「三位一体モデル」(20060.11)
★11月18日(土):『三位一体モデル』
堀田善衛の『定家明月記私抄』正続二篇を買い求めたちょうど同じ日に、中沢新一『三位一体モデル
TRINITY』(ほぼ日ブックス)を購入した。
中沢新一の聖霊論、三位一体論は『東方的』(1991)や『はじまりのレーニン』(1994)あたりからその姿を世にあらわし、『緑の資本論』
(2002)やカイエ・ソバージュ・シリーズ第3巻『愛と経済のロゴス』(2003)で頂点を極めた、あるいは(経済や性愛といった)新機軸を導
入し新たな次元に突入したものと承知している。使い手、使いようによっては途方もない汎用性と深みと実践性をもった思考モデルとして、画期的な可
能性をもつものであると理解している。
その中沢版三位一体論の入り口部分を、中沢自身が聴衆の前で語ったままに活字化し、30分で読めちゃえて持ち歩けるハンディでコンパクトなライ
ブ思想書にして使えるビジネス書にしたてたのが「ほぼ日」の糸井重里。「おもしろかったわ! この薄さがありがたいね。30分で読めちゃうもの
ね。」と帯の惹句を寄せているのがタモリ。
なんだか前世紀の遺物、かつてニュー・アカとか言われた時代を髣髴させる底の浅いコンセプトだなあ、とか、いかにもTV的なお手軽さだなあ、と
か、クオリアに続いて三位一体もコマーシャリズムの餌食になったか、とか、いろいろなことが気になったけれど、挿画(赤瀬川原平)と装丁、写真、
図版の配置や活字の大きさ、等々の本の造りが気に入ったので速攻で買って30分かけて読んでみて「いいんじゃないの、これ」と思った。
父と子と聖霊の三つの円の関係がポロメオの輪をなすことや、東方と西方のキリスト教会の分裂をもたらした三位一体の解釈をめぐるフィリオクエ論
争のこと、ラカンの現実界・想像界・象徴界との関係を踏まえた三つの項の相互関係など、三位一体モデルの理論面でのキモにあたる話題はいっさい省
かれている。またたとえば、ホモ・サピエンスの脳にあふれる「増殖力=聖霊」とこれをコントロールする「幻想力=子」と「社会的な法=父」の三つ
の原理が「人類に普遍的な思考模型」であるとして、では聖霊の増殖力や「神の子」を唯一神のなかに認めないイスラム教はその例外をなすのかといっ
たあたりのことなど、中沢新一も最後に書いているようにかなり説明不足の部分がある。
でも、そういった理論的な細部にこだわらない荒削りで大胆なところ、読者の想像力、というか思考力に委ねた大雑把で穴だらけの叙述は、それこそ
30分で読めちゃう「ライブ感」にあふれていて、かえって読者にひらかれている。あ、この話はもっとしっかりと書かれたコクのある文章で読んでい
て、だからもうとうに知っている。そんな風に思ってしまう読者(この本を読み始めたときの私のような)には、この本のよさはたぶんきっとわからな
い。
帯の惹句はこう続いている。「「タモリ」ってものの「三位一体」の図を、考えたんだよ。みんな、やるんだろうね、そういうことを。」こういうノ
リが大切なんだろうなと思う。実際に手と頭を使って三位一体の図を作ってみること。この本をもとにした「三位一体ゲーム」のような思考援助のツー
ルだって、そのうち商品化されるかもしれない。そうして99・9999%のゴミみたいな図の堆積のなかから、いつか奇跡のような未発の思考のかた
ちが立ち上がってくるかもしれない。これだけはやってみなければわからない。(実は私も、自分専用の三位一体の図を考えてみた。「デカルト=ベル
クソン」と「歌論=ギリシャ悲劇」と「金融=貨幣」の三つ組。このことは、気が向いたらそのうち書くつもり。)
★11月22日(水):私家版・三位一体モデル
前々回(11月18日)、自分専用の三位一体の図を考えていると書いた。それは「デカルト=ベルクソン」と「歌論=ギリシャ悲劇」と「金融=貨
幣」の三つの柱でできているとも書いた。その後このアイデアがどんどん熟成していった、というようなことはまるでなかったが、今回、中間報告的に
いま頭のなかにあることを書いておこうと思いたった。中間報告といっても、具体的な名宛人があるわけではないし、誰の関心もひかない話題なので、
いってみれば後の日の自分自身に対する備忘録のようなものだ。
最近、後の日の自分にそうたくさんの時間が残されているわけではないという事実がにわかに我が事として現実味を帯びて実感されるようになってき
た。この際、大げさにいえば人生の棚卸しをやっておかないと無駄に時間を費消してしまうのではないかという恐怖感みたいなものがひしひしと迫って
くるようになってきた。
なにか一つにしぼって、と言いたいところが、結局のところなんとか三つのジャンルに整理して、それもあれこれの関心事をむりやり押し込んだだけ
のものになってしまった。中沢新一さんの三位一体モデルとは、ほとんど関係がなくなった。が、近く、二十年ほど暮らした家を引っ越すことになり、
本棚の容量を増設するあてができたので、自室に常備する本の取捨選択の基準くらいにはなるだろうと思っている。
学生の頃、自分の関心事を「政治と詩」の二つに整理区分したことがあった。「政治」は性や食、共同性や戦争など端的にいって生身の人間の生き死
にをめぐる現実的な事柄の統治にかかわる実践と思想の全般をさす言葉。「詩」は表現とか芸術とか宗教とか祝祭儀礼とか脱魂法悦といった諸々の事柄
を畳み込んだ言葉。後者については放っておいても勝手に深みにはまっていくだろうから、大学では前者を専攻することにして、いまから思うとあまり
にベタだが法学部で政治学(国際政治学)を選んだ。
その後、なにが契機となったのか今となってはまるで思い出せないが、哲学系への関心をしだいに募らせていった。最初は数学の哲学、科学哲学と
いったあたりから入り、わけもわからず形而上学への反感を基調にしていたものの、これまたなにが転機になったか記憶がとんでいるが、形而上学こそ
私の生涯をかけるべき仕事だったのではないかとさえ思うようになっている。
いま述べた三つ、政治と詩と形而上学を「三位一体モデル」を使って言いかえれば、「政治=父(社会的な法)」「詩=子(幻想力)」「形而上学=
聖霊(増殖力)」になる。(ペンローズの三つの世界では「政治=物質的世界」「詩=こころの世界」「形而上学=プラトン的世界」になるし、ヘーゲ
ルの体系では「政治=自然哲学」「詩=精神哲学」「形而上学=論理学」になる。)
ここで余談を挿入。本当は「三」ではなく「四」もしくは「五」でまとめたいと思っている。その一環として、以前、「魂の四学」もしくは「魂の経
済学」なるものを考案したことがあった。自己検索をしてみると、自分でも忘れていたものがあったのでここにメモしておく。
○「魂の学について」
○「続・不完全な真空─魂学篇」
○「魂の濃度変化について・その他」
これらの文章のなかに、ヘーゲルに凝った余韻さめやらぬころの「私の体系」の覚え書きが残っている。混乱を極めていて、とても読み返す気になれ
ない。いったんご破算にして、新しい「私の三位一体モデル」でやり直す。
本題に戻る。上記の三つの柱を順番を入れ替えて「自己解説」しておく。
第一、形而上学の柱。これにとりあえず「デカルト=ベルクソン」のラベルを貼っておいた。
昨年からベルクソンの全著書を翻訳で読み始めた。今年の三月、『物質と記憶』を読み終えて以来ほぼ中断の状態がつづいているが、そうこうしてい
るうちにデカルトが俄然面白くなった。デカルトは途方もなく大きな存在で、ベルクソンでさえまだデカルトが敷設した圏域を脱しきっていないのでは
ないかと(これは論拠があってのことではないが)そう思った。デカルト以前で大きいのはプラトン(これも論拠なし)。そこで、プラトン─デカルト
─ベルクソンという太い線をひいて、そこにアウグスティヌスとウィトゲンシュタインによる垂線をおとす(同前)。
だいたいそんな構図でもって形而上学の柱を考えている。(ほぼ400年周期で西欧形而上学の歴史を考えるとすると、あと3人ほどの哲学者が必要
になるが、それはこれからおいおい考える。)これだけだと何も言っていないのと同じだが、これは後の日の自分のための備忘録なのだから、これくら
いにしておく。ついでに、この柱には自然科学や神秘思想や映画といった関心事が包含されると、これも説明抜きで書いておく。
第二、詩の柱。ラベル名は「歌論=ギリシャ悲劇」。
まず歌論の小柱からは連歌論、能楽論
俳論が派生し、とりあえず定家と心敬、世阿弥や芭蕉といったビッグネームの周辺を探索してみる。能や茶の湯や花や書、香道、雅楽、等々の日本の文芸、伝統
芸能百般に関心は及び、さらに武道、性愛術、儀礼、工芸、建築、庭園、等々、すなわち身体と空間をめぐる日本式工学百般へと拡がってゆく。
これらはいずれも仏と神を抜きにしては語れない。というわけで、日本精神史、日本宗教史への彷徨がはじまる。加えて、ギリシャ悲劇と謡曲を典型
として、東西古今にわたる叙事、叙情、神話、演劇、祝祭、等々の「詩的なるもの」もしくは「身体=霊的なるもの」百般へと拡散してゆく。
第三、政治の柱。ラベル名は「金融=貨幣」。
政治といいながら経済の用語でしめくくるのに何か特段の目論見があるわけではない(ないわけではないが)。いまのところ他に適当なラベルが思い
浮かばないだけのことで、とりあえずは「制度としての文学」と言われるときの文学なども含めた社会的制度百般を代表する意味で使っている。
「歌」と「仏」、ある人にいわせると実証と抽象という人間精神の二つの組み合わせに「農」を加えておきたい。あるいは、下部構造として据えてお
きたい。自然あるいは環境といってもいいようなものなのだが、そこに人の営みがかかわる事態を色濃く表現するために農を採った。農もまた実証にか
かわるものであるとするならば、これに対する抽象が「貨幣」で、農と貨幣を組み合わせたものを「金融システム」と命名しておく。これらはいま思い
ついたことなので、深い思慮があってのことではない。
ここには、習俗、慣習、民俗、風俗、儀式、倫理、道徳、法、歴史、イデオロギー、等々の様様な社会制度、さらに制度としての心理や精神、等々が
配分されるのだが、忘れずに記しておきたいのが犯罪である。うまく位置づけられないが、なぜか気になる。
以上。書いているうちに気分が散漫になってしまったので、読みかえしてもあまり琴線にふれない。そのうち仕切りなおしをして、はじめからやりな
おすか。