「茂木健一郎&心脳問題」(2005.04-2006.02)



☆2005

★4月3日(日)

 茂木健一郎『脳と創造性──「この私」というクオリアへ』の前半を読む。この本のキモは「はじめに」に出てくる二つのこと(「コンピュータに代 わる、脳を理解するためのメタファーを見いだすこと」「自らの置かれた生の文脈を引き受け、脳の中に潜んでいる創造性という自然な力を発揮するこ とこそが、生きる歓びなのである」)が終章で論じられる「個別と普遍」のテーマに収斂していく理路にある。ここをおさえておけばこの本は理解でき る。けっして難しい本ではないが、茂木さんの議論はときどきダブルミーニングではないかと思うことがある。

★5月1日(日)

 茂木健一郎『脳と創造性』読了。先月末に読み終えた本(『知の構築とその呪縛』『半島を出よ』『神狩り2』)ともども久しぶりにレビューを書い ておこうとパソコンに向かったが、集中力が続かない。『知の構築とその呪縛』に出てくる「略画的世界観」とソクラテス以前の哲学者たちの「フィシ ス」との関係とか、『半島を出よ』は後半で小説としての興奮が失せてしまったとか、「神のクオリア」というアイデアが出てくる『神狩り2』は茂木 さんの本が下敷きになっていることがありありと見てとれるとか、いろいろとっかかりはある。でもそこから先に思考がおよばない。

★5月5日(木)

 『現代思想』を読む。「脳科学の最前線」を特集した2月号(ブルーバックスの『知能の謎』と池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』と一緒に買ったま ま読まずに「熟成」させていたもの)。茂木健一郎・港千尋の対談「イメージする脳」が面白かった。売り言葉に買い言葉、というとニュアンスは全然 違うけれど、二人の言葉(脳)がお互いに刺激しあってしだいに増幅(スパーク)していく様がリアルに伝わってくる。「根本的な世界観の変革」(茂 木)へ向けてスピノザとパースとベンヤミンが切り結び、脳科学と人類学が手を携え、経験的なものと概念的なもの(理論)が神学という鍋でごとごと 煮られている。創造性が立ち上がる現場が出現している。ダマシオが『スピノザを求めて──喜び、悲しみ、感じる脳』[Looking for Spinoza: Joy, Sorrow, and the Feeling Brain]という本を書いているらしい。桜井直文さんの「身体がなければ精神もない」によると、「かれ[ダマシオ]の求めているスピノザはそこにはおそ らくいない」。

 第四章を再読して『脳と魂』読了。細胞=システム=空、遺伝子=情報=色。人間は空であり、言葉は色である。養老システム学と玄侑の仏教がつな がる。玄侑「先生はやっぱりあれですよね。科学の立場だから、口が裂けても「魂」とは言いたくない。」養老「いや。だから言いたくないっていうよ りも、魂の定義が出来ないんです。僕の場合はそれなりに定義するんですよ。だから、システムとしか言いようがないんですよ。」(187頁)あわせ て上野修『スピノザの世界』読了。一泊二日のスピノザ小旅行(実際は読み始めてから読み終えるまで12日かかったが、気分としては二日)。「『エ チカ』のこのあたり[第5部の最後、定理21から42]を読むといつも異様な緊張を感じるのだが、きっとそれは、証明している自分自身が証明され ているという特異な必然性経験をしてしまうからだろう」(181頁)とか「このあたり[同定理32の系]に来ると『エチカ』はいったい何ものが 語っているのかわからなくなってくる」(184頁)とか、旅のガイドブックとしては最高のフレーズだと思う。ついでに檜垣立哉『西田幾多郎の生命 哲学』読了。

★5月8日(日)

 『神々の沈黙』が面白くなってきた。まだ第一部第一章までだけれど、少しわくわくしかけている。このままうまくのれたら、買いためるだけで手を つけずにおいた関連本を一気に読み漁ってみたい。訳者あとがきに出てきた『ユーザーイリュージョン──意識という幻想』を借りようと図書館へ出か けたが見つからず、そのかわりジョン・ホーガン『科学を捨て、神秘へと向かう理性』(竹内薫訳)と茂木健一郎『脳の中の小さな神々』を借りた。い ずれも昨年買いそびれ読みのがした本。そもそも心脳問題にかくも関心をいだくようになったきっかけが竹内薫・茂木健一郎の共著『トンデモ科学の世 界』で、この本を読んでペンローズの『皇帝の新しい心』に進んだ。

★5月11日(水)

 茂木健一郎さんが『中央公論』6月号に「なぜナショナリズムは相互理解されないか」という文章を寄せている。なぜいまこのような論考が発表され たかは言わずもがなだが、脳科学の立場から世俗や世相や事件を切る(説明する)といった浅薄なものではない。茂木さんがそんなバカな文章を書くは ずがない。1993年の式年遷宮の際、伊勢神宮を初めて訪れた茂木氏は言葉で表現できない衝撃を受けた。《とりわけ、内宮の「唯一神明造り」の様 式には、深い感動を覚えた。従来、日本的とはこういうものであるとか、神社とはこのような場所であるとか、そのような安易な思いこみのすべてを壊 す、至上の何かがそこにあることが確信された。まるで、宇宙の中にこれまで存在していなかった光り輝く元素の誕生の瞬間に立ち会っているように感 じられた。(略)伊勢にある何かとてつもなく大切なもの。しかし、それに名前を付けて何の意味があろう。名付ければ陳腐になるだけである。その名 付け得ぬものが、私の愛国心の核心にあるが、それは同時に「日本」を超えた普遍的なものでもあるはずである。》

 この特殊性と普遍性を結ぶ回路の話は『脳と創造性』のキモの部分につながる。(ついでに書いておくと、ブルーバックス『知能の謎』の序論で「メ イン筆者」の瀬名秀明さんが柄谷行人由来の「一般性──特殊性」と「普遍性──単独性」に関連づけて「普遍性の中に個性がある」云々と書いてい る。そういえばこの本も読みかけのままだった。)名付けをめぐる問題は『神々の沈黙』第一部に出てきた言語進化(呼び声⇒修飾語⇒命令⇒名詞⇒名 前)の話題と関係する。いずれも「科学的思考」の実質に関連するものだ(と思う)。この論文のことにふれたのは、「科学のすばらしさは、対象に対 して認知的距離(ディタッチメント)をもって接することができる点にこそある」という箇所を抜き書きしておきたかったからで、それは先月読んだ上 野修さんの「スピノザから見える不思議な光景」に出てきた「彼の哲学はそんな籠絡[自分の努力で運動していると思っている石の自由意思への固執] からの静かなデタッチメントを教えてくれる」という言葉と響きあっている。

★7月4日(月)

 季刊誌『考える人』2005年夏号を買った。「「心と脳」をおさらいする」。「茂木健一郎 ケンブリッジ、オックスフォード巡礼」と題してホラ ス・バーローやニコラス・ハンフリーやロジャー・ペンローズといったビッグネームたちとのインタビュー記事が載っている。ペンローズいわく、「意 識は、古典的なレベルと、量子力学的なレベルが共存するからこそ、生まれてくると私は考えるのです。量子力学的なレベルの古典的レベルへの『染み 出し』が、意識なのではないでしょうか。」(58頁)。「意識ある主体が観測することで波動関数の収縮が起こるわけではないと思います。むしろ、 話は逆で、波動関数が自然法則に従って収縮する過程で、意識が生み出されると考えられます。私たちの意識は、客観的なプロセスとしての波動関数の 収縮をうまく利用してゼロから生まれて来るものなのです! 意識はいわば自然法則の結果であり、原因ではないのです。私の言っていることは、いわ ば『汎心論』のよな立場だということができるかもしれません。しかし、同時に、私は不用意に意識の存在を物理学の説明原理として導入することには 反対です。まずは、あくまでも物理的過程として様々なことを説明すべきだと考えるのです」(59頁)。

★9月4日(日)

 茂木健一郎『脳の中の小さな神々』巻末の「特別講義」に「対象─脳内過程─意識」の三項関係が出てくる。これは脳科学が「見る」という体験を 「(外界からの刺激を受けて)神経細胞があるパターンで活動すること自体が脳の中でのさまざまな情報の「表現」であり、そのような「表現」が集 まって「見る」という体験ができあがる」(242頁)と説明するときに準拠している枠組みで、茂木健一郎いわく、この方法では「見る」という体験 (視覚的アウェアネス)を説明することはできない。脳科学は外界(対象)からの視覚的刺激と脳内過程(神経細胞の活動)との対応関係を説明するだ けで、脳の中で生み出された神経活動の一つ一つが「私」にとってクオリアとして成り立つメカニズム自体を説明するわけではない。「むずかしい言葉 を使えば、私たちが「見る」という体験のなかにとらえている、さまざまな視覚特徴の「同一性」自体を説明するわけではないのである」(244 頁)。

 これに対して提示されるのが「メタ認知的ホムンクルス」のモデルで、それは「「私」の一部である脳の神経活動を、あたかも「外」に出たかのよう に観察する「メタ認知」のプロセスを通して、あたかもホムンクルスがスクリーンに映った映像を見ているかのような意識体験が生じる」(256頁) というものだ。このモデルにあっては先の三項関係はいったん「物自体─脳内過程」の二項関係に置き換えられ(ただし「脳内過程」の項は「後頭葉= 認識の客体」と「前頭葉=認識の主体」という二項が非分離の状態にあるものとされる)、その後「物自体─脳内過程─小さな神の視点」の三項関係へ と修整される。ここに出てくる「小さな神」(ホムンクルス)という「主観性の枠組みは、脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって 生み出される」(258頁)。

★9月10日(土)

 茂木健一郎『「脳」整理法』読了。読み進めながら、本書の姉妹篇ともいえる『脳と創造性』に覚えたかすかな異和感がしだいに増殖していくのを感 じた。茂木さんがこの本を書いた動機は分かるような気がする。そのことはタイトルに表現されている。脳を使った情報整理法でも、脳力アップの教則 本でもない。整理するのは「脳」なのである。デジタル情報の洪水の中で私たちの脳は悲鳴をあげている。現代人は自分の脳の働かせ方がわからなく なっている。しかし「脳」は元来、偶有性に満ちた世界との交渉の中で得たさまざま体験を整理・消化する臓器なのだ。「私たちの脳」でも「自分の 脳」でもない、一人称でも三人称でもない「無人称」とでもいうべき「脳」のはたらき。だから「脳」整理法なのである。脳科学ブームにのった凡百の (あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の)啓蒙書とは出来が違う。だからそこに異和感を覚えたわけではない。

 でもやはり、「行動」「気づき」「受容」が「偶然を必然にする」セレンディピティを高めるために必要なのです、といったマニュアル風の物言いを 茂木さんの本で読むことにはかすかな異和感がつきまとう。それは『マインズ・アイ』(くどいが『小説の自由』にもこの本の話題が出てくる)の監訳 者まえがきを読んだ時以来くすぶっている。

 もちろんそこに書かれていたことは凡百の(あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の)啓蒙書風の物言いではなかった。「庭師は、自然の営み を支配するのではなく、むしろ自然の営みに任せるところは任せるということを知っている。マインズ・アイによる心の手入れと、無意識の営みの関係 にも、似たようなところがある」。それは分かっているのだが、本書が凡百の脳科学本として読まれてしまうかもしれないことに異和感というより懸念 を覚えるのだ。(凡百、凡百と騒いでいるが、百冊の啓蒙書を読んで言っているわけではない。「あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の」啓蒙 書を具体的に読んだわけでもない。『海馬』にしろ『1日5分で英語脳をつくる音読ドリル』にせよ、決して凡百の類とは思わないし、それなりにけっ こう日々の生業に役立っている。)

 それなら何に異和感を覚えたのか。実は書いているうちにすでに異和感は解消してしまったのだが、あえて書く。茂木さんの科学観(「神の視点」と いう仮想的存在によって構築されるクールな「世界知」)がゆらいでいるように思うのだ。もちろんゆらいでいるのは読者の側の事情だ。

 『脳と創造性』にこう書いてあった。「偶有性が、形而上学と現実世界の境界に生まれるとすれば、そこにおける秩序化を担うのが科学である」 (220頁)。ここでいわれる「科学」とは、たとえばガルヴァニの「動物電気」の発見が、スープをつくるため台所においてあったカエルの足にたま たま金属が触れて足の筋肉が収縮するのを観察したことによる、といったエピソードに示されている人間の営みのことである。でもそれは「科学離れ」 といわれる時の「科学」とは違う。また本書に「人類の歴史を観ると、世界を自分の立場を離れてクールに見る「世界知」を忘れ、個人の体験に根ざし た「生活知」に没入することは、きわめて危険なことだということを示す悲劇に事欠きません」(215頁)とある。ここでいわれる世界知(科学) も、それはどの世界知(科学)のことだかよく分からなくなる。

 要するに、「世界知=ディタッチメント=科学の知」と「生活知=パフォーマティブ=アフォーダンス」、「神の視点」と「偶有性」といった図式が 分かりやすすぎるのだ。分かりやい図式にのっとってすらすら読めるから何か分かったつもりになるけれども、結局何も分かっちゃいない。

 たとえば「神の視点」という分かりやすい比喩。保坂和志は『小説の自由』で「私がアウグスティヌスとトマス・アクィナスとカール・バルトを拾い 読みしたかぎり、彼らは一度も「神を見た」とは言っていない」(272頁)と書いている(パスカルだってそうだ)。

 永井均は『私・今・そして神』で神の三つの位階──土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)を行う低次の神、世界に人間には識別でき ないが理解はできる変化(ロボットに心を与えるなど)を与える高階の神、世界のうちに〈私〉や〈今〉や実在の過去を着脱する能力をもったより高階 の神、すなわち開闢の神──を区分している。「神」と一言で片づけられないのだ。「世界知」と「生活知」は最初から入れ子になっているのだ。そう いった複雑さに耐えなければ何もわからない。(「脳」という言葉だって「神」と同断だ。)

 クオリアの謎を解くためには、そも「解く」とは何かを反省しなければなるまい。「分かる」(A HA!)とは何かが分からなければなるまい。茂木さん自身の科学観(世間知と世界知の統合のかたち)を明快に論じた書物を読みたい。

《「私」はこの宇宙全体を見渡す「神の視点」はもたないが、自分自身の一部をメタ認知し、自分の脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視 点」はもっている。私たちの意識は、脳の中の神経細胞の活動に対する「小さな神の視点」として成立している。/私たちの脳の中には、小さな神が棲 んでいるのである。/これが、私たちの意識の成り立ちを最新の脳科学の知見に基づき考察していったときの、論理的な帰結である。》(259頁)

 脳の中に棲む小さな神が見ているものは「表象されたイマージュ」である。それは脳内過程を通じて生み出されたものではなくて、あらかじめ与えら れたイマージュ(物質)が神経系の活動を通じて縮減されたものである(何のために? 不確定=選択可能性=潜在性の領域を現実化するために、つま り行動のために)。そう考えることができるならば、そこにはいささかの困難(神秘)もない。「メタ認知的ホムンクルス」のモデルが優れているの は、そこに「神」が出てくることだろう(それは『小説の自由』最終章に出てくるKつまり樫村晴香の言葉──「神」(284頁)や「リアリティ・宗 教性」(304頁)──と響き合っている)。心脳問題はすぐれて神学の問題である。そんなことは実はとうの昔から分かっていたことなのである。思 わず吠えてしまった。

 ホムンクルスが脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される、といったくだりは(半分ほど読んで中断したままになって いる)木村敏『関係としての自己』につながっているだろうし、もしかすると(これもまた中断したままの)坂部恵『モデルニテ・バロック』とも関係 してくるかもしれない。

 そもそもの発端であったパースの三項関係については(あまりの面白さゆえ何度試みても最後まで読み通すことができない)ジェスパー・ホフマイ ヤー『生命記号論』や(これもまたそれと気づかぬうちに中断していた)ジョゼフ・ブレント『パースの生涯』を参照すべきだろうし(そういえば『関 係としての自己』のどこかにパースの三項関係には垂直的次元がないといった気になる批判が出てきた)、ことのついでに(数年前にメインディッシュ ともいうべき最後の二章分を残して中断しておいた)大森荘蔵『流れとよどみ』も参照すべきだろう。忙しいことだ。

★11月22日(火)

 アントニオ・R・ダマシオの『感じる脳──情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ[Looking for Spinoza]』を買った。(ほんとうはマテ・ブランコの『無意識の思考──心的世界の基底と臨床の空間』を買うつもりだったのだが、見つからなかっ た。)この本のことは『現代思想』の2月号で桜井直文さんが紹介していた(「身体がなければ精神もない」)。詳細は忘れてしまったけれど、「結局 のところ、ダマシオはスピノザを、自分とおなじような者(「原‐生物学者」!)とみなしてしまっている」とか「かれ[ダマシオ]の求めているスピ ノザはそこ[『感じる脳』]にはおそらくいない」といった批判がとても説得力をもっていたことを憶えている。

 だから翻訳が出ても読むことはないと思っていたのに、そしていつ読むのかあてもないのに、発作的に買ってしまった。チャーマーズの『意識する 脳』やペンローズの『心の影』をはじめ、ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』ほか二冊、マラブーの『わたしたちの脳をどうするか』、ヴァレラの 『身体化された心』、はては池谷裕二の『進化しすぎた脳』等々、心脳関係本が読みかけのままになっている。いつかまとめてと思っているうちにだら だらと数年がすぎ、負債がふくれあがっている。(こうやって思い出すたびに書いておけば、いずれ内圧が高まって決壊することだろう。)

 ダマシオの本はまだ読んだことがないので、これをきっかけに『生存する脳[Descartes' Error]』と『無意識の脳自己意識の脳[The Feeling of What Happens]』に遡ってみたいと思う。それもこの本を買った動機、というか言い訳の一つだが、ほんとうのところはスピノザ関連の本が久しぶりに読みた くなった。数年前に田島正樹さんの『スピノザという暗号』を読んで興奮し、最近では上野修さんの『スピノザの世界』を読んで刺激を受けた。何しろ スピノザは私が哲学系に関心を寄せるきっかけになった大切な人物だから、定期的にその世界にふれておきたい。ダマシオの本がその欲求を満たしてく れるかどうかは、読んでみなければ判らない。

★11月23日(水)

 昨日につづきダマシオ/スピノザのことを書こうと思っていたけれど、茂木健一郎『クオリア降臨』を少し読んで気になったことがあるのでそのこと を書く。私は『脳とクオリア』以来の茂木健一郎ファンだが、茂木さんの文章を読んでたくさんの刺激を受けつづける一方、哲学系、文学系に説き及ん だ箇所ではいつも微妙な違和感を感じてきた。そのあたりのことは片目で読み、細かいことは気にせず素通りし先へ進んでいっても、脳科学者兼サイエ ンスライターとしての茂木健一郎の文章は充分以上に面白かった。

 たとえば『脳と仮想』も小林秀雄や漱石をはじめ文学系、芸術系、哲学系にかなりの頁を割いていたが、あの本には茂木脳科学の理論的問題意識が しっかりと装備されていたので、安心してびしびしと伝わってくる刺激を受け止めることができた。
(そこでの茂木さんの関心は、リアリティ(ありあり感)とアクチュアリティ(いきいき感)との関係、そしてヴァーチュアリティ(普遍性)とアク チュアリティ(個別性)との関係という、ベルクソン/ドゥルーズ流の問題の脳科学的解明ということだったと思う。しかし読後1年以上経つので、こ のことは、いまいちど『脳と創造性』とともに再読し確認しておかなければならない。私の直観が告げるところでは、それらの問題は無限と有限という 意匠をまとって西欧中世哲学において神学的な思考様式のもと徹底的に考え抜かれ、もしかすると中世日本の文藝や古代インドの宗教においても別の仕 方で根柢的に思考され抜いたことである。)

 でも『クオリア降臨』は勝手が違う。「脳のなかの文学」のタイトルで『文學界』に連載された16回分の文章を収めたこの本は、まぎれもない文学 論の書だからだ。まだ最初の二つ「世界を引き受けるために」「クオリアから始まる」とあとがき「クオリアが降りてきた夜に」を読んだだけで軽々な 評言を繰り出すべきでないことは重々承知の上で、それでもこの本をこれから先も読み進めるかこの時点で放棄するか(たぶん、いやきっと最後まで読 むだろう、なぜなら私は茂木健一郎ファンだから)見極めるためにも、山のように押し寄せてくる疑問符の内実をできるかぎりきっちりと書いておきた い。(ニーチェの名が唐突に出てくるところ(13頁)やスコラ哲学との関係でのデカルトの取り上げ方(42-43頁)など、哲学系の疑問点もある のだが、それは措く。)

 遅れてきた文学青年が、ただ「オレはこの小説が好きだ、痺れた」という体験ひとつを根拠に、あれこれ口騒がしく姦しく批評的言辞を弄する「プ ロ」を相手に必死に噛みついている。その姿は初々しくかつ痛々しい。自分のことは棚に上げて書いているのだが、いまのところこれが率直な読後(い や読中か)の感想だ。

 文学青年が「人生とは…」と抽象的な悩みを悩んでいるうちは罪がない。そんなものはガキの麻疹みたいなものだからだ。ここで「人生」とは「精神 (生活)」のことだと気づくことから真正の文学青年は生まれる。そのきっかけとなる「切実な体験」のことを茂木さんは「クオリア」に見立ててい る。切実で痛切な、筆舌に尽くしがたい、一回かぎりの、他に置き換えのきかない、固有の体験と、それに伴う感覚・情動・感情の質。端的にいえば、 特定の異性(もしくは同性)を志向するある時期における性欲のようなものだ。あるいは、ある時期ある特定の文学作品を読むことで得られる魂が震動 するような感動。

 ほんとうは「クオリア」の概念はもっと深いもののはずだ。あるいはもっとありふれている。それは基本的に非人間的で、個体を超過している。それ はまさしく「降臨」もしくは「降誕」するものだ。あるいは降臨するものとして、脳内に現象(降誕)するもののことだ。茂木さんの「脳内現象」の説 は、そのようなクオリアの概念と真っ向から取り組むことを通じて形成されつつある未完の理論である。だからこそ、それは注目し瞠目して見守るべき 現在進行形の思考だった。

 「精神とは…」とその実質を問い、その成り立ちと構造と稼働原理を問うなかで、精神は表現のうちにしか表現されないと感得する。あるいは精神を 生むのは精神である、要するに文学を生むのは文学であるという(無意識裡の)認識に至る。だから文学青年は小説を書くことを夢想する。小説を書く のではなく小説を書くことを夢想する。構想するのではなく夢想する。己の「切実な体験」がそこにおいて十全に表現された文字列を妄想するのだ。

 しかし、精神の実質を問うことはこれとは別の道にも通じている。たとえば神学、たとえば哲学、たとえば数学、たとえば記号論、たとえば人類学、 たとえば歌学、たとえば脳科学。すでにそこに実存している個別の生からではなく、その生の裂け目を通じて覗き見られるより広大で深遠なもの(ある いはより微細で軽やかなもの)の方へ、あるいは「集団(アンサンブル)」(14頁)、あるいは伝統の方へと向かい、そこではたらくロゴスやパトス を見極めつつ、個別の生を規定するからくりを身をもって生きる知性というものもある。そこでは文学もまた、茂木さんが想定しているようなパスカル 的な「文学の神」(24頁)とは異なる(多神教的)様相を帯びているかもしれない。

 茂木さんは、記号論や構造主義や精神分析や言語学による意味づけ・文脈づけの理屈にまみれた現代の文学・芸術をめぐる言説のうちには、小林秀雄 の「印象批評」のうちにあった生命の躍動(エラン・ヴィタール)が忘れ去られていると書いている(43頁)。私は読まず嫌いでよくは知らないのだ が、それでも茂木さんがいう「現代の言説」の多くが乾燥してひからびたつまらないものであるだろうとは思う。

 しかしそれは、小林ほどの書き手が現代には(いや、小林の時代にあっても)希有であるという事実をいうだけのことであって、問題は記号論や構造 主義云々の理論にあるわけではない。記号論や構造主義云々には記号論や構造主義云々をもってしかアプローチできない固有の問題があり、たとえ記号 論や構造主義云々の理論的意匠をまとっていたとしても、小林秀雄の批評文に匹敵する力をもった批評もあるはずだ。少なくとも「批評は、常に作品自 体の持つクオリアのピュアさに負けてしまう」(32頁)などと素朴に言うことはできない。

 茂木健一郎が遅れてきた文学青年だという意味は二つある。一つは、「文学は、あくまでも個の体験の特殊性に寄り添いつつ、世界の全体を引き受け る普遍学としての可能性を志向する」(18頁)といったその文学観にある。茂木さんは、小学校五年の時に読んだという『坊っちゃん』や『吾輩は猫 である』をはじめ自分がこれまでに読んで感銘を受けた小説を念頭において、そういう(一回性が普遍性につながる「切実な体験」を表現した)小説を 自ら書きたいと思っている。たぶんいくばくかのフィクションに手を手を染めているに違いない(近く最初のフィクションが刊行されるらしい)。

 要するに、自分が好きな(書きたい)文学はこれだといっているだけなのだ。それが茂木流の「印象批評」だとして、そのような趣味の上になりたつ 「文学論」は、茂木さんの書いたものならなんでも読んでしまう(私のような)ファン以外には通じないのではないか。「文学にとって統計ほど遠い存 在はない」とも茂木さんは書いているが、文学はそんな了見の狭い営みではないはずだ。「個の体験の特殊性」など歯牙にもかけない文学的伝統もあ る。いっそ「あくまでも個の体験の特殊性に寄り添いつつ、世界の全体を引き受ける普遍学」としての脳科学をうちたてるための捨て石に文学や芸術や 哲学をつかうと言い切ってほしかった。

 二つ目の意味は、実は一つ目のそれと同じことなのだが、自然科学者としての茂木健一郎の文学や人文系へのコンプレックス(劣等感という意味では ない)にある。ここで二つの文章を引く。最初のものは、書かれていることには共感を覚える。が、「個別を生きる切実さ」や「意識という主観的体験 の個別」が「文学が従来扱ってきた領域」であるとする文学のとらえ方は狭い。後者は、書かれていることの意味が判らない。(これだけだと「茂木健 一郎が遅れてきた文学青年だという意味」の説明にはならない。でもこれ以上言葉を重ねると、書きたくない言葉を綴ってしまいそうなので、このあた りで止めておく。)

《私は、ここで、科学的アプローチでは生の実相をとらえきれないと言いたいのではない。科学と文学が対立するものであると主張したいのでもない。 科学が示すのは、宇宙の峻厳たる事実である。どんな生きものも、進化論が記述する淘汰の圧力と無縁では、存在し得ない。個別を生きる切実さが、統 計的法則の冷酷と併存していることにこそ、生命の真実がある。個別の生が特定の様相を帯びることの背後にある科学的真理を了解することは、文学の 扱う個別的体験の味わいを深めこそすれ、薄めはしない。科学の最良の部分は、文学の最良の部分に接近する。球体の上で離れていくと、ぐるりと回っ て元の場所に戻る。ちょうどそのように、最良の科学は、最良の文学に接近していく。
 実際、物質である脳から意識という主観的体験の個別が生まれるミステリを解明しようとしている現代科学は、徐々に、文学が従来扱ってきた領域に 接近しようとしている。その、科学と文学の汽水域の中に、科学の未来も、そして恐らくは文学の未来もある。》(18-19頁)

《相対性理論、量子力学、そして今、超ひも理論を経た科学にとって、この世で怖いものなどそんなにありはしない。精神分析や構造主義など、コアの 科学が積み上げてきた世界観の完成度に比べれば未だ発展途上である。》(38頁)

 文章は自律的に自らをかたちづくる。最初は微かな違和感だったものが、書いているうちに肥大化して独り歩きしてしまう。上に書いていることは、 少しばかりオリジナルな思いを超過している。少しばかりではないような気もする。ほんとうにそうなのか。ほんとうに(私は)そんなことを考えたの か。このことを確認するためにも、引き続き『クオリア降臨』を読まなければなるまいと思う。

★11月28日(月)

 茂木健一郎『クオリア降臨』を半分ほど読んだ。文学論としてはやっぱり疑問符だらけだが、とにかくこの人は文章が上手いのでそのあたりのことは あまり気にせず読める(読み流せる)し、細部の議論はいつもながらに面白い。「可能性としての無限」の章に「古代ギリシャでは、具体と抽象の意味 するところが、今日のそれと逆転していたと聞く」(55頁)と書いてある。「ゼウスやアポロンなどの人格神の活躍する仮想の世界こそが具体であっ たのかもしれない。文学が、有限の文字列で限りなき仮想の世界を構築する営みであるとすれば、おそらくはその世界こそが、人間の精神にとっての本 来の具体なのかもしれない」と続く。

 ここを読んで、同時並行的に読み進めている川崎謙『神と自然の科学史』の議論を想起した。「異文化」としての西欧自然科学の特徴は、ガリレオ以 来の「認識の技術化」にあると著者は書いている。認識とは本来原因を問うものであった。原因が特定できてこそはじめて「分かった」と言えるはず だ。「しかし、技術化が完了した西欧自然科学での「分かった」は、「その原因が何であれ」数学的記述の完成と等価である、とされた」(34頁)。 数学的表現ができることは「やった、できたぞ」という技術習得の過程で得られる状態と等価ではあっても、何かを認識する過程での「そうか、分かっ たぞ」とは違う。

 この議論が「古代ギリシャでは、具体と抽象の意味するところが、今日のそれと逆転していた」こととどうつながるのか。そこに、瀬名秀明との共著 『心と脳の正体に迫る──成長・進化する意識、遍在する知性』での天外伺朗の発言が介在している。天外伺朗はそこで、人間とコンピュータとの違い に「瞬時に何かが出てくる体験」があり、その一つに「Aha!体験」があると述べた後で次のように語っている。

《「Aha!体験」っていうのは、言い換えれば抽象化の最たるもの。抽象化の中でもオン・オフ、イエス・ノーの一番根幹のところが先に出てきちゃ う。そのあとで、それを紐解くわけだから、コンピュータじゃ絶対にできないね。特に、逐次的に処理するより仕方のない、現在普及しているフォン・ ノイマン型コンピュータじゃできないだろうね。(略)「Aha!体験」は一種の統合で、単なる統合より抽象度が高いから、なかなかニューロンの発 火だけ調べていても解明は困難だろうね。》(253-254頁)

 この「Aha!体験」は、どこかで美的体験に通じている。茂木さんは「豊饒の海を夢見て」の章で、生死が交錯する場所における(三島由紀夫的 な)美とクオリアを重ね合わせて論じている。

《飯沼勲[『奔馬』]が末期の眼で見た赫奕たる日輪と、国家のことや自分の使命のことなど考えもしなかったであろう幼少期に見た夕陽は、同じ 「赤」という認知的安定性によって結びつけられている。そこに、意識というものの単なる生命原理を超えた凄まじさがある。意識は、生の営みとは関 係のない結晶世界にその起源を持つのである。/クオリアは、柔らかにダイナミックに変化する脳の生命作用を支える、結晶化作用である。全ての「美 しさ」の体験の背後に、その体験を構成するクオリアという基盤がある以上、美しさは、生命の作用に起源を持ちながら、どこか生命と遠い鉱物標本の 輝きと同じような表情を見せるのは当然のことである。/だからこそ、剥き出しの生など美しくも何ともないのだろう。生の真昼の絶頂の中、意識の流 れの中にあらわれる様々なクオリアのプラトン的輝きの中に、私たちはすでに死の国の気配を感じ取っている。美とは、おそらくは生きていながら垣間 見る死の世界のことなのである。》(88-89頁)

 また「生きた時間はどこに行くのか」の章では、クオリア(私たちの意識的体験を織りなすマテリアル:108頁)とは一種の「縮小写像」(105 頁)であり、「結晶的表象」(106頁)だと書いてある。これらのことを総合すれば、クオリア(古代ギリシャ人が「テオス=神」と読んだもの:ロ レンス『黙示録論』)は「抽象」であると結論づけることができそうだが、そうすると「具体」とは、つまり古代ギリシャ人にとっての「ゼウスやアポ ロンなどの人格神の活躍する仮想の世界」とは、マテリアル(物質)ならぬヒュレー(質料)あるいはコーラのことなのだろうか。

 「Aha!体験」もしくは「ユーレイカ(われ発見せり)体験」は、茂木さんがしきりに使う「エラン・ヴィタール」(生命の躍動)の概念と密接不 可分なものだと思う。ベルクソン/ドゥルーズ/木村敏流に言えば、ヴァーチュアリティからアクチュアリティへ、普遍的生命(ビオス=死)から個別 的生命(ゾーエー=生)への流れが物質的世界(リアルなもの)と出会う界面において立ち上がるもの、それが「クオリア」であり「Aha!体験」で あり、それらは「抽象」である。

 ただし、この言い方では、茂木さんの「クオリア」の概念が孕んでいる反生命的な、精確には反「個別的生命」的な質がうまく表現できない。もっと もっと吟味する必要がある。
 また、古代ギリシャでは(今日のそれと逆転して)イデア的なものが具体であったというときの「具体」は、限りなく「実在感」に近いと思うが、実 在(現実に存在すること)と実在感とは違う。一般に使われる「実在感」は、物質的なものにかかわるリアリティ(ありあり感)と生命的=主体的なも の(エラン・ヴィタール)にかかわるアクチュアリティ(いきいき感)のいずれか一方、もしくはその両者が綯い交ぜになっている。

 たとえば、茂木さんが「ゼウスやアポロンなどの人格神の活躍する仮想の世界」というときの「仮想」、すなわちイマジナリーなもの(『脳と仮想』 のタイトルの英訳がそうなっていた)に伴う実在感はアクチュアリティであってリアリティのことではない。イマジナリーなもの(想像物)はリアルな もの(現実存在)の反対語だからだ。これに対して、一般に「仮想現実」という時の「仮想」はヴァーチュアルである。たとえばキリスト教の「神の 国」はヴァーチャルなものであってイマジナリーなものではない。

 いずれにせよ、具体・抽象と個別・普遍、そしてそれらと実在(感)の関係は込み入っている。「クオリア」や「Aha!体験」を「単なる統合より 抽象度が高い」統合という意味で「抽象」というとき、そこにありありとした、もしくはいきいきとした「実在感」が随伴しているかぎり、それらは 「具体」である。

 ところで養老孟司は『日本人の身体観』(日経ビジネス人文庫)に収められた「仏教における身体思想」で、「現在の日本の自然科学者が言う実証性 とは、西洋から輸入された科学と、われわれの文化が本来持っていた実証性との、不思議な融合らしい」(227頁)と書いている。「西欧におけるキ リスト教の教義が、それに対する「解毒剤として」、結局は自然科学思考を産み出したように、仏教もまた、わが国固有の「実証思考」を産み出しても 不思議はない。」(229頁)

《要は、わが国にも西欧にも、同じように抽象思考があり、その思考の形式に従って、「解毒剤としての実証思考」が成立するのではないか。もしそう だとすれば、わが国の実証思考を知るためには、わが国の抽象を支配する思考すなわち仏教を知らなければならない。ところが、面白いことに、仏教と いう抽象思考については、書かれたものがたくさんあるのだが、実証思考の方は、この国では「思想」として表明されない傾向があることが注意され る。》(231頁)

 養老孟司がいう「日本の実証思考」を知るためには、歌論、連歌論、芸能論の類を読むにかぎる。私はそう思って、最近にわか勉強に励んでいるのだ が、それはともかく、ここでいわれる「抽象思考」と「実証思考」は、古代ギリシャにおける抽象・具体とどう関連づけられるのだろうか。また、カン トの時代では、主観と客観の意味するところが、今日のそれと逆転していたと聞くが(ハイデガー/木田元)、それとの関係はどう考えたらいいのだろ うか。これらのことは、今後の宿題。


☆2006

★2月22日(水):歴史とクオリア

 いま目の前でミュージカルを観ている時の、たとえば群舞するダンサーたちの筋肉の躍動や皮膚ににじんだ汗や迸るかけ声のなまなましい「印象」 と、後になってからそれを想起している時に頭に浮かんでいる、あるいは蘇っているもどかしくも朧気な「印象」とは、まったく質の異なるものであ る。知覚と想起、現在と過去は違う。この違うものを一緒くたにして、現在の知覚の場面で論じようとするから混乱が生じる。難攻不落の心身問題が生 じる。これは中島義道氏が『時間を哲学する』(講談社現代新書)に書いていることだ。心身問題は時間の問題に帰着するというわけである。この指摘 は正しいと思う。正しいと思うが、そこから先どうすればいいのかが私には見えない。

 小林秀雄の批評は「印象批評」だと言われる。この「印象」とは「クオリア」のことである。これは茂木健一郎氏の説で、初めて目にしたときは、あ まりに我田引水じゃないかと思った。が、よくよく考えてみると、確かにあたっている。茂木氏も言うように、モーツアルトの音楽を耳にした時にしか 感じられないユニークなクオリア(音の質感)が、忘れがたい印象として猥雑な日常の中に、たとえば夜の道頓堀を彷徨っていた時に訪れたとして、そ こに何の問題もあろうはずがない。むしろ、そういった忘れがたい印象(クオリア)を離れて芸術を論じることは無意味である。

 小林秀雄の批評は「クオリア批評」である。だとすると、とても面白いことになる。何が面白いといって、そこに「歴史」をからませると一筋縄では いかなくなるからだ。クオリアと歴史の関係、すなわち知覚=現在と想起=過去の関係という「心身問題」のオリジンがそこに立ち上がる。歴史とは思 い出である。思い出が僕らを一種の動物である状態から救うのだ。小林秀雄はそう語っていた。

《歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見 えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕らが過去を飾りがちなのではない。過去の方で僕らに余計な思いをさせないだけなのである。 思い出が、僕らを一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一 種の動物に留まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。》(「無常ということ」)

 そういえば、冬の道頓堀で小林秀雄の頭に突然鳴り響いた「交響曲第40番ト短調」も、いまそこに現に鳴り響いているものではなく「思い出」とし ての音楽だった。現に、あの文章には楽譜が添えられていた。楽譜は、記憶のためというよりは想起(思い出すこと)としての再演のための記号(言 語)である。思い切って書いてしまうと、印刷された文字もまた本来、想起のための装置だったのではないかと思う。だとすると、小林秀雄の「歴史」 とは「印象」すなわちクオリアであり、むしろ「歴史」の側からクオリアの問題を考えることにこそ、小林秀雄の批評の実質があったのではないか。私 はなにも小林秀雄の骨董趣味のことを言いたいわけではないが、小林にとって骨董は女体のようなもので、だから「歴史」とは「身体」のことだ。

★2月23日(木):「小林秀雄の霊が降りてきた」

 昨日の話題の続き。というか、種明かし。──文藝春秋の3月号に、茂木健一郎氏の「小林秀雄の霊が降りてきた」という文章が掲載されている。 「科学者の私が恐山のイタコに心動かされたわけ」と副題が添えられていて、なかなか面白いエッセイだった。小笠原ミョウさんという七十を超えたイ タコを通じて、小林秀雄の霊と語り合った(?)茂木氏は、その時の体験を次のように綴っている。長いが、最後まで省略せずに抜き書きしておく。

《小林秀雄がかつて鎌倉の中華料理の猥雑の中で音楽の永遠を語った、それと同じことが目の前で起こっている。小笠原さんは手を伸ばせば届くところ に生身の人間として存在しながら、日常の中で忘れてしまっている何ものかの感触を伝えてくださっている。
 私の脳の中で、過ぎ去ってしまった時間の総体と、その中で懸命に生きた人間が一つになって表象されたのである。小林秀雄という個人が確かに降り てきたかどうか、そんなことはどうでも良い。かつて私たちと同じように悩み、惑い、時には飛び上がるような喜びを感じつつ生きていた数限りない人 間たちが、小笠原さんを通して私に語りかけている。動かし難いものになってしまった過去が、小笠原さんの口を通して私に意を通じようとしている。
 何も、小笠原さんから発せられる言葉に限られたことではない。そもそも、言葉というものは一度発せられてしまえば、死者の世界と同じように動か し難いものではないか。一つひとつの言葉の中に、死者の世界に通じる入り口がある。そのような普遍的原理に、小笠原さんの語りに接して気づかされ た。小林秀雄を口寄せしてもらおうと思い定めていなければ、そのような気づきもなかったろう。
 小笠原さんにとっては、私は数限りなく訪れてきた客の一人に過ぎなかったことはわかっている。一回性と反復性が向かい合う時、そこに演劇性が生 じる。患者に癌を告げる医者。信者の涙ながらの告白を受ける神父。一度きりの体験が、繰り返しの熟練と向き合う時、そこに秘儀が生まれ、役者が誕 生する。
 演技性の核を見極め切れなかったという後ろ髪を引かれるような割り切れなさ。それもまた、イタコ体験の味わいの一部だったのだろう。
 厚く御礼を申し上げて、小笠原さんのもとを辞した。小林秀雄その人には会えなかったかもしれないが、もっと大きな何者かに出会えたという実感が あった。渡海の忙しい日常の中でも、あの時私を包んだ動かし難い、しかし温かい広大な世界の感触は、時々私の中によみがえる。
 科学技術を発達させた人類は、世界のことなど何でも知っているような顔をしているが、本当は時間のことさえわかってはいない。過ぎ去ってしまっ た「あの時」は、どうなるかわからない「この今」とどのような関係にあるのか。小林秀雄が『感想』などの仕事を通して取り組んだ掛け値なしの難問 は、現代の脳科学の中に、イタコの口寄せを熱望する人々の心の中に、そして何気ない日常の言葉の中に今も未解決のまま潜んでいる。》