安藤礼二『場所と産霊』その他(2011.09-10)



★9月30日(金):「表現」としての近代日本思想史──安藤礼二『場所と産霊』

 安藤礼二著『場所と産霊 近代日本思想史』(講談社、2010年7月)読了。

 素晴らしい。実に、素晴らしい。
 一昨年、『光の曼荼羅 日本文学論』に接して驚愕し、『神々の闘争 折口信夫論』を読み返しては驚嘆し、さらに雑誌掲載の「霊獣」を耽読して驚 倒し、『近代論』を齧りかけたところで(消化不良を起こして)中断していた。
 『場所と産霊』も昨年、刊行直後に購入しそのままになっていた。読み始めたら最後、何も手につかなくなるとわかっていたから自粛していた。
 今は、なぜさっさと読んでおかなかったのかと後悔している。自粛などと小賢しく考えずに。そうすれば、再読、三読の愉悦を味わえただろうに。

     ※
 この書物を要約することなどできない。
 手短に概略を解説することはできたとしても、長篇小説の登場人物とその関係と粗筋を述べるようなもので、そんなことに意味はない。
 まったく意味がないわけでもないだろうが、粗筋や解説を読むことと読書そのものとはまったく異なる種類の経験である。
 そもそも誰が探偵小説の筋と結末を知りたいと思うか。誰が詩の要約など読みたいと思うか。
 要約できない論考などないのだから、この書物は論考ではない。それは論考、評論のかたちをとった「表現」である。
 いいかえれば言語による芸術作品、すなわち小説。「はじめに」で著者自身が使った言葉でいえば、「フィクション」として再構築された歴史なの だ。

 テーマは、書名のうちに端的に示されている。
 西田幾多郎の「場所の哲学」と折口信夫の「産霊(ムスビ)の神学」。この二つのものが、著者によって一つに調停される。
 以下、粗筋ではなく生きた文章(第八章「場所と産霊」)からの抜き書きで、そのプロセスを垣間見てみる。

《その類似[西田と折口の生涯の軌跡と思想形成の在り方、その可能生と不可能性までも含めた類似]は、彼らがともに学問の究極の目標として定めた 「神」の問題においても、またその「神」に近づいてゆくための独特の方法においても、顕著なものがある。西田も折口も、いまここに存在する自分 が、その存在のあるがまま、つまりは有限の精神と身体をもったまま、超越の時空と、すなわち無限の「神」と合一できることを願ったのである。その ためには、私(個=多様なもの)と神(普遍=一なるもの)が、それぞれ接近し合い、同一の地平を占めなければならなかった。自己と他者、私と神、 多と一、個と普遍──それら、根源的に対立する二つの極が、共通の場をもつこと。そして、そこに一元的な領野が開かれること。西田も折口も、哲学 と民俗学において、ただそのことだけを追求していたのだ。
 そのような一元的な地平で、対立する二つの項を一つにつなぐもの。自らの心の奥底に存在する内在の場と、神という超越の場を一つにつなぐもの。 それさえも、この二人は共有してもっていた。西田にとっても折口にとっても、二項対立を徹底して無化してしまうものとは、なによりも言語だった。 直接性の言語、表現性の言語、個と普遍を相互に矛盾するまま一つにつなぐ言語。西田の哲学も折口の民俗学も、この特異な言語をめぐって組織された 表現についての学だった。》(195-6頁)

 西田と折口のあいだに切り開かれた一元的な地平。
 それは同時に、個と普遍を一つにつなぐ表現性の言語、「純粋言語」(209頁)のフィールドである。
 また、鈴木大拙の「霊性」と南方熊楠の「曼荼羅」とが偶然かつ必然の出会いを果たす場所であり、そこから、近代日本思想における「真に独創的な 表現の系譜」(117頁)が生みだされてくる。
 さらには、「フランスとアメリカの間に切り開かれた「翻訳」という新たな表現の時空、新たな表現の地平」(30頁)へと、すなわち新旧両大陸に またがる日本近代思想史の起源へとつながっていく。

《しかも折口の「産霊」は、その起源をたどってゆけば、平田篤胤の「産霊」にまで至る。篤胤は、キリスト教を消化し、「産霊」を中心とした宇宙生 成論である『霊能真柱[たまのみはしら]』(一八一三年刊)を完成した。篤胤の同時代人に、ボードレールやマラルメの詩的世界の源泉になったエド ガー・アラン・ポーがいる。ポーもまた、篤胤とほとんど同じヴィジョンを用いながら自身の特異な宇宙論である『ユリイカ』(一八四八年刊)を完成 した。コレスポンダンスとアナロジーの詩法の起源には、篤胤とポーの“宇宙”が存在していたのである。そこから西洋と東洋が「翻訳」によって混在 する「迷宮と宇宙」の文学史がはじまることになる。
 折口の「産霊」において、大拙の「霊性」において、西田の「場所」において、一と多、外と内、超越と内在は矛盾しつつ一つに調停される。大拙の 「霊性」を媒介として、折口の「産霊」と西田の「場所」を一つに重ね合わせてみること。民俗学と哲学を通底させる宗教的思惟の原型を取り出すこ と。それは近代日本思想史が成立する過程そのものを捉え直すことを可能にするとともに、その到達点をも明らかにしてくれるであろう。》(194 頁)

 文中の「コレスポンダンスとアナロジーの詩法」は、「詩人たちの王者」ボードレールによって導き出されたものだ。
 本書の第一部「神秘の薔薇」は、エマヌエル・スウェーデンボルグのコレスポンダンス(照応)とシャルル・フーリエのアナロジー(類似)に始ま り、エドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、アルチュール・ランボー、ステファヌ・マラルメ、さらにホルヘ・ルイス・ボルヘスを経て、 ウィリアム・ジェイムズやチャールズ・サンダー・パースによる「表現としての自然哲学」(94頁)とウィリアム・バトラー・イェイツによって完成 されたオカルティズムという二筋の流れの合流点に、日本近代思想史の起源を見定める。
 そして、その到達点。「はじめに」に記された言葉によれば、それは、霊性と曼荼羅、場所と産霊という四つの概念が「一つの身体」へと集約されて いくことである。
 それはまた、「霊性と場所に媒介されて可能になった産霊の身体、曼荼羅の身体」(210頁)である。
 具体的には、折口信夫が『死者の書』に描いた両性具有の少女であり、南方熊楠が『ロンドン抜書』のうちにその手記(後に、ミシェル・フーコーに よって復刻される)を書き写したある両性具有者の身体である。
 このあたりにくると、もう何がなんだか判らなくなる。だから、この書物を要約することなどできない。

     ※
 著者は「はじめに」で、本書は、「近代日本思想史をあくまで「表現」の問題から論じ、本書自体もまた一つの「表現」たらんとしている」と書いて いる。
 また「後記」には、次のように書かれている。

《言語表現の基本構造であると思われる類似[アナロジー]と照応[コレスポンダンス]にとり憑かれてしまった表現者たちを、まさにその類似によっ て一つの場所に集め、相互に照応する関係のもとに語っていく。その結果、歴史のなかで可能になりながらも、歴史を乗り越えていくような類似と照応 による表現の地平を抽出できたら……。それが本書にかけられたものである。しかしながら、自分にとってまったく未知の試みであった第一部を受けた 第二部「霊性と曼荼羅」は、できるだけ新たな知見を盛り込みながらも、どうしてもある部分は、これまでの著作でとり上げた人物と作品を再登場さ せ、異なった視点から再構成するということになってしまった。霊性と曼荼羅を現代に甦らせた鈴木大拙と南方熊楠、そこから場所と産霊という理念を 導き出した西田幾多郎と折口信夫という四人の営為に寄り添っていくことが、私にとって生涯のテーマとなるのであろう。》

★10月3日(月):三つの性愛と性的身体の「かたち」

 『場所と産霊』に、三つの性愛と性的身体の「かたち」が描かれていたので、メモ(備忘録)を残しておく。

 その一、フーリエ。性の奇癖、天使的結合。
「青年期には陽気な娼婦たちとの語らいを通して自らの性の奇癖、「女子同性愛者嗜好」(ドゥブー『フーリエのユートピア』)、しかもその秘密の性 愛を覗き見るという悦楽を発見し、自ら実践したフーリエ──といってもフーリエ自身はその生涯を通じて一般女性との恋愛関係、さらに性的交渉は一 度も持たなかったのではないかと推測されている。それぞれ繊細で微妙な差異をもった性の奇癖者(マニア)たちが、その性の特異性のもとに自由な乱 交と複婚、すなわち無限の天使的結合を繰り返す未来社会「愛の新世界」を生き生きと幻視した、孤独な独身者にして稀代のユートピスト、性と精神の 革命を唱えた先駆者、偉大なる空想的社会主義者フーリエ」。(16-17頁)

 その二、イェイツ。錬金術的身体、器官に妨げられない新たな生殖性に満ちた身体、薔薇の身体。
「イェイツにとって詩作とは、不可視の霊的世界に触れ、その消息を描くことに他ならなかった。そこでは精神とともに身体も変容を遂げる。それは新 たな錬金術的身体の生成であるとともに、恋愛の極致でもあった。イェイツはこう書き残している。スウェーデンボルグによれば、死者たち(つまりは 天使たち)も確かに愛を営むのである。その愛の行為には、死者=天使たち二人が完全に一体化し、遠くから見るとまばゆいばかりの白熱光のように見 えるものなのだ、と。」(102頁)
「そうして可能となった存在[錬金術師たちが夢見るマテリア・プリマ=賢者の石]はあらゆるものに変身することができ、またあらゆるものをそこに 孕むことができるようになるだろう。中世の夢の科学を近代の詩的表現へと磨き上げること。それは器官に妨げられない、新たな生殖性に満ちた身体を 作り上げることでもある。/純粋無垢な生殖性。そこにおいて高貴と猥褻は背中合わせである。その矛盾のままに、純潔でありまた淫蕩でもある「性」 それ自体を象徴する、薔薇の身体。」(105-106頁)

 その三、折口信夫、南方熊楠、フーコー。夢のなかの両性具有の少女、産霊の身体、曼荼羅の身体。
「そして折口はこの「古代」という時間[永遠・無限とつながることを可能にする純粋な時間の結晶体]を発生させる存在として、『死者の書』の主人 公、藤原南家郎女[いらつめ]、すなわち夢のなかで自身が変容した、いわば両性具有の少女を造形した。時間が焦点を結ぶ折口の両性具有の少女…… そのイメージに、さらに、折口と「同性愛」という要素を共有しながら、なかなかこれまで直接に比較対照されてこなかった南方熊楠が、大英博物館で 発見した、空間が焦点を結ぶもう一人の両性具有の少女のイメージを重ね合わせなければならない。ひとりの両性具有者の身体の上で、時間と空間が、 想像力と政治が一つに融合する。それが「神秘の薔薇」が変容して形になった錬金術の身体の鏡像となり、それと対をなす、霊性と場所に媒介されて可 能になった産霊の身体、曼荼羅の身体を形づくるのである。」(210頁)
「多様な性の可能性のなかから、一つの性を選択し、さらには性の変身を断行し、その結果生涯を終えることになった両性具有者の生きた記録。熊楠 は、アレクシナ/アベルという二つの名前と二つ性を「死」に至るまで生き抜いたエルキュリーヌ・バルバンが書き残した「生」の軌跡に、普遍が具体 に宿り、多様性が個体化される様を、まざまざと見出したはずである。/そして熊楠が、この手記のすべてを自らのデータベースに書き写してからちょ うど八十年が過ぎた頃、フランスの一人の哲学者が、この手記全体を新たに復刻する。さらに、それが英語に翻訳される際に、哲学者はそこに美しい序 文を付すことになった。」(232頁)

★10月5日(水):性愛と墓地、観念をモノ化するマテリアリズムの力

 中沢新一さんの「大阪アースダイバー」が週刊現代に連載されていて、時々、読んでいる。
 「どじょう野田を操る「本当の総理」勝栄二郎」という記事を読みたくて買った10月8日号は、「土はすばらしいマテリアリスト(唯物論者)であ る。」に始まる第42回「墓場とラブホテル(1)」。
 これが、とびきり面白かった。

 土は、生きているあいだ、感情や思考や観念をわきたたせていた身体を分解するマテリアリストである。
 同時に、「人が粘土をこねて、人形をつくると、ただの土くれに息が吹き込まれ、感情をもっているかのような、不思議な存在へと変貌していくよう に」、非生命に生命を吹き込む「偉大なるアニミスト」でもある。
 「大阪ではその土が、上町[うえまち]台地の崖に露頭していた。」
 瓦屋町から松屋町筋にかけて、「アニミズムのお使い」である人形づくりたちが、たくさん住み着いていた。
 上町台地の西方の崖に沿って広がる広大な寺町。秀吉の時代、ここが寺町と定められるずっと以前から、崖沿いの傾斜地は墓地だった。
 その墓地地帯の一角が、大阪市内きってのラブホテル街となっている。
 それは、古代の「アニミズムの元締め」のような強力な神霊をまつる生玉神社の界隈である。
 「ここでは、モノに霊力を宿らせるアニミズムと、生命あるものをただのモノに連れ戻そうとするマテリアリズムが、ひとつになっている。」

《なぜ、恋人や擬似恋人は、こんな場所で愛を交わすのを好むのか。
 秘密を解く鍵は、大阪の生んだ天才、近松門左衛門の心中物のなかにひそんでいる。死に向かって突き進む恋人たちが、死に場所求めてさまよう道行 きのロケーションは、しばしば深い森であったり、墓地であったりする。もうすぐ、二人は自分の命を絶って、静かなモノの世界に入っていこうとして いる。二人をそこへ導いていったのは、世の掟に許されない性愛の歓喜だった。愛というよりもそれは恋であり、たがいを恋いこがれる衝動に、我が身 を投じていった果てに、二人は生命と価値を飲み込んでいく死に、飛び込んでいった。
 性愛には、愛を物質に突き戻してしまう、マテリアリズムの力がひそんでいる。愛はことばの力によって支えられている。ことばは強力だけれど、か ならず語りつくせない空虚をつくりだしてしまう。空虚はことばの運命なのだ。そこで、愛のことばがつくりだすその空虚を埋めようとして、二人は性 愛の行為を執りおこなう。二人はそのとき、モノに変化していこうとしている。モノに向かうことで、観念が埋めることのできない空虚を満たそうとし ている。
 墓地とセックスは、だからもともととてもよく似た構造をしていることになる。どちらも、観念を無化してモノ化してしまう、マテリアリズムの力を 秘めている。人形から墓地へ、そして墓地に囲まれたラブホテルへ。上町台地西崖沿いには、一つの、一貫したテーマが、展開されている。その一貫し たテーマを、奥底で支えているのは、崖に露出した土のはらむ、マテリアリズムの力である。》

 近松の心中物が人形によって演じられたこと。ことば(がつくりだす空虚)が性愛の歓喜をもたらすこと。

★10月13日(木):非人称の「意味するのを欲する」こと

 互盛央著『フェルディナン・ド・ソシュール──〈言語学〉の孤独、「一般言語学」の夢』(作品社、2009年7月)を拾い読みしていて、印象に 残ったところを一つ。
(安藤礼二さんがいう「表現」にも、大いに関係するところがあると思うので。)

 本書の最後で、ソシュールとヴァレリーが「一つの代名詞の下で再び交錯する」。その代名詞とは、ヴァレリーが「フランス語だけがもつこの見事な 語」と呼んだ“on”のことだ。

「フランス語だけがもつこの見事な語ON──それが誰であれ、単数で複数、男性で女性──は、かつてはそうだったが、Homme ではない。というのも、ONはHomme であるよりは、むしろ次に来る動詞を可能にし、その動詞によって定義される人称主語だからである。」

 この引用に続く互盛央さんの文章。

《ポール・ヴァレリーがそう記したのは、一九三一年の『カイエ』である。代名詞onは男性でも女性でもある。あるいは男性でも女性でもない。それ は「男性」と「女性」の対が成立する「人間(Homme)」より前にある。単数でも複数でもあり、単数でも複数でもないonは、「単数」と「複 数」の対が成立する「主語(sujet)」より前、それゆえ暗黙に「人間」以外を排除する「主体(sujet)」の外にある。「次に来る動詞」に よって「定義される」主語の位置に立つonは、その動詞に先行して存在していた主語はないことを示し、すり替えを行う「見せかけの肯定」に陥るこ となく言述[ディスクール]という〈意志〉を表示する代名詞なのだ。》

 ソシュールとヴァレリーの「交錯」とは、ソシュール晩年の草稿に、「言語[ラング]の中の自由に使える辞項を使って人が何かを意味するのを欲す る、という考えを私たちがもつには何が必要か。」云々とあるのを踏まえている。

《「人が何かを意味するのを欲する」──それが言述[ディスクール]を言語[ラング]から分かつ。ただ「意味する」のではなく、「意味するのを欲 する」こと。「欲する」の主語にフランス語で不特定の人を表す代名詞onが使われているのは気紛れな選択ではない。特定の「語る主体」の行為であ る以外にないパロールの向こう側に言語[ラング]が想定されるとき、そこには、いつもすでに非人称の「意味するのを欲する」ことがある。言述は、 いつもすでに言語[ラング]とパロールの対に先行しているのだ。》