クオリアとペルソナ (2006.12-2007.2)



☆2006

★12月7日(木)

 黒猫さんが『コーラ』という「アクチュアルでキュートな」Web評論誌(季刊)を創刊する。これを媒体にして、何かまとまったものを書いてみよ うかと思っている。春夏秋冬の季節ごとに一篇、3年つづければ一冊の本になる。新古今和歌集の部立(春・夏・秋・冬・賀・哀傷・離別・羈旅・恋・ 雑・神祇・釈教)に即して書ければ言うことはないが、所詮は思いつき、そもそも最初の一歩がうまく踏み出せるかどうか自信はない。で、草稿や備忘 録や素材蒐集整理の作業をこのブログ上でやることにした。
 心脳問題をテーマにしたSF短編小説の連載、以前書いたものの解体修復再構築、等々、肝心の何を書くかでしばし逡巡した結果、いつもながらのや り方に落ち着いた。つまり、今たまたま読んでいる本、読みあぐねている本、読む時間がとれず負担になっている本を何冊か同時並行的に読み囓り、そ れらからの抜き書きをベースにして妄想をたくましくする。
 とりあえずは「歌論と心脳問題」もしくは「歌とクオリア」を仮のテーマにしておく。一回だけで終わるか、そこから発展して、歌と仏(神)と農と 霊(貨幣)をめぐる日欧の精神史=経済史的並行関係の考察へと及ぶか。それはやってみなければわからない。そもそもやれるかどうかもわからない。 第一、風邪がまだ治りきっていない。二週間ぶりにディスプレイに向かって言葉を拾っていると、喉がおかしくなり、また新たな風邪に襲われる予感が たちあがってくる。

 今たまたま読みかけている本(最近買った本)でテーマと関連しそうなもののリストをあげておく。これらがうまく一つに収斂し、かつて読み感銘を 受けたいくつかの書物と響きあっていくようだと、この試みを成就するのだが。

◎堀田善衛『定家明月記私抄』『定家明月記私抄 続篇』(ちくま学芸文庫)
◎尼ヶ崎彬『花鳥の使──歌の道の詩学Ⅰ』『縁の美学──歌の道の詩学Ⅱ』(勁草書房)
◎T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波文庫)
◎綿抜豊昭『連歌とは何か』(講談社選書メチエ)
◎松岡正剛『日本という方法──おもかげ・うつろいの文化』(NHKブックス)
◎永井均『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(NHK出版)
◎ジェラルド・M・エーでルマン『脳は空より広いか──「私」という現象を考える』(草思社)
◎ダン・ロイド『マインド・クエスト──意識のミステリー』(講談社)
◎エミール・ブレイユ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(月曜社)
◎木村敏・檜垣立哉『生命と現実──木村敏との対話』(河出書房新社)

☆2007

★1月27日(土):本のリストと若干の抜き書き──ペルソナ・ヒュポスタシス・その他

 一昨日までで、一応の構想がまとまった。「クオリアとペルソナ」というまだ仮称のタイトルのもとで、ここ十年あまり取り組んできた作業の集大成 をやってみよう。何年かかるかわからないけれど、また、今の意気込みがどこまで続くかわからないが、とにかくやってみよう。そう腹をくくると、い わく言いがたい開放感(解放感より開放感)のようなものが訪れてきて、とても気分がいい。新しいノートを買って、いろいろ書き込みをやっている と、なお気分がいい。それだけでもう何事かを成し遂げた気持ちになってくる。
 まずは、永井均『西田幾多郎』と尼ヶ崎彬『花鳥の使』の重ね描きから始める。戦術は決めている。地道に一点集中、先走らず着実に。だのに、やっ ぱり気持が先走る。あれこれ読みたくなる。「ペルソナ」に関連する書物を求めて、図書館に出かける。ドゥンス・スコトゥスのペルソナ論を取り上げ た八木雄二『「ただ一人」生きる思想』は見つからなかったが、既読、未読の関連本、無関連本を借りてきてしまった。気持ちが少し濁ってくる、とい うか拡散していく。

◎山田晶・責任編集『世界の名著20 トマス・アクィナス』(中央公論社:1980)
◎坂口ふみ『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』(岩波書店:1996)
◎八木雄二『中世哲学への招待──「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』(平凡社新書:2000)
◎八木雄二『イエスと親鸞』(講談社選書メチエ:2002)
◎加藤隆『一神教の誕生──ユダヤ教からキリスト教へ』(講談社現代新書:2002)
◎檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学──ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』(講談社現代新書:2005)
◎『ハイデッガー カッセル講演』(後藤嘉也訳,平凡社ライブラリー:2006)
◎湯田豊『ツァラトゥストラからのメッセージ』(角川叢書:2006)
◎保坂俊司『宗教の経済思想』(光文社新書:2006)
◎正高信男『ヒトはいかにヒトになったか──ことば・自我・知性の誕生』(岩波書店:2006)

     ※
 トマス・アクィナスの『神学大全』第一部は、神をめぐる三つの考察からなる。第一に神の本質に属することがら(第2問~第26問)、第二に神の 三つのペルソナに関することがら(第27問~第43問)、第三に神からの被造物の発出に関することがら(第44問~第119問)。世界の名著『ト マス・アクィナス』に訳出されているのは第一の考察で、第二の考察は残念ながら収録されていない。
 ただ、ペルソナという語彙そのものは散見される。たとえば、第15問第2項「複数のイデアが存在するか」に出てくる次の文章とその訳注。

《もしもそれ〔複数のイデア〕がただ被造物においてのみ実在するものであるとすれば、被造物は永遠から存在するものではないから、もしイデアがこ のような関連のみによって複数化されるとすれば、イデアの複数性は永遠からのものではないことになろう。またもしそれが神のうちに実在するとすれ ば、ペルソナの複数よりほかの実在的複数性が神のうちに在ることになる。これは、「不生、出生、発出」以外には、神においてはすべてが一であると いうダマスケヌスのことば(2)に反する。それゆえ複数のイデアは存在しない。》(『トマス・アクィナス』436頁)

《(2) 『正統信仰論』第一巻一○章。ギリシア教父第九四巻八三七。「不生」ingeneratio は御父のペルソナを、「出生」generatio は御子のペルソナを、「発出」processio は聖霊のペルソナを表わす。これについては、第二七問「神のペルソナの発出について」において論じられる。》(同440頁)

 補遺(2007/01/31)。上記の議論に対するトマス・アクィナスの反論とその訳注。

《イデアを多数化する諸関連は、被造物のうちに在るのではなくて神のうちに在る。しかしながらそれは、ペルソナがそれによって区別される諸関連の ような実在的関連ではなくて、神によって知性認識されている諸関連である(14)。》(同439頁)

《(14) 神における三つのペルソナは、神のうちに神から生まれる者とそれを生む者、生む者と生まれる者とから共通に発出する者と、その者がそこから発出する共通の 根原との関係を根拠として実在的に区別される。ゆえに実在的区別を神のうちに生ぜしめるこれらの関係は「実在的関係」relationes reales、ないし「実在的関連」respectus reales といわれる。この問題については、第二八問「神の諸関係について」において論じられる。これに対し、神においてイデアが多数化されるのは、「神によって知 性認識される関連」respectus intellecti a Deo によるのであって、これは実在的関係ではなく、単なる「概念的関係」relationes rationis にすぎないから、それがいかに神のうちに多数認められるとしても、それによって神のうちに何らかの実在的区別も生じないのである。》(同441頁)

     ※
 なお、スンマ第一部第29問に言及した文章が坂部恵「人称的世界の論理学のための素描」(『坂部恵集』第3巻)に出てくるので、抜き書きしてお く。

《また、その発展途上で、いわゆる「人格」や神の「位格」を、元来「仮面」の意をもつ「ペルソナ」の語でとらえ、それを「理性的本性をもつ個的実 体」(rationabilis naturae individua substantia)と規定した西洋哲学の思想が、こうして、実体あるいは基体(hypostasis)の概念を媒介として「ペルソナ」をとらえること によって、「ペルソナ」の概念がもともとそなえていた他者とのドラマチックなかかわりという本質的契機を追い追い欠落させて、自己完結的な実体あ るいは今日のことばでいえば一つの閉鎖系という側面のほうを逆に浮かび上がらせて、ひととひととのパーソナルなかかわりの世界をありのままにとら える道をかえって閉ざしてしまったというようなことが多少でもあるとすれば、これまた、奇妙なことではないのか。
 さきの個的実体としてのペルソナ規定から、デカルトの自己完結的な実体としての自我あるいは心の規定、ライプニッツの窓をもたぬモナドというか ぎりでの自己完結的な実体、あるいは純粋に形式的普遍的な命令にまで還元された内面の良心の声にみずからの自己同一性のあかしを見いだすカントの 道徳的人格までの道は、一見しておもわれるほど遠いものではない。》(169頁)

     ※
 ヒュポスタシスとペルソナの関係について、坂口ふみ『〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人びと』に刺激的な叙述がある。このことは、以前 取り上げた「仮面考」のなかでふれたことがある。ここでは、その昔、ヘーゲルの『大論理学』を読んでいたときのノートを思い出したので自己引用し ておく。

◆三位一体論について。山田晶『アウグスティヌス講話』(新地書房)から。──
 父と子と聖霊の関係は、ニケア公会議(325年)においてギリシャ語を使って次のように定式化された。すなわち三者はウシア(本質)においては 一であるが、ヒュポスタシス(土台・基礎・実体[substance])においては三であると。
 ここに出てくる「ヒュポスタシス」はプロティノス哲学における重要な概念である。この哲学ではまず万物の根源・超越者としての一者(ト・ヘン) が在り、そこから理性(ヌース)が、さらに理性から魂(プシュケー)が出てくるのだが、この一者・理性・魂がヒュポスタシスなのである。
 しかしギリシャの教父たちが父・子・聖霊をヒュポスタシスと名づけたとき、その内容はプロティノス哲学とは非常に異なったものになっている。す なわち、プロティノスにおけるヒュポスタシスは「一者→理性→魂」と下方に流出し三者は無条件に同一のものではないのに対して、三位一体論におけ るヒュポスタシスは──子と聖霊は父から発出するのではあるが──それぞれ独立の相互に区別された性格をもっているのである。このことを強調する ために、父と子と聖霊は「ウシア」において一であるとされた。
 ところで、西方教会では先の定式はラテン語で表記された。その際、ウシアはエッセンチァと、ヒュポスタシスはペルソナと訳されたわけだが、さら に聖霊が父から発出する際に子がどのようにかかわるかという問題をめぐって、ニケア・コンスタンチノポリス信経の「父より出ずる聖霊」という表現 に「および子より」(フィリオ・クエ)を付加した。
 一方、東方教会では聖霊は父から「子を通して」発出するものと解されていた。そこでは三つのヒュポスタシスが「父→子→聖霊」と直線的な発出の 線をたどるのである。これに対して西方教会では、三つのペルソナは「父と子→聖霊」と逆三角形のかたちを取る。
<西方教会の三位一体論によれば、神は御自身を理解することにおいて御自身の似姿を御自身のうちに生み出します。かくて、神御自身のうちに生み出 された御自身の似姿が「みことば」であり、それは生み出された者であるかぎり「子」と呼ばれ、それに対して生み出す者としての神は「父」といわれ ます。…ところでこのようにして神の「理解」のはたらきによって生み出された「子」と、それを生み出す神としての「父」との間には「愛」が生じま す。「父」と「子」との間に生じた愛が、すなわち「聖霊」です。>
 ──ヘーゲルは、個別性とは<個性と人格性の原理>であるといっている。訳文にいう「人格性の原理」がペルゼーンリッヒな原理、つまりペルソナ 的な原理をさしているのであれば、個別的概念としての普遍・特殊・個別が神の三つのペルソナに相当すると見ていいだろう。そして、純粋概念(普遍 的概念)がウシアあるいはエッセンチァに相当すると見ることができるかもしれない。
 普遍的概念から特殊的概念へ、そして特殊的概念から個別へ、さらには概念の自己分割へと推移するヘーゲルの叙述は──中沢氏(『はじまりのレー ニン』)がいうように──東方教会的な意味での三位一体論を下敷きにし、ヒュポスタシス(ペルソナ)の発出過程と相互関係を同時に示したものなの だろう。

◆和辻哲郎「面とペルソナ」から。──
<面は元来人体から肢体や頭を抜き去ってただ顔面だけを残したものである。しかるにその面は再び肢体を獲得する。人を表現するためにはただ顔面だ けに切り詰めることができるが、その切り詰められた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている。そうしてみると、顔面は人の存在にとって核心的な 意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。
 ここまで考えると我々はおのずから persona を連想せざるを得ない。この語はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物をさす言葉になる。… しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第 三のペルソナであり、地位、身分、資格もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三 つのペルソナだと言われる。>
 ──ここでいう面(顔面)は象徴ではない。概念もまたこのような意味での面(ペルソナ)である、といえるのだろうか。

     ※
 ついでに(何がついでか分らないが)、最近買った本のリストを書いておく。

◎廣松渉『もの・こと・ことば』(ちくま学芸文庫:2007)
◎五味文彦『藤原定家の時代──中世文化の空間』(岩波新書:1991)
◎『古今和歌集(一)』(久曾神昇訳注,講談社学術文庫:1979)
◎山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』(文春新書:2007)

 廣松本と五味本は「クオリアとペルソナ」に関連してくる(『古今集』は、その第一回「歌とクオリア」に「仮名序」を取り上げるために入手)。山 村本はそういう文脈のものではない。読み終えて「書評」を書かず放置したままになっている本がたまっていて気になって仕方がないので、敬愛する 「狐」氏の文章に触れて、滞貨一掃への勢いを得たいと思った。
 それこそついでに、きちんと「書評」を書いておきたい本をリストアップして内圧を高めておく。(河野哲也『〈心〉はからだの外にある』や熊野純 彦『西洋哲学史』を筆頭に、読みかけ本のリストアップもしておきたいが、それこそ心が濁ってしまうのでやめておく。)

◎檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学──ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』(講談社現代新書:2005)
◎福田アジオ編『結衆・結社の日本史』(山川出版社:2006)
◎柄谷行人『世界共和国へ──資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書:2006)
◎吉本隆明『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫:2002)
◎阿部謹也『近代化と世間──私が見たヨーロッパと日本』(朝日新書:2006)
◎ルネ・デカルト『省察』(山田弘明訳,ちくま学芸文庫:2006)
◎渡仲幸利『新しいデカルト』(春秋社:2006)
◎小林道夫『デカルト入門』(ちくま新書:2006)
◎篠原資明『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』(岩波新書:2006)
◎加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』(筑摩書房:2004)
◎保坂和志『小説の誕生』(新潮社:2006)
◎堀田善衛『定家明月記私抄』(ちくま学芸文庫:1996)
◎永井均『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(NHK出版:2006)

★2月1日(木):クオリアとペルソナ(備忘録1)

 「コーラ」への寄稿文の第1回目をめぐって、年明以来、想像がたくましくなって、とうとう「クオリアとペルソナ」という連載のタイトルとだいた いの骨格、方向まで決まってしまった。
 なにが楽しいといって、想像をたくましくしてなんらかの理論めいたものを考案するときが一番わくわくする。夢中になる。ところが、「理論」の枠 組みがほぼ見えてきたとたんに、(たとえそれが見当違いのものであったとしても)、それまでの高揚が急速に萎んでしまう。手あかにまみれた「理 論」に飽きがきて、気分が散漫になり、また次のオモチャがほしくなる。
 できれば数年、「クオリアとペルソナ」で遊びたいと思っている。そのためには、もし飽きがきたとしても、そのつどたちかえって確認できる原点 (生まれたての「理論」の臍の緒のようなもの)を記録しておかなければいけない。判読不能になりつつあるノートに書きなぐった符丁のような文字や 図式、そしていま頭のなかを遊弋しているものどもを、そのすべてはとても無理だろうけれど、せめて文字にできるものだけでも「救済」しておかない と、ことごとく無明の世界に没してしまう。
 そういうわけで、以下、忘却を未然に防ぐためのものではない、必ずや到来する忘却に備えるための記録(備忘録)を残しておく。

     ※
 理論めいたものを考えるとき、あるいは「理論」の面影を思い浮かべるとき、昔から物事を四つに区分して整理する癖がある。
 かつて、「私たちの社会」と「この私の世界」の構造と稼働の原理を「四」でもって解明しようと試みたことがある。「社会」についての粗描ができ たところで作業が止まったままになっていて、「私」についても、その後、「魂の四学」をめぐる夢想と妄想をでっちあげたところで行き詰まってい る。昨年秋の「四人称世界」をめぐる考察も、その流れのうちにあるものだった。
 今回の「理論」もまた「クオリア」「志向性」「言語」「ペルソナ」の四つの項で組み立てられている。
 実は、「志向性」と「言語」がいまひとつ気にくわない。たとえば「ヒュポスタシス」と「ロゴス(ラチオとしての)」、もしくは「ピュシス(ウー シア)」と「ヴェルブム」といった語に置き換えたい(それが「理論」的に可能であればの話)。西洋由来の語彙ではなくて、「有」「無」「虚」 「空」といった和風、東洋風の言い方も考えてみたい(同様)。そう思うのは勝手で、どうぞご随意にというところだが、いずれにしても「四」なので ある。

 中沢新一の『バルセロナ、秘数3』に、西欧思想史には、プラトン、デカルト、ニュートン、アインシュタインなどの「3の信棒者(トリニタリア ン)」と、ピタゴラスやカント、ゲーテ、ショーペンハウアーといった「4の信棒者(クォータナリアン)」の二つの流れがあるという議論がでてく る。(「たがいに内包しあう否定機能にもとづく「縁」の関係にあるリアリティ」などという言い方を目にすると、クォータナリアンの末席を汚してい ると思いたくなるが、トリニタリアンの説明がやや平板でコクがないのが気になる。)

《トリニタリアン的思考は「否定」の機能を(+、-)の対立として、考えようとする。つまり対立を、極性―対立(polar opposites)としてとらえ、論理表現化しようとするのだ。これにたいしてクォータナリアン的思考は、論理における否定の機能を相補的対立 (complementary opposites)と考える。運動量(p)と位置(q)のふたつを同時に確定することができないように、おたがいが相手を内包しながら否定しあっている ような関係である。
 「否定」の機能(これは最終的には、言語の象徴機能の問題である)には、はっきりとふたつのタイプが存在して、思想におけるふたつの流れをつく りだしてきたのだ。古典科学やその方法をバックアップしたデカルト的合理論は、その表現のなかに(+、-)タイプの対立だけを認めようとした。こ れにたいして、量子力学は別のタイプの「量子論理」にしたがって、物理的リアリティを表現しようとしてきた。(略)
 量子論理(Quantum Logic)は、通常の(+、-)論理に比較すると、おそろしく複雑な構造をもっている。これは量子論理が、アリストテレス的論理学の因果律 (Causality)にしたがうことなく、たがいに内包しあう否定機能にもとづく「縁」の関係にあるリアリティを論理化しようとこころみている ことに関係がある。その意味でも、これは東方的な超論理学(中観仏教、聖グレゴリオ・パラマスによって大成されたギリシャ正教神学、イスラムの天 使学など)と、深い内在的関係をもっているのである。》(『バルセロナ、秘数3』)

 補遺。以前に書いた文章からの自己引用。
 ──これは鎌田東二著『身体の宇宙誌』(講談社学術文庫)の「まえがき」で仕入れた知識なのだが、出口王仁三郎は「ひ」(一、日、火、霊)が増 殖・成長して「ふ」(二、増、殖)となり「み」(三、身)となり「実」をみのらせ「よ」(四、世、節)を形成すると語った。そうすると『三四郎』 (夏目漱石)の「三」は「身」に「四」は「世」に通ずることになりそうだし、さらに悪乗りを重ねるならば「三」は「産」に「四」は「死」に通じ、 いずれも「父母未生以前本来の面目」の問題(『門』)あるいは「生命記憶」の問題につながる?

     ※
 では、なぜ「四」なのか。それはたぶん「五」という秘数に到達したいがためだと思う。(では、なぜ「五」なのか、なぜ「五」が秘数なのか。それ は判らない。四肢より五感といった類のことではない。三次元空間に四点を等距離に配置することはできるが、五点ではできない。そういった類のこ と。)

 「零」を考えると、そこに零という一つのものが認識される。すると「一」になる。「零」は静で「一」は動である。
 「一」は自ずから、もしくはそこに外圧が加わって「二」に分割される(「二」が流出する、と考えることもできる)。そして、ある一つのもの、も う一つもの、それら二つのものの関係という「三」が生まれる。「二」は静だが「三」は動である。
 正反合の弁証法のように、正が反を経て合に移行する。そこから次の「三」の運動が始まる。そう考えてもいいが、それだと動から動への堂々巡りで しかない。「三」の運動の中に組み込まれた合は、所詮もう一つの「一」でしかないからである。
 正反合であれなんであれ、三項が成り立つこと自体、高次の『一』の立ち上がりを告げている。
 高次の『一』とその分割によって生まれる『二』が、「四」に至る二つの道をひらく。すなわち、「三」+『一』(三位一体)と「二」×『二』(二 つの二項対立の重ね描き)。いずれも静である。動を内包した静である。
 前者(三位一体)のうちに孕まれた高次の動(『一』)から高次の静(『二』)が生まれ、この静のうちに低次の静が重ね描かれた結果が後者(二項 対立の自乗)である。(永井均の表現を借りると、「開闢」から「開闢の奇蹟が開闢の内部の一つの存在者として位置づけられている」状態へ。)そう 考えることもできる
 ところで、『二』は『三』を生み、この『三』からより高次の〈一〉が生まれる。そして「三」+『一』+〈一〉もしくは「四」+〈一〉で「五」が 生まれる。以下、無限につづく。(このあたりまでくると、何を書いているのか判らない。それは秘数の世界だからである。)
 「四」に話をもどす。「四」には「動(三)+動(高次の一)」と「静(二)×静(高次の二)」の二つの相があった。
 ここで、「クオリア─志向性─言語─ペルソナ」を「動+動」の相でみると、クオリアと志向性から言語が立ち上がり、そうした言語誕生のプロセス そのものを内包したペルソナが立ち上がる、などと解析することができる。
 あるいはこれを「静×静」の相でみると、たとえば「実証思考─抽象思考」と「実存─本質」の二つの二項対立の重ね描きで四項を整序することがで きる。すなわち、「クオリア=実証+実存」「志向性=抽象+本質」「言語=実証+本質」「ペルソナ=抽象+実存」(これらの規定は、まだ「仮止 め」のものにすぎない)。

★2月2日(金):クオリアとペルソナ(備忘録2)

 説明や論証や例証抜きの抽象的な議論がつづく。

     ※
 昨日の文章の最後に出てきた「立ち上がり」(クオリアと志向性から言語が立ち上がり…)と「重ね描き」(二つの二項対立の重ね描きで四項を整序 する…)、言い換えれば動的アプローチと静的アプローチによる解析・整序を通じて、たとえば神言もしくは真言としての言語(「動+動」の相のもと で)、言語としての自然科学(「静+静」の相のもとで)といった二つの言語のあり方が炙り出される。それらがともに「四」において共在する。そこ からより高次の〈一〉が生まれ、「五」が生まれる。そう考えてもいい。
 しかし、「五」は所詮、秘すれば花の世界であって、より高次の〈一〉(花)はふたたび「四」のうちに繰り込まれる(内在的超越)。たとえば「ペ ルソナ=クオリア」の等式を成り立たせる「導管」として活用される。
 ここに出てきた「炙り出し」(C:入不二基義)や「繰り込み」も、「立ち上がり」(C:保坂和志)や「重ね描き」(C:大森荘蔵)とともに、 「四」の存在と認識と実践をめぐる「推論」にかかわるキーワードである。

     ※
 上の文章で、導管と推論を括弧書きで記したことについて。
 ここでいう「推論」は、存在の理法であり、認識の方法であり、実践の形態である。何度でも繰り返し引用するが、パースは『連続性の哲学』で、 「われわれが何かを理解しようと試みるとき──何かを探求しようとするとき──、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論理と多少 の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前提されている」と書いている。
 導管については、ジェイン・ジェイコブズが『経済の本質 自然から学ぶ』で、生態系や都市を「エネルギーが通過していく導管」と表現している。 これをもじっていえば、推論がそこを通過していく理路もしくはフィールド(伝導体、透過体、統合体、機能体、等々)が導管である。
 推論が通過する…。つまり、推論から独立した主体、推論に先立つ主体といったものはない。推論は力であり、構造である。「運動体のない運動」 (メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』)としての推論?

 かねてから五つの推論というものを考えてきた。帰納[induction]、演繹[deduction]、洞察[abduction]、生産 [production]、そしてそれらを包括する第五の推論、原理的には最も古いものかもしれない推論のもうひとつの導管[duct]を指し示 している伝導[conduction]。
 それらの本質をめぐって駄弁を弄することには意味がない。その実存をめぐる饒舌には、たぶんきっとうんざりする。以下は、思いつくままの仮説で あって、いずれも語尾に疑問符がつく。

○帰納と演繹が存在の理法、洞察と生産が認識の方法、そして伝導が実践の形態にかかわる。
○「帰納─演繹─洞察─生産」は「立ち上げ─重ね描き─炙り出し─繰り込み」に関係している。
○五つの推論は「表象─模倣─解釈─記憶」の四つの作用にも関係している。
○ここでいう「表象」は物質と生命の界面で立ち上がるクオリアに、「模倣」は生命と精神が重ね描かれる界面での志向性に、「解釈」は精神と意識の 界面で炙り出される言語に、「記憶」は意識と物質の界面に繰り込まれるペルソナに、それぞれかかわってくる。
○ここでいう「意識」は、古代ギリシャ的プシューケー(魂)と中世キリスト教的プネウマ(霊)、東洋的思考における「心」や「無」「空」や「霊 性」等々のアマルガムである。

     ※
 導管について記述した上の文章の丸括弧のなかで、無造作に使用した「伝導体」「透過体」「統合体」「機能体」について。
 これらはまだ未整序な概念の種子のようなもので、これまでに記録した事柄との関連性はおろか相互の関係でさえいまだ釈然としない。また、これら 以外にも蒐集考案すべき「体(フィールド)」があるかもしれない(多様体とか駆動体とか散在体とか集蔵体とか)。だから、ここでは後の考察のため の仮説すら提示できない。ただ、そういう話題もあったという後の検索のための付箋程度のことを記しておく。そこからなにかが発展するかもしれない し。

 1.「伝導体」については、以前書いた文章のなかでとりあえずの「定義めいた規定」を考えてみた。

《伝導体とはさしあたり言語(的)構造物類似の何ものかであり、オリジナル(一回性)とコピー(複数性)、無限の論理と有限の論理、大域の法則と 局所の法則、連続性と離散性、潜在性と顕在性等々の相互引用(パラレリズム的な?)にかかわるそれ自体としては空虚な触媒的メディア──私の語感 に即していえば媒質的メディア――として作用しつつ、リアリティ(すなわち時空構造そのもの?)の製造や貯蔵、変換や消失=消費にかかわる演算の 集合体として──あるいはヴォイスやテンスやアスペクトやモダリティといった文法学的諸概念の錯綜体として、もしくはアレクサンドリアからコンス タンティノーブルへと継承されていった文献学(魂の文献学?)的精神や写本と祈りの修道院的精神を保存し伝達する機構、というより図書館や文書庫 といった物質的な場所そのものとして──自らを形成する働きであるなどと定義めいた規定を与えておきたいと思うのだけれど、それにしてもそれは概 念というには曖昧にすぎる。たとえば伝導体と生命体との異同といった根本的な事柄についてさえ私には結論が出せない。ただ生物個体あるいは自己増 殖・複製体もしくは自己体(そういう言葉があるとして)は伝導体とはまったく異なる種類の実在で、だから身体は半ば伝導体であるが半ばそうではな いと考えているのだが、これもまたずいぶん要領を得ない朦朧とした物言いだ。》

2,「透過体」の出典は、鈴木一誌の『画面の誕生』に収められた「透過体──ジャン=リュック・ゴダール『映画史』」。
 たとえば、「透過体として見られる二枚のコマは一枚に溶けあうのではなく、二枚のまま近づき遠ざかる。コマが重なり、その重なりを映像的な肉体 としながら、重なりきらない滲みが運動を湧出させる」(108頁)といったかたちで言及される。一回性の体験の復活、生の複製、夢と通底するも の、生者と死者の重ね描き、歴史。

《投げだされた映画は、スクリーンによって受けとめられ、観客の網膜に映り、複数のシステムの複合であるだろう「見るしくみ」によって、観客に届 く。この過程全体を映画と呼ぶならば、映画は実体としては存在しない。映画体験は、一回性を身にまとい、上映のつど誕生する。映画はつねに復活す るほかない。》(『画面の誕生』98頁)

《…映画は、生きかえる運動をとおしてしか死者を描けないのかもしれない。(略)写真の静止した時間は、映画の動きによって喚起された、と言えよ うし、写真の静止性が、映画に動きや音声、さらに色彩をとり込ませ、「生の複製」性を高めさせたとも考えられる。(略)写真の表層は、遠さへと向 かう。写真は、死者の圏域にあるメディアであるのかもしれない。写真は死者を死なしめ、映画は死者を死なしめない、これが実感に近い、写真と映画 ふたつのメディアのちがいであるように思われる。
 いっぽう映画は、時間の面的な表象であるはずのコマ相互を重ね、透過し、位置の変化を読みとることで成りたつ。面と面は接近しようとし、密着し た結果のたがいのずれが見られる。そのずれが視覚に運動を発生させるのだが、コマの記憶としては見る者に残らない。面であることは観客のうちに吸 収されてしまう。
 生者と死者の区別がつかない点で、映画は夢と通底する。(略)夢のなかではすべてが死者なのだ、と書き手は目覚めながら言うこともできる。》 (同104-105頁)

《あらたな文字を書くためにもとの文字を消した羊皮紙パランプセストや、マジック・メモの消去は、忘却のためにではなく、忘却しないための行為 だ。重ね描きによってこそ、記憶は維持される。(略)他者は不在であり、不在は死者性をともなう。映画は、そのことを現在的に描くのだ。忘却の装 置としてではない、重ね描きの歴史としての映画。映画の目は、いかに自身をまなざすことができるのか。》(同122-123頁)

3.「統合体」の出典は、八木誠一の神学啓蒙書。
 「互いに異なり、それゆえ相互否定的な一面を有する複数の個が、同時に相互否定媒介的にのみ成り立ち、しかも全体としてひとつのまとまりである ようなもの」(『キリスト教は信じうるか』120-121頁)。たとえば音楽。また、精神と肉体との統合体としての人格において成り立つものが 「心」である。

《心は肉体からも他者からも切り離された精神のことではなく、何か純粋思惟のようなものでもない。心は対象との関係なしには成り立たない。[略] 精神の本質は統一である。それに対して心の本質は統合[精神と肉体の統合、他の人格との統合:引用者註]なのである。だから厳密にいえば、心と精 神は区別すべきなのである。統一を本質とする精神の働きは、本来統合を求める心の働きの一部、一面なのである。》(同148-129頁)

4.「機能体」の出典は、フェリックス・ガタリの『分裂分析的地図作成法』。
 ガタリはそこで、「リアルなものと可能的なもの」「アクチャルなものとバーチャルなもの」の二組の対概念を考え、それらを交叉させた「四つの機 能体」を導き出している。すなわち実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の「門」(Φ:Phylum)、実在的 で現実的(re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)、潜在的(virtualite')で現実的なものの実存的「テリト リー」(T:Territoires)。

★2月3日(土):クオリアとペルソナ(備忘録3)

 いくら「理論」にかかわることだとはいえ、あまりに抽象的な話ばかりで、書いていて面白くなくなってきた。これではいつまでたっても「クオリ ア」や「ペルソナ」にたどりつけない。そろそろ具象的、というか(抽象との対比でいえば)感覚的な事柄に即した話題に議論を移す。
 その前に、昨日の最後の文に出てきたフェリックス・ガタリの四つの機能体に関連して、もう少しだけ(抽象的で自己言及的な)記録を残しておく。

     ※
 自分のホームページを「ガタリ+機能体」で検索すると、四つの項目がヒットしたので、順番にペーストしておく。どうせ、これ以上のことはいまの 時点では考えられないだろうし。

◆私自身は、アクチュアル=エネルゲイア、ヴァーチャル=デュナミスと置き換えたり、アクチュアルで可能的なものを知覚世界での「物自体」に、 ヴァーチャルで可能的なものを想起世界での「過去自体」になぞらえて考えてみたり、デイヴィッド・ドイッチュに倣って、四つの区域をドーキンスの 進化論やテューリングの計算理論、ポパーの認識論やエヴェレットの多宇宙論になぞらえて考えようとしているのだが、これらはいまだ喃語の域を出て いない。

◆アリストテレスの『心とは何か Peri Psyches/De anima』(桑子敏雄訳,講談社学術文庫)を、懇切丁寧な訳注や適切この上ない訳者解説に導かれ繰り返し読んでいるうち、いま少し掘り下げて調べたり想 像をたくましくしてみたいと思う「論点」がいくつか出てきた。
 たとえば、アリストテレスは「質料は可能態[dynamis]であり、形相は終局態[entelechia]である」とし、プシューケー (psyche:桑子訳で「心」)を「可能的に生命をもつ自然的物体[ソーマ:soma]の第一の終局態」と定義している(第二巻第一章)。桑子 氏の訳注によると、エンテレケイアはエネルゲイア(energeia:桑子訳で「実現態」)とほぼ同義だというのだが、ここに出てくるエネルゲイ アとデュナミスの対概念は、ラテン語の actualitas と virtus に、そして現代語の、たとえば英語では actuality と virtuality にそれぞれ対応している。
 また、アリストテレスがプシューケーの能力として掲げる栄養摂取・生殖能力、感覚能力、思惟能力、運動能力のうち、感覚と思考の間にあるものと されたファンタシア(phantasia:桑子訳で「心的表象」)はラテン語の imaginatio やドイツ語の Einbildungskraft (カント哲学の文脈で「構想力」)につながるものだろうし、デカルトが使った realitas obiectiva ともあやしげな関係がありそうに思えてくる。[*]
 そうだとすると、希羅仏独英の五つの言語が交錯する概念のポリフォニーもしくは思考的「倍音」を腑分けした結果、ファンタシアは reality と possibility の対概念に関係づけて考えることができるかもしれないし、さらに、先のエネルゲイア・デュナミスの対概念と組み合わせるならば、フェリックス・ガタリが 『分裂分析的地図作成法』(訳書50頁)で示した「四つのカテゴリーの交叉行列」── actuel と virtualite'、re'el と possible の二組のカテゴリーの組合せによって四つの「機能体」の構成法則を示したもの──にもつながっていくと思う。

* ハイデガーの『現象学の根本問題』に準拠した木田元氏の解説によると、デカルトのこの〈realitas obiectiva〉は「スコラ哲学においてと同様、心に投影[オブイエクテレ]された事象内容、単なる表象作用のうちで思い描かれただけの事象内容、つ まりある事象の本質を意味し、〈可能性〉と同義である」のに対して、ラテン語とドイツ語の違いはあれ言葉の形はそっくりな「カントの 〈objective Realitat〉は、客観のうち現実化された事象内容を意味し、〈現実性〉と同義である」。《デカルトにあってカントのこの概念に対応するのは、むしろ 〈realitas actualis〉の方で、これは現実化された(actu)事実内容を意味する。》(『ハイデガー『存在と時間』の構築』159頁)

◆仮面は知覚世界と想起世界の境界を設営し、かつ視覚化する。(自らを媒質として?)──そして顔は、それぞれ知覚世界と想起世界の双方にまたが る現実世界と理念世界(=論理世界=可能世界?)の境界を設営し、かつ視覚化する。(自らを媒質として?)
◎ガタリ『分裂分析的地図作成法』の四つの機能体によって与えられる区域。──実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象 機械状の「門」(Φ:Phylum)。実在的で現実的(re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)。潜在的 (virtualite')で現実的なものの実存的「テリトリー」(T:Territoires)。潜在的で可能的なものの非物体的(意識的) 「世界」(U:Univers)。
◎ここでたとえば、知覚世界:actuel、想起世界:virtualite'、現実世界:re'el、理念世界:possible、と対応させ ることはできるだろうか。そして、知覚世界と想起世界を媒介する仮面は時間に関係し、現実世界と理念世界を媒介する顔は空間に関係する、などとい うことはできるだろうか。さらに、前者からは心身問題の、後者からは他者問題の「解明」の手がかりが得られる、などといえるのだろうか。
◎いまひとつの(謎めいた)思いつき。その一、顔の解析学。──力の「流れ」を堰き止めつつ解放(微分)する「門」。そして「テリトリー」(土 地)を高次元で造形(積分)すると「世界」が得られる。──その二、仮面のトポロジー。「世界」と「門」をめぐるカフカ的寓意性。そして「流れ」 と「テリトリー」(土地の名?)をめぐるプルースト的単数性。(あるいはジョイス的複数性やバタイユ的過剰性、等々。)
◎ところで‘Univers’すなわち宇宙とは、自らに折り返したもの(universe=unus[one]+vertere[turn])で ある。それこそ「虚ろな器」の造形原理ではないか!──盤にせよ碗にせよ壷にせよ、そして管にせよ、いずれも「自らに折り返したもの」なのだか ら。(かくして仮面的なものは「時間問題」「心身問題」に加えて「自己(意識)問題」にまでかかわっている?)
◎あるいは(ジンメルが準拠している?)ショーペンハウアーの世界の四区分に対応させること。──たとえば、表象としての世界とは知覚世界であ り、意志としての世界とは想起世界である、そしてイデアとは現実世界を積分する(すなわち possible な)表象であり、物自体とは理念世界を微分する(すなわち re'el な)意志である、などということができるのだろうか。

◆ガタリの四つの機能体とは、実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の「門」(Φ:Phylum)、実在的で現 実的(re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)、潜在的(virtualite')で現実的なものの実存的
「テリトリー」(T:Territoires)、潜在的で可能的なものの非物体的(意識的)「世界」(U:Univers)のことなのですが、こ れでは何のことやらさっぱりわかりません。私自身は「リアルなもの=実」「可能的なもの=虚もしくは無」「アクチャルなもの=現」「バーチャルな もの=空もしくは夢[む]」と訳して、現実だとか空虚だとかの概念を導き出せないかと考えをめぐらせてはいるのですが、これもまた夢現の類でしか ありませんし、だからどうなんだと自分でも思います。

     ※
 自己引用した上の文章以外にも、たとえば「世界の界面」でガタリの四つの機能体をとりあげていた。斎藤慶典著『フッサール 起源への哲学』への 「書評」にも関連する記述があった(アクチュアリティ=生き生き感、リアリティ=ありあり感とか、‘intentionality’=導きといっ た魅力的な訳語が出てくる)。
 まだまだ探せばみつかるだろうが、きりがない。以下は、後日の作業へ向けた自己註めいた覚書。

◎「アクチュアル=エネルゲイア」「ヴァーチュアル=デュナミス」の系譜が、中世スコラ哲学における概念のアマルガムを経て、「アクチュアリ ティ=実存=永劫回帰」「ヴァーチュアリティ=本質=力への意志」につながっていったことは、どうやら確からしい。
◎しかし、これを「アクチュアル=知覚世界」「ヴァーチュアル=想起世界」に置き換えて考えるのは、少なくとも等号で結ぶのは間違っているような 気がする。カテゴリーが違っているような気がする。(でも、エネルゲイアとデュナミスの系譜から中世スコラ哲学を経て、ベルクソン、メルロ=ポン ティ、そしてアフォーダンス理論へとつながる導管があるようだから、このアイデアを早々に葬り去るわけにはいかない。實川幹朗『思想史のなかの臨 床心理学』参照。)
◎一昨日の「備忘録1」で、「実存/本質」と「実証思考/抽象思考」の二つの二項対立の組み合わせで「クオリア」や「ペルソナ」を整序した。この 線でいくと、「実証思考/抽象思考」が「リアル/ポッシブル」に対応することになりそうだが、それも違うような気がしないでもない。

 余談を挿入。今日の冒頭、「具象的、というか(抽象との対比でいえば)感覚的」と書いた。これは、昨年の1月15日に引用した養老孟司(『無思 想の発見』)の定義──感覚世界と概念世界の重なりが言葉である、言葉は「同じであって、違うものだ」、云々──を念頭においている。
 何が言いたいのかといえば、「実証思考/抽象思考」は「感覚世界/概念世界」に対応しているということ。これが「リアル/ポッシブル」に対応し ていれば、一昨日の記述は的を射たものになる。(的を射ているかどうかはどもかく、ガタリの四つの機能体につないでいくことはできる。つながった からどうなんだ、と問われても、答えはない。)
 余談をもう一つ。「実証思考/抽象思考」のペアも養老孟司(『日本人の身体観』)から採った。西洋における「自然科学/キリスト教神学」に相当 する日本の「実証思考/抽象思考」は「歌論/仏教思想」である。このことも、昨年の1月5日に書いた。
 少し先走って書いておくと、ここに出てきた日欧精神史を関係づける四項目のうち「キリスト教神学」が「ペルソナ」に、「歌論」が「クオリア」に 関係してくる。

◎「実存/本質」のペアは「現実世界/理念世界」と(言葉の響きだけ聞くと)親和的で、だとすると「リアル/ポッシブル」のペアと(同様に)親和 的である。
◎そもそも「リアル/ポッシブル」は「リアル/イマジナリー」の方が響きがいい。等々。

 混乱している。混濁している。困惑している。あらゆるものを「四つの機能体」に集蔵しなければ気がすまなくなっている。考え方を修正しておく必 要がある。
 「四」のなかに「四」が入れ子式に繰り込まれているのかもしれない。あるいは、「四」から「四」が立ち上がってくるのかもしれない。「四」が 「四」に重ね描きされているのかもしれない。「四」から「四」が炙り出されるのかもしれない。

★2月4日(土):川端康成のこと・その他──クオリアとペルソナ(備忘録番外)

 にわかに川端康成への関心が高まっている。
 きっかけは、このところ専念している「クオリアとペルソナ」をめぐる考察を、島崎藤村の『夜明け前』と川端康成の『雪国』の、いずれもよく知ら れた書き出しの文章の比較から始めようと思いつき、そのためには『雪国』をきちんと読み直さなければいけないと、殊勝にも新潮文庫を買い求め読み 始めてみたら意想外に面白い、どころかこれはとんでもない作品だと気づいたことにある。
 読み直す、と今書いたけれど、この作品を本当に読んだことがあるのか、それはいつのことなのか、記憶がはっきりしない。『伊豆の踊り子』だっ て、読んだかどうか記憶がさだまらない。確実に言えることは、大学生になった年、川端康成のガス自殺の報に接して、唐突感(その自死にはなんの必 然性も物語性もない、遺書さえない)と違和感(あまりに散文的、というと散文家の死を形容するのに妙にアイロニカルな響きがともなうが)を覚えた こと、数年前に『山の音』を読みいたく魅了されたことくらいで、私の川端体験はいかにも貧弱だ。
 とにかく『雪国』はすごい小説で、通りすがりのように冒頭だけ取り上げて適当な思いつきを書いてすますのは軽率きわまりない。ではいったいどこ がどうすごいのか、川端作品をひとあたり読み込む作業へと迂回しながら、いちど自分なりに言葉にしておかないといけない。そう思いたって、たまた ま『芸術新潮』の2月号が「おそるべし!川端康成コレクション」を特集していたのでさっそく買い求め、福田和也と高橋睦郎の対談「本人もコレク ションもおそろしい」に目を通してみたら、いきなり福田和也が「大学の修士に行ってフランス文学を読み込んだ後、なにかのきっかけで『雪国』を読 んだら、これはとんでもない小説だと驚いた」と語っていた。

《ヨーロッパの世紀末文学の理想、ボードレールやワイルド、リラダンが求めて果たさなかったデカダンの理想を実現してしまった作品です。
 デカダンスにはいろいろな見方があると思いますが、近代的人間性を徹底的に否定するインヒューマニティ、その残酷さが持っている美を極限まで押 し進めるとあの小説の世界になるのだと思いますね。主人公の設定もそうですし、それから自然の描写ですね。人間性をはっきり拒絶したところから出 てくる自然を描いていて、メタリックといってもいいような突き抜けた力があって、ニヒリズムすら必要としない無情さが溢れている、これは本当にお そろしい作家がいるという感覚を持ちました。》

 「メタリックといってもいいような突き抜けた力」や「ニヒリズムすら必要としない無情さ」といった言い回しに導かれて『日本人の目玉』(ちくま 学芸文庫)を購入し、そこに収められた福田の川端論「いつでもいく娼婦、または川端康成の散文について」を読んでみたら、川端康成は「射精を恐れ ない」とか、川端康成の「無感覚」といった、蠱惑的な言い回しが出てきた。

《翻って言えば、川端的な視点に立つのならば、文章を書くという事は、何らかのメッセージを、情報を、受け手の理解にむけて伝達することではな い。そのような営為を通して、地平なり枠組みなり世界なりを虚構することではない。書くことは、何よりもこの流れ〔「滅びても滅びない」ものの 「寂しい流れ」〕を、受け手と投げ手、意図と理解を等しなみに押し流して露呈するけじめのない、魔界の広がりに呑み込んでいくことにほかならな い。自分が他人であり、他人が自分であるようなけじめのない場所を作り出すこと。
 谷崎潤一郎的な、近代的な散文が、射精にむけて、つまり伝達や理解といった絶頂に向かい、その迂回と遅延を巡って形作られているとするならば、 川端のそれは、射精といく事が過ぎた後の、自他を溶かし不分明にしていく太々しい持続を原基としている。》(287頁)

《最早、引用という事をしたくないので、どのような作品でもいから、川端の文章を手にとって欲しい。そうすれば、その文章が、常に語られる感受性 の豊かさによってではなく、むしろ無感覚によって成り立っていることが分かるだろう。主体と客体、自分と他者、現在と過去、原因と結果というあら ゆるけじめを押し流すアパシィによって川端の文章は成り立っており、その文がなすのは、伝達ではなく、露呈であるという事があきらかだろう。
 日本の山河を魂とするという川端の誓いは、いった後の睦言の冷えの中で、書く事は何よりも、意味やイメージを伝えるのではなく、あらゆるけじめ のない広がりを共有し侵食することだと囁き続ける。「あなたはどこにおいでなのでせうか」(「反橋」)。》(290頁)

 ここまで言われたら、読まずにはおられない。で、『雪国』とあわせて『文豪ナビ 川端康成』(新潮文庫)まで買って読んでいる。

 もう一つ書いておこう。先日、古本屋めぐりをしていて、ふと目にした中村真一郎の『女体幻想』(新潮社)がどうしても欲しくなって、いったん帰 りかけたのにまた戻って入手した。ずっと以前から、『四重奏』四部作(「仮面と欲望」「時間の迷路」「魂の暴力」「陽のあたる地獄」)など中村真 一郎の官能小説(性愛幻想小説というべきか)に惹かれていて、いつか読みたいと思っていた。
 それが川端康成とどう関係してくるのかというと、新潮文庫の『みずうみ』の解説を中村真一郎が書いているといった程度のことではなくて、もっと 深いつながりがあるに違いないと(山勘で)思う。
 これもまたどうでもいい話題だが、ウィキペディアに、中村真一郎が「福永・堀田善衛とともに「発光妖精とモスラ」という作品を合作し、これが映 画『モスラ』の原作になった。ただし、彼らに原作料はわずかしかはいらなかった」と書いてあった。

     ※
 福田和也の「ヨーロッパの世紀末文学の理想、ボードレールやワイルド、リラダンが求めて果たさなかったデカダンの理想を実現してしまった作品」 という『雪国』評を読んで、なぜか藤原定家を想起した。どうせ、丸谷才一経由の「王朝和歌=モダニズム文学説」あたりからの連想なのだろうが、新 潮文庫の『雪国』の解説(竹内寛子「川端康成 人と作品」)の次の文章などを読むと、なかなかどうして深く暗い導管が透けて見えてくるような気が する。

《私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダイアローグによってドラマを進展させた り飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べてみると、少なくとも一つのことははっきりするように思う。それは,谷崎文学が、日本の物語の直系であ るようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグに拠るものという点で、和歌により強く繋がっ ているということである。(略)谷崎潤一郎の、自国の文学享受が、王朝と江戸と西欧との混淆というかたちで生かされているのに対し、この作家の場 合は、王朝と中世と西欧とが重なっていてこれ又独自であり、その中世では、軍記物語のたぐいよりも歌と歌論、つまり詩と詩論のたぐいに、より積極 的な関心の厚さが見えるのも注目されてよいことと思われる。》

 「射精を恐れない」川端文学が「本質的にはモノローグに拠るものという点で、和歌により強く繋がっている」。面白い。「モノローグ」が和歌につ ながる点にはひっかかりを感じるが、それはドラマのダイアローグとの比較でいわれていることなのだし、また、和歌という宴のうちにやどる孤心(大 岡信)というものもあるのだから、まあよしとしよう。
 新潮文庫の『雪国』には、伊藤整の「『雪国』について」という文章も付いていて、そこでは『雪国』という「抒情小説」が『枕草子』から俳諧へと いう流れのうちに位置づけられている。

《『枕草子』にある区別と分析と抒情との微妙な混淆を、どこの国にもとめることができよう。
 『雪国』はその道を歩いている。『枕草子』の脈は、私は俳諧に来ていると思う。それは和歌の曲線を不正確として避けた芭蕉、いなそれよりももっ と蕪村に近いあたりをとおり、現代の新傾向の俳句の多くにつながる美の精神である。そして、突如、泉鏡花において散文にほとばしり、それ以後散文 精神という仮装をして現われた物語文学に押しのけられ、押しつぶされて消えそうになりながら消えず、文学の疲労と倦怠の隙間ごとに明滅していた が、川端康成において,新しい現代人の中に、虹のように完成して中空にかかった。》

 『雪国』は和歌なのか、俳句なのか。どっちでもいいといえばいえようが、実は、『夜明け前』と『雪国』の書き出しの文章を比較して、「木曾路は すべて山の中である」は俳句で、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は和歌だ、それはそこに時間が織り込まれているかどうかによる(運 動が織り込まれているかどうかによる、というのとどう違うか、そのことはいつかドゥルーズの『シネマ』を読んでから考えよう)、といったあまり根 拠のない決めつけでもって論考をはじめようと目論んでいた。それはもう断念したこととはいえ、

「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾 をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」

と、こうやって書き出しの最初の段落を抜き書きしてみると、要するに『雪国』は和歌か俳句か、やっぱり気になってくる。

     ※
 『雪国』の主人公(といっていいのかどうか)島村について、川端康成は、「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、ただ駒子 をうつす鏡のようなもの、でしょうか」と語っている。
 先走って、しかも説明抜きで書いておくと、私はこのことを知ったとき、やはり『雪国』は四人称で書かれた小説だったのだと思った。「鏡」として の島村は、まさにカメラ・アイにほかならず、だからこれは死後の世界、死者たちの世界の物語なのだと思った。なにが「だから」なのかよく分からな いが、「川端の作品では、死者が平気で登場人物として現れる」(福田和也『日本人の目玉』275頁)。これに対して『夜明け前』は文字どおり、生 前の物語なのだ(これもよく分からない)。
 補遺。四人称に関して、最近、小田マサノリという人に「見よぼくら四人称複数イルコモンズの旗」(『現代思想』03年2月号)という論考がある ことを知った。

 ところで、新潮文庫の注解に、上の川端の言葉を受けて「能でいえば駒子のシテに対するワキといえようか」とある。ちょっとこれはどうかと思う。 だいいち、能のシテは死者と相場が決まっている。死者はむしろ島村ではないか。「男としての存在ですらない」島村は、少なくとも男としては死んで いる…。でも、「西行桜」では桜の精がシテで、西行がワキになっている…。駒子は動物の精で、葉子は植物の精で…。ますますわけがわからなくなっ てきた。

     ※
 「内田樹の研究室」の2006年06月18日の記事「死をめぐる二つの考察」を思い出した。「死者とのコミュニケーション」について書かれた部 分がここでの話題に関係しそうなので、ペーストしておく。何度読んでも痺れる。

《土曜日は大阪の朝日カルチャーセンターで釈先生と「現代霊性論」のシリーズ三回目(このシリーズは去年の後期に大学の講義でやった話の続き。四 月から六月まで大阪、七月に東京でやってとりあえず打ち上げ)。
喪の儀礼、死者とのコミュニケーションという重い問題を最後に取り上げる。
複式夢幻能という演劇形式が精神分析のセッションと同型的な構造を持っているということはよく指摘される。
前シテが分析主体(患者)で、ワキが分析家(医師)である。
ある「痕跡」をワキがみとがめて、そこに立ち止まる。
そして、「ここでいったい何が起きたのだろう?」という問いを発する。
その問いに呼応するように「影の薄い人間」(前シテ)が登場して、歌枕の来歴について説明を始める。
説明が続いているうちに、しだいに前シテは高揚してきて、やがて「ほんとうのことを言おうか?」というキーワードをワキに投げかける。
ワキがそれに応じると同時に舞台は一転して、「トラウマ的経験」が夢幻的に再演される。
後ジテが「死者」としてそのトラウマ的経験を語り、それをワキが黙って聴取することによってシテは「成仏」する(しない場合もある)。
「成仏」というのは要するに「症状の緩解」ということである。
能のこの構成はおそらく喪の儀礼の古代的形態を正しく伝えている。
そこには二人の登場人物が出てくる。
「痕跡」(症状)を見て、そこでかつて起きたこと(トラウマ的経験)をもう一度物語的に再演することを要請する生者。
その要請に応えて、その物語をもう一度生きる「死者」。
この物語は「演じるもの」と「見るもの」がそのようなトラウマ的事実があったということに合意署名することで完了する。
時間を遡行できない以上、その物語が事実であったかどうかを検証する審級は存在しない。
ということは、その物語は事実であっても嘘であっても、コンテンツは「どうでもいい」ということである。
手続きだけが重要なのだ。
それが「儀礼」ということである。
能の前シテが「影の薄い人物」であるということも重要である。
それはただの通りすがりの「誰でもいい人」(Mister Nobody)である。
あるいは、そんな人物はそこに通りがかりさえしなかったのかもしれない。
というのはほとんどの場合、ワキは長旅で疲れ果てて、人里離れたところで呆然と立ちつくしているところから物語は始まるからだ。
これは「入眠幻覚」にとって絶好の条件である。
前シテも、後ジテも、ワキが出会ったと思っている人はもしかするとはじめから最後までそこにはいなかったのである。
もしかすると、ワキは疲れ果てて短い夢を見ていただけなのかも知れない。
重要なのは、「それでよい」ということである。
むしろ、「そうでなければならない」ということである。
それが死者とのコミュニケーションの正統的なかたちなのだ。
たぶん死者が私たち生者に告げようとしているメッセージも、彼らが語る驚くべき物語も、生者が無意識的に構築したものなのである。
ラカンがただしく述べたように、分析においてもっとも活発に活動しているのは分析家の欲望だからである。
私たちは「自分の欲望」をつねに「死者からのメッセージ」というかたちで読む。
自分の欲望を「私はこんなことをしたいです」とストレートな文型で表白しても、そんなものには何のリアリティもありはしない。
そんなものは小学校の卒業文集の「将来なりたい人間」に書いた文章と同じように、私たちが自分自身についてどれほど貧しい想像力しか行使できない のかを教えてくれるだけである。
私自身の貧しい限界を超えるような仕方で「私の欲望」を解発するためには、どうあってもそれは「他者からのメッセージ」として聴き取られねばなら ない。
そして、あらゆる他者のうちでもっとも遂行性の強いメッセージは死者からのそれである。
「死者からのメッセージ」はその定義上「書き換え不能」だからである。
そして、「死者からのメッセージ」として読まれたときに「私の欲望」はその盤石の基礎づけを得ることになる。
ラカンはこう書いていた。
「言語活動において、私たちのメッセージは『他者』から私たちのもとに到来する。それも、逆転した仕方で」(dans le langage notre message nous vient de l’Autre, et pour l’e´noncer jusqu’au bout : sous une forme inverse´e) E´crit I, Seuil, 1966, p.15
私たち自身の欲望の表明を、私たちは「他者」からの「謎のことば」として聴き出す。
それが「喪の儀礼」の本質構造である。
それは私たちが「自分のことば」をもってしては決して語ることのできない「私の欲望」を言語化する唯一のチャンスなのである。
喪の儀礼とは「死者は私たちに何を伝えたかったのだろう?」という問いを繰り返すことである。
そして、この問いこそが「私の欲望」を解錠し、私が私の限界を越えて生きることを可能にする決定的な鍵なのである。
人類が他の霊長類と別れるきっかけになったのは、たぶんこの問いが念頭に浮かんだその瞬間だからである。》

★2月5日(月):クオリアとペルソナ(備忘録4)

 一昨日の「備忘録3」で、西洋における「自然科学/キリスト教神学」に相当する日本の「実証思考(感覚世界)/抽象思考(概念世界)」は「歌論 /仏教思想」で、「キリスト教神学」が「ペルソナ」に、「歌論」が「クオリア」に関係してくる、と書いた。
 もしそうだとすると、例の「クオリア─志向性─言語─ペルソナ」の残り二項のうち「志向性」が「仏教思想」に、「言語」が「自然科学」に関係し てくることになる。と、無理やり考えてみる(「関係してくる」とは、曖昧な物言いだが)。
 これらのことと、「備忘録1」の最後に書いたこと──「クオリア=実証思考(感覚世界)+実存(エネルゲイア)」「志向性=抽象思考(概念世 界)+本質(デュナミス)」「言語=実証思考(感覚世界)+本質(デュナミス)」「ペルソナ=抽象思考(概念世界)+実存(エネルゲイア)」── を重ね合わせてみる。
 その上で、たとえば歌論は「クオリア(物の心)」と「言語(表現された心)」との関係を「志向性(歌の姿)」や「ペルソナ(歌の心)」を媒介と して探求するものであり、仏教思想は「志向性(言語道断、不立文字の不思議界=実相)」と「言語(現象界=諸法)」との関係を「ペルソナ(空)」 や「クオリア(色)」を媒介として探求するものである、等々のまことしやかな「仮説」をでっちあげてみる。
 自然科学(自然現象を法則=数学言語で表現)やキリスト教神学(初めに言葉ありき)についても、同様の思いつきをいろいろと考案してみる。
 さらに、歌論を基点に連歌論や俳論、芸能論、とりわけ能楽論へと視野を広げ、リアルな身体(老体・女体・軍体)とイマジナリーな仮面(ペルソ ナ)、アクチュアルな生者(ワキ)とヴァーチュアルな死者(シテ)の四項をめぐる「複式夢幻」モデルを打ち立ててみる。
 仏教思想や自然科学やキリスト教神学についても、同様の思いつきをいろいろと考案してみる。
 無茶苦茶なことを書いているのは重々承知で、それでも、そんな概念の積み木遊戯を繰り返しているうち、ひょっとしたら誰も考えたことのない「問 題」が炙り出されてくるかもしれないし、本物の「理論」が立ち上がってくるかもしれないと思う。それだけはやってみなければわからないではない か。

★2月11日(日):脳もまたイマージュである

 「クオリアとペルソナ」の方は、先週いっぱいかかって、第1回「哥とクオリア」の三分の一ほど書いたところ。予想外に長くなってしまって、と いっても半分以上は引用か祖述、残りの半分は言い訳か予防線かせいぜい伏線のようなゴタクばかりで、書いていてもまるで気分が紅葉、いや高揚して こない。第一、発見がない。
 永井均著『西田幾多郎』の議論を歌論にひきつけて読むという趣向なのだが、だからどうなの、という声が自分のなかから聞こえてきて嫌になる。だ から「備忘録」の続き、抽象理論篇に対する実証篇(素材蒐集と問題集)もまるで書く気になれない。だからしばらく中断して英気を養うことにした。 そのまま終わってしまうかもしれないが。