「心に残った本」(2005-2022)
☆2006
★1月1日(日):2005年に読んだ本(その1)
2005年・私のベスト3というものを「発表」しようと思って作業を始めたら収拾がつかなくなり「1次選考」で頓挫した。(永井均『私・今・そ
して神』と内田樹『他者と死者』は当確だが、これはむしろ2004年版に分類すべきもの。)そこで、昨年中に読み終えたか「書評」を書いた本のう
ち心に残ったものをジャンル別に、しかし順不同で並べてみることにした。もっと絞り込みをかけたいけれど、それを始めるとまた混乱する。6回シ
リーズの予定。
◎永井均『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書:2004.10)
本書の平易で丁寧で率直な語り口は、これで分からなければそもそも「分かる」とはどういうことかと問いたださなければならないほどに分かりやす
い。それなのに、肝心なところでいまひとつ分かった気がしない。分かったと思ったとたん、何が分かったのだったかが分からなくなる。それが、そう
いう経験を「思い出す」ことが、永井均の本を読むということの意味だと思う。
◎内田樹『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』(海鳥社:2004.10)
昨年『死と身体──コミュニケーションの磁場』に続いて読んだ内田樹の『他者と死者』は、これまでに読みえたレヴィナス本やレヴィナス関連本の
なかでも群を抜いたとびきりの面白さだった。私の年間ベストどころか、もしかすると生涯にわたるベスト作品の候補にノミネートされるべき本かもし
れないと思う。
◎大森荘蔵『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫:1994.7)
大森荘蔵の文章を読むたび、その理路に圧倒され、かつそこに「無理」を感じる。言葉や概念が少しずつ「人間的な」意味を剥奪され、言葉以前、概
念以前へ、古代のギリシャ人が「ピュシス」と呼んだものの方へとなだれこんでいく。本書には「自然の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の
心」といわれるものにほかならないのだから、その意味で私と自然とは一心同体なのである」と書かれているが、そこには「一体感」を感じる私はもう
いない。もちろんそのような私(「私の心」)などいなくなってもいいのだが、人は論理でもってそのような境地には導かれない。
◎古東哲明『他界からのまなざし──臨生の思想』(講談社選書メチエ:2005.4)
骨太の叙述。すなわちクリプトグラム(墓碑銘・暗号記号)としての哲学書。ほとんど詩(古代ギリシャの哲人の訥弁で語られたな叙事詩)と見紛う
文体で綴られたこの書物には、しかし実質的なこと(古東哲明の思想)は何も書かれていない。読み終えて何も残らない。幸福な充填と愉悦に満ちた空
虚(密儀としての読書)。
◎上野修『スピノザの世界──神あるいは自然』(講談社現代新書:2005.4)
考えているのは自然(事物)であって、私(精神)ではない。本書のキモは次の文章のうちに凝縮されている。「スピノザの話についていくために
は、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならない。精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念があ
る、という雰囲気で臨まなければならない。」
◎湯山光俊『はじめて読むニーチェ』(洋泉社新書y:2005.2)
この本は第二章が圧倒的に素晴らしい。湯山さんはそこで、ニーチェが発見・発明した三つの概念(アポロンとディオニュソス・永遠回帰・力への意
志)と二つの心理学(ニヒリズム・ルサンチマン)と四つの文体=方法(詩・アフォリズム・キャラクター・系譜)を、ニーチェの生理と生涯とその著
作に、そしてデリダやドゥルーズやアドルノなどに関連づけて解説している。わけても文体論が画期的に素晴らしい。この本のハイライトをなすと同時
に、その叙述のいたるところに湯山さんの独創がちりばめられている。
◎木田元『ハイデガー拾い読み』(新書館:2004.12)
この本はけっして読み急いではいけない。木田元の名人の域に達した語り口にゆったりと身をゆだね、逐行的に細部を味わいながら読まなければいけ
ない。「〈実在性〉と〈現実性〉はどこがどう違うのか」とか「「世界内存在」という概念の由来」とか「古代存在論は制作的な存在論である」とか、
これまでから木田元の著書で何度も何度も繰り返し取り上げられてきた話題が延々と続く。落語の十八番のように。読むたび新しい刺激を受ける。物覚
えが悪くなったのを嘆くより、何度でも愉しめることを歓ぶべきで、これも「生きる歓び」の一つだろう。
◎野矢茂樹『他者の声 実在の声』(産業図書:2005.7)
大森荘蔵の『流れとよどみ』にかかわった編集者に声をかけられて生まれた本だという。本書に収められた「「考える」ということ」というエッセイ
に次の文章が出てくる。「なめらかな言語ゲームの遂行において思考を見て取ろうとしたウィトゲンシュタインはまちがっている。われわれは、思考を
論じるにあたって、むしろ目を言語ゲームのよどみへと向けねばならないのではないだろうか」。この「言語ゲームのよどみ」において聞こえてくるの
が、「言語の外」から届く野生の他者(「意味の他者」=たとえば哲学者)の声であり実在の声なのである。「私に意味を与えよ」。「さあ、語り出し
てごらん」。「言語の外」は語りえない。しかし語りうる世界(言葉の内=論理空間の内部)は変化する。この語りの変化のうちに他者の姿は示され
る。だから「語りきれぬものは、語り続けねばならない」。これが野矢茂樹のテーゼである。哲学的問題の感触の残り香に身を浸した読者もまた、こう
して読み続けることになる。
◎坂部恵『モデルニテ・バロック──現代精神史序説』(哲学書房:2005.4)
名著『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』の続編ともいうべき本書は、西欧日本を通底する千年単位の精神史的水脈のうちに
近代日本のモデルニテの帰趨を位置付け、来るべき日本哲学の可能性を一瞥する誘惑の書である。本書には多くの謎と挑発が仕掛けられている。無尽蔵
の刺激と創見が言い切られることのない断片隻句のうちに鏤められている。
★1月2日(月):2005年に読んだ本(その2)
◎内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書:2005.1)
こんなに難解でひねくれて謎に満ちた書物を「若い人」に読ませるのはとんでもない。もったいない。秘伝書の中身をこれほどあけすけに語ってし
まっていいのか。いいんです、そこに慈愛があれば。内田樹ほど「近所のおじさん」にぴったりの慈愛の人はいない。
◎前田英樹『倫理という力』(講談社現代新書:2001.3)
生の究極の目的は、決して忙しがらずに美味いトンカツを揚げること、毎日白木のカウンターを磨き上げながら自分の死を育てていくことである。
──この言葉に説得されるだろうか。「在るものを愛すること」という言葉は在るものを愛することへと人を動かすだろうか。もしそうであれば、ここ
にひとつの奇跡が成就したことになるだろう。著者の綴る言葉は熟成したソース(倫理の原液)に浸された芳醇な料理としてさしだされる。
◎森岡正芳『うつし 臨床の詩学』(みすず書房:2005.9)
心理臨床の現場で起こっていること、つまりクライアントとセラピストの対面・会話の場がひらく「中間世界」における言葉と感情の重なり合いと変
様の推移を丹念に綴った書物。著者の紡ぐ言葉は美しい。それにしても 後味のいい本だった。透きとほった静謐感。しんしんと降り積もった透明な雪
片が、まるで無数の倍音をはらんだ音の粒子のように、自らの抽象的な重みと戯れている清涼な沈黙のざわめき。
◎木村敏『関係としての自己』(みすず書房:2005.4)
木村敏の文章にはつねに既読感を覚える。実際、書かれている事柄はこれまでから何度もくりかえし著書でとりあげられてきたものがほとんどだ。微
妙な言い回しや使用された概念の風味のようなものの違いはあっても、そしてアクチャリティとリアリティの概念の差別化など、その論考がしだいに精
緻・精妙化され事の実相に肉迫する迫力は冴えわたっていくとしても、そのライトモチーフとバッソ・オスティナート(通奏低音)はつねに変わらな
い。木村敏における主題と変奏、差異と反復。それを一言で表現すれば「界面の思考」となろうか。
◎森岡正博『感じない男』(ちくま新書:2005.2)
語りえないセクシャリティ(のねじれ)をめぐって、もっと豊かで多様な語り方はないのか。たとえばジョン・ケージが『小鳥たちのために』で語っ
た「キノコの性」のように。あるいは、本書の最後に記された「他人を欲望の単なる踏み台にしないような多様なセックスのあり方」という森岡の性幻
想を直接に語ること。
◎ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳,紀伊國屋書店:2005.4)
四か月かけて読んだ。最初の興奮はしだいに薄れていったけれど、一字一句おろそかにせずに、それでいて自由気儘に、連想、空想、妄想の類の跳梁
を楽しみながら読み続けた。実に面白い書物だった。仮説形成による推論(C・S・パースの「アブダクション」)の醍醐味を存分に味わった。
◎本村凌二『多神教と一神教──古代地中海世界の宗教ドラマ』(岩波新書:2005.9)
人類の文明史五千年のなかで、じつに四千年は古代なのである。あとがきに刻まれたこの一文に、著者の古代地中海世界に寄せる思いが込められてい
る。淡々とした筆致で綴られたこの古代の民族や社会の概念と感性の歴史、神々と言語の物語を手にして、単なる知識や情報の入手に汲々とするのは
もったいない。できればゆったりとした時間の流れとともに、この小冊子の紙背から漂うエキゾチックな香を心ゆくまで堪能し、はるかな土地と時の
人々に思いをはせてみたい。
◎辻信一『スロー・イズ・ビューティフル──遅さとしての文化』(平凡社ライブラリー:2004.6)
気温の変化に合わせて森は一年間に五百メートルまで移動できる。この書物はそのような生物時間、地質学的時間に寄り添いながら、ゆっくりと読ま
なければならない。スローネス、つまり遅さ、慎み、節度をもって、そして過去への畏れと未来へのノスタルジーをもって、ゆっくりと読まなければな
らない。
◎中沢新一『アースダイバー』(講談社:2005.5)
泥をこねて形象をつくること。あるいは、形象のうちに泥をイメージすること。王朝和歌の歌人のように。あるいはサイコダイバー、ドリームナビ
ゲーターのように。それが中沢新一の方法、つまりイメージ界のフィールドワークである。松原隆一郎さんが朝日新聞の書評で「文学的想像力」とか
「遊び心」といった言葉を使っている。まことに適切な評言だ。
★1月3日(火):2005年に読んだ本(その3)
◎養老孟司・玄侑宗久『脳と魂』(筑摩書房:2005.1)
この二人は呼吸が合いすぎている。養老さんがしだいにべらんめえ調(ビートたけし風?)になっていくのがおかしい。細胞=システム=空(=
器)、遺伝子=情報=色(=道)。人間は空であり、言葉は色である。養老システム学と玄侑の仏教がつながる。玄侑「先生はやっぱりあれですよね。
科学の立場だから、口が裂けても「魂」とは言いたくない。」養老「いや。だから言いたくないっていうよりも、魂の定義が出来ないんです。僕の場合
はそれなりに定義するんですよ。だから、システムとしか言いようがないんですよ。」
◎茂木健一郎『脳と創造性──「この私」というクオリアへ』(PHP:2005.4)
良いソムリエは、素人の客との会話の中で「客に合わせてそれまでにないワインについての語り方を生み出すことができる」。第4章「コミュニケー
ションと他者」にそう書いてある。「よいソムリエというのは、客が何かを言った時に、その場で口から出任せを発することができるクリエーターなの
である」。この「口から出任せ」こそ会話がもつ創造性の基点であって、「私たちは脳から外に言葉を出力してはじめて、自分が何を喋りたかったのか
が判るのである」。けっして難しくはない茂木さんの議論に隠れた意味や展開があるのではないかと思えるのは、たぶんこの本が「口から出任せ」的な
思考と発想の生の躍動とライブ感を伝えているからだろう。
◎ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論──宇宙の意味と表象』(松野孝一郎他・青土社:1999.7)
細部にちりばめられた話題や知見や引用や比喩や洞察の数々が未消化のまま私の脳髄のそこかしこにわだかまり、跳梁し跋扈してしだいに内圧を高め
ていく。それと同時に、ここで論じられていたのは畢竟するに何であったかがしだいに朦朧かつ不分明になっていく。こういう心理状態を物狂いとでも
呼ぶのだろうか。しばらく寝かせ、機をとらえてもう一度読み込む。あるいは座右に常備し、折節拾い読みをしては読後の興奮を宥めつつ、混沌を身の
うちに飼い慣らす。処方箋ははっきりしているのだが、しばらくは呆然と余韻を楽しみたい。
◎マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』(冨永星訳,新潮クレスト・ブックス:2005.8)
惜しみながら読み継いでいった。途中でリーマン予想の内容がよく判らなくなったが(いや、そもそも最初からよく判っていないが)、そんなことは
この書物を味わう上ではまったく関係がない。実に心地よい読中感は最後まで失われることはなかった。それにしても美しい書物だ。
◎川崎謙『神と自然の科学史』(講談社選書メチエ:2005.11)
「アヒル‐ウサギ図」というものがある。アヒル文化人(古代ギリシャ人の方法で考える西洋人)はこれをアヒル(ネイチャー=神の被造物)と言
い、ウサギ文化人(「ことあげせぬ国」の日本人)はこれをウサギ(自然=無上仏)と見る。ネイチャーという書物に隠された神の創造の秘密を読み解
き、自然「を」学ぶアヒル文化人。「われわれに隠されているものはなにも存在しない」と考え、自然「に」学ぶウサギ文化人。後者にとって実験とは
エクスペリメントではなくエクスペリエントであり、観察するとはオブザーブではなくコンテンプレートである。
◎加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』(みすず書房:2005.6)
片脚を骨折した冒険好きのカメラマンが裏窓越しに目撃した殺人事件は、はたして本当にあったことなのか。カメラマンはファッション業界人の美し
い恋人の求愛をなぜ、またいかにして拒絶しようとするのか。本書には、ヒッチコックの傑作『裏窓』から著者が切り出してきたこの二つの謎の提示か
ら始まる三つのスリリングな論考が収められている。映画はヒッチコック以後、『サイコ』以後のヴィジョン(黙示録的世界)を全うしていない。映画
のヒストリーはいまだミステリーのままである。その意味で、本書の冒頭で提示された二つの謎はまだ解かれていない。
◎岡田暁生『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』(中公新書:2005.10)
西洋音楽史を「私」という一人称で語り、「私」という語り手の存在を中途半端に隠さないことに徹しようとする志が素晴らしい。歴史はたんなる情
報や事実の集積ではない、事実に意味を与えるのは結局のところ「私」の主観以外ではありえないとする断念が潔い。音楽と音楽の聴き方(「どんな人
が、どんな気持ちで、どんなふうに、その音楽を聴いていたか」)とを常にセットで考え、だから西洋クラシック音楽を、たとえそれが世界最強のもの
であるとしても徹頭徹尾「民族音楽」として、つまり音楽を聴く場に深く根差した音楽として見るその視点に惹かれる。
◎北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』(平凡社:2005.11)
壮大な見通しのうちに人類がこれまで音楽との間に結んできた関係の総体がコンパクトに凝縮された入門書で、その細部を精緻に拡大し、実際の音響
体験と著者の深甚な学殖とでもって本書に記載されなかった情報と知見を補填していけば、途方もない書物が完成するであろう。ウェーベルンとアル
ヴォ・ペルトにこよなく惹かれる私の個人的な関心をいえば、20世紀初頭の「革命」後、「いったんモノに還元した音は、だが二つの方法によって意
味の伝達を可能とする」と書かれているところをもっと噛み砕いて解説してほしかった。
◎宮沢章夫『チェーホフの戦争』(青土社:2005.12)
宮沢章夫は本書で「チェーホフの劇作法として特徴的な、「舞台上に起こっている出来事と、その外部で発生している出来事」との関わり」について
考えた。その「読解」の結果、宮沢章夫が見出したものはチェーホフ的な「醒めた目」であり、「メタレベルで演劇を見ているチェーホフの視線」であ
り、「空虚を表現として出現させるチェーホフ特有のイロニーに充ちた技法」であった。「メタレベルで演劇を見ている」のは作家チェーホフであり、
同時に批評家宮沢章夫である。その「メタレベル」においてこそ、桜の木に斧を打ち込む「遠い音」がバブル経済の槌音と響き合い、妊娠した女優に向
かい「女優だったらその窓から飛び降りてみろ」と言い放つ演出家の言葉にこめられた演劇集団の生‐政治性が浮かび上がり、47歳のワーニャの鬱が
同年齢の宮沢章夫や石破防衛庁長官(イラクへの自衛隊派遣当時)の身体性(の欠如)と通じあい、未来の戦争の予兆に苛まれた「作家の鋭利な知覚」
がはたらく。
★1月4日(水):2005年に読んだ本(その4)
◎松岡心平『宴の身体──バサラから世阿弥へ』(岩波現代文庫:2004.9)
◎松岡心平『中世芸能を読む』(岩波セミナーブックス:2002.2)
連歌は「言葉のまわし飲み」であり、連歌が張行される場は「文芸における「一揆」的場」であった(『宴の身体』)。ここで「一揆」は、武装・戦
闘集団のことではない。中世的な新しい人間結合のあり方を示す本来の意味、「人々が、一味神水という神前の儀式により一切の社会的関係(有縁)を
断ち、なんらかのシンボルのもとに平等の支配する自律的な無縁の共同体を形成すること」をさして使われている。また、連歌は和歌の「本歌取り」か
ら生まれた。松岡心平はそこに「役者的想像力」のはたらきを見てとる。本歌取りを支えるのは、虚構の主体に転位し、その身になってその経験の中で
歌を詠むという役者的想像力である。この想像力による「古典変形の連続という和歌の詠作法をより集団的に、よりダイナミックに味わえる場が連歌の
場」なのであって、「そこでの大きな位相の変化は、連歌が集団的であるということ」だ(『中世芸能を読む』)。
◎梅原猛『美と宗教の発見──創造的日本文化論』(ちくま学芸文庫:2002.10)
梅原日本学の原マグマとも言うべき処女論文集。文庫カバー裏にそう書いてある。第一部「文化の問題」に三篇、第二部「美の問題」に四篇、第三部
「宗教の問題」に三篇、あわせて十篇の論文が収められている。実に面白く刺激的。なによりも文章に勢いがある。 鈴木大拙や和辻哲郎、柳宗悦、丸
山真男といった権威に挑み、否をつきつける気迫がこもっている(第一部)。歌に縫い込まれた感情の襞に分け入り、論理をもってそのエッセンス(感
情の論理)を摘出する研ぎ澄まされた感性がきわだっている(第二部)。霊性ならぬアニミズム的生命感覚に裏うちされた日本的宗教心性を鋭い論理の
刃でもって腑分けし、しなやかで強靭な感性の投網でもってその実質を掬いあげている(第三部)。
◎丸谷才一『新々百人一首』上下(新潮文庫:2004.12)
ほぼ一日一首のペースで読み継ぎ、道半ばにして中断しかけたものの、突如おそわれた歌狂いの風にあおられふたたび繙き、読み始めるととまらなく
なり、でも一日にそうたくさん読めるものではなく(読めないことはないがしっくりと心に残らない)、もうすっかり丸谷才一の藝と技のとりこになっ
て、世にいう枕頭の書とはこのような陶酔をもたらしてくれる書物をいうのであろうかと、頁を繰るたびいくどためいきをついたことか。
◎丸谷才一『綾とりで天の川』(文藝春秋:2005.5)
文藝という言葉がこの人ほど似つかわしい現役作家、評論家、書評家、エッセイスト、要するに物書きはいないと思う。本書は『オール読物』連載の
エッセイを集めたもの。掲載紙のキャラクターに応じて自在に文体を変えながら、その実頑固なまでに文章の骨法を揺るがせない。凛とした姿勢と柔ら
かな息遣いが素晴らしい。(まことに手放しの絶賛につぐ絶賛でわれながら気持ちがいい。)
◎加藤典洋『僕が批評家になったわけ』(岩波書店:2005.5)
批評とは何か。それは日々の生きる体験のなかで自由に、自分の力だけでゼロから考えていくことだ。本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手と
サシで勝負ができること。批評とはそういう言語のゲームなのである。だから、批評はどこにでもある。「あることばを読んで、面白いと感じること。
それはそのことばのなかに酵母のように存在している批評の素に感応することなのだ」。こうして著者は批評の原型としての『徒然草』にいきあたる。
本書は来るべき批評の酵母の見本帖、すなわち加藤典洋版の「徒然草」である。
◎石川忠司『現代小説のレッスン』(講談社現代新書:2005.6)
圧倒的に細部が面白い。村上龍=ガイドの文学とか保坂和志=村の寄り合い小説とか村上春樹=ノワールといった作家論も新鮮だが、なにより個々の
作品に切り込んでいく批評の切っ先が実にイキがよくて鋭く「ナイス」だ。本書はあくまで「コラム集」なのだ。一瞬の鮮やかな輝きを放って潔く消え
ていく、そのようなコラムに徹すること。コラムとコラムを(共同性なき共同作業=「物質的コミュニケーション」を介して)一つの結構をもった書物
のうちにつないでみせること。それこそが本書の魅力のほとんどすべてなのである。
◎保坂和志『小説の自由』(新潮社:2005.6)
『小説の自由』と『カンバセイション・ピース』は姉妹編である。本の造りとデザインがそっくりなのだ。だからというわけではないが、この二冊の
書物の読後感(というより読中感)は驚くほど似ている。保坂和志の言葉を借りるならば、それぞれを読んでいる時間の中に立ち上がっているもの、す
なわち現前しているものが家族的に類似しているのだ。「私を読め、私を現前させよ、私を語るな、私を解釈するな」。小説家・保坂和志はそう言って
いる。この本をひたすら読みつづけ、「現前性の感触」に身を浸すか、それとも「この保坂和志という他者の言葉は私(読者)の言葉である」というと
ころまで引用しつくすか。その二つしか途はない。
◎三浦雅士『出生の秘密』(講談社:2005.8)
「出生」の秘密には二つの次元がある。その一は未生以前の物質から生命へ、その二は動物としてのヒトから言語を獲得した人間へ。そのそれぞれの
界面のうちに「秘密」は潜んでいる。ラカンの概念を使って、前者は現実界から想像界へ、後者は想像界から象徴界へと言い換えることができる。本書
を支えている理論的骨格がこの三組みの概念で、パースのイコン・インデックス・シンボルがこれと不即不離の関係でからんでいく。そのもっと奥にあ
るのがヘーゲルの『精神現象学』。以上が『出生の秘密』のいわば舞台と書き割り。全体のほぼ三分の一の分量を費やした漱石が圧巻。ヘーゲルと漱石
のあやしい関係を執拗低音とする長い叙述をくぐりぬけ、アウフヘーベンとは「僻み」である、ヘーゲルの弁証法は「僻みの弁証法」であると規定す
る。
★1月5日(木):2005年に読んだ本(その5)
◎丸谷才一『輝く日の宮』(講談社:2003.6)
一年半遅れで読んだ。このタイム・ラグがちょうど頃合いの熟成期間となった。熟したのはもちろんこの作品に対する読み手(私)の思いの方なのだ
が、作品そのものも一晩寝かした饂飩かなにかのように微妙だがくっきりとした旨味を醸しだしていた。読み始めたらやめられない。どうしてこれほど
面白いのかよくわからない。
◎村上龍『半島を出よ』上下(幻冬舎:2005.3)
自分自身がその中に身を置くシステムの外に出ることなど誰にもできない。自らの経験そのものを成り立たせている根拠を離れると、経験のリアリ
ティそのものが変質してしまうからだ。たとえシステムや根拠が、その内部にいる者たちが生存のために共同で制作した虚構でしかないとしても。現実
を超えたところで起動するリアリティなどない。それは現実という観念に替わるもう一つの観念でしかない。上巻「フェーズ2」の第1章で、西日本新
聞社会部記者の横川茂人が高麗遠征軍のハン・スンジン司令官に「どの国の法律が適用されるのか」と、政治的危険分子逮捕の法的根拠を問うシーンが
ある。以後充分に展開されることのないこの場面にこそ、「現実を超えるリアリティ」ならぬ「現実を制作するフィクション」の壮大な可能性が潜んで
いる。
◎村上龍『空港にて』(文春文庫:2005.5)
素晴らしい短編集だった。猥雑透明な精神の緊張が漂っている。(個人的な感想でいえば、開高健以来の感興を味わった。)「空港にて」は、僕に
とって最高の短編小説です。by
村上龍。帯にそう書いてある。日本文学史に刻まれるべき全八編。カバー裏にそう書いてある。これらの言葉はけっして誇張ではない。(日本文学史、偉大なる
田舎者の系譜。)小説は描写がすべて。「この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった」と作家は(書かずもがなの)あとがき
にそう書いている。「他人と共有することのできない個別の希望」を描写することは、たぶん小説にしかできないことで、同時に小説にできることの限
界を超えている。
◎レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ『魂を漁る女』(藤川芳朗訳,中公文庫:2005.4)
国枝史郎の『神州纐纈城』とか白井喬二の『富士に立つ影』の虚構世界を思わせるゾクゾクする書き出し。ドラコミラとアニッタ、この二人の対照的
な女性をめぐるツェジムとソルテュクの(古代的と形容したくなる錯綜した)三角関係は、どこかゲーテの『親和力』に出てくる二組の男女の(古典的
な形式美を漂わせた)交差恋愛劇を連想させる。たぶんそれは、「ゲーテの『親和力』」のベンヤミンをめぐる数冊の書物を介して、『魂を漁る女』を
『神の母親』とともに「マゾッホの最も美しい小説」にかぞえあげたジル・ドゥルーズにリンクを張りたいという無意識の願望がしかけた連想だろうと
思う。
◎村上春樹『東京奇譚集』(新潮社:2005.9)
短編集としては『神の子どもたちはみな踊る』の完成度が高いように思うが、村上春樹らしい軽く浅い陰影が忘れ難い読中感を醸しだす小品集だっ
た。ここには五つの断面が描かれている。異界へとつながる通路・裂け目、あるいは実と虚、生と死、男と女の「あわい」、村上春樹的形象でいえば
「耳」または三半規管。これらの断面における奇譚的出来事との遭遇がもたらす知覚(平衡感覚)と記憶(時間)の変容の五つのかたちが描かれてい
る。
◎堀江敏幸『熊の敷石』(講談社文庫:2004.2)
◎堀江敏幸『雪沼とその周辺』(新潮社:2003.11)
堀江敏幸の作品を読むという経験は、それが収められた器である一冊の書物の造本や装幀や紙質、活字のポイントや配置、行間、上下の余白、等々に
はじまって、どのような生と思惟と感情の履歴をもった読み手がいつどこでどういういきさつで、またどのような場で、さらにはいかなる身体の構えで
それを読むのかに大いにかかわっている。しかしそれでいながら、そうした特殊で個別的な読書体験がもたらす堀江敏幸固有の作品世界は、たとえそれ
を読む人が一人としていなかったとしても最初からそこにひっそりとしかし確かな感触をもって存在していただろうと思わせる普遍的な質を湛えてい
る。それこそ言葉という、人が生み出したものであるにもかかわらず人を超えた実在性を孕みながら自律的にそこにありつづける媒質の生[なま]のあ
り方というものだろう。
★1月6日(金):2005年に読んだ本(その6)
◎漆原友紀『蟲師』1~6(講談社:2000.11~2005.6)
生死、雌雄分岐以前の生命の根源的な記憶と彼此両界にわたるコミュニケーション・ルートにアクセスしつつ、あまつさえエンターテインメントして
の結構を備えた稀にみる傑作。
◎二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#1~#13(講談社:2002.4~2005.9)
このマンガの面白さは「読んでいる時間の中にしかない」(c.保坂和志)。二ノ宮知子がつくりだすキャラクターの面白さも、読んでいるマンガの
中にしかない。とりわけ面白いのは演奏会の情景を描いた箇所──たとえばシュトレーゼマン指揮、千秋真一演奏のラフマニノフ・ピアノ協奏曲2番
(#5)とか、千秋真一指揮のブラームス交響曲1番(#8)など──で、当然そこに音は響いていない。しかし沈黙の紙面のうちにたしかに音楽が流
れている。それも音楽の表現のひとつのかたちである。これはちょっと比類ない達成なのではないか。
◎萩尾望都『バルバラ異界』2~4(小学館:2003.7~2005.10)
バルバラの謎が明かされる最終巻を読んでいる間、とりわけ夢先案内人・渡会時夫の記憶が上書きされていく場面では、私自身の脳内過程が二重化さ
れたかのような眩暈に襲われ、軽い頭痛と嘔吐感をさえ感じた。読み終えた刹那、一瞬のことだったけれど、目に見える部屋の情景が夢の世界の出来事
のように思えた。北方キリヤへのトキオの思いが切なく迫ってくる。自我の孤独と「ひとつになること」。
◎諸星大二郎自選短編集『汝、神になれ鬼になれ』『彼方より』(集英社文庫:2004.11)
◎星野之宣自選短編集『MIDWAY 歴史編』『MIDWAY 宇宙編』(集英社文庫:2005.11)
新宮一成は『夢分析』で「ある種のマンガには、通常の成人が表現できないような太古の感覚の残滓が描き出されることがある」と書いている。諸星
大二郎の短編にはまぎれもなく「太古の感覚の残滓」が色濃く漂っていた。個人的な好みでいえば星野之宣の画と着想に惹かれる。
◎岡野玲子・夢枕獏『陰陽師13 太陽』(白泉社:2005.10)
読み終えてしばし言葉を失う。「あとがき」に綴られた文章を読むにつけ、岡野玲子はとりかえしのつかない時空の彼方にとんでいってしまった。こ
の作品は白い光と化した音楽をかたどっている。
☆2006
★12月22日(金):心に残った本
あれから二週間すぎて、とっくに風邪は治ったものの、あいかわらず低調な日々がつづいている。
興奮して読み終え、書評めいたものを書いてきっちり「縮約」しておこうと心に誓ったまま放置している本がじわじわと増えている。鬱陶しい。読み
ながらいろいろと思いついたことがあって、後から思い出せるようメモをとっているのがずいぶん貯まっている。メモをたよりにきちんと文章にしてお
かないと、そろそろ復元不可能になりつつある。忘却の淵に沈んだところでどうってことはないのだが、もしかするといったん失われると二度とひらめ
かないアイデアの種が宿っているかもしれない。そんな内圧が高まってきて、これも鬱陶しい。
しばらく本は買わず、これまでに買いためた(わけではないけれど、サクサクと一気に読了することができず、かといって興味を失ったわけではない
のになぜか読みかけのまま山積み状態で放置している)本や、以前読んで感銘を受けた本をじっくり一冊ずつ仕上げていこう。そんな殊勝な気持ちが芽
生えかけている。だのに、ふと本屋に立ち寄るたび、あれこれ理屈をつけては新刊書を買い求める。鬱陶しさが募る。
こうした気分を一掃して、晴れ晴れとした気持ちで新しい年を迎えたい。いよいよ年末に引越をすることになったので、これを機会に、大げさに言え
ば「書物に対する態度」を改めたい。そんな思いだけが先行して、行動がついていかない。それがまたストレスになる。
そこで、と言ってもなにが「そこで」なのかはよく分からないが、今年読んだ(読み終えた)本のうち、心に深く残ったものをリストアップしておこ
うと思い立った。できれば「この一冊」とか「私の三冊」とか「ベストテン」といったかたちにまとめておきたいし、一冊ごとに簡単なコメントをつけ
ておきたいとも思うのだが、それは絶不調の身には荷が重い。
◎飛浩隆『象られた力』(ハヤカワ文庫JA:2004)
◎二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#14~#16(講談社:2006.1.13)
◎ベルグソン『物質と記憶』(田島節夫訳,白水社:1965)
◎入不二基義『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』(NHK出版:2006)
◎吉本隆明『カール・マルクス』(光文社文庫:2006)
◎中沢新一『芸術人類学』(みすず書房:2006)
◎内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書:2006)
◎小島信夫『残光』(新潮社:2006.5.30)
◎三中信宏『系統樹思考の世界──すべてはツリーとともに』(講談社現代新書:2006)
◎郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書:2006)
◎漆原友紀『蟲師7』(講談社:2006)
◎ルネ・デカルト『省察』(山田弘明訳,ちくま学芸文庫:2006)
◎渡仲幸利『新しいデカルト』(春秋社:2006)
◎篠原資明『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』(岩波新書:2006)
◎加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』(筑摩書房:2004)
まだ読み終えていない本のなかで、どうしてもリストに挙げておきたいものがあるのでついでに書いておく。(永井均『西田幾多郎』とか堀田善衛
『定家明月記私抄』正続などもそうだし、『群像』で連載がはじまった中沢新一の「映画としての宗教」も面白いが、それらを書き始めると収拾がつか
なくなる。)
◎鈴木一誌『画面の誕生』(みすず書房:2002)
☆2011
☆2011
★12月30日(金):今年読んだ本
今年読んだ本のなかから、心に残ったものを拾ってみた。●印がベストテン、◎印が次点、といったところ。
●中井久夫『私の日本語雑記』(岩波書店:2010.5.28)
●佐々木健一『日本的感性──触覚とずらしの構造』(中公新書:2010.9.25)
●内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫:2011.9.10/)
●吉本隆明『初期歌謡論』(ちくま学芸文庫:1994.6.7)
●安藤礼二『場所と産霊 近代日本思想史』(講談社:2010.7.29)
●丸谷才一『樹液そして果実』(集英社:2011.7.10)
●絲山秋子『ばかもの』(新潮文庫:2010.10.1/2008.9)
●川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(講談社:2011.10.12)
●盛田隆二『ささやかな永遠のはじまり』(角川文庫:2011.1.25/2007.10)
●杉田圭『超訳百人一首 うた恋い。2』(メディアファクトリー:2011.4.29)
◎前田英樹『言葉と在るものの声』(青土社:2007.4.20)再読
◎ツベタナ・クリステワ『心づくしの日本語──和歌でよむ古代の思想』(ちくま書房:2011.10.10)
◎山折哲雄『愛欲の精神史3 王朝のエロス』(角川ソフィア文庫:2010.3.25)
◎佐々木中『定本 野戦と永遠──フーコー・ラカン・ルジャンドル』上下(河出文庫:2011.6.20/2008)
◎小田切徳美『農山村再生──「限界集落」問題を超えて』(岩波ブックレット:2009.10.6)
◎村上春樹『1Q84 BOOK3〈10月─12月〉』(新潮社:2010.4.16)
◎川端康成『みずうみ』(新潮文庫:1960)
◎吉行淳之介『夕暮まで』(新潮文庫:1982.5.25/1978)
☆2013
★12月30日(月):心に残った本
今年読んだ本のなかから選んでみた。◎がベストテン、○が次点。
◎與那覇潤『中国化する日本──日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋:2011.11.20)
◎白井聡『永続敗戦論──戦後日本の核心』(太田出版:2013.03.27)
◎藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義──日本経済は「安心の原理」で動く』(角川oneテーマ21:2013.07.10)
◎渡辺恒夫『フッサール心理学宣言─他者の自明性がひび割れる時代に─』(講談社:2013.03.21)
◎野矢茂樹『心と他者』(中公文庫)
◎遠藤薫『廃墟で歌う天使──ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』を読みなおす』(現代書館:2013.06.25)
◎田中久文『日本美を哲学する──あはれ・幽玄・さび・いき』(青土社:2013.09.19)
◎永井均『哲学の密かな闘い』(ぷねうま舎:2013.03.12)
◎柄谷行人『柳田国男論』(インスクリプト:2013.10.28)
◎ナボコフ『ロリータ』(若島正訳,新潮文庫)
○砂原庸介『大阪──大都市は国家を超えるか』(中公新書:2012.11.25)
○谷徹『これが現象学だ』(講談社現代新書:2002.11.20)
○西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室──哲学者と学ぶ認知言語学』(中公新書:2003.06.25)
○永井均『哲学の賑やかな呟き』(ぷねうま舎:2013.09.19)
〇山内志朗『「誤読」の哲学──ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』(青土社:2012.12.13)
○アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言語』(荒木亨訳,ちくま学芸文庫)
○中沢新一『野生の科学』(講談社:2012.08.01)
○春木豊『動きが心をつくる──身体心理学への招待』(講談社現代新書:2011.8.20)
○岡ノ谷一夫『「つながり」の進化生物学──はじまりは、歌だった』(朝日出版社:2013.01.25)
○鈴木光太郎『ヒトの心はどう進化したのか──狩猟採集生活が生んだもの』(ちくま新書:2013.0610)
○吉田秀和『マーラー』(河出文庫)
○内田樹『修行論』(光文社新書:2013.07.20)
○オクタビオ・パス『弓と竪琴』(牛島信明訳,岩波文庫)
○モーリス・ブランショ『来るべき書物』(粟津則雄訳,ちくま学芸文庫)
○九鬼周造「文學の形而上學」(『九鬼周造全集 第四巻』岩波書店)
○ル・クレジオ『物質的恍惚』(豊崎光一訳,岩波文庫)
○村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋:2013.04.15)
○原田マハ『本日は、お日柄もよく』(徳間文庫)
○トム・クランシー他『ライアンの代価』1(田村源二訳,新潮文庫)
○寺山修司『寺山修司青春歌集』(角川文庫)
○池井戸潤『ロスジェネの逆襲』(ダイアモンド社:2012.06.28)
☆2015
★12月30日(水):心に残った本(2015年)
●尼ヶ崎彬『ことばと身体』(勁草書房:1990.1.30)
●新川哲雄『「生きたるもの」の思想──日本の美論とその基調』(ぺりかん社:1985.5.10)
コーラに連載している「哥とクオリア/ペルソナと哥」の参考書として読んだものから二冊。他に江藤淳『近代以前』や高階秀爾『日本人にとって美
しさとは何か』も部分的に印象に残っている。
尼ヶ崎本では『日本のレトリック』も忘れがたいが、まだ読み終えていない。全篇を読みえ終えていない本では、吉本隆明の講演本が七、八冊。ずい
ぶん刺激をうけた。マス・イメージ論やハイ・イメージ論などは講演録を読まなければ理解できない。
新川本は常備本。いずれ再読、精読することになると思う。
●三浦哲哉『映画とは何か──フランス映画思想史』(筑摩選書:2014.10.15)
●アンドレ・バザン『映画とは何か』上下(野崎歓他訳,岩波文庫:2015.02.17)
三浦本の第二章「バザンのリアリズム再考」が貫之現象学に、第三章「ブレッソンの映画神学」が俊成系譜学に、第四章「ドゥルーズ、映画の信と創
造」が定家論理学に、それぞれ驚くほどの精密さでつながっていった。となると第一章「パンルヴェ的世界」は貫之以前の初期歌謡の世界と重なりあっ
ていくのだろうか。
バザン本は熱中して読んだ。これほどの濃さと拡がりをもった書物はめったにめぐりあえない。映画関連本では淺沼圭司『二〇一一年の『家族の肖
像』──ヴィスコンティとデカダンスとしての「近代」』と前田英樹『映画=イマージュの秘蹟』が次に読む本の棚に並んでいる。
●周防柳『逢坂の六人』(集英社:2014.09.10)
紀貫之と六歌仙が登場する。貫之論、古今論、和歌論として秀逸でとても参考になったが、それ以上に文章がよくて(美味しい文章)作品世界が怪し
い魅力をたたえていた。
惜しみながら時間をかけて読み終え、流れをたやさないよう冲方丁『はなとゆめ』(清少納言)をつづけて読み、いまは海道龍一朗『室町耽美抄
花鏡』(世阿弥、禅竹、一休、村田珠光)を読んでいる。
●安藤礼二『折口信夫』(講談社[電子書籍版]:2015.02.01/2014.11)
井筒俊彦と吉本隆明の接点を探しあぐねて本書にたどりついた。安藤本はどれをいつ読んでも夢中になる。途方もなく豊饒な世界に浸りきって、しば
らく抜けだせなくなる。電子書籍ではその陶酔からすぐに醒める。書籍版で深い余韻を味わいたくなる。
電子書籍では他に中沢新一『日本文学の大地』や若松英輔『霊性の哲学』を読んだ。中沢本も書籍で読みたかった。若松本では井筒俊彦論が印象に
残った。
●芳川泰久『謎とき『失われた時を求めて』』(新潮選書:2015.05.30)
二度、三度と読みかえしていくうち、この本は侮れないという確信が深まっていった。けっして侮っていたわけではないが、これほどの洞察をはらん
でいるとは思わなかった。プルーストの無意志的想起(レミニッサンス)と定家の本歌どりとモネの絵画がつながった。
●杉本秀太郎『見る悦び──形の生態誌』(中央公論新社:2014.09.25)
●原田マハ『ジヴェルニーの食卓』(集英社e文庫:2015.07.31)
杉本本はちょうど一年かけて読み終えた。これぞ文章!
原田マハは『楽園のカンヴァス』が良かった。ルソーも好きだが昔からマティスが好きだったし、近頃マネが気になりはじめていたので、小林秀雄
『近代絵画』とあわせて電子書籍版を購入したら、これが大あたり。
●夏目漱石『行人』(青空文庫)
毎週少しずつ、与謝野晶子訳『源氏物語』と一緒にiPadで読みすすめていった。小津安二郎の映画を細切れで観ているような感じだった。軽妙で
いながら、どこか謎めいた悲哀のようなものが漂っている。
しばらくおいて、文庫本で読みかけだった『夜明け前』のつづきを同じ青空文庫で読むことにしている。
●足立巻一『やちまた』上下(中公文庫:2015.03.25)
地味な題材なのに、とうとう最後まで飽きることがなかった。それどころか、この本を読むことが(地味ながらも)心躍る歓びにすらなっていた。
●木村敏『からだ・こころ・生命』(講談社学術文庫:2015.10.09/1997)
●井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』(岩波新書:1980.05.20)
本格的な著作をじっくり読みこむ体力と知力と根気がなくて、軽くサクサクと読める講演録で思索の香りにふれる。そんな料簡ではとても歯が立たな
い。本格的著作では接することができない思索の現場の臨場感に目が眩む。
◎内田樹・白井聡『日本戦後史論』(徳間書店:2015.02.28)
◎三浦瑠璃『日本に絶望している人のための政治入門』(文春新書:2015.02.30)
◎高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書:2015.05.30)
昨年読んだ赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』も含め、四冊合わせて特大の一本。
※ ※ ※
いま同時並行的に読んでいる本(たぶん十冊以上)から。
とくに永井(晋)本は今年最大の「発見」になりそうな予感。もう一人の永井本はもし刊行されていたら間違いなく2015年のナンバーワン。
◎永井均「哲学探究──存在と意味」(『文學界』連載完了)
◎大森荘蔵『物と心』(ちくま学芸文庫:2015.01.10)
◎永井晋『現象学の転回──「顕現しないもの」に向けて』(知泉書館:2007.02.20)
◎若松英輔『叡知の詩学──小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会:2015.10.28)
◎若松英輔『イエス伝』(中央公論新社:2015.12.10)
◎加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書:2015.12.18)
☆2016
★12月29日(木):心に残った本(2016年)
年々、読了本が加速度をつけて減り、再読本が微かながら増えている。フィクション系と数学自然科学系が激減し、政経倫社系と歴史系が増加傾向に
ある。
通販での中古本、電子書籍の購入が増え、遠隔複写サービスの利用が新登場、同時拡散的、部分熟読型の読書スタイルが定着しつつある。
歳のおかげで一度や二度読んだくらいでは到底、身と頭に浸潤せず、何度でも繰り返しあたかも初めて接するがごとく楽しめるようにもなった。
本を買う、読むということの内包と外延が拡張しつつある。
●伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
今年「発見」した新人(私にとっての)。簡明で深い。『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』も記憶に残る。ツイッターでフォローしてい
る四人の内の一人。
●市川浩『〈身〉の構造──身体論を超えて』
今年「再発見」した鬼籍の人。『精神としての身体』を再読した後、続けて『身体論集成』『〈中間者〉の哲学──メタ・フィジックを超えて』を読
了。折に触れ『現代芸術の地平』その他を参照している。
ちなみに『精神としての身体』と『〈身〉の構造』以外はすべてAmazonの中古本。丸山圭三郎の単行本も含めて今年は随分たくさんの廉価中古
本をネットで買った。
●中島義道『不在の哲学』
●野矢茂樹『心という難問──空間・身体・意味』
フォローしている現役の日本人哲学者の「主著」の刊行が続く。中島本、野矢本ともに必要に応じて再読、三読の上、熟読玩味する常備本。ここに永
井均『存在と時間──哲学探究1』を掲げたかったが、何しろまだ読み終えていない(読み終えられない)のだから仕方がない。
永井本では他に『改訂版
なぜ意識は実在しないのか』と『西田幾多郎』を再読。(『哲学の密かな闘い』と『哲学の賑やかな呟き』が今年もまた越年。)
関連本では電子書籍版『現代哲学ラボ第2号──永井均の哲学の賑やかさと密やかさ』が(『現代哲学ラボ第1号──入不二基義のあるようにありな
るようになるとは?』ともども)面白かった。また鈴木康夫『天女[アプサラ]たちの贈り物[マーヤー]』が濃い印象を刻印するも、いまだ「整理」
がつかない。
●加藤典洋『戦後入門』
●加藤洋子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
今年読んだ戦後史関連本から。他に矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないか』が記憶に残る。
●柄谷行人『憲法の無意識』
●互盛央『日本国民であるために──民主主義を考える四つの問い』
今年読んだ政経倫社本から。他に井上達夫『憲法の涙──リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください2』が記憶に残る。
●マーク・グリーニー『暗殺者グレイマン』
●ダヴィド・ラーゲルクランツ『ミレニアム4 蜘蛛の巣を払う女』
ジャック・ライアン・シリーズでは、昨年の『米露開戦』に続き今年はトム・クランシーの後継者マーク・グリーニーによる『米朝開戦』を堪能した
が、オリジナル・キャラクター(グレイマン)は新鮮かつ格別な味わいがあった。『暗殺者の正義』『暗殺者の鎮魂』『暗殺者の復讐』『暗殺者の反
撃』と五部作を一気読み。
一気読みでは『ミレニアム4』も負けていない。極上のエンターテインメント小説で、いまだに慣れない(没入しきれない)電子書籍版で目が痛いの
も構わず読み耽ったのはこの本が初めて。
電子書籍では他にジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』も独特の文体(「呪文のような」と解説の馳星周は書いている)と絡みつくテイストが
楽しめた。ただiPhoneの小さな画面で、しかも断続的に読み進めたのでストーリーと人物の関係が掴めなかった。
●井筒豊子『白磁盒子』
Amazonで中公文庫版の中古品を取り寄せ、ほぼ2年かけて読了。橘外男と久生十蘭を足して微量の澁澤龍彦をふりかけたような極上のテイスト
(と「日記」に書いた)。
村上博子(文庫解説)が絶賛する「モロッコ国際シンポジウム傍観記」を国会図書館の遠隔複写サービスを利用して取り寄せ、年の始めの初読み用に
とってある。続けて蓮実重彦の『伯爵夫人』を少量ずつ惜しみながら嘗めるように読み進めている。
●三上春海・鈴木ちはね他『誰にもわからない短歌入門』
●和辻哲郎『日本語と哲学の問題』
永井均のツイッターで『誰にもわからない短歌入門』という本があることを知り、速攻で取り寄せた。和辻本は「精読用テクスト」というコンセプト
に興味を覚えた。
どちらも書物の「かたち」(物としての本の姿や出版の形態、趣向など)が気に入った。内容もよかったが(特に『短歌入門』)何しろその「かた
ち」が決まっていた。
その他の心に残った本(2016年)。
○長谷川櫂『芭蕉の風雅──あるいは虚と実について』
○安田登『身体感覚で『芭蕉』を読みなおす。──『おくのほそ道』謎解きの旅』
○大岡信『紀貫之』
○大岡信『萩原朔太郎』
○鎌田東二『世阿弥──心身変容技法の思想』
○尼ヶ崎彬『日本のレトリック』
○海道龍一朗『室町耽美抄 花鏡』
○津田一郎『心はすべて数学である』
○ウィルヘルム・ヴォリンガー『ゴシック美術形式論』
○九鬼周造『時間論 他二篇』
○河合俊雄他『〈こころ〉はどこから来て、どこへ行くか』
○中沢新一『熊楠の星の時間』
○佐藤公治『音を創る、音を聴く──音楽の協同的生成』
○藤田一照・永井均・山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する』
○安田理央『痴女の誕生──アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか』
○平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』
○竹村公太郎『水力発電が日本を救う──今あるダムで年間2兆円超の電力を増やせる』
○東島誠・與那覇潤『日本の起源』
○白井聡『戦後政治を終わらせる──永続敗戦の、その先へ』
○井手英策・古市将人・宮﨑雅人『分断社会を終わらせる──「だれもが受益者」という財政戦略』
○高橋源一郎『丘の上のバカ──ぼくらの民主主義なんだぜ2』
※ ※ ※
いま読んでいる本のうち(すでに取り上げた『存在と時間──哲学探究1』や『伯爵夫人』を除いて)「心に残った本(2017年)」の候補になり
そうなもの。大森本はほとんど読んでいるがなぜか読了感が湧いてこない。
◎大森荘蔵『物と心』
◎淺沼圭司『制作について──模倣、表現、そして引用』
◎赤瀬川原平・山下裕二『日本美術応援団』
◎渡辺恒夫『夢の現象学・入門』
◎川田稔『柳田国男──知と社会構想の全貌』
◎五百旗頭真『大災害の時代──未来の国難に備えて』
◎中沢新一・小澤實『俳句の海に潜る』
☆2017
★12月25日(木):心に残った本(2017年)
●正岡子規『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』『歌よみに与ふる書』
今年の「発見」は正岡子規。きっかけは、小森陽一著『子規と漱石──友情が育んだ写実の近代』。
まず俳論・歌論からと思って、岩波文庫で『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』『歌よみに与ふる書』と読み進め、年をまたいで『俳諧大要』を読んでいる。
面白い。文章が生きて跳ねている。
子規論では、小森本のほか、中沢新一の「陽気と客観」(『ミクロコスモスⅡ』)が面白かった。ネットで見つけた芸術人類学研究所のシンポジウム
「正岡子規と《写生》の思考」での中沢や小澤實の発表が刺激的だったので、この二人の共著『俳句の海に潜る』を読んでみたら、これもまたすこぶる
面白かった。
その他、長谷川櫂『子規の宇宙』、森まゆみ『子規の音』も記憶に残った。
●中沢新一『熊を夢見る』『虎山に入る』
今年は中沢本にたくさんの刺激を受けた。『ミクロコスモスⅠ・Ⅱ』に続く二冊の小曲集は、極上の短編小説の味わいだった。
他に『レヴィ=ストロース 野生の思考』と、松岡正剛・赤坂真理・齋藤環との共著『「日本人」とは何者か?』が記憶に残った。
今年の2月、大阪の北御堂で内田樹・中沢新一・釋徹宗の三氏が出演する公開シンポジウム「儀礼空間の必要性とはたらき」があった。残念ながら参
加出来なかった。
その替わりというわけではないが、12月、京都のジュンク堂で催された内田樹・安田登の公開トークに出かけた。『変調「日本の古典」講義』の続
編につながる、とても怪しい対談だった。
安田師の『あわいの時代の『論語』──ヒューマン2.0』『能──650年続いた仕掛けとは』も記憶に残った。来年は古事記論が刊行されるとい
う。
●渡辺恒夫『夢の現象学・入門』
Web評論誌「コーラ」に連載している「哥とクオリア/ペルソナと哥」が新段階(泥沼?)に突入した。
昨年から今年にかけてヴァレリーの「錯綜体」の概念から「アナロジー」「論理」と進み、今年は「夢」に始まり「パースペクティヴ」を経て、来年
にかけて「時間」へ。その後、「映画」や「記憶」をに取り組んだ後で、日本語の深層に存在する「やまとことばの論理」((c)中野研一郎)へと進
む予定。
渡辺本以外に刺激を受けた(か役に立ったか、それほど刺激は受けずあまり役に立たなかったがヒントは得た)参考書を挙げておく。(次の項目に挙
げた國分本、池田・福岡本からも多大な刺激を受けた。)
◎『ヴァレリー集成Ⅱ〈夢〉の幾何学』巻末の「解説」(塚本昌則)
◎オギュスタン・ベルク『風土の日本──自然と文化の通態』(篠田勝英訳)
◎木岡伸夫『邂逅の論理──〈縁〉の結ぶ世界へ』
◎カルロ・セヴェーリ『キマイラの原理──記憶の人類学』(水野千依訳)
◎湯浅泰雄『身体論──東洋的身心論と現代』
◎真木悠介『時間の比較社会学』
◎中野研一郎『認知言語類型論原理──「主体化」と「客体化」の認知メカニズム』
◎山田哲平『反訓詁学――平安和歌史をもとめて』
●國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』
●池田善昭・福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読む──生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』
偶然、この二冊の書物を連続して読んで、そこにとても深い繋がりがあるのを発見して興奮した。
それは、『中動態の世界』のプロローグに書かれていることが、『福岡伸一、西田哲学を読む』の中核をなす西田幾多郎の「逆対応」をめぐる議論と
結びついていて、そしてそれは、(松岡新平著『宴の身体』の第11章「紀貫之と世阿弥」に書かれていた)「見つつ・見られる関係性」の議論に接続
される、ということだった。
これについては、機会があれば(その気が充満すれば)このブログに書いてみたいと思っている。
※國分本の読後感想文が、図らずも最近書か(け)なくなった「書評」めいたものになっていたので、自己引用しておきます。
《依存症から抜け出すのは本人の努力しだい。誰かから強制されたわけではないのだから、あとは本人の自由意思の問題。そんな「能動態/受動態」
(あるいは「自由意思/強制」)のパースペクティヴで物事を考えるようになったのは比較的最近のことで、かつては、(たとえばホメロスが神々と英
雄の物語を朗誦し、海月なす漂へる時に葦牙の如く萌え騰る物によりて神が成った頃には)、「中動態/能動態」のパースペクティヴが基本だった。
著者はバンヴェニストやアレントの議論を参照し、途中に言語と思考の関係、言語(文法)の歴史といった興味深い議論を挿入しながら、失われた中
動態の世界を探求していく。ハイデガー、ドゥルーズ、そしてスピノザの思考の根本に中動態的なものを見出し、メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』
の読解をもって書物を閉じる。
豊饒な中身をもった魅力的な著書。読後、物の見方(パースペクティヴ)が回転する。》
●篠田英朗『ほんとうの憲法──戦後日本憲法学批判』
この本は、ほんとうに面白かった。目から鱗がおちた。法学部の学生だった頃に読んでおきたかった。
関連はしないが、他に人文・社会系で記憶に残った本を挙げておく。
◎加藤典洋『敗者の想像力』
◎『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』
◎ジョン・エリス・マクタガート『時間の非実在性』(永井均訳・注解と論評)
◎山田陽一『響きあう身体──音楽・グルーヴ・憑依』
●絲山秋子『離陸』
●カズオ・イシグロ『日の名残り』
同時に読んだ『騎士団長殺し』(村上春樹)よりも『離陸』の方が面白かった。謎が解き明かされず謎のまま残る。この(人生そのものと言ってよ
い)感覚がいつまでも後を引く。
(同様に謎が謎のまま残る村上本も面白かったし、村上春樹はもう何だって書ける域に達したと驚嘆させられもしたが、それでも絲山本の方が面白かっ
た。)
ノーベル賞受賞を知って、8年ぶりに続き(後半)を読んだ『日の名残り』は、これが小説を読む愉しさだ、としか言いようがない極上の経験を与え
てくれた。
他には、蓮実重彦著『伯爵夫人』、藤井雅人著『定家葛』が記憶に残った。
●恩田陸『蜜蜂と遠雷』
●高田大介『図書館の魔女』
エンターテインメント系(国内篇)ではこの二冊。いずれも絶品。
●ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q 知りすぎたマルコ』上下(吉田薫訳)
エンターテインメント系(海外篇)の最大の収穫が「特捜部Q」シリーズ。
まず『檻の中の女』『キジ殺し』『Pからのメッセージ』と映画で観て、その後『カルテ番号64』『知りすぎたマルコ』『吊された少女』と読み進
めた。来年は第七作が翻訳されるらしい。待ち遠しい。
マーク・グリーニーの『暗殺者の飛躍』(伏見威蕃訳)も楽しめた。
●松本紘『改革は実行──私の履歴書』
今年の「拾い物」。著者の講演を二度聴いた。その肉声が書物を通して聞こえてくる。
その他、尾畑雅美著『パーソナル・フレンド──情報に生きる』(非売品)も記憶に残った。
☆2018
★12月30日(日):心に残った本(2018年)
年明けから『言語と呪術』(井筒俊彦英文著作翻訳コレクション)の刊行を待ち続けた。
9月になってようやく入手したものの、井筒俊彦のあの文章のコクがなく(翻訳だから仕方がないか)、中身もいまひとつ鮮烈さに欠けて物足らず
(後半に入ってから俄然面白くなってきた)、いまだ読み切れないでいる。
むしろ安藤礼二さんの解説(『折口信夫』所収の「言語と呪術──折口信夫と井筒俊彦」を書き直し、増補改訂したもの)の方が面白かったので、
(朝日新聞の椹木野衣さんの書評につられて)『大拙』を電子書籍版で購入し読み始めた。
『言語と呪術』『大拙』の二冊(と、これも電子書籍版の原尞『それまでの明日』の三冊)でもって年を越すことになる[*]。
読み終えることができない本といえば、永井均さんの『存在と時間──哲学探究1』の読了がまた持ち越しになった。今年刊行された『世界の独在論
的存在構造──哲学探究2』もほとんど手つかずのまま(Web春秋連載時に断続的に読んではいる)。
かつて柄谷行人さんの本が、何度読み始めても途中で勝手に思考が展開してしまって、なかなか最後まで読み切れなかった。無理に読むと頭がフリー
ズして、現実生活に帰ってこれなくなりそうになったこともある。
[*]これ以外に図書館で借てきりた「年越し本」が数冊、どれだけ読めるかわからないが目の前に並んでいる。
・子安宣邦『漢字論──不可避の他者』
・大熊昭信『存在感をめぐる冒険──批判理論の思想史ノート』
・鈴木薫『文字と組織の世界史──新しい「比較文明史」のスケッチ』
・トッド・E・ファインバーグ/ジョン・M・マラット『意識の進化的起源──カンブリア爆発で心は生まれた』
・奥山文幸『幻想のモナドロジー──日本近代文学試論』
・デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』
●三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』
●森田真生『数学する身体』
今年読んだ本の中でいちばん面白かったもの。
三浦本は『群像』連載時から気になっていた。第二部「孤独の発明 または彼岸の論理」の刊行が待たれる。
森田本は、昔『考える人』(2015年05月号)の記事を読んでなんとなく分かった気になっていたが、文庫化をきっかけに手にしてみた。素晴ら
しい。
●樋口桂子『日本人とリズム感──「拍」をめぐる日本文化論』
●森山徹『モノに心はあるのか──動物行動学から考える「世界の仕組み」』
今年読んだ本のなかで先の二冊に次いで印象深かったもの。
以下の次点五冊のうち、中井本はあと一歩で今年の「発見」になったと思う。
◎中井正一『美学入門』
◎中沢新一『アースダイバー 東京の聖地』
◎斎藤慶典『「東洋」哲学の根本問題──あるいは井筒俊彦』
◎檜垣立哉『瞬間と永遠──ジル・ドゥルーズの時間論』
◎渡仲幸利『観の目──ベルクソン『物質と記憶』をめぐるエッセイ』
●熊谷高幸『日本語は映像的である──心理学から見えてくる日本語のしくみ』
●大澤真幸・永井均『今という驚きを考えたことがありますか──マクタガートを超えて』
Web評論誌「コーラ」に連載している「哥とクオリア/ペルソナと哥」で、今年の後半は「和歌体験と映画体験」に取り組んだ。(掲載は再来年に
なると思う。)
熊谷本は議論の端緒をひらいてくれた。
大澤・永井本は、大澤論文「時間の実在性」の中でとりあげられた「ヒッチコックのモンタージュ」をめぐる話題が、議論の最終局面で役に立った。
他に読んだ関連本も記録しておく。
◎松浦寿輝『平面論──1880年代西欧』
◎エイゼンシュテイン『映画の弁証法』
◎福尾匠『眼がスクリーンになるとき──ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』
◎『ロラン・バルト映画論集』
◎加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』
◎淺沼圭司『二〇一一年の『家族の肖像』──ヴィスコンティとデカダンスとしての「近代」』
◎前田英樹『映画=イマージュの秘蹟』
◎宇野邦一『映像身体論』
ちなみに、来年のテーマは「日本語」。参考文献として読んだものを記録しておく。
◎小浜逸郎『日本語は哲学する言語である』
◎古田徹也『言葉の魂の哲学』
◎出岡宏『小林秀雄と〈うた〉の倫理──『無常という事』を読む』
◎出岡宏『「かたり」の日本思想──さとりとわらいの力学』
◎子安宣邦『「宣長問題」とは何か』(再読)
◎柄谷行人『日本精神分析』(再読)
●白井聡『国体論──菊と星条旗』
●橘玲『朝日ぎらい──よりよい世界のためのリベラル進化論』
他に、矢部宏治『知ってはいけない2──日本の主権はこうして失われた』を読んだ。
●川端康成『反橋・しぐれ・たまゆら』
他に、『漱石文芸論集』や石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』も心に残った。
●ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズⅠ~Ⅲ』(丸谷才一・氷川玲二・高松雄一訳)
●マルセル・プルースト『失われた時を求めて1~10』(井上究一郎訳)
『ユリシーズⅠ』を読んだのが1997年で『失われた時を求めて6』が1999年。それ以来中断していたのを今年後半から再開して年末までに読
み終えた。
(いま読んでいるパヴェーゼ『祭りの夜』(川島英昭訳)も、2013年のトリノ旅行後に読み始め中断していたもの。)
来年はできれば『源氏物語』『夜明け前』『死霊』『チェホフ全集』を仕上げたい。
他に、カズオ・イシグロ『夜想曲集──音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』(土屋政雄訳)とリチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』上
下(柴田元幸訳)を読んだ。
●月村了衛『機龍警察 自爆条項[完全版]』
エンターテインメント系ではリー・チャイルドが拾い物だったが、年末に読んだ月村本がよかった。
◎ダヴィド・ラーゲルクランツ『ミレニアム5──復讐の炎を吐く女』
◎ユッシ エーズラ・オールスン『特捜部Q──自撮りする女たち』
◎マーク・グリーニー『欧州開戦』1~4
◎マーク・グリーニー『暗殺者の潜入』
◎リー・チャイルド『パーソナル』
◎ニコラス・ペトリ『帰郷戦線──爆走』
☆2019
★12月30日(日):心に残った本(2019年)
●中沢新一『レンマ学』(電子書籍)
●『井筒俊彦英文著作翻訳コレクション 存在の概念と実在性』
●永井均『存在と時間──哲学探究1』
●永井均『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』
人文系で記憶に残った書物。
他に、井筒俊彦英文著作翻訳コレクション『言語と呪術』とW.ジェイムズ『宗教的経験の諸相』、入不二基義『あるようにあり、なるようになる
──運命論の運命』と入不二基義・森岡正博『運命論を哲学する』。
●安藤礼二『迷宮と宇宙』
安藤系譜学の傑作。
ファシスト・宮沢賢治とアナキスト・夢野久作、『春と修羅』と『ドグラ・マグラ』(さらにベルクソンの『創造的進化』が)交響する。生命の発
生・進化と意識の発生・進化(と言語の発生・進化)が重ね合わされる。
『光の曼陀羅 日本文学論』以来、久々に文芸批評を読む愉悦を味わった。
(系譜学的思考、類化性能の極致。由来や脈絡を異にするものの同質性・同型性を見出し、それらを物象(物証)と心象(心証)によって系譜づける思
考。たとえばポー・篤胤⇒足穂、折口信夫⇒井筒俊彦⇒中沢新一⇒安藤礼二。小林秀雄⇒吉本隆明⇒柄谷行人⇒安藤礼二・若松英輔、等々。)
安藤本では他に『大拙』『吉本隆明──思想家にとって戦争とは何か』『列島祝祭論』を読んだ。いずれも濃い記憶が残った。
「能は、中世の神仏習合期、真言宗が理論化した即身成仏思想および天台宗が理論化した天台本覚思想にもとづき、仏教的な思考方法、その無意識の論
理(「アラヤ識」)を舞台として表現したものであった」(『列島祝祭論』251頁)
●石田英敬・東浩紀『新記号論──脳とメディアが出会うとき』
●大野ロベルト『紀貫之──文学と文化の底流を求めて』
「哥とクオリア/ペルソナと哥」の参考書から二冊。(『新記号論』は『迷宮と宇宙』『存在と時間──哲学探究1』とあわせて今年の三冊。)
鈴木宏子『「古今和歌集」の創造力』、井崎正敏『考えるための日本語入門──文法と思考の海へ』、中西進『ひらがなでよめばわかる日本語』も記
憶に残った。
柿木伸之『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』、酒井邦嘉『チョムスキーと言語脳科学』も大いに参考になった。
他に、辻邦生『情緒論の試み』とアントニオ・R・ダマシオ『感じる脳──情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』。
●加藤文元『宇宙と宇宙をつなぐ数学──IUT理論の衝撃』
一気読み。ただし内容が消失するのも一気。
●柄谷行人『世界史の実験』
●大塚英志『感情天皇論』
●吉見俊哉『平成時代』
政治社会系では他に橘木俊詔『「地元チーム」がある幸福──スポーツと地方分権』と落合陽一『日本再興戦略』と山崎雅弘『歴史戦と思想戦──歴
史問題の読み解き方』を読んだ。
●パヴェーゼ『祭りの夜』
●マーク・グリーニー『暗殺者の追跡』
●原尞『それまでの明日』
六年前のトリノ旅行の後に買ったパヴェーゼを、今年のトリノ旅行から帰って読み終えた。他に、島崎藤村『夜明け前』第一部(青空文庫)を十五年
越しに読み終えた。
エンタメ系(海外)ではグレイマン・シリーズ最新作。『イスラム最終戦争』も安定していた。
リー・チャイルド『ミッドナイト・ライン』、ダン・ブラウン『オリジン』、ジェフリー ディーヴァー『ウォッチメイカー』も堪能できた。
ブライアン・フリーマントルのチャーリー・マフィンシリーズ完結篇(『顔をなくした男』『魂をなくした男』)をほぼ十年ぶりに読んだ。
トマス・ハリス『カリ・モーラ』はやや不発。
新規開拓ではマイクル・コナリー『エコー・パーク』『贖罪の街』とスティーヴン・ハンター『狙撃手のゲーム』。
年末年始をダヴィド・ラーゲルクランツ『ミレニアム6 死すべき女』で過ごす予定。
国内では他に大沢在昌『暗約領域 新宿鮫11』と真山仁『トリガー』。どちらもやや不発。
☆2020
★12月31日(木):心に残った本(2020年)
今年の収穫。
大江健三郎を「発見」したこと。『同時代ゲーム』を途中で放り投げて以来40年、食わず嫌い状態が続いていたのが、なぜか気になった800頁越
えの岩波文庫版自選短篇集を約半年の逡巡を経て購入し、ひと月のあいだ読み耽った。高校生の頃の感覚が甦った。
長年探していた創元ライブラリ版中井英夫全集10『黒衣の短歌史』の古本を定価並みの価格で入手し、コロ禍の在宅生活のなかで読書の愉悦を味わ
いながら読み終えたこと。
コロナ禍がもたらしてくれたことは他に、普段ならたぶん腰を据えて読むことができなかったと思う『武満徹・音楽創造への旅』(立花隆)や『かた
ちは思考する』(平倉圭)をノートを取りながら読了したこと。
前々からの懸案だったクロード・レヴィ=ストロースの『神話論理』全巻読破の糸口がつかめたこと(第Ⅰ巻で中断)。
『定本 日本近代文学の起源』(柄谷行人)の再読を経て、大江健三郎とは違う意味で敬遠していた中上健次の『枯木灘』を読んだこと。
コロナ禍とは関係なく、今年最大の収穫は入不二基義著『現実性の問題』と出会えたこと。
【哲学系】
●入不二基義『現実性の問題(The Problem of Actu-Re-ality)』
◎重久俊夫『西田哲学とその彼岸──時間論の二つの可能性』
◎近内悠太『世界は贈与でできている──資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(電子書籍)
◎落合仁司『構造主義の数理──ソシュール、ラカン、ドゥルーズ』
【人文系】
●工藤進『声──記号にとり残されたもの』
●諏訪哲史『偏愛蔵書室』
◎細見和之『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』(再読)
◎柿木伸之『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』
◎茂木健一郎『クオリアと人工意識』(電子書籍)
◎中山元『アンドロイドの誕生──ラカンで読みとく『未来のイヴ』』(電子書籍)
【政治系】
◎『丸山眞男セレクション』(電子書籍)
【数学・サイエンス系】
●森田真生『数学の贈り物』
◎西郷甲矢人・田口茂『〈現実〉とは何か──数学・哲学から始まる世界像の転換』
◎中沢新一・山極寿一『未来のルーシー──人間は動物にも植物にもなれる』
◎橋元淳一郎『空間は実在するか』
◎マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化──視覚革命が文明を生んだ』(電子書籍)
◎スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール──音楽と言語から見るヒトの進化』
【アート系】
◎立花隆『武満徹・音楽創造への旅』
◎平倉圭『かたちは思考する──芸術制作の分析』
◎末永幸歩『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』(電子書籍)
【文学系】
●『中井英夫全集[10] 黒衣の短歌史』
●柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』(再読)
●『柄谷行人講演集成 1985-1988 言葉と悲劇』(再読)
●川端康成『雪国』(再読)
●髙樹のぶ子『小説伊勢物語 業平』(電子書籍)
●『大江健三郎自選短篇』
●大江健三郎『万延元年のフットボール』(電子書籍)
●中上健次『新装新版 枯木灘』(電子書籍)
◎村上春樹『一人称単数』(電子書籍)
◎多和田葉子『文字移植』
【エンタメ系】
◎恩田陸『祝祭と予感』(電子書籍)
◎相沢沙呼『medium 霊媒探偵城塚翡翠』(電子書籍)
◎カリン・スローター『破滅のループ』
◎リー・チャイルド『警鐘』(電子書籍)
◎マーク・グリーニー他『レッド・メタル作戦発動』(電子書籍)
◎マーク・グリーニー『暗殺者の悔恨』(電子書籍)
☆2021
★12月30日(木):心に残った本(2021年)
最後に読み終えた本の印象が一番強い。
武田梵声『野生の声音』はすごい本だった。帯に「驚くべき書物」(養老孟司)とあるが、けっして大げさではない。
同じ時期に購入した竹村牧男『空海の言語哲学』や三浦雅士『スタジオジブリの想像力』と同時並行的に、ノートを取りながらほぼ4カ月じっくり読
み進めていった。
ここからたくさんの事が始まるだろうと思う。
それ以上に三浦本は素晴らしかった。
あくまで個人的に、そして今この時期の関心事にそくしてという条件つきで。(これに対して、武田本の方は「個人的」かつ「普遍的」にすごい。)
実はまだ読み終えていない。
読み終えてしまうのが惜しい気がして、三分の一ほど残し年を越して熟成させることにした。
今年のベスト本は三冊。
一冊目は森田真生『計算する生命』。単独でも絶品だが、『僕たちはどう生きるか』との合わせ技で極上の一本。
二冊目、かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』。電子書籍を始めて以来、いつか全巻揃えて一気読みしたいと思っていた。(『めぞん一刻』と『課長島耕
作』と『日出処の天子』もそのうち。)
そして最後が『スタジオジブリの想像力』。
今年の収穫。
例年に比べ漫画をたくさん読んだこと。『沈黙の艦隊』以外に『恋する民俗学者』と『はじめアルゴリズム』(三浦本と同様に年を越すことになっ
た)。いずれも電子書籍。
ビジネス系、自己啓発系の本をいくつか読んだこと。読み飛ばしそうになるのを堪えて丁寧に、しっかりノートを取りながら。
『TAKE NOTES!』で知った「ツェッテルカステン」(ルーマンの創案)は面白かった。
本の読み方が変わった。
たくさんの本を早く読むことに意義を感じなくなった。少しの本を厳選して、かならずノートを取りながら、できれば何度も反芻し味わいながら、少
しずつ無理せず読み進めていくことで、かつての「愉悦」が甦ってくるのではないかと思うようになった。
読み終えることにもこだわらなくなった。ある部分(たとえば文庫の解説)だけ何度も読んだり、電子書籍のサンプル版を集めて読んだり、青空文庫
で短編を読んだり、雑誌の部分読みをしたりと、「切れ端」を編集して、自分だけの書物を頭のなかにつくりあげることが面白くなってきた。
【人文系】
◎三浦雅士『スタジオジブリの想像力──地平線とは何か』
○野村直樹『ナラティヴ・時間・コミュニケーション』[電子書籍]
○中沢新一『アースダイバー 神社編』
○永田希『書物と貨幣の五千年史』
○森田真生『僕たちはどう生きるか──言葉と世界のエコロジカルな転回』
○末木文美士編『死者と霊性──近代を問い直す』
○山口裕之『映画を見る歴史の天使――あるいはベンヤミンのメディアと神学』
○森田團『ベンヤミン──媒質の哲学』
○柿木伸之『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』
○今福龍太『身体としての書物』
○今福龍太『薄墨色の文法──物質語の修辞学』
○安藤礼二『熊楠 生命と霊性』
○G・トラシュブロス・ゲオルギアーデス『音楽と言語』(木村敏訳)
○真木悠介『気流の鳴る音──交響するコミューン』[電子書籍]
○田中久美子『言語とフラクタル──使用の集積の中にある偶然と必然』
○竹村牧男『空海の言語哲学──『声字実相義』を読む』
【哲学系】
◎西平直『東洋哲学序説 井筒俊彦と二重の見』
○岡本裕一郎『哲学と人類──ソクラテスからカント、21世紀の思想家まで』
○古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』[電子書籍]
○近藤和敬『ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する──〈内在〉の哲学試論』[電子書籍]
【政治経済社会系】
◎堤未果『デジタル・ファシズム──日本の資産と主権が消える』
○牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦──秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』
○待鳥聡史『政治改革再考──変貌を遂げた国家の軌跡』
○白井聡『武器としての「資本論」』[電子書籍]
○斎藤幸平『人新世の「資本論」』[電子書籍]
○太田肇『同調圧力の正体』
○加藤典洋『9条の戦後史』
○沢木耕太郎『オリンピア1996 冠[コロナ]〈廃墟の光〉』
【数学サイエンス系】
◎森田真生『計算する生命』
○マーカス・デュ・ソートイ『レンブラントの身震い』
○小林秀雄・岡潔『人間の建設』[電子書籍]
【ビジネス・自己啓発系】
◎神田房枝『知覚力を磨く──絵画を観察するように世界を見る技法』[電子書籍]
○読書猿『独学大全――絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』[電子書籍]
○太刀川英輔『進化思考──生き残るコンセプトをつくる「変異と適応」』[電子書籍]
○ズンク・アーレンス『TAKE NOTES!――メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる』[電子書籍]
○JIDAI『再創造する天性の動き!──感情=身体エネルギーで、「思い通り」を超える能力が発現』
【芸術系】
◎武田梵声『野生の声音──人はなぜ歌い、踊るのか』
○高橋康也『橋がかり──演劇的なるものを求めて』
○三浦雅士『考える身体』(河出文庫:2021.06.20/1999)
【マンガ系】
◎かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』全32巻[電子書籍]
○大塚英志原作/中島千晴漫画『恋する民俗学者』全2巻(柳田國男編&田山花袋編)[電子書籍]
○三原和人『はじめアルゴリズム』全10巻[電子書籍]
【文学批評系】
◎中野剛志『小林秀雄の政治学』
○金子兜太・いとうせいこう『他流試合――俳句入門真剣勝負!』[電子書籍]
○カズオ・イシグロ『クララとお日さま』(土屋政雄訳)
○フェルナン・ペソア『新編 不穏の書、断章』(澤田直訳)[電子書籍]
○堀田善衞『定家明月記私抄 続篇』
○廣野由美子『深読みジェイン・オースティン──恋愛心理を解剖する』[電子書籍]
○堀江敏幸『おぱらばん』
○松岡正剛『うたかたの国──日本は歌でできている』
【エンタメ系】
◎ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q──アサドの祈り』(吉田奈保子訳)
○グレッグ・イーガン『順列都市』上下(山岸真訳)[電子書籍]
○カリン・スローター『スクリーム』(鈴木美朋訳)[電子書籍]
○マーク・キャメロン『密約の核弾道』上下(田村源二訳)
○宮下奈都『羊と鋼の森』[電子書籍]
○佐々木丸美『雪の断章』[電子書籍]
【論文系】
◎山内志朗・永井晋「情熱の人、井筒俊彦の東方」(『未来哲学 第二号』所収)
〇井筒俊彦「「気づく」──詩と哲学の起点」(『読むと書く 井筒俊彦エッセイ集』)
○永井均「哲学探究3」(「web春秋 はるとあき」連載中)
○谷口一平「存在と抒情──短歌における〈私〉の問題」(『未来哲学 第二号』所収)
☆2022
★2022.12.27 心に残った本①
毎年暮れの‘恒例行事’として「心に残った本(○○年)」というリストをブログに掲載してきた。今年でもう17回目になる。ブログは凍結するつも
りなので今回はFBに書きます。
※
今年の‘特徴’は人文系のなかでも言語系とくにやまとことばの生理や文法をめぐる本や論考を意識的に読み込んだこと。‘成果’は海外エンタメ小説
に恵まれたこと。読みかけのタナ・フレンチ『捜索者』やドン・ベントレー『イラク・コネクション』も傑作の雰囲気が漂う。
読みかけ本ならデイヴィッド・ハルバースタム『朝鮮戦争』や井筒俊彦『ロシア的人間 新版』やアンドレ・ルロワ・グーラン『世界の根源──先史絵
画・神話・記号』も間違いなく記憶に残るものになる。人文哲学系では永井均『哲学的洞察』と『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか──哲学
探究3』が生涯を通じたベスト本の予感。
(他にも平井靖史『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』、下西風澄『生成と消滅の精神史──終わらない心を生きる』、山田仁史
『人類精神史──宗教・資本主義・Google』、子安宣邦『神と霊魂[たま]──本居宣長・平田篤胤の〈神〉論アンソロジー』、尼ヶ崎彬『利休
の黒──美の思想史』等々の書物が心を残しつつ年を越す。)
※
ジャンルのバランスを考えながら「2022年のベスト10+1」を掲げる。強いて「ベスト3」を選ぶなら安藤本、内田本、グリーニー本か。(ジャ
ンル別のリストは次回以降。)
●安藤礼二『縄文論』(作品社:2022.11.10)
●内田樹『レヴィナスの時間論──『時間と他者』を読む』(新教出版社:2022.05.01)
●佐藤良明『英文法を哲学する』(アルク[電子書籍版]:2021.01.24)
●川本皓嗣『日本詩歌の伝統──七と五の詩学』(岩波書店:1991.11.29)
●今西錦司『生物の世界』(講談社文庫[電子書籍版]:2001.11.09/1941)
●成田悠輔『22世紀の民主主義──選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』(SB新書[電子書籍版]:2022.08.01)
●川上未映子『ヘヴン』(講談社文庫[電子書籍版]:2014.11.01/2009)
●マーク・グリーニー『暗殺者の回想』上下(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫[電子書籍]:2022.10.25)
●三原和人『はじめアルゴリズム』全10巻(講談社[電子書籍版]:2017.11.01-2019.12.01)
●伊藤弘了『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所[電子書籍版]:2021.07.19)
●斎藤環『NHK100分de名著 中井久夫スペシャル──本当の「やさしさ」とは 2022年12月』(NHK出版:2022.12.01)
★2022.12.28 心に残った本②
【人文系】
◎安藤礼二『縄文論』(作品社:2022.11.10)
○エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』(松葉類・宇佐美達朗訳,勁草書房:2022.10.26)
◎奥野克巳・清水高志『今日のアニミズム』(以文社:2021.11.30)
【哲学系】
◎檜垣立哉『バロックの哲学──反‐理性の星座たち』(岩波書店:2022.06.16)
◎内田樹『レヴィナスの時間論──『時間と他者』を読む』(新教出版社:2022.05.01)
○永井均『独自成類的人間 哲学日記 2014-2021』(ぷねうま舎:2022.04.25)
○野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』(岩波書店:2022.02.08)
○永井均『遺稿焼却問題 哲学日記 2014-2021』(ぷねうま舎:2022.01.25)
○永井均・森岡正博『〈私〉をめぐる対決──独在性を哲学する』(現代哲学ラボ・シリーズ第2巻,明石書店:2021.12.25)
○山口尚『幸福と人生の意味の哲学──なぜ私たちは生きていかねばならないのか』(トランスビュー:2019.05.20)
【言語系】
○三木那由他『会話を哲学する──コミュニケーションとマニピュレーション』(光文社新書[電子書籍版]:2022.08.18)
◎宮野真生子『言葉に出会う現在』(ナカニシヤ出版:2022.07.17)
○山中桂一『ソシュールのアナグラム予想──その「正しさ」が立証されるまで』(ひつじ書房:2022.04.26)
◎佐藤良明『英文法を哲学する』(アルク[電子書籍版]:2021.01.24)
○原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』(講談社現代新書[電子書籍版]:2016.11.01/2012)
○金谷武洋『日本語文法の謎を解く──「ある」日本語と「する」英語』(ちくま新書:2003.01.20)
◎荒木博之『やまとことばの人類学──日本語から日本人を考える』(朝日選書:1985.12.01)
【芸術系】
○『談』No.124[特集|声のポリフォニー……グルーヴ・ラップ・ダイアローグ](たばこ総合研究センター:2022.07.01)
◎小津夜景・須藤岳史『なしのたわむれ──古典と古楽をめぐる手紙』(素粒社:2022.03.23)
○熊倉敬聡『GEIDO論』(春秋社[電子書籍版]:2022.02.10/2021.09)
○松岡正剛『千夜千冊エディション 面影日本』(角川ソフィア文庫[電子書籍場]:2018.11.22)
○フランソワ・ビゼ『文楽の日本──人形の身体と叫び』(秋山伸子訳,みすず書房:2016.02.10)
○ロラン・バルト『エッフェル塔』(宗左近・諸田和治訳,ちくま学芸文庫:1997.06.10)
○ロラン・バルト『表徴の帝国』(宗左近訳,ちくま学芸文庫:1996.11.07/1970)
◎川本皓嗣『日本詩歌の伝統──七と五の詩学』(岩波書店:1991.11.29)
※2022.12.28 小林
友人NNが今年読んだ本の1つとしてロラン・バルトの表徴の帝国をあげていた。現象学的芸術論の金字塔と言われる本。バルトは言う「芸術作品は歴
史がみずからの満たすべき時間をすごしている様式である」80年代に起こった人文諸科学の現象学的還元。私にとって人生最大の学問的衝撃の1つ
だったように思える。しかし、土木工学、経済学、いまだに現象学の洗礼を受けていない。
フッサールは、諸学問に根拠を与える「基礎づけ」の学として現象学を構想した。真・善・美という意味や価値、精神や文化に関する問いは、自然科学
を中心とした実証的な学問では扱わない。それゆえフッサールは、あらゆる学問・認識の根拠を個々人の主観における妥当性に求めようとした。この態
度変更を自覚的に行うことを「現象学的還元」と呼ぶ。(略)
※2022.12.29
レヴィナスは現象学者を演出家に喩えました。すぐれた演出家は、舞台を「つくりもの」として分析的に見ると同時に、観客のように「劇的世界」に没
入しなければいけないと(内田樹氏の解釈)。前段の覚めた批判的なまなざしで「事象そのもの」を剔出するのが「還元」だとすると、後段は「酸化」
と言えるかもしれない。分析と総合。文理融合めいた話になってしまいました。
※2022.12.29 小林
実践科学ですね。書いてみよう
★2022.12.29 心に残った本③
【自然科学系】
○久保(川合)南海子『「推し」の科学──プロジェクション・サイエンスとは何か』(集英社新書[電子書籍版]:2022.08.31)
○ニック・チェイター『心はこうして創られる──「即興する脳」の心理学』(高橋達二・長谷川珈訳,講談社選書メチエ[電子書籍
版]:2022.08.01)
○アンディ・クラーク『現れる存在──脳と身体と世界の再統合』(池上高志・森本元太郎監訳,ハヤカワ文庫[電子書籍
版]:2022.07.25)
○ガイア・ヴィンス『進化を超える進化──サピエンスに人類を超越させた4つの秘密』(野中香方子訳,文藝春秋[電子書籍
版]:2022.06.20)
◎今西錦司『生物の世界』(講談社文庫[電子書籍版]:2001.11.09/1941)
◎今西錦司『主体性の進化論』(中公新書:1980.07.25)
【政経社会系】
◎太田肇『何もしないほうが得な日本──社会に広がる「消極的利己主義」の構造』([電子書籍版]:2022.11.04)
◎成田悠輔『22世紀の民主主義──選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』(SB新書[電子書籍版]:2022.08.01)
○エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』(大野舞訳,文春新書[電子書籍版]:2022.06.20)
○岡田斗司夫『ユーチューバーが消滅する未来──2028年の世界を見抜く』(PHP新書[電子書籍版]:2018.11.29)
【文学批評系】
○乗代雄介『本物の読書家』(講談社文庫:2022.07.15/2017)
◎ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』(岸本佐和子訳,講談社文庫:2022.03.15/2019.07)
○古井由吉『この道』(講談社文庫:2022.02.15/2019)
○吉増剛造『詩とは何か』(講談社現代新書[電子書籍版]:2021.12.01)
◎竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー──「自殺」したのは誰なのか』(新潮選書:2021.08.25)
○川上未映子『夏物語』(文春文庫[電子書籍版]:2021.08.20/2019)
○藤沢周『世阿弥最後の花』(河出書房新社[電子書籍版]:2021.06.15)
◎川上未映子『ヘヴン』(講談社文庫[電子書籍版]:2014.11.01/2009)
◎辻邦生『西行花伝』(新潮文庫:1999.07.01)
★2022.12.30 心に残った本④
【エンタメ系】
○大沢在昌『黒石[ヘイシ] 新宿鮫12』(光文社[電子書籍版]:2022.11.21)
◎マーク・グリーニー『暗殺者の回想』上下(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫[電子書籍]:2022.10.25)
◎デイヴィッド・ブランズ/J・R・オルソン『極東動乱』(ハヤカワ文庫[電子書籍版]:2022.06.25)
◎ステイシー・エイブラムス『正義が眠りについたとき』上下(服部京子訳,ハヤカワ文庫[電子書籍版]:2022.04.25)
◎ダニエル・シルヴァ『報復のカルテット』(山本やよい訳,ハーパーBOOKS[電子書籍版]:2022.04.20)
○ケン・フォレット『ネヴァー』上中下(戸田裕之訳,扶桑社[電子書籍版]:2021.12.10)
◎ドン・ベントレー『シリア・サンクション』(黒木章人訳,ハヤカワ文庫:2021.11.25)
◎マーク グリーニー 『暗殺者の献身』上下(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫[電子書籍版]:2021.09.25)
【マンガ系】
◎三原和人『はじめアルゴリズム』全10巻(講談社[電子書籍版]:2017.11.01-2019.12.01)
【自己啓発系】
○ケイト・マーフィ『LISTEN──知性豊かで創造力がある人になれる』(松丸さとみ訳,篠田真貴子監修,日経BP[電子書籍
版]:2021.08.09)
◎伊藤弘了『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所[電子書籍版]:2021.07.19)
○菅野恵理子『MIT マサチューセッツ工科大学
音楽の授業──世界最高峰の「創造する力」の伸ばし方』(あさ出版[電子書籍版]:2020.10.15)
【テキスト系】
◎斎藤環『NHK100分de名著 中井久夫スペシャル──本当の「やさしさ」とは 2022年12月』(NHK出版:2022.12.01)
○上野誠『NHK100分de名著 折口信夫『古代研究』2022年10月』(NHK出版:2022.10.01)
○安田登『NHK100分de名著『太平記』2022年7月』(NHK出版:2022.07.01)
○三浦伸夫『NHKこころをよむ 数学者たちのこころの中』(NHK出版:2022.01.01)
★2022.12.30 心に残った本➄
「心に残った本(2022年)」余録。リストの最後に挙げた「100分de名著」には‘不信の念’を抱いていた。効率主義(要約主義)的教養主義
的ポピュリズムの極み。『存在と時間』が100分で分かるはずがないと。でも調べてみると昨年暮れの「中井久夫スペシャル」で購読テキストが20
冊目、映像で観るのも6回目(うち3回が昨年)だった。頭で考えていることと心(身)が求めていることが年々乖離していく。
※
阪神淡路大震災の直後、神戸大学の中井教授と電話で話をしたことがある。「こころのケアセンター」につながる有識者会議への協力を求めたところ、
多忙を理由に別の識者を紹介された。短い時間だったが、その声に‘怒り’のようなものが感じられた。その後『西洋精神医学背景史』と『私の日本語
雑記』に接して驚嘆した。NHKの番組を機に、もっと深くその世界に浸ってみたいと思うようになった。
※
今年最後の読書の時間に中井久夫の短いエッセイを二篇読んだ。『記憶の肖像』に収録された「日本語を書く」と「一つの日本語観──連歌論の序章と
して」。中井はそこで、文には内容的=「項」(dy/dx)的な部分だけでなく「演算子」(d/dx)的=次文喚起的な機能があるのではないかと
書いている。
(「一つの感覚的性質を認識する場合…、その認識の基となる一般なるものがなければならぬ。而もそは…経験に内在的のものでなければならぬ、数学
に於てxに対するdxの如きものでなければならぬ」(『西田幾多郎全集第二巻』77頁)。)
※
中井繋がりで三編。中井英夫『ハネギウス一世の生活と意見』から、三一書房版作品集全十巻+別巻一に書かれた「自作解説」を読んだ。そこで取りあ
げられた著書のタイトルを眺めるだけで一篇の幻想小説を読んでいる気分になる。『中井正一評論集』から「リズムの構造」。この論考は何度読んでも
新しい(つまり咀嚼しきれない余白が残って後を引く)。短編集『日本SFの臨界点 中井紀夫 山の上の交響楽』から表題作。この味わいは好きだ。
※
本腰を入れFBに投稿しはじめて半年余り、今回で100篇目。‘お百度参り’では心願は成就しそうにない。いっそ‘千日回峰行’で悟達をめざす
か。
★2022.12.30 心に残った本⑥
「心に残った本(2022年)」のリストに掲げたロラン・バルトの『表徴の帝国』に関連して友人KがFBで現象学的美学を話題にしたので、現象学
をめぐるレヴィナスの議論をコメント欄に書いた。これに応じて投稿された友人Kのレヴィナスとプラグマティズムをめぐる文章に触発されて思いつい
たことを書いた、かなり長文になったのでこちらに掲載することにします。
※
哲学書はまるで歯が立たないか抵抗なく入っていけるかのどちらか。長篇小説や歴史書や体系的な学術書のように読み進めていくうちにじわじわと浸透
してくるといった体験はほとんどない(個人的見解です)。
歯が立たないものはいくら頑張って解説書や研究書を読んでも最後まで歯が立たない。歯ごたえを感じたとしたらそれは大概、解説者・研究者の手腕が
優れていたか、解説者・研究者が当の哲学者を「使って」自分の哲学を展開していたかのどちらか。
※
レヴィナスは(私にとって)後者の典型だった。昨日今日と書棚の整理(断捨離)を敢行した際、過去の‘試練’をくぐりぬけて最後の一冊になってい
た『存在の彼方へ』をさんざん迷ったあげく手元に残すことにした。
読んでも歯が立たない、だからたぶん読まないが、自分にとってとても大切な思索家だとなぜか直観的に分かる、その確信をもってただ本の背を眺める
だけであってもそれは一つの読書の形だと思うことにした。
※
レヴィナスをめぐる解説書や研究書をたくさん読んできた。その中で内田樹著『レヴィナスと愛の現象学』に接してはじめて腑に落ちた。腑に落ちたの
は内田氏の理説であってレヴィナスのそれではないのかもしれないが。
この本を読んで確信したのは、レヴィナスのような思索家を「理解」するためには(内田氏がそうしたように)その弟子にならないといけないというこ
と。弟子入りする必要はないし、本人の了承を得る必要もない。ただ弟子という立場に身を置く、あるいはそのような心身(と頭)の構えをとらないと
腑に落ちない理説というものがこの世にはあるということ。
※
レヴィナスと違ってウィリアム・ジェイムズやチャールズ・サンダーズ・パースの思索はなぜか(読む前から)理解できる。彼らはともに徹底的かつ根
源的な経験論者であり、かつ(とりわけパースは)形而上学者だった。プラグマティズム(パースの場合はプラグマティシズム)は神なき時代における
超越者を思考する作法のようなものだ(個人的見解です)。
経験論的形而上学のベルクソン(この哲学者も読む前から分かっていたし読めばもっと分かった)や超越論的経験論のドゥルーズ(いくら読んでも歯が
立たないがレヴィナスと同じく決定的に重要な哲学者だとなぜか分かる)もプラグマティストだ、ウィトゲンシュタインもそうだ(…)。
※
キリスト教であれユダヤ教であれ教典が伝える教えを(まずは)信じなければ、その教えが何であるか理解できない。「実践」はそれと同じ構造をもっ
ているのかもしれない。