「永井均が『〈仏教3.0〉を哲学する』で語ったこと」(2016.11-12)
★11月26日(土):『〈仏教3.0〉を哲学する』で永井均が語ったこと(その1)
期せずして本書は「永井哲学」の入門書としても役立つものになっている。永井均さんは『〈仏教3.0〉を哲学する』の「鼎談の後に(二)」でそ
う書いている。
永井均が「永井哲学」を自称するのは、かなり珍しいことなのではないかと思う。
『〈私〉のメタフィジックス
』の初版刊行が1986年のことだから、まとまったかたちで世に出て(外に向かって表現されて)から三十年、もうすっかり永井均の哲学的思考は社会的、歴
史的に確固たる客観的存在物になった(もはや永井均の独占物ではなくなった)ということなのだろう。
鼎談では、「永井哲学ウィルスみたいなのを仏教に入れて、中で仏教の教義を変えていってどんどん増殖した時にどうなるか、それを見てみたい。も
しかしたら、これまでの仏教が死んでしまうかもしれない。(略)ひょっとしたら3・0を超えて4・0ができるかもしれない」(藤田一照、168
頁)といった発言もとびだしている。
(永井均が「永井哲学」を自称するのは珍しい。そう書いた「舌の根」も乾かないうちに、『〈私〉の哲学 を哲学する』に「以下で試みるのは…「永
井哲学」の解説である」(6頁)と永井均自身が書いているのを「発見」した。
ただ、これはきちんと実証されていない感覚的な書きつけだが、やはり「仏教3.0」での発言はこれまでとは次元が違うように思う。)
「鼎談の後に(二)」でもう一つ共感したのは、ナーガルジュナの『中論』と道元の『正法眼蔵』を別にして、仏教書を読んで感心した覚えがない、
主張内容が幼稚すぎる、と書いてあったこと。「複雑そうに見える(が実はつまらない)仏教の諸教説」というくだりにもぐっときた。
本文での次の発言も。「哲学の人」の面目躍如。
「禅の人は矛盾概念を使うのを喜ぶじゃないですか(笑)。あれはよくないよね。禅の一つの欠点というのは、矛盾概念を明らかにしないで、そのまま
喜んで使い続けて、何か意味あり気にするという点。ちゃんと解明することができるはずですから、やはりどういうことなのかをちゃんと言わないとい
けない。」(32頁)
と、書き始めると、どんどん中身に入ってしまう。
久しぶりのブログで書きたかったことは、もちろん鼎談で永井均が語った内容についてではあるのだが、それはあまり「仏教3.0」に関係すること
ではない。もしかすると「永井哲学」とも無関係なことかもしれない。
★11月27日(日):空っぽのアリア─永井均が語ったこと(その2)
鼎談で、永井均さんは何度か、請われて「永井哲学」のエッセンスを語る。歌うように語る。
その最初の「アリア」で、無心というときの「心」(=実存)とマインドフルネスの「マインド」(=本質)の違いを語っている(第一章、
32-40頁)。
無心、無我というとき、いったい何がないのか。それは「本質がない」ということではないか。「私には本質がない」。これが永井の主張であり、か
つ仏教的なことでもありうる。
私には本質がない。しかし、実存はある。つまり、私はただ存在している。(この「実存」のことを「仏性」と呼んでいいかもしれない。)
われわれが、どれが私であるのかどうやって捉えているかといえば、ただ直接的に実存している「こいつ」ということだけで識別している。それは単
なる事実である。(認識論)
私が存在するということは、ある特定の本質、内容、中身、心理状態(脳状態)を持った人が存在しているということではない。なぜか端的に感じら
れる、端的に「これ」である生き物が一つだけあるということだ。(存在論)
《だから[山下]良道さんが、「私の本質は青空だ」とよくおっしゃっていますけど、それは私から言えば、「私にはただ実存だけがあって本質はな
い」と言い換えられますね。本質とか内容とか中身とかなくて、ただ存在している。いわば空っぽ。空っぽというのは「空」と言ってもいいですね。本
当にこれは空っぽなんですよ。事実なんです、単純に事実です。そうじゃなかったら、中身なんかあったら、どれが私だかわからなくなっちゃいますか
ら。空っぽのやつが一人いるんじゃなかったら、たくさんいる中で、どれが自分だか分からなくなっちゃいますから。絶対分からなくならないのは、一
人だけ本当に空っぽで中身がないからなんですよ。
中身がないというより、中身じゃない、と言ったほうがいいかな。中身はあることはあるんだけど、関係ないんですね。中身が関係ないやつが、一人
だけいるんですよ。これは驚くべきことだけど、本当のことです。内容はただの作り物というか付属品でたいしたものじゃない、そういうやつが一人だ
けいるんです。》(41-42頁)
こういうのを「永井均のアリア」と私は呼ぶ。
内容や中身ではないアリア、内容はただの作り物・付属品でしかないアリア、空っぽのアリア、だけど「驚くべき」事実として存在する(歌われる)
アリア。
ここから先、仏教とも永井哲学とも関係のない領域に立ち入る。
★11月28日(月):空っぽの器─永井均が語ったこと(その3)
永井均の第一アリアを聴きながら、私はたまたま同時並行的に読み進めていた書物のことを思った。
その書物とは安藤礼二編『折口信夫文芸論集』。そこに収められた「俳句と近代詩」のなかで折口信夫は、短歌(和歌)は「無内容」だと語ってい
る。
《たとえば雪──雪が降っている。其を手に握って、‘きゅっ’と握りしめると、水になって手の股から消えてしまう。其が短歌の詩らしい点だったの
です。処が外の詩ですと、握ったら、あとに残るものがない筈はない。つまり、そうでなければ思想もない、内容もないということになる。古風の短歌
は握りしめてしまえばみな消えてしまった。何も残らない。そう言うのが恐らく理想的なものとなっている筈の短歌に、右に言ったような内容があり、
思想がある訣はないのです。つまり神が日本人の耳へ口をあてて告げた語──それが受け継ぐことが出来れば、其で神の人間に与えた悲しみも、愉しみ
も、十分に伝え得たと安んじて来たのでしょう。意味が訣っても、訣らなくとも、神の語は音楽として人の胸に泌むとせられたものなのです。》(講談
社文芸文庫『折口信夫文芸論集』165頁)
この折口信夫の議論を受けて、山本健吉は『いのちとかたち──日本美の源を探る』で次のように論じる。
《序詞、枕詞、歌枕と、これらの虚辞によって、短歌の生命標は保持されて来た。それは意味でなく、思想でなく、美辞麗句でなく、あるいはまたイ
メージでもなく、象徴でもなく、そのような実事的、内容的なものを出来うるかぎり避けて、三十一文字という詩の器をからっぽに近いものにして、そ
の上でたとえば山の清水がとくとくと音して充たしてくるように、おのずから充ちてくるもの、それがすなわち「うた」であり、そこには「うたごこ
ろ」とでも言うより外ないものが、確かにあると信じて、千数百年にわたって、ひとは短歌を飽きもせずに作りつづけて来たのである。》(角川文庫
『いのちとかたち』360頁)
私は、ここに出てくる「からっぽ」の「詩の器」が、永井均が言う「空っぽのやつ」すなわち「ただ実存だけがあって本質はない」〈私〉とほとんど
同類のものではないかと考えている。
※
永井哲学と短歌。短歌というより「古風の短歌」すなわち「和歌」という方がしっくりくる。
ここ十年近く私は「哥とクオリア/ペルソナと哥」という論考群で、永井哲学と王朝和歌、王朝和歌そのものというよりは歌論(と歌論を淵源とする
芸論、俳論の類)を結びつけて考えようとしている。
その実態は、Web評論誌「コーラ」[http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/]の連載で確
認してください(もし関心を持ってもらえれば)。
和歌(短歌)=「からっぽ」の「詩の器」と永井均の〈私〉=「空っぽのやつ」は同類ではないかという論点は、この連載の今後の最大のテーマに
なっていくものだ。
ここでは(このブログでは)、短歌(和歌)と永井哲学の関係をめぐって、「最近」になって気がついたこと、「発見」したことを二つ記録してお
く。
★11月29日(火):永井均の「鳴き声」─永井均が語ったこと(その4)
短歌(和歌)と永井均の哲学をめぐって。
その1.
『哲学の賑やかな呟き』に「吉本隆明について 2011.4.27」という文章が収録されている。
永井均さんはそこで、『言語にとって美とはなにか』や『最後の親鸞』や『源実朝』の読書歴を披露し、「私は文芸理論家(とりわけ詩学者あるいは
歌論家)としての吉本氏を最も高く評価している」(248頁)と書いている。
塚本邦雄の短歌「平和祭去年[こぞ]」もこの刻牛乳の腐敗舌もてたしかめしこと」をめぐる『詩の力』の議論に触れ、吉本隆明が自分にも理解でき
ない吉増剛造の詩の価値をどこまでも擁護したことに言及している。
《「大震災の前で文学にどんな意味があるのか?」というような種類の問いに、「大震災の前で意味を持つような文学などにどんな意味があるのか?」
と反問できる根拠を、たとえて言えば彼は求めたといえる。一文(one
sentense)の内部に視点の多重性とその複雑な移動を認める三浦つとむの言語理論は、文学的表現に自立的でしかも多様な価値を認めようとする彼の志
向にとっておおいに役立ったに違いない。その美学には、鳥の鳴き声の複雑さの進展にその価値を認めて、そこにこそ言語の起源を求める岡ノ谷一夫の
言語理論と通底するものが認められる。つまり人間の「鳴き声」(それを吉本は「自己表出」と呼ぶ)にも、それが何を指しているか(こちらを彼は
「指示表出」と呼ぶ)とは独立の、それ自体の自立的な価値があり、その作り出す価値の可能性はなお無限なのである。》(『哲学の賑やかな呟き』
251-252頁)
(ここに述べられたことを私はほとんど「吉本=永井歌論」のエッセンスとして読んだ。
とくに岡ノ谷一夫の言語起源論は、いつかこれを王朝和歌論のために使いたいと思っていたので、先を越されたという心地よい失墜感を覚えた。)
そして最後に、「自分に固有の課題をどこまでも追及することに価値を認め、価値ありとされている仕事に貢献すること以上の価値が存在することを
主張した」のが吉本隆明で、「その点では私自身もまた「吉本チルドレン」の一人なのである」と書いている(252-253頁)。
《実際、当時全世界を敵にまわしてただ一人でしかも人の知らない闘いを闘っているかのように見えた吉本氏からの理念的な支援を感じ取っていなけれ
ば、どんな伝統によっても支えられていない、何の当てもない、ただの個人的探究などをどこまでも執拗に徹底的に追及するなんて、やってみようと思
うことさえ不可能だったろう。どこかに繋がる路があるかどうかなんて、一〇〇年経たなければわからないだろうし、一〇〇年経てばそれがわかるよう
な観点そのものが消滅しているであろう。》(『哲学の賑やかな呟き』253頁)
ここにも「永井均のアリア」(=「鳴き声」)が響いている。
(吉本隆明が「当時全世界を敵にまわしてただ一人で」闘っていたというその「当時」とは、そして永井均が「ただの個人的探究」をどこまでも執拗に
徹底的に追及してみようと思った「当時」とはいつのことなのだろう。
ちなみに勁草書房版『言語にとって美とはなにか』が1965年の刊行。『初期歌謡論』の刊行が1977年。)
★11月30日(水):『誰にもわからない短歌入門』─永井均が語ったこと(その5)
その2.
永井均さんのツイッターの記事(2016年9月18日、9月19日)。
…………………………
ゼミ合宿中に学生の一人に『誰にも分からない短歌入門』をもらったので(といってもお金を払ったから買ったともいえるが)読んでいる。「誰にも分
からない」という触れ込みにもかかわらず、よく分かってかつ面白い。ただ、最初の笹井宏之さんの作品が圧倒的に優れていて、ある意味で出鼻をくじ
かれた。
私は知らなかったが20代で夭逝したが有名な方らしい。「どろみずの泥と水とを選りわけるすきま まばゆい いのち 治癒 ゆめ」という作品で、
私がこれまで読んだ短歌の中で最も素晴らしいと私は感じていそうだ。「すきま まばゆい」が天才的で、しかも少なくとも私にはとてもよく分かって
嬉しく、その後の「いのち 治癒 ゆめ」には、
ちょっと前に青葉市子さんのことを単なる天才と言ったが、この方が単なる天才でないことが示されていて、正直のところ、ここはちょっと涙なしには読めな
い。そういえば、感心と感動が共存する詩というものをあまり読んだことがない。
少なくとも私にはとてよく分かるというのは、私はいつもどろみずの泥と水とを選りわけていて、そのすきまこそがまばゆいと感じているから。作者よ
りずっと軽い意味だが、それゆえ「いのち 治癒 ゆめ」とも。だから、残念ながらというべきか、少なくとも私には、この作品はあまりにも分かりや
すい。
…………………………
この記事を読み、速攻で『誰にもわからない短歌入門』を入手した。いまも毎日少しずつ読み進めている。本のタイトルや装丁からは想像できないく
らい濃密で真摯で鋭い本格的な短歌論であり、作品批評の書だった。
たとえば、「短歌という器」(鈴木ちはね、36頁)をめぐって、共著者の一人は次のように書いている。
《種村弘は『短歌の友人』(二〇〇七)のなかですべての短歌は「ひとつのもの」が形を変えているだけなのではないかと書いていたけれど、いうなれ
ばひとつの「曲」をつかってみんなで替え歌遊びをしているような側面が短歌あるいは定型詩という遊びにはある。短歌を読むときわたしたちはひとつ
の「曲」を(頭のなかで)口ずさむ。この「曲」「調べ」こそがいま現在、短歌を短歌たらしめる唯一のものとしてわたしたちには機能している。内容
面から「短歌らしさ」を言うことはもう難しい。》(三上春海、『誰にもわからない短歌入門』29頁)
(折口信夫の議論に通じている。和歌を和歌たらしめる根拠というか実質のようなものを言い当てている。究極の和歌的レトリック「本歌取り」の本質
に迫っている。)
ところで、私は永井均さんが言う「学生の一人」が気になっている。
それは「文学/哲学/数学クラスタ。師匠は永井均先生。早稲田短歌45号連作30首。Web系/日曜Perlプログラマ。京都出身、赤羽在住」
のプロフィールでツイッターを書いている谷口一平という人だろうか。
鳥籠はむしろ世界を閉ぢこめて丘の僧院のとほきアレルヤ/谷口一平「ヰタ・スペクラリス」『早稲田短歌45号』
もしそうなら『鼎談の後に(二)』で「オスカー・ベッカーについては、谷口一平くんの修士論文にかなり多くを依拠している」と紹介されていた
「谷口一平くん」につながる。
「永井均が語ったこと」で予定している五つの話題(いま取り上げている「空っぽの〈私〉と歌の器」がその最初の話題)の最後のものにつながる。
※
永井哲学と短歌、番外。
枡野浩一著『君の鳥は歌を歌える』は、映画化やノベライズと同じ感覚で「ひとさまの作品」を「短歌化」した「前代未聞のレビュー&エッセイ」
集。マガジンハウスから出ていた伝説の文芸誌『鳩よ!』に連載されたもの。(「伝説の」は個人的な述懐。)
永井均さんの『子どものための哲学対話』を「短歌化」したのがこれ。
左翼とか右翼とかいう対立は
あなたがたには大事でしょうね
★12月01日(木):台本・演出家・そして演じつつある私─永井均が語ったこと(その6)
短歌(和歌)と永井哲学の関係をめぐって、以前から気になっていたことの一端を(いわば備忘録として、その素材だけ)書いておく。
その1.
永井均さんは『なぜ意識は実在しないのか』の「はじめに」で、哲学書は「台本」で、哲学者=永井は下手くそで拙い(これは謙遜)「役者」だと書
いている。
もちろんそんな乱暴な書き方ではないが。
何度でも初めて語られる(実演される、立ち上がる)哲学。それが私の永井哲学に対する印象で、これはそっくりそのまま王朝和歌に対する私の印象
につながる。
何度でも初めて詠まれる歌。
こんな言い方ができるかもしれない。「台本」(文字で書かれた和歌)は「本質」に、「演技」(声に出して詠み上げられる和歌)は「実存」に相当
すると。
(渡部泰明さんは『和歌とは何か』で、和歌は言葉でする演技だと書いている。そして、和歌を演技という視点から分析するのは本書が初めてというわ
けではないとして、尼ヶ崎彬著『日本のレトリック』の名を挙げている。
3回前に書いた「哥とクオリア/ペルソナと哥」の連載は、尼ヶ崎彬さんの『花鳥の使』と永井均さんの『西田幾多郎』を同時並行的に読み進めてい
たときに着火したアイデアが起点となった。)
その2.
世界は言語による「作り物」だが、それはわれわれにとって不可欠で、かつわれわれにとっての「現実」だ。それは「虚構」なのだが、むしろ虚構を
「現実」として作り出し、しかもループするのが言語のはたらきなのだ。
これもややデフォルメしているが、『なぜ意識は実在しないのか』の「はじめに」に出てくる議論。
内田樹氏は『レヴィナスと愛の現象学』で次のように書いている。(私は内田氏がいう「現象学者=演出家」を、歌人にして歌論家の藤原定家に見立
てている。)
《現象学者は「演出家」である。演出家は、「しらけた」まなざしで、俳優の演技や照明や音響や舞台装置をチェックしている。それが「つくりもの」
であり、仮象でしかないことを彼は熟知している。だが、舞台を分析的に見ることに逆に「没入」しすぎると、観客が舞台の上で「ほんとうに見ている
もの」を見逃す可能性がある。舞台の上には、批判的なまなざしが見落とし、心を奪われた観客だけが幻視する劇的世界があるからだ。だから、すぐれ
た演出家には、覚めていると同時に没入していることが必要となる。現象学者の仕事はこれに似ている。》(文春文庫『レヴィナスと愛の現象学』
118-119頁)
その3.
『なぜ意識は実在しないのか』の冒頭にこんな議論が出てくる(岩波現代文庫・改訂版、5頁)。
私の心は、事例がその一つしかないのだから「私」とだけ言えば、あるいは「心」とだけ言えばじゅうぶんではないか。本当は「これ」としか言えな
いはずだ。
それなのにどうして「心」なんて一般的なものがあると、誰もが信じているのか?
この問いの答えはこの本(講義)の中にある。この講義の内容にというよりはむしろ、それが伝達される、ということの中に。
乱暴に言えば、永井均さんがここで「心」と呼んでいるものが「歌の心」つまり歌に詠まれた心(「思ひ」もしくは一首の歌の意味)に、「私」が詠
歌主体もしくは歌に詠まれた人に相当する。
「これ」としか言えないもの、一般的なものではない「私の心」は、尼ヶ崎彬さんが『花鳥の使』の定家論で導入した「詠みつつある私」という概念
に、あるいは「詠みつつある私」という現象に相当する。
そして「これ」としか言えないものが「伝達」されることのうちに、千百の歌を編集することで千百の心をひとつに編んでいく王朝和歌の世界がひら
かれる。
★12月02日(金):世界四段階説─永井均が語ったこと(その7)
話がすっかり『〈仏教3.0〉を哲学する』から離れていった。「空っぽの〈私〉と歌の器」に続く第二の話題に移る。
まず、第二章での永井均さんの発言を、前後の文脈抜きにまるごと引く。
《つまり、三段階あるということなんですよ。まず、全然切れている世界。次に、コトバとかお金とかそういうもので繋がっている世界。そこでは勝ち
負けとか好き嫌いとかいろいろなものがある。第三番目に、今の、第五図と第六図のような世界ですね。他者と切れていると言っても、第一段階の切れ
方と第三段階の切れ方は全然違いますよ。内山さんご自身が語る際にはちょっと混同している面もあるのですが、この違いこそが決定的に重要です。第
三段階の独在性は、我々はみな同一のコップを見ていると思っているけどそれぞれに見え方は違っているだろうとか、違っているか同じかそもそも分か
らないじゃないかとか、そういう私秘性の問題とはそもそも関係ないんです。第三段階の断絶は、そういうリアルな断絶とは、全然違う次元の問題で
す。》(114頁)
いったん中断。
永井均さんがここで話しているのは、「内山さん」つまり内山興正老師が『坐禅の意味と実際』や『進みと安らい──自己の世界』に書いたことで、
第五図や第六図(すぐ後で引く文章に登場するカボチャの寓話も含めて)については、Logues
さん(?)の「『〈仏教3.0〉を哲学する』第二章の読書ノートとコメント」[http://logues.hatenablog.com/entry
/bukkyo3tetsugaku-reading2]が詳しい。
後段へ。
《さて、しかし問題は、それじゃあ、カボチャが蔓で繋がっているあのあり方は、いったいどこから出てくるんだ? ということですね。この三段階の
どこにも出てきていないじゃないか。どこからも出てこないんじゃないか、という問題です。それで、これをどう考えたらいいかというと、その考え方
は、ここでぐっと推論すると、どうしてもただ一つしかありえなくて、こういうふうに第六図のようになった人たちが、つまりそういう意味ではもはや
他者がいなくなった人たちどうしが、その次元で繋がるしかないんですね。第六図のようなあり方で繋がらないとカボチャになれないと、そう推論する
しかない。これは、ある意味でたいへん驚くべきことで、カボチャは自然に繋がっているのに、我々はそういうふうに素朴に繋がるためには、第三段階
まで行って、さらに次の第四段階まで行かないと、カボチャの蔓のようには繋がれない。ということが、暗に言われているのではないか、というふうに
この全体を読むことができる。》(114頁)
「驚くべきこと」という永井均のアリア特有のフレーズを確認したところで、次回へ。
★12月03日(土):世界四段階説、承前─永井均が語ったこと(その8)
永井均さんが述べていること(精確には、永井均さんが要約している内山老師の議論)を整理する。
◎第一段階、全然切れている世界。リアルな断絶の世界。「私秘性」の世界。言語以前の世界。
◎第二段階、コトバやお金で繋がっている世界。「よしあし、好き嫌い、勝ち敗け、正不正」が入ってくる世界。
◎第三段階、他者と切れている断絶の世界。第一段階の断絶とは次元が異なる「独在性」の世界。
「アタマの展開する世界」の中に入って、その一員として何かヤリトリしている「たんなる人間としての自分」ではない〈私〉の世界。
「体験する自己と体験される世界の区別がないような、独我的=無我的な自己、つまり〈自己=世界〉であるような」──もはや「「自己」という必要
もない」──〈私〉の世界。(113頁)
◎第四段階、他者がいなくなった人(〈私〉)たちどうしが繋がる「驚くべき」世界。
永井均さんの『〈私〉のメタフィジックス』は、「〈私〉の形而上学」と「『私』の倫理学」と「“私”の人間学」の三部で構成されていたが、その
あとがきに、当初の構想では形而上学と倫理学のあいだに「「私」の論理学」を設ける四部構成となるはずだったと書かれている。
この「私」は後に《私》と表記され、「単独性の《私》」として「独在性の〈私〉」と対峙することになる。
乱暴に括ると、第一段階の世界には「人間(生物)としての“私”」が、第二段階の世界には「利己的な『私』」が住まいし、この「利己的な
『私』」が「単独性の《私》」となって第三段階の世界に片足をつっこむ。(本当はつっこめない。)
「第三段階」の世界の本来の(ただ独りの?)住人は「独在性の〈私〉」で、この「比類なき私」つまり「隣人をもたない私」が「第四段階」の世界
に片足をつっこむ。(本当はつっこめないのにつっこむ。だから「驚くべきこと」だと言われる。)
コトバやお金ではない「何か」を介して繋がる。あるいは、何ものも介さないで繋がる。死者か神か輪廻転生する魂かなにかがそうするように? あ
るいは文学書や歴史書や宗教書や哲学書を読むたびに何者かと対話するように?
私が読み得た限り、永井均さんが第四段階の世界のことを主題的かつ明快に論じたのは、『〈私〉の存在の比類なさ』に収められた「他者」論文が最
初だったと思う。
「独在者」つまり「独在性の〈私〉」の複数化の問題。これは『私・今・そして神』以後の「後期・永井哲学」(と言っていいのかどうか)ではどう
なっている(いく)のだろう。
★12月04日(日):パースペクティヴと累進構造─永井均が語ったこと(その9)
永井=内山の「世界四段階説」の概要を読みながら、というより『〈仏教3.0〉を哲学する』に引用されたいくつかの図を眺めながら、この図は
いったい誰が、どの視点から世界を観察して描いたものなのかが気になっていた。
これは、独在者の複数性や世界の複数性・多重性をいうとき、それはいったい誰が、いかなるパースペクティヴのもとでそう語るのか、と問うのと同
じことのように思える。
(独在者すなわち〈私〉がそのような問いを発することはあり得ない。なぜなら〈私〉はリアルな事象内容をもたないのだから。つまり〈私〉には「体
験する自己と体験される世界の区別がない」のだから。)
市川浩著『〈中間者〉の哲学──メタ・フィジックを超えて』のエピローグ「〈中間者〉の存在論──トランス・フィジックの試み」を読んでいる
と、ライプニッツのモナドはパースペクティヴをもつと書いてあった。
だから、モナドが単なる部分ではなく全体を映しだすためには、コミュニケーションによって共同的な世界像を形成しなければならない。
「しかしライプニッツのモナドには窓がないのだから、コミュニケーションは不可能である。にもかかわらず全体を映しだすというのは、神によって前
もって確立された全体の調和(予定調和)が前提されているからである。」(『〈中間者〉の哲学』271頁)
市川浩の議論は、ライプニッツや華厳経、ブレイクの詩のなかにある「部分は単なる部分ではなく、全体を内蔵する」という考え方をめぐるものだ。
永井均さんは『なぜ意識は実在しないのか』の中で、「ライプニッツのモナド世界や華厳経の世界みたいに、相互の含み込み合いみたいな形で並列的
に描いてしまうと、実態から外れてしまう」(改訂版、49頁)と述べている。
ここで言われる「並列」描写に抗してもちだされるのが、かの「累進構造」で、『〈仏教3.0〉を哲学する』の「鼎談の後に(二)」で「哲学的に
は最も重要」(277頁)と言われているのがこの「累進構造」である。
(たしか『『〈仏教3.0〉を哲学する』で「平板な世界」と「入れ子になった世界」と言われていたのが、それぞれこの「並列」描写と「累進構造」
の対比に対応していると思う。)
「単独性の《私》」が何度も何度も第三段階の世界(「独在性の〈私〉」の世界)に片足をつっこむのだが、そのたび第二段階の世界へと転落してい
く。「累進構造」が表現しているのは、そのようなシーシュポス的状況ではないか。
しかしそれは同時に、三次元世界の住人が、無数のパースペクティヴからの眺望を合成して四次元世界の全体像に迫る漸近線を描くように、「独在性
の〈私〉」が第四段階の世界への接近を試みる、そのような一段と次元の高いもう一つのシーシュポス的状況をも表現している。
そんなことが言えるかもしれない。
★12月05日(月):人称と時制と様相─永井均が語ったこと(その10)
「累進構造」にはこれ以上立ち入らない。(『〈仏教3.0〉を哲学する』に登場しないから。)
が、パースペクティヴの方は、これから始める第三の話題に関係してくると思う。
『〈仏教3.0〉を哲学する』第二章の最後で、永井均さんはこんなことを語っている。
《実は、内山老師の、第三図で、「コトバが展開した世界」がこうなるというのは、深く読むと非常に素晴らしいことを言っているんです。言葉だとこ
れになっちゃって、それ以外のあり方は言葉では言えないから、後の第五図も第六図も言葉では言えないとという含意があるんですね。これは本当のこ
とで、この話も言葉では言えないんです。言葉っていうのは、これを言わないために、言わせないために作られたと言えるくらいのものですよ。言葉の
根本は、主語と述語で文ができると、それに否定と連言の操作が付け加わって、あとは時制、人称、様相が加えられて、そうやってできるわけだけど、
最後の三つは、みんなこれを言わせないためのものですよね。時制がつくと、この〈現在〉の特殊性が言えなくなって、この〈私〉の特殊性を言わせな
いために人称ができていて、この世界こそが現実世界だと言わせないために様相がある。結局、そういうふうにヤリトリをするためにうまくいくような
ものとして言葉はできていて、言葉で普通にヤリトリする時には、この話はできないようになっているんですね。》(172-173頁)
ここで「言葉では言えない」と言われていることが、前回、「この図はいったい誰が、どの視点から世界を観察して描いたものなのか」云々と書いた
こととつながるのだが、このことについてもこれ以上は立ち入らない。
それにしても、ここで永井均さんが語っていることは面白い。ゾクゾクしてくる。
★12月06日(火):人称と時制と様相、承前─永井均が語ったこと(その11)
第三章での永井均さんの関連する発言も引く。
「人称と時制の方が様相よりも一段と根源的じゃないですか」という藤田一照さんの問いに答えて。
《そうです。様相は後から作ったから、あまりない言語もありますし。しかし、人称と時制は必ずあって、日本語だと未発達だけど、それでも本質的に
は必ずあるわけで、結局これなしには、言語的世界というか、ロゴス的世界ができ上がらないので、思考もできないし、みんなに通じる話もできないか
ら、基本的に、これはどこでも必ずあるんですね。でも、本当は何かを隠蔽しているというか、踏み越えてできていますよね。言語には〈今〉や〈私〉
がないんですよね。時点間で対話をする場合には〈今〉は消えますね。人が誰かと話す時には〈私〉が消えるのと同じ構造ですね。》(216頁)
第三章の質疑応答での発言。
《〈私〉と〈今〉の関係は、実は複雑というか、ある意味単純で、〈私〉と〈今〉は同じものだ、と考えることもできるんですね。分離自体が、人称と
時制という形での分類が生じた時に生じるんで、本来は、〈私〉と〈今〉は同じで、〈私〉とは必然的に〈今〉にあるもんだし、〈今〉というものを考
えたら、必ずそこに〈私〉がいますからね。》(257頁)
また、「「ここ」は、今と私から導き出せるから根源性の度合いからすると、今や私より劣るところがありますね」という藤田一照さんの発言に対し
て。
《そうですね、こことは、私が今いる場所のことなんですね。だから私と今から出てくる。そういう関係とは違って、今と私の結びつきには微妙なとこ
ろがあって、必ずしもそういう論理的な繋がりはなくて、仲はいいけど一心同体ではない、というようなところがある。》(259頁)
人称と時制と様相。私・いま・そして‘ここ’。(パースペクティヴの三つのエレメント?)
★12月07日(水):四つの私的言語─永井均が語ったこと(その12)
私はかねてから「四つの私的言語」という仮説をたてている。
この連載の3回目に紹介した「哥とクオリア/ペルソナと哥」の重要テーマで、これから本格的に取り組むことになると思う。
その仮説の起点は永井均さんの私的言語論にある。だから前回、前々回に引いた発言は、ゾクゾクするほど面白かった。
もともと「人称=私」と「時制=今」に関して、「私的言語」(私の仮説では、これは狭義のもの)と「今的言語」の二つが類比的に語られていた。
たとえば、「もし記録された言語というものがなく、すべての言語がその時の意味付与と直結している音声言語だったら、すべての言語は時間上の私
的言語である今的言語になってしまう」(『私・今・そして神』)といったかたちで。
そこに、根源性の度合では劣るが「様相=‘ここ’」が加わり、「様相言語」もしくは「‘ここ’的言語」といった第三の「私的言語」(広義)の可
能性が浮上してくる。(もちろん、そんなことを永井均さんが語っているわけではない。)
そして、第四の「私的言語」(広義)の候補は、「私が悲しいとき(私には)世界が悲しいように映る」(永井均『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何
か』)とか「簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである」(大森荘蔵「自分と出会う──意識こそ人と世界を隔てる元凶」)と言わ
れるときの、その「感情」をベースにしたもの。
私秘的な私的感情ではなくて、私が悲しいことと世界が悲しいこととの区別がつかない、いわば世界の相貌としての感情。王朝和歌の世界では「思
ひ」と言われるもの。
そのような「感情、思ひ」としての「心」をベースにした私的言語、すなわち「相貌言語」もしくは「心的言語」。
(強いてうろ覚えの文法用語を使った思いつきを重ねれば、「相貌」=「相(アスペクト)」+「態(ヴォイス)」とでも定義することができるかもし
れない。)
★12月08日(木):四つの私的言語、承前─永井均が語ったこと(その13)
「私」「いま」「ここ」をパースペクティヴの三つのエレメントになぞらえるとすれば、「感情」もしくは「相貌」はパースペクティヴの第四のエレ
メントになる。
(「感情」もしくは「相貌」に代わる表現、「私」「今」「ここ」に匹敵する簡便な言い方が思いつかない。「これ」か「(この)感じ」か「(この)
思ひ」などが浮かぶが、得心がいかない。)
野矢茂樹さんは『大森荘蔵──哲学の見本』で、大森荘蔵の立ち現われ論をめぐって「あらゆる立ち現われには「今」と「私」とが刻印されている」
と書いている。
また、大森荘蔵が使う「相貌」という語をめぐって、「知覚風景のパースペクティブはそれが開ける主体の立つ視点位置を刻印しているが、それと同
様に、知覚風景の相貌はそれが開ける主体の感情を刻印している」とか、「開ける光景と別に「視点」という何かがあるわけではないように、開ける光
景の相貌と別に「感情」と呼ばれる心的状態があるわけではない」と書いている。
以上のことを踏まえて、「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第5章[http://homepage1.canvas.ne.jp
/sogets-syobo/uta-5.html]で、次のようなことを書いた。
「あらゆる立ち現われには「今」と「ここ」(現場)と「私」とが刻印されている」(もちろん「感情」も刻印されている)というべきではないか。
あらゆる立ち現われに刻印されているもう一つのもの、つまり「感情」は、個人の内面の悲しみ(内面の心的作用)といったもののことではなく、あ
くまでも立ち現われの「相貌」として、世界(としての私)の側にあるもののことだ。
読み返してみて、私の使っている「パースペクティヴ」は、野矢茂樹さんが言う「知覚風景のパースペクティヴ」と「知覚風景の相貌」を合わせた概
念になると気づいた。(そのような概念が成り立つとしての話。)
そして、そこに刻印される「視点(位置)」と「感情」のうちの前者が、「私、いま、ここ」の三つの私的言語の起点に分岐することになる。
野矢茂樹さんは『心と他者』で「眺望論」と「相貌論」の議論を提起した。その「眺望論を完成させ、相貌論をさらに前進させることができた」と著
者自ら語っているのが『心という難問』。
大森=野矢哲学と永井哲学との「対決」。いずれ取り組んでみたい。
★12月09日(金):私・今・神・そして愛─永井均が語ったこと(その14)
いま『改訂版
なぜ意識は実在しないのか』を毎日少量ずつ服薬するように読んでいて(服読?)、今朝読んだところにこんなくだりがあった。以下、前後の文脈は気にせずに
引用。
《しかし、これは「実際に痛みを体験する/しない」ということを実体化し、対象化し、実在化するところから生じる、架空の問題である、と私は考え
ます。(略)
しかし他方で、物理的であれ心理的であれ、まったく因果過程に関与しない種類の事実は実在します。たとえば、現在であることや私であること(た
だしどちらも最上段の意味で)がそれです。(もう一つ付け加えるなら「現実世界であること」もそうですが、それはまた別に論じるべきことでしょう
ね。)》(『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』105-106頁)
ここに出てきた「現在」「私」「現実世界」が、四つの私的言語のうちの三つに対応している。
かの『私・今・そして神──開闢の哲学』のタイトルから言えば、現実世界を開闢するのは「神」だから、第三の私的言語、「様相言語」もしくは
「‘ここ’的言語」に対応する「現実世界」は「神」に置き換えていいかもしれない。
そうだとすると第四の私的言語、「相貌言語」もしくは「‘これ’的言語」に対応するものは何か。「物理的であれ心理的であれ、まったく因果過程
に関与しない種類の」第四の「事実」とは何か。
私の考え(というより、当座の仮説)では、それは「愛」になる。
いかにも唐突だが、私はたとえば内田樹著『レヴィナスと愛の現象学』の議論を念頭においている。
この本のことは「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第19章[http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-
syobo/uta-19.html]で触れた。
その際、純粋経験を記述する四つの私的言語の話題に関連づけて、「今、ここ、私、感情」のそれぞれに対応する「意味、知覚、神、愛」の四つの現
象学(レヴィナス的な意味での)を総動員することで、「全きノエマ」としての歌(王朝和歌)のすべての相貌が記述されうるのではないか、と書い
た。
この「アイデア」は厳正な吟味と修正が必要だが、「私」「今(現在)」「ここ(現実世界)」「これ(感情)」に対応する四つの現象学のうち、現
時点で「ここ=神の現象学」「これ=愛の現象学」の対応は仮決めしておきたい。
★12月10日(土):四つの私的言語、補遺─永井均が語ったこと(その15)
書き残したことをいくつか。
その1.
「風間くんの「質問=批判」と『私・今・そして神』」で言及された次の文章に、「西洋哲学史全体」にかかわる四つの問題が出てくる。
《ともあれ、神の存在論的証明をめぐる哲学史上の所説、現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立、A系列とB系列をめぐる時間論上の議論、
そしてコギト命題の解釈をめぐる論争、これらがすべて‘同じ一つの’問題をめぐっていることは、まずまちがいないことだと私は思う。》(『私・
今・そして神』180頁)
私はこの四つの問題を、私が(勝手に)言う四つの私的言語に関連づけられないかと考えていた。しかし前回唐突に「愛の現象学」をもちだしたこと
で、この構想は修正を余儀なくされた。
その2.
自分が昔書いた読書録[http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY2/6-2.html]を眺めていて、永
井均さんがこんなことを書いていたのを「発見」した。
《たしか新宮一成さんが、これに関連したことをどこかで書いておられたと思う。どこだったか忘れてしまったうえに、自分の関心に引き付けた勝手な
読み方で読んだので不正確な紹介になるが、たとえばこんなことだった。このように世界の内部に位置づけられていない「愛」は、世界の側からの「迫
害」として反転して現れうる。それこそがラカン的「鏡像」ということの真の意味だ、というような(まちがっていたら失礼)。この場合、私が世界を
愛することと世界が私を迫害することが区別できない。もっと単純な例に言い換えてしまえば、私が服を着ることと服のほうが私に着せかかってくるこ
とが、だ。》(『私・今・そして神』79頁)
すっかり忘れていたが、『私・今・そして神』には三段階の私的言語といった議論も出てきていた。いい加減な思いつきを垂れ流すのではなく、もっ
と永井哲学に「ひたりついて」いかなければと思った。
その3,
この「シリーズ」の第10回目に引いた文章の中で、永井均さんは「言葉の根本は、主語と述語で文ができると、それに否定と連言の操作が付け加
わって、あとは時制、人称、様相が加えられて、そうやってできるわけだ」と語っている。
四つの私的言語などという個人的なテーマは措いて、永井均の言語哲学にもっと「ひたりついて」いきたいと思った。
★12月11日(日):チェスの比喩と映画の比喩─永井均が語ったこと(その16)
永井哲学に「ひたりつく」のはまた別の機会にして、ここではあくまで永井哲学を「使う」立場に徹する。
で、四番目の話題。四番目といっても、それは独立したものというよりは最初の話題「空っぽの〈私〉と歌の器」の補遺のようなものになると思う。
『〈仏教3.0〉を哲学する』の第三章で、永井均さんは「ウィトゲンシュタインの比喩の中で一番好きな比喩があって、それはチェスのゲームの比
喩なんです」(209頁)と語り始める。
ウィトゲンシュタインのチェスの比喩は『青色本』に出てくる。該当箇所の永井均訳を引用する。
《私はチェスがしたいのだが、ある人が白のキングに紙の冠をかぶせる。それによってその駒の使い方に何か変化が生じるわけではないのだが、彼は私
にこう言う。その冠は自分にとって規則によっては表現できないある意味をそのゲームにおいて持っているのだ、と。私はこう言う。「それがその駒の
使い方を変えないかぎり、それは私が意味と呼ぶものを持ってはいない。」》(『ウィトゲンシュタインの誤診』172-173頁)
これから先は、「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第26章[http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-
syobo/uta-26.html]に書いたことだが、永井均さんは『ウィトゲンシュタインの誤診──『青色本』を掘り崩す』で、最初に大森荘
蔵訳でこのチェスの比喩を読んだとき「身体が震えるほど興奮した」(173頁)と書いている。
いわく、ウィトゲンシュタインがここでチェスに喩えているのは言語で、かつ独我論の語りえなさを示している(独我論を批判している)のだが、私
(=永井)はそうは受け取らなかった。チェスは世界の比喩で冠は私の存在そのものの比喩と受け取り、かつこの比喩を新しい独我論の表現の仕方とし
て受け取ったのである。
《別の比喩を使えば、映画の中に登場している一人の登場人物がじつはその映画の画面そのものでもある、という構造である。彼はストーリー上はたん
に登場人物の一人にすぎず、映画の中には彼と直接関係しないたくさんの登場人物とプロットが存在しているにもかかわらず、彼らはみな画面の中でふ
つうに死んでいけるのに対して、彼が死ぬ場合だけ──映画のストーリー展開とは無関係に──画面そのものが消滅してしまう。当然、その消滅を映画
のストーリーにおいて表現する方法はない。ストーリーはストーリーで別の意味で継続していくからである。それはもはやアクトゥアリテートを欠いた
レアリテートの内部だけの継続なのだが、そのこともまたレアリテートの内部で表現される方法はない。(別の意味では何の問題もなく表現されてしま
う)。この世界はそのような構造をしている。》(『ウィトゲンシュタインの誤診』177-178頁)
ここで述べられた「〈私〉の死」のテーマは、『〈仏教3.0〉を哲学する』第三章後半の話題につながっている。
★12月12日(月):チェスの比喩と映画の比喩、承前─永井均が語ったこと(その17)
『〈仏教3.0〉を哲学する』第三章後半。
永井均さんはそこで、ハイデガーの用語を使って、〈私〉(藤田一照さんが言うところの「山括弧の純粋形の」(217頁)私)の死=Tod=死、
「私」(同じく「カギ括弧の平均形の」私)の死=Ableben=落命の違いについて次のように語っている。
《ここに三人いて、なぜかこいつが私なんですけど、まず、〈私〉はこの永井均さんが死ななくても死ねるわけです。さっきのチェスの比喩で言えば、
ただ冠を外すだけでいいわけです。駒が全くこのままであっても、ただそれだけで、そのチェス・ゲーム全体が端的に消え去ります。(略)
次に、「私」の死の方について考えます。冠をかぶっている駒が壊れても消え去っても、もし冠が残っているなら、〈私〉は死んでいません。(略)
ここまでのところでは、だから〈私〉は死なないんだよ、と言っているのではないですよ。駒が壊れて消滅すれば、冠も一緒に壊れて消滅するのかも
しれないからです。それは、これまでまた一度も起こっていないので、まだわからないことです。
しかし、こういうことは言えます。たとえば輪廻転生とかいう考え方がありますね。あるいは、死んだら天国に行くとか、いろんな考え方があります
けど、そういうときに何を考えているのかというと、天国へ行くという話では。、レイテ川を越えると記憶を全部失うとも言われていますから、そうだ
とすると、それなのにどうしてそいつが自分だと分るのか、と言えば、端的にそれしかないことによって、でしかありえない。つまり、本質や属性に
よってではなく、存在によってです。そういうふうに考えないと、記憶によっても何によっても繋がっていないのに自分でありうるなんて考え方が、そ
もそもなんで理解可能なのか、意味がわかるのか、それが分からない。だからきっと、暗黙の内にいま言ったような考え方をしているに違いない。》
(220-221頁)
「本質や属性によってではなく、存在によって」云々のところが第一の話題に繋がっていく。
前回抜き書きした「映画の比喩」の話の中で、「それはもはやアクトゥアリテートを欠いたレアリテートの内部だけの継続なのだが、そのこともまた
レアリテートの内部で表現される方法はない」という部分があった。
ここで言われる「レアリテート」が「本質や属性」(や「内容、思想」)に、「アクトゥアリテート」が「存在」(や「神の語、音楽」つまり「空っ
ぽの器」)にそれぞれ対応している。
《別の表現で言い換えれば、冠はレアリテートにおいて表現されないアクトゥアリテートにおける差異をレアリテートの内部で表現しようとしたもの、
ということになる。独我論の「私」のほか、前の段落で述べた「現実世界」や「現在(今)」にも、この同じ構造が認められ(しかし「現赤」にはそれ
が認められない)、宗教の「神」にはそれらの鏡像のような面がある。》(『ウィトゲンシュタインの誤診』179頁)。
第四の話題はこのあたりで切り上げる。
★12月13日(火):オスカー・ベッカーのこと─永井均が語ったこと(その18)
「横並びの関係の中で、つまりいっぱい主体が存在する中で、ひとつだけ他と全然違うやつがいる、内容がその本質ではなく、単なる存在がその本質
であるやつがいる。それはいったい何なのか」(208頁)。
この話(問題)は主客図式中心の西洋哲学の歴史においてもかなり新しいもので、20世紀になってウィトゲンシュタインが初めてはっきりと(この
問題を)言い、ハイデガーがそれ(〈私〉の存在)に近いことを言った。
永井均さんはそう語っている。
(「単なる存在がその本質である」という言い方は気になる。誤解を招くと思う。
外の箇所ではこんなふうに言われている。たとえば…
「本質とか属性とか機能とか、そういう存在したものが持っている、ただただ持っているもの」に関することについては誰か代わりの人にやってもら
うことができるが、死だけは他人に代わってやってもらうことはできない。チェスの比喩で言う冠、つまり山括弧のことが問題になるからだ
(223-224頁)。
…ここで「存在」と対比させて使われている「本質、属性、機能」、前回の言葉で言えば「アクトゥアリテート」に対する「レアリテート」は、「単
なる存在がその本質である」と言われるときの「本質」とは全然別のものだ。)
ところで、ウィトゲンシュタインとハイデガーはともに1989年生まれで、この年にはヒトラーも生まれている。そしてオスカー・ベッカーも。
そのオスカー・ベッカーは、自分が死ぬということに目覚めた「本来的 eigentlich」な自己とそこから「頽落
verfallen」した非本来的な自己、というハイデガーの区別を批判した。
それは確かに自己固有(eigen)という意味では本来的かもしれないが、実はそれは根源的ではない、と。
★12月14日(水):非本来的根源性─永井均が語ったこと(その19)
前回の続き。オスカー・ベッカーのハイデガー批判について、永井均さんが『〈仏教3.0〉を哲学する』の中で語ったこと。
《時間に関して言うと、日常的、世間的な、いわゆる頽落的な時間状態でもなければ、歴史的な一回性、つまり目覚めた本来的なあり方でもないよう
な、ちょうど天体の運動のような永遠の反復というのもあって、そこには宇宙的な永遠の現在があるんだ、ということをベッカーは言うわけです。ベッ
カーはしかもこれを「無我」という言葉を使って、無我的な生き方だといって、それは死を気にしない生き方だと言う。ハイデガーのように死をものす
ごく重視して、俺は死ぬぞ、死ぬんだから、そのことを意味あるものにするにはどうしたらいいのか、というふうに考えるのではなくて、その逆で、全
く死に思い至らないわけではないが、思い至りつつもそれを気にしない生き方がある、と。それで、これを、本来的ではないような根源性、非本来的根
源性と言うんですね…。本来的というのは、ここでは自己自身的、自己固有的という意味ですが、自分自身の死をやたらと気にするという意味ですね。
そうではないような、無我的な根源性がある、というふうにベッカーは言うわけです。》(227頁)
ここで言われていることは、『ピュタゴラスの現代性』に収録された「パラ実存」という論文で議論されていることだと思う。
ところで、永井均さんのこの発言を読んで、オスカー・ベッカーにいたく興味を覚え(昔読んだような記憶があるが、空覚えならぬ空記憶かもしれな
い)、訳書、関連本をいくつか手元に揃え、買い集め、借り集めた。
美学と数学論の組み合わせが魅力的だし、「パラ実存」という概念にも惹かれる。
◎オスカー・ベッカー『美のはかなさと芸術家の冒険』(久野昭訳,理想社:1964)
◎オスカー・ベッカー『数学的思考──ピュタゴラスからゲーデルへの可能性と限界』(中村清訳,工作舎:1988)
◎オスカー・ベッカー『ピュタゴラスの現代性──数学とパラ実存』(中村清訳,工作舎:1992)
◎『稲垣足穂全集[第9巻]宇治桃山はわたしの里』(筑摩書房:2001)
◎長田弘編『中井正一評論集』(岩波文庫)
◎九鬼周造『偶然性の問題』(岩波文庫)
松岡正剛さんの「千夜千冊」の0748夜が『数学的思考』を取り上げている。その末尾に「参考」として書かれていることがとても興味深い。(稲
垣足穂全集第9巻には、オスカー・ベッカーの論文の足穂訳を含む「美のはかなさ」が収録されている。)
…………………………
以上、「数学的思考」にのみ迫るオスカー・ベッカーを“ストイック”に紹介したのだが、実はベッカーにはもうひとつ、「美のはかなさ」をめぐる
震撼とするような美学があって、ぼくはこちらのほうをずいぶん早くに稲垣足穂によって堪能させられてきた。詳しくは『フラジャイル』(筑摩書
房)76ページ以降を読まれたい。
なぜベッカーを『フラジャイル』で言及したかというと、ベッカーは1929年のフッサール生誕70年記念号の「哲学現象学研究年
報」で、「美のはかなさ」の本質としてフラジリティ(ドイツ語でFragilitat)を持ち出したのである。そこにはちゃんと「壊れやすさ」
(Zerbrechichkeir)が議論されている。
これでさらにおわかりのように、ベッカーは「数学だって“はかない”ものなんだ」「そこには不完全で壊れやすいところがあるから、
だから美しいんだ」と言いたかったわけなのである。
なお、「千夜千冊」第689夜にも書いておいたように、日本で最初にベッカーに注目したのは九鬼周造だった。九鬼はベッカー自身に
も会っている。
…………………………
★12月15日(木):死ねない〈私〉─永井均が語ったこと(その20)
続けて永井均さんの発言を引く。
《この本来的でない根源性、つまり無我的=独我的な観点から見ると、私は死なない、というか死ねない、ということが言えるのではないか、というこ
とをここからはベッカーでもなく、ハイデガーでもなく、私の話として言ってみたいと思います。なぜかと言えば、さっき言った無我的=独我的な
〈私〉というのは、そもそも死ぬようなものじゃないんですね。死ぬようなものじゃないっていう言い方が変だけど、全てでありかつ無ですから、時間
的にも全てあでりかつ無なんですね。このことを細かく言うには、〈今〉と〈私〉の関係の話をしないといけないのですが、それは今日はできないの
で、〈私〉に関してだけで、この話をしてみます。死なないと言っても、普通の意味で永遠に存在し続ける、ということを言いたいんじゃなくて、むし
ろ逆で、それが全てだから、それの存在こそが永遠性を定義している、という意味ですね。》(228頁)
永井均さんが語っているのは、「知的な問題」としての〈私〉の不死性、つまり「全てでありかつ無」であるものの不死性の話である。
だから以下に述べることは的外れの議論なのだが、「不死」の語を目にすると必ず想起することがある。
以前「魂脳論」[http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/26.html]という
エッセイを書いた際、『ボルヘス、オラル』に収められた「不死性」から次の文章を引用した。
《たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。
われわれがダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなんらかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、
あるいはダンテになるのである。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるので
ある。(略)重要なのは不死性である。その不死性は作品のなかで、人が他者のなかに残した思い出のなかで、達成されるものである。(略)音楽や言
語に関しても、それと同じことが言える。言語活動というのは創造的行為であり、一種の不死性になるものである。わたしはスペイン語を使っている
が、そのわたしのうちには無数のスペイン語を用いた人々が生きている。(略)われわれはこれからも不死でありつづけるだろう。肉体の詩を迎えた後
もわれわれの記憶は残り、われわれの記憶を越えてわれわれの行為、行動、態度といった歴史のもっとも輝かしい部分は残ることだろう。われわれはそ
れを知ることができないが、おそらくはそのほうがいいのだ。》
死なない(死ねない)のは「言葉」である。もしそんなことが言えるとしたら、〈私〉とは〈言語〉である。
★12月16日(金):知的な問題と修行の問題─永井均が語ったこと(その21)
続けて、死なない〈私〉をめぐる永井均さんの発言を引く。
《それで、この話は、アキレスと亀の話と同じだと思います。(略)
これは、論理的にはそうなるけど、実際には追いついて追い抜くじゃないか、というふうにみんなが思うわけですけど、実はそうじゃないんですね。
(略)ゼノンが言っているのは、アキレスが亀より速いということだけなんですね。この条件だけしか与えられていないわけです。それで、アキレスの
方が亀より速いってだけですから、たとえば、アキレスが亀が前にいた位置に達するごとに、二人ともの速さがどんどん遅くなってもいいわけなんです
ね。どんどん遅くなっていけば、永遠に追いつけませんね。(略)
それで、これと、私が死ねないという話は、本質的には同じ話です。つまり、外部に客観的な世界というものを想定しない限り、私の死は訪れません
から。これをすべてだとしても、無だとしても、無は死なないですよね。無だから死なないし、すべてだとしても、すべてには外部がないから、死ぬな
んてことはありえない。そもそも私の死ということが、とてつもない重大事として成り立つためには、その内部しかないという視点とその外部があると
いう視点の、矛盾した両方の視点を往き来する必要がありますね。私の死というのはそういう矛盾した観念ですね。どっちか一本槍で行った場合は、私
は死にません。》(229-231頁)
永井さんご自身は、私は死なないんだという結論に安心立命を得ているわけですか?
この問いに答えていわく。
《いや、僕は、さっきも言いましたけど、立場に立たないから、二つの考え方がありますよ、と言って、その構造を細かく見るだけですから、場合に
よって、こっちに行くと安心立命に近くなって、気分もそれで変えられて、何だそうか、そうだなと思うことができますが、これはできない時もありま
すね。どう言ったらいいんですかね、これはやっぱり知的な問題だから、ある種の情念や情緒が強くなって、スイッチを変えたくても変えられない状態
になることがありうる。これは仏教の修行の方の問題ですね。知的な問題じゃなくて。そっちの方面の問題ですけど、何で鍵が掛かって、行かせなくし
ているのか、という問題がありますね。》(231頁)
『〈仏教3.0〉を哲学する』で、ここが一番スリリングだった。
★12月17日(土):語り口の問題─永井均が語ったこと(番外)
これは『西田幾多郎』を読んでいた時に気がついたことだが、永井均さんは本文と註に書いたことを自在に繋いで議論している。その分かりやすい実
例が『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』にあった。
《で、こういう類比はどうでしょう? 心や意識のあり方を、時間のあり方と比較してみるのです。自分に直接現われている感覚や意識を現在の出来事
に、他者による振舞いの認知を現在の出来事の通時的な記録に、身体内のその物理的基盤を(過去・現在・未来といった時間様相を度外視した)無時間
的事実に、それぞれ類比することができます。現在の出来事は、自分にだけ直接体験できる出来事ではありませんが、それと類比的に、その時点におい
てだけ直接体験できる出来事だからです(ただし、自己と他者の場合と違って、現在と過去には、記憶という直接的紐帯が存在する点が違っています
が)。そうすると、その記憶を含めて、かつて現在だった出来事を新しい現在に伝えるすべてが、自己と他者の間をつなぐ場合の外的な振舞いに対応す
ることになりますし、そうした間主観的連関とも主観的認知とも無関係の物理的事実が、過去・現在・未来といった時間様相とは無関係な客観的出来事
連関に対応することになります。》(『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』22-23頁)
これはちょっとおかしくないですか? 文中の「その記憶」とは、直前の括弧書きの中で言われていることを指しているのだから、それをいきなり次
元が違う本文で言及するのは変だと思う。
まるで舞台上の台詞の中でついさっき楽屋であった出来事に言及するるような、何かカテゴリー違反に近いことをやっている。
永井均さんのこの語り口は、対話を想定していると考えればよく分かる。仮想の論敵か自分自身との哲学問答。あるいは対話的哲学思考のスタイル。
(この本は大学での講義を基にしたものだから、自問自答的思考のスタイルというのが正解かも知れない。)
『〈仏教3.0〉を哲学する』の鼎談で、時々永井均さんの存在感というか息遣いが聴こえなくなる時があった。じっと聴き入っているのか、別の考
え事をしているのか、心ここにあらずなのか。
それは「語り口」の問題ではなく、その反対の「語らない」ことのあり様の問題とでも言えばいいのかもしれない。
ともかく鼎談という哲学的思考のスタイルには、本文と註がひと続きになる対話的(自問自答的)思考とはまた違った、本文と註と沈黙(メタレベル
での思考)が一体となった独特のテイストがある。
ところで、「その記憶を含めて、かつて現在だった出来事を新しい現在に伝える」という永井均さんの発言を読んで、私は、水平的伝達(引用、模
倣)、垂直的伝達(表出、反復)、通時的伝達(記録、伝承、心意現象)、共時的伝達(伝導)、そして〈私〉と〈私〉を繋ぐ第五の伝達といった分類
を思いついた。
そんなことを考えたのは、最近読み始めた岡安裕介氏の論考(「折口信夫の言語伝承考」他)を手掛かりに、そこに永井哲学のアイデアを導入して、
たとえば和歌の心が伝わるとはどういうことかといった事柄について思いをめぐらせてみたいと考え始めていたからで…
と、書き始めて、ふと、このような議論の進め方(他人の文章をその内容とかかわらない文脈で引用しておきながら、素知らぬ顔をしてその内容に繋
がることを書く)は、永井均さんの「語り口」(本文と註が地続きになる)と似たところがあると気づいた。