「保坂和志『小説の自由』のことなど」(2005.04-2007.03)



☆2005

★4月2日(土)

 保坂和志の全作品を最初から読み直していちおうの「決着」をつけておきたいと考えはじめている。読まずに警戒していた批評理論を少し囓り、スー ザン・ソンダクの『反解釈』やバフチンなども読み、そうしたことをすべて忘れて『この人の閾』以来の全文章を読み通してはたしてなにが出てくる か。一年くらいの作業になると思うが、結局手をつけないかもしれない。

★6月18日(土)

 石川忠司さんの『現代小説のレッスン』を買った。純文学の「エンタテインメント化」というアイデアが面白い。この人の文章は保坂和志『残響』の 文庫解説と『孔子の哲学』と小林秀雄論を読んだくらいだが、印象に残っている。文学の嗜好に近いものを感じる。たとえば本書で藤沢周平を「W村上 に匹敵する現代日本文学の宝」(125頁)と評している。このセンスがいい。小林秀雄論での隆慶一郎の取り上げ方もよかった。隆慶一郎が小林秀雄 の「弟子」だったことを確認するためネットで検索していて、松岡正剛さんが「千夜千冊」の第百六十九夜で隆慶一郎の『吉原御免状』を取り上げてい ることを知った。

★7月1日(金)

 石川忠司『現代小説のレッスン』読了。面白い。とりわけ保坂和志論(二章「保坂和志の描く共同性と「ロープ」」)は出色。この本はもう一度読み 直すべし。

★7月30日(土)

 加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』を読み終えて、エリック・ロメールの作品を観たいと思った。ロメールの映画は基本的に「ヴァ カンス映画」である。著者はそう書いている。そこでは、浜辺や中庭や登場人物たちのいつ果てるとも知れないおしゃべりの中で省察される「現実」と 映画のカメラが提示する多少なりとも客観的な「現実」とは齟齬をきたしている。それこそ『裏窓』における外見と内実の乖離が先取りしていたもの だ。ここを読んでいて保坂和志の小説世界のことが頭をよぎった。実はとうの昔に観ていたのかもしれないけれど、映画的記憶能力に著しく欠ける私に とって映画体験とはけっして「過去」に属さずつねに「いま・ここ」に生起するものなのだ。だからロメールの映画を観てみたいと思う。

★8月7日(日)

 石川忠司『現代小説のレッスン』読了(再読)。圧倒的に細部が面白い。村上龍=ガイドの文学とか保坂和志=村の寄り合い小説とか村上春樹=ノ ワールといった作家論も新鮮だが、なにより個々の作品に切り込んでいく批評の切っ先が実にイキがよくて鋭く「ナイス」なのだ。

 一例を挙げると、保坂和志の『プレーンソング』に「子猫とぼく」が一秒か二秒のあいだ見つめ合う場面が出てくる。そこに「心の通い合い」を想定 するのはいかにも感傷的=「文学」的な思い込みに過ぎないが、しかし見つめ合うことで「そこに物質的な視線の接触・交差が起こったということは、 やはりひどく貴重な何事かではないのか」。ここから著者は「保坂和志の小説とは以上のごとき物質的コミュニケーションが感動的に横溢する空間にほ かならない」と規定していく。このあたりの筆の運びには、保坂和志の小説世界に身をもって惑溺したことのある者なら間違いなく快哉をあげるだろ う。誰もがそう思いそう感じていたのに言葉でそうと表現されるまでは誰もそのことに気づかなかったある思考、感覚の実質が見事に言い当てられてい る。それこそ批評の力というものだ。

 しかしそのような批評は鮮やかであればあるほど危うい。それはある具体的な対象に即して書かれた地域限定・期間限定の消費物である。そこから何 か普遍的で応用可能な理論や一般的な法則のようなものを導き出すことはできない。できなくはないが、そうやって肥大化した批評はたぶんきっと 「かったるい」。本書はあくまで「コラム集」なのだ。一瞬の鮮やかな輝きを放って潔く消えていく、そのようなコラムに徹すること。コラムとコラム を(共同性なき共同作業=「物質的コミュニケーション」を介して)一つの結構をもった書物のうちにつないでみせること。それこそが本書の魅力のほ とんどすべてなのである。

 プロローグで示される本書の見通しはいかにも借り物めいていて貧弱だ。著者によると、物語(話し言葉)の豊饒に拮抗するため近代小説(書き言 葉)は「描写」「思弁的考察」「内言」といった物語とは異なる言葉の位相を開発したが、その洗練・昇華はては過剰な増殖によって小説は窒息し 「かったるく」なった。現代小説は「活字でありつつ物語の豊かさを目指す方向性」すなわち「エンタテインメント化」をめざしている。しかし、そも そもそこで言われる近代小説の実質が曖昧で、だから著者は最終章の後半になって(村上春樹をめぐる「大きな物語」論と阿部和重をめぐる「ペラい日 本語」論という長大な「伏線」を張った上で)「本格小説」や「私小説」はては「資本主義小説」をめぐる議論を持ち出して帳尻を合わせようとする。 著者は至るところで後付けの理論を繰り出し、その結果プロローグで予告された本書の構成(体系)は破綻する。

 だが、それらは欠陥でも欠点でもない。くどいようだが本書の魅力は細部(コラム)の輝きにこそある。理論や体系や小説観といった大括りの議論は 粉々に砕け散って、具体的な小説世界という「物」に即したその場その時の思いつきやひらめきや創造的な発見の歓びのうちに生き生きと息づいてい る。いや、むしろそのような抽象的で普遍的で一般的な概念や観念や体系といった意匠が立ち上がる現場こそが批評=コラムなのだ。著者がプロローグ で与えた(理論的かつ体系的な)見通しは、だから一冊の完結した書物を夢想しての余分なお化粧などではなくて、いわば「現代批評のエンタテインメ ント化」宣言なのである。

 阿部和重をめぐる「ペラい日本語」論、あるいは話し言葉(物語)と書き言葉(近代文学)に関連して、加藤典洋『僕が批評家になったわけ』の一節 を思い出したので書いておく。──あるとき、本居宣長や荻生徂徠を読んでいてとても気持がよかった。その譬えとか、物の言い方が実に過不足がない という気がしたからだ。

《ここで筆者の直観をいうと、日本のことばは明治になった後、まだ平静を取り戻していない。ということはまだ平熱を回復していない。(略)という か、日本のことばはその平熱を求めて、さまざまに運動を繰り返してきたのではないだろうか。それは明治以降、たとえば現代の日本のことばの名文家 などといわれている人のことばを考えると、とても平熱とは思えないので、そう思うのである。日本のことばは完成していない。というよりも、そもそ も、ことばというものが、完成しえないもので、それがことばの力なのかもしれない。》(188-189頁)

★8月11日(木)

 保坂和志の『小説の自由』に次の文章が出てくる。「小説でも哲学書でも、それを楽しんだり理解したりするために、読んでいるあいだにいろいろな ことを自然と思い出したり強引に思い出したりしているもので、読み終わるとそれの何分の一かしか残っていない。それらをすべて忘れずにいられたら 私たちはすごいことになっているだろう。」(92頁)

 ほんとうに「すごいこと」になっているだろう。この日記でやりたいと思っているのはその「何分の一」かの割合を少しでも大きくすることなのだ が、忘れないようにするためには書かなければならず、そうするとしだいに書くために読むということになって「読みながら現前していることへの注意 が弱くなる可能性が考えられる」(74頁)。じっさい「読みながら現前していることへの注意が弱くなる」と、書くことの方に向かって注意が集中し て最後にはその読んでいる当の書物を投げ出してしまうことにもなりかねない。もちろん投げ出したって構わない。読み続けなければならない義務も責 任も筋合いもないわけだからそれも読書の一つのかたちだとは思う。

 ところで、いま引用した「読みながら現前していることへの注意が弱くなる可能性が考えられる」という文章が出てくるのは「4 表現、現前するも の」の「文字に物質性はない」という節で、そこで保坂和志が語っている「現前性」は本書全体のキーワードなのではないかと思う。

「小説における表現=現前性とは…視覚の運動(広く「感覚の運動」)をともなう、文章に込められた要素の量に関わる」ものであって、「文字によっ て抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて現前性が起こる」。「何よりもまず現前していることが小説であっ て」、「だから小説は読んでいる時間の中にしかない」。「音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきりと別の物質だか ら、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることはでき ない」。

 この『小説の自由』73頁から74頁にかけて書かれているのはとても大切なことで、ここから「物質性」「表現=現前性」「テーマ・意味」の三項 を抽出して茂木健一郎の「脳内現象」の説と関連させたり、あるいは次の文章で指摘されている事柄と関連させてみると面白い(かもしれない)。

《スピノザの議論の核心は単純である。心的なものと、身体または脳のある状態の関係は、いずれの方向でも因果関係ではなく、シニフィエ(意味内 容)とシニフィアン(記号表現)の関係である。つまり、身体の状態は、心的なものを表現するシニフィアンの役割をはたしているのである。因果関係 は、外的世界の出来事と身体の状態の変化の間に存在しているだけである。心的なものはシニフィエであるから、特定の心的状態(ないし意味[シニ フィエ])が、はじめから身体の特定の状態(シニフィアン)によって、一義的に決まっているようなものではなく、他のシニフィアン全体との関係の なかで全体論的に意味をもち、全体論的に解読されねばならない。感官に対する物理的刺激およびそれによって励起された神経興奮は、それ自身単独で 一つの意識を生み出すわけではないのである。》(田島正樹『スピノザという暗号』173-174頁)

★8月12日(金)

 朝日新聞の夕刊(8月10日)で『小説の自由』が取り上げられていた。そこで保坂和志は「自分と世界などについて新たな問いを作り出すのが小説 だと思います」と語っている。「この小説は速いか遅いか、強いかゆるゆるしているかなどと考えながら読む。読み終わった後はその手探り感に酔う。 最初は緊張するし頭を使うし、大変です。そんな手探り感がなく、するする読める小説があふれているいま、書き手として感じる面白さを書かない人に も伝えたかった。
 この「するする読める小説」は、たとえば「3 視線の運動」の章の志賀直哉の完成された文章、なめらかな文章の話題と(たぶん)つながってい て、それは野矢茂樹の『他者の声 実在の声』の「3 「考える」ということ」に出てくる「言語ゲームのよどみ」の話題とも(たぶん)つながっている。これなど二人のコラボレーションのほんの一例でしかない。

★8月21日(日)

 朝日新聞に高橋源一郎が『小説の自由』の書評を書いていた。「小説」について考えることも「小説」なんだ、というのが書評のタイトルで、「小説 とは……ひとことでいうなら、ものを考えるためのある一つの優れたやり方、なのである」、つまり小説とは「「小説的思考」によって書かれたものの ことだ。では、「小説的思考」とは何か? それは、実のところ、『小説の自由』というこの本の中に流れている思考のことなのである」、だから「当 然、この『小説の自由』もまた小説」であるという趣旨なのだ。この指摘はまったくもって正しい。

ただ、保坂和志いわく「小説は読んでいる時間の中にしかない」のだから、「小説的思考」もまた小説を読んでいる(書いている)時間の中にしかな い。つまり小説世界の中に立ち上がっているもの、現前しているものこそが「小説的思考」そのものなのだとしたら、そのような「小説的思考」によっ て(小説とは何かを考える小説を)書くということはいったい誰がどうやって何を書くことなのだろう。(この困惑はちょうど、すでに立ち上がってい る「意識」を使って「意識とは何か」を考えるとは何がどうやって何を考えることなのかを問う時のそれに似ている。)

 また高橋源一郎は、「「小説的思考」は、小説が生まれる以前から存在した、というこの魅惑的な考えに、ぼくも同意する」と書いている。「小説が 生まれる以前から存在した小説的思考」によって書かれた書物とは「13 散文性の極致」(まだ読んでいない)に出てくるアウグスティヌスの『告 白』のことだ。「小説が生まれる以前から存在した小説的思考」が「小説が死んだ後にも存在する小説的思考」もしくは「小説という概念とはいささか もかかわらない小説的思考」はては「そもそも書かれることのない小説的思考」(純粋小説的思考)といったものをも含意するとしたら、それは魅惑的 だと思う。

★8月27日(土)

 保坂和志『小説の自由』読了。『カンバセイション・ピース』と並べてみると、この二冊の本が姉妹編だったことがよくわかる。カバー写真も撮影し た写真家も違うけれど装幀はどちらも新潮社装幀室で、本の造りとデザインがそっくりだ。昨日と今日の二日かけて最終章「13 散文性の極致」を読 んだ。本書全体の集大成ともいえる章で、頁数も多いが内容も濃い。「4 表現、現前するもの」とあわせて読むと『小説の自由』はほぼ了解できると 言いたいところだが、この本はそれほど要領よく要約してすませられるほどヤワではない。

 野矢茂樹『他者の声 実在の声』と対比させながらレビューを書こうと目論んでいた。たとえば野矢の「論理空間」と保坂の「小説世界」と「言語の 外」と時間の関係とか。でも『他者の声 実在の声』をまだ読み終えていないし、保坂和志の文章からなにか理論めいたものを引き出すことは虚しい。 その虚しい作業にいずれ取り組むことになるかもしれないので、ここにそのラフスケッチを書いておく。

 保坂和志の思考のかたち(というか手順)はいつも三つの項から成っている。たとえば「音楽」と「美術」と「小説」。たとえば「表現」と「感覚の 運動」と「意味・テーマ」。たとえば「物質性(音楽性)」と「精神性(散文性)」と「フィクション(第三の領域)」。たとえばアウグスティヌスと カフカとチェホフ。その他諸々。これら三つの項を行ったり来たり逡巡しながら「何か」が立ち上がり浮かび上がり「現前」することを能動的に受容す ることが保坂にとっての小説を書くこと=文字で思考すること=読むことの実相で、それは解釈することとはまるで違う。それはまた哲学とも似て非な るもので、この違いを一言で表現したのが野矢茂樹の「他者の声 実在の声」である。

《他者は、意識における他我ではなく、意味の他者として私を取り巻く。たとえば哲学などはあからさまにそのような声として現れてくる。理解しきれ ない、しかしまったく理解を拒むわけでもない、「さあ、理解してごらん」という誘惑のざわめき、それが意味の他者なのだ。/同じような誘惑の声 を、私は実在のもとに聞く。このコーヒーの味わいも、あるいは先週の山歩きのときのさまざまなことも、言葉で表現しつくすことはできない。しか し、それらは語りえぬものとして言語の向こう側に鎮座しているわけではない。「さあ、語り出してごらん」、そんな誘惑がかすかに、あるいは声高 に、響いている。私はそこにこそ、「実在性」の在りかたを見たい。》(『他者の声 実在の声』193-194頁)

★9月2日(金)

 マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』を買った。7周年を迎えた新潮クレスト・ブックスの新刊。これまでに読んだのはベルンハルト・シュリン クの『朗読者』とジョン・L・キャスティの『ケンブリッジ・クインテット』とアリステア・マクラウドの短編一つだけ(ジュンパ・ラヒリの『停電の 夜』は文庫で読んだ)だが、このシリーズの造本と装幀はとても気に入っている。本を読む愉悦、それも上質の文学作品に溺れる快楽がかたちになって いる。保坂和志(『小説の自由』)の言葉を借りれば「読んでいる時間」──「新潮クレスト・ブックス7周年記念ベスト・セレクション」というパン フレットに掲載されていた鼎談での、いしいしんじの言葉を借りれば「読んでいる時間の特別さ」──そのものが凝縮されてかたちになっている。

 『素数の音楽』は小説だと思って買ったら数学ノンフィクションだった。「素数」と名がつけばなんだって手にしてしまう。そこに「リーマン」の名 が見え隠れしていたら見境なく速攻で買ってしまう。昨年暮れに衝動で買ったカール・サバーの『リーマン博士の大予想』とあわせて三日くらいかけて 玩味できたら最高の休日になるだろう。望みどおり生まれ変われるとしたら、作曲家か数学者、それも数論で食っていきたい。

 数学といえば、野矢茂樹が『他者の声 実在の声』でその「妖しい魅力」について書いていた。──論理は数学における中心的な能力ではない。なぜ か。「思考は本質的に非論理的だ」からである。数学者にとってもっとも重要な能力は直観力である。

《そこ[数学という別世界]で要求されることは、その世界に「住む」ことである。その抽象的な世界を生き生きと感じ取り、そこで手足を伸ばし、そ の空気を呼吸すること。そのとき、具象の現実世界に対する五官とは別の感覚器官のようなものが育ち、その抽象的な関係と構造の世界を直観すること ができるようになる。私はけっきょくそこの住人になりそこねたわけだが、数学を好きになり、数学を美しいと感じるようになるということは、けっ きょくそういうことだろう。それは論理ではない。むしろ感覚の一種なのである。》(264頁)

 これはほとんど「読んでいる時間の中にしかない」小説という別世界について書かれた文章そのものだ。保坂和志は、小説における表現=現前性につ いてこう書いている(『小説の自由』68-74頁)。
 「音楽ではまずメロディが思い浮かぶ」というセンテンスを書くことは、「小説とはまずストーリーである」というセンテンスを書くのと同じくら い、私(保坂)にはありえない。音楽について書きながら私(保坂)の頭をかすめていたのは音の質感の方で、音楽が表現しているものは、メロディや 歌詞(メッセージ)なのではなく、楽器の編成それ自体だ。特定の楽器編成による一つの曲が演奏されたときに、それによって何かが表現されることに なるのではなく、それ自体がすでに表現なのだ(「特定の楽器編成による一つの曲」をたとえばカフカの『城』におきかえれば、ここで言われているこ とは小説にもそのままあてはまる)。

 音楽や美術の場合、現前性をそのまま物質性と言い換えてもまあかまわないぐらいだから、現前性=表現であることが了解しやすいだろうが、小説と いう文字の表現の場合、すべてがいったん抽象化されて物質性を失っているので、現前性ということが了解されにくくなる。小説における表現=現前性 は、漢字、ひらがな、カタカナといった見た目の印象や韻文における響きなどではなく、文字によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚 を運動させるときにはじめて立ち上がるものだ。

《その現前性を持続させて何かを伝えたり考えたり表明したりするのが小説だが、何よりもまず現前していることが小説であって、伝えたり考えたり表 明したりする方は小説でなくてもできる。/だから小説は読んでいる時間の中にしかない。音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉 とははっきり別の物資だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだか ら言葉で伝えることはできない。》

 以上は『小説の自由』前半のキモ「4 表現、現前するもの」からの抜粋だが、中盤のキモ「9 身体と言語、二つの異なる原理」(そこで言われて いることは、小説家は身体・言語という二つの異なる原理もしくは身体・言語・記憶という三つの異なる原理にまたがって文章を書いているのだが、や はり小説は「融通のきかない自律性」をもった言語でなく身体、それも「一般化される以前の個人としての身体」が起点となっているといったことで、 もちろん保坂和志のくねくねと迂回に迂回を重ねる思考のエッセンスをそんな一言で片づけるわけにはいかないし、読んでいて面白いのはむしろ「2  私の濃度」や「5 私の解体」につながる「8 私に固有でないものが寄り集まって私になる」の方だ)を経て、後半というより本書全体のキモ「13  散文性の極致」になると、保坂和志は「事実/虚構」といった単純な二分法をこえたところで小説が小説として(事実でも虚構でもない第三の領域= フィクションとして)立ち上がる現場を、小説という概念が生まれる以前の場所(アウグスティヌスの『告白』)における「小説の始源のありよう」 (297頁)のうちに探っている。

 『告白』を注意深く読み進めてきた読者は、ある時間(読書体験)の集積を経て「アウグスティヌスとはこういう人だ」という理解に達する。その時 そこにおいて「まさに小説として一人の人物の立ち上がりが完成したのだ」(335-336頁)。しかしそこで言われる「アウグスティヌス」という 「一人の人物」は物質性ではなく精神性、言い換えれば論理の組み立てや思考の組み立てのことだ。「アウグスティヌスには思考の手順しかない」 (336頁)のである。小説とは「人間が文字という形で書いていくことが世界そのものとどういう関わりがあるのか」という「問い、ないし、問い以 前の形のない何かを持ちながら、思考の手順を動員することによって思考を推し進めようとする散文なのではないか」(308頁)というわけだ。

 そのような意味での小説(感覚の運動・思考の手順)と数学の違いは、そこに「人物」が登場するかどうかである。ここにきてようやく先の野矢茂樹 の引用につながった。保坂和志は、小説と『デカメロン』や『カンタベリー物語』との違いのひとつは人物がしっかり描かれているかどうかだと書いて いる。そして「人物がしっかり描かれている」というのは、その人物が「書かれていることをフィクション=「記憶するに値する」「忘れることができ ない」「信じざるをえない」ものとするメカニズムとか媒体になるということ」(297頁)だと書いている。

 数学と『デカメロン』とではまるで違うが、野矢茂樹が言うように(文字を使わず思考する)数学者にとって直観力こそがもっとも重要な能力なのだ とすると、(文字を使って思考する)小説家にとって大切なのはあくまで「思考の手順」としての文体=散文性で、そこで立ち上がるのが「人物」だ。 「人物が媒介者となって「信じざるをえない」ものとしてのフィクションという次元が完成する」(297頁)。「「実例を使って考える」のではな く、「実例が考える」、アウグスティヌスはそういう思考法に乗って書いている」(318頁)。

 以下は備忘録。
1.頭の中だけで考える作業と文字を使って考える作業の違いについて、『小説の自由』の318頁から319頁にかけて書かれていることは実に面白 い。野矢茂樹は思考とは「雨乞い」のようなものだと書いている(『他者の声 実在の声』257頁)が、これは保坂和志の分類によると頭の中で考え る思考のことだ。
2.『小説の自由』の176頁、264頁、335頁に『フェルマーの最終定理』の話題が出てくる。ここのところもなかなか味わい深い。
 3.「書くことは前に進むことだ」。『小説の自由』の329頁に出てくるこの言葉(あるいは315頁の議論)は、野矢茂樹のテーゼ「語りえぬも のを語りえぬままに立ち上がらせるには、語り続けねばならない」(『他者の声 実在の声』234頁)と響き合っている。

★9月3日(土)

 野矢茂樹『他者の声 実在の声』読了。読み残していた数篇の文章を読み飛ばした。哲学系の本でこういう読み方はよくないのかもしれないけれど、 よく分からないところや細部の論証にあまり逐一こだわらず、一気に通読してこそ伝わる哲学的問題の感触というものもある。(もちろん、分からない ところに出くわしたら「前後もあわせて繰り返し読む。ときに、ほんとに詰まってしまうこともある。ため息をついて、しばらく別のことをして、でも どこかでそのことを考えていて、また読む、いいでしょ、こんな読書。贅沢だよね」(281-282頁)といわれる読み方もある。野矢さんにとって の『論理哲学論考』がいまの私にとっては『物質と記憶』で、それはたしかに贅沢な読書体験だ。)

 先月読み終えた保坂和志の『小説の自由』とあわせて「書評」を書きMMを発行する予定だったがその気になれず、阪神・横浜戦と『笑の大学』を観 て一日をやり過ごした。(『笑の大学』はラストでこけた。検閲第一日目から五日目までの単調で退屈な反復が六日目の高揚を生み出し、突然の暗転で 一気に超絶的な笑いへの期待が高まるが、七日目の無惨な結末で作品は凡庸のうちに終結する。検閲官役の役所広司は達者だが、この役はもう少し無骨 な味わいの役者が演じる方がよかった。)

 せっかくだからどんな「書評」を書くつもりだったか、若干のアイデア(の種)だけでも書き残しておこう。『他者の声 実在の声』は大森荘蔵の 『流れとよどみ』にかかわった編集者に声をかけられて生まれた本だという。「「考える」ということ」というエッセイ(第3章)に次の文章が出てく る。

《なめらかな言語ゲームの遂行において思考を見て取ろうとしたウィトゲンシュタインはまちがっている。われわれは、思考を論じるにあたって、むし ろ目を言語ゲームのよどみへと向けねばならないのではないだろうか。》(36頁)

 この「言語ゲームのよどみ」において聞こえてくるのが──意識の内と外をめぐる哲学的誤謬の「獣道」(28頁)もしくは出口のない「洞窟」 (191頁)を抜け出たところにひらかれる──「言語の外」(192頁)から届く野生の他者(「意味の他者」=たとえば哲学者)の声であり実在の 声なのである。「私に意味を与えよ」(44頁)。「さあ、語り出してごらん」(194頁)。言語の外は語りえない。しかし語りうる世界(すなわち 「論理空間)の内部)は変化する。この語りの変化のうちに他者の姿は示される。だから「語りきれぬものは、語り続けねばならない」(118頁)。

 ところで『小説の自由』に「文章としてのなめらかさ」(57頁)をめぐる話題が出てくる。志賀直哉の文章は完成されていて「このまま映像に置き 換えられそうな文章だが、しかしこれは逆で、私たち自身がふだん文章を読むように映画を見ているということなのではないか」(53頁,46頁)。 このことは「何かを考えるとき、つまり思考するとき、私たちはほとんどの場合、視覚のように思考を組み立てている。あるいは、思考をなかば視覚化 している」(262頁)のだが、しかし「視覚化した思考でなく本当の思考[「脳の中で遂行される思考」(270頁)]が小説の理解には求められ る」(268頁)という後に出てくる主張の伏線になっている(たぶん)。

 ここで思い出したことがあるので挿入しておくと、編集者や書評家や評論家が「うまい」とか「心地よい」と褒める「こういう文章[ここで保坂和志 が考えた例文は省略]を読める人は精神が眠っているだけだ」、「言葉の内側にこもってただ練り上げていくだけのこういう文章は、別に村上春樹がは じめたというようなことではなくて、日本の近代文学の歴史を通じて流れつづけてきたものではないか」(174頁)と批判されているのも「なめらか な文章」のことなのだろう(たぶん)。

 それでは「言語ゲームのよどみ」に相当するものを『小説の自由』に求めることができるのかというと、それはできる。最終章で延々と引用されるア ウグスティヌスの文章、つまり「小説の始源のありよう」(297頁)のうちに示されているものが「よどみ」(=散文性)である。この「よどみ」は 「神」(284頁)や「宗教性」(304頁)につながっていく。つまり論理空間と同様、小説世界もまた変化していく。だから「書くことは前に進む ことだ」(329頁)。

 さて『小説の自由』は「小説をまず書き手の側に取り戻すために」(226頁)書かれた。しかしこのことと「小説は読んでいる時間の中にしかな い」(74頁)という本書の基本テーゼとは一見食い違っている。小説の「書き手の側」と小説を「読んでいる時間」とは別の次元に属することだから だ。しかし実はそこに矛盾はない。なぜなら「小説家はどんな読者よりも注意深く、自分がいま書いている小説を読んでいる」からである。つまり「小 説を書くことは、自分がいま書いている小説を注意深く読むことなのだ」(165頁)。

 これに対して「批評家・評論家・書評家は、書くことを前提にして読むから、読者として読んだと言えるかどうか疑わしい」(74頁)。さらに引用 を続けると、「小説は外の何ものによっても根拠づけられることのない、ただ小説自身によってのみ根拠づけられる圧倒的な主語なのだ。/本当の自由 とはここにある」(278頁)。ここまで書かれたらもう言葉がありません。要は「私を読め、私を現前させよ、私を語るな、私を解釈するな」と保坂 和志は言っている。この本を、というよりこの小説(C:高橋源一郎)を「書評」などするなということだ。ひたすら読みつづけるか、つまり「現前性 の感触」に身体をさらしつづけるか、それとも「この保坂和志という他者の言葉は私(中原)の言葉である」(145頁参照)というところまで引用し つくすか。その二つしか途はない。

 『他者の声 実在の声』と『小説の自由』についてはまだまだ書いて(引用して)おきたいことがある。ここでは先月書き忘れたことをひとつだけ取 りあげる。──「言語は自律している、この洞察が後期ウィトゲンシュタインを導いて行ったのである」(『他者の声 実在の声』30頁)。こういう フレーズを洒落て気の利いた言い回しか何かのように読み流してはいけない。ここで言われているのはかなり凄いことなのだ。

 言語は脳のはたらきを通じて生み出されたものである。その言語が自律している。脳から離れて自律している。個体の生理活動や心的活動や心身の履 歴から離れて自律している。言語がそこに(どこに?)あって、自らを組み立て編成している。だから言葉の「意味」は言語の中にある。脳のはたらき を通じて意識のうちに立ち上がる、もしくは浮かび上がるものではない。しかもそれは他と置き換え可能な一つの言語観なのではない。ウィトゲンシュ タインはそのような言語観を抱いたのではなく、生きたのである。言語が自律した世界を生きたのである。「あなたは言語とはコレコレだと思っている が、実は言語とはシカジカなのだ」といった知識や信念の話ではないのである。言語が自律している世界を生きるのは、そんな生やさしいことではない のである。

 私のメモはここで終わっている。その後に「考えているのは私なのか」「それは私の思考なのか」と走り書きが残っている。この覚書きを書いていた 時に立ち上がっていたもの、もしくは浮かび上がっていたもの、つまり現前していたものの感触は今はもう残っていない。だからここに再現することは できないが、その時書こうと思っていたこと(私の場合それは「考えようとしていたこと」「引用しようと思っていたこと」と同義である)の残骸だけ は収集しておくことができる。いちいち本にあたって確認するのが面倒になったので、以下はほとんどうろ覚え。

 残骸の一。先に「引用問題」に関連して引用した保坂和志の原文は「この新宮一成という他者の言葉は私(保坂)の言葉である」となっている。これ はラカンの「他者の語らい」や「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」といった議論と結びついている。それはまた『他者の声 実 在の声』の「言語の外」から聞こえてくる(他者や実在の)誘惑の声、あるいは『神々の沈黙』のかつて右脳から聞こえてきた神々の声とも結びついて いる。

 残骸の二。その『神々の沈黙』に「意識は言語に基づいて創造されたアナログ世界」(87頁)であると書いてあった。『出生の秘密』では、ヒトは 言語を獲得して(象徴界に入って)人になるといった趣旨のことを論じている。この二つの書物をひとまとめにして「書評」を書き、次々回のMMのネ タにしよう。

★9月4日(日)

 ベルクソン『物質と記憶』の「容器と中味」をめぐる一節──「知覚がそこ[脳]から出てくることはありうべくもない。脳は他のイマージュと同じ く一個のイマージュであり、大量のイマージュに包まれているわけで、容器から中味が出てくるということは、理屈に合わないからである。」──を読 んでいて(くどいが)保坂和志の議論を想起した。たしか『小説の自由』の中に容器と中味云々という言葉が出てきたように記憶していたのだが、いく ら探してもみつからない。みつからなくてもいい。意識的知覚と脳の変化、意志の不確定の三項関係は、保坂和志が書いている精神性と物質性とフィク ション(第三の領域)の三項関係とほぼ相似形の関係
にある。

 それは私の脳が勝手にそう思うだけのことにすぎないが、ついでに書いておくと、保坂和志がよく言及するチェホフの「学生」(部屋の本箱にかれこ れ十年近く置きざらしにされたままで、そろそろ全集読破作業を再開しなければと思っていた矢先の中公版全集の第9巻では「大学生」となっていて、 巻末の解題によると、チェホフの同時代人は二段組の中公全集版でたかだが5頁のこの短編を「もっとも完成された作品」とみなし、チェホフ自身も自 作の中で「いちばんぼくの好きな物語」と語った)の過去と現在を結びつける鎖の話──「いっぽうの端に触れたら、もういっぽうの端がぴくりとふる えた」──は、ベルクソンがやがて導入する記憶の議論に関係してくる。物的知覚物と身体を結ぶ「ロープ」(ウィリアム・ジェイムズ)。過去と現在 を結ぶ「鎖」。

 もう一つついでに『エックハルト説教集』から。《ある師は、目が歌とは関係なく、耳が色と関係がないように、魂はその本性においては、この世界 のすべてのものと関係がないのであると言っている。それゆえに自然学の師たちは、魂が体の内にあるというよりも、むしろ体が魂の内にあるのだと 言っている。ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである。》

 三項関係というとパース。いま断続的に読み進めている三浦雅士の『出生の秘密』が「六 記号の階梯」を終えてパースとラカンの妖しげな関係を取 り上げた「七 鏡のなかの私」にさしかかったところ(佳境)なのだが、パースとベルクソンというテーマもとても面白い。「パース氏の思想はベルク ソンとはまったく別の仕方で形成されたのであるが、ふたりの思想は完全に重なり合うものである」(ジェイムズ『純粋経験の哲学』)。ついでに書い ておくと『小説の自由』の「8 私に固有でないものが寄り集まって私になる」に「子どもたちの実父問題」(149頁)という話題が出てくる。

★9月5日(月)

 『素数の音楽』の冒頭に数学者アラン・コンヌと神経生理学者ジャン=ピエール・シャンジューのやりとり(『考える物質』)が紹介されている。コ ンヌが「数学的実在は、人間の精神とは独立に存在する」といい、その数学世界の中心には不変の素数列があると言い張るのに対し、シャンジューはい らだちとともに、「それならなぜ空中に“π=3.1416”と金文字で書かれているのをこの目で見ることができないのだ?」と迫る(18頁)。

 素数は世界に先立って存在している。ここでいう「存在している」の意味がうまく説明できないし「世界に先立った素数の存在」(あるいは「無限」 の存在でもいい)を実感できているわけではないけれど、この主張はまったく正しいと私は信じている。数学的プラトニストなのだ、私は。精確にいう と、数学的プラトニストたることに憧れているのだ。

 ペンローズが、ボルヘスの「詩人は発明者である以上に発見者である」を踏まえて「数学については,少なくともより深遠な数学的概念については, 他の場合に比べて,玄妙な,外的な存在を信じる根拠はずっと強い,と私は感じないではいられない」(『皇帝の新しい心』111頁)と書いている。 これと似たことを養老孟司が『「私」はなぜ存在するか』で語っていた。量子論を専攻している人には量子が見え、遺伝子やゲノムの研究者には遺伝子 やゲノムが見えるのと同様、数学者にとっては数学的世界が実在する、云々。
 
 素数が「実在」している場所は、保坂和志のいう「第三の領域」(フィクション)と関係している(たぶん)。9月2日の日記に書いた話題の続きに なるが、ここにも数学と小説の妖しげな関係がある。哲学との関係も妖しい。

 私は常日頃から小平邦彦さん(『怠け数学者の記』)の「数覚」をもじった「哲覚」という言葉を愛用しているのだが、ここに新たに「文覚」(文覚 上人の「もんがく」ではなくて「ぶんかく」)という言葉をでっちあげたい。数覚は「(数学的)イデア」を、哲覚は「概念」を、そして文覚は「(文 字を使って思考する)人物」を、それぞれ「実在」として知覚する。あるいは発見する。たとえば保坂和志の『小説の自由』は『〈私〉という演算』が 「小説」であるのと同じ意味で「小説」であると考えることができる作品なのだが、そこにおいて「文覚」の対象となる「人物」は何かというとそれは 概念語なのである。この作品の主人公に相当するのはおそらく「現前性」だろう。

★9月9日(金)

 『群像』10月号を買った。保坂和志+石川忠司「小説よ、世界を矮小化するな」だけを読みたくて買った。これまでの経験からいって文芸誌や総合 誌を隅々まで読めたためしがない。で、さっそく『現代小説のレッスン』と『小説の自由』を上梓したばかりの二人の対談を読んだ。面白かった。

 保坂和志いわく「僕は、小説は部分だけ読んでいて構わないと思っているのね」(206頁)。「最近僕はエッセイを十五枚ぐらいの長さで書くこと にしているんです」。「でも、彼[村上春樹]は考えをつくったんじゃなくて、文章をつくったんだよね。だからみんなに使われる。村上春樹以降の人 は、文章で小説を書くんじゃなくて、考えで小説を書かなきゃいけないと思うんだよ」(210頁)。「[五枚から十枚ぐらいの長さでまとめられた] エッセイみたいにこぢんまりとした作品を完成させるのに都合のいい文章は持っているんだけど、とめどなく考えを先に進められる文章は持っていない ということなんだと、今僕は思っている」(210頁)。「比喩というのは世界に向かわず、言語の中で次から次に移っていくことだ……だから、やっ ぱり比喩を使っていたら世界[リアリティ]は開示されない、きっと。…言語と世界をいかに結びつけるかということを忘れたら小説は大人が真面目に 読むものじゃなくなると思う」(214頁)。

 石川忠司が「2001年の保坂和志」(『世界を肯定する哲学』)と「2002年の保坂和志」(「文学のプログラム」/『言葉の外へ』所収)を図 式化して、その間の「ゆらぎ」もしくは「矛盾」を衝いていた。両者に共通しているのは「人間(肉体)に対する世界(存在)の先行性」(211頁) なのだが、「図式1[2001年]では世界の先行性、世界と人間の断絶を敢行していたのは言語の「裏地」、言語の肉体的側面だったのが、図式 2[2002年]では逆に言語の「表地」、肉体性からかけ離れた純粋な論理・思考的側面になっている」(212頁)。保坂和志いわく「それは自分 だってわかっていないんだもん」。石川「しっかりしてよ」。保坂「人任せにするなよ(笑)」(213頁)。

 以下、世代交代(バトンの受け渡し)を描く小説、空間の中での「私」の消滅、いいことも悪いことも何も「起こらなかったことに××する」のその 「××」を考えること、といった話題がつづき、最後に保坂・石川両人の「今後の予定」が語られる。保坂和志いわく「「小説をめぐって」の連載は、 やっぱり小説を書いているわけじゃないから、小説を書きたい」(219頁)。『小説の自由』は現在も続く「小説をめぐって」(『新潮』連載)の最 初の十三回分をまとめたもの。(二人の対談を読みながら、昔読んだマヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』を想起していたのだが、このことはまた別の 機会に書く。)

 石川忠司がいう「ゆらぎ」は私もおぼろげに感じていて、それは小説とは感覚の運動であるという『小説の自由』前半の規定と、小説とは思考の手順 を総動員して書きつづけることだという後半の規定との間に、あるいは小説とはフィクションという第三の領域を立ち上げることだという前半後半を通 じた規定と、『〈私〉という演算』のあとがきにある「ぼくにとって小説というのは、フィクションであるかどうかということではたぶん全然なくて、 歌かどうかということであるらしい」という規定との間に漠然と漂う異和感のようなもののことだ。もっとも『〈私〉という演算』のあとがきは「ここ こにある文章はその「歌」から最も遠いところで書かれているのだけれど、その分、思考の生の形に近い」とつづき裏地と表地はつながっているのだ が、そのあたりはとても危うい。

 それにしても石川忠司の図式はとても便利なもので、「物質性─精神性─フィクション(第三の領域)」という保坂和志の三項関係(9月4日の日記 に書いた)にあてはめて「言語の裏地(肉体性:感覚の運動)─言語の表地(記号性:思考の手順)─世界(リアリティ)」と変形してみたり、今読ん でいる茂木健一郎『「脳」整理法』の議論(「世界知=ディタッチメント」と「生活知=パフォーマティブ」、「偶有性」と「神の視点」)と関連づけ たりすると面白い。言語の裏地における「肯定/否定」「全体/部分」「容器/中味」の関係は、マテ・ブランコの『無意識の思考─心的世界の基底と 臨床の空間』とも関連しているはずだ。

★9月21日(水)

 富士ゼロックスの『グラフィケーション』(No.140)が届いた。特集は「地域の自立と再生」。巻末の「編集者の手帖」にこう書いてある。 「地域が元気にならなければ、いくら大都市に住む人間が「改革だ」「グローバル化だ」と叫んでも、世の中が変わったとは言えないし、農林漁業とも のづくりの関係もよくならないというのが私たちの考えで、本誌は意図的に「地域」の問題に焦点をあててきた。」この編集方針に一票。以下は、三俣 学氏(兵庫県立大学経済学部専任講師、エコロジー経済学専攻、コモンズ論からのアプローチで日本の森林研究に取り組んでいる、とプロフィールに書 いてある)の「二十一世紀に求められる“共的世界”の再生と創出」から拾ったキーワード。

 「コモンズは境界に生まれる、しかもそれは“重なり合う境界”に」。これは間宮陽介氏の言葉。『コモンズの思想を求めて』の著者・井上真氏はコ モンズを「思想を秘めたもの」と捉えている。コモンズに底流する思想とは何か。三俣氏いわく「自然環境を豊かに備えた社会を未来に向かって希求す る思想ではないだろうか。そのような社会に向かう道筋を展望するにあたっても、コモンズの思想は私たちを誘い続ける。人間間・組織間の調整(寄り 合い・話し合い)をできる限り繰り返すべし、という入会に見たあの精神がその一つではなかろうか」。

 ここを読んで石川忠司『現代小説のレッスン』二章の保坂和志論を連想した。石川忠司はそこで宮本常一の『忘れられた日本人』に描かれた「村の寄 り合い」の情景──「結論へ到達することが目的ではなく、「こんな風にいろいろ脱線や食い違いを繰り返しながら二、三日集まっていること自体が十 分『結論』なんじゃないか」と語っているみたいに感じられるこの極楽トンボな雰囲気」(78頁)──を保坂和志の世界になぞらえていた。

《保坂和志の「思考のかたちをとった『日常生活』」とは畢竟、共同体の謂いである。共同体こそ複数の論理の紛糾や空回りによって単線的な論理がな しくずしにされ、明確な結論よりもともに適当に、すなわち真の意味で真面目に生きることを求められる場にほかならないからだが、ところでこのタイ プの思考を「純粋」に突き詰めるためには具体的な形象、すなわちさまざまな人物たちが実際の世界においてお喋りしたり触れ合ったりしている形象が 是が非でも必要とされよう。端的に言えば、「小説化」される必要があるわけだ。》(『現代小説のレッスン』78-79頁)

 石川忠司は保坂和志の創作の核に「ヘヴィな」(72頁)思弁的考察があるといい、その思弁的考察とは「具体的もしくは抽象的に「日常生活」につ いて考えられた思考ではなく、あくまでも正確に思考のかたちをとった「生活」そのものである」(76頁)という。それをコモンズに秘められた思想 そのものと見てもさしつかえない。石川忠司がいう「形象」を近代的な意味での「小説」にかぎる必要もない。歌論(連歌論、能楽論)と農書(コモン ズ論)の接点がみつかった。


☆2007

★3月11日(日):現に書いている時間にダイブすること、批評の瞬間

 保坂和志さんが『極太!! 思想家列伝』(石川忠司著)の文庫解説に、こう書いている。「誰よりも本人が認めているとおり、石川忠司は書くことが遅い。というかほとんど書かない。そ れは「読む」に全力を傾けるからで、それゆえ彼はノイズまで聴き取って、書き手が持つ形のない核を掴み出す。」これは実作家から批評家に投げ返さ れる言葉としては、最高の部類に属するものだろう。

 保坂さんは、批評家、評論家は「読む」人ではなく「書く」人だ、つまり、自分が書きたいことを作家や作品に託して語るというスタイルを取るのが 評論家だ、という。だから、「読む」をそこそこにしておかなければ、評論家の「書く」が壊されてしまう。「すぐれた作品」を読むことは、急流に身 を投げるようなものだからだ。「読む」という行為は「一回性の出来事」で、「小説家や思想家たちが現に書いている時間にダイブすること」である。 「歴史や社会学や精神分析を評論の根拠に置き、読んだ作品を自分が事前に持っていた知の枠組みの中で腑分けすること」や、「事後的に確認可能な論 旨や筋の流れをただ追うことなんかでは全然な」い。

 保坂さんが書いていることは、正しい。批評の一形式としての書評についても、同じことはいえる。
 ただ、注意しないといけないのは、「評論家は読むだけでは収入が得られないがためにやむをえず書いているわけではなくて、自分が書きたいことが やっぱりあるから書く」というのもやっぱり正しくて(おそらく前半の冗談の部分も含めて)、それは、たとえ「自分が書きたいこと」が出来合いの 「文学観・人間観・自然観・世界観……等々」であったとしても、つまり「自分が事前に持っていた知の枠組み」や「事後的」な後知恵であったとして も、やっぱり正しい。(そのような批評、評論が「すぐれた作品」であるうるかどうかは、この際、別の話。)

 保坂さんが批判している、というより嫌悪しているのは、批評家、評論家が保坂和志の作品をダシにして勝手なことを書いていること、つまりライセ ンス契約もせずに勝手にキャラクターを使って商売していることではなくて(それもあるかもしれない)、「現に書いている時間」というものを抜きに して、「自分が書きたいこと」が書く前から判っていると思っているに違いない、批評家、評論家の弛緩した精神の態度である。

 だから、批評家、評論家が、「(保坂和志が)現に書いている時間」にダイブすることはなくても、批評家、評論家自身の「現に書いている時間」に 身を投げ出して、ありうべき「保坂和志論」やもう一つの「『季節の記憶』論」を書きあげたとしたら、それが「すぐれた作品」であるかどうかは別と して、少なくとも、保坂和志が「それは、保坂和志の『現に書いている時間』にダイブしていない」と批判することは筋違いになる。(ライセンス契約 云々の問題は残るが。)

 批評家、評論家の書いた文章が「書き手(小説家や思想家)が持つ形のない核を掴み出す」ものであるとき、つまり「小説家や思想家たちが現に書い ている時間」にダイブして書かれたものであるとき、批評家、評論家と小説家や思想家との間には最高の(親和的な)盟友関係が成り立つ。一方、批評 家、評論家の書いた文章が「読み手(批評家、評論家)が持つ形のない核を掴み出す」ものであったとき、つまり批評家、評論家自身が「現に書いてい る時間」にダイブして書かれたものであったとき、批評家、評論家と小説家や思想家との間には最高の(敵対的な)盟友関係が成り立つだろう。

 私が、「読まないでおくことでしか書けない(読まなくても書ける、ではなくて)書評というものもあるのではないか」と書いたとき、書物との間 に、あるいはその著者(小説家や思想家たち)との間に、「最高の(敵対的な)盟友関係」が成り立つ場合を念頭においていた。
(中条さんが朝日新聞に書いた二本の書評が「読まずに書いた書評の典型のように思える」と書いたのは、これとは全然違う意味だ。「読まずに書く」 というのは、酒は呑んでも呑まれるな、というのと同じ趣旨で、あんなとんでもない本に「読まれずに」書くことは、奇手、禁じ手を含めて、よほどの 藝がないとできない。)

 虚構の保坂和志や保坂和志が現に書いていない『季節の記憶』を、端的にいえば、現実の保坂和志とその作品をダシにして、それとは現実的なつなが りのないまったく新しい作家や作品を、つまりいまだ世に現れていない書物を創作するような書評。そんな書評=批評は、『季節の記憶』や保坂和志の 作品を「読む」こと、「(保坂和志が)現に書いている時間」にダイブすることをしていては、とうてい書けるものではないだろう。書評家=批評家の 「現に書いている時間」に保坂和志の「現に書いている時間」を取り込むことでしか、書けないだろう。

 上に書いた「批評の一形式としての書評」は、『ベンヤミン・コレクション4 批評の瞬間』(ちくま学芸文庫)の「解説」(浅井健二郎)に出てき た言葉で、そこにはまた、「「書評」という形式においては、批評の瞬間が、表現の比較的表層部に知覚されうるのではあるまいか」と書かれていた。 以下、「批評の瞬間」という魅力的な語彙が出てくる箇所を抜き書きしておく。

《優れた批評作品はすべて、ある神秘的な瞬間を、みずからの言語運動の原点として秘めている──すなわち、〈批評対象の本質が、批判的感性によ り、批評の萌芽として直観される瞬間〉を。それが、本書に言う「批評の瞬間」である。ベンヤミンにとっての〈批評〉を最も簡潔に定義するならば、 〈対象と言語的に関わる哲学的な法方〉ということになるが、批評の瞬間における直観の内容をこの方法に則って構成的に叙述したものが、彼の〈批評 作品〉である。そして、それらの作品間に潜在する照らし合いを私たちの読みが発見するとき、それはすなわち、私たち内部への〈批評の瞬間〉の宿り にほかならない。》