「ベルクソン『物質と記憶』独り読書会・その他」(2005.07-2007.02)
☆2005
★7月24日(日)
昨日からベルクソンの『物質と記憶』を読みはじめた。一年くらいかけてじっくりと読みこんで、小林秀雄の『感想』やドゥルーズの『差異と反復』
(翻訳が間に合えば『シネマ』も)につなげていきたいと思っている。手元にあるのは白水社の全集第二巻、田島節夫[さだお]訳。新装版ではなくて
かれこれ十五年ほど前に古書店で手に入れた旧版(1965年)。第二章に入りかけたあたりで挫折していた。小林秀雄が1961年の講演「現代思想
について」(新潮カセット)で会場からの質問に応えて「君の問題は哲学の問題だ、なぜ哲学を勉強しないのか、ベルクソンをお読みなさい」とたたみ
かけるくだりがあって何度聴いても異様に迫力があるのだが、ここで小林秀雄が念頭においているのが『物質と記憶』。百年に一人の天才の仕事だと絶
賛している。八年間かけてただ一つの切実な問題を考え続けたことを尊敬するとも。まだ訳者解説と「第七版の序」と巻末の「概要と結論」の冒頭を読
み囓っただけだが、ほぼ十五年近い年月を経てようやくこの本を読む準備ができていたことを実感した。八年どころか一年続くかどうかさえ不安だけれ
ど、しばらくはこの本を基軸にしてやっていけそうだと確信がもてたことに興奮して、副読本としてジル・ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』を買った
(この本は木村敏の「リアリティとアクチュアリティ」でもさんざん言及されていて、これはいよいよ読まねばならぬと思っていた)。
ついでに近所の図書館で『差異について』(平井啓之訳・解題)を借りてきた(『無人島
1953-1968』にも「ベルクソンにおける差異の概念」が前田英樹訳で収録されている)。平井啓之氏の解題「〈差異〉と新しいものの生産」を五年ぶり
に読み返して、「ドゥルーズによれば、[その終章で映画についての「あまりにも大ざっぱな批判」がなされた]『創造的進化』よりもほとんど十年も
前に発表された『物質と記憶』には、映画芸術の優れた今日的可能性をひらく原理的根拠が、運動=像からはじまって時間=像に到るまで、すでに徹底
的にきわめつくされている、と主張されるのである」(159頁)とか「私見によれば、[『シネマ』での]ドゥルーズの読みは、『物質と記憶』とい
うこの難解な書物が書かれてから九十年後に、やっとそのもつ意味の射程を明かされた、という印象を残す底のものである」(160頁)とか「おそら
く『失われた時を求めて』ほど、映画的なさまざまな技巧を駆使している小説は他に見られない。彼の〈無意識的回想〉は、そのまま映画のフラッシュ
バックであろう。カメラ・アイの移動、モンタージュなど、映画の技法の用語を全面的に駆使して、あの長大な小説の構造を説き明かすことも可能だろ
う」(162頁)といった箇所に鋭く刺激を受け、前々から一度読んでみたいと思っていた加藤幹郎さんの『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』
を買った。
★8月3日(水)
ドゥルーズの『ベルクソンの哲学』を拾い読みしていて、第二章の冒頭(35頁)にリーマンの名前をみつけた。リーマンという数学者には昔から惹
かれている。多様体とかゼータ関数とかリーマン予想といった語彙を目にすると、訳も分からず興奮する。以前読んで感銘を受けたリワノワ『リーマン
とアインシュタイン』の印象が強烈に残っていて、ベルクソンが絶版にした『持続と同時性』はアインシュタインの時間論を批判した書物で、小林秀雄
の未完のベルクソン論『感想』でも取りあげられていて……と連想が弾むと矢も楯もたまらず『持続と同時性』を手にしたくなって(読みたくなってで
はない)、午後仕事を休み本屋をはしごした。結局『持続と同時性』が収められた白水社版ベルグソン全集第3巻(『笑い』も一緒に入っている)はみ
つからなくて、ドゥルーズによるベルクソン撰文集『記憶と生』(前田英樹訳)を替わりに買いかけたけれど、まずは『物質と記憶』をちゃんと読み終
えてからといいきかせ無用な出費を抑えた。(『持続と同時性』は神戸の中央図書館が所蔵しているようなので、必要になったら借りてコピーすればい
い。でも、以前プラトンの『ティマイオス』を全頁コピーしたまま結局読まずに廃棄したことがある。本気で読みたくなったらやっぱり自腹を切って買
わないといけない。)
★8月14日(日)
『物質と記憶』第一章冒頭の二節、分量にして十頁ほどを一時間あまり熟読した。先週の日曜日に読んでよく頭に入らなかった「現実的行動と可能的
行動」の節とこれに続く「表象」の節。「私はイマージュの総体を物質と呼び、その同じイマージュが特定のイマージュすなわち私の身体の可能な行動
に関係づけられた場合には、これを物質の知覚とよぶのである。」(24-25頁)「実在論と観念論の間にかかっている問題、おそらくは唯物論と唯
心論の間のそれすらも、私たちの考えでは、いまやつぎのように提起される。すなわち一方の体系では各イマージュがそれ自体として、周囲のイマー
ジュから現実的作用を受ける明確な範囲で変化し、他方の体系ではすべてのイマージュが唯一のイマージュにたいして、この特権的なイマージュの可能
な作用を反射するさまざまな範囲で変化するが、同じイマージュがこのような二つの異なった体系に入りこみうるのはなぜであるか、と。」
(28-29頁)この「二つの体系」のうち前者は「科学」に属し、後者は「意識の世界」である(29頁)。ここに述べられていること(「問題」の
再提示)はある意味でとてもシンプルで常識的だが、ある意味では到底信じがたい。要は「イマージュ」の理解にかかっている。イマージュとは「私が
感官をひらけば知覚され、とざせば認められない」(19頁)もののことだが、第七版の序では「観念論者が表象とよぶものよりはまさっているが、実
在論者が事物とよぶものよりは劣っている存在──「事物」と「表象」の中間にある存在」(5頁)と説明されている。「私たちは、哲学者たちの論争
を知らない人の観点に身を置く。このような人は生まれつき、物質とはかれが知覚するとおりに存在するものだ、と信じているだろう。そして物質をイ
マージュとして知覚するのだから、物質は、それ自体、イマージュであるとするだろう。ひと口にいえば私たちは、観念論や実在論が存在と現象に分け
てしまう以前の物質を考察するのだ。」(6頁)それは「本質存在」と「事実存在」に分岐する以前(ソクラテス以前)の「生きた自然(フュシス)」
のことなのだろうか。
★8月28日(日)
『物質と記憶』の(独り)読書会が6週目を迎えた。先週読んだ第一章の三節「実在論と観念論」を読みなおし、四節「イマージュの選択」を通読し
た。脳は一種の中央電話局だという有名な規定がでてくる三節でベルクソンが主張しているのは、知覚が向かうのは認識ではなく行動であるというこ
と。これを受けて四節は「すなわち神経系は、表象をつくり出すことはおろか、準備することに役立つ装置すらも、何ひとつそなえているわけではな
い」という書き出しで始まる。これは漫然と読み流してはいけない驚くべき主張ではないか、と驚く身振りを自らに課しながら読み進めていかないと、
流麗な文章に流されて議論の本筋がつかめない。この四節は、意識的知覚の可能性・必然性がそこから引き出される「不確定性」(選択可能性)や、記
憶の浸透を受けない「純粋知覚」の仮説などが提示され、知覚の有無にかかわらない「現存するイマージュ」(客観的実在)と「表象されたイマー
ジュ」との関係──すなわち、後者は前者が縮減されたものである──が論じられる重要な節で、一度や二度読んで分かったつもりになってはいけない
本書の最初の勘所だ。
★9月2日(金)
『物質と記憶』に次の文章が出てくる。《私たちを捉えている問題の困難さはみな、知覚をちょうど、事物を写真にとった景観のように思うところか
らきている。すなわちそれは、知覚器官という特殊な装置によって、一定の地点から撮影されたのち、脳髄の中で、何か不思議な化学的、心理的な仕上
げの過程をへて現像されるのだろう、というわけだ。しかしかりに写真があるとしたら、写真は事物のまさしく内部で、空間のあらゆる点に向けてすで
に撮影され、すでに現像されていることを、どうしてみとめないわけにいくであろうか。》(45-46頁)ベルクソンは「どのような形而上学、い
や、物理学も、この結論をさけることはできない」としたうえで、続いて、宇宙が原子から成っているとしよう、宇宙が数多の力の中心から成っている
とした場合はどうか、最後にモナドから成っているとしたらどうかと議論を進めている。《各モナドは、ライプニッツが望んだように、宇宙の鏡であ
る。してみると、だれもがこの点では一致している。ただし宇宙の任意の場所を考えれば、全物質の作用は抵抗も損耗もこうむらずにそこを通過し、全
体の写真はそこでは透明であるともいえる。像を浮き出たせる黒いフィルターが、種板の後にないからだ。私たちのいう「不確定の諸地帯」は、いわ
ば、フィルターの役をしている。それらは存在するものに何ひとつつけ加えない。ただ現実的作用を通過させて、潜在的作用を残留させるだけだ。》
(44頁)ベルクソンいわく「このことは仮説ではないのである」。こうやって書き写していけばここでいったいなにが議論されているのかが腑に落ち
るのではないかと思ってだらだら引用を続けてみたが、いまひとつ腑に落ちない。一度や二度読んで納得しようとしてもそうはいかない。
★9月4日(日)
『物質と記憶』の(独り)読書会7週目。先週に続き第一章四節「イマージュの選択」を精読した。最初の陶酔を覚えた。この節はここだけ読んでも
独立した哲学作品になっている。冒頭の「神経系は表象をつくり出さない」(衝撃的な仮説!)から末尾の「対象Pのイマージュが形成され知覚される
のは(脳の灰白質においてではなく)まさにPにおいてなのだ」(大森荘蔵!)まで、寸分の隙のない論理に導かれて(ベルクソンの思考でも私の思考
でもない「純粋思考」とでもいうべき)思考が進んでいく。まだ二度読んだだけだが、読むたびに世界を覆う薄皮がはがれ落ち(けっして隠されていた
わけではない)世界の実相が剥き出しにされていく。
冒頭と末尾のこの二つのテーゼをつなぐのが、イマージュと純粋知覚のそれぞれについての二区分と相互の関係をめぐる議論である。イマージュ(物
質界)には「現存するイマージュ」(あること=客観的実在)と「表象されたイマージュ」(意識的に知覚されてあること)の二つがあって、後者は前
者が「減少」したものである(つまりこの二つのイマージュには程度の相違があるだけで、本性の相違はない)。知覚には「無意識的知覚」(無意識な
物質の一点のもつ知覚=万物の可能的知覚)と「意識的知覚」の二つがあって、後者は前者のうちからフィルター(不確定=選択可能性の領域)を通じ
て浮き上がったものである。
これらは結局同じ一つのことを言っている。物質(イマージュの体系)から「生気を呈するすべての性質」をはぎとると、そこに意識に属する「表
象=物質の幽霊」と科学に属する「物質=空間的広がり」(たとえば脳)との二区分が生まれ、いわゆる「心脳問題」(物質である脳からいかにして主
観的表象=意識的知覚が生じるのか)が発生する。ことの発端は物質(イマージュ)を二つに断ち切ったことにある。断ち切ったから、これを「縫い合
わせなければならぬ」と錯覚するのだ。
《知覚がそこ[脳]から出てくることはありうべくもない。脳は他のイマージュと同じく一個のイマージュであり、大量のイマージュに包まれているわ
けで、容器から中味が出てくるということは、理屈に合わないからである。(略)意識的知覚と脳の変化は厳密に照応している。したがって、この二項
のいわゆる相互依存は、どちらも意志の不確定という第三項の関数であることからくる。》(46-47頁)
こんな要約ではとても汲み尽くせない。豊かな哲学的思考の種子が惜しげもなく蒔かれた沃土。──続けて五節「表象と行動の関係」を通読した。前
節を受けて「私たちはこのように事態を考えることによって、たんに常識の素朴な確信に復帰しているにすぎない」。この節には「伝導体」(51頁)
という蠱惑的な語彙が出てくる。「物質が神経系の協力なしに、感覚器官なしに知覚されうるということも、理論上は考えられぬことはない」(51
頁)とか「内部と外部」の概念は「全体と部分」のそれに帰着するだろう(54頁)といった魅力的な議論が展開されている。来週が待ち遠しい。
★9月11日(日)
日曜の午前が待ち遠しくなってきた。先週『物質と記憶』を読み始めて最初の陶酔(フィロソフィカル・ハイ)を経験して以来、続きを読むのが待ち
遠しい。第一章五節「表象と行動の関係」を熟読して、続く二節分を通読。四節「イマージュの選択」も少し読み返した。ハイの余韻が続く。百円
ショップで専用の手帳とボールペンを買ってノートをつけることにした。今その手帳を眺めながら、そこにメモを書きつけた時に脳髄に浮かんでいたこ
とをウロ覚えで書いておく(本を開かず記憶だけに頼って書くのはとても健康的なことに思える)。
ベルクソンは書いている。児童の知覚は非人称である。児童の表象は非人格的である、だったかもしれない。これは「私」というアナログがつくられ
る前の知覚の実質をさしている。児童のまだ朧気な意識のうちに、無人称の「脳」のはたらきによって縮減されたイマージュが浮かび上がっているとい
うことだ。知覚するのは「私」ではない。行動するのは「私」ではない。思考するのは「私」ではない。一人称の「私」を無人称の「脳」に置き換えて
も同断だ。「私」が「脳」のはたらきによって産出されたアナログであるとすれば、部分が全体を統治できないように「私」が「脳」を使って知覚し行
動し思考することはできない。だからといって「脳」が知覚し行動し思考するわけではない。「脳」は伝導体である。神経系は伝導体である。(アナロ
グの私とは『神々の沈黙』に出てくる言葉。これを読んでウィトゲンシュタインが「写像」の重要性に気づくきっかけになったある裁判の事例を想起し
た。)
ここでベルクソンが論じているのは「純粋知覚」なのである。それは権利上の存在であって、事実上の存在ではない。権利上の存在ということであれ
ば、「無意識な物質の一点がもつ知覚」や「物質が神経系の協力なしに知覚される可能性」だって議論することができる。全宇宙を隈なく映しだす透明
な写真。児童の非人称の知覚はこうした無意識の知覚に限りなく近い。三歳までのまだ言葉を使いこなせない(言語のはたらきを通じてつくられるアナ
ログの私=三つ子の魂の輪郭がまだ朧気でしかない)児童。七歳までは神の内と言われる父母未生以前の世界に(まだ言語によって切断されきっていな
い臍の緒で)つながった児童。児童とは一個の身体である。児童は物質である。
物質は屈折率をもっている。ベルクソンは、光が異なる媒質間の界面で屈折せず全反射する現象を知覚になぞらえている。この界面(身体の表面)は
「自由」の名で呼ばれる。反射した光は虚の光源をさししめす。これが「表象されたイマージュ」である。実の光源すなわち「現存するイマージュ)か
ら虚の光源を浮き出させるのが意識的知覚のはたらきである。この分離作用、弁別するはたらきは精神を告知する。ベルクソンはそう書いていた。
(ずっと前から「スピノザの屈折率」というアイデアを温めてきた。スピノザが磨いたレンズを身体になぞらえ、あるいはモナドと見比べながら、身体
と精神という二つの媒質の界面で生起することをみさだめたいと考えてきた。言葉にすると訳が分からないが、ベルクソンを読むことでその実相が少し
ずつあきらかになっていきそうな予感がする。)
★9月18日(日)
ブログ「内田樹の研究室」が『物質と記憶』を取り上げていた(2004年07月18日)。「若い頃に読んだときはぜんぜん面白くなかったベルク
ソンであるけれど、五十路を過ぎて読むとなかなか面白い」。同感。
先週に続き五節「表象と行動の関係」を熟読。今日は第一章を最後まで一気に通読しようと意気込んでいたのに、復習をかねて五節にざっと目を通し
始めるやたちまち気になること・よく分からないこと・じっくり考えてみたいことが次々とみつかった。
まず「振動のそれ自身への見せかけの反射、光源のイマージュへの光線の還帰、というよりは、知覚をイマージュから浮き出させるあの分離作用、す
なわち弁別する働き」(52頁)とあるのは四節「イマージュの選択」に出てくる屈折と反射の比喩(42-43頁)を踏まえてのことだが、該当個所
を読み返すうちベルクソンの比喩の意味するところがよく分からなくなった。「知覚は、屈折が妨げられて起こるあの反射の現象とよく似ている。それ
はちょうど蜃気楼の効果のようなものである」(43頁)。蜃気楼は屈折に伴う現象のはず。蜃気楼は「知覚をイマージュから浮き出させる」ことの比
喩ではあるが、知覚(反射)そのものの比喩にはならない。いったいどういう図式を想定すればいいのか。「反射」は後に「投影・投射」との比較で重
要な語彙になっていく(53-55頁)だけに、ここでしっかりとイメージしておきたい。「しかしこれは比喩にすぎない」(65頁)とは異なる場面
で言われていることだが、よくできた比喩にはくれぐれも注意しないといけない。
比喩といえば「アメーバ」や「突起」も気になる。これまでに出てきた箇所を列記しておく。感覚系と運動系の間に介在する「アミーバ状突起」
(34頁)。「原生動物がさまざまに生じる突起や、棘皮動物の棘は、運動器であるとともに触角の器官である」(36頁)。視覚を失うと触覚的印象
と運動とを関連させる新しい秩序が脳の中に生まれ、「皮質内の運動性神経要素の原形質的突起は、こんどははるかに少数の、いわゆる感覚性神経要素
と関連させられるであろう」(52頁)。巻末の事項索引の第一に「アミーバ」が出てきて、先の「アミーバ状突起」(34頁)とともに「アミーバの
意識」(180頁)や「アミーバの収縮」(63頁)が掲げられている。
よく分からないことに話を戻す。感覚のモード(視覚、聴覚、触覚)と運動との関係について。「外的には同一の運動も、そのあたえる応答が、視覚
的、触覚的、あるいは聴覚的印象のいずれにたいするものであるかによって、その性格が内的に変様されるのである」(52頁)。以下の叙述をいくら
読んでも「内的変様」の実質がよくつかめない。四節まで戻ると、「行動が時間を処理するのと正確に比例して、知覚は空間を処理する」(37頁)と
か知覚と写真の関係(43-44頁)とか「万物の可能的知覚」(44頁)とか生気を呈するすべての性質を物質からはぎとる(45頁)とか「意識的
知覚と脳の変化…の相互関係は、どちらも意志の不確定という第三項の関数であることからくる」(47頁)とか再々出てくる「尺度」という言葉の意
味とか、よく分からないこと・じっくり考えてみたいことはいくらでも出てくる。遡ればもっとたくさん出てくるはず。
五節を読んで気になったことを二つ書いておく。最初は非人格的であった表象が「帰納の力」によって自分の身体を中心とする自分の表象へと漸次推
移していく「操作の機構」をめぐって、ベルクソンは「私の身体が空間中を動くのにつれて、他のすべての表象は変化するが、これに反して身体は、ど
こまでも変化することがない。だから私は当然これを中心とせざるをえず、他のすべてのイマージュをそれに関連づけることになるだろう」(53頁)
と書いている。これは「数覚」のことではないか。一次変換と固有値、固有ベクトル云々の線形代数が知覚の現場で稼働している?
ベルクソンは「提起された諸問題こそ、まさしく知覚とよばれるものなのである」(51頁)と言う。また「意識とは可能的行動を意味する」(58
頁)と書いている。さらに「私の神経系は、私の身体を興奮させる諸対象と、私が影響を与えることのできそうな諸対象との間に介在して、運動を伝
達、分配し、あるいは制止するたんなる伝導体の訳を演じているだけだ」(51頁)、あるいは「脳とは私たちの考えでは、一種の中央電話局にほかな
らぬ」(34頁)とも。これらを組み合わせると、そこに「問題─伝導(操作)─行動(解)」という数学の図式を描くことができる。生きるとは解け
ない問い=微分方程式を解くこと、とまで書くとこれはもうドゥルーズ。ついでに書いておくと、後に「私たちの身体は空間中の数学的点ではない」
(67頁,65頁参照)という言葉が出てくる。(伝導体の役割「運動の伝達・分配・制止」に関して、ベンジャミン・リベットの実験を参照のこ
と。)
気になったことの二つ目。ベルクソンは先の「帰納の力」云々に続けて、私の身体と他の物体の区別から当初は「内部と外部」の概念が生まれるのだ
が、「イマージュ一般が私に与えられれば、私の身体は結局必然的にそれらの中ではっきりした事物として現出することになる。それらはたえず変化す
るのに、私の身体はそのまま変わらないからである。内と外の区別は、このようにして、全体と部分のそれに帰着するだろう」(54頁)と書いてい
る。
ここを読みながら私は「アナログの私」(『神々の沈黙』)を想起し、内部と外部はラカンの想像界に、全体と部分は象徴界に対応しているのではな
いか(『出生の秘密』)と考えたのだが、それはともかく、ベルクソンは「先走り」をしてはいまいか。つまり「イマージュ一般が私に与えられれば」
というのは「言語が私に与えられれば」と相同なのではないか。記憶を捨象した純粋知覚を論じるこの場面で、それは先走りではないか。あるいは、知
覚し行動する当の「生活体」とそれを観察し記述する者との立場が混同されてはいまいか。たぶん私のこの疑問は間違っている。間違ってはいるだろう
が、こういう疑問を抱いた事実は忘れないようにしよう。
★9月25日(日)
『物質と記憶』の独り読書会。今日は第一章六節「イマージュと実在」と七節「イマージュと感情的感覚」を熟読し、八節「感情的感覚の本性」と九節
「感情的感覚から切りはなされたイマージュ」と十節「イマージュ本来のひろがり」を通読した。知覚と表象をめぐる「反射説」(ベルクソン=常識的
直観)と「投射説」(心理学者=悟性)の対立と後者の誤謬が事実に即して執拗に説かれる。新たに感情(感情的感覚)という語彙が登場し、感情と知
覚の本性は異なること(「私の知覚は私の身体の外にあり、反対に私の感情は私の身体の内にある」66頁)が論証される。そして、純粋知覚の理論に
「最初の修正」(67頁)が加えられる。すなわち「感情は知覚がつくられるための原料ではない。それはむしろ混入する不純物なのだ」(68頁)。
知覚(perception)と感覚(sensation)と感情(affection)の関係がよく分からなくなった。ベルクソンは感情の例
として苦痛を挙げている。強すぎる感覚は身体の局所に苦痛をもたらす。それが感情(「感覚性神経における一種の動的傾向」64頁)である。この例
が分かりにくいのかもしれない。頻繁に出てくる「現実的」と「可能的」と「潜在的」の概念の違いもよく分からなくなった。たとえば次の文章。
《したがって私たちの感覚の知覚にたいする関係は、私たちの身体の現実的活動の、可能的ないし潜在的活動にたいする関係にひとしい。その可能的活
動は他の諸対象に関連し、これら諸対象において現出する。その現実的活動はそれ自身に関係し、したがってそれの内に現出する。つまるところ、万事
はあたかも現実的および潜在的作用が、その及ぶ点や原点へ真に復帰することによって、外的イマージュは私たちの身体から周囲の空間の中へ反射さ
れ、現実的活動はこの身体によってその実質の内部にとどめられるかのようだろう。またそれゆえにこそ、身体の表面、すなわち内部と外部の共有する
境界は、知覚されると同時に感じられもする唯一の延長部分なのである。》(66頁)
潜在的─現実的の系列(内的感情)と可能的─現実的の系列(外的知覚)の区分は見てとれるがおぼろげである。このことは次回、純粋知覚の理論の
要約(71頁~)を熟読するなかで反芻してみよう。ベルクソンが投射説になげかけた「不可分的延長と等質的空間との形而上学的混同」(55頁)と
いう批判の実質もあわせてフォローすることにしよう。
★10月2日(日)
『物質と記憶』。第一章八節「感情的感覚の本性」から十節「イマージュ本来のひろがり」まで熟読。十一節「純粋知覚」を素読。71頁から75頁
にかけての「純粋知覚の理論」の手短かで図式的な要約はとても便利。第一章の議論はほぼこれで尽きている。以下は第二章へのつなぎ。ややドライブ
感に欠けるのは読み手の側の事情か。
「私たちの知覚は純粋な状態ならば、本当に事物の一部をなすことになる」(75頁)。この一節を読んで實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』を
思い出した。實川氏は「意識革命」以前の西洋において意識は物質的であったと書いている。「こんにちでは、心のうちで、物質や肉体に近いと考えら
れているのは、意識よりは無意識である場合が多いだろう。しかしながら、西洋中世においては、いや「意識革命」の前までは、意識のほうが物質に近
かったのである」(72頁)。
これに続いて「十三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった」「このような発想自体は、現代の西洋思想でも、あいかわ
らず、新しげなよそおいで続けられている」(72-73頁)と書かれている。ここで註がついていて、「新しげなよそおい」の一例として「アフォー
ダンス」が挙げられている。それは「知覚を、環境との関わりの可能性ととらえる発想で、やはり可能態から現実態へという枠組みのなかにある」ので
あって、その「中身は、一○○年ほど前にフランスの哲学者ベルクソンによっても語られた考えで、五○年ほど前にはドイツのヴァイツゼッケル、フラ
ンスのメルロ=ポンティが、かなり洗練された形で示している」(233頁)。ここの箇所は何度読みかえしても刺激的。
※
瀬里廣明氏が主宰する「幸田露伴研究所」の幸田露伴論(その114~116)に「仙書参同契とベルグソン」というエッセイが収められている。冒
頭の一文が目をひく。「露伴とベルグソンとの関連を指摘していたのは、日夏耿之介であった。あの東洋的なあまりに東洋的と言われる「仙書参同契」
にベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」の影を見た人である。」以下、末尾に添えられた「補説」をペーストしておく。
《日本近代の文学者で、ベルグソンから大きな影響を受けた人は小林秀雄であろう。戦後私が小林に会った時、彼は分析は嫌いです、私の文学は直観で
すと即座に答えた。
ベルグソン哲学の中核にある思想はエラン・ヴィタールだ。
これは生命の飛躍であり、根源的衝動である。これは持続の直観でしか捉える事ができない。即ち分析的加工的な知性では生命そのものを見ることは不可能であ
る。神とはとどまることを知らない生命の流動であり活動である。それと合一するのが真の宗教である。露伴の「仙書参同契」は自然(人間もその一
部)の中にある生命の根源的姿を描いた稀有の作品である。》
★10月10日(月)
『物質と記憶』。純粋知覚の理論の要約(71-75頁)を再読し、十一節「純粋知覚」から十四節「物質と記憶力」までを通読。これで第一章を終
えたことになる。
「純粋記憶を脳の作用からひき出そうとするあらゆる試みは、分析すれば根本的な錯覚を露呈せざるをえないだろう」(85頁)。このことと第二章
冒頭の「身体が過去の行動を蓄積しうるのは、運動の装置としてであり、また運動の装置としてにすぎない。そこからして、普通の意味での過去のイ
マージュは、別な形で保存されるものであり」(90頁)云々とを組み合わせれば、純粋記憶の理論のエッセンスが早々と述べられたことになる。純粋
知覚の理論は権利上のものであって、だから実験的に実証することはできないのに対して、純粋記憶の理論は、それがもたらす結論には形而上学に属す
るものが含まれているにもかかわらず、経験的に検証可能である(87-88頁)。経験的形而上学もしくは実験形而上学。
★10月16日(日)
『物質と記憶』。先週読み飛ばした箇所を熟読したうえでこれまでの議論を反芻しておく予定だったが、気持ちが先へ先へと急くので過去をふりかえ
らず第二章一節「記憶力の二形式」を読んだ。(第一章にはいくつか熟考すべき論点や疑問点が残っている。最後まで読んでもう一度帰ってくることに
しよう。)
あるひとつの瞬間だけを考えるならば、身体は対象と対象の切断面に存在する伝導体であり、脳は(表象の器官ではなく)運動の器官である。以上が
第一章の結論。これを流れる時間の中にもどしてみると、身体は未来と過去の動きつつある境界であり、私たちの過去がたえず未来へと推し進めるよう
な動的先端である。この場合においても脳はあくまで運動の器官であり、だから脳の損傷は運動(記憶から運動への推移)を損なうが記憶そのものを損
なうことはない。
記憶には二つの形態がある。位置と日付をもった一回限りの出来事の表象と、身体に沈澱して運動機構のうちにうめこまれた記憶。前者(自発的もし
くは人格的記憶心象)は思い浮かべるものであり、後者(学習された運動的記憶)は反復するものである。以上の議論を総括してベルクソンは次のよう
に述べる。
《ひとはまず二つの要素、すなわち記憶心象と運動を分解し、しかる後にどのような一連の操作をへてそれらが本来の純粋性をいくぶん捨て、相互に融
け合うようになるかを調べるかわりに、それらの癒着から生ずる混合的な現象しか考えないのだ。この現象は混合的だから、一面では運動的習慣の局面
をあらわし、他面では多少とも意識的に局限されたイマージュの局面をあらわす。しかしひとは、これを単純な現象だと思いたがる。そこで運動的習慣
の土台になる脳、脊髄あるいは延髄の機構は、同時にまた意識されたイマージュの基体でもあるということを、想定せざるをえないだろう。そこからし
て、脳の中に蓄積された記憶が、真の奇跡によって意識的になり、不可思議な過程によって私たちを過去へ導くという奇妙な仮説が生じるのである。》
(103-104頁)
ここにあるのは知覚と記憶の本性上の違いについて述べられたのと同じ論法である。質的分割。プラトン的な精神による分割の方法。巧みに肉を切る
こと(『パイドロス』)。ドゥルーズがベルクソンの「方法としての直観」の第二規則に掲げたもの、すなわち「幻想とたたかい、真の質的差異または
実在の区別を見出す」こと。
★10月23日(日)
『物質と記憶』の独り読書会は休業。天外伺朗・瀬名秀明『心と脳の正体に迫る──成長・進化する意識、遍在する知性』を読了。実に面白い。無尽
蔵に面白い。以下、いくつか話題を拾っておく。
第3章「植物の意識を探る」での三輪敬之氏の発言は示唆と刺激に富む。「「場」は自身の内部に立ち現れてくる、情感を伴った空間で、対象化され
た物理的な空間ではありません。僕たちは、「今、ここ」において即興的に会話をしていますが、それが成立するためには、舞台が共有される必要があ
ります。この舞台が「場」に相当します。[以下、清水博の「即興劇モデル」による「場」の説明が続く。]「場」は実体でなくて、働きなのです。」
(71-72頁)
「「場」の研究に関連して、僕が今取り組んでいるのは、空間的に離れた場所間において、空間的な「間」、すなわち間合いを取り合って人々がコミュ
ニケーションをすることができるシステムの設計です。/互いが「間」を取り合うためには、互いの異なる「場」が共通の一つの「場」へと統合される
必要があります。そして、その統合された「場」に互いの存在を位置づけることになるわけですね。これにより間合いが生成すると考えられます。この
間合いがうまく作られないと、タイミングが合った共同作業が困難になります。つまり、時間的な間の生成に先行して空間的な間が生成するものと考え
られます。」(73頁)
本書の底流にある「遍在する知性」というアイデアは、ベルクソンめいていてなかなかナイス。そのベルクソンについては、第11章「意識を科学す
る」の冒頭で話題になり、第13章「量子コンピュータで意識の問題は解決する」にも一度その名が出てくる。
《天外 ホログラムは三次元の情報を復元するよね。しかもそのフィルムの一部だけを取ってきても、全体を復元できるという特性がある。脳はまさに
量子ホログラム復元装置かもしれない。そうすると、僕らのまわりにあるゼロ・ポイント・フィールドは巨大な記憶装置だというんだ。
瀬名 それこそ「遍在する記憶」ということになる。ベルクソンの「純粋記憶」が、量子論と脳科学で蘇ってくるような感じですね!》
(257-258頁)
最後にもう一つ。「Aha!体験」は「抽象化能力」(人間の脳=能力の特徴の一つ)の最たるものだという天外伺朗の説は面白い(253頁)。
★10月30日(日)
『物質と記憶』。先週休みをとった分も含め一気に第二章を読み終えてしまおうと意気込んでいたけれど、このところ体力と集中力を切らしていて途
中で息切れ。いろいろとたくさん書いておきたいことはあるのだが、前回分とあわせてひとまとめに来週以降の作業に委ねることにした。だいたいから
してこの第二章「イマージュの再認について──記憶力と脳」そのものが純粋知覚(第一章)と純粋記憶(第二章)の中間・混合の段階を叙述してい
て、しかもその叙述のかたちが叙述の内容をかたどっているという「趣向」がこらされているものだから、読み手の方にもその気分が感染して、一字一
句にこだわるよりは全体の輪郭をさっとたどることでよしとする傾向が強くなってしまう。
要は気分が乗らない。月末恒例の「在庫処分」(読みかけ本に決着をつけること)はうっちゃって、昨日の『デンジャラス・ビューティ2』に続き
『ミリオンダラー・ベイビー』を観てだらだらと半日を過ごした。『デンジャラス』はほぼ期待どおり愉しめたけれど、話の進行がちょっともたもたし
た感じ。『ミリオンダラー』は結末の苦みが後をひく(夢にまで出てきた)。数日遅れて深い感銘がこみあげてくる。ゲール語とイエィツの詩はよかっ
た。映画は何を表現するか(映像として編集するか)ではなくて、何を省略するか(カットするか)が本質的なのだとあらためて実感した。
★11月6日(日)
『物質と記憶』独り読書会。第二章を冒頭からざっとおさらいして、訳書125頁から133頁まで、言葉の聴覚的再認のうち「自動的な感覚運動過
程」をめぐる部分を少し気を入れて読んだ。いまここでその内容を自分の言葉で再現できるほどに身を入れて熟読したわけではない。そもそも本を読ん
で理解することと、それ(たとえば本に書かれている思考)を自分のものとして使いこなすこととは違う。
第一章を読んでいたときのあのフィロソフィカル・ハイはいまや微塵もなく消失して、このところなかば義務的に頁を繰っている。気持ちは第三章の
純粋記憶の議論へと向かっている。たとえば檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』に「ベルクソンがその「生」の思考を展開していく先である「純粋記
憶」の議論は、西田の「場所」の議論と重なりあう部分が大きい」(32頁)と書いてあるが、これはほんとうだろうか。あるいはドゥルーズは『ベル
クソンの哲学』第三章で、存在論的無意識(潜在的で即自的な純粋な記憶内容)と心理的無意識(現実化されつつある記憶内容)を区分し、『物質と記
憶』全体がこの二つの記述のあいだで動いていると書いているが、これはどういうことなのだろうか。
第二章に漂うこの退屈感は、たぶんベルクソンの議論が私の身体のうちに反復的に習慣化されていくプロセスを表現しているのだと、とりあえず考え
ておこう。いわば「型」を修得するための「修業」。いわば「ベルクソン道」。そういえば、第二章には読書をめぐる話題が頻繁に出てくる。「朗読の
記憶」について(93頁~)。「読書の機構」にかんする実験について(119頁~)。そして今日読んだ箇所に出てきた「ある困難な運動を理解する
ことと、それを実行できるということとは、それぞれ別な事である」(129頁)という議論も、読書に関連づけて考えることができる。読書における
知覚と記憶、身体と精神。
★11月13日(日)
『物質と記憶』の第二章を読み終えた。軽いハイが訪れた。この本は音楽の様式で構成されているのではないか。全四楽章の交響曲。冒頭に三つの仮
説(「記憶力の二つの形態」「再認一般について。記憶心象と運動」「記憶から運動への漸次的推移、再認と注意」)を提示し、順次この見取り図に
そって叙述を進めていく第二章はさしずめ組曲か。いや、三つの仮説が微妙な言い換えもしくは漸次的深化を通じて運動[第一章]から記憶[第三章]
への移りゆき(135頁)を段階的に進行させていると見れば変奏曲か。
そんな連想がはたらいたのは、このところにわかに「音楽の秘密」への関心を高めているからということもあるが、それよりもなによりも第二章の後
半の叙述のそこかしこで音楽の比喩が頻繁に用いられているからだ。ここで主題的に論じられているのが「聴覚の印象」(125頁)であり「語の聴覚
的記憶」(144頁)であり「精神的聴力」(147頁)であるというのだから、それも当然のことなのかもしれないが、いま前後のつながりを無視し
て言葉だけを拾うと、「前奏曲」(133頁)「ある主旋律の個々の音調」(135頁)「巨大な鍵盤」「無数の音符」(146頁)「無数の弦」
(147頁)「内的鍵盤」(148頁)「序曲」(149頁)といったぐあいである。
そうした表面的なことだけでなくて、たとえば「反省的知覚は直線ではなくて閉じた回路である」云々の議論のところで、対象Oの上方に知覚がかた
ちづくる複数の円環(伸縮自在な記憶力はそこにはいりこむ)と対象Oの下方(背後)に潜在的記憶がかたちづくる複数の円環の図(121頁)が出て
くるが、これなど倍音と残響の効果に彩られた音楽体験そのものを図解したものなのではないかと思う。あるいは、「それは空虚な器であり、その形に
よって、流れ込む液体の向かっていく形を決定するのだ」(139頁)と言われる「運動的図式」とは、音楽(液体=記憶心像としての聴覚的イマー
ジュ)を聴き取るときの身体の構えのことなのではないかと思う。
とりわけ興味深いのが、聴覚的知覚(印象)と聴覚的イマージュ(記憶心像)と観念(「記憶の奥底からよび起こされる純粋記憶」143頁)という
「三つの項」(140頁)をめぐる議論である。聴覚体験とりわけ「言語的イマージュという特殊なイマージュ」(148頁)をめぐる「純粋な経験」
(140頁)について、世の人は一般に「知覚⇒記憶⇒観念」という進行を想定するがこれは間違っている。
《すでにのべたように[133-134頁]、私たちは観念から出発し、運動的図式にはまり込みながら聞こえる音に重なっていく力をもつ聴覚的記憶
心像へと、その観念を発展させる。そこには、観念の雲が判明な聴覚的イマージュへと凝縮していき、聴覚的イマージュはなお流動的であるにしても、
ついには物質的に知覚される音響と癒着して固まろうとする連続的な進行がある。》(139頁)
音楽とは純粋記憶(観念)である。いや、『物質と記憶』そのものが音楽のことを論じている。だとすると、音楽とは生体の活動そのものである。音
楽とは、ジェスパー・ホフマイヤーが『生命記号論』で言うところの記号過程である。音楽とは、また「物語の論理」である。筆が上滑りしているのは
承知の上で、もう一言書いておく。ベルクソンの「三つの項」をホフマイヤーが引用する「パースの一般的な記号の三項関係」にあてはめるとどうなる
か。「記号を表すもの=観念,その対象=知覚,記号の解読者=記憶」と「記号を表すもの=記憶,その対象=知覚,記号の解読者=観念」のいずれか
なのだろうか。
★11月20日(日)
『物質と記憶』独り読書会。いよいよ第三章「イマージュの残存について──記憶力と精神」。今日は冒頭の二節、「純粋記憶」と「現在とはなに
か」を読んだ。ここに書かれていることは、実はもうすでに知っている。ベルクソンの叙述の進め方そのものが、叙述の内容をかたどっているからだ。
《まずそれは私の過去にくい入っている。「私が語っている瞬間は、すでに私から遠ざかっている」からだ。またそれは未来にもくい入っている。未来
へこそ、この瞬間は傾くのであり、未来へこそ、私は向かうのであって、もし私にこの不可分の瞬間、すなわち時間の曲線の無限小を、確定することが
できるものならば、未来をこそそれはさし示すであろう。だから、「私の現在」とよぶ心理的状態は、同時に直接的過去の知覚でもあり、直接的未来の
限定でもあるのでなくてはならない。》(156頁)。
ベルクソンは「これほど簡単で明白な、つまるところ常識の思想にすぎない真理を、どうしてひとは見誤るのだろうか」(157頁)と嘆き、「いさ
ぎよくあきらめることが肝心である」(159頁)と「ひと=大方の心理学者」に最後通告をつきつけている。感覚(知覚)と記憶との本性上の違いを
見極めよというのである(これと同様の異議申し立ては、実はすでに第一章で、実在論と観念論に共通する錯覚、すなわち知覚と思弁的関心=純粋認識
との質的同一視に対して差し向けられていた:32頁)。
《しかし、記憶と知覚との間に程度の差しか設けないという幻想は、たんなる連想説の帰結より以上のもの、哲学史上の一偶発事より以上のものであ
る。それは深い根をもっている。それは、根本においては、自然と外的知覚の対象にかんする偽りの観念に基礎をおいているのだ。ひとは知覚に、純粋
な精神のためのたんなる教示しか見ようとせず、これをまったく思弁的な関心をもつものとのみ見なそうとする。ところで、記憶はもはや対象をもたぬ
以上、それ自身、本質上、この種の認識であるところから、ひとは知覚と記憶との間に程度の差しか見いださず、知覚は記憶を押しのけて、ひたすら強
者の法律により、私たちの現在を構成するようになる。しかし、過去と現在との間には、たんなる程度の差より以上のものがある。私の現在は私の関心
を占めているもの、私にたいして生きているもの、要するに私を行動へと促すものであるのに、私の過去は本質的に無力である。この点にとくに注意し
よう。私たちが「純粋記憶」とよぶものの本性は、現在の知覚とそれを対比することで、すでにずっと理解しやすくなることだろう。》
(154-155頁)
これを読んで私は、中島義道さんの『時間を哲学する』を想起した。《いきなり宣誓しますが、私は知覚ではなくむしろ想起こそ「心身問題」のモデ
ルだと思っております。それをみな知覚の場面で論ずるから、答えられないことになる。心身問題の原型は想起、すなわち「刻印」というブラック・
ボックスにおける現在と過去との関係なのですが、知覚をモデルにしたとたんに心身問題を引き起こす張本人である「時間」は消去されてしまい、大脳
の〈ウチ〉に想起の「場所」を求めるというあたかも空間論のようなかたちをとってしまうのです。》(101-2頁)
今日読んだところは上に引用した文章に尽きているが、二、三思いあたったことを書いておく。
その一。流れと切断について。「私の現在は、本質上、感覚=運動的なのである。これはつまり、私の現在が、私の身体についてもつ意識にあるとい
うことである」(156頁)。この命題を提示したあとで、ベルクソンは(伝導体としての)身体をめぐってこう書いている。「現実そのものである生
成のこの連続の中で、現在の瞬間というのは、流れていく流体に私たちの知覚が行なうほとんど一瞬の切断からなるものであり、この切断こそまさに私
たちが物質的世界とよぶものなのだ」(157頁)。これを読んで、木村敏さんの「一人称の精神病理学へ向けて」(『関係としての自己』)を想起し
た。たとえば次の文章([]内は引用者)。
《時間性という観点から観れば、ヴァーチュアルで非人称的な自他未分の状態は、いわば時間以前の相のもとにある。一方リアリティとしてノエマ化さ
れた[三人称的な]自他分立の状態は、そのつどすでに分離の成就した現在完了的なあり方を示す。そして前者から後者への移行そのものであるアク
チュアルな[一人称的な]発生期状態は、つねに瞬間的かつ現在進行的という一見矛盾した時間性格をもっている。このアクチュアルな生成過程が、
ヴァーチュアルで前時間的な状態からリアルな完了態[物質的世界]へのそのつどの移行であるかぎり、それは、このヴァーチュアルな状態からつねに
一瞬遅れて経験される。》(『関係としての自己』257頁)
補遺。『関係としての自己』の最後に収められた「未来と自己」に、ヴァイツゼカーの「プロレプシス(Prolepsis)」という概念が紹介さ
れている。それはあらゆる生きものが非意識的で身体的・生理的な仕方で未来を先取りする機能を指している。冒頭に書いた「ベルクソンの叙述の進め
方そのものが、叙述の内容をかたどっている」にも関連してくると思うので、抜き書きしておく(本を書く=読むことと生きること)。
《有機体の感覚運動機能によって環境世界との生命的な関係が一貫して維持されている状態を、ヴァイツゼカーは「相即」と呼ぶ。有機体と環境との物
理的な関係は絶え間なく変化しているから、相即はそのつど新たに作り直す必要がある。有機体が相即の中断という「危機/転機」をそのつど乗り越え
て、環境世界との関係を維持しているかぎり、有機体は「主体」として環境世界と対峙して生き続けることができる。そしてこの相即は、有機体が過去
をそのつど現在に組み入れてゲシュタルトを構成するアナムネシスと、絶えず未来を先取りするプロレプシスの機能によって維持されている。》(『関
係としての自己』277頁)
その二。数学について。「すでに流れた時間は過去であり、時間が流れつつある瞬間を、私たちは現在とよぶ。しかしここで問題なのは、数学的点で
はありえない。なるほど、たんに考えられるだけの観念的現在というものもあって、過去と未来とをへだてる不可分な境界をなしている。しかし現実
の、具体的な、生きられる現在、私たちが過去の知覚について語るときに語っている当のもの、これは必然的に持続を占めるものだ」(155頁)。
ここに出てくる「数学」という語が気になる。数学とはマテーシス、つまり「誰でも知っていることを間違いのないはっきりとしたことばで語るこ
と」である(中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』からの受売り)。だとすると、数学には二種類あるのではないか。数直線上の点としての現在
(「観念的現在」)にかかわる数学と「常識の思想」が教示する現在(「持続」)にかかわる数学。「流れ」の数学と「切断」の数学。具体的な数学と
抽象的な数学。ベルクソンと数学は、『物質と記憶』独り読書会の中心的テーマの一つだ。
その三。純粋という言葉について。純粋知覚や純粋認識をはじめ、「純粋認識」(32頁)から「純粋感覚」(158頁)まで、『物質と記憶』には
純粋という言葉がいたる箇所に出てくる。このことに関連して、檜垣立哉さんが『西田幾多郎の生命哲学』序章の「西田の思考の世界的同時性」をめぐ
る文章(22頁~29頁)のなかで、19世紀から20世紀のはじめにかけて生じた「世界水準での思考の転換」を徹底化もしくは「生を、経験を、事
象を「純粋」にとらえる衝動」と規定していることが参考になる(同趣旨の議論が、土屋恵一郎さんの『社会のレトリック』にも出てきた)。檜垣さん
はそこで、純粋化とは「哲学を純粋に、はじめから再開しようという企て」であり「純粋な何かに帰還して、世界をはじめから語りだすという発想」で
あると書いている。しかし、そうした企てや発想は「いずれそれら自身の問題設定の素朴さや意地不可能性を反省せざるをえないだろう」とも。ベルク
ソンの批判的継承者としてのドゥルーズ。
★11月27日(日)
『物質と記憶』。第三章の三節「無意識について」を読む。「私たちは問題の核心にはまだ立ち入らないで注意だけしておきたい」(159頁)とベ
ルクソンは冒頭に書いている。ここでベルクソンが注意を促しているのは、意識とは存在の同義語ではなく、現実的行動や直接的有効性の同義語にすぎ
ぬということだ。意識が存在の同義語でないというのは、ひらたくいえば意識がなくても人(行動するもの)は生きている(行動している)ということ
である。意識は思弁や純粋認識に向かうものではないという、第一章の議論がここでもむしかえされている。それでは「問題の核心」とは何か。以下、
本節の要点のみ(誤読をおそれず)列記する。
無意識には空間に由来するもの(物質宇宙のまだ知覚されていない部分=物自体)と時間に由来するもの(過去の生活の現に認められていない諸時
期=過去自体)の二種類がある。それらは、前者(空間の中で同時的に段階づけられる諸対象の系列)の表象の秩序が必然的、後者(時間の中で継起的
に展開される諸状態)のそれが偶然的という相違はあるものの、基本的には実益や生活の物質的要求にかかわる区別にすぎない。程度の違いはあれ、い
ずれも意識的把握(意識への現前性)と規則的連関(論理的あるいは因果的関連性)という経験の二つの条件を満たしている。
しかし、それが人の精神の中で形而上学的区別の形をとる。つまり、前者は外的対象へ、後者は内的状態へと分解される。いわゆる心脳問題の発生。
「存在するけれども知覚されない物質的対象物質的対象に、少しでも意識にあずかる余地を残すことや、意識的でない内的状態に、いささかでも存在に
あずかる余地を残すことは、そのために不可能になってしまう。」(167頁)その結果、空間からとられた比喩(容れものと中味の関係:168頁)
にとらわれ、記憶がどこに保存されるのかということを問題にせずにはいられなくなる。過去の記憶が身体(脳髄)に貯蔵されるという幻想をいだいて
しまう。事の実相はそうではなくて、いったん完了した過去(蓄積されたイマージュ)はそれ自体で残存するのである。
《過去がそれ自体で残存するというこのことは、したがって、どんな経ちにせよ、免れるわけにはいかないのであり、それを考えるのに困難を感ずるの
は、私たちが時間における記憶の系列に、空間中で瞬間的に認められる諸物体の総体についてしか真でないいれることとはいることとのあの必然性[容
れものと中味の関係は、私たちがいつも眼前に空間をひらき、背後に持続を遮断せねばならぬという必然性から、その明らかさと見かけの普遍性を借り
ている:168頁]を帰するところからくるのだ。根本的な幻想は、流れつつある持続そのものに、私たちの切断による瞬間的断面の形式[私たちの
脳=身体は、物質的宇宙のすべての他の部分とともに、宇宙の生成の絶えず新しくなる切断面を構成している:168頁]を移し及ぼすということにあ
る。》(169頁)
星野之宣自選短編集『MIDWAY
宇宙編』冒頭の「残像」(1980年)という作品に、感光性ガラスに焼きつけられた2億年前の地球の写真のアイデアが出てくる。二酸化ケイ素や酸化カリウ
ム等を含む特殊な隕石が月を直撃する。「散乱した熱い破片が急速に冷却され…… 球状のガラス物質に固まるその一瞬──その一瞬だけ 無数に散り
ばめられたそれらは感光性ガラスとして 一種のフィルムと化す! そしてしっかりと焼きつけるのだ 満点の星座を圧して煌々と輝く地球光を──数
十億年にわたってそれは ひそかにくり返されてきた 天然の写真メカニズムだったに 違いない」。無意識の知覚。
★12月4日(日)
『物質と記憶』。第三章の四節「過去と現在の関係」を読む。このあたりまで来ると、なにも一節ずつ律儀に読まずとも一気呵成に最後まで突入でき
そうなものだが、それをやるとたんなる黙読にすぎず、独り読書会の意義を失う。では独り読書会の意義は何かと問われると困るが、ベルクソンの議論
の細部をリテラルに祖述しながら、それがじわじわと躰と脳髄に浸透していく過程を克明にたどり、違和であれ親和であれ意識しつつ反芻することに
よってこそ見えてくるものがあろうと思うのだ。もちろん細部に沈潜することで全体の眺望を見失うこともあるだろう。もう少し今の作業をつづけ、一
度機会を見て俯瞰のための小休止をとることにしよう。
本節では記憶力の二つの形態の関係が図示される。第一の記憶力についての説明をベルクソンの言葉で拾うと、有機体の中に定着したもの、私たちを
現在の状況に順応させ、私たちがこうむる作用をおのずから延長させ多少とも適合した反応にまで発展させるさせるもの、記憶力というより習慣。習慣
が組織した感覚=運動系の総体からなる身体の記憶力。ほとんど瞬間的な記憶力。その行動に一般性の刻印を捺す(衝動の人の・もしくは児童の)まっ
たく運動的な記憶力。第二のそれについては、たんなる習慣ではなくて本当の記憶力、意識とひろがりをひとしくするもの、私たちのあらゆる状態を保
持し順序どおり配列しながら、各事実に場所をあたえ日付をしるし本当に決定的な過去の中で動くもの。個別的なもののみを視界にとらえるまったく観
想的な(夢想家の・もしくは大人の)記憶力。
この二つの記憶力は深く異なったものだが、密接につながって一つになろうとする。私の身体と私がよぶこのまったく特殊なイマージュ、すなわち一
瞬ごとに一般的生成の横断面をなすもの、受けては返される運動の通過点、私に作用する事物と私が働きかける事物との連結線、一言でいえば感覚=運
動的現象の座においてである。かくして、かの有名な平面と円錐体の隠喩でもって両者の関係が図示されるわけだ。私の身体のイマージュ(S)を含
み、それに作用を及ぼしかつそれからの作用を受けるすべてのイマージュでもって構成される平面P(宇宙にかんする私の現実的表象)。底面AB(過
去に位して不動のまま)を上部に、頂点S(あらゆる瞬間に私の現在をあらわす)を下部にもつ逆円錐SAB。それらの接点をなすS、不断に前進する
Sにおいて二つの記憶力が一つになる。
《習慣が組織した感覚=運動系の総体からなる身体の記憶力は、ほとんど瞬間的な記憶力なのだけれども、過去の本当の記憶力がその基盤をつとめてい
る。両者はばらばらな二つのものではなく、第一のものは、すでにのべたように、第二のものによって経験の動く平面にさしこまれる動的先端にほかな
らないから、この二つの機能が互いに支持を与え合うことは当然である。じっさい一方では、過去の記憶力は感覚=運動的諸機能にたいし、それらを導
いて任務につかせ運動的反応を経験の教示する方向におもむかせうるすべての記憶を呈示する。近接と類似による連合は、まさしくそこにおいて成立す
るのだ。しかし他方では、感覚=運動機構は無力な、すなわち無意識な記憶にたいし、身体を獲得して物質化する手段、つまりは現在となる手段を提供
する。じっさい、ある記憶が意識に再現するためには、それは純粋記憶の高みから、行動の遂行を見るまさにその地点にまで、下りてくることを必要と
する。換言すれば現在こそ、記憶の応答する呼びかけの出発点であり、現在の行動の感覚=運動的要素こそ、記憶が熱気を借りて活力を与えられる場所
なのである。》(172-173頁)
それでは過去の記憶はいったいどこに保存されるというのか。それが身体(脳)ではないことは、すでに第一部の議論から明らかだ。いまはただ、溺
死や縊死から蘇生した人の報告にあるように、過去の記憶は「もっとも微細な事情にいたるまで、起こったとおりのそのままの順序で」保持されている
という事実を受け容れよう。《それ自身イマージュであるこの身体は、数多のイマージュの一部をなすものであるから、数多のイマージュを貯蔵するこ
とはできない。だからこそ、過去の知覚はおろか現在の知覚でも、脳に限局しようとする企ては空想的なのだ。それらの知覚が脳の中にあるのではな
い。脳こそそれらの中にあるのだ。》(171頁)
★12月11日(日)
『物質と記憶』の独り読書会。第三章の五節「一般観念と記憶力」と六節「観念連合」を読む。類似=知覚と差異=記憶。「意識をもつ自動人形」
(175頁)によって演じられる生きられた類似と「自己の生活を生きるかわりに夢みるような人間存在」(同)によって夢見られる差異。それらが相
互浸透し、結晶化と蒸発の二つの流れが交叉する中間的断面。そこ(自然=運動の領域)から立ちあがる精神生活(思考の領域)の本質的な現象。循環
論法をすり抜ける生の実相と知性によるその模倣。すなわち有節言語の誕生。『物質と記憶』全体のハイライトをなすこのあたりのベルクソンの議論
は、ほとんど抵抗も違和感もなく滑らかに頭に入ってくる。前後の文脈を離れて取りだしても、それだけで存分に鑑賞玩味できるベルクソン節ともいう
べき名調子が随所にちりばめられている。
たとえば五節から引くならば、「百合の白さは雪野原の白さではない。それらは雪や百合から切りはなされても、やはり百合の白さであり雪の白さで
ある。それらが個別性を捨て去るのは、私たちがそれらに共通の名をあたえるため、類似を考慮するときだけだ」(177-178頁)。「草食動物を
ひきつけるのは草一般である。力として感ぜられこうむられる…色や香だけが、その外的知覚の直接的所与である」(179頁)。「水滴の中を動きま
わるアミーバの意識がたぶんそうであるような萌芽的な意識を考えるとしよう。極微動物は同化しうるさまざまな有機物質の類似を感じても、差異を感
ずることはあるまい」(180頁)。「一般観念は表象されるまえに、…感ぜられ、こうむられるのである」(181頁)。「一般観念は…互いに他方
へと進む二つの流れの内に成立する、──たえず結晶して発音された語になろうとするか[高名な逆円錐と平面の図でいえば、底面ABから頂点Sの下
向きの方向]、蒸発して記憶になろうとしているか[頂点Sから底面ABの上向きの方向]である」(182-183頁)。
《一般化するためには類似を抽象せねばならないが、有効に類似をとり出すためには、すでに一般化することができねばならない、と私たちは言った。
本当は、循環論法などありはしないのだ。精神がまず抽象するさい出発点とする類似は、意識的に一般化するとき到達する類似ではないからである。精
神の出発点となるそれは、感ぜられ、生きられる類似、あるいはお望みとあれば、自動的に演ぜられる類似である。精神の帰り場所であるそれは、知的
に認知され思考される類似である。そしてまさしくこの進行中に、悟性と記憶力の二重の努力によって、個体の知覚と類概念が構成される。──記憶力
は自然発生的に抽象された類似に差別をつけ加え、悟性は類似による習慣から明晰な一般性の観念をとり出すのである。この一般性の観念は、元来は、
多様な状況における態度の同一性についての私たちの意識にすぎなかった。それは運動の領域から思考の領域へと遡る習慣そのものであった。しかしこ
うして習慣によって機械的に輪郭を示された類から、私たちはこの操作そのものについて成しとげられる反省の努力によって、類の一般観念へと移った
のである。で、いったんこの観念が構成されると、私たちはこんどは意図的に、無数の一般的概念を構築したのだ。この構築の細部にわたって、知性の
後を追うことはここでは必要でない。ただ悟性は自然の仕事をまね、自分もまた、こんどは人為的な運動機構を組み立てることによって、無限に多様な
個別的対象にたいし、有限数の反応をさせるとがけ言っておこう。これらの機構の総体が、有節言語なのである。》(181頁)。
あるいは六節から引くと、「私たちは類似から類似した諸対象へと進みながら、類似というこの共通の布地の上に、個々の差異の多様性を刺繍するの
である。しかもまた私たちは、全体から部分へと解体作業によって進むものであり…。[観念]連合は、したがって、原始事実ではない。分解こそ私た
ちの出発点であり、すべての記憶が他の記憶を参加させようとする傾向をもつことは、知覚の未だ分かたれていない統一へ精神がおのずから復帰すると
いうことから説明のつくものである」(186頁)。「私たちは、類似による連合と近接による連合を、その源泉そのものにおいて、またほとんど渾然
一体をなした姿で──もちろんすこしも思考されているのではなく演ぜられ生きられているのだが──ここにとらえているわけである。これは私たちの
精神生活の偶然的形態ではない」(188頁)。
第一章四節「イマージュの選択」を読んでいた頃のあの陶酔(フィロソフィカル・ハイ)が甦ってきた。一気読みへの内圧が高まってくる。しかし、
今日のところは集中力が切れてそれは不発もしくは予感のままにとどまってしまった。この内圧、予感を大切に持続させること。
★12月18日(日)
『物質と記憶』第三章の残り五節を読んだ。生命体の感覚=運動的基体をなす知覚の平面と記憶の逆円錐。本性上異なるこれら二つのものがただ一点
で交わり、記憶はそこで現実と接触する。たんに「演ぜられる」心理的生活(知覚の平面S)ともっぱら「夢みられ」てだけいるようなそれ(記憶力の
基底=円錐の底面AB)。この二つの極限状態の間を動いて、かわるがわる中間的断面にあらわされる位置をとる通常の心理的生活
(A'B',A''B'',……)。本書183頁に示されたこの高名な図を念頭におけば、ここでのベルクソンの叙述はいささかの抵抗もなくすんな
りと頭に入ってくる。
知覚の平面で経験される「感ぜられ、生きられる類似」(181頁)が「精神の工作」(185頁)を経て、それ自体で自足している記憶心象・独立
的イマージュを産み出す。まず記憶力のはたらきが類似の布地の上に差異の多様性を刺繍し、個を弁別する。次いで悟性が全体から部分への解体作業を
進め、類を構築する。第三章末尾の五節では、こうした類似と近接による観念連合のプロセスをめぐる議論が説得力をもって展開される(現代の脳科学
者がこの議論に説得されるかどうかは判らない)。
大雑把にいえば、類似とは空間的(正確には無時間的)な位置関係や形にかかわるもので、近接とは時間的(正確には時空間的)な先後関係のことだ
ろう。この二つはどこか意味記憶とエピソード記憶の区分を連想させる。だとすると、ベルクソンが「記憶力の基底をあらわす極限の平面では、近接に
よって先立つ出来事ばかりか後に来る出来事の全体とも結びついていないような記憶はない」(191-192頁)というとき、夢想の平面(AB)に
おける極限のエピソード記憶とは、まさに(終末論的な)未来感覚をもった歴史記憶とでもいうべきもので、それはショーペンハウアーの「意志」の世
界にうごめいているものなのではないか。
そのほか、私たちがもつ「現実感」とは「私たちの有機組織が刺激にたいして自然に反応するための効果的運動について、私たちがもつ意識のことで
ある」(197頁)という言い方はどこかスピノザを思わせるとか、あるいはベルクソンが語る記憶の存在様式はホログラフィとかフラクタルを連想さ
せるなど、あれこれ「発展」させると面白い素材がふんだんに盛りこまれている。
あるいはまた、純粋イマージュ(AB)から行動(S)へと収縮する記憶の運動には法則があって、「人の心を描く画家」(191頁)すなわち心理
小説家が描く観念連合が真実であるかどうかはこの法則に適っているかどうかによるという議論は、心理小説ではなく『物質と記憶』のような哲学書の
場合にはどうなるのか。端的にいうと、ここ数か月つづけているこの独り読書会は、八年を要したという『物質と記憶』執筆時のベルクソンの高次の精
神生活を反復しえているのだろうか。
書物を読んですらすら頭に入ってくるときは要注意だ。特に哲学書を読んで抵抗なく理解でき、空想・連想・妄想の類が跋扈するときは危険だ。図式
化され平板化された了解をただなぞっているだけで、そこにはいささかの記憶の収縮も精神の緊張も伴っていない。哲学的思惟もどきが自動的に演ぜら
れているだけだ。自戒の意味もこめて、以下に第三部末尾の文章を二つ抜き書きしておく(現代の脳科学者がこの議論に説得されるかどうかは判らな
い)。
《しかし観念は、生きていく力をもつためには、どこかで現実にふれること、すなわち段階を追うて、それ自身を漸次減少あるいは収縮しながら、精神
によって表象されると同時に身体によって多少とも演ぜられうることが必要であろう。私たちの身体は、一方ではそれが受け入れる感覚と、他方ではそ
れが遂行しうる運動とをあわせもって、まさに私たちの精神を固定させるもの、精神に底荷と平衡をあたえるものである。精神の活動は記憶の累積を無
限に超えるものであり、記憶の累積自身もまた、現在時の感覚と運動を無限に超える。しかしこの感覚と運動が、生活への注意ともいうべきものを条件
づけているのであり、それゆえに、精神の正常な働きにおいては、ちょうど頂点を下にして立つピラミッドのように、すべてがそれらの凝集にかかって
いるのである。
さらに最近の発見から明らかになったような神経系の精細な構造を一べつするとよい。伝導体はいたるところにみとめられそうだが、中枢はどこにも
みとめられそうにないだろう。数多の繊維が端と端を向き合わせて並んでいるし、流れが通過するときはたぶん先端と先端が近づくらしいが、それだけ
しかわからない。またもし、私たちがこの書物の中でずっと仮定してきたように、身体は受けた刺激と遂行される運動との出合う場所にすぎないという
ことが本当ならば、おそらくそれだけのことしかないであろう。しかし外界からの動揺や刺激を受けとり、適切な反応という形でそれらを外界へ送り返
すこれらの繊維、末梢から末梢へといかにも精妙に張りめぐらされたこの繊維は、まさしくそれらの結合の堅実さと、交錯の精確さによって、身体の感
覚=運動的平衡、すなわち現在の状況への順応を確保する。この緊張がゆるむか、この平衡が破壊されるかすれば、あたかも注意が生活から離れ去った
かのように見えるだろう。夢や狂気は、ほとんどこれ以外のものとは見えない。》(195-196頁)
《身体が記憶を脳の装置の形で保存するとか、記憶力の喪失や減退がこの機構の多少とも完全な破壊を本質とするのにたいし、記憶の高揚や幻覚は反対
にその活動の行き過ぎにあるとかいう考えは、それゆえ、理論によっても事実によっても確証されない。(中略)すべての事実、またすべての類推は、
脳にただ感覚と運動の媒介のみを見ようとする理論、すなわち、この感覚と運動の総体を精神生活の先端、出来事の織物の中にたえずはいり込む先端で
あるとし、こうして記憶力を現実へと向け現在に結びつける唯一の機能を身体に帰しつつ、この記憶力そのものを物質から絶対独立したものとみなすよ
うな理論に有利である。この意味で脳は有益な記憶を喚起する役に立つが、さらに他の記憶を暫定的に斥けるのにもいっそう寄与するところが多い。記
憶がどうして物質の中に住むようになるかは知らないが、──現代のある哲学者の意味深い言葉にしたがって──「物質がわれわれの内に忘却を置く」
ということは、私たちにはよくわかるのである。》(198-199頁)
★12月25日(日)
今年最後の『物質と記憶』独り読書会。第四章「イマージュの限定と固定について──知覚と物質、心と身体」の最初の二節、「二元論の問題」と
「従うべき方法」を読んだ。
冒頭で、これまでの三章から引き出される「一般的結論」が示される。すなわち、身体(脳を含む)は伝導体である。その本質的機能は、精神生活を
行動のために限定することである。それは知覚と記憶力のいずれにかんしても、表象にたいする選択の道具にすぎない。「私たちがこの仕事を企てたの
は、精神生活における身体の役割を定義するためだから」──とベルクソンは書いている──「厳密にいって、私たちはここまでにしておいてもかまわ
ないであろう」(200頁)。
おいおい待ってくれ。それだけではあまりに切ないし、だいいち尻切れとんぼだ。第七版の序に書いてあったことはどうなる。そこには「ひと口にい
えば私たちは、観念論や実在論が存在と現象に分けてしまう以前の物質を考察するのだ」(6頁)と書いてあった。そのために第一章で「物質はイマー
ジュの総体である」「物質は事物と表象の中間にある存在である」といった物質の見方を確立し、第二、第三章で手がけられる「この研究の眼目をなす
当の問題、つまり精神と身体の関係の問題」(8頁)にかかわる限りで、そこから引き出される諸帰結を第四章で示すと予告されていたはずだ。
こうして読者に気をもたせた後で、ベルクソンはおもむろに「心身結合の問題」(201頁)へと説き及んでいく。三つの二元論(唯物論と観念論、
経験論と独断論、決定論と自由意志論)をすりぬける第三の立場、中間の道を探求する。いわく、純粋知覚の理論は extension
という観念の中に非延長と延長の接近の可能性をひらき、純粋記憶の理論は緊張(収縮)と弛緩の考察を通じて質と量の接近の道を準備する(唯物論と観念論に
かわる第三の説)、等々。
第四章最終節の結語を先読みすると、それらは「延長をもつ物質は、全体として考察すれば意識のようなものであ」(245頁)るとか、「身心の区
別は空間の関数としてではなく、時間の関数として打ち立てられるべきだ」(246頁)とか、「過去は物質によって演ぜられ、精神によって思い浮か
べられる」(249頁)といった議論に結びついていく。いずれも、第一章で議論された「物質=イマージュ説」から一足飛びに引き出されるものだ。
要するに、結論はもうとうから見えている。(実は最初から、『物質と記憶』を読む前から判っていた。)あとはただこの既知感の実質をなぞるだけ
のことだ。すでに知っている事柄を再確認するだけのことでしかない。もちろん、論証の過程で新しいアイデアがいくつか示されることだろう。今日読
んだところでいえば、たとえば「空間を通してなされる純粋持続の一種の屈折作用」(207頁)、つまり直接的な「現実との接触」(「真の経験、す
なわち精神とその対象がじかにふれ合うことから生まれる経験」205頁)から「経験の曲がり角」を経て実生活の必要のために行われる「現実の細分
化」へといたる作用がそうだ。
また「哲学的探求の最終段階は、まぎれもない積分の努力なのである」(207頁)とか、純粋持続の理論を物質に適用して、アフォーダンスの理論
の先触れのようなことを述べたり、物質をその背後にひろがる「記号的図式化」(等質的空間)から解放する直接的認識の可能性に言及したりするくだ
り(207-208頁)には興奮させられる。
しかしそうした細部の議論も、結論を先取りした脳髄には通りすがりの心惹かれるエピソードでしかない。これではだめだと思う。哲学的思索の書を
読んで、そこに結論をしか見ないのであれば、そもそも読む価値がない。なにかが判るために読んでいるわけではないのだ。もっと逐行的に、細かく
割って読まないといけない。
内田樹が『死と身体──コミュニケーションの磁場』(109頁)で、「一流のピアニストが指一本でポンと弾く音と、ぼくが同じようにポンと弾く
音では音の厚みが違う」と書いている。「どうして音が違うかというと、プロのピアニストはキーに触れてからキーが止まるまでの指の動きを、たとえ
ば一○に割って、その一つひとつの動作単位に緩急濃淡をつけることができる。(略)ぼくたちが人の身体表現を見て、「厚みがある、深みがある、美
的な感動を受ける」というときには、たいていはその動きの「割れ方」が緻密だからなのです」。
このことと関係しているのかどうか自信はないが、ベルクソンは次のように書いている。決定論と自由意志論に対する第三の立場として、「ちょうど
花から実を結ぶようにそこ[行動]から発展しつつ、何か絶対に新しいものをそこにつけ加えるという風なのである」と説明される、純粋持続の「現実
に生きられた連続」に身を置くことが示された後につづく文章である。
《しかし考える存在である人間においては、自由な行動は感情と観念の総合ともいうべく、そこへ導く発展は合理的な発展であるといえる。この方法の
工夫はといえば、要するに、日常的ないし功利的な見地と真の認識のそれとを区別するだけのことである。私たちが自分の行動を注視するときの持続、
自分を注視することが有益であるときの持続は、諸要素が互いに分解し並列する持続である。しかし私たちが行動するときの持続は、私たちの諸状態が
互いに溶け合うときの持続であり、行動の本性について思索する例外的な唯一の場合、すなわち自由の理論においては、私たちは思考によって、まさに
そのような持続の内にこそ、身を置きなおすことをつとめねばならないのだ。》(208頁)
★12月26日(月)
昨日、『物質と記憶』の結論が見えている、そういう頭で読み進めてはいけない、もっと細部を細かく割って読まなければいけないと、自戒の言葉を
書き連ねた。これを言いかえれば、よく判らない箇所がある、そういうところを読み飛ばしてはいけない、というしごく当たり前のことだ。
たとえば、「純粋持続の理論を物質に適用して、アフォーダンスの理論の先触れのようなことを述べたり、物質をその背後にひろがる「記号的図式
化」(等質的空間)から解放する直接的認識の可能性に言及したくだり」とおぼろげに要約しておいた次の箇所。昨日抜き書きした文章に続くもので、
冒頭「この方法」と書かれているのは「再び純粋持続に身を置く」こと。
《この方法が、物質の問題に適用されうるだろうか。問題は、カントの語ったこの「現象の多様」の中で、ひろがりをもつ傾向のある漠然たる総体が、
──ちょうど私たちの内的生活が再び純粋持続と化するように無限の空虚な時間から分離されえたのと同じく──その押しあてられる場所であり私たち
の手でそれを分割する媒介でもある等質的空間のこちらがわで、つかまりそうかどうかを知ることである。もちろん、外的知覚の基本的条件を超えよう
などと企てるのは空想もはなはだしいだろう。しかし私たちがふつう基本的とみなしているある種の条件は、私たちが事物についてもつことのできる純
粋な意識よりも、むしろはるかに事物の使用、その実際的効用にかかわるものでないかどうかという点に問題がある。さらにくわしくいえば、具体的で
連続し、多様化しつつもまた組織された延長にかんしては、背後にひろがる無定型な活力のない空間と結ばれているということに異議を申し立てること
もできるのだ。その背後にひろがる空間は、私たちが無限に分割し、そこから任意に図形を切りとるものであって、そこでは何ものも過去と現在の凝集
を保証しないから、運動そのものも、他のところでのべたように、ただ瞬間的位置の多様性としてあらわれるにすぎないのである。だから、ある程度ま
で、延長を去ることなく空間からはなれることができるわけであり、この点にこそ直接的なるものへの復帰があるだろう。というのも、私たちは空間を
図式的にとらえることしかしないけれども、延長はというと、それこそ本当に知覚するからである。この方法は、直接的認識に、得手勝手に特権的価値
を付与するものとして非難されるだろうか。しかし私たちは或る認識を疑うという考えそのものをいつか抱くことはあるにしても、反省の示す困難や矛
盾なしには、哲学の提起する諸問題なしには、疑うべきいかなる理由もない。そのさいもしこれらの困難、矛盾、問題が、とりわけこの認識をおおいか
くす記号的図式化から生まれるということ、すなわち私たちにとって実在そのものと化し、高度な例外的努力のみがその壁を突き破るのに成功する記号
的図式化から生まれるということを明らかにすることができれば、直接的認識はそれ自身の内に正当な根拠と証明を見いだすのではあるまいか。》
(209-210頁)
この文章が「延長をもつ物質は、全体として考察すれば意識のようなものであ」るという驚くべき命題、しかし「物質はイマージュの総体である」か
らの当然の帰結に関係していることはよく判る。が、いまひとつ頭の中にすっきりと入ってこない。たんなる国語の問題なのかもしれない。『意識に直
接与えられたものについての試論』を再読すれば、それですむことなのかもしれない。後に続く議論を読めば、すんなり理解できることかもしれない。
いずれにしても、この「よく判らない」という感じは大切にしなければいけない。と、また自戒。
☆2006
★1月8日(日):『物質と記憶』(第20回)
今年最初の『物質と記憶』独り読書会。先週休んだのと(あまり関係はないが)年があらたまったのとで、ウォーミングアップがてら昨年暮れに読ん
だ第四章冒頭を「逐行的に」読み返した。読み込めば読み込むほど、ベルクソンの議論の面白さと周到さがじわっと浸透してくる。今回、一つ「発見」
があった。ほんとうはもっとたくさんの「発見」があったのだが、ここでは一つだけ記録しておく。
「心身結合の問題」について、ベルクソンは書いている。「すべての学説におけるこの問題の困難さは、私たちの悟性が一方で延長と非延長との間
に、他方で質と量との間に設ける二重の対立からきている」(202頁)。ここから「非延長+質=精神」と「延長+量=物質」の二項が帰結され、後
者が前者を導出すると称する唯物論と、後者は前者の構築物であるとする観念論の対立が生じる。
これに対してベルクソンは「通俗的二元論」を極端まで(つまり「純粋知覚」=物質と「純粋記憶」=精神の二分にまで)徹底することで、非延長と
延長、質と量との間に接近の道を用意する。まず、脳(行動のための器官)を知覚から切り離し、知覚を事物そのものの中へ置きもどす「純粋知覚」の
理論を通じて。「純粋知覚の分析は、ひろがり extension
という観念の中に、延長と非延長の可能な接近をほのめかしたのである」(203頁)。
ついで、記憶を物質から(したがって脳の働きから)切り離し、精神の側に置きもどす「純粋記憶」の理論を通じて。《さてもしすべての具体的知覚
が、どんなに短い場合を仮定しても、すでに、相継起する無数の「純粋知覚」の記憶力による総合であるとすれば、感覚的諸性質の異質性は、私たちの
記憶作用におけるそれらの収縮に由来するものであり、客観的諸変化の相対的等質性は、それらの自然な弛緩から由来するものと考えるべきではなかろ
うか。そうすると量と質との隔たりは、ひろがりの考察が延長物と非延長物の距離をせばめたのと同じように、緊張の考察によってせばめられうるので
はなかろうか。》(204頁)
すこし端折りすぎたが、今回「発見」したのは、引用文の最後にでてくる「ひろがり extension」と「緊張
tension」の対になる語が、実を韻を踏んでいたということだ。だからどうだと問われても困るが。(これに「内包
intension」がどうからんでくるのか。それは今後の目の付け所の一つだろう。)
引用文に書かれている、純粋記憶の収縮と純粋知覚の弛緩とでもって現在の具体的知覚が合成されるというくだりを読んで、第三章の冒頭を「逐行的
に」再読した。ここもまた読み込めば読み込むほどに面白い。
あと数か月で読了する『物質と記憶』独り読書会のあとのことを考えて、この正月、岩波文庫の『創造的進化』と『道徳と宗教の二源泉』を「書庫」
から引っ張り出してきて、『思想と動くもの』とあわせて三点を本箱に揃えている。でも、ようやくその面白さが身に染み込みはじめた『物質と記憶』
をそんなに簡単に手放していいものかどうか。(悩むのは、とにかく最後まで読み終えてみてからにしよう。)
★1月22日(日):『物質と記憶』(第21回)
『物質と記憶』第四章を読み終えた。先週の日曜日に前半、「二元論の問題」「従うべき方法」の二節と「知覚と物質」の途中まで読み、その続きと
「持続と緊張」「延長とひろがり」「心と身体」の三節を今日一気に読んだ。二度目の陶酔(フィロソフィカル・ハイ)が到来した。最後の節の冒頭
に、「このようにして私たちは、長い回り道をへて、本書の第一章でとり出しておいた結論に立ちもどってくる」(244頁)と書いてある。ここに出
てくる「本書の第一章でとり出しておいた結論」とは、「私たちの知覚は元来精神ではなくむしろ事物の内に、私たちの内ではなくむしろ外にある」
(同)というものだ。これはまさに、最初の陶酔を覚えた第一章四節「イマージュの選択」に書いてあったことそのものである。その節の最後に出てく
る文章を抜き書きしておく。
──発光点Pからの光線が網膜の諸点a・b・cに沿って進み、中枢に達してからのちに意識的イマージュへと変換され、これがやがてP点へと外化
される。しかしこの説明は科学的方法の要求に従っているだけのことで、全然、現実的過程をのべていない。《じっさいには、意識の中で形成されての
ちにPへと投射されるような、ひろがりのないイマージュなどは存在しない。本当は、点Pも、それが発する光線も、網膜も、かかわりのある神経要素
も、緊密に結び合った全体をなすのであり、発光点Pはこの全体の一部をなしていて、Pのイマージュが形成され知覚されるのは、他の場所ではなく、
まさにPにおいてなのだ。》(49頁)
ここに出てくる「全体」という言葉は、第四章「延長とひろがり」の節の「或る対象の視覚的知覚においては、細胞も神経も網膜も、そして対象その
ものも、緊密に結びついた全体、すなわち網膜の像も一挿話にすぎない連続的過程を形づくっているということは、本書の冒頭で示したように真実では
なかろうか」(240頁)と響き合っている。さらに遡れば、「知覚と物質」の節に出てくる「問題はもはや、いかにして物質の特定の部分の中に位置
の変化が生ずるかということではなく、いかにして全体の内で位相の変化が遂げられるかという点にかかわるであろう」(219頁)とか「なぜ私たち
は、あたかも万華鏡を回転したかのように全体が変わるということを、そのまま端的にみとめないのであろうか」(220頁)とも響き合っている。
このあたりのベルクソンの議論(茂木健一郎のいう「マッハの原理」を思わせる)にはアインシュタインの影を感じる。『物質と記憶』の刊行は
1896年だから、その「影」は未来から投げかけられたものであろう。というか、ベルクソンもアインシュタインも同じ一つの時代精神のうちにあ
る。そういう粗雑なことを喚いていても始まらないので、いまなお余韻がつづくフィロソフィカル・ハイの実質を丹念に「割って」いかなければならな
い。ほとんど「祖述」に近いかたちで語り直すこと。何度でも最初から語り直すこと。それが哲学書を読むという経験であろう。
★2月5日(日):『物質と記憶』(第22回)
『物質と記憶』独り読書会を再開した。先々週、一気に終章を読み飛ばしてしまい、なんとなく「読了」した気分になっている。まだ巻末の「概要と
結論」を読んでいない。それでなくとも、第四章でのベルクソンの思考を追体験する作業をさぼっている。
この「読書会」を始めたとき、心に決めていたことがあった。それは、けっして読み急いではいけないということだ。細部の議論にこだわらず粗視的
に全体を俯瞰したり、遡ってざっとこれまでの叙述を眺めることは時折必要だと思う。しかし、それは議論の流れを見失わないための補助作業であっ
て、基本は、一字一句おろそかにせず、丹念に逐行的に読み込んでいくことに徹しなければならない。判らないところは何度でも足踏みをし、読み返
し、できれば(判らないままに)細部の思考の流れをソラで反復できるほどに読み込む。これは私の書いた文章だと思い違いをするほどに読み込むこ
と。そして何度でもそこに立ち返り、日所座臥の折節に反復すること。だから、この本を(判る判らぬにかかわらず)最後まで読み終えるのに最低1年
はかかるだろうとふんでいたのだった。
もっとも避けなければならないのは、いささかの抵抗感も覚えずに、すらすらと読める状態に陥ってしまうことだ。それだと、読む前から判っていた
ことをただなぞっているだけのことで、判ること、判っていると思うことの実質を問う動機がなくなる。少なくとも哲学書を読む意味はそこにはない。
それよりもむしろ、判らないまま読み終える方がはるかに意味がある。理解不能な巨大な謎をかかえこんで、右往左往、七転八倒する身体のあり様を、
文字通り身をもって体験できる。
いま、ちょっとした曲がり角を迎えている。ベルクソンの議論がすべて判ってしまう。どんなことが書かれていても、直ちに理解してしまうのであ
る。たとえば次の文章を、いまの私はいっさいの抵抗もなく受け入れる。
《延長をもつ物質は、全体として考察すれば意識のようなものであって、そこではすべてが平衡を保ち、補い合い、中和しているのである。それはまぎ
れもなく私たちの知覚の分割不可能性を呈示するのだ。そういうわけで私たちは、躊躇なく物質の延長の何ものかを、知覚に帰することができるのであ
る。知覚および物質というこの二つの言葉は、私たちが行動の先入観ともいうべきものから免れるにつれて、このように互いに歩みよる。感覚はひろが
りを回復し、具体的延長物はその連続と自然的不可分性をとりもどす。また両項の間に越えがたい障壁として立っていた等質的空間は、もはや図式ある
いは記号の実在性以外には実在性をもたない。それは物質に働きかける存在の活動にはかかわりをもつけれども、その本質を思索する精神の努力にはか
かわりをもたない。
まさにこのことから、私たちの全研究の焦点をなす問題、すなわち精神と身体の統一の問題が、ある程度まで解明される。二元論的仮説でこの問題が
やっかいなのは、物質を本質的に分割可能なものとみなし、精神の状態を、厳密にひろがりのないものとみなすことによって、はじめに両項の連絡を
絶ってしまうところからくるのである。それで、この二重の要請を深く追求してみると、物質にかんしては、具体的な不可分の延長とその下にひろがる
空間との混同があり、同じくまた精神にかんしても、延長と非延長との間には、程度もなく可能な推移もないという幻想的観念がそこに発見される。し
かしこの二つの誤りが共通の誤りを内に含み、観念からイマージュへ、またイマージュから観念への漸次的移行があり、精神の状態はこうして現実すな
わち行動へと発展するにつれてそれだけひろがりに近づき、最後に、ひとたび獲得されたこのひろがりは、あくまでも不可分であって、それゆえに精神
の統一となんら不調和を来たさないとすれば、精神は純粋知覚の働きにおいて物質と重なり、その結果物質と合一するけれども、それにもかかわらず根
本的に物質から区別されることがわかる。精神はこの場合すら記憶力、すなわち未来をめざしての過去と現在の総合であり、この物質の諸瞬間を集約し
て利用し、その身体との統一の存在理由である行動を通じてあらわれようとする点で、物質から区別されるのである。したがって本書の冒頭で、身心の
区別は空間の関数としてではなく、時間の関数として打ち立てられるべきだとのべたことは、正しかったわけである。》(245-246頁)
この文章に書かれていることの、いったい何が判っているというのだろう。判るとはどういうことなのだろう。言葉でのべられたことの意味が判るこ
とと、「精神と身体の統一の問題が、ある程度まで解明される」こととは一致するのだろうか。
こうして、独り読書会が再開される。今日のところは、巻頭の「第七版の序」を読み返し、「概要と結論」の前半にざっと目を通した。一から出直
し。
★2月6日(月):『物質と記憶』(第22回・補遺の1)
小林秀雄は『感想』で次のように書いている。
《私は、ベルグソンの著作に、文学書に接するのと同じ態度で接して来た。作者の観察眼の下で、哲学という通念が見る見る崩壊して行く有様に、一種
の快感なぞ感じたりして、自分の読み方は十分に文学的であると思っていた。だが、今にして思えば、少しも十分ではなかったのである。様々な普遍的
観念の起原や価値をめぐる問題に関する論争で、哲学史は一杯になっているのだが、もし、そういう所謂哲学上の大問題が、言葉の亡霊に過ぎぬ事が判
明したなら、哲学は「経験そのもの」になる筈だ、とベルグソンは考えた。実際、自分の哲学をそういうものにした。哲学という仕事は、外観がどんな
に複雑に見えようとも、一つの単純な行為でなければならぬ。彼は、そういう風に行為して、沈黙した。彼の著作は、比類のない体験文学である。体験
の純化が、そのまま新しい哲学の方法を保証している。そういうものだ。》(新潮社『小林秀雄全集』別巻Ⅰ,19頁)
小林秀雄は続けて、『物質と記憶』を熟読するものは少ないだろうが、『創造的進化』なら買ってみる人は多かろう、それはベルクソンの著作のうち
で一番文学的であり、いわば「生物学的叙事詩」であると書いている。「彼は、たまたま文才のあった哲学者という様な人ではない。生れながらの詩人
が文才と衝突するのと全く同じ具合に弁証法の才と衝突した哲学者なのである。」以下、「詩人の宝は、自ら体験したもの感得したものだけだ」云々
と、熊野純彦氏が『メルロ=ポンティ──哲学者は詩人でありうるか?』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版)の冒頭に引用した文章が続く。
《体験したもの感得したものは、言葉では言い難いものだ。という事は、事物を正直に経験するとは、通常の言葉が、これに衝突して死ぬという意識を
持つ事に他ならず、だからこそ、詩人は、一たん言葉を、生ま生ましい経験のうちに解消し、其所から、新たに言葉を発明する事を強いられる。ベルグ
ソンが、自ら問うたところは、こういうやり方は、果して詩人の特権であるか、それとも、詩人の特権と見られるほど深く世人の眼に覆われて了った当
り前な人生の真相なのであるか、という事であった。/彼は先ず「意識の直接与件論」でこの問題を提出した。誤解を恐れずに言うなら、それは、哲学
者は詩人たり得るか、という問題であった。》(20頁)
──この話題はここで終わる。『物質と記憶』第四章の冒頭(204~210頁)に、関連する叙述が出てくる。このあたりのことを、ベンヤミンの
言語論や経験論と関連させてみると面白いと思う。
★2月7日(火):『物質と記憶』(第22回・補遺の2)
内田樹さんが『インターネット持仏堂1 いきなりはじめる浄土真宗』(その5「宿命」論)で次のように書いている。
《恋というのは「昨日と同じ風景が今日は違って見える」というかたちで顕在化します。それは性的な欲望や不充足とは違うレベルの、「昨日までとは
別の物語的文脈へシフトすること」への人間的渇望をおそらく語っています。/「猟奇的な彼女」が「同じ男の子が二度目の前に現れる」という奇跡的
な「再臨」にある種の「宿命」を感じなかったとしたら(それは「不気味さ」と本質的には同じものです)、この映画はハッピーエンドにはなりませ
ん。/人間を幸福にする手がかりの一つは、無限のランダムな事象のうちから、「これとあれは同一物だ」と同定するこの直感力のうちにあるのではな
いでしょうか。私はそれもまた一種の宗教的覚知のように思われるのです。》(56頁)
──この話題もまた、これ以上発展しない。『物質と記憶』にたくさん出てくる二元論のうち、最後のものが「必然と自由」だった。このあたりのこ
とも、ベンヤミンの運命論や性格論と関連させると面白いと思う。
★2月23日(木)
ベルクソンの『物質と記憶』の最後に、物質にとって過去は現在のうちにあり、精神にとって過去は演じられるものだといった趣旨のことが書いて
あったはずだが、いま手元に本がないので確認できない。
【後記 06/02/25】
やはり、記憶だけで書くといい加減になる。『物質と記憶』の末尾はこうなっている。
《ところで、すでに示したように、精神の最低段階──記憶力のない精神──ともいうべき純粋知覚は、真に、私たちの理解しているような物質の一部
をなすであろう。さらにつっこんで言えば、記憶力といえども、物質がいかなる徴候ももつことなく、すでにそれなりに模倣していないような機能とし
て介入してくるのではない。物質が過去を記憶しないとすれば、それは物質が過去をたえず反復するからであり、必然の支配下に、それぞれ先立つもの
と等価でそこから導出されうるような諸瞬間の系列をくりひろげるからである。このようにして、物質の過去はまぎれもなくその現在のうちにあたえら
れている。しかし多少とも自由に進化する存在は、刻一刻新しいものを創造する。だから、もし過去が記憶の状態でその中に沈澱しているのでないとし
たら、その現在の内にその過去を読もうと努めても無益であろう。このようにして、本書ですでにいくたびか出てきた比喩をくり返すならば、同様な諸
理由によって、過去は物質によって演ぜられ、精神によって思い浮かべられるのでなくてはならぬ。》(248-249頁)
★2月26日(日):『物質と記憶』(第23回)
『物質と記憶』独り読書会を再開した。前回、「一から出直し」と書いた。今日、三週間ぶりにようやく本を開き、とりあえず「概要と結論」の後半
に目を通そうとしたけれど、まるで集中力が働かず、早々に断念。しばらく「リハビリ」が必要かもしれない。
昨日とりあげた河野哲也著『〈心〉はからだの外にある』の第一章「環境と共にある〈私〉──ギブソンの知覚論から」を読みながら、しきりに桑子
敏雄さんの議論とベルクソンのことを想起していた。桑子さんについては、「身体の配置」や「空間の履歴」といった桑子哲学のキーワードがアフォー
ダンスの理論に親和的であるという、ただそれだけの単純な思いつき。何しろ、『環境の哲学』も『西行の風景』も『理想と決断』も、それから以前、
本人から送っていただいた雑誌掲載論文のいくつかも、いまだ読み終えていない。いつかまとめて集中的に読み込むつもりなのだが、その「いつか」は
なかなかやってこない。
ベルクソンとアフォーダンスの関係については、實川幹朗著『思想史のなかの臨床心理学──心を囲い込む近代』に印象的な指摘がなされていた。こ
このところはとても大切だと思うので、以前書いた文章をまるごとペーストしておく。(そういえば、ベルクソンと中世神学の関係については、ジルソ
ンの『神と哲学』にも印象的な叙述があった。)
實川氏によると、知覚を環境との関わりの可能性ととらえる「アフォーダンス」の理論は中世以来の発想の枠組みのなかにある考えであって、百年ほ
ど前のベルクソンによっても語られ、その後メルロ=ポンティが洗練された形で示した(『思想史のなかの臨床心理学』233頁)。この指摘は、次の
文章につけられた註のなかに出てくる。
《一三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった。「現実態(アクトゥス)」とは、古代から中世の哲学用語である。それは
「可能態(ポテンチア)」から、つまり存在の可能性だけある状態から抜け出して、存在を実現している状態を意味する。何だか古くさい、かた苦しい
言葉づかいに聞こえるかもしれない。しかし、このような発想自体は、現代の西洋思想でも、あいかわらず、新しげなよそおいで続けられている。》
(同72-73頁)
内田樹氏は『死と身体』で、甲野善紀氏の「人間の身体は、一瞬手と手が触れただけで、相手の体軸、重心、足の位置、運動の力、速さがわかる」と
いう言葉と、「人間は指と指がふれた瞬間に無限の情報が伝授される」というヴァレリーの身体論を紹介している。
《一九世紀から二○世紀の初めぐらいには、運動性の記憶とか、運動性の知覚と伝達とかは、ヨーロッパではまっとうな学問として存在していた。それ
がなぜか一九二○年代にあらかた消えてしまう。「記憶を司るのは頭ではなく身体である。記憶は運動的なものである」というベルクソンやヴァレリー
の考え方が一掃され、もう誰も相手にしなくなるのです。(略)プルーストの『失われた時を求めて』では、つまずいてよろけた瞬間にありありとむか
しのことを思い出すという有名なくだりがありますね。一九世紀までは、ある構えをすると身体記憶、過去の体感が、場合によっては自分自身が経験し
ていない他者の体感がよみがえってくるというのは「常識」だったんです。それが九○年ほど前に、常識から登録抹消された。》(『死と身体』
114-115頁)
この文章の最後に出てくる「自分自身が経験していない他者の体感がよみがえってくる」には強調符がついている。これを目にしたとき、私は『思想
史のなかの臨床心理学』でのある議論(第一次意識革命をめぐるもの)を想起した。
實川氏は「歴史的には、意識と物質は西洋においても古代以来、一九世紀まで一体だった」(『思想史のなかの臨床心理学』139頁)という。とこ
ろが近代になって、臨床心理学による古代以来の「物質的な無意識」や「無意識の理性」(神の理性)に替わる新しい無意識の「発明」に先だち、物質
と精神の二面をもつ中性的で根源的な(自然科学を基礎づける究極の事実としての)新しい意識が「発明」された(同142頁)。ユダヤ=キリスト教
的な「神の理性」の後継者としての意識が登場し(意識革命)、世界は「神の国」から「意識の国」へと変換された。
《ここで、ひとつ注意しておきたいことがある。「意識革命」が起こり、「意識の国」が築かれたとは言っても、この時代にはまだ、意識は公共のもの
だったという点である。すなわち、意識は個々人の内側に閉じ込められてはおらず、もちろん感覚も含めて、みなが共有できるものだった。(略)意識
が、観察できない個々人の秘められた主観性だと一般に考えられるようになるのは、二○世紀になってからである。》(同143頁)
★2月27日(月):『物質と記憶』(第23回・補遺)
とうとう、アンリ・ベルクソン/ジル・ドゥルーズ編『記憶と生』(前田英樹訳)を買った。『物質と記憶』の副読本として、ドゥルーズの『ベルク
ソンの哲学』(宇波彰訳)を常備し、折にふれて部分読みや流し読みをしている。でも、ドゥルーズの文章は「雰囲気」は濃厚に伝わるのだが、なかな
か腑に落ちない。随所にちりばめられた決め言葉は実に鋭く、簡潔に概念を言い表していると思うのだが、これをどう希釈すればいいのか手がかりがつ
かめない。希釈などしなくていいのかもしれないが、そのままだと濃縮されすぎていて、「実用」に向かないのだ。たとえば、「持続は本質的に記憶で
あり、意識であり、自由である。そして持続が意識であり自由であるのは、それがまず第一に記憶だからである」(51頁)。これなど、ほとんど『物
質と記憶』の全議論を一言で要約している。しかし、哲学の議論を要約してみたところで、それはなんの役にも立たない。出来合の砂糖水を労せず飲む
ようなものだ。ベルクソンを知りたければ、ベルクソンを読まなければならない。
ドゥルーズによる選文集『記憶と生』は、ベルクソンの主要著作(7冊)からの抜粋(77篇)を組み合わせ、これらにタイトルを含めて章節の結構
を与えた「ベルクソン自身のもうひとつの主著」(訳者まえがき)である。『物質と記憶』の独り読書会が、最後の最後で「頓挫」しかかっている。こ
の際、いったん単独のテキストから離れて、前田英樹いうところの、ドゥルーズが自らの出発点に打ち込み生涯変わらず保持しつづけた「ベルクソニス
ムという楔の形」なるものを味読してみようか。前田氏は「ひとつの節ごとを、節と節との繋がりを、ごくゆっくりと読んでもらいたい」と書いてい
る。「そうすれば、ドゥルーズの考案したタイトルの総体が、いかに驚くべきものかも、だんだんとわかってくる」。この「ゆっくりと」読むこと、
「だんだんと」わかってくることが、哲学書を読む秘訣であり、醍醐味だろう。私(水)のうちに思考(砂糖)が浸透し、私が私でないもの(砂糖水)
に成ること。
★3月12日(日):『物質と記憶』(第24回)
巻末の「概要と結論」を最初から通読して、これで『物質と記憶』全編を読了した。ほぼ8ヶ月かかって、とりあえず所期の目的(判ろうが判るまい
が、とにかく一度は最後まで読む)を果たしたわけだが、あまり達成感がない。ベルクソンの思索が身心のすみずみに浸透して、物の見え方、世界のあ
り方がすっかり更新されたという実感がない。
最近読んだ『はじめの哲学』の中で、三好由紀彦さんがこう書いている。科学は人間の感覚や経験を前提としたものだ。つまり、科学は世界を説明す
るために、この世界を前提とせざるを得ない。だから、存在の世界の「いちばん最初の根っこ」(因果関係の糸の端っこ)をつかまえるためには、素粒
子を観察する眼をさらに観察する眼をもたなければならない。見ることをさらに見ること。それこそ、哲学の仕事である。しかし、哲学もまた、あくま
で経験できる世界のことしか論じない。論理的に証明不可能なこと、たとえば死後の世界の有無について論じるのは、哲学本来の目的ではない。宗教だ
けがこの無知を飛び越えるのだ。
ベルクソンの純粋知覚(=物質)の説を徹底すれば、石にも知覚があることになる。それどころか、物質的宇宙そのものにも意識(知覚)はあること
になる。同様に、純粋記憶(=精神)の説を徹底すれば、死後の生(記憶)はもとより、生前の生(記憶)も実在することになる。宇宙そのものの記憶
を考えることだってできる。物質と精神がひとつながりのものになる。
『物質と記憶』の議論は、精神と物質の合流点、つまり身体における知覚と記憶の接触の場面(行動の平面)に限られている。この限定が、『物質と
記憶』という作品に一種の品格のようなものをもたらしていることは事実だ。そこから一気に記憶の存在論、精神の実在論がなりたつ場面(夢想の平
面)にまで飛びたちたいと、私の思考がうずいている。しかし、そのための梯子が見あたらない。
★3月18日(土)
先週、『物質と記憶』を読み終えてから、日常座臥、ベルクソンの文章に浸っていたいと思うようになった。まるで、恋をしているような気分。ベル
クソンの文章に接しているときだけ、心と躰のもやもやが晴れて、澄み切った気持ちになれる。外出先でも手軽にふれることができるよう、『思想と動
くもの』(河野与一訳,岩波文庫)をつねに持ち歩くようになった。「緒論(第一部)
真理の成長。真なるものの逆行的運動。」を読んだ。「哲学は、エレアのゼノンがわれわれの悟性によって考えられているような運動および変化に固有な矛盾を
指摘した日から始まった」(20頁)という、高名なくだりが出てくる。この人の文章は、早く読みすぎるとまるで面白くない。「コップに一杯砂糖水
をこしらえようと思うと、どうしても砂糖が溶けるまで待たなければならない。この待たなければならないことが意味のある事実である」(26頁)。
★5月21日(日):『記憶と生』(第1回)
以前、「日常座臥、ベルクソンの文章に浸っていたいと思うようになった」と書いた。「まるで、恋をしているような気分」とも。「ベルクソンの文
章に接しているときだけ、心と躰のもやもやが晴れて、澄み切った気持ちになれる」とも。あれからほぼ二ヶ月。ようやく今日、ベルクソンを少し読ん
だ。ドゥルーズによるアンソロジー『記憶と生』(前田英樹訳)に収録された77篇のテキストのうち、「持続の本性」のタイトルで括られた冒頭の5
篇。昨年、『物質と記憶』でやったように、毎回ノートをとることにした。続くかどうかわからないが。
で、ベルクソンが考えた「持続」の本性とはなにか。今日読んだところでは、『創造的進化』からとられたテキスト3「心理学を超えて:持続、それ
は全体である」が印象に残った。それは『物質と記憶』の最後に出てきた、「延長をもつ物質は、全体として考察すれば意識のようなもの」であるとい
う(驚くべき)規定につながる。つまり、「物質(の歴史)の持続」というアイデア。「宇宙は持続する。時間の性質を掘り下げるほど、いよいよ明ら
かになってくることは、持続とは発明であり、形態の創造であり、絶対的に新しいものの絶え間ない生成だということだろう。」(『記憶と生』20
頁)この程度の抜書きでもって軽く通り過ぎていくことはできないと思うが、まだ始まったばかりなので、今日のところはこれでよしとしよう。
それにしても『記憶と生』は素晴らしいアンソロジーだ。他人の著作群をバラバラに解体し、これを再編集して一冊の未完の著書をつくりあげる。各
テキストにふられた註(「テキスト※参照」)に沿って他のテキストに飛び、また戻って読むといった作業を繰り返していくうちに、その未出現の書物
が読者の脳髄のなかにかたちづくられていく。およそ思考というものが、なにもないところからは立ち上がらないものだとすれば、そうした思考のあり
方そのものをこのアンソロジーはかたどっている。
★5月28日(日):『記憶と生』(第2回)
今日は手元に『記憶と生』がないので、先週読んだ「持続の本性」の周辺の話題を、別のテキストから拾っておく。別のテキストというのは、金森修
さんの『ベルクソン』。ここで拾っておきたいのは、「純粋持続を探せ」の章名をもつ第一章の後半に出てくる「物[もの]的な持続」(46頁)をめ
ぐる議論。
──「多少とも持続的なもの、つまり、そのものそれ自体がもつなんらかの性質によって、それが継続的に存在しているようなもの」(42頁)は、
人間の意識だけではない。たしかに通常の物質は記憶を知らない。本当の意味での時間性を知らない。物質が変化を遂げても、物質自身は変化を変化と
見届けられない。でも、先入見なく自然を観察すると、Aのあとには必ずBが起こるといった定型的なパターンの存在に気づくだろう。AからBへのつ
ながりは、必然性を帯びているように見えるだろう。でも、AやBはただの物や事なのだから、自分が持続しているという意識はみじんももたない。
《にもかかわらず、AとBはつながっているという認識をもつ人間は、それが日常生活で便利だからそうするのだ、というだけではない。その対象自体
がもつなんらかの性質によって、それらがつながっていると見なさざるをえないということに気づく。その事態を人間が形容する場合、より物[もの]
的な世界のなかでは、Aが原因で、Bはその結果だというようないい方をするかもしれない。またより事[こと]的な世界のなかでは、Aは定理で、B
はその系だというようないい方をするかもしれない。/いずれにしろ、そこにはある種の必然性があり、しかもその必然性は、一種の〈展開〉として、
文字通りの意味では一瞬には与えられないものとして、存在するのだ。》(43頁)
持続、すなわちある種の必然性の一種の展開。──著者はつづけて、ベルクソンの次の文章を引用し、「このさりげない一文は、おそらくベルクソン
が書いた文章のなかでも、最も深いものの一つだろう」と書いている。
《確かに、たとえ事物はわれわれのようには持続しないとしても、事物のなかにはなにかよくわからない理由があり、そのせいで、いろいろな現象は、
すべてが同時に生起してしまうのではなく、継起的に出現するように見えるということを、われわれははっきりと感じている。》(『時間と自由』第三
章)
ここに記された思考のどこがどう「深い」のか、金森氏の記述はいまひとつ要領を得ない。物質界にも徐々に生起する継起というものはある、たとえ
ば「もし私が一杯の砂糖水を作ろうとした場合、とにかく私は、その砂糖が溶けるのを待たねばならないのである」(『創造的進化』第一章)。そんな
引用でお茶を濁している。
私も「深い」と思う。『物質と記憶』ではさらに「物[もの]的な知覚」ともいうべき事柄をめぐる議論が展開されるのだが、こうしたベルクソンの
思考の「展開」そのものも含めて、このあたりのことはベルクソン哲学の要石的なところではないかと思う。と、ここで止めておけばいいものを、物活
論などをもちだすと、お里が知れるというものだ。でも、ベルクソンの議論は、アニミズムを含めた「神話的思考」と親和的である。中沢新一さんの
「対称性論理」をもちだしてもいい。思考には質料(具体的な素材)が必要だ。そのような「感覚の論理」(レヴィ=ストロース)にのっとった具体的
な思考(哲学的思考と言い切ってもいい)は、かならず物語のかたちをとる。
★5月29日(月):『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』
金森修さんの『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』はずいぶん前に読んだ。端正な文章で叙述されたベルクソンの「常識離れ」した思考の
急所、とくに「重々しい晦渋さ」(76頁)に覆われた『物質と記憶』での「途方もない」(88頁)議論のいくつかを、簡明かつ端的に紹介した好著
だった。しかし、この簡明・端的さが、ベルクソン哲学への入門書としてはともかく、誘惑の書としての力を殺いでいる。
著者は、ベルクソンの「すごさ」についてこう書いている。
《…重要で難しい問題について、なにかを考えて判断を下すとき、極端なことをドカッといってのけて、あとは平然としているという人がいる。そんな
人は、威勢がいいだけにすごい思想家のように見えるものだけど、実はそれほどでもなくて、必ず一種の留保的な補足をためらいがちに述べておく人の
方が、本当はすごいものなんだ。》(42頁)
ためらいがちに述べられるベルクソン的世界の「異説」(79頁)は、じっさいにその著書に接し読者の多くが感じたに違いない退屈な常識的議論の
果てにさりげなく挿入されたエピソードのようなものである。それをそれ自体としてとりだしてしまうと、あたかも砂糖水から砂糖を抽出すようなもの
で、蒸留してウォッカにしあげたり、樹液を濃縮してシロップをつくったりという、具体的で豊穣な「展開」の可能性が失われてしまう。
とはいえ、本書で標本にされた「SF的」なベルクソンの思考のエッセンスは、やはり魅惑的である。知覚と記憶をめぐる第二章からその一端を、さ
らに圧縮したかたちで抜き書きしておく。
その1.「〈知覚の場所〉なるものがあるとすれば、それは当の知覚対象がある場所そのものだ」(78頁)
その2.「知覚はもともと非人格的なものとして成立する」(80頁)
その3.「もし君がA岬に行くのがまったくの初めてだったとしても、A岬の記憶心象が君の知覚を記憶で浸してしまう」(82頁参照)
その4.「記憶は脳のなかにはない」(86頁)
その5.「複数の人間たちがかつて知覚したことが、どこかになかば集合的にどんどん記憶としてストックされていく、というような、そんな感じの途
方もない存在論が、ベルクソンの頭のどこかにはあったような気がする。」(88頁)
ここに挙げた五つの命題を論証するために、あるいは「本当は最初から知っているはずなのに、忘れてしまっているものをもう一度見出す」(23
頁)ために、ベルクソンは7年の歳月をかけて『物質と記憶』を書き上げたのだ、といってもいいだろう。
ほんとうはベルクソンの思考の「エッセンス」をコンパクトに抽出することなどできない。仮にできたとしてもそんな書物に意味はない。砂糖が水に
溶ける時間のうちにしか哲学的思考の実質はないのであって、できあいの砂糖水をいくら分析してみてもそこに哲学はない。著者はそのことを十分わき
まえた上で、「持続の相のもと」に展開されたベルクソン哲学のランドマークの所在を示したのだろう。
★5月30日(火)
金森修さんが『ベルクソン』のあとがきに、「僕にとって、哲学書を読むというのは、ある種の生まれ変わり、ある種の若返りを体験することなのだ
ろう」と書いている。生まれ変わりを体験するとは、いったいどういう体験をすることなのだろう。想像を絶する。若返りの体験なら、あるていどの推
測はできるような気がする。でも、幼年期はもちろん、少年期の自分に戻るという体験もほんとうはちょっと想像を超えている。ガキの頃の自分が何を
感じ、何を考え、何をどう見、聞いていたか。そんなことはいくらあがいても思い出せない。バタイユが、「文学とは、ついにふたたび見いだされた少
年時のことではなかろうか」(山本功訳『文学と悪』)と書いている。だとすると、哲学とはついにふたたび見いだされた胎児時、あるいは父母未生已
然の生のことなのだろうか。
★6月4日(日):『記憶と生』(第3回)
あいかわらず「持続の本姓」に収録された五節分の文章の周辺をうろついている。前田英樹さんが「訳者まえがき」に、「ひとつの節ごとを、節と節
との繋がりを、ごくゆっくりと読んでもらいたい。そうすれば、ドゥルーズの考案したタイトルの総体が、いかに驚くべきものかも、だんだんとわかっ
てくる」と書いている。驚くためにはゆっくりと読まねばならない。「コップ一杯の砂糖水を作りたいとすれば、どのようにしても、…砂糖が溶けるの
を待たねばならない」(18頁)ように。あるいは、太極拳の緩慢な動きのうちに、高密度の力の塊を解き放つように。
そういえば、読書の体験は「持続」を思わせる。ベルクソンは、「夢」の例をあげて純粋意識の領域を説明していた。「その時、私たちは、もはや持
続を測定するのではなく、感じる。持続は、量から質の状態へと復帰する。流れた時間の数学的認識は、もはや行われない。」(15-16頁)だとす
ると、読書の時間は夢に似ている。読み終えた頁数や要した時間の多寡が問題なのではない。ふと気がつくと、読み終えていた。そのような読書の体験
から遠ざかって、もうずいぶん久しい。
ものを書くという体験もまた同様だ。(ふと気がつくと、書き終えていた。だとすると、その時書いていたのは、いったい誰なのだろうか。)いま引
用した夢の話に続けて、ベルクソンはこう書いている。
《目覚めている状態においてさえ、日常の経験は、質としての持続、すなわち意識が直接に到達し、たぶん動物も知覚する持続と、言わば物質化された
時間、すなわち空間内の展開によって量となった時間とは、区別すべきであると私たちに教えている。私がちょうどこの数行を書いているとき、近くの
時計が時刻を打っている。だが、うわのそらの私の耳がそれに気付くのは、すでに何回かの鐘の音を聴いたあとである。だから、私はそれらを数えては
いなかった。それでも、私がすでに鳴った四つの鐘を合計し、それらを今聴いている鐘の音に付け加えるには、振り返る注意の努力があればよい。も
し、自分自身に立ち返り、そこで今何が起こったかを注意深く自問してみるなら、私が気付くことは、まず最初の四つの音は私の耳を打ち、意識さえも
揺るがしたということ、ところが、それぞれの音によって生じた感覚は、並置されたのではなく、互いに溶け合っていたということだ。それは、全体に
固有の面貌を与え、全体を一種の楽節とするようなやり方によってである。》(16頁)
ここを読んで、とくに「全体に固有の面貌を与え、全体を一種の楽節とするようなやり方」というところを読んで、私は、このところ毎晩、就寝前の
ほんの数刻をベットに腹ばいになり、日替わりでとっかえながら読み進めている(というか、目をあけたまま夢を見るようにして眺めている)二冊の本
のことを想起した。レヴィ=ストロースの『神話論理Ⅰ』とヒッチコック/トリュフォーの『定本
映画術』。いまなにを連想していたのかは、覚えていたら、明日書く。
★6月5日(月):ヒッチコック語録──『記憶と生』(第3回・補遺)
昨日書いたことの補遺。ベルクソンが「持続の本性」をめぐって、次のように書いていた。原稿書きに熱中して、ふと気がつくと五つ目の鐘が鳴って
いた。この状況に対して注意深い自問を加えてみると、たしかにすでに鳴った四つの鐘の音は私(ベルクソン)の意識を揺るがしたのだが、それぞれの
音が私(ベルクソン)にもたらした感覚は互いに溶け合っていた、「それは、全体に固有の面貌を与え、全体を一種の楽節とするようなやり方によって
である」。これを読んで、いま同時並行的に読んでいる二冊の本を連想した。
その1.『神話論理Ⅰ』。いま「序曲Ⅱ」を読んでいる。「音楽は神話に似ている」(26頁)、音楽と絵画の違いといったことを、レヴィ=スト
ロースが滔々と論じている。「全体に固有の面貌を与え、全体を一種の楽節とするようなやり方」云々のベルクソンの議論へと接近してくる。このこと
については、もう少し私の思考が熟成してから書く。
その2.ヒッチコック/トリュフォー『定本
映画術』。『サボタージュ』という映画の中で「最高のシーン」とトリュフォーが絶賛する殺人の場面をめぐって、ヒッチコックが演出のねらいを滔々と語り、
最後にこう締めくくっていた。
《映画づくりというのは、まず第一にエモーションをつくりだすこと、そして第二にそのエモーションを最後まで失わずに持続するということにつき
る。映画づくりのきちんとした設計ができていれば、画面の緊迫感やドラマチックな効果をだすために、かならずしも演技のうまい俳優の力にたよる必
要はない。わたしが思うに、映画俳優にとって必要欠くべからざる条件は、ただもう、何もしないことだ。演技なんかしないこと、何もうまくやったり
しないこと。そして、とにかく、できるだけ柔軟性のある動きができること。いつでも監督とキャメラの意のままに映画のなかに完全に入りこめるよう
でなければならない。俳優はキャメラにすべてをゆだねて、キャメラが最高のタッチを見いだし、最高のクライマックスをつくりだせるようにしてやら
なければならない。》(100頁)
この本の序「ヒッチコック式サスペンス学入門」で、トリュフォーが「サスペンスとは、ずばり、一本の映画の物語の素材をドラマチックにするこ
と、あるいはむしろ、諸々のドラマチックなシチュエーションをできうるかぎり強烈に提示することである」と書いている。
《古典的な映画文法によれば、サスペンスのシーンは一本の映画のなかでとくにきわだった瞬間、すなわちそこだけはとくに記憶に残る鮮烈なシーンを
構成するものである。ところが、ヒッチコックは、彼の作品群をずっと追って見れば気づくことだが、映画に手を染めてからずっと、どんな瞬間もとく
にきわだった瞬間であるような作品、彼自身の言うところによれば「ポコッと穴があいていたりしみなんかがついていない」映画をつねにつくりあげよ
うとしてきたのである。観客の注意を絶対にそらすまいとするこの強烈な意志、ヒッチコック自身も言っているように、観客に緊張感をあたえつづける
ために「エモーションを生みだし、ついでそれをずっと持続させること」を鉄則にした彼の意識と方法が、彼の作品をきわめて特異な、だれにもまねの
できないユニークなものにしていることはまちがいない。》(14-15頁)
これらと「全体に固有の面貌を与え、全体を一種の楽節とするようなやり方」云々のベルクソンの議論との関係。このことについても、思考の熟成を
まって書く。
★8月21日(月):『記憶と生』(第4回)
週に一度、時間にしてほぼ1時間程度、ベルクソンの『記憶と生』を熟読する。二ヶ月あまりの中断を経て、その習慣が甦ってきた。レヴィ=スト
ロースの『神話論理』とヒッチコック/トリュフォーの『定本
映画術』を夜ごと眺めては、ベルクソンの読書体験への接続をはかっていく。ほとんど記憶からとんでいたこの「戦略」も、最近になってようやく忘却の淵から
甦りかけている。
先週までで、第1章「持続と方法」の第1節「持続の本性」を再読し、昨日、第2節「持続のさまざまな性格」を通読した。その最後に「持続、それ
は絶対である」という『物質と記憶』から切り取られた文章(通し番号10)があり、そこに「連鎖の両端」という語が出てくる。
《音は静寂と絶対的に異なっており、ひとつの音は別の音と異なっている。光と闇の差異、さまざまな色彩の間、さまざまなニュアンスの間の差異は、
絶対的なものである。或るものから別のものへの移行は、それ自体が絶対的に実在する現象なのだ。したがって、私は連鎖の両端を捉えているのであっ
て、その一方は私のうちの筋肉感覚となり、もう一方は私の外部にある物質の感じうるさまざまな質となる。いずれの場合でも、もしそこに運動という
ものが在るのなら、私はその運動を単なる関係として捉えはしない。なぜなら、それはひとつの絶対だからである。》(33頁)
この箇所は、第四章に出てくる「知性の全体像」(通し番号67)という『創造的進化』から切り出された文章と響き会っている。
《したがって、私たちは、鎖の両端の輪を掴んでいるが、そのほかのたくさんの輪は捉えるに至っていない。それらは、いつまでも私たちの手から逃れ
るのだろうか。私たちが定義するような哲学は、まだ自分自身を完全には意識していなかったと考えねばならない。物理学は、それが物質を空間性の方
向に推し進める時には、自分の役割を理解している。しかし、形而上学が、まったく単純に物理学の後追いをし、同じ方向でもっと遠くに行きたいと空
想していた時、一体自分の役割を理解していただろうか。反対に、形而上学に固有の努めは、物理学が降りて来た坂道を登ること、物質をその起源に連
れ戻すこと、もしこう言ってよいなら、逆向きにされた心理学であるような、ひとつの宇宙論を漸進的に形成していくことではないだろうか。》
(199-200頁)
ここに出てくる「鎖の両端」という言葉は、「或る体系をそれより大きい別の体系に結びつけるさまざまな糸」(19頁)という語とも響き会ってい
る。
この語は「心理学を超えて:持続、それは全体である」(通し番号3)に出てくる。そこでベルクソンは、科学は徹底して物質を孤立化させるが、そ
れは研究の便宜のためであって、いわゆる孤立した体系が外側からのいくつかの影響(糸)に左右され続けることを暗に認めていると書いている。この
孤立化は太陽系に達して完成するが、それとて孤立化は絶対的なものではない。
《それを宇宙の他の部分に結び付けている糸は、たぶん極めて細い。けれども、宇宙に内在する持続が、私たちが生きる世界の取るに足らない小片にま
で伝わってくるのは、この糸を通してなのだ。/宇宙は持続する。時間の性質を掘り下げるほど、いよいよ明らかになってくることは、持続とは発明で
あり、形態の創造であり、絶対的に新しいものの絶え間ない生成だということだろう。科学によって限定された諸体系が持続するのは、ただそれらが宇
宙の他の部分に分かちがたく結び付いているからに過ぎない。実際、あとで述べるように、宇宙それ自体のなかでは、対立する二つの運動が区別されな
くてはならない。そのうちのひとつは〈下降〉であり、もうひとつは〈上昇〉である。》(19-20頁)
今回は、素材の抜き書きのみ。ここで以前、『物質と記憶』を読みながら、この書物でベルクソンはまったく新しい「物質の理論」を構想し、その予
備的考察を行っている、つまり『物質と記憶』にはまだベルクソンの物質の理論は書かれていない、と考えたことを想起している。郡司-ペギオ-幸夫
著『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』が、その「未完」の物質理論に挑んでいる。
☆2007
★2月11日(日)
ちくま学芸文庫から『物質と記憶』の新訳が出た。前作『意識に直接与えられたものについての試論』に続いて合田正人氏が、今度は「若手のベルク
ソン研究者」松本力氏と組んでの共訳。
ベルクソン独り読書会の方は、ドゥルーズ編集の『記憶と生』が昨年の8月以降中断したままになっている。読むのが嫌になったわけではないが、ア
ンソロジーだといまいち乗れない。やはりこの本は主著をひととおり読んでから取り組むのがいいように思う。
ベルクソン熱はいつまでも冷めない。この間、「ベルクソン研究家」の渡仲幸利氏が書いた『新しいデカルト』を読み、また篠原資明著『ベルクソン
──〈あいだ〉の哲学の視点から』を読んで、ますますその気持ちが募っていく。恋心のようなものかもしれない。だから週末を迎えると、いまでも心
が騒ぐ。あの『物質と記憶』を毎週末に熟読玩味していた頃の幸せな時間をとりもどしたいと切に願う。
だったらもう一度読めばいいようなものだが、白水社全集版は、二種類の色の蛍光ペンでマーカーを引きまくっているし、その上に鉛筆で線を引いた
り強調マークをつけたりびっしり書き込みをしたりしていて、とても汚い。装丁もぼろぼろになりかけていて、持ち歩いて読むには適さない。かといっ
て岩波文庫版は復刊されたのを買い忘れたし、それにあの活字の組み方ではでは眼にきつい。
そんなこんなで欲求不満をためていたところに、ポータブルな文庫本で新訳が刊行された。「今日、心脳問題への関心の中で、その重要性がいっそ
う、高まる主著」とカバー裏に書いてある。「脳もまたイマージュである/心身問題の画期的展開」と腰巻に書いてある。それはそうかもしれないが、
『物質と記憶』を心身問題や心脳問題への関心だけで読むのは、ミスリーディングだとまではいわないけれども、あまりに矮小化しすぎでもったいな
い。
じゃあ、『物質と記憶』をどう読めばいいんだ、と問われても答えはない。つい、気持ちが高ぶってそう書いただけのことなのだから。その答えは、
もう一度あたまからじっくり読み込んでからみつけることにして、まずは共訳者による解説とあとがきにざっと目を通して、かつての熟読体験(恋愛体
験のような)を思い浮かべることから始めるか。