的な研究分野だったわけだから、精神医学の側からこのような視点に立って無意識を描いた研究がどうしてもほしくなってくる。こうして中沢氏はブ ランコをもちだすのである(52頁)。

 そこで取りあげられるブランコの著書は『無限集合としての無意識──複論理[バイロジック]の試み』(The Unconscious as Infinite Sets──An Essay in Bi-logic,Karnac Books,1975)である。本書『無意識の思考──心的世界の基底と臨床の空間』(Thinking,Feeling,and Being──Clinical Reflections on the Fundamental Antinomy of Human Beings and World,1988)はそれ以後に書かれた著書で、訳者まえがきによると、ここに展開されているのは「無意識という“多次元空間・無限次元空間”の鳥瞰 図」である。
 買いためて読み囓っては放置したままの本が山積みになっている。いつ読めるかわからないが、もしかするととんでもない鉱脈が『無意識の思考』の うちに眠っているかもしれないと私の直観が告げる。年末年始にでも読めればいいと思うが、どうなるかわからない。

★12月23日(金)

 昨日まで二泊三日で東京へ出張。旅先ではいつもきまって食べ過ぎる。食いっぱぐれるのをおそれるからだが、とうに夕食をすませているのにコンビ ニでカップ麺やらバターピーナツやらを買ってホテルに持ちこみ、買った以上は食べないともったいないと思って胃腸薬といっしょに胃に押しこむのは どう考えたって倒錯している。寒波には負けなかったけれど、おかげで躰の調子がおかしくなって頭がぼおーっとしている。

★12月23日(金)

 二泊三日の東京出張で読んだのは薄い文庫本三冊。まず、ちくま学芸文庫から先月出たジョルジュ・バタイユの『ランスの大聖堂』(酒井健訳)。本 文が150頁で、訳者の解説やあとがきが50頁。本文にも詳細な訳註や図版がついていて、読むだけなら新幹線で新神戸から東京までの2時間少々で 十分読み終える勘定だが、なにしろバタイユのテクストは訳者がいうように「寝転がって読めるだとか、通勤電車のなかで楽しめるといった気楽な読書 からは程遠い」代物だから、二つか三つの短いテクストを繰り返し読んでいるうちあっという間に予定の時間が過ぎていった。

 ちくま学芸文庫からはこれ以外に『文学の悪』(山本功訳)と『エロスの涙』(森本和夫訳)と『宗教の理論』(湯浅博雄訳)と『呪われた部分 有用性の限界』(中山元訳)と『エロティシズム』(酒井健訳)の五冊が出ていて、いずれも読み囓ったまま。バタイユの著書は学生の頃、チェーザレ・パ ヴェーゼの作品とともに『眼球譚』や『空の青み』といった小説に熱中して以来、これまでから何度も何度も読んできたが、小説作品以外まともに最後 まで読み通せたためしがない。これを機に、ピエール・クロソウスキーともども集中的に読みこんでみたいという思いが募ってくるけれど、当面の「読 書計画」にもぐりこませるのは至難の業。文庫カバー裏の紹介文がよく出来ていたので、書き写しておく。

《21歳での処女出版『ランスの大聖堂』と、第2次大戦前後の重要テクスト選集。1918年の表題作は信仰時代の青年バタイユの貴重な証言であ り、すでに聖性における究極の脱自という生涯のテーマがうかがわれる。ほかに、信仰放棄後の地母神と大地の闇に光を当てるディオニュソス的母性 論、消尽のエネルギーを論じるプロメテウス=ゴッホ論など『無神学大全』の思索の原型から、戦後のシュルレアリスムへの逆説的擁護や実存主義との 対決、凝縮されたイメージに神を透視する論考など17のテクスト。バタイユ最初期から中期のエッセンス。》

 旅先で読んだあとの二冊は、新潮文庫の『桜の園・三人姉妹』と『かもめ・ワーニャ伯父さん』(神西清訳)。いわゆるチェーホフの四大劇。いずれ も同じ神西清訳の中公全集版で読んだことがあるし、文庫もたぶん持っている。チェーホフの戯曲のなにがこれほど面白いのか、それを言葉で説明する ことはむつかしい。「静劇」と呼ばれるチェーホフ独特の舞台空間。そこでは出来事らしい出来事が何も起きない。出来事はすべて舞台の外で進行す る。そういった言い古された言葉が、しかしそうした言い方でしか表現できないある空虚な実質をともなって、チェーホフの戯曲を読むという体験とと もに立ちあがってくる。

 それにしてもチェーホフの戯曲を読むというポジションには独特のものがある。その昔、宇野重吉の『チェーホフの『桜の園』について』を読んで、 なるほど演出家とはこういうふうに戯曲を読むのかと感心し(具体的な中身はまるで覚えていないが)、同時にチェーホフの戯曲がはらんでいるある過 剰なもの、そしてそのことと表裏をなすものとしてのある過小さ、もしくは意図的に書き込まれていないものが読み手の側の解釈や批評へ向けた欲望を かきたてる、そうしたチェーホフ独特の作劇術に驚きかつ魅了されたことがある。昨日、一昨日と続けて読み耽ってみて、あらためてそのことに思い 至った。いったいどうしてこれほどまでに面白いのか。面白く読んだのならそれでいいじゃないか、ではなぜか納得できないのである。

 バタイユと並べて読むのにふさわしかったかどうかは何とも言えないが、とつぜんチェーホフの戯曲を読んだことには訳がある。先日、なにか新刊書 をサクサクと読みたくなり、タイトルに惹かれて『チェーホフの戦争』(青土社)を買った。数頁読んで、この文体はあの『よくわからないねじ』や 『茫然とする技術』で「脱力感みなぎる」エッセイを書いている宮沢章夫の文体だと思いあたって、著者名を確認するとやはり宮沢章夫だった。この人 の本職は劇作家・演出家で、ネットに残っていた「富士日記」や「不在日記」を読むとたしかに劇作や演出をしているし、小説も書いている。

 そういうことはどうでもよくて、『チェーホフの戦争』をちゃんと読むためには、そこでとりあげられているチェーホフの四大劇をきちんと読み直し ておかないといけないと思ったので、さっそく読んでみたわけだ。チェーホフ熱が再発したのはその余禄のようなもので、ようやく9巻目にさしかかっ た中公全集版をひもといてみるのもいいけれど、「寝転がって読めるだとか、通勤電車のなかで楽しめるといった気楽な読書」のために、旅行からの帰 りに新潮文庫から出ている三冊目のチェーホフ本『かわいい女・犬を連れた奥さん』(小笠原豊樹訳)を買ったのだが、これもたぶん持っている。

★12月24日(土)

 宮沢章夫『チェーホフの戦争』読了。書名に惹かれて衝動買いをして、それほど期待もしないで読み始めたらたちまち引き込まれ、とうとう最後まで 一息に読み切ってしまった。息継ぎを忘れたわけではないが、気分としてはチェーホフの四大劇を幕間の休憩もなしに一気に観終えてようやく一息つい た感じ。思わぬ拾い物だった。拾い物どころか、これは画期的に面白い名著だ。

 どこが画期的かというと、まず『桜の園』=バブル経済下の「不動産の劇」、『かもめ』=高度消費社会とフェミニズムの文脈で読まれるべき「女優 という生き方をめぐる劇」、『ワーニャ伯父さん』=リストラ中年男性の鬱を若い女性の視点から身体化した「憂鬱の劇」、『三人姉妹』=仄暗い未来 の予兆に苛まれた「戦争についての劇」と、資本主義経済が極まった1980年代後半から「戦争前夜」ともいえる現代にいたるここ20年の日本の社 会状況、とりわけ経済と政治の趨勢をたくみに重ね合わせながら、チェーホフの戯曲がもつ「現在的な読みの可能性」(183頁)を鮮やかに引き出し てみせた宮沢章夫の手腕が素晴らしい。
(本の腰巻きにはこう書いてある。「「資本」をめぐる四つの悲しい喜劇」。「土地、女性、自殺、戦争……没後百年を経て、ますます生々しさをます チェーホフの4大戯曲を、気鋭の劇作家/演出家が精緻に読みとき、現代の〈戦争〉にそなえるための構えを模索する傑作評論」。)

 その手腕が存分に味わえる本書の読み所は、「ある目的、つまり「あるせりふ」を言わせるための伏線を緻密に組み立てるきわめて構築的な作家であ る」(202頁)チェーホフの戯曲に対して、かのエッセイ群でいかんなく示された宮沢章夫の細部(と細部の関係)への、いささか狂気じみたこだわ りがものの見事にフィットしているところだろう。「人々のやりとりのあいだに、ひっそり埋め込まれている」(207頁)不可解なせりふへの注視を はじめ、人物の登場や退場の仕方、衣装や年齢や場所についての指示、舞台の外から聞こえる音、「間」、「舞台空虚」等々のさりげなく記されたト書 きへの注目。

 演出家ならではの着眼点といいたいところだが、そうではない。それらはチェーホフの場合「わざわざ」書き込まれている。「こうした細部にこそ見 落とすことのできない劇の核心があるとも読める」(202頁)。だからこそ細部を読み解かないかぎり、戯曲を戯曲として「読解」するという本書の ねらいは果たされない。すなわち、劇は動かない。チェーホフがその戯曲のうちにしかけた運動性のようなものが見えてこないのである。

 しかしこの本の本当の面白さは、そうした戯曲「読解」の趣向や手法や技倆だけにあるのではない。いま「本当の面白さ」と書いたが、面白さにホン モノとニセモノがあるわけではない。AかBか、否定の否定は肯定であるといった単純な論理でチェーホフの戯曲や宮沢章夫の文章を読むほど愚かしい ことはない。「本当の面白さ」は、ホンモノとニセモノの区分のもう一つ外側にある。

 チェーホフの作品は上演当時「静劇」と呼ばれた。舞台の上では何事も起こらず、舞台の外で事件は起こる。宮沢章夫は本書で、「チェーホフの劇作 法として特徴的な、「舞台上に起こっている出来事と、その外部で発生している出来事」との関わり」(46-47頁)について考えた。そして、陰鬱 で悲劇的な『桜の園』や『かもめ』にきっぱりと記された「喜劇、四幕」の意味について考えた。その「読解」の結果、宮沢章夫が見出したものは、 チェーホフ的な「醒めた目」(55頁)であり、「メタレベルで演劇を見ているチェーホフの視線」(65頁)であり、「空虚を表現として出現させる チェーホフ特有のイロニーに充ちた技法」(198頁)であった。

 たとえば『三人姉妹』第一幕ト書きで「円柱のならんだ客間。柱の向うに大広間が見える」と指示された舞台空間をめぐって、宮沢章夫はこう書いて いる。

《舞台に二つの空間が設定されている。「大広間」とは隔離された場所(=客間)を設けることによって、たとえばイリーナとトゥーゼンバフだけが 残ってマーシャについて語るように、「客間」に二人の姿だけが残され、ほかの者らに会話を聞かれないようにするのは、ごく単純な技法として読め る。けれど、空間そのものが表現としてあるとも想像できるのは、なにしろ、「広間では一同テーブルにつく。客間には人影がない」と書かれたとき、 「人影がない」というその空虚さが、まず一番に観客の目にも届くものだからだ。空虚を通して「円柱」の向こうで演じられる劇を見ることになる。同 時に、舞台に広がるのは、先にも書いたような「朗らかさ」である。「朗らかさ」を裏付ける照明の光は、舞台を覆うように降り注ぐと想像できるが、 空虚を表現として出現させるチェーホフ特有のイロニーに充ちた技法によって、幾重にも光は屈折し、登場人物たちをまた異なる姿として出現させるだ ろう。》(197-198頁)

 「メタレベルで演劇を見ている」のは作家チェーホフであり、同時に批評家宮沢章夫である。その「メタレベル」においてこそ、桜の木に斧を打ち込 む「遠い音」がバブル経済の槌音と響き合い、妊娠した女優に向かい「女優だったらその窓から飛び降りてみろ」と言い放つ演出家の言葉にこめられた 演劇集団の生‐政治性が浮かび上がり、47歳のワーニャの鬱が同年齢の宮沢章夫や石破防衛庁長官(イラクへの自衛隊派遣当時)の身体性(の欠如) と通じあい、未来の戦争の予兆に苛まれた「作家の鋭利な知覚」(230頁)がはたらく。宮沢章夫が本書で達成したアクロバティックな、それでいて 身体の運動性にしっかりと寄りそった「読解」は、来るべき「批評」の一つのかたちを示している。

 上に書いたことと直接の関係はないが、以下に、本書を読むために再読したチェーホフの四大戯曲から、印象に残ったせりふを一つずつ抜き書きして おく。

「時どき人間は、歩きながら眠ることがある。」(『かもめ』第三幕でのトリゴーリンのせりふ,新潮文庫『かもめ・ワーニャ伯父さん』68頁)
「この年まで僕は、生活を味わったことがない、生活をね!」(『ワーニャ伯父さん』第三幕でのワーニャのせりふ,同171頁)
「ことによるとおれは、人間じゃなくって、ただこうして手も、足も、頭もあるような、ふりをしているだけかも知れん。ひょっとするとおれというも のは、まるっきり存[あ]りゃしないで、ただ自分が、歩いたり食ったり寝たりしているような、気がするだけかも知れん。」(『三人姉妹』第三幕で のチェブトイキンのせりふ,新潮文庫『桜の園・三人姉妹』192-193頁)
「一生が過ぎてしまった、まるで生きた覚えがないくらいだ。」(『桜の園』幕切れでのフィールスのせりふ,同111頁)

★12月27日(火)

 『NewsWeek』年末恒例の特集「ISSUES 2006」を読んだ。キーワードは「知の経済」。あいかわらずきびきびした文章と冴えた視点と(それに賛同できるかどうかは別として)明確なスタンスを もってバランスよく配分された記事。記憶に残った箇所を抜き書きしておく。

 その1.「IQマグネット」(最先端の知識や才能が集中している地域)なる語を考案したビル・ゲイツが「考えるソフトが導く新世界」で、情報と は異なる知識の奥深さについて書いている。「今こそ成長のチャンスなのだが、知識の活用は意外に難題だ。知識は情報に比べて伝達しにくく、より主 観的で、簡単に定義できない」。「しかしソフトウエアが知識を合成したり、管理するのにも役立つようになってきた」。「ウェブで情報を検索するよ うに、世界トップクラスの思考にアクセスできるようになれば、ビジネスや科学や教育に革命が起きるだろう。それは私たちの思考法を変え、真にグ ローバルな知識経済を実現する一助になる」。
 そうした検索システムの一つが、WWWを考案したコンピュータ科学者ティム・バーナーズリー(MIT)が提唱する「セマンティックウェブ」だ。 ウェブ上の個々の情報に、主語・目的語・述語のように機能する3つの「しおり」をつけることで、情報を知識に変える検索エンジンをつくろうという ものである(「検索は頭脳派エンジンで」)。よくわからん。

 その2.知の経済の眼目は「共有」にある。「経済学の父アダム・スミスは市場のメカニズムを「神の見えざる手」と形容した。それが今、「見えざ る握手」に形を変えようとしている」。それはピア・トゥ・ピア(P2P)やオープンソースのソフトウェアやSETI@homeやウィキペディアな どに現われている。「コンサルタントや学者はこうした現象を定義する言葉を模索しており、「創造性の分配」とか「協業生産」などといった用語が生 まれている。呼び名はどうであれ、根底にあるのは知識を共有すればそれが報われるという共通概念だ」。「従来の利己主義と競争に基づく経済モデル はオープンソース哲学の圧力にさらされ、「幸福を探る科学」に変身した。経済的な利益以上に人を満足させるものは何か。その答えの一つは、他者と 密接につながって世界を動かす役割を果たすことにあるだろう」。「重要なのは、集団は個人よりも多くの情報を蓄積することができるということだ。 知識は力だ。決してヤワな力ではなく、本物の力である。これにはアダム・スミスも同意するはずだ」。以上、「「知識力」を分かち合う選択」から。

 その3.何事にも光と影がある。「「知の経済」の落とし穴」によると、知識経済の最大の弱点は無知である。「データベースや音楽のダウンロー ド、金融取引……現在の私たちはこうした「ミクロの知識」にどっぷり漬かっている。(略)しかし一方で、歴史を動かす偉大な力となる「マクロの知 識」が存在する。新たなアイデアやテクノロジーが生み出す社会的影響、政治や社会制度の変化、地政学的な関係の進展、文化の変容などに関しては、 私たちは昔も今も無知なままだ」。イギリスの歴史家ニアル・ファーガソン(ハーバード大学)は現代と第一次大戦前の類似性を指摘している。 「ファーガソンがとくに注目しているのが、経済学と地政学の断絶だ。(略)金融市場は迫り来る危機を察知せず、株価や金利といったリスクを知らせ るはずの指標はなんの信号も発しなかった。「ヨーロッパで最も情報に精通していた人々が、(開戦間際まで)戦争は起きないと考えていた」と、 ファーガソンは語っている」。

★12月28日(水)

 総合雑誌といわれるものを、たまには読む。
 『中央公論』1月号。甲野善紀と内田樹の対談「“学び”とは別人になることだ」を読んだ。ここには叡智の言葉が惜しげもなく鏤められている。

 学びとは商品の売買ではない、「本当の意味での学びのプロセスでは、学ぶ前と後では別人になっている」、だから「これを勉強して何の役に立つん ですか?」と問う子どもに、大人=教師は「僕はこれから君たちの語彙に今存在しないもの、あるいは君たちの価値観では価値として認知されたことの ないものを伝える。語彙にないことだから、それが何の役に立つのかを君は決して自分で自分に説明することができない。だから、黙って聞け」と告げ ることしかできない、と内田。

 小学校は国語と歴史と体育があればいい、国語はコミュニケーションを取るために絶対必要、あとは理科も算数も社会も全部歴史の中で「人間が何を 発見し、何をやってきたか」をまとめて、しかも体を通して学べばいい、体育とは「体を通して表現や、モノを感じることを学ぶ」ということだ、また 学校では宗教とは何なのかを考えさせるべきだ、空海が唐で学んだことやなぜ親鸞が法然にこだわったかなどをもっと踏み込んで教えるべきで、「人が 生きるとは何なのかを考えさせないと、学びの意味がない」、と甲野。

 養老孟司の連載「鎌倉傘張り日記」は「「先生」が成り立たない時代」と題して、内田樹の『先生はえらい』を絶賛している。
「つい先日、体育学会で講演したら内田氏が来ていた。仏文科の教授がなんで体育学会なのだ。もっとも他人のことはいえないので、死んだ人を解剖し ていた人間が、なんで体育学会なのだ、死んだ人の体はもう育たない。/つまり先生とはそういうものなのである。なにがどういうものか、さっぱりわ からないであろうが、内田氏は合気道もやるのである。私はそういう類のものは一切やらない。虫を捕るだけである。それも上手ではない。虫捕りなら 私より上手な人はいくらでもいる。/武道家としての内田氏は、先を取ることにかけては専門家である。それをとことん詰めていくと、内田流教育論が できる。それが『先生はえらい』なのである。」

 そのほか、鷲田清一「〈老い〉はまだ空白のままである」も読んだ。

「〈老い〉は、…できないことが一つひとつ増えてくる時期であるとともに、みずからの〈死〉への待機の時期でもある。自分が待機中であることが、 じわりじわり意識されるようになるのが、〈老い〉というものである。なのに、〈老い〉を一人ひとりがどのように迎えるかが問われるよりも先に、 〈老い〉が匿名のままで、まずは「問題」としてしか話題にならないのは、いったいどういうわけか。」
 最後に引用された中井久夫(『看護のための精神医学』)の言葉。「成熟とは、『自分がおおぜいのなかの一人(ワン・オブ・ゼム)であり、同時に かけだえのない唯一の自己(ユニーク・アイ)である』という矛盾の上に安心して乗っかかっておれることである」。

 『文藝春秋』1月号。養老孟司「司馬遼太郎さんの予言」を読んだ。
 このところしばらく遠ざかっているけれど、司馬遼太郎の文章にはまると中毒になる。一つの小説、エッセイ、紀行文、講演、対談、なんでもいい が、読んでも読んでも読了感が伴わない。司馬遼太郎という巨大な作品があって、あたかもそれはその人が一秒ごとに一文字ずつ刻むことで編纂された 無尽蔵の活字の連山であるかのようなのだ。(ためしに計算すると、50年間文字通り寝食を忘れて書きつづけたとしたら、400字詰めで400万枚 に達する。)だから一冊読み終えると、連載小説のつづきを読むようにして次の書物へ、さらに別の書物へと、怒濤の数珠繋ぎに邁進してしまう。こう いうのを「司馬漬け」と名づけてきた。

 養老孟司の文章にもそれに似たところがある。なにを読んでも、いくら読んでも、一つの巨大な生きた作品のほんの一部を読んでいるにすぎないよう なもどかしさ、というか未読了感が伴って、次から次へと手を出してしまう。そこには、あたりまえのことだが、養老孟司にしか書けない文章の質、人 格ならぬ文格、「養老節」というしかない文体がある。

 なにを読んでも結局同じことしか書かれていない。そう言ってしまうとかなりニュアンスが違う。なにか「原理」と呼びたい言葉以前の身体のあり様 に根ざした論理の湧出点があって、そこから事象に即してこんこんと言葉が湧きだしている。それが、司馬遼太郎と養老孟司に共通するものだ。「司馬 遼太郎さんの予言」からそれを言い表した言葉を拾うならば、「相対思考」(神=絶対にもとづく西洋的思考に対する、如来=相対にもとづく日本的思 考)、世間知と結びついた柔軟な「無思想の思想」、「リアリズム」、身体を目一杯使って感覚で生き抜く「職人的発想」、そして「大きな耳」(人に は「口の大きな人」と「耳の大きな人」の二つのタイプがある、と養老さんは書いている)といったところだろうか。

 「『街道をゆく』がその典型だが、司馬さんは実際にその場に足を運び、対象の前に立ち、何かを見て、何かを感じることを大切にしていた。その 「大きな耳」で、過去の膨大な資料から聞こえてくる音を漏らさず聞き取りながら、「大きな目」で視野に飛び込んでくる光景を捉え、自分の考えを 養っていた。/私もまた、全国各地に講演に出かけ、ブータンなどに逃げたりしては、道端や森の植生などをじっと見ている。私にとってそれは「解 剖」の一環で、対象は人体だろうが自然だろうが手法は変わらない。私と司馬さんの似ているところは、案外このあたり、「よく見る」というところに あるのかもしれない。そういう意味で司馬さんは社会学者、いや、もっといえば科学者に近い目線を持っていたように思う。」

 そのほか、「世界に輝く日本人20」の中の「ハルキ文学は三島を超えた」を読んだ。

★12月29日(木)

 最近買った本。
 その1.『小林秀雄対話集』(講談社文芸文庫)。9月に刊行されたときから、いずれ購入して読むことになるだろうと思っていた。実際、翌月ほと んど買いかけていたのにレジに向かう寸前になって気が変わり、結局『柳田國男文芸論集』を選んだ。『文芸論集』には、小林秀雄が講演「信ずること と知ること」でとりあげた『山の人生』について自ら語る一文が収められているので、まんざら関係がないわけではない。年末年始の休みを、小林秀雄 と柳田國男で過ごすことにした。手にした『対話集』は12月1日発行で第五刷。よく売れているのだ。

 その2.ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』(岩波文庫)。木田元さんによると、ハイデガーのネタ本。6月に書店で見かけたときに速 攻で買っておくべきところ、なにかの事情で他日を期したらいくら探しても見当たらなくなった。入手したのは9月24日発行の第四刷。この本もよく 売れている。

 最近読んだ本。
 その1.佐々木力『数学史入門──微分積分学の成立』(ちくま学芸文庫)。やや期待がはずれた。「ユーラシア数学」という聞き慣れない言葉に胸 躍らせて、驚愕未聞の精神史的考察の書をイメージし、勝手な期待を膨らませすぎたのかもしれない。それでも、本書からは十分な刺激を受けた。その 一端を記録しておくと、ギリシャ数学には証明や理論の公理論的整序の側面とともに発見的側面があり、前者は「総合」(シュンテシ ス:synthesis=composition)、後者は「解析」(アナリュシス:analysis=resolution)という語彙と結び つけて理解される(53頁)。ここに出てくる‘composition’は「結論」の章での音楽の話題と響きあう。十二音技法とブルバキズムの類 比性(203頁)。数学における言語的思考様式の転換と音楽における「様式」(Stil;style)の変容の類似性(207頁)。また ‘resolution’は非ギリシャ世界がもつ具体的・実践的な真理観、たとえば中国のプラグマティックな数学観につながる。それはニーチェの 「力への意志」の発現たる「歴史内存在」としての数学にもつながっていく(211-212頁)。このあたりのことは、今後ボディブローのように効 いてくるだろう。

 その2.小林恭二『俳句という遊び──句会の空間』(岩波新書)。八人の俳人による二日間の句会の全記録。仕掛け人兼評者兼記録者の小林恭二の 文章が実にいい。俳句評がいい。俳人評がいい。俳句史の挿入もいい。コンテンツ一つひとつに藝と味があり、配列編集に妙と技がある。ルポルター ジュ(句会録)として出色。あまつさえ、そこには俳句という切り口からなされた現代の文芸のあり方に対する鋭い批評がある。「わたしは現代俳句が 半ば意識的にこのコミュニケーションとしての句会、つまり全員が同じ立場に立って俳句を流通させる句会、をおろそかにしたことは、一種痛恨事だと 思っている」(249頁)。しかし「コミュニケーションとはある種の結果であって、目的ではない」(252頁)。それでは、句会の目的とは何か。 答えは簡単である。いわく、大人の遊びの空間。すなわち、座。収められた全句中、飯田龍太の「百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり」が強く記憶に残った。こ の句そのものより、高橋睦郎の評「その句面白いね。なんか伊藤若冲の絵みたいで」の印象が強烈。

 今年は歌の凄さに目覚めさせられたが、俳諧の世界も深い。『新々百人一首』(丸谷才一)につづきほぼ毎夜就眠前に読み進めてきた『完本 風狂始末』(安東次男)は「狂句こがらしの巻」がようやく終わった。とても適わない。凄すぎる。深すぎる。しばらく休み、萩原朔太郎『郷愁の詩人 与謝蕪村』を読んでいる。「うは風に音なき麦を枕もと」の評釈にこう書かれている。「俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得る のは、日本語の特色たるてにをはと、言語の豊富な連想性とによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である。そしてこの長所は、日本語の他 の不幸な欠点と相殺される。それ故に詩を作る人々は、過去においても未来においても、新しい詩においても古い詩においても、必須的に先ず俳句や和 歌を学び、すべての技術の第一規範を、それから取り入れねばならないのである。未来の如何なる「新しい詩」においても、和歌や俳句のレトリックす る規範を離れて、日本語の詩があり得るとは考えられない。」(50頁)

 そのほか、折口信夫『日本藝能史六講』(講談社学術文庫)と三浦展『団塊世代を総括する』(牧野出版)と池谷裕二・糸井重里『海馬──脳は疲れ ない』(新潮文庫)と山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)と星野之宣『宗像教授伝奇考』第一巻と星野之宣自選短編集『MIDWAY 歴史編』と同『宇宙編』と館淳一『触診』(幻冬社アウトロー文庫)を読了。川崎謙『神と自然の科学史』と北沢方邦『音楽入門』も読んだが、これらは改めて とりあげる。

★12月30日(金)

 川崎謙『神と自然の科学史』読了。こういう本を読みたかった。
 第Ⅰ部で、ロゴス(言葉=神)の枠組みの中で展開された西洋形而上学と西洋自然科学(自然哲学)の歴史が簡潔的確に叙述される。これと対比させ ながら第Ⅱ部では、道元によって日本的に変容された諸法実相の枠組み(五感にふれる万物にカミの霊性の「活らき」をみる神道的心情)における自然 の実質があますところなく摘出される。漱石の作品から安藤昌益『刊本・自然真営道』序へ、親鸞「自然法爾書簡」、道元『正法眼蔵』第四三「諸法実 相」、『臨済録』といった仏教書、はては吉田兼倶『唯一神道名要集』、山脇東洋『蔵志』、杉田玄白『蘭学事始』へと、原典を参照しながら、西洋的 世界観という鏡がなければたぶん見えなかっただろう「日本自然科学」(著者がそういう言葉を使っているわけではない)の過去とそのありうべき未来 への見通しを描く後半部が素晴らしい。

 「アヒル‐ウサギ図」というものがある。ゲシュタルト心理学者のJ・ジャストローが考案した図で、左を向いたアヒルと右を向いたウサギが合成さ れてできている。アヒル文化人(古代ギリシャ人の方法で考える西洋人)はこれをアヒル(ネイチャー=神の被造物)と言い、ウサギ文化人(「ことあ げせぬ国」の日本人)はこれをウサギ(自然=無上仏)と見る。それ自体はインクのしみにすぎない無意味な素材が、言語のなかに織り込まれた世界観 を通じて二つの秩序に分岐する。ネイチャーという書物に隠された神の創造の秘密を読み解き、自然「を」学ぶアヒル文化人。「われわれに隠されてい るものはなにも存在しない」と考え、自然「に」学ぶウサギ文化人。後者にとって実験とはエクスペリメントではなくエクスペリエントであり、観察す るとはオブザーブではなくコンテンプレートである。「源信の説く念仏は仏のすがた(色相)を観察することであった」(中村元『日本人の思惟方 法』)。いま、任意にとりだしたのは本書の議論のほんの一例にすぎない。

★12月31日(土)

 北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』読了。
 荘子は音楽を「天(宇宙)の音楽」「地(自然)の音楽」「人間の音楽」に区分した。著者は本書の前半(第一章~第三章)で、わが国の古代を含む 環太平洋文明圏における「スリット・ドラムまたは太鼓という楽器の象徴論」を探る旅をかわきりに、日中の雅楽、バリ・ガムランからインドへと、野 生の思考(神話的思考)にもとづく「宇宙論的音楽」の諸相をたどる。後半(第五章~第七章)では、西欧社会における「人間の音楽」の登場と挫折と 没落を、16世紀の宗教改革にはじまり、ロマン派による「主観性の反乱」やドビュッシー、ラベル、ストラヴィンスキーらの「革命」(人間の音楽= 主観性の音楽からモノとしての音へ)を経て、二つの大戦後の「記号的ニヒリズム」へといたる一つづきの物語として描いている。そして最後に、音楽 における身体性と種族性(エスニシティ)と宇宙論の復権によって音楽という記号の意味の回復をはたす「世界音楽」(ゲーテ・ベートーヴェン的な意 味での)を提唱している。

 いずれも濃厚な刺激に満ちた文章だが、とりわけ前半(東方)と後半(西方)をつなぐ第四章「われ楽園にありき──楽園または神の国の音楽」が素 晴らしい。そこに描かれた中世イスラームの神秘主義者(スーフィー)たちが奏でる象徴的・抒情的な「声のアラベスク」の物語はこよなく美しい。本 書のあとがきに著者は次のように書いている。

《われわれはいまこそいっさいの偏見から離脱し、西欧に限らず世界音楽を「世界音楽」として認識しなおさなくてはならない。/アフガニスタンやイ ラクでの戦乱や危機以来、その多くの犠牲や破壊のうえに成立した唯一の収穫は、中近東やイスラーム文明についての知識が、一般的にひろまったこと である。だがそれは知識にとどまり、理解にまでいたってはいない。異文化の理解とは、それがわれわれの感性や身体性にまで訴えかけたとき、はじめ て生まれるものである。/私にとっては、イランやアラブの古典音楽に親しみ、イスラーム寺院や宮殿の建築を、その壁のみごとなアラベスク模様、あ るいは楽園の模像としてのアランブラやヘネラリーフェの庭園などへの賛嘆があったからこそ、それらの知識は身近なものとなり、イスラーム文明への 理解が進んだといえるだろう。/世界音楽を「世界音楽」として認識する、というのはそのことである。》(221-222頁)

 壮大な見通しのうちに人類がこれまで音楽との間に結んできた関係の総体がコンパクトに凝縮された入門書で、その細部を精緻に拡大し、実際の音響 体験と著者の深甚な学殖とでもって本書に記載されなかった情報と知見を補填していけば、途方もない書物が完成するであろう。ウェーベルンとアル ヴォ・ペルトにこよなく惹かれる私の個人的な関心をいえば、20世紀初頭の「革命」後、「いったんモノに還元した音は、だが二つの方法によって意 味の伝達を可能とする」と書かれているところをもっと噛み砕いて解説してほしかった。(このあたりのことは、佐々木力『数学史入門』に出てきた十 二音技法とブルバキズムの類比性や中国数学のプラグマティズムといった話題にも関係してくるように思う。)

《つまりひとつは、音の鋭く複雑な波濤のなかに民族的素材がみえかくれすることによって、それらの旋律が表現していた古風で温かな世界を喚起し、 不安と苦痛にみちた現代と対比する。/もうひとつは、古典主義の形成を変形──黄金分割やフィボナッチ数列にそって導入したり──しながらも忠実 に踏襲することで、たとえばベートーヴェンの、とりわけ後期の作品との類比を可能にし、古典の意味論の先鋭な現代化であることを暗示する。》 (186-187頁)