「「四人称世界」をめぐって」(2006.09-11)



★9月15日(土):四人称の記憶

 いま映画系の書物を数冊、同時進行的に眺めている。『映画の構造分析──ハリウッド映画で学べる現代思想』(内田樹)と『画面の誕生』(鈴木一 誌)と『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』(加藤幹郎)と『ブレードランナーの未来世紀──〈映画の見方〉がわかる本 80年代ア メリカ映画カルト・ムービー篇』(町山智浩)の四冊。いずれも面白いが、重ね読みするともっと面白い。ここでは、二つのエッセイに触発されていま 頭の中に巣くいつつあるもの(ひとつの観念、あるいは生煮えの概念?)を粗描するための断片的な素材のみ記録しておく。

◎鈴木一誌の「遠くへ──侯考賢『戯夢人生』」(『画面の誕生』)から。──「映画を思いだすことのなつかしさとでも言ったらよいだろうか。ク ローズアップを使用しないキャメラ。十分な距離をもって見つめられる人物。風景の遠望。/なにかが終わったあとの映像を見つづけたのではないかと いう感触が残っている。」(11頁)「…何にも所属しない風景の記憶は残る。」(19頁)「フレームのなかで演じられる劇は、屋外のできごとなの か、あるいは室内でのことなのだろうか。」(19頁)「映画が、映写幕にフィルムからの透過光を投げかけたときにメディアとしてあるのだとする と、映写室ですでに巻きとられ過去となったフィルムと、これから投影されるはずの未来をになうフィルムは実在しないことになる。」(26頁)「観 客は過去と未来を見ている。待ち焦がれ思いだすことの総和として映画はある。」(26頁)
「それでもわたしはコマを繋がねばならない。運動体のないところに運動をつくることが自分であるのだろう。」(27頁)「生の姿を完成させるため に現在は過去になる。(略)わたしの生とは、わたしが記憶しうるかぎり無数の生の姿の配列であり、彼の生とは、わたしが記憶するかぎりの彼の生ま 身の配列なのだ。」(27頁)「カットはそれ自体で美しく、かといってほかのカットに連続しないわけではない。」(28頁)「映画をつくることは 現在を殺すことだ。」(30頁)「見えないものを見えているかのように描写するのではなく、見えないものを見えないものとして描く。」(35頁) 「彼は観客であるわたしを見ている。」(36頁)「ひとりという切断された非連続体がどのようにわたしというひとりに繋がるのか。距離を埋めるの ではなく、隔たりを回廊にして、運動体のない運動を生みだす回路がさぐられている。見ることが見ることと向き合う総和が、わたしの見ることだ。」 (38頁)

◎内田樹の「「四人目の会席者」と「第四の壁」」(『映画の構造分析』)から。──「「私がひとりきりで海辺にたたずむ姿」を遠景からとらえてい る、というような視覚記憶を私たちは持つことができる。これは私が見たものでもないし、その場に居合わせた骨肉を備えた「誰か」が見たものでもな い。それは抽象的な、ほとんど観念としての「誰か」の視線がとらえた風景である。/私たちの視覚記憶はそのようにつねに「私と誰か」の合作であ る。その「誰か」は具体的な人間であることもあるし、私を見つめている抽象的で機能的な「視線」である場合もある。/私たちは「自分の肉眼が見て いるはずのないもの」を自分の視覚記憶として思い出すことができる。これは厳密に言えば非合法的な記憶操作だが、私たちはみな無意識にそのような 記憶操作を行っている。/しかし、そのような非合法的な記憶操作を犯しても、それでもなお「見えないもの」が残る。」(190頁)
「なぜヒッチコックは「第四の壁」を構造的に画面から排除したのか。別に私に確たる答えがあるわけではない。私に分かるのは、「この風景を見てい るのは誰なのか?」という問いを、映画を見ている観客に、意識させないように意識させる、という矛盾した要請をすぐれたフィルムメーカーはみずか らの技術的な課題として引き受ける、ということだけである。」(204頁)
「すぐれたフィルムメーカーは「この映画の表象秩序を基礎づけている視線は、誰のものなのか?」という問いにそれぞれの映像的な解決を与えようと する。/小津安二郎が『秋刀魚の味』で試みたような、観客を「物語の中にあるのだが、そこには誰もいないはずの場所」に誘導するというのはひとつ の技術的頂点であるだろう。ヒッチコックは『裏窓』で「すべてがそこから見られる第四の壁そのもの」についての故意の言い落としに観客がいつ気づ くのか、皮肉な挑戦を試みた。(略)私たちが「見る者」であろうと欲望するかぎり、私たちは決して自分が「どこから」見ているのか、「何が」私た ちに見ることを許しているのかを主題的に問うことがない。その点について「一歩先んじる」ことによってのみ、フィルムメーカーは観客を「完璧に誘 導する」ことができる。そのことをこの二人は熟知していたのである。」(205頁)
「表象秩序を制定するものの不可視の権力の座を実際に占めているのは、その表象秩序に映り込んでいる私たち自身だ…。「見られることなく私たちを 見ているもの」は私たち自身だ…。/表象の天才たちはその事実を、秘やかな目配せによって、私たちに告知するのである。」(209頁)

 「四人目の会席者」や「第四の壁」から、「四人称の記憶」という言葉が浮かんできた。「四人称」という語は、横光利一の「純粋小説論」に出てく る。「キルケゴールの『反復』は映画体験の先取りではなかったか。あるいは横光利一の「四人称」とはカメラ・アイのことではなかったか。」ネット で検索していて、自分が昔書いた文章(「無意識をめぐる冒険・第四部」)に出あった。このことをもう一度、残光型記憶(もうそんな勝手な言葉は使 わなくてもいいと思うが)の実質とあわせて考えなおしてみたい(ほんとうの「他日」に)。

★11月1日(水):魂のかたち──「四人称世界」をめぐって(その1)

 最近、死をめぐる話題が私の脳髄をとりまいている。死の問題というよりは、不死性や死者の記憶(遺族の中に生きている死者の記憶のことではな く、文字通りの意味での死者がもつ記憶)の問題というべきかもしれない。

 『エロコト』の対談で、中沢新一は「人間同士って一対一でコミュニケーションしているように見えますけれど、実はそこには必ず第三者が存在する んです。それは実は死者なんですよ」と発言していた。
 『生きていることの科学』で郡司ペギオ-幸夫は、単なるモノとしての「死体」であることと悲しみと生前を身に纏った「遺体」であることとの矛 盾・共立のうちに「一期一会の存在」(マテリアル=媒介生の存在)が感得されている、と語っていた。私はそこ(死体と遺体の〈あいだ〉)に「死 者」が立ち上がっていると考えた。マテリアルとは死者の身体(目に見える幽霊のかたち、あるいは魂と呼ばれる目に見えない物体も含めて)のような ものだ。
 内田樹は『死と身体』のどこかで「死んだ後の私と出会うこと」や「死者の体感に共感すること」や「死者の声を聞くこと」について書いていた。い ま手元に本がないのでうろ覚えで書くと、生体と死体の中間に死者という第三のカテゴリーが立ち上がる、この中間がないとコミュニケーションは成り 立たない、中間とは媒介のことで、葬儀はミディアムだ、云々。
(ちなみに、『死と身体』に出てくる「時間感覚の錬磨」と『新しいデカルト』に書かれた「肉体のこと[感情]は肉体へ」という、ともに武術の極意 にかかわる言葉がいまのところ私の「よく生きるための技術」となっている。これらのことは剣士デカルトの「精神」の実質に深くかかわっているし、 死をめぐる当面の話題にも大きくかかわってくる。)
 篠原資明は『ベルクソン』で、デジャヴュ(既視感)をめぐる稲垣足穂の「宇宙的郷愁」──「「ひょっとしてこれから先に経験すること」のようだ し、「あたかも自分ではなく、他人の上に起こっていることではないか」などと思われたりする」(「美のはかなさ」)──に触れていた(180 頁)。

 これらのことに触発されて、またデカルトの『省察』(一人称で書かれた哲学書)を読みこむうちに、私はかねてから考えていた「四人称」をめぐる ひとつの着想を得た。それは、四人称の世界とは死者たちの世界であるというものだ。
 私たち(一人称複数)+他者(死者たちもしくは神々のようなもの)=四人称。そんな等式がなりたつのかどうか。四人称の世界とは数学でいう複素 空間のようなもの(実数としての一人称、二人称、三人称に虚数としての死者たちを組み込んだもの)である。そんな比喩がなりたつのかどうか。これ らの等式や比喩がなりたつとすれば、四人称の世界は私たち(生者)の世界と通底している。もしくは組み込んでいる。その境界のひとつは、水面や鏡 面、いま上映されている映画のスクリーンやディスプレイである。そのようなことが言えるのかどうか。
 死者たちは四人称で語る。『アフターダーク』(村上春樹)の語り手たちが紡ぐ言葉──「肉体を離れ、実体をあとに残し、質量を持たない観念的な 視点」となって、あたかもカメラ・アイのように二つの世界(テレビ画面をはさんだあちら側とこちら側、無と実体、フィクションとリアリティ、死と 生)を隔てる壁を通り抜ける言葉──のように。

     ※
 昨夜読んだ『小説の誕生』のなかで保坂和志は、言葉の世界のなかでの不死性やカエルの記憶のかたちや「肉体は滅びるが文学(あるいは生命、その 人)は滅びない」といった話題をめぐって延々と書きつづけていた(6章「私の延長は私のようなかたちをしていない」)。それは、荒川修作の「例え ば、自分に関係のある近所の環境は私の延長であり、その延長は私のようなかたちをしていないけれども、同じ現象を歩むことが理解できれば、私とい われている肉体がこのまま消えていったとしても、それほど恐怖に思わないでしょう。最終的に、肉体というものは自分の周りに違う環境によって物質 的にも表現される」という発言(藤井博巳との対談集『生命の建築』、水声社)に触発されたものだ。

《『季節の記憶』を書く以前に私は「肉体は滅びるけれど……」なんていうことをまともに考えたことがなかったけれど、書き終わったときに私は、文 学の永遠性の方は肯定も否定もせずに保留にしておくとして、肉体が滅びることへの乗り越えというか対策は何もないのかと考えるようになっていた。 その結果が、『季節の記憶』の七年後に完成した『カンバセイション・ピース』なのだが、それはともかくとして、書く前に考えたことがなくて書き終 わったとき考えていたということは、書いているあいだにその考えが醸成されていたということを意味している。
 つまり『季節の記憶』を書くことによって「肉体は滅びるけれど……」という考えがリアリティを持つようになった。もっと言えば、『季節の記憶』 が「肉体は滅びるけれど……」という考えにリアリティを吹き込んだ、ということになり、読者として渡辺さんは著者と同じように「肉体は滅びるけれ ど……」と考えた。》(204-205頁)

 渡辺さんというのは、有楽町の交差点で二十何年かぶりに出会った昔の友達(『季節の記憶』に登場する和歌山の蛯乃木のモデルになった保坂和志の 友人T)に向かって、「T君……、あなた小説に出てたでしょう……?」「T君……、あなたの肉体はいずれ滅びるけれど……、ああして文学の中で、 永遠に生きつづけるんだねえ……」と語りかけた人のことだ。
 「あなた小説に出てたでしょう」という言い方は笑える(「あなた映画に出てたでしょう」とどこがどう違うのか、考えるとよくわからなくなる が)。それはともかくとして、また、「書いているあいだにその考えが醸成されていた」というとき「その考え」を考えていたのはいったい誰なのか、 そもそも考えるとはどういうことなのか、それは一気にやってくる場合もあれば知らないうちに熟成されて後から気がつく場合もある、云々といった問 題はともかくとして、ここで保坂和志が考えているのは、「言葉が人間を人間たらしめているという意味での言葉の中に人間は住んでいるのだから、そ の言葉は近所と同じではないか」(210頁)ということだ。
 「小説の中の言葉は世界を構成する要素のようなものとしてある」(186頁)。「そのような空間では、個体としての肉体は滅んだとしても、生命 は空間の中に生きつづけることになる」(184頁)。その空間は「カエルの記憶はカエルが辿る土地の形をしている」(210頁)といわれるときの 「土地の形」のことだ。
 知覚をめぐるアフォーダンス理論の記憶ヴァージョンのようなことなのだろうか。記憶は空間(「近所」)に満ちている。あるいは、そもそも空間と は記憶のかたちのことである。「地上は思い出ならずや」(稲垣足穂「物質の将来」)というわけだ。
 ここで保坂和志が書いている「空間」とは小説が立ちあげる「世界」のことだ。小説を書いているとき、読んでいるときに立ちあがっている「世界」 といっても同じことで、別の言い方では「現前性」という。現前性とは、霊媒師が死者の魂を呼び出すような事態のことだ。
 私はそれらのことを「四人称世界」という「概念」をつかって考えてみたいと思っている。音楽や映画、とりわけ製作現場と上映現場が技術の問題と して乖離せざるを得ない映画、記憶の残光と残響が織りなす映画体験のうちにその純粋形態を見ることができるのではないかと考えている。

《投げだされた映画は、スクリーンによって受けとめられ、観客の網膜に映り、複数のシステムの複合であるだろう「見るしくみ」によって、観客に届 く。この過程全体を映画と呼ぶならば、映画は実体としては存在しない。映画体験は、一回性を身にまとい、上映のつど誕生する。映画はつねに復活す るほかない。》(鈴木一誌『画面の誕生』98頁)

★11月2日(木):映画は死者を死なしめない──「四人称世界」をめぐって(その2)

 鈴木一誌の『画面の誕生』を机上に常備している。一節ずつ、毎日読みつづけている。それ以上は読まないことにしている。この書物を読み終えてし まう日が来るのをなるべく先延ばしするために。
 一昨日、『小説の誕生』の6章を読んだちょうどその日、ゴダールの『映画史』をめぐる「透過体」という文章の9節にさしかかった。これはもうそ の全文を引用し、永久保存しておきたい文章だった。
 「映画は、時間の面的な表象であるはずのコマ相互を重ね、透過し、位置の変化を読みとることで成りたつ」(105頁)という断片は、それだけで 『映画史』のみならず「運動体のない運動」をめぐるメルロ=ポンティの引用に始まる本書そのものを「縮約」さえしている。まだ全体の三分の一ほど しか読んではいないが、そう断言しておく。
 また、「死者を前にしたときに感じるのは、一個の人間の単独な喪失であるよりかは、張力がみなぎっていたはずの広域な場の喪失、レイアウトの変 化である」(106頁)という断片は、保坂和志が引用する荒川修作の「最終的に、肉体というものは自分の周りに違う環境によって物質的にも表現さ れる」という発言に接続される。「空間とは、つまり精神である。」(渡仲幸利『新しいデカルト』165頁)
 いや、これ以上何も書き加えず、前後の脈絡にもこだわらず、「白と黒」のタイトルが添えられた、このたかだか6頁にも満たない短い文章のそこか しこに結晶のように鏤められた言葉を拾い集めておくことにしよう。
 それはナレーションの引用から始まる。

◎「つまり、20世紀の夜明けには、/こんなことが起こっていた。/テクノロジーは/生を複製することに決め、/そこで写真と映画が/発明され た。」

◎さまざまな紆余曲折がありながらも結局、読者や観客は、写真と映画を「生の複製」として認めてきた。連続して動くことは、生命の独占物ではなく なった。つまりは、生けるがごとくの「生の複製」である写真や映画は、「生命からそのアイデンティティ」を奪ったのだ。では逆に、人生が映画から 奪ったままなのは何か。「人生」にあって、「生の複製」にないものは、死ではないのか。

◎「実際、夢のなかでは映像がこのようなことをするようにみえることもある。なぜなら、最初の映像が消えて次に違う映像が別の場所に生ずると先の 人物が姿勢を変えたように見えるのだから。」

◎『ゴダール 映画史 テクスト』によれば、これはルクレーティウス『万物の本性について』からの引用であり、「このようなこと」とは、「死者が 夢の中で動き回ったり手足を動かしたりすること」を指す。ちがう映像同士が連合して動きをつくりだすことが語られている。ルクレーティウスは、 「あらゆる種類の映像が至る処に浮遊している」(『物の本質について』樋口勝彦訳、一九六一年、岩波文庫)として、夢のなかでは、生者と死者の区 別がつかないと述べている。

◎写真の静止した時間は、映画の動きによって喚起された、と言えよう。写真の静止性が、映画に動きや音声、さらに色彩をとり込ませ、「生の複製」 性を高めさせたとも考えられる。
 われわれの時間意識が、時の層が刻々とスライス状に累積することとしてあるならば、そのイメージは写真によって形成されている。写真を見るもの は、見ている自分の現在との時間差を写真の膜面に認める。写真は、その表面にかつての光を保存しているが、光線の記録がそこにあるということが、 親しみやすさにではなく、絶対的な時間差として見る者を包囲する。写真の表層は、遠さへと向かう。写真は、死者の圏域にあるメディアであるのかも しれない。写真は死者を死なしめ、映画は死者を死なしめない、これが実感に近い。写真と映画ふたつのメディアのちがいであるように思われる。
 いっぽう映画は、時間の面的な表象であるはずのコマ相互を重ね、透過し、位置の変化を読みとることで成りたつ。面と面は接近しようとし、密着し た結果のたがいのずれが見られる。そのずれが視覚に運動を発生させるのだが、コマの記憶としては見る者に残らない。面であることは観客のうちに吸 収されてしまう。
 生者と死者の区別がつかない点で、映画は夢と通底する。(略)ただ、夢のなかであれほどなまなましくふるまっていた死者は、まどろみから覚めれ ば霧散している。夢から覚めた瞬間、感じるのは場の変更である。夢のなかではすべてが死者なのだ、と書き手は目覚めながら言うこともできる。

◎きのうまで人や物と緊密な関係の網目を維持してきたひとが、いまはひとりで横たわっている。実際、死者を前にしたときに感じるのは、一個の人間 の単独な喪失であるよりかは、張力がみなぎっていたはずの広域な場の喪失、レイアウトの変化である。
 現実は死とともにあり、その死に遠近法はない。しかしわれわれは世界にグリッドをあてがいながら生きている。グリッドは死を埒外のものと前提 し、死者の出現によって、その人為的な格子の危うさが照らされ、遠近法が揺らぐが、またなにごともなかったかのように生という面は均衡をとり戻 す。死は、面ですらないのだろうが、生を批評する面、生の裏側にある面だと考えるほかない。われわれはその生と死の差分を生き、同時に、生と夢を 往還する。いたるところに、生と「生の複製」の差分がある。

★11月3日(金):これは誰のわたしなのか──「四人称世界」をめぐって(その3)

 「透過体──ジャン=リュック・ゴダール『映画史』」(鈴木一誌『画面の誕生』)の7節「モアレ」からの切り取り。

◎連続映像は、滲みの集積なのだ。映画においてあらゆるものは動いている。動かないレーニンの死体も、送られつづけるフィルムが明暗を維持し、そ の暗部では乳剤や傷が乱舞しているのが見える。
 だが、コマ間の差分が感知されるからといって、減算されて差異のみが抽出されるわけではない。透過体として見られる二枚のコマは一枚に溶けあう のではなく、二枚のまま近づき遠ざかる。コマが重なり、その重なりを映像的な肉体としながら、重なりきらない滲みが運動を湧出させる。

◎モンタージュも、ちがったものが透過され、滲みが感知されることの一環であるだろう。落差が連続的には繋がらないとき、視線はモンタージュを受 けいれようと身がまえる。コマとコマが連続することが予定調和として約束されているだけならば、観客はモンタージュ効果に乗りながら映画とともに 走ってはいけないだろう。『映画史』は、透過体であることで、映画の歴史を現前させるとともに、ひとコマのできごとを、四時間を超える長さに延長 させて見せている。

 私はかつて「伝導体」という語彙でもって映画や文学をめぐる体験のことを考えたことがある(「キルケゴールの伝導体」、『ポリロゴス2』所 収)。この「概念」をふるいにかけて精錬し「透過体」と重ねあわせていけば、もしかすると「四人称世界論序説」なるものを仕立てあげることができ るかもしれない。

     ※
 もう一冊の映画本、加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説』(13-7-1「超時間的存在」)からの切り出し。

 「突如、巨大な眼の超クローズアップがあらわれる。その丸い碧[あお]い瞳には直前のショットの映像内容(夜空を焦がす炎と街の灯)らしきもの が映っている。(略)ということは、ここで天下を睥睨する特権をもったなんらかの主人公が導入されたはずである。」(7-8頁)
 その「主人公」が誰であるか、すなわち「これは誰の眼なのか」(Whose eye is this?)は、ブレードランナー・デッカードとレプリカント・ロイの対決の後で明かされる。ロイはデッカードに向かって「わたしは[この眼で]おまえた ち人間が信じられないようなものを見てきた」と語りかける。「このときクローズアップでとらえられたロイの瞳が碧いことは、もはや誰の眼にも明ら かである。」(160頁)

 しかしながら、この問い[これは誰の眼なのか]がこの映画の短くない上映時間の内に、もうひとつ別の問い「これは誰のわたしなのか」 (Whose I is this?)へと鋳直されていたことは、人間論的物語に鋭敏な観客の眼にはすでに明らかなことであろう。

 それでは、いまやロイのものであることが明らかとなった、映画冒頭で超クローズアップによって切り取られていたあの「碧い瞳」はいったい何を見 ていたのか。「その瞳がみつめてていたものは、ロサンジェルスの夜景というよりも、大宇宙そのものではなかったか。」(161頁)

 そのような解釈が受け容れられる余地は古典的ハリウッド映画たる『ブレードランナー』にはほとんどないだろう。にもかかわらず、それはやはり比 喩的にはありうることである。なぜなら「謎」の碧い瞳があらわれるとき、その瞳の主は映画のどこにも位置づけられて(主体化されて)いなかったか らである。それゆえそれはどこにでも位置づけうるものとなる。映画は、そのミディアムとしての特権を、つねにこの主体ポジショニングの遍在生と超 時間性にもってきた。テクストの自己展開、映画の運動と情動のプロセスとは結局のところ、そうした迂回以外のなにものでもないだろう。

 そのときあの碧い瞳は三つの時制にまたがる超時間的存在となりおおせていた。その瞳は、それがあらわれた時点における過去のある瞬間(ロイが 「大宇宙の星座の片隅で爆発炎上する宇宙船」を見た瞬間)へのフラッシュバックであり、同時に、現在の瞬間(地球に降り立ったロイがロサンジェル スの冥府的夜景を見た瞬間)の描出であり、さらにこの最期の瞬間(ロイが永遠に眼を閉じるまえに「わたしは[この眼で]おまえたち人間が信じられ ないようなものを見てきた」と語る瞬間)へのフラッシュフォワードでもある。

※この文章の“続き”が「デカルトをめぐって」(哲学系3)の「11月8日」の記事「デカルト的二元論(1)──ある形而上学的探偵物語」。

★11月6日(月):考えているのは誰なのか──「四人称世界」をめぐって(その4)

 なにごとかを考えているとき、私は四人称で考えている。つまり死者たちと会話している。
     ※
 死者たちの世界はいまここにある世界と通底している。それは言葉、書物、映像、音楽、その他のメディアを透過して、いまここにある世界に到来す る。考えているとき、私は「死んだ後の私」となって四人称の世界に参入している。
     ※
 考えていることと、何者かたとえば社会によって考えさせられていることとは区別ができない。私の脳を使って他者が思考を吹き込んでいることとの 区別がつかない。考えさせられている、思考を吹き込まれていると実感するとき、私は壊れている。
     ※
 それでは考えているのは誰なのだろう。それは自然である。自然が考えているのではない、考えていることが自然なのだ。考えていることが存在して いることであり、自然とはそのような存在なのである。それをデカルトは神と呼んだ。
     ※
 自然は考える。自然は推論する。自然は観測する。自然は計算する。自然は数学をする。自然は進化する。これらは同じ一つのことを指している。 「世界は、神が計算しているあいだに、「できあがってくる」」(ドゥルーズ『差異と反復』333頁)。
     ※
 それにしてもなぜ私は「思考するのは誰なのか」と問うのだろうか。「何なのか」と問わないのはなぜだろう。あるいは次のように問うべきなのだろ うか。「これは誰のわたしなのか(Whose I is this?)」(加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説』161頁)と。
     ※
 私の思考とその対象とは、より大きな存在のふたつの異なるあらわれである。「われわれが何かを理解しようと試みるとき──何かを探求しようとす るとき──、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論理と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前 提されている」(パース『連続性の哲学』254頁、岩波文庫)。
     ※
 私の思考はより大きなものの思考の一部としてある。「デカルトにおいては、「愛」とは、自分がその一部であると考えられる全体に対してみずから の意志で合体しようとすることだと考えられる」(小林道夫『デカルト入門』191頁)。
     ※
 ベルクソンは存在を三つに分割した。「実際、何も存在しないことがありうる、ということを暗黙のうちにも認めないようにするならば、何かが── 物質、精神、神が──存在することに、誰も決して驚いたりはしないだろう」(『記憶と生』「12 さまざまな偽の問題の批判」、『思想と動くも の』)。
 神についてベルクソンは「神々を生みだす機械という宇宙の本質的な機能」(『道徳と宗教の二源泉』)という言葉を残している。「エラン・ヴィ タールが神々へとつながるとき、それはエラン・ダムール(愛のエラン)と呼ばれるだろう」(篠原資明『ベルクソン』133頁)。
     ※
 またベルクソンは「完全な神秘主義とは、行動であり、創造であり、愛でなくてはなるまい」(『道徳と宗教の二源泉』)という言葉を残している。 「ベルクソンの語る神秘家とは、なによりも行動の人なのである」(『ベルクソン』132頁)。
     ※
 デカルトはなによりも行動の人であった。考える「「わたし」とは、行為のなかにしかない」(渡仲幸利『新しいデカルト』185頁)。
     ※
 考えているのは私の身体である。そんなことはわかりきっている。なぜなら脳は身体なのだから。私の身体が考えているのではない。考えているこ と、すなわち行動していることのうちに身体が存在するのである。
     ※
 私は歩く。歩行することにおいて私は考えている。「歩くことは、しあわせになるための第一歩なのである」(『新しいデカルト』235頁)。
     ※
 四人称で考えること。世界という大きな書物を朗読すること。ベルクソンは『思想と動くもの』の「序論」で次のように述べている。「いま規定した ような読書法[リズムに配慮した朗読法]と、哲学者にすすめる直観とのあいだには、一種の類比がある。直観は、世界という大きな書物から選んだ頁 のなかに、創作の動きとリズムを見出し、共感によって身を置き入れることで、創造的進化を生きなおそうとするだろう」。
 四人称で考えること。創造的進化を生きなおすこと。篠原氏はベルクソンの引用につづけて次のように書いている。「だからこそ、哲学的著作におい ても、リズムの重要性は基本的に変わらない。実際に、コレージュ・ド・フランスの講義において、自らデカルトの『方法叙説』を朗読しつつ、リズム から思考をたどり直してみせたことを、ベルクソンは同じ「序論」の註にしるしている。」(『ベルクソン』142頁)。
 四人称で考えること。リズムから思考をたどり直すこと。剣術の稽古をつづけること。
     ※
 こうして私の思考のうちに他者の言葉が浸透していく。むしろ他者の言葉、死者たちの語らいが私の思考である。私が他者(死者たち)の著書と深く 交わるとき、その書物は私の著書になる。それが四人称で考えるということにほかならない。