内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(2006.8)
★8月2日(水):考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(1)
内田樹著『私家版・ユダヤ文化論』の高級漫談(話術)の鮮やかさと理路(ロジック)の冴えは、ふやけきった脳髄にびんびんと刺激を送り込んでく
れた。
それにしてもこの書物は難解である。圧巻ともいえる「終章」をロジカル・ハイとともに一気呵成に読み終えて、はて、私はこの本を読み終えること
でいったい何を得たのだろうか、その点がはなはだ心許なく、曖昧で要領を得ないのである。通読によって得た個々の知識や知見や創見を一つ一つ数え
上げることはたやすいし、それらはいずれも平明でわかりやすく、かつ内田節が冴え渡った刺激的なものなのだが、しかしそれらを束ね重ねあわせ、か
つ一冊の書物としての結構を踏まえた上で総括して、内田氏はこの本を書くことでほんとうは何を言いたかったのか、を自分なりの言葉で整理し要約し
て語ることができない。
それは私の頭が朦朧としていたからかもしれないが、そうではないような気がする。本書の難解さは、そこで問われている問題そのものの本質に起因
するのかもしれない。
『私家版・ユダヤ文化論』には、これを一冊の書物として、つまりそれぞれの章や節に書かれた事柄を一続きの論述として、一個の物語(理説)とし
て編成し整序する土俵が欠けている。というか、内田氏はそうした土俵(言語と言っていいかもしれない)の起源、あるいはそもそも「考える」とはど
ういう事態だったのかという問題を、もはや想像することすらかなわぬ「考えない」こととの対比で「考える」という不可能事に挑んでいる。
だから本書は、その構成において完璧に破綻している。「ユダヤ人」をめぐる認識論(第一章)と存在論(終章)という位相を異にする論考が、あた
かも前提、結論の関係であるかのように澄まし顔で同居している。その間に「ユダヤ人」という概念とそれへの欲望の近代日本(第二章)、そしてフラ
ンス(第三章)における使用例・発現例が概観されるが、それらはその前後の原理的かつ「古代」的な論考を媒介するものとしてはいかにも弱く、あた
かも通りすがりに紹介された挿話群のように読めてしまう。
まるで異なる書物の異なる章を任意に切り出し、ある(邪悪な?)意図をもってカバラか聖書のように編集したもののようだ。それを内田氏は意図的
にやっている(たぶん)。「私家版」とはそういう意味だったのではないかと思う。
内田氏は「新書版のためのあとがき」に、「私のユダヤ文化論の基本的立場は「ユダヤ人問題について正しく語れるような言語を非ユダヤ人は持って
いない」というものである」(240頁)と書いている。こんな告白を最後の最後になって記すのは実に人が悪い(まあ、丹念に読めば、そういう趣旨
のことは本編にちゃんと書いてある)。
それはともかく、ここで注目したいのは、なぜ「新書版のための」とわざわざ書かれているのかということだ。雑誌連載時に書いた「あとがき」風の
文章(終章の7節「結語」のあとに置かれた8節「ある出会い」)に加えて、といった趣旨なのかもしれないが、そうではない。新書版以外の版が想定
されているからに違いない。それはこれから書かれるものかもしれないし、すでに著されているのかもしれない。あるいは、もう一つの私家版として私
の脳髄の中に巣くっているのかもしれない。
★8月3日(木):考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(2)
実は『私家版・ユダヤ文化論』が刊行される前に、著者と養老孟司の対談を読んでいた。季刊誌『考える人』(2006年夏号)に掲載された「ユダ
ヤ人、言葉の定義、日本人をめぐって」の後編。内田流ユダヤ文化論を養老氏が「唯脳論」にひきつけて読解していく理路が面白かった。
余談だが、この「理路」というのは「理説」や「理法」や「行程」などと並ぶ内田語の一つで、私が見るかぎり、内田樹と養老孟司は現代日本におけ
る「理路の人」の双璧である。
理路とは文字通り「理」が流れゆく「路」のことであって、理が流れるのは理法(自然の摂理)のしからしむることである。たとえそれが無意識的な
ものであれ、人間の欲望などによって歪曲される筋合いのものではない。あるいは、人間個人もしくは社会集団の意識、無意識の欲望によって動かされ
ゆくこと自体が一つの理法であるとするならば、理路は人間の計らいによってどうこうできるものではない、と言うのが正確かもしれない。そのような
理路をたどることによって言語化されたものが理説、その理説が現実社会においてある効果をもたらしていく道筋が行程。
以上は、私の勝手な定義であって、内田氏がそう語っているわけではない。ここで言っておきたかったのは、内田流ユダヤ文化論を養老流脳科学にひ
きつけて論じることは、いま定義した意味での「理路」にもとづくものであって、決して養老孟司の恣意的な理解(理屈)なのではないということだ。
(なぜおまえにそれが判るのかと詰問されても、いや、それもまた理路だからとしか答えようがない。誰も詰問しないか。)
前置きが長くなった。養老流の読解その一は、レヴィナスの「始原の遅れ」をベンジャミン・リベットの実験にひきつけて理解していること。端的に
言ってしまうと、「ユダヤ人とは意識のことだ」と養老孟司は読解しているのである。以下、詳細は省いて、個人的な覚え書きに徹して書いておく。
まず、内田樹がレヴィナス(の理説?)に依って、「ユダヤ人」の本質を「そのつど遅れてその場に登場するもの、常に他人に先手を打たれているも
の」(すでに始まっているゲームに、ルールを教えられないままに投じられている存在者)と定義する。そして、言語活動はまさに「世界に遅れて到来
するもの」(どんな過激な思考も法外な感情も、日本語その他のすでにそこに与えられた言語システムの枠組みの中でやりくりすることでしか表現でき
ない)の典型であって、そういう「遅れ」に自覚的な人にこそイノベーティヴなことはできる。ユダヤ人はそういった「知的習慣」を持つ集団だ。
このあたりのことを、『私家版・ユダヤ文化論』から(少し余分に、切れ端も含めて)拾っておく。
◎「ラカンの言うとおり、「ユダヤ人と非ユダヤ人」という対立は現実的な世界から導き出されたものではない。そうではなくて、「ユダヤ人と非ユダ
ヤ人」という対立の方が「現実の世界に骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化し、人間にとって現実を存在させ」たのである。」(55頁)
◎「私たちはユダヤ人という語がすでにある種のコノタシオンを帯びて流通している世界に、遅れて到着した。そうである限り、私たちはもう「ユダヤ
人という概念がまだ存在しない世界」にいる自分、その自分が見ている風景を想像することができない。その事実の取り返しのつかなさをもう少し真剣
に受け止めてみたいと私は思っている。/私のこの次の問はだからこんなふうに定式化される。/「ユダヤ人という概念がまだ存在しない世界」から
「ユダヤ人がいる世界」への「命がけの跳躍」がなされたとき、世界は何を手に入れたのか?」(56頁)
◎「ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかな
い』という自己緊縛性を不快に感じる感受性」である。(略)イノベーションとは、要するに「そういうこと」ができる人がなしとげるものだ。」
(178頁)
◎「ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向をわたしたちは因習的に「知性的」と呼んでいる」という「驚くべき」
思弁的仮説(182頁)
◎「ユダヤ人はこの「世界」や「歴史」の中で構築されたものではない。むしろ、私たちが「世界」とか「歴史」とか呼んでいるものこそがユダヤ人と
のかかわりを通じて構築されたものではないか」という「めまいのするような仮説」(199頁)
対談で、養老孟司は次のように語っている。
「ぼくは最初に、ユダヤ人論の中の「始原の遅れ」の部分を読んで、意味がよくわかりませんでした。それが、「あれれ」と気づいたのは、その意識の
部分だったんです。意識自身が、「遅れている」と自らの遅れについて認識ができるということに気づいたんです。/ユダヤ人は、よくものを考える人
たちです。つまり、意識という機能を徹底的に使っている。「遅れ」さえも徹底して意識し、それが知性につながっているんです。」
要するに、ユダヤ人とは意識のことである。養老孟司はそう言っている。ためしに、先の『私家版・ユダヤ文化論』からの抜き書きに出てくる「ユダ
ヤ人」を「意識」に(「非ユダヤ人」は「無意識」に?)置き換えて読んでみるといい。筋の通った論述になる。それこそ理路にかなっている。
正確に書くと、ユダヤ人とは自分が意識であることを自覚(意識)している意識である、養老孟司はそう規定している。自分(意識的活動)は脳の産
物だということ、そして自分は脳の実際の活動に対して0.5秒遅れて意識化され言語化される(「後知恵」であり「後だしジャンケン」である)とい
うことを自覚している意識。
「考える人」すなわち「理路の人」は、そういう「意識」を備えている。「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私
でしかない』という自己緊縛性を不快に感じる感受性」を持っている。そこに「時間」と「主体」(と「神」)の問題がからんでくる。話は次の次元に
進む。
★8月4日(金):考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(3)
内田流ユダヤ文化論の養老流唯脳論による読解その二は、「始原の遅れ」(意識のズレ)を視角と聴覚のズレに置き換えること。対談から該当部分を
抜き書きする。
養老「視角というのは、時間を表現するするものを捉えられません。写真を考えたら、そこに時間はない。逆に、聴覚は、時間はとらえられても空間は
とらえられない。その視角と聴覚を統一するのが、意識の働きだろうと考えました。視角と聴覚のズレを埋めるために、時空という概念を発生せざるを
えないのです。自分自身のズレを埋めるために、時空という新しい概念をつくるしかない。自然科学出身のぼくはそこから考えました。」
内田「視角と聴覚の問題こそ、まさにユダヤ教思想の核心なんですよ。」
以下、ユダヤ教の偶像(造形芸術)禁止の話と、その反面においてユダヤ教では信仰の表現は音楽(時間の芸術)に向かったこと、空間的表象形式は
「無時間モデル」であって、そこには「遅れ」が発生する余地はないし、時間(神と人間を隔てる絶対的な時間差)のないところには真の宗教性が生ま
れてこない、云々の議論が続く。
養老「あれ? そうしたら、ユダヤ教徒の中で、目が見えない人はどういう位置づけになるんでしょうか」
内田「うーん、これは困った」
養老「これは、死ぬまでにはとても片付かない問題ですね。だけど、こういう死ぬ前に片付かない問題を抱えることが大切なのだと思いますよ。」
ここから先、一見脱線しているように見えてその実「ユダヤ的知性(というか知性そのもの)の聴覚=時間的本質」にかかわる話が続き、養老孟司に
よる内田樹の(ユダヤ文化論にとどまらず内田樹の思想そのもののあり方、いや内田樹という意識の成り立ちそのものの)読解へと移行する。それは、
レヴィナスと武道をめぐる共通の「マトリクス」にかかわるものだ。以下、まるごと発言を引用する。
養老「普通だったら、レヴィナスは「理屈」を言っているとしか思えないのだけど、武道を体得していく過程で、レヴィナスは「理屈」ではなく「本
音」を言っていると気づいた。レヴィナスの言葉が身体の血肉となっていくことをどこかで悟られたのではないですか?
逆に、それは言葉の持つ恐ろしいほどの力を理解したともいえますね。レヴィナスを本の中で読んで、論理的な「理屈」としてとらえるのではなく、
身体で感覚としてとらえられるようになると、瞬時に言葉がすべてを変えてしまうということがわかってくる。それほどの影響力を持つものだというこ
とがわかる。
近代人は無意識のうちに、言語というものは、「理屈」であって、いつでも論理的な意味を持つと誤解しています。でも、言葉は相手の脳に訴えかけ
るもっと強い力を持っている。言葉は「直達」する力を持っている。」
内田「そうかー。ぼくはレヴィナスと武道をそうやって両立させていたのか(笑)。」
以下、話題は「その人それぞれの「現実」(自分が現在用いている判断枠組み)が脳の中にはある」ことへと転じ、二人の理路の人による対談(自問
自答)が完結する。実のところ、私はこの対談録に『私家版・ユダヤ文化論』より以上の刺激を受け、知的興奮を味わった。その刺激、興奮の実質をい
まここに簡潔明瞭に括ることはできない。それはあくまで「理路」をたどることで得られたものなのであって、無時間的な「理屈」がもたらした刺激や
興奮ではないからだ。
★8月7日(月):考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(4)
余談を一つ。内田樹・養老孟司の対談「ユダヤ人、言葉の定義、日本人をめぐって」(後編)が掲載された『考える人』(2006年夏号)は、「戦
後日本の「考える人」100人100冊」を特集している。そこに大森荘蔵の『新視角新論』がとりあげられていた。選者・評者は養老孟司である。私
はうっかり、唯脳論者と無脳論者は永遠に相容れない宿敵であると勘違いしていたので、ちょっとした驚きだった。
養老孟司はこう書いている。哲学の本を読んで衝撃を受けることは少ない。なぜなら、たいていは「もっともなこと」を述べているからだ。しかし、
大森さんは違う。とんでもないことをいう。科学哲学会で「無脳論」対「唯脳論」という対談をさせていただいた。議論の中身なんて、どうでもよかっ
た。対談させていただくことで、私は大森さんに敬意を表したかった。
「亡くなられる前に、おそらく最後の対談をさせていただいた。そのとき、「先生の作品を読んで、私は禅の十牛図を想起しました」と申し上げた。
「そう思ってもらえば幸いです」と大森さんはいわれた。まさに禅問答というしかない。でもそれでいいのだと思う。哲学を理屈だと思うのは、西欧哲
学に毒されているだけのことではないか。」
哲学は理屈ではないというときの「理屈」は、前回とりあげた養老孟司の発言に出てくるそれと同義である。つまり、身体で感覚としてとらえられる
もの、相手の脳に「直達」する恐ろしいほどの力を持った言葉。それを内田樹のキーワードでいいかえれば「理路」もしくは「理説」ということにな
る。ユダヤ式知性、端的に知性といいかえてもいい。
さらにそれを「意識」といいかえてもいい、というのが先の対談での養老説。ただし、それは内田樹いわく「自分が判断するときに依拠している判断
枠組みそのものを懐疑すること、自分がつねに自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知すること」という「民族誌的奇習」を自らの「標準的
な知的習慣」に登録した意識のことである(『私家版・ユダヤ文化論』180-181頁)。
こううやって書いていると、つくづく大森荘蔵という哲学者の「ユダヤ性」が際だってくる。もう一人の理路の人。
★8月8日(火):考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(5)
余談をもう一つ。郡司-ペギオ-幸夫著『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書)を読んでいて、原理的(というよ
り理路的)には『私家版・ユダヤ文化論』と同じ事柄が論じられているのではないかと思った。
私のいつもの悪い癖で、たまたまその時、同時進行的に読んでいる本の中身を勝手に結びつけてしまう「個人的奇習」がそう思わせているだけのこと
なのかもしれない。あるいは、この本の帯に養老孟司の推薦の辞(「彼の話はむずかしい。でもその本気の思考が、じつに魅力的なのだ」)が印刷され
ていることからの連想にすぎないのかもしれない。誤解なら誤解でも構わない。創造的誤解ということだってあるのだから。
読んでいるといっても、まだほんの入り口あたりを夢うつつで彷徨っているだけのこと。「はじめに」と題されたたかだか10頁に満たない文章を繰
り返し読んでいるうちに、そこで予告されている「マテリアル」という独特の概念の定義が、内田樹のいう「ユダヤ人」という概念と重なって読めてき
た。(正確に書いておくと、郡司のいう「マテリアルの影」が内田の「ユダヤ人」に重なって読めてきた。)
よくは判っていないのだが、郡司-ペギオ-幸夫いうところの「マテリアル」とは、どうやら「存在と認識の不適合」をつくりだし、かつこの不適合
(時間の空間化、あるいは普遍的なものの一般化がもたらすところの論理的矛盾?)を「野生の感覚」(直観)をもって媒介する「何か」であり、かつ
媒介される当のもの、あるいはそうした媒介性という概念そのもの(これもよくは判っていないけれども、どこか「コーラ」の概念を思わせるもの)、
と定義できるもののようである。(ちなみに、養老孟司との対談の中で内田樹は「僕も意識活動のズレというか、存在と認識の不適合のうちに知性の起
源があると思っているんです」と語っていた。)
マテリアル(物自体)を人間の知性でもって十全に認識することはできない。人間の意識のうちに表現(表象)される「モノ」は、必ずその「外部」
(そのもの性、その「モノ」が身体である場合は「こころ」)をはらんでいる。その「外部」は認識することはできないが、「認識ではないある種の直
観、感覚」を通して感得される。それは通常「リアリティー」と名づけられている。郡司氏はそれを「マテリアルの影」と呼ぶ。
◎「一方で認識とその外部の分離を可能とし、他方その区別を無効にするがゆえに両者を媒介できる。この二つが、マテリアルにおいてつながってい
る。わたしが示すマテリアルとは、そういった概念であり、そのような逆説を通して、マテリアルが構成されることになります。」(6頁)
ここから先の郡司氏の議論を「理屈」として理解しようとすると、何が言いたいのかまるで判らなくなる。そこに書かれていること自体(日本語で書
かれた「モノ」としての文章)はもちろん文字通りに受け止めることはできるのだが、その「こころ」がなかなか「直達」してこないのである。
郡司氏は書いている。「生命・意識とは何か」という問題は、生命や意識がそれを問いただす「私」に直接関与する概念だから、むしろより直接的に
「私の生命・意識とは何か」という形で問いただすほうがしっくりくる。「ところが、わたしは、私という一人称を前面に押し出すことに面映さ、ある
種の恥ずかしさを感じます。(略)この面映さや、躊躇を伴わざるを得ないという様相が、生命や、意識という問題の核心をなしている。私はそう思っ
ています。」(7頁)
ここに出てくる「わたし」と「私」の言葉の使い分けの首尾一貫性のなさがとても興味深いけれども、それは単なる誤植にすぎないのかもしれないの
で、この点は素通りする。続けて郡司氏は書いている。
◎「「私だけではない。他者は、世界は、実在する」このような感覚が、我がこととして血肉となること。他者、世界を実感すること。」(7頁)
◎「原理的に世界の中心にいることしかできず、その意味で特権的でありながら、同時に、自分の自由にならない世界内にあって、これを受け入れるし
かない。意識は能動的でありながら、世界の内側に置かれてしまっているという受動性を併せ持つ。私の、という一人称が面映いのは、あたかも、私の
存在の引き受ける受動性を無視し、窺い知れない世界との接触に関するリアリティーに、まったく言及していないように思えるからでしょう。いや、む
しろ、リアリティーというものを感じ、理解することの困難さに留意しない、感受性の欠如に、しっくりこない感じを抱くのかもしれません。
すると、この面映さ、一人称を強調する気恥ずかしさの感覚は、世界内存在という存在形態を直観するもの、ではないでしょうか。世界・内・存在
は、世界に対する私の能動性と、世界に生かされる受動的な私の齟齬と動的調停を示唆する意味で、生命や意識の核心を成します。面映さが直観するも
のは、これなのです。」(8-9頁)
◎「世界から受ける受動的な刺激と、私が能動的に創り上げる表象。この二項対立は、モノと言葉、トークン(個物)とタイプ(類)、世界と観測者の
対立です。」(10頁)
ここで私は躓く。モノとこころ、モノとその外部、表現とその外部、これらの二項対立(先に私はそれを、内田樹の言葉を借用して「存在と認識の不
適合」=脳活動と意識活動の間のズレと同類視した)と、いま出てきた「モノと言葉」以下の二項対立との関係がよく判らなくなる。郡司氏が使う「モ
ノ」という語の意義が、というよりその「モノ」が置かれている場面、立ち位置がまるで異なっているのではないかと思うのだ。
モノとこころ。モノと言葉。どちらの二項対立も、マテリアルすなわち「通約不可能でありながら調停される関係にある媒介性」(11頁)によって
動的に調停=媒介され、「二つが共立するということ、両者が場合によっては矛盾するにもかかわらず同時にそこにある、という様相」(同)がもたら
されるというのだから、理路としては同じものである。だから、こころと対比されるモノと、言葉と対比されるモノは、同じ「モノ」でも意味が違う。
前者のモノは認識の対象(「私」が能動的に創り上げる表象)だが、後者のモノは外部=世界=存在にかかわるリアリティー(受動的な刺激=マテリア
ルの影=野生の感覚によって感得されるもの)のことだ。
このあたりの言葉の使い方の一貫性のなさは、実は意図的なのではないかと私は勘ぐっている。言葉の意味の動的な変転。そうだとすると、同じよう
なことが今度は「言葉と記号」といった二項対立のうちに反復されて、そこでは「言葉」はリアリティーの影を纏うことになる(ユダヤの神秘思想のよ
うに?)。そしてさらに「記号とX」云々と続く。
話がすっかり横へそれてしまった。本題を見失いかけている。私がここに記録しておきたかったことは、郡司-ペギオ-幸夫のいう「一人称を強調す
る気恥ずかしさ、面映さの感覚」と内田樹がいう「ユダヤ的知性(端的に知性そのものの)」とはオーバーラップしているのではないか、ということ
だ。なぜ私はそのように考えたのか。そのことを縷々書き連ねるつもりだったのだけれど、今日は気分が乗らない。
※
以上に書いたことと関係があるのかないのかよく判らないのだが、「ユダヤ人とは誰のことか?」と題された『私家版・ユダヤ文化論』の第一章に気
になる記述がある。簡潔に要約するのが面倒なので、いたずらに長くなるけれど全文を抜き書きしておく。文中にラカンの引用が出てきて、その中に
「受動的」態度と「能動的」態度の対表現が出てくるが、気になると書いたのはそのことではない。
《ヨーロッパ世界は歴史のある段階で「ユダヤ人」という概念を手に入れ、その記号によってはじめて分節できたところの前代未聞の意味に出会った。
以後ヨーロッパの人々はさまざまな類カテゴリーを渉猟してきたが、ついに「ユダヤ人」に代わる記号を見つけ出すことができなかった。私はそういう
ふうに考えている。
使える言葉がそれしかないので、(うまく定義できない言葉であることを分かっていながら)仕方なくそれを使うしかない言葉というものが存在す
る。「男と女」がそうであるし、「昼と夜」もそうだ。私たちはその語を毎日のように使っているが、改めて、「昼」そのもの、「夜」そのものを、厳
密に定義せよと言われても、そんなことは誰にもできない。私たちは、「昼」を「夜ではないもの」として、「夜」を「昼ではないもの」として差異化
する因習のうちに抜け出しがたく嵌入しているからである。一度、「昼/夜」という二項対立で世界を分節した言語集団の人々は、それ以後はもう決し
て、「夜抜きの昼」とか「昼抜きの夜」を概念として取り出すことができない。(略)
ジャック・ラカンはこの点について卓見を語っている。
「男とか女とかいうシニフィアンは、受動的態度と能動的態度とか、攻撃的態度と協調的態度といったこととは異なるものです。つまりそのような行動
とは別の次元のことです。そのような行動の背後に間違いなく或るシニフィアンが隠れているのです。このシニフィアンは、どこにも決して完全には具
体化されませんが、『男』、『女』という語の存在の下で最も完全に近い形で具現化されるのです」
ラカンはここで「命名されることで事象は出来する」という構築主義的命題を棒読みしているのではない。すべての言葉は、「隠されたシニフィア
ン」の言い換えだと言っているのである。間違えずに読んで欲しいのは「隠されている」のは「シニフィエ=意味されるもの」ではなく、「シニフィア
ン=意味するもの」だということである。どこかにそれを発見すればすべてのシニフィアンの意味がわかる「究極のシニフィエ」があるわけではない。
私たちが記号の起源を遡及して最後にたどりつくのは、「もうそこにはないものの代理表象」だということである。(略)
ラカンはこう続けている。
「昼と夜、男と女、平和と戦争、こういう対立は他にも幾つでもあげることができます。これらの対立は現実的な世界から導き出されるものではありま
せん。それは現実の世界に骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化し、人間にとって現実を存在させ、その中に人間が自らを再び見出すようにす
る、そういう対立です」
(略)
この[「ユダヤ人と非ユダヤ人」という]二項対立のスキームを構想したことによって、ヨーロッパはそれまで言うことのできなかった何かを言うこ
とができるようになった。けれども、その「何か」は現実界に実体的に存在するものでもない。それはある「隠されたシニフィアン」を言い換えた別の
シニフィアンに他ならない。けれども、「ユダヤ人」というシニフィアンを発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのであ
る。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのであ
る。》(52-55頁)
★8月15日(火):考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(6)
前回、郡司-ペギオ-幸夫著『生きていることの科学』に登場する「マテリアル」の概念に関して、その同義語として「物自体」という(カント由来
の)語彙を使った。郡司氏自身も「モノそれ自体」という言い方で、単なる素材性を超えたマテリアルの特質を説明しているのだから、それほど的をは
ずしてはいないと思う。
「うん、僕が言いたい、モノそれ自体ってそんな感じだね。通常、素材、材料、モノって可能なものにおける現実的制限で、実現可能・不可能の図式そ
のものだよね。実現可能・不可能の区別と独立に存在したり、区別と対峙するような第三項としては決して機能しない。(略──ここで、質料とは「可
能・不可能に対する第三項で、両者の違いを無効にする媒介者」であるといった議論が展開される。)
なんか、質料が実現可能・不可能の区別を無効にする、という過程は、あらかじめ存在してわかっているものじゃない、ってところが重要なんじゃな
いかな。事後において、はじめてわかる。」(27-28頁)
このあたりはどこかベルクソンを思わせる(例の「コップ一杯の砂糖水を作りたいとすれば」云々)。それはともかく、「あらかじめ存在してわかっ
ているものじゃなくて、事後において、はじめてわかる」というところは、途方もなく重要な点だと思う。時間性とか聴覚性とか意識とかユダヤ的知性
とかがまるごとこれに関連してくるのではないかと思う。
が、いまはそのことを詳しく論じている時ではないので、もう一つ、郡司氏の議論がカントを想起させる場面を取り出しておく。といっても、「意識
は能動的でありながら、世界の内側に置かれてしまっているという受動性を併せ持つ」がどこかカントのアンチノミー連想させるという他愛のないもの
で、だからどうということもなく、この話題はこれ以上発展しない。
ここで唐突にカントの名をだしたのは、『私家版・ユダヤ文化論』の議論を池田雄一著『カントの哲学──シニシズムを超えて』にひきつけてみた
かったからだ。たとえば、『判断力批判』をとりあげた第三章の冒頭に、趣味判断が味覚の隠喩にもとづいていることを論じたくだりがある。視角、聴
覚に対して味覚がどういう立ち位置にあるのかということも興味深いが、それはともかく、池田氏は続けて味覚の二重性を論じている。すなわち、味覚
とは「一方で身体的かつ受動的な感覚であり、他方では精神的かつ能動的な感覚だ」(146頁)というのである。
このあたりのことなどを手がかりにして、前回までの話題に接続し、ひいては池田氏が描写するところのカントの世界(世界を美学的に見るときにあ
らわれてくる様相)と「ユダヤ人」の意識世界、レヴィナスの倫理などを比較してみると面白いと思ったのだが、今回もまた気が乗らず、この話題はこ
こで終わる。
※
以前、『カントの哲学』を一気読みして以来、なかなかこの本に「決着」がつけられなくて、心のどこかでずっと気になっていた。けっこう集中し
て、かなりの刺激を受けながら読み進めていたのに、読後、その印象が散漫なものになってしまったのだ。大胆な読解を、批判をおそれることなく繰り
出していながら、最後の最後になってその気迫がしぼんでしまったように思えた。読み手の側の集中、緊張がとぎれて、なにか肝心なところを読み飛ば
してしまったのではないかと気になっていた。
昨日、今日と最初から読みなおしてみて、やはり同じ印象をもった。著者は肝心なことを語っていない。そもそも「それ」を語る言葉などないのかも
しれないが、そうであればこそ、語り得ないという事態そのものにもっと肉薄してもよかったのではないか。しかし、それはもはや「カントの哲学」の
射程外だということかもしれないし、そう思うならおまえがやれと逆襲されそうなので、以下、さきの「印象」のよってきたるところについて書いてみ
る。
カントの三批判書を「仮設に仮設を継ぎたして創られた、まるで九龍城のような建物」あるいは「大地震のあとの廃墟」と譬え、「この建築物の不完
全性には、なにか重大な意味が隠されている」、そしてカントのテキストは「それが何のために書かれているのかわからない書物として読むべきであ
る」と啖呵を切る序文が素晴らしい。
カント哲学のエッセンスを一瞬一瞬に見切っていくこの威勢のよさ、あるいは独学者の覚悟をもってカントを「サクッと」(あとがき)読み通した余
韻がもたらす初々しい息づかいは、本書の要所要所に顔を出して作品のリズムをかたちづくっていく。
また、たとえば同じ序文で映画『マトリックス』を取り上げ、その物語世界とカントの批判哲学との親和性を論じている(「自分たちの住む世界が、
人工的に構造化されている、という世界観はカントからはじまっている」)ように、「映像の時代」(117頁)もしくはヴァーチャルなメディア空間
(80頁)の時代、そしてポスト冷戦期の消費社会を生きる現代資本制下の感受性や欲望、思想や政治の状況に関連づけて、カントを道具として、軽々
と読み囓っていく手際は見事だ。
実際この書物の読みどころは、細部の考察のうちに縫い込まれた潔い断言と、そこに無造作に取り入れられた多彩な素材(おそらくはカントを読んで
いた時に著者がたまたま想起したか、その周辺で目にし耳にした映画や論考や思想書)を部品として、本書のキーワードを使えば「目的なき合目的性」
を意識しながら緻密に組み立てていった論述の鮮やかさにある。
それは哲学書としては当然の作法なのだが、しかしその一方で、それらの細部がたたえる魅力に比して論考全体の印象がずいぶん中途半端なものに見
えてしまうのである。
そこで「主張」されているのは、要するにこういうことだ。カントの批判哲学はシニシズムを帰結する。しかし同時にカントから「シニカルな時代に
おける行動の原理、シニシズムの対抗原理」(98頁)を読みとることが可能だ。その転回は、あたかもプトレマイオスの天動説から「趣味判断」
(「身体を中心とした理性の使用方法」122頁)をもってコペルニクスの体系にシフトするようにしてなされる。このコペルニクス的転回の第二弾を
敢行するための具体的方策は、カントを第三批判書から読み解くことである。世界を美学的に見ることである。
《カントは『判断力批判』のなかで、人体に対しても、それを何に使ったらいいのかわからない道具としてみる必要があると述べている。カントにとっ
て美学的に世界をみるということは、世界を廃物として眺めるということを意味するのだ。このことは、世界を美しい仮象、スペクタクルとして鑑賞す
るということを意味するわけではない。》(序文,17頁)
著者はカントの著書を「廃墟としての建築物」に譬えた。建築物とは「それ自身が世界であるような道具」(191頁)であった。つまり、著者が
言っているのは、カントの三批判書を「美しい仮象」として鑑賞するのではなく、「何に使ったらいいのかわからない道具」として眺めること、具体的
には、カントを第三批判書から読み直すことである。そのことが、「構想力の逆転写」すなわち「対象、その表象から図式、そして悟性的概念へと、判
断が逆流する」(193頁)可能性をひらいていくということである。
本書が全体として中途半端な印象を与えると先に書いた。その印象は、叙述の対象(三批判書)そのものに自ら(シニシズムの対抗原理)を語らせよ
うとする著者の叙述の方法がもたらしたものだろう。批判哲学に対する批判を当の批判哲学自身に敢行させること。実体的なものとして「目的」を語る
ことによって「目的なき合目的性」そのものの生の感触が消失してしまうことをおそれての戦略だったのだろう。
あるいは、カントの三批判書を最後から読み直すことでもってあぶりだされる新しい主体、新しい自由(さらにいえば新しい時間、新しい神)の可能
性とそれを実体的に語ることの不可能性との両面を、叙述の全体でもって示したかったということなのかもしれない。本書末尾の次の文章に心底衝撃を
受けるか、それとも単なる舌足らずなほのめかしと受け止めるかは、読者がそのことを自らの構想力のはたらきでもって確認できたかどうかによる。
《自分の手足を、何かの技術の産物のようなものとして眺めること。それは自己の身体を、解体され廃棄されたサイボーグの身体=部品としてみること
を意味している。自分の、他人の手足が、いったい何のためにあるのか。それらのパーツに、合目的性を見出すこと。それは対象への過度の転移という
事態をも引きおこすだろう。しかしそれはいったい誰への、何への転移だというのか。趣味判断の主体はいったい誰なのか。判断をくだす当人なのか、
それとも彼に憑依した不可視の誰かの意志なのか。カントにとって世界を美学的に見るということは、世界を怪物と化したサイボーグとして注視し、そ
の声にならない機械音に耳を傾けるということだったのではないだろうか。》(第三章「出来損ないのサイボーグ、そして構想力の革命」,195頁)
★8月16日(水):考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(7)
そろそろ「決着」をつけておこう。日々だらしなく書物を読み齧り読み流すなかで、内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』だけは例外的にふやけきった
私の脳髄に刺激を与えてくれた。そこからこの「連載」は始まったのだが、肝心の『私家版・ユダヤ文化論』から話題がどんどん拡散していき、着地点
を見失ってしまった。
この、「無謀な着想」(55頁)や「驚くべき」思弁的仮説(182頁)や「めまいのするような仮説」(199頁)が鏤められた書物を、もう一度
最初から読み直してみるならば、おそらくそこからまた別の「シリーズ」が生まれてくることだろう。
今回、長い「終章」のなかの「結語」と題された一節をあらためて拾い読みして、とりわけそこで紹介されているレヴィナスの特異な思考(ホロコー
スト後の弁神論)を、それがどこまで可能であったかどうかはともかく追思考(追体験)するように熟読してみて、そこに記された「理路」に躓くこと
でしか、私自身の知性は働かず、思考は開始されないのだということをおぼろげながら実感できたような気がする。そして同時に、私の知性といい私の
思考というときの当の「私」は、もはや「ヨーロッパ文明があらゆる体験の基礎にすえていた観照的主体」もしくは「ヨーロッパ・ローカルの思考上の
奇習」(232頁)にすぎないそれではもはやないだろうということも。
さらに言えば、「外国に定住する日本人、日本国籍を持たない日本人、日本語を理解せず日本の伝統文化に愛着を示さない日本人」を「日本のフルメ
ンバー」にカウントする習慣を持たないという、世界のマジョリティと共有する「民族誌的奇習」(14-15頁)、そして「夾雑物なき純良な国民国
家のうちに国民が統合されていることが「国家の自然」であるという日本人の願望(あるいは妄想)」(91頁)のうちにたち現れる「日本人」や「国
民」ではありえないということも。
(昨日とりあげたカント的世界、正確に言えば池田雄一によって切り出された、「理論」ではないひとつの「態度」=生き方を通じて見られる世界の様
相と、ユダヤ的知性、というより知性そのものの起源をとりまいていた世界の実相。この両者の関係が、やはり気になる。)
《そのつどすでに遅れて登場するもの。
この規定がユダヤ人の本質をおそらくはどのような言葉よりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の(と
いうより端的に知性そのものの)起源にあるものなのだ。
この言明と、前節の最後に記した、[反ユダヤ主義者はどうして「特別の憎しみ」をユダヤ人に向けたのか? どうしてそれは「特別の」と言われる
のか? それは]「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していた[から]」という言明の二つを併せて読んで頂ければ、私が本書で言いた
かったことはほぼ尽くされている。》(213頁)
《驚くべきことだが、人間は不正をなしたがゆえに有責であるのではない。人間は不正を犯すより先にすでに不正について有責なのである。レヴィナス
はたしかにそう言っている。
私はこの「アナクロニズム」(順序を反転したかたちで「時間」を意識し、「主体」を構築し、「神」を導出する思考の仕方)のうちにユダヤ人の思
考の根源的な特異性があると考えている。
この逆転のうちに私たち非ユダヤ人は自分には真似のできない種類の知性の運動を感知し、それが私たちのユダヤ人に対する激しい欲望を喚起し、そ
の欲望の激しさを維持するために無意識的な殺意が道具的に要請される。
ユダヤ的思考の特異性と「端的に知性的なもの」、ユダヤ人に対する欲望とユダヤ人に対する憎悪はそういう順番で継起している。》
(217-218頁)
《ユダヤ人の神は「救いのために顕現する」ものではなく、「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」ものであるというねじ
れた論法をもってレヴィナスは「遠き神」についての弁神論を語り終える。神が顕現しないという当の事実が、独力で善を行い、神の支援ぬきで世界に
正義をもたらしうるような人間を神が創造したことを証明している。「神が不在である」という当の事実が「神の遍在」を証明する。この屈折した弁神
論は、フロイトの「トーテム宗教」ときれいに天地が逆転した構造になっている。
勧善懲悪の全能神はまさにその全能性ゆえに人間の邪悪さを免責する。一方、不在の神、遠き神は、人間の理解も共感も絶した遠い境位に踏みとどま
るがゆえに、人間の成熟を促さずにはいない。ここには深い隔絶がある。
この隔絶は「すでに存在するもの」の上に「これから存在するもの」を時系列に沿って積み重ねてゆこうとする思考と、「これから存在させねばなら
ぬもの」を基礎づけるために「いまだ存在したことのないもの」を時間的に遡行して想像的な起点に措定しようとする思考の間に穿たれている。別の言
い方をすれば、「私はこれまでずっとここにいたし、これからもここにいる生得的な権利を有している」と考える人間と、「私は遅れてここにやってき
たので、〈この場所に受け容れられるもの〉であることをその行動を通じて証明してみせなければならない」と考える人間の、アイデンティティの成り
立たせ方の違いのうちに存在している。》(228-229頁)