「ハードボイルドな心、高度産業社会を生きる技術」(2007.3)



★3月23日(金):ハードボイルドな心、高度産業社会を生きる技術

 河野哲也著『〈心〉はからだの外にある』は、二つの太い線で構成されている。一つは「デカルト的コギト」以後の主観主義(純粋自我の概念)への 批判であり、いま一つは政治的なものを心理学的なものに置き換える心理主義(反省的自己の概念)への批判である。
 この両者に共通するのは内面主義の発想であり、河野氏によれば、それは「私はある」の「私」を身体としての私ではなく、考える作用としての私で あるとしたデカルトに発する。たとえば次の文章では、主観主義と心理主義対する批判が渾然一体となって記述されている。

《「内面に価値を置く」という心理状態は、本質的に自己が抑圧された状態であり、率直な自分の考えや感情の表現が押さえ込まれた状態である。それ が、相手のことを思いやっての抑制であるならば構わないだろうが、自己が不当に不利になる状況を忍従するための手段になってしまってはならない。 私たちは、自分の内部に価値を置いているときには、なぜそのような状態でいるのかを考え直す必要があるだろう。
 超越的な内面性を重視して、デカルト的な意識の存在を擁護しようとする人は、さまざまな手段を用いて首尾よく構築すべき「内部」を、最初から与 えられていると思い込みたいだけではないだろうか。それは、生態学的立場から見れば適切さを欠いた戦略なのである。》(140-141頁)

 そこで、河野氏が「生態学的立場」からデカルト的コギトに対抗して提示するのが、「私は思う」ならぬ「私は死ぬ」の原理に従う「エコロジカルな 私」の概念、端的にいえば環境の中で行動する身体である。ここで河野氏が立脚するギブソンの知覚論(アフォーダンス理論)の要諦は次のように要約 できる。

1.アフォーダンス(動物にとっての生態学的環境の価値や意味、どのように行動すべきかに関する環境の特性)は環境の側に実在する特性であって、 動物の側にとっての主観的な価値や意味ではない。
2.私たちが知覚している世界は、人間の心(脳)が生み出した表象やイメージではなく、私たちは実在の世界そのものを直接に知覚している。知覚世 界は私たちの身体の外側に、まさしく見えているそこに存在している。

 ギブソンがいう環境は自然的なものだけではない。環境のアフォーダンスのうちもっとも精緻なものは、人間の場合、とりわけ他の人間によって与え られる。心は、社会関係を含めた環境と身体的活動との関係性のなかで成立するという意味において、まさしく「身体の外にある」。これが本書のタイ トルとなった。
 こうしたエコロジカルな自己観に基づく河野氏の心理主義批判──社会的有用性の観点からのパーソナリティ測定や個性(重視)主義、「障害=個性 論」への批判等々、つまり「本来は社会的・政治的であるはずの問題を、個人の問題へとすり替えて、問題を「個人化」する政治的なプロパガンダ」に 対する批判──には説得力がある。
 それを踏まえた「政策論」──個人ではなく環境(ニッチ)の適切な設定を主眼とした教育システム、官公庁や企業の不正・不祥事を個人の倫理観の 欠如等ではなく組織構造の産物と見なすビジネス論理学の提唱等々──は現実的有効性をもっている。
 このあたりの「理論心理学」的な議論(心の科学をめぐるメタ理論的なサイエンス・スタディ)が本書の勘所だろう。本論末尾の次の括りに私は全面 的に賛同する。

《結論しよう。私たちは環境に埋め込まれた存在である。そうであるかぎり、自己のあり方を問うことは、自分の「内面」を問うだけではすまされな い。内面とは、自分の周囲の環境を既存のものとして受け入れた後の残余にすぎないからである。自己への問いとは、私たちを取り囲む(自然的・人間 関係的・社会的)環境のあり方までを含めて、自己のあり方を問い直すことである。そして、そこには、それまでの環境設定への批判が含まれることで あるかもしれない。私たちがなすべきは、心理主義にとらわれたままで、無自覚のうちに自己を既存の社会システムに過剰に適応させてしまう「自分探 し」なのではなく、環境リテラシーを通じて、自分(たち)自身で環境と自分(たち)との関係性をリデザインすることである。本当の自分探しとは、 自分が充実して生きられる環境(ニッチ)を自ら形成し、再形成してゆくことなのである。》(244-245頁)

 ただ、それらの議論の理論的もしくは哲学的な前提となる主観主義批判の部分が腑に落ちない。正確にいうと、デカルト「以後」もしくはデカルト 「的」な自己観や意識観に対する批判は妥当なものだと思うし、それが心理主義と密接不離なものであることにも得心がいくのだが、当の「デカルト」 に対する批判が腑に落ちないのである。
 この点が気になって本書を読み進められなくなり、たまたま新訳が出た『省察』を一読してみて、やはり河野氏のデカルト批判は一面的もしくはデカ ルトその人の議論とは関係がないものなのではないかと思った。
 たとえば河野氏は、デカルトは「私はある」の「私」とは身体をもたない純粋な思惟作用であるというが、しかし「私はある」が必然的に真となるた めには「私はある」という命題は発語されなければならず、したがってその「私」は話す者でなければならない(音声を発するためには身体をもたなけ ればならない)という。
 また、デカルト的コギトは詮ずるところ「知る自己」に帰着するのであって、だから純粋自我(純粋思惟)とは、能動態(知る自己)は受動態(知ら れる自己)ではありえないという言語的・文法的な規則を現実に投影した幻想にすぎず、それが同一の存在でありつづけているのはむしろ環境が同一で あるからだという。
 これらの議論は、デカルトへの言及抜きに述べられたものであるとしたら全面的に正しいと思う。でもそれは、デカルトの読み方として間違っている とまでは断定しないが、少なくとも私自身が『省察』を読んだ体験からは出てこないものだ。河野氏の議論はほとんどそのままデカルトが容認するもの であるとさえ私には読めた。「だから私(デカルト)はそれとは違う問題をここ(『省察』)で考えているのだよ。」
 でも河野氏は『省察』をそのように読んだ。要はデカルトがそこで試みた「思考実験」は成り立たないといっている。私の異和感は、だから結局見解 の相違によるもので、河野氏と私は『省察』のうちにまったく違う「問題」を見出しているということなのだろう。

     ※
 ではお前が『省察』のうちに見出した「問題」とは何か、お前自身の見解を述べよと問いつめられると困る。まだ準備ができていない。というか、す でに述べたように私は本書のデカルト批判を除く部分の議論とその帰結に全面的に賛同している。しかもそれは河野氏のデカルト批判に対する異和感が あるにもかかわらずそうなのである。だからここで延々と独自の見解を述べる必要はない。
 河野氏のデカルト批判と切り離してその心理主義=主観主義批判に賛同できるはずがない。もしそういう反論がありうるとすれば、これには真っ向か ら立ち向かわなければなるまいが、残念ながらその準備がまだできていない。だから、以下に走り書きすることは本番のない予行演習のようなものでし かない。

 武術や芸能の達人、名人といわれる人はアフォーダンス理論を身をもって生きていたに違いない。宮本武蔵は剣術の極意を問われて敷居の上を歩いて みせた。敷居を千尋の谷にかかる板に見立てたというのだが、これはだれかの漫画で読んだ話で、本当のことなのかどうかは知らない。
 そのどこがアフォーダンスにつながるのかと問われても説明に窮するが、要は、剣術とは身体の鍛錬を通じて心を錬磨すること、粘土をこねるように して心を造形していくことだ。言葉で書くとそうなる。問題はそこでいう「心」とは何かで、それを内面の問題と考えるから勘違いが起こる。
 剣術の達人は世阿弥の「離見の見」を実地に生きていた。つまり「心はからだの外にある」こと、千尋の谷(死)や相対する敵(他者)に直面して身 震いする「心」を、徹底的に身体と環境との相互作用の関係のうちに還元して思考した。「世界は私の世界であり、他人とは共有されないひとつの世界 を構成している」などと嘯いていると有無を言わさず斬り殺されるからだ。
 しかし前人未踏の境位を極めた達人にとって「世界は私の世界であり、他人とは共有されないひとつの世界を構成している」と、言葉の上では同じ事 態が成り立つ。だから剣術の達人は「天下無敵」なのである。(このあたり内田樹説の不完全な剽窃あり。)
 ところで、デカルトはオランダに隠棲し、新哲学への思索と著作にふけっているあいだも剣術の稽古を怠らなかったという。達人であったかどうかは ともかく、中世と近代のはざま、戦乱の時代を生きぬいた剣士デカルトが、アフォーダンス理論を知らなかったはずがない。そもそもアフォーダンスの 理論は西欧中世以来の発想の枠組みのなかにある考えだという説さえある。

 ハードボイルド小説の主人公もまた一種の達人である。高度産業社会の卑しき街を行く誇り高き孤高の騎士。河野氏は「あとがき──心理学と探偵小 説」で、レイモンド・チャンドラーが描くフィリップ・マーロウはデカルト的コギト(純粋な観察者)そのものだと書いている。

《このように、探偵小説は、本質的に、「私とは誰か」という問い、すなわち「私を私たらしめている秘密とは何か」という問いに動機づけられてい る。探偵による捜査があきらかにしていくのは、主体とは引き裂かれた主体であり、その統一性は決定的に揺らいでいるという事実、言い換えれば、誰 もがアイデンティティの危機に瀕しているという事実である。そして、探偵たちは、犯人をはじめとする登場人物たちの心の奥底に分け入ってその秘密 を探るうちに、クラインの壺のように、かえって心の外部へと出てしまう。探偵小説が示している近代的主体の逆説こそが、本書のモチーフであり、理 論心理学のテーマである。》(267頁)

 ここに出てくるクラインの壺的な「近代的主体の逆説」については、本文でも触れられていた。

《奇妙なことに、純粋な独我論的自己を指すように思われた「私」は、もっとも一般化され、もっとも普遍化された自己である。ここにひとつの逆説が ある。第二章で見たように、「真の私」や「私の本質」は、自己の個体的な行動特徴であるよりは、自分の行動を導いてくれる一般的な社会的規範のこ とを意味していた。いわば、私の本質は、そもそもは私の外部にあった権力であったのである。ここでの独我論的自己(形而上学的自己)の探求も、同 じような結論に達してしまう。単なる人物とは異なる「比類なき存在」であるはずの自己が、あらゆる特性が相対化された集合的な自己、すなわち、一 人称代名詞で自らを呼ぶことのできる者すべてとなってしまうのである。結局、形而上学的自己なるものは、汎用的な一人称単数代名詞である「私」を 実体化した以上のものではない。》(184-185頁)

 このあたりの議論はデカルトというよりは永井均の議論を念頭においているのだろう。「形而上学的自己なるものは、汎用的な一人称単数代名詞であ る「私」を実体化した以上のものではない」といって済むのだったら話は簡単で、やっぱりここでも河野氏の議論は(デカルトや永井均の「問題」と) すれ違っている。
 いやそういうことが書きたかったのではない。マーロウがデカルト的コギトで、そのデカルト的コギトによる純粋な観察の対象がクラインの壺だとい う河野氏の指摘は面白い。間違っていると私は思うけれど、面白い。
 マーロウはカメラ・アイだと思う。映画的主体だと思う。河野氏が批判するような意味合いとしてではなく「世界は私の世界であり、他人とは共有さ れないひとつの世界を構成している」と語る主体だと思う。そういう意味では、やっぱりマーロウはデカルト的コギトだ。
 何をいっているのか自分でもよく判っていないし、河野氏が批判する意味合いとは違う意味合いとは何かを説明できないけれど、そう思っている。
 加藤幹郎氏が『『ブレードランナー』論序説』で使った「形而上学的探偵物語」という語彙。それから今読んでいる村上春樹訳『ロング・グッドバ イ』の冒頭の次の文章(ここを「理解」できないと、チャンドラーにはまることはできない)。このあたりを素材にして、そのうち取り組んでみるとす るか。(思い出した。中断したままになっている「デカルト的二元論」シリーズでやろうと思っていたのがちょうどこの問題だった。 [http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20061109])

《唇を噛みながらハンドルを握り、帰路についた。私は感情に流されずに生きるように努めている。しかしその男には、私の心の琴線に触れる何かが あった。それがどんなものなのかはよくわからなかった。その白髪か、顔の傷跡か、礼儀正しさか。まあその程度のものだろう。私が彼と再び顔を合わ せる理由もないだろう。彼はただの迷い犬なのだ。あの若い女が言ったように。》(『ロング・グッドバイ』12頁)

     ※
 『他者のロゴスとパトス』(三井善止編著,玉川大学出版部:2006.10)に収録された河野氏の「他者問題とクオリア」の末尾に次のようにあ る。

《クオリアは主観的な幻想のようなものではなく、生態学的な世界の性質である。私たちが眼の前にしている知覚世界は、誰もがアクセスできるが、同 時に変化もしている生態学的レベルでの実在世界である。よって、知覚される世界も、個人が所有している閉じた内的世界ではなく、他人と共有される ものである。知覚される世界が、各人に閉ざされたプライベートな世界であるという主観主義哲学やある種の心理学・認知科学が共有している想定は根 本的な誤りである。人間それぞれが外部から接近不可能な内面を持っているというデカルト的な心の概念が成り立たないならば、私たちは他者問題や独 我論に惑わされる必要もない。したがって、他人の心は根源的に隠されているという前提から生じる「他者と呼ばれている身体には、本当に心が備わっ ているのだろうか」とか、「自分以外に心が存在するのだろうか」といった他者問題は擬似問題に他ならず、ここに他者問題は解消されるのである。》 (『他者のロゴスとパトス』135-136頁)

 ここに書かれていることはたぶん正しいのではないかと思う。例によって「デカルト」云々の部分を抜きにしてのことだが。ただ、それが正しいから といって「クオリア」や「他者」や「独我論」をめぐる「問題」が解決されたとは思えない。もっとも、何をもって「問題」と呼ぶかが実は問題で、そ の捉え方いかんではそもそも問題などなかったということになるのかもしれない。少なくとも私は、引用文の中で河野氏がカギ括弧で書いているような 事柄にはいささかの問題性も感じない。
(実をいうと「他者問題とクオリア」は斜め読みしただけ。ちゃんと読まずに結論部分だけ引用するのはフェアではない。だから、ここに書いたことは 今後の作業のための備忘録でしかない。)