「ニコラス・ルーマン」(2009.06)



★6月13日(土):ニクラス・ルーマン

 冬弓舎のサイト(2015年7月、舎主内浦亨氏が事故死されたため現在は閉鎖)から、酒井泰斗さんの日曜社会学のページ [http://socio-logic.jp/]へ飛んだ。どちらも久しぶりのアクセス。(その昔、酒井さんが主催するルーマンフォーラムとい うメーリングリストに参加していたことがあった。脱会した覚えはないのに、たぶんメールアドレスを変えたときに手続きを忘れたかなにかで、いつの まにか仲間はずれになっていた。)
 その日曜社会学の文献リストを眺めていて、永井俊哉ドットコムにいきあたった。この人がプレスプランに連載していた「性書」(ぜんぜん知らな かった)が、『ファリック・マザー幻想──学校では決して教えない永井俊哉の《性の哲学》』として刊行されている。書店で見かけて以来、気になっ てしかたがなかったので、図書館で借りて(長らく貸出中でなかなか入手できなかった)ざっと目を通してみると、これがけっこう面白い。とくにルー マンをとりあげたところが興味深くて、にわかにルーマンのことが気になりだした。
 こういうことは続くもので、この前、熊野純彦編『現代哲学の名著──20世紀の20冊』で、ドゥルーズの『差異と反復』と坂部恵の『仮面の解釈 学』にはさまれたルーマンの『社会システム』の紹介を読んでいて、これにまたけっこう刺激を受けた。(ルーマンがとりあげられているのは5章構成 のちょうど真ん中、「時間・反復・差異」の章で、最初がベルクソンの『時間と自由』、以下ドゥルーズ、ルーマン、坂部と続く。)
 で、さっそく、「書庫」に仕舞いこんでいたクニール/ナセヒの『ルーマン──社会システム理論』をひっぱりだしてきた。(この本は、くだんの ルーマンMLで必読書とされていたもの。実はぜんぜん読まずに参加していた。)この本でざっと「地図」をつくった上で、素直に感銘を受けた『難解 な本を読む技術』(高田明典著)の教えにしたがい、読書ノートを綴りながら、『社会システム理論』か『情熱としての愛―親密さのコード化』に挑戦 してみたい(できれば)。

★6月16日(火):世界観にはそれを取り消すべき方法が組みこまれていなければならない

 ニクラス・ルーマンを読みたくなった。
 きっかけは、(前回書いたように)、『現代哲学の名著』に収められた文章(執筆者:佐々木慎吾)を読んだことにある。
 そこで印象に残ったことの一つは、ルーマンの社会システム論が、生命システムに対して案出された「オートポイエーシス(自己創出)」の概念を導 入した「自己言及的なシステムの理論」であると書かれていたこと。
 以下、該当部分を抜き書きする。

《そもそも「オートポイエーシス」概念は、チリの神経生理学者H・R・マトゥラーナとF・J・ヴァレーラによる、「構成要素を自らのはたらきを通 じて産出し、その産出過程と諸要素の相互作用を環境から区別された統一体として構成する」という生命の一般的な定式化のために提案されたものだ。 (略)
 だがここで強調すべきは、ルーマンの意図が、生命システムに対して案出されたオートポイエーシス理論をそのまま社会に当て嵌める……といったも のではないということだ。ルーマンの狙いはむしろ、オートポイエーシスを自己言及的なシステムの理論として一般化し、それを再び社会という特定の システムに適用することであった。「オートポイエーシス的システムの理論は生きているシステムにのみ当て嵌まるという限定を放棄し、心理的および 社会的システムにまで適用されるように拡張されなくてはならない」(八八○頁)。それは自ら環境との差異を構成するシステムであり、それゆえ根底 にあるのはシステム/環境の差異である。》(142-143頁)

 ここを読んでいて、とても懐かしくなった。
 80年代の香り(ニューアカやポストモダンや記号論や差異性や嘘つきのクレタ人が飛び交っていた、あの80年代の香り)が、体感とともに蘇って きたのだ。
 プラザ合意の翌年から二年間、私は勤め先を休職して、某大学院で経営組織論を勉強していた。
 どういう機会だったか覚えていないが、教授陣がずらっと並んだ席で、「自己組織化の理論に興味をもっている」と口にした記憶がある。
 ある教授から、「あれは難しくてよく解らないね」といった趣旨の発言があった。
 そのとき、私は、(どうせ、朝日出版社刊・中野幹隆編集の『エピステーメー』の特集号で二、三の論文を読み囓った程度の、また『現代思想』やな にかでウンベルト・マトゥラーナやフランシスコ・ヴァレラのことを通りすがりに聞き囓ったくらいの底の浅い知識でもって)、それほどでもない、と 心の中で思っていた。(もしかしたら、そう口にしたかもしれない。)
 後になってわかったことだが、その教授は工学部から経済学部に移ってきた数理統計学の専門家で、私は、その多変量解析の授業を受けてまるで歯が たたなかった。
 その程度の数学の素養で、自己組織化をテーマに何か論文が書けると根拠もなく思いこんでいたのだ。
 結局、私は、ハーバード・サイモンのシステム論をほんの少し読み、C・I・バーナードの『経営者の役割』を(原書はさわりだけ、大半は翻訳書 で)それなりに読みこんで、修論をしあげた。
 そこに書いたことを(うろ覚えながら)箇条書きにすると次のようになる。

1.協働組織というシステムを稼働させるのは、命題と命題を接続する(推論する)集合的で反復的な言語過程である。
2.それはあたかも「司法過程」のように、個別事例にルールを適用すること、個別事例に即してルールを解釈(改変)すること、個別事例から新しい ルールを導き出すこと、そもそも何がルールであるかを確定する(製作する)こと、等々が複合した自己言及的な過程である。
3.組織における「経営者機能」(個別の経営「者」が果たすべき機能のことではない)とは、そのような「司法過程」を不断に継続させることであ る。「世界観にはその世界観自体を取り消すべき方法が組みこまれていなければならない」のだとしたら、「経営者」とは組織に組みこまれた「その (組織の)世界観自体を取り消すべき方法」を具現化した装置である。

 最後の「世界観にはその世界観自体を取り消すべき方法が組みこまれていなければならない」は、『知恵の樹』の訳者あとがきに紹介されているマ トゥラーナ/ヴァレラの発言である(ちくま学芸文庫『知恵の樹』317頁)。
 そういえば、この訳本が文字の多い大型の絵本のようなかたちで朝日出版社から刊行された年に、私は修論の仕上げの作業に没頭していたのだった。

★6月18日(木):人間やその意識は社会の要素ではない

 佐々木慎吾氏の「ルーマン『社会システム』」という文章(『現代哲学の名著』)を読んで、もう一つ印象に残ったのは、ルーマンがいう社会システ ムの構成要素は「コミュニケーション」で、「行為」や「人間」や「意識」ではないと書かれていたことだ。

《では、そうしたオートポイエーシス的社会システムの要素とは何か? これまで伝統的に考えられてきた「行為」ではなく、また「人間」でもなく、 「コミュニケーション」である、とルーマンは考える。コミュニケーションがコミュニケーションを産出し、意味加工の回帰的に閉じたネットワークを 実現する。その意味で、コミュニケートできるのはただコミュニケーションだけであると言える。それゆえ──人間はコミュニケーションではないのだ から──人間はコミュニケートできないのである!(略)
 伝統的には、自己言及的な意味の産出は意識的主体の専管事項だと看做されており、さらにはそのような主体がすなわち世界の主体であると宣言され てきた。(略)
 しかしながら、こうした意識のオートポイエーシス的な操作、すなわち有意味な表象の産出が、社会的な意味を直接生み出すのではない。コミュニ ケーションは複数の「意識の流れ」を癒合させ、一つの流れに統合するような過程ではなく、むしろ決して消去することのできない我彼の差異を拠り所 として進行する。(略)
「人間」やその意識は、社会の要素ではない。それは社会システムの「環境」に属しており、また逆に社会は意識にとっての必須の環境である。》 (143-144頁)

 ここに書かれていることと、前回引いた文章の中で紹介されていたルーマンの言葉、「オートポイエーシス的システムの理論は生きているシステムに のみ当て嵌まるという限定を放棄し、心理的および社会的システムにまで適用されるように拡張されなくてはならない」、とを組み合わせると、次のよ うになる。

○生命のシステム、社会のシステム、意識(心理)のシステムという、「自己言及的な意味の産出」を担う三つの「オートポイエーシス的システム」が ある。
○このうち、社会システムと意識システムとは、互いに互いの「環境」である。

 このようにまとめみると、いくつかの疑問がわいてくる。
 たとえば、拡張され、一般化された自己言及的なオートポイエーシス的システムの概念が適用される特定のシステムは、生命・社会・意識の三つに限 定されるのか。たとえば、言語システムは? また、物質システムは?
 そして、生命と社会、生命と意識は、互いに互いの「環境」であるとはいえないのか。(そこに言語や物質が入ってくると、関係はもっと複雑にな る。)

★6月19日(金):ルーマンとラカン─壊滅的かつ超絶的に難解

 ルーマンがいうオートポイエーシス的社会システムの要素は「コミュニケーション」であって、「行為」や「人間」や「意識」ではない。
 このことをめぐって、もう少し書いておきたいことがある。
 高田明典著『難解な本を読む技術』に、ラカンの「《盗まれた手紙》についてのゼミナール」の冒頭の一節を解読したくだりがある。付録2「代表的 難解本ガイド」のラカンの項に出てくるもので、私はこれにすっかり魅了された。
 そして、「ルーマンがいう社会システムの構成要素はコミュニケーションだ」を想起した。
 まず、原典を抜き書きしておく。

《われわれはこれまでの研究によって、反復強迫(Wiederholungszwang)はわれわれが以前に意味表現[シニフィアン]の連鎖の自 己主張(l'insistance)と名づけたもののなかに根拠をおいているのを知りました。この観念そのものは、l'ex- sistance(つまり、中心から離れた場所)と相関的な関係にあるものとして明らかにされたわけですが、この場所はまた、フロイトの発見を重 視しなければならない場合には無意識の主体をここに位置づける必要があります。知られるとおり、象徴界(le symbolique)が影響力を行使するこの場所の機能が想像界(l'imaginaire)のどのような経路を通って人間という主体のもっとも奥深い ところでその力を発揮するようになるか、このことは精神分析によってはじめられた実際経験のなかではじめて理解されるのです。
 このゼミナールで強調してみたい点は、じつはいまの想像界の諸影響は、これらをお互いに結びつけたり方向を与えたりする象徴界の連鎖に持ちこま れる点はさておいて、それらが何らわれわれの経験の本質的な面を表現せずに単にその移ろいやすい部分を伝えるにすぎないという点です。》(『エク リⅠ』11頁)

 この文章をいきなり読んでも、何が何やらさっぱり解らなかっただろう。
 高田氏がときおり使う語彙でいえば「壊滅的に難解」。内田樹氏が(『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』の第1章3節で、ラカンの「分かり にくさ」の実例として「名刺代わり」に引用した箇所で)使った言葉でいえば「超絶的に難解」。
 高田前掲書は、これを次のように解説する(223-232頁)。

第1のセンテンス
 反復強迫とは、「それが辛い記憶や経験であるにもかかわらず、その不幸を繰り返し再現する」という現象である。
 フロイトは「快感原則の彼岸」で反復強迫の概念の重要性を指摘し、かつ問題視した。なぜなら、それは「生命体は、快を求め、苦を遠ざける」とい う快感原則に反するから。
 フロイトは、反復強迫の原因を「自我欲動」に求めた。
 フロイトがいう自我とは、「ロゴス=記号=言葉」である。つまり、反復強迫は「記号表現の連鎖」が自ら欲動する(自己主張する)ことによって発 生する。

第2のセンテンス
 「l'in-sistance」(内発)と「l'ex-sistance」(外発)が「対をなす概念」となっていることに注意。
 まず、反復強迫は自己の内部で発生する「自我欲動」の発現である(内発)。
 その自我欲動は「記号・言語」によって駆動されている。しかし、「記号・言語」は私たちが「外部」から取り入れた(学習した)ものでしかない。
 この「記号・言語=中心から離れた場所」(外発)に無意識の主体が位置づけられる。すなわち、「無意識」は「外部=言語」に存在している。自己 の内部に存在しているわけではない。

第3のセンテンス
 想像界とは、私たちが「言語を用いて何かを感じ、何かを思考する世界」のことである。「l'in-sistance」であり「内発」であり「自 我衝動」である。
 象徴界とは、「言語の世界」である。「l'ex-sistance」であり「外発」であり「言語」である。それは私たちの「外部」から、私たち に「記号表現の連鎖」や「記号表現の秩序」を打ち込んでくるもののことを指す。
 ラカンが言っているのは、「言語の体系の中に、無意識の主体が位置づけられる必要がある」ということである。
 さらに、「言語体系は、無意識に対して影響力を行使するが、そのとき、言語体系がどのようにして私たちの思考や感情に入り込んで実際の言動とし て発露されるのかという仕組みに関しては、精神分析の実際経験を通して理解される」ということである。

第4のセンテンス
 想像界の諸影響は、われわれの経験の本質的な面を表現しない。
 想像界の諸影響は、われわれの経験の移ろいやすい部分を伝えるにすぎない。
 想像界の諸影響は、象徴界の連鎖に持ち込まれる。
 想像界の諸影響は、象徴界の連鎖において、お互いに結び付けられたり方向を与えられたりする。

 私はこの読解にすっかり魅了され、そして「オートポイエーシス的社会システムの要素はコミュニケーションであって、行為や人間や意識ではない」 を想起したのだった。
 そこには、つまりフロイト=ラカンの議論とルーマンの議論とのあいだには、何か深い関係があるに違いないと思った。
 それに、高田氏のように、ルーマンの著書を(自分なりに)解読してみたいと思った。