橋本治が『小林秀雄の恵み』で言いたかったこと(2008.3)
★3月3日(月):生の声を発せさせる土壌=仕掛けとしての『源氏物語』
橋本治さんの『小林秀雄の恵み』に、こんなことが書いてある。
《もちろん、『源氏物語』の作中歌には、登場人物達の「生の声」がある。そして、登場人物達の「生の声」は、作中歌にしか聞かれない。なぜかと言
えば、『源氏物語』は、作中人物に対して作者が敬語を使う物語だからである。(略)作中人物達に敬語を使う作者は、「よき人達の生の声」を緩衝
し、遮る立場にさえある。そのヴェールを超えて聞こえて来る「生の声」は、ただ一つ和歌であり、『源氏物語』の作中歌は、間接話法で貫かれる文章
の中に登場する、唯一の直接話法なのである。
和歌は、敬語とは無縁の世界に存在する。であればこその「生の声」である。和歌の遣り取りをする二人の人間の間に、身分の上下はない。あって
も、それを無効にすることが、和歌の遣り取りである。敬語という制度に冒された日本語の中で、和歌は唯一この規制から免れている。往古の人間がこ
のことを言わないのは、彼等が「敬語という制度」の中で生きているからである。だから、「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりけ
る。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言い出せるなり」と、『古今集』の仮名序で紀貫之が言って
も、「和歌は制度から自由になった人の声である」とは言わないのである。(略)
『源氏物語』の地の文は、和歌による「生の声」を発生させるための土壌である。『源氏物語』の地の文は、考えようによっては「和歌を存在させる
ためのもの」であり、『源氏物語』に登場する作中歌は、それを成り立たせる地の文と呼応して、「生の声」としてのリアリティを持つ。誰がなんと言
おうと、『源氏物語』の和歌はそのような構造の上に存在していて、『源氏物語』は、そのように和歌を存在させる物語なのである。本居宣長は、その
ような『源氏物語』を読むのである。》(第一章「『本居宣長』の難解」27-29頁)
その本居宣長について、橋本治さんは、「あるいはそれは「下手の横好き」の類であったかもしれないが、本居宣長はともかく「歌を詠むことが好き
な男」なのである」と書いている。
《十七八の頃から和歌を詠み始めた彼は、契沖の著作にインスパイアされて、既に「自分の歌」を自由に詠んでしまっている。宣長にとって重要なこと
は「自分の歌を自由に詠める=自分の声を自由に発せられる」ということであって、それが「出来ている」と思えさえすれば、その先はなくてもいい。
(略)そういう人が、歌人であることを目指す必要はない。「歌を詠む」という点に於いて、本居宣長は、既に達成されているのである。(略)
宣長は、「自由に自分の歌を詠む」ということを達成してしまっている。そうである以上、宣長にとって、「自分の詠む歌」と『源氏物語』の作中人
物達の詠む歌は、「生の声を存在させる」という点に於いて同じなのである。(略)
しかし、本居宣長と『源氏物語』の作中人物達の間には、大きな違いがある。『源氏物語』の作中人物達が自分の生の声を和歌に結実させる土壌を
持っているのに対して、本居宣長にはそれがないことである。『源氏物語』の作中人物達には、『源氏物語』という「自分の生きる世界」があって、そ
の世界は、作中人物の彼や彼女に「生の声」を発させてくれる「土壌」となる。しかし、本居宣長にはその「土壌」がない。(略)江戸時代の現実に生
きる本居宣長は、『源氏物語』を欠いて存在する『源氏物語』の作中人物[「たった一人の作中人物しかいない、物語そのものを欠いて存在する『源氏
物語』の作中人物」]なのである。(略)
その「生の声」が「今の世のふり」である本居宣長は、「現実に生きる自分」も「自分の生きる現実」も否定しない。否定せずに、ただ不思議なので
ある。「自分は“生の声を発せられる”という点に於いて、稀有なる『源氏物語』の作中人物達と同じであるはずなのに、なぜ自分には、生きるべき
『源氏物語』がないのか?」と。
『源氏物語』にはその「土壌」はある。しかし、『源氏物語』以後にその「土壌」はない。その「土壌」はどこへ行ったのか? その「土壌」はなぜ
消えたのか? 消えてしまったその「土壌」は、どこから生まれたのか?──その謎を求めて、本居宣長は「『源氏物語』に於いて“生の声を発せさせ
る”を可能にした土壌」のルーツ探しを始める。本居宣長はかくして、『古事記』へと向かうのである。》(同35-38頁)
橋本治さんは、出来合いの概念語やテクニカル・タームを使わない。小林秀雄もそうだ。まして言わんや本居宣長においておやだ。
「生の声」と「自分の生きる世界」、和歌と物語といった語彙は、ほとんどそのまま、哲学の用語になる。『源氏物語』や『古事記』という固有名も
そうだ。哲学の用語というのは、もともとそういうものであるはずだ。
★3月4日(火):「物のあはれを知る心」と「学問する知性」
昨日抜き書きした文章の前段で、橋本治さんはこういう趣旨のことを書いていた。
「敬語という制度」の中で生きている身分制下の中世貴族にとって、その制度から自由になって「自分の生の声」を発することができるのは、和歌の
遣り取りを通じてだけだった。そして、そのような「生の声」(和歌)を発する土壌、というか仕掛けが『源氏物語』であった。
この「自分の生の声」に関係してくるのが「物のあはれ」である。
本居宣長は「石上私淑言」(巻一)に、「物のあはれ」とは「見る物、きく事、なすわざにふれて、情[ココロ]の深く感ずることをいふ也」と書
き、「すべて人の情の、事にふれて感[ウゴ]くは、みな阿波礼也」とした。
宣長にとっては、「あはれ」も「物のあはれ」も(源氏物語に使われた)「物あはれ」も同じことだった。
このことについて、小林秀雄は『本居宣長』(十四)に、「言葉は、使われているうちに、言わばおのずから形を転ずるもので、その「いさゝか転じ
たるいひざま」が、「物のあはれ」なのであり」、「宣長自身にしてみれば、言葉の文法的構造の区別をどうこう言うより、「あはれ」の「いさゝか転
じたるいひざま」と言って置けば事は済むと考えていたであろう。実際、そんな事より、言いたい事は、彼の心に溢れていたのである」と書いている。
また、昨日抜き書きした文章の後段には、『源氏物語』という「自分の生きる世界」をもたなかった本居宣長が、にもかかわらず、『源氏物語』の作
中人物達のように「自分の生の声」を発することができるのはどうしてかという謎の答えを求めて、『古事記』へ向かった、といった趣旨のことが書い
てあった。
(江戸時代の現実に生きる宣長が、すでにして「物のあはれを知る心」を会得していたのはどうしてか。その謎の答えを求めて『古事記』研究へと向
かった。そう言ってもいいと思う。)
これらに呼応する文章が、『小林秀雄の恵み』の第一章の後半に出てくる。
《我々は近代を特別視している。特別視していることを、意識してさえもいない。
我々は洋服を着ている。そのことを自然としている。しかし、日本人は近代になって洋服を着始めた。我々は学校教育を当然のように経過している。
それもまた近代に始まった。近代とそれ以前とでは、言葉も違う。我々の使う日本語は、近代になって創られた「口語」という新しい日本語だ。だか
ら、近代とそれ以前との間には大きな壁がある――そのことも自然と理解できる。しかし、日本の近代がそれ以前の時代と違うのは、近代の日本が「西
洋文明圏の一角」として位置づけられていることである。日本人は、そのことを当然のように理解していて、しかし、日本が自分達を「西洋文明圏の一
角」として位置づけようとして「近代」なる時代をスタートさせたことに対しては、理解を曖昧にしている。曖昧にしていてもかまわない最大の理由
は、我々が近代に生きているからである。「既に我々は近代に生きている」――その事実がある以上、近代を疑っても仕方がない。おそらく、我々が近
代を特別視し、それを当然として疑わない最大の理由は、我々が近代という時代に生きているからだ。だから我々は、近代以前を差別視する。近代と近
代以前は一つにならない。
近代以前の日本に「近代的知性」はない――「近代的知性」は西洋によってもたらされたものとすれば、そういうことになる。近代以前の日本にある
ものは、「近代的ではない知性」である。それは普通、「知性には値しないもの」と解される。そうすると我々は、西洋と出合う前は「知性」そのもの
を持たなかったことになる。ところでしかし、西洋文明と出合って我々が得るものは、「西洋の知識」であり、「西洋に生まれた近代的知性」である。
近代を始めた我々は、それを学ぶしかない。それはいいのだが、だとすると、「西洋を学ぶ」を可能にした「学問をする知性」はどこで育ったのか?
西洋と出合って、我々日本人は「学ぶ」を可能にすることが出来た――それを可能にする「学問する知性」は、どこで生まれたのか?
西洋の知性や知識がいつ日本に入って来たかを確認するのは、難しくない。明治になってからである。それでは、それを摂取しえた日本人は、いつ
「学問する知性」を確立したのか? それは、一向にはっきりしない。「はっきりしなくてもかまわない」とさえ、日本人は思っている。なぜならば、
「日本の近代的知性は明治になって始まった」と、そのように理解しているからである。近代人は、苦労して西洋を学ぶ。その苦労の前には、「日本人
の学問する知性はいつ始まったのか?」を考える必要はないとさえ思ってしまえるのである。しかし、明治に於ける近代のスタート以前、日本に「学問
する知性」はあるのである。それを「ない」とすると、日本には独自の思想も哲学も存在しないことになってしまう。そして、日本の近代知性はそれを
たやすく「ない」と言って、西洋の思想や哲学を己のルーツとしてしまうのである。しかし、『本居宣長』を書く小林秀雄は、これに真っ向うから異議
を唱えた。その異議が真っ向うから唱えられているということを理解しない人は、『本居宣長』になにが書かれているかを理解しない人である。》
(50-52頁)
橋本治さんの文章は、書き写していてとても気持ちがいい。考えていることと文章を綴っていることとの生理と論理と呼吸がぴったり一致している。
同じ語彙やフレーズの繰り返しが、冗長とはまったく異なる種類の効果を読み手に引き起こす。
橋本治さんの文章を要約してしまうと、それは誰の言説かと問いたくなる。要約できないという意味では、詩文か小説の散文のようだが、それとは
まったく違う。それを読んでいる時にしか立ち上がらない思考の生の質が、それを読んでいる時にだけ立ち上がっている。
「近代になって創られた「口語」という新しい日本語」が、もしかすると史上初めて、橋本治という語り手によって思想を語る言葉に精錬されたので
はないかと思えるほどだ。
いや、そういうことを書きたかったわけではない。
昨日抜き書きした二つの文章と、今日抜き書きした文章が、見事に呼応している。それだけを、繰り返し書いておきたかった。
ただし、それを、言語という制度から自由になって「自分の生の声」を発する心(物のあはれを知る心)というもののルーツを探った本居宣長、近代
(西洋)という制度から自由になって「学問」する知性というもののルーツを探った小林秀雄、口語(話すように語る言葉)という制度から自由になっ
て思考する言葉というもののルーツを探る橋本治(ここで三度使った「制度から自由になる」を「制度の外に出る」と言い換えてもいい)、などと「要
約」してみたところで、あまり琴線に触れない。
※
一言、蛇足を加える。敬語という制度から自由になって「生の声」を発するというとき、仮名文字というものの存在を無視することはできないのでは
ないかと私は思う。
次の文章が、小松英雄著『みそひと文字の抒情詩――古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』に出てくる。
《和歌も和文も、事柄の一義的伝達を目的とする文体ではなかったから、ことばの自然なリズムを基本にして、先行する部分と付かず離れずの関係で、
思いつくままに、句節がつぎつぎと継ぎ足される連接構文で叙述され、叙述し終わったところが終わりになる。それは、とりもなおさず、口語表現によ
る伝達に共通する汎時的特徴にほかならない。付け加えておくなら、『源氏物語』が連接構文で書かれているのは、思いついたことをつぎつぎと書き足
してできあがったからではなく、そういう構文として推敲された結果である。》
この「連接構文」を可能にしたのが、仮名文字である。橋本治さんの文章は、史上初めて可能になった、仮名文字による思想表現なのかもしれない。
(そういえば、橋本治さんに「ひらがな日本美術史」という仕事があった。)
★3月5日(水):身体が夢見る「わたし」が幻想する「身体」・その他の話題
昨日書いたことと関連して、岩波書店から出ている「身体をめぐるレッスン」の第1巻『夢見る身体』の序論、鷲田清一さんの「身体という幻[ファ
ンタスム]」から、気に入った言葉を二つ引いておく。
《身体は物として知覚されるより先に幻想される。あるいはむしろ、「わたし」が幻想するというより、身体自身が夢見ると言ったほうがいいだろう
か。身体が見る夢のひとつが「わたし」である、と。この幻想は、「わたし」に囲いを与えもすれば、「わたし」を引き裂きもする。他者を取り込みも
すれば、他者を排斥もする。共同体や国家へと吸引されもすれば、逆に、宇宙を懐深く引き入れもする。身体が紡ぎだすこの幻想は、ほかならぬその身
体を硬直させ、ときに溶かしもする。そのことによって、身体は生きる者の疼きの場所となり、また悦びの場所となる。おなじように、身体は、記憶を
澱のように溜める場所となり、また記憶を溶かしてすくなくとも意識から消してしまう場所ともなる。祈りの宿る場所ともなり、希望を禁じる場所とも
なる。
幻想によって縫われた身体のアラベスク、それこそ「人間」のいのちの実相ではないか。身体は〈物〉ではなく〈幻〉として縫い合わされているとい
う視点から、はたして、わたしたちの〈いのち〉のどのような過去と現在と未来が見えてくるだろうか。》
《身体を動かす中枢は脳ではない。身体は、体位とか構えとか感能といった、抹消に自生するいのちのフォーメーションとかんがえたほうがよい。だか
らそれはとても可塑的である。身体の最大の特質はおそらくこの可塑性にある。身体にまといつく〈幻〉は、それを硬直させもするが、それを押しひろ
げもする。》
昨日書いたことというのは、『源氏物語』の作中人物達が「自分の生の声」を和歌に結実させる土壌を持っていて、その土壌というのが実は『源氏物
語』だったという橋本治さんの説のことで、ここに出てくる「生の声」と、それを発する土壌としての「自分の生きる世界」との関係が、鷲田清一さん
が書いている、身体が夢見る「わたし」と、そのわたしが幻想する「身体」(精確には、身体が夢見る「わたし」が幻想する「身体」)との関係とどこ
か似ていると、私は思ったのだ。
※
『小林秀雄の恵み』は、第二章「『本居宣長』再々読」に入った。
あいかわらず、橋本治さんの「口語」は絶好調で、たとえば、小林秀雄が、五年も続いた『感想』の連載を中断(橋本治さんは「中絶」という語を
使っている)した「理由」をめぐって、橋本治さんはこう書いている。(文中の《無学》云々は、小林秀雄が岡潔との対談で、「失敗しました。力尽き
て、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。」と言ったことを指している。)
《しかし、五十六歳で『感想』を書き始める小林秀雄は、その連載中に六十歳を越える。小林秀雄は若くても、もう「若者」ではない。たとえ《無学を
乗りきることが出来なかったからです。》と思っても、小林秀雄は、それだけで『感想』を中絶しなかっただろう。《無学》云々の後に、小林秀雄は
《大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません。》と言っている。見当がついたのなら、そこへ向かって進んで行くことは出来
るだろう。たとえ《無学》ではあったとしても、それを乗り越えようとする意志が学問ではあるはずだ。ましてや、《大体の見当はついた》なのであ
る。もちろん、《見当がついただけでは物は書けません》は、本当である。その後に、「見当をつけた対象を、書けるようになる努力」が要る。そんな
ことくらい、小林秀雄は重々知っているだろう。知っていてやめたのなら、なんらかの理由はあるはずだが、私が思うに、その理由は一つである。つま
り、「その努力をしても意味はない」である。六十歳を越えた小林秀雄は、「ベルグソンを分かって分かれなくはない。しかし、それを分かることにど
れほどの意味があるだろうか?」と考えた──私には、それ以外の理由が考えられないのだ。
自分がもう「若者」ではなく、「若者である必要」も感じられなくなった時、小林秀雄は「ベルグソンを学ぶ」ということの意味を手放したのではな
いかと思うのだ。六十歳を越えて、既に「小林秀雄であることの実質」を備えてしまったはずの人が、その上にベルグソンを学ぶということをしてどれ
ほどの意味があるのか? それは、「なおまだ若者であることを続ける」ということでしかない。小林秀雄は、「自分がなおもまだ若者であることを続
ける」ということに疑問を抱いたのだ──それが『感想』中絶の理由だとしか思えない。だから、ベルグソン論の『感想』は、小林秀雄の著作の中に存
在しなくてもいいのである。だからこそ小林秀雄は、ほとんど「ただちに」と言ってもいい素早さで、本居宣長へ向かったのである──私には、そうだ
としか考えられないから、そのように解釈する。》(65-66頁)
これに続けて、橋本治さんは、「だから、『本居宣長』の中で、小林秀雄と本居宣長は、初めから等価なのだ。小林秀雄は本居宣長を丁寧に辿って、
本居宣長を学ばない。既に自分の中にある「蓄積」を、本居宣長の学問プロセスに、慎重に対応させていく。だから……」とたたみかけていく。
橋本治さんがいう、小林秀雄と等価の本居宣長は「学問する人としての本居宣長」で、「和歌を詠みたかった本居宣長」ではなかった。橋本治さん
は、「私は、本居宣長を「和歌が詠みたかった人」とさっさと理解して、彼の学問は、その欲望を支える二番目以下だとしか思っていない。」と書く人
だから、「学問する人としての本居宣長」を追いかけた『本居宣長』について、次のように書く。
《私は、本居宣長がその最期において「私的な歌人」という全うの仕方を選んだのだと思っている。しかし、「学問をする人」として本居宣長を追いか
ける小林秀雄は、『本居宣長』の最後で、「私的な歌人」である本居宣長に届けない。(略)
小林秀雄は、「学問する人」として本居宣長を追いかけて来た。そして、どこかで本居宣長に逃げられた──逃げられたかどうかは別として、『本居
宣長』を終えようとする小林秀雄の掌の中に、本居宣長はいない。》(60-61頁)
『感想』中断の理由をめぐる橋本治さんの解釈は面白い。(ちなみに、『小林秀雄の恵み』の「新潮」への連載を始めた年の橋本治さんは56歳で、
今年でちょうど60歳になる。「橋本治であることの実質」を備えているわけだ。)
でも、「私は、本居宣長がその最期において「私的な歌人」という全うの仕方を選んだのだと思っている。」と書く橋本治さんは、もっと面白い。
★3月6日(木):「私的な歌人」としての本居宣長
橋本治さんは、『小林秀雄の恵み』の第二章に、「私は、本居宣長がその最期において「私的な歌人」という全うの仕方を選んだのだと思ってい
る。」と書いていて、私はそれをとても面白いと思っている。
小林秀雄が追いかける本居宣長には関心がわかないが、本居宣長を追いかける小林秀は興味深い、といった趣旨のことを橋本治さんは書いている。こ
の語法を借りれば、橋本治さんが追いかけている小林秀雄にはそれほど関心がわかないが、小林秀雄を追いかけている橋本治さんは滅法面白い。
その「私的な歌人」云々のことを取りあげる前に、同じ第二章から、二つほど、橋本治さんの文章を引いておく。
その一は、第一章の議論を橋本治さん自身が「要約」した箇所。
《前章で言ったように、和歌とは、「敬語」に代表される制度社会の束縛から脱しえた、人の「生の声」である。契沖の導きによって、宣長は、自分を
基点とした自分の歌を詠む。しかしそれは、彼の人的交流を促進しない。宣長の歌は、あまりにも「自分の歌」でありすぎる。やがて宣長は、『源氏物
語』と出合って、登場人物達の「生の声」を実現させる歌と、その歌の発生を可能にする、土壌としての物語世界の存在を知る。これが前章で私の語っ
たことであり、小林秀雄の導きによって得た、私の理解である。「学問をする宣長」は、その後、「生の声を発生させる土壌」のルーツを求めて、『古
事記』へと向かう。それでは、「和歌を詠む宣長」は、その後どうなるのか? どうともならない。どうとかなる必要はない。「物のあはれ」を、《人
の情[ココロ]の、事にふれて感[ウゴ]く》と理解してしまったら、その先にどうなる必要はない。「和歌を詠む宣長」は、一つの達成を得てしまっ
ているからである。》(86頁)
その二は、「宣長と桜」の関係をめぐって。
宣長は、死の前年に認めた遺言書に、公的な墓と私的な墓の二つの墓を用意するよう、そして、妻は公的な墓に、自らの遺骸は夜中にこっそり私的な
墓に埋葬し、その私的な墓には山桜の木を植えるよう、さらに、命日には「しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」の歌を自賛した
肖像画の軸を掛けるよう指示した。
小林秀雄は、「宣長という人が、どんなに桜が好きな人であったか、その愛着には、何か異常なものがあった事を書いて置く。」という文章で『本居
宣長』(一)をしめくくっているが、それは「書いて置く。」であって、「小林秀雄は、本居宣長が「こうせよ」と言い、役所からはクレイムのついた
不思議な葬送を宣長が求めた理由を、分からなかったと思われる」と橋本治さんは書いている。
《《何か異常なものがあった》と言われる、本居宣長の桜への愛着とはなにか。そんなにむずかしいことはない。「本居宣長は桜に恋していた」と考え
ればいいのである。宣長の二つの墓の内の「私的な墓」は、その「愛しい桜」と共に暮らす《千代のすみか》なのである。だから、その墓にはしかるべ
き「山桜」が植えられ、そこに彼の妻がいてはならないのである。死ぬと同時に、本居宣長は、いわば「愛人の桜という少女」とこっそり同居を始める
つもりだったのだ。それは、彼のそれまでの人生のあり方や、彼の思う「世間の道徳」とは反する。だから、「夜中にこっそり」であらねばならない。
死ぬと同時に、彼は長年連れ添って来た「外的現実」という名の妻と離婚するつもりだった。だから、その死を明らかにする彼の「公的な墓」に、彼の
遺骸は存在しないのである。》(77頁)
実は、いま引いた二つのことがらは、これから抜き書きする、「私的な歌人」としての宣長に大きく深く関係している。と、ここでは、それだけを書
いておく。
《果して、宣長の歌は「駄作」だったのか? 宣長の歌が「駄作」だったかどうかは、考える必要がない――これが正解である。彼は自分の歌が「自分
の生の声」をそのままにしていることを知っていた。「物のあはれ」論を書く本居宣長にとって、必要なことはそれだけである。「物のあはれ」のなん
たるかを明確にするのは、和歌を詠む自分自身への「ゆるし」なのだ。であれば、彼の和歌に対する他人の評価は、不要なのだ。ここで大切なのは、自
分の詠む歌が、「自分の生の声」を正確に表しているかどうかだけなのである。本居宣長本人以外の誰が、「宣長の生の声」を知るだろう? それを知
るのは宣長ただ一人で、「これは正しく自分の生の声を表している」というジャッジを出来るのも、宣長ただ一人なのである。(略)
彼は、《桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこゝろかな》と、どうしようもなく実感して、ただそう詠んだだけなのである。
これを駄作と言いたがる人はあるかもしれないが、「自分の感情に上下はない」と思う宣長にとって、「駄作」という評は、無意味なのである。つま
り、彼の和歌は、他人と交流しない和歌なのである。それは、彼のせいではなくて、「和歌とはかくあらん」と思って和歌の優劣、あるいは巧拙を競い
たがる、彼の外部にある「時代」のせいなのである。》(86-88頁)
《宣長は歌を詠む。他人とは無縁のところで和歌を詠む。その和歌は「独白」でしかない。しかし、宣長は「生の声」を、日本人であることの本来に根
差して発した――「発したい」と思った。その声を発して、その声を発する宣長の頭脳の中に「桜」が存在すれば、それはそのまま「恋歌」となる。
「桜を愛する本居宣長」とは、そのような思想上の達成の上に存在する「和歌を詠む人」なのである。
私の理解は、間違っていないと思う。だとしたら、山桜の植えられた本居宣長の墓は、「和歌を詠む本居宣長」のものなのである。その墓の示すもの
は、「和歌を詠む本居宣長の姿そのもの」なのである。
だからなんなのか? 本居宣長は「歌人」として存在しているのである。誰とも交わらず、その作を「駄作」と評され、そのことに頓着しなかった
「私的な歌人」として。》(89頁)
★3月7日(金):「私的な文芸評論家」としての小林秀雄=橋本治
昨日、「橋本治さんが追いかけている小林秀雄にはそれほど関心がわかないが、小林秀雄を追いかけている橋本治さんは滅法面白い。」と書いた。こ
のことについて、少し補足しておく。
「橋本治さんが追いかけている小林秀雄」というのは、「私的な歌人」として最期を全うした本居宣長のことを保留して、「学者をする人」としての
本居宣長を追いかけている小林秀雄のことで、橋本治さんによると、その(本居宣長を追いかけている)小林秀雄が、その(小林秀雄が追いかけてい
る)本居宣長とイコールだということになる。つまり、「小林秀雄=本居宣長=学問をする人」である。
だとすると、橋本治さんが追いかけているのは「学問をする人」としての小林秀雄のことかというと、そうではない。橋本治さんが追いかけているの
は、「学問をする人」としての小林秀雄自身のルーツを、つまり「学問する知性」のルーツを追いかけている小林秀雄のことだ。『小林秀雄の恵み』の
第四章まで読んだかぎりでは、そうである。
橋本治さんは、「「学問をする人」として本居宣長を追いかける小林秀雄は、『本居宣長』の最後で、「私的な歌人」である本居宣長に届けない。」
と書いていた。でも、それは、「私的な歌人」でない小林秀雄にとっては、批判の言葉にならない。橋本治さんも、この文章を小林秀雄批判として書い
ているわけではない。
橋本治さんがここで言っているのは、たぶんこういうことだ。――「「学問をする人」として本居宣長を追いかける小林秀雄は、『本居宣長』の最後
で、「私的な歌人」である本居宣長に届けない」にもかかわらず、「私的な歌人」としての本居宣長が「『源氏物語』に於いて“生の声を発せさせる”
を可能にした土壌」のルーツ探しに向かったように、小林秀雄は『本居宣長』で「学問をする知性」のルーツ探しに向かっている。
そのルーツをめぐって、橋本治さんは『小林秀雄の恵み』の第四章で、小林秀雄自身が語った「新学問」(儒教テキストの読み直し=儒教ルネサン
ス)の基点(中江藤樹)より以前の、小林秀雄が語らなかった「存在しない日本の思想状況」にまで説き及んでいる。それはそれでとても面白いのだ
が、「滅法」面白いわけではない。
橋本治さんは、「私は、本居宣長を「和歌が詠みたかった人」とさっさと理解して、彼の学問は、その欲望を支える二番目以下だとしか思っていな
い。」と書いていた。その上で、「彼[=本居宣長]の学問」をめぐって『本居宣長』を書いている小林秀雄のことを面白いと思い、『小林秀雄の恵
み』で、その小林秀雄を追いかけている。
この語法を借りると、私は、小林秀雄を「学問がしたかった人」とさっさと理解して、彼の○○は、その欲望を支える二番目以下だとしか思っていな
い。その上で、「彼[=小林秀雄]の○○」をめぐって『小林秀雄の恵み』を書いている橋本治さんのことを「滅法」面白いと思っている。
ここで、先の「小林秀雄=本居宣長=学問をする人」を応用すると、「橋本治=小林秀雄=○○をする人」となる。では、その「○○」とは何か。そ
の答えが、第三章に書かれている。
※
で、『小林秀雄の恵み』の第三章「「語る小林秀雄」と「語られる本居宣長」」。
本居宣長のことを語りながら、(その本居宣長と等価の)小林秀雄自身を語っている『本居宣長』の叙述の構造(語り方)が、そうした「本居宣長を
語る小林秀雄」を語りながら、(その小林秀雄と等価の)橋本治自身を語っている『小林秀雄の恵み』の叙述の構造にオーバーラップしていく。(橋本
治さんは、『本居宣長』の語り口を模倣している。その模倣が意図的なものかどうかは別として、そう断言していいと思う。)
小林秀雄を語りながら自分自身を語ってしまう橋本治さんは、どこか、小林秀雄が語らなかった本居宣長に似てくる。それは、「私的な歌人」という
言葉をもじって、「私的な文芸評論家」もしくは「一介の売文業」としての橋本治(=小林秀雄)とでもいうべきものだろう。
《日本の文芸評論を確立し、大学教授にもなり、それを十年で辞めて、《私の書くものは随筆で、》と言ってしまう小林秀雄は、自分に与えられる肩書
きを拒絶する人でもある。だから、小林秀雄には「売文業」という肩書きさえもある。(略)
私は、自分を「売文業者」とする小林秀雄を、「自分を卑下した」とは思わない。これほど誇り高い名乗りもないと思う。盛んになった文芸評論を
《寝言囈言》と切って捨てて、それでもなお「文芸評論家」であった人にふさわしい誇り高さだと思う。小林秀雄にとって、「他人がどうであろうと、
自分は別」というのは、動かしがたい事実だからである。
はっきり言ってしまえば、小林秀雄に最もふさわしい肩書きは「小林秀雄であること」である。「小林秀雄の職業は〝小林秀雄〝だった」である。小
林秀雄のなんたるかを知る人にとっては、それでいい。小林秀雄のなんたるかを知らない人にとっては、「売文業」である。原稿を書き、そのことに
よって収入を得て、生計を立てている――「売文業」であることに紛れもない。そして小林秀雄は、そのような「生活者」であることを恥じない。
(略)そういう人にとって、《文芸の社会性とか、文学作品の社会的評価とかいうことがしきりにいわれ、それが文芸時評の中心問題たる観》を呈して
しまうことは、《寝言囈言》の花盛りでしかないだろう。文芸評論で生活が成り立ってしまえば、それすなわち「社会的な自立」でもあるからだ。それ
を「売文業」と言われることに引け目を感じるのは、《社会性》や《社会的評価》を問題にしたがる文芸評論の未熟でしかない。「売文業」を蔑視とし
て使う側のその視線を撥ね返してしまえば、形式主義に堕してしまった「売文業ではない知的な人々」の怠慢を衝くことも出来る。小林秀雄にとっての
「売文業」という名乗りは、それだけの「戦意」を表明するものでもあったろう。》(116-117頁)
ここで言われている、「文芸の社会性とか、文学作品の社会的評価とかいうこと」を気にしない小林秀雄は、「誰とも交わらず、その作を「駄作」と
評され、そのことに頓着しなかった」私的な歌人としての本居宣長と響き合っている。
※
ところで、いま引いた文章の最後に出てくる「戦意」という言葉は、実は、「学問をする知性」のルーツにかかわる縁語になっている。
『小林秀雄の恵み』の第四章「近世という時代――あるいは「ないもの」に関する考察」で、橋本治さんは、戦国時代の下克上を通じて、「誰もが武
力を先に立てて、混迷状況から抜け出すための知性を持たざるをえなくなった。これを私流に結論付けてしまえば、「そうして、近世には学問する知性
が生まれた」である。」と書いている。
そして、そうした「武者の時代」を到来させた者の名を特定する。保元の乱で暗躍した信西である。
「信西は、「武力の意味」を知っていた日本で最初の政治家なのである――であればこそ、彼の生きていた時代の人間は、信西のことを「さっさと忘れ
られてしかるべき悪玉」のようにも位置付けてしまうのだろう。「ないこと」を前提にしてものを言っても仕方がないが、信西は、日本で唯一、マキア
ヴェリの『君主論』のようなものを書ける政治家だったのである。そして、信西にそのような著作はなく、政治史の上での信西の「位置」などというも
のもまた、ないも同然である。しかし、重要なものは、その「ない」という事実なのである。」
最後の、「ない」という事実、とは、仏教とともに伝来した儒教が、近世になって、新学問=近世思想の「トップランナー」中江藤樹による「儒教ル
ネサンス」を迎えるまで、空気のような存在であったことを指す。
「要するに中江藤樹は、「世の中に身分の差はあるが、それと学問をすることは関係がない」ということに感動したのである。こんな言うまでもないこ
とに筆を費やすのは愚かかもしれないが、「言うまでもないこと」を言うのと言わないのとでは、大きな差が生まれる。なぜかと言えば、中江藤樹の言
うことは、一挙に「人は皆平等である」の近代へ行き着いてしまう可能性を有しているからである。(以下、略)」
★3月8日(土):桃尻語のルーツ
『小林秀雄の恵み』の第三章から、もう一つ抜き書きしておきたい。
《長大なる『本居宣長』には目次がない。その必要がないのは、全篇が五十節だか五十章に分かれているこの本のどこにも「章題」となるようなものが
ないからである。ただ(一)(二)(三)……のナンバリングだけで、「この本のどこになにが書かれているのか」と、読者が考えるための手立てが
まったくない。人によっては、小林秀雄の書くものの中に「魂を揺さぶられるような決め台詞の一行」を発見することもあるらしいが、私にはそういう
能力がないので、なにを言っているのかが簡単には分からない小林秀雄の文章を見て、「ということはどういうことなの?」と、首を捻ってばかりい
る。そういう私にとって、小林秀雄の言う《私の書くものは随筆で、文字通り筆に随うまでの事で、》は、正に真実である。「そうなんだろうな。で
も、少しは筆を随えさせてもくれないかな」とは思う。私にとって、『本居宣長』は、そのような《随筆》の極致でもある。ともかく、切れ目なく続く
――続くことを小林秀雄が完全に許しているので、ただ(一)(二)(三)……とする以外に、章題のつけようがない。どこかになにかは書かれている
のだが、それが「どこ」なのか分からない――つまり、語りようがない。》(123-124頁)
ここで言われていることは、小林秀雄の文章は、文字通り筆に従う「随筆」の極致で、まるで話された言葉のように、つまり「口語」のように、切れ
目なく続く文章であるということだ。この「切れ目なく続く」は、以前(3月4日)引いた小松英雄さんの「連接構文」を想起させる。
「和歌も和文も、事柄の一義的伝達を目的とする文体ではなかったから、ことばの自然なリズムを基本にして、先行する部分と付かず離れずの関係で、
思いつくままに、句節がつぎつぎと継ぎ足される連接構文で叙述され、叙述し終わったところが終わりになる。それは、とりもなおさず、口語表現によ
る伝達に共通する汎時的特徴にほかならない。付け加えておくなら、『源氏物語』が連接構文で書かれているのは、思いついたことをつぎつぎと書き足
してできあがったからではなく、そういう構文として推敲された結果である。」
「和歌も和文も」仮名文字を使って書かれた。「それは、とりもなおさず、口語表現による伝達に共通する汎時的特徴にほかならない。」だとする
と、仮名文字で書かれた和歌は、実は口語表現だったということになる。橋本治さんが言うところの「生の声」は、口語表現だったということになる。
話し言葉、つまりおしゃべりだったということになる。
本居宣長が「生の声」のルーツを探った『古事記』だって、「語られる言葉をそのまま文字化した文章──口誦文芸」(328頁)で、宣長は、「此
記は、もはら古語を伝ふるを旨とせられたる書なれば、中昔[ナカムカシ]の物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮名書にこそ
せらるべき」と言っている。
『無常といふ事』に収められた「西行」の中で、小林秀雄は、「表現力の自在と正確とは彼[西行]の天稟であり、これは、生涯少しも変らなかっ
た。彼[西行]の様に、はっきりと見、はっきりと思ったところを素直に歌った歌人は、「万葉」の幾人かの歌人以来ないのである。」と書いている。
(これを引いたあとに続く文章の中で、橋本治さんは、「《はっきりと見、はっきりと思ったところを素直に》という、小林秀雄の「正直ならなんでも
出来る」理論にも、いささか飽きて来た。」(272頁)と書いているが、このことは、ここでの話題とは直接の関係がない。)
また、その口調を改めなかったら破門するぞ、と言う師の賀茂真淵がいて、それを「一向気にかけなかった様子である。」と小林秀雄に評される本居
宣長がいる。この、和歌の贈答に関する賀茂真淵と本居宣長のやりとりをめぐって、橋本さんは次のように書いている。
《第一章でも言ったように、《是は新古今のよき歌はおきて、中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりし也。右の歌ども、一つも
おのがとるべきはなし。是を好み給ふならば、万葉の御問も止給へ。かくては万葉は、何の用にたたぬ事也。》(『本居宣長』二十)と言われても、自
身の詠みぶりを一向に改めなかった本居宣長のことを、私は、「賀茂真淵と率直に話をしたかったから、おしゃべりをしたかったから」と思っている。
三十七歳の時[橋本治さんが初めて『本居宣長』を読んだ時]に、既にそう思っている。それは私が、世の人から「なんだこれは?」と思われた小説
『桃尻娘』の作者だったからである。「感じたことを感じたまま言葉にすることのなにが悪い?」と思っていて、それに対する明確な答がどこにもない
と思っていたところへ、とんでもない是認が登場してしまったのである。》(178頁)
この「とんでもない是認」は、『本居宣長』(二十一)の「更にとんでもない」是認につながっていく。
そこで小林秀雄は、本居宣長の『古今集遠鏡』(「遠鏡」とは現代語訳の意)を、宣長の思想を理解する上での「大事な著作だ」として、ただ一例だ
け挙げているのだが、これが、とんでもない俗語訳なのである。『古今集』巻第十九にある施頭歌の返し、「春されば 野辺にまづ咲く
見れどあかぬ花 まひなしに ただ名のるべき
花の名なれや」の「現代語訳」で、ここ[http://www.milord-club.com/Kokin/nori/kan19.htm]に出てく
る。
この、「花なれや」の「や」を「へへへへ へへへへ」に訳[ウツ]した、「ただでさえ下らない俗語訳を更に下品にした」と言われかねない過剰な
「現代語訳」を、敢えて提出した宣長、敢えて一例とした小林秀雄。
《この二人のやったことは、《徹底したやり方》を通り越した、「容赦ないやり方」である。そういうものを、三十七歳の私が読むのである。その時の
私は、「『桃尻語訳枕草子』を始めなきゃな」と思っている私なのである。「めんどくさい仕事だし、やったってどうせまた、“こんなろくでもないこ
としやがって”と言われるのがオチだよな」と思っているのである。『本居宣長』のこの部分は、そんな私に、「やれ! やれ! お前の信じる通りに
やれ!」と言っているようなものなのである。それを言うのが誰かと言えば、本居宣長と小林秀雄という、とんでもない二人なのである。
それを言う小林秀雄を、私が「いい人」と思うのは当然だろう。》(182-183頁)
ここで、私は、はたと気づく。そうか、桃尻語のルーツだったんだな、橋本治さんが『小林秀雄の恵み』で探しているのは。
本居宣長は、「自分の生の声」(和歌)のルーツを探して『古事記伝』を書いた(「凡て神代の伝説[ツタヘゴト]は、みな実事[マコトノコト]に
て、その然有[シカア]る理は、さらに人の智[サトリ]のよく知ルべきかぎりに非れば、然[サ]るさかしら心を以て思ふべきに非ず」)。
小林秀雄は、「学問する知性」のルーツを探して『本居宣長』を書いた(「《はっきりと見、はっきりと思ったところを素直に》という、小林秀雄の
「正直ならなんでも出来る」理論」)。
そして、橋本治さんは、「桃尻語」のルーツを探して『小林秀雄の恵み』を書いている(「感じたことを感じたまま言葉にすることのなにが悪
い?」)。小林秀雄の「恵み」とは、小林秀雄=本居宣長の「啓示」であり、小林秀雄=本居宣長による桃尻語の「是認」である。
この三つの事例に共通しているのは、本居宣長の和歌、小林秀雄の学問、橋本治の桃尻語が、すべて言葉に関係していること、それも書き言葉として
の「文語」ではなくて、話し言葉(おしゃべり)もしくは語られる言葉(口誦)としての「口語表現」に関係していること、そして、これが肝心なとこ
ろだと私は思うのだが、それらがすべて、本居宣長や小林秀雄や橋本治の身の内に「既にあった」ものだったことである。(この「既にあった」という
語は、明日抜き書きするつもりの、『小林秀雄の恵み』第五章に出てくる。)
このことに気づいたことで、私がここ数日やっている作業、「抜き書き『小林秀雄の恵み』」とでも名づけるべき作業の目的はほぼ達成できた。
桃尻語が「桃尻」という身体に関係する言葉を冠にしていること、そして、「感じたことを感じたまま言葉にする」という定義が与えられているこ
と、それだけで、もうほとんどすべてが言い尽くされている。
だから、ここで作業を終えてもいいようなものなのだが、ところが、『小林秀雄の恵み』はこの後、とんでもない展開を見せていく。
※
いま、「話し言葉(おしゃべり)もしくは語られる言葉(口誦)」と書いた。この「話す」と「語る」はまるで違うというのが、『かたり──物語の
文法』での坂部恵さんの説。
まず、「話す」は、人と人の水平的な関係をその成立の要件とする言語行為で、話し手は、「日常効用の生活世界の水平の時間の流れ」の上にある。
また、「はなし」は、「いま」にかかわる時制(「目前の行動・効用・利害関心にかかわる場面にたいする注意を喚起し、聞き手を緊張に誘う信号」を
含んだ時制)を持つ。
これに対して、「語る」の方は、神仏と人の垂直的な関係をその成立の要件とする言語行為で、語り手は、「〈ミュートス〉の遠くはるかな記憶と想
像力の垂直の時間の次元の奥行」に参入する。また、「かたり」は、「むかし」にかかわる時制(「現在聞き手にさしむけられている言語行為が、さし
あたって当面の行動状況や利害関心とは無関係であり、そのかぎり単なる〈お話〉として聞いてもらってさしつかえがないという、〈緊張緩和〉への誘
いの信号」を含む時制)を持つ。
坂部恵さんは、垂直の言語行為のもう一つの類型として、「かたり」よりもっと垂直度の高い「うた」を導入し、「はなし──かたり──うた」とい
う図式(「原理的にはあらゆる言語行為の、時に顕在的な時にまた潜在的な成分として含まれる構成成分の位置関係を示すもの」)を提示している。
ここで、坂部恵さんの議論から、橋本治さんによる桃尻語のルーツ(土壌)探しに関係すると思われるものを、三つ取りあげる。
その1.「うたう」は、同じく神仏との垂直的関係にかかわる「つげる」や「のる」が「上からの言語行為」であるのに対して、「となえる」や「い
のる」と同様、「下からの言語行為」の性格をもつ。しかし、「うた」が神がかりあるいは憑依の状態の人の口から出る場合は、「上からの言語行為」
の様相を帯びる。また、歌垣、贈答歌、連歌などのように、むしろ水平的な相互性の場で「うた」が機能する場合もあること。(神仏との「おしゃべ
り」としての「うた」というものを考えることができる。ただし、神仏は返歌を寄こさないだろうが。)
その2.物語を含む詩的メッセージないし詩的作品のみならず、科学の理論体系も、等しく「かたり」の範疇に属するものであること。(科学理論の
みならず、およそ「学問」一般、思想の類も「かたり」の範疇に含めていいだろう。)
その3.言語行為を含む、人間行為一般に関する図式として、「ふるまい──ふり──まい」が提示されていること。
以上のことを素材として、一つの「仮説」を立ててみる。
本居宣長は、「うた」(和歌)のルーツを探して「かたり」(古事記)へ向かった。
本居宣長の「うた⇒かたり」を受け継いだ小林秀雄は、「かたり」(学問=思想)のルーツを探して「はなし」へ向かった。正確には、「学問する知
性」のルーツを探して、「はなし」の言語行為が根ざしている「日常効用の生活世界」へ、つまり「下克上」の世界(武者たちの世界)へ向かった。橋
本治さんの言葉でいえば、「たやすくスローガンとなって当たり前に流通する「思想」ではなく、その源泉となる「人のあり方」」(257頁)の方へ
向かった。
そして、小林秀雄の「かたり⇒はなし」を受け継いだ橋本治さんは、「はなし」(桃尻語)のルーツを探して「うた」へ向かった。「うた」と「ま
い」による神仏とのおしゃべり、たとえば能楽の世界へ、日本古典文学の方へ。
★3月9日(日):小林秀雄の恵みとはなんだったか
『小林秀雄の恵み』の第五章「じいちゃんと私」で、橋本治さんは、「三十七歳の私が『本居宣長』を読んで得た感動は、以上のようなものであ
る。」と、次のように語っている。
《その本の中には、「学問する本居宣長」がいて、学問する本居宣長のありようの根本を肯定し、凝視する小林秀雄がいる。小林秀雄を、ただ「ゴッホ
やモーツァルトやランボーの人」とだけ思っていた三十七歳の私は、小林秀雄と本居宣長を「異質な二人」としか思っていなかったのだが、右眼と左眼
が相俟って事物の立体性を明らかにするように、『本居宣長』という本の中で、異質な二人は「人にとって意味のある学問」というものを、浮かび上が
らせていたのである。
だから、『本居宣長』を読んだ私は、「学問と見[まみ]えたい」と思う。我が身の内に「既にあった」と知る「学問する心」を、表沙汰にしたいと
思う。「学問する心」が既に備わっていたればこそ、三十七歳の私は、十一歳の[時、はじめて「大学」を読み、「天子ヨリ以テ庶人ニ至ルマデ、壱是
ニ皆身ヲ修ムルヲ以テ、本ト為ス」という名高い言葉に至って、非常に感動した]中江藤樹のように、『本居宣長』に感動したのである。
だから私は、小林秀雄や本居宣長を、それ以上読みたいとは思わない。それをすることは、小林秀雄や本居宣長の言うことをなぞるだけになって、
せっかく我が身に勃興して来た「学問する心」を、矯めることにしかならないからである。
私の行くべきところは、「小林秀雄や本居宣長の懐」ではない。「私のところへ来る必要はない。行きたいのなら、〝学問する心〝が意味を持つと思
える方向へ進め。」というのが、『本居宣長』を読んで得た私の最終的な実感で、それこそが「小林秀雄の恵み」なのである。この個人的な「恵み」
は、十分に一般的な「恵み」だろう。
私は、「小林秀雄になること」を目標にしない。「本居宣長になること」も同様である。いかに偉大であっても、彼等は過去の日に存在したその時代
のオリジナルで、今の時代にそれを踏襲しても意味はない。また「踏襲する」と考えることも無意味である。偉大なる彼等は、読者にそんなことを望む
はずもないのだから。》(173-174頁)
この、『本居宣長』を読んで、「我が身の内に「既にあった」と知る「学問する心」」というところが、とりわけ、「我が身の内に「既にあった」」
というところが、なかでも、我が「身」の内に、というところが肝心だ。
橋本治さんにとっての小林秀雄の「恵み」とは、昨日書いた、小林秀雄=本居宣長による桃尻語の「是認」(日本古典文学の桃尻語訳に対する是認)
ということと、それから、第八章以下の議論に出てくる、「『本居宣長』を書く小林秀雄は、彼の書くべきことに届いていない」という小林秀雄に対す
る「断罪」(354頁)もしくは「註釈」(355頁)の作業を(ただし、橋本治さん自身は「断罪するためではない」と書いている)、橋本治さんに
促したことの二点だが、なによりも、そうした「学問する心」が我が身の内に「既にあった」ということ、その啓示がもたらされた「感動」を言うのだ
ろう。
※
第五章の終わりあたりから、第六章「危機の時」を経て第七章「自己回復のプロセス」まで、橋本治さんは、小林秀雄の『無常といふ事』を、小林秀
雄の「転回」と、それがもたらした危機からの自己回復のドラマとして解読している。
実に見事な読解だ。(『桃尻語訳 枕草子』から『絵本 徒然草』『窯変 源氏物語』『双調
平家物語』へと続く、橋本治さん自身の精神のドラマを告白しているのではないか、と疑わせるほどだ。)
小林秀雄の「転回」とは何か。初めて能を見たシロートの衝撃、それである。
太平洋戦争が始まった翌年、小林秀雄は、世阿弥作の「当麻」を観て、衝撃を受けた。後ジテ(中将姫の霊)の舞姿の「美」に圧倒されたのである。
《美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼[世阿弥]の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かさ
れているに過ぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼[世阿弥]はそう
言っているのだ。》(「当麻」)
肉体(美しい「花」)の動きの方が、観念(「花」の美しさ)の動きより遥かに微妙で深淵なのだから、肉体の動きに則って観念の動きを修正するが
いい。「「花」とはなにか?」ではなく、「自分の演ったことに花は宿っていたか?」を問え。修行を怠るな。
世阿弥の教え、「されば、花とて、別[べち]にはなきものなり。物数を尽して、工夫を得て、珍しき感を心得[う]るが、花なり。」を、小林秀雄
はそのように理解した。『風姿花伝』は「美学書」ではなく、「職人心得」であると理解した。
これが、小林秀雄の「転回」である。それは、「敗北」からの転回でもあった。
「当麻」に続いて書かれた「無常といふ事」では、そのタイトルとは裏腹に「常なるもの」(歴史の不動)という事が書かれている。しかし、そこで
はまだ、小林秀雄は危機から回復していない。
これに続く「平家物語」で、小林秀雄は、平家物語を「大音楽」と捉えた。「「平家」の人々はよく笑い、よく泣く。僕等は、彼等自然児達の強靭な
声帯を感ずる様に、彼等の涙がどんなに塩辛いかも理解する。誰も徒に泣いてはいない。空想は彼等を泣かす事は出来ない。」これが、小林秀雄にとっ
ての「大音楽」であり、「常なるもの」なのである。
「徒然草」でも、小林秀雄の「リハビリテーション」は続く。テキストは「スローガン」かもしれない。「しかし、テキストを書く人が揺るがなかっ
たら、その人のあり方こそが、自分自身のテキストになる。」(269頁)徒然草の作者は、そのような「テキスト」ではなかった。
「西行」に至って、この「常に和歌の主題に「自分自身」を据える──つまり、「私小説の歌人」」(272頁)である西行法師という「テキスト」
に出合って、小林秀雄は自己を回復する。我は西行、これである。
これでは要約になっていない。もともと要約などしようとは思っていない。橋本治さんの文章を抜き書きするのが楽しくて、この作業を始めた。
第七章の「我は西行」の節(270-276頁)は、できれば丸ごと書き移しておきたい。
西行については、第八章で再び取りあげられる。そこで、橋本治さんは、とんでもないことを言い出す。
★3月10日(月):桜と水の音──「空白」という形で存在する神
橋本治さんは、『小林秀雄の恵み』の第八章「日本人の神」で、とんでもないことを言い始める。
そこには、小林秀雄にとっての「学問する知性」とは、「テキストの中に“音”を聞き出す感性」を備えることであると書かれている。それはまた、
「物のあはれ」のことであり、「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」(『本居宣長』十四)のことである、といったことも書かれてい
る。
「全的な認識」という西洋由来の考え方に対する批判、というか、知ることと感じることを分けて考える、小林秀雄の「全的な認識」という考え方
が、橋本治さんには「分からない」といったことも書かれている。
また、「近代の起点が近世にまで遡ったら、近代と近世の間にある堤防は決壊して、日本の近代は水没する」と、橋本治さんは思うのだが、「小林秀
雄という近代的な知性」は、そのように考えない。逆に、「近代の起点が近世にまで遡ったら、江戸時代という“近代への遠回りの時間”がなくなっ
て、すぐそこから近代は始まってしまう」と考える。そういうことも書かれている。
でも、それらはどれも、私が思う「とんでもないこと」ではない。
※
とんでもないことというのは、橋本治さんが「西行と神」という話題を持ちだしてくることだ。
「西行と神」であって、「西行と仏」ではない。「神」は、カミ(迦美)のことではなく、キリスト教的な一神教の神のことである。つまり、「個で
ある人と対応する存在としての神」、(「同伴者としての仏」ではなく)「導く神」のことだ。
橋本治さんは、日本の中世に、そのような意味での神は「空白」という形で存在しうると書いている。西行には「神」がいる。「空白として存在せざ
るをえなくなった神」がいる。
《そういう「神」は、中世以前の日本にはいたのか? 答えはノーである。そういう「神」を、その後になって、日本人は求めるようになったのか?
近代以前の日本の主流に限っていえば、ノーである。(略)つまり、日本人はそういう「神」を存在させないし、存在するのなら、西洋的な「神」は
「空白」という形でしか存在しないのである。(略)なぜ日本では、西洋的な神が「空白」として存在しえたのか? そして、その日本人は、なぜ近代
になって、「空白として存在してしまっている神」に対して、濃厚な感情を示すようになるのか? 「孤独」や「個であることの索漠」を言う日本の近
代文学のある流れは、そこに「神」というものを代入してしまえばすっきりと問題が解消してしまえるようなものにも見える。近代になって後、日本人
はなぜ「救済への飢渇」をあらわに表明してしまうのだろうか? 既に西行に於いて「近代」が、《西行には心の裡で独り耐えているものがあったの
だ。》[小林秀雄「西行」]という形で実現されてしまっているにもかかわらず。》(298-299頁)
橋本治さんは、たとえて言えば、として、同伴者としての仏が「友人」であるとしたら、導き手としての神は「恋人」のようなものだと書いている。
そして、「“恋人”という概念が存在しない世界の中で、昔の人はどのように生きたか」という、救済をめぐる問題に関して、西行と本居宣長にとっ
ては、桜こそが、「我の中核に存在するもの」であると同時に「恋の対象になる彼」であった、つまり、神に近似する存在だったと書いている。
《…「人ならぬもの」が「我」になりまた「彼」になってしまうことは、一向に珍しくない。それは日本人であることに限らず、詩作表現の場では、世
界中のどこにあっても珍しくない。珍しいのだとしたら、十二世紀の段階で「我」を詠むことにその生涯のほとんどを費やした西行のような人が珍しく
て、勤勉で真面目で性的に淡白でもある本居宣長のような人が、憑かれたように「桜への恋」を詠み続ける、そのことが珍しい。そのようなことを可能
にする主題であり対象の代表格が、日本人にとっての「桜」で、昔の日本人は、「桜」というものを使って、「自分であること」を表現していたのであ
る。
そのような作用をする桜は、当然のことながら、西洋人にとっての「神」に近似している。近似してはいるが、「神」ではない。桜は神よりも自由
で、作用する主体なんかではない。「そのような作用をする桜」は言葉の彩で、桜にそのような作用をさせているのは、人間なのである。「神」は人を
規制する主体だが、桜はそのようなものではない。人間の側が、桜を勝手に操作しているのである。その点で、「神」に近似する桜は、人間を自由にし
てしまう。そして、そういう「自由」が起こりうる理由も、そうそう難しくはない。なぜかと言えば、そもそも日本人にとって、「神」というものが
「空白」として存在していたからである。「神という空白」があったわけではない。「我」に対応するものがなにもないから、そこはただ「空白」だっ
たのである。「空白」だから、桜も代入しうる。後になって、西洋近代に触れて、「西洋には“我”に対応する形での“神”もあるのだなァ」と知った
時には、「神」をも代入しうることが出来る。「桜は“神”に近似している」というのは、その後の経緯を踏まえてのことで、それをもっと正しく言う
のなら、「西洋の神は、日本人の桜に近似している」なのである。重要なのは、そこに代入が起こりうる「空白」を、昔の日本人が持っていた──発見
してしまっていたという、そのことである。
話は難しいが、中身はそんなに難しくない。ある時、一人の日本人が「自分に応えてくれるものはなにもない」という発見をしてしまったということ
だからである。
その日本人が、西行である。だから彼は、「自分」ばかりを問題にしている。《自意識が彼の最大の煩悩だった》[小林秀雄「西行」]である。西行
は、「自分」に振り回され続ける。そして、それも仕方がない。西行には、応えてくれるものがなにもないからである。
近代的に考えれば、「西行は自分の中に“我”という自己を発見した」になるのかもしれないが、西行的には逆である。「西行は、自分の外に、自分
に応えてくれるものがなにもないことを発見した」で、西行は、「自己」より先に「空白」を発見しているのである。その「空白」を発見したのが彼
で、その「空白」は誰も埋めてくれない──「空白」があることが苦しいのなら、その「空白」を自分で埋めるしかない。》(303-304頁)
だから、西行は、「自助努力を第一とする職人的な日本の心性によくマッチする」(305頁)。西行の歌は、「自助努力をすべてとする現実社会に
生きる人を共鳴させる「生の歌」となるのである」(311頁)。
(この「生の歌」は、本居宣長について言われた「生の声」を想起させる。また、これはあくまで備忘録として書いておくのだが、西行は、かの「学問
をする知性」のルーツであった信西と同時代の人である。)
西行とくれば芭蕉である。西行は「強い自意識を持った人」だが、「強い人」ではない。平安末期の西行に対して、近世の江戸時代を生きた芭蕉は
「強い人」であった。
《芭蕉の強さは、「自分」をまったく問題にしないでいられるという、そういう質の強さである。芭蕉の句の不思議さ──完成度の高さもそこにある。
たとえば、有名な《古池や蛙飛こむ水の音》である。《己を空しくして》[小林秀雄の講演「歴史の魂」に、「己を空しくして自然を余程観察しなけ
ればあんな俳句は出て来やしません。」とあるのを踏まえている]である以上、ここに芭蕉はいない。《水の音》がしたって、芭蕉は聞いていないので
ある。だから、この句に接して「作者の芭蕉は何を考えているのだろう」と考えても、無駄なのである。主体は、「水の音を聞く芭蕉」ではない。もち
ろん、「古池を見ていると蛙が飛び込んで、その水音が私をびっくりさせた」でもない。この句の主体は《水の音》なのである。「そういう《水の音》
がある」──ただそれだけなのである。そういう《水の音》の存在を示すのだから、芭蕉はその《水の音》を聞いてはいるのだが、そんなことはどうで
もい。ただ、そこに《水の音》があることが重要なのである。もちろん、「《水の音》が聞こえる」ではない。人の耳に聞こえようと聞こえまいと、人
が聞こうと聞くまいと、そんなこととは無関係に、その《水の音》はあるのである。
「《水の音》がある」ということに、なんの意味があるのか? 簡単である。この《水の音》を「神」に置き換えてしまえばいい。つまり、「神がい
る」である。そんなすごい一行になってしまったら、「神がいることになんの意味がある?」という疑問は引っ込んでしまうだろう。そんな疑問があろ
うとなかろうと、そんな事情を超越して、神は存在してしまっているのである。》(313頁)
この、近世人の強さについて、橋本治さんは、「神のいる合理性」という言葉で説明している。
《近世という時代は、「神という非合理」などとは言わない。それを言ってしまえば、もう近代である。近世という時代は、非合理かもしれない神を一
方に存在させて、その残りを合理性で仕切るという時代なのだ。神という非合理の支配下にあれば中世だが、近世という時代は、かつて支配的だった神
をそもままの位置に安置し、距離を置いて隔離する──だから、支配はされないのである。それが近世で、だからこそ近世を登場させる契機となるルネ
サンスの中に、ちゃんと神はいる。神という非合理と、合理性を求める人とが調和的でるのは、神と人とが距離を保ちえた近世の特徴なのである。一方
には神という非合理があり、しかし人の思考は、それとは裏腹に、いたって合理的なのである。
上田秋成だって本居宣長だって、レオナルド・ダ・ヴィンチだってミケランジェロだって、「神を信じない」とか「神という非合理を拒絶する」なん
てことを絶対に言わない。彼等のあり方が根本のところで「神という非合理とは相容れない合理性の塊」であったとしても、彼等近世人は、神と調和的
なのである。(略)
近世というのは、そういう時代なのである。だから、「本居宣長にとって神とはいかなるものか?」という問いには、意味がない──本居宣長が『古
事記』という神が実在する世界を扱っているにもかかわらず、この問いには意味がない。そう考えれば話は明快になって、『本居宣長』の後半だって
もっと整理されるし、小林秀雄だって、実はその手前まで行っているのである。しかし近代人には、そういう放擲が出来ない。神は「非合理」になっ
て、もう論理の世界から消滅してしまっているから、そんな放擲を可能にするためには、消滅した「神」をもう一回どこかから引っ張り出してきて、再
構成をしなければならない──そういうことになったら、改めて「神とはなんだ? 神とはなんだったのか?」という大問題に直面して、手に負えなく
なってしまう。しかし、近世という時代は、「神をちゃんと存在させて、しかしそれとは関係なく──」という形で平気で合理性を存在させてしまう時
代なのである。存在していて関係ない神を放擲してしまうのは、簡単なことなのである。ある意味では、驚嘆すべき時代である。(略)
おそらく、日本の近世をこんな風に位置付ける人はほとんどいなくて、日本の思想史を「近世=ゴール」と考える人もいないだろう。しかし、近世は
日本の思想のゴールなのである。だから、第四章で言ったように、近世の日本人は仏教を「思想」として採用しなくなる。近世に花開いた儒学も、国学
も、花開いたまま近世の中で孤立する。近代は国内で用意されず、外国からやって来る。だから、近代からやって来た小林秀雄に「近世的意味」は発見
されず、「ここに近代はある。よく完結されている」と位置付けられてしまう。私はそういう寂しいゴールが嫌いなので、「大問題から自由になった近
世は、どうして実現したのか?」と考えるのである。》(289-291頁)
※
第八章からの抜き書きは、このあたりで切り上げる。
抜き書きしながら、いろいろの考えが頭をよぎっていったのだが、抜き書きに夢中になっていて、メモをとるのをうっかり忘れていたので、今はもう
きれいに消えてなくなった。(それを見失わないで、きちんと文章にして残すことができたなら、たとえば『橋本治の恵み』とでもいう記録を生み出す
ことができるだろう。)
一つだけ覚えているのは、この文体(カキザマ)は、どこか小林秀雄に似ているということ。似ているのではなく、小林秀雄から「近代的知性」の悪
弊をひきはがしてしまうと、こういう文章になるのではないか。
あるいは、本居宣長の時代には、その時代のタブーがあり、小林秀雄の時代には、その時代のタブーがあった、そのタブーを取り払ってしまうと、橋
本治さんの文体(「書きざま」というより「言いざま」)になるのではないかということだ。
(こういう書き方をすると、橋本治さんの生きている時代にも、その時代のタブーがある、ということが暗にほのめかされているように読めるが、そう
いう意図はない。いや、こうしてわざわざ注記しているくらいだから、やっぱり意図はあるのかもしれない。)
早い話、先の、芭蕉の「水の音」をめぐる文章を、次のように書き直すと、いかにも小林秀雄らしくなりはしないか。
《芭蕉の強さは、「自分」をまったく問題にしないでいられるという、そういう質の強さである。たとえば、有名な《古池や蛙飛こむ水の音》である。
ここに芭蕉はいない。「そういう《水の音》がある」──ただそれだけなのである。「《水の音》がある」ということに、なんの意味があるのか? そ
んな疑問があろうとなかろうと、そんな事情を超越して、《水の音》は存在してしまっているのである。》
★3月11日(火):今まさに目の前に出現する現在形
橋本治さんの『小林秀雄の恵み』は、第九章「「近世」という現実」、第十章「神と仏の国」と続く。
「悲しいことをただ“悲しい”受け入れたい」(373頁)本居宣長がいて、その本居宣長のことが、橋本治さんにはよく「分かる」。しかし、それ
は、小林秀雄が「思いたいような」本居宣長ではない。橋本治さんには、「近世人本居宣長のあり方や胸の内はわかるが、近代人小林秀雄の頭の中はよ
く分からない」(379頁)。
《「直毘霊」を書くことによって本居宣長は「皇国」という概念を明確に打ち出したが、この「皇国」は「皇国[ミクニ]」であって、「皇国[こうこ
く]」ではない。宣長の「皇国」は、彼が必要とする内的な概念で、彼が「皇国[こうこく]」の到来を望んでいたかどうかは分からないのだが、少な
くとも宣長の時代の「皇国」は、「まだ到来していない未来」のものである。しかし、大日本帝国に生まれて四十三歳の年までそこにいた小林秀雄に
とって、「皇国」はまぎれもなく存在する「実体を持った現在」であった。私にとって、「皇国」は「終わってしまった過去」に属するものである。つ
まり、それが「現実の現在ではない」という点で、私は本居宣長と同じなのである。本居宣長の考え方は分かるが、小林秀雄の考え方はよく分からない
というのは、もしかしたら、そんなところに由来するのかもしれないが、しかし、こんな話がなんの意味を持つのか? それは、「受け手である日本人
と、日本神話の関係」というところで、大きな意味を持つ。つまり、「我」なる日本人は、日本人全体を覆う形で存在する日本神話のどこに居場所を見
出しうるのか、ということである。》(380-381頁)
最後の、「「我」なる日本人は、日本人全体を覆う形で存在する日本神話のどこに居場所を見出しうるのか」という問いは、分かりにくい。
橋本治さんの議論をかいつまんでみる。
日本神話は、アダムとイブの神話とは違って、「神が人を創造する」という記述を持たない。イザナギ・イザナミの両神が生むのは「国」だけであ
る。日本の始まりと皇室の始まりは語るが、「日本人の始まり」は語らない。神や皇統につながらない普通の日本人は、「いつの間にかいるのであ
る」。普通の日本人は、「店子」なのである。
《やがてはここに、天から統治者が下って来る。「人」は、家主でも地主でもなくて、ここに寄留する店子になる。家主の一族はその後に様々なドラマ
を惹き起こすが、店子からすれば「別の世界の出来事」で、店子は店子としてのありようを侵されない――これが『古事記』なのである。それは「人の
歴史」ではないが、「我々はここにいるのか」と思ってしまえば、十分に「これを我々の歴史のスタート地点にしてもいいや」ということにはなる。本
居宣長はそのように考えていただろうというのが、私の結論である。
日本の神話は、日本人に村落共同体のあり方をそのまま提出してしまう。ムラの暮らしを成り立たせる要所要所には「管理者」としての神が配置され
ている。そういうところで暮らす人間は、村落共同体の長に従って、生活を維持することが出来る。がしかし、ここにたった一つ存在しないものは、ム
ラ人一人一人の「個」に対応する神である。疫病が発生すれば、それは「過津日神[マガツヒノカミ]」が跳梁する仕業かもしれないが、一人の一人間
が病気になった時、これを「治す」という形で対応する神が、日本にはいないのである――海の向こうから「薬師如来」という異教の仏がやって来るま
で。日本人にとって仏教は、そのように「個に対応する神」として存在するのである。そして、第八章でも言ったように、村落共同体的世界に住まう日
本人にとって「個に対応する神」であるような仏は、「同伴者」としてしか存在しないのである。
仏を「ゴール」にしても、それは「死んで極楽浄土へ行くことを導いてくれる」にしかならない。仏は「同伴者」として存在して、「では、この胸の
寂寥はどのように解決すればいいのでしょうか?」ということに対する答は、どこからも来ない。しかも、「それを考えてはならない」という禁忌は、
実のところどこにもない。ただ、「私の胸の内の寂寥は、いかがすれば?」という問いに対する答が、どこにもないだけなのである。それは、「考えた
ければ考えてもいい」という質のものなのである。だから、本居宣長は考えた。彼にとって必要な答は、ただ一つ、《人の情[ココロ]の、事にふれて
感[ウゴ]く》――このことが大昔から事実として認められていたということだけなのである。
たったそれだけのことに関して、ピンとこない人は一向にピンとこない。ただそれだけのことである。》(391-392頁)
これが、第十章の末尾の文。で、橋本治さんは、結局のところ、何が言いたかったのか?
一つ補足しておくと、本居宣長にとって、「『古事記』の方が(少なくとも神代の巻は)、『日本書紀』より面白い」。その意味は、「『日本書紀』
は漢文で、『古事記』は漢文ではない」といったことにあるのではなくて、正史であろうとする『日本書紀』が、最初の三柱の神が出現するまでの状況
をあれこれ語ろうとするのに対して、『古事記』では、神はいきなり出現してしまう、その「今まさに目の前に出現する現在形」で叙述する「書き様」
の違いにあるのである。
《なにしろ「いきなりの現在形」である。記述されるもの、登場人物達が躍動している。本居宣長はそれを面白い[エキサイティング]と思い、「どう
してこっちを正史にしないんだ!」と言っているのである。本居宣長の言うところは、「人のあり方のリアリティ=躍動感を前提にしないで、歴史など
はない」なのである。《凡て神代の伝説[ツタエゴト]は、みな実事[マコトノコト]にて》とは、こういう論脈に載せて、初めて意味を持つ。》
(389頁)
(この「人のあり方のリアリティ=躍動感を前提にしないで、歴史などはない」は、坂部恵さんが『かたり』の冒頭に引く折口信夫の、「わたしどもに
は、歴史と伝説との間に、さう鮮やかなくぎりをつけて考へることは出来ません。(略)史論の効果は当然具体的に現れて来なければならぬもので、小
説か或は更に進んで劇の形を採らねばならぬと考へます。」云々という、「身毒丸」末尾の附言を想起させる。)
で、橋本治さんは、結局のところ、何が言いたかったのだろう?
★3月12日(水):物のあはれを知らなければ「考える」などということは始まらない
『小林秀雄の恵み』を書くことで、橋本治さんは、結局のところ、何が言いたかったのか。
終章「海の見える墓」で、橋本治さんは、「小林秀雄を必要としていた日本人とは、なにものだったのだろう」と問い、「小林秀雄の思想は、一言で
言ってしまえば、「読むに値するものをちゃんと読め」である」と書き、「小林秀雄の『本居宣長』は、「物のあはれを知る必要」を幾重にも重ねて説
く本で、そのことが日本人にとっては意味があった」と書き、この「読むに値するものをちゃんと読め」が起こるためには、「物のあはれを知る必要」
を理解する必要があると書く。
《本居宣長は、「物のあはれを知らなければ、“考える”などということは始まらない」という前提に立ち、しかし、小林秀雄はそれを知る以前から
「考える」をしていて、その後に「物のあはれを知らなければ“考える”などということは始まらないのではないか?」と気づいた人である。もちろん
私は、『当麻』に於ける小林秀雄の「敗北」を踏まえて言っている。
小林秀雄の思索は、「物のあはれを知らなければ“考える”などということは始まらないのではないか?」というところから、改めて始まる。その小
林秀雄の思索のゴールが『本居宣長』であるのは当然で、そこへ至るまでの間、小林秀雄自身が自分の考え方の「正しさ」に関して微妙な保留を置いて
いることもまた、当然である。その点で、『考えるヒント』の語は、「小林秀雄自身にとっての考えるヒント」でもありうるのである。》(400頁)
ということは、小林秀雄は『本居宣長』で、「物のあはれを知らなければ、“考える”などということは始まらない」ということを、実演して見せて
いるのだ。(「実演して見せる」は、橋本治さんが使っている。)
《「物のあはれを知る必要」を理解して、書き手の小林秀雄はテキストを読む――その行為がそのまま、読者の読むテキストとなる。そのことによって
読者は、「“物のあはれを知る必要”を理解する必要があるのではないか」と理解する――「そのように理解せよ」と、読者の前にテキストを提出して
行く小林秀雄は、時として説く。なんだかややこしいが、この「テキストを読みながらテキストを創出して行く小林秀雄」と読者の関係は、あるものと
似ている。出家者となって「彼の道」を行く西行と、その同伴者として存在する「西行の行く道を設定した動機」ともなる、仏である。もちろん、小林
秀雄が「仏」で、読者が「西行」である。読者は仏に導かれる。そして、導く側の仏は「同伴者」としてあるだけで、なにもしない。よき仏としてある
ために、小林秀雄は《私の書くものは、随筆で、》と白を切る。読者に対して「同伴者」であることが仏の義務で、であればこそこの仏は、読者に一切
介入をしない。うっかりすれば、読者の方が「仏の介入」を求めて来るから、「私は介入をしない存在である」ということを、時々明らかにしなければ
ならない。読者という西行に対して「仏」であろうとして、小林秀雄は実に周到なのである。なぜそこまでの周到が用意されねばならないのかという
と、読者に対して仏である小林秀雄が、彼の読むテキストに対しては「西行」だからである。小林秀雄が「思想」になるのはこの一点で、このあり方こ
そが「小林秀雄の思想」なのである。(略)
仏はただ「同伴者」としてあって、仏を同伴者とした者に一切の介入をしない。「介入をしてくれた」と信じるのもまた自由――という形で、介入を
しない。それが、日本に定着した仏教のあり方である。そのあり方に沿って、小林秀雄もまた「仏」なのである。
ただそれだけのことで、ここに問題があるとしたら、「仏とはそういうものだった」ということを、多くの日本人が忘れているか、知らないでいるか
のどちらかである。「そこに仏はいる。だから、その周辺に思想は存在する」――日本人にとっての「思想」とは、そもそもそういうものでもあったの
だというだけである。
これを踏まえてしまえば、小林秀雄が行っていた「評論」というものがいかなるものかも、すぐに分かる。「評論」とはすなわち、読者をいずれかへ
向かわせるトンネルなのである。それはただ「トンネル」で、そのトンネルがどこへ抜けるかは分からない。(略)
この本の初め(第一章の二)で、私は《小林秀雄のことを書かなければならない私は、それをせずに余分な「自分のこと」を平気で書いている。》と
言い、それをするのは、『本居宣長』という本が《読み手のあり方を問題にする本だから》と言っている。それはもちろん、『本居宣長』一冊に限った
ことではない。「抜けた先をどことするのかは抜けた者次第」であるような評論は、結局のところ、すべてが「読み手のあり方を問題にする本」となる
――それが、日本に於ける「思想」のあり方なのだ。》(402-405頁)
こうして、橋本治さんは、「「読者に体験をさせることこそが思想の営みである」と思えばこそ、「『本居宣長』を読む」ということを体験するとど
んなことが起こるかを示したくて、本書の第一章から第十章がある」と書き、終章の末尾に、次の言葉を刻む。
《近代の日本人は、エモーショナルなものに惹かれる自分自身を、どこかで煩わしがっていたのかもしれない。それを分析して、いつの間にか「エモー
ショナルな」を我が身に備えることを忘れてしまったのかもしれない。「エモーショナルなものを我が身に備える」ということは、「物のあはれを知
る」とまったく同じことだと私は思うけれど。》(413-414頁)
で、橋本治さんは、結局のところ、何が言いたかったのだろう?