貫之現象学 (2007.10-2009.5)



☆2007

★10月1日(月):【貫之現象学】思いに形を与えること

 心と物の関係をめぐる紀貫之の歌論(古今集仮名序)を「現象学的歌論」と名付け、その実質を(永井均命名による「西田現象学」を参照しながら) 考察する、というか架設してみる。そんな試みに没頭している。貫之の歌論が「心と物の関係」をめぐるものであることの意味については、尼ヶ崎彬著 『花鳥の使』に収められた「心と物─紀貫之」の結びの部分に出てくる次の文章が余すところなく、しかも美しくかつ明晰に伝えている。

◎思いに形を与えること/思いが我々を捉えているのであって、我々が思いを捉えているわけではない/記号というレッテルから物という鏡へ/我を物 思わせる場の中に一片の象徴的な物を投げこむこと/〈物〉のイメージと〈思い〉の共喚起

《我々は、時に応じて様々の思いを抱く。恋の苦しみ、老の悲しみ、歓喜、屈辱、或いは憧憬。しかしその思いにただ浸るのみでなく、これを眼の前に 置いて撫でさすりたいとか、誰かと共に分ちあいたい、或いは後世の人に伝えたいと考える時、我々はこの思いに一つの客観的な形を与えねばならな い。その思いを絵に表し音楽に作るのも、形を与える一つの方法であろうが、中でも最も手近な方法と見えるのは、言葉でこれを捉えることである。し かし、我々は当の思いないし気分の内に浸っているのであって、概念の如くこれを操作しうるものとして持っているわけではない。つまり、思いが我我 [ママ]を捉えているのであって、我々が思いを捉えているわけではない。それゆえ、この思いは元々捉え所がないばかりか、言葉の網を不用意にかけ れば、肝心の元の肌触りを全て失ってしまうことになる。例えば「悲しい」とか「恋しい」という記号を並べただけでは、人の胸を掴んで動揺させるこ とはできない。これらの語彙は、ただ感情の種類を大まかに分類するだけのレッテルでしかないからである。では、人を捉えるこの思いに形を与え、人 がこれを捉えうるものにするにはどうすればよいであろうか。いにしえの歌人たちは、我を物思わせる場の中に一片の象徴的な〈物〉を投げこむ時、無 形の水蒸気が一片の塵を核として雪に結晶するように、思いが凝固して一つの形を得ることを発見したのである。〈物〉という鏡に映すことによって、 〈思い〉は生きたままその姿を定着させる。読者は〈物〉のイメージを喚び起こしつつ、そこに映された〈思い〉をも喚び起こすのである。》(『花鳥 の使』64-65頁)

★10月3日(水):【貫之現象学】言霊と歌の姿と私的言語をめぐるメモ

 貫之現象学の実質を「言霊と聲」「歌の姿(歌体)と共感覚」「哥と私的言語」の三つの切り口から考察してみる。おぼろげにそうした見取り図を作 図している。その見取り図どおりに作業が進むかどうかは実際にやってみなければわからないけれども、なんとかまとまったらそのうち『コーラ』に連 載している「哥とクオリア/ペルソナと哥」に書くことになると思う。
 その「言霊と聲」については、永井均著『西田幾多郎』と尼ヶ崎彬著『花鳥の使』を基本に、富士谷御杖の歌論(尼ヶ崎本のほか、坂部恵著『仮面の 解釈学』でも言及されている)や大森荘蔵の「ことだま論」(『物と心』)、川田順造著『聲』、前田英樹著『言葉と在るものの声』などを参考文献と して読み込み、そこから抽出したアイデアを自在に(勝手に)使いまわすことで作業を進めるつもり。
 で、前田本の冒頭、第一章「物、心、言語の三つの関係について」の最初の3節分(「〈物〉が在ること」「〈心〉が在ること」「〈言語〉が在るこ と」)を読み返していて思いつくことがいくつかあったので、忘れないうちにその残り香のようなものを覚書のかたちでここに記録しておくことにす る。語彙や概念の使用法について疑問、不満は残るが、その検証と精緻化は今後の作業に委ねる。

◎哥はギフトである。哥は神(カミ、迦美)からの授かり物であり、神への捧げ物である。(哥は啓示=預言であり、祈りである。)
◎中沢新一=ラカンの語彙を借用すると、哥は「純粋贈与(=聖霊)=現実界」の圏域に属する。だから、目に見えない。言葉で掴みとることもできな い。(哥は概念ではない。)
◎しかし、哥は実在する。哥は、潜在的(ヴァーチュアル)な次元で実在する。

◎潜在性としての哥の実在をその歌論の中核にすえたのが藤原俊成である。(貫之現象学。俊成系譜学。定家論理学。)

◎哥が歌(声)として詠み出されたとき、哥は実在する。哥が現働化されアクチュアルな次元で歌として実在するその現場において、哥は潜在性として 実在する。
◎詠み出された歌(声)は「贈与(=子)=想像界」の圏域に属する。たとえば贈答歌、屏風歌として。あるいは歌合の宴における題詠のかたちで。も しくは孤独な心(孤心)の表出として。
◎詠み出された歌(声)の「効果」が言霊の力である。身体から身体への感情の伝達。共感情。
◎あるいは声振りとその想像(内後)の「効果」としての言霊の力。立ち現わしめる力。声は身のうち(大森荘蔵)。

◎哥と歌。聲と声。〈身〉と身体。〈顔〉と顔。〈物〉と物。〈心〉と心。〈思い〉と思い。詞と言葉。(ラングとパロール。もしくはクオリア憑きの 言葉とただの言葉。)

◎感情と感覚(クオリア)は詞のうちでつながっている。一つの身体のうちでの共感覚。異なる身体に宿る共感覚。
◎歌は「物」に付託して詠み出される(貫之)。尼ヶ崎氏の語彙では、哥は「一片の象徴的な〈物〉」に託して詠み出される。
◎「一片の象徴的な〈物〉」とは、端的にいって「言葉」のことだろう。だとすると、言葉で綴られた歌は「交換(=父)=象徴界」の圏域に属してい る。
◎詞華集の問題。一首の歌の意味(歌の心)はアンソロジー全体のうちに占める位置で測られる。(全体は一首の歌によって現働化される。)
◎あるいは「一片の象徴的な〈物〉」とはクオリアのことかもしれない。クオリア憑きの言葉としての歌。〈物〉としての歌。
◎尼ヶ崎は、「一片の象徴的な〈物〉」を「物という鏡」もしくは「〈物〉のイメージ」と言い換えている。「質量世界」へと架橋する歌。

◎「純粋贈与/贈与/交換」。「歌の姿(歌体)/言霊/言語ゲーム」。この二つの三組は構造的に相同である。「Q⇒P(q⇒p)」のかたちに表記 できる。「Q」:純粋贈与:歌の姿、「P」:贈与=言霊、「(Q⇒P)」:交換=言語ゲーム。ここで「(q⇒p)」の丸括弧内に出てくる「q」が 私的言語である。

◎「実在」の軸を垂直に引く。下方(ヴァーチュアリティ)から上方(アクチュアリティ)への現働化の動きを内在させた軸。
 次に、「現実」の軸を水平に描く。左方(リアリティ)から右方(ポッシビリティ)への抽象化の動きを内在させた軸。
 そして、この二つの軸を直交させて四つの象限を得る。「質量世界」と「言語世界」に共通する構造。
◎この構造の第二象限(アクチュアリティ+リアリティ)を「言霊」(P)、第三象限(ヴァーチュアリティ+リアリティ)を「歌の姿(歌体)」 (Q)、第四象限(ヴァーチュアリティ+ポッシビリティ)を「私的言語」(q)と名づけ、第一象限(アクチュアリティ+ポッシビリティ)と第四象 限との関係を「言語ゲーム」((q⇒p))と名づける。
◎この「言語ゲーム」は西田現象学=貫之現象学の立場から見られたもので、(ニーチェ系譜学=俊成系譜学を経て到達される)ウィトゲンシュタイン 論理学=定家論理学の立場から見た「言語ゲーム」とは様相を異にしている。

★10月28日(日):【哥の勉強】セルロイドの切れ端のような薄くて透明なもの

 読み終えたばかりの『宇宙を復号する』から印象に残った話題をひとつに限定して書いておく。
 EPR(アインシュタイン・ポドルフスキー・ローゼン)の思考実験が本書の要をなしていて、それがエヴェレットの多世界解釈によって解明される 場面が本書のハイライトをなしている。
 もちろんそんな単純な構成の本ではないし、いろいろと面白い話題はほかにもたくさんあるのだが、多宇宙(マルチ・ヴァース)の重ね合わせとその 分裂という話題が、情報の伝達という観点から述べられているのがとりわけ新鮮で心に残ったのだ。(小松英雄氏がいう、平安前期の和歌や貫之の仮名 序、土左日記などに見られる仮名連鎖の複線構造による多重表現の説と響き合っているようで、面白かった。あまりにベタな連想だが。)
 以下は、佳境に入るほんの少し前の箇所に出てくる文章。(ここに出てくる「セルロイドの切れ端のような薄くて透明なもの」を「仮名」と読みかえ てみるといい。)

《多世界解釈のシナリオで何が起こっているのかを思い描くには、私たちの宇宙をセルロイドの切れ端のような薄くて透明なものと考えるといい。重ね 合わせ状態にある対象はその薄っぺらいものにうまい具合に載り、同時に二カ所に存在する。干渉縞ができるかもしれない。観測者がやってきて、たと えば電子に光子をぶつけて跳ね返らせることで電子について情報を集めると、観測者は電子を、同時に右の位置にも左の位置にもではなく、そのどちら かに見つける。コペンハーゲン解釈の支持者なら、波動関数はその時点で収縮するのだと言う。電子は、右にあるか左にあるかのどちらかを「選ぶ」と いうのだ。一方、多世界解釈の支持者なら、宇宙が「分裂する」のだと言う。
 神のごとき存在がもしあって、宇宙の外からこの相互作用を見守っていたとしたら、突然、この電子がある(そして観測者がいる)セルロイド宇宙が 一枚のシートではなく、シートが二枚くっついたものであることに気づくだろう。電子の位置について情報が漏れ出すとき、実は宇宙の構造についての 情報がもたらされている。すなわちその情報は、宇宙が二重になっていることを示しているのである。電子は、この二つの宇宙の一方では右の位置にあ り、もう一方では左の位置にある。この二枚のシートがくっついているかぎり、右の電子と左の電子は同じシートにあるかのようだ。電子は同時に二カ 所にあり、自分自身に干渉する。しかし、電子の位置について情報を集めるという行為によって、二枚のシートは引き剥がされ、コスモスの多層的な性 格があらわになる。つまり、二枚のシートは情報が伝達されたせいで分離するのだ。》(320-321頁)

☆2009

★5月22日(金):フィクションとしてのテクスト、フィクションとしての人生

 貫之ときけば、古今集仮名序の「やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」を想起する。
 和歌は「人のこころ」を詠んだもの。表現せずにはいられない、やむにやまれぬ「思い」を言葉の技術を駆使してうたいあげるのが和歌である。仮名 序冒頭の言葉は、そのように読むこともできる。
 しかし、貫之は「屏風歌」の名手だった。屏風に描かれた絵に合わせて言葉を編集する。なにか詠むべき「思い」が先にあって、それを苦心惨憺して 和歌に表現したのではない。その屏風歌を貫之は大量に詠んだ。貴族からの注文生産に応じるいわば和歌の職人。
 そして、歌合における題詠や、贈答歌など、貫之以後の和歌は言語遊戯、社交の具としての洗練を極めていく。
 ここに、古典和歌をめぐる「建前」と「本音」のミスマッチがある。だから、「貫之集」に収録された屏風歌以外の和歌のうちに貫之の「孤心」を読 みとる見方もでてくる(大岡信)。
 しかし、そのようにとらえられた貫之は、いずれも「近代人」なのではないか。逆にいうと、それらは近代人の視点から見た貫之像なのではないか。
 川嵜克哲氏は『夢の分析──生成する〈私〉の根源』で、平安時代の人には内面がないと書いている。反省的な自己意識を蔵する私秘的な内面。平安 人・貫之がいう「人のこころ」は、そのような近代人に装備された心のことではないということだ。
 西郷信綱著『古代人と夢』に、古代人は「夢は人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた」と書かれてい る。貫之はそうした意味での「古代人」だったかもしれない。
 貫之が生きたのは、いわゆる国風暗黒時代を経て、中国文明の圧倒的な影響からようやく脱しつつある時代だった。たとえば仮名文字の成立、たとえ ば勅撰和歌集の編纂に、それは端的にあらわれている。
 貫之こそ、この文化的独立運動の先頭に立つ「近代人」だった。そういってみることもできるだろう。
 まことに、貫之をどうとらえるかは錯綜をきわめる。語る人の立ち位置がその貫之像に反映してしまう。そうしたことのうちに、一種の「政治性」を 見てとることもできるだろう。
 神田龍身著『紀貫之──あるかなきかの世にこそありけれ』は、ある意味で、徹底した「近代」の視点に立ち、そこから見られた究極の「近代人」貫 之の多面的な像を描き出す示唆と刺激に満ちた書物である。

     ※
 本書は、「貫之テクストにみるフィクションの問題」(297頁)を多角的に論じる。
 そこには、あらためて取りあげ賞味または吟味すべき多くの論点がちりばめられている。(たとえば貫之歌論の政治性、たとえば男同士の贈答歌に孕 まれたホモ・ソーシャル的連帯、たとえば貫之の「伊勢物語」体験、たとえば土佐日記における文学空間としての海、たとえば本書で二度言及される三 島由紀夫と貫之歌論の関係、等々。)
 が、ここでは、「エクリチュールの問題を徹底して問いつづけてきた貫之文学」(323頁)と「フィクション」の関係、同時に「人のこころをたね として」のロマン主義的ともいえる解釈への批判にもつながる議論を三つ引いておく。
 その一は、古今集が屏風歌を認めずにそれを四季歌とし、貫之集が四季の部立を設けなかったのはなぜかをめぐる貫之屏風歌論。
 神田氏は「貫之文学がいかに屏風歌なるものから生成されたか」(92頁)を詳細に解析した上で、「平安朝和歌[とりわけ貫之]にあっては、絵 [というフィクション]を媒介するところから四季歌は生成されたし、和歌の自然観も深められた」(86頁)と指摘する。
 すなわち屏風歌歌人として生きたがゆえに貫之が、(そして同時代にあっては貫之だけが)、和歌における「フィクション」を発見し、「『古今集』 編纂の段階で、和歌の意味はコンテクストが決定すること、和歌の言葉は無限に引用可能であることを認識し」(93頁)得たのである。
「もちろん、このことは遥かに遡れば、歌が書記されるようになったことにその淵源がある。歌が声として発生した際には、その歌声は発生とともに消 失するが、書記化された歌は現場を離れて反復される。だからこそ四季歌にも屏風歌にもなり得るし、詠歌主体の変更[たとえば男から女へ]も可能と なり、いかなる詞書を付すかも勝手である。(略)私がいいたいのは、和歌が書記されたことで、歌なるものに本来的に孕まれていた反復可能性という 問題が顕在化したということである。」(93-94頁)
 その二は、土佐日記一月二○日の阿倍仲麻呂の挿話(「唐土とこの国とは言ことなるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じこと にやあらむ」)を「本邦初の翻訳論」と読解したくだり。
 神田氏は、この翻訳論は「人のこころをたねとして」云々をはるかに超えた批評レベルに到達しているとする。
「仮名序の「言」と「心」とは、詠歌主体の心とそれを基に表出された歌との関係をいうが、ここでは、シニフィアン/シニフィエ、という言語の構造 それ自体の分析用語としての使用である。しかも、「心」はすべてを根拠づける起源としてア・プリオリにあるのでなく、「言」から事後的に発見され たとする。これは「種」としての「心」が先行し、そこから「葉」が生ずるとする仮名序の因果論の比ではない。」(235-236頁)
 その三、日本語音声を指示する「透明なシニフィアン(記号媒体)」(281頁)として仮名をとらえるロジックを退け、それは「紙上のパロール (書かれた音声)」すなわち「パロールを装ったエクリチュール」以外ではないとする議論。
 神田氏は、(たとえば、「桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける」の有名歌が、「散花の残映を「名残」かつ「なごり(余波)」と し、しかもそれを「水なき空」に立つ「波」と喝破した」(59頁)ごとく)、「風それ自体でなく、波なる視覚化において初めて風の正体が見極めら れ、波の背後の「心」が摘出されたように、仮名という音声の視覚化によって、初めて言葉の正体が対象化され得たのである」(296頁)とする。
 そして、「仮名文字こそが偽装の日本語音という最大のフィクションだったことになる。(略)古今集歌の表現は初めから紙上の歌として生成された ものであり、うたわないことを前提にしている以上、フィクションとしての歌である」(297-298頁)と結ぶ。

 ただし、本書がここで結ばれているわけではない。
 以下、「本音」としての漢文、ソシュール晩年のアナグラム研究を思わせる貫之の謎の遺作(313頁)、そしてフィクションとしての貫之の人生と いった魅力的な話題が続く。
 それ以前にも、「ないものを現前させる」(247頁)言葉のはたらきや「水面なるシニフィアンと、仮名文字との喩的関係」(295頁)等々の大 切な論点が提示されている。
 が、それはともかく、貫之の歌が、屏風絵というフィクションを鏡(媒介)として、フィクショナルな心と主体を詠む鏡像を始発とするものであった こと、したがって、「人のこころをたねとして」がある政治性・戦略性をもった宣言であったことなどは、神田氏が指摘するとおりだろう。
(というのも、三島由紀夫(『日本文学小史』)がいうように、古今集の編纂は、「力による領略ではなくて、詩的秩序による無秩序の領略」を志向す るものだったのだから(21頁)。また、古今集編纂時、すでに貫之が、歌におけるフィクションやコンテクストの重要性を認識していたのなら、仮名 序の「言」と「心」とは、「詠歌主体の心とそれを基に表出された歌との関係」ではありえなかっただろうから。)
 そして、「「心」はすべてを根拠づける起源としてア・プリオリにあるのでなく、「言」から事後的に発見された」こと、それが「偽装の日本語音と いう最大のフィクション」を担う「紙上の歌」、すなわち貫之歌を典型とする古今集歌の表現を通じて遂行されたこと、これらもまた神田氏の指摘どお りだと思う。
 私がこれに付け加えることがあるとすれば、それはただ一つ、それらの議論はすべて、貫之がその果たすべき仕事をなし終えた後でこそ、はじめて成 り立つものなのではないかということである。
 もちろん、貫之以前にも、在原業平をはじめとする六歌仙、万葉集歌、等々の「やまとうた」の伝統につながる歌の数々が詠まれていた。それは仮名 序に書かれているとおりである。
 だが、貫之の生きた時代はどうだったか。和歌は、公的な世界からは「棄てて採られず」(真名序)、「いろごのみのいへに、むもれ木の人しれぬこ ととなり」(仮名序)果てていたのである。
 貫之はそこから、つまり、俗なる世界のただなかにあって、屏風絵というフィクショナルな鏡面に立ち騒ぐ「現象」を凝視し、われを物思わせる場そ のものへと遡行することによって、歌の本質を独力で再定義しようとした。
 だからこそ、歌は「人のこころをたねとし」なければならぬと宣言したのだし、そのようにして生み出された「詞」であったればこそ、事後的に 「心」の発見(創出)をもたらす「偽装の日本語音」の力をもちえたのである。私はそう考えている。