「『贋金づくり』・金融小説・その他」(2006.01-02)


★1月24日(火):環境金融

 藤井良広著『金融で解く地球環境』(岩波書店)を読んでいる。ときおりこういう種類の本が無性に読みたくなる。こういう種類の本とは、時事、政 治、経済、公共政策にかかわり、次の時代のエッジをうかがい知ることができるもの。できればあまり厳密に学術的なものではなくて、世の中の生の動 きに関する新鮮な情報がもりこまれた本。冷静沈着、客観的かつ理論的でありながら、鎧の下から熱い思いがほの見えるような文体であればなおよい。 おのずから第一線のジャーナリストによる著書を手にすることになる。ふだんあまり熱心に新聞を読まないものだから、時折こういう種類の本を読んで 飢えを癒し、情報不足を補わないといけない。その思いが高じて、勘をたよりに買ったのがこの本。

 金融については、ここ数年しだいに私的な関心が高まっている。金融システムのことがわからなければ世の中のことはわからない。思想もわからな い。歴史も国際政治もわからない。直観的にそう確信している。といっても私の関心は、ジャネの理論は金利生活者的なメタファーに満ちている(中井 久夫)とか、フロイトは株式市場で学んだ原理を無意識の欲動エネルギーの動きに見立て「リビドー経済」という画期的な理論を打ち出した(鹿島茂) とか、そういった偏ったところから始まったものだ。オーソドックスな金融システム論プロパーの本にはなかなか食指が動かなかった。これまで金融小 説を時折読むくらいでごまかしてきたが、このあたりで腰をすえてみるか。

 それからもう一つ。これはろくに読まないで言うことなのでいい加減な話だが、これまでからコモンズの経済とかエコロジー経済、等々の環境経済論 は思想臭が強すぎると感じてきた。いっそ「仏教経済論」を標榜するくらいの強かさがあれば別だが、思想(理想)を現実に織り込むための倫理的かつ 「工学的」な技術論(つまり政策論)としては弱いのではないかと疑ってかかってきた。ジェイン・ジェイコブズの『経済の本質』やベルナルド・リエ ターの『マネー崩壊』などはとても刺激的だったが、それでも「じゃあどうするか」という局面で思考が止まってしまう(思考が止まるのはもちろん私 であって、ジェイコブズやリエターではない)。その点、環境経済ではなく「環境金融」に焦点をあてた本書は、解毒剤として最適ではないかと思う (もちろん解毒剤が必要なのは私である)。

 著者は日経新聞経済部の編集委員。後で気づいたことだが、私はこの人の名刺をもっている。ある会合で何度かお会いして、言葉を交わしたことがあ る。まことに「冷静沈着、客観的かつ理論的でありながら、鎧の下から熱い思いがほの見えるような」人物だった。外連なく淡々と、しかしシャープに 日本経済の現状を分析するその語り口は信頼できる。神戸出身だということで、勝手な親しみも覚えた。

★2月4日(土):「商業用語について」・その他

 昼前まで寝ていた。泥睡という言葉があるのかどうか知らないけれど、夢も見ずただひたすら眠りつづけて飽くことがないのは随分久しぶりのこと。 たぶん夢は見ているのだろうが、それは目覚めとともにどこか知らないところにストックされてしまって、二度とアクセスすることができない。空虚な 充実とともに起床し、朝昼兼用の食事をすませてから、近所の図書館で本を数冊返して、また何冊か借りてきた。そのなかに、網野善彦さんの『歴史を 考えるヒント』(新潮選書)がある。連続講演の記録をもとにつくられたもので、とても読みやすい。

 「商業用語について」の章が面白くて楽しい。たとえば「市場」の本来の読みは「いちば」で、もともと「市庭」と表記されていた。このことは知っ ていたけれども、「相場」も最初は「相庭」と書かれていたことは初めて知った。庭は「人々が共同で何かの作業や生産、あるいは芸能を行う場所」を 意味していた(「狩庭」「網庭」など)。後に「諸国を遍歴する人々が自らの芸能を演ずる場」であるとともに、その「縄張り」を意味する言葉にも なっていった(「塩庭」「稲庭」「乞庭」「売庭」「立庭」「舞庭」など)。そして庭は「最高の権力者に直結する場」でもあった(「朝廷」も本来は 「朝庭」)。

「このように、庭は本来、私的な関係を越えた、特異な空間を表現する言葉だったと考えられます。個人の家の塀や垣根に囲い込まれた現在の庭園とは 性質の異なる場と考えなくてはなりません。ですから「市庭」も、「市が立つ庭」つまり共同体を超えた交易の行われる場を示す言葉だったのです。」

 以下、市庭と無縁の場、市庭と歌垣、市庭と都市と話が進む。小切手や切手や酒手の「手」には交換という意味が含まれていた。「切手は「切られ る」ことによって「無縁」なものになり、相互に交換が行われるようになった文書を指していた」。「聖なる金融から、俗なる金融へ」。株売買の際の 最初の値段を「寄付」というが、「寄る」という語には「人の力の及ばない世界から何かがやって来る」という意味が含まれていた。等々の話題が出て くる。

★2月14日(火):『古代ローマの女たち』

 ピエール・クロソフスキーの『古代ローマの女たち──ある種の行動の祭祀的にして神話的な起源』(千葉文夫訳,平凡社ライブラリー)を買った。 この本は以前、哲学書房版の『ローマの貴婦人』で読んだことがあるはずだが、ほとんど憶えていない。どうせ、いい加減な気持ちでぱらぱらと流し読 みをして、ちょっとした「気分」を味わってハイ終わりだったに違いない。そんなふうにして時間を無駄に過ごしたことが、これまでにいったい幾度 あったことだろう。今でもうっかりすると、そうした「気分」で流し読みをしてしまうことがある。そんなことで不毛な時間を費やすくらいなら、野に 咲く花の一輪でも飽かず眺めているほうがはるかに優れた「精神衛生法」というものだ。

 この「精神衛生法」というのは、田中純氏の「巻末エッセイ──鬼神たちの回帰」に出てくる語彙で、この短い文章からは、ほかにもたくさんの言葉 や言い回しを拾い集めることができた。ここにそのいくつかを抜き出しておくと、まず、「この作家=画家にとってタブローとはさまざまな情念[パト ス]の顕現、つまりパトファニーであり、それはすなわち、神々の顕現[テオファニー]にほかならなかった」という評言は、「見せ物神学」や「演劇 的神学」といった言葉ともあいまって、クロソフスキーという謎めいた人物の作品の本質を衝いて余すところがない。(余すところがないなどと、これ まで曲がりなりにも読み通したのは『生きた貨幣』くらいなもので、それも訳者・兼子正勝氏の懇切的確きわまりない解説を手がかりに這々の体で読了 した程度でしかないのによく言うよなあと、これは自戒の言葉。)

《彼のタブローは、不可視のダイモン=情念を男女の神々の似姿によって模造し、ダイモンをその似姿のなかへと誘惑して祓うための手段である。タブ ローを描き、偶像[シミュラクル]を造ることとは、ダイモンとしての妄執的な情念、そのファンタスムに対する悪魔祓いの策略なのだ。それは魂のト ポロジーとしての「情念の論理[パトロジー]」に基づいた、一種の実践的な精神衛生法である。クロソフスキーが鉛筆ないし色鉛筆によって実物大の 人体の希薄なシミュラクルを際限もなく繰り返し描き出し、小説中のエクフラシスで架空の画家の作品を詳述するのは、ダイモンに対してそんな罠を仕 掛けるためにほかならない。この罠を通して、日常的な言語記号によっては伝達しえない情念が、眼に見えるファンタスムとして顕現する。肉体を得よ うとして罠に陥るダイモンたちの、「かくも不吉な欲望」……。》(156-157頁)

 こういう文章に接するのは久しぶりだ。実に心地よい「気分」が漂っている。──「エクフラシス」という言葉は、今回初めて知った。平凡社ライブ ラリー版の訳者あとがきによると、それは「絵画の描写もしくは記述を言葉でおこなう」(151頁)ことなのだそうだ。この訳者による二つのあとが きにも「気分」は濃厚にたちこもっていて、田中純氏のエッセイとあたかも二重奏のように響き合っている。ジッドが『贋金つくり』で使った「中心紋 の技法」や、この作品に登場する「シミュラクル」という語が後のクロソフスキーにつながったことなど、驚くべき事実(私が知らなかっただけのこと だが)も初めて知った。

★2月15日(水):『贋金つくり』からの抜き書き

 昨日、クロソフスキーのことを書いていて、ジッドの『贋金つくり』にいきついた。この本は以前読んだことがあって、結構面白かった。昔書いた文 章、というか編集したもので取り上げたことがある。そこで抜き書きしたアンドレ・ジイド『贋金つくり』(川口篤訳,岩波文庫)からの引用を、文脈 を無視して順番にペーストしてみる。通して眺めてみると何かが起こるかもしれない。

・エドゥワールの純粋小説論
《小説から、特に小説本来のものでないあらゆる要素を除き去ること。先ごろ、写真が、ある種の正確な描写に対する苦労から絵画を解放したように、 近い将来、おそらく蓄音機が、写実作家のしばしば自慢する写実的会話を一掃することになろう。外部の出来事、偶発的事件、外傷的疾患は、映画の領 分で、小説はこれらのものを映画に任せて置けばいい。人物の描写でさえ、本来小説に属するものとは私には思えない。然り、純粋小説は、(そして芸 術においては、他の何事においても同様だが、純粋性だけが私には大切なのだが、)そんなものに意を用いるべきではないように思われる。その点、劇 の場合と同様だ。劇作家がその人物を描写しないのは、観客が舞台の上に彼らの生きた姿を見られるからだなどと思ってもらっては困る。なぜなら、わ れわれは幾度舞台で俳優に邪魔されたことだろう。そして、俳優さえいなければ実に正確に人物のイメージをつかんでいるのに、その人物に俳優が似て も似つかぬことに、幾度苦しめられたことだろう。──小説家は、通常、読者の想像力に十分の信頼を置いていない。》(101頁,上巻)

・夢の話から始まる会話、火挟みで焔をつかもうとする人
 ボリスの治療を担当する精神科医ソフロニスカ夫人とエドゥワールの対話。
《「それでは、あなたに告白しなければならないことが、あの子にあるというお見込みですか? 失礼ですが、御自身があの子に告白させたいと思って いることを、暗示したりしないという確信がおありですか?」(略)「早い話が、私たちの会話が、どんな風に始まるとお思いになりまして? ボリス が、前の晩に見た夢の話をすることから始まるのです。」/「作り話をしているのではないということが、どうしておわかりです?」/「かりに作り話 をするとしても……病的な想像力から生まれる作り話は、すべて、何かを明らかにしてくれるものなのです。」/彼女は、しばらく口をつぐんだが、や がて、/「作り話、病的な想像力……いいえ、そうではありませんわ。言葉というものは、私たちの真意を裏切るものですからね。ボリスは、私の前 で、声を出して夢を見ますの。毎朝、一時間のあいだ、そういう半睡状態でいることを承知してくれたのですが、そういう状態で私たちに浮かんで来る 幻影は、理性では制御できません。それは普通の論理によってではなく、思いがけない関連性で集まったり、結びついたりするのです。(略)理性で捉 えられないものは、たくさんあります。人生を理解するために理性を用いようとする人は、火挟みで焔をつかもうとする人に似ています。(略)/彼女 は、再び口をつぐんで、私[エドゥワール]の著書の頁を繰りはじめた。/「あなたは、人間の心を深くえぐることをなさいませんのね。」と、彼女は 叫んだ。それから、急いで笑いながら、付け加えた。――「いえ、特にあなたの事を申しているのではありませんわ。《あなた》と申しますのは、小説 家という意味ですの。あなた方のお書きになる人物は、大方、杭の上に建てられているように思われますの。土台もなければ、地階もありません。」》 (236-7頁,上巻)

・自然に近づくこと─文学におけるフーガの技法
《小説が将来に期する唯一の進歩と言えば、より一そう自然に近づくことです。(略)なるほど、心理的真実は個々の真実しかないでしょう。しかし、 芸術は普遍的な芸術しかないのです。問題は、かかってそこにあるのです。個々によって普遍を表現すること。個々によって普遍を表現させること、で す。(略)…真実であると同時に現実から遠く、個人的であると同時に普遍的で、人間的であると同時に架空的な小説が書いてみたいのです。(略)一 方において、現実を提示するとともに、他方、…その現実を消化する努力を見せたいのです。(略)…現実が提供する事実と、観念的な現実との闘 争…。(略)『感情教育』や『カラマゾフ兄弟』の日記、つまり、作品の歴史、その受胎の歴史といったようなものがあったら!(略)観念は、人間の ように生きています。戦います。死の苦しみを味わいます。無論、観念は人間を通してはじめて認識されるのだとは言えましょう。風にそよぐ葦によっ て、はじめて風を認識するのと同様です。しかし、やはり風の方が葦よりは大事なんです。(略)僕が狙っているのは、フーガの技法といったものなん です。それで、音楽で可能なことが、なぜ文学で不可能なのか、合点がいかないのだが……》(244-51頁,上巻)

・神の訪れの状態
 ドゥーヴィエ(ローラの夫、叙情味[リリスム]がない男、つまり神に打ち負かされることを承知しない男、自分の感じるものの中に決して自我を没 入しない男、したがって決して偉大なものを感じることがない男、霊感を持つことのできない男)をめぐるエドゥワールとベルナールの会話。
《「僕も、抒情的状態を克服しなければ、芸術家たり得ないと思うね。しかし、それを克服するには、まずそれを経験しなければだめだ。」/「そうい う神の訪れの状態は、生理学的に説明されるとはお考えになりませんか? つまり……」/「愚論だな!」と、エドゥワールは遮った。「そういう考え 方は、いかに正確であっても、愚民を惑わすだけのことだね。たしかに、どんな神秘的運動にも、物質的な裏打ちのないものはないさ。だからどうだと いうのだ? 精神が顕現するには、物質がなくてはすまされない。キリスト降生の神秘も、そこにあるのだ。」/「逆に、物質は立派に精神がなくても すみますね。」/「そいつは、われわれにはわからない。」》(127頁,下巻)

・ストゥルーヴィルーのダダイズム?
《文学は、少なくとも、過去を一掃しない限り、生まれ代ることはできないんじゃないかとさえ思えてくるんだ。われわれは、既成の感情の上に生きて いる。読者もそれを実感しているような気になる。読者なんて、印刷されたものは何でも信用するからな。そこが作者のつけめさ。自己の芸術の基礎と 信じている約束事に頼ると同じようにね。こうした感情は、数取り札同様、怪しい響きを立てるが、結構通用するんだ。そして、《悪貨は良貨を駆逐す る》ことをみんな知っているから、本物の貨幣を大衆に払おうとすると、ごまかされるように思うんだ。みんながいかさまをやっている社会では、本物 の人間がペテン師に見えるのさ。ことわって置くが、もし僕が雑誌を引受けるとしたら、革袋を引き裂いて、あらゆる美しい感情とか、言葉という約束 手形の流通をとめちまうためだ。(略)今日、目のきく若者たちは、とにかく詩のインフレーションにはあきたらず思っているんだぜ。巧妙な韻律、響 きのいい抒情的なきまり文句の裏に、どんな臭いものが隠れているか、ちゃんと知っているんだ。ぶち壊そう、と言い出せば、手を借す[ママ]奴はい つ何時でも見つかるさ。一切合財ぶち壊すことだけを目的とした一派を、二人で興さないか?》(149頁,下巻)

★2月16日(木):『貨幣とは何だろうか』からの抜き書き

 昨日の続きで、今度は今村仁司著『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書)からの自己引用。

・経済小説と貨幣小説
 今村仁司氏は『貨幣とは何だろうか』で経済小説と貨幣小説を区別している。経済小説とは──たとえばバルザックやゾラの作品にしばしば商人や産 業家や銀行家が登場するように──経済的現象そのものを扱う小説をいう。これに対して貨幣小説とは──ゲーテの『親和力』からボードレールやマラ ルメの贋金論、ポーの『黄金虫』までの作品系列、そしてジイドの『贋金つくり』に見られるように──「媒介形式」としての貨幣の問題を、経済だけ ではなく広く人間の根源的経験にかかわる問題として、つまり「文学的認識」の問題として扱った小説のことである。

・『贋金つくり』─家族の物語
《近年では、しきりにシミュラークルの時代であるとか、シニフィエなきシニフィアンの時代であるとか、さかんに議論されたが、完全に指示対象がな い、あるいはリアルなものが完璧に消滅する、などということはできない。もしそうなら人は現実性なるものについて語りえないのだから、まさにかげ ろうのごとき世界になるのだが、そうしたことは十九世紀リアリズムの対極にある贋物中心主義になる。たしかに、そうしたことが事実なら、それは幽 霊の世界であろう。しかしそうした幽霊はこわくない。それは張り子の幽霊である。本当にこわい幽霊は、本物であり贋物であるという存在である。す べての存在が本物にして贋物であるという両義的なものになることこそ、恐怖の理由なのである。/アンドレ・ジッドはこの問題をじつに正確に把握し ている。それは十九世紀の歴史的現実と人間の自己理解とはちがうものが出現したことへの驚きが、彼の小説のなかにはあるのだ。本書の主題に引きこ んでいえば、人間が両義的存在になることは、人間がついに完全に貨幣形式に包摂されたことを指している。そしてそのときのみ、厳密に、文学におい ても、人間を描くときに貨幣の言葉を使うことが正当な語り方になる。ジッドが小説の題名を『贋金つくり』としたのは、偶然ではなく、考えぬかれた 結果であるといわなくてはならない。》(140-1頁)

・終わりなき反復と二つの実験、金本位制の崩壊と宙吊り
《さて、こうして二人の代弁者をもって闘わせられる文学論争は、結局は、同じ土俵の上での論争であることがわかる。エドゥワールは、現実から遠く 離れた純粋言語を追求して、それを現実理解の媒介者に仕立てたいと願う。しかし彼の試みは、今度は逆にイデア的なもののインフレーションを引きお こす恐れがある。(略)インフレは、定義によって、価値の低下を引きおこす。本物であるべきイデア(純粋理念)の減価であり、すなわち贋金であ る。他方、ストゥルーヴィルーは、現実の通貨の贋金性(非兌換の通貨)を批判する一種の「経済学批判」をやるのだが、実際にできることは、クリス タルガラスを本物と思いこませる手品にすぎない。(略)エドゥワールのように、純粋の本物をめざして出発しても、贋金に帰着するし、ストゥルー ヴィルーのように贋金のなかに本物をまぶして流通させようとしても、やはり贋金しか流通させることはできない。こうして小説は終わりなき反復を見 せはじめる。(略)これはどういうことか。おそらくジッドは、この文学論争のどちらも可能であると思いながら、同時にどちらにも賛成できない、と いう宙吊り状態のなかにいるかに見える。(略)この宙吊り状態は、二つの選択肢(純粋小説路線か、言語の破壊か)が決着のつかないままに睨みあっ ている現実を反映している。それはジッドの宙吊りであるばかりでなく、その後の歴史の経験全体の宙吊り状態、つまりわれわれの宙吊り状態なのであ る。エドゥワール的実験もすでに行なわれてきた。ストゥルーヴィルー的実験も数多くなされてきた。しかしそれで何かが前進したのか。家族的価値、 経済的価値、政治的価値、芸術的価値その他の面で、そうした実験の結果として画期的展望が開かれたとは思えない。依然として世界は、ジッドが描く 状態にとどまっている。/ジッドの小説には、金本位制が崩れて通貨と金との兌換が不可能になる事態の先どりがある。非兌換制下の通貨は、十九世紀 の金本位制の立場から見れば、贋物の貨幣でしかない。そうした事態は、一九三◯年代以降に世界経済の常態になるだろう。文学のリアリズムが崩壊し ただけではない。社会関係のあらゆる領域で、秩序の原点になる「一般等価形態」の崩壊現象、あるいは文化価値としての「金本位制」の崩壊現象が 滔々と進展していた。文学における言葉と物との照応の信念が崩れることと、経済、政治、家族などにおける価値中心(金銀という素材貨幣、自由主義 国家、父権など)への信念の解体とは、本質的に連動している。/したがって、ジッドの小説は、関係の媒介者としての一般等価、すなわち貨幣形式の 崩壊を先どりし、新たな媒介形式がまだ見あたらない事態の過渡期を忠実に映しだしているとも読めるだろう。それは過去のことではない。ある意味で は、ジッドの小説は、いま再びアクチュアリティーを帯びはじめているのだ。贋金と本物が区別できない状態は、ジッドの時代にもまして全世界的に なっているからだ。》(160-3頁)

★2月17日(金):『国家の品格』

 クロソフスキーや『贋金づくり』をめぐる濃厚な「気分」が続いたあとに書くのは少し気が引けるが、最近、藤原正彦著『国家の品格』(新潮新書) を読んだ。こういう本は、ふだん滅多に読まないし、ましてや買わない。「こういう本」というのは、まさに『国家の品格』がその典型で、たとえば大 企業の会長だとか社長が大量に買い込んでは、部下に「これを読め」と配るような本のことだ。その気持ちはとてもよく判る。「そうそうそうなんだよ な、オレが言いたかったことはすべてここにある、よくぞ書いてくれた」と胸の支えがおりたような、長引く不調和の後の快便の爽快感のような、いわ く言い難い解放感が読中読後のハイをもたらしてくれる。それは、よくいえば他人の頭を使って(効率的に)思考しているということだが、悪くいえば 何も考えていないに等しい。

 こういう書き方で中和もしくは解毒を図っているのは、訳あって買い求め、なかば義理で読み進めていって、「なんだ、ここに書かれているのは、当 たり前のことばかりではないか」と、このところの「激務」ですっかり回転がにぶってしまった脳髄が、この本にさわやかな爽快感といわく言い難い解 放感を覚えて、それがちょっと気になったからだ。耳に心地よく聞こえたり、違和感なしに腑に落ちるときは要注意。正しすぎる議論や明快すぎる言説 に接したら、「ちょっと待って、それはどういう意味?」と老獪なソクラテスのごとく問いを発しなければいけない。「国家って何?」「品格って 何?」「日本人って何?」「日本文化って何?」等々。──物言わぬ花の美しさを思え、と物言う人が語ることのおかしさを自覚してさえいればいい。 秘すれば花をあからさまにすることに恥じらいがあればなおよい。思考停止寸前の頭では、そう書き記しておくだけで精一杯。

★2月18日(土):『黄金の華』

 先日、日帰りで東京にでかけ、行き帰りの新幹線の中で、忙中閑の時間がとれた。その日は神戸空港開港の日でもあり、一番機に乗る手もあったのだ が、往復6時間弱の車中の読書時間の魅力が勝った。鞄には「厳選」した本を二冊しのばせておいた。トマス・ネーゲルの『コウモリであるとはどのよ うなことであるか』(永井均訳)と火坂雅志『黄金の華』(文春文庫)。
 『コウモリ』は往路で表題作を再読・熟読する予定が、列車が動き出すと同時に猛烈な眠気に襲われて、2頁ほど読んだきりでそのまま熟睡。読みた い哲学本は山ほどたまっているけれど、このところにわかに『コウモリ』への熱が高まっている。なにかこの本を求めてやまないものが私の中にあると いうことだろう。そのうち「激務」から解放されるはずなので、頭と心と躰をリフレッシュさせてからもう一度取り組むことにしよう。

 復路では一転、座席に坐り頁を繰りはじめたとたん、終日続いた眠気がすうっと引いていった。火坂雅志(ホサカカズシならぬヒサカマサシ)の小説 を読むのは初めて。というよりそういう作家がいるのも知らなかった。時代小説を読むのはずいぶん久しぶり。時代小説というより、「江戸の経済を 創った男の生涯」という文庫カバーの謳い文句にぐっときて、金融小説として読むつもりで買った。大御所家康の側に仕えた商人上がりの金銀改役・後 藤庄三郎。金銀改役(きんぎんあらためやく)というのは貨幣発行とその市場流通量を調整する役職で、今の日銀総裁のようなもの。実際、後藤庄三郎 の屋敷跡に日銀が建っている。江戸時代、徳川幕府でさえうかうか手が出せない「三禁物」と称されるものがあって、後藤家代々の当主がもつ通貨発行 権(金座、銀座の支配)が大奥、朝廷と並んでいたという。家康はかねがね「金銀は政務第一の重事」と口にしていた(『貨幣秘録』)。その家康の信 任を一身に受け、「天下の黄金の流れを澱みなくさせ」た男。経済小説、金融小説としては食い足りないが、史実にもとづき淡々と綴られるその半生の 物語は地味ながら壮烈。読後の清涼感は逸品。