「鎌田東二『霊的人間』について」(2006.8)



★8月24日(木):マテリアルとスピリチュアリティ──鎌田東二『霊的人間』(1)

 郡司ペギオ-幸夫は『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』で、「痛み」は「傷み」であると書いている。郡司氏の精密な議論を荒々 しく要約してしまうと、次のようになる。
 痛みは「プログラム」(わたしというシステム)によって計算される「データ」(刺激)やその変形(刺激データの変換の変換の…と無限に続く)で はない。
 認識主体(私というシステム)のフィルターを通した現実世界(仮想世界と区分されるところの現実世界)とは異なる「存在する現実世界」(プログ ラムとデータの外部にある現実世界)というものがあって、プログラムとデータの両者は各々それとの接点を持っている。
 だから「わたしというシステム」が外界から刺激を受け取ったとき、刺激に対してデータとしての対応とプログラムとしての対応とを同時に要請され る。つまりデータとプログラムの変形・変換が双対的に生じ、データとして評価することと評価機構の損傷、すなわち「傷み」とが同時進行する。

《データは計算論的意味を有し、認識される表象を有する。プログラムは摩耗、疲弊をともなうことで、物質的意味を有し、感覚やクオリアを有する。 データとプログラムの両者が質料を介して連関し、まさに質料によって、互いの関係が解体されることで、各々が現実世界との接点を持ちうる。それが 認識や感覚である。そう議論してきた。
 質料は、最初に想定された二つ──内包・外延、プログラム・データ、現実世界・仮想世界──の裂け目で、外部から滲み出るものだ。それは区別を 創り出しつつ、潜在的なものによって区別を無効にする。表象は素材性がもたらす顕在的な区別に依拠し、クオリアは潜在性に依拠するが、ともに質料 を経由して出現し、それ自体質料を啓発する。すべては区別可能でありながら、分かちがたく結びついている。
 このような分離の困難、未分化な質料の痕跡に対して、「痛み」という言葉を使いたいと思う。内包・外延の齟齬と調停が引き起こす、まるごとの現 象が担う質料の痕跡、それを痛みと呼ぶわけだよ。》(146-147頁)

 また「痛み」は二人称の問題である。

《これを扱うアプローチにおいて、いわゆる主観と客観のダブルスタンダードは許されない。媒介者、質料なくして痛みは成立しない。一人称として の、いまここにあるわたしの痛みは、わたしにおいて疑う余地がなく、論じる必要がない。三人称の痛みという、わたしと完全に切れた痛み概念は存在 しない。痛みの問題は、常に、わたしが対峙する他者の痛みの問題であり、わたしの痛みを他者に伝える際の問題である。だからそれは、わたしの痛み を理解し、表現する、という問題として成立する痛みであり、二人称の痛みの起源としてのみ、成立するんだと思う。
 退けるべきダブルスタンダードは、対象レベルとメタレベルの言説を、媒介者なしに用意して、ある場合には前者、別の文脈では後者というように、 適宜使い分けることだよね。…そこには外部が現れない。だから僕たちの現実世界と無関係になる。痛みでは、所有性・私秘性ということもよく議論さ れるけど、これを理解するにも、部分と全体の関係・調停の理解が不可避だよね。》(149頁)

     ※
 長々と別の書物からの引用を重ねたのには、わけがある。鎌田東二いうところの「モノ(スピリチュアリティ)」が郡司氏の「質料(マテリアル)」 の概念と重なって読めたからだ。鎌田氏は『霊的人間──魂のアルケオロジー』のあとがきで、次のように書いている。

《ところで、この十年ほど、わたしは「モノ」にこだわってきた。わたしの「モノ」への関心は、最初、「モノのけ」から始まり、その後、「モノがた り」を経て「モノのあはれ」に移行し、現在は「モノづくり」に多大な関心を寄せている。
 子供の頃、「オニ(鬼)」と呼ぶほかない「モノのけ」を何度も目撃し、十歳で『古事記』という「モノがたり」を読んで次のステージに突入し、そ の後平田篤胤や柳田國男や折口信夫の「モノのけ」研究にインスパイアーされ、ここ数年は本居宣長の「モノのあはれ」論を再吟味しつつ、柳宗悦の民 藝運動などの「モノづくり」伝承の厚みに“驚覚”を重ねている。
 そうした「モノ尽くし」の結果、日本列島文化においては「モノ」の見方の中に「霊性」のはたらきがあったと考えるようになった。そこにおいては 「モノ」は単なる物質でも物体でもなく、「者(モノ)性」も「霊(モノ)性」もともに内在させている。この物質・物体(物)から人格的存在(者) を経て霊性的存在(霊)に及ぶ「モノ」の位相とグラデーションの繊細微妙さ。》(187頁)

 郡司氏の精緻なロジック(概念の精錬)と鎌田氏の「モノ尽くし」(概念の重ね合わせ)とをいっしょくたにすることにはためらいがある。
 でも、「「私だけではない。他者は、世界は、実在する」このような感覚が、我がこととして血肉となること。他者、世界を実感すること」(『生き ていることの科学』7頁)という表現と、「驚覚」もしくは「驚き・不思議の感覚」(『霊的人間』185頁)、「「モノ」感覚」(同188頁)とい う語彙とはたしかに響き会っていると思う。
 郡司氏は、マテリアルとは「媒介者」(「一方で認識とその外部の分離を可能とし、他方その区別を無効にするがゆえに両者を媒介できる。この二つ がマテリアルにおいてつながっている」6頁)であり「潜在性」(「区別を創り出しそれを無効にする力を潜在させるもの」124頁)であるという。 鎌田氏の「モノ」もまた、そのような媒介性・潜在性をもっている。

★8月25日(金):極西と極東のあわいに立ち上がった比較霊性学の書──鎌田東二『霊的人間』(2)

《本書でわたしは、能で言う「諸国一見の僧」のように、各所・各人を訪ね、その場と人の声音を聴き取り、その奏でる言葉によるたましいの鎮まりと 賦活を試みようとした。観阿弥や世阿弥や元雅が編み出した新しい身魂[みたま]の作法とは異なる、地霊の呼び声と魂のアルケオロジーを求める「霊 的人間」の霊性のモノガタリを語ろうとした。》(11頁)

《文学(芸術)も宗教も学問も、ある驚きや不思議の感覚から端を発している。(略)わたしはこれら三つの領域に長いこと関わってきたが、その出自 には共通の“驚覚”があると思う。本書ではその“驚覚”の赴くまま、「魂のアルケオロジー」を求めてやまない「霊的人間」の諸相を実況中継するか のように、語りの舌を動かしてきた。(略)彼らは人間の「原型」を探求する旅に出た旅人たちである。存在の根源としての魂のアルケオロジーを追い 求める捜索者である。わたしもそのような旅人=捜索者の末端につらなっていると思っている。(185-187頁)

 序章とあとがきに綴られたこれらの文章が、本書の実質を余さず語っている。もしここに付け加えるべきことがあるとすれば、それは「能」とはこの 場合「ケルト能」(イエイツの「鷹の井戸」に著者が与えた評言:130頁──松岡正剛の「千夜千冊第五百十八夜」 [http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0518.html]にも同じ言葉が出てくる)と見るべきである ということくらいだろうか。
 実際、本書で取り上げられた「霊的人間」──各章の主人公となるヘルマン・ヘッセ、ウィリアム・ブレイク、ゲーテ、本居宣長、上田秋成、平田篤 胤、稲垣足穂、W・B・イエイツ、ラフカディオ・ハーンの九人、終章にその名が出てくる(イエイツが「生まれながらのケルト人」と呼んだ:179 頁)ウィリアム・モリスに加えて、前著『霊性の文学誌』に引き続き随所に登場するノヴァーリス、ドストエフスキー、ニーチェ、そして出口王仁三 郎、宮沢賢治、折口信夫、さらには(いずれ著者によって主題的に論じられることになるだろう)柳宗悦──は、ケルトと日本、極西と極東の間(あわ い)に立ち現われた、「「潜在」的で「普遍」的なモノを見透す想像力」と「叡智的直観」(184頁)を持った探求者たちであった。
 そして「諸国一見の僧」もしくは法螺(貝)を吹く旅の修行者にして歌う神道家たる著者もまた、幽けきものの声音に耳を澄ませ(11頁,166 頁)、小さきものの存在を幻視する(152頁)「驚覚」──「もののあはれ」を知る心(著者はこれを“a sensitivity to spirituality”と訳している:188頁)もしくは「「物」から「者」を経て「霊」に至る「モノ」感覚」(188頁)──をもって、霊的人間と いう個物(モノ=者)に寄り添いながら「より普遍的で、より古い」(184頁)ものを探求する。
 こうして生まれたのが本書、すなわち(ドイツロマン主義によって媒介された)「極西と極東の相聞歌」(130頁)もしくはケルトと日本の間(あ わい)に立ち上がった比較霊性学の書である。

     ※
 訊き質すのではなく「聴き取る」こと。踏み入るのではなく「おとなひ・おとづれる」こと。傍観者的に眺め記述するのではなく「モノガタル」こ と。ともに霊的世界の探求をめざす「民俗学と心霊研究」(164頁)を統合した、というより文学(芸術)と宗教と学問を「モノ学」(188頁)へ と総合しようとする著者の捜索方法は、霊性をもって霊性を語らせようとするものだ。
 それは観阿弥・世阿弥・元雅三代による「身魂[みたま]の作法」(「新しい身体の身振りを創出し、その身体作法によって鎮まらぬ諸霊のたましい を呼び出だし、そのたましいに怨みや怒りや悲しみや思いのたけを語らせ舞わせて、諸霊を鎮撫するという新しいタマフリの作法」9頁)とは異なる、 新しい「カタリの作法」をもって「たましいの鎮まりと賦活」を試みようとするものである。
 本居宣長を取り上げた章に、「「詩」を生み出す力は「精霊」だというゲーテの直観は、日本の国学者たちが「やまとことば」、とりわけ「やまとう た」の中に「言霊」の力の発現を見て取っていたことと相呼応する」(69頁)と書いてある。モノガタリを語る言葉は「声音」をもっている。そこに は「物」と「者」と「霊」が共に内在している。「そこにおいては「モノ」は単なる物質でも物体でもなく、「者(モノ)性」も「霊(モノ)性」もと もに内在させている。この物質・物体(物)から人格的存在(者)を経て霊性的存在(霊)に及ぶ「モノ」の位相とグラデーションの繊細微妙さ。」 (187頁)
 そしてそこには死者と生者が共在する。死者の魂が生者の身体を導管としてこの世に蘇えるのではなく、声音のうちに死者と生者が重ね合わされてい る。あたかも無数の音の波が合成されて一つの声音となるように。あるいはあの世とこの世が「ロバチェフスキー時空間」において邂逅するように、そ こでは死者(「霊的人間」たち)と生者(鎌田東二)の直接的な会話(カタリ)が成り立つ。「さて足穂は、ロバチェフスキー空間では平行線が平行に ならず、無限大に背反していくという。(略)自分が自分に交わることなく無限大に遠ざかっていくが、しかし馬蹄形に湾曲してすぐ近くに見える。無 限大に離れているのに、間近に見えるというパラドックス。」(123-124頁)

 霊性もまた個にして普遍、単数にして複数の平行線が無限に乖離しつつ近接するパラドックスのうちにある。
 霊性とは同じもののうちに精妙な差異(個物たち)を生みだし、同時に異なるものを普遍のうちにつないでいく媒介者である。善悪、雅俗、男女、老 若、神と悪魔、「もののあはれ」と「もののけ」、妖精と妖怪等々、無数の反対物を自らの内に孕み生みだし育みつつ一致させる。著者は、先に引用し た文章に続いて、稲垣足穂の「弥勒=ロバチェフスキー時空間」を即非の論理(色即是空や魔仏一如など)、反対物の一致(ニコラウス・クザーヌ ス)、絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)に通じるものだと書いている。
 霊性は「モノ」のうちに無数の「間」をひらき、その「あわい」から立ち上がる潜在性である。坂部恵が「生と死のあわい」(『モデルニテ・バロッ ク』)で「Betweenness-Encounter」と訳した「あわい」(「会う)の名詞形)。それは、そこにおいて関係が関係それ自身に関 係するところの界面(木村敏『関係としての自己』)である。
《混乱を極める21世紀を生き始めたわたしたちに必要な知と力とは、生の多様の中に息づき、立ち現われてくる、このような「潜在」的で「普遍」的 なモノを見透す想像力ではないかと思う。本書で取り上げた「霊的人間」たちは、それぞれの探求と叡智的直観を通じてそのことを予感し、それぞれの 時代と地域の困難を生きぬこうとした。そうした「霊的人間」たちの探求が指し示す生と思想をしっかりと読み解き、みずからの霊性を通して受け継 ぎ、この時代の困難を自在に生き抜いていかなければならない。》(184頁)

     ※
 最後に、著者のカタリの巧みさについて簡単にふれておきたい。
 それは、たとえばヘッセとブレイクをノヴァーリスでつなぎ、ブレイクとゲーテをケルト民族の詩篇『オシアン』でむすび、ゲーテと宣長を「原型」 探しの苛烈な精神において「二卵性双生児」と見るといった、各章の「間」をうずめていく語りの趣向のうちに端的に示されている。
(ゲーテと宣長の共通点は松岡正剛(千夜千冊)[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya /senya0970.html]の指摘を踏まえている。足穂とイエイツについて「ともに、月に憑かれて妖精─妖怪的人生をそぞろ歩いたルナ ティックな人物である」(134頁)とあることなども含め、本書には鎌田東二と松岡正剛の「ロバチェフスキー的関係」が見え隠れする。)
 しかしそれらは見やすい例にすぎないのであって、序章から終章、あとがきにいたる本書の構成のうちには、おそらく私などが迂闊にも気がつかない 大掛かりな仕掛け(霊性もしくは霊的人間のロバチェフスキー的邂逅)が施されているに違いない。実際、叙述のなかの一見何気なく鏤められた言葉の うちにさえ、その痕跡のようなものが仄見えるのである。
 いま思い出すままに若干の例をあげるならば、ヘッセの章の『デミアン』を話題にした箇所(17頁)に出てくる「カインのしるし」は、平田篤胤の 章(103頁)に出てくる「顔にアザアルノガ、兄弟ヲコロシテ家をウバフ相也トテイヤガラレ」(襖の下張りから発見された篤胤の手紙)と相呼応し ていないか。
 また同じく『デミアン』の語り手シンクレールの夢の中に出てきた「鋭い精悍なハイタカの頭をした猛鳥」(アプラクサス)とイエイツの章の冒頭に 登場する女が化身した鷹(「鷹の井戸」)は不可視のロバチェフスキー的導管を通じて相互変換の関係にあるのではないか、等々。