「『パースの宇宙論』をめぐって」(2007.2-2009.5)



☆2007

★2月18日(日):非人格的な感情/感覚質の宇宙/精神の結晶

 図書館で借りて、読まずに継続を繰り返しているうちに予約が入ってしまったので、伊藤邦武著『パースの宇宙論』(岩波書店)を購入。新品同様の ものを、古本屋で800円引きの2千円で買った。とりあえず、プロローグ「ヴィジョンとしての多宇宙論」とエピローグ「素晴らしい円環」を駆け足 で眺めた。この本をまともに読み始めたら、たぶん数ヶ月はパース一色で染め上げられてしまう。
 パースの三つのカテゴリー論(伊藤氏はこれを三つの基本的エレメント、「三大」と呼ぶ)など、いま苦しんでいる「哥とクオリア」のテーマそのも のだし、プロローグに引用されていたパースの次の二つの文章は、破壊的なまでに面白い。

《無限にはるかな太初の時点には、混沌とした非人格的な感情があり、そこでは連絡もなければ規則性もなかったがゆえに、現実存在というものもな かったと考えられる。この感情は、純粋な気紛れのなかで戯れているうちに、一般化の傾向というものの胚種を宿し、それには成長する力がそなわって いたのであろう。こうして習慣化する傾向というものが始まり、そこから、他の進化の原理とともに宇宙のあらゆる規則性が残存し、それは世界が絶対 に完全で、合理的で、対称的な体系になるまで存続することであろう。精神もその無限に遠い未来において、最終的に結晶するのである。》(「理論の 建築物」)

《われわれが現在経験する色、匂い、音、あるいはさまざまに記述される感情、愛、悲しみ、驚きは、すべて太古の昔に滅びたもろもろの質の連続体か ら遺された残骸であると考えざるをえない。それはちょうど廃墟のそこかしこに遺された円柱が、かつてはそこにいにしえの広場があって、バシリカ聖 堂や寺院が壮麗な全体をなしていたことを証言しているのと同じである。しかし、その広場が実際に建立される以前にも、その建築を計画した人の精神 のうちには、ぼんやりとして不十分な現実存在があったことであろう。まさしくこれと同様に、わたしはあなた方に、存在の初期の段階には、現在のこ の瞬間における現実の生と同じくらい実在的なものとして、感覚質の宇宙が存在したのだと考えてもらいたいと思う。この感覚質の宇宙は、それぞれの 次元間の関係が明瞭になり、縮減したものになる以前の、もっとも初期の発展段階において、さらに曖昧な存在形態をもって実在していたのである。》 (『推論と事物の論理』,『連続性の哲学』(岩波文庫)第6章「連続性の論理」257頁)

☆2009

★4月24日(金):「対象O」と「純粋言語」と「ル・レエル」

 「ラカン」「パース」「ベンヤミン」で検索して、宇波彰氏の「弱者の言説 パースからラカンへ」を入手した。明治学院大学の言語文化研究所が発 行する研究紀要「言語文化」24号(2007年03月)に掲載されたもの。

(ちなみに、「宇波彰現代哲学研究所」でも同様の検索をして、「未来図書館のリストに」という記事(2008年02月14日)をみつけた。 『Intercommunication』(2002年春号)の「未来の図書館にどういう本を納めるべきか」に応えたもの。
 宇波氏の回答は、「C・S・パースの著作集」「グレゴリー・ベイトソンの著作集」「ベンヤミン全集」(いずれも年代順)の三点。ブログには、 「今もし付け加えるならば「ラカンの年代順作業・セミネール集」ということになるであろう」と付記されていた。)

 「弱者の言説」は、パースの「対象O(としてのテクスト)」とベンヤミンの「純粋言語」とラカンの「ル・レエル」を(いわば「星座」のように) 関連づけた刺激的な小論。
 『コーラ』に連載している貫之論の次章「ラカン三体とパース十体」のマクラに使いたいと思い、プリントアウトして繰り返し読んでいるうち、ふと 気になって、『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』(御茶の水書房:2007年07月27日)を図書館から借りてきてみると、思ったと おりこの論文が収録されている。
 タイトルから副題が省かれ、本文にもかなりの加除修正がほどこされているが、論旨は変わらない。同書所収の「ラカンのシニフィアンに光あれ!」 や「ガタリ的機械」や「アブダクションの閃光」や「聖堂のカフカ」などと併読してみて(いずれも面白い)、これはやはり「使える」と思った。どう 「使える」かは、実地に使ってみないとわからないが。

★4月25日(土):「対象O」と「純粋言語」と「ル・レエル」(承前)

 宇波彰氏の「弱者の言説」(『記号的理性批判』)で、パースの「対象O(としてのテクスト)」とベンヤミンの「純粋言語」とラカンの「ル・レエ ル」がどのように関連づけられていたか。以下、該当する箇所を(適宜、加工を加えて)抜き書きしておく。

◎パースの「対象O」について
 パースの思考では、記号論(認識論)は存在論と不可分になっている。
 そのパースの記号論の基本的な概念のひとつに「セミオシス」(semiosis 記号連鎖)がある。
 対象O(object)を記号S(sign)が示すとき、その記号Sを解釈項I(interpretant)によって解釈するというプロセスで ある。
 この解釈項Iは、実際には記号Sとは別の記号S'である。そしてこの記号S’はまた別の記号S''で解釈されるから、そのプロセスは無限に続 く。そのとき、もとの対象Oは変化しない。
 ここで留意しておくべきことは、対象Oに対して記号Sがシニフィアンであるということであるが、その次に来る記号S'にとってはシニフィエにな るということである。
 無限に継起するシニフィアンS、S'、S''…は対象Oとつながりがあるように見える。しかし、それらは対象Oとは別のものである。そこには 「ずれ」がある。
 対象O、すなわち最初に存在する解釈の対象であるシニフィエ(としての事物[the thing,Ding])は、セミオシスのプロセスのなかでは、遅れていて、取り残されている。

◎ベンヤミンの「純粋言語」について
 ベンヤミンはつねに「事実的なものが理論である」というゲーテの教えに忠実であった(ボルツ)。
 そのベンヤミンは「翻訳者の課題」で次のように書いている。「いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けら れたものではないのだ。」(野村修訳)
 ここでベンヤミンは、テクストが受け取るひとのために存在するのではなく、それ自体で価値を持つといっている。
 このようなベンヤミンの思想と深い関係があるのは、彼の「純粋言語」(reiner Sprache)の概念である。
 純粋言語は、「もはや何ものをも意味せず表現しない」(「翻訳者の課題」)。それは伝達の手段ではなく、意味を持たず、表現もしていない言語で あるから、それを「解釈」することは最初から不可能である。
 ベンヤミンの「純粋言語」という考え方には、ヴォーリンガー(『抽象と感情移入』)の影響がある。
 ヴォーリンガーは、感情移入、つまりミメーシスを原理とする芸術を否定した。ミメーシスに代わる原理が「抽象」である。それはいかなる「表象」 とも断絶した、リーグルのいう「芸術意欲」に基づく芸術の原理であった。
 ベンヤミンは『ドイツ悲哀劇の根源』で、ヤコブ・ベーメの「永遠のことば、神の響き、神の声」ということばを引用している。「神の声」は表現や 伝達を目標としていない「純粋言語」であり、人間の堕落以前、バベル以前の「アダム語」である。
 芸術家はときにこのような「言語以前の言語」を用いた作品を作る。たとえば、ジジェク(『幻想の感染』)はシューマンの「フモレスケ」につい て、「声にならない〈内な声〉にとどまる、声による旋律線」云々と書き、ラカン解釈のキーワードのひとつである the impossible-real という概念(到達不可能なものとしてのル・レエル)を使って説明している。
 地上の人間は「神の声」をなんとか聞こうとする。そのときに考えられる手段が、アレゴリーである。
「アレゴリカーの手のなかで、事物はそれ自体ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、この事物ではないなにかについて語ることに なる。」(『ドイツ悲哀劇の根源』)
 ここでベンヤミンが「事物」(Ding)といっているのは、パースの対象Oである。

◎ラカンの「ル・レエル」について
 対象Oとしてのテクスト、ベンヤミンの純粋言語を、ラカンのル・レエルと関連させて考えることが可能である。
 なぜなら、これまで「現実界」と訳されてきた「ル・レエル」は、「シンボル化に絶対に抵抗するもの」(『セミネールⅠ』)もしくは「不可能なも の」(『セミネールXⅠ』)として規定されているからである。
 いままでの訳語に囚われず、ル・サンボリックは「言語・記号が作る世界」、リマジネールは「イメージ・像が作る世界」、ル・レエルは「像にも記 号・言語にもならないもの」として解釈し直すべきである。
 言語・記号・法・慣習・伝統・文化などが一体となって作る領域、これまで「象徴界」と訳されてきたル・サンボリックこそむしろ「現実界」であ る。
 このル・サンボリックの領域に入ることを拒否するものがル・レエルであり、ル・レエルの領域にあるものは存在しない。「女」「性的関係」は、言 語化・シンボル化が不可能なル・レエルである。
 ラカンは『セミネールⅤII』の段階ではそれを「物」(das Ding)と呼んだ。ル・レエルの語源はラテン語の res (物)である。この「物」は言語化されることに抵抗する。
「現実は、イメージ、論理的なカテゴリー、ラベルからなるシステムであり、差異化していて、通常は予測可能な経験の連続性に従う。これに対して、 ル・レエルは現実の彼方にあって、経験のなかで、想像不可能で、名前がなく、差異化されていない他性(otherness)である。」(ジョン・ P・マラー)

★4月29日(水):書かざれしかば生まれざるもの

 宇波氏の「パースの対象O」をめぐる議論に、軽い違和感を覚えている。
 それは、宇波氏がいう「対象と記号のずれ」の問題が、うっかりすると、「対象O」と「記号連鎖S、S'、S''…」の二項関係をめぐる議論と取 り違えられてしまわないかということだ。「解釈項Iは、実際には記号Sとは別の記号S'である」といったとたんに、三項関係を基本とするパースの 思考とはまったく別の次元の話題に転じてしまうのではないか。
 このあたりのことは、最近ようやく読み終えたばかりの、伊藤邦武著『パースの宇宙論』を参考にしながら、もう少しじっくりと考えてみる必要があ る。

     ※
 その『パースの宇宙論』に、安藤礼二著『神々の闘争 折口信夫論』の名が出てくる。
 このことについては、また別の機会に書くことにして、安藤礼二氏の『光の曼荼羅 日本文学論』の書き下ろし序文「死者たちの五月」を読んでいる と、次の年譜が目にとまった。

  昭和二十八年(一九五三)、折口信夫の死。
  昭和二十九年(一九五四)、寺山修司の登場。
  昭和三十年 (一九五五)、中井英夫、『虚無への供物』執筆を開始。

 にわかに寺山修司の短歌にふれたくなり、たまたま手元にあった『寺山修司未発表歌集 月蝕書簡』(田中未知編)を一気に読みきった。

  王国の猫が抜け出すたそがれや書かざれしかば生まれざるもの

 寺山修司の短歌、たとえば「義母義兄義妹義弟があつまりて花野に穴を掘りはじめたり」について、佐々木幸綱氏が「解説」で次のように書いてい る。

《短歌には、物語を抱き込む短歌と、物語を排除して、瞬間つまり時間の断面をうたう歌がある。古典和歌では藤原定家が一首の背景に物語を想像させ る歌を好んだとされている。近代では、たとえば石川啄木が物語を抱え込んだ歌を多く作っている。寺山修司は、その点で啄木の強い影響を受けた。
 演歌的物語あるいは童心の物語等をいったん深く抱き込んで、シュールな色合に染める手ぎわが、寺山短歌の大きな魅力だった。具体的にいえば、物 語をベースに置きながら、突出した特異な映像の発明に賭けるのである。秋の花が咲きさかる野に穴を掘る義母義兄義妹義弟。彼や彼女は何歳ぐらいな のか、何を着て何を持って何をしゃべりながら穴を掘っているのか。どんどん奇っ怪なイメージが広がる。そのイメージを楽しみながら、読者は思い 切ってシュールな色に染まった物語を楽しむことができる。偽家族たちが集合して穴掘りをするにいたる物語である。》

 演歌的なあるいは童心の「物語をベースに置きながら、突出した特異な映像の発明に賭けるのである」。これを読んで、最近レンタル・ショップでみ つけダビングしたままの『田園に死す』と『さらば箱舟』を観たいと思った。

★5月2日(土):パースの宇宙論と折口信夫の言霊言語論

 伊藤邦武著『パースの宇宙論』の第二章「一、二、三」に、パースが寄稿した雑誌『モニスト』の編集者ケイラスの話が出てくる。

《…『モニスト』という名前はケイラスの思想的立場を表している。モニストとは一元論者を意味するが、ケイラスはこの言葉で、唯物論や唯心論など の具体的な一元論ではなく、ただ世界全体のいっさいの事物が一つの法則に依存していて、その法則のはたらきこそが神である、という思想を意味して いた。それゆえ、この雑誌の根本的な基調は、むしろスピノザ的な存在論に通じるものであり、けっして反宗教的な方向を目指したものではなかった。 しかし、ケイラスは自分の思想を傍証するような思想──伝統墨守的形而上学の破壊を唱えるすべての立場、とくに実証主義の流れをくむ科学の哲学 ──の紹介に非常に熱心であり、しかも国際的な視野から雑誌を編集しようとしていたために、結果としてマッハ、ヒルベルト、ラッセル、デューイな どの重要な思想家を紹介し、一九世紀末から二○世紀初頭にかけて、もっとも新しい哲学の国際的な論壇を形成することになった(わが国の鈴木大拙が アメリカに渡ったとき、最初についた職はケイラスの助手であった。また、『モニスト』は一九四○年ころにいったん廃刊になるが、一九六○年代後半 に再刊され、現在でももっとも有力な国際的哲学誌のステイタスを保っている)。》(『パースの宇宙論』67-68頁)

 巻末の注によると、ポール・ケイラス著、鈴木大拙訳の『仏陀の福音』なる書物があるという。

《ケイラスは鈴木との協力関係を通じて、仏教思想、とくに『大乗起信論』にもとづく一元論的かつ汎神論的な仏教宇宙論を理解するようになる一方、 鈴木はケイラスを通じて、スウェーデンボルグの思想と著作に通暁するようになり、ほぼ一○年に及ぶ滞米から帰国した直後は、主としてこの思想の普 及に努めることになった。鈴木の親友の西田幾多郎は、ケイラスのかたわらで働く鈴木を通じて、ジェイムズ、パース、ロイスらの思想を吸収し、それ を『善の研究』へと結晶させることができた。したがって、一九世紀後半の『モニスト』編集部を十字路の交差点として、「西田と鈴木」と「ジェイム ズ、パース、ロイス」という日米の二組の友人哲学者たちが思想的に接触するという、非常に興味深い出来事が生じていたのである。日本の近代哲学を 考えるうえできわめて重要と思われるこの歴史的遭遇は、これまであまり掘り下げて研究されていない。次の著作はこの局面を論じた数少ない研究のひ とつである(筆者によれば、折口もまた、友人の藤無染を介して、ケイラスの宗教思想に触れ、大きな影響を受けたという)。安藤礼二『神々の闘争 折口信夫論』講談社、二○○四年。》(『パースの宇宙論』242頁)

     ※
 藤無染(ふじむぜん)やケイラスのことは、安藤礼二著『神々の闘争 折口信夫論』の第二章「未来にひらかれた言葉」に出てくる。
 安藤氏は、まず、折口信夫が「国文学の発生」第一稿に描き出した「神語」の世界から語りはじめる。それは原初の「象徴」として考えられた言葉で あり、「言霊」という神秘的な「力」が作用する「流動言語」であった。
 この発生状態にある言葉(言葉の「種子」)のイメージは、明治43年の大学卒業論文「言語情調論」のうちにすでに生まれていたものであり、そこ で主張されているのは、言語に直接性を回復させることであった。
 こうした「象徴言語」をめぐる折口の特異な「言語学」はけっして時代から孤立したものではない。それは当時の最先端の認識論に、すなわちエルン スト・マッハの「感覚一元論」に直接結びついたものであった。
 折口は、九歳年長の友人・藤無染からマッハ哲学の真髄を教授された。その藤無染に『英和対訳 二聖の福音』という小著がある。仏教とキリスト教 の根本における同一性(仏耶一元論、仏基一元論)を主張したもので、その思想を導いたのがケイラス著、鈴木大拙訳の「仏教と基督教」であった。
 このケイラスこそ、マッハの盟友であり、その主要著作の英訳を出版していた人物であった。マッハもまた『感覚の分析』で、ケイラスの『因果の小 車』(芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の源泉)と『仏陀の福音』(藤無染が『二聖の福音』の巻末「跋」に記した参考文献)の二著を取り上げた。
 
《折口は、このような感覚のみがたゆたう世界のなかに、始原の言語の姿を探っていこうとする。まさにそのことによって、折口言語学は、おなじく マッハの「感覚一元論」をその起源として同時代のヨーロッパに生み落とされた、もう一つ別の「ある学問」、その学問の展開とほとんどパラレルに進 行していったと考えてもよいものとなったのである。
「ある学問」、それは民族学でも、言語学でも、心理学でもない。なによりもそれはエドムント・フッサールによって創設された「現象学」である。そ して、そのなかでも特にフッサールの『内的時間意識の現象学』に、折口の「言語情調論」の対応物を見出すことが可能なのである。フッサールは「現 象学」という概念を、なによりもエルンスト・マッハから受け継いだのである。》(『神々の闘争 折口信夫論』78-79頁)

 安藤氏は、マッハの「感覚一元論」とフッサールの「現象学」が相克するその同じ場に、折口の「言語情調論」と、ロシア・フォルマリズム運動の詩 的言語論を位置づける。
 この二つの言語論は、ともに非常に政治的な意味をもっていたが、「革命」を境に対照的な道をたどっていく。
 ロシア・フォルマリズム運動は、「未知なる言語を用いて、未知なる現実を描くこと」を原理とし、ロシア革命を芸術的に表現する運動であった。一 方、折口の秘教的な言霊言語論は、革命の反動期にあって、日本の「改造」の中心となるべき昭和天皇が語る新たな権力の言語を理論化するものであっ た。
 折口は、「国文学の発生」第四稿以後、言語を生成させる神と、霊魂を生成させる神とを結びつける「産霊」(ムスビ)の神一元論を確立し、その 「神語」論を完成させていく。「言語情調論」で夢に描いた「純粋言語」が実現する。

《折口は「純粋言語」の実現による、無数の霊魂と意味の蕩尽が、まさに純粋な贈与として、その無限の「力」を解放するということに気がついてい た。この無限の力を真に活用するために、その力に一つの方向性を与えるために、ミコトモチが必要とされたのである。》(『神々の闘争 折口信夫論』99頁)

 ミコトモチとは、「神語」の「預言者」である。
 折口がイメージした(遠くイスラームの原理やネストリウス派のキリスト教の原理とも結合可能な)権力の統合原理であるミコトモチは、「天皇」、 それも「超-国家」への道を歩みはじめた時期の「天皇」であった。

     ※
 ケイラスとマッハの関係について、三浦雅士氏との対談「唯名論から実在論へ」(『大航海』No.60)で、伊藤氏は次のように語っている。

《ただ安藤さんのご本にはちょっと不正確なところもあって、マッハとケーラスは同じ思想だと書いてあるのですが、実際はケーラスはマッハに反対し ているんですね。たしかに近親性はあるんだけれども、ケーラスは、マッハはあるところで止まってしまっているから、これではだめだと書いているん です。人間の思考を経済として捉えるのは有意義だが、その経済活動は何を目標としているのか。マッハではそれが考えられていないので実証主義にと どまってしまった。それを乗り越えていく道をケーラスは模索していた。》(『大航海』No.60,71頁)

★5月3日(日):パースの宇宙論と九鬼周造の回帰的時間

 伊藤邦武著『パースの宇宙論』の巻末の注をめぐる話題をもう一つ。第四章「誕生の時」から。
 なお、これに先立つ箇所に、次の文章がでてくる。「彼の哲学には、われわれは視覚的な世界への囚われをいったん緩めることによって、ユークリッ ド幾何学以外の世界を経験することができると同時に、無限に連続する質の世界である第一性の世界、偶然性の世界、潜在性の宇宙をかいま見ることが できるという考えがあった。パースの理論では、エキゾチックな香りが伝える嗅覚の世界や不思議な体感が伝える触覚の世界は、メビウスの環やクライ ンの壺に代表されるトポロジカルな空間を体験させることによって、実際に異次元の世界への通路をもたらす力をもつのである。」(182頁)

《この宇宙の時間が成立する以前の世界の想定──それはいうまでもなく、裏返していえば、この世界の「誕生」の論理への洞察である。「龍涎、麝 香、安息香、薫香」「ヘンルーダやムルラノキやヒメライキョウの薬草」「オレンジ、レモン、ライム、ベルガモット、橙など、柑橘系の香り」「コー ヒー、シナモン、樟脳、楠などの匂い」──互いに連続しあった嗅覚的性質の集合が作り出す世界は、それぞれがまた異なった空間や時間からなる、多 元的な世界の各断片でもあるのであり、それはまさしく、「ちょうど廃墟のそこかしこに遺された円柱が、かつてはそこにいにしえの広場があって、バ シリカ聖堂や寺院が壮麗な全体をなしていたことを証言しているのと同じ」なのである。もろもろの異郷の香りは空間体験の可能性を大幅に拡張するば かりではなく、現実を超え出た時間の断片をたどっていく道標にもなりうるかもしれないのである。》(『パースの宇宙論』186-187頁)

 これに付された注に、伊藤氏は、「九鬼周造の次の文章には、おそらくはボードレールの影響のもとにであろうが、視覚以外の感覚、とくに嗅覚の世 界が導いていく原初の偶然性と可能性の世界というパース的なモチーフが、まったく同じような創造論的パースペクティヴのもとで記されていて興味深 い。」(252頁)と書き、九鬼周造の「音と匂──偶然性の音と可能性の匂」の一部を引いている。
 短い文章(文庫本で二頁足らず)なので、以下に、全文抜き書きする。

     ※
  音と匂──偶然性の音と可能性の匂(九鬼周造/菅野昭正編『九鬼周造随筆集』岩波文庫)

 私は少年の時に夏の朝、鎌倉八幡宮の庭の蓮の花の開く音をきいたことがあった。秋の夕、玉川の河原で月見草の花の開く音に耳を傾けたこともあっ た。夢のような昔の夢のような思出[おもいで]でしかない。ほのかな音への憧憬は今の私からも去らない。私は今は偶然性の誕生の音を聞こうとして いる。「ピシャリ」とも「ポックリ」とも「ヒョッコリ」とも「ヒョット」とも聞こえる。「フット」と聞こえる時もある。「不図[ふと]」というの はそこから出たのかも知れない。場合によっては「スルリ」というような音にきこえることもある。偶然性は驚異をそそる。thrill というのも「スルリ」と関係があるに相違ない。私はかつて偶然性の誕生を「離接肢の一つが現実性へ‘す’るりと‘滑’ってくる‘推’移の‘ス’ピード」と いうようにス音の連続で表わしてみたこともある。
 匂[におい]も私のあくがれの一つだ。私は告白するが、青年時代にはほのかな白粉[おしろい]の匂に不可抗的な魅惑を感じた。巴里[パリ]にい た頃は女の香水ではゲルランのラール・ブルー(青い時)やランヴァンのケルク・フラール(若干の花)の匂が好きだった。匂が男性的だというので自 分でもゲルランのブッケ・ド・フォーン(山羊神の花束)をチョッキの裏にふりかけていたこともあった。今日ではすべてが過去に沈んでしまった。そ して私は秋になってしめやかな日には庭の木犀[もくせい]の匂を書斎の窓で嗅[か]ぐのを好むようになった。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。そ うすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまう。私が生まれたよりももっと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであったところへ。

     ※
 坂部恵著『不在の歌──九鬼周造の世界』第4章「双子の微笑──「文学概論」と「日本詩の押韻」」から。九鬼周造の講義「文学概論」の最終章 「12 時間(時間と文学)」の最終節「時間と存在」をめぐって。
 なお、坂部氏いわく、「この「文学概論」はたとえば、漱石の「文学論」とならんで、明治以後の日本の文学論のなかで、際立った思弁性と透徹した 体系性という特色をもって、孤立に甘んじ、今なお孤高を持しているようにおもわれる。」(188頁)

《ここで、周造は、プルーストに超時間的なものないし回帰的時間の観念があることをいい、紅茶に浸したプチット・マドレーヌに幼年時代の記憶が蘇 る有名なくだりを引きつつ、つぎのように述べる。
「匂ひとか味ひとか音とかいふものを嘗て経験したものが再び新たに経験される。「それらは現在と過去に同時に存在し、現実的でないが実在的であ り、抽象的でないが観念的である。」さうすると事物の永遠の本質が解放される。また本当の我れが目覚める。さうして「時間の秩序から解放された一 瞬間が、その一瞬間を感じさせるために時間の秩序から解放された人間を我々の中に再び造る。」芭蕉が「橘やいつの野中のほととぎす」と云つたのも 同じ回帰的時間の有つ超時間性に関してであらう。橘の匂ひがする。嘗て同じ匂ひを嗅ぎながらほととぎすを聞いたことがあつた。あれはいつのことだ つたらう。」
 ポンティニー講演以来われわれにはおなじみの、回帰的時間──垂直のエクスタシスの〈捉え返し〉、〈反復〉の時間──のテーマがふたたび繰り返 される。つづくくだりで、周造が「文学の有つてゐる時間性の重複性」というのは、まさに、文学が、すぐれた意味で、こうした内包的時間の〈捉え返 し〉の営為そのものであることをいうにほかならないだろう。そこで、最後の結論。
「我々は文学とは「存在の言語による表現自身」といふ主題に基いて、‘存在の領域’を一々考察し、最後に存在と同意義である時間の観念に到達し て、時間の見地から文学を見た。そして文学とは「時間の言語的表現それ自身」といふ認識にたどり着いた。」》(『不在の歌』186-187頁)

 また、九鬼周造は「日本詩の押韻」で、ヴァレリーが詩を「言語の運[シャンス、偶然]の純粋な体系」であるとし、また押韻の有する「哲学的の 美」を説いていることに触れ、次のように書いている。(なお、『偶然性の問題』では、ヴァレリーが「語と語との間の音韻上の一致」を「双子の微 笑」にたとえたことを引いている。)以下、『不在の歌』(194-195頁)からの孫引き。

「いはゆる偶然に対して一種の哲学的驚異を感じ得ない者は、押韻の美を味得することは出来ないであらう。浮世の恋の不思議な運命に前世で一体であ つた姿を想起しようとする形而上学的要求を有たない者は、押韻の本質を、その深みに於て、会得することは出来ないといつてもよい。押韻の遊戯は詩 を自由芸術の自由性にまで高めると共に、人間存在の実存性を言語に付与し、邂逅の瞬間において離接肢の多義性に一義的決定を齎すものである。押韻 は音響上の遊戯だから無価値だと断定するのは余りに浅い見方である。我々はむしろ祝詞や宣命の時代における「言霊」の信仰を評価し得なくてはなら ない。富士谷御杖も「言霊の弁」に『言霊の妙用人の心の力の及びにあらぬ』ことを説き『すべて物二つうちあふはずみに自らなり出づるものは、かな らず活きて不則の妙用をなすものなり』と云つてゐる。」

 坂部氏いわく、「マラルメやヴァレリーに深く学んだ周造にあって、〈押韻〉の問題が、単なる詩や歌の問題、あるいは単に文学の問題ではなく、む しろ、よりひろく、文化の基底としての生の律動(はずみ)の問題、あるいは、共同の生の基底としての自己と他者のさらには宇宙の‘いのち’との共 感や、共鳴の問題として、生きられ、捉えられ、あるいは捉え返されていたことはたしかであるようにわたくしにはおもわれる。」(『不在の歌』 201頁)

★5月4日(月):パースの宇宙論と坂部恵のヨーロッパ精神史

 伊藤邦武著『パースの宇宙論』の巻末の注をめぐる最後の話題。前回と同じ、第四章「誕生の時」から。

 パースは『連続性の哲学』(岩波文庫)に、「感覚質の宇宙は、それぞれの次元間の関係が明瞭になり、縮減したものになる」(257頁)と書い た。この、「混沌とした原初的な潜在性→超無限次元の連続体からなる世界→確定的な質の連続体からなる世界」と定式化できる「感覚質の進化」ない し「曖昧な潜在性の縮減(contraction)を通じた現実化の過程」(206頁)をめぐって、伊藤氏は次のように述べる。
 それは、量子論における真空からの対生成やトンネル効果などの考え方に相当するもので、パースに固有の時間の誕生のロジックを解くアイデアであ る。
 この縮減あるいは縮約という概念は、哲学史上、神秘主義的自然哲学(クザーヌス、ベーメ、シェリングなど)における「神の縮約」の文脈と、中世 普遍論争における普遍と個物の関係の文脈とで語られる。
 前者は、「非物質的な神によって物質的・質料的な世界が創造され、悪や罪が生じる余地が生まれるのは、神が自己自身へと引きこもる縮約という作 用による」という世界創造論として現れる。
 伊藤氏は、ここ(208頁)で注をつけている。

《「縮減」「縮約」やこれに類する概念をめぐる考察は、この書[ハーバマスの『理論と実践』]以外にも、ジル・ドゥルーズの一連の著作、とくに 『壁──ライプニッツとバロック』宇野邦一訳、河出書房新社、一九九八年や、坂部恵『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』岩 波書店、一九九七年などで広い観点からなされており、この概念が現代の哲学的関心と深いところで結びついていることをうかがわせている。》 (『パースの宇宙論』253頁)

 しかし、この注の位置はおかしい。
 縮減あるいは縮約という概念をめぐる哲学史の第二の文脈にもふれた後で、すなわち、「「これ性」は個体化の原理であり、さまざまな共通本性やそ のほかの普遍を個体へと「縮減する」作用をもつ」という、スコトゥスの縮減概念についてふれた箇所に注をつけるべきである。少なくとも、坂部氏の 著書に言及するのであれば。

     ※
 私は、『ヨーロッパ精神史入門』の第七講「レアリスムのたそがれ」を読んで、はじめて中世普遍論争の意味を知った。また、(自らの立場を「スコ ラ的実在論」と呼び、ときに「スコトゥス主義」と自称した)パースが、単に記号論のパースだけではなかったことをはじめて知った。

《さて、このように見てくると、一四世紀の哲学のメイン・イシューである、「実在論」と「唯名論」との対立は、通常そう理解されるように、個と普 遍のプライオリティ如何という問題をめぐるものというよりは、むしろ、(パースはそこまで明言していませんが)、個的なものをどう捉え、ないしは どう規定するかにかかわるものであることがあきらかになってきます。
 すなわち、個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが肝心なところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するも のと見なすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与件として、しかも単純で確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構 成要素と見なすか。
 「実在論」と「唯名論」の対立の因ってくるところは、このような考え方のちがいにあるとおもわれます。》(『ヨーロッパ精神史入門』47-48 頁)

     ※
 三浦雅士氏は、伊藤邦武氏との対談「唯名論から実在論へ」(『大航海』No.60)で、パースのファラビリズム(可謬主義)は、「観念論と唯物 論の対立といったかたちで語られてきた[デカルトとヒュームを調停したカント以降の]近代思想の流れそのものを無効にして、かりに何らかの対立が ありうるとすれば、それはむしろ唯名論と実在論の対立でなければならないとする」(49頁)ものであったと語っている。
 また、岩井克人著『資本主義から市民主義へ』(聞き手=三浦雅士)をめぐって、次のように語っている。

《岩井さんはそこで、中世以来の唯名論と実在論の対立が、言語・法・貨幣それぞれの探求においても、たとえば言語における記述主義と反記述主義の 対立、法における自然法論と実定法論の対立、貨幣における商品説と法制度説の対立として、繰り返されてきたと言っている。そのうえで、言語も法も 貨幣も自己循環論法によって成立しているだけだという事実を示して、その対立をいわば無効にしようとしている。社会的実体という言い方からもわか るように、岩井さんは唯名論者であると同時に実在論者でもある。光は波動であると同時に粒子でもあるというのと同じです。(略)偶然といい習慣と いい、岩井さんはおそらくまったくパースは読んでいないと思いますが、基本的なところでものすごくパースに似ている。しかもさらに興味深いこと は、言語・法・貨幣は社会的実体であるというその議論は、たぶんいわゆる自然的実体なるものにまでさかのぼって適用できるのではないかと思わせる ところです。もそもこの宇宙なるものもひとつの歴史として、つまり一回きりの事件としてあるならば、それもまた一種の自己循環論法のようなものに よって支えられているに違いないと思わせるのです。》(『大航海』No.60,55頁)

★5月5日(火):パースの閃光──伊藤邦武『パースの宇宙論』

 チャールズ・サンダーズ・パース。その生涯に1250篇近くの論文を発表(230頁)。総計は1万2千枚、加えて、未発表の草稿が少なくとも8 万枚はあるという(宇波彰「アブダクションの閃光」、『記号的理性批判』44頁)。
 ある研究家は、「アメリカ大陸がこれまでに生んだ最も独創的で最も多才な知性」とし、「数学者、天文学者、科学者、……、俳優、短編作家、現象 学者、記号論者、論理学者、修辞学者、形而上学者」等々と、25項目を列挙している(ジョゼフ・ブレント『パースの生涯』27頁)。
 このリストの最初と最後を組み合わせた「数学的形而上学」を、パースはしばしば「宇宙論」の同義語として使った(247頁)。
 伊藤邦武氏の『パースの宇宙論』は、「相対性理論や量子論が形成される以前に、物理学の根本的な革命の必然性とその方向への予感に導かれて」 (3頁)構成された、パースの「多宇宙論的で進化論的な宇宙の具体的なヴィジョン」(12頁)の概要を、鮮やかな構成と論述でもって腑分けしたも のだ。

 伊藤氏によると、パースの宇宙論は、「論理的反省と一種の形而上学的思弁、さらには宗教的思想によって動機づけられた、奇妙な理論的アマルガ ム」(3頁)であった。
 このうちの後者、「宗教的思想」をめぐる第一章「エマソンとスフィンクス──「喜ばしい知識」の伝道師」で、伊藤氏は、「スフィンクスの謎」を 宇宙生成と発展の論理を問うものと解釈したエマソンの詩と、ニーチェにも多大な影響を与えたその思想とを一瞥することで、19世紀前半のアメリ カ、若きパースをとりまいていた「トランスセンデンタリズム(超越主義)」の精神的高揚の雰囲気を描く。
 続く第二章「一、二、三──宇宙の元素」が、パースの「論理的反省と一種の形而上学的思弁」の根本に据えられた、三つの「新ピュタゴラス主義」 的カテゴリー論をとりあげる。(「それはあたかも、キューブリックの映画『二○○一年 宇宙の旅』のなかで、漆黒の宇宙空間を進む宇宙船の背後に常に流れていた、ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』のように、パースの理論全体に深 く、広く浸透した存在論である」(12頁)。)
 すなわち、「第一のもの」(質、偶然、潜在性、等々)、「第二のもの」(個物、法則、相互作用、等々)、「第三のもの」(普遍、媒介、総合化、 等々)。

《宇宙とはその広大無辺なすべての領域と時間とを貫いて、三つのカテゴリー的元素が組み合わさって、万華鏡のようにさまざまな様相のタピストリー を現出させつづけている、目くるめくような壮麗なワルツの世界である──。これが現象学とグラフ理論から導出された、パースの形式的な存在論で あった。》(101頁)

 こうして、宇宙創成の論理(時間と出来事の発生の論理)である「偶然主義」(第一のもの)、その成長の理論である「連続主義」(第二のもの)、 そして宇宙終局への進行の理論(「死」の理論)である「アガペー主義」(第三のもの)が導出される。
 第三章「連続性とアガペー──宇宙進化の論理」では、宇宙進化の論理(「われわれの側にある事物の状態」の展開の論理)として、後二者がとりあ げられる。
 まず、連続主義。20世紀後半の超準解析の発想にも通じる、連続体と無限小をめぐる数学の議論を経て、宇宙における三つの連続体=存在領域、す なわち「質の世界・精神の世界・物質の世界」が通覧される。
 その結果、「世界は連続する精神と連続する物質からなり、さらには精神同士のあいだも、精神と物質のあいだも連続し合っている」(149頁)と いう、心身の連続性の世界が描出される。
 次に、アガペー主義。(それは、エマソンが重視したスウェーデンボルグの神秘主義的思想を色濃く反映するものだった。)
 パースの宇宙論の要点は、伊藤氏によって次のように総括される。「宇宙はすべてが偶然からなるために無であるとしか考えられない世界から、すべ てが法則的であるために無であると見なされる世界へと移行する」(175頁)。
 すなわち、「質」=無から(「精神」を媒介として)「物質」=無へ。そのとき、パースがいうように、「精神もその無限の遠い将来において、最終 的には結晶する」(176頁)。
 「神的愛の無償の自己否定的作用」にも似た、精神の自己否定による宇宙の完成(=物質的世界の体系化)。そのとき、「物質」は、「質」と同じ種 類の自発性をもち、精神から出発し精神へと帰還するメビウスの環の本性をもつであろう。「アガペー」の名で語られるのは、このような精神と物質の 結びつき(共感)のことである。
 第四章「誕生の時──宇宙創成の謎」では、パースの偶然主義が論じられる。ここが、本書のハイライトである。
 伊藤氏は、パース次の文章の詳細な読解を通じて、そこから発生する複雑極まりない「宇宙の誕生のロジック」を精緻に再構成していく。──「混沌 とした原初的な潜在性=無」⇒「超無限次元の連続体からなる世界」⇒「(論理と時間とが結びつく世界)」⇒「(時間と質が結びつく世界)」とつづ く、世界の開闢と複数世界成立の論理を。

《この不確定性の母胎から、第一の原理によって何かが生じたのだといわなければならない。われわれはこの原理を「閃光」と呼んでもよい。そして、 習慣の原理によって、第二の閃光があったのだといえる。そこにはまだ時間が存在しなかったとしても、この第二の光はある意味では第一の光の後にな る。というのも、それは第一のものの結果として生じたからである。……原初の閃光から帰結したこの連続性の擬似的な流れは、われわれの時間と比較 したとき、次のような決定的な相違をもっている。すなわち、複数の閃光からは異なった流れが始まっていて、それらの間には共時性とか先後の継起性 とかの関係が成立していないかもしれないのである。》(190-191頁)

 中世の神学と現代の量子暗号論に同時につながっていくパースの宇宙論。
 伊藤氏が、パースの形而上学的冒険と神秘主義的洞察を「縮約」したこの書物に描きだしたのは、パースという巨大なカオス(知性の連続体)から一 瞬発せられた閃光の鮮やかでスリリングな軌跡であった。それに続く第二の閃光は、おそらくいまだ発せられてはいない。

★5月6日(水):原形質と洞窟

 五連休の最終日。
 この五日間、近所の図書館に顔をだしたり、コーヒーショップで本を読んだりと、徒歩10分程度の範囲で、日に1度、1、2時間程度外出した以外 は、遠出もせず、街にもくりださず、ただ黙々と部屋にこもり、深夜遅くまでパソコンにむかっていた。
 新型インフルエンザを用心して、というわけではなくて、「コーラ」への原稿をひたすら書いていた。
 「ラカン三体とパース十体」と、タイトルだけは決めていたが、中身はほとんど考えていなかった。
 関係の本を「厳選」して十数冊、机の周辺に積み重ねて、じっくり考えながら書き終える予定だった。
 でも、書いているうち、どんどん拡散していき、それにつれて「全体構想」もふくらんでいって、5日間で3万字は書いたと思うけれど、それでも全 体の3分の1に届かない。
 結局、「ラカン三体」と「パース十体」の中身はいまだにつかめていない。

 ずっと、静かなピアノ曲を聞き流しながら書いていた。たとえば、グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲とか、キース・ジャレットや坂本龍一の ソロといった定番。
 でも、今日は、コルトレーンの響きが心地よい。
 心地よい達成感のためではない。
 『パースの宇宙論』関連の抜き書きもふくめて、ただ書き続けてきたことの肉体的・精神的な疲れと、「ラカン三体とパース十体」完成の断念にとも なう静謐な哀しみ。
 連休のあいだに達成したいと考えていたことがもう一つある。
 安藤礼二著『光の曼荼羅──日本文学論』を終え、あわせて『新潮』5月号に掲載された「霊獣『死者の書』完結篇」を読むこと。
 これもいまのところ、『曼荼羅』が半分まで進んだだけ。
 この本は実に、実に、素晴らしい。最後までいっきに読んでしまうのが惜しい。

 「コートにすみれを」が、とてもいい感じで心に音楽をとどけてくれる。心が少しだけひらかれていく。
 早々にパソコンを仕舞って、残された時間を、『曼荼羅』の後半に捧げることにしよう。

     ※
 伊藤邦武著『パースの宇宙論』をめぐる話題で、どうしても書き残しておきたい話題を厳選して、二つだけ書いておこうと思っていた。
 でも、上に書いたような事情もあり、急遽、予定を変更した。
 それでも、「原形質」と「洞窟」がそのテーマだったということの痕跡だけは、残しておく。
 また機会があれば、中身を書く。

★5月9日(土):続・原形質と洞窟

◎原形質をめぐって

 伊藤邦武著『パースの宇宙論』第三章「連続性とアガペー」の141頁から149頁にかけて、(全体が一つの原形質[*1]からできている)ア メーバの話題をふりだしに、「物質のもつ精神性の有無」をめぐる議論(「アメーバの感情」「記号としての人格」等々)が展開されている。

 アメーバは体全体が非分節的であるから、その運動(その体のどこかに刺激が加わると、そこから運動が生じ、その運動は全体に波及していく)は原 形質の不定形な連続体のなかでの無秩序な変化の伝達である。「それはまさしく、観念の伝播、感じや感情の広がりと同じである。というよりも、原形 質は感じそのものが外化した姿なのである。」
 ここでパースの文章が引用される。その断片。《われわれはアメーバのこの現象において、一塊の原形質のなかに感じが存在していると考える──そ れは‘感じ’ではあるが、明らかに‘人格’ではない──》
 このパースの説明は曖昧だが、われわれは「粘菌」のようなものを想像することができるだろう。
 そして再びパースの引用。その断片。《スライム(粘液体)は化学的合成物にすぎない。…それが合成されるならば、自然の原形質がもつすべての性 質を発揮することであろう。その場合にはそれが感じるであろう。》
 人間の精神もまたアメーバと等しい。その観念の質的広がりにもとづく連続性は、観念の時間的な連続性とならぶもう一つの連続性である「他者との むすびつき」というエレメントである。
 人格とは意識の連続性であり、それは一連の観念の連鎖以外のものではない。「この連鎖の複数の融合が、すなわち一般的精神、共同体的精神にほか ならない。」
 以上をまとめると、精神と物質はその根源、原初においてつながっている。
 精神とは、互いに孤立したアトミスティックなものではなく、一般化し成長する作用としての観念=記号の世界である。「人格は記号であり、人格同 士もまた記号的につながっている。」
 「世界は連続する精神と連続する物質からなり、さらには精神同士のあいだも、精神と物質のあいだも連続し合っている」。
 このパースの存在論は、生気論的・有機体的・精神主義的(伝統的な意味で純粋にロマン主義的)である。「しかし同時に、こうした観念論の特徴が 全面的な偶然主義と結びつき、物質についての新しい概念の示唆と結びついている点も、けっして無視されるべきではない。」

 以上、駆け足で抜き書きした。
 ここのところを読んでいて、諸々のことが頭に浮かんできた。いま、思いだせるだけのことを書いてみると……。
 アメーバの例が、たしかベルクソンの『物質と記憶』にも出てきたこと。
 粘菌といえば、南方熊楠。
 本書では詳しく述べられなかった「パースの神秘体験」[*2]と、熊楠の神秘体験[*3]の関係がなにやら妖しいと思ったこと。
 (熊楠とパースとくれば、最近読んだ、鶴見和子[*4]と川勝平太との対談『「内発的発展」とは何か』が面白かったこと。)
 このほかにもたくさんのことが頭に浮かんでいたはずだが、読んでいたときからずいぶん日が経つので、もやもやとして思いだせない。
 それでもはっきりと覚えている、もっとも面白かったことは、(精神と物質の根源的、原初的なつながりの議論もとても刺激的だったけれど──とい うのも、伊藤氏が「プロローグ」(3頁)で書いているように、「純粋に哲学的な思弁の産物」であるパースの宇宙論が、パースが強く信じていたよう な、「将来の科学的検証の対象となりうるだけの、経験的な内容を伴った理論的モデル」でありうるとすれば、それはこの点にかかっているはずだから ──、それ以上に刺激的だったのは)、「物質についての新しい概念」[*5]と、それから「原形質」は英語で‘protoplasm’だと知った こと。
 (まだ見ぬ「物質についての新しい概念」を予見させるはずの)原形質とは、実は「プラズマ」[*6]だった!

[*1]『パース著作集1 現象学』の38頁から40頁にかけて、「原形質とカテゴリー」の項がある。そこでパースは、「三つの新ピタゴラス学派的カテゴリー」を、原形質に託して説 明している。第一のもの、潜在的力=「情態」のカテゴリー。第二のもの、反作用的力。第三のもの、総合化の法則。

[*2]パースの神秘体験についてはブレント著『パースの生涯』の358頁以下を参照せよ。伊藤氏が注にそう書いている(161頁,249頁)。 で、さっそく読んでみた。(ちょうどその直前のところまで読み進めて、どういうわけか中断していた。これから面白くなる前に!)
 こういうことが書かれている。「神秘経験後のパースにとっての記号論は、実在がいかに宇宙に内在しつつ超越しているか、無限の語り手が我々の宇 宙を創造するのにいかにして記号作用[セミオーシス]という記号の行為を行なっていると言えるか解き明かすものである、と理解されるべきではない かと私は考えている。」(362頁)
 これに続けて、ブレントはパースの連続主義(シネキズム)にふれ、「ガラスのようにもろい人間の本性」という「驚くべき」論文の話題に転じる (365頁以下)。そこに引用されたパースの文章の断片。《[原形質は]感じているのみならず心のあらゆる働き方を行使している。……物質が心の 特殊化にほかならない存在であるとすれば……》

[*3]漱石と入れ替わるようにイギリスから帰国した熊楠は、植物採集のため那智に向かった。「かくて小生那智山にあり、さびしき限りの生活をな し、……自然、変態心理の研究に立ち入れり。幽霊と幻(うつつ)の区別を識りしごとき、このときのことなり」。しかし、この那智隠棲時代は二年で 切り上げられる。「この上続くればキ印になりきること受け合いという場合に立ち至り……」。
 以上、安藤礼二「野生のエクリチュール」(『光の曼荼羅』)から。この安藤氏の論文は、いやこの論文を収録した書物全体が、「物質についての新 しい概念」に関する「驚くべき」仮説を提示するものだ。

[*4]個人的な「発見」を一つ。その昔出していたMM版「不連続な読書日記」(No.70)で、
鶴見和子『『南方熊楠・萃点の思想』と港千尋『洞窟へ』を並べてとりあげていた。

[*5]たとえば、安藤礼二氏の「霊獣 『死者の書』完結編」に(『光の曼荼羅』収録の「光の曼荼羅─『初稿・死者の書』解説」の「4 珊瑚礁の身体」にも)出てくる「珊瑚の樹」が、その一つの事例になっている。「動物と植物と鉱物の性質をあわせもった珊瑚、複数の個体が単一のコロニーを 形成する、南の海の不可思議な生命体」等々。

[*6]固体、液体、気体につぐ物質の第四の状態をいうプラズマと、プロトプラズマ(原形質)のプラズマは、使用される文脈は違うが、ともに「基 盤」を意味するギリシャ語(もしかすると「コーラ」という語と響き合っているのかもしれない、要調査)に由来する語。エクトプラズマのプラズマも 同様。
 『電気的宇宙論Ⅰ──銀河、恒星、惑星の進化を書き換えるプラズマ・サイエンス』という本に、「宇宙はそれ自体が巨大な伝導体であり、電気の力 が宇宙全体を結びつけていた。」「電気的宇宙は、これまでまったく関係ないと思われていた古代の謎にも解明の光を当てる。古代の岩壁絵画に描かれ た象徴・文様が、古代の空にプラズマ放電が作り出した形と同じであることがわかったのだ。」などと書いてある(カバー裏)。
 世界各地の岩窟壁画(「洞窟」壁画も含まれる、たぶん)に描かれた「スクワットをする人物」や「アイマスク」は、プラズマ放電が作り出す砂時計 型のパターンやトーラスの形と「あまりにもよく似ており、とうてい偶然とは考えられない」。

★5月10日(日):続々・原形質と洞窟

◎洞窟をめぐって

 『パースの宇宙論』第四章「誕生の時」の冒頭に、「パースの宇宙論においては、視覚世界から嗅覚世界への向き直りが、現実世界の形式の非唯一性 を認識させる扉を開くという明確な意識が存在した」(182頁)と書いてある。
 そして、「人が光のない洞窟のなかで、自由に空中を遊泳しながら、さまざまな匂いと触覚とを頼りに空間の位置を確かめる経験を続けるうちに、空 間の「特異面」を通り抜けて異種的な空間との行き来を行い、やがて内と外とがその特異面でつながっている「クラインの壺」の構造の空間に生きると いう、新しい体験のありかたを習得する過程を記述した、『連続性の哲学』[242-45頁]のなかのユニークなパッセージ」が引用される。

 と、書き始めて、この話題は、以前(5月3日)、「パースの宇宙論と九鬼周造の回帰的時間」でとりあげたことに気づいた。
 そのとき抜き書きした文章、「エキゾチックな香りが伝える嗅覚の世界や不思議な体感が伝える触覚の世界は、メビウスの環やクラインの壺に代表さ れるトポロジカルな空間を体験させることによって、実際に異次元の世界への通路をもたらす力をもつのである」は、「視覚世界から嗅覚世界への向き 直り」という、パースの洞窟体験の思考実験がもたらす世界を描いている。

(この「向き直り」は、『他界からのまなざし』での古東哲明氏の説──そもそも「プラトン哲学」なるものはない、プラトンが書き残した対話篇は、 「たましい」(プシューケー)の向き変え・改変(ペリアゴーケー=実存転調・身体変容)への誘いであった──を、というより、そこでいわれる「ペ リアゴーケー」を想起させる。
 想起させるどころか、伊藤氏自身が、こう書いている。パースの議論は、洞窟の影から太陽の光の方へと向き返ることを説いたプラトンの思想と 「まったく同じ構造をもつものではないとしても、やはり洞窟を利用した形而上学的冒険の一種には変わりがないといえよう」(227頁)。)

 メビウスの環やクラインの壺の構造をもった空間。表と裏、外と内をつなぐ特異面をもった空間。異次元世界への(ブルトンの通底器[*1]を思わ せる)「通路」。
 それらはみな、「洞窟体験」(227頁)をもたらす「宇宙空間の洞窟的世界」(228頁)の説明であると同時に、宇宙への「洞観」(227頁) に裏打ちされたパースの思想の世界を言い当てている。
 『二○○一年 宇宙の旅』の最後にでてくる「異次元の回廊」とは現代宇宙論の「ワームホーム」であり、その発想の基礎となる宇宙の特異点、すなわち「ブラックホール」は 「宇宙大の規模で想定された現代の哲学的洞窟であり迷宮である」(228頁)。
 この言葉は、パースの思想そのものの形容でもあるだろう。パースの思想は、宇宙大の規模で想定された現代の哲学的洞窟であり迷宮である。
 そして、パースの方法は、洞窟を導管[duct]とする推論、すなわち「洞窟的推察」[*2]、略して洞察(=アブダクション [abduction])そのものであった。

[*1]安藤礼二「野生のエクリチュール」に、ブルトンの通底器について、それは「極度に抽象的で「純粋なフォルム」というかたち」であり、「自 然の生み出す、無限の変化をもった曲線」でもあり、「官能的な自然そのものの姿」であり、「細部の微小な差異に満ち、反復可能であるもの、「生え 出たばかりの羊歯や、アンモナイトや、胎児状渦巻の曲線のような果てしのない曲線」(「自動的メッセージ」)でもあるようなもの」(『光の曼荼 羅』190頁)だと書いてある。
 この「通底器」を「洞窟」と同義に解していいのなら、「官能的な自然そのものの姿」である洞窟、「胎児状渦巻の曲線」でもある洞窟、「単性生 殖」の器官としての洞窟、といったアイデアにもなにがしかの根拠が与えられることになるだろう。
 たとえば、折口信夫の「ホモセクシュアリティと呼ばれているものの本質」にある、「男としての自らの「胎」に「死者」をあらためて胎児として孕 み、出産すること」、すなわち「母胎を経ない出産」=「死からの誕生(復活)」の場所(容れ物)としての洞窟(「光の曼荼羅─『初稿・死者の書』 解説」,『光の曼荼羅』390-391頁)。

[*2]松岡正剛氏は、「パース著作集(全3冊)」をとりあげた「千夜千冊 遊蕩篇」第千百八十二夜で、「アブダクションとは総合的な【推感編集】なのだ」と書いている。この【編集工学】語彙を借用すれば、「洞窟的【推感】推 察」、略して「洞察」。