「哲学の問題」(2007.8-9)
★8月24日(金):【哲学の問題】「私」とは何か、「私」とは誰か
寝覚めの夢の中で『國男・哲郎・清』の企画を練った日の午後、こんどは白日夢の中で、とりあえず『哲学の問題』という仮のタイトルを与えたもう
ひとつ別の本のアイデアが浮かんだので、これも忘れないうちに書いておく。
はじまりは、「私」とは何か、という問題。いや、それは「問題」というよりは問題感覚。私なりの言い方では「哲覚」的な感触。まだ、整理された
言葉で「問題」として他人に伝えることのできない生のもの。身体的・生理的なドロドロした部分と、言葉や他人の存在がからまって訳がわからなく
なった部分と、そうした身体や言葉や他者から蒸留され澄みきった部分とが渾然一体となったもの。
ここで少し脱線すると、「私」とは何か、ということと、「私」とは誰か、ということとは、まったく別の問題の領域に属する。どう違うかという
と、万葉集と古今和歌集との違いくらい、かけ離れている。
これはある本の受け売りだが、万葉の歌人は、心を客観的にとらえ、それがあるかないかを問題にした。別離の哀しみが自分の内に生成し、いつまで
もそこに留まっているのを、当の自分が自覚しているといった具合だ。ところが、古今集になると、そうした物のごとき心ではなく、自分と外界、意識
と自然といった区分が融解して区別がつかなくなった心がうたわれる。そこでは主客分離でいう「主」としての自己は消失している。心はそういう曖昧
な「私」のうちに染みこみ、染めあげるものになっている。たしかそんなことだったと思うが、いま手元に出典(相良亨『こころ』、一語の辞典、三省
堂)がないので、うろ覚え。
ここに、古今和歌集と新古今和歌集の違いをもちこむと面白くなる。大雑把にいうと、古今集の言葉が物(自然)と渾然一体だとすると、新古今では
言葉の世界が物の世界から自律している。そこでは、「私」とは何か、という問題感覚が、万葉集の次元とは異なるところ(言語世界、もしくは物狂い
の世界)で再び浮上する。このあたりのことも、尼ヶ崎彬『花鳥の使』からのうろ覚えの受け売りで、かなりあやしい。
話を少し元に戻して、「私」とは誰か、という問題感覚をめぐって、意識と自然、とついさっき苦し紛れに書いた二分法を、昨日の私と今日の私、私
と他人、といったかたちでとらえていくと、話がふくらんでいく。「考えているのは誰なのか、それが私だとして、その私とは誰のことなのか」とい
う、この私自身の「哲覚」的な問題につながっていく。
そこまで広げなくても、「私」とは誰か、という問題感覚と、「私」とは何か、という問題感覚は、その手触りがまったく違う。狂人と子供くらい違
う。子供にとって、「私」というたしかな実質感をもたらすものが、問いの発生場所であったのに対して、狂人にとっては、その「私」が、問いに対す
る答えが到達する場所になる。
「僕って何?」という問いをリアルに生きている子供には、「何」と問えるだけの実質は君にはまだない、あるとすれば、君の身体がその「何」なの
だ、だから身体を鍛えなさい、と答えればいい。こうして、「私」とは何か、といういまだ「哲覚」的な次元から、身心問題、そして心身問題という、
最初の「哲学の問題」へと移行する。
かなり乱暴なことを書いているのは百も承知、二百も合点で、アイデアだけ書いておく。
この第一の問題(心身問題)を解くためには、実は、第二の問題が解けなければいけない。というより、第一の問題はおのずから第二の問題へと移行
する。それが、時間問題。同様にして、第三の問題である他者問題へ移行し、最後にようやく出発点にもどる。それが、意識問題、自我問題、いいかた
はいろいろあるだろうが、要するに、「私」とは何かという問題。あるいは、「私」とは誰かという問題と切り離せなくなったそれ。
こうして、出来合いの四つの哲学問題の意味、位置づけを明らかにしていく。それが『哲学の問題』という本のアイデアだった。その最後の問題を解
くためには、さらに第五の問題へと移行しなければならないのではないか。そう直観は告げる。でも、それはやってみなければわからない。
★8月25日(土):【哲学の問題】心身論、夏休みの哲学
春は自我論、秋は時間論、冬は他者論。
出来損ないの枕草子みたいだが、これは、以前書いた「夏休みのハードプロブレム」《http://www.eonet.ne.jp
/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/23.html》という雑文集に出てくる。出てくるというのも無責任な言い方だが、あいかわ
らず同じことを考えている(同じことしか考えていない)こと、そして、その同じところから一歩も先に進んでいないことに、ちょっとがっかりしてい
る。
春、秋、冬とくれば、夏はどうなるのだとなる。その答えが、「夏休みのハードプロブレム」。
ハードプロブレム(正しくは「意識のハードプロブレム」)とは、「物質としての脳の情報処理過程に付随する意識やクオリアというのは、そもそも
一体何なのか」「そしてこれら意識やクオリアは、現在の物理学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか」という問題のこと。ウィキペディア
にそう書いてあった。
平たくいえば「物質である脳に、いかにして心(意識、クオリア)が宿るのか」ということ。私は、このようにとらえられたハードプロブレムは、そ
の提唱者デイヴィド・チャーマーズの主張とは違って、物理学の問題に還元されると考えている。
とはすなわち、たとえ意識のハードプロブレムが将来、物理学者によって解明されることがあったとしても(それ自体は途方もなくすごいことだ
が)、「哲学の問題」としての心身論は、より蒸留されたかたちで生き残る、というか生き続ける(身をもって、生き続ける)、夏休みがめぐってくる
たびごとに、そのつど初めてのこととして考えられ、語りだされる、ということだ。
※
永井均さんの『翔太と猫のインサイトの夏休み──哲学的諸問題へのいざない』が文庫(ちくま学芸文庫)になった。
私はこれまで、永井さんの本はほとんど読んできたが、そのうち、『〈私〉のメタフィジックス』という記念碑的作品は別格として、この『夏休み』
が最高傑作だと思っている。
文庫版あとがきに、永井さん自身がこう書いている。(ここまで「自画自賛」できるのは、文庫解説を書いている中島義道さんかニーチェくらいだと
思っていた。)
《…ここで思い切って自画自賛してみたい。世界的に見ても、これほど面白い哲学入門書はほかにないと私は感じている。とりわけ第二章[たくさんの
人間の中に自分という特別なものがいるとは]は、…読み返すたびごとに心を動かされる。自分がいまだに到達できない深みが、そこに予兆されている
のを感じるからだ。
入門書とか教科書とかいえば、ふつうは、何かすでにある問題とか学問体系へといざない、そこへ導入するための「門」であるだろう。だが、本書は
そうではなく、その「門」がそのままその「門」を通って入って行くべき内容そのものである。これ以上の内容は、今のところまだない。教科書である
にもかかわらず、本書は、その中心的な点では、まったく独自の内容を扱っており、この本以上のことは、まだ誰によっても(もちろん私自身を含め
て)考えられていないからだ。そして、たぶん、それだからこそ、本書は哲学への入門書の資格を持つのだと思う。》
「門」がそのままその「門」を通って入って行くべき内容そのものである。──うまく説明できないけれども、先に書いた、物理学の問題としての
ハードプロブレムが解明されたとしても、哲学の問題としての心身論は生き続ける、という事態と同じことが、ここに書かれている。
そして、私が『哲学の問題(仮)』という本の中で取り上げたいと目論んでいるのは、そういう事態の解明である。
※
これまで、心身論や心脳問題について考えてきたことの一部を、いま思い出すままにメモしておく。
◎心脳問題をめぐる三つの論点
第一の論点。心脳問題というときの「心」とはそもそも何か。
意識[consciousness,awareness]、こころ[heart]、自己=自我[self]、私[I]、精神[mind]、魂
[soul]、霊[spirit]、表象[representation]、情動[affection]、意志=意図[intention]、
等々。──これらのうち、どの「心」を対象とするのか、しかもどのような定義=限定のもとでとり扱うのかによって、問題の様相はまったく異なって
くること。
あるいは、心と脳、心と身体、心と物、霊と肉、精神と物質、文化と自然、等々。これらは、それぞれが異なった「心」を問題としているのではない
かということ。
第二の論点。心と脳の「関係」とは何か。
因果関係や対応関係のメタファーを超えた心と脳の関係、というときの「関係」とはそもそも何か。あるいは、粒子と波動、離散と連続、生と死、有
限と無限、内と外、面と体、主観と客観、世界と自我、超越と内在、神化と受肉、等々。──これらの事柄をめぐる「関係」とは何か、仮にそれが意味
的・論理的関係にほかならないのだとしても、では「意味的・論理的関係」とはいったい何かということ。
第三の論点。「情報」とは何か。
「情報」とは何か。それは、たとえていえば生者と死者、機械と幽霊、動物と人間、神と人間、等々の「関係」を問う言語そのもの、あるいはシステ
ムそのものの起源と構造と機能と変容(進化)をめぐる学、第三の脳の学ともいうべき「神学」の問題に帰着するのではないか。(啓示と預言。一人称
単数の「告白」と二人称単数の「祈り」。旧約=古い脳を包含する新約=新しい脳。)
補遺。ある特殊なシステム(たとえば脳)があって、これに対応してある特殊な観測者(脳)がいる。この二つの要素からなる全体を「原システム」
と名づけよう。そして、この原システムから観測者を除去して考えられたシステムを「抽象(あるいは一般)システム」と名づけることにしよう。
抽象システムは、その「内部」に「測りがたい」深淵や超越や分裂や矛盾等々をかかえている。なぜなら、そこには観測者がいないから。──この抽
象システムにおける不在の観測者は、時として「神」とか「意志」などと呼ばれることがあるが、実はそれは「外部」に仮構されたインターフェイスな
いしは「外部」へのパスウエイのこと、「鏡」とでも名づけるべきもののことをいっている。(たとえば、「鏡」と「自己」の二つの要素からなる擬似
「原システム=情報システム」としての「精神」。)
◎「心脳問題をめぐるテーゼ(私家版)」
その1.意識は言語から「生産」される。
その2.意識と物質はつながっている。
その3.身体は意識を「表現」する。
その4.使用価値と交換価値の分岐が心脳問題の起源である。
★9月17日(月):【哲学の問題】包み込むものと包み込まれるもの/世界は感情に満ちている
前田隆司著『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?──ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史』(技術評論社,2007)の第5章「哲学者
との対話」を読んだ。「現象一元論」の哲学者・斎藤慶典との対話(「現象学」)、「ギブソニアン」の哲学者・河野哲也との対話(「生態学的心理
学」)の2編が収められている。
斎藤との対話が、というよりそこで斎藤が自己解説している「基づけ関係」の説(『心という場所』)が面白かった。
前田本第4章の最後に「心の哲学」の節があって、そこで、チャーマーズ(『意識する心』)の「哲学的ゾンビ」の話題が取り上げられている。
外見が人間にそっくりであるだけでなく、脳内のニューラルネットワークの発火分布の詳細に至るまで、物理的にも人間と全く同じであるにもかかわ
らず、実は現象的な意識を持たない存在を想像することができるか。私(前田)には到底想像できないが、チャーマーズはできるという。それは、意識
の現象的な側面が、ニューラルネットワークから独立した霊魂のようなものだという主張に近い。つまり、心身二元論。
しかし、チャーマーズ流の二元論の視点から、「クオリアは幻想であって確固としたものとしては何ら存在しないという枠組みの中で、その幻想が受
動的メカニズムによって作り出される」と考える私(前田)の一元論を論破することはできない。一元論と二元論は前提が異なる。「したがって、
チャーマーズがいくら一元論の問題点を指摘しても、それでは、一元論自体が間違っている場合と、一元論の一部に未知の部分がある場合とを分離でき
ないのである。」(199頁)
ここのところに、斎藤が異議を申し立てる。
第一に、チャーマーズが問題にしているのは、脳と意識との間にどういう関係があるのか、物と心をつなぐ「糸」がどのようになっているのかが全く
わかっていない、ということだ。一元論が成り立つためには、脳と意識、物と心という二つものの間にきちんとした関係性が見出されている必要があ
り、かつその上で、心を物に還元できる十分な理由がなければならない。「現時点ではまだよくわかっていない」と認めたとたん、チャーマーズの意見
に従わざるを得ない。
第二に、仮に心から脳へとさかのぼるプロセスが明らかになったとしても、クオリアを伴った心の状態がなくなるわけではない。つまり、二元論的な
状況がそのまま存続する。それを幻想として斥けるのなら、その十分な理由が示されなければいけない。
第三に、そもそも心という存在(意識という過程)を抜きにして、脳という物的世界の代表的存在をそのようなものとして同定(アイデンティファ
イ)できるのか。脳と心を分ける議論の中に、すでに「心(が設定する特定の観点)による脳の同定」というものが不可欠の前提として入っているので
はないか。つまり、一元論者の仮定は形而上学的であって、そもそも脳と心を二つに切り分けた上で対置するという発想自体に疑問がある。
そこで、斎藤が提案するのが、脳と心の間には「基づけ」という固有の関係の仕方がある、というものだ。
斎藤の「基づけ関係」は、二つの関係性からなる。「基づける項」と「基づけられる項」の二つの項があって、まず、「基づけられる項」は「基づけ
る項」なしには成立せず、一方で、「基づける項」は「基づけられる項」なしにはそのようなものでありえない。具体的にいうと、心は脳なしには成立
せず、一方で、脳が脳として存在するのは、心の中でしかない。
《よく誤解されているのですけれども、この基づけ関係というとらえ方から出てくる重要な帰結に、「『そもそも心なしにまず脳があって、その脳から
心が出てきたのだ』と考えてはいけない」ということがあります。
なぜならその考えは、「心」という、上に乗っかる新たな秩序(「基づけられる項」)が出来上がった後で、その「心」が描いたシナリオだからなん
です。つまり心が「自分たちが成り立つにあたってはまず脳というものがあって、そこから自分たち心が出てきたんだ」というように、いわば自分たち
の基盤を成すものをさかのぼって指定し解明する関係になっているんです。
そしてこの「さかのぼり」は、心なしには決してありえないことなのです。
この基づけ関係で非常に重要なのは、基づける項と基づけられる項が、違う秩序原理で成り立っているということなのです。(略)
このように見てくると、この基づけ関係の重要な部分が見えてきましたね。つまり、「下位の秩序なしに上位の秩序を説明することができないにもか
かわらず、上位の秩序なしで下位の秩序を説明することができない(上位の秩序が下位のそれを包み込んでいる)という関係です。》(224-225
頁)
※
もう一つの対話では、「感情はクオリアではない」という河野の発言が面白かった。
河野がいう「感覚として上がらないような、深い深い悲しみ」(クオリアのない悲しみ)や「淡々としているけれども強い怒り」とは、「気分」もし
くは「場」のことなのではないかと指摘する前田に対して、河野がこう答えている。
《「場」、磁力のある場というような比喩的な言い方をしてもいいんでしょうね。ですから、どちらかというと感情というよりは「構造としての場」と
か、「構えとしての感情」とかいったものでしょうか。(略)ある種の内的な感覚でしょうから、クオリアと呼べるとは思うんです。けれども、それは
体の興奮状態のことで、同じような状態に、たとえば、緊張したときにもなると思うのです。怒りに固有のクオリアとは言えないのではないでしょう
か。》(257-258頁)
これを読んでいて、ダマシオの『感じる脳』と、NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」(8月31日)に「出演」していた「赤ちゃんロボット」
──大阪大学の石黒浩研究室(知能ロボット学)が開発したもので、ヒューマノイドロボット「Child-robot with
Biomimetic Body」(CB2:CBキューブ)が正式名称──のことを想起した。