「「私的言語」に関する覚え書き」(2006.5-6)



★5月31日(水):『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』

 序章に『維摩経』第八章、入不二法門品の話題が出てくる。「さとりの境地(不二の法門)に入るとはいかなることか」。維摩が発したこの問いをめ ぐって、三十一人の修行者(菩薩)と文殊師利(マンジュシリー)がそれぞれの自説を展開していく。いわく、生と滅、幸福と不幸といった二分法的な 概念から解放されることが「さとり」である。いや、そのような二項対立、すなわちPか非Pかという「動」だけではなく、そのどちらでもないという 「不動」まで含めて「二」なのであって、だから「不二」とはいっさいをしないこと、すなわち「無作為」なのである。
 ここで文殊師利が登場する。「あなたがたの説いたところは、それもすべて二なのである」。ことばの本質的な働きは「二」(根元的な分割)であ る。だから、ことば自体を捨てること、すなわち「無語、無言、無表示」こそが「不二」(分割の未遂行)の境地に入ることだ。文殊師利はそのように 説き、維摩自身の答えを求める。「維摩の一黙、雷のごとし」。維摩の沈黙の後、文殊師利は「これこそ菩薩が不二にはいることであって、そこには文 字もなく、ことばもなく、心がはたらくこともない」と称える。
 こうした三段階の議論を紹介した後で、著者は、維摩の沈黙が不二=沈黙の実践(さとりの境地)であったのか、ただの沈黙(呆け)だったのか── 言い換えると、「不二」をめぐる言語ゲームの「内」にあって、ことばでは到達不可能な「外」をことばの「内」へと巻き込んで働いているものであっ たか、それとも言語ゲームに巻き込まれている「外」よりもっと「外」にあるものだったか──は紙一重だと書きそえている。

 ここには本書の議論のすべてが、あらかじめ入れ子式に反復されている。『論理哲学論考』の独我論をとりあげた第一章では、「いわゆる独我論」の 「私」(「世界」を包み込む「私」)と素朴な実在論の「私」(「世界」の中の「私」)の二項対立が、それぞれの「私」を純化していくその極限にお いて反転・一致するダイナミックな思考のプロセスが叙述される。『青色本』等の無主体論と呼ばれる考察を論じた第二章では、直接経験・意識状態・ 心的体験等を非人称的で無主体のものと考える「いわゆる無主体論」と、それらが「超一人称的」「一人称以上に私的」であるからこそ無主体なのだと 考える「ウィトゲンシュタインの無主体論」(言語内的な無主体論)が比較され、後者における最強度の「私」が「私」の無化と接していること、すな わち「独我」と「無我」の一致へと至る「類比的な移行(家族的類似)」のメカニズムが摘出される。
 そして、『哲学探究』の私的言語論を扱う第三章では、「その言語の話し手だけが知りうる直接的で私的な感覚を指し示し、他人には理解できない言 語」という想定がはらむディレンマ──それが理解されることによって「われわれの言語」の圏内に回収され、あるいは逆に「われわれの言語」の圏内 に位置づけられないならば端的に無意味である──の分析を通じて、「私的言語」「私的なもの」は肯定も否定もできないから端的に「ない」のではな く、肯定も否定もできないまま言語ゲームに「潜行伴走」し続けること、すなわち「ある」ことと「ない」こと(あるいは「さとり」と「呆け」)とが 紙一重である状況(「ない」ままで「あり」続ける「私」)が導出される。
 第一の議論がメビウスの帯の構造(裏と表の一致)をかたどっているとしたら、第二の議論はクラインの壺のフォルム(内と外の通底)をまとってい る。第三の議論の論理のかたち(「ある」と「ない」の紙一重の接近)を表現する図形の名は知らない。たとえば五つの点が相互に等距離に位置する4 次元多様体「ペンタヘドロイド」がその候補だが、おそらく次元がもう一段高いのではないかと思う。

 ウィトゲンシュタイン=入不二の議論を、いくつかのキーワードを並べるだけで要約し尽くすことなどできない。実はそれぞれの章が全体の入れ子に なっている。「同じ問題が、形を変えて何度でも変奏される」(68頁)のである。そして、何度でも同じ問いを問うことそれ自体がウィトゲンシュタ インの思考のエッセンスであることを、本書全体が入れ子式に反復している。
 ウィトゲンシュタインにとって「思考」は、事実であると同時に超越論的であるという「二重性」をもち、「言語で表現される以前にそれだけで意味 をはらむもの」であった(57頁)。そのような思考を平面的にであれ立体的にであれ図式的に要約して理解することなどできない。とりわけ後半、一 気に加速し、強度を上げ、高密度・高次元の思考不能領域へと突入していく本書を「ことば」でもって理解することはできない。「遂行的に理解するこ と」(116頁)。問いを問い続けること。問いを生きること。本書は、そのようなウィトゲンシュタイン哲学の営みの実相を描写し、かつ「私」の語 り方という入不二哲学の出発をなす問題(だと思う)に表現を与えている。

 正直言って、私は第三章の議論を「遂行的に理解」することができなかった。永井均さんの『私・今・そして神──開闢の哲学』を何度読んでも、私 的言語論のところが判らなかった。あの時のむず痒さがよみがえる。書いてあることは理解できる(ような気がする)のに、そこでいったいなにが問題 になっているのかが判らない。ウィトゲンシュタインにしろ入不二基義にしろ永井均にしろ、おそらく「ことば」にするとこのようにしか書けない究極 の表現を与えているのだろうとは確信させられる(いずれも、それほどの強度をもった文章である)。でも結局私には理解できない。理解できないとは どういう事態なのかすら、実は判らない。
 おそらくそこに、ある問いが哲学的な問いであることを根拠づける「生の実質」のようなものが介在しているのだろう。そうした体験を欠いたまま、 あるいはよく知っているはずなのに忘れたまま、問題が私の内に接ぎ木されていく。同じ問題が、形を変えて変奏されていく。だから本書は、すべての 哲学書がそうであるように、何度でも最初から、そして初めて読まれなければならない。

★6月1日(木):「私的言語」に関する覚え書き

 昨日書いたことの補足。入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン』で、第三章の私的言語をめぐる議論についていけなかったことについて。要する に、「私的言語」とは何かが腑に落ちていないのだと思う。『哲学探究』をちゃんと読めば判るのかもしれない。この本はもうずいぶん昔から部屋の本 箱の隅に鎮座しているし、何度も拾い読みをした覚えはあるのだが、まともに最初から最後まで読み通したことがない。読みもしないで「判らない」も あったものではない。だから、読みもしないで私的言語について思いつきを書くのは噴飯ものだ。いつか噴飯する日のために書いておく。

 呪文と祈りと私的言語の三つ組を考える。「呪文」は、神社やお寺や教会で「神様仏様どうか」とお願い事をする、いってみれば他人任せの言葉。こ れだけ信心を積んだのだからと、それ相応のお返しを期待する。あてがはずれると「神も仏もない」と拗ねる。「祈り」はもうちょっと高級、もしくは 人品骨柄に気品があって、返礼を求めず、ただひたすら祈る。祈ることで気分がすっきりする(あきらめがつく)効用があるが、そういう効用を期待し てのことではない。祈る相手は「神様仏様」と手軽にすがられる相手ではない。絶対に届かないところに、いや届く届かないの議論が無効になるような 場所(入不二流の言い方では「ない」よりもっと「ない」ところ)に向かって、祈りの言葉は発せられる。
 私的言語は、「光あれ」というと「光」が到来する、そういう言葉のこと。もっと気の利いた名(たとえば「預言」とか「啓示語」とか「ジョイス 語」とか)を与えたいが、にわかに思いつかない。その卑近な例をあげると、「痛い」という言葉は、「私はいまこれこれしかじかの部位に炎症を起こ している」ことの報告ではなく、言葉が言い表している事態がまさにその言葉を発することにおいて出現している。「痛い」は痛い。だから「痛い」が 本当に痛いかどうか(真実かどうか)を検証することはナンセンスだ。『ウィトゲンシュタイン』では、このことに気づいてウィトゲンシュタインは 『論考』の言語観(写像説)をあらためたと書かれていた。うろ覚えで怪しいが。
 呪文の双方向、祈りの一方向に対して、私的言語はそういった諸々の「言語ゲーム」が営まれる土俵そのものを創造する。ふたたび卑近な例をあげ る。心の中で思ったことがそのまま現実になってしまう事態を想定してみる(「心の中で思う」のも言葉なくしてはできないのだから、これも私的言語 の一つのバージョンである)。神の思惟が、現実世界となるような事態。あるいは、これもまた私には経験がないが、統合失調症の人が妄想に苦しんで いるような事態。
 この場合、「心の中で思った」ことを「心の中で思ったこと」と認定するのは、「私はそのように(現にいま世界がそうであるのと同じように)心の 中で思った」と述懐する「私」だ。「そのようなことを心の中で思ってはいけない」と思うのもその同じ「私」だ。だとすると、「私」が「『そのよう なことを心の中で思ってはいけない』と心の中で思った」とき、現実世界はいったいどうなっているのだろう。
 いや、そういうことを考えたかったわけではない。私がここで考えたいのは、「心の中で思った」ことと「現にいま世界がそうである」ことが同時に 成り立ってしまうとき、そのような事態を認定する「私」を想定することができるか、というよりはたして意味があるか、ということだった。入不二氏 の議論は、そういうことだったのではないか。自信はないが、もしそうだったら、「私的言語」の問題は、「私」自身の問題である。

★6月2日(金):「私的言語」に関する覚え書き(補遺)

 昨日書いた「おもいつき」のネタを二つ、後日の噴飯(最後の噴飯)の日のために記録しておく。その1は、柄谷行人著『世界共和国へ』の「普遍宗 教」をあつかった箇所に出てくる。
《ここで、私が考えたいのは、宗教史や宗教社会学において語られてきた問題を、交換様式からとらえなおすことです。たとえば、宗教は呪術の段階か ら発展したと考えられていますが、呪術とは、超越的・超感性的な何かへの、互酬的な関係です。すなわち、超感性的な何かに贈与する(供犠を与え る)ことによって、それに負い目を与えて人の思う通りにすることが、呪術なのです。ウェーバーは、祈願、供犠、崇拝という宗教的な形態が、呪術に 由来するのみならず、ほとんどそれを脱していないことを指摘しています。
 預言者宗教はこうした呪術を否定しますが、そこでもやはり呪術が強く残る。《宗教的行為は「神礼拝」ではなくて、「神強制」であり、神への呼び かけは、祈りではなくて呪文である》。《すなわち、「与えられんがために、われ与う」(Du ut des)というのが、広くゆきわたっているその根本的特質である。このような性格は、あらゆる時代とあらゆる民族の日常的宗教性ならびに大衆的宗教性にの みならず、あらゆる宗教にもそなわっている。「此岸的な」外面的災禍を避け、また「此岸的な」外面的利益に心を傾けること、こういったことが、 もっとも彼岸的な諸宗教においてさえも、あらゆる通常の「祈り」の内容をなしているのである》(『宗教社会学』、武藤一雄ほか訳)。
 ウェーバーが指摘する「呪術から宗教へ」あるいは「呪術師から祭司階級へ」の変化は、社会的には、共同体から国家への移行に対応するものです。 そこで、祭司階級は支配階級の一環としてあります。読み書きに堪能な祭司階級が官僚体制と接合したのです。一般に、呪術師は雨乞い祈祷師ですが、 メソポタミアやアラビアでは、収穫を生み出すのは雨ではなく、もっぱら灌漑であると見なされた。このことが、国王の絶対的支配を生んだわけです が、同時に、大地や人間を産み出す神ではなく、それらを「無から」創り出す神という観念を生ぜしめる一つの源泉となった、とウェーバーはいってい ます。》(柄谷行人『世界共和国へ』89-91頁)

 その2は、「晶文社 WONDERLAND」に掲載された斉藤環さんの「生き延びるためのラカン第17回 ボロメオの輪の結び方」から。
《だから簡単に言えば、ジョイスは妄想を持たないパラノイア患者で、作品がその妄想の代わりになったということになる。ラカンはジョイスの作品 が、無意識とは関係なく作られているとみなす。つまり、それは意識的に発揮された「技術」の産物だってことだ。この指摘はちょっと面白いね。 シュールレアリズム運動の人たちに限らないけど、無意識こそがインスピレーションの源泉で、無意識をじょうずに解放できれば素晴らしい作品ができ ると信じている芸術家はいまだに多いからね。でも、そういうことを主張するような人の作品ほど、頭でっかちで観念的なものになりがちにみえるの は、どうしてなんだろう。これは僕の偏見なんだろうかなあ。
 ラカン理論によれば、もしジョイスが作品を書かなかったら、彼は精神病を発症していたことになる。なぜなら、ジョイスにおいては、「ボロメオの 結び目」が外れかけていたからだ。もっと具体的に言えば、ジョイスの場合、現実界(R)と象徴界(S)が、想像界(I)を抜きにして、直接に絡ま り合っていたってわけだ。
 なぜそう言えるかって?さっき引用したベケットの言葉[『フィネガンズ・ウェイク』についてベケットが述べた言葉──「これは何かについて書か れたものではなく、その何かそれ自体なのである」]を思い出してほしい。ジョイスの小説は、「何かについて書かれたもの」じゃない。これが何を意 味するか。ふつう僕たちが書いたり喋ったりすること、つまり象徴的な行為は、必ず「何かについて」なされている。これはわかるね。僕たちが言葉を つかって行うことのほとんどは、きまって「何かについて」だ。こういう行為においては、僕たちはまず「現実」から意味を受け取り、それを言葉に乗 せて、たがいに伝達しあっている。言い換えるなら、ここで現実界は、想像界(=「意味」)を介して、象徴界に影響を及ぼしていることになる。
 しかしジョイスの小説は「何かそれ自体」だという。この言葉の意味するところはもうわかるね。ジョイスの言葉は、そのまま出来事、つまり「現 実」なんだ。だからジョイスの小説をふつうに読もうとしても、かなり難解で意味が取りづらいし、素晴らしい情景がありありと浮かんでくる、なんて こともない。ラカン的な言い回しを使うなら、そこにあるのは純粋な享楽ということになる。言語遊戯、言語実験そのものの享楽ってことだ。だから翻 訳が難しいのも当然だ。アイルランド人の享楽を日本人の享楽に置き換えなきゃならないんだからねえ。》