哥の勉強・哥と共感覚 (2007.8-2008.8)



☆2007

★8月29日(水):【哥の勉強】哥と身体

 8月19日付け毎日新聞の「今週の本棚」に掲載された、佐伯一麦著『ノルゲ』への三浦雅士の書評に、印象的な一節があった。

《『マルテの手記』はパリに滞在して「見ること」を学ぼうとする詩人の手記だが、それに倣えば、『ノルゲ』はオスロに滞在して「聴くこと」を学び ながら自らを癒してゆく小説家の物語である。佐伯一麦の主人公の多くはクラシック音楽の愛好家だが、必ずしも現代音楽の愛好家ではない。それが滞 在を経るにしたがって心を開いてゆく。音楽が時間芸術であるよりもはるかに空間芸術、空間の変容にかかわる芸術であることが示される。人は時間に ではなくまず空間に耳を澄ますのだ。》

 最後の「音楽が時間芸術であるよりもはるかに空間芸術、空間の変容にかかわる芸術であることが示される。人は時間にではなくまず空間に耳を澄ま すのだ」が、哥の体験に通じていると思った。
 哥は読むものではなく詠むものだ。かな文字で描かれた哥を、目で読みながら、朗詠する。同時に、朗詠する自分の声を、聴く。それらは、いずれも 身体的な体験だ。(かな文字で描かれた哥を目で読むこと自体、一つの身体的運動だ。)哥が「空間の変容にかかわる」とは、哥の体験が身体感覚に根 ざしていることに通じている。
 考えてみれば、それは哥だけのことではなくて、およそ芸術経験とはひとつの身体経験である、ということの一例にすぎないのかもしれない。

 尼ヶ崎彬氏の『縁の美学』のあとがきに、「芸術体験を、何事かを認識することとしてではなく自身がどこかに攫われることとして、言い換えれば身 体的経験として記述すること」という一文がある。
 音楽を聞くとは、音楽的時間という非日常的時間を生きることだ。音楽家が作り出す時間に聴衆が参加し、同じ流れに乗り、身体的に時間を刻み直す ことである。舞踏とはまず自分で踊ることであり、他人の踊りを見ている場合でも、舞踏家の作り出す時間にひきこまれ、それを楽しむ観客のノリがあ るのではないか。
 美術でも同様に、絵画を見るとは、身体が何事かを経験することではないか。文学でも、小説を読む快感は、虚構の世界に没入し、虚構の人物に同一 化すること、つまり、別の世界の別の人生を経験することだ。では、詩の場合はどうか。

《世界でも稀な短詩型である短歌や俳句では、時間的変化を経験する余裕などないのではないか。いや西欧の詩学が音韻などの構造的規定を論ずるのに 対し、日本の歌論が縁語や掛詞などを語ってきたことを考えれば、むしろ和歌の方が時間的経験の設計に熱心であったように思われる。縁語や掛詞は、 読者に連想や飛躍を促し、意識の運動をコントロールする仕掛けである。和歌を味わうとは、言葉の舞踏に引き込まれ、一足ごとに変容するイメージの 旅を歩むことである。中世に流行した連歌は、何人かの共同作業によってこれを大規模に行うものであった。
 おそらく自然に対しても日本人は同じ態度を取ったのではないか。つまり、四季の推移の中を、その一部として、または対話者として、引き込まれ、 乗せられてゆくこと。あるいは旅人として、その世界を回遊すること。》

 尼ヶ崎氏は、『日本的感性と短歌』(佐佐木幸綱編、短歌と日本人Ⅱ、岩波書店)に収められた「簡潔と詠嘆──短歌という形式」で、物語と短歌の 違いを「世界への没入」と「図式の受肉」という言葉で説明している。

《短歌は物語を形成するに至らない具体的事例の記述であり、私たちが没入や同一化できるほどの具体的細部をもたないけれども、私たち自身の経験を 受肉させることによって強い実感をもたらすことができる。それは言葉の意味を概念や表象として把握し理解することではなく、事態の意味を生きるこ とであり、ある意味で身体的に体験することである。「思い当たる」とは意味を帯びた事態、意味を生きた経験に思い当たることであり、「受肉」とは 言葉が身体的に経験可能なものになるということである。》(52頁)

★8月30日(木):【哥の勉強】哥と共感覚

 昨日書いたこととの関連で、いくつかの書物から気になった箇所を「拾い書き」しておく。
 昨日書いたことというのは、三浦雅志さんの「音楽が時間芸術であるよりもはるかに空間芸術、空間の変容にかかわる芸術であることが示される。人 は時間にではなくまず空間に耳を澄ますのだ」が、哥がもたらす体験に通じていて、それは要するに(芸術体験の異称としての)身体経験のことなので はないかというものだった。
 私は、ここでいう「身体経験」とは、「共感覚」のことではないかと思い始めている。それが芸術体験一般に妥当することなのかどうかは別として、 少なくとも、哥の体験は、視覚と聴覚と触覚が共感覚的に渾然一体となった身体の状態(ここでいう「身体の状態」には、記憶や知覚といった表象の状 態、感情や感覚といった心理の状態も含めておく)をいうのものなのではないかということだ。
 私の言葉遣いは、本来の意味での共感覚とは違うもの(たとえば比喩表現)を、朦朧曖昧未分化なままで含んでいるのかもしれない。そこで、例に よってウィキペディアで検索していて、次の文章が目にとまった。

《共感覚者に、共感覚がいつ頃からありましたか、と尋ねると、たいてい「物心ついたときから」という答えが返ってくる。共感覚を持つことが検査に よって確認された人が、誕生時、あるいはそれ以前から共感覚を持っていたということは、十分にありうる。生まれて二、三ヶ月の時期には、後から思 い出すことはできないけれども、誰もが皆、共感覚を持っていた、と言われる。》

 ここに「後から思い出すことはできないけれども、誰もが皆、共感覚を持っていた」とあるけれども、「誰もが皆、共感覚を持っていた」ときの脳の ニューロン結合の構造と、何事かを「思い出す」(思い出すのは、いつもきまって「後から」なのはどうしてか)ことができるようになった脳のニュー ロン結合の構造とは、たぶん異なるのだろう。
 だとすると、ある構造をもった脳(「思い出す」能力を備えた脳)をつかって、それとは異なる構造をもった脳(「思い出す」能力をもたない脳)の はたらきを「思い出す」ことは、そもそも「できる・できない」の範疇で論じられることではないだろう。
 もっというと、「誰もが皆、共感覚を持っていた」といわれるときの「持っていた」の意味は、「(共感覚を)体験していた」ということでなければ ならないと思うが、ここでも、もはや共感覚を体験できなくなった脳を使って共感覚の体験を思い出すことは、原理的に不可能だ。
 何をいいたいのかというと、「後から思い出すことはできないけれども、誰もが皆、共感覚を持っていた」という言語表現は、どこか倒錯的で謎めい ているということだ。
 そもそも、そういうことが言語を使って言えるようになるより以前の脳のはたらきを、それより後で言語能力を獲得した脳のはたらきを使って言語で 表現することは、どう考えても倒錯的だ。(思い出すことと、言語を使えるようになることとは、実は同じ脳のはたらきなのではないだろうか。どちら も「後から」はたらく。)
 ところで、先の文章は「生まれて二、三ヶ月の時期には、後から思い出すことはできないけれども、誰もが皆、共感覚を持っていた、と言われる」と 書かれていた。ここで、そのように言うのは、たぶん脳科学者だろう。脳科学者が「誰もが皆、共感覚を持っていた」というときの「持っていた」は、 「(共感覚を)体験していた」という意味ではない。いや、言葉としてはそういう意味なのだが、当の脳科学者が「体験していた」わけではない。「後 から思い出すことは(誰にも)できない」のだから、それはありえない。そもそも、「誰もが体験していたこと」を、当の脳科学者が、わがこととして 体験することは不可能だ。
 だとすると、脳科学者がいっているのは、「生まれて二、三ヶ月の時期には、誰もが、これこれしかじかの脳状態にあったのだから、その時期には、 誰もが共感覚を体験していたに違いない」ということになる。しかし、この仮説は、決して実証されることがない。決して実証されることはないけれど も、この仮説が正しいことはあり得る。そういう仮説、命題のことを形而上学的命題という。
 永井均さんが『私・今・そして神』(講談社新書)で、「私の場合にも他人の場合にも、心と脳を並置して、二つを並列的な観察対象とすることはで きない。同時に入手できるのは、私が知覚する、しかし決してその知覚をつくりだしているのではない、脳だけである。このずれこそが、心脳問題が依 然として哲学的問題であることの理由だろう」(77頁)と書いている。
 「後から思い出すことはできないけれども、誰もが皆、共感覚を持っていた」という表現がはらんでいるのは、「知覚」ではなくて「記憶(想起)」 についての、正確にいうと、現在のそれではなく現在と過去にまたがる心脳問題だったのかもしれない。

 何を書いているのか(何を考えているのか)自分でもよくわからなくなってきたが、「誕生時、あるいはそれ以前から」は、胎児期、受精期、そして 父母未生已然の、どこまでを指しているのだろうか。
 あるいは、「物心(ものごころ)」とは、いったいなんのことなのだろう。
 辞書的な意味でいうと、「世の中の物事や人間の感情などについて理解できる心。分別」とか「世の中の物事や人情について、おぼろげながら理解・ 判断できる心」のことで、英語に訳すと、たとえば「物心がつくようになってから」は‘ever since I can remember’、「物心がついて以来」は‘since I was old enough to understand things’になるらしい。
 どうやら「物心」とは、記憶や理解・判断といった脳のはたらきのことをいっているようだ。そういう意味での「物心」(「物=脳」の「心=はたら き」)は、「物」(みるもの、きくもの)に託して「心」に思うことを「言の葉」として詠み出す古今集歌人の「歌心(詩心)」と相通じているのだろ うか。
 また、古今集歌人にとっての「物」を「クオリア」ととらえると、「物心(歌心)」がつくとは、たとえば視覚クオリアと聴覚クオリアと触覚クオリ アが相互に分離され(体験としての共感覚の消失)、それらが「詞(クオリア憑きの言葉)」のうちに再結合される、ということになるのかどうか。
 前置き(というより、脱線)が長くなったし、混乱をきたし始めた。冒頭に書いた「拾い書き」は、次回に。

★9月2日(日):【哥の勉強】哥と共感覚(拾い書き)

◎歌を聴くとは、時間経験を味わうことである

《この歌[足曳きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかも寝ん]の聞き手にとって、言葉の意味は素直に流れない。無意味な音[枕詞:足曳きの] に始まり、突然意味が中断し[山⇒山鳥⇒尾]、新たな話題[独り寝の寂しさ]が立ち上がり、聞き流していた前の言葉[長々し;山鳥]に新たな意味 [長々し尾⇒長々し夜;山鳥が雌雄別れて眠るという伝承]が加えられる。聞き手が経験するのは、立ち止まり、歩きだし、飛躍し、振り返り、落着す るという運動である。歌を聴くとは、このような時間経験を味わうことである。そしてこの時間経験を豊かにしているのが、緩急の変化、話題やイメー ジの変化、見過ごされた意味の再発見などである。とすれば、言葉の続き方が一様でないこと、話題が途中で転換すること、同じ言葉が二つ以上の意味 を兼ねることなどがその効果のための必要条件となるだろう。第一の条件のために枕詞や非文法的結合が、第二の条件のために主題と異なる副次的な話 題が、第三の条件のために掛詞や隠喩などが要請されるのである。》(尼ヶ崎彬『縁の美学──歌の道の詩学Ⅱ』21頁,勁草書房,1983)

◎極めて微妙な音の響きの重なり合いで成り立っている室内楽

《最初にお断りしておかねばなりませんが、日本語は言語そのものがきわめて微妙なニュアンスに富んだ言語だということです。特に日本語の最も日本 語らしい特徴を示す助詞や助動詞は、それ自体では独立した意味を表わさない語で、翻訳に当たっても最も問題の多い品詞であります。それらは名詞、 動詞、っ形容詞などに結びつくことによって、きわめて多彩な意味を生み出し、ニュアンスに富んだ表現をあらわします。そして、言うまでもなく和歌 は、助詞や助動詞が最も活躍する文学領域であります。特に『古今和歌集』がそうでした。『古今集』の歌は、いわば極めて微妙な音の響きの重なり合 いで成り立っている室内楽、あるいは複雑に交錯して繊細な模様を生み出しているアラベスクの線にも似ていると言えましょう。》(大岡信『日本の詩 歌──その骨組みと素肌』69-70頁,岩波現代文庫,2005/1995)

《ここ[秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる]で重要なことが明らかになります。「視覚」よりもさらに微妙でとらえがた いのが普通であるはずの「聴覚」が、和歌では視覚よりも一層深い味わいをもった感覚として喜び迎えられているということです。
 これは言いかえると、平安時代の歌人たちが、男も女も、いま眼の前で現実に見ているものよりも、むしろ音として遠方から聞こえてくるよそものの 「気配[けはい]」に敏感だったことを示しています。そのことは彼らの生活形態そのものと密接に関係する事実だったろうと私は思います。というの も、多くの場合、彼らの生活圏はきわめて狭く限られていたので、見て確かめることよりも、耳で聞くことによって生活が大きく左右されたからで す。》(同74-75頁)

◎視覚レヴェルでの理解─清濁を書き分けない仮名連鎖による多重表現

《平安初期に成立した仮名は、今日の平仮名と違って、清音と濁音とを書き分けない音節文字の体系であった。和歌は、その特徴を積極的に生かして作 られている。(略)本書の主題との関連において指摘しておきたいのは、平安前期の和歌表現を特徴づける複線構造による多重表現が、仮名に特有の右 のような特質を巧みに利用して形成されたという事実である。原理的にいって、特定の言語とそれを表わす文字体系との結びつきは不可分ではないが、 それらを積極的に結びつけ、文字体系としての仮名の特質を利用して日本語の韻文表現に新しい地平が開かれたことは、言語文化史上、特筆すべき出来 事であった。》(小松英雄『みそひと文字の抒情詩──古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』21-22頁,笠間書院,2004)

《実用的な片仮名文や漢字文と違い、仮名文は実用を離れた書記文体であった。和歌も和文も、事柄の一義的伝達を目的とする文体ではなかったから、 ことばの自然なリズムを基本にして、先行する部分と付かず離れずの関係で、思いつくままに、句節がつぎつぎと継ぎ足される連接構文で叙述され、叙 述し終わったところが終わりになる。それは、とりもなおさず、口語言語による伝達に共通する汎時的特徴にほかならない。付け加えるなら、『源氏物 語』が連接構文で書かれているのは、思いついたことをつぎつぎと書き足してできあがったからではなく、そういう構文として推敲された結果であ る。》(同23-24頁)

《『古事記』、『日本書紀』などには、口頭で表現された韻文が文字で記録されている。文字がなくても日本語の韻文は存在していたし、それらは、本 来、朗唱されるもの、朗唱可能なものであった。したがって、上代の韻文は、どのような文字でどのように表記されても、詩としては等価であった。
 平安時代の和歌が〈みそひと文字〉の仮名連鎖として作られるようになったのは、当時の歌人たちが、清濁を書き分けない音節文字の特性を利用す る、まったく新しい和歌表現の可能性を見いだしたからである。
 『古今和歌集』に代表されるこの類型の和歌は、音声=聴覚レヴェルでなく、視覚レヴェルで、すなわち、仮名連鎖に意味を引き当てることによって 一次的理解が成立するように作られている。共通の仮名連鎖に重ねられた複線構造の和歌を単線的に朗唱したのでは、モノウカルかモノウガルか、ナガ レテかナカレテか、どちらか一方の意味にしかならないから、もとの表現はいちじるしく損なわれる。実のところ、『古今和歌集』の和歌は、これま で、そのように読まれてきた。》(同28頁)

《和歌と和文との書記文体は、『土佐日記』と『枕草子』との例で確認したように、根幹においてつうじている。和文と和歌とは、歌集では詞書と和歌 との関係として、また、物語や日記では、叙述と一体化された和歌という関係で、共通する文体的特徴をそなえている。したがって、自由かつ自然な形 で和歌的表現を和文に取り入れることが可能であった。和歌と和文とを仮名文と総称するのは、両者の体質が融和的だからである。》(同38-39 頁)

★9月3日(月):【哥の勉強】哥と共感覚(続)

 川田順造著『コトバ・言葉・ことば──文字と日本語を考える』(青土社,2004)に、和歌の枕詞は元来、振りを伴っていたのではないかという 西郷信綱の説が紹介されていた。(出典は記されていない。興味深いので、そのうち調べておこう。)
 この話は、『コトバ・言葉・ことば』に収録された「詩と歌のあいだ──文字と声と身振り」の、文字に書かれ読まれることを前提にした詩と、楽器 や手拍子の声、身体運動を伴ってうたわれる歌との関係をどう考えるを論じたくだりに出てくる。
 この短い文章には、ほかにも「声のアジール」とか、「言語音の音象徴性(約束による概念化された意味を媒介としないで、言語音が直接感覚に働き かける力)」とか、刺激的な語彙がちりばめられている。(「音象徴性」の話は、『聲』で詳細に論じられている。再読しなければ。)
 哥は、文字であり、音であり、声であり、そして身体運動である(かな文字でしるされた哥は、その形態そのもののうちに運動をはらんでいる)。こ のうち、共感覚に関係するのは、「音象徴性」をもった音なのかもしれない。
 川田順造からの連想で、クロード・レヴィ=ストロースの『みる きく よむ』(竹内信夫訳,みすず書房,2005)を流し読みしていて、ランボーの詩「母音」を取り上げた「音と色」の章に、「ランボーはボードレールの読者で あった」とあるのを見つけた。ボードレールの「コレスポンダンス」が、共感覚との関係で興味深い。
 ついでに眺めた「言葉と音楽」の章に、忘れられた18世紀の思想家シャバノンについて書かれた一文があった。面白いので抜き書きしておく。

◎蜘蛛の糸の交感──諸感覚のあいだにある不変の関係

《芸術哲学は、と彼は言う、個別の感覚のそれぞれに、他の諸感覚がその感覚に感じさせるものを知らせるという固有の任務をもっている──「たとえ ば、蜘蛛は、自分が張った網の中心に陣取って、すべての糸と交感し、いわばそれぞれの糸のうちに生きているので、(もし人間の感覚のように蜘蛛の 糸に生命があるなら)ほかの糸すべてが彼に与える知覚を、ある特定の一本の糸に伝達することが出来るだろう」。(蜘蛛は当時の流行だった。意識の 類似物としての蜘蛛の巣のイメージは、一七六九年に書かれ、シャバノンの死のはるか後、一八三一年になってようやく刊行された[ディドロの]『ダ ランベールの夢』にも見えている。)
 このボードレール的万物照応はなにも人間の感性にだけ関与しているわけではない。諸感覚のあいだに反響するこれら照応関係は、ひとつの知的操作 に依存している(象形文字に関する彼の理論においてディドロはその点を無視している)──「目に見えるものを音楽で描写するのは、本来の意味での 耳のためではない。それは、諸感覚の中心に陣取り、それらの感覚が感じるものを比較し、結合する精神のためであり」、その精神はそれら諸感覚のあ いだにある不変の関係を捉えるのである。これら不変の関係になんらかの内容を求める必要はない。それは形式なのだ。(略)ある音楽家が夜明けの光 景を喚起したいと思うとしよう。彼が描くのは「昼でも夜でもなく、ただひとつの対照なのだ、それも対照的であればなんでもよい。どんな対照であっ たも、光と闇のそれと同じように、すべて同じ音楽で表現できるはずなのだ」。事項はそれ自体としてなんの意味もない。重要なのはただ関係だけであ る。》(レヴィ=ストロース『みる きく よむ』101-102頁)

★9月8日(土):【哥の勉強】哥と共感覚(色と触覚)

 前回、レヴィ=ストロースの『みる きく よむ』に収められた「音と色」のことにふれた。
 この話題に関連するのが、前々回の「拾い書き」で書き漏らした、大岡信著『日本語の世界11 詩の日本語』(中央公論社,1980)の第三章 「反俗主義と「色離れ」──内触覚重視が語るもの」だ。
 以下、関連する箇所を、第二章「日本詩歌の「変化」好み──移ろう「色」が語るもの」からのものを含めて、多少変形を加えて抜き書きしておく。

◎「いろ」あるいは「色」という言葉、また実体は、古代の人々にとっては、不思議にも常に、変化と移ろいの観念をよび起こすものだった。
◎大和言葉の「いろ」(もとは色彩、顔色の意。転じて好色的な意味。また色彩の意から心の様子。別に仏教語「色」(しき=形相)の翻訳語)と中国 の文字である「色」(ひざまずいている人の上にもう一人の人間が乗っている会意文字。性交の状態そのものの意)とでは、起源において必ずしも同一 とはいえない。(以上、第二章から)

◎蕉門の森川許六の「百花譜」に「桃は、元来いやしき木ぶりにして、梅桜の物好[ものずき]、風流なる気色も見えず」云々とある。「桜の淡紅と桃 の淡紅と、言葉にすれば同じであっても、明らかに異質である。そこには触覚的な弁別意識がおおいに働く余地があって、その見地からすると、桃はな んといってもぼってりした下ぶくれの艶女であり、桜がたとえ八重桜であっても示す、肉のしまった、いわば着痩せのする女の感じとは対照的なのであ る。」(37p)

◎「私は日本の詩歌における「色のあらわれ」をあれこれ考えているうちに、日本人は「色」を純粋視覚の見地から感じとるということがあまりなく、 むしろ、触覚的、さらには内触覚的な見地からこれをとらえるということに、本能的に習熟してきたのではなかろうかという思いをおさえることができ なくなった。」(37-38p)

◎うすむらさき、という代わりに、藤袴や萩や葛を直接に名指す。黄という代わりに、山吹を言い、女郎花を言い、菊を言う。このように、日本の詩歌 では「色」の代わりに「もの」を直接さし示す。「つまり、それらは、個々の自然物の物質感とともにしか考えられない色なのである。それらは「色 彩」として抽象されず、個体のもつ地色として理解されている。だから、日本語に古来色彩をあらわす形容詞がきわめて乏しく、白い、黒い、および赤 い、青いしかなく、黄色いという、いわば変則的な形容詞が遅れてやっと登場したということも、当然だったということになる。」(38-39p)

◎「臙脂[えんじ]・朽葉[くちば]・青磁・浅葱[あさぎ]・朱鷺[とき]・鶯[うぐいす]・くちなし・錆朱その他その他、日本にはじつに豊か な、ほとんどその豊かさに茫然とするほどの色名がある。しかし、それはある意味で当然だったのだ。自然界のある事物が見いだされることは、その事 物固有の色が見いだされることであった。色名の数は、事物の数と同じだけあるといってもいいのである。これはいったい、認識における恐るべき精密 さを示すものだろうか、それとも逆に、恐るべき怠慢を示すものだろうか。自然の事物のひとつひとつに、まことにそれに相応しい名前を与え、その名 前を同時にそのものの色名ともするということは、少なくともきわめて鋭敏な感性的精緻と洗練を必要とする。そういう意味でいえば、日本人の感性的 認識の精密さこそ讃えられねばならないだろう。しかし反面、個々の色の微妙なニュアンスの差異を超えて、色環的な認識を形づくるために抽象の努力 をするということが、絶えて行なわれなかったということは、日本人の認識能力にある種の本性的な欠落があることを示すものかもしれないと思われ る。
 そこには、古代以来久しく、「光」というものと「色」の関係をあまり明確に意識することのなかった(と私には思われる)日本人のものの見方の、 ひとつの結果があるのかもしれない。少なくとも、『万葉集』から『新古今集』あたりまでの詩歌は、色を光と関連させて動的にあるいは印象派的にと らえているものは稀である。」(41p)

◎「私はこれ[光]が日本の詩歌人たちに、多く触覚的なとらえ方でとらえられていることを指摘したい。右の永福門院の歌[ま萩散る庭の秋かぜ身に しみて夕日の影ぞ壁に消えゆく]の「夕日の影」は、壁の表面で消えるのではなく、まぎれもなく壁の内側に沁みこんで消えるものとして歌われてい る。花園院の歌[むら雨のなかば晴れゆく雲霧に秋の日きよき松原の山]では、松原の山に照る秋の日が「きよき」といわれるとき、それはけっして視 覚的なものとしてだけあるのではない。何よりもまず、冷え冷えと澄んでいる雨後の空気の触感によって、「秋の日きよき」という感覚は成立している のである。
 そういうふうに言えるなら、この種の触覚的認識法はすでに『新古今』歌人たちの親しく浸っていた世界であったし、ずっとさかのぼって、『古今 集』の歌人たちにも親しい世界だったことをも言わねばならない。」(42-43p)

◎『古今集』の撰者の一人、凡河内躬恒に「やみがくれ岩間を分[わけ]て行水[ゆくみづ]の声さへ花の香にぞしみける」という歌がある。
「こういう「しみる」感覚の系譜が、実は日本詩歌の歴史に一本のけざやかな線をつくっているのであって、/夕されば野べの秋風身にしみて鶉[うず ら]なくなりふかくさの里 藤原俊成/という歌ではまだ純触覚的だった「身にしむ」は、俊成の息子の時代に至ると、/白砂のそでのわかれに露おち て身にしむ色の秋風ぞふく 藤原定家/と、「秋風」が「身にしむ色」をしているという内触覚的な認識にまで達する。念のためにいえば、定家のこの 歌は、恋の歌なのである。同じ定家に、/消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露/のごとき歌もあって、「色」はもはや完全に「色 離れ」しているといわねばならない。にもかかわらず、なぜか私は、これらの歌のなかに日本の詩歌の「色」を強く感じるのだ。言ってみれば、ここに こそ、自然界のものに密着した色の世界から、渾身の力をこめて抽出され、いわば「無色の原色」として意識された「色」があるとはいえないだろう か。
 風に色を見るということは、もはや視覚の問題ではない。心の眼の問題である。風のなかに色を見る「心」があるのだ。それはあらゆる現実の色彩の 世界から遠ざかっているが、自然にそうなったわけではない。意志によって遠ざかっているのである。実生活においては、彩り豊かな服もあり、調度も あり、寺院の内装もあり、植物世界もあったわけだが、そういう現実世界の色を拒絶することによって、無職のもののなかに色を見る一種の透視的な眼 を獲得しようとして、彼らは骨身をけずった。
 そうなるについては、色即是空を教える仏教思想の影響を見落とすわけにはいかず、たとえば俊成に、「法華経」の詞句にちなむ釈教歌、/高砂の尾 上の桜みしことも思へばかなし色にめでける/のような歌があって、「色」の否定へのひとつの契機がどの辺にあったかを示している。しかしまた、同 じ俊成の釈教歌で、勤行者が夜明けに見る極楽の黄金の岸を詠んだ歌、/暁至りて浪の声黄金[こがね]の岸によするほどに/いにしへの尾上の鐘に似 たるかな岸うつ波のあかつきの声/には、色彩への言及は何もないのに、黄金の光、そして色が、感触として遍満しているのを感じることができるので ある。」(44-46p)

◎「つまり、ここまでくると、日本の詩歌というものが、現実生活のなかのさまざまな事物を即座に色として感じとっていた物心一体の境から、しだい に個々の「事物の色」を離れ、「心の色」を積極的に定立していこうとする姿がはっきりしてくるといえるだろう。それは、『古今集』仮名序で、貫之 が当代の人の心が華美に流れていることを慨嘆した[いまの世中、色につき、人のこゝろ、花になりけるにより、あだなるうた、はかなきことのみ、い でくれば、いろごのみのいへに、むもれぎの、人しれぬこととなりて…]とき、すでに芽生えていたものといえるし、後代の芭蕉のような詩人が、「風 雅のまこと」をいうとき、その「まこと」は、やはりこれと別のものではなかったと思うのである。一言でいえば、ここに日本詩歌の反俗主義があり、 一見華麗なもの優美なものを豊かにもっているとみえながら、日本の詩歌が全体として「ひえさびた」境地へとたえず磁針を合わせつづけてきた理由 も、この反俗主義の現実的あらわれとしての禁欲主義によるだろう。許六が桃をいやしんだ理由も、その辺にあるように思われる。
 視覚的な「色」だけでは満足できず、触覚的に「しみる」色を追求しようとする衝動も、同じところに発しているだろう。」(46-47p)

◎「心敬は古人が歌のあるべき姿について語った言葉として、「水精(水晶)の物に瑠璃をもりたるやうに」という言葉をあげて賛意を表し、「これは 寒く清かれとなり」と注している。触覚の原則はここにも貫かれている。(略)いずれ色あるものの世界にあって、いかに色を透脱するかということ に、日本の詩歌は思いをこらし、反俗の「まこと」をそこにかけてきたといってよい。
 その場合、触覚的、また内触覚的な透視力ともいうべきものがそこでたえず鋭く働いていたという点に、いわば日本の詩歌そのものの「色」があった のであり、そこに日本詩歌独特の「象徴主義」がたえず働く機縁もあったのだといってよいであろう。」(47-48p)

★9月15日(土):【哥の勉強】万葉の心・新古今の心

 8月24日の日記に、うろ覚えで、「万葉の歌人は、心を客観的にとらえ、それがあるかないかを問題にした。別離の哀しみが自分の内に生成し、い つまでもそこに留まっているのを、当の自分が自覚しているといった具合だ。ところが、古今集になると、そうした物のごとき心ではなく、自分と外 界、意識と自然といった区分が融解して区別がつかなくなった心がうたわれる。そこでは主客分離でいう「主」としての自己は消失している。心はそう いう曖昧な「私」のうちに染みこみ、染めあげるものになっている」と書いた。
 出典は、相良亨『一語の辞典 こころ』(三省堂,1995)。気になったので、該当箇所にあたっておく。

◎万葉人の「心」

《今日のわれわれが『万葉集』の心のつかい方をみて、もうこのようなとらえ方はしないのではないかと、われわれとのずれを感じ、その特色らしきも のを感ずることがある。具体的な事例をいくつかあげると、「結びし情[こころ]」が忘れられない、「語らひし心」に背いて貴方は去った、「忘れじ と思ふ心」に終わることがあろうか、「遠き心」を私はもっていない、「異[け]しき心」を私は思わない等々である。事例はなおいくつでもあり、 「長き心」(変わらない心)、「悔ゆべき心」(後悔なさるような心)、「染みにし心」(あなたに深く染みついた心)、「絶えむの心」(仲が絶える ようにしたいという心)、その他があげられる。ところで、これらのうちで一番印象的なのは、/大夫[ますらお]は友の騒ぎに慰もる心もあらめ わ れぞ苦しき/慰もる心は無しに斯くのみし、恋ひや渡らん月に日にけに/のような「慰もる心」もない、あるいは「慰もる心」がある、といった用法で ある。今日われわれが一般に、悲しさや淋しさが慰められないというところを、「慰もる心」がない、ととらえるのである。
 これは人間の内面の動きを、個別化し客体化して、その個々の心のあるなしという仕方でとらえるものである。ここには「凝る」を語源とする発想 に、あるいはつながるところがあるかもしれないと思われる。
 万葉人は、このような心意識を軸にして生きていたと思われるが、なお、「語らひし心」(男女が契りあったこころ)に背かない・守る・変えない・ 移らない・忘れない等々と、その心が変わらないことをしばしば歌い、また、変わらないことを含めてその心を、より深い、しっかりしたものにしてい くことを望ましいこととしていたといえよう。
 「まそ鏡磨[と]ぎし心をゆるしては後に言ふとも験[しるし]あらめや」という歌があるが、これを磨ぎみがいた鏡のような心というのである。貞 操貞節に限られるのか、心一般についていわれるのか、いずれにしても鏡をとぐというきびしい自己規正をもって、心の姿勢の保持が語られていたとい えよう。》(18-20頁)

◎景物と交感する心

《歌は、心に思うことを自然の景物に託して[古今集仮名序「見るもの聞くものに託して」]、その交感交流の中に生まれてくるものであった。心の思 いを言葉で表現するということにおいて、心と詞との全一的緊張が求められ、そのことによって心の内面が襞を深めることになったと思われるが、心は また景物との交流の中に、さらにより豊かな微妙な襞をもつことになったといえよう。自然との交感的関係は『万葉集』にもみられるが、先に述べたよ うに、『万葉集』の歌には個々の心を対象化し客体化してとらえる傾向がなお顕著にうかがえた。だが『古今和歌集』には、『万葉集』にみたような心 のとらえ方は目立った傾向としては存在しない。『古今和歌集』において、心は景物と交感交流する柔軟な主体としてまずあったように思われる。そし て交感の中に歌うことが、思いとしての心の、より深い微妙な把握となったといえよう。
 ところで、たとえば、/世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし(在原業平『古今和歌集』一の53)/をみると、景物と交感する 人の、ここでは落ち着きのない春の人の心が、「春の心」と表現されている。(略)春と人とは一つであり、心は人の心であるとともに交感する景物の 心としてとらえられる。心がただ人の心であるのみでなく、景物の心ともなる。これは人の心の内なるものが、内向して焦点を結ぶというよりも、景物 との交感の中に歌われることによって、より深くとらえられてくるということに関わるといえよう。》(23-25頁)

     ※
 8月24日の日記には、また、「ここに、古今和歌集と新古今和歌集の違いをもちこむと面白くなる。大雑把にいうと、古今集の言葉が物(自然)と 渾然一体だとすると、新古今では言葉の世界が物の世界から自律している。そこでは、「私」とは何か、という問題感覚が、万葉集の次元とは異なると ころ(言語世界、もしくは物狂いの世界)で再び浮上する」と書いた。
 出典は、尼ヶ崎彬『花鳥の使』。これも、実地にあたって確認しておきたいが、この作業は、いずれ「哥とクオリア/ペルソナと哥」でやらなければ いけないので、今日のところはパス。
 『一語の辞典 こころ』の「歌の心」の章がこのことと関連して示唆に富んでいたこと、それから、佐佐木幸綱『万葉集の〈われ〉』(角川選 書,2007)が、万葉集の心から古今集・新古今集にまで及んで面白かったこと(一人称詩としての和歌、無人称詩としての定家の和歌、「現にいま 発声しつつある者」としての〈われ〉、宮廷歌人・専門歌人、すなわち「署名入りの歌を作る者」としての〈われ〉、そして歌の読者としての〈わ れ〉、等々)についても、今日のところは、今日はパス。

★9月16日(日):【哥の勉強】推移を経験すること/言葉の舞踏としての哥

 8月29日の日記に、尼ヶ崎彬氏の「和歌を味わうとは、言葉の舞踏に引き込まれ、一足ごとに変容するイメージの旅を歩むことである」という指摘 を引用した。『縁の美学』のあとがきに出てくる言葉だが、この本の冒頭に収録された論考「枠と縁──詩歌の文法」から、関連する文章を抜き書きし ておく。

《和歌は三十一字という短詩型であるにもかかわらず、なぜか複数の素材を織り込むのが当然のこととされてきた。たとえば紀貫之が古今集仮名序では じめて和歌を定義したとき、「やまと歌」は心に思う事をさまざまな事象に付託して表現するものだとした。これは主意たる表現内容(個人的心情)と 付託される事象(花鳥風月)と、少なくとも二つの素材を和歌は必要とするということである。複数の素材を文法を無視して組み合わせて、なお作品と しての統一感を与える一つの方法は、言葉の体系を明確な図式の枠に嵌め込むことである。西洋や中国の韻律図式がそれである。だが日本人は漢詩の厳 格な平行性の効果を知りながら、語と語の連想関係によって言葉を繋いでゆくことを選んだ。枕詞、歌枕、縁語、掛詞、本歌取などの修辞はみな、散り 散りになろうとする言葉を何とか縁によって繋ぎとめようとする手段であるとも言えるだろう。
 詩の言葉を図式として見るとは、全体を一度に見渡して構造を把握することであり、一群の言葉を一つのゲシュタルトとして認知することである。こ れはいわば、作品を空間的構築物として捉える態度である。一方言葉の縁を発見するとは、常に語と語との関係という歌の細部の繋がりだけに注目する ものである。全体は見えない。ABCという語の連鎖において、AB間、BC間に縁があれば、AC間に何の関係がなくとも、ABCはひとつながりで あるとみなされる。それはAとCとを同時に見ないからである。言い換えれば、歌を読む(聞く)とは、ABCを同時に一覧することではなく、Aから Bへ、BからCへという推移を経験することなのである。この推移を滑らかに行わせるものが、言葉の縁に他ならない。ここにあるのは、時間の中で出 没する作品の細部を順次経験しようとする態度である。
 言葉の縁は、継ぎ合わされた言葉に形式の上で連鎖の必然を与える。しかし内容の方は形式とは無関係に疾走し、断絶し、飛躍する。中世の優れた歌 を詠むとき、形式上の滑らかさと内容の曲折とが大きなコントラストを成しているのを感ずる。そしてこの落差こそが言葉の舞踏に力を与えているので ある。》(28-29頁)

 この論考で、尼ヶ崎氏は、詩歌を詩歌たらしめている形式条件(形式の自立のための意識的な言葉遣いの操作、すなわち修辞の原理)を二つに分類し ている。その一つは、「韻律図式や対句など、平行性によって語列が人工図式であることを目立たせるもの」。もう一つは、隠喩や換喩などの比喩表現 を含めた「語の連想関係に基づく非文法的統辞」。尼ヶ崎氏は、前者を「枠」、後者を「縁」と名づけ、「どこの国の詩歌も両者を形式条件として持つ としても、日本の場合は比較的「枠」の条件が弱く、「縁」の条件が大きな役割を受け持ったと言えるだろう」と書いている(20頁)。
 ところで、読み手の注意を内容よりも形式(言い回し)に向かわせるための仕掛けのことを、ヤコブソンは「詩的機能」と呼び、「等価の原理を選択 の軸から結合の軸へと投影すること」と定義した。尼ヶ崎氏は、これを「等価性という仕掛けを使って語列を組み立てる」こと、あるいは「類似の言葉 の繰り返しによって文の中にある形式性を目立たせること」(4頁)と言い換える。
 等価には、音の等価と意味の等価の二面がある。音の等価には、母音子音の響きの同音(韻)と、強弱長短の配列のリズム(律)がある。意味の等価 には、連想関係(同義語・反義語・換喩・提喩などをひっくるめて縁語)と、文法機能(品詞や格)がある。
 また、等価を利用した修辞形式に、反復と重層の二面があり、反復には、語の反復(同音の繰り返し、または縁語の連続)と構造の反復(脚韻、対句 など)がある。重層とは、形式上明らかに二つの文であるべきものが重なり合うこと、つまり「二つの語列が同一の語句を共有している」ことであり、 その仕掛けの一つは掛詞、もう一つは本歌取である(30-31頁)。

《西洋・中世の詩が主として構造の反復というやり方で言葉に形式の枠を嵌めているとしたら、和歌は語の反復と文の重層によって連鎖と展開をめざし ている。読者が縁によって繋がっている語の連鎖を追えば、それは次々とイメージが変容し、突然に転回するという時間的経験をもたらすだろう。平行 性の詩が構造堅固な建築であるとすれば、縁につられて流されてゆく和歌は予期せぬ変化を身上とする舞踏に近いかもしれない。》(31頁)

 尼ヶ崎氏は、この文章に続けて、「いや、もう少しましなたとえを捜そう」と書いている。「もう少しましなたとえ」というのは、幾何学式庭園に対 する回遊式庭園なのだが、このことについては別の機会に書く。
 また、尼ヶ崎彬編『芸術としての身体──舞踏美学の前線』(勁草書房,1988年)の序論「舞踏美学の現在」とあとがき(いずれも尼ヶ崎氏によ るもの)が、「言葉の舞踏としての哥」に関連してとても興味深いのだが、このこともまた別の機会に。


☆2008

★7月13日(日):哥と共感覚・素材集1

 和歌における共感覚的表現に関連して、いくつかの書物にあたってみたので、印象に残った箇所を抜き書きしておく。
 何を探っていたかというと、共感覚をキーワードに歌体論にアプローチしてみようというもの。その「成果」は、いずれ「哥とクオリア/ペルソナと 哥」に反映されるかもしれないし、反映されないかもしれない。
 なお、ネットでは、他に雨宮俊彦氏の「芭蕉と共感覚」が参考になった。

◆小西甚一『日本文藝の詩学──分析批評の試みとして』(みすず書房)

 貞享期の[芭蕉の]作品におけるトーンが禅的なものに関わりをもつとすれば、それは、イメィジの用法を検討するうえにも、すくなからぬ示唆をあ たえそうである。というのも、

   海暮[く]れて鴨の声[こゑ]ほのかに白し

の「白し」などに見られる用法が、禅的な表現と無縁ではないようだからである。本来「白し」は、色彩について言われるはずの語であるのに、右の句 では、鴨の「声」に対して用いられている。……
 イメィジのこういった使いかたは、欧米の批評用語で共感覚(synaesthesia)とよばれるものだが、詩に用いられたのはロマン派からで あり、盛行したのはボードレールを代表とする象徴詩においてだといわれる。それより早い時期に今日感覚技法がおこなわれたかどうかは明らかでな い……。そうすると、十七世紀後半に「鴨の声白し」といった類の表現が試みられたことは、まことに注目を要する現象だといってよろしかろう。
 もっとも、共感覚技法そのものは、芭蕉より前に無かったわけではない。ロバート・H・ブラワーとアール・マイナーの共著に成る『日本宮廷詩』 (Lapanese Court Poetry,1961)は、和歌における共感覚の例として、

   朝あけのこほる波間[なみま]にたちゐする羽音も寒き池の群鳥[むらとり] (『玉葉』六・九四三)

などを示す。わたくしの寓目した最古の共感覚技法は、

   千代[ちよ]経たる松にはあれど古[いにしへ]の声の寒さはかはらざりけり (『土佐日記』・二月九日)

だが、ほかにも些少の例をあげることは、あまり難しくはない。しかし、芭蕉が和歌から共感覚技法をまなびとったとは、考えにくいようである。和歌 の表現を採りこむ点では、俳人よりも連歌師のほうがずっと積極的だったけれど、わたくしの乏しい調査では、連歌には共感覚技法の例がまだ見つから ない。……
 そこで、わたくしは、芭蕉が接する可能性のあったシナの詩にもっと直接的な拠り所を求めたい。……
 ところで、共感覚技法は、日常語のなかに融けこみ、それと意識されなくなることが稀でない。……われわれが「黄色い声」を共感覚技法だと気づき にくいようなものである。だから、共感覚技法が詩の技法として効果を示すためには、日常語法との間にそうとう「離れ」が無くてはならない。すなわ ち、あまり見かけない共感覚技法であることを必要とするわけだが、この「あまり見かけない」という感じは、外国語の共感覚技法であるばあい、いっ そう顕著である。本国人にとってはごく日常的でも、外国人にはそれが際だちやすい。和歌における共感覚技法を最初に指摘したのがアメリカの学者 だったという事実は、ひとつの好例であろう。シナ詩にそれほど共感覚技法が多いわけではないのに、室町時代の禅林詩でそれがこのまれた理由のひと つも、禅僧たちがシナ詩に本国人よりも多く共感覚技法を認めたからではなかろうか。芭蕉が共感覚技法をまなんだのはシナ詩を通じてのことで、和歌 ではなかったろうという推定も、やはり同じ筋あいにもとづく。(「「鴨の声ほのかに白し」──芭蕉発句分析批評の試み・1」、108-112頁)

◆藤原克己・三田村雅子・日向一雅・佐々木和歌子『源氏物語――におう、よそおう、いのる』(ウェッジ選書)

 …古代において視覚的な美しさに関して用いられることの多かった「にほふ」という言葉が、染まるという意味で用いられているということは、その 視覚の内側に、一種の接触感覚が濃厚に息づいていたことを示唆しているように思われます。(藤原克己、第一章「匂い──生きることの深さへ」、 40頁)

 …この詩[ボードレール「万物照応 Correspondances」]は、全体を読めば明らかなように、たんに感覚的なもののみの交響を歌っているのではなく、その感覚の交響が、精神的な ものとも分かちがたく融合しつつ、象徴の森としての世界の意味を啓示するものとして、歌われています。しかし、私たちの感覚とは、まさにそのよう なものではないでしょうか。五感が相互に複合しているだけでなく、記憶や情念などの精神的なものとも融合している。(同、61頁)

『万葉集』には、香りを詠むということじたいが少なかったのでしたが、『古今集』になりますと、むしろ好んで香りが詠まれるようになります。そし てこの変化は、『万葉』から『古今』にかけて和歌に生じた、ある大きな変化に対応しています。唐木順三氏の名著『日本人の心の歴史』(筑摩叢書・ 一九七六年)に、『万葉集』には「見れど飽かぬ」という言い方を代表として、「見る」という動詞がたくさn出てくるのに対して、『古今集』では 「見る」が大幅に減って、代わりに「思ふ」が増えてくる、ということが指摘されていますが、まことにしかりで、古今集歌には、目の前に見えている ものよるも、遠くはるかなものを思いやる──たとえば眼前に今を盛りに咲いている桜よりも、霞に隔てられている桜を思いやるとか、川面に流れる花 びらを見て、水上で咲いている桜を思いやるとか、そんなふうに遠くはるかなものを思いやる、あるいは目に見えない音や香りですとか、水に映る影や 夢ですとか、要するに、確かに現前するものよりも、非在のもの、非有非無のものを好んで歌うという傾向が顕著にうかがわれます。
 そのような傾向にも関わって、とくに興味深く思われる歌を二首、取り上げてみたいと思います。いずれも、紀貫之と並ぶ古今集時代の代表的歌人、 凡河内躬恒の歌です。(同、65-66頁)

※以下、次の二首が引かれる。

  闇がくれ岩間を分けてゆく水の声さへ花の香にぞしみける
  春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる

 前者「闇がくれ」について、藤原氏は、「目に見えないものを思いやって詠むという歌の典型ですが、と同時に、渓流の音が花の香に染まるという、 のちの時代の歌人たちにたいへん好まれるようになった卿感覚表現を先取りしている点でも注目されます。」(67頁)として、藤原俊成の歌を一首あ げている。

  春の夜は軒端の梅をもる月の光もかをる心地こそすれ

 また、能「東北[とうぼく]」で謡われる後者「春の夜の」をめぐって、藤原氏は次のように書いている。
「私は昔、この[下の句を引き取った]地謡の旋律を聴いていて、「こそ─ね」「やは─るる」という係り結びの音楽的な美しさに、はっと気づかされ たという経験をしました。こういう助詞・助動詞のたぐいを、古来「てにをは」と言ってきましたから、これは「てにをは」から生まれる和歌の音楽、 と言ってもよいでしょう。」(71頁)

◆大岡信『詩の日本語』(日本語の世界11,中央公論社)

 この本については、以前(2007-09-08)、抜き書きしたことがあった。
 そういえば、「哥と共感覚」という作業自体、以前、やりかけていたものだった。

◆稲田利徳「共感覚的表現歌の発生と展開」
  上(岡山大学教育学部研究集録第43号)[http://eprints.lib.okayama-u.ac.jp/1541/]
  下(岡山大学教育学部研究集録第44号)[http://eprints.lib.okayama-u.ac.jp/1556/]

 古典和歌における共感覚的表現歌の発生とその後の展開の様相を、類型的な共感覚(視覚→触覚、聴覚→触覚)とこれ以外の共感覚(視覚→嗅覚、聴 覚→嗅覚、聴覚→視覚、聴覚→触・視覚、嗅覚→触覚、嗅覚→触・視覚、嗅覚→視覚、触・視覚→視覚)の十組について、通史的にリサーチ。
 その結果。万葉集:類型的な共感覚は若干あるが、それ以外のケースはない。
 中古時代(古今、後撰、拾遺の三代集):万葉と同様「色→匂う」は幾首かあるが、純粋な共感覚的表現は一首も認められない。「共感覚的表現は、 漢詩的な表現として、和歌の世界では忌避されたのであろうか。」
 ただし、私家集などには、共感覚的表現が若干存する。たとえば、土佐日記(二月九日)に「千代経たる松にはあれどいにしへの声の寒さは変らざり けり」がある。「ただ漢詩文の世界では、「松声→寒し」の発想がかなり早くから発生していたことを思えば、貫之の独自性を強調するのは、いささか 買い被りになる。」
 ここまでのリサーチで見出された共感覚的表現の大部分は類型的共感覚で、それも視覚→触覚よりも、聴覚→触覚のケースの方が多い。
 共感覚的表現歌は、千載集(藤原俊成撰)の頃から漸次多く創作される傾向をみせ、新古今時代にピークになる(千載:7首、新古今:14首)。 「新古今の新風の一端が、この共感覚的表現にもあらわれているとみてよかろう。」
 例歌をいくつか。「春の夜は軒端の梅を洩る月の光も薫る心地こそすれ」(俊成・千載・春上・二四)。「大空は梅のにほひに霞みつゝくもりもはて ぬ春の夜の月」(定家・新古今・春上・四○)。「はなのかのかすめる月にあくがれてゆめもさだかに見えぬころ哉」(定家・拾遺愚草・九○七)。こ の嗅覚→視覚の共感覚的表現は、「彼[定家]の特許的な表現のごとき趣さえある。」
 ──以上、「共感覚的表現歌の発生と展開(上)」から。

◆福島章『不思議の国の宮沢賢治──天才の見た世界』(日本教文社)

 賢治は月を見ると果実の匂いを感じたり(視覚→嗅覚)、音楽を聞くとさまざまな情景を眼に見たりした(聴覚→視覚)。共感覚は、躁状態にかぎら ず、天才的な創造者にしばしば見られる。例えば、詩人ランボー、松尾芭蕉、作曲家スクリアビン、リムスキー=コルサコフらが有名である。
 共感覚についても、天才的な創造者とともに、幼児や原始人によく見られるという報告がある。また、理論的には感覚強度の亢進によって生じると考 えられることは既に…示したとおりである。いずれにしても、共感覚が生じるのは、共感覚者の知覚体験が通常人より〈強く〉〈深く〉〈生命的〉だか らだと考えられる。
 奇妙な譬えになるが、いわゆる健常人の感覚は、人間の身体でいえば骸骨のようなものである。そこでは、頭蓋骨や肋骨や四肢の骨を区別することが でき、区別や説明には便利であるが、人間の肉体がそもそも持っていた統合性や豊穣性が失われている。
 これに対して賢治の感覚は、肉や皮膚に覆われた肉体のようなものである。その中にはあたたかな血が全身を経めぐっており、渾然一体として〈生き られた〉肉体を作り上げているのだ。(183-184頁)

※福島氏が、賢治の共感覚表現の例として挙げているのは、たとえば「いざよひの月はつめたきくだものの匂ひをはなちあらはれにけり」や「あけがた の黄なるダリヤを盗らんとてそらにさびしき匂ひをかんず」といった短歌、「春と修羅」(第一集)の「いまやそこらは alcohol 瓶のなかのけしき/白い輝雲[きうん]のあちこちが切れて/あの永久の海蒼[かいさう]がのぞきでてゐる/それから新鮮なそらの海鼠[なまこ]の匂」な ど。
 これは、共感覚とは関係ないが、福島氏が引用している賢治の初期作品「竜と詩人」の一説は、興味深い。
「あのうたこそは、私のうたで、ひとしくおまへのうたである。いったい、わたしはこの洞に居て、うたったのであるか、考へたのであるか。おまへは この洞の上にゐて、それを聞いたのであるか、考へたのであるか。おゝスールダッタ。
そのとき、わたしは雲であり風であった。そしておまへも、雲であり風であった。詩人アルタがもしのときに瞑想すれば、恐らく同じうたをうたったで あらう。けれどもスールダッタよ。アルタの語とおまへの語はしとしくなく、おまへの語とわたしの語もひとしくない。韻も恐らくさうである。この故 にこそ、あの歌こそはおまへのうたで、またわれわれの雲と風とを御する分の、その精神のうたである。」

★7月14日(月):哥と共感覚・素材集2

◆リチャード・E・シトーウィック『共感覚者の驚くべき日常──形を味わう人、色を聴く人』(山下篤子訳,草思社)

「異種感覚間連合の説明をしてくれ」
「二歳の子どもを考えてください。その子に何かを見せて、それからその子を物がいっぱいある暗い場所に入れます。その子は触覚だけで、さっき見た 物体と同一のものを選んで認識できます。これが異種感覚間連合で、幼い子どもでももっている人間の能力です」
「わかった」
「異種感覚間連合の能力が言語の基礎であることは、ずっと以前から知られています。サルはこれができません。人間以外の動物で容易に確立できる感 覚と感覚の連合は、快などの情動刺激と、視覚、触覚、聴覚といった非情動刺激との結びつきだけです。非情動刺激を二つ結びつけられるのは人間だけ です。だからこそわれわれは、物に名前をつけられるのです。……
 ……標準的な見解によれば、言語はもっとも高次の異種感覚間連合で、とりわけ三次連合野や皮質の各領域のつながりに依存しています。プロセス全 体が、この進化的にもっとも若い部分で起こっているのです」
「話はわかった。しかしその話は、共感覚の連合がどこで生じるのかという問題とどう関係しているんだ?」
「異種感覚間連合は、われわれの思考の正常な一部ですが、無意識レベルで起こっています。共感覚者の場合は、あたかもこうした連合が、厚い雲のな かから少し顔をのぞかせる太陽のように、意識のなかに顔をのぞかせているという感じです。……
 われわれは聞くものと見るものを別個の出来事として区別するにもかかわらず、それらの感覚を、それについての思考を形成する過程で統合できるこ とは経験からわかります。その統合は、われわれの意識にのぼらないレベルで起こります。共感覚者と呼ばれている小数の人たちは、あたかも感覚の チャンネルの一部が意識のもとで統合されているかのように、通常は隠れている正常な知覚過程が意識の前にむきだしになっているかのようにふるまい ます」
 ……「……もし共感覚の連合のリンクが神経処理の最上位レベルで起こっているなら、それは言語やアリストテレスの共通感覚のように、抽象的なも のになるはずです。この上位レベルの連合は人間が生得的に使うメタファーに似ています。この場合、共感覚の知覚は意味論的な意味に満ちているはず だし、直接的な感覚属性をすべて失っているでしょう。体験は具象的ではなく抽象的になるはずです」
「そして前後関係が体験に影響をおよぼすはずだな」(139-140頁)

 共感覚は、いつでもだれにでも起こっている神経プロセスを意識がちらりとのぞき見ている状態だ。辺縁系に集まるものは、とりわけ海馬に集まるの は、感覚受容体から入ってくる高度に処理された情報、すなわち世界についての“多感覚の評価”である。
 私は共感覚者を“認知の化石”と呼んでいる。人間であること、哺乳類であることのきわめて根本的な部分を認識する能力を、ほんの少しではある が、彼らが運よく保っているからだ。
 私たちはひょっとして、この付加的な能力をもつ共感覚者に進化するのだろうか? いや、私たちはすでに能力をもっているが、それを知らないの だ。共感覚は付加されるものではなく、すでに存在している。多感覚の意識は、大多数の人において意識から“失われた”ものなのだ。この点からも、 共感覚者は認知の化石であると考えざるをえない。
 私たちは、自分が知っていると思っている以上のことを知っている。多感覚の、共感覚的現実観は、まちがいなく私たちの意識から失われているもの の一つにすぎない。ほかにもたくさなるかもしれない。もしあなたが、このより深い知をいくらかでも取り戻してみたいと思うなら、情動からはじめる のがいいと私は思う。情動は私たちの自己の、意識がアクセスできる部分とできない部分との接点に存在しているように思えるからだ。 (239-240頁)

「すると共感覚者は、人間はもちろん、広くは哺乳類であるという状態を端的に示しているのだね?」
「そのとおりだ。僕は共感覚が原始的だとか、初期人類が世界を共感覚的に知覚していたかもしれないとか、そういうことを言っているのではない。い つもこの点が誤解されるらしいが、通常の経験よりも僕たちの生物学的なルーツに近いという意味で言っている。
 テレビのたとえ話をしてみよう。僕らはみんなテレビ画面で像を見る。さて、だれかが、最終的な像が画面に映る前の段階で、信号を知覚してそれを 理解できるとする。その人は共感覚者とまったく同じだ。共感覚者は根本的に、感覚をもって生きている生物の基盤により近い」
「なんという、みごとなたとえだ!」(250-251頁)

◆湯山光俊「二重の論理学、溢れ出る生──ジル・ドゥルーズについて」(『ポリロゴス1』)

 ベーコンは肖像画家なのだろうか? 顔でなく「頭部」を描く肖像画家。「頭部」とは、肉体も全て呑み込んだような運動のあるものであり、先の文 脈からつなげば〈形象〉[figure]である。身体の器官の機能分化ができず、肉の蠢きだけのようになっていく、あの〈器官なき身体〉こそ〈形 象〉なのだ。ドゥルーズはこのとき動物への生成変化がおきていると書き加える[『感覚の論理』]。

 動物? ある動物が敵の存在を知るとき、たとえば鼻は単純に匂いをかぎまわる専用の器官なのだろうか。濡れたその鼻の上に風の微細な動きも読み 取ることはないのだろうか。わずかな物音にも身構える耳は温度や音波を感じ、目は暗闇で見えずとも開かれる。この時、ただ目は「見ている」器官な のだといえるのだろうか。突然自分が食われてしまおうとしているのだ。自分がただの肉と骨になる前に、動物はあらゆる器官を連動させて見えない敵 を見ようとするにちがいない。そのとき全ての器官は単純な能力の分担をやめる。目はもう「見ている」だけでなく、足音を聴くことも匂いを嗅ぐこと もできる。そんな瞬間が人間にも訪れるだろう。顔であったものはまだ、あらゆる役割に囚われている。自分が肉と骨の現実に直面したとき、人は肉屋 でさばかれる肉の塊のように自分のことを思うのだ。しかしその手前で猛烈な器官の運動は起き、もはや一個の感覚体のように凝縮され、運動は開始さ れる。それが〈器官なき身体〉であり〈形象〉となる。すべての器官がとけさり、能力が最高度に高められて、コラールが叫びへと変わるのである。

 ベーコンはそれでも人間が肉屋につるされるような肉の塊であることを宗教家のように憐れみ、そして享楽した。だからこそ、人間が見えなくなって しまう前に、肉と骨になる寸前に、形象である「頭部」の運動の中にそうした人間のめまぐるしい能力の回転を描き込むのだ。そして、その孤立した 〈形象〉はエネルギーを高めるように強度を増していく。

 これらベーコンの絵画の構成は、『千のプラトー』の三つの図式を敷延している。まず「強度になること」。形象は孤立化し、骨と肉は対立し、軽業 的な運動競技がはじまる。そして「動物になること」。肉の塊になる手前で、たとえば動物とカップリングされるように能力は能力をこえてむすびつ き、警戒し、緊張し、陶酔し、すべての器官はたったひとつの精神としての感覚器にされ、〈器官なき身体〉が現れる。最後に「知覚できなくなるこ と」。猛烈な形象の運動のスピンは加速度をまし、もはや顔という知覚をこえる。運動が見るという役目だけを負わされた網膜では捉えられなくなって いく。まさしく不可逆な運動の行く果てへ。画布から網膜の上へ。フィギュールははりつくのだ。見よ。三つの図式が連結している。「強度になるこ と、動物になること、知覚できなくなること」。(198-200頁)

★7月15日(火):哥と共感覚・素材集3

 共感覚と直接的に関係しないのかもしれないが、(ドゥルーズ/ガタリの「動物になること」との関連で)、リルケの「開かれた世界」もしくは「世 界内部空間 Weltinnenraum」という概念が興味深い。
 辻邦生著『薔薇の沈黙』によると、「世界内部空間」は(天使的な)純粋意欲に対応して存在するものである(93頁)。それは「存在と非存在を貫 く存在形式」(94頁)である。「生と死、内と外を貫く空間」(129頁)であり、「過去も未来もない持続」(146頁)である。
 また、「純粋意欲」は、ニーチェの「力への意志」とほとんど同質の「生への意欲」といっていいものである(162頁)。
 以下、同著から、いくつかの文章とそこで引用されたリルケの詩と書簡を抜き書きする。
 なお、ネットでは、多代田いわみ氏の「リルケの「世界内部空間(Weltinnenraum)」について―<死者の声>の理念を中心に―」が参 考になった。

◆辻邦生『薔薇の沈黙──リルケ論の試み』(筑摩書房)

 …この〈内〉は無となり、〈外〉を映すものとしてのみ存在しているので、ここでは〈内〉はそっくり〈外〉として存在しはじめている。前章末尾に 掲げた詩[「薔薇の内部」]「何処にこの内部に対する/外部があるのだろう?」は、このことを言っている。強いて言えば内部に対する外部は、内部 にしかない。〈外〉は〈内〉に包まれ、〈内〉は無化し〈外〉と一つになる。〈内〉から〈外〉へという溢出(「あまたの薔薇は/みちあふれ/内部の 世界から/外部へとあふれ出ている」)は実は〈内〉から〈外〉へではなく、〈“外”〉“から”〈内〉へ溢れ出ているということになる。
 この「〈外〉から」の〈外〉は、無化された〈内〉に映っている〈外〉である。したがってこの〈外〉からの働き(匂い、色、形体付与などの働き) が溢れるとは、〈外〉がある匂い、色調、形体に変貌してゆくことに他ならない。あたかも匂いが薔薇から溢れ、夏らしい世界へと変ってゆくようにで ある(「そして外部はますますみちて 圏を閉じ/ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に/夢のなかの一つの部屋になるのだ」)。
 後期の詩『転向』のなかでリルケが「もはや眼の仕事はなされた/いまや、心の仕事をするがいい」と歌ったのは、見る存在としての〈内〉が無と なって〈外〉と一体化した瞬間を直覚したからだろう。見る主観と見られる対象という対立関係は、この新しい場、新しい空間では消える。そこには 「心の仕事」──つまり〈見る〉ではなく〈感じる〉が開始される。と同時に、主観・客体の二元論のかわりに、〈感じる〉ことによって一元的に現象 する世界が、そこに存在しはじめる。(70-71頁)

 青空を見るとき、われわれは単に青空がそこにあると思うにすぎない。……だが、〈見る〉を超えた感受にとっては「青空」は何か“それ”によって 心をときめかせるものとなる。……すくなくとも、それはただ空が青いという現象的事実ではなく、その青さによってたえず無限の物想いを語りつづけ る存在となる。それは時にゴッホの画面に深く沈むオーベールの麦畑の上の青空のように、無限の悲しみを語りつづける。またセザンヌの『大水浴』の 遠い青空のように地上の悦楽の極点にある至福を象徴する。
 ここでは〈見る〉は「青空という物」の外にあるのではないし、その現象的事実に従属しているのでもない。逆に、そこに「青空」という新しい現実 を生みだし、われわれはその中に入り、無限の内容を生き始めるのだ。「青空」はもはや現象的事実ではなく、感受力は現象する青空の単一性を超え、 そこに無限に開かれる青空の映像を映してゆくことになる。それは喜びから悲しみまであらゆる調音を響かせるが、その根底には存在の歓喜が横たわっ ている。なぜなら〈見る〉を超えた感受力は、何よりも、存在に内在する生命力と交換するからだ。(163-164頁)

 それ[純粋な生命力]は〈見る〉を超えることによって〈対象[もの]〉としての世界でない世界(〈開かれた世界・世界内部空間〉)の現前を可能 にする。自己はここでは全存在と一体化し、全存在という形で(もはや自己意識はなく)純粋な活動体となる。つまり自己の内面は純粋に透明化するこ とによって、外面世界と完全に一体化する。〈見る〉によって主客が分裂せざるを得なかったわれわれは、ここではじめてこの愛と自己透明化によっ て、外界全体に浸透する。そしてそこには自己性が存在しない結果、内面と外面の合一が実現するのである。
 また死が自己の有限を外界に投射したものである以上、自己性を超出した純粋活動体にとっては死は存在しない。活動力が死を超えて働きつづけるか らである。「“死を”みるのはわれわれだけだ」[「第八の悲歌」]と言うのは、われわれだけが自己の獲得を目ざして活動するからだ。「動物は自由 な存在として/けっして没落に追いつかれ」ないとは、逆に、人間以外の生きものたちはひたすらそれを持ち合わせないからである。(174-175 頁)

 それ[世界内部空間]を全身で生きるとは、彼自身が自己性を克服し、内と外の合一化を体験し、生と死のめくるめく合体を通して、突然、自在な永 遠的存在に変貌することなのだ。それ“について”語る人ではなく、それ“から”すべてを語り出す人になる。もはや〈世界内部空間〉についても〈天 使〉についても話す必要はなくなる。彼自身が〈世界内部空間〉から語り、〈天使〉的存在として語るからである。一九二二年一月の詩的奇蹟ともいう べき突然の詩作の嵐は、まさしくこうした存在になり得たリルケが、神話を憑依的に語る巫女さながらに、存在のあらゆる形姿を言語化したプロセスと いうことができるだろう。
 そこには、〈固有の死〉〈愛する女〉を通って〈天使〉の出現に至る登高のひたむきな姿勢から、〈世界内部空間〉の内側から発する多様な声へと変 容するリルケが見てとれる。たとえば、人間は〈天使〉に対してただ恐れる存在ではなく、人間の役割をはっきり明示する存在に変る。いまやリルケは 「地上にあること」を全肯定する詩人として立つ。(176頁)

 それ[世界内部空間]は薔薇に抱かれた世界であり、世界は薔薇に変貌している。〈見る〉を超えて現われる世界、心の愛でひしと抱かれた世界と は、薔薇の本質である〈歓喜・陶酔〉を充満させた空間にほかならない。晩年のリルケはミュゾットの館でこの成熟を経験し、力に満ちた日々を取り戻 した。薔薇は夏の光の下で沈黙し、ただ充実した内面の活動に宇宙的生命を象徴化する。沈黙とは、この宇宙的な理法のすべてに通暁し、生命という至 福の業[わざ]をまさしくこの〈薔薇〉という形で言うことなのだ。

  ぼくはお前を見つめる、薔薇よ、半開きの書物よ、
  細々と幸福を書き綴った
  多くの頁。ぼくはとても
  読みきれそうにない、魔法の書物よ(『薔薇』Ⅱ)

〈薔薇空間〉となったリルケは甘美な陶酔の持続となって、時間を超え、生と死を超える。おそらくいまわれわれにとってなすべきことは、〈見る〉こ との果てに出現した〈対象[もの]としての世界〉を、いかにして〈薔薇空間〉へ変容するか、ということだろう。不毛と無感動と貨幣万能の現代世界 のなかで、はたして至福に向かってのそんな転回が可能かどうか、われわれがある決意の時に立たされていることは事実だろう。(177-178頁)

     ※

  「薔薇の内部」(『新詩集』別巻)

何処にこの内部に対する
外部があるのだろう? どんな痛みのうえに
このような麻布があてられるのか?
この憂いなく
ひらいた薔薇の
内湖[うちうみ]に映っているのは
どの空なのだろう? 見よ
どんなに薔薇が咲きこぼれ
ほぐれているかを ふるえる手さえ
それを散りこぼすことができないかのよう
薔薇にはほとんど自分が
支えきれないのだ その多くの花は
みちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
そして外部はますますみちて 圏を閉じ
ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に
夢のなかの一つの部屋になるのだ。(富士川英郎訳)

     ※

  「第八の悲歌」から(『ドゥイノの悲歌』)

すべての眼で生きものたちは
開かれた世界を見ている。われわれ人間だけが
いわば反対の方向をさしている。そして罠として、生きものたちを、
かれらの自由な出口を、十重二十重[とえはたえ]にかこんでいる。
その出口のそとに“ある”ものをわれらは
動物のおももちから知るばかりでだ、おさない子供をさえも
わたしたちはこちら向きにさせて
形態の世界を見るように強いる。動物の眼に
あれほど深くたたえられた開かれた世界を見せようともしない、死から自由のその世界を。
“死を”みるのはわれわれだけだ。動物は自由な存在として
けっして没落に追いつかれることがなく
おのれの前には神をのぞんでいる。あゆむとき、
それは永遠のなかへとあゆむ、湧き出る泉がそうであるように。
“われわれ”はかつて一度も、一日も、
ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る
純粋な空間に向きあったことはない。われわれが向きあっているのは
いつも世界だ、(辻邦生訳)

     ※

  リルケの手紙(ハイデッガーによる引用)

 この悲歌の中で提起しようとした開かれた世界の概念についてですが、動物は(われわれ人間がいつもそうしているようには)世界を各瞬間瞬間に自 己と対立させることをしないので、動物の意識の段階は開かれた世界を現実の世界の中へ組み込んでしまうのだというふうに理解していただかねばなり ません。動物は世界の“中に”存在しているのです。われわれはわれわれの意識のとった独自の方向と意識の高まりのために、世界を“前に”して立っ ているのです。(…)開かれた世界といっても、空、大気、空間などを考えているのではありません。それらにしても観察者、判断者にとっては、「対 象」となるものであり、従って、「不透明」かつ閉じられたものになってしまいます。動物や花などは、推測しますに、自らについて弁明することなし に一切で“あり”、自らの前に、自らの上に、あの言い現わし難く開かれた自由というものを持っているのです。この自由は、われわれの場合にはおそ らく、人間どうし、たとえば恋人どうしが相手のなかに、自分自身の拡がりを見るところのあの愛の最初の瞬間とか、神への献身とかの中にのみ、(極 度に瞬間的な)その等価物を有するものなのです。[ハイデッガー『乏しき時代の詩人』、手塚富雄・高橋英夫訳]


★8月7日(木):哥と共感覚・素材集(追録の1)

 M.メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(中島盛夫訳,法政大学出版局)。「共感覚」という語が二箇所に出てくる。いずれも、第二部「知覚された 世界」の「Ⅰ 感覚すること」でのこと。
 一度目は、メスカリン体験をめぐる記述のなかで。二度目は、「発声映画」の話題につながる箇所で。該当箇所とその前後を、二日にわけて抜き書き する。
 メルロ=ポンティの文章は、読み始めるととまらなくなる。こんな大部の哲学書に、一夏没頭できたらいいと思う。その余裕がないのは残念。

◎空の青み/メスカリンの体験(彼は音そのものを見る)/耳はわれわれに正真正銘の「物」を与える

「…もろもろの感官は互いに連絡しあっている…。(略)もし私が感官の一つにおのれを閉じこめようと欲し、例えば私のすべてを眼のなかに投げい れ、空の青みに身をまかせるならば、私は程なく見つめているという意識さえもたなくなる。そして私がおのれをすっかり視覚と化そうと欲するまさに その刹那、空は「視覚的知覚」たることをやめて、その刹那の私の世界となる。」(370頁)

「感覚的性質は知覚と同延であるどころか、好奇心ないし観察という態度の特殊な産物なのである。私のまなざしをすっかり世界に委ねるかわりに、私 がこのまなざしそのものに向い、“正確にいって私は何を見ているのか”[傍点]と自問するとき、感覚的性質が現われるのである。それは私の視覚と 世界との間の自然なつきあいのなかには出現しない。それはある問いに対する私のまなざしの答えであり、おのれをその特殊性において知ろうと努める 視覚の、二次的もしくは批判的な働きの結果である。」(372頁)

「メスカリンの中毒は公平無私な態度を妨げ、患者をその生命衝動に委ねるから、共感覚(synesthe'sies)の発生を助長するはずであ る。じじつメスカリンの影響のもとでは、フルートの音は緑青色に見え、メトロノームのチクタクいう音は暗やみのなかで灰色のしみとなって現われ る。しみとしみとの間の空間的な間隙は音と音との間の時間的間隔に対応し、しみの大きさは音の強さに、しみの空間的な高さは音の高さに対応する。 (略)共感覚的経験はこうして、感覚の概念と客観的思惟とを改めて問題にする、新たな機会を提供しているのである。“それというのも被験者は、た だ単に音と色とを同時に経験するといっているのではなく、色彩が形づくられるその場所に、彼は音そのものを見るのだからである”[傍点]。視覚が 視覚的 quale によって、音が音響的 quale によって定義されるならば、被験者のこのいい方は文字通り意味を失ってしまう。しかし、何といっても音を見るということ、色を聞くということは現象として 存在するのだから、被験者の言明が意味をもつような仕方で、われわれの定義を構成する責任がわれわれに存するのである。そしてこれは例外的な現象 でさえない。共感覚的知覚はむしろふつうのことなのだ。」(374-378頁)

「一羽の鳥がそこから飛び立ったばかりの木の枝の運動のうちに、この枝のしなやかさ、もしくは弾性が読みとられ、林檎の枝と樺の枝とがこうして直 ちに見分けられる。われわれは、砂のなかに沈んだ鋳鉄の塊りの重さや水の流動性やシロップの粘性を見ることができるし、また同様にして、道路を通 る馬車の響きのなかに敷石の堅さと凹凸を聞きとることができるのである。したがって「軟らかい」音「艶のない」音「乾いた」音などといわれるもの ももっともなことなのだ。耳がわれわれに正真正銘の「物」を与えることを、たとえ疑うことができるにしても、少なくとも耳が空間における音を越え て、「音を出す」ある物をわれわれに提示し、これによって、他の諸感官と連絡していることは確かである。最後に、もし私がまぶたを閉じて、鋼の棒 と科[しな]の木の枝とをたわめるならば、私はこの二本の手の間で、金属と木材の奥まった組織を知覚する。したがって「あい異なる感官の与件」 は、それぞれ比較を許さぬ性質として取り上げられた場合には別々の世界に属することになるけれども、またそれぞれその特殊な本質において、物を吟 ずる(moduler)一つの仕方であるので、それらはすべて、その有意味的な核心によって互いに連絡しあっているのである。」(376-377 頁)

★8月8日(金):哥と共感覚・素材集(追録の2)

 M.メルロ=ポンティ『知覚の現象学』から。

◎身体は実存の凝固した形態である/発声映画/身体は語にその原初的な意味を付与する感応的対象である

「これ[両眼視の総合]を諸感官の統一の問題に適用してみよう。諸感官の統一は、一つの根源的な意識のもとへのそれらの包摂によって理解されるの ではなく、認識する唯一の身体へのそれらの統合によって、しかし決して完成されない統合によって理解されるはずである。相互感官的な対象と視覚的 対象との関係は、視覚的対象と複眼における単眼視像との関係に等しい。そしてもろもろの感官は、二つの眼が視覚において協力しあうように、知覚に おいて相互に連絡する。音を見たり、色を聞いたりする働きは、まなざしの統一が両眼を通じてなされるような仕方で、実現されるのである。こういう ことが起るのも、私の身体が並存する諸感官の総和ではなくて、諸感官の共働的な組織であり、そのあらゆる機能が「世界における(への)存在」の一 般的運動のなかで捉え直され、結びつけられているからである。つまり身体が実存の凝固した形態だからである。見ること、もしくは聞くことが、ある 不透明な quale の単なる所有ではなくて、実存の一つの様式の体験であり、私の身体とそれとの同調であるならば、私が音を見たり色を聞いたりするということにも、一つの意 味がある。そして性質の経験がある仕方の運動もしくは振舞の体験であるならば、共感覚の問題にも解決の曙光が見出される。私がある音を見るという とき、私が意味していることは、音の振動に、私の感官的存在の全体によって、そしてとりわけ色に感じうる私自身の区域によって、私がこだましてい るということなのである。客観的な運動、つまり空間における位置の変化としてではなく、運動の企投もしくは「潜勢的運動」として理解されるなら ば、運動は、諸感官の統一の基礎である。発声映画が情景に単に音響上の随伴物を添えるにとどまるものではなくて、情景そのものの内容をも変えると いうことはよく知られている。フランス語に吹き替えられた映画を見ているとき、私は、ただ単に言葉と映像との不一致に気づくばかりではない。突如 としてかしこで“別のこと”が語られていると私には思われてくるのである。そして劇場と私の耳は吹き替えられた言葉で充たされているのに、この言 葉は私にとって、聴覚的な存在さえもってはいない。そして、私は、スクリーンからやってくる音のない別の言葉にしか耳を傾けていないのである。映 写の途中、突然発声装置に故障が起きて、スクリーンの上で演技しつづける役者の声が出なくなると、そのとたん私から去ってゆくのは、単にこの人物 の言葉の意味だけではない。情景そのものも変えられてしまうのだ。今しがたまで生き生きしていた役者の表情は、狼狽したひとのそれのように、もつ れ、こわばる。音の中断はスクリーンを一種の麻痺状態におとしいれる。観客の側で役者の身振りと言葉とが一つの観念的な意義のもとに包摂されるの ではなくて、言葉は身振りを、身振りは言葉を継承し、私の身体をとおして互いに通いあうのである。私の身体の感覚的側面と同様に、それらは直接相 互に象徴しあう関係にあるが、それというのも、私の身体がまさに、相互感官的な等値と置換の既成のシステムだからである。諸感官は、翻訳者を必要 としないでおのずから互いに翻訳され、観念を通過することを要せずに互いに了解しあう。以上の注意は、ヘルダーの次の言葉──「人間とは、時には 一方からまた時には他方から触発される一個の持続的な共通感官(sensorium commune)である」──の意味を十全に理解せしめるものである。身体像という概念でもって新たな仕方で描かれるのは、単に身体の統一だけではない。 身体の統一をとおして、諸感官の統一も対象の統一もまた然りである。私の身体は表現(Ausdruck)という現象の場所であり、むしろその現実 性(actualite')そのものなのである。そこにおいては例えば視覚的経験と聴覚的経験とは相互にはらみあい、これらの経験のもつ表現的な 値が、知覚世界の先述定的統一(unite' ante'pre'dicative)を基礎づけ、これをとおして、言語的表現(Darastellung)と知的意義(Bedeutung)とを基礎づ けるのである。私の身体は、あらゆる対象の共通の織地であり、少くとも知覚世界に関しては、私の「了解」(compre'hension)の普遍 的な道具である。」(382-384頁)

「要するに私の身体は、ただ単に、あらゆる他の諸対象とならぶ一個の対象でもなければ、さまざまな感覚的諸性質の複合体の一つにとどまるものでも なく、それにもましてあらゆる他の諸対象に“感応する”一個の対象なのである。つまり、それは、あらゆる音と共鳴し、あらゆる色と共振し、語を迎 え入れる仕方によって語にその原初的な意味を付与するところの、“感応的”対象なのである。(略)それゆえ、われわれは語の意義はもちろん、知覚 されたものの意義でさえ、「身体的感覚」の総和に還元しているのではない。そうではなくて、身体にはさまざまな「振る舞い方」がある以上、身体と は自分自身の諸部分を世界の一般的な象徴手段として用いるあの特異な対象なのであり、したがってそのおかげでわれわれがこの世界と「親しくする」 ことができ、それを「了解し」そこに意義を見出すことができるようになる当のものであるということ、これがわれわれの主張なのである。」 (386-387頁)