「クオリアと言語と記憶と感情」(2008.6)



★6月17日(火):クオリアと言語と記憶と感情(1)

 池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』(朝日出版社)に、ちょっと気になる発言が出てくる。
 ある「単純な意識の実験」(脳波をモニターしながら脳の活動を調べる)によると、運動前野が動き始めて1秒も経ってから「動かそう」という意識 が現われた。(リベットの実験結果はたしか〇・五秒だったと記憶しているが、それはそれとして、とにかく)、「動かそう」と脳が準備を始めてか ら、「動かそう」というクオリア(「「動かそう」と自分では思っている」クオリア)が生まれた。つまり、自由意志は潜在意識の奴隷にすぎない。
 この事実から、クオリアが脳の活動を決めているのではなくて、無意識の脳の神経活動が運動を促し、その一方でクオリア(「動かそう」という意識 や感覚)を生み出している、ということがわかる。
 感情についてもこれと同じことがいえる。もっとも原始的な感情は「恐怖」だが、この恐怖の感情は偏桃体が活動することで生まれる。だが、偏桃体 そのものには感情(クオリア)はない。感情は別経路の大脳皮質で生まれる。偏桃体自体は、危険な行動は避けるという記憶を強固にするはたらきをす る。動物は「こわいから避ける」のではなくて、偏桃体が活動したから避けている。
 ここで使われる「クオリア」の多義性(感覚や感情や自由意志や自己意識その他諸々の感じや思い、つまり意識と同義)もちょっと気になるが、それ は定義の問題だと割り切ることにして、その後につづく箇所にもっと気になる言い方が出てくるので先を急ぐ。

(言葉の定義の問題だと割り切ってしまうのはちょっと気持ちが悪いので、少しだけ補足しておく。
 クオリアの問題がこれほど「一般的」になったのは、私の知るかぎり、茂木健一郎さんの『脳とクオリア』以来ではないかと思う。で、この本がクオ リアをどう定義していたかというと、現物が手元にないので確かなことはいえないが、観察可能な「心理」と現象学的な「意識」とをまず分けて、その 意識をクオリアと志向性の二つの概念でとらえるといった感じだった。
 そこでは感覚的なものにともなう生々しい質感というクオリアの本籍が明確にされていて、たとえば永井均さんのいうメタフィジックな独在性の 〈私〉について言及された箇所では、慎重にクオリアの語は避けられていたと記憶している。茂木さんが『脳とクオリア』以後に書いた本では、クオリ アと志向性に加えて主観性の語で〈私〉の問題を扱っていたと、これもそう記憶している。
 最近の茂木さんがクオリアをどう定義しているかは知らないが、少なくとも「初期」の茂木さんは慎重に対応していたと思う。)

《…おそらく「悲しみ」を感じさせる〈源〉になる神経細胞がきっとあるんだろう。そこが活動すると「涙が出る」という脳部位に情報を送っている。 でも、その涙の経路と「悲しい」というクオリア自体は直接は関係がない。つまり、悲しみのクオリアが涙を誘発しているというのは、ちょっとニュア ンスが違う。悲しみとはクオリアにすぎないんだ。つまり、神経の活動の〈副産物〉でしかない。
 もっと言っちゃおう。クオリアとは〈抽象的なもの〉だよね。「こわい」とか「悲しい」とかって、抽象そのものだ。今日の講義のテーマでもあった けれども、〈抽象的なもの〉は言葉が生み出したものだったね。つまりは、クオリアもまた言葉によって生み出された幻影だってわけだ。
 ここで言う、幻影とは〈実在しない〉って意味じゃないよ。クオリアはたしかに存在する。幻覚や夢と同じ。幻覚や夢は実在するでしょ。夢の存在を 否定する人はいないよね。みんなも見たことあるでしょ。夢という〈視覚〉は脳のなかに存在するんだ。それと同じことで、クオリアも明らかに存在す る。でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ。》(192頁)

 クオリアは脳の活動がつくりだす。それも副産物としてつくりだす。では脳の活動の本務は何かというと、それは運動である。涙が出ることも運動で ある。
 ここまではいい。脳科学者なら当然そう考える。「副産物でしかない」という言い方は少し気になるが、クオリアが生み出されるのは、自由意志とし ての脳に(環境適応)運動への切迫感をもたらし、また運動の記憶の定着へ向けた強度を高めるためなのだ、クオリアの生成を待ついとまがないほど差 し迫った状況では、潜在意識としての脳が勝手に行動を指図し、また記憶を強固にするのだ、といったような説明を補えば、それなりに理解できる。
 でも、後半の議論はかなり気になる。そこでは三つのことがいわれていた。クオリアとは抽象的なものである。抽象的なものは言語が生み出すのだか ら、クオリアも言語によって生み出される。クオリアは言葉によって生み出される幻影・幽霊であるが、幻影・幽霊としてのかぎりで実在する(つま り、幻影・幽霊としてのかぎりでクオリアはその機能を果たす)。
 以下、順次見ていこう。

★6月18日(水):クオリアと言語と記憶と感情(2)

 まず、クオリアが「抽象的なもの」であるという説をめぐって。
 基本的に、というか最終的に、私はこの考えに賛成したい。プロの脳科学者に向かって、市井の一素人が「賛成したい」もあったものではないと思う が、これは十代の理系の中高生を相手にしたゼミでの発言だし、要は言葉の用法の問題なのだから、そこに素人が口をはさむ余地はあるというものだ。
(「十代の理系の中高生を相手にしたゼミでの発言」だから、気軽でいい加減なものだといいたいのではない。そうではなくて、厳密な定義と使用法が 人為的に定められた術語ではない、常識的な語の使用例であるといいたいのだ。)
 基本的に賛成できる理由は、いま述べた「言葉の用法」という点につきる。どういうことかというと、たとえば「私は悲しい」という言葉の中にクオ リアは無い、その意味で悲しみのクオリアは抽象的なものである。
 もう少し丁寧にいうと、私が「悲しい」と思うとき、私にとってその悲しみのクオリアは切実なものとして実在する。それが「クオリアという概念」 の定義である。しかし他人はその(私の)悲しみのクオリアを感じない。つまり他人にとってその(悲しみの)クオリアは端的に無い。これもまた「ク オリアという概念」のうちに含まれている。
 そして、「クオリアという概念」はこの両方の場合を共に含むものとして、いいかえれば他人もまた「私」になりうるという可能性を織り込んだもの として成立する。そういう個々の具体例を離れて成立するもののことを「抽象的なもの」という。
 ここでいう「抽象的なもの」とは実は言葉のことである。つまり、一方に個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物の世界があって(この 「物」には身体が含まれる)、もう一方に物の世界から切り離された言語の世界がある。言葉は物の世界に属していないという意味で抽象的なものであ る。だからクオリアも、それが「クオリアという概念」として語られる場合は抽象的なものである。
 以上が、基本的に賛成できる理由だが、いや、それでも私のクオリアは個別具体のものとして、言葉を超えて実在する(抽象的なものではない)とい う、個別具体の実感に即した主張に対してどう対応するかで、その帰結が分岐する。

 第一の方向。
 あなたが「私のクオリア」と呼ぶものは、たしかに物の世界における個別具体の出来事として実在するのでしょう。私自身のクオリア体験から、確信 をもってそう推測できますよ。でも、あなたのクオリア体験と私のクオリア体験とはまるで違うものですよね。そこには「差異」があります。
 ただしこの差異は、同じ種類の元素の化合物なのにそれぞれの元素の含有割合の違いでまるで質の異なる物質ができるといった、直接観察したり実験 で確かめることのできる共通の土台のようなものの上にある差異ではなくて、そもそも相互に比較できない類の差異です。
 だって、端的にいって私はあなたではないのだから、どう加工してもあなたのクオリアを直接体験できるはずがないでしょう。私のクオリアをあなた が直接体験することもできませんね。そして、直接体験できないものを比較することなんてできません。もちろん科学者にだってできません。(むし ろ、科学者だからこそできないというべきでしょう。)
 これほどまでに違う、本当は「違う」と言葉に出してさえいえないほど異なるものをめぐって、私とあなたがコミュニケーションを図るためには、そ れぞれの「私のクオリア」の個別具体性を言葉という抽象的なものに託すしかないじゃないですか。なぜかしら言葉は、差異性をもった個別具体のもの を抽象的な同一性のうちに移し替える力をもっているのですから。
 では、それでも私のクオリアは個別具体のものとして実在するという、個別具体の「私の実感」の方はどうなるのか、とさらに重ねて問われるかもし れませんね。でも、それは別にどうともなりようがないですよ。ただ、言葉でいくらそう語っても「私の実感」を直接名指すことはできません、と答え るしかないですね。
 あなたがいわれる「私のクオリア」にせよ「私の実感」にせよ、私にはそれらの実在を否定することはできません。そもそも肯定することさえできな いのですから。ただ、それらの言葉を私とのコミュニケーションの場で使われても、私に伝わるのは「抽象的なもの」でしかないですよ。
 もしそういう言葉を(「私のクオリア」や「私の実感」を直接名指すものとして)使いたいのなら、どうか自分のためだけにお使いください。たとえ ば誰にも読ませない「クオリア日記」のようなかたちで。(大切なことは、誰にも読ませないということです。もしも私があなたの「クオリア日記」を 読むと、そこには「抽象的なもの」としてのクオリアや実感しか書かれていないことになってしまいますから。)
 私にいえることは、脳科学者の実験によると、被験者がなにがしかのクオリアを体験しているときに、いやそれにほんのわずか先だって、その人の脳 細胞のある特定の部位が発火していて、それはどうやらすべての人間に共通した物質過程であるらしいということだけです。
 だから、「個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物=身体の世界」において、あなたが「私のクオリア」や「私の実感」と呼んでいる何か が生起しているのであろうことは推測できますが、結局、それらを「私のクオリア」や「私の実感」として直接体験することは私にはできない。言葉に されたそれらは「抽象的なもの」でしかない。同じことをくどくど繰り返して恐縮ですが、やはりこのことは決定的なのではないですか。
 あと一つだけ私にいえることがあります。「私のクオリア」や「私の実感」という言葉は、この私に対してだけは個別具体の体験を直接的に名指して いる。私の「クオリア日記」を私が読むときにかぎり、私はかつての「私のクオリア」や「私の実感」を直接想起することができる。このことの方が もっと決定的ですね。
 ですから、あなたが「私のクオリア」といい「私の実感」というのも、実はもともともこの私が使っていた言葉の模倣なのではありませんか。なぜか しら、この私の使っていた言葉に「差異性をもった個別具体のものを抽象的な同一性のうちに移し替える力」がこもって、あなた方がいま使っている言 葉になったとしか私には思えません。
 クオリアは抽象的なものであるという池谷さんの説に同意はしますが、それはこの私の場合を除いてのことです。だから、この私の「私のクオリア」 が「個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物=身体の世界」において生成することは、言葉では形容できないほど驚異的な出来事なのです よ。(永井均さんがよく使われる言葉でいえば「奇跡的」な出来事です。ただし、永井さんがどうしてこの私についてのみ生じた「奇跡」のことをご存 じなのか、私には不思議ですが。)そうは思いませんか。

 第二の方向。
 いや、それでも私のクオリアは個別具体のものとして実在する(抽象的なものではない)と、君がそう主張したくなる気持ちはよく判る。でも君がい う「私のクオリア」は、君がそう主張したくなるようなものとして言葉がこしらえた抽象物でしかないのだよ。いってみれば言葉が見る(見させる)夢 のようなものだね。
 「悲しみ」という言葉がなければ、そもそも「悲しみのクオリア」をともなった体験が立ち上がることもない。そんなことは実は君だってとうに知っ ているはずだよ。本当のことをいってしまうとね、「個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物=身体の世界」だって、それもまた言語の世界 の中のことでしかないんだよ。なぜかしら言語は、そんな「奇跡」のような力をもったものとして存在している。

 冒頭に書いた、クオリアが抽象的なものであるという考えに「最終的に」賛成したい理由は、そこでいう「抽象的」の意味をどうとらえるかにかかっ ている。
 いままで書いてきたところでは、個別具体的な物の世界と対比させた言語の世界の特質を「抽象的」ととらえた。抽象的なものは言葉が生み出したも のだという池谷さんの説によりそってみたわけだ。
 この意味での「抽象的なもの」とは、「差異性をもった個別具体のものを同一性のうちに移し替える力」をもった概念のことだ。「クオリアという概 念」が抽象的であるのは、言葉の定義からして当然のことだ。
 ただこのような解釈だと、池谷さんの第三の説、「クオリアは言葉によって生み出される幻影・幽霊であるが、幻影・幽霊としてのかぎりで実在す る」の意味がつかみにくくなる。
 クオリアは抽象物だが実在する。池谷さんはそういっている。抽象物は言語の世界に属するのだから、それが実在するということの意味がよくわから ない。実在を云々できるのは個別具体の物の世界のはずだからだ。
 クオリアは言語が制作する抽象物だが実在するという池谷説を合理的に解釈するためには、実在との関係が整合するように「抽象的」の定義を変えな ければいけない。
 そういうことだから、クオリアが抽象的なものであるという池谷さんの第一の説に「最終的に」賛成したい理由については、「抽象的なものは言語が 生み出すのだから、クオリアも言語によって生み出される」という池谷さんの第二の説について考えたあとで述べることにする。
(もしかすると、その段階では、実は「最終的に」賛成できないということに考えが変わっているかもしれないけれど。)

★6月19日(木):クオリアと言語と記憶と感情(3)

 クオリアとは抽象的なものである。抽象的なものは言語が生み出すのだから、クオリアも言語によって生み出される。池谷さんのこの主張は、古典的 な三段論法のっとっている。
 だから正しいといえるためには、そこで使われている言葉の定義が同じでなければならない。その点で怪しいのは「抽象的なもの」という語だ。クオ リアが抽象的なものであるというときと、言語が抽象的なものを生み出すというときとで「抽象的」の意味が違っている可能性がある。
 そうだとすると、クオリアそのものの意味も違ってくるはずだ。クオリアが抽象的だといわれるときと、言語が生み出す抽象的なものの一つがクオリ アだといわれるときとで、同じクオリアという語を使っていながら全然別のものを意味していることになりうる。
 それともう一つ、「抽象的なものは言語が生み出す」という命題は「“すべての”抽象的なものは言語が生み出す」でなければならない。これが「言 語は抽象的なものを生み出す」だったら「“一部の”抽象的なものは言語が生み出す」とも読めることになって、結局この推論は間違っていることにな る。
 私が池谷さんの発言でもっとも気になったのはこのことだった。結論を先にいえば、池谷さんは間違っていると私は考えている。間違っている理由 は、いま述べた点に尽きているが、もう少し丁寧に書いてみる。

 「抽象的」の意味には二つある。その一つは、この語の使用可能領域を言語の世界に限定すること。言葉が生み出すもの、つまり言語的に構成される 概念が(そのすべてが、そしてそれのみが)抽象的なものであるととらえる。そうすると、生(なま)の体験としてのクオリアはこの意味では抽象的で はないが、これを「クオリア」と言葉で言い表したものは抽象的であるということになる。
 ややこしいのは、「生の体験としてのクオリア」もまた言葉でそう言い表したものにほかならないのだから、その意味では抽象的なものであるという ことだ。このことを肯定する場合にかぎって、池谷さんの説は正しい。
(「生の体験としてのクオリアという概念」は抽象的だ。なぜなら概念とは抽象的なものだから。そして抽象的概念はすべて言語的構築物なのだから、 クオリアも言語によって生み出される。池谷さんはそう主張していることになる。これだと言葉の使い方が一貫しているし、筋が通っている。)
 ただしそうなると、「生の体験としてのクオリア」が(言語の世界とは異なる)物=身体の世界に実在していることを、自らの意識において現に生々 しく体験していることの個別具体性を直接的に表現する言葉などないということになる。それで一向に構わない。脳科学者はそう考える。(そう考える 人のことを、そのような思考様式の伝統に棹さす訓練を受けた人のことを自然科学者という。)
 一向に構わないというのは、一つには、客観的に観察できないもの、つまり脳科学者が観察できない主観的な個別具体性を捨象しても世界の描像は不 変である、少なくとも脳科学者にとってはそうだということ、いま一つは、「生の体験としてのクオリア」という概念が(そのような個別具体のものを 直接的に表現する言葉がないということを含めて)ちゃんと成立しているのだから、その実在を「自らの意識において現に生々しく体験していることの 個別具体性」はその概念に託して表現すればよいということ、この二つのことからそういえる。
 でも、それだとあまりに寂しい。人生の実相を科学はつかんでいない。「悲しいから涙が出るのではない、涙が出るから悲しいのだ」と脳科学者は実 験データを示してそう断定するが、ほかならぬこの私のこの「悲しみ」の固有性を科学はどう説明してくれるのか。そう嘆く人も、実は脳科学者と同じ 思考様式の上にいる。
 「生の体験としてのクオリア」が物=身体の世界に個別具体のものとして実在しているかどうか。脳科学が問うのはそのことではない。それはあって もいい。現に「ある」と言葉で報告する人がいる。そのときその人の身体(脳)においてどのような物質過程が生じているか。脳科学はそのことを問題 にする。それを観察・実験して、その結果とそこから得られる結論を言葉で言い表す。それだけのことである。
 これに対して、先ほど脳科学者の思考様式を嘆いた人も、「生の体験としてのクオリア」が現にここに「ある」と報告する人の身体の状況を観察して いる。もちろん脳細胞の活動状態などを観察することはないが、少なくとも身体の振る舞いや顔の表情や言語表現にこめられた切実さや感情の襞のよう なものを観察して、そこに表現された個別具体性をもって「人生の実相」(という概念の実質)を見てとっている。
 脳科学者の場合に話を戻すと、肝心なのは、そのときその人の身体(脳)において生じている物質過程がただその人だけに固有な個別具体のものでは ないということだ。精確にいうと、すべての人に同じ法則のもとで生じている物質過程だけが脳科学の研究対象であるということだ。そして、物質過程 とはそもそもそのようなものなのではないか。もちろん個体差はあるだろう。しかしそれは個体差でしかない。現象としては様々だが原理的には同じ物 質過程なのだ。
 この「現象としては様々だが原理的には同じ物質過程」という点が、言語的に構成された概念の抽象性に通じている。「人生の実相を科学はつかめな い」と嘆く人も、「人生」「実相」「科学」「つかむ」といった概念を使って、その人の人生だけでなく万人の人生に関する言明としてそういってい る。「この私に固有の唯一の生の実相を科学はつかめない」と嘆いてみせても、それもまた万人の「唯一の生」に関する言明でしかない。

 こうした意味での「抽象性」を首尾一貫して使用しているかぎり、池谷さんの主張は正しい。ところが、どうもそうではないようなのだ。
 池谷さんは「クオリアは言葉によって生み出される幻影・幽霊だ」といっている。これは「クオリアは言葉によって生み出される抽象的なものだ」と いう主張と実質的に変わらないはずだ。実質的に変わらないのなら、なぜことさら「幻影」や「夢」や「幽霊」とたたみかけるのか。そしてクオリアの (脳の中での)「実在」を強調するのか。
 それはたぶんこういうことだと思う。池谷さんも「生の体験としてのクオリア」が「自らの意識において現に生々しく体験していることの個別具体 性」を直接的に体験しているからなのだ。もちろんそれらの言葉が表現しているのはすべて抽象的概念だということを承知した上で、その概念では掬い きれない実感のようなものを「幻影」「夢」や「幽霊」と呼んでいるのだ。
(いやそうではないというのなら、「幻影・幽霊」ではなくせめて「錯覚」の語を使うべきだろう。端的に、体験としてのクオリアなど実在しない、実 在すると思うのは言語がそう思わせている「錯覚」だと主張されていたら、その主張は首尾一貫したものになったと思う。)
 だとすると、池谷さんの主張は正しくは次のようなものになる。体験としてのクオリアを〈クオリア〉と、概念としてのクオリアを《クオリア》と表 記していいかえてみよう。(この表記法は永井均オリジナルのものを借用した。)

 〈クオリア〉は個別具体のものだと思われているが、実は〈クオリア〉とは抽象的なものである。ところで抽象的概念は言語が生み出すのだから、 《クオリア》も言語によって生み出される抽象的概念である。

 これは明らかに間違った推論である。〈クオリア〉という体験が抽象的であることと《クオリア》という概念が抽象的であること(言語的構築物であ ること)とは別の話だ。これを同じ「抽象的」の語でつなぐのは間違っている。というより、ここに二度出てくる「抽象的」の意味はそれぞれで違って いる。
 この主張は二つに分けて考えないといけない。私は、基本的に《クオリア》が抽象的であることに賛成できるし、また最終的には〈クオリア〉が抽象 的であることに賛成したい。「最終的に」と限定がつくのは、「抽象的」の二つ目の意味が確定できればという趣旨である。
 それでは、「抽象的」の二つ目の意味とは何か。

★6月20日(金):クオリアと言語と記憶と感情(4)

 これまでのことを振り返っておこう。
 池谷裕二さんが『進化しすぎた脳』に気になることを書いていた。それは次の三つの主張にまとめることができる。

1.クオリアとは抽象的なものである。
2.抽象的なものは言葉が生み出すのだから、クオリアも言葉によって生み出される。
3.クオリアは言葉によって生み出される幻影・夢・幽霊であるが、幻影・夢・幽霊としてのかぎりで実在する。

 第一の主張について、私は、概念としての《クオリア》が抽象的なものであることに基本的に賛成できる。これと同じ理由から第二の主張について も、そこでいわれる「クオリア」が(体験としての〈クオリア〉のことではなく)概念としての《クオリア》であるかぎりにおいて賛成できる。そし て、そのかぎりにおいて第一の主張と第二の主張を三段論法で結びつけることにも賛成できる。そう書いた。
 しかし、そうだとすると第三の主張が浮いてくる。抽象的概念としての《クオリア》は言語の世界において一定の機能を果たす。この当然のことをい うために、なぜ「言葉の幽霊」が「実在」するなどと紛らわしい表現をするのか。
 もう一度池谷さんの発言を丁寧に見ておこう。
 まず「クオリアは神経の活動の副産物でしかない」と池谷さんはいう。これは「自由意志は潜在意識の奴隷にすぎない」の「自由意志」を「クオリ ア」に、「潜在意識」を「神経活動」に言い換えたものだ。
 次に「クオリアとは抽象的なもの」であり、「抽象的なものは言葉が生み出すのだから、クオリアも言葉によって生み出される」という第一、第二の 主張が続き、その結論として「クオリアは言葉によって生み出された幻影だった」といわれる。

《ここで言う、幻影とは〈実在しない〉って意味じゃないよ。クオリアはたしかに存在する。幻覚や夢と同じ。幻覚や夢は実在するでしょ。夢の存在を 否定する人はいないよね。みんなも見たことあるでしょ。夢という〈視覚〉は脳のなかに存在するんだ。それと同じことで、クオリアも明らかに存在す る。でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ。》

 これを読んで私は、なぜ池谷さんはこんな弁解めいたことをいうのかと疑問に思ったのだ。なぜ端的に「クオリアは言葉が生み出す抽象的概念にすぎ ない、体験としてのクオリアなど錯覚にすぎず、端的にいって存在しない」と言い切らないのか。
 たぶん言い切れなかったのだろう。それは池谷さん自身が、概念としての《クオリア》では掬いきれない体験としての〈クオリア〉、実感としての 〈クオリア〉の存在の影にひきずられているからなのだろう。私はそう考えた。
 池谷さんはここで、クオリアという幽霊は夢と同じものだと発言している。そして「夢という視覚」は脳のなかに存在するのだから、クオリアの体験 もまた脳のなかに存在するのだと発言している。
 ところで、言葉もまた脳のなかに存在する。精確にいうと、言葉もまた脳の神経活動の副産物である。池谷さんは明示的にそう語っているわけではな いが、おそらくそのような図式を前提にして語っている。
 そうだとすると、ここで一つの問題が立ち上がる。夢も言葉と同様に脳の神経活動の副産物だろう。しからば、言葉と夢の関係はどう考えればいいの か。池谷さんによると、クオリアは言葉が生み出すものだった。これと同様に夢もまた言葉によって生み出されると考えれば、この問題は解決する。
 しかしその場合、クオリアと夢の関係はどう考えればいいのだろう。この点については、池谷さんの発言を文字通りに受けとめればいい。池谷さんは 「クオリアは夢と同じように存在する」といっている。これは比喩や類比ではなくて、文字通り「同じ」なのだ。夢の体験はクオリア体験の一種であ る。そう考えればいい。
 もっといえば、池谷さんがいう「潜在意識」とは脳内の神経活動のことで、この神経活動から直接生み出されるものが言葉である。この言葉は「自由 意志」の領域ともつながっていて、そして池谷さんがいう「自由意志」とはおよそ意識現象全般のことのようだから、結局、夢を含めてすべての意識現 象は言葉によって生み出される。この「すべての意識現象」のことを池谷さんはクオリア(覚醒感覚)と呼んでいる。こう考えれば、整合性がとれる。 [*]
 しかし、池谷さんがいっているのはそういうことだけではない。「クオリアも明らかに存在する。でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なん だ。」ここでいわれる「喜びや悲しみっていうやつ」は、単なる概念のことではない。
 脳のなかには、言葉が生み出す抽象概念としての《クオリア》だけが存在しているのではない。体験・実感としての〈クオリア〉(喜びや悲しみの実 質)もまた存在している。ただしそれは言葉の幽霊として、あくまで「言葉のなかに」存在している。
 池谷さんはそういっている。「でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ」の「でも」は、池谷さんの発言の文脈や本来の趣旨を離れて、 「それでも〈クオリア〉は実在する」の「それでも」のニュアンスを(逆転されたかたちで)帯びている。私はそう受けとめた。
 いま「言葉のなかに」と書いた。それは、体験・実感としての〈クオリア〉が言葉から切り離すことのできないかたちで脳のなかに存在する、という ことを表現したかったからだ。「クオリア」という言葉のシニフィアンと結びついたシニフィエとして〈クオリア〉は存在する、といいかえても同じこ とだ。
 抽象的概念としての《クオリア》は、実はいま述べたことを含めて成り立っている。つまり「体験・実感としての〈クオリア〉」というのもまた概念 であり、したがって《クオリア》のうちにあらかじめ含まれている。だからこそ、池谷さんは「でも」というのだ。
 〈クオリア〉は物=身体の世界に実在する。でも、言語の世界では、それは《クオリア》として存在する。強引な読み替えであることは百も承知で、 私は池谷さんの発言をそのように受けとめた。その上で、先の三つの主張をさかのぼって次のように読み替える。

1.〈クオリア〉とは抽象的なものである。
2.《クオリア》は言葉によって生み出される抽象的概念である。
3.〈クオリア〉は物の世界において実在するが、言語の世界では《クオリア》として存在する。

 このように読み替えた上で、私はそのいずれの主張にも賛成する。このうち第二の主張については、これまでさんざん論じてきた。[**]
 残るのは第一と第三の主張だが、これらは一つにまとめることができる。

 体験としての〈クオリア〉は物の世界において「抽象的」に実在するが、これを言葉で表現することはできない。
 というのも、体験としての〈クオリア〉は言語の世界では《クオリア》という「抽象的」な概念として存在する(言語の世界において、そしてそこに おいてのみ一定の機能を果たす)しかないからだ。

 この新しい主張に二度出てくる「抽象的」は、前段と後段とでそれぞれの意味合いが異なる。後段については「抽象的」の一つ目の意味としてすでに 論じた。では、その二つ目の意味とは何か。物の世界におけるクオリアの実在がもつ様相としての「抽象的」とはどのようなものなのか。
 私の現時点での直観を述べておくと、結局のところ「抽象的」の二つの意味は同じことになる。精確には、物の実在の世界における「抽象性」が言語 の存在の世界における「抽象性」の原型なのである。つまり〈クオリア〉こそが《クオリア》を生み出している。でも、本当にそうか?

[*]言葉が脳内の神経活動から「直接」生み出されるというのは、神経活動によって生じる脳内の物質交換の過程が、そしてその結果生じる身体の行 動との双方向の関係が、実は言語の活動や機能と同じ構造をもっているということだ。
 だから「生み出される」は精確な表現ではない。言語と神経活動とは、少なくとも「潜在意識」のレベルでは、同じ物質過程の異なる描像であるとい うべきだろう。
 また言葉が自由意志の領域と「つながっている」というのもあいまいな表現だ。
 神経活動の結果としての身体活動には「声に出す」ことが含まれる。この「声に出す」ことが言語の発生の端緒で、それは脳(身体)の内部の出来事 を外部に表示することから、そしてまず外部に表示されたものが「声に出した」本人にフィードバックすることから始まった。
 やがて「声に出す」ことは他者とのコミュニケーションや記憶のツールとなり、文字の発明とあいまって自律的な言語の世界がひらけていった。複雑 精妙な発声装置をもったヒトにおいて、そして複雑精妙な運動能力を備えた手をもつヒトにおいて、複雑精妙な言語の世界がひらけた。
 池谷さんも次のように語っている。

《「心」というのは脳が生み出している。つまり、脳がなければ「心」はない。でも、体がなければ脳はないわけだから、結局は、体と心は密接に関係 していることがわかる。
 そのひとつのポイントとして、二日目の講義で、僕は「言葉」を挙げた。人間は声を自由に操れるようになった。「咽頭」……人間はほかの動物と 違って咽頭を持ってるでしょ。咽頭を持ったがゆえに、言葉をしゃべれるように脳が再編成されて、いま僕たちは言葉を自由に操っている。
 これはとても大きな影響を脳に与えた。なぜかというと、言葉というのはコミュニケーションの手段としてあるだけじゃなくて、人間が抽象的な物事 を考えるのに必要なツールになったんだ、そういう話をしたね。つまり、意識とか……「クオリア」という言葉を覚えてるかな、覚醒感覚ね。ああいっ た抽象性、いわゆる「心」を生み出すのは「言葉」である、という話になった。極言すれば心は咽頭がつくったとも言えるんだ。》(349頁)

[**]一言補足する。なぜ《クオリア》という概念が生み出されるのか。池谷さんの説では、そもそも抽象的概念が生み出されるのは、生物として環 境に適応するための「汎化」(共通の基底ルールを見つけ出し一般化すること)という、言葉や(言葉が生み出す)心のはたらきゆえであり、クオリア の生成もその一種である。
 その役割は「人間の世界観に色彩を添えたり、他人の感覚を想像したり共感したり」といったことで、「役には立ってるんだけれども、でも、感情と いうクオリアは脳の活動をダイレクトには決定してはいないと考えたほうがいい」(198頁)。
 これは、悲しみのクオリアが神経活動の副産物でしかないことの説明である。この語り口からうかがえるのは、クオリアの生成には「汎化」がもつ生 物進化上の機能を超過した部分があるということだ。他人の感覚を想像したりこれに共感することは生存戦略の上でとても大切な機能だと思うが、世界 観に色彩を添えることの方は必ずしもそうではない。
 池谷さんは、人間の脳は環境に適応する以上に過剰に進化してしまったと語っている。そして、この一見無駄とも思える脳の過剰進化は、将来環境や 身体そのものが急に変化してもこれをコントロールするための安全装置なのだと語っている(97頁)。
 だとするとクオリアという概念も、少なくともその一部はこうした脳の過剰進化の産物なのかもしれない。そもそも物の世界における〈クオリア〉の 実在そのものが、物質世界の過剰進化の産物なのかもしれない。

★6月21日(土):クオリアと言語と記憶と感情(5)

 「抽象的」の二つ目の意味は何か。
 念のために一つ目の意味を確認しておく。それは言語が構成する概念の性質をいうものだった。たとえば「言語を絶したクオリア」という概念は抽象 的である。言語の世界は抽象的概念でかたちづくられている。そういうことだった。
 「抽象的」の二つ目の意味が住まいするのはそのような言語世界と対になる世界、つまり物=身体の世界である。では、体験としての〈クオリア〉が 物の世界において「抽象的」に実在するというときの、その「抽象的」とは何か。
 まずトリビアルな事実の確認。
 〈クオリア〉は言語を絶している。なぜなら〈クオリア〉が住まいする物の世界は「不立文字」の世界だからだ。(「不立文字、以心伝心」の世界と いってもいいが、その場合の「心」は池谷さんがいうような意味での心、すなわち言葉によって生み出され、意識現象全般がそこにおいて生起する心の ことではない。物の世界に「抽象的」に実在する〈心〉のことだ。)
 物の世界は個別具体の世界である。差異の世界である。ただしそこでは、個別具体の物が相互に比較できる共通の土台の上にそれぞれの個別具体性を 表現している、といった描像は成り立たない。物の世界とは、そもそも比較を絶した差異性のうちに個別具体の物が端的に実在する世界である。
 比較を絶した差異性は、どのような力をもってしても抽象的概念の「同一性」のうちに移し替えることはできない。だから〈クオリア〉は言語を絶し ている。(「言語を絶した《クオリア》」という概念は、決して言語を絶した〈クオリア〉そのものに届かない。)
 それでは、そのような意味での差異の世界に住まいする〈クオリア〉が「抽象的」に実在するとはいかなることか。それは「形而上的」に実在すると いうこと以外のなにものでもないだろう。
 不立文字の世界に言葉の定義をもちこむのも奇妙な話だが、個別具体の物の実在を超えているという意味で、〈クオリア〉はメタフィジカルに実在す る。それが「抽象的」に実在するということの意味なのではないか。
 ただし、ここまではトリビアルな事実の確認の域を出ない。トリビアルかどうかは措くとしても、ただ言葉を置き換えただけのことにすぎない。物の 世界において〈クオリア〉がメタフィジカルに実在するというとき、その「メタフィジカルに実在する」ことの実質を解明しなければ何もいったことに ならない。
 ある意味では言語の世界もメタフィジカルである。言語は脳内の神経活動によって「生み出される」。そのように考えるとき、言語は物の世界に属し ている。しかし、神経活動によって「生み出される」言語の世界そのものは物の世界を超えているといえるからだ。

 ここで「神的言語」というアイデアを導入してみよう。個別具体の物の世界における差異性を、概念としてではなくそれそのものとして名指す言語。 名指すというよりは、むしろ個別具体の「それ」を「それ」として実在させる(創造する)言語。(ベンヤミンが「神の言葉」とか「純粋言語」と呼ぶ のと同じ種類のものではないかと思うが、確証はない。)
 物の世界において〈クオリア〉がメタフィジカルに実在するとは、そのような神的言語として、かつ神的言語のなかに実在する(創造される)という ことだ。神的言語におけるシニフィアンとして、かつそのシニフィエとして〈クオリア〉は実在する。ただ端的に実在する。
 これに対して、一般の言語では、実在する〈クオリア〉(体験としての〈クオリア〉)がそれそのものとして名指されることはない。読み手のうちに 〈クオリア〉そのものが実在させられることもない。あくまで(言語の世界を介して見られた)物の世界における差異性としての〈クオリア〉が(言語 の世界における)同一性のうちに、つまり概念としての《クオリア》のうちに移し替えられるのだ。(この言語の概念化の力を精錬しつつ、かつ言語が 生み出す概念を物的世界に投げ返すことでもって世界を解析しようとするのが科学の言語である。)
 ところで、神的言語は物の世界に対してメタフィジカルにかかわる。ということは、神的言語を生み出す物的過程はないということだ。一般の言語の ように、脳内の神経活動によって「生み出される」といったことはない。端的にいって、この世界(物の世界)に神的言語は実在しない。(神的言語が 世界のなかに実在しないのは当然のことだ。なぜなら、神的言語はこの世界そのものの創造にかかわる言語だからだ。)
 こうして、三次方程式の代数的解法(カルダノの公式)に登場し、やがて消去される虚数のようなものとして、神的言語はその役割を終える。残され たのは、神的言語が消失した後のメタフィジカルな場だけである。そして、それこそが実在としての〈クオリア〉の棲息地にほかならない。
 本当のことをいえば、神的言語を消去しなくても以下の議論につないでいくことはできる。神的言語を生み出す物的過程など問題にしない論の建て方 がありうるし、それに神的言語の物的基盤を問題にするとしても、そもそも脳内の神経活動などにそれを求める義理はないからだ。
 人間の脳が進化するより以前に、いやもっとさかのぼって生命が誕生するより以前に、神的言語を生み出す物的過程を求めることだってできたはず だ。ここであえて神的言語を退場させたのは、自然科学の議論との接続を図る余地を残しておきたかったからである。

 それでは、そのようなメタフィジカルな場に実在する〈クオリア〉を生み出す物的過程とは何か。そんなものは、端的に無いはずではなかったのか。 私は、それはあると考えている。
 すべての物的過程がひととおり完了し、同じことが二度、三度と反復されるとき(私の直観では、三度反復されるとき)、そこにもともとの過程には なかった「同じ」ということが付け加わる。たとえばそうした子供だましのような論理の道筋を通じて〈クオリア〉は生成する。
 いま苦しまぎれに「論理」という語を使った。それはかのヘーゲルの『大論理学』を念頭においたものだった。ヘーゲルはそこで、自然(物的世界) に先立つ存在の論理(ロゴス)の自己展開(自己限定)のプロセスを語っていた。
 また「論理の道筋」とは推論のことで、推論について考えるとき、私はいつもパースを想起する。パースは『連続性の哲学』で、宇宙を探求する私た ちの推論のプロセスは、探求の対象である宇宙が従っている論理の道筋(推論)と基本的に同一であるといった趣旨のことを語っていた。(それは、 ドゥルーズが『差異と反復』で、世界は神が計算しているあいだにできあがってくると書いていたことと呼応している。)
 まわりくどい言い方はやめよう。私が考えているのは、すべては逆だったのではないかということだ。
 脳が言語を生み、言語が抽象的概念としての《クオリア》を生み出す。しかし、言語は実感としての〈クオリア〉の実在を掬えない。そうではなく て、そもそも〈クオリア〉はそれを生み出す物的過程(推論過程)を論じるより前に、というかその推論過程(物的過程)そのものを駆動する〈形而上 的=抽象的概念〉として、あらかじめ物の世界において実在していたのだ。[*]
 もっといってしまうと、その〈抽象的概念〉によって駆動される〈推論過程=物的過程〉を通じて脳が生み出され、その脳のなかの神経活動によって 駆動される《推論過程=言語過程》を通じて《抽象的概念》が生み出されたのだ。
(この二つのプロセス、つまり物の世界と言語の世界における二つのプロセスをつなぐ物的媒介として、なぜ脳という器官が選ばれたのか。それはおそ らく偶然のなせる業だろう。この「偶然」は、西欧社会においてかつて「神の意志」と呼ばれていたものと同類である。)
 これと同じことを「言語」に即して言い換えればこうなる。〈クオリア〉の自己展開(自己限定)の〈物的過程〉において〈言語〉はあらかじめ実在 している。これが脳内の神経活動を通じて、《言語》の自己展開(自己限定)の《推論過程》を通じた《クオリア》の生成へと翻訳される。
 ここにいたってようやく、私は、池谷さんの「クオリアとは抽象的なものである」という主張に「最終的に」賛成できる。

[*]ここで述べたのと同じ趣旨のことを、パースはもっと詩的で説得力のある文章で語っている。

《われわれが現在経験する色、匂い、音、あるいはさまざまに記述される感情、愛、悲しみ、驚きは、すべて太古の昔に滅びたもろもろの質の連続体か ら遺された残骸であると考えざるをえない。それはちょうど廃墟のそこかしこに遺された円柱が、かつてはそこにいにしえの広場があって、バシリカ聖 堂や寺院が壮麗な全体をなしていたことを証言しているのと同じである。しかし、その広場が実際に建立される以前にも、その建築を計画した人の精神 のうちには、ぼんやりとして不十分な現実存在があったことであろう。まさしくこれと同様に、わたしはあなた方に、存在の初期の段階には、現在のこ の瞬間における現実の生と同じくらい実在的なものとして、感覚質の宇宙が存在したのだと考えてもらいたいと思う。この感覚質の宇宙は、それぞれの 次元間の関係が明瞭になり、縮減したものになる以前の、もっとも初期の発展段階において、さらに曖昧な存在形態をもって実在していたのである。》 (伊藤邦武編訳『連続性の哲学』257頁)