「日本語で哲学するということ」(2007.1)
★1月23日(火):日本語で哲学するということ
二冊もっている『仮面の解釈学』に収められた論考のほとんどを収録した『坂部恵集』第3巻を購入した。とりあえず著者によるあとがきと月報と論
考一篇に目を通し、軽い眩暈に襲われた。
あとがきに二人の人物の名が出てくる。林達夫と武満徹。林達夫について、坂部恵は「敬愛するこの「精神史」の先達」とか「今でも氏の「弟子」で
ありたいと念じつづけている」と書いている(林達夫熱再来の予感)。以下は、武満徹について書かれた文章。
《「〈おもて〉の解釈学試論」を書いている時から、わたくしには武満徹が音楽でしたことをことばの世界でしてみたいという思いがつねにあった。繊
細な精神と感覚で和学と洋楽を競い合わせ、並び立たせる武満の孤絶の営為には、日本語と西欧の哲学の最新の方法をつなぎ合わせるにあたって範とす
べき無限のヒントがかくされているようにおもわれたからである。》
著作集第2巻「精神史の余白に」のあとがきには、「わたくしのカント読解の歩みは、あえて僭越を承知でいえば、あたかもグレン・グールドの弾く
バッハのごとくに、従来の定型的なスタイルを思い切ってはずす破格な解釈の提示を目指して進められてきた」と書いてある。
武満徹が音楽でしたことをことばの世界でする。グレン・グールドの弾くバッハのごとき破格な解釈を提示する。どちらも魅力的な言い回しだが、こ
こでは「ことばの世界」での営為、つまり哲学に関して、第3巻の月報に木村敏が寄せた「日本語で哲学するということ」を取り上げる。
この小文は実に見事なもので、坂部哲学の質感を生々しく伝え、あまつさえ発酵しつづける木村哲学のエッセンスの残り香を漂わせている。あまりに
見事なので、抜き書きではなく全文を引用する。
《哲学する、あるいは哲学的にものを考えるとき、ことばがそこで果たす役割について、すこしばかり考えてみたい。坂部恵さんという、西洋の哲学を
学んで西洋の哲学についての広い学殖をもつ哲学者が、意識的に日本語で哲学しようとする、その姿勢にわたしはかねてから大きな敬意を抱いていて、
その坂部さんの著作集に添える月報の話題としては、ことばの問題が一番ふさわしいように思えたからである。
「哲学する」という言いまわしが、哲学という名の学問に従事するという以上の、むしろそれがなければ哲学が哲学にならないような基本的な姿勢を
指していること、これはすでに言い古されたことだから、あらためて書くまでもないだろう。ただ念のために一言いっておくと、哲学するというのは、
狭い意味での哲学を哲学として成り立たせているだけでなく、もっと広い意味で、あらゆる知的な営為について言いうるような、思索的な態度のことで
ある。たとえば医学においても物理学においても、建築についても音楽についても、ひとはすぐれた意味で哲学的にものを考えることができる。
ものを考える場合に、ことばがどんな役割を果たすのか、考えた内容をことばで表現するだけでなく、なにかを考えるためにはすでにことばが必要な
のか、ことばで言い表せないような考えというものがありうるのか、そういった問題はすべて独自の哲学的な問題になっていて、古来、多くの議論が交
わされてきたことがらだから、門外漢のわたしが口を差し挟む余地はほとんど残されていない。精神科医としてのわたしが、これまでの議論ではおそら
くほとんど取り上げられてこなかったであろう側面から、ことばと思考の関係について発言することも、無意味ではないだろう。
統合失調症と呼ばれる精神科の病気がある。すこし前までは精神分裂症と呼ばれていた。この病気になると、健常者がふつうの日常生活では経験しな
いような、だから正常な論理では理解しにくい病的な心理現象がいろいろと現れる。そういった症状のひとつに、以前から「思考伝播」と名づけられて
きたものがある。これはドイツ語の Gedankenausbreitung を訳したもので、英語だと thought
broadcasting、フランス語では vol de la pencee'
などと呼ばれたりする。この症状を持つ人は、自分の思ったことが、口に出してしゃべらなくても他人に伝わってしまう、だからいつも周りの人たちに自分の心
を見透かされている、テレビを見ていても、アナウンサーが自分の考えを知っていて、それを皮肉るようなことをいう、などという体験をわれわれに
語ってくれる。
しかしそういう患者の話をじっくり聴いてみると、そこで自分の内部から抜け出して相手に伝わると彼が感じているものは、実はまだ言語的に分節さ
れた「考え」になっていないらしいことがわかる。それはまだことばにならない、ことば以前の意向というか、こころの動きのようなものであるらし
い。つまりこの症状は、自分のすでに考えたことが相手に伝わるというのではなく、自分の言いたいこと、自分の考えようとしていることが、先回りし
て相手にそのまま漏れてしまっている、自分の「思い」を他人が先手を打って「考えて」いる、とでもいうより仕方のないような、説明の非常に困難な
構造をもっている。
自分の思いを他人が横取りしているというこの奇妙な構造は、統合失調症の代表的な症状である幻聴の場合にも認められる。他人が自分の行動をいち
いち指図したり、自分の意図を論評したりする声を幻聴として聞いている患者は、その声の主の言っていることがまさに彼の図星をついているという。
もちろんこの指図や論評は患者自身の意図が言語化されたものなのだから、図星をついているのは当然なのだが、問題は彼がこの言語化の発生する場所
を、自分ではなく他人だと体験している点にある。
もうひとつ例を挙げると、本を読んでいるとき、いつもだれかが数語先を音読している声が聞こえるという人もいる。われわれは印刷された文章を読
む場合、それを文字言語として一語一語拾って意識する前に、それにいわば一瞬先だって、まずその意味だけを捉えてしまうのが普通なのではないか。
すらすら読める文章を校正して誤植を発見するのが難しいのも、そのためだろう。意味とことばとのこのズレ、この時間差が、自分自身の内部で起こる
のでなく、自分と他人とのあいだに起こったこととして意識されるのが、この症状である。
精神病という極限状態では、ことばとその意味がこのように完全に乖離することがある。自分のものか他人のものかという、その所属が別々になりう
るだけでなく、時間的にもそこに微妙な差異が発生しうる。意味がことばに先行するというのが原則なのだが、これも患者の話をよく聞いてみると、こ
とば以前に発動しているこころの動きをそのまま意味と名づけるのは、早計に過ぎるのではないかとも思われる。幻聴で図星を指されたという患者のな
かには、自分の真意を相手の声によってはじめて教えられたと感じる人もいるからである。ことば以前のこころの動きは、意味以前であるのかもしれな
い。
シニフィアン・シニフィエという言い方をすると、現在分詞の signifiant のほうが過去分詞の signifie'
に先行している格好になっているし、事実、われわれがひとの話を聞いたり書かれたものを読んだりするときには、シニフィアンがまず与えられて、シニフィエ
はそれについてくるものなのだが、自分の考えを話したり書いたりする場合だと、シニフィアンがそこから出てくる源泉のようなものが、シニフィエと
は別の次元に存在していると考えざるをえない。統合失調症の患者では、この源泉の自己所属性が不明確になって、それが──幻聴ではそれに伴ってシ
ニフィアン自体も──自分以外の場所で発生するかのように体験されるのである。
フランス語でことばの「意味」ということをいうときに、sens とか signification
とかのほかに、「言いたい」「言おうとする」という動詞をそのまま使った vouloir-dire
という言い方があるのは、たいへん示唆に富む。ヴロワール・ディールというこの動詞は、まさにことばがそこから出てくる源泉として、シニフィアン・シニ
フィエ複合以前のこころの動きを的確に表現していると思うからである。「思考伝播」で他人に洩れるもの、幻聴で他人に先取りされているもの、それ
はこのヴロワール・ディール以外のなにものでもないのではないか。
哲学の勉強は、哲学の書物を読むことから始まる。日本で哲学といえばだいたいは西洋の哲学をさしているから、それを学ぶためには、ギリシア以来
の西洋人が日本語ではない外国語で書いてきた書物を読まなくてはならない。そこでわれわれは当然、辞書を引く。しかし辞書に書いてあるのは語義、
signification
だけである。その著者がそこでなにを言いたかったのか、なにを言おうとしているのか、そのヴロワール・ディールは、全体の文脈から推測する以外にない。し
かもこのヴロワール・ディールこそ、哲学者が哲学的にものを考える、その考えの切っ先になっているはずのものなのである。
だからたとえばハイデガー以後の哲学者が Sein とか l'etre
とか書いているのを読んだとき、これを一概に「存在」の語で置き換えて、この語の哲学事典的な語義だけでそれを理解することができるのか、それこそ大問題
だろう。その背後には、日本語だと「ある」と「いる」、「がある」と「である」、その他のさまざまなことばがそこから生み出されるような、あるい
は「存在するとは違った仕方で」「存在する」といわざるをえないような、そんなヴロワール・ディールが隠されているかもしれないのだから。
しかし、ハイデガーが Sein
ということばをあれほど執拗に、綿密に考えぬいたからこそ、われわれはそれに置き換わりうる日本語について、それがどのような意味で、どのようなヴロワー
ル・ディールのときに使われるのかを教えられたともいえるだろう。ちょうど、幻聴の声を聞いてはじめて自分の真意を教えられたという患者の場合の
ように。ヴロワール・ディールは、ことばがそこから語り出される源泉である。しかしそれは、ことばが語り出されてはじめて意味として限定されるよ
うな、本来無限定で意味以前のものでもあるだろう。そしてこのヴロワール・ディールは、それが意味にまで限定されることによって、はじめてシニ
フィアンとしてシニフィエに貼りついて、著者の真意を読者に伝える通路となりうる。
われわれがどのようなこころの状態におかれたときに、どのようなヴロワール・ディールが発動されて、そこからどのようなことばが語り出されるの
か、それを日本語の、ごく日常的に用いられていることばのかずかずから読み解こうとする作業、坂部さんのこのお仕事は、哲学するということのもっ
とも基底的な作業にほかならないだろう。》
★1月25日(木):他者の思考を幻聴の声として聞くこと
一昨日、全文引用した木村敏の「日本語で哲学するということ」(『坂部恵集』第3巻月報に掲載)は、何度読み返してみても飽きることがない。実
に使い勝手がよくて、いくらでも応用がききそう(もしくは、この論考を安全基地として連想と妄想を恣にすることができそう)である。
ただ、そこに書かれていること自体は、要約してしまうと実に簡単なものだ。以下、適当に言葉を継ぎ足し「補足」しながら、後々の汎用性を考えた
勝手な「縮約」(あるいは創造的誤読もしくは誤訳ならぬ想像的「誤約」とでも?)を施しておく。
【1】
言葉と思考の関係は「ヴロワール・ディール(言葉による表現以前の無限定な思考)─シニフィアン(文字・音声記号としての言葉)─シニフィエ
(言葉によって表現=限定された思考)」であらわされる。
通常シニフィアンとシニフィエは結合してシーニュ(記号)となるので、この「V-Sa-Se」の三項関係は正確には「V-Sa・Se」もしくは
「V-S」の二項関係に、より厳密には(V以前とS以後を組み入れて)「ある心の状態─ヴロワール・ディール(Saがそこから生まれる源泉として
の心の動き)の発動─言葉の語り出し(Sa・Se結合の提示)─言葉を通路とする思考(言葉が語り出されて初めて意味として限定される真意=V)
の伝達」の四項関係(拡大V-S関係)に変換される。
【余録1】
言葉による分節以前の思考(V)を「生命論的、生命哲学的な文脈」に置き換えると「父母未生以前」(もしくは「前世」?)になるのかもしれな
い。そうだとすると、文字・音声記号としての言葉(Sa)は「子の身体」に、言葉によって表現=限定された思考(Se)は「子の心(魂)」にそれ
ぞれ置き換えることができるかもしれない。
もしそうだとすると、上記の四項関係は「生命物質─父母未生以前─身心結合─心(魂)の伝達」となる? あるいは「絶対無─私と汝─私─死後の
生」もしくは「物質─生命(霊性)─精神(言葉)─意識(魂)」となる?
【2】
ところで、「V-Sa-Se」の三項関係のうちには時間のズレがある。言葉を書き話す場合、通常は「V→Sa→Se」、つまり思考(V)が言葉
(Sa・Se)に先行すると考えられている。しかし実際の体験としては、人は言葉を書き話すこと(Saに貼りついたSeを提示=意識すること)で
はじめて自分の思考(V)を知る(「Sa→Se→V」)。
統合失調症の症状においては、この時間のズレに応じて言葉と思考をめぐる三項関係に歪みが生じ(「V-Sa-Se」⇒「Sa-V’」;ここで
「V’」は「Vと取り違えられたSe」のこと)、かつ、そのズレが自分自身の内部にではなく他者(自分以外の場所)との間に起こったこととして意
識される。たとえば、思考伝播では他人に洩れるもの(V’)が他者に所属し、さらに幻聴においては、他人に先取りされるもの(V’)だけでなくそ
れに伴う言葉(Sa)までもが他者に所属するものとして体験される。
【補遺1】
言葉を読み聞く場合にもこれと同様の事態が生じている。(ただしこの場合、言葉と思考の関係は、思考Vが他者に所属するものであることから、
「V-Sa-Se」が「Sa-Se-V」に変換される。Saは元来他者に発するものであるが、読み聞かれたとたん読み手・聞き手に所属する。Se
については微妙である。書き手・話し手、読み手・聞き手に両属する公共的なものと考えてもよい。この点は、言葉を書き話す場合と同断である。)
言葉を読み聞く場合、通常は言葉(Sa)がその言葉によって表現された他者の思考(Se)の理解に先行すると考えられている。あるいは、表現さ
れた言葉(Sa・Se)の全体の文脈から他者が本当に伝えたかった思考(V)を推測するものと考えられている。しかし実際の体験としては、人は言
葉(Sa)を読み聞くのに一瞬先んじて他者の思考(Se)を知る。あるいは、言葉(Sa・Se)による表現全体を見てとるのに一瞬先んじて他者の
思考(V)をすでに知っている(推測によらず他者の思考が伝わっている)。
統合失調症の症状においては、この時間のズレに応じて言葉と思考をめぐる三項関係に歪みが生じ(「Sa-Se-V」⇒「Se-Sa」あるいは
「V’-Sa」)、かつ、そのズレが自分自身の内部にではなく他者(自分以外の場所)との間に起こったこととして意識される。たとえば、「本を読
んでいるとき、いつもだれかが数語先を音読している声が聞こえる」という症状の場合には、Saが他者(その言葉を書き話す他者であるとはかぎらな
い)に所属するものとして体験される。それだけでなくSeもしくはV’(正確には、読み手・聞き手によって理解されたSeもしくは推測された
V’)までもが他者に所属するものとして体験される症状があるかもしれない。
【補遺2】
言葉を書き話すことと読み聞くこととの関係があやしくなってくる。言葉を書き話すとき、人はその言葉を読み聞いている(言葉を読み話すことで、
人ははじめて自らの思考をあたかも他者の思考であるかのごとく知る)。言葉を読み聞くとき、人はその言葉を書き話している(言葉を読み聞くより前
に、人は他者の思考をあたかも自らの思考であるかのごとく知っている)。言葉を書き話すことと読み聞くことは相互に入れ子になっている。自己と他
者の区分が、思考の所属先が定まらなくなっていく。
個体発生と系統発生の関係になぞらえるならば、言葉を読み聞くこと(他者の思考を知ること)が書き話すこと(自ら思考すること)に先行してい
る。人は他者の言葉を読み聞くこと、とりわけ聞くこと──「神々の声」(ジュリアン・ジェインズ)であれ「他者の語らい」(ラカン)であれ(ただ
し、それはまだ「言葉」ではない)──を通じて言葉の世界に参入するのであって、生まれながらにして言葉を書き話す(自ら思考する)主体ではない
からである。釈迦のように、誕生と同時に「天上天下唯我独尊」などと発語する人はいない。
ただ、人は読み聞く主体(とりわけ聞く主体)として生まれるという言い方をすると、それは間違っている。読み聞くことは書き話すこととの(相互
入れ子式の)関係のうちにしか成り立たないからである。自己の思考と他者の思考との(相互入れ子式の)関係と「思考主体」の成立とはパラレルだか
らである。
言葉を書き話すことと読み聞くことが相互入れ子式の関係を取り結ぶということは、言葉が言葉として誕生すること(人が日常生活において意味のあ
る言葉を使用できるようになること)と同断である。自己の思考と他者の思考とが相互入れ子式の関係を取り結ぶということは、思考主体が誕生するこ
と(人が日常生活において意味のある思考ができるようになること)と同断である。
【余録2】
ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』で、意識は三千年前、幻聴(右脳がささやく神々の声を左脳が聴く)に基づく「二院制の心」
(bicamerai mind)の精神構造の衰弱とともに誕生したという仮説を提示している。
もしこの仮説が何らかの考古学的・人類学的な(もしくは生命論的・生命哲学的な文脈における)真相に触れているものであるとしても、そしてそこ
で言われる「意識」が先に述べた「思考主体」と同義であるとして、それは言葉を読み聞くことと書き話すこととの相互入れ子式の関係が成立した後で
しかそのようには言えない。思考の所属先(これは自らの思考なのか他者の思考なのか、思考しているのか思考させられているのか)をめぐる相互入れ
子式の関係、ひいては自己と他者をめぐる相互入れ子式の関係が成立した後でしかそのようには言えない。
ジュリアン・ジェインズの仮説は、ある思考主体(ジュリアン・ジェインズ)が、現に言葉として機能している言葉を使用して、思考主体そのもの、
言葉そのものの誕生の経緯(思考主体と言葉の誕生以前の出来事)に言及している。実は、そうした自己言及的で自己包摂的な表現が可能になること自
体が、言葉と思考主体の同時多発的な誕生がもたらしたものである。
【余録3】
統合失調症の症状に現れる、日常生活における「正常な論理では理解しにくい病的な心理現象」は、言葉と思考主体が誕生する以前の「心の状態」
(意識と無意識の対表現を超える「原-無意識」や「絶対無意識」、あるいは端的に「絶対無」とでも?)が、現にある言葉と思考主体による思考のう
ちに位置づけられたものである。
生命論的・生命哲学的な文脈において(もしくは考古学的・人類学的な事実として)、この「絶対無意識」の心的状態は現に経験される心的状態
(「意識・無意識」の二院制の心的状態とでも?)に先行する。また、それは「私と汝」の関係に出てくるそれとは異なる意味での「他者」(「原-他
者」とか「絶対他者」とでも?)に所属する心的状態である。
ここで、さらに「原-思考」とか「絶対思考」とか「絶対無の思考」(「絶対無」の場所における思考、「絶対無」自身の思考)といった概念を提示
することができるかもしれない。言葉や思考主体の誕生以前の思考。たとえば乳幼児の思考。受精卵の思考。物質の思考(=生命の誕生)。宇宙の思考
(=現象界の誕生)。「全ては虚空に浮かぶものから始まった」(ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』)。
【3】
哲学することは、哲学の書物を読むことから始まる。それは他者の哲学的思考の結果(思考内容)を知ることではない。哲学書を読むとは他者の思考
を幻聴の声として聞くこと、すなわち自らの哲学的思考として聞くことである。他者の「哲学すること」を今ここに、自らにおいて立ち上げることであ
る。それこそが哲学するということの実質をなす作業、すなわち「古いテクストを新しく読むということ」(井筒俊彦『意識の形而上学』)にほかなら
ない。
【補遺3】
哲学書は言葉で書かれている。言葉の底には「意味カルマ」(井筒俊彦)が潜在している。自らの体験に根ざしながら言葉の底に深く潜行し、「意味
カルマ」の「現象化志向性」に促されること、すなわち言葉と思考主体の誕生のプロセスを自らのうちに反復すること、それが哲学するということの
もっとも基底的な作業にほかならない。
※
以上の、脱線と逸脱に満ちた「縮約」(あるいは超訳ならぬ「超約」とでも?)のうちには、永井均著『西田幾多郎』の議論が見え隠れしている。こ
のことについては、近いうちに着手予定の論考において取り上げる。それは、言葉と思考の関係をめぐる三項関係のもう一つのヴァージョンである「ク
オリア─言葉─ペルソナ」──あるいはこれに茂木健一郎の「志向性」の概念、中沢新一の宗教の映画理論における「フィルム」に刻まれたデータ(表
現へと向かうヒトの心の深部の構造、記号を生み出そうとする意志のプログラム)、井筒俊彦がいう「現象化志向性」、等々を取り入れた四項関係「ク
オリア─志向性─言葉─ペルソナ」──をめぐるものになるだろう。
また、井筒俊彦著『意識の形而上学』の議論が、これは見え隠れどころではなく、その一部が説明不足のまま露出している。1月15日[⇒歌論系3
「井筒俊彦のこと、和歌のこと、その他」]から始まった当面の「作業」(基底的作業?)の一応の中間総括と、そこから始まる次の「作業」(実質的
作業?)へのつなぎを急ぎたかったからで、以下、この後者に関連する部分をもう少し抜粋しておく。
《我々の実存意識の深層をトポスとして、そこに貯蔵された無量無数の言語的分節単位それぞれの底に潜在する意味カルマ(=長い歳月にわたる歴史的
変遷を通じて次第に形成されてきた意味の集積)の現象化志向性(=すなわち自己実現、自己顕現的志向性)に促されて、なんの割れ目も裂け目もない
全一的な「無物」空間の拡がりの表面に、縦横無尽、多重多層の分割線が走り、無限数の有意味的存在単位が、それぞれ自分独自の言語的符丁(=名
前)を負って現出すること、それが「分節」である。我々が経験世界(=いわゆる現実)で出遭う事物事象、そしてそれを眺める我々自身も、全てはこ
のようにして生起した有意味的存在単位にすぎない。存在現出のこの根源的事態を、私は「意味分節・即・存在分節」という命題の形に要約する。》
(『意識の形而上学』29-30頁)