「永井均をめぐるキレハシ」(2007.01-2011.08)



☆2007

★1月3日(水)

 永井均の『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』をここ一月ほど繰り返し繰り返し最初から読み直していて、たかだか100頁ほどの小冊子なのにま だ半分ほどしか読めていない。
 前著の『私・今・そして神──開闢の哲学』は、つごう5回読み返しても腑に落ちないところが残った。それどころか、読み返すたびに以前よく理解 できたところ、納得や得心のいったところが曖昧になり、腑に落ちないところが逆に増えてきて閉口した。いや、けっして閉口したわけではないが、残 読感とでもいうべきものが後をひいて、いまだに気になって仕方がない。
 『西田幾多郎』の方は、それよりも抵抗感がきつい。抵抗感ではうまく表現できていないが、とにかく永井均の哲学が私にはとてもよく理解できる。 理解できるどころか、これはほとんど私が書いた(書くべきであった)書物ではないかとさえ思える。それは永井均が書いた(考えた)ことではなく、 私(中原紀生)が書いた(考えた)ことなのかもしれない。それらを区別することは「私には」できない。だから、何度読み返しても読み終えた感じが しないし、何度読み直しても読み終えられない。

★2月26日(月):哲学を伝える(解説する)こと=独立に哲学をすること──永井均『西田幾多郎』

 西田哲学(絶対無の哲学)の核心の上に、これとは「区別することはできない」永井哲学(独在性の〈私〉をめぐる形而上学、もしくはその論理-言 語哲学ヴァージョンとしての開闢の哲学)の核心を重ね描いた西田=永井哲学の「解説書」。

 言葉と独立にそれだけで意味を持ちうる生の事実(体験)と、そうした事実とは独立にそれだけで意味を持ちうる言葉(概念)という、二つのものが ある。
 ほんとうは、「二つのものがある」などと言葉で表現するとおかしなことになる(言葉とは独立の生の事実を「言葉とは独立の生の事実」と言葉で表 現することは、そもそも意味をなさないし、一方で、生の事実とは独立した言葉の意味としての「生の事実」は、結局のところ言葉なのだから、そこに 「二つものがある」わけではない)のだけれど、それをいっちゃあおしまいなので先を急ぐ。
(また、この二つもののうち、生の事実の方が「~がある」こと、つまり現実存在=実存にかかわり、言葉の方が「~である」こと、つまり本質存在に かかわってくる。そして、存在をめぐるこの分岐が古典ギリシャに端を発する西洋形而上学の諸思考を産み出し、その極点において、それぞれが永劫回 帰と力への意志に行き着く。というのが、木田元経由で私が理解しているハイデガーの考えなのだが、だからどうなの、と質されてもそれ以上の応答が できないので、この話題はここまでにしておく。)
 話をもとにもどして、その二つのもののうち、前者の「生の事実」は、じかに体験され、意識される生々しい感じ、すなわちクオリアを伴う直接経験 のことで、後者の「言葉」は、たとえば「われ思う」や「われあり」という表現のなかで語られる自己意識が、自己言及という形式的性質にすぎないよ うに、クオリアをつかむ概念とその論理的な連関(推論)のことである、と定義することができる。
 でも、私たちの日常の経験に即して考えてみればすぐに判るように、実のところ、その二つのものは、そんなふうに綺麗に分けられるものではない。 つまり、生の事実と言葉、意識(クオリアを伴った直接的意識)と自己意識(志向性を持った概念的規定)は、私たちの日常の経験のなかでは重なって いる。
《自己意識なき意識が可能なのと同様、意識なき自己意識もまた可能なのである。しかし、通常、この二つはあいともなって現れると考えられている。 それはなぜか。そこには実はかなり複雑な事情が介在しているのであって、本書は、西田哲学の解釈を通して、この事情の解明を目指している。》 (41頁)
 西田哲学の解釈を通して、永井氏が遂行した「かなり複雑な事情」の解明は、それは実に鮮やかなもので、私は、繰り返し本書を読み返しては、何度 でも初めて体験する「哲覚」的興奮に身を浸している。でも、その実質は、実地に直接体験することでしか伝わらないと思うので、ここでは、いわゆる 「デカルト的コギト」から、西田的な「自己意識なき意識」(「赤の赤たることが即ち意識である」)とウィトゲンシュタイン的な「意識なき自己意 識」(「われあり」と正しく判断することはできるロボットかゾンビの)が分岐していく、とあくまで骨組みを提示するにとどめておく。
 一方に、言葉なんて人工的仮定にすぎず、存在するのは主客分離以前の純粋経験だけだ(「雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自 己を描いたものでもよい。元来、物と我と区別のあるのではない」)、つまり「体験が言葉と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている」確信犯の 西田幾多郎がいて、他方に、「驚くべきことに、言葉が体験と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている」もう一人の確信犯、ウィトゲンシュタイ ンがいて、「そうとは知らずに、その[西田幾多郎とウィトゲンシュタインの]信仰が可能な道を切り開いた」過失犯、つまり「体験と言葉がなんの問 題もなく相即することを疑おうともしなかった」デカルトがいる。
 デカルトの「われ思う、ゆえに、われあり」に出てくる「思い」の二重性(直接経験の事実としての思いと、言語的な思いの二重性)から、「思う、 ゆえに、思いあり」の西田的な響き(永井氏の創作)と、「「われ思う」と語る、ゆえに、「われあり」と語るわれあり」のウィトゲンシュタイン的な 響き(私の創作)が分岐し、それらは、デカルトのものも含めて、「彼思う、ゆえに、彼あり」(永井氏の創作)という人称的世界のうちにあって、そ れを食い破るものとして語られる(第一章)。
(西田幾多郎とウィトゲンシュタインのほかに、永井氏がその「解説書」を書いたもう一人の哲学者に関する創作を加えると、そのような体験と言葉、 実存と本質、あるいは、これらとはニュアンスが異なる、思いと実在、独在性の〈私〉と単独性の《私》、私と汝、等々の「相互包摂」的な関係の外部 に突き進んでいったニーチェの場合であれば、それは「思いと思いと……(以下、無限に続く)……と、われありとわれありと……(以下、無限に続 く)……とあり」となる。)
 このような構図の上に、二つの問題が浮かび上がってくる。第一の問題。西田のように「直接経験の事実は、ただ、言語に云い現わすことのできない 赤の経験のみである」と語る哲学者が、それでは「自分の哲学をどうして言葉で語れるのか」。この問い対する永井氏の回答は、『善の研究』で西田が いう「純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していたから」というもので、その内部構造(クオリアと概念が地続きとなる)は、 『動くものから見るものへ』に収められた「場所」という論文の解釈を通じて示される(第二章)。
 第二の問題。西田は、「私と汝」(『無の自覚的限定』所収)という論文のなかで、他人と私が「言語とか文字とかいう如きいわゆる表現を通じて相 理解する」「音とか形とかいう物的現象を手段として相理解する」と書いているが、そもそも「直接に結合していない私と他人がなぜ「相理解」できる のか」。(これは西田とウィトゲンシュタインに共通する問題で、デカルトとニーチェの場合は、そんなことは端から問題にならない。いや、もちろん 問題にはなるのだが、デカルトとニーチェではまったく異なった意味合いで、問題としては実感されなかった。ただし、この丸括弧内の書き込みは、私 の議論であって、永井氏の議論ではない。)
 これに対する永井氏の回答は、「西田がこの問いに答えることに成功したとは思わない(成功した人は今のところ誰もいないが)」、しかし、少なく とも、「個人(あるいは「人物」とか「人格」とか訳される英語でいう person)の成立」に関する問いに答えることで(「彼思う、ゆえに、彼あり」の成立に介在した「かなり複雑な事情」を解明することで)、「問いの意味 を深めること」、すなわち「それがなぜ哲学的な問いであるのか、そのことの意味を──ひょっとすると誰よりも──深めることに成功している思う」 というもの。このことは、「私と汝」の解釈を通じて示される(第三章)。

 以上が、本書のおおまかな骨組みである(小骨と、少なからぬ贅肉が付着しているが)。もちろん、こんなものを示したところで、概要説明にもなっ ていない。そもそも哲学書を、それも永井均が書いた本を要約することなどできない。いや、論旨をかいつまむことはできるけれど、そんなものに哲学 的な意味はない(たぶん)。まして、多くは註のかたちで随所に挿入された永井哲学の、生の感触が伝わらないのは百も承知のうえで、私の心の琴線に 触れた細部の叙述のいくつかに着目し、「独立に哲学をする」ための、いわば踏切台として仮設した。

(ここで、余録を一つ挿む。先にその名が出てきた西田幾多郎の三つの作品、『善の研究』と「場所」と「私と汝」は、ちょうどこれと同じ順番で、 『〈私〉のメタフィジックス』と「他者」(『〈私〉の存在の比類なさ』所収)と『私・今・そして神―─開闢の哲学』という、永井均の三つの作品と 響き合っているのではないか。
 また、「後期の西田は、場所の哲学を、「動く」と「見る」の区別がない、それらが一体である方向へ発展させた。後期の「行為的直観」をめぐる議 論は、『善の研究』の「知即行」以来の西田哲学の本来の姿に戻った」という指摘は、これから現れるだろう「後期の」永井哲学の方向を、たとえば 〈私〉と〈他者〉の区別がない、あるいは西田哲学との区別がつかない永井哲学の「本来の姿」を、あらかじめ予告しているのではないか。などと、ふ と思いついたのだが、もちろんこれでは何もいっていないのと同じで、いま書いたことになにほどかの意味があるかどうかを含めて、これは今後の宿 題。)

★11月25日(日):永井均さんの講演

 大阪大学文学部哲学・思想文化学の「ラジオ・メタフィジカ」に、永井均さんの講演録「意識の神秘は存在するか」が格納されている。
 最近、岩波から刊行された『なぜ意識は実在しないのか』の序文に、「これは、…本書を「台本」として読まれる方にとって、実演の見本として役立 つでしょう。もちろん、別の観点から語られた、かなり大雑把な論旨の要約としても、役立つはずです。」というコメント付きで紹介されていた。
 で、『なぜ意識は実在しないのか』にひととおり目を通してから、聞いてみた。とても面白かった。
 講演の最後、質疑応答のなかで、この〈私〉がゾンビになること、つまり〈私〉からクオリアがなくなることが、世界の中の《私》から意識がなくな ることに読み替えられる、ということが語られている。これが、『なぜ意識は実在しないのか』の「かなり大雑把な論旨の要約」、というか、そのキモ になっていると思う。
 以下に、講演録の84分10秒目あたりから86分30秒目あたりまでの要点を、書き留めておく。

《世界のなかには、どういうわけだか知らないけれど、私であるという特殊なあり方をしたやつが一人だけいて、そいつがそのあり方を捨てて普通の人 間になることが、ゾンビという概念を理解するための唯一のてがかりであると思う。
 が、そのことを言うと、不思議なことにみんながそれを理解するわけだから、そうすると、世界のなかにただ一人だけと言ったそばからそれを否定す る議論が出てくる。少なくとも、言葉で言うかぎりは。
 そしてそのことによって、客観的なゾンビというものが可能になるかのような感じになる。客観的というのは、世の中に人間がたくさんいるなかで、 意識というものがひょっとしたらないやつがいるかもしれないという話に読みかえられるということ。
 でも、本当はそういう問題じゃない。私というのは世界で一人しかいなくて、そいつがそのあり方を捨ててほかの人間と同じようになる(永井さんと いう人はいるけれど、私じゃなくなる)ということが言われているはずなのに、そのことを言葉で言ったときには誰もが理解する言葉になって、ひとつ の共通世界の中でそういうこと(意識がなくなること)が起こるというふうに理解される。
 世界に内化されて心身問題化される。あたかもクオリアや意識というものがあって、それが着脱される、つまり消えたり与えられたりするということ を考えているかのように映現するというあり方をしている。
 だから、意識の神秘というのは、それ自体としては存在しない。そのようなかたちで、つまり意識の神秘があるかのように現われる。》

 『なぜ意識は実在しないのか』については、そこで語られる「累進構造」が、新宮一成さんの『夢分析』に出てくるそれとパラレルなのではないかと 思いあたったことと、そこに出てくる「第○次内包・第一次内包・第二次内包」という概念が、ラカンの現実界・想像界・象徴界やパースの三分法とパ ラレルではないかと思いあたったこと、この二点だけを書いておく。
 このことは、いつかまた書くつもりだが、その前に、『なぜ意識は実在しないのか』を繰り返し読み返してみなければならない。

☆2008

★6月15日(日):なぜ「なぜ意識は実在しないのか」と問うのか

 永井均著『なぜ意識は実在しないのか』(双書哲学塾,岩波書店)。

 「なぜ意識は実在しないのか」って、なんだか変な問いだと思いませんか?
 これが「なぜ神は存在しないのか」だったら、無神論の立場から神の不在を論証しようとしているのかなと推測できます。あるいは、有神論の立場か ら逆説的な論法で神の存在証明を企てているのかもしれません。でも、そのどちらであっても、無神論と有神論の対立を前提にするかぎり、この問いは まっとうです。
 ところが、意識が実在するかどうかをめぐる意見の対立は、神の存在をめぐる対立ほどには明確ではないと思います。
 そんなことはないと反論されるかもしれませんね。一方に、意識なんてものはない、そんなものは脳がつくりだした幻だと考える唯物論者がいて、他 方に、いや違う、そう考えること自体が(脳が存在すると考えることも含めて)実は意識現象なのだから、君がそう考えているかぎり現に君の意識はあ る(意識だけがある)と主張する唯心論者がいる。
 でも、よく見てください。「なぜ意識は『存在』しないのか」ではなくて、「なぜ意識は『実在』しないのか」ですよ。
 意識というものがこの世のどこかに(本やスクリーンの中でもいいんです)存在するかどうかではなくて、今・ここで・現実に存在しているかどう か。「存在」ではなく「実在」が問われているとはそういう話です。いやあ、昨日までは確かにいたんですがねえ、あいにく今日は……、とか、かつて は神がいたが現代では神は死んだ、といった話とはまったく次元が違うんです。
 それに、脳がつくりだすかどうかは別として、唯物論者や唯心論者が想定している意識って、誰にでもある「一般的な意識」という概念のことです。 あるいは、観察可能な「心理」のことです。そういう意味での意識、つまり唯物論者や唯心論者や心理学者がいう意識なんて実在しない。だって、「一 般的な意識」なんて見た人は誰もいないのだから。
(永井さんがいう意識は、ほんとうは「今・ここで・現実に存在している」ともいえないものです。「今・ここで・現実に存在している意識」もまた、 言葉にしてそういうと、誰にでもあてはまる一般的な概念になってしまうしかないからです。)
 意識とは「この私の意識」のことです。「事例がその一つしかないのだから、一般的なものではなくて、その唯一の事例は、私のそれであって、私の それでしかありえない」。だから、「本当は『これ』としか言えない」と永井さんはいいます。
 では、そういう意味での意識、つまり永井さんの「これ」は実在するのかというと、それが「実在する」といえるのは永井さんだけで、でも、永井さ んがそういったとたん、「そうだ、その通り。そういう意味の意識だったら実在する。どこにって? ほら、ここにあるこの『これ』が」と、きっと誰 かが(たとえばあなたやこの私が)応答するでしょう。
 そうすると、永井さんか永井さんに応答した人の少なくともどちらかが間違っているのでないかぎり、事例がたった一つしかないはずの意識が複数あ ることになります。これはもう「一般的な意識」ですよね。だから、「実在する」と言葉にし、それが他人に理解されたとたんにそれは「実在しない」 ことになる。つまり、永井さんと永井さんに応答した人のどちらもが正しいとしたら(ある意味では、つまり意識という言葉の一般的な定義からいえ ば、それは正しいに決まっている)、その正しさゆえに、二人とも間違っている(二人ともゾンビである)ことになるんです。
 こんなことをいうと、きっと、「それでも、私は在る」と、ガリレオが生きていた頃の哲学書みたいなことをいいたくなる人がでてきます。そうする と、その人が「私の意識は実在する」と言葉にし、それが他人に理解されたとたんにそれは「実在しない」ことになる、ということが繰り返されるわけ です。
 ここに出てきた「実在する」と「実在しない」の対立は、さっきの「存在」と「実在」の対立よりもっとずっと根の深いものです。だから、同じ「な ぜ意識は実在しないのか」という問いでも、それを問う状況の違いに応じて意味が異なってきます。(「今」や「ここ」や「この」や「現実」や「私」 や「存在」の意味も含めて。)
 そういうわけで、永井さんは、初日の講義「なぜ意識は哲学の問題なのか」の最後にこう語っています。「意識とは、言語が初発に裏切るこのものの 名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。どうか、この言い回しを、気障な レトリックだと思わないでください。ここに問題のすべてがあるのです。」
 で、第2日目「なぜわれわれはゾンビなのか」(これもまた奇妙な問いかけです)、第3日目「なぜ意識は志向的なのか」と講義はつづき、最後の最 後の質疑応答で、「この講義が言おうとしていることも、やはり「言えない」ということにはなりませんか?」「それはおそらく正しい解釈だろうと思 います」というやりとりで終わります。
 以上のことは、この本に書かれていることの「要約」などではありません。この本は「台本」のようなものだと永井さんは「はじめに」に書いていま す。そうだとしたら、台本は実演されるためにあるものなのですから、できれば声にだして最初から最後まで読むことでしか、この本を理解することは できません。
 そして、この本を理解するということは、永井さんが本文で使った言い回しでは「言葉よりも手前にある」ことを言葉で理解するということなのです から、結局、何をどう理解したのかは「言えない」ことになります。

☆2011

★02月15日(金):「瞑想のすすめ」

☆地橋秀雄『実践ブッダの瞑想法──はじめてでもよく分かるヴィパッサナー瞑想入門』(春秋社)

 日経(02月10日朝刊)の文化面で永井均さんの「瞑想のすすめ」を読んで、さっそく影響を受けた。

 著者はグリーンヒル研究所の所長。同じ春秋社から『ブッダの瞑想法―─ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』(2006年05月)と『人生の流れを 変える瞑想クイック・マニュアル―─心をピュアにするヴィパッサナー瞑想入門』(2008年01月)が出ている。
 書店で『ブッダの瞑想法』を探したが見あたらず、DVDブックを購入。理論より実践から入ることになった。

 永井均さんのエッセイは、「半年ほど前から瞑想修行を始めた。座禅から入ったのだが、座禅は退屈である。」「今やっているのは、見かけは座禅と そっくりだが中身はまったく違うヴィパッサナー瞑想といわれるもの。」と始まる。
 ヴィパッサナー(「明らかに見る」という意味のパーリ語)瞑想は、仏陀がさとりをひらいたときに用いたとされるもの。ウィキペディアによると、 「仏教において瞑想(漢訳「止観」)を、 サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分ける見方がある」。
 エッセイの最後に、座禅(サマタ瞑想)との違いが書かれている。

《座禅が煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界に人を連れ戻すのに対して、ヴィパッサナー瞑想は煩悩まみれのこの世の生活から離 れたただ在るだけの世界にこの世の生活を変える。》

 これを読んで連想したのが、心(魂)と体の入れ替えをめぐる思考実験だった。
 引用文にある「この世」の「生活」が私の体で、「この世」の「人」が私の心。そして「ただ在るだけの世界」における「生活」と「人」がそれぞれ 他人の体と心にあたる。そんなふうにおきかえてみる。
 すると、座禅の場合は私の心が他人の体の中に移っていくのに対して、ヴィパッサナー瞑想では私の体が他人の体に入れ替わる。結果はおなじこと (私の心と他人の体がむすびつく)のようだが、前者は他人の世界での出来事、後者は私の世界での出来事。
 そんなことが言えるとして、それではそのどちらがほんとうの「私」なのか。

 もう一つ、永井エッセイで面白かった文章を丸ごと抜き書きしておく。(文中の「あの野郎」とは、心の中に次々と浮かんでくる想念のひとつの例。 これは言わずもがなのこと。)

《ちょっと哲学用語を使わせてもらえば、心の状態には「志向性」と呼ばれる働きがあって、これが働くと思ったことは客観的世界に届いてしまう。世 界の客観的事実として「あの野郎」が何か酷いことをしたことになってしまうわけである。すると、作られたその「事実」に基づいて二次的な感情も湧 き起こり、さらに行動に移されもする。その観点からの世界の見え方が次々と自動的に膨らんでしまうわけである。
 志向性は言語の働きなのだが、ちょっと内観してみればすぐに分かるように、言語を持つわれわれは、黙っているときでも頭の中で言葉を喋り続け、 想念を流し続けている。ヴィパッサナー瞑想の標的はまさにこれなのである。そうした想念の存在が気づかれ、客観的観点から明らかに見られると、想 念のもつ志向性は奪われ、それが連鎖的に膨らんでいくことも、それに基づいた二次的な感情が起こって行動に移されることも、止められる。志向性が 遮断されれば、心の中で現に起こっている単なる出来事として、ただそれだけのものとなるからだ。》

 心の中の「出来事」と客観的な「事実」という語彙の使い分けが面白い。
 永井さんが『西田幾多郎』で使った言葉におきかえると、言語がもつ志向性の働きによって、「出来事」=「自己意識なき意識」が「事実」=「意識 なき自己意識」になる。つまり、クオリアが言葉(の意味)になる。

★8月29日(月):語りえぬこととしての存在──永井均の講演(1)

 大阪中之島の朝日カルチャーセンターで、永井均さんの講座を聴いた。
 8月27日の土曜日、午後3時半から5時過ぎまで。ちょうど大阪が激しい雨(気象庁の発表では、午後4時過ぎまでの1時間で史上最多の77.5 ミリ)に襲われていたときのこと。
 雨音、落雷の音、救急車の音がひっきりなしに聴こえるなか、百人足らず(だったと思う)の聴衆を前に、永井哲学が「上演」された。
 演題は「語りえぬこととしての存在」。以下は、パンフレットに記載されていた「講座内容」から。

《ウィトゲンシュタインは「語りえぬことについては沈黙しなければならない」と言った。しかし、その「語りえぬこと」とは何であろうか?私は、そ れは「存在」である、と考えてみたいと思う。この考えは、ウィトゲンシュタイン解釈としても成り立ちうるが、逆にウィトゲンシュタイン批判として も成り立ちうる。存在することは言葉で語ることができない、このことを、私の存在、今の存在、世界の存在について(時間があれば神の存在について も)考えてみたい。》

★8月31日(水):哲学を伝えること──永井均の講演(2)

 前回、永井均さんの講演を「永井哲学の上演」と書いたことについて。

 『なぜ意識は実在しないのか』の「はじめに」に書いてあったこと。
 2006年の夏、大阪大学文学部でおこなわれた講演の音声ファイルの入手先を紹介したあとで、「これは、役者がひどく下手くそである点を除け ば、本書を「台本」として読まれる方にとって、実演の見本として役立つでしょう。」
 また、『西田幾多郎』の「はじめに」には、次のように書いてある。
 「解説書や入門書に意味があるのは、それがそこで独立に哲学をしている場合だけだと思う。それ以外の仕方で、哲学を伝えることはできないからで ある。」

 記録的豪雨のなか、大阪の中之島で永井均さんは、(何やら書いてあるらしい紙片をときおりのぞきながら)、永井哲学への「入門」もしくは「解 説」を実演していた。
 それはもう何度も繰り返された哲学議論だったろうし、(ホワイトボードに書かれた図を含めて)、永井均のそれなりに熱心な読者である私には馴染 みの深いものだった。
 そうであるにもかかわらず、それは、同じことが洗練されて、あるいは手抜きされて再演されたのではない。初めてそこに出現し、私が初めて耳にす る哲学思考だった。
 そういおうとおもえばいえる事態が、そのときそこに成り立っていた。
 実はそこからまったく新しい世界がひらけたのだが、しかしそのことを(そのような新しい現実の「存在」を)言葉で語ることはできない。
 いや、語ることはできるのだが、語ったとたん、それはこの、すでに成り立っていた私たちの現実世界のうちに回収されてしまって、初発に語ろうと したことは語りえない。
 そんなメカニズムが働いて、永井哲学の核心は、その場にいた聴衆に、いや、他人のことはよくわからないのでいわないことにして、少なくともこの 私には、確かに伝わった。
 と同時に、それは、洗練されたかたちであれ、手抜きされたかたちであれ、哲学者本人によって再演された、「永井哲学」というレディメードの哲学 思考のうちに回収されていった。

 何度でも初めて上演すること=再演されること。
 それが、独立に哲学すること(西田哲学から独立して永井さんが哲学することだけでなく、永井哲学から独立して永井さんが哲学することを含めて) の意味であり、哲学を伝えること(永井哲学を永井さんが永井さんに伝えることを含めて)の意味なのかもしれない。
 「上演すること=再演されること」の前段を強調すると、あのとき、記録的豪雨のなかで、独立に哲学をしていたのは、永井均という人ではなくて、 実はこの私自身だったのかもしれない。
 それが、哲学が伝わるということの意味だったのかもしれない。