三中信宏『系統樹思考の世界──すべてはツリーとともに』(2006.09)



★9月3日(日):系統樹の木の下で──三中信宏『系統樹思考の世界──すべてはツリーとともに』

 あたかも「息をするように」(211頁)読み継ぎ、読み終えた。ときには細く、長く息を継ぎ、ときには切迫し、息を詰め、そして最後は大きく深 い息を吐きながら。
 実によくできた書物だった。巻頭から巻末に至るすべての頁をいろどる活字と図版と空白、それらを縁どる夥しい引用(この引用の的確さ、技と趣向 の鮮やかさは本書の最大の読み所のひとつである)、はては奇数頁と偶数頁の間、カバー裏の「セフィロトの樹」の解説(そこで著者は読者への挑戦 状、というほど物騒なものではないが、予告状をしたためている)まで含め、本書の細部と全体にわたって細心かつ大胆な三中ワールドがひろがってい く。

 まず、それ自体として読むに値する詳細な目次が素晴らしい。そこに鏤められた「正しい名前」をつないでいくだけで本書の骨格が炙り出されてい く。たとえば「歴史」としての、「言葉」としての、「推論」としての、そして「説明」や「仮説」、「モデル」としての系統樹、等々。
 巻末に目をやると、本文と呼応しながらも書物の外へとリンクを張っていく、つまり本書「に」学び、かつ本書「で」学ぶための導きの糸となる懇切 な文献リスト(ダーウィンの「読書ノート」に拮抗しうるミニ書評集!)がついている。「壁」や「銅鉄主義」や「棒の手紙」といった項目を含む、工 夫のあとがうかがえる丁寧な索引がついている。これらの書物や項目の関係をうまく図示していけば、本書の見取り図を示すツリー、いや本書を起点も しくは基点とする無尽蔵の刺激に満ちた知のネットワークを設えることができる。たとえば第1章第4節に出てくる「物語的説明」(69頁ほか)と、 第3章末尾(208頁)のカルロ・ギンズブルグの引用文に出てくる「エナルゲイア(いきいきと物語る技法)」を結ぶ枝。
(惜しむらくは、該当頁の表示に誤記がある。「正名」は265頁ではなく264頁に出てくる。「物語的説明」という語そのものは67頁には出てこ ない。目次にも誤記がある。第4章第3節は233頁ではなく222頁から始まる。細かい疵はほかにもあるかもしれない。それらは著者のウェブサイ トの「正誤表」ですでに修正されているかもしれない。)
 なによりも、本文の練り上げられた構成と叙述のスタイルが素晴らしい。読み手の側の事情を忖度し、著者はときに自らの来歴を語り、身辺雑記を織 り交ぜつつ、ひとつの概念が読者の脳髄のうちに沈澱していく時間を正確に測定しながら、ネットで鍛えられた健筆をふるっている。
 二つのエピソードからなるインテルメッツォをはさんで、同じ話題(たとえばアブダクション、たとえば西欧中世の普遍論争、たとえば「分類思考」 と「系統樹思考」の違い)が反復、進化、深化されていく。書物もまたそれを読む時間を通じて生成し進化することを、読者はそれこそ身をもって、息 継ぎと深呼吸を繰り返し、ときに息をのみながら体得していく。

     ※
 本書の内容については、へたな要約(たとえば「外部観察者による反復から、内部観察者による復元へ」など)よりは、たとえば第2章末尾の次の一 文を引用して紹介にかえる方がはるかに気が利いている。

《伝統的な科学哲学では、反復実験が可能な物理学がモデルだったために、進化学(および他の古因学)が対象とするユニーク(単一的)な事象に関す る「歴史」の科学的地位についての考察は、必ずしも十分ではありませんでした。歴史学ははたして科学であり得るのかという問いかけが幾度も発せら れること自体、科学哲学がいまだ成熟していなかった証しだといわねばなりません。生物の系統発生を復元し、進化過程に関する推論を行うという進化 学・系統学のサイエンスとしての姿勢は、従来的な科学観と知識観に再考を促してきました。
 経験科学としての「歴史の復権」──それは、歴史は実践可能な科学であるという基本認識にほかなりません。そして、その実践を支えているのは系 統樹思考であり、一般化された進化学・系統学の手法です。
 進化生物学はダーウィン以来の一世紀半に及ぶ道のりの末に、人間を含むすべての生物を視野に入れるヴィジョンをもつにいたりました。それは同時 に、関連諸学問をこれまで隔ててきた「壁」をつきくずす古因学を現代に甦らせ、さらには、科学哲学と科学方法論の再検討を通じて歴史の意味そのも のをわれわれに問い直させました。これこそが「万能酸」(ダニエル・デネット)としての進化思想が諸学問にもたらした衝撃だったのです。》 (128-129頁)

 ここに出てくる「系統樹思考」(tree-thinking)について、著者は「分類思考」(group-thinking)と比較して次のよ うに書いている。

《分類思考とは異なり、系統樹思考は必ずしも認知心理的背景をもっていないようです。なぜなら、私たち人間はもともと心理的な本質主義者であり、 対象物には本質が内在すると認知してしまう傾向があるからです。“ヒト”には“ヒト性”、“サル”には“サル性”という「本質」があると仮定する 心理的本質主義は、進化的思考とは根本的に矛盾します。あるカテゴリー(“ヒト”や“サル”)に本質(“ヒト性”や“サル性”)が存在するとみな すかぎり、カテゴリー間の移行(進化)は原理的に不可能だからです。
 したがって、心理的な本質主義が人間の認知性向であるとみなされるかぎり、進化的思考ならびに系統樹思考は必然的に認知的基盤をもたないと言わ ざるをえません。つまり、私たちは生まれながらの分類思考者だから、系統樹思考は「ものの見方」として意識的に採用する必要があるということで す。》(124頁)

 この話題はエピローグで深められる(255~260頁)。このあたりは本書の勘所のひとつだと思う(少なくとも私にとっては)。
 ギリシャ時代以来の「存在の学」としての形而上学が、人間の精神に深く染み込んだ「分類思考」(離散的な群の実在の標榜とその背後にある本質主 義)に根ざしていたこと。西欧普遍論争においては、カテゴリーとしての群が変化する(進化する)という選択枝はなかったこと。今日、「種は実在す るのか?」という、ことばの正しい意味での形而上学的な問題が繰り返し論じられていること。
 以下、摘み食い的に抜き書きしておく。(このあたりのことを、いま継続的に読み進めているベルクソンの思考につないでいきたい。)

◎「分類思考が静的かつ離散的な群を世界の中に認知しようとするのは、私たちが多様な対象物を自然界や人間界に見るとき、記憶の節約と知識の整理 にとってたいへん有効な手法であると考えられます。そのような認知カテゴリー化は、記憶の効率化を通じて、私たちの祖先たちの生存にきっと有効に 作用したでしょう。」

◎「進化する実体、伝承される系譜、そして変化する系統が、存在論的にどのように意味づけできるのかという問題設定は、新しい形而上学を求めてい ます。進化的思潮が登場する以前の旧来の形而上学を補足するかたちで、進化的な形而上学を構築するのは十分に可能なことでしょう。」

◎「種問題をめぐる論争の錯綜ぶりを見るにつけ、「肉体化」した形而上学が科学者の意識に及ぼす深い影響を考えないわけにはいきません。」

◎「「種」の実在性を支持する心情とはいったい何か──それは時間的に変化する“もの”が、なお同一性(identity)を保持し続けるだろう という、本質主義の再来です。」

◎「無意識のうちに時空軸を貫く群の同一性を希求する思考は、ジョージ・レイコフがいう「心理的本質主義」の発現といえるでしょう。たとえ、進化 的思考がリクツの上で本質主義は間違いである(「種は実在しない」と主張したとしても、肉体化された心理的本質主義はその逆(「種は実在する」) を心情的に支持しているからです。」

◎「私たちは、生物としての人間であり、進化の過程でさまざまな肉体的特性と心理的特性を獲得してきました。ですから、心理的本質主義者としての ヒトと進化的思考者としてのヒトとは、表層的には矛盾するのですが、深層的には各自がそれぞれ折り合いをつけていくしかないのだろうと私は思いま す。」

 この最後の引用文で著者が示唆しているのは、とても大切なことだと思う。私なりの言葉で言えば、「世界は系統樹思考(進化的思考)に基づく推論 を行っている」ということになる。
 ──世界は一冊の書物である。この書物はある図形言語で書かれている。その言語の名を系統樹という。世界は系統樹思考をもって推論(アブダク ション)をする。推論の結果、世界は生成進化する「もの」と「こと」で満ち溢れる。その「もの」や「こと」のうちに系統樹は入れ子式に挿入されて いるが、その「こと」を知る「もの」はいない。あるとき、世界のなかの一存在者であるヒトの脳髄のうちに世界が折り重なり、歴史が復元される。そ のとき、世界は自らを知る。

 わたしは今すべてを忘れようとする、わたしの中心に、
 わたしの代数学、わたしの鍵、
 わたしの鏡に達するのだ。
 わたしは誰か、今それを知るだろう。
   ──ホルヘ・ルイス・ボルヘス「闇を讃えて」から(斎藤幸男訳)

     ※
 この世界は「分岐」だけではなく、「分岐と融合」からなる高次の構造をもつ。系統樹すなわち分岐による階層構造のツリーから、分岐と融合による 非階層的な系統ネットワークへ、さらには「系統スーパーネットワーク」へ。
 この第4章の最終節における「高次系統樹」をめぐる議論は、人間の「思議」を超えた世界の実相へと迫っていく(‘tree-thinking’ ではなく‘network-thinking’に基づく推論世界?)。そこにおいて、局所は全域と一致し、未来と過去が連続する。
 中世の聖書写字生は「文字どおりに書き取るべし」という心理的プレッシャーのもとにあった(236頁)。それは、実は聖なる章句の文字どおりの 伝承(過去から未来へ)のためではなく、むしろ避けがたい「異本化」を通じて、来るべき啓示の「復元」(未来から過去へ)をめざすための戒律だっ たのかもしれない。
 また、著者は「ネットワーク」の例として、ウィトゲンシュタインの「原稿の系譜」挙げている(238頁,240頁)。「ゲノム的不連続構造」 (鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』15頁)をもつウィトゲンシュタインのテキストは、世界の実相、というより世界の論理を象ってい たのかもしれない。

 パースは『連続性の哲学』(伊藤邦武編訳,岩波文庫)で書いている。

《したがって、われわれの仮説は次のようになる。時間とは、論理そのものが客観的な直観にたいしてそれ自身の姿を現す形式のことであると。そし て、現在という時点が非連続性をもつということの意味は、まさにその時点において、第一者からは論理的に派生できない、新しい前提が導入されると いうことである。》(170頁)

《ところで、われわれが何かを理解しようと試みるとき──何かを探求しようとするとき、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論理 と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前提されている。少なくともわれわれは、そのようになっていてほしいとい う希望をもっている。
 本当のところ宇宙の論理は、われわれ人間が主観的に採用している論理よりも未熟で、その萌芽的な形態に過ぎないという可能性もある。このような 想定もたしかに、文明のある段階においては吟味に値する重要な想定である。(略)この想定に賛成したり反対する理由がどれだけ思い浮かぶにして も、現代において試してみるべき想定は、むしろ逆に、宇宙の論理とは、われわれがすでに獲得している論理ではなく、これからその高みへと至ること を鼓舞されるようなより高次なものだ、という想定のほうである。》(254頁)