歌論的世界へ (2005.9-12)
★9月17日(土)
坂部恵著『モデルニテ・バロック』の最後に収められた「日本哲学の可能性」を読んだ。名著『ヨーロッパ精神史入門』のコンパクトな要約と日欧の
精神史的転換期の要を得た比較は鮮やか。「霊性の基盤」(9世紀)、「個(体)の思考」(14-15世紀)、「モデルニテの時代」(欧
1770-1820,日1850-1900)、「1960年代以降」の四区分は年代記としてではなく一つの観念の生長のプロセスとしても活用でき
る。その背景に潜む経済史的転換への目配りが素晴らしい。経済史─精神史的考察。哲学の「制作」と「精神史的リソース」の活用。この二つの語彙が
強く印象に残った。以下、若干の抜き書き。
◎「科学と芸術のうちに(潜在的に)生きる哲学的思索にセンシティヴになることは、今後の哲学とリベラル・アーツ精神の発展のために何よりも肝要
なことといってよいだろう」(237頁)。
◎「霊的修業のマニュアル」(244頁)という一面を多分にもつエリウゲナや空海の「後の制度化されたキリスト教や仏教の枠におさまり切らぬ大胆
さをもち、個人とその連帯の、垂直の超越的かかわりをはらんだ原点を指し示す」思索は、「たとえば、西田とエリウゲナの発想の近縁関係が指摘され
たりもするように、(一九世紀的な国民国家の枠組みなどとははじめから無縁な国際性をもち)、今日なおあらたな思索を挑発して止まぬ精神史的リ
ソースとして生きつづけているといえるだろう」(245頁)。
◎「個(体)の思考」と括られた転換期は「伝統的共同体の絆の弛緩にともなう個の析出と孤立へのレスポンス」(246頁)という性格をもつ。この
時期の日本における「他の個と垂直の超越の絆を介して連帯する個という思想の掘り下げ」は同時期のヨーロッパに十分ひけをとらないほど活発だっ
た。しかし「この連帯の面での徹底が、かえってアトム的な個をまず擬制的に析出して(後の社会契約論にいたるまで)しかるのちに連帯と謝絶(抵抗
権等)のありようを考察するノミナリズム的な社会哲学の内発的展開をむしろ阻害するようにはたらいた可能性」がある。この「共同体的連帯の重視」
という側面が速くも『神皇正統記』で原理主義的イデオロギー化の方向を見せ、明治から昭和の最初の二十年までの共同体の思考に暗い影をおとすこと
になった。「しかし、一方で、西田から西谷にいたる現代日本の哲学者の多くが、共同体の問題を垂直の絆を含めて、ということは宗教(哲学)の考察
を必須の到達点として思索していることは、日本の精神史的リソースのもつポジティヴな要素として評価することがすくなくとも可能だろう」(247
頁)。
◎「リベラル・アーツ的な伝統ということをいえば、この時期[「個(体)の思考」の時期]の歌論(詩論において空海はその先駆者でもあった)、連
歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」
(247-248頁)。
★9月21日(水)
坂部恵『モデルニテ・バロック』に「リベラル・アーツ的な伝統ということをいえば、この時期の歌論、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本
におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」とあったのにいたく刺激を受けたことは先日
(9月17日)書いた。「この時期」とは14世紀から15世紀にかけての中世日本のこと。ネットで調べてみると、この時期の主要な歌論としては二
条良基[1320-1388]の「近来風体抄」、正徹[1381-1459]の「正徹物語」、心敬[1406-1475]の「ささめごと」があ
る。岩波文庫の『中世歌論集』にはこの三篇のほか藤原俊成「古来風体抄」や藤原定家「近代秀歌」や「後鳥羽院御口伝」など計十一編が収められてい
て便利だが、残念ながら品切れ。田中裕(丹仙)さんの「桃李歌壇」、「主催の部屋」の掲示板「連歌論・能楽論」で「心敬を読む」というプロジェク
トが進行している。「ささめごと(天理本)」の原文も掲載されている。まずはこのあたりから初めてみるか。
正徹と心敬、世阿弥と禅竹。この二組の関係は併行していると誰かが書いていた。心敬と禅竹は「禅」でくくれるということらしい。松岡心平さんが
『世阿弥を語れば』の松岡正剛との対談で、観阿弥、世阿弥、元雅もしくは金春禅竹の三代の天才がつづかないと能楽があの高みに達することはできな
かったと語っている。だとすると、正徹、心敬に先立つのは二条良基か、それとも俊成・後鳥羽院・定家の新古今トリオか。
同じく『モデルニテ・バロック』に、「あわい」は「あう」を名詞化してできた言葉で英訳すると“Betweenness-Encounter
”になるとあり、これは木村敏『偶然性の精神病理』につながるのではないかと一昨日書いた。「タイミングと自己」を読み終えてますますその確信が
深まった。
木村敏は「日本人は、時間という現象を「タイム」という客観化可能な(リアルな)「もの」として理解する以外に、タイムがアクチュアルに「タイ
ムする」、その一瞬の微妙な動きを「タイミング」として捉える特別な感覚に古来長けていたのではないか」(111頁)と書いている。またタイミン
グを「意識と無意識、個人の人称性と個人を超えた匿名性、時間と自己、時間と生命などがたがいに触れ合う界面的な次元」(121頁)に位置づけ、
「自他の界面現象としてのタイミング」と表現している。
この「タイミング」は潮時とか間合いといった複数の日本語におきかえることができそうだが、歌論、連歌論などを読むとそのものズバリの言葉が見
つかるかもしれない。「症例」に出てくる患者の言葉に「フライング」がある。「人と話していても間がもてなくて、全体の雰囲気よりも早めに出てし
まう。いつもフライングしている感じ」。日常語に「舞い上がる」とか「(場の雰囲気から)浮いている」があるが、これもまた連歌論、能楽論あたり
に適切な語彙が見いだせるかもしれない。
★9月24日(土)
精神史的リソースとしての中世芸道論研究のための文献を探しに図書館をはしごした。どれだけ読めるかはともかく、雰囲気をもりあげるための七冊
を選んで持ち帰った。ドナルド・キーン『日本文学の歴史5 古代・中世篇5』(連歌の章を含む)、草月文化フォーラム編『日本のルネサンス
(上)』(松岡心平・大岡信他の鼎談「寄合の芸能」を含む)、酒井紀美『夢語り・夢解きの中世』『夢から探る中世』、松岡心平編『世阿弥を語れ
ば』、網野善彦・宮田登『神と資本と女性──日本列島史の闇と光』(書名に出てくる女性・資本・神は『レヴィ=ストロース講義』の性・開発・神話
とパラレルだ!)、大岡信『うたげと孤心──大和歌篇』、丸谷才一『日本文学史早わかり』(講談社文芸文庫)の八冊で、いずれも一度か二度目を通
したり書店で立ち読みをしたものばかり。
図書館からの帰りにカフェに寄って『神と資本と女性』の第一章「資本主義の考古学」を読んだ。三浦雅士が聞き手になって網野善彦が語るインタ
ビュー。印象に残った発言を抜き書きしておく。
《マルクスの偉いところだと思うのは、研究の領域をどんどん広げ、それとともにその言説自体を変えていく点ですね。「共同体」について、資本主義
が発展していく過程で、どのように苦痛を伴う悲惨なことが起ころうと、アジア的、インド的な停滞を支えた共同体は壊れたほうがいいと言っているの
ですが、晩年、ロシアのことを勉強すると、共同体は社会主義の基盤になりうるかもしれないと言いはじめるわけです。(略)マルクスの好きな、「な
べて理論は灰色、ただ緑なす現実こそ豊かなれ」という言葉は私も大好きですね。》(19頁)
《生産物を商品にするということは、人間の力の及ばない世界に投げ込むことことなんですよ。市庭[いちば]というのはそうした場です。商品、貨
幣、資本の問題は本質的には人間の社会の最初、原始時代から考える必要があると思います。交換は人類の本質に関わる問題ですから。しかし、日本で
は、少なくとも都市が広範に形成される十四世紀ぐらいから、社会体制と関連させて考えなければならないでしょうね。「資本主義」はすでにその頃か
ら始まっているともいえます。》(37頁)
網野善彦がいう「十四世紀」は、坂部恵の(四つの)「精神史的転換期」の第二期、つまり「個(体)の思考」の時期(日欧ともに14-15世紀)
と重なる。丸谷才一の(五つの)「日本文学史の時代区分」にいう第三期にすっぽりとおさまる。ここで坂部(□)・丸谷(△)の時代区分を重ね合わ
せてみる。坂部の「霊性」が丸谷の「呪術性+色好み(エロティックな感受性)+政治」(宮廷文化の特質)と響き合う。(日本文学史における「垂直
性」の次元は中国に相当するのだろうか。)
△第一期「八代集以前」(?──9世紀なかば)
□「霊性の基盤」(日欧ともに9世紀)
△第二期「八代集時代」(9世紀なかば──13世紀はじめ)
△第三期「十三代集時代」(13世紀はじめ──15世紀すゑ)
□「個(体)の思考」(日欧ともに14-15世紀)
△第四期「七部集時代」(15世紀すゑ──20世紀はじめ)
□「モデルニテの時代」(欧1770-1820,日1850-1900)
△第五期「七部集時代以後」(20世紀はじめ──?)
□「1960年代以降」(日欧共通)
『日本文学史早わかり』は標題作と「歌道の盛り」の二つのエッセイを読んだ。昔読んで深い感銘を受けた記憶がある。新しい関心のもとで読み返す
と、あらためて新鮮な感興を覚える(「夷齋おとしばなし」というエッセイも収められていて、かつての石川淳狂い再熱の予感におそわれた)。標題作
からは、詞華集的人間(「アンソロジー・ピース」を参考に造語した丸谷手製の「アンソロジー・マン」の訳語,68頁)とか「宴遊、社交、そして室
内装飾としての」実用的な詩(70頁)などの概念を蒐集できた。以下、標題作から「場と縁」に関係しそうな箇所を二つ抜き書きしておく。
《この時代[十三代集時代]に連歌が盛んになつたのは意義深いことで、それは第一に、三十一音の和歌以外の詩形を日本文学にもたらした。そして第
二に、和歌が挨拶としての機能を失ひ、孤独な藝術になつた寂しさを補ふやうにして、社交性や遊戯性や即興性を詩に回復した。それは集団の制作で、
露骨に共同体的な詩であつた。しかし皮肉なことに、この共同体の詩は詞華集に向かなかつたのである──『菟玖波集』『新撰菟玖波集』と准勅撰が二
つも生まれたにもかかはらず、われわれはこれらの連歌集を読んだとて、ほとんど、連歌のおもしろさを解することができない。》(60頁)
《非常に図式的な言ひ方をすれば、横の方角に共同体があり、縦の方角に伝統があるとき、その縦と横とが交叉するところで詞華集が編纂され、そして
また読まれる。といふのは、われわれは伝統を所有する際に、孤立した一人ひとりの力で持つことは不可能で、共同体の力によつて持つからである。孤
立した個人にさういふことができるといふのは、ロマンチックな妄想にすぎないだろう。事実われわれは、そのことの不可能をいはば無意識的に知って
ゐるゆゑに、もうずいぶん長いあひだ、詞華集を持つことを実質的には諦めてゐるのである。つまりわれわれの文明と文化は共同体的なものを失つてか
らすでに久しい。そしてそのことがどういふ弊害をもたらすかと言へば、いちばん歴然としてゐるのは言葉の衰弱である。言葉は過去から伝はつて来た
力を失ひ、社会を築くことをやめてしまつた。》(85-86頁)
文庫版の巻末に寄せられた「著者から読者へ 二十八年後に」も面白い。王朝和歌=藤原定家とエリオット=ジョイスを結ぶ線として、「正徹の歌論
を介して日本の文藝理論がモダニズムの批評に近いことを感じとったとき、文学における伝統の重要性がきびしく迫ってきたのである」(221頁)と
述懐しているくだり。(ここでの文脈とはまるで関係ないが、『中世芸能を読む』の「連歌的想像力」の中で松岡心平が紹介している正徹の言葉が面白
い。「骨髄に通じて面白きなり」98頁)
もう一つ。私(丸谷)の日本文学史は「朦朧たる観念語によつて述べられるのではなく、具体的な物件によつて表現されることが望ましい」。その
「物件」とは勅撰集のことで、「それは一方においてわが文学における宮廷文化の重要性を示し、他方、『古事記』から谷崎潤一郎に到る系譜が個人主
義の所産ではなく共同体的な性格のものであることのしるしとなる、と感じられた」(223頁)。
※
買ったままの本・読みかけの本・買ったことさえ忘れていた本・読みかけだったことを忘れていた本が山積みになっているので、しばらく新刊書は買
わずにおこうと心に決めていたのに、この二日で四冊の文庫、新書を買ってしまった。
松岡正剛『フラジャイル──弱さからの出発』。この人の文庫本は『遊学Ⅰ』『遊学Ⅱ』『花鳥風月の科学』がいずれも囓りかけのままになっている
(『ルナティックス』は買い忘れていた)。『花鳥風月』は「山」「道」「神」「風」「鳥」の基礎篇まで読んでいて、これから「花」「仏」の応用
編、「時」「夢」「月」の本質篇へ進もうかというところで中断していた。この人の文章は刺激的な情報がぎっしりつまっているのに淡泊で平明で、そ
の平明さが読み進めていくうちに眠気を誘うところがあって、一気に読み通すことができない。『フラジャイル』は前から一度読みたいと思っていた。
あとがきに出てくる「勝者の演劇性よりも弱者の物語性」という言葉が気になる。高橋睦郎さんの解説「弱々しくあることの勧め」に、松岡正剛の興味
の向かう範囲は広範だが、その興味の持ちかたはエウクリデスの天体図と桑田佳祐の新曲とでまったく同じ比重なのだ、その平等ぶりは地上に降りた人
の子の「神の目」的平等とでも呼びたくなる体のものだと書いてあった。松岡正剛の文書がもつ独特の「平板さ」のよってきたるところを的確に表現し
ている。
荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅──歌われた幻想の地へ』。神戸の図書館で歌論、連歌論関係の本を物色しているうち、最近店頭でみかけて思わず手を
出しそうになったことを思い出した。で、結局買ったわけだ。「歌枕にうたわれた土地は実在しない」。歌枕とは「現地へ行かないで現地の雰囲気を出
すための文学的発明品」である。だから「行く必要のない歌枕を、あえて旅するということはつまり、歴史的であり同時に霊的な巡礼へのいざないで
あった」。昨年暮れに出た明石散人・篠田正浩『日本史鑑定──天皇と日本文化』ともども、中世芸道論研究の副読本として(いつかそのうち)読も
う。
★9月27日(火)
坂部恵の日欧精神史的転換期の説と丸谷才一の早わかり日本文学史の組み合わせが頭の中でどんどん増殖していく。
ミシェル・ウエルベックが『素粒子』
で提唱し中沢新一が『カイエ・ソバージュ』シリーズでとりあげた三つの形而上革命(一神教革命、科学革命、そしていまだ到来しない第三次形而上革命)と組
み合わせてみたり、ゾーエー的・種的な「霊性」とビオス的・個的な「魂」、無意識と意識、システムと情報(養老孟司)、共同体=水平軸と伝統=垂
直軸(丸谷)といった二つの概念、ヘーゲル=パースのイコン・インデックス・シンボルやヘーゲル=ラカンの現実界・想像界・象徴界という三つ組み
の概念(声・顔・身という「仮面的なもの」の三つの形象、レヴィ=ストロースの性・開発・神話的思考、等々)その他諸々の概念や観念や形象を重ね
合わせたりしているうち訳が分からなくなっていく。
想像界は性と食の世界である(三浦雅士『出生の秘密』)。だとすると、勅撰集の部立てが四季歌と恋歌中心であること(『日本文学史早わかり』)
と大いに関係してくる。農書と歌論という「研究対象」にも近づく。そこに貨幣・金融・資本論をどう組み合わせるか。これはほとんど独語的覚書。
松岡心平『中世芸能を読む』の熟読を再開した。勧進・天皇制・連歌・禅の四つの切り口から中世芸能を読む。この四区分はとても汎用性がある。抽
象化して整理すると、勧進と天皇制は「貨幣(経済・市庭)」、連歌と禅は「言語」の項で括ることができる。また、勧進と連歌は「身体」、天皇制と
禅は「精神」の項で括ることができる。でもこれは平板。面白くない。
勧進(経済)がひらく聖俗のあわい=無縁の時空・磁場、そのエネルギーを天皇制(政治)が活握し(「活握」はたしかマイケル・ポラニーの『個人
的知識』で harness
の訳語として訳者・長尾史郎が造語したもの)、芸能(民衆の身体)と連歌(言葉の宴)が駆け抜け、禅(脱神話・脱思考・脱言語)が脱構築する。何をいって
いるかよく分からないが、弁証法的というのでも進歩・進化というのでもない連鎖、推移としてこの四項を数珠繋ぎにしていくこともできる。推移して
いくのはもちろん概念・観念・形象である。これらもまた独語的覚書。
インターネットで「松岡心平」を検索して『有鄰』(No.437)掲載の「世阿弥と金春禅竹――『精霊の王』を読んで――」を再発見した。これ
は以前いたく刺激をうけた文章。そこで松岡心平は「スピノザが、デカルトの精神と物質の二元論哲学(現代のわれわれの思考のベースである)に強く
反発することで、極端な一元論へと傾斜していったプロセスとよく似たことが、世阿弥と禅竹の間におこっている」と書いている。『精霊の王』から関
連する引用があったので孫引きしておく。
《スピノザの哲学が唯一神の思考を極限まで展開していったとき、汎神論にたどりついていったように、金春禅竹の「翁」一元論の思考も、ついにはア
ニミズムと呼んでもいいような汎神論的思考にたどりつくのである。
これほどの大胆な思考の冒険をおこなった人は、数百年後の折口信夫まで、私たちの世界にはついぞあらわれることがなかった。》
★10月1日(土)
講談社学術文庫の二冊、小西甚一『中世の文芸──「道」という理念』(もともと『「道」──中世の理念』の書名で現代新書から刊行されていたも
の)と折口信夫『日本藝能史六講』を至急手元におきたくなって書店をはしごしたがみつからず、ふと目についた高橋睦郎『読みなおし日本文学史──
歌の漂泊』を購入。歌びとは神の代行者、神の言葉を語る口寄せとしての巫者の後裔であった。すなわち日本文学の原点は歌であり、歌とは本来神の歌
だった。面白い。二年前に出た『十二夜──闇と罪の王朝文学史』もあわせて読みたい。
★10月4日(火)
坂部恵『モデルニテ・バロック──現代精神史序説』読了。「バロックとは…モデルニテと通底してひとつの時代のおわりに立ち会いつつある者の生
と思考のスタイルにほかならず、一方でビザンチンや中世の水脈につながりそれらの見直しと再評価をうながすものとして、千年単位の歴史の展望と見
直しへとおのずからわたしたちを誘うのです」(53頁)。名著『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』の続編ともいうべき本書
は、西欧日本を通底する千年単位の精神史的水脈のうちに近代日本のモデルニテの帰趨を位置付け、来るべき日本哲学の可能性を一瞥する誘惑の書であ
る。
著者の眼差しはパランプセストのように重ね書きされたスピリチュアリティーとポエジー、そして形而上学的思索の歴史を垂直の次元で切断し、そこ
に出現する「あわい
betweenness-encounter」を自らの身と感性と言葉でもってアクロバティックにつないでいく。エリウゲナと空海。ニコラウス・クザーヌ
スと一条兼良。『神曲』と『愚管抄』。あるいは「同時代人」としてのベンヤミン(1892~1940)と萩原朔太郎(1886~1942)、そし
て九鬼周造(1888~1941)。
《モダン・バロックのアレゴリーに深い理解と共感を寄せたベンヤミンのアレゴリー論と、朔太郎と九鬼におけるアレゴリーの位置づけを比較対照して
みれば、そこに時代精神のありかたとその文化的伝統に応じての偏差というべきものが浮かび上がってくることでしょう。/ある意味でモダン・アレゴ
リーに対応するものとして、二人が興味をよせた「いき」も蕪村も、いずれも日本の文化史におけるバロック・タルディーフ、遅咲きのバロックと称す
るべき現象でした。日本のバロックを、よくいわれるように、室町から安土桃山にかけての時代に認めるとき、この領域にたいする二人の関心の欠如な
いし薄さをどう理解すべきでしょうか? このあたりについて考えてみることが、「実存主義」の理解にはね返るとすれば、それは、どのような形を
とってはね返るでしょうか?》(79-80頁)
本書には多くの謎と挑発が仕掛けられている。無尽蔵の刺激と創見が言い切られることのない断片隻句のうちに鏤められている。
★10月5日(水)
松岡心平『中世芸能を読む』読了。以前熟読した三章「連歌的想像力」はとばして、一章「勧進による展開」と二章「天皇制と芸能」と四章「禅の契
機─バサラと侘び」を玩味した。天皇制と禅をめぐる部分はやや物足りない。というか、打てば響く実質が読み手の側にまだ備わっていない。何度も繰
り返し熟読すべし。(天皇制については明石散人・篠田正浩『日本史鑑定──天皇制と日本文化』を参照すべし。明石散人の日本史鑑定シリーズは妙に
そそられる。)
とりあえず現時点で注目していること。禅と連歌に通底する「スピード感覚」について、二条良経(『筑波問答』)の「連歌は前念後念をつがず」
云々をふまえ松岡心平いわく「連歌においては、前の意識と後の意識はつながらない。(略)それは、前後を切断して絶対の今を生きる、あるいは今か
ら今へと非連続に一瞬、一瞬を充実して生ききろうとする禅の態度にきわめて近い。しかも、連歌は一句ごとに思わぬところへ転回していく…、連歌の
世界は飛花落葉の、つまり有為転変の無常のこの世そのものを文芸として表現しているとみることができる」(171-172頁)。このスピード感、
バサラの世界が「日本で最初に禅を芸能に取り入れた」(140頁)後期の世阿弥にいたるや「外に出さず抑制した中に芳醇を目ざす、逆説的な表現の
美学」(191頁)に到達するというアクロバティックな逆説。
※
小西甚一『中世の文芸』を探してジュンク堂三宮店へ。めあての本はみつからず、桑子敏雄『西行の風景』と尾形仂(つとむ)『座の文学──連衆心
と俳諧の成立』を購入。昨日買った京阪神エルマガジン社の『ミーツ・リージョナル』11月号(特集「街の人はみな本好きだった。」)を手引きに、
いよいよ古本屋詣でを始めるか。
『西行の風景』は前々からいつか読むべしと思っていた。『環境の哲学』を読み終えてからと思っていた。はじめにとあとがき、そして第一章を通読
して、いまこそ読むべき時であると確信した。和歌即真言の思想。《空間とは「虚空」である。つまり、大空であるが、虚空は、西行が帰依した密教で
は、存在するものの真のすがたである。その虚空に出現する風景を心に映じたままに日本語で詠うこと、これが西行のもとめた「道」であった。このよ
うな西行の思想を一言でいえば、「空間と言語の思想」ということができるであろう。》(3-4頁)
大岡信の解説「実証と想像力」によると、『座の文学』は重厚堅固な学の要塞で全部読み通すのに何日もかかる畏怖すべき著述である。「堅固きわま
る実証と、それを背景とする奔放な想像力の跳躍、そしてその跳躍の必然性を納得させる新たな実証──尾形さんの学問の基本は、常にこの二つの力の
ダイナミックな交錯の上に成り立っている」(377頁)。ここでいわれる「想像力」の一例として大岡信が拾っているのが、夏目漱石『行人』の題名
は芭蕉の「此道や行人なしに秋の暮」を本句どりした蕪村の「門を出れば我も行人秋のくれ」から採ったものではあるまいか、というもの。
話は本題からはずれるが、実証思考と対になるのは(想像力ならぬ)抽象思考であるというのが養老孟司説。西欧におけるキリスト教と自然科学。日
本における仏教思想と……。『日本人の身体観』(日経ビジネス人文庫)の第四部「中世の身体観」に収められた「仏教における身体思想」に次のよう
に書かれている。
《要は、わが国にも西欧にも、同じように抽象思考があり、その思考の形式に従って、「解毒剤としての実証思考」が成立するのではないか。もしそう
だとすれば、わが国の実証思考を知るためには、わが国の抽象を支配する思考すなわち仏教を知らなければならない。ところが、面白いことに、仏教と
いう抽象思考については、書かれたものがたくさんあるのだが、実証思考の方は、この国では「思想」として表明されない傾向があることが注意され
る。》(231頁)
以下は私の仮説にすぎない。養老孟司さんがいう日本の実証思考は、歌論、連歌論、能楽論、俳論の類においてかろうじて「思想」として表明されて
いるのではないか。例証(実証)その一。同じく「中世の身体観」に収められたもうひとつの論考「中世の身心」に、「私は、東洋の古い文献で脳を論
じたものを知らない。「髄脳」ということばはある。しかし、これを表題にした書物は、要するに歌論書である」(266頁)というくだりがでてく
る。『日本古典文学全集50 歌論集』(小学館)巻末の「歌論用語」に、髄脳(ずいのう)とは「詠歌の法則、心得、秘説、またそれらを記した書
物」とある。『八雲御抄』には「五家髄脳」として『新撰髄脳』(藤原公任)『能因歌枕』『俊頼無名抄(俊頼髄脳)』(源俊頼)『綺語抄』『奥義
抄』があげられているとも。
先に引用した文章のすぐ後に「ところで中世の文献では、心ということばが頻出する」(267頁)とあり、養老孟司さんは続けて鴨長明の「あれば
いとふそむけばしたふ数ならぬ身と心との中ぞゆかしき」(「千人万首」[http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-
ymst/yamatouta/sennin.html]の通釈によると、「生きていればそのことを厭い、現世を背こうとすれば慕わずにはいられ
ない。数にも入らないような我が身と、それを厭ったり慕ったりする心と――二つの間柄はいったいどうなっているのか、知りたいものだ」)が、そし
て「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」他の西行の歌が引用される。「心の艶」を連歌論の鍵語とした人物はその名も心敬とい
う。
例証その二。荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅』(知恵の森文庫)に歌合[うたあわせ]の判定をめぐる話題がでてくる。荒俣宏いわく「歌合とは、歌と
歌をぶつけあう歌の相撲である」(40頁)。今日ならさしずめ「詩のボクシング」といったところだろう。ところで歌の良し悪しを判定するとはどう
いうことか。藤原清輔『袋草子』下巻「三十講歌合」に、赤染衛門の「かへるべきみちもとほきにかはづなくさはべにひをもくらしつるかな」に評者の
藤原義忠朝臣が下した判定が記されている。蛙が夕暮れから鳴きはじめるものと知りつつ、沢辺に一日いたという。フィクションくさいので負け。
荒俣宏いわく「研ぎ澄まされた美と雅の感性だけをもって、神のように「こっちが文学的にすぐれている」と託宣するのか、と思っていた。理屈とい
うより師匠の趣味によって判定するものと信じていた。ところが実際は、歌の良し悪しを博物学的知識によって決していたのである」(42-43
頁)。また「歌をつくるということは、まこと、文学である以上に理学に近い。数学や法律学に近い。そう、思った。そういうわけで、わたしは歌合の
発見から、ようやく歌の理論すなわち歌学に興味をもつようになった」(45頁)。歌学は科学(博物学・理学)に通じる。
★10月6日(木)
毎月6日の人社講の第二回目。神が宿るのではない、存在が神なのだ。宗匠の弁天さんの命題。この言葉を知ったことが第一の成果。第二の成果はケ
ルト熱が再発したこと。
坂部恵さんの「日本哲学の可能性」(『モデルニテ・バロック』)によると、西欧日本を通じた第一の精神史的転換期(9世紀、霊性の基盤)を代表
する思想家はエリウゲナと空海で、この二人の並行性は多岐にわたるが、その一つはかれらの思想のなかに「民衆のメンタリティーのなかに生きてはた
らく思想や霊性と通底するところ」があったこと。修業時代の空海が日本古来の山岳修業者の伝統とかかわりをもったこと。アイルランドに出自をもつ
エリウゲナの思索にケルトの想像力、構想力と通底するところがあったこと。ケルトの霊性と日本の霊性。このあたりのことは永久保存本、鎌田東二
『宗教と霊性』を再読して確認しておこう。手元においておきたくて二冊買った坂部恵『仮面の解釈学』もあわせて読んでみることにしよう。
※
田中優子さんのホームページで遊んでいて「連とは何か」のページをみつけた。これはずっと以前にも見ているはずだが、あまり記憶に残っていな
い。田中優子さんはそこで、日本の「連」(Forum)の起源は二つの方向から考えられると書いている。一つは連歌。歌垣や宴、歌合の例にみられ
るように古来から「集まって歌を作るのは自然なことだった」。いま一つの起源は農村の社会構造。ここは大事なところなので丸ごとペーストしてお
く。(歌論と農書の研究。このふたつが一つにつながった。)
《日本の村は「村」を最小単位とするものでなく、多数の小グループが複雑に交錯し合って村を形成していた。それらは機能によって「座」「講」
「組」「結」「中」と呼ばれていた。その中の「講」は仏教の布教にともなってできた全国ネットワークをもつものであり、村は小グループによって外
の村とつながっていた。また農村の「一揆」のグループと連歌のグループとは重なることがしばしばであった。町の運営の単位もこの構造に似せて作ら
れていた。》
ついでに先月末、半日ほどかけてインターネットで遊んだ「成果」の一端をペーストしておく。
その一。「独人のささめごと」というページに「心敬の連歌論について」の序論と第1章(「艶なる道」としての歌道)が掲載されていた。心敬は
『さゝめごと』第三九段で「誠に世にみちてよりは、心たかく情けふかき道は絶え侍るにや。ひとへに舌の上のさへづりとなりて、胸の修行は跡なく侍
るやらん」と書いている。和歌連歌同一、仏道歌道一如の説はここに由来する。独人氏は心敬の連歌論のキーワードを「(心の)艶」と定め、その解釈
論を展開している。
《「心の艶」の「心」とは、<句の心><作者の心><鑑賞者の心>という三つの「心」において考えられるのだが、「まことに艶なる句」とは、これ
らが全て「艶」なるものであるとき初めて成立すると言えるだろう。まず<作者の心>は当然「艶」でなければならない。そうでなければなければ、色
どりに囚われて「ざうきの入れこ」や「町あしだ」に憂き世を見出すこともないし、その場合には「胸のうち」の魅力として賞賛されることもない。そ
して「艶」なる<作者の心>から詠み出だされた句は当然「艶」なる<句の心>を持つことになる。この<句の心>は、「艶」なる<作者の心>の一事
例としての具体化である。ところが、この両者の「艶」をまことに「艶」なるものとして理解できるのは、それを「艶」と見ることのできる「艶」なる
<鑑賞者の心>のみである。即ち、「艶」なる<鑑賞者の心>によって「艶」なる<作者の心>が推し量られ、共有されるからこそ、「まことに艶なる
句」は「まことに艶なる句」たり得るのである。その意味で「まことに艶なる句」とは、「艶」なる<作者の心>と「艶」なる<鑑賞者の心>とが一つ
となることによって成立する、双方の「心の艶」の共鳴の産物と言えるのである。(中略)歌道はまさに「艶なる道」でなければならなかった。この
「艶なる道」こそは、「艶なる歌人」が「心の艶」を共鳴し合い、「まことに艶なる句」を詠み交わす道として、心敬の求めるまことの道に他ならな
かったのである。》
その二。田中裕さんのブログ「プロセス日誌」に「プロセスの詩学─座の文藝に関する考察」という興味深い論考が掲載されていて、その四「連歌に
おける相互主体性」に次の文章が出てくる[http://blog.goo.ne.jp/eigenwille/e
/43c8bd3961707879fadf26e91b35b5f7]。
《連歌の美的理想をもっとも体系的に述べたのは中世の芭蕉とも呼ばれる心敬である。彼の主著、『ささめごと』は、多くの点に於いて蕉風俳諧を先取
りする議論がなされている。とくに
親句は教、疎句は禅、親句は有相、疎句は無相、親句は不了義、疎句は了義経。
というごとく、仏教哲学の用語を以て連歌の理念を述べている点に特色がある。
心敬の歌論では、「疎句附け」が連歌の醍醐味とされている。それは、禅問答に典型的に表されるような独特の対話的精神の発露であり、連歌の附合
の呼吸を表現するものであった。》
同じく「連歌の美学的考察」[http://blog.goo.ne.jp/eigenwille/e
/8d40c4f4a49e643c4dd67abc58f8a294]に「親句は教、疎句は禅」という心敬の言葉をめぐる考察があって、最後に
三句切れ疎句表現の例として寺山修司の「マッチするつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」がとりあげられている。
《これは寺山の代表作ですが、上句はある雑誌に出ていた俳句を寺山が借用したというので問題になりました。私の見るところでは、この短歌はもとの
俳句とは別のものとして鑑賞されねばなりません。この短歌の詩情は、上句だけにあるのでも下句だけにあるのでもなく、両者がある緊張をはらんで対
峙している疎句付の関係にあります。 こういう種類の詩情こそ、連歌が追い求めているところのものに他ならないのです。》
その三。親句・疎句を検索していて(こんな基本用語を知らなかった!)、小池正博という人の「連句から見た迢空と茂吉」に出合った。斎藤茂吉の
魅力は疎句にある。たとえば「たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり」(『赤光』)。この歌をめぐる二つの評言。
《常に俳諧に親しんでその潜在意識的連想の活動に慣らされたものから見ると、たとえば定家や西行の短歌の多数のものによって刺激される連想はあま
りに顕在的であり、訴え方があらわであり過ぎるような気がするのをいかんともすることができない。斎藤茂吉氏の『赤光』の歌がわれわれを喜ばせた
のはその歌の潜在的暗示に富むためであった。》(「俳譜の本質的概論」『寺田寅彦随筆集』第三巻、岩波文庫)
《鳳仙花と上海動乱、このニ物衝撃、二者の意外な出会によって生ずる美的空間は、近代短歌の中でも、『赤光』一巻の中でも、瞳目に値しよう。はっ
とするくらゐ新しい、緊張と戦慄を伴った短歌など、かつて誰が予想し、誰が実践して見せてくれたらう。別にロートレアモンやブルトンを担ぎ出すこ
とはない。しかし、短歌では、ふと彼らを想起したくなるほど画期的な作品ではあった。そして、今日見てもなほ、別の問題を提出してくれさうだし、
少しも古びてはゐない。》(塚本邦雄『茂吉秀歌「赤光」百首』講談社学術文庫)
親句の例。釈超空「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を 行きし人あり」(『海やまのあひだ』)。この作品に対する自注。
《山道を歩いてゐると、勿論人には行き遭はない。併し、さういふ道に、短い藤の花房ともいふべき葛の花が土の上に落ちて、其が偶然踏みにじられて
ゐる。其色の紫の、新しい感覚、ついさつき、此山道を通って行った人があるのだ、とさういふ考へが心に来た.もとより此歌は、葛の花が踏みしだか
れてゐたことを原因として、山道を行った人を推理してゐる訳ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するやうな表現をとる場合も多いが、それ
は多くの場合のやうに、推理的に取り扱ふべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌ったので、
今も自信を失ってゐないし、同情者も相当にあるやうだが、この色あたらしの判然たる切れ目が、今言った論理的な感覚を起し易いのである。》(「自
歌自註」『折口信夫全集31』中央公論社)
★10月12日(水)
このところ単行本では『西行の風景』と『デカルトの密室』、文庫では『「歌枕」謎ときの旅』と『日本藝能史』と『日本人の身体観』、新書では
『読みなおし日本文学史』と『多神教と一神教』を日々取り替えながら読んでいる。
その『多神教と一神教』に、前二千年紀半ば、楔形文字のメソポタミアとヒエログリフのエジプトとの狭間に群立する小都市国家においてはじまった
「アルファベット運動」(「文字表記を簡素化し数少ない文字種で文章を表現しようという動き」85頁)と「一神教運動」(「神々の吸収合併」87
頁)との関係を指摘するくだりがあった。
《そこ[カナンの地]には、ヒエログリフや楔形文字を生み出した文明にふれながら、ことさら自分たちの経験と記憶を書き記そうともがく人々がい
た。/多種多様な神々が乱立する世界と多種多様な文字がちりばめられた世界。それらをできるだけ少なくすることに意をもちいる人々がいた。ひしめ
きあう神々のなかでもわが民の神を至高の存在とする意識と少ない文字種であらゆることを表記しようとする意識とは底流ではつながっているのではな
いだろうか。一神教運動というべきものがあるとすれば、それはアルファベット運動の精神と共鳴しあうところがあるのではないだろうか。まさしく
「初めに言[ことば]があった。言は神と共にあった。言は神であった」(「ヨハネによる福音書」一・1)というわけである。》(87頁)
ここを読んでいたく刺激を受けた翌日、『読みなおし日本文学史』の次の箇所に出会って刺激は累乗化された。
《わが国には遡って何時と数えることのできない悠久の過去から、歌は口頭で発せられ口承で伝えられてきた。歌は当然、神のものだった。そこに大陸
から文字化された詩が、言い換えれば人間の詩が入ってきた。声で発せられる神の歌と文字に書かれた人間の詩とは、第一印象の上ではまるで別のもの
に感じられたろう。そのうち二つが同質のものらしいと意識されたのちも、歌と詩が同列に置かれることはなかったろう。先進文明の象徴である文字を
伴った詩はかつて歌が坐っていた高みに上げられ、歌は時代遅れのものとして見下されていたろう。/ところが、歌が見直される時が来た。先進文明の
官僚制度を徹底させるためには天皇の権威が不可欠になり、天皇の権威を確立するためには外来の人間の詩より土着の神の歌の方が有効だということが
わかったのだ。そこで天皇はその祖先を歌を持つ神神に仰ぐことにした。祖先に仰いだ神神に歌がない場合には、他の神神から奪って祖先の神神の歌に
した。こうして祖先の神神の歌の力によってこの世の神すなわち現人神となった天皇は、みずから歌を持つとともに他から歌を捧げられた。(以下
略)》(51頁)
※
高橋睦郎『読みなおし日本文学史』について、松岡正剛さんは「千夜千冊」第三百四十四夜に書いている。「日本の文学史はそもそも「歌」を内包し
た歴史であった…。ここで歌といっているのは和歌から歌物語や能楽をへて俳諧におよんだ文学をさしている。」「高橋さんは、ひとつの歌、ひとつの
三味線、ひとつの踊りに、つねに二つのものが揺れ動くものを見ている。…その二つをきりきりと絞っていくと、それが、とどのつまりは「ますらお」
と「みやびお」になるわけなのだ。…実はどんな芸術者の心身のうちにも、この二つに畢竟する何かの二つが揺れ動いているものなのである。高橋睦郎
その人の生き方、また、その言葉の世界も、またそういうものである。それが言っておきたかった。」
百人一首ならぬ「千夜千冊」で遊びはじめると時間がいくらあっても足りない。以下、こころみに「千夜千冊の小窓」から「心敬」を検索した結果を
記録しておく。
◎第九夜:丸谷才一『新々百人一首』
「ああ、こういう仕事こそ自分もいつかは従事し、ひそかに堪能すべき仕事なのだろうと思った。」
「心敬の有心体からは何かと期待していたら、「世は色におとろへぞゆく天人の愁やくだる秋の夕ぐれ」であった。天人五衰の歌。選者はこの歌を正徹
同様に、王朝和歌の弔いの歌として選んだようである。氷の艶はそこまで及んでいたか。」
◎第八十五夜:唐木順三『中世の文学』
「この最後の章で、唐木は次の主題を見出している。それは「無用」とは何か、「無常」とは何か、「無為」とは何か、ということだった。とくに連歌
師・心敬への注目が、そのことを兆していた。」
◎第二百三十三夜:源了圓『義理と人情』
「義理人情は最初から措定されている心情なのではない。行ったり来たり、濃淡をもって動いている。おそらくは見て見ぬふりをしたいのに、それでも
絡みついてくるものなのである。いわば風情の実感なのである。/そこを、むろんのこと学者は俊成や心敬のようには感覚的には書けないし、日本人で
ある以上はベネディクトのように外からの粗い目でも書けない。ついついパターンにあてはめては、それを微妙に調整するようになる。しかし、そろそ
ろそんなふうな見方だけでは“日本流”の説明は不可能なところにきているとも言わなければならない。固定的にとらえない日本人の心情というものも
研究されるべきなのだ。」
◎第三百六十七夜:吉田兼好『徒然草』
「(言葉のチューインガムのように噛み、味噌汁や山葵醤油を噛んで味わうように読みたい本として)和歌俳諧は断然だが、それは省く。たとえば『伊
勢』『枕』『明徳記』『風姿花伝』、心敬の『ささめごと』、『宗長日記』『西鶴織留』『五輪書』『徂徠政談』『茶の本』などがつらつら浮かぶ。素
行の『聖教要録』、真淵の『語意書意』、それに兆民の『一年有半』もいいとおもう。いずれも短くて、濃くできている。文庫でいえばそれぞれ150
ページをこえないだろう。」
文庫でいえば150ページをこえない本というのはとても魅力的で、そのうちいつか坪内祐三『シブい本』のむこうをはった『ウスい本』をしあげた
いものだと密かに目論んでいる。いま手元にある候補(都合により200ページ前後に拡張)をいくつかあげると、『三浦梅園集』(岩波文庫,148
頁)、高木卓『露伴の俳話』(講談社学術文庫,180頁)、幸田文『父・こんなこと』(新潮文庫,193頁)、金子光晴『マレー蘭印紀行』(中公
文庫,171頁)、石川淳『夷齋小識』(中公文庫,180頁)、保坂和志『生きる歓び』(新潮文庫,164頁)。
◎第五百二十夜:村井康彦『武家文化と同朋衆』
「(同朋衆が登場してきた背景として)第3に、すぐれた批評、すなわち評価をする者たちが主として連歌師から生まれていった。正徹や心敬がその批
評を代表するが、兼好法師や鴨長明、あるいは貴族や武家にもそのような評価を重視する風潮が生まれてきた。/ただし、これらの評価者は座の「外」
で生まれたのではなかった。座の「中」に生まれたのである。ここが重要である。すなわちかれらは、座を取り仕切る者であって、かつその評価を文化
にしていく者たちだった。」
ちなみに「同朋衆が登場してきた背景」の第1は、「座」の社会が用意されていたこと。第2は、このような座を"サロンあるいはクラブの場"にし
ながら、そこで「寄合の遊芸」が尊ばれたということ。第4は、それとともに座のなかで「趣向」を重視する傾向が強くなってきたこと。これが「数
寄」の心というものである。第5は、これらの「座の文化」をまるごとプロデュースし、パトロネージュする者があらわれたこと。
◎第九百七十九夜:中沢新一『対称性人類学』
「中沢の対称的思考は美しい。それはラカン的な鏡像過程をいかした思考を文体におきかえているからで、まさに『フィロソフィア・ヤポニカ』でいう
なら西田幾多郎的ではなく田辺元的であり、フェリックス・ガタリ的ではなく、ジュリア・クリステヴァ的である。建築家でいうのならフランク・ロイ
ド・ライトではなくミース・ファンデル・ローエ風だということになるだろう。/それだけではなく中沢の倫理思想は「正しさ」を求めているところが
あって、バリティ(偶奇性)でいうのなら、いわば「偶」を完成するための思想なのである。連歌師にあてはめれば宗祇に近いというところだろうか。
/これに反してぼくはといえば、「正しさ」に関心はなく、「奇」や「負」の本来こそ凝視したいほうなのだ。ライト的であって、西田的であり、連歌
師ならば心敬に近いものがある。それだけでなく社会における人間思考の正当性の根拠律などよりも、人間がついつい逸脱してしまう「ほか」や「べ
つ」が大切だと思っている。中国水墨山水画の価値観でいうのなら、もともと「神品・妙品・能品」が絶賛されていたのだが、これに南の辺角山水が加
わってからは「逸品」が自律してきたような動向にこそ、関心がある。/さらにいうのなら、「正解」よりもデュシャンの「誤植」のほうが好きなの
だ。」
◎第九百九十一夜:松尾芭蕉『おくのほそ道』
「「櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ」は、櫓がきしる音を聞いていると体の奥まで寒さがしみわたるというほどの句意で、そう思えば、「腸氷」や
「氷夜」といった造語はどこか心敬をさえ思わせる。」「「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替
えて動かしたもので、それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」に一歩近づく風情とした。」
◎第千一夜:ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』
「今夜[千一夜目]は、源氏も心敬も啄木も白秋も一穂も三島も入らないし、デカルトもラシーヌもラフォルグもニーチェもドゥルーズも残余されたま
まになる。そのかわりに、今夜はとびきりの宇宙理論についての感想を、思いつくままに書いてみようと思っている。そうすることが、900夜くらい
からずっと続いた東西古典回帰と日本イデオロギー議論をめぐる連打が体におぼえこませた残響を、ハウプトマンの沈鐘に変えてくれるだろうから
だ。」
★10月14日(金)
大阪での仕事を終え阪急東梅田商店街で一杯やって、紀伊國屋書店梅田本店で小西甚一『中世の文芸』と唐木順三『中世の文学』と岩波文庫の歌論集
か歌合集を探したけれどどれも置いてなくて「これでも天下の紀伊國屋か!」と酔った勢いで毒づきながら、それでも何か一冊「記念」にと物色し、い
ずれ読むことになるだろうとふんでいたちくま学芸文庫の安東次男『完本
風狂始末──芭蕉連句評釈』を買い求めて、帰りの電車の中で「鳶の羽の巻」(『猿蓑』)の発句と脇句の評釈を読みしばし陶酔、其角の『猿蓑』序に「彼西行
上人の、骨にて人を作りたてゝ、声はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける」と反魂の法にふれた箇所があるのを知った。帰宅して日々の日課と
なった英語音読と丸谷才一『新々百人一首』、今宵は第53番、後鳥羽院「わたつうみの波の花をば染めかねて八十島とほく雲ぞしぐるる」の註釈を読
みしばし陶酔、我流の真向法のあと「きらきらアフロ」をみて寝た。
★10月19日(水)
半日仕事を休み、小西甚一『中世の文芸』(講談社学術文庫、もしくは現代新書の『「道」──中世の理念』)と唐木順三『中世の文学』と岩波文庫
の『中世歌論集』と勝俣鎮夫『一揆』(岩波新書)を探して古本屋めぐり。三宮サンパルの2階で風巻景次郎『中世の文学伝統』(岩波文庫)、3階
(MANYO神戸三宮店)で小西甚一『日本文学史』(講談社学術文庫)をゲットして退散。前著は昭和15年(ラジヲ新書)、後著は昭和28年(ア
テネ新書)の初刊本を文庫化したもの。風巻景次郎の名は『日本文学史早わかり』にも登場していた。いかにも国文学者らしい名。小西甚一本はドナル
ド・キーンが絶賛した「幻の名著」。文庫あとがきによると、1953年刊のキーン著“Japanese
Literature”には『万葉集』が出てこない。もっと魅力的な作品を採りあげるために割愛されたのだという。「その「もっと魅力的な作品」が、なん
と、連歌および俳諧なのである。」「畢竟の温泉宿」を特集した『サライ』11月3日号を買って帰宅。部屋の本箱に久松潜一『中世和歌史論』(塙選
書:昭和34年)が眠っていたのを発見した。
※
丸谷才一『新々百人一首(上)』読了。昨年暮れに購入して以来ほぼ一日一首のペースで読み継ぎ、道半ばにして(関心が他へうつろいゆき)中断し
かけたものの、突如おそわれた歌狂いの風にあおられふたたび繙き、読み始めるととまらなくなり、でも一日にそうたくさん読めるものではなく(読め
ないことはないがしっくりと心に残らない)、もうすっかり丸谷才一の藝と技のとりこになって、世にいう枕頭の書とはこのような陶酔をもたらしてく
れる書物をいうのであろうかと、頁を繰るたびいくどためいきをついたことか。
第3番・二条后「雪のうちに春はきにけりうぐいすの氷れる泪いまやとくらむ」や第60番・藤原俊成女「隔てゆくよよの面影かきくらし雪とふりぬ
る」の評釈など、超絶(饒舌?)技巧やらアクロバティックやらと形容する言葉もむなしくただただ痺れゆくしかない。王朝和歌の終焉・入寂の時を告
げる第31番・正徹「沖津かぜ西吹く浪ぞ音かはる海の都も秋や立つらん」、第49番・心敬「世は色におとろへぞゆく天人[あまひと]の愁[うれ
へ]やくだる秋の夕ぐれ」に寄せられた文など絶品、逸品、畢竟の域に達している。
丸谷才一が王朝和歌にかける思い──というか、俵万智との対談「百人一首腕くらべ」(下巻)で「僕は、ケンブリッジ学派の文化人類学的な芸術研
究と折口学派の民俗学的な文学研究の影響を受けていて、文学を呪術から展開してきたものと捉えています」と語る丸谷才一の反アララギ的王朝和歌観
──は、巻末に収録された林望との対談「王朝和歌は恋の歌」の次のくだりにあますところなく示されている。(ちなみに林望の「恋=(魂を)乞う」
説は、たまたまいま読んでいる折口信夫「日本藝能史六講」の第四講にでてきた。「つまりそれは相手の魂を招きこふ動作、それがこひなのです。」)
《 林
》恋と王権の話に戻りますが、折口流の「色好み」という価値観からすると、天皇は日本最高の色好みとなる。(略)なぜわが国においてはそうなるのか。おそ
らく恋とは本来魂を「乞う」こと、魂を読んで鎮魂することだと考えられるからでしょうね。ですから国の統治のシステムとして天使が恋をするのは当
たり前で……。
《丸谷》というか、積極的に恋をしなくてはならない。つまり、霊的なものと恋愛とが深く結びついているんですね。帝と后が恋をすることによって一
切の動植物を刺激する。動植物の繁殖を促す。そういう霊的な力をもっているのが日本の帝であって、だからこそ帝が后に言い寄るときの恋歌が大事な
ものになる。日本文化においては呪術と言葉とが密接に結びついています。
《 林 》感染呪術[かまけわざ]、とそういうのを呼びますが、これぞ日本文化の根幹ですね。
《丸谷》歌に恋のファクターを読み取っていると林さんは指摘してくださったけれど、さまざまな形で恋を詠むのが王朝和歌全体の主題だった。あるい
は基本的な性格だったと思っているんです。しかもその恋は単なる恋ではなく、宗教的行為や政治的行為に結びつく。そうした恋歌を中心に持つのが日
本文化の基本なのですね。
★10月22日(土)
神戸中央図書館で唐木順三『中世の文學』(筑摩叢書)を見つけた。「中世文學の展開」のすき(美的感性的段階)・すさび(形而上的段階)・さび
(宗教的段階?)の弁証法的構造の説は面白い。あわせて塚本邦雄『新古今集新論──二十一世紀に生きる詩歌』と安藤礼二『神々の闘争──折口信夫
論』と大澤真幸『思想のケミストリー』(「まれびと考──折口信夫『死者の書』から」が収録されている)を借りた。上崎書店ほかメトロ神戸の古書
店街、三宮センター街のあかつき書房と後藤書店で本探し。あかつき書房の岩波文庫のコーナーで久松潜一編『中世歌論集』をみつけたが、あまりの汚
さと註の少なさに後込みしてパス。伊地知鐵男編『連歌論集』が上下揃いでかなり美麗だったがこれもパス。坂本龍一の『/05』と『風の旅人』16
号(2005年10月1日)を買った。
★10月24日(月)
土屋恵一郎『正義論/自由論──寛容の時代へ』購入。第Ⅰ部「リベラリズムの政治哲学」の第1章「ユートピア論的な開始」に、松岡心平著『宴の
身体』(第三章「宴の身体」)と大岡信『うたげと孤心』に準拠した議論が展開されている。連歌会や一揆やカフェに見られる、無縁化(デラシネ化)
がもたらす自律した「人工の共同性」のダイナミクス。面白い。
《「無縁化」といっても、けっして「無個性」ということではない。連歌の集団の歌の流れに和していながら、同時に、その流れに埋没することなく、
機知に富んでいなければ、「連歌」は成立しない。》(16頁)
《むしろ、連歌会のおもしろさは、前の句との言語的トポスの重層性をしめしながら、その重層性を裏切って、まったく異なるトポスへと移行してしま
うことのうちにある。それが、歌の機知というものである。/連歌は、かぎりなく物語の統一性を逸脱して、モザイク状の歌の連鎖になる。それが、連
歌会という「無縁」のトポスにおける、歌の規則であり、歌のダイナミズムなのだ。》(20頁)
ここに出てくる「機知」という言葉の使われ方は、たまたま読んでいた本で丸谷才一が言っていることと関連している。読んでいた本というのは『光
る源氏の物語』の上巻で、丸谷才一はそこで、西洋十九世紀の個人主義的文学理論と民俗学応用の集団制作的文学理論の対立がエリオットの「伝統のメ
ディアム[媒介、巫女、霊媒]としての個人の才能」という理論によって解消されたと語っている。
★10月31日(月)
森岡正芳『うつし
臨床の詩学』を買った。昨日の朝日の書評欄で紹介されていた。何が書かれていたかはまるで思い出せないが、その中に坂部恵『仮面の解釈学』の名が出てきた
ことだけは鮮明に憶えている。先月の初め近所の本屋で見かけて以来、書名が心に残っていた。『仮面の解釈学』もちょうど再読しようと思っていた矢
先だった。同時進行的に読み進めてみよう。こういうかたちでの本との出合いは、時として途方もない深みと広がりをもって後々まで残ることがある。
インターネットで『仮面の解釈学』を検索したら、坂部恵さんの「精神の危機―ヨーロッパと日本」という短い文章がヒットした。どういう脈絡でい
つどこに発表されたものか判らない。そのうち消えてしまうかもしれないので、丸ごとペーストしておく。
1.カント(1724~1804)のまだ思想形成途上の著作に、『視霊者の夢』(1766)という一風変った作品がある。同時代の神秘家・神智学
者スウェーデンボリ(E.Swedenborg,1688~1772)の霊能や著作について、①霊界の存在を認める方向に傾く自分と、②物質的存
在以外に存在を認めず視霊現象などは夢想にすぎぬと見なす自分、という両極の間を揺れ動く「危機的な」自分のありようをそのままにさらけ出して、
最後には日常的な実践の立場で解決をはかったものである。わたくしはこの著作を、ヨーロッパの人間精神の深刻な(同一性の)危機を示す先駆的な著
作とみなして、その独自の存在意義を認めてきた。『対話:ルソー,ジャンジャックを裁く』や『ラモーの甥』(ディドロ)などとならんで、この著作
は次の世代に来るロマン派を超えて,はるかに20世紀の人間の危機的状況を先取りするものとみなされうるのである。
2.「おもて」という日本語は、素顔と同時に仮面を意味する。このことは、仮面が素顔の写しなのではなくて、むしろ逆に、素顔こそひとつの仮面で
あることを意味しないだろうか。ラテン語でもと仮面を意味した「ペルソナ」が後に「人格」の意味に転じた背後にも、同様の事態が透けて見える。わ
たくしが『仮面の解釈学』(1976)で、このような問題を取り上げたのは、現代の人間の危機的状況にたいする欧米の思想家たちのレスポンスをい
わば横目で眺めながら、日本語によって、日本語に即して(従来の日本的共同体論に流されることなく)哲学的思考を進めてみたいとおもったからであ
る。
3.日本語によって,日本語に即して考えることの先達として、わたくしの念頭にはつねに和辻哲郎、九鬼周造があり、この二人について一冊ずつの書
物を公にしてきた。和辻については、晩年の『歌舞伎と操り浄瑠璃』(1955)に幼年期へのプルースト的回想が日本の伝統文化と交錯する独特の深
層の心性を見届け、夢と現実の交錯する歴史のヴィジョンに探りを入れた。九鬼は、その代表作『「いき」の構造』(1930)によって、独特の屈折
をはらんだ文化文政期のデカダンス・バロック的個人主義を今日に蘇らせ、60年代以降の文化状況にもなお多くの問題を投げかけていると考える。
★11月7日(月)
今日、ちくま学芸文庫版の梅原猛『美と宗教の発見──創造的日本文化論』を購入。梅原日本学の原マグマとも言うべき処女論文集。文庫カバー裏に
そう書いてある。書店で拾い読みをしていて、収録された十編のうち第二部「美の問題」の「壬生忠岑「和歌体十種」について」と「世阿弥の芸術論」
をじっくり読んでみたいと思った。巻末に収録された著作集第三巻のための「自序」にこう書いてある。《私がここに「美と宗教の発見」というもの
は、主として密教と『古今集』である。密教に目をつけることにより、禅と浄土を中心とした従来の日本仏教観を批判すると共に、『古今集』に目をつ
けることによって、万葉集中心の従来の日本文学観を批判しようとしたものである。》(393頁)
「仏教渡来以前の古代神道」への造詣や、ますらおぶりの歌集からたおやめぶりを併せ持つ歌集への「万葉観」の深化という、その後の梅原日本学の
展開のことは「自序」にも書かれている。密教と和歌というと「和歌即真言」の西行を連想する。桑子敏雄『西行の風景』がなかなか進まない。空海
(の詩論・言語論)への関心もしだいに高まっていく。講談社学芸文庫の内藤湖南『日本文化史』上巻に空海をめぐる一章があった。気持ちが逸るが、
ここで自戒の言葉。砂糖水が飲みたければ砂糖が水に溶けるのを待たなければならない。
★11月17日(木)
森岡正芳『うつし
臨床の詩学』読了。後味のいい本だった。透きとほった静謐感。しんしんと降り積もった透明な雪片が、まるで無数の倍音をはらんだ音の粒子のように、自らの
抽象的な重みと戯れている清涼な沈黙のざわめき(なんのことだか)。読み終えたのは先の日曜だから、もう四日経っている。すぐに感想を書かなかっ
たのは、この作品の本歌の一つ、坂部恵『仮面の解釈学』を一瞥しておきたかったからだ。
『仮面の解釈学』は実に面白い。その昔、読み初めて早々、叙述のあまりの深甚精妙ぶりにすっかり興奮し舞い上がってしまったことがある。まだ機
が熟していない。私自身がもう少し熟成しなければ、この本に呑み込まれてしまう。その時はそう思って、わずか数十頁で封印した。以後、大切に保管
していたはずがいつの間にか行方不明になり、二冊目を買って常備しておいた。今度は、終章「しるし・うつし身・ことだま」から読み始めた。実に面
白い。あまりの刺激に我を失いそうになる。なにもかも放り投げてこのまま読み耽ってしまいそうになる。耽ってもいいのだが、そのまま揮発してしま
いそうでこわくなる。度数の高い酒を飲みこなすには体力が要る。
ほとんど酩酊状態で「しるし」の五節分を読み終えて、『うつし』の多層性を帯びた構造がくっきりと浮き彫りになった。この本は序と五つの章から
なるのだが、それが「しるし」の五節、つまり「わたしたちの生死往来の場である、しるし(兆・徴・験・記・印)と著[しる]きあらわれ[現象]の
ことなり[差異・事成り]の境位を、究極のところで領[し]るもの」(『仮面の解釈学』176頁)の五つの相転移の様をかたどっている。
未読の「うつし身」も五節で構成されている。これを読むともっと深く冥い世界を覗き込むことになるかもしれない。そのまま帰ってこられなくなる
かもしれない。いまこのままで『うつし』に決着をつけておくか、もう少し『仮面の解釈学』を読み込んでからそうするか。にえきらないままに時間が
過ぎていく。
★11月24日(木)
小学館の『日本古典文学全集50 歌論集』と『日本古典文学全集51 連歌論集 能楽論集
俳論集』の二冊を古本で購入。歌論、連歌論の類を収めた古典全集をいくつか実地に手にしてみて、一番読みやすそうなので選んだ(現代語訳がついているのが
決め手)。「後鳥羽院御口伝」や「正徹物語」が収められていないのは残念だが、たとえ収録されていたとしてもそうそう読めるものではない。まずは
心敬の「ささめごと」をしっかりと読み込んでみよう。それすらいつ果たせるかわかったものではない。
各集の解説(歌論集・藤平春男、連歌論集・伊地知鐵男、能楽論集・表章、俳論集・栗山理一)をざっと読み、あらい相関図を作った。国学の本居宣
長や俳諧の芭蕉(去来)は省略。この図にどういう意味があるのか(とくに歌論の二つないし三つの系列)。たぶん数日もすれば忘れてしまうだろう。
その時はまた解説を読み直せばいい。初学者には復習あるのみ。
【歌論】
源俊頼[1055?-1129]──藤原俊成(幽玄)[1114-1204]──藤原定家(有心)[1162-1241]
後鳥羽院[1180-1239]──正徹[1381-1459]──心敬
西行[1118-1190]
【連歌論】
二条良基[1320-1388]──心敬[1406-1475]
【能楽論】
世阿彌──金春禅竹
★11月25日(金)
京都に紅葉狩りに出かけた。JR山崎駅を降りて、山崎宗鑑句碑(「うずききてねぶとに鳴や郭公」)と霊泉連歌講跡碑を片目に、アサヒビール大山
崎山荘美術館への坂道を急ぐ。本館で『益子
濱田窯三代 庄司・晋作・友緒』展を観て、テラスで珈琲を啜り、安藤忠雄設計の新館「地中の宝石館」でモネの「睡蓮」やルオーの絵などを見て、庭園を散策
した。少し電車で移動して、西国二十番札所の善峯(よしみね)寺、別名松の寺の境内を参拝。「野をもすぎ山路にむかふ雨の空よし峯よりも晴るる夕
立」。松と紅葉、武家と王朝貴族の対比が面白い。奥の院薬師堂に向かう山路から見下ろした紅葉は絶景。こういう風景を目にすると、形容する言葉が
思い浮かばない。また山崎にとってかえして、サントリー山崎蒸留所を訪ねる。樽出原酒15年ものを試飲し、イルミネーションの点灯を見届け、すっ
かりできあがって帰宅。一年分の紅葉を堪能した。
※
丸谷才一『新々百人一首』(新潮文庫下巻)読了。四季歌をあつかった上巻を読んでいた時は、連日、陶酔に次ぐ陶酔だった。下巻に入って、恋歌
[こいか]のあたりで王朝和歌の遊戯性が薄っぺらなものに感じられるようになった。(唐木順三の『中世の文学』を読み囓ったことも影響したか。)
言葉の多義性と呪術性をとことん活用し、二重三重に意味の層を重ね描いていくパランプセストとしての王朝和歌。それが薄っぺらだと感じるのは、読
み手の言語感覚が硬直していたからだろう。読み手の側の心のありよう、というか身体のありようがそこに反映していたに違いない。
丸谷さんは遊戯性を必ず社交性とセットで取り上げている。「呪術としての詩はやがて社交の具としての詩となり、さらには藝術としての詩へと進化
する──もちろん呪術といふ要素を幾分かは残したまま」(113頁)。この「社交性」は、松岡心平さんが『宴の身体』で連歌は「言葉のまわし飲
み」であり、連歌が張行される場は文芸における「一揆」的場であったと書いていたことにつながる。(森岡正芳『うつし
臨床の詩学』の「対話的倍音」や坂口ふみ『〈個〉の誕生』の「概念のポリフォニー」にもつながる。)会話が弾んで、何を言っても聞いてもおかしくておかし
くて、笑いがこみあげてとまらなくなることがある。「天使が通る」とか「三人寄れば文殊の知恵」という言い方があるが、その時その場にたちこめて
いる言葉は、私の言葉でも座を共にする相手の言葉でもない。非人称、無人称、多人称の次元から響いてくる、もしくは洩れてくる言葉に酔っている。
躰が言葉に動かされていく。王朝和歌の「社交性」とは、たとえばそのような体験のうちに今も息づいているのかもしれない。
薄っぺらに思えた王朝和歌がほんの数日でもとの輝きをとりもどし、その後は最後まで一気呵成に愉しめた。丸谷才一の文筆の冴えは恐ろしいまでの
域に達している。源実朝の「いつもかく寂しきものか葦の屋に焚きすさびたるあまのもしほ火」をとりあげ、「現代短歌はこの一首にはじまる」と記す
(221頁)。「もともと和歌は単にテクストを読むだけでは充分でなく、そのテクストをマージン(欄外、余白)のやうに囲み込む作歌事情まで視野
に入れるとき、はじめて十全に理解できるたちのものであつた」。なぜか。第一に、和歌が極端に短い詩形だからであり、第二に、和歌が「やがて文学
となつたものの、それでも相変らず呪文および社交の具といふ性格を捨てなかつたせいであつた」(261-262頁)と喝破する。以上、とりわけ印
象に残ったフレーズ。
さて毎夜の慰めを失って、これからどうやって就寝前の無聊を癒すか。最初から読み返すのもいいが、それは後の日の愉しみにとっておこう。さいわ
い、安東次男の『完本
風狂始末──芭蕉連句評釈』(ちくま学芸文庫)が手元にある。まずは「狂句こがらしの巻」(『冬の日』)から、おもむろに頁を繰るか。
※
もう少し余韻にひたりたくて、行きつけの図書館から借りてきた『後鳥羽院』をざっと眺める。筑摩書房の日本詩人選第10巻。丸谷才一王朝和歌論
の原点ともいえる書。「あとがき」で明かされる、中世歌論(正徹による定家の分析)とジョイス=エリオットとの丸谷才一的出会いの瞬間、野坂昭如
との隠岐行といった「思い出話」が無類に面白い。「記念」に引用を二つ。いずれも、本書の中心をなす「歌人としての後鳥羽院」に添えられた二つの
エッセイの末尾の文章。前者は「へにける年」から、後者は「宮廷文化と政治と文学」から。
《わたしに言わせれば、後鳥羽院は最後の古代詩人となることによって実は近代を超え、そして定家は最初の近代詩人となることによって実は中世を探
していた。前者の小唄と後者の純粋詩という、われわれの詩の歴史における最も華麗で最も深刻な(そして最も微妙なとつづけてもいい)対立はこうし
て生れ、そのゆえにこそ二人は別れるしかなかったのである。それとも、彼らはこうならざるを得ないほど互いに相手を、そして自分を、確認したのだ
というべきだろうか。しかし、このへんのいきさつを詳しく考えるためには、後鳥羽院と定家を当代の文学史ではなく、もっと広く、日本文学史全体の
なかに位置づける試みがなされなければならない。》(258頁)
《…詩人の精神のいとなみがその基盤としての具体的な場を持たないという不幸は、長く日本文学の悩みとなった。詩は孤独なものに変じ、孤独を埋め
るだけの力は詩人になかったのである。そう考えるとき、芭蕉の歌仙は詩の場所を持とうとしての恐ろしい新工夫としてわれわれに迫ることになるであ
ろう。彼は草庵において宮廷をなつかしむことを一つの儀式として確立した。あるいは、西行においては個人の感懐ですんだものが、彼においては儀式
の力を借りなければならなかった。そして俳諧が粋に洒落のめしながら衰弱して行ったとき、芭蕉と並ぶもう独りの天才は、宮廷と和歌との密接なかか
わりあい方それ自体のパロディを作った。言うまでもなく蜀山人であり天明狂歌である。宮廷文化が存在せず、それにもかかわらずその美しさが心をと
らえるとき、打つ手はただこれしかないと彼は観念していたにちがいない。ここで宮廷文化としての日本の短詩形文学は、その余映をもって江戸の空を
あかあかと染めたことになる。
しかしこういう後日譚に属することは、さしあたりどうでもよかろう。いま大事なのは、後鳥羽院が宮廷と詩との関係を深く感じ取っていて、宮廷が
亡ぶならば自分の考えている詩は亡ぶという危機的な予測をいだいていたに相違ない、と思われることである。それは彼にとって文化全体の死滅を意味
する。彼はそのことを憂え、詩を救う手だてとしての反乱というほしいままな妄想に耽ったのではなかろうか。承久の乱はその本質において、文芸の問
題を武力によって解決しようとする無謀で徒労な試みだったのではないか。わたしにはどうもそんな気がしてならないのである。「おく山のおどろが下
も踏みわけて」世にしらせたいと彼が願った「道」とは歌道であり、あるいは歌道を中心とする文明のあり方であった。そして定家はもはやそのような
幸福があり得ないことをよくわきまえていたのである。》(291-292頁)
★11月29日(火)
梅原猛『美と宗教の発見』(ちくま学芸文庫)が面白い。第一部「文化の問題」に三篇、第二部「美の問題」に四篇、第三部「宗教の問題」に三篇、
あわせて十篇の論文が収められている。1967年初刊で、梅原猛の(単著としての)処女作。生年が1925年だから、40代に入ったばかりの著者
の「青雲の志」がたたきこまれた書物である。実に面白く刺激的。なによりも文章に勢いがある。鈴木大拙や和辻哲郎、柳宗悦、丸山真男といった権威
に挑み、否をつきつける気迫がこもっている(第一部)。歌に縫い込まれた感情の襞に分け入り、論理をもってそのエッセンス(感情の論理)を摘出す
る研ぎ澄まされた感性がきわだっている(第二部)。第三部はこれから読むところだが、霊性ならぬアニミズム的生命感覚に裏うちされた日本的な宗教
心性を鋭い論理の刃でもって腑分けし、しなやかで強靭な感性の投網でもってその実質を掬いあげているに違いない。
「国学者たちは、ナショナルな日本の特徴を、歌道と神道に見た。この国学者たちの直観は正しいように思われる。なぜなら、明らかに歌は日本文化
の中核に位し、神は日本の宗教の根源に存在しているように思われる。歌と神がどうなっているかを見ることにより、その時代の文化の大方の傾向を知
ることが出来る。」(111-112頁)第一部の第三論文「美学におけるナショナリズム」に記された文章である。以下、「それゆえ私は、歌が、一
体、明治ナショナリズムにおいてどういう姿を現わしたかを問うことによって、明治ナショナリズムの精神の実体を明らかにしようと思うのである」と
続く。正岡子規批判が始まる。ここに出てくる「歌と神」が本書全体のテーマを要約している。万葉集ではなく古今和歌集、禅や浄土教ではなく密教を
基軸にした日本精神史。また「明治ナショナリズム」の語が、第一部のテーマを集約している。廃仏毀釈とともに始まり、宗教的痴呆状態に陥り、歌
(王朝和歌の美学=感情の論理)を忘れた近代日本文化に対する痛烈な批判。
《存在論としての日本文化を見るとき、われわれはそこに自然生命的存在論ともいうべき存在論を見る。ヨーロッパの存在論は、主として人間だけがも
つ観念、あるいは精神を中心に一切の存在するものを見る存在論、すなわち観念論、あるいは物を中心として、一切の存在するものを見る存在論、すな
わち唯物論かどちらかである。しかし日本の神道は、存在するものをすべて生命あるもの、生きとし生けるものとして見、この生命あるものを規範とし
て山川から人間までの一切の存在するものを見ようとするのである。このような自然生命的存在論は、神道ばかりか、密教にも存在し、この存在論を中
心にして神道と仏教が結びつくのである。われわれはこのような自然生命的存在論の伝統が、いかに深く日本の文化に浸透しているかを知らねばならな
いであろう。》(70頁)
《もしも人間の精神の発展段階を、意識、自己意識、悟性、理性というふうに考えるならば、日本の詩歌の発展史の中に、このような精神の発展段階が
見られるであろう。大まかに言えば万葉集において意識の段階に立った精神は、『古今集』における自己意識と悟性の段階を経て、『新古今集』におい
て理性の段階に達したといいうるであろう。ここで精神は、初めて永遠なもの、曰く言い難きものの前に立つのである。このように一応発展の頂点に達
した精神は、もはや、より以上発展すべき道を見失うのである。定家の歌と歌論が、美の永遠の規範として徳川末期まで伝えられたのは、国学者が言う
ように、定家の子孫が秘伝の形で歌を私したというところにあるばかりではなく、むしろ定家において、一応、歌の精神は発展の頂上に達したからなの
だろう。/子規はこのような定家の形而上学にたいして、何も知らない。》(146頁)
20年以上前のことになるが、レヴィ=ストロースを招き京都で開催されたシンポジウムで「日本人のあの世観」をめぐる梅原猛の講演を聴いたこと
がある。梅原猛が語っているのか、梅原猛にとりついた憑物が歌っているのか、ほとんど神懸かり状態の語り、歌と神が渾然一体となったパフォーマン
スだった。『美と宗教の発見』にもその片鱗、というか先触れの雰囲気が濃厚に漂っている。(梅原猛の語りに酔ってはいけない。陶酔しているだけで
は駄目だ。私もまた「若き」梅原猛にならって、この巨人と対決しなければならぬ。)この世とあの世、具体と抽象、しるしとしるされるもの、象徴と
象徴されるもの、等々。梅原猛の論理=語りはこれらの二項を同時に包みこんで稼働していく。このことはいずれ、歌体論をあつかった第二部をとりあ
げる際にあらためて考えてみよう。
★11月30日(水)
『新々百人一首』につづき『完本
風狂始末』(安東次男)の評釈を夜毎、一句もしくは二句ずつ読んでいる。幸田露伴、折口信夫らの諸注を「これでも学問かと云いたくなるほどひどい話で、気
分で解釈はできぬものだ」(48頁)とバッサリ切りって捨てるその舌鋒は痛快極まりなく説得力に富んでいる。といいたいところだが、ここは私ごと
き初学者が軽々に口をはさむべき世界ではない。軽妙にして深甚。
丸谷才一が『恋と女の日本文学』に「芭蕉の名声のかなりの部分は、恋の座の付けとその捌きとによるものであった」と書いている。(このことは前
にふれた。)
たとえば「狂句こがらしの巻」初折(しょおり)・裏入の「わがいほは鷺にやどかすあたりにて」に「髪はやすまをしのぶ身のほど」と応じる。この
野水・芭蕉の付合(つけあい)を「男女の問答体」と読み取ることが安東次男の評釈の勘所なのだが、鷺からアマサギ(尼鷺)を連想し、尼の還俗を発
想するなど、そもそも「髪はやすま」を「髪生やす間」と読むことすらできなかった未熟者には到底かなわぬこと。まして芭蕉の「恋の座の付けとその
捌き」を鑑賞するなど身の程知らぬの所業である。が、ここはまあゆったりと構えて、日々の蓄積がもたらす奇跡に期待することにしよう。
蕉風を極めることを断念したわけではないが、前々から一度読んでみたかった萩原朔太郎の『郷愁の詩人
与謝蕪村』(岩波文庫)を買った。全151頁の「薄い本」。坂部恵の『モデルニテ・バロック』や三浦雅士の『出生の秘密』に朔太郎についての印象的な叙述
が散見されたこと、昔読んだ山城むつみの『転形期と思考』に蕪村をめぐる刺激的な論考が収められていたことなどが頭にあった。
芭蕉の美のイデアは「老」であり、蕪村の詩は「若い」。しかし「蕪村の本質は、冬の詩人とさえ言わるべきだ」(21頁)。「俳句は抒情詩の一種
であり、しかもその純粋の形式である」(24頁)。蕪村の詩のポエジイの実体は「時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」で
あり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった」(27頁)。面白い。
★12月7日(水)
小林恭二『俳句という遊び──句会の空間』(岩波新書)を買って「はじめに」とプロローグとエピローグ「句会とは何か」、そして「あとがき」を
読んだ。「俳句を媒介にして、日常とりえないような高度で玄妙なコミュニケーション(=遊び)をとれるような座、そういうのをまっとうな句会とい
う。」この「大人の遊び」は、往々にして「お遊び」に堕す。現に近代日本における俳句の活字化、結社誌の普及とともに、句座の場は際限ない権威主
義、点数主義へと走った。《そもそも句会というのは、元来ごく普通のコミュニケーション手段であった。そう、かつて茶会や歌合せがそうであったよ
うに。/ちなみに我が国において文芸が、作家による一方通行的なマニフェストとして発達せず、複数の連衆によるコミュニケーションの媒体として発
達したことは、研究に値するテーマである。皮肉に言えば我が国の近代は、そのようにして発達した芸術が、西欧的な「芸術家対大衆」というかたちに
組み込まれて、大袈裟に言えば解体してゆく過程であったと捉えることもでよう。》(248-249頁)本編を読むのが待ち遠しい。91年初刊の第
16刷。「ご要望にお応えして/アンコール復刊 春爛漫の甲州にて/流派を超えた真剣勝負!」と帯にある。
★12月15日(木)
梅原猛『美と宗教の発見』の第一部末尾に次の文章が出てきて、歌論を中心に据えながら日本の「感情の論理」(桑原武夫:209頁)や「感情の配
置」(304頁)を論じる第二部へのつなぎの役割を果たしている。かつ第三部で主題的にあつかわれる日本の宗教心性(清き自然に対する崇拝)をめ
ぐる問題への伏線が張られている。
《先に私は、自然を心の象徴として見るのが日本の詩歌の特徴であるといった。しかし、その象徴というのは、フランス象徴詩の象徴という意味と同じ
なのであろうか。心は果たしてとらえやすいものであろうか、それともとらえがたいものであろうか。それは比喩というべきであろうか、それとも象徴
というべきであろうか。私はその問いを疑問のままにのこしてきた。この疑問はもっと深く問われるべきであろうが、今は次のように考えてみたい。日
本の詩でいう象徴という意味は、フランス象徴詩の象徴という意味と違うのではなかろうか。日本の場合、象徴されるべき心も、象徴すべき自然も、本
来は同じものであるという確信が、その世界観の背後に存在していないであろうか。われわれ人間も、自然そのものも、同じ生命の現われである。それ
故、人間の心がどんなに複雑になろうとも、それは必ず自然の姿によって表わされるであろうという確信が、その背後にひそんでいるのではなかろう
か。》(160-161頁)
文中「それは比喩というべきであろうか、それとも象徴というべきであろうか」とある点については、引用箇所より少し先のところで「比喩の場合、
比喩さるべきものは明確に把握出来うるものであるにたいし、象徴の場合は、象徴さるべきものは明確に把握出来ず、したがってそれは象徴によってし
か暗示出来ないものである」(143頁)と説明される。
ここで私が注目したいのは、「日本の場合、象徴されるべき心も、象徴すべき自然も、本来は同じものであるという確信が、その世界観の背後に存在
していないであろうか」という部分である。梅原猛は『美と宗教の発見』第二部に収録された「壬生忠岑「和歌体十種」について」で、とりわけ「余情
体」「写思体」「高情体」と名づけられた歌体(歌の風体、様式)に即して、このような「世界観」(和歌にあらわれた感情の論理)のありようを詳細
に分析している。
実は『美と宗教の発見』を入手して最初に読んだのが「美の問題」をあつかった第二部だった。とりわけ「壬生忠岑「和歌体十種」について」とこれ
に続く「世阿弥の芸術論」は、それこそこの二つの論考を読むために本書を購入したようなものだから、むさぼるように読み、鮮烈かつ深甚な知的感銘
と感覚的・感情的刺激を受けた。
「この時期[14-15世紀]の歌論、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多く
の精神史的リソースが眠っているだろう」。坂部恵(『モデルニテ・バロック』)のこの一文から始まった私の中世歌論への関心、それをより一般化す
れば、歌と神、身体と貨幣といった問題系を中世以降の日本の都市と村落の芸能と経済の歴史のうちに探索するといった大袈裟なものになるのだが、そ
れはともかく、そうした関心からみて、これこそ私が読みたかった論考だと思った。
その興奮の余韻はいまでも静かにつづいている。しかし、なにしろ第二部を読み終えたのはかれこれ一月ちかく前のことだから、梅原猛の議論の細部
は私の頭の中でほとんど雲散霧消もしくは瓦解し、ただ空虚な輪郭と中身の残り香のようなものしか掬うことができない。じっくりと四股を踏んでいる
うちに化粧回しが解けてしまった。こうして大仰で空疎な言葉ばかり書き連ねているのは、あの時私の頭の中にひらけていた見通しのラフスケッチでも
残しておきたいという思いからだが、その作業はこことは違う場で行うべきことだろう。というわけで、いまあらためて梅原猛の論考を読み返してい
る。
★12月16日(金)
坂部恵『仮面の解釈学』によると、日本の古語における「しるし」とは「一つの現象[あらわれ]が、他のことなった現象[あらわれ]をしるしづけ
るところに成立する二重化された現象[あらわれ]にほかなら」(163頁)ず、「しるしにおいて、〈しるすもの〉と〈しるされるもの〉の間に、絶
対的な序列は存在しない」(165頁)。
《この点、〈しるし〉という日本語は、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の両側面をもつものとしてとらえられ、イデア
界的な〈生ける現前〉としての〈先験的な意味されるもの〉le signife' transcendantal
の先在という〈現前の形而上学〉を背景にもつものとして、デリダがやっきになってその解体をくわだてる〈記号〉signe
の概念とは別物である。〈しるし〉の背景には、そのような、究極の〈しるされるもの〉の(いわゆる超感覚的・可想的な世界の)存在を想定する形而上学は、
もとからして、ない。/しるしとは、すでにみたように、二重化された現象[あらわれ]にほかならない。〈しるすもの〉がひとつの現象[あらわれ]
であるのとおなじく、〈しるされるもの〉もまた、もうひとつの現象[あらわれ]以上のものではない。したがって、〈しるすもの〉と〈しるされるも
の〉の関係は、場合に応じて、逆転可能である。》(165頁)
坂部恵の論は、これにつづいて「しるし」のさまざまな変奏形態をたどり、さらに「うつし身」へと転じ、さいごに「ことだま」へといたるのだが、
このそれ自体ひとつの論理詩ともいうべき華麗なロジックとレトリックでもって綴られた酒精度の高い散文を、それ以上詳細にたどり反芻することが私
にはいまだにできそうもない。かつて井筒俊彦の『神秘哲学』に酩酊したように、なにもかも忘れて没頭し耽溺しつくしたいとの思いがしだいに高じつ
つあるのだが、残念ながらいまの私はそこからたちかえるだけの体力に自信がない。
坂部恵の「しるし・うつし身・ことだま」は歌学・歌論の書である。あるいは歌学・歌論のうちに織り込まれた「精神史的リソース」を濾過し、より
広いフィールドに映し、移していくための手がかりが惜しげもなく鏤められている。少なくとも、そのような関心をもってこれを読むことができる。そ
して、梅原猛『美と宗教の発見』第二部の議論と接続することができるだろう。私が書きたかったのはそういうことだったのだが、昨日も書いたよう
に、その作業はこことは違う場で行うべきことだろう。
★12月20日(火)
梅原猛『美と宗教の発見』第三部の第一論文「「固有神道」覚え書き」の冒頭に次の文章が出てくる。「しばしば物の真相は、一つの体系で説明され
るより、そのものの真相を追究する多くの断片的に見える観察と思惟の束によって明らかになることがある。私はここで哲学者の体系の一貫性よりも、
芸術家の感性の豊富さを学びたい。」(309頁)ここに書かれていることは「固有神道」一篇だけにではなく、本書に収められた十篇の論文のすべて
にあてはまるだろう。とりわけ第二部の、それもこれまでこの日記で再々(その内容にはほとんどふれずに)言及してきた「壬生忠岑「和歌体十種」に
ついて」と「世阿弥の芸術論」において。歌論や能論の話に入るときりがなくなる。ここでは第三部の話題に限定して、この平田篤胤批判の「固有神
道」が「世阿弥」に、続く第二論文「浄土教的感情様式について」が「壬生忠岑」に相即していることを指摘して、今後の作業のための覚え書きとして
おく。
梅原猛は、神道の価値の中心は清浄にあるという(323頁)。たとえば林羅山『神道伝授』はこう記す。「心の清きは神のまします故也。鏡の清く
明なるが如く。弥清くする故に、鏡の中の、にごりのガをのけて、カミと申也。」この浄の価値は美的価値概念に尽きるものではなく、善・真・聖をも
とり入れている。「宣長は、おぼろげにこのことを自覚していた。「都美[ツミ]」ないという清浄の境地は、同時に「つゝみなく」という意味でもあ
ると彼は言う。つつみなく真の自分をかくさない。どんな自分のみにくいすがたでもありのままにあらわすことがつつみなくなのである。/鏡が神の象
徴として用いられたのも、このような価値論のためなのである。」(325-326頁)
《浄という価値は、美的価値を中心とする価値の化合物であった。この化合物を最高価値とすることによって、日本人は一つの価値の専制からまぬがれ
たのである。真なら真、善なら善の価値のみが支配することは、結局、人生と世界との半端な見方である。特に善の価値を中心にし、しかも最大の善の
価値を、たとえば『法華経』を崇拝するなどという、はなはだ恣意的なものに置こうとするとき、その価値論は、暴力的に集団のエゴイズムをあらゆる
人におしつけようとする価値論になるであろう。われわれの民族は既に何千年の昔から、このような一元的価値論よりはるかに精妙で自由な価値論を
もっていたのである。》(「「固有神道」覚え書き」328頁)
このような価値論は日本人の生活そのものを貫いている。たとえば『坊っちゃん』に人気があるのは坊っちゃんの心の清さ故であろうし、坊っちゃん
にとっての理想の人は清[きよ]であった。また漱石は『明暗』で唯一の理想的人物として清子を登場させている(333頁)。ところが国学者たち、
特に平田篤胤による純粋化(仏教の影響の排除)を経た明治以降の神道(古神道=固有神道)は政治に従属するものとなった。清浄という価値論だけで
なく、生けるものとしての自然を中心にする神道の存在論も政治に従属させられた。それは人間中心の存在論と神の人間化をおし進めた「ヨーロッパ的
な神道」(335頁)にすぎなかった。
以上が「「固有神道」覚え書き」のあらすじである。ここに出てくる美と政治のかかわりは「世阿弥の芸術論」のテーマにつながる。
梅原猛は、世阿弥の芸術論のほとんどすべてが歌論に範をとったものであり、その中心をなす三体論(女体、老体、軍体)には後鳥羽院の和歌三体和
論(恋旅=艶に優しく、秋冬=細くからび、春夏=太く大きに)の影響があったのではないかと考えている。
《私はここで必ずしも世阿弥に後鳥羽院の直接の影響があったと断定する気はない。もし私がそう断定したら、実証ということだけで芸術や芸術論が理
解出来ると思っているかのような世阿弥研究家たちは、私の乱暴な結論を非難するであろう。しかし直接の影響より、もっと大切な問題がある。それは
一つの文化の流れにおける精神の構造の類似性である。一つの精神の流れにおいて、深く思惟する思想家たちは、おのずと思想的情熱の内面的必然性に
より、先人と同じ問題を考えることにより思想の類似性を獲得するのである。世阿弥が後鳥羽院と同じような分類に達したのは、彼らが同じ精神の流れ
において、生命そのものの持つ形を熟視したからである。戦後、人は物質だけに形があり、精神には形がないと思っているが、精神は客観的なそれ自身
の形と論理を持っているのである。その精神の形を見つめることから新しい精神史の試みがなされねばならぬであろう。後鳥羽三体と世阿弥三体との間
には精神の形の類似性がある。しかし、類似性と同時に差異性も無視することが出来ない。後鳥羽三体が美的理念の分類を主として季節の差異によって
行なったに対し、世阿弥はそれを人間の生命の様式の差異によって行なった。人間の生命の差異という客観的な差異の基準を見出したという点におい
て、世阿弥の三体の方が論理的であろう。》(「世阿弥の芸術論」255-256頁)
長々と引用した。「精神は客観的なそれ自身の形と論理を持っている」という本書全体の通奏低音ともいうべきテーゼの前後の文脈を省略することな
く抜き書きしておきたかった。そして歌体とは感情の形(様式)であると同時に「生命そのものの持つ形」であり「精神の形と論理」であるという、こ
のところ私が強烈に関心を寄せているテーマにかかわる重要な命題を正確に書き写しておきたかった。さて、美と政治の問題。このことについては、
「世阿弥の芸術論」末尾の一文に尽きている。
《世阿弥の芸術論のことを考えるとき、私はいつも金閣寺のことを思うのである。世阿弥の保護者であった足利義満によって建てられた金閣寺は、三層
の建物である。一層は王朝風の寝殿造り、二層は武士風の書院造り、三層は禅宗風の建物であると言われているが、私はこの三層の奇妙な配置の中に、
義満の文化統合の原理を見るのである。つまり、基本に王朝精神をおき、その上に武士道精神と禅宗精神をおく、三重の精神構造は、義満の文化統合の
原理ばかりか、政治統合の原理であったかもしれない。世阿弥の三体論は、その精神構造において、義満と同じなのである。一層に幽玄の女体を、その
上に軍体と老体を置いているのである。たしかにその点で、世阿弥美学は義満美学と同じものであったろうが、世阿弥には、幸福な政治的支配者のもた
ない独自な美の世界があった。それは、おそらく、狂人と鬼と死霊を主人公とした闇の煩悩の荒れ狂う世界であったが、そのような衝動のはげしさが、
ここでは静かな観照の精神と共存しているのだ。世阿弥においては、まだ明らかにされねばならない多くのものがある。そしてそれを明らかにするの
は、同時に、日本文化そのものを明らかにすることなのである。》(「世阿弥の芸術論」270-271頁)
★12月21日(水)
昨日書き残したこと。「浄土教的感情様式について」と「壬生忠岑「和歌体十種」について」の不即不離の関係。いずれも日本の宗教と和歌にあらわ
れた「精神の形と論理」をめぐるマグマのような熱のこもった論考で、要領よくその論旨を捌いてみせても(そんなことはとてもできない)冷え切った
火山岩がごろごろと醜い姿をさらすだけのこと。ここではただ素材を生のまま抜きだしておく。まずは平安朝貴族たちの「浄土的意識」における「否定
の美学」を論じたくだりから。
《[闇につつまれた現在の世界の]遠い向うに、光[浄土]がある。光は既に現在においてあきらかになっている。しかし、光はまだ十分、明らかでな
い。実在する光を、遠く離れた距離から、ちらりちらりとほの見ること、この既に光を見る喜びとまだない悲しみの交錯した美意識が、おそらく「幽
玄」と称せられる中世の美意識の姿であり、その美意識の形成に、浄土教が大きな役割をしているのではないかということは、既に私が他の論文で分析
した所である。》(「浄土教的感情様式について」)
次に、その「他の論文」の該当個所を(前後の脈絡を抜きにして)引用する。
《これはたいへんむつかしい問題である。この問題は美と宗教の交錯する問題であり、たとえ忠岑の十体論における美的評価が、『観無量寿経』にとく
に浄土教的感情内容と類似しているとしても、十体が、浄土教を受け入れやすくなっていた平安貴族の感情を語っているのか、あるいは十体の中にすで
に浄土思想のはっきりした影響があるのか、今の私は前の説をとりたいが、一概に断定出来ない問題である。しかし、はっきりいえることは、少なくと
も近代まで、人間の感情には宗教というものが大きな影響をあたえたものであり、したがってわれわれは、感情のもっとも明瞭なあらわれを美や芸術に
見るにせよ、この美や芸術の感情の形を宗教との関連において考えねばならないということであろう。人間が作り出したもっとも微妙で神秘な世界、そ
れはおそらく芸術と宗教の世界であろうが、この両者の関係をとくかぎがこの感情というものなのである。
とにかくこの忠岑十体は、日本人の美意識に大きな影響をあたえる美意識を、高情としての幽玄の美意識を作り出したのである。その美意識は、浄土
教的なものと調和出来る美意識であり以後の日本人の美意識に大きな影響を与える。この美意識が平安時代を貫く美意識であったとすれば、新しい歌は
それにたいする反駁として出現する。「貫之、[……]余情妖艶の体をよまず」といって歌を寛平以前の姿にかえそうとした定家の主張は、おそらくは
忠岑に始まり、公任[藤原公任]によって一層はっきりさせられた歌論への反駁であったのであろう。》(「壬生忠岑「和歌体十種」について」
235-236頁)
ついでに忠岑十体のエッセンスが述べられる部分を(これもまた前後の脈絡を抜きにして)引用する。
《このように十体論を見ると、われわれには忠岑の「十体論」がかなり精密な美的感情の分類であるばかりか、そこに一種の美的感情の発展運動さえみ
とめられるように思われる。まず古歌体で、対象の動きのはげしい感情が拒否され、直体において、感情はうつりゆく自然や人生への喜び悲しみとな
り、余情体ではその悲しみが得られない対象を思う感情に深まり、その悲しみの感情が更に写思体では絶望の自己意識となるが、一転して高情体では、
感情は遠い実在する光にたいするあこがれとなり、更に器量体ではその光が広々と眼前に広がる爽快の感情となるが、最後にこの感情が、理性化され、
あるいは推論し、あるいは観察し、あるいは比較する感情の希薄化された姿で終るのである。この十体論の中にあるいは漢詩の起承転結の法則を忠岑は
意識的にもりこんだのかもしれない。
それは見事な意識の動きのとらえ方のように思われるが、写思体から高情体への変化の中に一つの大きな転換があるかに思われる。それは対象が、人
間から自然にうつったのみではない。絶望にまで否定的に深まった意識が、ひそかに肯定の感情へと転化されるのである。忠岑が余情体を重んじなが
ら、高情体を一番重視したのは、一つの美意識の革命であったように思われる。おそらく余情体、写思体に属することが多いと思われる六歌仙時代の悲
哀の調子の強い歌体より、遠い光への憧れを歌う古今以後の歌体へと変化するのである。こうして幽玄の理念が形成されるのである。忠岑においては幽
玄は余情体ではない。幽玄は高情体である。それは悲哀の色濃い感情ではなく、深く隠れた実在者がヴェールの彼方から見えがくれする、憧れと悲哀の
まざった複雑な感情なのであろう。高情体、幽玄体が歌の最高理想とされることにより、悲哀のはげしい歌よりおぼろな憧憬の歌の方が、中古の理想と
なるのである。》(「壬生忠岑「和歌体十種」について」232-233頁)
★12月22日(木)
抜き書きが楽しくなってきたので、もう一つついでに。「浄土教的感情様式について」に「二十五三昧式」(『恵心僧都全集』)からの引用文──
「次に、人道とは此の身常に不浄にして、雑穢其の中に満つ。内に生熟臓あり、外には皮膜を相ひ覆へり」云々──を「見事な文章である」と讃える箇
所がある。「われわれはそこに『平家物語』や『徒然草』や『方丈記』の文章の先駆を見るであろうが、われわれがこうした感情や、こうした思想を創
造者の手によるより、模倣者の手によって知ってきたとしたら何と悲しむべきことであろう。」(345頁)これと同趣旨のことは第一部にも何度か出
てくる。いまその一例を引用しておく。
《廃仏毀釈は決して、既に終った歴史的事件ではない。国学や水戸学は既に影響力を全く失ったわけではない。たとえば、国語教育。明治以来、すべて
の中学生は、国語と漢文を習った。国語では、主として、『枕草子』『徒然草』『方丈記』『おくのほそ道』など、漢文では『論語』に、『孟子』に、
『十八史略』などを習った。もしもこのようなものが、日本および中国の古典であるとすれば、かつて日本人の教養の中で、大きな位置を占めていた仏
教の教養はどうなったのだろうか。たとえば、雄大な思想を比類なく雄渾な文体にもった見事な空海の文章、一言一句が無常な人生の前にたつ緊張感に
ふるえるかのような源信の文章、あるいは、内面の深い罪のうめきを、執拗に追いかけるような親鸞の文章、そして、無類の宗教的情熱を、断定的な命
題に託した日蓮の文章、それらの文章は、日本のもっともすぐれた人間が達することの出来た、もっとも深い精神の表現だと思うが、こうした文章は、
一切国語教育から落されてゆく。熱烈に自己の主張を語るとき、人は必ず宗教的にならざるをえないが、こうした宗教的な文章は、いっさい国語の教材
から落される。そして兼好とか長明とかという、人生にたいする積極的情熱を欠いたニヒルな人間の文章が、日本の文章の模範とされるのである。
国語教育は、その国の最高の人間が書いた、豊かな思想と深い情感にみちた最良の文章によって行なわれるべきである。そして、古い文化をもち、し
かも仏教が文化の中心にしみこんだこの国では、もっともすぐれた精神は、多く仏教思想のかたちをとって己れの思想を語った。しかも仏教はキリスト
教のように、単一の教義への信仰ではなく、むしろ、それは仏説の実にさまざまな解釈をゆるす百花繚乱たる思想なのである。(以下略)》(89頁)
「日本人の宗教的痴呆」のサブタイトルをもつ第一部の第二論文「明治百年における日本の自己誤認」からの抜き書きである。このあと数頁にわたっ
て梅原猛の名調子が続く。「かつて日本人は『観経』を読み、そこに魂の深い不安の姿を見た。かつて日本人は『観音経』を読み、そこに生命の変化の
神秘を感じた。かつて日本人は『般若心経』を読み、そこに煩悩を離れる生命の知恵を見た。こうしたいくつかの深い精神の書から、われわれは永い間
遠ざかってしまった。」(91-92頁)全文引用しておきたいが、これくらいで止める。(いまは歌論で手一杯。とても「深い精神の書」にまで手が
だせない。)