「『神話論理』その他とりとめのないこと」(2007.3)
★3月18日(日):信仰をもつ人間の枕頭の書、そして重力と舞踏
鈴木一誌は、『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』に収められた「重力の行方──レヴィ=ストロースからの発想」を、こう書き始めている。
「しごとを終えたあと、邦訳されたクロード・レヴィ=ストロースの著作を読むのが、二か月ほどのならいとなった。」
その模倣というわけではないけれども、ここ七か月ほど、鈴木一誌の『画面の誕生』をほぼ毎日一節ずつ、仕事と仕事の合間、たいがいは昼食後の午
睡の前に、読み進めるのをならいとしてきた。
《…日課のようにその著述を読むのはふしぎな体験だった。これほどレヴィ=ストロースの文章は淡々としたものだったのか。(略)だが、魅力がない
わけではけっしてなく、叙述の平らかさが飽きのこない読書体験をもたらし、信仰をもつ人間の枕頭の書とはこういうものかもしれない、と思わせる習
慣性を到来させたのだが、それにしても、行の意味は読む端から砂粒のようにこぼれ去っていく。》(「重力の行方」)
この文中の固有名を「鈴木一誌」に置き換えると、それはそのまま、私の読書体験の叙述になる。また、次の文でいわれていることは、優れたレ
ヴィ=ストース論であると同時に、鈴木一誌の書き物について述べられた、おそらく最高の批評であると思われる。
《レヴィ=ストースを読むことは、書き手の熱意や使命感によって問題が設定され、疑問がつぎつぎに繰りだされていき、記述を読み進めることが書き
手と読者の一体化であると錯覚させるような、線型の読書体験ではない。レヴィ=ストロースは、読書の少し遅れた背後からやってくる。(略)…この
とき読み手の眼前にせり上がってくるのは、著者の「対比し、示す」、なかばメカニックな手つきだろう。レヴィ=ストロースの著作は、作者の〈器用
しごと〉を見せるドキュメンタリーと見える。彼の手を経た神話の言説は、粒がととのえられ、ユニット化し、移動可能な感を深めるぶん、粒どうしの
粘着性は弱まる。(略)…読者からすれば、レヴィ=ストロースの文章は〈遠さ〉としてあらわれる…。》(「重力の行方」)
とりわけ「メカニックな手つき」という評言は、『画面の誕生』巻末の「ポスト・スクリプト」で明かされた、「地下室でモニタに向かい原稿を書い
ている」鈴木一誌の「器用しごと」の成果が読者に与える感触を、見事にいいあてている。
《行番号が出るワープロ・ソフトまたはエディタをつかって、気がついたことを、一行一項目で、ことがらの大小を無視して書き連ねていく。その一項
目が、百字程度の記述になっていく。文章に織りこめていない項目が、いつも原稿の末尾にぶら下がっている。一行の字詰めを四○字に設定しておく
と、一○行書けば、四○○字原稿用紙一枚だ。五行くらいで段落の変更を意識しはじめ、原稿用紙五枚で節をあらためる、こう、書くことのなかに「標
準」を見つけられないか、といろいろと実験をしてしまうのも悪い癖だ。》(『画面の誕生』)
ショット(鮮やかな警句としての断言)とシークエンス(一つ一つ几帳面にタイトルを付された節)の正確な編集(デザイン)を通じて、(「ポス
ト・スクリプト」で使われた言葉や語彙を借用するならば)、「映画や漫画、写真集などの表現を受けとるという作品の体験」の「痕跡」(=「時間を
失った点としてわたしの身体に残る」もの)を「原寸で描写」し、「傑作や感動と言ってしまうことで洩れおちてしまうもの」を「記録」(=「記譜
(ノーテーション)」)すること。
この、鈴木一誌自身による鈴木一誌の書き物についての自己規定は、「重力の行方」で、「レヴィ=ストロースの文章はドキュメンタリーだと言え
る」──「ドキュメンタリーは、地球上のあらゆる生きものが甘受せざえうをえない重力を写すものなのではないか。…重力とともに生きるほかない存
在として生きるものを描きだす、これがドキュメンタリーを定義する最低限の基準だと思える」──と書かれていることと、響き合っている。
《レヴィ=ストロースは、…神話の根を切り、ショットやシークエンスへと単位化していく。このとき神話というテクストは決定的に重力をうばわれる
のだが、ショットやシークエンスに語らせながら構造を出現させるとき、構造は、土地に住むひとびとの無意識をなまなましく貫く。これを構造という
運動と呼んでよいだろう。
「彼らは生きている」と読むものに思わせるこの事情を、モーリス・メルロ=ポンティは「客観的分析を生きられているものに結びつけること、おそら
くはこれこそが人類学のもっとも固有な仕事なのであ」ると書く〔「モースからクロード・レヴィ=ストロースへ」,『シーニュⅠ』〕。分析が最終的
に「生きられているもの」に沈降していく人類学的な事態が、構造が担っている「鈍重な意味」〔同〕なのだろう。「鈍重な異味」において、レヴィ=
ストロースの著作はドキュメンタリーである。レヴィ=ストロースの文章があつかう神話の内部でも、重力は、ひとびとにのしかかると同時に無化され
る。
全四巻の『神話論理』で、私は南北アメリカ大陸の神話群において下界の民と上界の民とのあいだの宇宙的規模の戦いは、料理の火をめぐって繰り広げ
られることを示した。〔『やきもち焼きの土器づくり』「序」〕
下界はひとびとの住まう重力の世界で、上界は神的空間だと理解してよいだろう。重力のある地平と無重力の場の往還、つまりは「天と地のコミュニ
ケーション」から神話の駆動力が生みだされている。》(「重力の行方」)
「重力の行方」を収録した『重力のデザイン──本から写真へ』に、次の記述がある。
《ひとは、重力に抗して立ちあがるのだから、生きることは垂直という感覚を維持しつづけることだ、と言える。体内に天地方向の基準線が生まれ、そ
の不可逆のタテ感覚が鏡像を〔左右を逆転させるにもかかわらず〕天地には逆転させない…。》(「鏡と月──フレデリック・ワイズマンの重力」,
『重力のデザイン』128頁)
これを読んで、私は舞踏を、そして川端康成の『雪国』を、あの悲しいほど美しい声をもった葉子の顔が鏡(車窓)に「映画の二重写し」のように映
じているシーンに始まり、上映中のフィルムが発火した繭倉炎上のシーンを経て、「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった」
で終わる『雪国』を連想する。
その島村は、「ヴァレリィやアラン、それからまたロシア舞踊の花やかだった頃のフランス文人達の舞踊論」を翻訳し、また、洋書や写真、ポスター
やプログラムを頼りに西洋の舞踊を夢想し、紹介文を書いているのだった。
《パイドロス 驚嘆すべきソクラテスよ、あなたの言葉がどれほど的を射ているか、ほらご覧なさい!…… 脈動する女をご覧なさい! まるで舞踏が
彼女の?から炎となって吹き出してくるかのようだ!
ソクラテス おお、〈炎〉よ!……
──あの娘はひょっとして愚か者なのか?……
おお〈炎〉よ!……
──どんな迷信、どんな戯言が彼女のふだんの魂をかたちづくっているのか、知れたものではない。
それでもしかし、おお〈炎〉よ!…… 生気ある神々しい物体!……
だが、炎とはいったい何かね、わが友よ、瞬間それ自体でないとするならば? ──一瞬そのものの中にある気違い染みた、陽気な、並外れたも
の!…… 炎とは、大地と天空の間にあるこの瞬間の行為だ。おお、わが友よ、重々しい状態から精妙な状態へと移行するすべてのものは、火と光の瞬
間を通過する……
そして、炎とはまた、もっとも高貴な破壊の、捉えがたい、誇り高い形態のことではないか?》(ポール・バレリー「魂と舞踏」(松浦寿輝訳),渡
辺守章編『舞踊評論 ゴーチェ/マラルメ/ヴァレリー』228頁)
とりとめのない「記録」になった。鈴木一誌の文章の「メカニック」な感触を、鈴木一誌よりうまく言葉にすることは、私にはできない。(そういえ
ば、福田和也が『雪国』について、「メタリックといってもいいような突き抜けた力があって」云々と語っていた。)
★3月21日(水):神話論理・哥の勉強・その他とりとめのないこと
前回とりとめなく書いたこと(鈴木一誌の文章の「メカニック」な感触のこと、『雪国』の島村が舞踊評論家だったこと)との関連で、いや関連しな
いけれど、もう少しとりとめのないことを書いておく。
クロード・レヴィ=ストロース『神話論理Ⅱ 蜜から灰へ』(早水洋太郎訳)を買った。
去年の5月から6月にかけて、『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』(同)をヒッチコック/トリュフォー『定本
映画術』と同時並行的に読んでいた。結局、「序曲Ⅰ」と「序曲Ⅱ」を読んだだけで中断した。でも、この書物だけは全巻読んでおきたいと思っている。ただ読
むだけでいいと思っている。読まずには死ねない。そういう書物だと思っている。
川端康成の『雪国』と『美しい日本の私』を読み終え、つづいて『みずうみ』を読み始めた。
新潮文庫の解説(中村真一郎)に、この作品は「意識の流れ」の描写の美しさを感じさせる、主人公の意識を舞台として多くの女性の思い出を混ぜ合
わせている、その混ぜ合わせ方は「日本的超現実主義──中世の連歌における、「匂い付け」と呼ばれるような、不思議に微妙な連想作用」によって行
なわれている、この小説の構成・映像・筋立て・後味は夢に似ている、云々と書いてあった。面白い。
岩波文庫で夏目漱石の『文学論』上下の刊行が始まった。
できるかどうか、意味があるかどうかは知らないが、川端康成の小説群を夏目漱石の文学論を使って読解してみようと目論んでいる。どこからそんな
発想が生まれたのか自分でもよくわからない。準備に一年近くかかるのではないかと思う。
『石川淳評論選』(菅野照正編,ちくま文庫)と白川静『詩経 中国の古代歌謡』(中公文庫)をセットで買った。
昔、石川淳の『夷斎筆談』(富山房百科文庫)を毎日筆写していたことがあった。写経のつもりだった。『夷齋小識』と金子光晴『マレー蘭印紀行』
(ともに中公文庫)の二冊はどちらも薄いもので、急な外出で選ぶ暇のないとき安心して携帯できる本としていつも手の届くところに常備している。あ
まり意識したことはなかったけれど、私は石川淳のファンだった。
『評論選』には「歌仙」とか「和歌押韻」とか「本居宣長」が収録されている。『詩経』と一緒に読むことで、そして図書館で借りてきた小松英雄著
『みそひと文字の抒情詩──古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』等々を併読することで、哥の勉強がはかどるのではないかと思った。
その哥の勉強では、尼ヶ崎彬著『花鳥の使』の再読が遅々として進まず、今日ようやく定家の章の途中まできた。
いま「貫之現象学と定家論理学」というアイデアを育んでいる。というか、でっちあげようとしている。これは永井均著『西田幾多郎』に出てきた
「西田現象学」と「西田論理学」に触発されたもので、まだ中身は混沌としている。
定家十体のうち「有心体」でいう「心」とは詞の意味としての心(哥に詠まれた心)ではなく、作者の心(作者の心中の思い)のことである。また
「作者の心」とは貫之の歌論にいう心、すなわち歌人が実体験している心情ではなく、俊成の歌論にいう心、すなわち詩的主観のことである。それは和
歌の産出過程(詠作時)においてのみ生じる虚構の、しかし動的な生命をもつ「詠みつつある心」であって、言語化以前の心的状態を指す。(以上は
『花鳥の使』の大雑把な要約。)
物と心の界面にかかわる貫之歌論の「心」とは実は〈心〉(永井均の表記法)のことで、それは物への付託を通じて「ことのは」に生長する。その
「ことのは」(詞)と心の関係をみすえる俊成歌論の「心」は自律的な言語世界に生息するペルソナのことで、それは死者とのコミュニケーション回路
をひらく。そのペルソナ(詠みつつある心)と物のあわいに屹立する定家歌論の「心」は言語化以前の「冷たい物質性」のうちに立ち上がる。(以上は
『花鳥の使』を使った勝手な議論。)
かなり言葉が舞い上がっていて自分でもとうてい信用できないが、だいたいそんな感じで考えていきたいと思っている。
これだけは「書評」のかたちで読書体験の実質を記録しておきたいと思う本がいくつかある。
加藤幹郎著『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』と保坂和志著『小説の誕生』と篠原資明著『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点
から』と渡仲幸利著『新しいデカルト』の四冊。
そのうち一冊、渡仲本に「決着」をつけようと思い、鉛筆でマークをつけた箇所をさくさくと読み始めたら止まらなくなった。この本はやっぱり名著
だ。人生の何たるかや日々の生き方や本の読み方、はては哥の勉強の仕方まで教えてくれる本だ。たとえば「デカルトと宣長」という文章の前半に出て
くる次の文章。
《おしゃべりなど通用せず、じっさいに取りかかるほかないことがある。つべこべ言わずに、はじめなければならない。
なのにわたしたちは、暇がないとか、才能がないとか、ごちゃごちゃ悩む。うまいやり方がないものか、とえらそうなことをいっては、なかなか実行
しない。
健康のために運動をしなければ、と考えながら、いっこうにはじめないし、文章を書きたいと思っているのに、ペンすらにぎらずに一日をやりすごし
てしまうし、あこがれの文学全集を読み終わらないどころか、読みはじめようともしない。そのくせ、あれもやりたい、これもやりたい、休みがとれた
らなあ、などと終始つべこべ考えている。
デカルトは、そんなしりの重いわたしが読んだ数少ない哲学者の一人だが、かれの著作のさわやかさは、宣長同様、かれが不言実行の人であることか
ら来ていると見て、まちがいないと思う。》(渡仲幸利『新しいデカルト』124頁)