啓蒙書による神の証明



【90】啓蒙書による神の証明(前編)

 啓蒙書と呼ばれる出版のジャンルがありますね。各種の新書に典型的に見られるもので、入門書、解説(概説)書その他呼び名は様々ですが、私はこの「啓蒙書」が(名実ともに)気に入っています。

 たとえば、それ自身現代数学の優れた啓蒙書である小島寛之氏の『数学迷宮』(新評論)の巻末に「啓蒙書フリークによる“迷宮”ブックガイド」と題された小文があって、そこでは高木貞治『解析概論』(私にとっては「啓蒙書」とは到底いえない本格的な書物)まで紹介されているのですが、これは「啓蒙書フリーク」を自認する小島氏が後進のために示した数学案内といった趣旨のものでしょう。

 ちなみに同書の「あとがき」に次の文章があります。これこそが私の愛する「啓蒙書」の定義にほかならないと思いました。<まず、「高度な数学を分かりやすく解説する」という常識的態度をいさぎよく切り捨てた。反対に「簡単な数学から複雑な迷宮を構成する」というラインを狙ってみた。それが本書『数学迷宮』である。>

 さて、以上を前振りとして、私がここで取り上げたかったのは、最近矢継早に哲学関係の優れた啓蒙書を世に送り出している講談社現代新書から先月出版された落合仁司氏の『〈神〉の証明』が、まさに「神学迷宮」ともいうべき刺激に満ちた、そしてよくできた面白い啓蒙書であったということです。

 優れた啓蒙書の条件は、小島氏の上記の文章をもじれば、簡単な命題から複雑な命題群(知的な「めまい」をもたらす迷宮)を構成するその手際にあります。さらに、扱われているテーマがもつ豊かさと未踏の領野がもつ魅力や可能性をまで読者にリアルに感得させることができたならば、それは名人芸の域に達しているといえるでしょう。『〈神〉の証明』に示された手腕はまさにそれだと思います。以下、同書の要約をかねてこのことを確認します。

(もっとも、啓蒙書としてよくできていることとその内容が完璧なものであることとは一応別の問題です。極端ないいかたをすれば、理路整然と間違っている優れた啓蒙書、正しい方向へと導くもののその内容は空虚なよくできた啓蒙書といった類型がありうるのではないか。「高度な内容を分かりやすく解説する」こと、つまり論証を欠いた真理の単純ないいかえに伴う陳腐化、平板化は論外として、たとえば法華七喩、方便など「教え」の言説が伝統的に培ってきた表現手法は、そのような類型の啓蒙書の所在をさし示しているように思えるのです。──聖なる言葉がもたらす眩暈へと人を導く啓蒙書。)

 落合氏は、<宗教とは、まず何よりも、われわれの生きるこの世界ではないもの、すなわちこの世界の他者に対する関心である>(17頁)と書いています。私たちが住むこの世界とは有限の世界にほかならないわけですから、その他者(あの世といってもいいでしょう)とは無限にほかならず、これこそが神、仏と称されてきたものにほかならない。すなわち、宗教の対象=この世の他者=神=無限。──このように神や仏をめぐる思考を「無限」をめぐる思考におきかえることが単純な命題その一。

 単純な命題その二(落合氏がそう書いているわけではありません)は、次のように表現されます。<神学は論理のみによって構築される他はない。この意味において神学と数学は全く同類である。>(160-1頁)

 かくして、無限をめぐる学としての数学、具体的にはカントールの提唱した無限集合論が神をめぐる思考に適用できることになるわけです。そして、『〈神〉の証明』第6章「神の集合論」では、無限集合論を使って、「神の受肉」と「人間の神化」の二つの伝統的な神学的問題がいずれも論理的に正当化できる合理的な出来事にすぎないことが論証されています。これぞ単純な命題から構成された「神学迷宮」の眩暈。数理神学者・落合氏の真骨頂ですね。

(ところで、落合氏は<無限は数え切れないないから無限なのであって>云々(17頁)と書いていますが、これはちょっと面白くない。数え切れない無限(自然数の無限)など全然神様らしくない。そもそも数えることができない無限(実数の無限)の方がこの世界の超越者らしくていい。)

 第二の命題の系。<神学、テオロギアとはまず何よりも弁明、アポロギアなのである。>(136頁)──何に対する弁明なのかといえば、論理学をもってしては正当化できない背理、つまり宗教的命題に対する弁明なのです。

 落合氏によれば、合理的な事態(論理的に真である事態)も非合理的な事態(論理的に偽である事態)もともに信ずるに値しない。<それを信じようと信じまいと、それが成り立つか否かは合理的に決定されているからである。>(141頁)実際、「神の受肉」であれ「人間の神化」であれ、無限と有限が切り結ぶ「背理」と思われた事態も、実は論理的に根拠づけることができる事態にほかならなかった。

 それでは<宗教の合理的な弁明としての神学>(同)が対象とする宗教的命題とは何か。つまり、信じることが問題となる宗教的事態とは何か。──<この世界の他者とこの世界の存在者たとえば人間とが接触する可能性を認めるか否か、という場面……すなわち人間が可能的に無限であるか否か、人間が無限である可能世界を認めるか否か、ここにおいて初めて信仰による選択が問われるのである。言うまでもなく宗教は、決然として、人間が神に出会いうること、人間が可能的無限であることを信じる。宗教とは人間の自己超越の可能性を信じることなのである。>(161頁)

 ここに出てくる<可能世界>とは様相論理学を踏まえた語彙であり、そして上記の引用はほとんど同書のさわり(結論)の部分に踏み込んでいます。先を急ぎ過ぎたようです。


【91】啓蒙書による神の証明(後編)

 神が無限であり、神学とは宗教的命題(論理的背理)に対する弁明であるとしたら、無限(神)が有限(人間)と成ること──神の受肉あるいは他者の「内在」──や、人間(有限)が神(無限)と成ること──人間の神化あるいは自己の「超越」──は、何をおいても、そしていかなる宗教にあっても、神学がその合理化(論証)に取り組まなければならない最大の背理であるはずです。

 実際、落合氏(『〈神〉の証明』)によれば、この世界の他者(神=無限)への関心としてのすべての宗教において、上記二つの宗教的命題(根本教義)を指摘することができます。ただ、個々の宗教によってそのいずれかを強調する傾きがあることは否めず、そこからたとえば西方キリスト教を典型とする「他者内在型(預言型)」と仏教を典型とする「自己超越型(神秘型)」の二類型が指摘されることになるわけです。

(落合氏はさらに、東方キリスト教とイスラーム教を念頭においた「他者内在かつ自己超越型」の宗教類型を提示しています。落合氏の著書の面白さと斬新さは、一つはカントールの無限集合論の神学への適用にあり、いま一つは第三の宗教類型の提示とその具体的な紹介にあると思うのですが、私自身の当面の関心からいえば後者に関する部分が格段に面白かった。このことはいずれ別の機会に取り上げてみたいと考えています。)

 さて、神の受肉(他者の内在)をめぐるギリシア教父たちの神学的思考は、父なる神と子なる神(人間に受肉した神)とは「ウーシア」(本質)において同一であるが、その「ヒュポスタシス」──落合氏はこのギリシア語を、個体的現実存在すなわち「実存」と訳している──において区別されると解しました。ここから生まれたのが東方キリスト教世界の三一論であり、西方キリスト教世界の三位一体論にほかなりません。(この東西両キリスト教世界の分離をもたらしたのが有名な「フィリオクエ論争」なのですが、この点についても別の機会に委ねます。)

 また、人の神化(自己の超越)をめぐる神学的思考の例として落合氏があげるのが、十四世紀、アトス山の修道院長であったグレゴリオ・パラマスが唱えた神学、いわゆるパラミズムです。<パラマスは、否定神学の教える神は人間には絶対的に接近不能であることと、人間の神化を求める人間は神と直接的に接近可能であることの矛盾を、神はその本質において接近不能であるが、そのエネルゲイア[…]、活動において接近可能であると考えることによって了解しようとした。すなわちパラマスは、神の接近不能性と接近可能性の矛盾を、神における本質と活動の差異として了解しようとしたのである。>(73頁)

 神の受肉と人の神化の二つの背理をめぐるギリシア教父たちの論証(弁明)は、<三一論は神の差異における同一を、パラマスは神の同一における差異を、それぞれに強調する>(75頁)という違いはあるものの、極めて似通った論理構造をもっています。──神が一にして多(三)であることの矛盾を、神の本質と「実存」における差異として了解する三一論の神学。接近不能な神への接近可能の矛盾を、神の本質と活動における差異として了解するパラミズム。

 そして、前者は「任意の無限集合は、自らと対等[同一]な真部分集合を含む」という定理に、後者は「任意の無限集合は、そのベキ集合[部分集合全体の集合]によって超越される」という定理にそれぞれ置き換えることができるというのですが、しかしこれはおかしい。というのも、落合氏が挙げるカントールの定理はいずれも無限集合に関するものであり、そこには有限(集合)は一切出てこないからです。

 神を無限と規定した以上、無限なる神について上の二つの定理が成り立つことは数学的に正しいこと(論理的な真)であって、信仰の対象とするに値しない命題です。神学が論証(弁明)の対象とすべき宗教的命題とは、神(無限)が人(有限)と成ることの背理なのであって神が一にして多であること(神の多一性)の矛盾ではないし、あるいは人(有限)が神(無限)と成ることの背理なのであって神の活動が神の本質によって超越されること(神の自己超越性)の矛盾ではなかったはずです。

 落合氏は、以上の点について次のように「弁明」しています。──数理神学が明らかにしたのは<この世界の他者の普遍的な構造>(156頁)なのであって、<神の受肉や人間の神化において人間の有限と神の無限が一致するという背理は、結局のところ何一つ解消されてはいない>(140頁)のである。

<何か騙されたような気がするであろうか。なるほどギリシア教父の神学は神の受肉と人間の神化を正当化することを意図していた。しかしそのギリシア教父の神学を集合論の地平において解釈した数理神学は、神それ自体の内的な構造(神の本質と実存の差異における同一、神の本質と活動の同一における差異)については、その真偽を決定しうるという大変な成果を挙げたにもかかわらず、神の外的な世界すなわちこの世界の人間との関係については、ギリシア教父の意図とは裏腹に、何の成果ももたらさなかったのである。初めの意図とは違ったが大きな成果を収めた、これはむしろよくあることではないか。>(140-1頁)

 落合氏は続いて、この世界とこの世界の他者(神)をあわせた全体としてのこの世界を考察の対象とした上で、<神と人間との一致といった宗教的な命題を信じるとは、それを論理的に真としうる可能世界[人間が無限である可能世界]の存在を受け入れることに他ならない>(145頁)としています。こうして、前回、先走って引用したさわりの部分へとたどりついたわけです。

 それにしても、数理神学が収めた「大きな成果」とはいったい何だったのでしょうか。それは<全ての宗教が従わざるをえない普遍的な神仏の構造が存在する>(158頁)ことの証明であると落合氏はいいます。そして、ここでいう神の普遍的な構造を最もよく保存しているのが欧亜、ユーラシアの世界宗教──<この世界の他者への関心を持続させている[世俗化を免れている]という意味において、言わば成功した宗教>(172頁)──だというのです。

<欧亜における世界宗教とは言うまでもなく正教とイスラームであるが、少なくとも正教は本書でも述べて来たように、三一論すなわち神の多一性とパラミズムすなわち神の自己超越性を、その神学の両輪とすることによって、神の直接的な内在と絶対的な超越の平衡を見事に保持している。神の多一性と自己超越性という、この世界の他者の普遍的な構造を保持していることが、この世界の他者の超越と内在の平衡を維持するための決定的な要因となっているのである。>(168頁)

(落合氏は、東亜では「一切衆生悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」の思想によって仏の内在性が強調され、仏の絶対他者性=超越の絶対性=無限性が否定されることを通して世俗化が進み、西洋ではトマス・アクィナスの神学、すなわち神の絶対的超越性を維持しながら神の本質と活動の一致を説いたトミズムによる神の内在性の否定、いいかえれば人間の神化・自己超越の可能性の否定を通して世俗化が進んだと述べています。前者は「神の多一性」が孕んでいる多神論への契機を徹底化したもの、後者は「神の自己超越性」の徹底によるものといえるでしょう。)


【92】啓蒙書による神の証明(番外)

 落合氏の『〈神〉の証明』を読んで、異和感を拭えない点が一つありました。それは、<三一論すなわち神の多一性とパラミズムすなわち神の自己超越性>(168頁)といった表現がもたらす「すれ違い」の感覚に由来するものです。

 たとえばいま引用した文章に二度出てくる「神」を「無限」に置き換えてみれば、「神の多一性」とは、無限集合そのもの(一)とその真部分集合(それ自体が無限集合でありかつ無限に存在しうる:多)との関係を述べたものにすぎないし、「神の自己超越性」とは、ある無限集合はそのべき集合というより「大きな」無限集合を必然的に創出する(べき集合によって超越される)ことを述べたものにすぎません。

 落合氏はこれらを「神の普遍的構造」と名づけているのですが、しかしそれは「無限(集合)の構造」にすぎないのであって、そこには三一論やパラミズムのうちに保存されていた「神」の観念(あるいは「神体験」の記憶)は表現されていないのではないか。これが私の異和感の実質です。

 さらに述べれば、あえて「無限」といわずとも単に「集合」の概念を使うだけで、たとえば集合とその要素との関係をもって「多一性」は説明できるし、集合の集合を考えることで「自己超越性」は了解可能です。

 もちろん、「多一性」や「自己超越性」をこのようなオブジェクト・レベルとメタ・レベル、さらにはメタ・メタ・レベルとの関係性に置き換えてしまうと、無限集合論がもつ凄味は跡形もなく消去されてしまいます。というのも、そのような議論は、ある事象を「集合」として把握する主体の存在を暗黙の前提としてはじめて成り立つものにほかならないからです。

 ところが、無限としての神の観念、あるいは超越神の伝統をもたない者が「神」について考える際、ともすればそういった「平板化」におちいりがちであることも(私自身の経験からいって)事実ですから、落合氏がカントールによってはじめて定式化された「無限(集合)の構造」をもって「神の普遍的構造」と定義したことには実は大きな意義があるのかもしれません。

 私の異和感を別のいいかたで表現してみましょう。──三一論やパラミズムを理解できない(ギリシア教父と「問題」を共有しない)無神論者であっても、落合氏がいう意味での神の多一性や自己超越性は理解可能なのではないか。つまり、そもそも神と無限を等式で結ぶことの妥当性はどこにあったのか。

 たとえば、デーデキントは『数について』(河野伊三郎訳,岩波文庫)で、無限集合の存在を次のように証明しています。

<二六 説明 一つの集合Sの写像φは、もし集合Sの相異なる要素a,bがいつも相異なる像a’=φ(a),b’=φ(b)に対応するならば、「相似」(または「区別のつく」)写像だという。…>(69頁)

<六四 説明 集合Sは、もしそれ自身の真部分集合に相似ならば、「無限」であるといい、そうでない場合にはSを「有限」集合であるという。>(80-1頁)

<六六 定理 無限集合は存在する。
 証明 私の思考の世界、すなわち私の思考の対象となる得るあらゆる事物の全体Sは無限である。なぜかというと、もしsがSの要素とすると、sが私の思考の対象であり得るという考えs’はそれ自身Sの一つの要素である。これを要素sの像φ(s)と見なせば、これによって確定するSの写像φは、その像S’の部分集合であるという性質を有している。しかもS’はSの真部分集合である、というのはSのうちには、このようなどの考えs’とも異なり、従ってS’のうちには含まれないような要素(たとえば、私本来の「我」)が存在しているからである。最後にもう一つ、a,bがSの相異なる要素ならば、その像a’,b’は相異なることは明らかだから、したがって写像φは区別のつく(相似)写像である(二六)。よってSは無限である。証明おわり。>(81-2頁)

 証明の過程で唐突に出てくる<私本来の「我」>に危ういものを感じますが、その点はいまはおいて、ここでは、少なくとも(カントールとは異なり)デーデキントにとっては「神」をもちださずとも無限集合の存在を考えることが可能であったことを確認しておきます。

 いまひとつ、落合氏の『トマス・アクィナスの言語ゲーム』(勁草書房)から印象的な文章を引用しておきましょう。

<トマスの神了解の核心は、神以外の存在者は、存在の限定されたものであり、したがって、有限であるのに対して、神は、存在それ自体であり、したがって、無限であるとする処にある。ここから、神以外の存在者の神への必然的な依存や、神の自らを除く存在者からの絶対的な超越が、帰結される。>(15頁)

<このように、トマスにとって、神と存在が、不可分であったことは明らかである。しかし、キリスト教的な神と、形而上学的な存在は、常に不可分なのであろうか。たとえば、「神学大全」第一部において、トマスが、神について語っていることは、本節で行ったように、神を存在に置き換えても、全く同じように妥当する。言い換えれば、存在という概念さえあれば、神という観念は不必要なのである。そのような存在を、何故、敢えて神と呼ぶのか。これは、伝統の問題である。キリスト教の伝統がある処では、唯一神という観念が、歴史的に与えられている。この唯一神という観念が、ひとたび与えられたならば、それが、形而上学的な存在の概念と一致することは、ほとんど必然である。何故なら、無限なるものは、唯一である他はないからである。しかし、神の観念を持たない歴史もまた存在する。そのような歴史においては、存在は、ついに神とは呼ばれまい。もっとも、神の観念なしに、存在の概念を発見しえたらの話であるが。>(16-7頁)

 トマス・アクィナスにとって、神と存在(無限)の一致がキリスト教の伝統に基づくものであったこと、そしてそうであったにすぎないことを強調すれば、前回言及したトミズムによる西洋での「世俗化」の進行はきわめて当然のことであったと了解されるでしょう。(ただし、落合氏が無限は唯一であるほかはないとしている点に若干ひっかかるものを感じるのですが、そういわれるとそうかもしれません。)しかし、超越神の観念と存在(無限)の概念との関係は、落合氏がいうように、いますこしこみいっているように思えます。

<ジルソンに従えば、形而上学的な存在の概念は、一神教的な神の観念が与えられることによって、初めて発見されえた。存在の概念が、アリストテレスにはなく、トマスにある所以である。神の観念の歴史的な啓示なくしては、人間の理性は、存在の概念に到達しえなかったという訳である。>(17頁)


【93】啓蒙書による神の証明(番外・トミズム1)

 神の観念と無限の概念の関係──信仰と理性の関係をめぐって、いましばらく『トマス・アクィナスの言語ゲーム』を読み進めてみることにします。

 落合氏は『神学大全』に準拠しながら、トマスの神、すなわち「他者にして無限なる何ものか」は、人間の理性(自然理性)をもってしては決して把握できないものなのであって、人間がそのような神に接しうるのは、ただ神が全くの恩恵として自らを啓示したからにほかならないとしています。この意味で、信仰は理性を完成する。

 一方、理性は、およそ存在するもの(存在者)がその本質(何性 quidditas)を決定(限定)されるためには、それ自体の本質は決定(限定)されえない他者からの「存在の分譲」に与るしかないこと、そしてそのような他者とは「存在それ自体 ipsum esse」であり無限であることを認識しうる。つまり理性は、無限なる他者としての神の存在を認識するわけです。しかし、その本質を(否定的にではなく積極的なかたちで)認識することは、理性によってはできない。

 ところで、西方キリスト教四大教父の一人大グレゴリウスがいうように、理性によって検証されうることは信仰に値しないのだとすれば(トマスもまた『神学大全』で大グレゴリウスのこの言葉を引用している)、自然理性が論証する無限なる他者という概念は、信仰の対象すなわち神についての了解が備えるべき条件を確定します。この意味で、理性は信仰の前提となる。

<この無限なる他者を、神と呼ぶことにすれば、神了解の基本に関わる二律背反に、ある明確な解決を与えることが出来る。すなわち、神は、存在者の本質の限定に不可欠な他者として、それぞれの存在者に即して内在する、がゆえに、それ自体は無限なるものとして、本質の限定された存在者を超越する。神は、他者として、われわれの身近に内在する。それゆえに、無限として、われわれを遥かに超越するのである。神は、他者として内在し、それゆえに、無限として超越する。(Deus pro alio immanet, ergo pro infinito transcendt. )この神了解こそ、トミズムの基本命題に他ならない。>(42頁)

 トミズムの核心は、「無限なる他者」の概念に基づくその存在論(形而上学)にあります。そしてそこから、内在しかつ超越する神の観念(が成り立つための条件)が導出され、かくして信仰と理性は統合されるわけです。──ところで、このような思考をトマス・アクィナスにもたらした時代背景について、落合氏は、当時のラテン・キリスト教世界がかかえていた危機、すなわちギリシア・ビザンツ文明、アラビア・イスラム文明という二大文明との遭遇によるアイデンティティ・クライシスの存在を指摘しています。以下、落合氏の叙述(前掲書第二章第一節)を要約します。

 当時のラテン・キリスト教世界にとって、ギリシア・ビザンツ文明とは<ギリシア人によって統合された東方神学、新プラトン主義的キリスト教>、アラビア・イスラム文明とは<アラビア人によって注釈されたギリシア哲学、アヴェロエス的アリストテレス主義>にほかならず、これらは「ギリシア化されたキリスト教」と「アラビア化されたアリストテレス哲学」、あるいは「理性を超越した信仰」と「信仰に内在する理性」との鋭い重層化された緊張として立ち現われていました。

 このように信仰と理性とにおいて鋭く対立する二大文明に接触したラテン・キリスト教世界は、同化でも逃避でもない第三の戦略として、両者のブレンドによる新たな文明創造(アイデンティティの確立)への途を選択したのですが、トマス・アクィナスこそがそのような信仰と理性とのブレンドの秘密を発見したラテン・キリスト教文明のオリジナル・ブレンダーだったわけです。

<しかし、トマスのオリジナリティ、したがって、ラテン・キリスト教世界のアイデンティティにとって本質的なことは、このような信仰と理性のブレンドの結果ではなく、このような信仰と理性のブレンドを可能にしたその方法である。すなわち、キリスト教の信仰とギリシア哲学の理性とをブレンドするという歴史的な課題に見事応答しえた、存在の形而上学という方法が問題なのである。このトマスの存在論こそ、ラテン・キリスト教世界の思想的な地平を決定した当のものに他ならない。この存在論の地平に立って始めて、ラテン・キリスト教世界は、ギリシア・ビザンツ世界やアラビア・イスラム世界と肩を並べうる、地中海世界の三大文明の一つになりえたのである。>(82-3頁)

 トミズムがヨーロッパの思想的な地平を決定したことの意義については、次回取り上げることにします。


【94】啓蒙書による神の証明(番外・トミズム2)

 落合仁司氏の『トマス・アクィナスの言語ゲーム』のハイライトであり(と私は思う)、そのタイトルの説明にもなっている部分を抜き書きしておきましょう。

<トマスの形而上学を二◯世紀的に表現するとすれば、それは、無限なる他者を必然化する言語ゲームであると言えよう。あるいは、より正確に言えば、ウィトゲンシュタインの言語ゲームそれ自体が、存在者の自同性[自己同一性=アイデンティティ]が限定されて来る存在であり、かつ、自らの自同性は決して限定されない無限である、という意味において、無限なる他者に他ならないのである。トマス・アクィナスの言語ゲームは、二◯世紀末の今日もなお、ヨーロッパの思想的な地平を決定している。トマスにとって、無限なる他者は、神であった。神は、他者として(存在者に)内在し、ゆえに、無限として(存在者を)超越する。この神の位置に、何が入るかによって、トマス・アクィナスの言語ゲームは、その意匠を大きく変える。しかし、そこに何が入ろうとも、無限なる他者を必然化するという、言語ゲームの基本構造は、全く普遍である。この不変なるものこそ、ラテン・キリスト教世界、したがって、ヨーロッパのアイデンティティ、すなわち、正統に他ならないのである。>(84-5頁)

 ここでいわれる「無限なる他者の言語ゲーム」の雛型を──トミズムの核心をなす存在の形而上学に即して──述べた文章が、いま引用した部分の直前に出てきます。

<存在者の自同性を限定することは、それを他者から限定することに他ならないのであるから、自同性の限定にとって、他者の存在は必然である。しかし、他者それ自体の自同性は、決して限定しえない。何故なら、他者の自同性を限定するためには、それが限定されて来る言わば他者の他者が要請されねばならないが、そのような要請は無限に遡行するからである。したがって、他者それ自体の自同性は限定されえず、無限である。すなわち、存在者の自同性が限定されるためには、自らの自同性は無限である他者が存在せねばならないのである。>(84頁)

 ラテン・キリスト教文明を第三の地中海文明たらしめたこの「無限なる他者の言語ゲーム」は、イタリア・ルネサンスの時代を経て「世俗化」の途を歩んでいきます。すなわち、創始者トマス・アクィナスが設定した基本構造は保持しつつ、無限なる他者を神から人間へ、そして人間集団としての世俗国家──近代的主体としての(作為する)国家──へと「同型変換」していったわけです。

 しかし、国家はもはや単数ではありえません。つまり、複数存在する国家(近代的主体)はもはや無限ではなく、他者(たとえば国際関係という秩序)によって「自同性」を限定される有限な存在者たらざるをえないのです。このような国家・主体を限定する秩序としての「無限なる他者」とは、非作為的=自然的な秩序(ordine naturale)──<たとえば市場経済や(慣習的)自然法、すなわちハイエクの言う自生的秩序>(98頁)──にほかならず、そしてそれこそが17世紀以降のオランダ、イギリスで展開された「自然的秩序の思想」だったのです。

<…作為する国家の思想を地中海的、自然的秩序の思想を大西洋的と形容することは、あながち無益ではない。近代思想史は、地中海的なるものと大西洋的なるものとの覇権取りゲームと見ることが出来るのである。しかし、地中海において発見された無限なる他者の言語ゲームそれ自体は、地中海文明としてのヨーロッパはもとより、大西洋文明としてのヨーロッパにおいても保存されていると見るのが妥当であろう。地中海文明から大西洋文明への転換は、やはり、無限なる他者の言語ゲームを保持しつつ、作為する国家を自然的秩序に置換する、同型変換であったと見るべきなのである。>(100頁)

(無限なる他者が神・人間(国家)・自然へと推移していくこのプロセスは、プロテスタンティズムのトマスとも称されるヘーゲルが体系化したロゴス・自然・精神をめぐる弁証法過程との関係を思わせます。それと同時に、地中海世界や大西洋世界とゲルマンの森、北方ヨーロッパとの関係についても考えさせるところがあります。)

 落合氏によれば、無限なる他者とは外部それ自体であって、もはやその外部が存在しないものです。たとえば、政治という世俗的なるものにおけるそれは、近代主権国家をその要素とする近代国際関係、すなわち国家が事実として遂行する慣習システムとしての「近代世界システム」にほかなりません。そして、近代世界システムを無限なる他者として同定することによって、無限なる他者を世俗化しようとした近代の企ては成功したのです。つまり、神の死によって、人間は世界それ自体を発見したというわけです。

<このことを、人間が世界を対象化することに成功したと誤解してはならない。人間は、世界を、決して対象化しえない、無限なる他者として発見したのである。世俗化は、人間を、全ての対象の自同性を限定する、超越論的主体の高みに昇らせた訳ではない。なるほど、世俗化によって、人間は、神を見失った。しかし、それによって、人間は、自らを超越する無限なる他者を、必ずしも見失った訳ではないのである。その自同性の限定される存在者が存在する限り、無限なる他者は存在せざるをえない。人間は、自らを超越した無限なる他者に存在されざるをえないのである。無限なる他者が存在せざるをえないこと、これこそ、トマス・アクィナスによって決定された、ヨーロッパの地平に他ならない。何ものかが、他者として内在し、それゆえに、無限として超越すること、これが、トマスによって選択された、ヨーロッパという言語ゲームなのである。したがって、近代世界システムが、世俗化された無限なる他者であるとするならば、近代という時代は、トマスの選択した、このヨーロッパという言語ゲームが、世界の全体に普遍化した時代であると言いえよう。>(74頁)

 もはや外部をもたないもの、それ自体が外部であるところの無限なる他者を必然化する言語ゲーム。──落合氏によってトマス・アクィナスの思想と結びつけられたこの存在の形而上学を、落合氏とは異なるかたちで「二◯世紀的に」表現するとすれば、それは無意識をめぐる言語ゲームであるといえるのではないか。(たとえば無神論者の『神学大全』。あるいは欲望を啓示する他者の言語。)そして、「近代世界システム」とは(ベンヤミン流にいえば)集団の夢としての無意識そのものだったのではないか。

 ──神の観念と無限の概念は必然的に等式で結べるのかという私の当初の「問題」は、『トマス・アクィナスの言語ゲーム』を読み終えても結局のところ解消されません。要は「無限」をどのようにとらえるかにかかっているのでしょう。これをここでの結論としておきます。


【95】啓蒙書による神の証明(番外・言語ゲーム1)

 前回引用した落合氏の文章に、<ウィトゲンシュタインの言語ゲームそれ自体が、存在者の自同性が限定されて来る存在であり、かつ、自らの自同性は決して限定されない無限である>というくだりが出てきました。このことに少しだけこだわってみます。

 その前に(くどいようですが)落合氏の『トマス・アクィナスの言語ゲーム』からの引用をいま一つ。──トマスの形而上学が今日においてもなおヨーロッパの思想的な地平を決定していることをめぐって、落合氏は次のように書いています。

 トマスの思想の中心となる「存在」の概念は、ある存在者の本質(何であるか)を問うことから導き出されたものであるが、この本質という概念は、「実体から関係への転向」というスローガンによって特徴づけられる20世紀思想を経た今日では、実体という概念と一緒にされてあまり人気がない。

<しかし、あるものの何であるかという問いは、常に問われているのであって、今日、この問いに対する答えを、そのものの本質と呼ばずに、そのもののアイデンティティ、自己同一性、自同性などと呼んでいるに過ぎない。ただし、あるものの何であるかを、そのものの自同性と呼ぶことによって、見易くなるものがあることも否めない。存在者の自同性とは、そのもののそのもの性ということであるから、あるものの何であるかを決定することを、存在者の自同性を決定することと言えば、あるものの何であるかの決定が、同時に、そのものの何でないかの決定、すなわち、そのものをそのものでない他のものから区別し限定することであることが容易に見えて来よう。存在者の自同性を決定することは、そのものを他者から区別し限定することに他ならないのである。したがって、存在者の自同性は、そのものの他者と相関的に決定されることになる。あるものの自同性は、他者との関係において決定される、いかにも二◯世紀的ではないか。しかし、この他者との自同性の対比は、トマスにおける存在と本質の対比と寸分も違わない。自同性と本質が同じことを差し示しているのは当然であるが、他者と存在もまた同一の事態を指示しているのである。>(83-4頁)

 私なりに要約すれば、なにものであれ存在しているもの(存在者)をめぐって「それは何であるか(何でないか)」と問うとき、そこにトマス・アクィナス由来の「存在」が、すなわち「自らの自同性は決して限定されない無限」なる他者が必然的に立ち上がって来るのであって、実はそれがウィトゲンシュタイン由来の「言語ゲーム」にほかならないということでしょうか。そうすると、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」=アクィナスの「存在」という等式が(常に)そこに成り立つことになるのでしょうか。

 あるものの何であるか(何性)とはある言葉がある言語ゲームのなかで担う(示差的な)言語的意味のことであり、そのもののそのもの性(自同性)とはある言葉がある言語ゲームのなかで使用される際の用法の一貫性のことなのであって、それらはいずれもこの世界やこの言語ゲームの外にある(と想定される)客観的な「本質」に言及したものではない。

 ──たとえばこのように考えれば、そしてあるものの何性や自同性が観念される場・地平のようなものを「神」と呼び、ある言葉(というより身体的動静や沈黙、思索、感覚なども含めた言語活動というべきでしょう)の意味や用法の一貫性が生起する文法的な磁場・生活様式のようなものを「言語ゲーム」と呼ぶならば、なるほど上述の等式は確かに成り立つように思います。

 しかし、このような<無限なる他者を必然化する>言語ゲームが、<二◯世紀末の今日もなお、ヨーロッパの思想的な地平を決定している>(落合氏)とはいったいどういう意味なのでしょうか。つまり、言語ゲームとはヨーロッパ的な思想に固有の概念であるということなのでしょうか。


【96】啓蒙書による神の証明(番外・言語ゲーム2)

 アクィナスの「存在」=ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という等式の意義をめぐって、『神学大全』とも『哲学探究』ともまともに格闘したことのない者が勘を頼りにあれこれ云々するのも、考えてみれば随分と無謀な話です。実は、私には「言語ゲーム」という概念がいまだによく判らないのです。もちろん「存在」もまた然りです。──以下、手元にある「素材」を二つ記載して、早々に退散することにします。(いつか機が熟せば、改めて取り組みたい。)

●星川啓慈『言語ゲームとしての宗教』(勁草書房)

 ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(藤本隆志訳,大修館書店)の第373節に、<あるものがいかなる種類の対象であるかは、文法が述べる。(文法としての神学)>とある。また、その二つ前の節には<本質は文法の中で述べられる。>とも。これらを踏まえて、星川氏は次のように述べている。

<…ここで重要なのは〈言語ゲームが異なるとリアリティが異なってくる〉ということである。すなわち、霊魂不滅を信じる者とそれを信じない者、最後の審判を信じる者と信じない者、復活の教理を受け入れる者と否定する者、自分の身におこったことをすべて宗教的褒賞や罰として受け取る者とそうでない者は、異なった言語ゲームをプレイしていると同時に、異なったリアリティを生きているのである。>(115頁)

<「言語ゲーム」なる概念は多くの問題をかかえこんだ概念である。しかし「生活形式と一体となっている言語ゲームは、ある一組の規則にのっとって営まれており、一つの体系を構成している」と考えられるのであった。この定義を宗教に応用すると、以下のようになる。
 一つの宗教とは、それ独自の一組の諸規則にのっとって営まれていて、一つの体系を構成しており、さらにその生活形式と一体となった、言語ゲームである。  仏教にせよ、ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、いかなる新宗教にせよ、それらはそれら独自の宗教的諸規則にもとづいて営まれている体系だった言語ゲームなのである。そして、それらは当該の宗教の生活形式と表裏一体の関係にある。
 このように述べると、〈人間の他の活動と異なる宗教の本質、つまり宗教を宗教たらしめるものは、この定義では把握できないのではないか〉という疑問が、宗教の本質論者から出されよう。これに対しては、次のように答えたい。宗教には本質はない、宗教を宗教たらしめているものなど存在しない、と。もろもろの「宗教」と呼ばれているものの間にあるのは、家族的類似性だけである。>(116頁)

●八木誠一「「言語ゲーム」と新約思想研究」(『現代思想』1998.4、所収)

 八木氏によれば、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は新約神学の方法論そのものである。──以下、要約と引用。

 一般に言語には「記述言語」と「表現(自覚表出)言語」の二種類があって、前者における名詞が客観的な指示対象をもつ「実体詞」であるのに対して、後者におけるそれは「動名詞」(名詞化された働き)である。たとえば「キリストが私のなかで生きている」(パウロ)というときのキリストは動名詞であるし、あるいは「私」とは観察や感覚の対象(言語世界の外にある客観物)ではなくて、<考えるときに、考えることのなかで、考えることを通して、自覚される働き>である。

 すなわち、「キリスト」であれ「私」であれ、表現言語に座をもつ語は「言語存在」にほかならず、これをつきつめると、<言語世界の外に客観世界あるいは公共の対象なるものは存在しないことになる>。また、これらの語を使用する際の各人の表象(箱のなかのカブト虫)は観察されるものではなく、各人によって自覚されるものなのであって、<この観点からみれば、コミュニケーション[言語ゲーム]の全体は、自覚─表出─了解という表現言語の枠組みで捉えられることになる>。

 このように後期ウィトゲンシュタインの言語論(言語ゲーム一元論)は表現言語一元論にほかならず、そしてそれは新約神学の方法論そのものである。<…新約聖書で用いられる神学的用語の語義の研究は、その語の指示「対象」に接することによってなされるのではなく、教団の「言語ゲーム」における当該語の使われ方を検討することによってなされるわけだ。>

 実際、新約聖書で用いられた神学的概念の意味論的研究──原始キリスト教教団の「言語ゲーム」においてその語がどのように用いられたかをめぐる検討──の成果は膨大なものである。しかし、このような言語ゲーム論的検討だけでは、テキストは「了解」されない。

<それらの語はもともと働きの経験と自覚に根を持つのであって、だからそれらが我々自身に自覚される生内容といかにかかわり、それをいかに代表するかが明らかとならない限り、つまり我々自身がその語が代表する生内容に思いあたらない限り、語の了解も、教団の枠をこえた公共的使用も成り立たず、教団言語も、教団内部でだけ通用する一種の虚しい私的言語となってしまう。>