「養老孟司のロジック・その他」(2006.1-3)



★1月9日(月):養老孟司のロジック

 正月明けに関連本を読んで以来、すっかり養老節にはまってしまった。最新刊の『無思想の発見』(ちくま新書)はまだ冒頭の二章を読んだだけだ が、茂木健一郎さんいうところの「独特の、ひんやりと肝に響くロジックの痛快さ」(『脳の中の人生』)が存分に発揮されていて、一字一句おろそか にできない。気楽に読み流すこともできないわけではないし、本の造りはむしろそうされることを前提にしているようだが、しかしそれだと床屋談義に 終わってしまう。

 たとえば靖国問題について、養老孟司はこう論じる(23-24頁)。──首相が靖国に参拝すると、ジャーナリストが「公人としてか、私人として か」と問う。私が首相だったら「個人です」と答えるであろう。「俺個人が靖国に参拝しようが、オウムに入ろうが、それは俺の勝手だろうが」という ことを憲法は許しているはずなのである。ところが、そんなことを考えたこともない人が多い。あろうことか、公のために都合が悪いから、首相は参拝 を我慢せよという論評まで出る。公のために都合がよかろうが悪かろうが、個人の思想・信教の自由を妨げてはいけない。公が困るというなら、むしろ ますます個人としての参拝を禁じてはいけない。それでなきゃ、信教の自由なんて憲法の規定は、そもそも不要ではないか。

 この「ロジック」はまったく正しい。最近の首相発言は、もしかするとこの論に立っているのかもしれない。あなた個人としてはそれでいいとして も、あなたの振る舞いを中国や韓国の国民はどう思うか。一国を預かる政治家としては戦略性もしくは政治的・外交的センスがなさすぎる。あまりに軽 率ではないか。この批判は「あなた個人としてはそれでいい」と言ったとたんに無効である。問題は「個人」だからである。憲法問題としてはそれで終 わりである。(しかし日本国憲法は「天皇」という例外を認めている。天皇に思想・信教の自由が認められるかどうかよく知らないが、少なくとも参政 権は認められない。また、皇室典範第10条には「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」とある。婚姻の自由が認められない 皇族男子がはたして「個人」といえるか。)
 養老孟司の議論は、実は「日本の世間における、私というものの最小の「公的」単位、それは個人ではなく、「家」だった。日本の世間は「家という 公的な私的単位」が集まって構成されていた」(22頁)という「結論」の応用問題としてなされている。だから、靖国問題をめぐる養老孟司のロジッ クは二枚腰なのである。養老さん、あなたは小泉首相の靖国参拝を認めるんですか。あなたは昔の家族制度に戻るべきだとおっしゃるんですか。そんな 質問から始まる議論を床屋談義という。そこには結論はあってもロジックはない。

     ※
 昨年から継続的に『日本人の身体観』(日経ビジネス人文庫)を読み進めている。今日も「仏教における身体思想」と「中世の身心」の二つの論考を 収めた第Ⅳ章「中世の身体観」を読み返した。何度読んでも面白い。歌と神(仏)、歌論・連歌論と日本仏教思想という、このところ強烈に惹かれてい るテーマにストレートにかかわってくる。それとは別に、今回読み返して、養老孟司の「ひんやりと肝に響くロジックの痛快さ」の由来に思いあたっ た。「仏教における身体思想」に、抽象思考と実証思考の対になる語がでてくる。これは以前にも引いた文章だが、大事なところなのでもう一度引用す る。
《要は、わが国にも西欧にも、同じように抽象思考があり、その思考の形式に従って、「解毒剤としての実証思考」が成立するのではないか。もしそう だとすれば、わが国の実証思考を知るためには、わが国の抽象を支配する思考すなわち仏教を知らなければならない。ところが、面白いことに、仏教と いう抽象思考については、書かれたものがたくさんあるのだが、実証思考の方は、この国では「思想」として表明されない傾向があることが注意され る。》(『日本人の身体観』231頁)

 最後のあたりが『無思想の発見』につながっている。それはともかく、この表明されない実証思考に対する抽象思考が「ロジック」にかかわる。つま り、養老孟司のロジックとは抽象思考の徹底なのである。日本国憲法は「個人」を「公的な私的単位」と規定した。公権力に枠を嵌め、公が私に干渉し てはならない範囲を人権として定めたのである。だから首相が「個人として」靖国に参拝することは憲法が認めている。(養老孟司はそう書いていない が、憲法の原理を徹底するなら、天皇家という存在は認められないだろう。)
 小泉首相がそう考えているかどうかは知らないが、靖国参拝を批判するなら、まずこの憲法原理をどう考えるか。「あなたは小泉首相の靖国参拝を認 めるんですか」。そう問うあなた自身はどう考えているのか。憲法原理としての「個人」を認めないというのか。(養老孟司はそう書いていないが、そ んなことは時と場合による、では原理の名に値しない。)それでは、それに代わる原理を示されたい。改憲をいうなら、第九条ではなく、根本は民法に 関わる部分であろう。「あなたは昔の家族制度に戻るべきだとおっしゃるんですか」。そんなところに戻れなんて思っていない。こちらはまもなく死ん でいく身だ。皆さんどうお考えですかと、こんどはこちらが訊く番だ。天皇家も、お茶の表千家も裏千家も、その他の宗家も、相変わらず続いている。 小泉首相は政治家として三代目である。「それをどう思っているのだろうか。最後は再びその辺に落ち着いたとしても、なにか具合の悪いことでもあり ますかね」(『無思想の発見』32頁)。

 これだけではない。養老孟司のロジックの凄みは、抽象思考がもつ凄みでもある。レトリックとロジックを腑分けするのが面倒なので、そのあたりの 経緯がよく示されている箇所をまるごと引用しておく。
《大家族の家単位だった私的空間が、憲法上つまりタテマエ上は、個人という実質的最小単位まで小さくなってしまったのが、戦後という時代である。 そうなると、実質とタテマエをなんとか工夫してすり合わせるのが日本人だから、どうなったかというなら、「大きい」家族を、「小さい」個人のほう にできるだけ寄せるしか手がない。その折り合い点が「核家族」になったんでしょうが。/「ひとりでに核家族になったんだろ」/たいていの人はそう 思っているはずである。冗談じゃない。そんな変化が「ひとりで」に起こるものか。「ひとりでに」というのは、/「俺のせいじゃない」/と皆が思っ ているというだけのことである。だって憲法のせいなんだから。》(『無思想の発見』29頁)

     ※
 養老孟司の文章は一字一句おろそかにできない。慎重にロジックを腑分けしながら読み進めないと、結論を見失う。というより、性急に結論を求める 床屋談義に陥ってしまう。言われていることはしごく簡単なことであるはずなのに、腑に落ちさせるのに難儀する。そこに「思想」を読み込もうとして も、しかと掴めない。「養老孟司の思想」と呼ぶべき実質は、たぶんない。そこにあるのは、ロジックと実在感だけだろう。あるいは、抽象思考と実証 思考が切り結ぶ「表現としての思想」の解剖学。
 今日、『日本人の身体観』と同時期に雑誌連載された『身体の文学史』(新潮文庫)を入手した。かつて読んだ養老本のなかでも『唯脳論』と並んで もっとも刺激を受けた本。『無思想の発見』とあわせて、当分はこの三冊を熟読玩味してみよう。養老節に浸りきることでしか、そこから抜け出すこと はできそうにない。

★1月10日(火):今年最初に読んだ本──『解剖学教室へようこそ』

 年末から年始にかけていくつかの雑誌、本を手にしたが、最後まで読み終えたのは二冊だけ。
 その1.養老孟司『解剖学教室へようこそ』(ちくま文庫)。養老人間科学の原点。自然(人体)と学問(科学的思考)と歴史(解剖史)をめぐっ て、平易簡明な物言いだが、実は理解=体得するには難解な養老節が炸裂する。
 人は何のために解剖するのか。人体を言葉にするためである。切れないもの(自然)を切るためである。自然を言葉でできた世界におきかえること。 それが学問である。アルファベットを使う民族にとって、世界は階層でできている。単語の下につねに一つ下の階層(アルファベット)を見るからであ る。人体も階層でできている。その単位(アルファベット)は細胞である。細胞は細胞からつくられる(自己複製)。細胞はウチとソトを区切る。細胞 は運動し、死ぬ。この三つの性質をもつことによって、細胞は生物の基本単位である。ここに、「情報」と「システム」の養老人間科学が胚胎する。
 養老人間科学の「方法」を仏教思想の語彙に翻訳し、その視線に「死せるキリスト」のマンテーニャのそれと同質のものを見てとった南直哉(みな み・じきさい)氏の解説が見事。
《…人は理解した「事実」だけを語る。理解しなかったことは語れない。当たり前である。その「理解したこと」を「事実そのもの」だと思い込む態度 を、仏教では「妄想分別[もうぞうふんべつ]」と言い、「無明[むみょう]」と言う。》
《…自分が事実そのものを見ることはできなくとも、どのように事実を見ているかを可能な限り明確に書くことで、先生はその先の事実の在り処を示そ うとする。/その事実を、先生は「自然」と言い、それは「切れていない」と言う。この簡単な物言いは恐ろしい。仏教が「如実知見[にょじつちけ ん](ありのままに見ること)」と称して見ようとしたのは、このことだ。》
《先生は本書の最後で、例によって簡潔明瞭に言う、「心は、からだがあって、初めて成り立つのである」。この「事実」を仏教は、「諸行無常」と言 う。》

★1月11日(水):今年最初に読んだ本──『生物から見た世界』

 その2.ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界──見えない世界の絵本』(日高敏隆他訳,岩波文庫)。
 生物は機械ではない。主体である。生きた主体なしには空間も時間もありえない。たとえばダニにとっての瞬間(最短の時間の断片)は十八年であ り、人間にとってのそれは十八分の一秒である。生物は「環世界 Umwelt」という閉じたシャボン玉によって永遠に取り囲まれている。純粋な自然の設計(プラン)によって支配されている。すべてを包括する世界空間と はフィクションである。環世界は主観的現実にほかならない(カントの学説の自然科学的活用)。下等動物の知覚世界・作用世界から形と運動という高 度な知覚世界を経て人間の環世界へ。ユクスキュルの叙述は、本来見えない世界を鮮やかに、そして平明に解き明かす。
 実に豊饒な思想的広がりをもった古典的名著である。とりわけ12章「魔術的環世界」と13章「同じ主体が異なる環世界で客体となる場合」が素晴 らしい。聞き囓りのアフォーダンスの理論や、今読み進めているベルクソンの思索にダイレクトにつながっている。ハイデガーの「世界内存在」への隠 蔽された回路は、木田元氏の本でつとに紹介されている。本邦の今西進化論も想起させられる。なによりファーブル(昆虫)やダーウィン(ミミズ)や 養老孟司(人体)の観察につながっているのが楽しい。科学することの歓びがあふれている。前二者は本書にその名が出てくる。養老孟司の名は、本書 と同時に『解剖学教室へようこそ』を読んだがゆえの連想だが、本書末尾の次の文章は養老人間科学における「実在(感)」や「自然」の定義そのもの だ。
《このような例[天文学者や深海研究者や化学者や原子物理学者や感覚生理学者や音波研究者や音楽研究者の環世界がそれぞれに異なること]はいくら でもある。行動主義心理学者の見る自然という環世界においては肉体が精神を生み、心理学者の世界では精神が肉体をつくる。
 自然研究者のさまざまな環世界で自然が客体として果たしている役割は、きわめて矛盾に満ちている。それらの客観的な特性をまとめてみようとした ら、生まれるのは混沌ばかりだろう。とはいえこの多様な環世界はすべて、あらゆる環世界に対して永遠に閉ざされたままのある一つのものによって育 まれ、支えられている。そのあるものによって生みだされたその世界のすべての背後に、永遠に認識されないままに隠されているのは、自然という主体 なのである。》

★1月12日(木):年の初めから読んでいる本──『象られた力』

 昨年の暮れ、読み終えた本、読みかけの本、雑誌などを段ボール箱三つに詰め込んで「書庫」に送った。(「書庫」というのは、高校の頃まで暮らし ていた部屋のことで、いまは乱雑にたくさんの書物が埃を被って棲息している。梱包されたまま数年放置されたままのものもある。いわば私の「無意 識」の場所で、いつかここを整理整頓したいと永年思ってきた。そのために家を建てようかとさえ考え始めている。)
 それでも常備本以外に多くの読み残し本が年を越えて、いつか持ち主に繙かれる日を恨めしげに待っている。鬱陶しいが、一冊一冊手にとってみる と、やっぱり「書庫」送りの刑に処するには忍びない。計画的に読むことは不得手なので、結局、これまで通り無造作に本箱に平積みになる。そのうち パニックに襲われて、怒濤の一気読みに突入するかもしれないし、またまた越年の憂き目をみることになるかもしれない。
 整頓はされなくても整理された本箱を眺めていると、気分が一新する。そこで、新しい年をむかえ、読み囓り本(たとえば、年末年始に読破するつも りで結局ほとんど読めなかった『小林秀雄対話集』や『柳田國男文芸論集』)はこの際いったんわきへおいて、新しい本を三冊、同時進行的に読み始め た。その一つが養老孟司著『無思想の発見』で、この本のことはすでに書いた。あとの二冊(SFと脳科学の本)について、今日と明日の二日にわけて 書く。書くといっても、いずれも精読モードに入っていて、いつ読み終えるか検討がつかないので、途中報告の域を出ない。

     ※
 SF小説はめったに読まない。幻想小説、伝奇小説、ファンタジーもほとんど手にしない。読めばきっと強く心惹かれ、深く感銘を覚える作品がゴロ ゴロころがっていることは(実は)よく知っているのに、なぜだか手が出ない。たぶん余裕がないのだと思う。なにを焦っているのかは知らないが、今 はとても腰を据えて読む時間がないと思い込んでいる。(きっと読み始めたら、なにもかも放り投げて熱中し我を喪うことが判っているから、それを警 戒しているのだと思う。)それでもSFはたまに読む。
 ここ10年ばかりの間に読んだもののなかで心に残っている作品を思いつくままに挙げてみる。グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』と『女 王天使』と『火星転移』。グレッグ・イーガンの『祈りの海』と『しあわせの理由』。テッド・チャンの『あなたの人生の物語』。この三人の作品は別 格で、ルーディ・ラッカーの『ホワイト・ライト』やオースン・スコット・カードの『消えた少年たち』もかろうじて記憶に残る。マンガでいえば、星 野之宣の『ブルー・ワールド』や自選短編集『MIDWAY』二編、藤子・F・不二雄の「少年SF短編集」と坂口尚の『VER SION』と萩尾望都の『バルバラ異界』など。(SFはよくできたマンガで読む方が濃い印象が残る。)

 この正月明けから久しぶりのSFに没頭している。読んでいるのは飛浩隆著『象られた力』(ハヤカワ文庫JA)。表題作のほか「デュオ」「呪界の ほとり」「夜と泥の」と4つの中編が収められている。第26回(2005年)日本SF大賞受賞作。だから読み始めたわけではなくて、この作品のこ とは(実は)以前からよく知っていた。読まなくても凄い作品であることは知っていた。このあたりの勘は冴えている。これでも中学、高校の頃までは SFファンだったのだから、勘ははずさない。
 まだ表題作の途中までしか進んでいないが、とても面白い。エンブレム文字、文様文字、要するに図形言語。その多彩な装飾文様は数十の基本図形に 分類される。それらが組み合わさって、そのひとつひとつが抽象的な意味や寓意、神秘的な役割を担う「エンブレム」を構成する。それだけではない。 情動、感情の動きを人間の内部から吊り出してくる。

《百合洋[ユリウミ]のエンブレムが感情を抽き出す具体的なメカニズムは解明されていない。しかし大ざっぱに言えば、情動は人間が進化の過程で環 境に最適化するために作り上げたツール、機械的な仕組みだといえる。人間の内部にセットされたそのツールを、外部から呼び出したり制御したりする コマンド、それを言語の組みあわせで開発しようというのが詩や演劇や小説といった文学システムだったわけだが、感情じたいがそもそも機械的なもの なら、もっと別なコマンドを──たとえば図形の形で──開発することも可能なのではないか。図形化したコマンドを光学読み取りさせて、人間という システムに指令を出す……どこにもふしぎはない。》(「象られた力」260頁)

 このアイデアがすこぶる面白い。そういえば、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』にも、表題作に出てくる非線形書法体系や「七十二文字」に 出てくる真の名辞による単為生殖といった秀逸なアイデアがあった。(カバラの例をもちだすまでもなく、文字や言語をネタにしたSFは無尽蔵に可能 なのではないか。ジェラール・クランという作家に『こだまの谷』があって、この作品には「音響化石」のアイデアが出てくるらしい。いつか読んでみ たいものだ。)
 手練れの書き手を思わせる部分と、生まれて初めてSFを書いた人の初々しさを思わせる部分とが同居している。この文体やストーリーの語り方(た ぶんネタは早々と割れる)も、どこか稚拙さとすれすれの懐かしいところがあって、それがかえって新鮮に感じられる。なかなかいい。(飛浩隆氏の 「Shapesphere 「棚ぼたSF作家」飛浩隆のweb録」[http://d.hatena.ne.jp/TOBI/]を覗いてみると、ジョン・ファウルズの『魔術師』が 「オールタイム・ベスト」だと書かれていた。この作品もいつか読みたいと思っていた。)
 これまで読んだなかで、これだけは抜き書きしておきたい一文がある。「「かたち」とは数学的で、抽象的なものである一方、それと同じくらい身体 的で肉体的なものだ」(「象られた力」291頁)。これは深い。

★1月13日(金):年の初めから読んでいる本──『感じる脳』

 心脳問題や脳科学関係の本の在庫がたまっている。「書庫」送りにできず、もう何年も本箱の棚で順番待ちのまま「熟成」している。
 いま目につくものをざっと書き出してみると、ペンローズ『心の影──意識をめぐる未知の科学を探る』をはじめ、チャーマーズ『意識する心──脳 と精神の根本理論を求めて』やヴァレラ他『身体化された心──仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』、信原幸弘『心の現代哲学』などは、もう かれこれ5年以上は積ん読状態のまま。ラマチャンドラン他の『脳のなかの幽霊』もそうで、去年はこれに続編『脳のなかの幽霊、ふたたび──見えて きた心のしくみ』が、さらにカトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか──ニューロサイエンスとグローバル資本主義』が加わった。サクサ クと読むつもりだった池谷裕二『進化しすぎた脳──中高生と語る[大脳生理学]の最前線』も未読。(ふと気になって確認すると、同じラインアップ を前にも書いている。よほど気にしているのだ。)
 そのほかにも、機会さえあれば(積ん読本を読み終えて心の負担が軽くなれば)買っておきたい関連本が山積みで、ダマシオの『生存する脳──心と 脳と身体の神秘』や『無意識の脳 自己意識の脳──身体と情動と感情の神秘』など気になる本はやたらと多い。今年こそはこれらの購入本、未購入本を腰を据えて読み破り、心脳問題に自分なり の決着をつけておきたい。決着がつかないまでも(つくはずがない)おぼろげな見通しをつけておきたい。そう思っている。これは毎年思っている。

 で、年の初めから、昨年の11月衝動的に買い求めたダマシオの『感じる脳──情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』(ダイヤモンド社)を読み始めた。例によって、全7章のうちまだ第2章の途中までしか読んでいないが、結構いけそうな気がする。何よ りもスピノザのことが書いてあるのが嬉しい。情動と感情の本質、心と身体の関係という問題に関して、スピノザは今日の研究者のアイデアを予示して いる。ダマシオはそう書いて、次の五つの点を指摘している(30-33頁)。
 第一に、スピノザは感情のプロセスと情動のプロセスを区別した。第二に、スピノザはネガティブな「アフェクトゥス」は理性によって誘発されるよ り強力でポジティブな「アフェクトゥス」によってのみ制限し無効にすることができるという考え方を示した。この「アフェクトゥス」、英語で「ア フェクト」には「情感」という訳語があてられている(50頁)。第三に、スピノザは心と身体を同じ実体の平行的属性であるという考え方を示した。 第四に、スピノザは「コナトゥス」の考え方を示した。第五に、スピノザは善悪、自由と救済という概念をアフェクトゥスや生命調節と関連づけた。 (ただしこの最後の点については、桜井直文氏によって批判されている。)
 いまのところ、興味深いのは第一の点で、ダマシオによると、情動(エモーション)は身体という劇場で演じられ、感情(フィーリング)は心という 劇場で演じられる(51頁)。《情動とその間連反応は身体と連携しているのに対し、感情は心と連携している。思考がどのように情動を誘発し、身体 的情動がどのようにしていわゆる「感情」という種類の思考になるのかを研究すれば、それにより、心と身体という、シームレスに編まれた一個の人間 有機体の明らかに異質な二つの側面についての特別な見解がもたらされるはずだ。》(25-26頁)
 情動は生命調節の基本的なメカニズム(ホメオスタシス機構)の一部である。感情も生命調節に貢献するが、それはもっと高いレベルにおいてであ る。「感情は現在の命の状態を心の言語に翻訳しているのだ」(120-121頁)。
 面白いのは、情動を含むホメオスタシス機構が「入れ子式」であるという指摘だ。ダマシオは「小さなアミーバから人間にいたるまで、すべての生物 は命の基本的な問題を〈自動的に〉──つまり、適切な推論をいっさい必要としないで──解決するようになっている装置を備えて生まれてくる」 (54頁)と書いている。そして、代謝調節、基本的反射、免疫反応、苦と快の反応(接近反応や退避反応)、動因と動機(欲求と欲望)、固有の情動 という低次(単純)から高次(複雑)にいたる「自動化された生命調節」をひとわたり概観し、そこに「ある興味深い構築プラン」が見えてくると書い ている。「つまり、単純なものを複雑なものの中に「入れ子式」に配置していることだ」(62頁)。
 この「入れ子式」つまりフラクタル原理は、養老孟司が「仏教における身体思想」(『日本人の身体観』)で、古い仏教の身体思想の論理的な面を 「自己相似」つまり構造的アナロジー観念と指摘したことと響き合っている。このことは、いつかまたじっくりと考えてみよう。

★1月14日(土):感情の論理

 年の初めから読んでいる本、『無思想の発見』(養老孟司)と『象られた力』(飛浩隆)と『感じる脳』(ダマシオ)。これら三冊の本には共通項が ある。これはいま思いついたことだ。それは偶然ともいえるし、牽強付会のこじつけとも思えるが、共通項とは「感情」である。『象られた力』の表題 作に出てきた図形文字は、人の情動や感情を抽き出すものだった。『感じる脳』は、まさしく情動と感情をめぐる神経生物学の書である。
 『無思想の発見』の第2章に「同じ」と「違う」をめぐる議論が出てくる。養老人間科学の基本の部分にあたる議論だと思う。情報とシステム、抽象 思考と実証思考、概念世界と感覚世界、脳(意識)と身体。いまここに並べた対になる語の前者が「同じ」、後者が「違う」の系列に属する。『無思想 の発見』では、この「同じ」と「違う」をめぐる議論が、養老孟司のかねてからの主張である「個性」論につながっていく。個性(違い)が刻印される のは身体であって、意識や心に個性(違い)があるわけではない。「同じ」だからこそ理解できるのである。それは「感情」だって同じことだ。「感情 は共感である。共感されない感情ほど不気味なものはない。感情はおそらく通常の論理回路を経ないで相手に伝わる。私はそう思っている。怒りも悲し みも笑いも、あきらかに伝染するからである。それならそこにも個性はない。」(『無思想の発見』61頁)

 感情の論理という言葉がある。梅原猛の『美と宗教の発見』でも見かけた。感情は数学的論理や「通常の論理回路」は経由しないかもしれないが、人 に伝わる以上、そこに論理を見出すことはできる。というか、何かが伝わるとき、その何かが伝導される通路、回路のことを論理といえばそれまでで、 これは定義の問題である。
 調べてみると、ベルクソンの『創造的進化』の2年前にリボーという人の『感情の論理』という本が出版されている。最近では、ルック・チオンピと いう人の書いた『感情論理』と『基盤としての情動―フラクタル感情論理の構想』が出ている。いずれもよく知らないが、そそられる。とりわけ「フラ クタル感情論理」には興味がつのる。感情システムをオートポイエーシス・システムとして論じたものらしい。
 それはともかく、養老孟司のいう「通常の論理回路を経ないで相手に伝わる」共感としての「感情」が「言葉」にかかわってくる。(明日に続く。)

★1月15日(日):養老孟司のロジック(再び)

 昨日の話題の続き。──「同じ」と「違う」の一つのヴァージョンに「概念世界」と「感覚世界」がある。『無思想の発見』での養老孟司の定義によ ると、「五感で捉えられる世界をここでは感覚世界と呼び、それによって脳内に生じる世界を概念世界と呼ぶ」(120頁)。この本来交わることのな い二つの世界の界面に、というより重ね描きのうちに「言葉」がスーパービーンする。
《感覚世界つまり物体の世界を一つの楕円で示し、概念の世界を、その上に位置する、もう一つの楕円で示す。両者の重なりが「言葉」である。言葉と いう道具は、この二つの世界を結ぶ。感覚の世界は「違い」によって特徴づけられる。概念の世界は、他方、「同じ」という働きで特徴づけられる。説 明はこれで終わりだが、いくらなんでも簡単すぎるかもしれない。ここで大切なことは、言葉自体は「同じであって、違うものだ」ということである。 だから言葉は、「違う」という感覚世界と、「同じ」という概念世界を結びつけることができる。》(120-121頁)
 以下、私がいう「ネコ」とあなたがいう「ネコ」は「違う音」だが、言葉の上では「同じネコという言葉」として把握される。文字についても事情は 等しい、と議論が続く。さらに、概念世界がなぜ「同じ」なのかというと、「脳の中ではすべては神経細胞の興奮、つまり電気信号だから」と答えるし かない。これに対して、感覚世界の「違い」は、耳で光は捉えられない、目で音は捉えられない、といった入力器官の違いに基づく。「そもそも大脳、 中脳、後脳という脳の大区分自体が、進化的には嗅覚、視覚、平衡覚(後に聴覚が加わる)に関係している。そこから生じる「違いの」世界を、右に感 覚世界と呼んだ」(122頁)と続く。
 そして、概念世界にも「違い」はある。「馬」と「白馬」の違いは概念世界に属し、「あの馬」「この馬」の違いは感覚世界に属する。中国人が「白 馬は馬にあらず」といった区別を持ち出す理由は、中国語に定冠詞、不定冠詞の区別がないからだ、と発展する。(この中国語の話は、以前「鎌倉傘張 り日記」に書いてあった。)

 このあたりの議論は、養老節の典型例だと思う。そもそもからして、概念世界と感覚世界に「重なり」があるというのは乱暴にすぎる。ミソもクソも 一緒くたにした議論である。いや、ミソとクソはどちらも物質だから混合させられる。だったら、頭の中のリンゴと目の前のリンゴに「重なり」などあ るか。養老孟司の議論は面白いが、こういうところでいつも躓く。要は「唯脳論」が心底判っていない。
 「同じ」と「違う」の系列では、「概念世界」は「思想」に、「感覚世界」は「現実」に対応する。この「思想」が「現実」とは関係ない、というの が「書かれない思想」(142頁)としての「日本人の思想」であり、言葉で「これだ」と示すことのできない「無思想という思想」(188頁)であ る。
 ところで「唯脳論」の立場からいえば、「思想」も「現実」も「どちらもじつは脳の中じゃないか」(70頁)ということになる。概念としてのリン ゴと感覚としてのリンゴが重なるのはじつは脳の中だ、といっても同じことである。このあたりでいつも混乱をきたす。養老孟司がいう「脳」とはいっ たいなんだ。池田晶子のように「私は氏が「脳」と言うとき、常に半分は〈魂〉の意で、聞いている」(『魂を考える』)などと言ってみたくなる。
《文科系の人が、こうした言い方を嫌うことはわかっている。/「そもそもお前のいう脳の意味はなんだ」/と訊くからである。意味もクソもない。脳 そのものを、われわれは直接に五感で捉えることができる。/「それとあんたの思想は深く関係しているよ」/私はそういっているだけである。それは 身体があなたを成り立たせているというのと、同じことである。》(70頁)
 ここで大切なことは、「同じ」と「違う」は反対語ではないという指摘だろう。《…感覚で吟味すれば、事物はすべて「違ったもの」である。それを 概念化すれば「同じもの」になる。(略)それ[同じであること]を確認するためには、なんらかの「測定」をするしかない。測定は感覚の世界の話で ある。つまり「同じ」と「違う」は、反対語というより、補完的なのである。》(42頁)
 これと同じことが「思想」と「現実」、「ある」と「ない」についてもいえる(71頁)。だとすると、ゼロに「数字のなかの一つの数字」と「とり あえずそこには数がない」の二つの意味があるように(114頁)、養老孟司の議論はつねにダブルミーニングなのである。だから、脳内の概念世界や 思想と、脳に入力される感覚世界や現実という「次元が違う」ものが重なったり、「どちらもじつは脳の中じゃないか」といわれたりする。
 そもそも「脳」という言葉自体、五感で捉えられる身体であると同時に、そのはたらき(とはたらきによってもたらされるもの)との二つの意味で使 われている。(これと同じことが、茂木健一郎の「脳内現象説」にもいえる。)脳を五感で捉えている人(たとえば解剖学者や脳科学者)と、その脳の はたらきによって言葉を紡ぎだしている人(物書き)との「違い」が(電気信号のうちに)ぬりこめられている。AとBの違いや対立が実は同じAと呼 ばれるものの中で成り立つ。こういう事態を身をもって生きることを「超越論的」態度と呼ぶのだと思うが、それもまた概念世界(文科系)のたわ事で あろう。(明日に続く。)

★1月16日(月):階層構造と入れ子

 年の初めから読んでいる三冊の本(『無思想の発見』『象られた力』『感じる脳』)には共通項があって、それは「感情」である。そして「感情」は 「言葉」にかかわってくる。この一昨日以来の話題からどんどん離れていくが、気にせず先へ進むことにする。

     ※
 昨日、養老孟司が「感覚世界つまり物体の世界を一つの楕円で示し、概念の世界を、その上に位置する、もう一つの楕円で示す。両者の重なりが「言 葉」である」と書いているのを、「この本来交わることのない二つの世界の界面に、というより重ね描きのうちに「言葉」がスーパービーンする」と書 き換えた。感覚世界と概念世界が「重なる」ことに納得がいかなかったからだ。
 唯物論でも観念論でもない唯脳論(もしくは脳内現象説)が了解できていれば、こんな書き直しなど無用のことだろう。それはともかく、この「重ね 描き」というのは大森荘蔵のキーワードの一つで、スーパービーン(supervene)という語は、たとえば次のように使われる。「一般に、下位 レベルでの物質諸部分が協同してある種の自律的なパターンを局所に実現しているとき、その上に(現代風に言うなら)上位の個物ないし個体特性が スーパービーン(併発)している」(上野修『スピノザの世界』116頁)。
 ここに出てくる下位レベルや上位という語は、階層を思わせる。『無思想の発見』で養老孟司は、日本人は階層を考えるのが苦手だという議論を展開 している。目の前のリンゴ二個とナシ二個は感覚世界では「違うものが四つ」となるが、意識(「同じという強いはたらき」)の世界では「同じ」「同 じ」を繰り返して世界が単純化される。リンゴとナシ(二つ)、果物(一つ)、食物(一部)と概念が順送りに大きくなり、果ては数学的帰納法よろし く唯一絶対の神に至る(199頁)。
《つまりこの場合、「同じ」で括られる階層を、順次「上に登っていく」のである。「思想なんかない」といって、「思想をただちに現実に変換する」 のは、この場合、「下に向かっていく」ことである。現実が下で、思想が上だからである。それもあって、日本人は階層を考えるのが苦手である。現実 から思想へ、思想から現実へと、現実と思想の一段階を往復して、それで終わってしまう。(略)
 日本人が階層を考えるのが苦手なのは、文章に関係節がないからだという意見もある。関係節があるということは、一つの文章のなかに階層があるこ とを意味する。主文と副文という表現自体がそれを示している。かなり簡単な文章にもそれがあるということは、アイという語が「実存的主体としての 私」を暗黙に導くのと同じように、階層をつぎつぎに積み重ねることが「当然だ」という暗黙の前提を生む。だから西欧ではよく階層構造を示す図を描 く。
 生物学の世界でもそれは当然で、リンネの分類体系は典型的な階層構造になっている。(略)/この図はじつは「同じ」で次々に括られる概念の世界 を示しているわけで、つまり脳ミソのはたらきを示している。それを、/「世界がそうなっている」/といって「外に押し付ける」のが西洋なのであ る。自分の頭を外に押し付けて、客観的、論理的に世界はできている、それは神様の仕業だという。欧米ではそれを「思想がある」というのである。》 (200-201頁)
 以下、「この「同じ」世界の唯一の解毒剤は、感覚世界である」という議論が続く。『日本人の身体観』に収められた「仏教における身体思想」で は、抽象思考(キリスト教)の「解毒剤としての実証思考」(自然科学)が論じられていた。

 このあたりのところは、川崎謙著『神と自然の科学史』と密接にかかわってくる。それ自体は無意味な世界である「素材の世界」が、思考の枠組み (言語のなかに織り込まれた世界観)のはたらきによって屈折する。西洋にあっては、ロゴス(言葉=神)の枠組みの中で展開された形而上学と自然科 学(自然哲学)によって、「素材の世界」は「ネイチャー」(神の創造物)としての意味と秩序が与えられる。日本にあっては、道元によって日本的に 変容された諸法実相の枠組み(五感にふれる万物にカミの霊性の「活らき」をみる神道的心情)によって、それは「自然」(無上仏)として認識され る。
 言語の中に織り込まれた世界観。定冠詞や不定冠詞、関係節の有無、その他人称や時制(tempus)、法(modus)、相(aspect)、 態(voice)といった文法的概念と思考、認識との関係。これらのことについては、いずれ別の機会に腰を据えて考えることにしよう。(できれ ば、「日本語による哲学制作の可能性」といった問題を、中世の歌論や連歌論、能楽論の類の読解を通じて、それも日本における抽象思考すなわち仏教 とからめて考えてみるという、このところしだいに大きな「プロジェクト」に発展しつつあるテーマとともに。)
 ここでは、日本において西洋の階層構造に対応するものはなにか、ということを考えてみたい。それはすなわち「諸法実相」の枠組みであり、ひらた くいえば「入れ子式」の構造なのではないか。
 『感じる脳』でダマシオは、生命のホメオスタシス機構は「入れ子式」であると論じていた。それが、仏教の身体思想が「自己相似」(アナロジー) であるとする養老孟司の議論(「仏教における身体思想」)と響き合っているのではないかということはすでに書いた。要するに、「AとBの違いや対 立が実は同じAと呼ばれるものの中で成り立つ」場合、ここに二度出てくる「A」なるものが実は「同じ次元」に属するという事態をさすのではない か。漠然とそう考えているのだが、これでは「それのどこが『要するに』なのだ」と問われても仕方がないだろう。(明日に続く。)

★1月17日(火):余談二つ

 なかなか本題にたどりつかない。そのうちなにが本題だったかわからなくなる。どうでもよくなっていく。
 一昨日、言葉が生まれる場所とその働きをめぐる養老説を引用した。いわく、感覚世界と概念世界の重なりが言葉である。言葉は「同じであって、違 うものだ」。だから言葉は「違う」という感覚世界と「同じ」という概念世界を結びつけることができる。『無思想の発見』には、言葉と意識(「同じ という強いはたらき」)を同一視するような記述も出てきて混乱するが、それは養老孟司特有のダブルミーニングもしくは簡略表現なのであって、どち らも正しい。

 一つ余談というか懐旧譚を挿入する。言葉が感覚世界と概念世界の重なりだという指摘を読んで、瀬戸賢一著『レトリックの宇宙』(海鳴社)を想起 した。瀬戸氏はそこでヤ-コブソンによる「換喩」(metonymy)と「隠喩」(metaphor)の比喩の二区分を批判して、大要次のように 論じていた。昔書いた文章を転用する。
《ヤ-コブソンによれば換喩的な言説を支えるのは隣接関係であり、隠喩的な言説を支えるのは類似関係である。
 ところで瀬戸賢一はこのヤ-コブソンによる隣接性の用法が「倒錯的」であるとし、これを重層的な現実世界(仮想された世界を含む)の時間的・空 間的な隣接関係に基づく転義と概念操作の領域である意味世界での「類-種」の包含関係に基づく転義とに分割し、前者を換喩、後者を提喩 (synecdoche)と定義している。瀬戸は「提喩と換喩は、互いに異なった世界に属しているために、直接的な交渉を持つことができず、もし 交渉を持つ可能性があるとすれば、隠喩を経由した間接的なものにならざるを得ないのではないか」とし、隠喩が意味世界と現実世界の境界上に存在し 両世界の橋渡しをするものであることを指摘している。
 ここで明らかにされたのが「言語表現およびその基礎となる私たちの認識を支える上でもっとも重要な役割を果たす三つ組を構成する」三種の比喩の 位置関係(トライアド)であり、瀬戸はさらにパースの記号の三分法と組み合わせて「換喩=指標記号(index)=隣接関係」「提喩=象徴記号 (symbol)=包含関係」「隠喩=類似記号(icon)=類似関係」という対応を導き出している。》
 ここに出てくる「現実世界」が感覚世界に、「意味世界」が概念世界に属する。パースの三記号のうち「インデックス」は感覚世界、「シンボル」は 概念世界、「イコン」はその両世界の境界にそれぞれ属する。つまり「言葉」とはイコンであるということになる。
 瀬戸氏がその後自説をどう展開されたのか、あるいはどう修正・撤回されたのかは知らないが、私はかねてから、そこに第四の記号を付け加えること ができるのではないかと考えてきた。言葉遣いはまだ精錬されていないが、イコンが現実世界と意味世界を具象的でアナロジカルな類似関係に着目して つなぐ働きをもつのだとしたら、これと対になるかたちで、つまり抽象的でアイロニカルな相互否定関係(あるいは逆喩[oxymoron]的関係) に着目してつなぐ記号があるのではないか。そしてそれは「マスク」とでも名づけられるものなのではないか。つまり「仮面の記号論」。
 この未完の理論が完成したあかつきには、「言葉」とは「イコン=マスク」の複合体である、という命題が成り立つことになる。

 パースの名が出てきたついでに、もう一つ余談をはさむ。中島敦の「文字禍」に、単なるバラバラの線の交錯にすぎない文字に音と意味をもたせる 「文字の霊」の話が出てくる。「魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうし て単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。」
 ここに出てくる「線」や「音」が感覚世界に、「意味」が概念世界に属する。前者をラカンの想像界に、後者を象徴界に関連させ、そこにパースの記 号論をからませた議論が三浦雅士著『出生の秘密』に出てきたはずだが、この本は昨年の暮れ、段ボールに梱包して「書庫」送りにしたままなので詳細 を確認できない。(明日に続く。)

★1月18日(水):言葉とクオリア

 言葉は「同じであって、違うものだ」から感覚世界(差異性)と概念世界(同一性)を結びつけることができるという、養老孟司(『無思想の発 見』)の指摘は実に刺激的である。これを読んで三つのことを連想した。

 その1.ダマシオの『感じる脳』で、情動(エモーション)は身体という劇場で演じられ感情(フィーリング)は心という劇場で演じられる、と書い てあった。仮に「身体という劇場」が感覚世界に、「心という劇場」が概念世界に相当すると考えることができるなら、「情動と感情の重なりが言葉で ある」という命題の系が成り立つことになる。
 なお、飛浩隆の『象られた力』に出てきた「「かたち」とは数学的で、抽象的なものである一方、それと同じくらい身体的で肉体的なものだ」 (291頁)という一文が、情動(身体的・肉体的な「かたち」)と感情(数学的・抽象的な「かたち」)の関係と大いにかかわってくる。

 その2.養老孟司は「仏教における身体思想」で、「おそらく宗教の根幹をなすのは、ある種の存在感、とくに自己という「内的世界」と、いわゆる 「外部世界」の一致である」と書いている。
《考えようによっては、両者ともにわれわれの「内部」にある。ふだんわれわれは、外部世界を、われわれとは異なったものとして、外部に「おしやろ う」とする。しかし、外部世界は、われわれの内部に映された世界の像という意味では、同時に内的世界でもある。ある不思議な状況で、両者は渾然一 体となるように思われ、そこに世界の統一感が生じる。だから、自己のアートマンが、世界霊魂となるのである。個人の存在を徹底的に揺り動かすよう な、強い情動がそこに伴う。これはもちろん、宗教家だけに起こるわけではない。デカルトが、疑う自分の存在は疑えないという結論に至ったときも、 アルキメデスが風呂から飛び出したときも、状況は似ていたであろう。この存在感は、身体の存在感におそらく還元する。それがインド哲学の紹介を通 じて言いたかったことである。》(『日本人の身体観』239頁)
 この「内的世界」を感覚世界に、「外部世界」を概念世界に置き換えて考えると、宗教の根幹をなす「存在感」(「強い情動」を伴う「世界の統一 感」)は言葉によってもたらされる。あるいは表現される。「初めに言葉ありき」である。しかし、この同じ「存在感」(「宗教的感情としての、天地 と自己の一体感」252頁)は言葉では表現できない。「教外別伝 不立文字 以心伝心」である。
 言葉によって表現されると同時に言葉では表現できない。この矛盾を解消するのも言葉である。(こういう事態を「超越論的」と呼ぶのだと思うが、 このことはこれ以上述べない。)感情=論理と情動=身体の重なりとしての言語によって、言葉で表現されることで初めて存在すると同時に言葉では表 現できない存在感=統一感=一体感(強い情動を伴う宗教的感情)が「表現」される。感覚世界と概念世界が論理と身体の二つの回路でつながるのであ る。

 その3.言葉が「同じであって、違うものだ」としたら、クオリアもまたそうなのではないか。茂木健一郎は『脳+心+遺伝子 VS. サムシンググレート』(徳間書房)で次のように語っていた。
《…言葉の発話というのは一種の運動だから、脳の領野でいうと運動野の近くの補足運動野とか運動前野というところで司っているんですけど、そこで 起きている無意識のプロセスに私の意識の志向性が向かっている。言葉を出すプロセスというのは、だいたいこんな感じのことを出そうかなというとこ ろを志向性がコントロールしていて、実際言葉を出すプロセスは無意識なわけです。…言葉の発話の場合には志向性は無意識の発話のプロセスに向かう わけです。このように考えた時に、どうもクオリアというのは私の中心にあるのではなくて、「私」と外の世界との境界にあるっていう感じだと思うん です。むしろ私の中心の方にあるのは、志向性の方であり、その志向性は私の中の無意識にも向かっている。》(201-2頁)
 ここで述べられたことが、最新の茂木脳理論(「メタ認知的ホムンクルス」のモデル)でも通用するのかどうか知らない。たぶん通用するのだろう。 「クオリア」が感覚世界の素材であり、「志向性」が概念世界の基底にあるものであることは見やすい。この二つの要素が「脳内現象」として重なった ものが言語である。一回性、唯一性、個別性をもった感覚質が、実は同一性、普遍性の成立にとって不可欠であるという逆説。
 やや飛躍するが、養老孟司によると「歴史」も「思想」であった。だとすると、一回性をもった歴史=五感で捉えられる歴史が「思想」として反復す るわけである。物質という「思想」についてもこれと同じことがいえる。
 ところで上の発言に、「意識の志向性」が向かう「無意識のプロセス」という語が出てくる。このあたりのことはベンジャミン・リベットの『マイン ド・タイム──脳と意識の時間』(下條信輔訳,岩波書店)に関係してくると思うが、これはまた別の話だ。(明日に続く。)

★1月19日(木):感情と言語

 先週の土曜(14日)、「感情の論理」の項の最後次のように書いた。養老孟司のいう「通常の論理回路を経ないで相手に伝わる」共感としての「感 情」が「言葉」にかかわってくる。そろそろこの話題に決着をつけておこう。
 感覚世界と概念世界、情動(身体的・肉体的な「かたち」)と感情(数学的・抽象的な「かたち」)、外部世界と内的世界、クオリアと志向性の重な りとしての「言葉」が「通常の論理回路」を経て相手に伝えるものが「意味」である。これに対して、共感としての「感情」は直接的に伝染する。いず れにしても相手に「伝わる」。これが「言葉」と「感情」の関係である。そうまとめてしまえば事は簡単だが、それだと面白くもなんともない。
 養老孟司(『無思想の発見』)の議論は、これとは違う。それは「気持ちはじかに伝わる」と題された第八章に出てくる。「通常の論理回路」など介 在せずとも言葉は通じる。「聞いたとたんに、わかってんじゃないか」というわけだ。その論拠が「ミラーニューロン」の発見である。同じ動作を自分 がやっても他人がやっても興奮する、一種のモノマネ細胞。これを意識に応用すると、妙なことになる。ポルノグラフィーをただ見ているだけなのに、 身体が勝手に反応する。興奮しているのは、じつは意識である(191頁)。

《さらに進んだ議論は、ミラーニューロンの研究がもっと進んでからすべきだと、専門家は考えているであろう。しかし私は素人だから、つい先を考え てしまう。なにもミラーニューロンという神経細胞の存在に話は限らない。単なるニューロン、つまり細胞ではなく、同じようなはたらきを示す神経シ ステムを想定することが、さまざまな機能について、論理的に可能である。現に、ミラーニューロンがあるのだから。/それなら、/「意識とは、本当 に自分だけに留まっているのだろうか」/という疑問が生じる。/つまり人間の表現は、ひょっとすると相手に直達している可能性ができたといえる。 いってみれば、一種のテレパシーではないか。外部に音として表出された言葉を聞き、その音を受け入れて、順次脳のなかで論理的な処理が進んで行 く。こうして相手の言い分を理解し、次に自分の意見をいう。そうした順序にしたがって、言葉が使われていると、常識は見なしている。その常識は本 当か、という疑いが生じる。いわば、/「聞いたとたんに、わかってんじゃないか」/といってもいい。途中にべつの論理回路を通らなくてもいいかも しれないのである。しかもそのほうが実感に合う。》(192-193頁)

 こういう議論が好きだ。論理的に可能で実感に合えば、どんどん先を考えていく。こういうのを「養老孟司のロジック」という。抽象思考と実証思 考、概念世界と感覚世界が渾然一体となっている。超越論的経験論、実証的形而上学、その他むつしい言い方はいろいろあるだろうが、要するに「論理 的に可能で実感に合う」議論。

 ついでにもう一つ『無思想の発見』から例を引く。昨日もふれたリベットの実験を踏まえて、自我(意識)は機能(はたらき)であってモノのような 実体ではなく機能であることを論証するくだりである。

《念のためだが、あれだけ「個を主張する」アメリカ人でも、神経科学者のなかには、「自我なんてない」と考える人が増えてきている。その根拠は、 脳機能が意識に先行する例が知られるようになったからである。たとえば、水を飲もうと「思って」、コップのほうに手を出すとする。じつはそう「思 う」〇・五秒前に、「水を飲む」行動に対して、脳はすでに動き出している。いまではそうした測定が可能になった。それなら「水を飲もう」という意 識は、「無意識である」脳機能の後追いなのである。意識は「自分が水を飲もうと思ったから」、「その思いがコップに向かって手を出させる」と 「思っている」。それは逆である。心理学では、「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」ということがある。常識的な意識は「そんなバカ な」と思うだろうが、じつはその「常識的な意識」のほうが、たぶんウソなのである。(略)そういうわけで、自我を主体であり、実体であると考える のは、所詮は無理である。ただし文化的伝統は抜きがたいもので、欧米人あるいは近代人がどこまでその点で意見を変えるか、私は楽観していない。》 (40-42頁)

 リベットの実験から「自我なんてない」という結論を導き出すことが、はたして論理的に可能で、かつ実感に合うのかどうか。これはやはり『マイン ド・タイム』を読んでみなければならないと思う。このリベットの話は、木村敏著『関係としての自己』の序論にも出てきた。そこでの議論もずいぶん 飛んでいた。ミラーニューロンの発見とリベットの実験。この二つのことから、私自身の論理と実感に照らして何が引き出せるか。これは挑戦してみる 価値がある。

★1月20日(金):『無思想の発見』

 そうこうしているうちに、養老孟司著『無思想の発見』を読み終えた。実はとっくに読み終えていた。書店をのぞくと、新潮新書から『バカの壁』 『死の壁』に続く第三弾『超バカの壁』が平積みになっている。この「壁三部作」(なのかどうか知らない)はなぜか読む気になれない。『無思想の発 見』は『唯脳論』や『人間科学』に次ぐ養老学の基礎理論書かと思って、だから読んだ。

 と、ここまで書いて、ふと気になって過去の「読書日記」を検索してみたら、『死の壁』は読んでいた。感想文まで書いていた。

《「バカの壁」の向こうにはロマンがある(12頁)。なぜ人を殺してはいけないのか。人間は自然、つまり高度なシステムである。「そんなもの、殺 したら二度と作れねえよ」(22頁)。近代化とは、人間が自分を不死の存在、すなわち情報であると勘違いしたことでもある(32頁)。──以下、 養老節が続く。これは『人間科学』の「語り下ろし」版だと思って読んでいたら、あとがきにそう書いてあった。》

 読んだことを忘れるくらい、養老節が骨身に染みていたわけだ。というより、結局同じことしか書かれていない。木の心は木に訊け。「松のことは松 に習え、竹のことは竹に習え」(『三冊子』)。「やってみなけりゃ、わからない」(『無思想の発見』あとがき)。養老孟司の「思想」は、宮大工や 俳諧師の教えに帰着する。
 それを一言で表現すれば「手入れの思想」ということになる。「意識ですべてはコントロールできない、できるのは手入れすることだけである」(茂 木健一郎との共著『スルメを見てイカがわかるか!』185頁)。『無思想の発見』で次のように書かれているのは、手入れの思想(無思想の思想)の 応用である。

《中国に対して、なにをするか。靖国参拝の是非なんか議論したって、そんなものは空である。それをめぐって喧嘩したところで、人類の未来に裨益す るところは、なにもない。私が思いつくことは一つしかない。北京政府がなにをいおうと、ひたすら中国に木を植える。(略)中国から黄砂が飛んでく るなら、日本は緑をお返しすればいい。無思想であるなら、有思想に対して、感覚世界で対応するしかないはずである。木は思想ではない。(略)
 …木は勝手に育つ。経済成長よりもはるかに確実に「成長する」のである。その確実さ、それが感覚世界のいいところである。共産主義だろうが、資 本主義だろうが、木は育つ。》(225-227頁)

 手入れの思想のもう一つの応用は、「自分で考えろ」ということである。それを言い換えれば「自分で自分を変えればいい」(233頁)になる。あ るいは、身体に訊け。考えているのは「意識」ではない。意識とは「変わらない私」のことであって、そんなものは実体としては点でしかない (35-36頁)。

《「私は私、個性のあるこの私」「本当の自分」を声高にいうのは、要するに「実体としての自分に確信がない」だけのことである。「本当の自分」が 本当にあると思っていれば、いくら自分を変えたって、なんの心配もない。だって、どうやっても「変えようがない」のが、本当の自分なんだから。そ れを支えているのは、なにか。身体である。自分の身体はどう変えたって自分で、それ以外に自分なんてありゃしないのである。もう意識の話は繰り返 さない。ここまでいっても「意識こそが自分だ」と思うなら、そう思えばいい。ほとんどの人はそう思っているんだから。それでなんだか具合が悪いと ブツブツ文句をいわれても、私の知ったことではない。勝手にそう思ってりゃ、いいのである。》(234-235頁)

 養老孟司は、オレの本がベストセラーになんかなるはずがないと思っている。本当に判っているのかと訝っている。だから、あとがきに「この本は売 れない。売れないと思う」とわざわざ書かなければならないような本を書いた。
 私も、読者は養老孟司がほんとうに言いたいことをちゃんと判って読んでいるのだろうかと疑っている。「なにを偉そうに、そういうお前は判ってい るのか」と問われれば(問う人はいないだろうが)、「それがよく判らない」と答えるしかない。これは理論の書ではない。理論にかかわることも大い に書かれているし、養老ロジックも駆使されている。しかし、養老学の基礎理論書として読もうとしても整然と理路をおさえることができないのであ る。ここにあるのは養老孟司にとっての存在感とロジック、原理とその応用だけである。
 あとがきには、日本のことを大いに心配してこの本を書いたともある。いらぬお世話だと、人は言うだろう。「私の知ったことではない。勝手にそう 思ってりゃ、いいのである」。養老孟司はソッポを向いてそう言うだろう。養老孟司は本書で、いやもうずっと前から、大宅壮一、司馬遼太郎、山本七 平といった本書にもその名が出てくる「無思想」の思想家の系譜に属している。憂国者の系譜といってもいい。人は保守思想と呼ぶかもしれない。保守 反動と呼ぶ人もあるだろう。そんなラベルはどうでもいい。守るべきものは「変わらない日本」ではないからである。動かすことが変わることではない からである。

★1月21日(土):休日の過ごし方──脳科学の勉強・その他

 朝10時頃に起きて、いつものように(昔ほんのわずかな期間モダンバレエの教室に通っていた時に教えてもらった)真向法とストレッチを組み合わ せた体操を数分間やって、これもいつものようにざっと新聞の見出しを眺めながらパンとココアを流し込み、駅前のドトールで小一時間ほど本を読み、 午後、待ち合わせて西宮北口にでかけ、帰りに本を二冊買って、ヒッチコック/バーグマンの『山羊座のもとに』を観て、そのあとまた本を少し読んで 休日が終わった。

 午前中、時間潰しに読んでいたのは『感じる脳』(ダマシオ)第3章「感情のメカニズムと意義」の142頁から161頁までで、ここのところはと ても面白かった。感情とは情動によって変化した実際の身体の知覚である。このウィリアム・ジェイムズの洞察がダマシオ自身をはじめとする脳科学者 たちの実験によって確かめられつつある。脳内の身体知覚領域が感情の重要な基盤であるという考え方はもはや単なる仮説ではない。ダマシオはそう述 べて、感情の基本的プロセスをめぐる四つの条件を提示している(150-152頁)。
 「第一に、感じる能力をもつ存在は、身体をもっているだけでなく、その身体を身体内部に表象する手段も兼ね備えた有機体でなければならない。」 要するに神経系がなければ感情はないということ。「第二に、その神経系は身体構造や身体状態をマップ化し、ついで、そのようなマップの中のニュー ラル・パターンを、今度は心的パターンやイメージに変換できなければならない。」「第三に、言葉の伝統的な意味での感情[フィーリング]が生じる には、その内容[コンテンツ]が有機体に認識される必要がある。つまり、意識が必要条件である。」感情の機構は意識のプロセス、つまり「自己」の 創出に一役買っている。
 「第四に、感情の基盤を構成している脳のマップには、その同じ脳の別の部位の指令のもとに実行された身体状態のパターンが表示されるようになっ ている。」「感情をもつことのできる有機体においては、脳は二重の意味で必要だ。まずもちろん、身体のマッピングを生み出すために脳はそこにあら ねばならない。しかしそれ以前に、脳は、最後には感情としてマップ化されることになる特定の情動的身体状態を指示または構築するためにも、そこに あらねばならない。」
 最後に出てくる脳の二重の機能のうちの後の方に関してだと思うが、ダマシオは、身体感知領域以外の脳の領域が二つのやり方でマッピングのプロセ スに干渉し「偽の」身体マップをつくることがあると書いている。二つの方法とは、フィルタリングによる現在の身体マップの変更と、ミラー・ニュー ロンによる模倣(感情移入)である。
《要点をまとめれば、身体知覚領域はいわば劇場を構成しており、そこでは「実際の」身体状態だけでなく、仮想身体[as-if-body]状態、 フィルターにかけられた身体状態、等々、さまざまな種類の「偽の」身体状態も演じられる。仮想身体状態を生み出すための指令は、動物と人間のミ ラー・ニューロンに関する最近の研究が示しているように、種々の前頭前皮質からくるようだ。》(161頁)
 以上のことは図で考えるととても判りやすい。実際私は本に図を書き込みながら熟読した。いろいろ発想が広がった。ここに図を転載することができ ないのが残念だ。

     ※
 西宮北口にでかけたのは、昨年10月にオープンした県立芸術文化センターを一度見ておきたかったから。ついでに何かコンサートでもと思っていた ら、チケットはとうに売り切れ。なかなか感じのいいホールだったので、今度はちゃんとチケットを入手してから来ることにしよう。その後しばらくタ ウンウォッチングで時間を潰して遅い昼食をとって帰った。西宮北口には結婚前にしばらく独りで暮らしていたことがあった。その時住んでいた家を探 してうろうろ歩いたけれど、震災で壊れたかもともと古い住宅だったのでとっくに取り壊されたかで、どこに建っていたのか結局わからずじまい。
 神戸に帰って元町の「ちんき堂」に立ち寄った。この古本屋をのぞくのは初めて。このところ古書店めぐりの面白さにめざめはじめたところなので、 一度この高名な店に顔を出しておきたかった。ドアをあけるといきなり聞こえてきたのが野坂昭如の「バージン・ブルース」。「あなたもバージン、わ たしもバージン」のところで野坂昭如が会場に向かって、バージンの皆さんもご唱和をと語っている。このライブ盤のLPは持っている。プレイヤーが 壊れれたのでもう聴くことができなくなったが、いまでも「書庫」のどこかで眠っているはず。懐かしい。
 棚に並んだ本もどこか懐かしい。澁澤龍彦本が一角を占めているのも嬉しい。まるで私の「書庫」が転居したような感じ。記念に一冊と、岩波新書の なるべく古いのを物色してJ.B.モラル『中世の刻印──西欧的伝統の基礎』(城戸毅訳)を百円で買った。たぶん読むことはないだろうと思うが、 119頁以後にエリウゲナのことが書いてある。いつか買っておいてよかったと思う日が来るかも知れない。(家に帰ってメールチェックのためネット に接続して、「ちんき堂にっき」[http://d.hatena.ne.jp/chinkido/]を発見した。)

 もう一冊、茂木健一郎著『プロセス・アイ[PROCESS A.I.]』(徳間書店)を買った。この本のことは前々から予告されていて、刊行されたら速攻で入手して一気に読むつもりでいた。茂木さんがフィクション に手を染めていることは前々から知っていた。何年も前にクオリア日記(だったかな)に書いてあった。そうでなくても、この人はいつか小説を書くだ ろうと思っていた。文章家としての力量や才能には並々ならぬものを感じていた。
 意識の問題や心と脳の関係をテーマにした小説はいくつか読んできた。最近では瀬名秀明著『デカルトの密室』。いずれも隔靴掻痒、あと一歩という ところで肝心なものをつかみ損ねた感じ。茂木さんが書くのだからと期待しているが、ちょっとこわい気もする。プロローグ「色とりどりの砂」が「北 アフリカ、チュニジア」で始まる。チュニジアときけば、かの「色彩画家」パウル・クレーを想起する。『チュニジアの赤と黄色の家』。最近読みはじ めた宮下誠著『20世紀絵画──モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)がちょうどクレーの節を終えたところだった。これもなにかの符合なの かもしれぬ。早く読みたいが、その前に『象られた力』を終えなければいけない(この本を早々に読了して手放すのは惜しいけれど)。フィクション系 だけは同時並行読みができない。

★3月1日(水):『プロセス・アイ』

 茂木健一郎著『プロセス・アイ』を読了したのは、もう一月近く前のことになる。読後の印象を一言でくくると、「静かな火星年代記」。レイ・ブ ラッドベリの同名の名作SFは、たしか26の連作短編で編まれたオムニバス形式のもので、各編の登場人物も時代も異なる。茂木さんの作品は、オム ニバスというよりはフラッシュバック。プロローグとエピローグを含めた17の章は、どこか語り尽くされない余韻を残しながら、それぞれの間隙に (後日譚としてしか語られない)出来事や事件をはさんで、主要人物たちの(日付を持った)言動と感情と思索の物語が淡々と静謐に継起していく。こ れが「静かな」と「年代記」の意味。
 「火星」は、意識や「私」をめぐる思考実験で「中国人」とともにポピュラーなものだ。この作品の素材に即していえば、むしろ「月」とするべきか もしれない。要は「無重力」の彼方に実在する仮想的で潜在的な時空。余談ながら、そのうち「火星へ行った中国人と猫」といった題名で、哲学と脳科 学との界面に立ち上がる問題をめぐる思考実験の諸相を論じてみたいと計画している。

 この作品で茂木さんが与えた、心と脳の関係をめぐるハード・プロブレムに対する「解答」を取り上げる前に、「小説」の読者として気になったとこ ろをあげておく。断っておくと、以下に書くことは完全なあら探しでしかなく、私はこの作品を小説としても存分に楽しんだ。楽しんだのならそれでい いじゃないかと言われそうだが、やはり気になったので書いておく。
 第9章「クローン人間」から、二つ事例をあげる。その一。「ツヨは、そのような背景の中で、おそらくはぐさりと心に突き刺さっているはずのジャ ンの言葉を軽く受け流すかのように、微笑みさえ浮かべている」(218頁)。短い文章のうちに、人物の心理の屈折が二度も「説明」されている。こ れでは、人物のかたちがくっきりと造形されない。「年代記」にふさわしい叙述とはいえない。そもそも、小説の文体ではない。
 その二。「それに、実はグンジに、伝記を書いてくれと頼まれているのだとツヨは続けようと思ったが、ジャンの表情が余りにも険しいのでやめて、 その代わりに次のように続けた」(221頁)。これは、前後の文脈を説明しないと何が問題なのかわからないだろう。実は、この場面の前後で、作者 はツヨではなくジャンの心理の動きに焦点をあてている。読者はずっとジャンの内面の葛藤に寄り添いながら読み進め、ここにきて突然、ツヨの視点か らジャンの心理を「険しい表情」として客観視することを余儀なくされるのである。この違和感を作者が意図しているとは思えない。そのような技巧を こらす必然性がないからである。だから、これも小説の文体ではない。
 これらはけっして些細な疵ではない。いま取り上げた箇所だけの問題でもない。この作品が、良質な余韻を残しながらも、読後の時間の経過ととも に、その印象の総体がサハラ砂漠の乾いた砂粒のように粉々に砕け散り、しだいに不鮮明になっていくのも、こうした叙述のうちに見られる小さな疵が つもりつもってもたらす効果だったかもしれないからだ。

 さて、茂木さんが本書で与えた、心と脳の関係をめぐるハード・プロブレムに対する「解答」、すなわち「プロセス・アイ」の理論とは何か。これを 書くと、ほとんど作品のネタばらしになってしまうのだが、それは「通常の言葉の意味を理解するようなやり方では決してその意味が理解できないよう な形」(301頁)でしか書き記すことはできない。ここには、鋭い思考が込められている。ほとんどすべての哲学的洞察や宗教的叡智に共通する「か たち」が表現されている。
 その理論は「ある特殊なやり方」をもってはじめて完成させることができる。しかも、その特殊な状況から離れると、自分が作り上げた理論を理解す ることができなくなってしまう。では、その「特殊なやり方」とは何か。それは、本書をまだ読んでいない人のためのお楽しみにとっておく方がいいだ ろう。
 「プロセス・アイ」の理論がもつ深さは、その完成をもたらす方法の素晴らしさにもとづくものではない。だから、その「特殊なやり方」は、本当は なんでもよかったのである。小説にとってはそうだが、しかし科学にとってはそうではない。実験的な方法が伴い得ない(あるいは、実験が禁じられて いる)理論は、たんなる夢想でしかないからだ。その意味で、本書の読み所は、理論の形より方法の考案にある。
 ヒントを一つ。「プロセス・アイ」の「アイ」は、もちろん「A.I.」のことだが、それは同時にプロセスとしての「私」を意味している。さら に、システムの全プロセスを俯瞰する「眼」、すなわち「私」(脳)を包摂するもう一つの「私」(脳)のことであり、後者による前者への「愛」をも 含意している。