「大森荘蔵「ことだま」論」(2007.9-10)



★9月24日(月):【大森荘蔵】立ち現われとしての哥

 大森荘蔵の「ことだま論──言葉と「もの‐ごと」」(『物と心』所収)を読んだ。
 2年前にも、桑子敏雄さんが『感性の哲学』で「大森哲学の白眉」と書かれていたのに触発されて読んだことがある。今回は著作集第四巻のゆったり 組まれた活字で読んだ(巻末に収録された野矢茂樹さんの解説の出来栄えが実にいい)。日本歌学体系第八巻に収められた冨士谷御杖の『真言弁』とあ わせて読んだ。その下巻に「言霊とは、言のうちにこもりて、活用の妙をたもちたる物を申すなり」云々に始まる「言霊の弁」の節がある。
 いま紀貫之の歌論を西田幾多郎に、藤原定家の歌論をウィトゲンシュタインにそれぞれ対応させて比較する試みに没頭している。たとえば古今集仮名 序で貫之が「ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ」と書いた和歌の力を、定家は「あめつちもあはれ 知るとはいにしへの誰がいつはりぞ敷島の道」と否定した。このことの意味を冨士谷御杖と大森荘蔵の言霊論を比較することで考えてみたいと思った。
 大森を定家にひきつけて何か参考になるアイデアを密輸しようと目論んでいたのだが、「ことだま論」を熟読しているうち、大森荘蔵の「立ち現われ 一元論」は定家と貫之の歌の世界(私の関心にひきつけて精確に書くと、定家と貫之の歌論の世界)をともに包摂しうる強さと深さと拡がりをもったも のであることに気づいた(「立ち現われ」としての哥)。
 だからこれから折にふれて書くこと(大森荘蔵の著書からの任意の抜き書きと覚え書き)は本当は「哥の勉強」のカテゴリーに整理すべき事柄なのだ が、この際いつかまとめて取り組みたいとかねてから気になっていた大森哲学(とりわけ晩年の三部作)のための専用の場所をしつらえることにした。
 以上、開会の辞として。

★9月25日(火):【大森荘蔵】ことだま論・第1節

 大森荘蔵の「ことだま論」は二つの節からなっている。
 第1節「無‐意味論」では、野矢茂樹さんが著作集第四巻解説で再整理した「私(主観)が‐その赤い本(対象)を‐私の目に映った見え姿(現象) において‐見る(作用)」という(さしあたっては知覚の現場に即して)四極構造のうちの第三項、すなわち知覚や想起や想像や空想等の様態における 表象、そして言葉の意味の実在性が抹殺され、表象と対象の二元論にかわる「立ち現われ一元論」が提示される。
 第2節「対象は「じかに」──真理と実在の流動」では、四極構造の第二項すなわち対象が「立ち現われ」を離れて独立に実在するものでないことが 論証される。二元論的構図における「(1) 言葉の意味を聞く、(2) その「意味」を了解し、(3) あることを思い浮かべ(表象し)、(4) その「表象」を通して「対象」に向う(または、「対象」が「表象」として「現出」する)」という四段構えが、「(1) 言葉(声振り、またはその想像)に触れられて、(2) 「立ち現われ」が「じかに」立ち現われる(さまざまな「同一体制」の会得を含んで)」という二段構えにとってかわられる(著作集第四巻,152-153 頁)。

     ※
 第2節はメモを取りながらじっくり読んだので、書いておきたいこと、それを読んでいるとき私の脳髄に立ち上がりあるいは立ち現われたことがたく さんある。このことは次回にまわす。
 第1節はとりあえず大森哲学の世界の感触に慣れるつもりで軽く読み流したので、書くべきことがあまり思い浮かばない。それを読んでいるとき私の 脳髄に立ち上がり立ち現われた事柄はきっとたくさんあったはずなのだが、時が経つにつれてそれらは消えて流れてしまった。それでも心に残ったこと はいくつかあるので、そのうち「哥の勉強」にも関係する文章を二つばかり抜き書きしておこう。(本当は「脳髄に立ち上がる」や「思い(が心の中 に)浮かぶ」や「心に残る」や「(心の中から)消えて流れる」などの言い方は大森哲学の世界では許されないと思うが。)

◎「声振り」に触れられ動かされること/ことだまは「人」に宿る/過去に遡って持続の相貌をもった「海」をじかに立ち現わしめること

《ましてや、「意味」を文字で記すなどということは不可能である。それは歌い方や弾き方を楽譜に記すことが不可能なのと同様である。……
 要するに、聞き手の側からすれば、言葉の意味の了解なるものは実は、話し手の声振りに触れられて動かされること、叙述の場合であれば、或る「も の」「こと」が或る仕方で訓練によって立ち現われること、じかに立ち現われること、に他ならない。そこに「意味」とか「表象」とか「心的過程」と かの仲介者、中継者が介入する余地はないのである。すなわち、言葉(声振り)がじかに「もの」や「こと」を立ち現わしめるのである。言葉の働きは この点において、まさに「ことだま」的なのである。しかし、個々の人の身振りの一部である声振りを離れて言葉はない。したがって、「ことだま」が 宿るのは声振りに、したがって身振り、したがって「人」に宿ると言うべきである。……「ことだま」がその声振りに宿るというのであれば、話し手の 眼差しには「眼だま」が、手には「手だま」が宿るといわねばならない。このように、「ことだま」には何も神秘はない。
 叙述において、話し手が聞き手に「もの」「こと」を立ち現わしめる、といっても、それは打出の小槌のひと振りで何かを出現せしめるようなもので はない。むしろ、広い意味で聞き手の視線をその「もの」「こと」に向けてやるのである。……わたしに、賀茂川が立ち現われるとき、その賀茂川は ずっと以前から在るもの、という持続の相貌をもった賀茂川であり、「持続の途上」の相貌をもった賀茂川が立ち現われるのであって、無からの誕生の 相貌で立ち現われるのではない。詩人が或る「こと」や「もの」を創造するときですらそうである。「ぶどー酒の一滴にほんのりあかく染まった海」 (ヴァレリー)を立ち現わすときも、その海は悠久のかなたから、という相貌をもって立ち現われるのである。奇妙に聞こえるかもしれないが、詩人は 過去に遡ってその海を創ったのである。》(138-139頁)

◎「呪文」「声振りの仕様書き」としての文字表現/声振りという実在によって人に触れること/何ごとかをじかに立ち現わしめること

《だが、われわれは屡々表現を求めて模索する。……それらは最終的には特定のあるいは不特定の他人に宛てられたものであっても、まずは自分自らに 宛てての表現の模索である。今わたしもまた表現を模索している。わたし自らのために。
 こういうとき、或る「もの」「こと」が立ち現われていて、それを適切な表現で描写する、といった平板な作業ではない。……われわれは、それを凝 視し、見定めよう、見極めようといら立つ。そこに、一つの表現(声振り、またはその想像)が立ち現われてくる。もしそれが的を射た表現であるとき は、それまで渋々立ち現われていた「もの」「こと」はきっとその姿相貌を変え鮮やかにくっきりと立ち現われる。……
 われわれはその表現を文字に書きとめる。それはやっと立ち現われたその「もの」「こと」を逃がさぬように文字で縛りとめるためである。……その 表現はまさに一つの呪文なのである。その呪文を声振り唱える(または、それを想像する)ことによって、その「もの」「こと」を繰り返しわたしに立 ち現わしめることができる。そして幸運な場合は、わたしがそれを声振り、その声振りで人に触れると、その人にもまたそれを立ち現わしめることがで きるのである。また、著者の声振りを通さなくともその文字を「読む」ならば、人は自分にそれを立ち現わすことができる。少なくとも著者はそう願っ て「書く」のである。声振りの仕様書きとして。
 創作(物語りにせよ詩歌にせよ)の場合は、ときに、初めに立ち現われる「もの」「こと」がなく、作者は或る立ち現われを作るのである。前にも述 べたように、そうして作られたものは、過去に遡って作られうる。今日、太古の森の何ごとかを作り、立ち現わしめることもできる。
 造形美術は、絵、彫刻、建物、等の物を作る。実在する物を作る。その物がたまたま他の何ごとかを「思わせ」、立ち現わすこともある。だが、それ はたまたまである。しかし、声は、声振りという実在によって人に触れ、そうして何ごとかをじかに立ち現わしめることがその本来の働きなのである (音楽はその中間にあると言えよう)。
 それが「ことだま」の働きなのである。》(142-143頁)

★10月21日(日):【大森荘蔵】ことだま論・第2節(その1)

 9月25日に大森荘蔵「ことだま論」の第1節を取り上げた際、「第2節はメモを取りながらじっくり読んだので、書いておきたいこと、それを読ん でいるとき私の脳髄に立ち上がりあるいは立ち現われたことがたくさんある。このことは次回にまわす。」と書いた。その「次回」のことを忘れてい た。
 あれから一月近く経ってしまったから、「それを読んでいるとき私の脳髄に立ち上がりあるいは立ち現われた」たくさんのことの記憶はもはや朧気で しかない。けれどもさいわい手元にメモが残っているので、それを頼りにできるかぎり再現しておきたい。(もう一度「ことだま論」を頭から読み直せ ばいいようなものだが、今日のところはそれをする時間がとれない。)

 その前に、昨日、本屋で野矢茂樹さんの『大森荘蔵──哲学の見本』(講談社)を見つけて買い求めたので、そのことについてちょっと書いておく。
 これは「再発見 日本の哲学」というシリーズの一冊で、「今こそ、日本の近代思想を読みなおす!」というのがシリーズの謳い文句。既刊は廣松渉、佐藤一斎、石原完璽、続刊 予定に折口信夫、西田幾多郎、北一輝、小林秀雄、和辻哲郎の名が挙がる。こういった面々のなかに大森荘蔵の名が連なることに、なぜか異和感が拭え ない。「“日本の”哲学」というシリーズ名と大森荘蔵とがミスマッチなのかもしれない。
 それはともかくとして、野矢茂樹さんが大森荘蔵著作集第四巻に寄せた解説はとても見事なものだったので、この本には期待している。(でも、いつ 読むか。)

     ※
 表象と対象(実在と現象)の二元的構図ではなく「立ち現われ」の一元的構図(「じかに」の構図)にあって「対象」はどう見てとられるか。賀茂川 は幾度となくわたしに立ち現われてきた。知覚的に、想起的(思い的)に、また想起の想起として。それぞれ異なるその幾つかの「立ち現われ」は「同 じ賀茂川」という「同一体制の下に」立ち現われている。事実そのように立ち現われている、というだけである。
 では、ただ一度、ただ一つの「立ち現われ」の場合はどうか。その一つの「立ち現われ」は、様々な他の「立ち現われ」と「同一体制の下に」立ちう るという会得を含んだ相貌をもって、すなわち「持続する物」としての相貌をもって立ち現われる。「もの」が「じかに」立ち現われるというときの 「もの」は、さまざまな「同一体制」の会得を含んだ「立ち現われ」なのである。その「立ち現われ」の背後には「対象」なるものはない。(大森荘蔵 「ことだま論」,著作集第四巻,151-152頁)
 それでは、個別的ではなく、一般的な「もの」の場合はどうか。さまざまに異なるが、しかし同じ赤い色の場合はどうか。

◎端的な事実としての「似た色」の立ち現われ

《さまざまに異なるしかし同じく赤い色を、「赤い」という「同類体制の下に」あると言おう。……さまざまな赤が事実「似た色」として立ち現われ る。それだけである。「似ている」から同類体制の下に立ち現われるのでもなく、何かの特徴によって「似ている」のでもなく、「似た色」として事実 立ち現われる、そのこと自体を「似た色」と呼び、名付けるのである。……
 同一体制の場合に、さまざまに異なる「立ち現われ」の奥に、同一不変な「対象」を想定する必要がないことを述べた。それとパラレルに、同類体制 の下に立つさまざまな個別者の奥に、同一不変の「本質」、普遍者、「イデア」「形相」「スペチエス」、等を想定するのは不当であり不必要である、 と言いたい。その理由もパラレルである。赤鉛筆の色と、梅干の色は異なりながら「似て」立ち現われる。それは端的な事実であって、それを同一不変 な「本質」その他を見てとることによって「似ている」と判定する、といったような説明を必要としないからである。また、「類似性」を見てとること によって「類似する」のではなく、「類似している」ものとして「立ち現われ」ている、それだけである。》(『大森荘蔵著作集第四巻 物と心』154-156頁)

 ウィトゲンシュタインの「家族的類似性(family resemblance)」を想起させられるが、この概念のことはよく覚えていないのでパスする。
 こういうときこそ常備本『事典 哲学の木』の出番なのだ。そう思い立って開いてみると、永井均さんがそのものずばり「家族的類似性」の項を執筆していた。そこに、「その家族を家族的に結 びつけているさまざまな特徴が挙げられれば、それらもまたふたたび家族的類似性によって結びついているのである。もちろん、それはどこかで、おそ らくは「端的にとにかく似ている」としか言いようのないどこかで、終っているはずである。しかし、それがどこなのか、われわれは知らないのであ る。言語ゲームの根底には、このような家族がいる。」と書いてある。
(実は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『家族の肖像』(CONVERSATION PIECE)のことも想起したのだが、これはここの文脈とは完璧に無関係なので、これこそ本当にパスする。)
 その永井均さんの『西田幾多郎』に、いま抜き書きした大森荘蔵の文章と(たぶん)関連すると思われる記述があるので、以下に引用しておく。

《そこまで達すると、超越的主語面と超越的述語面とは一致する。それは、何ものの一例でもない。ただ端的にそうあるだけである。この場面でもし言 葉が使えるとすれば、それは「こうである」と言えるだけである。「どうである」かは言えない。あえて分節するとしても、「これ(ら)は、このとお り、こうなっている」と言えるだけである。いったい「どれ(ら)」が「どのとおり」に「どうなっている」のか、と問われたなら、ただ「これ(ら) が、このとおり、こうなっているんだ」と答えられるだけである。それでも一応そう言えるのは、超越的主語面が超越的述語面によって包摂され、そこ に原初的な判断が成立しているからである。
 いや、そもそも判断はそこから始まるのだ。それは場所の自己運動である。具体的一般者は、具体的であってもやはり一般者なので、自己自身を限定 し、有限化していくための内部構造を内に宿している。具体的一般者は、それ自身の内部にいわば自らの判断化を推進していく(つまり主語─述語に分 割し続けていく)力と潜在的な内部構造を持っているのである。
 その具体的なプロセスは、たぶん、なぜか似たものが寄り集まって、自らなる分類が生成し、さらに、あるものとそれのもつ性質(すなわち主語と述 語)という組織化がなされていく、といったことであろう。この「これ」はあの「これ」と同じ種類の「これ」であり、今の「こう」は少し前のあの 「こう」とと同じ種類であった、等々。つまり、この純粋経験は、抽象的一般者を作り出す力を初めから内に持っている。抽象的一般者とは、実は、具 体的一般者がこのようにして限定されたあり方なのである。(中略)
 かくして、「これ(ら)は、このとおり、こうなっている」は、「この色は、このように、赤である」、「この感覚は、このように、痛みである」 等々へと、自己を展開していくことになる(ただし、そこに「色」とか「赤」という記号があてがわれるのはまた別の過程である)。こうした判断にお いても、そこに働いているのは場所の自己限定の働きであるから、真の主語は「この色」や「この感覚」ではなく、色という場所、感覚という場所、と つづく場所の系列である。
 この議論の肝は、色なら色の、実存と本質が、つまり生の質(クオリア)とそれをつかむ概念が、地続きである点にある。概念は外から質を規定する のではなく、無限個の概念を内に含んだ非概念的な質が、その内側からおのれを限定していくわけである。すなわち、「分節化されていない音声」が一 つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではなく、分節化されていない音声を自ずと分節化させてい く力と構造が、経験それ自体のうちに宿っていることによってなのである。》(永井均『西田幾多郎』63-65頁)