哲学の問題(2023.08)



デカルト沼にハマってほぼ1年経った頃に書いた(未完の)“古文書”に少し手を入れた。

   ※

【1】はじまりは「私」とは何か、という問題。いや、それは「問題」というよりは問題感覚。自分なりの言い方では「哲覚」的な感触。まだ整理され た言葉で「問題」として他人に伝えることのできない生のもの。身体的・生理的なドロドロした部分と、言葉や他人の存在がからまって訳がわからなく なった部分と、そうした身体や言葉や他者から蒸留され澄みきった部分とが渾然一体となったもの。

 ここで少し脱線する。「私」とは何か、ということと、「私」とは誰か、ということとは、別の問題領域に属する。どう違うかというと、万葉集と古 今和歌集との違いくらいかけ離れている。
 これはある本の受け売りだが、万葉の歌人は心を客観的にとらえ、それがあるかないかを問題にした。別離の哀しみが自分の内に生成しいつまでもそ こに留まっているのを、当の自分が自覚しているといった具合だ。ところが、古今集になるとそうした物のごとき心ではなく、自分と外界、意識と自然 といった区分が融解して区別がつかなくなった心が詠われる。そこでは主客分離というときの「主」としての自己は消失している。心はそういう曖昧な 「私」のうちに染みこみ、染めあげるものになっている。たしかそんなことだったと思うが、いま手元に出典(相良亨『こころ』、一語の辞典、三省 堂)がないので、うろ覚え。
 ここに、古今和歌集と新古今和歌集の違いをもちこむと面白くなる。大雑把にいうと、古今集の言葉が物(自然)と渾然一体だとすると、新古今では 言葉の世界が物の世界から自律している。そこでは、「私」とは何かという問題感覚が、万葉集の次元とは異なるところ(言語世界、もしくは物狂いの 世界)で再び浮上する。このあたりのことも、尼ヶ崎彬『花鳥の使』からのうろ覚えの受け売りなのでかなりあやしい。

 話を元に戻す。「私」とは誰かという問題感覚をめぐって、意識と自然、とついさっき苦し紛れに書いた二分法を、昨日の私と今日の私、私と他人、 といったかたちでとらえていくと話がふくらむ。「考えているのは誰なのか、それが私だとして、その私とは誰のことなのか」という、自分自身の「哲 覚」的な問題につながっていく。
 そこまで広げなくても、「私」とは誰かという問題感覚と「私」とは何かという問題感覚とでは、その手触りがまったく違う。狂人と子供くらい違 う。子供にとっては、「私」というたしかな実質感をもたらすものが問いの発生場所であったのに対して、狂人にとっては、その「私」自体が、問いに 対する答えが到達する場所になる。
 「僕って何?」という問いをリアルに生きている子供には、「「何」と問えるだけの実質は君にはまだない、あるとすれば、君の身体がその「何」か なのだ、だから身体を鍛えなさい」と答えればいい。
 こうして、「私」とは何かといういまだ「哲覚」的な(言語以前的な)次元から、心身(脳)問題という最初の「哲学の問題」へと移行する。

 乱暴なことを書いているのは百も承知、二百も合点で、アイデアだけ書いておく。
 この第一の問題(心身問題)を解くためには、実は、第二の問題が解けなければいけない。というより、第一の問題はおのずから第二の問題へと移行 する。それが、時間問題。同様にして、第三の問題である他者問題へ移行し、最後にようやく出発点にもどる。それが、意識問題、自我問題、言い方は いろいろあるだろうが、要するに「私」とは何かという問題。あるいは、「私」とは誰かという問題と切り離せなくなったそれ。
 かくして、出来合いの四つの哲学問題の意味、位置づけが明らかになった(?)。最後の問題(実は最初の問題)を解くためには、さらに第五の問題 へと移行しなければならないのではないか。そう直観は告げる。でも、それがどういう問題なのかはわからない。

#小林潔司 結局、パーフィット問題に行きつくように思う。
#藤子不二雄のパーマンに出てくるコピー人形の問題でもあります。
コピーとして生きていけるなら本体は消去して良いのかという問題。決してそうは言えないとしたら、それは身体や記憶(時間)といったリアルなモノ といささかも関係しないアクチュアルな現実存在が本体(だと思っている側)にはあるから。ではそれは何か(と今度は他者が問う)‥‥こうして振り 出しに戻る

【2】春は自我論、秋は時間論、冬は他者論──出来損ないの枕草子みたいだが、これは、かなり以前に書いた「夏休みのハードプロブレム」という雑 文に出てくる。出てくるというのも無責任な言い方だが、あいかわらず同じことを考えている(同じことしか考えていない)、そして、その同じところ から一歩も先に進んでいないことにちょっとびっくりしている。

 春、秋、冬とくれば、夏はどうだとなる。その答えが、「夏休みのハードプロブレム」。ハードプロブレム(正しくは「意識のハードプロブレム」) とは、「物質としての脳の情報処理過程に付随する意識やクオリアというのは、そもそも一体何なのか」「そしてこれら意識やクオリアは、現在の物理 学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか」という問題のこと。ウィキペディアにそう書いてある。
 平たくいえば「物質である脳に、いかにして心(意識、クオリア)が宿るのか」ということ。私は、このようにとらえられたハードプロブレムは、そ の提唱者デイヴィド・チャーマーズの主張とは違って、物理学の問題に還元されうると考えている。
 とはすなわち、たとえ意識のハードプロブレムが将来、物理学者によって解明されることがあったとしても(それ自体は途方もなくすごいことだ が)、「哲学の問題」としての心身論は、より蒸留された純粋なかたちで生き残る、というか(それこそ“身をもって”)生き続ける、夏休みがめぐっ てくるたび、そのつど初めてのこととして考えられ、語りだされる、ということだ。

 永井均著『翔太と猫のインサイトの夏休み──哲学的諸問題へのいざない』が文庫になった。これまで永井さんの本はほとんど読んできたが、そのう ち、『〈私〉のメタフィジックス』という記念碑的作品は別格として、この『夏休み』が最高傑作だと思っている。(2007年8月時点の感想:自己 註)
 文庫版あとがきに、永井さんがこう書いている。(ここまで「自画自賛」できるのは、文庫解説を書いている中島義道さんかニーチェくらいだと思っ ていた。)

「…ここで思い切って自画自賛してみたい。世界的に見ても、これほど面白い哲学入門書はほかにないと私は感じている。とりわけ第二章[たくさんの 人間の中に自分という特別なものがいるとは]は、…読み返すたびごとに心を動かされる。自分がいまだに到達できない深みが、そこに予兆されている のを感じるからだ。
 入門書とか教科書とかいえば、ふつうは、何かすでにある問題とか学問体系へといざない、そこへ導入するための「門」であるだろう。だが、本書は そうではなく、その「門」がそのままその「門」を通って入って行くべき内容そのものである。これ以上の内容は、今のところまだない。教科書である にもかかわらず、本書は、その中心的な点では、まったく独自の内容を扱っており、この本以上のことは、まだ誰によっても(もちろん私自身を含め て)考えられていないからだ。そして、たぶん、それだからこそ、本書は哲学への入門書の資格を持つのだと思う。」

 「門」がそのままその「門」を通って入って行くべき内容そのものである。──うまく説明できないが、先に書いた、物理学の問題(実在性、リアリ ティにかかわる問題)としてのハードプロブレムが解明されたとしても、哲学の問題(現実性、アクチュアリティにかかわる問題)としての心身問題は 生き続ける、という事態と同じことがここには書かれている。

【3】「夏休みのハードプロブレム」に取り組むための三つの論点。
 その1.心身問題というときの「心」とは何か。
 意識[consciousness,awareness]、こころ[heart]、自己=自我[self]、私[I]、精神[mind]、魂 [soul]、霊[spirit]、表象[representation]、情動[affection]、意志=意図[intention]、 等々。──これらのうち、どの「心」を対象とするのか、しかもどのような定義=限定のもとでとり扱うのかによって、問題の様相はまったく異なって くる。
 あるいは、心と脳、心と身体、心と物、霊と肉、精神と物質、文化と自然、等々。これらは、それぞれが異なった「心」を問題としている。

その2.心と身体(脳)の「関係」とは何か。
 因果関係や対応関係のメタファーを超えた心と脳の関係、というときの「関係」とはそもそも何か。あるいは、粒子と波動、離散と連続、生と死、有 限と無限、内と外、面と体、主観と客観、世界と自我、超越と内在、神化と受肉、等々。──これらの事柄をめぐる「関係」とは何か、仮にそれが意味 的・論理的関係にほかならないのだとしても、では「意味的・論理的関係」とはいったい何か。

その3.「情報」とは何か。
 心と身体(脳)を媒介するものがあるとして、それを仮に「情報」と名づけることができるとしたら、それではその「情報」とは何か。
 それは、たとえていえば生者と死者、機械と幽霊、動物と人間、神と人間、等々の「関係」を問う言語そのもの、あるいはシステムそのものの起源と 構造と機能と変容(進化)をめぐる学、第三の脳の学ともいうべき「神学」の問題に帰着するのではないか。(啓示と預言、一人称単数の「告白」と二 人称単数の「祈り」、旧約=古い脳を包含する新約=新しい脳、等々。)
 補遺。ある特殊なシステム(たとえば脳)があって、これに対応してある特殊な観測者(脳)がいる。この二つの要素からなる全体を「原システム」 と名づけよう。そして、この原システムから観測者を除去して考えられたシステムを「抽象(あるいは一般)システム」と名づけることにしよう。抽象 システムは、その「内部」に「測りがたい」深淵や超越や分裂や矛盾等々をかかえている。なぜなら、そこには観測者がいないから。
 この抽象システムにおける不在の観測者は、時として「神」とか「意志」などと呼ばれることがあるが、実はそれは「外部」に仮構されたインター フェイスないしは「外部」へのパスウエイのこと、「鏡」とでも名づけるべきもののことをいっている。(たとえば、「鏡」と「自己」の二つの要素か らなる擬似「原システム=情報システム」としての「精神」。)

 ──これらはいずれも、それ自体が「ハードプロブレム」の実質を持っているので、簡単には手が出せないが、最近、第二の論点に関する有力なヒン トを得た。

【4】前田隆司著『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?──ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史』(技術評論社,2007)第5章、「現 象一元論」の哲学者・斎藤慶典との対話が、というよりそこで斎藤が解説している「基づけ関係」の説が面白かった。

 第4章の最後に「心の哲学」の節があり、そこで、チャーマーズ(『意識する心』)の「哲学的ゾンビ」の話題が取り上げられている。
 外見が人間にそっくりであるだけでなく、脳内のニューラルネットワークの発火分布の詳細に至るまで、物理的にも人間と全く同じであるにもかかわ らず、実は「現象的な意識」(例:クオリア)を持たない存在(哲学ゾンビ)を想像することができるか。私(前田)には到底想像できないが、チャー マーズはできるという。それは、意識の現象的な側面が、ニューラルネットワークから独立した霊魂のようなものだという主張に近い。
 しかし、チャーマーズ流の二元論の視点から、「クオリアは幻想であって確固としたものとしては何ら存在しないという枠組みの中で、その幻想が受 動的メカニズムによって作り出される」と考える私(前田)の一元論を論破することはできない。
 一元論と二元論は前提が異なる。「したがって、チャーマーズがいくら一元論の問題点を指摘しても、それでは、一元論自体が間違っている場合と、 一元論の一部に未知の部分がある場合とを分離できないのである。」(199頁)

 ここのところに、斎藤が異議を申し立てる。
 第一に、チャーマーズが問題にしているのは、脳と意識との間にどういう関係があるのか、物と心をつなぐ「糸」がどのようになっているのかが全く わかっていない、ということだ。一元論が成り立つためには、脳と意識、物と心という二つものの間にきちんとした関係性が見出されている必要があ り、かつその上で、心を物に還元できる十分な理由がなければならない。「現時点ではまだよくわかっていない」と認めたとたん、チャーマーズの意見 に従わざるを得ない。
 第二に、仮に心から脳へとさかのぼるプロセスが明らかになったとしても、クオリアを伴った心の状態がなくなるわけではない。つまり、二元論的な 状況がそのまま存続する。それを幻想として斥けるのなら、その十分な理由が示されなければいけない。
 第三に、そもそも心という存在(意識という過程)を抜きにして、脳という物的世界の代表的存在をそのようなものとして同定(アイデンティファ イ)できるのか。脳と心を分ける議論の中に、すでに「心(が設定する特定の観点)による脳の同定」というものが不可欠の前提として入っているので はないか。つまり、一元論者の仮定は形而上学的であって、そもそも脳と心を二つに切り分けた上で対置するという発想自体に疑問がある。

 ここで斎藤が提案しているのが、脳と心の間には「基づけ」という固有の関係の仕方があるというものだ。
 基づけ関係は、「基づける項」と「基づけられる項」の二つの項からなる。まず、「基づけられる項」は「基づける項」なしには成立せず、一方で、 「基づける項」もまた「基づけられる項」なしにはそのようなものでありえない。具体的にいうと、心は脳なしには成立せず、一方で、脳が脳として存 在するのは、心の中でしかない。
「よく誤解されているのですけれども、この基づけ関係というとらえ方から出てくる重要な帰結に、「『そもそも心なしにまず脳があって、その脳から 心が出てきたのだ』と考えてはいけない」ということがあります。
 なぜならその考えは、「心」という、上に乗っかる新たな秩序(「基づけられる項」)が出来上がった後で、その「心」が描いたシナリオだからなん です。つまり心が「自分たちが成り立つにあたってはまず脳というものがあって、そこから自分たち心が出てきたんだ」というように、いわば自分たち の基盤を成すものをさかのぼって指定し解明する関係になっているんです。
 そしてこの「さかのぼり」は、心なしには決してありえないことなのです。
 この基づけ関係で非常に重要なのは、基づける項と基づけられる項が、違う秩序原理で成り立っているということなのです。(略)
 このように見てくると、この基づけ関係の重要な部分が見えてきましたね。つまり、「下位の秩序なしに上位の秩序を説明することができないにもか かわらず、上位の秩序なしで下位の秩序を説明することができない(上位の秩序が下位のそれを包み込んでいる)という関係です。」(224-225 頁)

【5】「基づけ関係」はフッサールに由来する概念で、市川浩による「身分け」(世界の身体的・知覚的分節化)と丸山圭三郎の「言分け」(言語的分 節化)との間にも同様の関係が成り立つ(斎藤慶典『知ること、黙すること、遺り過ごすこと──存在と愛の哲学』)。

 以下、斎藤氏の議論を離れる。私は、この基づけ関係を「Q⇒P(q→p)」と表記して考えている。Q=脳、P=心に置き換えると、「Q⇒P」は 脳が心を産出すること、まず脳があってその脳が心を基づけるものであることを表現している。しかしそのような描像自体、実は脳によって基づけられ た心が描きだしたもの、すなわち「q→p」(丸括弧内=脳内の心的現象)にほかならない。
 心の中に浮かんだこと(頭で考えたこと)「q→p」が、世界の本当の姿「Q⇒P」と一致する保証はない。「まず脳があって…」と考えること(観 念論の次元)と「脳がある」こと(実在論の次元)とはまったく別次元の話だ。
 カント(『純粋理性批判』)が言うように、頭の中で考えているだけの「可能的な百ターレル(銀貨)」と現に存在する「現実的な百ターレル(銀 貨)」とは違う。(身分け、言分けによって世界を分節化し終えた後になって、頭と言葉を使って思い描いた言語以前、身体以前の世界は、けっして 「父母未生以前の本来の面目」に達しない。)

 心身(脳)問題には、以上のような“ややこしい”事情が介在している。心と身体(脳)の関係如何と言うときの「心」や「身体(脳)」の概念その ものが、実は心身(脳)問題が解消した後になって成立するものなのだ。
 この袋小路を脱する有効な方法は、問題を“ずらす”ことにある。たとえば、被験者の脳内細胞の発火から心的現象が生成するプロセスを脳科学者が 観察しているという三項関係(被験者の脳とその心と脳科学者の心)に拡大し、かつここで解明すべきは実は脳科学者の心の生成機序なのである、と いった仕掛けを講じること。
 もっと端的で有効なのは、心身(脳)問題を時間問題として考えることだ。中島義道著『「時間」を哲学する──過去はどこへ行ったのか』は、心身 問題の原型・モデルは知覚ではなく想起にあると論じている。身体(知覚機序)と心(知覚像)の関係は、過去の出来事と現在におけるその想起の関係 を原型としているというのである。
 いわく、知覚とその知覚の想起とは、それが「同一の光景である」という「概念」のレベルで同一なのであって、その存在の仕方はまったく異なる。 想起とは過去の原体験とはまったく異なった体験であり、いわば「過去形の原体験」である、云々。
 かくして心身問題は時間問題へと繰り延べされる…。

※“古文書”はこのあたりで終わっている。四つ(ないし五つ)の哲学問題を総覧し、それらが「基づけ関係」によって組み立てられていることを概観 する。たしかそんな“構想”を抱いていたと記憶しているが、かなり曖昧になっている。
 この文章を書いていた頃、永井均著『私・今・そして神──開闢の哲学』にハマっていた。そこで永井が論じている哲学史上の四つの課題が、“古文 書”の究極の到達点になる。このことは間違いない。
「神の存在論的証明をめぐる哲学史上の諸説、現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立、A系列とB系列をめぐる時間論上の議論、そしてコギ ト命題の解釈をめぐる論争、これらがすべて同じ一つの問題をめぐっていることは、まずまちがいないことだと私は思う」。

 付記。林住期において取り組む心身論には、学生期のそれとはまったく異なる「哲覚」的感触が伴っているのかもしれない。それこそ遊行期へ向けた 準備や終活、あるいは(古代インド人もたぶん名前を付けていない)死後の生へ向けた身繕いのための“手頃な”ハードプロブレムになるかもしれな い。

【6】林住期における夏休みのハード・プロブレム、番外篇。

 在原業平の「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(古今集747、伊勢物語第4段)を取りあげる。この歌の読み方は、 「月‘や’あらぬ」「春‘や’昔の」の「や」を疑問ととるか反語とみるかで違ってくる。
 疑問だとすると、歌の意味は「月も春もすっかり変わってしまったのか、この私はあの時のままだというのに」(②)となる。普通は「自然(月や 春)は変わらないが、人(の心)は変わってしまう」(④)となるところを反転させて「わが身」が変わらぬことを強調している。[*1]
 反語だと「この私があの時のままなのに月も春も変わってしまったなどということがあろうか、いや月も春もあの時のまま今そこにあるのだ、この私 と同様に」(③)の意になる。ひねりを加えて、「月も春もすっかり変わっているのにこの私だけがあの時のままだということがあろうか、いや私もも うあの時の私ではないのだ、月や春がすっかり変わってしまったように」(①)と解することもできる。
 私自身は、あまり込み入った解釈をせず「月も春もすっかり変わってしまったのか、この私はあの時のままだというのに」(②)という、不変である はずの自然でさえ変わってしまったというのに、私の心はあの時凍りついたまま今ここにあるのだという痛切な思いを吐露した歌であるととらえてい る。[*2]

 この業平歌の世界を前回の話題に関連づけてみる。
 以上の解釈では「わが身」を「私の心(思ひ)」に置き換えている。これを字義通り「私の身体」ととらえると、では「私の心」の方はどうなったの かとなる。その答えが「月や春」なのだ。
 かつて私の身と心は一つだった。そして空を照らしていた月や春の夜の情景もまた私の身心と溶け合っていた。(いまひとつ、この歌の背後に隠され ている「思い人」との一体化を加えることができるが、ここでは措く[*3]。)その幸福な合一の体験は今や記憶(想起)のうちに痕跡をとどめるだ けで、かつて一つであった身と心と月と春はばらばらになってしまった。
 かつての幸福な時は「かつての幸福な時」という概念のうちに閉じ込められている。私の心(思ひ)は月や春とともにそこ(過去)に住まいしている が、今ここに現にあるのはそこから切り離されたリアルな生身の私だけ…。
 深読みがすぎるが、「月やあらぬ」の歌の世界のなかで、心身問題と時間問題が(後者が前者を「基づけ」るかたちで)重なりあって共在している。

[*1]上記文章中の丸囲みの数字は、次の区分に対応している。
1.月も春も変わった
 ①私も変わった ②私はあの時のまま
2.月や春は昔のまま
 ③私もあの時のまま ④私は変わった

 学生の頃に愛聴・愛唱した「川のほとり」(笠木透作詞作曲)に、「同じ土 同じ草 変わりは無いのか 悲しいぞ/人は去り 時は流れ 変わって 行くのか 悲しいぞ」というフレーズがある。この前段を「自然は変わらない」、後段を「人は変わる」と字義通り読めば④の世界を歌っている。

[*2]王朝和歌の本質(であると私が考えていること)に照らすと、上記①~④のすべての解釈が同時に、重層的に成り立っていると見るのが正しい と思う。
 もう少し精確に言うと、①~④の解釈が時間軸に沿って相互に反転したり入れ替わったりしながら、つまりそれぞれの重みというか濃度のようなもの を微妙に変化させながら絡み合って進展していく、ととらえるのがおそらく正しい。

[*3]「月やあらぬ」には長い詞書がついていて、業平と藤原高子との道ならぬ恋の物語が背景にあることが語られている。しかし王朝和歌を読むと きに、そのような実情は考慮する必要がない。
 もちろん歌の世界をどう味わうかは読み手の勝手なのだから、「月やあらぬ」を高名な恋の物語に照らして読んでも構わない。現に『伊勢物語』はそ のような趣向のうえに成り立っている。
 ただ(私が考える)王朝和歌の本質は、そうしたリアルな実情を霧や霞の中に包み込み、純粋に「心(思ひ)」と「物(月や春)」のアクチュアルな 絡み合いとその推移を、いわば“形式的”にみつめることを通じて現れてくるものだ。『伊勢物語』は「和歌」の本質に根ざしながら、別の文学ジャン ルすなわち「歌物語」へと移行している。