ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』(2005.10-11)
★10月29日(土)
何度も何度も読みかけては、そのつど何らかの事情によって中断し、結局最後まで読み終えることができない書物がある。その事情がそれぞれのケー
スで異なるのは当然だが、そこに一定の傾向というものはあって、なかでも、それ以上読み進めるとただただそこに書かれ論じられている事柄を丸ごと
無批判に受け入れ、最後には自分の頭で考えるのを放棄してしまいそうになる危険を感じ(要するに、その書物を読みこなすだけの力量や思考の総量が
まだまだ足りないことに気づいて)書物を閉じた場合は、後々までその書物のことが気になって仕方がない。ジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論
──宇宙の意味と表象』は、その最たるものの一つだった。
少し前から中断したままになっていた『パースの生涯』を再び読み始め、やはりこの訳文は日本語になっていない(同じ理由で中断しているジンメル
の『貨幣の哲学』よりはまだましだが)と閉口して、口直しというわけではないがふと『生命記号論』を手にしたら、ついにこれまで何度試みても突破
できなかった全十章中第三章の壁を乗り越えることができた。昨日、東京への日帰り出張の車中で一気に最後まで読み切るつもりだったが、どういうわ
けか体力が続かず今日に持ち越し、残り二章というところで集中が切れた。細部の議論の面白さは絶品だが、その面白さに翻弄されて全体の議論の輪郭
を見失ってしまう。少し頭を冷やして完読は後日を期すことにした。全編読み終えたらもう一度最初からこんどは全体の輪郭を遠望しながら反芻してみ
よう。それにしても面白い本だ。
★11月4日(金)
いくら疲れるといっても『生命記号論』についてはきちんと考えをまとめておかなければいけないと思う。たとえ考えをまとめることはできなくて
も、この書物から受け取ったものをなんとか自分の身から出てきた言葉で反芻しておかなければいけない。
私はこの本を黄色いマーカーをつけながら読み進めていったのだが、ふりかえって見てみるとほとんどの頁が黄色く染まっている。それほどまでに細
部の議論が魅力的だったということで、だからこれまでに何度も繙きながらそのつど過剰な刺激にたえられず、というか自分勝手な思考もしくは空想の
世界に入り込んでしまってそれより先を読み続けられなかった。今回、かなり無理をして(体力的に)最後まで一気に読み切ってみると、予想されたこ
とではあるが、それら細部にちりばめられた話題や知見や引用や比喩や洞察の数々が未消化のまま私の脳髄のそこかしこにわだかまり、跳梁し跋扈して
しだいに内圧を高めていく。それと同時に、ここで論じられていたのは畢竟するに何であったかがしだいに朦朧かつ不分明になっていく。
こういう心理状態を物狂いとでも呼ぶのだろうか。しばらく寝かせ、機をとらえてもう一度読み込む。あるいは座右に常備し、折節随所を拾い読みし
ては読後の興奮を宥めつつ、混沌を身のうちに飼い慣らす。処方箋ははっきりしているのだが、そして今の私の気力と体力と脳力ではそうするしかない
のだが、それでも後の日のために最低限の作業はやっておかなければならないと思う。
「全ては虚空に浮かぶものから始まった」。著者は最終章の末尾(232-233頁)で本書全体を概観している。「まずは、私たちが自然法則と呼
ぶ習慣がそこから生じて来る」。なぜなら、パースの形而上学の要点が示すように自然には習慣化する傾向があるからだ(54頁)。次いで「習慣が生
命の出現をもたらし、生物に固有である予測能力がこの習慣から産まれて来た」。同時に予測間違いも生まれたが、もし間違いが多すぎなければ、生物
は遺伝物質の中のメッセージの形で生き残ることができる。「それは現在の痕跡を未来へと取り込ませることを意味する。やがて、これらの痕跡は撚り
合わされ、ますます洗練の度を増していくような洞察の基盤を形作る、関係のネットワークが生じて来る」。
この記号論的なネットワークのことを著者は「記号圏」と呼ぶ(102頁)。頭脳と感覚器官の出現とともに記号圏は膨らみ、そして「最後に、この
記号圏の真ん中で、完全な自意識を持った人間が出現した」。人間は「この世界に自意識ほど価値を持つものはない」と想像するようになったが、「こ
うした考えやその破壊的な副次効果は全て錯覚である」。なぜなら「私たちが意味を発明したのではない」からだ。「この世界は常に何かを意味してい
るのだ。世界がそれに気づいていないだけで」。
以上のような「要約」を読んだところで、たとえそれが著者自身によるものであったとしても、それでいったい本書の何がわかるというのか。それだ
とまるで砂糖が水に溶けるの待たずに砂糖水を飲むようなものではないか(ベルクソンの引用)。『生命記号論』を理解するためには『生命記号論』を
読まなければならない。小説を「理解」するためには小説を読まなければならないように。もっと精確に言えば、それを生きなければならないように。
小説は読んでいる時間の中にしかない(保坂和志の引用)。というのも、そこで言われる小説とは生命だからだ。小説が生命をもつというのは比喩で
はない。文字通り小説とは生命そのものなのだ。なぜならそこには「記号そのものを担う物質」と「記号によって表現されるもの」と「記号の解読者=
翻訳者」という「パースの一般的な記号の三項関係」(43頁)が成り立っているからだ。
このパースの記号論を踏まえた「生命記号論」は、生命現象そのものの稼働原理であると同時に、生命現象を認識し記述する方法でもある。もっと大
雑把に言ってしまえば、物質と精神、つまり物の秩序・連結と観念の秩序・連結(スピノザの引用)、あるいは行為と認識の双方に通底する存在(生
成)の論理である。
記述すること、認識し理解すること、解読・翻訳し解釈すること。存在(生成)すること、行為すること、生きて死ぬこと。このふたつの推論過程す
なわち「記号過程」が一致する。そのような事態──「自分も描き込まれている地図を描くこと」(西田幾多郎は「自覚に於ける直観と反省」でアメリ
カの哲学者ロイスの言葉を引きつつ、「例えば英国に居て完全なる英国の地図を写すことを企図すると考えて見よ」と、「自覚」において自己を現実化
させる「働き」になぞらえた:檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』92頁)──を著者は見すえている。
松野孝一郎氏は訳者あとがきに書いている。「少なくともこの地球上に出現した生命は現在に至るまでの約三八億年の間、一連の内部記述によって記
述され続けて来た対象であった。ホフマイヤーが本書で明かしたのはこの内部記述の正体である。」
★11月5日(土)
昨日の『生命記号論』からの引用のうち「全ては虚空に浮かぶものから始まった」はこれだけだと何が言いたいのか(後から読み返したときに)判ら
ないと思うので補足しておく。ホフマイヤーがここで念頭においているのは言うまでもなくビッグバンのことだが、これは現実にあった出来事であると
いうより(実際だれかビッグバンを見た人がいるだろうか)むしろ論理的な区別、根源的な原‐分割ともいうべき事態をさしている。すなわち「ない」
と「ある」の分裂。しかし、何もないこと、すなわち完全な虚空を考えるのは困難である。
《全てのものという抽象概念の反対概念としての虚空、すなわち論理的に心の中に描く以外の形では理解できない虚空の内に宇宙の始まりを置こうとす
る宇宙論は、私にとっては得心の行くものではない。もしそれを真剣に受け入れてしまうと、私たちが虚空を思い浮かべる度に、毎回、真新しい宇宙を
持ち出すことになりかねないからである。なぜなら、虚空は心の内にだけあるからである。この考えは実に心を落ち着かせなくする。》(21頁)
この第1章「宇宙の誕生・意味の発生 「なにもない」虚空からそこに浮かぶものへ」の議論は何度読んでも(実際なんど読んだことだろうか)刺激
的で、ウィルデン(よく知らない)やベイトソンやラカンを引用してホフマイヤーが導きだす結論というか議論の出発点は途方もなく魅力的だ。以下、
サワリの部分を加工編集して抜き出す。
「~ない」は境界なのだ。この境界、ベイトソンの用語で言えば差異、は精神的な働きの中にある。その境界は「誰か」が「~ある」を認識しないか
ぎり、この世には存在しない。《そして、この「誰か」が、誰もしくは何であるかを問うことが、まさに本書が投げかける問題である。誰が虚空に浮か
ぶものを作ることができたのか。いつそれは始まったのか。そしてそれは何をもたらしたのか。》(28頁)
しかし、「~ある」と「~ない」、AとAでないものの分割よりもっと奥深い分割がある。すなわち「ある」と「ない」(この「ない」は「~ない」
よりもっと「ない」こと)の分割。
《ウィルデンは、私たちは心の中で考えるときでさえも、AとAでないものの境界を引くことで、現実と非現実をともに含む全世界を二つの部分に分割
している。その境界を設定するという行為は、少なくともAにも非Aにも含まれない一つの系あるいは領域を定義している。/この系こそが「誰か」で
ある。》(29頁)
この「誰か」は少なくとも忘れるという能力の持ち主でなければならない。それが(第1章に勝るとも劣らず刺激的な)第2章「失われるもの、生き
残るもの 忘却の歴史と記号──忘却の弁証法」の話題である。と、この調子で続けていると全編を祖述することになってしまう。別にそうなっても構
わないのだが、ここではビッグバン後七○万年の頃に始まる記号圏の物語を彩る三つの断絶をめぐる文章を引用してお茶を濁しておく。
《このようにして、三つの断絶がもたらされてきた。一つは生体とDNAの間の原理的なもの、二つ目は言語に伴う自己と自己のイメージの間の実存的
な断絶であるが、三番目の個人と社会との間のものは少なくともつかの間は癒されることができる。私たちはこれらの断絶のうち、最初の一つは他の全
ての生物と共有している。それはDNAの形でデジタルで記号化された生体の自己記述に関するものである。この断絶が生命の出現を導き、私たちが博
物学と呼ぶ自然の歴史物語を創り出した。二つ目の断絶は、私たち人間が全て共有するものであるが、他の動物や植物には見られない。それは、私たち
が自己意識を持つ主体であるという事実と関係するものである。この断絶が私たちを文化史と呼ぶ文化の歴史へと導いた。
三番目の断絶は本質的に前の二つとは異なる。同時にこの二つの物語に関与しているという事実から来るものである。なぜなら、自意識を持つ主体と
なることで、私たちは自己本位な文化の迷宮に糸を繰りながら迷い込むこととなってしまった。そこでは肉体が残すねばねばしたカタツムリの這い跡の
ような痕跡はいとも容易に見失われてしまう。
第三の断絶に対する治癒も、共感に対して真摯に耳を傾けることからもたらされると期待される。ここで必要なのは、人間同士の共感だけではない。
地球に存在する生物全てへの共感である。私たちの祖先は模倣文化から石器文化へと至る境界のどこかで、自分を他者の心理の論理に従わせる方法を学
ぶのに成功したに違いないと、これまでに述べてきた。心理の論理という言葉を、私はできごとや話を支配する物語の論理の意味で使ってきた。だか
ら、私たちの先祖は、他の人間が占めていると思われるのと同じ物語、心理、関係を理解する術を獲得した。》(214-215頁)
この文章だけでは第二番目の断絶(「経験の持つアナログの本性と言語の持つデジタルな本性の乖離」180頁)の中身がよく判らないと思うので、
もう一つだけ抜き書きしておく。
《その時[ホモ=エレクトゥスの心のスクリーンに宇宙から切り離された孤独な存在としての自己の姿が浮かび上がってきた時]、世界に存在する事物
を分割する線、「~ない」の基礎となるものが効力を発揮し始めたに違いない。それは、AとAでないものを区別できる「誰か」がカテゴリーの間の線
引きを行うということ、そしてその言語を操る彼らもまたその「誰か」であり、それゆえ相いれないもの、世界の外にあるものであるという事実の認識
を迫ることになる。なぜなら、世界の内部にいるためには、「誰か」は「誰か」であることを止めなければならないのだから。
そしてこのことが、会話の発達をもたらす動機づけであることを、私たちに示すものだと私は信じている。(略)言語を持たない生物が自分自身の限
られた環世界を頼りに生きるしかないのに対し、会話によって世界は象徴的に作り上げられた共有の居住場所となった。そして私たちの祖先が世界の神
話を創るとき、彼らの周囲の世界を過度に捕まえたのである。ここに言語が立ち現れ、自走しだした。》(181-182頁)
ホフマイヤーの虚空をめぐる議論を読みながら、しきりとヘーゲルを想起していた。『大論理学』の最初に出てくる「有」は概念にまで成長するはる
か以前の朧気なもので、それはあくまで「無」と背中合わせのものである。あると思えばそこになく、ないと思えばそこにある。アウグスティヌスが
『告白』(11巻14章)に綴った時間のようなものだ。「では時間とはいったい何でしょう。だれも私にそれをだずねないなら、私にはそれがわかっ
ています。たずねられ説明しようと思うと、わからなくなるのです。」(山田晶訳)
それが「有論」「本質論」「概念論」とつづく艱難辛苦と波瀾万丈の長旅を経て、強い内圧と濃度をもった概念に成長する。そしてついに種子がはじ
けて飛び散るように存在物を撒き散らし、『自然哲学』の圏域が産まれる。つまりビッグバン!(『生命記号論』にヘーゲルの影を見るのはけっして根
拠のないことではない。ホフマイヤーが準拠するパースのうちにヘーゲルは濃い影を落としているからだ。)
★11月8日(火)
『生命記号論』をめぐって先週書き残した話題を続ける。本書を読みながら、しきりに養老孟司『人間科学』を想起していた。(そういえば『人間科
学』を読み終えたときも『生命記号論』の場合と同じ物狂おしい気持ちになったものだった。「養老孟司とはいつか決着をつけなければ」と威勢のいい
言葉で始まる書きかけのファイルが今でもパソコンのデスクトップに置いてある。)
たとえば、養老孟司は「細胞‐遺伝子」と「脳(社会)‐言葉」の二つの情報系を比較しながら、細胞と脳をひとまとめにして情報の翻訳・複製装置
を含んだ「システム」と定義し、遺伝子と言葉という「情報(より正確には記号)」と対置させている。
《さてこのように定義したときのシステムと、情報の違いはなにか。じつはシステムは生きて動いているが、情報は固定している。そこがいちばんはっ
きりした違いである。細胞は生きて動いているから、おそらく二度と同じ状態をとることはない。脳あるいは脳を含む個体も、まったく同じである。脳
は二度と同じ状態をとらない。》(『人間科学』37-38頁)
これとほぼ同様の議論がジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』に出てくる。ニワトリが先か、タマゴが先か。「DNAは生体のデジタル化され
た自己記述である」のか、むしろ「生体の方がDNAのアナログ化された自己記述と見なされるべき」なのか。現在の知識ではこの二つの可能性のいず
れも排除することができない。
《…私の理解では、生体とそのデジタル記号の両方が揃うことによって初めて、「自己」すなわち生命が存在できるようになった、となる。なぜなら、
もしDNAがそれ自身のコピーに過ぎなかったなら、DNAの「メッセージ」は何の意味も持たず空虚なものであろう。逆に、もしDNAにその増殖が
保証されていなければ、生体のメッセージについて語るべきものは何もない。カテゴリーと感覚認識についてのこの有名なねじれ現象はカントに負う。
人はこれをカント哲学の問題と見るかもしれないが、私はそうではない。同じ問題が生き物一般の内にも認められる。/生命はこのデジタルとアナログ
の二つの形に託されたメッセージの間の記号論的相互作用に依っている。言い換えるならそれは記号双対性とも言うべきものである。生物の中ではこの
二つの形態が互いに融合する。これこそが「自己」である。人間における自己が肉体と精神とから成るように、「生物学的自己」は原形質とDNAの両
方から成る。》(『生命記号論』78-79頁)
このほかにも「科学は何であれ、多かれ少なかれ、その科学に固有な現実を持つ」(14頁)という指摘や第6章「自己の定義」での免疫系をめぐる
議論など、養老人間科学との接点はいたるところに見つけることができる。そもそも本書を購入したきっかけは、有限会社養老研究所主催の第1回養老
孟司シンポジウムの記録を収めた『脳と生命と心』に四冊の必読本の一つとして掲げられていたのを見たからだった(たぶん)。だから養老孟司と『生
命記号論』はもともと縁が深い。(他の必読本は茂木健一郎『脳とクオリア』と計見一雄『脳と人間』とラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』。これで
ようやく三冊目を読了したわけだ。ちなみに第2回養老孟司シンポジウムでの講演をまとめたのが野矢茂樹『同一性・変化・時間』)。
★11月9日(水)
くどいが『生命記号論』の話題。この本の抜き書きをやり始めたら止まらなくなりそうなので、一つに限定しておく。第9章「意識の統一 意識 脳
の中の肉体の統治者」で神経生物学者ガザニガが引用されている。「私たちの脳は、多くの知的システムが連邦と考えてよいようなものの中で共存する
組織である。」(189頁)「人間の心は心理学的性質よりも社会学的性質を強く持っている。」(192頁)
ホフマイヤーは、「もし私たちがガザニガを信じようとすれば、私たちの内部には場合によっては何千もの独立した脳のモジュール(考えるものの集
団でもよいが)が働いていることになるが、それではどうして私たちは自分の意識を統一された一つの総体として感じることができるのであろうか」と
疑問を提出し、自ら回答している。
《これへの明白な解答は、こうした脳のモジュールもしくは考える集団の成員全てが共同して働いており、一つの同じ身体と相互作用しているためであ
る、とするものだ。肉体はいつでも一つの現実の命、一つの真実の物語に包まれている。私が言わんとしているのは、意識が神経学的現象だとしても、
その単一性は肉体の持つ歴史的な一体性から生じているということである。意識とは脳内に座す肉体の統治者である。
何が起きているかというと、人間の生活のそれぞれの瞬間において、身体は、それまでの人生に根ざした物語、更にはその瞬間にも当の個人を含む物
語に即して、周囲の状況の解釈に影響を与える。この解釈のことを、私たちは意識と感じているのである。》(193頁)
ここに「記号を表すもの=環世界」「その対象=意識」「記号の解読者=身体」という三項関係が成り立っている。すなわち「意識とは肉体によるそ
の環世界の解釈である」(195頁)。
このことに関連して(いるのかどうかよく判らないが)、大澤真幸の『思想のケミストリー』に収められた「巫女の視点に立つこと」を想起した。馬
頭観音像で遊ぶ子供を咎めた別当が病んだ。巫女に聞いたところ、観音様が子供らと楽しく遊んでいたのをお節介したのが気にさわったというので、詫
び言をしてやっと病気がよくなった。この『遠野物語』に採録された説話を素材として、大澤真幸は、社会学をすることは共同体の中にあって巫女の視
点に立つことであると言う。
別当の病は、身体・行為の水準(観音様も楽しく遊びたいはずだ)と言語・意識の水準(観音像=超越性を粗末にしてはならない)の不一致を示す現
象である。「〈社会学する〉ということは、つまり社会的な秩序を結節する経験の構成を認識するということは、まさにこの[マルクスの]「人々はこ
れを意識しないが、しかし、これを行う」と言われるときのその行っていることを見ることにほかならない。」(246頁)
大澤真幸の議論はまだつづくがこのあたりで止める。『生命記号論』とどう関連している(と私は思った)のかよく判らなくなった。松野孝一郎の訳
者あとがき「記述の限界とそれへの開き直り」に出てくる「内部記述」に結びつけて何か考えたかったのだろうと思うが、これはまた別の機会に。
★11月13日(日)
前後の脈絡は省くが、『生命記号論』に「物語の論理」(215頁)という言葉がでてくる。これを読んだとき、物語(の論理)とは音楽のことを
言っているのではないかと考えた。物語とは音楽のことである。音楽とは記号過程である。これだけだと何を言いたいのかまるで判らない。実際、閃い
た(というほどのことかどうか)のはもう十日も前のことなので、当の本人にとっても何のことやら曖昧模糊・意味不明になっている。
同時に、物語=音楽=意識といった連想(たぶん木村敏がしばしばとりあげる合奏の比喩の影響)も働いていたように記憶しているし、臨床とは輪唱
であるといった使い道のない命題(たぶん森岡正芳『うつし
臨床の詩学』の影響)も浮かんでいたのだが、それも今となっては不分明・不鮮明だ。幸い(というほどのことかどうか)簡単なメモを残していたので、それを
頼りに『生命記号論』の関連箇所から素材を抜きだしておく。いずれも比喩にすぎないと言ってしまえばそれまでのことだが。
・指揮者のいないマタイ受難曲──あるいは発生は発声である
《本書の初めの方で、私はDNAの暗号を料理の本に書かれたレシピにたとえた。だが、もっと適切な比喩は大編成の合唱曲の譜面に見ることができ
る。胚発生は実際、同時に遺伝子を読み上げる、多数の「声」によって遂行される。ここの発声を互いに調整し、全体を合唱の形に統一させるのがこの
発生過程である。そうであるからこそ、遺伝子の解釈に荘重さが現れて来る。
胚発生では、個々の組織は正確に調律されており、組織間の統合は絶妙な協調効果によってもたらされる。要するに、個体発生過程において、指揮者
に当たるものは見つからない。個々の「歌手」あるいは「演奏家」は組織ごとに、私たちがまだおぼろげにしか分かっていない相互伝達過程を通して、
その全体調整を行う。いずれにしろ、ゲノム(遺伝物質の総体)はただの譜面にすぎず、どうひいき目に見ても指揮者にたとえられはしない。いずれに
せよ、それは指をぱちんとならしただけで全てが調整されるようにはなっていない。聖マタイの情熱(Saint Matthew
Passion)の合唱演奏の場面を思い出していただきたい。》(76-77頁)
・意識は物語である・意識は記号過程である
《私の示唆するものは、脳のモジュールと身体の間に私たちの身体の機能を一秒ごとに面倒を見ている記号過程のループと全く同じものが、意識的な統
一の中にも入り込み、私たちの環世界の断片を意識に換える際の選択過程を担っているということだ。(略)意識の一定の流れを作り出すことで、ある
いは身体が私たちの環世界を解釈すると言うことによって、私は当然、身体は一つの群れ集まった実体、記号過程を行う身体‐脳システムの全体である
と考えている。私たちが私たちの身体で考えているという事実は、意識(そして言語)は物語でなければならないことを意味する。肉体の活動、あるい
はそれと等価な基本行動が、私たちの知性や意識の源泉なのである。
そこで私は意識を純粋に記号過程による関係として見ることを提案する。意識とは身体の実存的環世界を、肉体が空間的物語的に解釈したものであ
る。
しかし、もし意識をこのように想像上の物語として精神空間の内に配され、そこで意味のある繋がりが為され、絶え間ない自己言及によって構成され
るものであると見なすなら、この意識はどうやって私たちの思考や行動に影響を与えることができるのだろうか。答えは簡単だ。意識はいわばオン、オ
フの切り替えをするスイッチとして働くのだ。》(195-196頁)
・意識のキーボード・神経ペプチドの音色
《内なる記号圏におけるコミュニケーションの手段のうち最も興味深いものは…神経ペプチドである。人間の知性が集団からもたらされるとするこの議
論の結論を述べるうえでの例として、神経ペプチドについてみていこうと思う。簡単に言うと、神経ペプチドは小さなシグナル分子で、それと結合する
レセプターを持った細胞によって認識されるが、この種のレセプターは身体‐脳全体を通じてたくさん存在し、それが脳と免疫系を統合するインフォ
メーション伝達のネットワーク、精神身体ネットワークの基礎を作る。
もし私たちがここで、脳が意識のキーボードの旋律を常に監視し、身体や脳の特定の腺や部分にメッセージとして伝えられるオン/オフの指令のパ
ターンを解釈していると想像すると、神経ペプチドはこれらの指令を履行するためにデザインされた多くの楽器のうちの一つと見ることができる。例え
ばこれは、体内の特定の部分における、神経ペプチドそのものの量(ボリューム)とそれとは異なった種類の神経ペプチドの種間関係に変更をもたらす
ことになる。 …アメリカの生化学者ルフはこの身体の神経ペプチドへの備えに対し、「神経ペプチドの音色」という表現を使い、ある考えを展開し
た。神経ペプチドは個人の気分や感情的な状態を決定するのに部分的な役割を持つと考えられているので、生化学的なレベルにおける特定の精神状態は
身体‐脳における特定の神経ペプチドの音色に関連していると認めうる、というのがその骨子である。
このことから意識、神経系、神経ペプチドの音色の間の関係は…[「記号を表すもの=意識」「その対象=神経ペプチドの音色」「記号の解読者=神
経系」という]…三項関係を伴う記号として描くことができる。》(201-202頁)