「『1Q84』と『ベンヤミンと精神分析』」(2009.06-07)



★6月21日(日):『1Q84』と大長編ドラえもん

 昨日、村上春樹の『1Q84』と三原弟平著『ベンヤミンと精神分析──ボードレ-ルからラカンへ』をほぼ同時に読み終えた。

 『1Q84』は、途中から「これは大長編ドラえもんの世界じゃないか」という思いがつきまとい始め、それはとうとう最後まで離れなかった。
 息子が小さい頃、何度か映画館に足を運び、結構はまった。漫画本もすべて買い揃えた。
 ドラえもんは短篇と長編でまるで違う。短篇は、いくつかのアイデア(ひみつ道具)とシチュエーションとキャラクターのどれか一つを使えばそれで 話が一つ仕上がるが、長編の方はそうはいかない。物語の結構をつけるために、大掛かりな空間と時間の錯綜と確固たる観念(テーマ)が要る。つま り、パラレル・ワールドと冒険と友情の物語。
 『1Q84』を読みながら想起したのは「ドラえもん のび太の魔界大冒険」だった。のび太が「もしもボックス」で創りだした魔法の世界(それは地球外惑星にある)が現実の世界に侵入してくる。魔界の地球侵 略。フィクションの世界とリアルな世界とのパラレル・ワールド。
 のび太、ドラえもん、しずか、スネ夫、ジャイアンの5人(4人と1匹)が勇士となって、魔界の王デマオンと戦う。デマオンを倒す唯一の方法は、 その心臓に銀のダーツを撃ち込むことだ。

 『1Q84』には最後まで明かされない謎がいくつかある。(だから何人かの評者が続編の可能性を示唆している。私もその可能性はあると思う。あ るとすれば、それはおそらく「BOOK4〈1月─3月〉」までの四部作になるのではないか。もちろん「BOOK2」で終わっているのだとしても、 それで何の問題もない。)
 その謎の一つが、天吾が書いている小説の内容である。実はそれこそが、奇数章で進行する青豆の物語なのではないか。私はそう思ったのだ。
 青豆は、首都高速道路の緊急避難用非常階段(どこでもドア)を降りて、「1984年」の世界から「1Q84年」の世界に入っていった。その世界 は(フェイクならぬ)フィクションの世界で、天吾が書いている小説(それは、さとえりが紡ぎ天吾が文章化した「空気さなぎ」に触発された作品で、 いずれ『1Q84』という題名を与えられるはずだ)の中だった。
 そして、偶数章で進行する天吾の世界では、「空気さなぎ」というフィクションが現実世界に侵入し始めていた。その(「空気さなぎ」の)世界を印 づけるのが黄色と緑の大小ふたつの月で、その「しるし」は青豆が(天吾によって)引き入れられたフィクションの世界にも出現する。
 「1Q84年」の世界で青豆は死ぬが(本当に死んだのかどうかは、例によって明らかにされない)、偶数章で進行する天吾の現実世界(ただし「空 気さなぎ」というフィクションによって侵食された現実世界)で青豆の分身(たぶん分身ではなく実体)が出現する。
 そのような錯綜したかたちで、『1Q84』のパラレル・ワールドは相互接触する。
 「BOOK2」の第13章で、勇士(=青豆)と大魔王(=さとえりの父にして「さきがけ」の教祖)は、「1984年」と「1Q84年」の関係に ついて語り合う。青豆が、それは「パラレル・ワールドのようなもの?」と問う。「君はどうやらサイエンス・フィクションを読みすぎているようだ」 と男は笑う。

「いや、違う。ここはパラレル・ワールドなんかじゃない。あちらに1984年があって、こちらに枝分かれした1Q84年があり、それらが並列的に 進行しているというようなことじゃないんだ。1984年はもう‘どこ’にも存在しない。君にとっても、わたしにとっても、今となっては時間といえ ばこの1Q84年のほかには存在しない」
「私たちはその時間性に‘入り込んで’しまった」
「そのとおり。我々はここに入り込んでしまった。あるいは時間性が我々の内側に入り込んでしまった。そしてわたしが理解する限り、ドアは一方にし か開かない。帰り道はない」
  (中略)
「あなたの言っていることは厳正な事実なのですか、それともただの仮説なのですか?」
「良い質問だ。しかしそのふたつを見分けるのは至難の業だ。ほら、古い唄の文句にあるだろう。Without your love, it's a honkey-tonk parade」、男はメロディーを小さく口ずさんだ。「君の愛がなければ、それはただの安物芝居に過ぎない。この唄は知っているかな?」
「『イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン』」
「そう、1984年も1Q84年も、原理的には同じ成り立ちのものだ。君が世界を信じなければ、またそこに愛がなければ、すべてはまがい物に過ぎ ない。どちらの世界にあっても、どのような世界にあっても、仮説と事実とを隔てる線はおおかたの場合目には映らない。その線は心の目で見るしかな い」
  (中略)
「いずれにせよ、‘何らかの意思’によって私はこの1Q84年の世界に運び込まれた」と青豆は言った。「私自身の意思ではないものによって」
「そのとおりだ。君の乗った列車はポイントを切り替えられたことによって、この世界に運び込まれてきた」

 ここで男が言う「列車」とはDNAの配列のことで、DNA配列の組み替えによって生み出されるのはクローン人間のことだ。そして、クローン人間 とは小説家によって紡ぎ出された物語世界の登場人物のメタファーだ。
 小説家が物語を紡ぎ出すように、思想家は思想を、教祖は教義を紡ぎ出し、それらの観念体系が人を(クローン人間のごときフェイクの記憶をもっ た)まがい物にする。(時間性が我々の内側に入り込むように。)観念体系とは「システム」のことであり、その異名が「カルト」である。
 だから、諸悪の根源は小説家であり思想家であり教祖である。もっと根源的には、言語そのものが悪である。
 ただし、そこに愛があれば、世界を信じるという行為があれば、仮説は事実となる。
 ついでに書いておくと、「空気さなぎ」とは(愛なき生殖の媒体となる)空虚な子宮のことで、子宮と月には関係があって、子宮はヒステリー、月は 狂気にそれぞれ関係があって……。
 いや、そういうことを書きたかったわけではない。
 いま引用した箇所で、『1Q84』は『1Q84』それ自体に言及している。
 自己言及的なオートポイエーシス的システムの急所がここに露呈している。
 だから青豆は、(銀のダーツならぬ)アイスピックのように研ぎ澄ました針を、(大魔王の心臓ならぬ)脳髄に刺し、男を「あちら側」に送り込む。
 その時、偶数章の世界では、天吾とふかえりが「お祓い」をする。ふかえりの「空気さなぎ」に向かって、天吾が射精する。

 いや、そういうことを書きたかったわけではない。
 いずれ書くかもしれないけれど、いまここで書いておきたかったことはそういうことではなかった。
 『1Q84』と『ベンヤミンと精神分析』をほぼ同時に読み終えたこと、そしてこの同じ発行日付をもつ二つの書物が、まるで双子のように、一方が 一方を照らし出していたこと。私はまずそのことにびっくりしたのだ。

★7月11日(土):『1Q84』の四項関係のことなど

 『1Q84』(村上春樹)と『ベンヤミンと精神分析──ボードレ-ルからラカンへ』(三原弟平)が同じ発行日付をもっていて、だからというわけ ではないが、この二つの書物はまるで双子のように一方が一方を照らし出していた。
 前回そこまで書いておきながら、後が続かないままになっている。三原本の再読が思うように進まず(いまだ最終章まで読みきれていない)、そうこ うしているうち読後の印象が拡散してしまった。[*]
 村上本に関する新聞書評の切抜きが相当たまっている。じっくりと読み込み、自分自身の読前読中読後の印象と比較してみたい。「謎解き」ではなく きっちりと「解析」しておきたい。そう考えていた。
 いずれ時が満ちれば作業に取り組むことになるのではないかと思うが、それもまたしだいに億劫になりはじめている。
 先日、書店で『村上春樹の『1Q84』を読み解く』(データ・ハウス)という本をみつけた。村上春樹研究会編。中身は見ていないが、この速さは すごい。
 どんな人が書いているのかネットで検索していて、『村上春樹『1Q84』をどう読むか』(河出書房新社)という本がまもなく刊行されることを 知った。(もう出ているかもしれない。)
 今を代表する論客が、様々な角度から村上春樹の「1Q84」を照射し作品の謎を紐解く。この惹句にいう「論客」には、加藤典洋、内田樹、安藤礼 二といった面々が含まれている。これはいちど読んでみたい。(例の作業は、この本を読んでからにするか。)

[*]このままではほんとうに霧散してしまいそうなので、村上本と三原本を読み終えたばかりの時に書いた文章をペーストしておく。

 『1Q84』が4分の3まできたところで、つまり「BOOK2」の第12章、ふかえりが天吾に(お祓いをするために)「こちらに来てわたしをだ いて」と言うところまで読んだちょうどそのとき、にわかに(今となってはとても偶然と思えないのだが)『1Q84』と同じ発行日付をもつ『ベンヤ ミンと精神分析』が読みたくなり、以後、二冊の書物を同時併行的に読み進め、同じ日のほぼ同じ時刻に相前後して読み終えた。
 『ベンヤミンと精神分析』の第4章に、フロイトが治療に失敗した女性同性愛にかかわる二つの症例を、ラカンが「奇妙な〈愛〉の理論」をもって読 解したセミネールⅣ「対象関係」の議論が紹介されている。そこに(第一の症例でいえば、同性愛者の「娘」とその「父」と「弟」、そして娘がつきま とう「高級娼婦」の)「四項関係」という言葉が出てきて、これが「青豆」と「天吾」と「ふかえり」と「ふかえりの父」の四項関係につながってい る。(ただし「天吾─ふかえり」と「青豆─ふかえりの父」の二つの世界はついに交わることがない。少なくとも「BOOK2」では。)
 しかも、ラカンの「奇妙な〈愛〉の理論」というのが「愛の贈与においては、何かが無償で与えられ、その与えられるものもまた無に他ならず」とい うのだから、これは青豆が天吾に与える愛の贈与のことを言っている。その青豆には同性愛的な関係を封印した親友がいる。そして『ベンヤミンと精神 分析』で、ボードレールにおけるレスビアン=ヒーロー仮説が論じられる。等々。
 そんなふうに、強いて関係をみつけようとするといくらでも二つの書物を関連づけることができる。観点によって見えるものが決まる。そういうわけ で、村上春樹をラカン派の精神分析学で解読する(ついでに、最近関心が高まっているルーマンの社会システム論でもって解読する)という、くだらな いといえばくだらないことを考えている。

★7月12日(日):日本近代文学と数学、横光利一『旅愁』のことなど

 村上春樹の『1Q84』で興味を覚えたことの一つに、偶数章の主人公・天吾は予備校の数学講師で幼少の頃は数学の神童だった、という設定があ る。
 村上文学は生物学、生命科学と相性がいい。なんとなくそう感じていた。(初期の「鼠三部作」の主人公はたしか大学で生物学を専攻していた。)
 だから、村上春樹と数学の取り合わせは新鮮だった。(ただし、そこでの「数学」は、数学には答えがあるが物語にはないといった、「物語」との対 比のためだけに出てくる程度で、作品世界の奥深いところに内在的につながっている印象は希薄だった。)
 まだ読んでいないけれど、小島寛之著『数学で考える』(青土社)に「暗闇の幾何学―数学で読む村上春樹」の章がある。いったいどういうことが書 かれているのかとても興味がある。

 そもそも数学と文学の組み合わせ自体が興味深い。そういう視点で日本近代文学を考えてみるときっと面白いに違いない。
 といっても、夏目漱石の「坊ちゃん」が数学教師で、立原正秋の小説の主人公がフェルマー予想の証明を趣味にしているとか、あるいは、その漱石が 坊ちゃんよりも数学が得意で、立原正秋は小説を書くのにいきづまったら『解析概論』を読んでいた、等々の(片野善一郎著『数学を愛した作家たち』 にでてくるような)エピソードに興味があるわけではない。
 数学の概念と小説の観念とががっぷり四つに組んだ、そのような作品の系譜がありうるのではないかと思うのだ。[*]
(たとえば小川洋子著『博士の愛した数式』はその系譜につらなるのではないか、つまり単に数学者が登場するだけの作品ではないのではないかと思う が、あまり自信がない。それに「坊ちゃん」だって、立原正秋の作品だって、『1Q84』だって、単に数学者や数学愛好家や数学講師が出てくるだけ の作品ではないのかもしれない。)
 これはまだ思いつきの域を出ないが、『光の曼荼羅──日本文学論』(安藤礼二)に取り上げられた作家たち(埴谷雄高、稲垣足穂、武田泰淳、江戸 川乱歩、南方熊楠、中井英夫、折口信夫)の多くは、その系譜に入るのではないかと思う。
 その安藤氏が取り上げていない作家、作品のうちで、もっとも興味深いのは、横光利一の『旅愁』 [http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2246_20011.html]と『微笑』 [http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2149_11036.html]である。
 といっても、これらの作品も未読なのであまりエラそうなことは言えない。直観的にそう思っただけの話で、実証はこれから。
 青木純一氏のブログ「ハトポッポ批評通信」の「横光利一」の項など眺めながら、関心が続くかぎり、おいおい取り組んでいこう。(そうそう、「日 本近代文学と数学」を考えるのなら、横光利一の弟子・森敦のことを忘れてはいけない。)

[*]数学知と文学知の関係はとても妖しい。そこに哲学知や宗教知(や精神分析知や芸術知や技術知や科学知)などがからんでくるともっと妖しい。 数学知と哲学知の関係については、『現代哲学の名著──20世紀の20冊』の序文の扉に記されていたカントの言葉が印象深い。
「さて、すべての理性認識は、概念による認識であるか、概念の構成による認識であるかの、いずれかである。前者は哲学的と呼ばれ、後者は数学的と 呼ばれる。[略]それゆえにひとは、いっさいの(ア・プリオリな)理性の学のうちで、数学だけは学ぶことができるけれども、(それが歴史的なもの でないかぎり)哲学についてはけっして学ぶことはできない。理性にかんしてはせいぜい、哲学するのを学ぶことができるだけなのである。」(カント 『純粋理性批判』第二版八六五頁)
 この論法を拡張して、つまり「概念による認識=哲学知」と「概念の構成による認識=数学知」の二対に、「観念による認識・実践=宗教知」と「観 念の構成による認識・実践=文学知」の二組を重ね合わせて、たとえば「日本近代文学における数学」などといった議論を展開することができるのでは ないか。そんなことを考え始めると眠れなくなる。