「デカルトをめぐって」(2006.10-11)
★10月2日(月):デカルト的自己(1)
デカルトの『省察』を読んでいる。今年の3月にちくま学芸文庫から出た新訳(山田弘明)で、この古典はなんとなく読んだ気になっていた(実は拾
い読みしかしていない)ので、買ったきりで放置していた。
にわかに読み始めることにしたのは、「一人称による六日間の省察」というウリの言葉(?)がとつぜん妙に琴線に触れたこともあるが、春先に半分
ほど読みその後どういうわけかそのままになっていた『〈心〉はからだの外にある』(河野哲也)をサクサクと読み切り、読後の混沌がいまだにつづい
ている『生きていることの科学』(郡司ペギオ-幸夫)と合わせ技で「書評」を書いておこうと思いたったものの、サクサクどころか冒頭のあたりをウ
ロウロするばかりでいっこう先へ進めないのは、河野氏がギブソンの生態学的心理学を敷衍することでもって撃破しようとしている「デカルト的な自己
の概念」なるものがどうやら腑に落ちないからではないかと気づいたからだ。
いわく、デカルトにとっての自己(「私はある」の「私」)とは純粋な思惟作用であって、身体を含めた物的世界から独立している。しかし、デカル
トが「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真で
ある」(第二省察)と書くとき、そこで必然的に真であるとされた「私」は、「私はある、私は存在する」と発語(内語)したときの「私」である。す
なわち、デカルトにとって「思惟」とは「自分で自分の声(言葉)を聞くこと」(49頁)であり、純粋思惟としての自己とはそのような「声の物理性
を忘却したときに得られるもの」(51頁)であるにすぎない。
このような「デカルト的自己」に対して、河野氏が提示する「エコロジカルな自己」は「徹底的に身体的な存在」(44頁)である。
《これまで主観主義的な哲学では、しばしば、「認識している風景のなかには自己は存在していない」とか、「見ている自分は見られない」と主張され
てきた。その場合、知覚している自己は自分によっては知覚できないとされている。この主張は、私たちが何らかの神秘性や世界を脱した超越性を備え
た存在であるかのように訴えており、これによって私たちの自己愛[ナルチシズム]は満足するだろう。自己を神秘化して悦ぶ考え方は、洋の東西、今
と昔、文化や宗教の違いを超えて存在し、多くの人たちによって受け入れられてきたのである。それでは他人に不公平だというので、他者を神秘化する
哲学もある。
しかしそれは、単純に、能動態は受動態ではありえないという言語的・文化的な規則を現実に投影した幻想ではないだろうか。あるいは、視覚は、可
視光線という媒体を利用する感覚であるゆえに、鏡などの光を反射させるツールがないと自己の姿が見えないという事実があるが、「見ている自分は見
られない」という主張は、この事実を反映しただけのものではないだろうか(触覚でいえば、私は触っている自分に触りかえすことが可能である)。結
局、私たちが身体的な存在であるかぎり、知る自己は同時に知られる自己なのである。知る自己だけに自己の本質を求めることはできない。知る自己と
は、環境中で身体をもって行為する、知られる自己でもあるのだ。》(52頁)
ここに書かれていることが腑に落ちないというのではない。
ほんとうは、書き写しているうちだんだん腑に落ちなくなっていったのだが、そのことはいまの話題とは直接関係ないのでここには書かない。でもそ
れだときっと忘れてしまうし、もしかすると実は「いまの話題」に大いに関係しているのかもしれないので、個人的な備忘録として、「能動態は受動態
ではありえないという言語的・文化的な規則を現実に投影した幻想」という言い方が、「〈世界〉と〈人間の中にある(中で起こる)感覚・思考など〉
と〈言葉〉の三者の関係」(保坂和志『小説の誕生』21頁)においてどういう意味をもつのだろうか、とだけ書いておく。
腑に落ちないのは、河野氏が「エコロジカルな自己」を対峙させている「デカルト的な自己」の概念が、ほんとうに「デカルト的」なのかどうかとい
うことだ。といっても、それは要するに私がデカルトを実地で読んでいないことからくる疑念にすぎない。だったらいちど読んでみることだ。読まずに
不審がっていてもはじまらない。というわけで、昨日から、河野氏が引用している『省察』を読み始めた。
★10月4日(水):デカルト的自己(2)
河野氏が『〈心〉はからだの外にある』の第一章で引用していた「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごと
に、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」は、六日間におよぶ『省察』の二日目、「第二省察」に出てくる。
省察のこの段階にいる「私」は、感覚も身体ももたず、世界にはまったく何もないと想定している。しかし、感覚も身体ももたない「私」や、まった
く何もない世界を(経験可能なものとして)想定することなど、ほんとうはできない。それはいったいどのような「私」であり、世界であるというの
か。
省察のこの段階にいる「私」は、つまり感覚も身体ももたず世界にはまったく何もないと想定している「私」は、実は身体と感覚にしっかり結びつい
ていて、世界には天や地や精神や物体が満ちていることを知っている(経験している)。少なくとも実生活のうえでは、そのようなものとして「私」や
世界をとらえる「生の習慣」のうちにあることを自覚している(そうでないと、生きていくための行為がなにもできない)。
しかし同時に、認識(真理の観想)の局面において、それらがけっして疑いえないわけではないことを知っている。たしかに「私」は感覚と身体を
もっている(ついでにいえば、記憶をもち、言葉を知っている)。天や地や精神や物体に満ちたものとして世界を経験している。そして同時に、そのよ
うな感覚や経験が、明らかに偽であるとはいえないまでも、まったく確実で疑いえないわけではないことを知っている。省察という名の思考実験を通じ
て、身体と感覚に結びついた「私」や天地、精神、物体に満ちた世界の確実性を疑うことができる。
こうしてデカルトは、一日目の省察(「疑いをさしはさみうるものについて」)で四段階の思考実験(懐疑)を試みた。
第一。われわれは感覚によって欺かれているのではないか。しかし、たとえ感覚から汲まれたものであっても、「いま私がここにいること」や「この
手そのもの、そしてこの身体全体が私のものであること」等々はまったく疑うことができない(ように思われる)。
第二。われわれは夢を見ているのではないか。目覚めと眠りとを区別することができる確かな標識がない以上、「いま私がここにいること」等々は夢
のなかの出来事なのかもしれない。しかし、われわれの意識のうちにあるものの像が真であるにせよ偽であるにせよ、少なくともそれを構成している色
はたしかに真なるものでなければならない(これはどういう意味?)。それと同様に、たとえわれわれが夢の中にあっても、二たす三は五であり、四角
形は四つ以上の辺をもたないといった、確実で疑いえない単純で普遍的なものがある(ように思われる)。
第三。私は万能の神によって欺かれているのではないか。二と三とを加えるたびに、四角形の辺を数えるたびに、この神は私が誤るように仕向けたか
もしれない。すべてをなしうる神なら、それくらいのことはできる。
たとえ、そのような「常に誤りうる私」を創造することは神の善性に矛盾するのではないか、といった「真理の源泉である最善の神」に関するこれま
での「古い意見」がすべて虚構のものであったとしても、つまりまぎれもなく私が常に誤りうるもの(真なるものを認識する能力をもっていないもの)
であったとしても、それでも「信じやすい私の心」にしたがって行為する「生の習慣」そのものは揺るがない。(このあたりの「要約」はきわめて怪し
い。)
第四。私は最高の力と狡知をもった悪霊に欺かれているのではないか。外界のすべては夢のだましにほかならず、それによって悪霊は「信じやすい私
の心」に罠をかけているのかもしれない。私は身体と感覚を、誤ってもっているのかもしれない。そうだとしたら、私は「生の習慣」のなかで「想像上
の自由」を楽しんでいるにすぎなかったのだ。
「かくしてこれからは、光のなかではなく、いましがた提起されたさまざまな困難の、解きがたい暗闇のなかで暮らさねばならない」。「あたかも渦巻
く深みにいきなり引きこまれたかのように、私は気が動転し、底に足をつけることも、水面に浮かびあがることもできないありさまである」。
二日目の省察で、デカルトはさらに歩みを続ける。以下、「「私はある、私は存在する」というこの命題は…」が出てくる箇所を、新訳(ちくま学芸
文庫)から丸ごと抜き書きしておく。
《それゆえ私は、私が見ているものはすべて偽であると想定しよう。あてにならない記憶が表象するものはどれも、何も存在しなかったと信じることに
しよう。物体、形、延長、運動、場所は幻想だとしよう。それでは何が真なるものか? おそらく確実なものは何もないという、このことだけであろ
う。しかし私は、いましがた私が吟味したすべてのものとは別のもので、それについてわずかでも疑いの余地を残さないものはないということを、どこ
から知るのであるか? 何か神というものがいて、あるいはそれをどのような名で呼んでもよいが、それが私にそういう考えを注ぎ込んでいるのであろ
うか? しかしなぜ私はそう思うのか? おそらく私自身がそういう考えの作者でありうるのに。それならば、少なくとも私は何ものかであるのではな
いのか? しかし私はすでに、私が何らかの感覚や、何らかの身体をもつことを否定したのである。それでも私はためらう。それではどういうことにな
るのか? 私は身体と感覚にしっかりと結びついていて、それらなしでは在りえないほどではないのか? だが私は、世界にはまったく何もなく、天も
地も精神も物体もないと、自分に説得した。それゆえ私もまた存在しない、と説得したのではなかったか? いや、そうではない。私が自分に何かを説
得したのなら、たしかに私は存在したのである。しかし、何か最高に有能で狡猾な欺き手がいて、私を常に欺こうと工夫をこらしている。それでも、か
れが私を欺くなら、疑いもなく私もまた存在するのである。できるかぎり私を欺くがよい。しかし、私が何ものかであると考えている間は、かれは、私
を何ものでもないようにすることは、けっしてできないだろう。それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならな
い。「私は在る、私は存在する」 Ego sum, ego existo
という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。》(44-45頁)
ここに出てくる「推論」は、「この神[万能の神]は、いかなる地も、天も、延長するものも、形も、大きさも、場所もまったくないのだが、しかし
私には、これらすべてがいま見えているとおりに存在していると思われる、というふうにした[そのようなものとして世界と私を創造した]かも知れな
い」といった種類のものとはまるで違う。また、ここで「私は在る、私は存在する」といわれている「私」は、いわゆる「デカルト的な自己」のことで
はない。
★10月9日(月):デカルト的自己(3)
前回、「第二省察」の前半に出てくる「私は在る、私は存在する」という命題のなかの「私」はいわゆる「デカルト的自己」のことではない、と書い
た。少なくとも、省察のこの段階でその存在が見出された「私」は、河野哲也さんが『〈心〉はからだの外にある』で、ギブソン由来の「エコロジカル
な私」(徹底的に身体的な存在=死ぬ私)と対比させて書いている「自己意識」(自分で自分の声を聞く純粋思惟の作用)のことではない。
ここまで書いて、筆がとまってしまった。それから先に書こうと思っていたことが、昔読んだ永井均さんの本の焼き直しにすぎないことがわかってい
たし、もしかすると、これも昔読んだきりすっかり忘れていた小泉義之さんの『デカルト=哲学のすすめ』や斎藤慶典さんの『デカルト──「われ思
う」のは誰か』からの受売りなのではないかと、ふと疑念にとらわれたからだ。
ここ数日は、これらのことを検証し確認するためのしばしの中断のはずだったのだが、とりとめもなく怠惰に時間を費やしてしまい、とうとう「そも
そも私は何を問題にし、何を考え、何を書こうとしていたのだったか」を忘れてしまった。デカルトの六日間が、神の天地創造にも匹敵する思考のドラ
マであったのに比べると、ずいぶん薄っぺらい時間がさらさらと砂のように流れていったものだ。
いま、おぼろげに頭のなかに浮き沈みする思惟の断片、残骸を拾い集めて列挙してみる。
「私は在る、私は存在する」の「私」は、デカルト個人のことではない。ましてデカルトの自己意識のことではない(もちろん、いまこの文章を書い
ている私の自己意識のことでもない)。それは、そこにおいて神との接触すら生じうる(実際、第三省察の後半で、「私」の存在とその「保存」の原因
として神の存在が証明される)、なにか名状しがたい存在感覚をもたらす「死者」のようなものである。そのような「死者」との対話(沈黙交易あるい
は祈り)の可能性を論証することが、心身合一を説くデカルト哲学の真髄である。
デカルトの第二省察は「死にゆく者の独我論」であるとは小泉氏の指摘。また、対話とは「死んだあなた」と「死んだ私」の間に交わされるもので、
「死んだもの」が再び、いやはじめて姿を現わすこと(主題の復活)でもって対話の空間は開かれるのだ、とは斎藤氏の指摘。
──結局のところ、何をどう論じたかったのか、自分でもよくわからなくなった。瓢箪から駒のようにして読み始めたデカルトだが、途方もなく甚深
微妙な思考世界にいきあたったようだ(「ベルクソンとデカルト」という、どこでどうつながるのかよくわからない水脈まで「発見」した)。
「私は在る、私は存在する。これは確かである、ではどれだけの間か? すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるな
ら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。」(第二省察,47頁)。
「できるものならだれでも私を欺いてみよ、しかし私が何ものかであると考えている間は、私を無であるようにすることはできないだろう。あるいは私
が存在することはいまや真であるからには、私が存在しなかったということを、いつか真にすることはできないだろう。」(第三省察,60-61頁)
★10月15日(日):若冲とデカルト
京都にでかけて『若冲と江戸絵画展』を見てきた。『ブルータス』(8月15日号)の特集「若冲を見たか?」をためつすがめつ眺めてイマジネー
ションをかきたててきたのが、今日、ようやく実物に出会えた。感無量といいたいところだが、美術作品を鑑賞したあと繰り出すことができる語彙がき
わめて貧困なので、軽軽しく感想は書かない。国立近代美術館を出て、川沿いをそぞろ歩いた。目にする風景のひとつひとつがくっきりと、しかしいつ
もと違った形で実在していた。この感覚は、美術展を見た後でいつも覚えるものだが、一時間もするとはかなく消えてしまって、いまだに言葉で定着さ
せることができない。
初めて若冲を見たのは、岡崎の細見美術館で、数年間のことだ。所蔵の「糸瓜群虫図」や「雪中雄鶏図」を見たかどうか記憶がはっきりしないが、な
にか強烈なものが視覚にとびこんできたことは、今でも体感として残っている。若冲がブームになっていることは知識として頭のなかにあったので、そ
れはこしらえものの体感だったかもしれない。『ブルータス』に、茂木健一郎さんが「糸瓜群虫図」に対峙する写真と文章が載っていた。若冲は脳が見
たがる絵=快楽を与えてくれる絵だ、純粋な形態だけで脳を覚醒させる生命感、生命の本質を描いている。いかにも茂木さんらしい評言だと思う。来年
5月には、相国寺承天閣美術館で「若冲動植綵絵展」が開催される。これも忘れず見に行かねば。
京都へ向かう電車の中で、辻惟雄著『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫)を読んだ。そこで、「今のいわゆる画は、どれも画を描いたもので、物を描い
たものを見たことがない」という若冲の言葉が紹介されている(「幻想の博物誌」)。
《古画の模写を後生大事とする考えを軽蔑し、〈真物〉の写形に精通するのを作画の第一義とする、いわゆる写生主義を唱えたのは、いうまでもなく丸
山応挙だが、若冲の作画理念も、言葉の上では応挙のそれと変わりない。しかも、若冲は応挙より十七歳年上に当たる。とすると、若冲は、応挙に先行
して写生主義を提唱した画家ということになりそうである。だが、実際の作品を見ると、若冲の頭にある〈物〉と応挙の唱える〈物〉との間には、むし
ろ本質的な断絶があったように思われるのだ。》(100-101頁)
辻氏は、以下、若冲の代表作「動植綵絵」に即してそのことを確認し、若冲の画は、応挙の写生画のように外形の正確な再現をめざすものではなく
て、特異で強烈な内的ヴィジョンを表現するものであったと書いている。「彼のいう〈物〉に即しての観察写生とは、結局のところ、そうした固有の内
的ヴィジョンを触発させるための手段にすぎなかったのではなかろうか。」(105頁)
また、辻氏によると、「綵絵」の画面空間には、「ひそかにこちらを凝視する〈眼〉あるいは、こちらの視線を誘引する虚ろな〈のぞき穴〉といった
ものが巧妙に隠されている」(110頁)。鶏の眼、バラの花の絨毯模様のなかに組み込まれた無数の白い花、シュロの葉柄のつけ根に開けられた奇妙
な小穴、雪のまだらがつくり出す模様のなかにくり抜かれた穴、葉の病斑の丸や虫食いの穴。「こうした得体の知れない〈のぞき穴〉の謎解きは、深層
心理学の助けを借りても容易ではあるまい」。実に興味をひかれる指摘で、『若冲と江戸絵画展』に展示された若冲の画のうちにも、たしかに〈のぞき
穴〉とおぼしきものを見出すことができたと思う。
帰りの電車で、渡仲幸利著『新しいデカルト』(春秋社)を読んでいて、次の文章をみつけた。
《小説を書き出した友人がいて、ぼくにこういった。絵をかきたいんだ、と。絵の絵をかくのでなく、絵をかきたい、と。ぼくは、なぜ彼が小説を書こ
うとしているのか、よくわかった気がしたのだった。》(176頁)
『奇想の系譜』に引用された若冲の言葉と、渡仲氏の友人のこの言葉が、みごとに響き合っていて、とても興奮した。前後の文脈を紹介せず、ひとり
興奮してみせても、たぶん何も伝わらないと思うが、渡仲氏がここで言っているのは、物を物として知覚するのは「思想の力」だということである。物
をつくり上げること、つまり画の画や絵の絵を描くのではなく、絵=物そのものを描くためには目覚めなければならない。精神、すなわち物とじかに触
れている思考、あるいは理性をはたらかせなければならない。ことばもまた、そのような精神の自発性のうちに根ざしている。
何を言っているのかさっぱりわからない。それならそれでいい。もう一つ、つけ加えておく。若冲の〈のぞき穴〉の謎解きも、深層心理学よりはデカ
ルトの助けを借りるべきだろう。
★10月22日(日):ロボットにも情念をもたせうるということ──デカルト的雑想(1)
渡仲幸利氏が『新しいデカルト』の「情念論」をとりあげた章で、「懐疑とは、脱ぐということだ。そして最後に「わたし」の底力が立ち現れる」
(50頁)と書いている。以下はきわめて真面目な話なのだが、脱ぐとはいうまでもなく衣服を脱いで裸になることだ。そして裸になったときに立ち現
れる「底力」とは──「事物や肉体にじかに問いかけるあたりまえの精神の働き」(19頁)であり、「生きようとする能力とでも名づけたくなる働
き」(21頁)であり、「外から規定することへの反発性そのものであり、つまり、精神の働きというものの自発性」(22頁)のことであり、端的に
いって「わたし」そのものである(25頁)と同時に、そして何よりも──性愛への欲望のことである。
これはもう無茶苦茶なことを書いている。だって、「わたし」とは「精神」のことであり、「精神」は「身体」と区別される実体であり、性愛への欲
望とは他者の「身体」への欲望にほかならないのだから。いや、そうではない。「わたし」が「精神」である(「身体」ではない)というのは『省察』
の二日目の話で、懐疑の六日目にはめでたく心身合一した「わたし」が再びみいだされるのだから。あたかも、幽体離脱から回帰するように?
いや、もしそうだとしても、性愛への欲望が他者の「身体」への欲望であるとは言いすぎではないか。他者の「精神」との交わりへの欲望を欠いた性
愛など、あり得ないのではないか。ネクロフィリアは別として?
いや、ここで屍姦症のことを書きたかったわけではない。もっとも、死者(の屍体)との感情移入は成り立つか、もっと端的に、レプリカントへの感
情移入あるいは人形愛は性愛への欲望と同質か、などと言えば多少は近づいていくのかもしれないが。
渡仲氏は、「精神の治療にたずさわる者が、フロイトやユングからよりも、まずデカルトから借りてくる必要のあった理論」をめぐって、次のように
書いている。
《フロイトは、精神分析のために、患者の思うままにならない精神、すなわち「無意識」を仮定した。デカルトにいわせれば、思うようにならないもの
は、外界であり物体と肉体の世界なのだ。つまり、「無意識」とは、外界なのだ。
こう考えると、ユングのあの神秘的な図式も、じつに平明に理解されよう。「無意識」の海の水面から、ひとりひとりの意識がともに突き出している
さまは、とりたてていうまでもないこの世のさまといえるだろう。ただし、ひとりひとりの精神の最高の働きといえるものさえも、ひとりひとりの肉体
に結合され、またそのことによって、物質世界という大海の運動にむすびついていること、このことは、精神の治療にたずさわる者が、フロイトやユン
グからよりも、まずデカルトから借りてくる必要のあった理論だろう。そしてわたしたちは、ひとりひとりが、みずからの精神の医者でなくてはならな
いのだ。
いつも大事な場面で足がすくむ。それは、自分の知らない自分の怖がりの心が、そうなるように命じているからではない。足がすくんだ身体状態か
ら、精神が怖さという情念を受け取ったにすぎない。
すると、デカルトのすすめる療法はこうなる。怖がるな、怖がるな、と自分の心に向かって念じていても、なんにもならない。すべきこと、それは、
外界の諸力を介して行なうことである。わたしたちには、そのために肉体がある。スポーツ選手ならみんな承知している。大事な場面でなすべき行為
を、くりかえしくりかえし、じっさいに行ない、そうやって数えきれないほどの反復の訓練をすること。これが、けっきょく、わたしたちの精神を救っ
てくれるのである。情念の原因を心の奥にさぐるほど、へたくそな生き方はないわけである。》(54-55頁)
物体(肉体)のことは物の秩序へ。つまり、情念のことは脳内の分子運動へ。そして、精神のことは精神へ。これが、デカルトの理論である。
《デカルトは、こうして、精神を自分に確保しておいて、情念を、その本来の持ち場へ送りかえした。情念は、物の秩序へと投げこまれたのである。こ
れはどういうことかというと、ロボットにも情念をもたせうるということである。》(56頁)
──ようやく本題にたどりついた。
★10月23日(月):究極の心身問題──デカルト的雑想(2)
「ロボットにも情念をもたせうる」。デカルトの思考に立脚したこの渡仲幸利氏の省察をテコに、つぎに取りあげようと思っていたのは、性愛をめぐ
る機械・器具(プレジャー・マシンとでも?)のことだった。文章は大筋を書いているので、あとは修復整理を施してこのブログにアップするだけなの
だが、そこでちょっと困ったことが起きてしまった。
栗山光司さんのブログ[http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20061022/p2]で、茂木健一郎さ
んの講演や『風の旅人』編集長の佐伯剛さんのブログの記事[http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20061022
/1161487270]の話題とともに、「ロボットにも情念をもたせうる」を取りあげていただいた。そこで栗山さんが次のように書いている。
《誰かと喋っていて、時間の経つのを忘れる、そんな刻を過ごした経験は誰だってあるでしょう。
でも、今だにコンピュータ(ロボット)にはムリなのです。悩める鉄腕アトムは誕生していないのです。
いつか、そうなるでしょうか、そうならないとも限らない、キモは「感情」なのでしょう。生成する感情が個々の人間の拠り所なのなら、もっと、
もっと、このことについて考えたいですね、
考えるというより、感じることでしょうが、茂木さんがこの講演で、岡本太郎が乾杯をしたときに、「これを飲んだら死ぬと思え!
乾杯」とやらかした有名なエピソードを紹介していましたが、ロボット(コンピュータ)は死と対峙しない回路でシステムを構築しているのでしょうね、もし、
会話の出来るロボットを発明するとしたら、「死」と接続する回路が絶対必要なものだと思ってしまう。》
困ったことというのは、これから私がアップしようと思っていた話題があまりに卑近、というか尾籠、というか下ネタ風で、こういう文脈にうまくの
らないなあ、ということがまず一つ。
それから、感情をもったロボット、会話ができるロボットを製作することは、とてつもなく難しいことだとは思うけれど、原理的には(たぶん)可能
で、西欧17世紀の科学革命、19世紀から20世紀にかけての生物学や物理学の革命に次ぐ「第三次」科学革命(形而上学革命?)によって達成でき
るだろう、と私は考えている(期待している)こと。
そして、そのとき誕生するだろうロボットこそ「デカルト的機械」の完成した姿(フーリエ的プレジャー・マシンとでも?)であり、自他関係や心身
関係の問題以上に難解なヒト・ロボット関係(ヒトとロボットの共存在とかコミュニケーション=会話の作法の問題といってもいいし、究極の心身問題
だといってもいい)の問題を解く鍵が、フーリエ的に拡張された性愛の問題であって、それはエロス・タナトス(セクシャリティ・スピリチュアリティ
といってもいい)と並び称されるように、必ずや死の問題(克服であれ制御であれ)もしくは不死性の問題を伏在させているに違いない、と考えている
こと。
ひとつだけ注釈をいれておく。たとえば茂木さんのいう「クオリア」はたぶんデカルト的な意味での精神の問題で、それは無際限に分割可能な物質的
事象の全体として、物的世界の外に立ち現われるもののことだ。
たしかベルクソンは、物質の運動(周波数で表現される)を記憶(知覚を覆う思い出としてのそれではなくて、多数の瞬間を収縮するはたらきとして
の)によって凝縮されたものが感覚の質(色のクオリア)だといった趣旨のことを書いていた。大雑把にいってしまうと、ベルクソンの「記憶」のはた
らき(収縮)はデカルトの「精神」のはたらき(外へ、全体を)と同義で、だから、感情をもったロボットや会話ができるロボットは製作できても、ク
オリアをもったロボットは原理的に製作できない。クオリアは精神(デカルト的な意味での)のうちに立ち現われるものなのであって、物質世界の内部
に生じるものではないからだ(たぶん)。
感情(情念)をもったロボットと、クオリア(や自発性や意志、そして時間?)をもったヒト。この二つの存在のあいだに成り立つ関係。それをいま
「究極の心身問題」と書いた。それがどういう様相を帯びた問題なのかは、ちょっと想像できない。ロボットとヒトは合体しているかもしれないし、ヒ
ト(精神としての)自体がすっかり変わっているかもしれない。たとえば「マザー」によって管理された、マザーの無数の小枝としての「わたし」と
か。
それを不気味だとか恐ろしいとか思うのは今のヒトであって、その時代のヒトはそんなことはあたりまえだと思っているかもしれない。「我思う、ゆ
えに我あり」は、いつの時代であっても(もしかすると、間違って「精神」をもっているとヒトの欺きによって思わされたロボットにとっても)成り立
つのだから。
でも、困ったことというのは、そういうSFじみたことではない。栗山さんの文章が、私が書こう(書きながら考えよう)と思っていたことをずいぶ
ん先取りしていて、だから順を追って書くのが(まして、あまりに卑近、というか尾籠、というか下ネタ風の話題から始めるのが)面倒くさくなってし
まったし、どんどん先走った妄想がふくらんでしまった。これが困ったことの実体で、だから、昨日の話の続きは明日以降に持ち越しする。
★10月24日(火):ラブドールが/と見る夢──デカルト的雑想(3)
「ロボットにも情念をもたせうる」。渡仲氏のこの一文を読んで、ブレードランナー・デッカード(ハリソン・フォード)とレプリカント・レイチェ
ル(ショーン・ヤング)の「密会=性愛」のシーンを想起した(ベタだが)。
この「感情移入[エンパシー]テスト」(レプリカント識別検査)と「母の思い出」とレプリカントによる人殺しから始まる映画のことについては、
いま驚嘆と羨望(その内容と叙述の形式に対して)と郷愁(その語り口に対して)とともに読みついでいる加藤幹郎さんの『『ブレードランナー』論序
説』をちゃんと終えて、その強烈な磁場からたとえ一歩でも抜け出すことができたときにあらためて考えてみることにして(その日は来るか?)、ここ
では「本題」へと急ぐ。
その前にひとつだけ。「レプリカントであるということは人間になろうとする意志である」(127頁)。
※
『エロコト』という雑誌(『ソトコト』増刊号)が創刊された。「ロハスピープルのための快適性生活マガジン」。編集長は坂本龍一。その坂本龍一
による巻頭の「エロコト宣言」が力がこもったものだったので、抜き書きしておく。
《エロい女は、その存在そのものがエコである。
この惑星に生命が誕生して38億年。それは現在まで一度も途切れることなく続いてきた。その奇跡のような生命の本質とは何か? それは「食」と
「性」である。言い換えれば「個体維持」と「種の保存」だ。このふたつによって生命は維持されてきたのだ。
昨今、日本社会にもすっかりエコ=環境意識なるものが定着してきた感がある。けっこうなことである。本屋にはエコ雑誌が溢れ、そこには「食」の
情報が豊富である。しかしちょっと待てよ。生命のもう一つの本質である「性」がちっとも扱われていないではないか。これは文字どおり不公平だ。そ
こでわれわれは、エロをエコの観点から考察すべく、一つの雑誌を作りたいと思った。
とりあえず強引に、「エロい女はエコである」という直感に導かれて、われわれはここに雑誌『エロコト』を世に問う。》
エロい女は、その存在そのものがエコである? ここでいう「エロい女」は性としての女性(セクシーな)のことでもジェンダーとしての女性のこと
でもなくて、「その存在そのものがエコである」といわれる「その存在」のことなんだろうな。でも、そんなふうにむつかしく考えずに、この雑誌は
「エロい女」が好きな男たちがよってたかって造ったもので、同好の士が買って読んで楽しめばそれでいいのだくらいに軽く考えておけばいい。
一読して、惜しい、あと一歩、いやあと一枚脱げばもっとつきぬけられたのにと思った。現代思想系の妙な切り口がいっさいないのは好ましいが、読
む前からだいだい想像がつく記事とグラビアが満載されていて、なにかあと一ひねり足りないという印象がぬぐえない。
おまえがいう「あと一歩、あと一枚、あと一ひねり」ってなんだよ、と問われても困る。こちらは身銭を切って購読している気楽な立場なのだから、
考えるのはそちらの仕事でしょ、としか言えない。日本舞踊ってこんなにエロいよ、みたいな記事が読みたい。そんな読書アンケートへの回答のような
ことは言えるかもしれないが、そういう問題ではない。それにしても、惜しい。「性」や「エロ」について語る「新しいことば」がまだ見つかっていな
いのだと思う。『エロコト』創刊の意味は、たぶんそういうところにある。
どの記事もけっこう面白いけれど、なかでも編集長と中沢新一の対談が面白い。そこで中沢が「セックスにエロスを取り戻す。現実を取り戻す」とい
う『エロコト』創刊の意図に対してエールをおくっている。対談の最後に、やや「現代思想系」のやりとりが出てくる。これはすごく大切なことで、た
ぶんこのあたりから「新しいことば」が生まれてくるに違いないと思う。
中沢 死の領域とのコミュニケーションを断つでしょう。そうすると人間同士のコミュニケーションができなくなるんですよ。人間同士って一対一でコ
ミュニケーションしているように見えますけれど、実はそこには必ず第三者が存在するんです。それは実は死者なんですよ。生きている人間同士がコ
ミュニケーションするには死者が必要なんですけど、これを見えないようにしちゃう。そうすると実はコミュニケーションが不能になってしまうんで
す。
坂本 コミュニケーションって感情の贈与みたいなものでしょう。
中沢 そうですね。セックスというのは言葉でコミュニケーションしているところから一歩踏み込むわけでしょう。そうすると第三者の存在ってもの
が、すごく大きくなってくる。死の領域がね。ところがその領域とのコミュニケーションの訓練ができていないから、人と人とのコミュニケーションが
できなくなっている。だから死に慣れ親しむというのがエロス文化を蘇らせる原点じゃないかと思います。
以上は長い前置きで、これからがほんの短い「本題」。「やわらかくてかわいくて気持いい宝物。」という記事がとても気に入った(というより、気
になった)。「あと一歩、あと一枚、あと一ひねり」はこのあたり(工学的性愛論?)から生まれてくるだろうという気がする。これは、オリエント工
場という「特殊ボディ専門メーカー」を取材したものだ(取材・文 松井亜芸子)。
《今はまだラブドールの体にばかり執着しているあなたも、そのうちきっと心の中に違った感情が芽生えたことに気づくでしょう。それはいわゆる人形
愛というものかもしれませんが、実際は妻や恋人を愛する気持ちと変わらないはずです。あなたが望むなら、ラブドールは喜んで毎晩あなたの帰りを待
ちます。かわいい洋服を買ってくれて、たまにはどこかへ連れ出してくれて、つらかったこともうれしかったこともすべて話してくれて、毎朝毎晩愛で
てくれるなら、ラブドールは10年でも20年でも、あなたと添い遂げる覚悟です。》
《嫁ぎ先の旦那さまがあまりハードに可愛がってくださって、例えばシリコンの肌が破れてしまったりパーツが破損してしまったりすると、私たちは一
時里帰りをして修理をしてもらいます。実はこの会社のラブドールの顔はすべてたったひとりの職人さんがつくっているのです。その職人によれば、旦
那さまに可愛がられたラブドールほど、表情が柔和になっていくというのです。ラブドールが旦那さまのうつ病や不眠症を治したという話も聞きまし
た。ラブドールがただの性処理の道具ではないことが、お分りいただけますね。》
★10月28日(土):性愛工学──デカルト的雑想(4)
もう少しだけこの話題を続ける。この話題というのは、『新しいデカルト』(渡仲幸利)の「情念論」をとりあげた個所に出てくる文章──「デカル
トは、こうして、精神を自分に確保しておいて、情念を、その本来の持ち場へ送りかえした。情念は、物の秩序へと投げこまれたのである。これはどう
いうことかというと、ロボットにも情念をもたせうるということである」──に触発されて始まったものだ。
この「ロボットにも情念をもたせうる」から、ソフトビニールやウレタンではなくシリコン素材を使った人工皮膚(「ラブドール」と名づけられたロ
ボット、顧客のイメージ世界の中で動くロボット、あるいは目をあけたまま眠るロボット、なかには目をつむっているのもある)への感情移入の問題へ
と話題は微妙にずれていき、そこからさらに「性愛工学」へと逸脱していった。なぜなら、そこ(性愛工学)で取りざたされるのは感情(情念)ではな
く、皮膚にまつわる感覚にほかならないのだから。
※
ここで一つ、ミシェル・ウエルベック『素粒子』からの引用を挿入しておく。ただし、この文章は宙に浮いていて、本文に接続されない。
《彼のプロジェクトに対して浴びせられた最初の非難の一つは、人間のアイデンティティを作り上げる重大要素である男女の差異をなくしてしまうとい
う点にあった。これに対しハブゼジャックは、いかなるものであれこれまでの人類の特徴をまた繰り返すことは問題にならない、そうではなく理性的な
新しい種を創造しなければならないのであり、生殖方法としてのセクシュアリティの終焉は性的快楽の終わりを意味しないどころか、まさにその逆なの
だと返答した。ちょうど、胚形成の際クラウゼ小体の生成を引き起こす遺伝子コードのシーケンスが特定されたところだった。人類の現状では、これら
の小体はクリトリスおよび亀頭の表面に貧しく分布しているのみである。しかし将来、それを皮膚の全体にくまなく行き渡らせることがいくらでも可能
になるだろう──そうすれば、快感のエコノミーにおいて、エロチックな新しい感覚、これまで想像もつかなかったような感覚がもたらされるに違いな
いとハブゼジャックは主張したのだった。》(野崎歓訳)
※
さて、ラブドールに注目した(惹かれた)のは、そこに「究極のエロ」のひとつのかたちが(潜在的にではあれ)表現されているのではないかと直感
したからだ。このあたりのことをつきつめてみるためには、かつて読み込んだ金塚貞文氏のオナニズム三部作や人工身体論を読み直さないといけないと
思うが、肝腎の著書が手元にないので、これは後日の宿題にしておく。
ちょうど今日読み終えたばかりの篠原資明著『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』(岩波新書)に、人間が機械へと向かう本質的傾向を誰
よりもベルクソンが跡づけえたように思われる、そしてベルクソンに心酔していた稲垣足穂もそのところを察知していたようだ云々、と書いてあった
(109頁)。篠原氏はつづけて、足穂の芸術宣言でもある「われらの神仙道」からの一文を引用している。
《地上界に現下さしせまった生命の窮路をひらくことについてわれらが論じたさきほどの一点、即ち機械の原理によってうごく機械(云いかえて空間の
原理によってこしらえて行く空間)と、機械をこしらえた生命によってうごかされる機械(云いかえて空間性をも抽象された時間そのものによってうご
かされる空間)と、この二つをかみわけ、われらがその後者を云おうとしているのだけはお間ちがえないようにおたのみする。》
この後につづく篠原氏の文章。
《要するに、「機械の下におしつぶされようとする生命をすすんで機械のなかにぶちこんではどうだろうか」(同前)というのだ。そこにうかがえるの
は、ベルクソン的な生命論でもって、旧来の機械論とは違う新たな機械主義を展開しようとする姿勢である。機械めいた天体が出没する足穂的物語の
数々は、そのような姿勢と結びついて生みだされたといってよい。さらに、そのような姿勢そのものは、文字どおり、時代の動きともなった。典型的な
例が映画だろう。》(110頁)
このあとにつづく「ドゥルーズの映画論」や「未来派の写真」をめぐる文章はとても面白いものだったのだが、本題とは直接の関係がないのでこのあ
たりでやめる。質感、たとえばラブドールがもたらす皮膚の質感のようなものを伴う映画といった未来の「機械」を想定するなら本題への接続ははたせ
るだろうが、ここでは足穂がいう「生命をすすんで機械のなかにぶちこむ」こと、篠原氏の口吻を真似るなら機械と生命の〈あいだ〉に立ち上がるもの
がラブドールであり、性愛工学であるとだけ書き残しておこう。
もう一つ、ラブドールが面白いのは、それがシリコン素材でできていることだ。
同じく『ベルクソン』に、ドゥルーズ(『フーコー』)が炭素に取ってかわるシリコンの力に注目していたのに対して、ベルクソンは「炭素的」であ
るように思われるかもしれない云々、という文章が出てくる(173頁)。そこで話題になっているのは、もちろんラブドール(シリコンでできた人工
皮膚、それもまた「機械」である)のことではなく、電子メディアという「機械系」のことなのだが、ここではこれ以上深入りせず、ただそこにデカル
トとベルクソンの「接点」の手がかりが示されていることだけでよしとしておく。
森岡正博さんの『意識通信』の向こうをはって、電子メディア時代における感情通信、さらには質感通信とか性感通信の思考実験をやってみると面白
いと思うが、それはまた別の機会、たとえばいま手元にある松浦寿輝氏の『官能の哲学』や『口唇論』、植島啓司氏の『性愛奥義』などを読み込んでか
らのことにしよう。
※
以下、符牒めいた覚書を書き残しておく。
ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』で「機械系」と「神秘系」を区分した。(機械系=情報系=シリコン的、神秘系=生命系=炭素的。前者がデカ
ルトの物質に、後者が精神に該当する。ベルクソン的二元論とデカルト的二元論の出会い。)
篠原氏の紹介によると、ベルクソンは機械系と神秘系のあいだに歴史を駆りたてる法則のようなものを見てとった。一方が力をもってほとんど狂乱状
態まで突きすすむと、潜伏していた他方が機会をみてこれに取ってかわる。というか、一方が他方を呼びもとめる。他方は新たに取ってかわるとき、そ
れまでに得られたものからそれなりの益を得る。
具体的には、まず神秘系が西洋中世にひとつの狂乱を招きよせた。禁欲生活のことだ。アッシジのフランチェスコの清貧と無所有の実践、修道院の生
活を思えばいい。しかし禁欲も極端にまで進むと個人も社会も壊滅させかねない。そこで16世紀あたり(デカルトの時代!)から正反対の方向、つま
り物質面の向上を求める機械系へ転換する。やがて機械系もとどまることを知らない渇望という狂乱状態へ突きすすむ。機械系が神秘系(「神の愛に値
するべく、人々への分けへだてのない愛を実践し、広めようとする道」164頁)を招きもとめている…。
大雑把な「要約」だが、ここを読んで私はとても興奮した(『二源泉』は昔かけあしで読んだはずなのにほとんど覚えていなかった、情けない)。
『エロコト』のラブドールの記事を読んで直感したことがようやく言葉になった。丁寧に文章化するのはあきらめて、スパークした言葉を拾っておく。
「究極のエロ」のかたちとは禁欲だ。ラブドールは機械系の「死体」だ。そしてラブドールを愛するということは神秘系の「死者」を創造すること
だ。死者との性愛。もしくは工学的な臨死体験。いや、機械系と神秘系の〈あいだ〉にこそ性愛工学の精華たる芸術品、まだ見ぬラブドールは立ち上が
る。そして〈あいだ〉とは、坂部恵(『モデルニテ・バロック』)が「Betweenness-Encounter」と訳した「あわい」のことだ。
新しい機械(デカルト・マシン)が必要だ。修道院という機械が。「主体性が《機械に入ること》──かつて《宗教に入ること(修道者になるこ
と)》と言ったように」(フェリックス・ガタリ『分裂分析的地図作成法』11頁)。神のラブドール(電子メディアによって造形される?)に祈るこ
と。神の花嫁として「神の声」(電子メディアによってもたらされる?)に失神すること。究極の禁欲生活、すなわち人類と神々との〈あいだ〉で失神
すること。
『エロコト』の編集長は書いた。「その奇跡のような生命の本質とは何か? それは「食」と「性」である。言い換えれば「個体維持」と「種の保
存」だ。このふたつによって生命は維持されてきたのだ。」しかし、彼は生命の第三の本質を忘れている。それは「種の創造」だ。食と性、そして
「愛」。ベルクソンは「神を創造エネルギーそのものとして定義し、このエネルギーが愛にほかならない」と考えた(『ベルクソン』137頁)。エラ
ン・ダムールによる新たな種(神秘家)の創造。
「神秘家とは、生物としては人類でありながら、人類種を超えた存在、個人でひとつの新たな種を体現する存在であるだろう」(136頁)。「神秘家
とは、人が人でありながら人とは異質になりゆくありようをさすのではないだろうか。」(155頁)「神秘家という個性とまじわることで、神もま
た、それまでにない新たな神へと生成するのである。」(157-158頁)
★11月7日(火):『ルネ 青白い肌の少年』
これはまだ世にあらわれていない書物の話である。
小林道夫著『デカルト入門』(ちくま新書)を読みながら、『ルネ 青白い肌の少年──あるいは「死せるデカルト」の生涯と思索をめぐるセブン・
ストーリーズ』に思いをめぐらせた。以下、ノートに書きつけたものから精粗バラバラのまま転記しておく。このほかにも「永遠真理創造説」や「渦動
説」等々を素材にしたものをいくつか考えているのだが、それらは続編(『デカルト──可能世界と生きる歓び』とでも?)にまわす。
いつか完成された姿(ボルヘスやカフカやチェーホフや足穂やらのテイストで綴られた短編小説集!)をあらわす日が来るかもしれないし、ついに訪
れないかもしれない。たぶんその日が来ることはない。
1.真空をめぐる対話
1647年9月23日とその翌日、定住先のオランダからフランスに一時帰国したデカルトはパスカルを訪ねた。そのとき「真空」のことが話題に
なったと後の書簡にしたためている。
デカルトは真空の存在を認めない。物質とは延長すなわち空間であり、物質は無限に分割される。そのような(物質と一体の)ものとして神は幾何学
的空間を創造した(永遠真理創造説)。一方、パスカルは実験によって真空の存在を検証したとされるが、その「厳密な科学実験」はいずれも文学的作
品であり思考実験であった(小柳公代『パスカルの隠し絵』)。「その早熟な自我によってパスカルは、思考が空虚[真空]すなわち容器のえぐりとら
れた部分を包みこむということを経験したように思われる。」(ディディエ・アンジュー「パスカルにおける真空の概念の誕生」)
デカルトとパスカルの二日間の対話は「真空」をめぐる実験の話題に始まり、幼年期のこと(母親から空咳と青白い肌を受けついだデカルト、母親の
身籠もった腹に空虚化への恐怖を募らせたパスカル)、そして二人が死んだ後の世界のことにまで及ぶ。死者たちの世界(四人称の世界)に住まう二人
の対話は、生きている者たちの世界における物質を介して、すなわちそれぞれが書き残した書物を通じて交わされることになるだろう。
2.朝寝をする少年
デカルトは若死にを宣告された少年だった。「ヨーロッパで最も有名な学校の一つ」ラ・フレーシュ学院でも、病弱なデカルトは特別に個室を与えら
れ朝寝を許された。この朝寝の習慣は晩年まで、スウェーデン宮殿で朝5時からの進講を余儀なくされるまで続いた。朝の光にくるまれた眠りの中で、
少年デカルトはどのような夢を見ていたのだろうか。
失われた手記『オリンピカ』のなかでデカルトは、「私は一六一九年十一月十日、霊感に満たされ、驚くべき学問の基礎をみいだしつつあったとき」
に一晩で三つの夢を次々にみたと記している。最初の夢では亡霊に脅かされ、渦巻きに巻き込まれた。次の夢では電光の一撃に打たれ、我に返ると部屋
は閃光に満ちていた。第三の夢には辞書(百科全書)が現われ、ローマの詩人アウソニウスの詩句が登場したという(36-37頁)。
肺炎で亡くなった1650年2月11日、デカルトが最期に見た夢は?
3.書簡#61
「非物体的な魂がいかにして身体を動かしうるのか」。エリザベト王女のこの問いかけからデカルトとの文通が始まった。二人の往復書簡で現存する
ものは60通である。もしデカルトからエリザベトに宛てた61番目の書簡が残存していたとしたら? しかもそれは死せるデカルト、つまり情念から
解き放たれた精神によって書かれたもの(身体なき者のための情念論)であったとしたら?
心身合一は「原始的概念」である。それは形而上学的概念や科学的概念によって知性的に理解できるものではなく、その合体を「身をもって」体得す
るほかはない(184頁)。デカルトはそう主張した。そうだとすると、身体なき者(死者)にとっての心身合一とは?
4.新年の贈り物
成年に達したデカルト(生来の空咳と青白い顔色は直っていた)は「世界という大きな書物」に眼を転じ、志願兵として軍事学校に入った。その年、
自然学者イサーク・ベークマンと知り合う。彼は「ほとんど独力で自然学と数学とを結合しようという企てを行っていた」(31頁)。このベークマン
にデカルトは、新年の贈り物として『音楽提要』を捧げた。
音楽の目的は快である。われわれのうちにさまざまな情念をひきおこすことである。後の『情念論』につながるこの若書きの書物のうちに、デカルト
が仕掛けたものとは? 究極のデカルト・マシン(プレジャー・マシン)の製造法、暗号で語られる神の言葉の解読装置?
5.真理の探究
デカルトの未完の著作に『真理の探究』がある。おそらくスウェーデン移住後のもので、デカルトにはめずらしく対話形式で書かれていたという。こ
の「私の本質規定」(私は考えるものである)のところで終わった著作の構想は「遠大なもの」であったという(『デカルト入門』88頁)。
もしこの著作が密かに完成されていたとしたら? 死後のデカルトによって完成させられていたとしたら? しかもそこでデカルト以前以後を問わず
だれもが到達できなかった思考の高みと深みに達していたとしたら(なにしろそれは死者による思考なのだから)?
デカルトの『世界論』は死後に出版された。ガリレオ裁判の結果を知り、生前の刊行を断念したからであるという。生前書かれた書物の死後における
出版ではなく、字義通りの死後出版、すなわち死者によって書かれた書物が出版されたとしたら(死者からの電話のように)?
6.剣術の稽古
「修行と冒険と諸国遍歴の時期」(12頁)にあったデカルトに二つの武勇伝がある。追いはぎを屈服させたこと。「真理の美に匹敵する美はまった
くみあたらない」デュ・ロゼー婦人をめぐる恋敵との決闘。おそらくこの時期、デカルトは後に散逸する論考『剣術』を書いたという(58頁)。その
後オランダに隠棲し、「新哲学」思索と著作にふけっていたあいだも剣術の訓練はつづけていたという(184頁)。兵士デカルト(小泉義之)ならぬ
剣士デカルト。「死を恐れず生を愛すること。」
7.第七省察
六日間におよぶ「一生に一度」の大事業をなし終えて、デカルトも休息の七日目を迎えたのだろうか。いや『省察』は安息日から始まっっている。
「幸いにも今日、私はあらゆる気遣いから心を解き放ち、穏やかな余暇を得てひとり隠れ住んでいるので…」(第一省察)。神の天地創造に対して、デ
カルトの六日間をなんと名づけるべきだろう。身体の復活? 死からの再生? 臨死体験者の(対外離脱からの)帰還?
いままた死者となり、永遠に休らうデカルトによってなされた(第四人称による)最後の省察。欺く神、悪霊の立場から「私は無い」という命題にい
たる逆しまの万物創造? 精神(魂)の不死ならぬ不在の証明(無からの創造の逆コース)? 祈り(信仰)から呪い(呪術)へ?
★11月8日(水):デカルト的二元論(1)──ある形而上学的探偵物語
「これは誰のわたしなのか。」──加藤幹郎氏が『『ブレードランナー』論序説』(13-7-1「超時間的存在」)に書きつけたこの言葉は、それ
が使われた前後の文脈を抜きに単独でとりだしてみると、ずいぶん「使い勝手」がいいものになる。デカルトが『省察』の二日目に書いた「私は在る、
私は存在する」の「私」はそもそもいったい誰の「私」のことなのか、といったぐあいに。おなじく加藤氏の言葉を借りるなら、デカルトのそれ以後の
省察は、この問いを傍目にみながら進められる「形而上学的探偵物語」である。
ところが同書(13-7-2「宇宙的孤独と宇宙的拡張」)にちょっと困った文章がでてくる。
《少なからぬ批評家たちが[映画]冒頭の謎の瞳をロイ以外の人物(ホールデンやレオンやデッカードやタイレルなど)に帰してきたが、それはこの映
画がどっちつかずの複数の意味を許容しているということではない。そうした複数の別解がありうるのは、この映画が観客を迂路に導く迷宮テクストだ
からだというよりも、そもそも『ブレードランナー』が自己同一性(単一解答の存在根拠)という概念そのものを疑義にふす映画だからである。さらに
この形而上学的探偵物語において、一個の存在者はひとつの時間にひとつの場所にしか存在しないというアリバイ原理そのものが破棄される。この映画
全般にわたってロイは大都市の夜景を見ていると同時に、大宇宙の星辰を見つめている。レプリカントが人間になろうとする存在者であるかぎりにおい
て、ロイは同時に「こことよそ」に所在する者である。彼は、その瞳に映じていたはずの星辰同様、無限に拡がる者である。古典的ハリウッド映画が登
場人物の心理的、時空間的同一性を保守するシステムだとすれば、この瞬間、たしかに『ブレードランナー』はみずから古典的たることにひびを入れて
いる。この映画がポストモダン映画たるとすれば、それはただこの亀裂の瞬間たるをおいてほかにない(「近代[モダン]」の端緒が意識の表象たる
「我思う[コギト]」主体と客体とのデカルト的二元論にあるとすれば、この映画のポストモダンたるゆえんは、こうした二元論の終焉にある)。》
(162-163頁)
困ったのは、引用文の最後にでてくる「意識の表象たる「我思う[コギト]」主体と客体とのデカルト的二元論」という箇所、とりわけ「意識の表象
たるコギト」の部分である。(「意識の表象たる」が「客体」をも形容しているのだとすれば、それはそれでまた別の問題を提起するが。)
「私は在る、私は存在する」の「私」が「意識の表象」にほかならないものであって、そこから心身、主客の二元論が生まれ、あまつさえ近代が始
まったなどというお話は、まさにそのようなまことしやかな「お話」をでっちあげるのが近代という時代の正体なのだというアイロニーとしてしか受け
とることができない。実地に『省察』を読んだことがある人だったら、とてもそんなことは言えないと思う。(「デカルト的」二元論であって「デカル
トの」二元論ではないという救いはあるが、それにしてもなぜそれが「デカルト的」なのか判らない。どう考えても「反デカルト的」だとしか思えな
い。)
こういう文章をみつけたとたんに、『『ブレードランナー』論序説』の全体が児戯に等しい底の浅い議論(括弧付きで「ポストモダン」な?)を延々
と繰り出すどうしようもない書物になりかねない。「これは誰のわたしなのか」やこの問いをめぐる「形而上学的探偵物語」でさえ、単なる駄洒落や言
葉遊びの境涯に転落してしまいかねない。これ(「デカルト的二元論」狩り)は最近の私の悪い癖だ。
★11月9日(木):デカルト的二元論(2)──「デカルト的二元論」狩り
そもそも『省察』を読むきっかけになったのは、河野哲也『〈心〉はからだの外にある』のデカルト批判に躓いたからだ。
そこでいわれていること、たとえば「「私はある」という命題は発話されなければならず、したがって、その「私」は話す者でなければならない」
(48頁)や、「デカルトのコギトは、発話できるという条件、すなわち、発話能力と言語の獲得に依存していた」(頁)、そしてデカルトのいう「自
己意識の概念のなかには、ある言語を話すこと[とりわけ「フランス語によって自分の状態について報告できる」ということ:引用者註]をもって自分
たちと同種と見なすという特定の社会的・政治的スタンスが込められている」(61頁)といった指摘は、それはそれで別の面白い問題を提起するもの
だと思う。
(かどうかは実際にやってみないと分からない。これは余談だが、昔ある人が「言語システムと社会システムはどちらが先なんでしょうね」とつぶやい
たのがいまだに心に残っている。ほんとうにどちらが先なのだろう。どちらが先かという問いの立てかた自体がおかしくはないのだろうか。そこに「心
的システム」や「物的システム」という第三、第四のものを投げ入れるとどうなるのだろう。)
しかし、デカルト的自己すなわち「知る自己の働きは環境のなかに書き込まれているのであり、透明な幽霊のような心的機能などありえない」(60
頁)や、「デカルト的な発想、すなわち、身体的行動やふるまいとは独立の「内的意識」なるもの」(117頁)といったところに顔をだすデカルト批
判への違和感はどうしてもぬぐえない。そのせいかどうか、この魅力的な本をいまだに読み終えらない。
それどころか、「デカルト的発想を覆す」とカバー裏に謳い文句が印刷されている本書の内容全体(「知る自己」に対する「エコロジカルな私」の概
念の提唱)を、「デカルト的発想」そのものから導き出すことがきるのではないかとさえ私は思いはじめている(全体を読んでもいないのに)。そう思
うのなら実地にやってみせてくれと言われても困るが。
「知る」ことと「考える」こととは違う…。「知る」ことつまり認識することは「歩く」ことと同じ次元の話で、それは身体の領分、河野氏が「我思
う、ゆえに我あり」に対抗する原理として提示した「私は死ぬ」の領分にかかわることだ…。それに対してデカルトが「私とはただ考えるもの res
cogitans
でしかない。言いかえれば精神、すなわち魂、すなわち知性、すなわち理性である」(第二省察、山田弘明訳)というときの「精神」は、心身の二分とはいささ
かの関係も持たない…。
まさしく「透明な幽霊のような心的機能などありえない」のであって、デカルトの「精神」は「心的機能」(それはデカルト的発想では身体の領分、
というより心身合一という「原始的概念」の領分に属する)のことではない…。それ、すなわち「透明な幽霊のような」ものとは死者(死体ではない)
のようなもの、あるいは「死者のようなもの」という言葉のうちにその存在の住処が示されているもののことだ…。
なにかの書物、たとえば『聖書』を読んで、それがほんとうにあった出来事かどうかは別として言葉で伝えられた「お話」としてこれを受けとるの
と、そこに書かれた言葉のうちにある根源的な経験が立ち上がっていて、それを読むことが「いまここで」その経験のうちに身も心もまきこまれていく
ことであるものとして受けとるのとではまるで体験の質が違うが、デカルトの「精神」は、つまり「考える」ということはそのような「透明な幽霊のよ
うな」ものとなって「お話」を生きることなのだ…。そもそもそうした意味での言葉が立ち上がる現場に「精神」は住まいしているのであって、それに
対して「世界という大きな書物」はまさにアフォーダンス理論そのもので…。
もうやめよう。生煮えの言葉をいくら連ねても混乱するばかりだ。とにかく、私の悪癖(「デカルト的二元論」狩り)は時と場所を選ばない。
※
この悪癖がいつ頃から始まったのかと考えていて、柄谷行人『探究Ⅱ』の文章を思い出した。これは以前書いた「デカルトが始めたこと」でも冒頭に
引用した。
《われわれは、デカルトと、彼とともにはじまるといわれる近代哲学の構え(精神と身体、主観と客観)に対する各種の批判を幾度もきいている。しか
し、そのほとんどはデカルトと無縁である。たとえば、精神と身体の二元論などは、デカルト以前からあるだけでなく、日常の思考(言語表現)にあ
る。それをデカルトのせいにするのは的はずれである。というのは、デカルトにとって、その種の二元論を拒否することにこそ「精神」があるから
だ。》