井筒俊彦のこと、和歌のこと、その他 (2007.1-2014.10)
☆2007
★1月14日(日)
井筒俊彦著『東洋哲学覚書
意識の形而上学──『大乗起信論』の哲学』(中公文庫)。井筒俊彦の本でこれまで最後まで通して読み得たのは『意識と本質』と『神秘哲学』の二冊くらい
で、そのいずれからも強烈な感銘を受けた(後者が若き井筒俊彦による抒情歌集であるとすれば、前者は著者後年の歌論書に相当するとでも言えよう
か)。池田晶子さんの文庫解説「情熱の形而上学」によると、本書は著者の最後の著作で、以後、唯識、華厳、天台と続き、さらにイスラーム、プラト
ニズム、老荘・儒教、真言の各哲学へと展開される予定であったという。
この本を買ったのは、たとえば「存在論の立場においては存在(=「有」)の絶対無分節態(=存在的「無」)であったものが、意識論的には、その
背後に、それを「無」の原初的境位に把持する寂然不動の意識を想定せざるを得ないことになるのであって、これがいわゆる意識のゼロ・ポイントにほ
かならない」(67頁)といった記述のうちに、俊成と幾多郎を媒介し、さらに永井哲学の核心を逆照射する確固とした直観のようなものが垣間見えた
からだ(と、まだ読んでもいないのに大見得をきってみたところで、われながら説得力はない)。
★1月15日(月):古いテクストを新しく読むということ
井筒俊彦『意識の形而上学』第一部「序」に次の文章が出てくる。
《東洋哲学全体に通底する共時的構造の把握──それが現代に生きる我々にとってどんな意義をもつのであるか、ということについては、私は過去二十
年に亙って、機会あるごとに繰り返してきたので、ここでは多くを語らない。要は、古いテクストを新しく読むということだ。「読む」、新しく読む、
読みなおす。古いテクストを古いテクストとしてではなく……。
貴重な文化的遺産として我々に伝えられてきた伝統的思考テクストを、いたずらに過去のものとして神棚の上にかざったっままにしておかないで、積
極的にそれらを現代的視座から、全く新しく読みなおすこと。切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創
造的、かつ未来志向的、に読み展開させていくこと。》
こういう言い方そのものは、井筒俊彦でなくても誰にだって口にできるお題目で、ついつい読み飛ばしてしまいがちだ。実地にやってみせてはじめて
「古いテクストを新しく読む」ことの意義、つまり「切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、か
つ未来志向的、に読み展開させていくこと」の実質があきらかになるのだから、前口上だけでは誰も恐れ入らない。それはもちろんそうなのだが、やっ
ぱり井筒俊彦クラスの思索家が書いた文章の中で目にすると、本編を読む前から、なにかしら深甚なことがそこで語られているように思えてくる。
尼ヶ崎彬氏が『花鳥の使』に収められた「物狂への道」で、「定家の歌論は、多分、こんな風に語っているのではあるまいか」と書いている。
《「歌の道」が何であるかを知りたければ、父俊成の言ったように歌の姿を見て、自分で悟る他はない。しかし、どうすることが「歌の道」なのかとき
かれれば、こう答えよう。それは、「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えることだ、と。》(『花鳥の使』133頁)
以下、尼ヶ崎氏は定家の本歌取りの実例をあげて、「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えることの実相を論じている。ここにも先の「古いテク
ストを新しく読む」と同様の事情がうかがえるのであって、「ふるきことば」云々を他ならぬ藤原定家の言葉として耳にするとき(においてのみ)、や
はりそこからは何かしら深遠な世界がひらけていくように思えるのである。
こういう類の言葉を私は「教えの言説」、ひらたく言えば「師の言葉」としてとらえ、そこからひらける言語ゲームもしく共同体の有り様を考察しか
けたことがあるのだが、それはともかく、ここでは、井筒俊彦の「師の言葉」に触発されたいくつかの思いつきを記録しておくことにする。
※
その一つは、古典的テクストを読むこと(古いテクストを新しく読むこと)を和歌を詠むこと(「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えること)
との対比で考え、和歌における本歌取りに相当する「伝統的思考テクスト」の読み方がありうるのではないかというものである。
話はいきなり飛躍するが、本歌取りに相当する古典の読み方の究極の姿(本家取りとでも言おうか)は、おそらくテクストに封じ込められていた魂の
ようなものが立ち上がり、それが読み手に乗り移り憑依・増殖する、つまり読み手の「心なき身」に魂が吹き込まれ、新しい語り手、書き手がそこに出
現する、といった事態のうちに表現されるものなのではあるまいか。
これはなにやら預言者もしくは使徒のごときものを思わせる妄想だが、もしそうであるとするならば、そこからは「考えているのはいったい誰なの
か」という謎めいた問題がわき上がってくる。というのは、そこに、つまり「古いテクストを新しく読む」ことのうちに立ち上がっているのは、古典的
テクストに記された伝統的思考の内容そのものではなくて、むしろそれを思考する主体の方だからである。
以前(1月12日)引用した尼ヶ崎彬氏の言い方を借用するならば、古典的テクストの読みを通じて伝わるものは「世界の新しい姿ではなく、世界を
見る新しい眼でなければならない」からである。
ここからさらに二つの思いつきが派生する。思いつきというよりは、腰を据えてじっくり考え抜いてみなければならない問題と言うべきで、それらは
いずれも思考の内容面にかかわっている。
第一の問題は、「古いテクストを新しく読む」ことからは実は何も新しい思考は生まれてこないのではないかということであり、これと密接に関連す
る第二の問題は、哲学的思考の「共時的構造」に対応する伝統的思考の「通時的展開」とは何か、新しい思考が生まれ得ないとして、それではなぜ思想
史が必然的に成り立ち得るのかということである。
これらをひとまとめにして、哲学的思考における「差異と反復」の問題と括っていいかもしれない。「歌の道」においてもこれと同様の問題が生起す
るように思う(「伝統と創造」)。あるいは、この世界でたった一回だけ生じる(生じた)ことの複数性・反復可能性の問題と表現してもいい。
ここでも話は突然飛躍するが、この話題は、かのデカルトの第二省察に出てくる「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあ
らわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」の新解釈(永劫回帰的解釈?)にかかわってくるのではないかと私
は考えている。
★1月16日(火):古いテクストを新しく読むということ(補遺)
昨日はいきなり、デカルトの省察(「私はある」は私がそれをいいあらわすたびごとに真である)をめぐる「永劫回帰的」新解釈という、特大の場外
ファウル(?)を予告してしまった。このことについては、いずれ近いうちに「〈私〉という共同体、哲学を伝えること」といったタイトルで書くこと
にして(本気で考えているのだと、われながら呆れるが)、今日のところは、昨日書き忘れたことを一つ書いておく。
和歌における本歌取りと哲学的思索における「本家取り」の違いについて。前者が「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えることであるとすれ
ば、後者は「ふるきこころ」を「新しきことば」に与える(祖述する、もしくは同じ思考を何度でもあたかも初めてであるかのごとく最初から思考す
る、等々)ことなのではないか。
あるいは、本歌取りの究極のかたちにおいて「こころ」(生の生々しい事実、クオリア)が「ことば」(思考の約束事、観念もしくは論理の体系)の
うちに融けこんでいくのだとすれば、「本家取り」の行き着く果ては「ことば」のうちに「こころ」を反復すること(ただし、それは一回限りの事実の
反復もしくは唯一の思考主体の複数化といったあり得ない事態をさしている)なのではないか。
何が言いたいのか、いまだに自分でもよく整理できていないので、ここでは二人の先達の「ふるきことば」をそっくりそのまま引用してお茶を濁すこ
とにする。
《言葉の全てが、ということは、人が物を考える時決して逃れることのできぬ枠組みとしての観念体系も、人が喜怒哀楽を汲み出す〈意味〉も、所詮は
人間の仮構にすぎない。こう考えた時、定家は〈言葉〉の呪縛から解放されたのではないだろうか。言葉は自明なものとしてあるのではない。それは既
に仮構であり、それ故に、さらなる仮構を許すものである。そして、綿密に組上げられた〈古き詞〉の約束事と類型とは、詠歌を拘束するものというよ
りはむしろ、その現実離れした仮構性を手段として、思うがままに〈新しい意味〉を創造する道を開くものではないか。
「詞は古き歌にならひ、心はわが心より思ひょれるや、歌の本意に侍らん」(千五百番歌合)
定家は、仮構である詩的言語の約束事[コード]を操作して、次々と新しい意味の形をつくり出す。しかし、もうそれは、現実とは少しも対応しな
い。彼は現実にありうる或る〈型〉を命名することによってではなく、詩的世界の中の〈型〉を操作することによって、新たな仮構を行うだけだからで
ある。例えば、「花」と「紅葉」の語が担う無数の〈型〉の含みを利用して、「花も紅葉もなかりけり」と詠み、「宇治の橋姫」の本歌を利用して「月
をかたし」かせたりするのである。
従来の、現実を〈型〉に凝結させるような詩的言語を一次仮構と呼ぶとすれば、定家の、現実と直接関らず、一次仮構を素材として組立てられた言葉
のあり方を、二次仮構と呼んでもいいだろう。それは素材である一次仮構に精通しない者には理解不能な言語(達磨歌)である。またそれは、現実の場
を決して凝結させることができないために、折に触れて詠歌されることも殆どない歌である(「彼の卿が秀歌とて人の口にある哥多くもなし」『後鳥羽
院御口伝』)。》(尼ヶ崎彬『花鳥の使』140-141頁)
《それなら、解説書や入門書のたぐいは無意味かといえば、そうともいえない。解説書や入門書に意味があるのは、それがそこで独立に哲学をしている
場合だけだと思う。それ以外の仕方で、哲学を伝えることはできないからである。
独立に哲学をしているのだから──驚かれるかもしれないが──本書の内容は、じつは西田幾多郎とは関係ない。正確にいえば、関係なくてもぜんぜ
んかまわない。いや、ものすごく関係がある。それどころか西田が言わんとしたことは本書で私が言ったようなことで、私は西田よりもうまく言い当て
ている、という可能性はもちろんある。いや、少なくとも私には西田がそう読めるし、そう読まないとさっぱり意味がわからない。しかし、ほんとうに
そうであるかどうかは、私にとってはじつはどうでもいい。西田幾多郎の実態がどうであれ、本書にはそれとは独立の哲学的意義がある。ここで述べら
れていることは、西田幾多郎という人物名を離れて、名なしで剥き出しの哲学的議論として提示されても、それ自体で意味があると思う。それが、独立
に哲学をしているということの意味である。
独立に哲学をするなら西田はいらないではないかと言われるなら、それはちがう。他人の哲学の解説がそれを使って自分の哲学をすることによってし
かできないように、自分の哲学のほうも他人の哲学の力で引っ張ってもらわないと進めないという面があるからだ。私はこれまでに、ウィトゲンシュタ
インとニーチェについても、解説書のようなものを書いたことがあるが、どちらの場合も、彼らに引っ張ってもらいながら、その勢いをかりて自分の哲
学を勝手に進めさせてもらった。そして、そういう点で、西田幾多郎の「場所の哲学」は、彼らの哲学に劣らず、素晴らしいものなのである。
本書を読めば、西田幾多郎をまったく知らない方でも西田哲学の核心へとまっすぐに導かれる、と私は確信するが、それはじつは西田の確信ではなく
私(永井)の核心なのかもしれない。それらを区別することは私にはできない。》(永井均『西田幾多郎』7-8頁)
★1月17日(水):古いテクストを新しく読むということ(余禄)
一昨日に書き残したことを、もう一つだけ書いておく。「古いテクストを新しく読む」ことからは実は新しい思考は生まれてこないのではないか、に
もかかわらず思考の「通時的展開」が成り立ちうるとすれば、それはいったいどういうことなのか、という二つの問題にかかわる素材の蒐集として。
最近出た『BRUTUS』が「脳科学者ならこう言うね!」の特集を組んでいる。表紙にキャラクターになった茂木健一郎のイラストが載っていて、
とてもかわいい。マスコット人形にしたら、売れるかもしれない。
記事の一つに、中沢新一との対談が掲載されている。いろいろと興味深い話題が、対談特有の飛躍と省略と含蓄をもってぽんぽん出てくるので飽きな
いが、ここでは一点、「起源問題」をめぐる部分を抜き書きする。
【中沢】茂木さん、『現代思想』で郡司ペギオ君たちとの鼎談で「進化的視点を入れないといけない」って。まさにその通りだと思います。今は今を作
り出す長いプロセスを見ないと、なんで僕らが今そうしているかということが見えやしないんですよね。
【茂木】起源問題を探るというか、古[いにしえ]にさかのぼる運動のほうが、どうも信用できますね。それが本当の創造性ということとつながってい
くんじゃないかなっていう感覚があります。
【中沢】創造は最初のほうが完成形に近いんです。だんだん複雑化してきて、格好よくなってくるんですが、だんだん偽物になってくるんですよ。
【茂木】まさに心の起源問題を追っていったフロイトやダーウィンがそうであったように、未来に向かって生み出すというよりも、過去に向かって、そ
れこそ起源を暴くということが……。
【中沢】それが未来なんじゃないでしょうかね。アバンギャルドの概念も、前へ突き進んでいくように見えますが、実際には原点へ戻っていくことなん
ですから。それは正しいと思いますね。
【茂木】脳のメカニズムとしては、ある種の記憶の整理が起こり、その結果、何かが生成されるわけだけれども、その時のなぜ過去へさかのぼるという
形でクオリアが立ち上がるかが、非情に面白い問題なんですよ。
【中沢】人間の言語も記憶もみんなそういう構造で出来ていますよね。逆の方向へ行くんですよ。
【茂木】だから「父母未生以前の本来の面目」という夏目漱石が言われた禅の公案も出てくるわけですね。なんでそういうことが創造性へつながるのか
なあ。不思議だなあ。
過去に向かって起源(未生以前の本来の面目)を追うことが、そのまま未来に向かう創造性へとつながっていくことの不思議さ。起源問題(あるいは
「進化的視点」の大事さ)とは時間問題の異称なのかもしれない。たとえば、先日(1月12日)引用した尼ヶ崎彬氏の「出世間の共同体」とは、マク
タガートのC系列に属する事柄だったのかもしれない、等々。
というわけで、現在私が取り組んでいる「作業」は、永井『西田幾多郎』、尼ヶ崎『花鳥の使』、井筒『意識の形而上学』に加えて橋元淳一郎『時間
はどこで生まれるのか』(集英社新書)の四冊を当面の基本テキストとして進行している。
そういえば、これと関連する議論が山内志朗さんの『天使の記号学』(「最後に現れるものが、最初にあたかも原因であるかのごとく、いやたぶん実
際に原因として存在する」)や、ハンナ・アーレント『過去と未来の間』の冒頭に出てきたはずで、これも確かめておかなければいけない。
一つ付言しておく。茂木発言に「クオリアが立ち上がる」とある。この「立ち上がる」という語は、保坂和志いうところの「現前性」とかかわってく
る。
古いテクストを新しく読むことを通じて、「ふるきこころ」が「新しきことば」のうちに立ち上がる。ここに立ち上がるのは実は思考内容そのもので
はなく、むしろ思考主体の方なのではないかと私は考えているのだが、それはともかく、原初の立ち上がり(起源)が何度でも繰り返し反復される。そ
のそれぞれの「立ち上がり」は一回限りの出来事である(生命がこの地球の歴史の中でたった一度だけ立ち上がったように?)。この複数の「立ち上が
り」の間に先後関係や過去・現在・未来の時制をあてはめてみても、一回限りの現前性をとらえることはできない。ここにもまた時間問題が立ち上がっ
ている。
※
「進化的視点を入れないといけない」という茂木発言は、「脳科学の未来」を特集した『現代思想』(2006年10月)の郡司ペギオ-幸夫、池上
高志との鼎談「意識とクオリアの解法」の冒頭に出てくる。(この鼎談は、途中まで読んで中断したままになっている。いろんなことが半端なままに放
置されている。)
《僕は、最近は特に進化論的視点が大事であると思っていて、その中で、ダーウィンがやったようなタイプのアプローチが重要な意味を持つと思ってい
る。つまり、抽象的なフォルマリズムで一刀両断の下に意識の問題が解決される、という可能性はもちろんあるんだけれども、その一方で、ダーウィン
がやったように、「自然誌」という立場から意識の問題を究明する必要があると思っている。つまり、現時点で意識について知られている経験的事実を
きちんと押さえ、それらを総合する視点が必要ではないかと考えてる。その上で、ダーウィンが到達した「突然変異」と「自然選択」に相当する、意識
の起源を説明する第一原理を提出する必要があるのではないかと考えている。》
宇宙生成と推論のあり方をパラレルに考えるパースの(ヘーゲルの?)アイデアを踏まえるならば、自然誌として記述される経験的事実を総合する第
一原理の生成そのものが宇宙のプロセスのうちに組み込まれていて、それがクオリアであり意識であるといった言い方ができるかもしれない。
さらに、ここで述べられているのと同じ事態が「ことば」の世界においても成り立っているのかもしれない。定家の歌論における一次仮構が「自然
誌」であるとすれば、二次仮構が「第一原理」である、といったかたちで。このあたりのことを腰を据えて考えてみようというのが、現在の私が取り組
んでいる「作業」である。──共時的構造(第一原理)と通時的展開(自然誌)。創造と伝統。差異と反復。「こころ」(生の生々しい事実、クオリ
ア)と「ことば」(思考の約束事、観念もしくは論理の体系)。
★1月18日(木):宗教から芸術へ
昨日とりあげた中沢・茂木対談で、『芸術人類学』冒頭に掲げられたレヴィ=ストロースの言葉が話題になっていた。
《どこでもいい、人間の歴史から任意の千年、あるいは二千年を取り去っても、人間の本性に関する私たちの知識は減りもせず増えもしない。唯一失わ
れるものがあるとすれば、それはこれらの千年、二千年が生みだした芸術作品だけである。なぜなら、彼らが生みだした作品によってのみ、人間という
ものは互いに異なっており、さらには存在さえしているのであるから。木の像が木を芽生えさせたように、作品だけが、時間の経過のなかで、人間たち
のあいだに、何かがたしかに生起したことの証となってくれるのである。》(クロード・レヴィ=ストロース『みる きく よむ』竹内信夫訳)
このことに関して、茂木健一郎の問い──「人間は本来もっと潜在的能力に恵まれた存在だとしたら、それに対応させて芸術の振れ幅も広くする必要
があるでしょう? その時、何を中心に構想されていくんですか」──に答えて、中沢新一が次のように発言している。
【中沢】無意識に直接触れているものですね。無意識の働きが表面化すると、パラノイアとかそういう精神病理の現象に近づきますが、それにある種の
ロゴスを入れていくと、芸術作品が立ち上がってくる。人間の心の基盤である無意識を感知させてくれるものが芸術なんじゃないでしょうか。レヴィ=
ストロースは、1000年、2000年の歴史を全部取っ払ってみても、人間の本性の理解についてはほとんど損失がないが、その間に作られた芸術作
品がもし消えると大きな損失だと語っています。人間の本性である心の広大な大陸を垣間見させてくれるものが芸術作品だからだと言いたかったんだと
思います。芸術には巨大な大陸が背後に控えているんだと思いますね。
レヴィ=ストロースの文章に出てくる「木の像が木を芽生えさせたように」は不思議な表現だ。「最後に現れるものが、最初にあたかも原因であるか
のごとく、いやたぶん実際に原因として存在する」(山内志朗)という事態と響きあっているのかもしれない。引用文の前にどこかの部族の神話が紹介
されていて、そのことに言及されているだけなのかもしれない。
無意識の働きに「ある種のロゴスを入れる」ことで芸術作品が「立ち上がってくる」、つまり「無意識を感知させてくれるもの」が芸術なんじゃない
かという中沢発言は、「芸術」を「和歌」に置き換え、「無意識の働き」を「こころ」に、「ロゴス」を「ことわり」に置き換えると、貫之・俊成・定
家の流れのなかでの歌論につながっていく。
あるいはまた、無意識の働きが表面化すると精神病理の現象に近づくという発言は、「「歌の道」は、俊成にとっては仏法の「悟り」に通じる道で
あった。しかし定家にとっては、「物狂ひ」に至る道であったのかもしれない」(『花鳥の使』158-159頁)という尼ヶ崎彬氏の指摘につながっ
ていく。
※
対談の中で、中沢新一は「もう宗教というものはいらない」と語っている。
【中沢】僕は宗教自体に関心があったわけではなく、宗教の中に保存されている人間のとてつもない力を扱う技術の部分に関心がありました。(略)も
う宗教というものはいらないと思っています。宗教学をやめちゃおう、宗教はいらないって前面に出すとすると、それはある意味、日本人はこのままで
いいじゃないか、ということでもあるんです。
【茂木】要するに国際的な文脈における日本の最大の特徴は無宗教ですよね。
【中沢】ええ。(略)日本は、キリスト教の布教があまりうまくいかなかった数少ない国で、それは、キリスト教が「信仰」を説いたからなんですよ。
日本人は「信心」なんです。これは何かの実在性を信ずるということなんです。木の根元に祠があって、そこに行くとなんとなくすがすがしい気持ちに
なったり、小川のせせらぎを聞いたりすると、心が清められていくようになる、それが信心というもので、そういうものを日本人は大事だと思ってきて
いる。だから宗教がない、それはおおいにけっこうだと思っているんです。
【茂木】正確なマッピングではありませんが、いわゆる本居宣長の「漢心」「大和心」や日本をどう普遍化するかを考えた時に、生命論的、生命哲学的
な文脈がいちばんふさわしいなと思っているんです。中沢さんの宗教から芸術へという標榜は、僕が感じていたこととまったく同じ、パラレルですね。
【中沢】同じですよ。茂木さんがクオリアで書いていることは、似ているところがとても多いんですよ。
中沢発言に出てくる「人間のとてつもない力を扱う技術」は、「力もいれずして天地[あめつち]を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男
女の仲をも和らげ、猛き武士[もののふ]の心をも慰むるは歌なり」(『古今和歌集』仮名序)とされる「歌」、「ウタは神に訴える言葉が韻律をとも
なうことによって生まれたものである」(谷川健一『うたと日本人』44頁)といわれるときの「ウタ」という言語技術につながる。
また「信仰」(宗教教義)と対比される「信心」(霊性感覚)は、「世の中に在る人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くもの
につけて言ひ出せるなり」(仮名序)にいう「見るもの聞くもの」に、とりわけ「もの」(クオリア)にかかわってくる。
クオリアという語を目にすると、いつもきまって思い出すことがある。ハイデガーが「フュシス」を「運命のもとにある神々自身」であるとしたこ
と、ロレンスが古代ギリシャの「神」をめぐって「古代人の意識にとっては、素材、物質、いわゆる実体あるものは、すべて神であった」「これは決し
て単なる質ではない、儼存する実体であり、殆ど生きものと言っていい」云々と書いていたこと。
茂木発言の「生命論的、生命哲学的な文脈」は、歌の道、仏の道、哲学者の道のあり方に関係してくる。
生命あるものは生命あるものによってのみ世に生み出される。そのような生命の系譜に相当するものが、「出世間の共同体」においても成り立つ。言
葉は言葉によってのみ世に生み出される(後世に伝わる)。しかしその系譜は世間で通用する時間の流れのうちにあるものではなく、それは彼らの言葉
が世間の言葉とはそのあり様を異にしていることとパラレルである。
★1月19日(金):生命・記号・言葉
昨日とりあげた茂木発言に出てくる「生命論的、生命哲学的な文脈」に関連して、もう一つの中沢新一の発言を、こんどは別の場所から拾っておく。
《無から有への転換がおこって、生命が出現する様子は、記号が生成するプロセスとそっくりです。記号はさきほど述べましたように、表現にむかって
垂直に立ち上がってくる力が、現実の世界を構成する平面にぶちあたるときに、発生します。つまりここでも、いわば無から有への転換がおきていると
見ることができます。そうしてみますと、生命増殖の現象は、洞窟の壁画に動物のイメージを描くときにおこる記号発生の現象と、まったく同じ構造を
もっていることがわかり、似ているもの同士を結びつけるアナロジー能力は、「動物のイメージを描くことが、動物の生命増殖につながる」と思考する
ことになるでしょう。》(「映画としての宗教」,『群像』1月号)
生命の立ち上がりと物質的イメージ(記号)の立ち上がりはパラレルであって、それらの間にアナロジカルな関係が成り立つ。生命は自らの立ち上が
りのプロセスそのものを内部に保存し、それを不断に(永劫回帰的に?)かつ物質的に表現することで生命たりうる。記号もまた自らの立ち上がりのプ
ロセスを自らのうちに保存し、諸記号が織りなす平面のうちに不断に(永劫回帰的に?)自らを表現してこそ記号たりうる。ここにもアナロジカルな関
係が成り立つ。
それでは、非イメージ的な象徴力をもった言葉はいかなるプロセスを経て立ち上がり、また生命と記号、自然と仮構とどのような関係をとり結ぶこと
になるのか。
生命や記号と同様に、言葉が言葉たりうる根拠のうちに言葉の立ち上がりのプロセスそのもの(起源もしくは開闢)が保存反復されているのだとした
ら、そしてロゴス、推論こそ言葉が言葉たりうる根拠であるとしたら、推論のあり方とパラレルな関係をとり結ぶ宇宙生成のプロセス(物質の起源、時
空の開闢、クオリア生成のプロセス?)のうちに言葉の起源(言語世界の開闢)を探求することができるのだろうか。
あるいは、思考主体の立ち上がりにこそ言葉が言葉たりうる根拠があるのだとしたら、より正確には主体や客体等々の「思考の約束事」そのものの立
ち上がり(とその永劫回帰的な反復)こそ言葉が言葉たりうる実質であるとするならば、言葉の立ち上がりと「私」(思考主体)の立ち上がりがパラレ
ルで、しかも言葉を使用することを通じて、かつそこにおいてのみ「私」(思考主体)が永劫回帰的に(永劫懐疑的に?)出現する、などということが
できるのだろうか。
また、言葉と生命・記号との間には、「メタ・アナロジー」とでも名づけるべき関係が成り立っているのではないだろうか。アナロジーのアナロ
ジー、関係の関係、つまりロゴスの生成? 生命・記号・言葉と現実界・想像界・象徴界との関係は?
★1月20日(土):映画としての宗教
『群像』1月号に掲載された「映画としての宗教 第一回 映画と一神教」で、中沢新一は、フォイエルバッハの唯物論的宗教論や旧石器時代の洞窟
壁画のイメージ群を素材にして、「あらゆる宗教現象の土台をなしている人類の心の構造というものが、今日私たちが楽しんでいる映画というものをつ
くりあげている構造と、そっくりだという事実」──「映画は発明される以前から、すでに存在していて、ヒトの心にとって重大な働きをしてきた」
「映画が発明される数万年も前に、人類は映画的構造をつうじて、自分の本質をなしている心の本質をのぞき込もうとする実践を始めた」というヒトの
心の本質とイメージの運動と宗教の発生に関する考古学的事実──について語っている。以下、手短に要約してみる。
イメージの興亡もしくはイメージの運動とその構造としての宗教をめぐる「映画的理論」は、次の三つの要素からなる。第一に、フィルムに喩えられ
るヒトの心。そこには、表現へと向かうヒトの心の深部の構造(記号を生み出そうとする意志のプログラム)がデータとして刻まれている。第二に、こ
のフィルムに記録されたデータを背後から強力に照らし出す光源(ヒトの知性のおおもとをなす流動的知性)。第三に、この光によって心の過程が濃淡
変化の像(イメージ)として投影される外部のスクリーン。
また、イメージには次の三つのタイプがある。第一に、現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメー
ジ群。それらは内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子のようにはかない精霊たちの立ち現わ
れ)がヒトの心の内側に開く超越的領域にかかわる。映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこに
はスクリーンにあたるものが欠けている。
第二に、動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)
が現実の物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生する、その(「無から有へ」向かう)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第
二イメージ群である。それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージは洞窟の壁画をスクリーンとして映写される。
第三に、垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」とメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動に
よって)水平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽
映画」が発生する。身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。
これら旧石器の洞窟壁画に現われたイメージ群、とりわけ第二群(記号性)と第三群(幻想性)の層に属するイメージに基づいて、新石器の都市世界
を中心に豊かな多神教(物質性をまとったイメージ=偶像としての神々)の世界が造形されていく。
物質イメージの魔力(そして偶像としての神々と結託した王権・帝国、すなわち幻想としての国家の呪縛)からの脱出(エクソダス)をはかったのが
モーセの革命である。すなわち非イメージ的なことばの象徴力に基づく一神教(モノティスム)の宗教思想であった。しかしイメージの魔力の上に立つ
「メタ・イメージ」の方向に抜け出ようとした一神教は、かえって宗教を巨大な映画館にしてしまい、自らのまわりに物質的な力を呼び集めてしまった
(ハリウッド映画はそのカリカチュア)。
イメージの魔力からのエクソダスには、これとは違う二つの道がある。その一は、イメージの第二群・第三群(観念的イメージ群)の働きを否定し、
イメージ作用の第一群(差異の運動がくりひろげられている裸の現実世界、唯物論的イメージ群)の方に向かう唯物論。その二は、ブッダの道。人間の
本質である「心」、その「心」の本体である流動的知性の無限の働きにたどりつくこと。身体を使い第一群のイメージの深い淵に踏み込んでいく実践を
通して、流動的知性に直接触れていくこと。(要約終わり)
中沢新一の集中講義はまだ始まったばかりなので、この先どう展開していくかを見ないうちから軽々なことは言えないのだが、「映画の機構」もしく
は「映画的構造」に対する中沢新一の立ち位置がいまひとつつかみきれない。
立ち位置というのは、まず肯定的か否定的かということで、それはそもそも考古学的・人類学的な「事実」なのだから肯定も否定もないとも言える。
「映画」と「映画の機構」とは違う、だからたとえばハリウッドの娯楽映画をどう評価するかとか、ヒトが宗教活動を通じて目指してきた探求を現代に
おいて引き継ぐ映画作品とはどのようなものなのか、といった議論がここで展開されているわけではないとも言える。
私がよくつかめないのは、音楽や演劇、舞踏、詩や小説ではなく、なぜ映画なのかということの方であるようだ。視覚的なイメージではなく聴覚的な
音もしくは声、あるいは触覚的な感覚、等々、さらには言語技術に着目した宗教理論というものも考えられるのではないか。映画や音楽や詩といった個
別のジャンルではなくて、芸術一般に着目した宗教理論というものが。
いや、イメージを視覚に限定して考えるからそんな愚にもつかない疑問が出てくるのであって、視覚イメージだけでなく、聴覚イメージ、触覚イメー
ジ、等々、さらに運動イメージや時間イメージ、はては意味イメージ──「「真如」とは言うけれども、この特定の語が喚起するような意味イマージュ
に該当する客観的事態が実在するわけではない」(「言真如亦無有相(真如ト言ウモ亦タ相有ルコト無シ)」(『大乗起信論』)の井筒俊彦訳,『意識
の形而上学』29頁)──までをも考えて、それらを総じての「映画理論」なのだ。そう考えることもできる。
いずれにしても、比較宗教学講義の連載は始まったばかりなのだから、もう少し先を見てから考えることにしよう。ただ、言葉とイメージとの関係だ
けは気になる。貫之・俊成・定家・心敬・宣長の歌論の流れと仏教思想との関係を探ることで、もう一つの「映画理論」(たとえば、井筒俊彦の「意味
分節・即・存在分節」説の向こうをはった言語物質論のごときもの)をしたてあげることができるかもしれないし、そうはうまくいかないかもしれな
い。
★1月21日(日):映画としての宗教(続)
「流動的知性(認知的流動性)」について、念のため「映画としての宗教」(『群像』1月号)から抜き書きしておく。それは、ホモサピエンスをネ
アンデルタールから分かつ「心の革命」によって発生した。
《おそらくニューロンの接合回路が組み替えを起こし、それまでブロックされていた認知領域の間に、横断的な行き来を可能にする組織換えがおきたか
らだろうと、推測されています。そこから、今日の私たちのものとまったく変わらない、いくつもの特徴ある心の活動がはじまりました。現在地球上で
話されている言語の種類はおびただしい数にのぼりますが、そのすべてが同一のモジュールでつくられていることがわかっています。この「ホモサピエ
ンスの言語」では、アナロジー(喩、類比性能)が大きな働きをしています。異なる意味を重ね合わせて、新しい意味をつくりだす働きです。このアナ
ロジーは言語のシンタグマ軸とパラディグマ軸の双方に働いて、メタファーやメトニミーを生みだし、豊かな表現を可能にしましたが、こういうことが
起こるためには、心の内部に横断的に働いていく流動的知性が発生していなければならなかったのです。
それはまた、ホモサピエンスに特有の社会組織も作り出す力をもっています。違うものをまとめて上位のカテゴリーをつくっていく能力から、親族を
分類するための呼称の体系がつくられたり、それを用いてまるで代数の問題を解くようにして、結婚のシステムを制御していくやり方などが、発達する
ようにもなりました。数についての認識も、認知的流動性の働きなしには不可能だったことでしょう。ようするに、今も私たちが何気なく使用している
知的な能力のすべてが、旧石器時代に起こった根本的な「心の革命」をきっかけにして、ヒトの心に発生してきたのです(そして、革命はそのとき一回
きりで、そのあとは進化も進歩もおこってはいません。旧石器人と現代人の心の構造は、完全に同一なのです)。
このとき宗教が発生しました。宗教はほかのタイプの心的活動とはちがって、自分たちの心に起こった革命的飛躍そのものに向かおうとしました。ほ
かのタイプの心の活動では、流動的知性を使って、つぎつぎと新しい開発が進められましたが、宗教は自分たちの内部で活動する流動的知性そのものに
照準を定めた、独特の活動を展開したのです。日常的な思考がおこなわれている場面では、流動的知性は表面にはあらわれてこないようになっていま
す。(略)
つまり、「心の革命」ののち、新しい世界がつくられるようになると、革命の最大原因をつくった流動的知性の活動そのものは、日常性の下に覆い隠
されてしまって、意識されなくなってしまいます。
ところが、この偉大な「革命の原点」にあくまでも踏みとどまり、革命の意義を伝達し続けていこうとする実践が、ホモサピエンスの心のうちには出
現したのです。すなわち宗教の出現です。はじめて宗教活動をはじめたヒトは、その「革命の原点」の光景を、映画の機構をつうじて、自分らの眼前に
映し出そうとしました。映画が発明される数万年も前に、人類は映画的構造をつうじて、自分の本質をなしている心の本質をのぞき込もうとする実践を
始めたのです。》
これを読みながら、私は、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』に出てくる「アナログの私」という概念を思い出したりしていたのだが、それは
ともかく、ヒトの歴史のなかでただ一回だけ起きた根本的な革命(永井均のいう「開闢」?)が「ホモサピエンスの言語」を発生させ、その言語のなか
で言語の起源となった「心の革命」と完全に同一な事態が日々、ただし日常性の下に覆い隠されそれとして意識されないままに再現されている(開闢の
奇蹟が開闢の内部の一つの存在者として位置づけられている?)。
たとえば、和歌という言語技術を駆使することでもって、「詠みつつある心」という思考主体が現前する(イメージとして眼前に映し出されるわけで
はない)、つまり立ち上がるように。あるいは、「「私はある、私は存在する」という命題が、「それをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によっ
てとらえるたびごとに、必然的に真である」ように。
※
いま「言葉を使用することを通じて、かつそこにおいてのみ「私」(思考主体)が立ち上がる」云々と書いたことに関連して、尼ヶ崎彬氏の文章(こ
れはいずれきちんと取り上げたいと思っている)を一つ引用しておく。
《では、定家の「有心体」は、歌人の実体験している心情を詠むものであろうか(それなら紀貫之の歌論と同じになる)。いや、定家の恋の歌の多く
が、女性の心を詠んだものであるという一事をとっても、そのようなことはありえない。恋であろうが述懐であろうが、そこに詠まれているのは、実体
験としての〈心中の思い〉ではなく、常に虚構の〈心中の思い〉であった。しかもそれは、虚構でありながら、確実に定家の心中にある思いであり、そ
こから和歌を産出するような「なやませる」過程である。
つまり「有心体」にいう「心」の所有者は、現実に生活を送っている(生活世界の)歌人その人ではなく、ただ詠作時に、いわば虚像として生ずる
「作者」(詩的主観)にすぎない。そして「作者の心」とは、和歌の産出過程においてのみ生じている、虚構の、しかし動的な生命をもって「深くな
や」むことのできる「心」である。我々はこのような「心」をとりあえず〈詠みつつある心〉と呼び、「詞」の意味として表現された「歌の心」を〈詠
まれた心〉と呼んで区別することにしよう。即ち、「有心体」とは、能産的運動としての〈詠みつつある心〉をもって、所産的内容としての〈詠まれた
心〉を産出するような和歌の様式である。
これを長明の歌論にあてはめれば、「中古の体」とは〈詠まれた心〉を明瞭に表現することを目指すものであり、「幽玄体」とは輪郭も定かでない
〈詠みつつある心〉の運動を読者の心中に再現することを目指すものである、と言えるだろう。》(『花鳥の使』153頁)
ここに出てくる「詠みつつある心」という概念は、どこか加藤典洋が『テクストから遠く離れて』で展開した「脱テクスト論」(テクスト受容空間に
おける実定的な「作者の像」の概念)を思わせるところがある。また、「歌人の心(実体験としての心中の思い)」と「詠みつつある心」と「詠まれた
心」という広義の「歌の心」を構成する三つの項が、引用文の最後に出てくる「読者の心」とどのような関係に立つのかも気になるところである。
気になることは他にもいくつかあるのだが(「詩的主観」に対する「詩的客観」とは何か、等々)、それはともかく、ここで大切なのは「詠みつつあ
る心」が和歌の産出過程において「のみ」立ち上がっているものであること、すなわち、「詞」の意味としての「詠まれた心」を産出する「能動的運
動」の相において「のみ」それは立ち上がり、そしてそうであるからこそ、それは虚構世界のうちに「動的な生命」として立ち上がるということであ
る。
まわりくどい、しかし舌足らずな言い方しか今のところはできないが、ここには記号産出過程と生命産出過程がアナロジカルに重ね描かれている。そ
して論証抜きに結論めいたことを書き加えるならば、そのような記号-生命産出過程そのものを自らの虚構世界のうちに組み込むことでもって「詠みつ
つある心」が、とはすなわち言葉(言語世界)そのものが立ち上がり、そしてそれは永劫回帰的な能産的運動を通じて無数の作者と読者(我と汝)を産
出しつづける。
☆2011
★11月13日(日):和歌における思想的構造の意味論的研究
井筒俊彦への関心が高まっている。
司馬遼太郎との対談で、「私は、元来新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいです」
と語っているのを目にして以来のこと(『十六の話』文庫版の附録「二十世紀の闇と光」)。
慶應義塾大学出版会の特設サイト「井筒俊彦入門」に収められたエッセイ「新古今和歌集」[http://www.keio-up.co.jp
/kup/sp/izutsu/doc/x1y4.html]で、若松英輔氏が先の井筒の発言を踏まえて次のように書いている。
《和歌における思想的構造の意味論的研究、この分野は、今にちも未だ黎明期である。万葉集を対象に佐竹昭広、あるいは白川静が論考を書き、それぞ
れ秀逸な成果を残しているが、古今集さらには新古今集まで領域を広げると、ほとんど着手されていないといってもいいのではあるまいか。》
若松氏によると、佐竹・白川が注目したのは、「万葉集における「見ゆ」の世界、古代人における「見る」の意味論」で、「それは神との交わりと神
への賛美と神が遍在する世界への祝福を意味した」。
これに対して、古今、新古今では、「眺め」という語彙がキーワードになる。
《古今の時代、「眺め」は、折口信夫のいう通り、春の長雨のとき、「男女間のもの忌につながる淡い性欲的気分でのもの思い」を意味した。
しかし、新古今の時代になると様相が一変する。「眺め」とは情事を示す一語に留まらない、存在論的な「意味」を有するようになる。現象界の彼方
を「眺め」ようと試みる歌人、現象的には詩人だが、精神史上の役割においては、彼らはむしろ「哲学者」だった。
「彼は天稟の詩魂を有つ詩人であることによって、ギリシア形而上学の予言者となった」と井筒俊彦が『神秘哲学』でクセノファネスを論じていった
同じ言葉が、新古今の歌人たちにむけて発せられたとしても、驚くに当たらない。
「眺め」とは、「『新古今』的幽玄追求の雰囲気のさなかで完全に展開しきった」とき、「事物の『本質』的規定性を朦朧化して、そこに現成する茫
漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度」であると井筒俊彦はいう。
「眺め」ることが即時「存在」との応答になる。「一種独得な存在体験、世界にたいする意識の一種独特な関わり」となるというのである。》
若松氏はつづけて、風巻景次郎の『中世の文学伝統』に対する井筒俊彦の評を紹介する。
「日本文学史の決定的に重要な一時期、『中世』、への斬新なアプローチを通じて、文学だけでなく、より広く、日本精神史の思想的理解のために新し
い地平を拓く。」
(1987年の『図書』のアンケート、岩波文庫「私の三冊」に答えたもの。ちなみに、他の二冊は『善の研究』と関根正雄訳『旧約聖書
創世記』。)
★11月14日(月):和歌における思想的構造の意味論的研究・承前
引き続き、若松英輔氏の文章から。
《井筒豊子は俊彦の妻でもあるが、独立した一個の思索者である。小説集、複数の訳書もある。しかし、彼女の業績のなかで最も注目するべきは和歌に
おける「思想的構造の意味論的研究」である。
成果は「言語フィールドとしての和歌」、「意識フィルールドとしての和歌」(雑誌「文学」岩波書店)そして「自然曼荼羅」(岩波講座
東洋思想『日本思想』岩波書店)の3部作に見ることができる。私たちはそこに井筒俊彦が畏怖と深甚な感動を覚え、蠱惑的と感じた世界へ単独で進んでいった
一人の女性を発見するのである。
井筒俊彦がこれらの論考を評価していたことを書いておきたい。井筒豊子については、改めて別稿で論じることになるだろう。》
井筒豊子をめぐる別稿は、見あたらないが、若松氏の著書『井筒俊彦 叡知の哲学』の第六章「言葉とコトバ」に「和歌の意味論」の項があり、その
254頁以下でわずかながら言及されている。
いま手元に、井筒豊子の三部作がそろっている。若松氏の著書とあわせて読むことで、私なりの、和歌(古今、新古今)における思想的構造の意味論
的研究に取り組みたい。
◎井筒豊子「言語フィールドとしての和歌」(岩波書店『文学』52巻1号、1984年1月)
◎井筒豊子「意識フィールドとしての和歌」(岩波書店『文学』52巻12号、1984年12月)
◎井筒豊子「自然曼荼羅」(『岩波講座東洋思想16 日本思想2』1989年3月)
☆2014
★03月25日(火):人間の精神的覚知の深みの直接無媒介な表現
小学校高学年まで、父親の書道教室で毎週日曜、習字の練習をしていた。
その記憶とここ数年の和歌への関心から、かなへの興味がしだいに高じ、ある日とうとう筆と半紙を買い、図書館で借りた入門書を手本に書き始めて
みたら、気持ちがしずまってとても感じがいい。
井筒俊彦が『禅仏教の哲学に向けて』に収められた「禅における内部と外部」のなかで「書道は心の絵画である」と書いている(221頁)。
いわく、書道の対象は生命リズムを欠いた冷たく抽象的な表意文字だが、そこに書家の精神的エネルギーが吹き込まれると、死んだ記号が生き、生命
の鼓動を打ち始める、抽象的な記号だった表意文字が、人間の心の外面的顕現に転成する。この内面の外面化のプロセスは東アジアの絵画の典型に認め
られるものだが、書道の場合ははるかに曖昧ではない形で認められる。
井筒俊彦の議論は、漢字が垂直、水平、七間、上昇・下降、点といった単独では意味が欠けている一画一画から構成されていることにもとづいてい
る。(かなの場合はどうか。)
また、「東アジアの芸術と哲学における色彩の排除」(同書所収)には、「書道芸術──すべての東洋芸術の中で最も抽象的で、もっぱら人間の精神
的覚知の深みの直接無媒介な表現にのみかかわる」(292頁)と書かれている。
※
もうすこし井筒俊彦『禅仏教の哲学に向けて』からの抜き書きをつづける。
「俳句とは、詩人が感覚的現象の中に見つけ出した輝ける間隙の瞬時的把握を通じて、〈存在〉の超感覚的次元へと向けた束の間の一瞥の詩的表現であ
る」(286頁)。
「超感覚的次元が、〈超えたもの〉が表現を許されるのは、表現されないものを通じてのみである。俳句は、〈自然〉の現象形態を積極的に描くこと
で、同時に〈存在〉の二つの次元を表現する。それゆえ、非表現によって創造されるべき空白空間は、至高の重要性を持つのである」(同)。
「舞台上で、昇華された動作の不在へと内的エネルギーを極度に凝縮させることで、最も力強い感情の表現を実現できる…役者は身体を動かさない。彼
は、〈無時間〉のイメージそのものに結晶しているかのように…内的に、心で舞う。…身体のごくわずかな動きでさえも、水墨画における白紙の表面に
置かれた黒い墨の小さな点と同じくらい表現的である」(289頁)。
これは井筒俊彦の文体ではない(野平宗弘訳)。井筒俊彦の文体ではないのに、紛れもない井筒俊彦の論考の世界がひろがっている。とても新鮮な感
覚。