國男・哲郎・清 (2007.8)
★8月19日(日):【國男・哲郎・清】死者の世界への構想力
忘れないうちに書いておく。
8月11日の早朝、寝覚めの夢で、ある本の「企画」を練っていた。
その本には、柳田國男(1875─1962)、和辻哲郎(1889─1960)、三木清(1897─1945)という、播州生まれの三人の思想
家が登場する。
それぞれの思想もしくは思考に共通するものを抉り出す。あるいは、なんら共通性のないところで、この三人の思想もしくは思考をつなぐ見えない糸
をみつけだす。たしかそんな趣向だった。
かなりいいところまで考えていたように思うけれど、なにせ夢の中の出来事なので、詳細はもう記憶に残ってない。たぶん、何も思いついていなかっ
たのだろう。
いま、ひとつだけ手がかりがあるとすれば、それは坂部恵著『和辻哲郎』(岩波現代文庫)の副題、「異文化共生の形」という言葉のうちにある。
この場合、「異文化」とは、この世から見たあの世、生者の世界から見た死者の世界の文化──「柳田の「山人」、折口の「まれびと」、そして、和
辻の「エキゾーティックな(外から来たものらしい)珍しさ」(『和辻哲郎』233頁)──をいうものでなければならない。
また、「共生の形」とは、「文化的身体、精神そのものとしての身体」(41頁)もしくは「生きた生活形式としての〈形〉の感覚」(47頁)のう
ちに表現された「構想力」(和辻の場合は「室町時代の構想力」、柳田の場合は「神話的想像力」(29頁))のあり方のことでなければならない。
★8月20日(月):【國男・哲郎・清】見出された幼児体験──神に拉致される子供
坂部恵は『和辻哲郎』の第1章、和辻晩年の著作『歌舞伎と操り浄瑠璃』を取り上げた「見出された時」の後半――「和辻と柳田という一面では大き
く資質を異にする二人の思想家の間には、他面また意外なほどに深い歴史的地理的出自の面でのつながりがみられるのである」(24頁)云々以下――
で、「和辻と柳田の発想をつなぐ細い糸」(30頁)、あるいは、さしあたっては和辻における「かくされた思考の糸」(32頁)をめぐる考察をおこ
なっている。
《こうした[資質の]ちがいにもかかわらず、この二人の播州生まれの村のインテリ[医家]の子にあって、すでにみたそれぞれの幼児期における違和
体験とあえていってよいものが、のちにともにそれぞれに一種の境界人[マージナル・マン]としてユニークな思想家に成長する素地をすくなくともな
にほどか用意していることは否定できないようにおもわれる。さらにいえば、それぞれに後にまで強い印象を残した両者の幼児期における違和体験ない
し脱我体験のちがいが、いまここでくわしく立ち入る余裕はとてもないとはいえ、ほとんどそのまま、二人の以後の思想展開の軌跡のちがいを正確に予
料している一面をもっていることも、わたくしはきわめて興味深いとおもう。》(27-28頁)
和辻と柳田の「資質」の違い、そして、彼らの幼児体験(「和辻の実在の神戸の親戚と、柳田の空想上の「神戸の叔母さん」」等々)の異同は措い
て、サワリの部分だけ引き写しておく。
坂部氏はそこで、「一種の自己との違和体験をもち、日常の自己を超えて拉致され、「現実よりも強い存在を持ったもの」や「超地上的な輝かしさ」
をそなえた世界に出会う一種の脱我体験ないし憑依体験に近いものをもった」(33頁)和辻の体験を、「神に隠され易い子供の気質」の持ち主であっ
た柳田のそれと比較している。
《むろん、和辻は、資質的にいってロマン派流の神秘体験へののめり込みや陶酔、ひいては王党派流の熱狂ともまったく無縁といわぬまでも、すくなく
ともある内面的な距離をそれらにたいして持するたぐいのひとであったから、軽々しいひきあては慎まなければならない。ここでは、むしろ、柳田とお
なじく、幕末に左幕の立場をとった姫路藩の伝統を汲む地に育った和辻が、明治以後の近代国家の思想的基盤を場合によっては根底から相対化する象徴
的回路につながるとおもわれる手傀儡や説経の世界に晩年になって強くひかれたという事実のはらむ意味をおもってみるべきであるのかもしれない。》
(47頁)
★8月21日(火):【國男・哲郎・清】子供を連れ去る仮面神
昨日書いたことと関連して、中沢新一の「映画としての宗教 第三回 イメージの富と悪」(『群像』5月号)に、とても興味深い話題がでてくる。
マルセス・モースの『贈与論』に取りあげられたアメリカ先住民のポトラッチ(贈与のお祭り)で、ホスト役の首長の手によって破壊されたり、海に
投げ込まれてしまう「お返しもできないほどに貴重な品物」は、表面に何かの顔のようなイメージが打ち出された銅版である。
中沢氏はこの銅版を、「交換にとっての貨幣」ではなく「贈与にとっての貨幣」である「原初的な貨幣」もしくは「潜在的な貨幣」と呼び、「映画と
しての宗教」で提起されたイメージの考古学でいうところの、「有」と「無」のインターフェイス(物質的境界面)に出現し消滅する「イメージ第二
群」に関連づけている。
ところで、レヴィ=ストロースは『仮面の道』で、銅版のイメージは、この地域で大きな意味を与えられている「スワイフウェ」や「ゾノクワ」など
の仮面神と深い関係を持っているのではないかと述べている。
《スワイフウェやゾノクワという仮面神と原貨幣である銅版とが、隠喩的に結びつけられている道筋を理解するのは、それほど困難ではありません。こ
れらの仮面神の住処は、湖底とも山中深くとも言われますが、いずれにしても人間の生きる世界の縁にあたる部分の境界地帯、あるいはその外の暗い領
域であると考えられています。そこは死者の住む世界でもあるのですが、同時にあらゆる富の源泉の場所でもあります。スワイフウェやゾノクワはそこ
に隠されている富と財宝を守っているのです。
現実世界の富や幸運は、これらの仮面神の管理下にあるこの暗い潜在空間から、人間のもとにもたらされます。潜在空間に眠っているあいだ、富も財
宝もまだ「無」の状態にあります。ところが仮面神を仲立ち(インターフェイス)として、潜在空間を出て富が現実世界にあらわれてくるとき、「無」
は「有」に転換することになります。そのために、「無」と「有」の中間のどっちつかずの状態にいる者は、仮面神の接近を許しやすいと言えます。と
くにゾノクワ女神(この仮面神は女性の神だと言われています)などは、山や森の奥から豊かな富をもたらしてくれる女神でありながら、先住民の村か
ら子供をさらっていってしまう恐ろしい山姥でもあるのです。
仮面のイメージを打ち出した銅版と比較してみますと、両者の密接なつながりがあきらかになってきます。最大の貴重品である銅版は、社会的な富の
「有」を支える贈与の環を抜け出して、「無」であると同時に「無尽蔵」でもある海中に飛び込んでいこうとしていますが、仮面神はその逆に「無」で
あり「無尽蔵」である海や湖の底から、社会的な価値を持った富を引き出してくると同時に、子供をさらって境界領域の向こう側に連れ去っていってし
まう存在です。両者はよく似たやり方で、「有」と「無」の転換を司っているわけです。
「仮面」が山姥的女神と貴重品の銅版をつないでいます。スワイフウェやゾノクワは仮面であらわされますが、銅版は自分の顔とも言うべき場所に仮面
神のイメージを打ち出すことによって、仮面と山姥と銅版とをひとつの大きなイメージ群に統合しようとしているように見受けられます。地下の財宝を
守っている神々をあらわす仮面と、貨幣の原初形態である銅版とは、イメージ第二群の特徴を共有し、隠喩はそこをとらえて、両者を一つに結び合わせ
ようとしています。このようにして仮面と貨幣は、神話的思考にとっては「同じもの」を違うやり方で表現したものである、と理解されることになりま
す。》(372-373頁)
冒頭の「昨日書いたこと」というのは、「神に拉致される子供」としての柳田國男と和辻哲郎をめぐる話題で、これとの関連で興味深いのは、いま引
いた文章に出てくる「子供を連れ去る山姥」の話だ。
また、そこにいわれる「神話的思考」というのは「詩的思考」とたぶん同義で、実はこのことの方がもっとずっと興味深い。それは、坂部恵の「一種
の境界人[マージナル・マン]」という言葉とも響き合っている。