『エロコト』をめぐって(2023.07)
昨年来の“書庫”整理の最初に手かけたのが大量の雑誌の処分。捨てきれず手元に残した(これもそこそこ大量の)雑誌の
中に坂本龍一企画編集の『エロコト』がある。その創刊号の記事に触発されて当時書いた文章を“発掘”したので、少し手を入れ掲載する(坂本龍一追
悼の意味も込めて?)。
※
【1】『エロコト』という雑誌(『ソトコト』2006年11月増刊号)が創刊された。「ロハスピープルのための快適性生活マガジン」。編集長は坂
本龍一。その坂本龍一による巻頭の「宣言」が力のこもったものだったので、抜き書きしておく。
「エロい女は、その存在そのものがエコである。
この惑星に生命が誕生して38億年。それは現在まで一度も途切れることなく続いてきた。その奇跡のような生命の本質とは何か? それは「食」と
「性」である。言い換えれば「個体維持」と「種の保存」だ。このふたつによって生命は維持されてきたのだ。
昨今、日本社会にもすっかりエコ=環境意識なるものが定着してきた感がある。けっこうなことである。本屋にはエコ雑誌が溢れ、そこには「食」の
情報が豊富である。しかしちょっと待てよ。生命のもう一つの本質である「性」がちっとも扱われていないではないか。これは文字どおり不公平だ。そ
こでわれわれは、エロをエコの観点から考察すべく、一つの雑誌を作りたいと思った。
とりあえず強引に、「エロい女はエコである」という直感に導かれて、われわれはここに雑誌『エロコト』を世に問う。」
エロい女は、その存在そのものがエコである? ここでいう「エロい女」は性としての女性(セクシーな)のことでもジェンダーとしての女性のことで
もなくて、「その存在そのものがエコである」といわれる「その存在」のことだろう。
一読して、惜しい、あと一歩だと思った。現代思想系の妙な切り口がないのは好ましいが、読む前からだいだい想像がつく記事とグラビアが満載され
ていて、なにかあと一ひねり足りないという印象がぬぐえない。
「あと一歩、あと一ひねり」ってなんだ、と問われても困る。こちらは身銭を切って購読している気楽な立場なのだから、考えるのはそちらの仕事で
しょ、としか言えない。日本舞踊ってこんなにエロいよ、みたいな記事が読みたい。そんな読書アンケートへの回答のようなことは言えるが、そういう
問題ではない。それにしても、惜しい。「性」や「エロ」について語る「新しいことば」がまだ見つかっていないのだと思う。『エロコト』創刊のねら
いは、たぶんそういうところにある。
【2】どの記事もけっこう面白いが、なかでも編集長と中沢新一の対談が面白い。そこで中沢が「セックスにエロスを取り戻す。現実を取り戻す」とい
う『エロコト』創刊の意図に対してエールをおくっている。対談の最後に、やや現代思想系のやりとりが出てくる。たぶんこのあたりから「新しいこと
ば」が生まれてくるに違いないと思う。
中沢 死の領域とのコミュニケーションを断つでしょう。そうすると人間同士のコミュニケーションができなくなるんですよ。人間同士って一対一でコ
ミュニケーションしているように見えますけれど、実はそこには必ず第三者が存在するんです。それは実は死者なんですよ。生きている人間同士がコ
ミュニケーションするには死者が必要なんですけど、これを見えないようにしちゃう。そうすると実はコミュニケーションが不能になってしまうんで
す。
坂本 コミュニケーションって感情の贈与みたいなものでしょう。
中沢 そうですね。セックスというのは言葉でコミュニケーションしているところから一歩踏み込むわけでしょう。そうすると第三者の存在ってもの
が、すごく大きくなってくる。死の領域がね。ところがその領域とのコミュニケーションの訓練ができていないから、人と人とのコミュニケーションが
できなくなっている。だから死に慣れ親しむというのがエロス文化を蘇らせる原点じゃないかと思います。
「やわらかくてかわいくて気持いい宝物。」という記事も気に入った(というより、気になった)。「あと一歩、あと一ひねり」はこのあたり(工学
的性愛論とでも?)から生まれてくるだろうという気がする。これは、オリエント工業という「特殊ボディ専門メーカー」を取材したもの(取材・文
松井亜芸子)。
「今はまだラブドールの体にばかり執着しているあなたも、そのうちきっと心の中に違った感情が芽生えたことに気づくでしょう。それはいわゆる人形
愛というものかもしれませんが、実際は妻や恋人を愛する気持ちと変わらないはずです。あなたが望むなら、ラブドールは喜んで毎晩あなたの帰りを待
ちます。かわいい洋服を買ってくれて、たまにはどこかへ連れ出してくれて、つらかったこともうれしかったこともすべて話してくれて、毎朝毎晩愛で
てくれるなら、ラブドールは10年でも20年でも、あなたと添い遂げる覚悟です。」
「嫁ぎ先の旦那さまがあまりハードに可愛がってくださって、例えばシリコンの肌が破れてしまったりパーツが破損してしまったりすると、私たちは一
時里帰りをして修理をしてもらいます。実はこの会社のラブドールの顔はすべてたったひとりの職人さんがつくっているのです。その職人によれば、旦
那さまに可愛がられたラブドールほど、表情が柔和になっていくというのです。ラブドールが旦那さまのうつ病や不眠症を治したという話も聞きまし
た。ラブドールがただの性処理の道具ではないことが、お分りいただけますね。」
【3】渡仲幸利著『新しいデカルト』の「情念論」をとりあげた個所に次の文章が出てくる。
「デカルトは、こうして、精神を自分に確保しておいて、情念を、その本来の持ち場へ送りかえした。情念は、物の秩序へと投げこまれたのである。こ
れはどういうことかというと、ロボットにも情念をもたせうるということである」
この「ロボットにも情念をもたせうる」というアイデアが、ソフトビニールやウレタンではなくシリコン素材を使った人工皮膚(「ラブドール」と名
づけられたロボット、顧客のイメージ世界の中で動くロボット、あるいは目をあけたまま眠るロボット)への感情移入の問題と結びつき、そこから「性
愛工学」なる思いつきへと逸脱していった(そこで取りざたされるのは感情・情念ではなく、皮膚にまつわる感覚にほかならないのだが)。
ちょうど読み終えた篠原資明著『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』に、人間が機械へと向かう本質的傾向を誰よりもベルクソンが跡づけ
えたように思われる、そしてベルクソンに心酔していた稲垣足穂もそのところを察知していたようだ云々、と書いてあった(109頁)。篠原氏はつづ
けて、足穂の芸術宣言でもある「われらの神仙道」の一文を引用している。
「地上界に現下さしせまった生命の窮路をひらくことについてわれらが論じたさきほどの一点、即ち機械の原理によってうごく機械(云いかえて空間の
原理によってこしらえて行く空間)と、機械をこしらえた生命によってうごかされる機械(云いかえて空間性をも抽象された時間そのものによってうご
かされる空間)と、この二つをかみわけ、われらがその後者を云おうとしているのだけはお間ちがえないようにおたのみする。」
この後につづく篠原氏の文章(110頁)。
「要するに、「機械の下におしつぶされようとする生命をすすんで機械のなかにぶちこんではどうだろうか」というのだ。そこにうかがえるのは、ベル
クソン的な生命論でもって、旧来の機械論とは違う新たな機械主義を展開しようとする姿勢である。機械めいた天体が出没する足穂的物語の数々は、そ
のような姿勢と結びついて生みだされたといってよい。さらに、そのような姿勢そのものは、文字どおり、時代の動きともなった。典型的な例が映画だ
ろう。」
このあとにつづく「ドゥルーズの映画論」や「未来派の写真」をめぐる文章はとても面白いものだったが、本題とは直接の関係がないのでこのあたり
でやめる。質感、たとえばラブドールがもたらす皮膚の質感のようなものを伴う映画といった未来の「機械」を想定するなら本題への接続ははたせるだ
ろうが、ここでは足穂がいう「生命をすすんで機械のなかにぶちこむ」こと、篠原氏の口吻を真似るなら機械と生命の〈あいだ〉に立ち上がるものがラ
ブドールであり、性愛工学であるとだけ書き残しておく。
【4】ラブドールが面白いのは、それがシリコン素材でできていることだ。
同じく『ベルクソン』(篠原資明)に、ドゥルーズ(『フーコー』)が炭素に取ってかわるシリコンの力に注目していたのに対して、ベルクソンは
「炭素的」であるように思われるかもしれない云々、という文章が出てくる(173頁)。そこで話題になっているのは、もちろんラブドール(シリコ
ンでできた人工皮膚、それもまた「機械」である)のことではなく、電子メディアという「機械系」のことだ。(デカルトとベルクソンの「接点」がこ
こにある。)
森岡正博氏の『意識通信』の向こうをはって、電子メディア時代における感情通信、さらにはクオリア通信とか性感通信の思考実験をやってみると面
白いと思う。いま手元にある松浦寿輝氏の『官能の哲学』や『口唇論』、植島啓司氏の『性愛奥義』などを読み込んでから取り組んでみよう。(後日
談、このプロジェクトは未着手のまま放置された。)
以下、符牒めいた覚書を書き残しておく。
ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』で「機械系」と「神秘系」を区分した。(機械系=情報系=シリコン的と神秘系=生命系=炭素的──前者がデ
カルトの物質に、後者が精神に該当する。ベルクソン的二元論とデカルト的二元論が出会う。)
篠原氏の紹介によると、ベルクソンは機械系と神秘系のあいだに歴史を駆りたてる法則のようなものを見てとった。一方が力をもってほとんど狂乱状
態まで突きすすむと、潜伏していた他方が機会をみてこれに取ってかわる。というか、一方が他方を呼びもとめる。他方は新たに取ってかわるとき、そ
れまでに得られたものからそれなりの益を得る。
具体的には、まず神秘系が西洋中世にひとつの狂乱を招きよせた。禁欲生活のことだ。アッシジのフランチェスコの清貧と無所有の実践、修道院の生
活を思えばいい。しかし禁欲も極端にまで進むと個人も社会も壊滅させかねない。そこで16世紀あたり(デカルトの時代!)から正反対の方向、つま
り物質面の向上を求める機械系へ転換する。やがて機械系もとどまることを知らない渇望という狂乱状態へ突きすすむ。機械系が神秘系(「神の愛に値
するべく、人々への分けへだてのない愛を実践し、広めようとする道」164頁)を招きもとめている…。
大雑把な要約だが、ここを読んでとても興奮した。『エロコト』のラブドールの記事を読んで直感したことがようやく言葉になった。丁寧に文章化す
るのはあきらめて、スパークした言葉を拾っておく。次回(最終回)へ。
【5】「究極のエロ」のかたちとは禁欲だ。ラブドールは機械系の「死体」だ。そしてラブドールを愛するということは神秘系の「死者」を創造するこ
とだ。死者との性愛。もしくは工学的な臨死体験。いや、機械系と神秘系の〈あいだ〉にこそ性愛工学の精華たる芸術品、まだ見ぬラブドールは立ち上
がる。
新しい機械(デカルト・マシン?)が必要だ。修道院という機械が。「主体性が《機械に入ること》──かつて《宗教に入ること(修道者になるこ
と)》と言ったように」(フェリックス・ガタリ『分裂分析的地図作成法』11頁)。神のラブドール(電子メディアによって造形される?)に祈るこ
と。神の花嫁として「神の声」(電子メディアによってもたらされる?)に失神すること。究極の禁欲生活、すなわち人類と神々との〈あいだ〉で失神
すること。
『エロコト』の編集長は書いた。「その奇跡のような生命の本質とは何か? それは「食」と「性」である。言い換えれば「個体維持」と「種の保
存」だ。このふたつによって生命は維持されてきたのだ。」しかし、坂本龍一は生命の第三の本質を書き忘れている。それは「種の創造」だ。食と性、
そして「愛」。ベルクソンは「神を創造エネルギーそのものとして定義し、このエネルギーが愛にほかならない」と考えた(『ベルクソン』137
頁)。エラン・ダムールによる新たな種(神秘家すなわちベルクソン・マシン?)の創造。
「神秘家とは、生物としては人類でありながら、人類種を超えた存在、個人でひとつの新たな種を体現する存在であるだろう」(136頁)。「神秘家
とは、人が人でありながら人とは異質になりゆくありようをさすのではないだろうか。」(155頁)「神秘家という個性とまじわることで、神もま
た、それまでにない新たな神へと生成するのである。」(157-158頁)
※
“発掘”した書付はここで終わっている。以下は後日談。
ベルクソンの「神秘家」(もしくはニーチェの「超人」?)はもう既にこの世に生誕していかもしれない。それは“電脳”空間の中の話かもしれない
(そうだとしても生成AIのごとき記号接地しない未完成のものでないことは間違いないだろう)。文字発明に次ぐ第二のシンギュラリティによって拓
かれるのが「神秘家」たち(と複数形が使えるかどうか)による真正の「人新世」なのかもしれない。
それは思考することも想像することもできない。しかし確実に言えることがあるとすれば、「神秘家」以前の現生人類が思考し想像するために手に入れ
た媒質つまり言語が誕生した前後数万年におよぶ“歴史”に思いを馳せればおのずから未来が(工学的に、とはつまり製作可能なかたちで)見えてくる
はずだ。
私の直観が告げるのは「感覚」と「抽象」の二語を考え抜けということ(たとえば今井むつみ・秋田喜美著『言語の本質──ことばはどう生まれ、進化
したか』の二つのキーワード「オノマトペ」と「アブダクション」を手がかりにするなど)。