デカルトが始めたこと



【69】カルテジアン・ダイコトミー

 デカルトとデカルト主義は違う。マルクスとマルクス主義が違うように。──柄谷行人氏は、『探究 II 』第二部の冒頭で次のように書いています。<われわれは、デカルトと、彼とともにはじまるといわれる近代哲学の構え(精神と身体、主観と客観)に対する各種の批判を幾度もきいている。しかし、そのほとんどはデカルトと無縁である。たとえば、精神と身体の二元論などは、デカルト以前からあるだけでなく、日常の思考(言語表現)にある。それをデカルトのせいにするのは的はずれである。というのは、デカルトにとって、その種の二元論を拒否することにこそ「精神」があるからだ。>

 たとえば、最近読んでいる書物にも次のような文章が出てきます。<実際、近代的主体は自分自身と事物の間に二元性を確立することを通じて、環境世界から退き、以後その世界を自身とは決定的に区別される客体として見るようになった。/デカルトの有名な「我思う、ゆえに我在り」という言葉が象徴するのは、まさにこの後退である。実際、デカルト的な主体はそれ自身の意識のうちに土台を置いているのであって、主体をとりまき、そして主体が純粋な客体として凝視することになる事物との関係に基盤を持つのではない。>(オギュスタン・ベルグ『地球と存在の哲学』篠田勝英訳、ちくま新書。蛇足ながら、この引用は同書の評価そのものとは無関係である。)

 いわゆる「デカルト的二元論」が柄谷氏のいうようなものであるとすれば、それはイデオロギーであると考えていいと思います。ここでいうイデオロギーは、虚偽意識といったマイナスの価値を伴うものではなくて、単に日常的な思考の枠組みや考え方を意味しています。そしてそれが私たちの言語の文法に深く根ざしているものであるかぎり、たたいてもたたいてもそれは「自然に」発生してくるものだと思うのです。(たしかクリフォード・ギアツが、これもたしか『文化の解釈学』という著書の中で、イデオロギーをめぐって似たような議論を展開していたと記憶していますが、手元に文献がないため確認できない。)

 私はそもそも精神と身体、主観と客観の分裂やそれらの統合(一体性の回復?)を、私の「哲学の問題」とは考えていません。というより、少なくともいま現在の私にとって、それらはいかなる問題性も感じさせないものなのです。強いていえば、それらが問題であった(あるいは問題となる)時代や個人的状況はあるはずだから、そしてそれらを自らのリアルな問題として徹底的に究明した哲学者もいたはずだから、いわば哲学の練習あるいは予行演習としてこの擬似問題について思索をめぐらせてみる価値はあるのかもしれません。

(たとえば、心にもない信仰告白を強いられ、これを受容しなければ恐ろしい拷問が加えられるといった極限状態や、死の間際、視覚と思惟だけの存在となった私が死にゆく自己の身体を観察しているといった状況にあれば、精神と身体の分裂は一種の存在論的な凄味をもった「問題」であるかもしれない。)

 ところで、「デカルトとデカルト主義は違う」という表現は実におもしろい。それは哲学の問題をめぐるある構造をさし示しています。──誰か、たとえばデカルトが、精神と身体、主観と客観の二分といった擬似問題が哲学の問題として通用していることに異を唱え、これを批判したとする。そして、精神と身体の対立・二分などが問題なのではなく、精神と身体の二分・対立の上に成り立っている世俗的世界(共同体?)と、これとは異なる原理の上に立つところの精神的世界(独我論者たちの公共体?)との対立・二分の方がより根源的な問題なのだ、などと語ったとする。

 ここで面白いのは、このような議論を通してこそ、実は精神と身体の対立・二分といった「イデオロギー」が明瞭に語られることです。(AではなくBであるという言明によって、BではなくかえってAが意識化される。あるいは、「¬A」が「A」を明示するといってもいい。もっとも、このような形式的ないいかえは、ここで見ようとしている構造の立体性のようなものを消去してしまう。)

 その結果、誰か、たとえばデカルトの死後、精神と身体、主観と客観の二分・対立を問題とする「構え」そのものを問題にしたデカルト的問題の前半部分が哲学の問題として「独り立ち」をして、その由来が誰か、たとえばデカルトに帰せられることになる。──以上が私のいう、哲学の問題をめぐるある構造です。

 それにしても、デカルトとともに(西欧)近代哲学が始まったといわれるとき、そこで始まったものはいったい何だったのでしょう。それは近代(哲学)批判である、と気をきかせたつもりでいってみたところで、これでは何も語ったことになりませんね。デカルト自身が書き残した文章に即してこの問題について思索をめぐらせた文章、まわりくどい表現ですが、デカルトと「問題」を共有している(と思われる)哲学者の書いた文章に即して、このことを考えてみたいと思います。


【70】デカルトが始めたこと(前編)

 小泉義之氏の『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書)は、実に刺激的な書物でした。(そこから始まるだろう、いまだ誰によっても考えられたことのない議論の予告めいた文章が生煮えのままで提示されている箇所がいくつか見受けられはしましたが、それがまた読者の、つまり私の思考をいたく刺激して、本書の魅力を構成する要素となるのでした。)

 ところで、この書物のタイトルはどう読めばいいのでしょう。「デカルト」と「哲学」がイコールで結ばれるものであって、だから「デカルト=哲学」への誘いの書なのか、それとも「デカルト」そのものが、というよりデカルトの書き残した言説がそれを読む者を哲学へと誘うものであるということなのか。あまり意味のない詮索かもしれませんが、私は、小泉氏は著書のタイトルの中で「デカルト=哲学」という命題を宣告したかったのだと解しています。

 デカルトこそが哲学だ。カントやヘーゲルではなくて。──それにしても、これは随分と大胆で潔い断定ですね。そして本書を読み終えたときに私は、「デカルトこそが哲学だ」という言明が成り立ちうるかぎりでの「哲学」は確かにデカルトによって始められ、デカルトにおいて極められたに違いないと確信したのですが、もし著書のタイトルに込められた小泉氏の「主張」がいま述べたようなものであるのならば、私はその術中に(実に気持ちよく)はまったわけです。

 デカルトは『省察』の第一で、ラディカルな思考実験を試みています。それは、確実に真といえるもの以外はすべてを徹底的に疑ってみるというものです。まずデカルトは、あらゆる事柄の根底をなすところの感覚を疑います。一度でも自分を裏切ったことがあるものには信をおかないというわけです。

 しかし、たとえば夢の中での感覚が偽であるとしても、そのような感覚をもたらす肢体(感覚器官を内蔵した身体)は確実に存在しているのではないか。画家たちが奔放な想像力にまかせて架空の対象を描いたとしても、少なくとも彼らが構成する色だけは現実のものでなければならないように。あるいは、「2+3=5」や「四角形は四つの辺をもつ」という命題が普遍的に真であるように。

 デカルトの懐疑が徹底的であるといえるのは、そのように確実な(と思われる)ものをも懐疑する立場を仮構した点にあります。正確にいうと、私は何者か、たとえば狡猾な悪魔によってだまされてそのように思っているのではないか(そのように思うものとして創造されているのではないか)と疑ってみる、そのような立場にデカルトは立ったわけです。

 催眠術にかかった人間は自らの意思で行動し、あるいは自然な感情の発露として喜怒哀楽を表現していると思い込んでいるのですが、狡猾な催眠術士がどこかに潜んでいて、仕掛け通りに人が行動し感情を表現するのを観察(検証)している。私は私の生を生きているのだと主張しても、いやお前は私の手によってそう思わされているだけなのだと催眠術士はこれを否定する。そのような状況は確かに(論理的のみならず現実的にも)ありうるでしょう。

 私は、デカルトの思考実験は個人の感覚と思考をめぐる原理的なものであるとともに、社会的な文脈においても考えることができるものだと思います。たとえば、ある共同体に属している私は外の世界にふれたことがないために、共同体の内部で通用している規範や宗教意識、通念を普遍的な真であると思っていますが、それは私がそのように思う存在として(共同体における習慣の力によって)創られているからではないか、という懐疑が可能だということです。

 実際デカルトは、懐疑の思考実験はたいへんな仕事だと思われたので、これに着手するのに適切な成熟した年齢に達するまで待っていたと書いています。つまり、共同体の力、習慣の力を十分わきまえた上でないと、懐疑の思考実験の本当の凄みは理解できないということなのでしょう。(やや強引な「読み」か。)

 しかし、このような解釈はあまり面白くない。むしろ、デカルトのいう「感覚」を生のリアリティ(あるいはクオリア?)と読み替えて、共同体に根をもたない個人(共同体に根ざした生に安住できない個人)といった特殊な存在だけではなく、それこそ普遍的に(いつどこででも)成り立ちうる根源的な懐疑としてとらえる方が刺激的だと思う。


【71】デカルトが始めたこと(後編)

 悪魔に魂を売り渡すとか、魂を抜かれるとか、西欧産の読物にこの類の話がよく出てきますね。魂がなくなると、人はいったいどういう状態になるのでしょう。以下、思いつくかぎりで列挙してみます。

・感情や感動や実感がなくなる。あるいは、私が私であるという確信がもてない。
・意識がなくなって(そのかぎりで死と同等)、抜け殻となった自分が(そのかぎりでロボットと同等)残りの生を生きていく。
・私の身体が別の人格に乗っ取られ、私は意識の片隅に押し込められて(その別の人格にとっての無意識となって)、対外的には一切の表現も言動も叶わない。
・私は相変わらずそこにいるのだけれど、それはこの私ではない。(「そこ」にいるのは私の身体で、私の意識は「そこ」にはない。つまり幽体離脱)
・記憶も身体もそのままで(だから感覚や感情や気持ちや思考は以前とまったく違わない)、ただ「私」だけがそこにいない。(そうすると「私」はどこへ行ったのだろう。そして「私」だけがそこにいないと語っているのはいったい誰なのだろう。)
・チューリングテストの結果、お前はただの機械だ(人間ではない)と断定された私は、自分が実はただのロボットであったことを知る!

 デカルトが『省察』の第一で試みたのは、もしかすると自分は悪魔によって魂を抜かれているのかもしれないという究極の懐疑だった、と見ることができるのではないかと私は思います。

 デカルト自身の言葉でいうならば、それ(第一省察での懐疑の結果、悪魔に騙されているかもしれないものとなった私)は感覚も身体ももたないけれど、この世界には(確実なものは)何も存在しないということを確信している。そうすると、天も地も精神も肉体も存在しないと確信しているもの、そのように考えているものは確かに存在しているのである。──デカルトはここまで思考実験をすすめ、そしてあのあまりに有名な究極の表現へと到達します。

<しかし、誰かしらきわめて有力な、この上もなく悪賢い欺瞞者がいて、故意に私をいつも欺いているのではあるまいか。彼が私を欺くのであれば、それなら疑いもなく私もまたあるのである。たとえ彼がどれほど私を欺こうとも、私が自分は何ものかであると考えるであろう間は、彼は決して私を何者でもなくすることはできないであろう。したがって、一切のことをとくと思いめぐらしたあげく、けっきょく、私はある、私は存在する、というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは心のなかで考えるたびごとに、必然的に真であるとして、これを立てざるをえないであろう。>(『省察』第二の第三パラグラフ、桝田啓三郎訳)

 『デカルト=哲学のすすめ』の第二章「懐疑−世俗的生活からの脱落」は、デカルトの第一省察を扱っています。小泉氏はそこで、次のように書いていました。

<デカルトは「一生に一度」は懐疑を遂行しようと呼びかけていた。ところで、「一生に一度」だけ起こることとは、生誕と死去にほかならないだろう。とするとデカルトは、夢の懐疑を遂行することを、生まれくる者と死にゆく者の観点に立つことだと考えていたに違いない。[…]夢の懐疑は、世のまともな大人と狂ったふりをする大人とは無縁の場所で、要するに一切の大人とは無縁の場所で、死にゆく者が遂行する懐疑である。>

 死にゆく者が遂行する懐疑。そして、デカルトの第二省察はそのような「死にゆく者の独我論」(小泉前掲書第三章の標題)である。──これは卓見だと私は思います。死にゆく者は世俗的生活から離脱しつつある者なのですから、いわば純粋な精神生活者であるといえるでしょう。つまり小泉氏がデカルトから読みとったものは、そのような精神的世界における「善い生活」(それは世俗的世界での「正しい生活」あるいは「良い生活」とは完璧に異なる)をめぐる<浮き世離れした哲学・倫理学>の究極の表現だったわけです。

(私は、小泉氏が『デカルト=哲学のすすめ』で展開した議論は、永井均氏が『〈私〉のメタフィジックス』(勁草書房)で『省察』第二の第三パラグラフまでのデカルトの思索とそれ以後のそれとを区別し、前者から後者への移行を<デカルトの撤退>と表現したことに対する反論、あるいは永井氏のそれとは別の読み方の提示だったのではないかと考えています。この点については、いつか私自身の作業として『省察』第三以降に取り組むなかで確認してみたい。)


【72】デカルトが始めたこと(補遺と余録)

●小泉義之『デカルト=哲学のすすめ』から。

 天使の感覚について。<天使はいかに微小な波動でも明るさとして感知するから、天使にとって世界は、どこにも影のない、無限に多様な度合いの明るさとして立ち現れるだろう。>(109頁)──天使はいかに微小な波動でも「喜び」として感知するから、天使にとって世界は、どこにも「悲しみ」のない、無限に多様な度合いの「喜び」として立ち現われる(のだろうか)。

 哲学者の神=宇宙について。<宇宙は一つであり一つしかない(universum に複数形はない)。世界は、一つの生命体にとっては一つしかないが、世界は複数の生命体に応じて複数個あると考えられるし、別の世界が別の場所・時間に複数個あるとも考えられる(mundus には複数形 mundi がある)。そして、宇宙は無限であるが、世界は無際限である。…観測だけに依拠する自然科学は、世界について語ることはできても、宇宙について語ることはできない。現代「宇宙」論は基本的には「世界」論であると言わなければならない。したがって、世界についての語り方から出発して、宇宙についての語り方を獲得するためには、観測に加えて「理論」が必要である。それこそが「宇宙論」であるわけだが、伝統的には、「自然学(フィジカ)」を越える学問という意味をもつ「形而上学(メタ・フィジカ)」と「世界」を越えるものを主題とする「神学」こそが、そのような「理論」を与えてきた。だから、現代宇宙論が本当に宇宙論であるためには、形而上学や神学の理論を現代的に再生していなければならない。>(114-115頁)──これと同様のことが、たとえば「正義」についてもいえる。複数形をもたない正義の理論と複数形をもつ正義観。

 祈りの言語ゲームについて。<…私の祈る言葉や祈る動作を考えてみよう。それらは他人によって見て取られて理解されて、言語ゲームに埋め込まれるにしても、少なくとも私にとっては、言語ゲームに還元されない余剰が残るはずである。というのは、私の祈りは、たんなる手話やたんなる動作ではなく、手話=動作による行[ぎょう]でもあるからだ。行とは、世俗的意味に還元されない意義を求めて、世俗的意味賦与を断ち切ることを求める手話=動作である。…/ここにおいて、私の祈りの余剰は、祈りの言語ゲームから発生する副次的効果にすぎないと指摘されるかもしれない。おそらく、その通りなのだろう。しかし逆に、私の祈りの余剰から別の新しい言語ゲームが発生すると考えてみることはできないだろうか。祈りから別の新しい言葉や社会が発生するとしたら、どうだろうか。>(131-132頁)──それこそ「宗教言語」であり、もしかするとウィトゲンシュタインが言語ゲーム論で本当に考えたかったことなのかもしれない。

●デカルトは、「私はある」という命題は、私によっていいあらわされるたびに、あるいは精神によって把握されるたびごとに、必然的に真であると書いている。ヘーゲルが『論理学』の冒頭で論じた「有と無」は、「私はある」という命題が把握されるたびごとに「有」が「無」から生成するということ──あたかも脳内のニューロンが発火するたびごとに意識が現われ、ニューロンが発火を止めるたびごとに意識が無くなるように──を叙述していたのかもしれない。

 デカルトが『省察』第二で「私はある」と言表したとき、彼は記憶も感覚ももたない存在であったのだから、そこには時間も空間もなかったはずだ。ヘーゲルが『論理学』で叙述しているロゴスも、時空生成以前の世界で稼働していた。そうすると、ヘーゲルがいう「成」とはいったい何なのだろう。蜜蝋の蜜蝋らしさ(つまりクオリア?)を感覚している私のことなのだろうか。

●茂木健一郎氏は『ペンローズの量子脳理論』(竹内薫+茂木健一郎訳・構成、徳間書店)に収められた「「ツイスター、心、脳」ペンローズ理論への招待」の中で、ロジャー・ペンローズは「すべては数学で書くことができる」という信念の持主であると書いている。<今後、もし「意識」の問題に飛躍的な発展があるとすれば、それは、数学的言語を通してのみ可能だろう。アインシュタインの式[E=mc^2]のような、一見全く無関係に思えるものを結び付けるような式が現れて、初めて本質的な進歩があったと言えるのだ。逆に言えば、数学的言語に基づかない、「言葉」=自然言語に基づく議論は、いくら積み重ねても限界があるということになる。…ペンローズの目指しているのは、…最終的に数学的言語できちんと書ける「意識」に関する自然法則を構築することなのである。>

 ここでいわれる<自然言語に基づく議論>とは、たとえば哲学者の「お話」がそれである。茂木氏は、<すべての哲学者の言説が無責任[最終的に「数式」という形で白黒のつく責任をとる必要のない「言い放し」]だというわけではないが、最終的に何か具体的なものを建設するわけでもないのに偉そうな言い回しをする彼らの文章にうんざりする部分があることも確かだ>と書いている。私も、哲学的駄弁にはうんざりしている。何か具体的な「問題」を感じているわけでもないのにデカルトがどうのドゥルーズがどうの西田における何々がどうのといった「議論」を展開したり、問われてもいないのに(あるいは自分の生死がかかっているわけでもないのに)歴史的・政治的な事柄に関して「所感」を述べて、それで何がしかの思想やら哲学的立場を開陳したつもりになっている類の文章には飽き飽きしている。

 その点「近代哲学の父」デカルトの文章はさすがだ。そこには、デカルトと同じ「問題」をめぐって思索をめぐらせた誰もがそこに行き着くと思われる究極の表現が(少なくとも『省察』の中には)見られる。──私がデカルトの文章に力を感じるのは、彼が第一級の数学者であったからかもしれない。そして、デカルトが始めたもう一つのこと(いま一つは、「死にゆく者」(小泉)の思考実験=デカルト的懐疑)は、数学的言語で書かれた世界の解読(あるいは数学による世界の解明)なのかもしれない。

●科学者の仕事は、自然であれ社会であれ人間の営みであれ、彼または彼女が探求しようとする対象についての記述を、多くの人々が理解できるよく定義された概念群を使って表現することにある。ここでいう「よく定義された概念群」の典型が、古代ギリシア人が発明したとされる論理学と幾何学(数学)である。デカルトが始めたのは、このような意味での科学者の仕事にほかならない。「普遍数学」とは、万有を記述する(そして万有がこれに基づいて稼働するところの?)概念群を創造(発見?)しようとするプロジェクトの名称だったのではないか。


【73】歴史の概念をめぐる素描(あるいは宮澤賢治の四次元感覚)

 デカルトが始めたもう一つのこと(数学的言語で書かれた世界の解明あるいは「普遍数学」の探究)を取り上げる前に、少し寄り道をします。

 小泉義之氏の『デカルト=哲学のすすめ』に、祈りから始まる新しい言語ゲームの可能性について言及した文章がありました。このことをもっと踏み込んで論じたものはないものかと思っていたところ、同氏の近著に『弔いの哲学』(河出書房新社)があることを知り、早速読んでみました。

 同書の末尾に小泉氏は、<死んだ子の顔を想起すること、死んだ子の歳を数えること、死んだ子の名を呼ぶこと、それが弔うということであ>ると書いていて、そのような振る舞いだけが死んだ人を「英霊」や「犠牲者」に、つまり匿名の「死者=亡霊」にまつりあげることのないやり方であるとしています。

 おそらくは、<日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か>(加藤典洋「敗戦後論」)といった言説を念頭におき、そのような問題のたて方そのものを無効にするような根底的な批判を試みた(と思われる)この書物のキーワードは、死とは生体が「死体」になるというただそれだけのことにほかならず(死者=死体)、したがって<誰かの死と私の生の断絶を思い知ること>あるいは「死者の名」を唱え続け死者を亡霊にしないことこそが弔いである──この二点に尽きると思いました。

 これだけの引用や説明では、この書物の要約にも紹介にもなっていませんね。そして、小泉氏のいう「死者の名」を唱えることが、祈りから始まる新しい言語ゲームのなんたるかを考えるヒントなのかもしれません。しかし、ここで取り上げたいのはそのことではなくて、死とは生体が「死体」になることにすぎないこと、そうであるにもかかわらず歴史とは常に誰かの死と誰かの生とを結びつける「神話的権力」(小泉氏)によって構成されてきたものであることを、いま少し立ち入って考えるためのラフスケッチを描いておきたいのです。

 宮澤賢治の作品に、他者のために自らの身体を食糧として差し出す生き物(たとえば蠍)の話が出てきます。私は、このエピソードは(あるいは『法華経』の教えにしても同じことだと思う)自己犠牲や利他行為の徳を称揚するものなどではなく、自然の摂理あるいは自然史(誌)的な事実を表現しているものだと考えています。

 生き物は皆死んで、他の生き物の食糧になる。あるいは、死とは死体=食糧になることにすぎない。(もしかすると、ギリシア神話のメタモルフォーゼとはこのような「食物連鎖」を意味していたのかもしれない。)──小泉氏も前掲書で、<誰かの死と誰かの生のあいだに、何らかの現実的関係が成立するのは、誰かの死体を誰かが食べる場合と、誰かの臓器を誰かが移植される場合だけである>と書いていました。

 生き物の死はいかなる物語(意味)にも属することなく、ただ事実として日々生成するものであるとしても、近親者や戦友や友人や愛する人(動物)の死には意味はないのでしょうか。私はあると思います。そしてこの「意味」を通して死者は残された者のうちに「存在」し、そこに一つの「物語=歴史」をかたちづくっていくだろうと思うのです。

 しかしここでいう意味とは、共同体や国家など具体的な個人の名を捨象して設営された生の舞台に生起するものではなくて(つまり哀悼や追悼ではなく、死者の名を唱える祈りのうちに示されるしかないものとしてあり)、また死者が残された者のうちに存在するといってもそれは観念や表象といった心理的なものとしてあるわけではなく(つまりなんらかの記号や建造物によって象徴されうるものではなく、そういってよければ原理的・論理的なものとして存在しており)、だからそこから生まれる歴史にしても物語られ忘却されることはあっても編纂され解釈されるもの(制度的に記憶され続けるもの)としてあるわけではないのです。

 宮澤賢治の作品群が示している「四次元感覚」とは、残された者が死者とともに存在することができる不可能な場所への方向感覚のことであり、一種の生命感覚のことだったのだと私は考えています。

 たとえば「あらゆる透明な幽霊の複合体」(『春と修羅』第一集序)や「すきとおったかなしみ」(宮澤賢治の詩篇にこのような詩句があったかどうか)といった語彙は、現象の背後や深層に──これらの言葉がさし示す場所や位置や方向についての厳密な論証と明晰な直観を欠いたまま──事柄の本質だとか真の意味だとかを措定しようとする思考形態、いいかえれば匿名の他者たちの死を契機として歴史を編纂してしまう思考形態とは無縁な、もう一つの(生命感覚に裏打ちされた)歴史感覚の可能性を示しているのではないでしょうか。


【74】歴史の概念をめぐる素描(あるいはヘーゲルの三つの生命)

 最近ある人から、あなたは「他者」をどのように定義されますかと問われて、他者とは時間のことなのではないかと答えました。そのとき私の念頭にあったのは、実は三年前に亡くなった父親のことだったのです。

 私は哲学上のいわゆる自他問題には(いまのところ)まったく「問題」性を感じていないのですが、他者を死者におきかえて、そして自他問題を他者の認識の問題ではなく他者=死者の(それも私との間に具体的な関係をもった死者の)存在の問題として構成するならば、そこから汲めども尽きぬ「問題」が立ち上がってきます。

 ところで、他者が時間の問題であり、あるいは他者=死者と私とが共在しうる空間の問題であるとしたら、それはまさに時空を扱う相対性理論の射程範囲に属するものだといえるでしょう。

 竹内薫氏と原田章夫氏の共著『宮沢賢治・時空の旅人』(日経サイエンス社)は、「文学が描いた相対性理論」というサブタイトルからもうかがえるようにアインシュタインの特殊相対性理論への優れた誘いの書であると同時に、文学という営みがその根源においてはらんでいる生命や他者の問題、すなわち時空の問題が宮澤賢治という希有な人物によっていかに詩的に表現されたかを──そして詩的表現が数学的表現と拮抗しうるもう一つの厳密な表現であったことを──いきいきと描いた読み物でした。

 相対性理論(時空論・重力論)や量子論、そしてロジャー・ペンローズが意識の問題を解明する鍵になると予言した量子重力論。私は、カントールの連続体仮説やリーマン予想、ポアンカレ予想といった現代数学の問題とともに、これらの理論物理学上の話題にかぎりない刺激を感じており、その正確な理解を抜きにした哲学的言説は最終的に駄弁にすぎないものとなるのではないかとさえ思っています。

 そしてそれとほとんど同じくらいの重みをもって、たとえばマラルメやランボーやパウル・ツェラン、宮澤賢治や吉岡実、イリアスや万葉集などの詩篇から一つの時空を、つまり宇宙の実在を感じ取ることのできない知性を信用できないのです。

 とはいえ、上に述べた事柄は私の願望あるいは訓戒にすぎず、ここでいま扱っているテーマとは直接の関係がありませんでした。(ただ一つ気になったことをノートしておくならば、竹内氏は、特殊相対性理論においてアインシュタンがそうしたように「光速度不変の原理」を採用するかどうかは<早い話が哲学の問題なのです>(前掲書124頁)と書いています。これはどういう意味なのでしょう。)

 話を戻します。私はいま他者の死を契機とする「歴史の概念」について考えるための予備作業をしているのでした。歴史といえば、哲学の分野ではまずヘーゲルですね(?)。竹内氏が前掲書の巻末に寄せた文献案内の中に、次のような文章が出てきます。

<すべての〈存在〉の根幹には〈区別〉がある。…さて、“KNOTS AND PHYSICS”の著者のカウフマンは、/およそ〈区別〉あるところ、四次元時空とローレンツ変換あり/という驚くべき関係を数学的な「証明」の形で示唆している。つまりローレンツ変換は、どこからともなく偶然に出てきたものではなく、どうやら、存在と認識という哲学的問題と密接に関連しているらしいのである。/〈区別〉については、ヘーゲルのあとをうけて現代フランス思想でも大きなテーマとして扱われている…。/また、この問題は、最近発展している「結び目理論」などの現代数学の最前線とも密接に関係している…。>

 ローレンツ変換や結び目理論、現代フランス思想云々はさておきます。ここでは、区別のあるところに四次元時空があり、この区別がヘーゲルに由来すると示唆されている点に注目します。

 私はここ一年近くヘーゲルの『大論理学』を読み続けていて、ちょうどいま最終巻「概念論」最終篇「理念」の第一章「生命」に取り組んでいるところなのですが、その総論部分でヘーゲルは、生命には論理学(ヘーゲルがいう論理学は形式的な思惟法則の学ではなく、一種の存在論だと考えてください)が扱う「論理的生命」と自然哲学が扱う「自然的生命」、そして精神哲学が扱う「精神の中の生命」の三種類があると述べています。以下、私なりの要約と引用(武市健人訳『大論理学』下巻,岩波書店)で紹介し、次回へつなぎます。

 論理学が扱う生命は<純粋理念としての論理的生命>、いいかえれば理念の中にある生命なのであって、自然的生命とも精神と結びついている生命とも異なるものである。

 まず、自然的生命は、非有機的自然に制約され、現実的な形態の多様性がその理念の契機となっているような自然である。それは<自然の外面性が自分の中に向い、主観性の中で止揚されることによって到達される>ところの最高の段階である。これに対して論理的生命は、現実性の形態をとるものを前提としたり、その実在性の諸契機として外面的な現実性の形態をもったりすることはない。それは、あくまでも概念を前提とし、主観的概念をその魂として客観的な全領域を通じて自分の実在性を媒介し、概念の形式の埒内にその実在性の諸契機をとどめるのである。

 次に、精神の中の生命は、一面では精神と対立し(精神の手段としての生命)、他面では精神と一つのものとなっており(精神の身体としての生命)、そしてこの統一が再び精神によって純粋なものとして生み出されるといった関係の中にある。それは、自然的生命と同様、外面性の規定性をもっている。すなわち、自然的生命が自然の多様な形態によって前提・制約されていたように、精神の中の生命は精神の目的と活動性によって規定されているのである。これに対して論理的生命は、そのような前提・制約としての客観性(自然)からは自由であり、またこのような主観性(精神)に対する関係からも自由なのである。


【75】歴史の概念をめぐる素描(あるいはベンヤミンの歴史の天使)

 前回紹介したヘーゲルの叙述は、たぶんわけのわからないものだったろうと思います。私自身も、訳書を読んでいるときはそれなりに「理解」していたのですが、いまあらためて要約を眺めてみるとそれもあやしくなってきます。自分の中にいつのまにかできていた「ヘーゲル論理学を読むときの構え(時空感覚)」とでもいうべきものから離れると、同じ対象であっても「理解」が成り立たなくなるのです。

 自問自答の禅問答めいてきましたが、ヘーゲル『大論理学』を読み続けてきて時折おそわれた眩暈のような感覚をあえて表現してみました。(これと同じ事態が、なまの歴史感覚や生命感覚、四次元感覚──この宇宙や生き物や歴史はなぜいまあるようなものとしてあるのだろう、なぜぼくはぼくなんだろう──との遭遇のうちに、そのつど反復されているに違いないと考えているのですが、このことについてこれ以上思索を重ねることは残念ながらいまの私にはできません。)

 さて、話を元の文脈にもどすために、ここで強引な「圧縮」を試みます。ヘーゲルのいう三種類の生命を小泉義之氏が『弔いの哲学』で使った用語におきかえると、次のように図式化できるのではないか、そして、そこから三つの異なった歴史の概念が生まれてくるのではないか。

  ・論理的生命   ⇒ 死者の名  ⇒ 存在の歴史?
  ・自然的生命   ⇒ 死者=死体 ⇒ 食物連鎖の歴史?
  ・精神の中の生命 ⇒ 死者=亡霊 ⇒ 共同体の歴史?

 しかし、このことを詳しく説明するには相当な「体力」が必要なようです。ここでは、なまの「素材」を並べておくだけに止めます。(要するに、詳しく叙述するのがちょっと面倒になったということですね。)

 第一の素材。なぜ死を歴史の概念の契機とするのか。これはまだ噛りはじめたばかりの書物からの(勘を頼りの)引用にすぎません。アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』(上妻靖・今野雅方訳,国文社)の第九章「ヘーゲル哲学における死の観念」から。

 コジェーヴは『精神現象学』からの文章──<死は完成であり、個体が個体として[すなわち個別者として]共同体[=国家=普遍者]のために引き受ける至高の労働である>([]はコジェーヴによる挿入)──を引用した後で、次のように書いています。<このように、「死の能力」は、単に人間の自由と歴史性との必要十分な条件であるばかりか、人間の普遍性の必要十分な条件であり、それがなければ人間は真に個体とはならぬであろう。>(409頁)

 第二の素材。ヘーゲルの哲学の体系について。私はヘーゲル哲学の初心者にすぎないので、以下の引用はたんなる請売にすぎません。武市健人(『大論理学』の訳者)は『ヘーゲル論理学の体系』(こぶし書房)の序論で、論理学−自然哲学−精神哲学の三位一体で構成される『エンチクロペディー』の体系について次のように指摘しています。

<エンチクロペディーの体系は周知のように「論理(ロゴス)──自然──精神」の三つの主要契機からなる。そしてその三つの体系化の仕方に、ヘーゲルの哲学体系の独自性がある。ヘーゲルはこの三つの契機をそれぞれ存在論の各項と見、それに各々の哲学を見るから、各々は論理学、自然哲学、精神哲学となる。…三位一体論から云えば、論理(ロゴス)は父なる神、自然は子、精神は精霊に当る。論理学は、天地創造以前の神の国の叙述である。論理は神そのものであり、神の存在の本質である。これに対して、自然と精神とは、また世界創造後の世界を意味し、従って自然哲学と精神哲学は創造後のこの世界の国の叙述であり、その本質の叙述である。これについては周知のように、ヘーゲル自身大論理学の序論で、論理学が「自然と有限精神創造以前の永遠な本質の中にあるところの神の叙述」であることを述べている。>

 天地創造以前の世界では時間も空間も(したがって次元も)まだ創造されてはいないわけですから、ヘーゲルの論理学は相対性理論以前の世界を叙述するものになります。そして、そこには現実的に展開される前の自然と精神が折り畳まれているわけです。(なお、民族と国家が織りなす世界史を対象とするヘーゲルの歴史哲学は、同書によれば「精神哲学」の一分野に位置づけられる。)

 このようなヘーゲル論理学の現代的な意味(あるいは可能性)は、たとえば自然界の四つの力(重力・強い力・弱い力・電磁力)の分岐プロセスとその統一理論が、現代数学でいう「ζ(ゼータ)関数の統一理論」とパラレルに論じることができるといったところにあらわれているのではないか。その意味では、ヘーゲルが『大論理学』で試みたことこそが本当の意味での「普遍数学」(普遍学)だったのではないか。私は(胸を踊らせながら)そんなことを考えています。

 「ζの世界」の特集を組んだ『数学の楽しみ』創刊号(日本評論社)に、<ζの世界は生物の世界によく似ている>とありました。そこに多様性と統一があるからというのです。そういえば、同誌に掲載された「ゼータの世界を眺めて」で中島さち子氏は次のように書いています。

<数学の真髄にはつねに素朴な人間の感覚があり、それは2000年前,いや人が人になる前から(?)流れている自然なものですが,それはより雄大な,世界を統一する構造理念への準備であったかも分かりません.人が直観している最も原始的な宇宙の関数は何なのか──数学に哲学などの名を付けるのはあまり好きではないのですけれども,もともと文学も医学も生物学も,すべて共存しうるのでしょう.この不確定で混沌に満ちた学問は,ゆっくり,最も原始の世界に同化してゆく感じがします.>

 ──脱線ばかりで、タイトルに掲げた「素描」の域にすら達しないままに終わりそうです。最後に引用した実に気持ちのよくなる文章(筆者は現役の高校生なんですね)に出てくる「原始の感覚」とでもいうべきものが、歴史の概念について考える際の一つの足場になるはずだということを結論にしておきましょう。そして、いま一つの足場を考えるための「素材」として、ベンヤミンの絶筆ともいうべき文章をメモしておきます。

<かれ[歴史の天使]は顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃虚の上に廃虚を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでいく。その一方ではかれの眼前の廃虚の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、〈この〉強風なのだ。>(野村修訳「歴史の概念について」)


【76】デカルトと「永遠真理創造説」

 デカルトは深い。──哲学の父をつかまえて不遜ないいかたですが、その「素人」っぽい文章に凝縮されたデカルト的思索の凄みは、外見上の読みやすさのためについ読み流してしまうおそれが多分にあるようです。(これに対して、たとえばドゥルーズ/ガタリなどの文章はある程度のスピードをもって読み飛ばさないと、実は見えるものもかえって見えてこないような気がする。)デカルトそのものについてはまた別の機会にじっくりと時間をかけて取り組むこととして、ここでは引き続きデカルトをめぐる議論のうち気になったものをノートしておきます。

 小林道夫氏は『デカルトの自然哲学』(岩波書店)で、1630年4月15日付のメルセンヌ宛書簡においてデカルトが示したテーゼ──<永遠的と呼ばれる数学的真理は神によって設定されたのであり、残りのすべての被造物と同様に神に全面的に依存する。>──を「永遠真理創造説」と呼び、このテーゼがデカルトにとっていかに重要なものであったかをめぐって次のように書いています。

<このテーゼによるとまず,神は一方で「自然のうちに法則を設定し」,他方でそれらの法則の観念を「われわれの精神のうちに生得的なもの(mentibus nostris ingenitae)」として刻印したと考えられる.そうすると,人間精神は,自然法則と人間の内に刻印された観念との関係について,それらがいずれも神によって設定されたということから,その間の対応ないし相関関係を想定することが許されることになる.この点についてデカルトは同じ書簡で「〔自然法則について〕われわれの精神がそれの考察に向かうならば,われわれが理解できないようなものは特に何もない」と断言する.言い換えると,われわれは,このテーゼによって,われわれがわれわれのうちで把握する数学的真理は,われわれの外なる物理的自然においてそれの物質的相関物として現実化されうるものであると考えることができる.そのことをデカルトは実際に,同じ書簡で,このテーゼの結論として言明している.すなわち,「われわれは,神はわれわれが〔知性的に〕理解することのできることはすべてなしうるとたしかに一般的に断言することができる」.デカルトは,このような神の創造論の形而上学を主張することによって彼の自然学を基礎づけようというのである.>(31-32頁)

 『デカルトの自然哲学』のテーマは、いま引用した文章の最後の一文に凝縮されていると思います。小林氏はさらに、デカルトの自然哲学の指導的原理である「物質即延長説」(物質と延長空間との同一化)を取り上げて、<この説によれば宇宙空間全体が物質に満たされていることになるから,宇宙は,そのすべての部分が厳密には連関しあうような全体を構成する>(138頁)ことになると指摘しています。そしてこのようなデカルトのホーリスティックな宇宙論的自然学が、ニュートンに代表される古典力学を超えて、マッハやアインシュタインに直接つながりうる契機を『哲学の原理』(第三、第四部)から読み取ろうと試みるのです。同書の結びで、小林氏は次のように書いています。

<…デカルトの宇宙論的自然学は,本質的なところで古典力学によって退けられた.しかしながら,現代の物理学はデカルトの宇宙論的自然学をその理念において復活させたように思われる.デカルトの自然学の中心理念とは,繰り返していえば,空間を物質と同一視し,そうして地球上の現象を「宇宙の全体系」に関係づけるように要求するものである.この宇宙論的自然学の論理によってデカルトは,物体の慣性や速度や加速度はすべて,物体の運動状態とその物体を囲む天の微細物質の運動と相対的なものであると考えた.この考えはわれわれには現代の宇宙論,とりわけ「マッハの原理」と呼ばれる現代の宇宙論の指導的原理を理念的に先取りしたものであるように思われる.この原理は周知のように,「あらゆる質料,あらゆる速度,したがってまたあらゆる力は相対的なものであり」,それゆえ「力学のすべての基本法則は物体の相対的位置と相対的運動に関する経験なのである」と主張する.それでマッハは「地球上の物体の地球に対する振る舞いは,その物体の遠く離れた天体に対する振る舞いにまで遡ることができる」と考える.したがって,マッハ原理は,物体の空間における運動を分析するときには「宇宙全体」を考慮に入れよと命ずるのである.われわれには,この原理をデカルトの宇宙論的自然学の指導的原理に結び付けることが許されるように思われる.>(192-193頁)

 デカルトの宇宙論的自然学の論理であれマッハの原理であれ──あるいはその(限定された?)数学的表現ともいうべきアインシュタインの一般相対性理論であれ、いずれも人間精神のうちに観念として芽生えた「数学的真理」にほかならないでしょう。(ちなみに茂木健一郎氏は『脳とクオリア』で、マッハの原理は<あまりに正しく、深遠な考え方>であって、<もし、究極の物理理論というものができるならば、それは、必ずマッハの原理を満足するものでなくてはならないだろう>と書いていた。)

 そして、これらの観念が<われわれの外なる物理的自然においてそれの物質的相関物として現実化されうるもの>であることを保証するのが、<神の創造論の形而上学>としての「永遠真理創造説」だったわけです。


【77】ライプニッツと「普遍数学」

 ホワイトヘッドが「天才の世紀」と名づけた西欧十七世紀は、二人の魅力的な哲学者を生みました。スピノザとライプニッツ。私がはじめて購入した哲学書が中央公論社「世界の名著」中の『スピノザ/ライプニッツ』で、そのとき私は高校二年生でした。それはあくまで最初に「購入」した哲学書であって最初に読んだものではなかったし、実はいまだにちゃんと読んではいないのだけれども、長年背表紙を眺めているうちいつしかその精髄は私の心身を浸していったのです。(そんなわけはないか。)

 デカルトとくればまずはスピノザなのですが、ここではいきなりライプニッツへと向かいます。──下村寅太郎『ライプニッツ』(みすず書房・再刊版)は、次の文章で始まります。<古典的哲学者は常に二つの生活をもっている。彼自身のと彼の死後のと。>とりわけライプニッツのように、政治家、形而上学者、科学者、論理学者、数学者へとその天才を分散させ、<自ら生涯の思索を纏めた主著を残さなかった思想家の「体系」はわれわれ自身が代ってこれを書く他ない>。私が心ひかれているのはライプニッツその人というよりも、むしろライプニッツについて情熱的に語る若き下村寅太郎なのかもしれません。

 この書物の中から、ここでは哲学と論理学と数学の関係をめぐる印象的な文章を抜き書きしておきます。

 まず、論理学は<現実を全体として把握し貫徹しようとする思想的努力──哲学あるいは形而上学と結びつき、これを前提して初めて可能となる>ものである。<いわゆる形式論理学も、実はソクラテス、プラトン、アリストテレスの実践的反省、形而上学的思弁を経て初めて成立し得たのである(…)。論理学の形成は何よりもまず哲学の問題である。あるいはむしろ哲学の成果である。それ故、結果から見れば、哲学はむしろかかる論理学への努力であり、過程である。>(76頁)

 そして、この論理学の形式化がその時代の数学にほかならない。<数学こそその時代の形式論理学である。しかしこれは必ずしも論理学から数学が抽象あるいは形成されるという意味ではない。むしろ思想の論理の形成、すなわち論理としての具象化は、かえって数学的形式化、あるいは抽象化によって自覚せしめられる。抽象化によって具象化せしめられる。論理学の形成と数学の形成とは相互に媒介的である。>(76頁)

 論理学と数学が相互に媒介的であるとはいかなる意味か。<もちろんギリシア数学はプラトン、アリストテレスを俟たず古くから存していた。むしろそれらによって「論理学」が具象化され、形成される機縁を与えている。しかし厳密な意味において、直観的・具象的な事態ないし神話的・形而上学的な内容を離れた純粋な数学の組織は、アリストテレスの論理学を経過して初めて成立し得たのである故、両者は互いに媒介的である。>(77頁)

 ところで、ギリシア数学とは有限な「数」と「形態」に関する学であり、<数と形態において思想一般を把握しようとした>ものなのだが、ライプニッツの数学はこれとは異なる。<数の学としての数学は単に数学の一つの類型、あるいは少なくともその一つの様相たるに止まる。それ故、ギリシア数学におけるごとく数と形態とにおいてでなく、他のものにおいて思想一般の形式化を意図する他の数学が可能である。実際上、これを形式的記号において実現したところにギリシア数学とは別個の近世数学が成立した。そしてこの理念がまさにわれわれの哲学者において確立されるのである。ライプニッツにおいてわれわれは近世数学の成立に関してギリシアにおけると同様な哲学との関連を認め得るであろう。>(77頁)

 記号によって思想一般の形式化を実現すること。この未完に終わった普遍数学(普遍学)の可能性こそが、ライプニッツの哲学の根本的信条であったと下村寅太郎は総括している。<すべて存在すなわち個体的実体はそれ自身有限にして、しかもよく無限な神および世界を表出する、世界を表現すると同時に世界の表出である。各々の個体自身世界のSymbolである。かくて個体は表出的自同者として互いに相照応し、相調和し、完全に同一なる二者なく、すべて相異なる個性をもちながら、いかなる二者の間にも間隙がなく、充実し連続している、まさにかくのごときものが現実的世界の構造である。世界は連続的自同者として定式化され得るであろう。記号法はライプニッツの形而上学を前提して初めて単なるFormelspielでなく世界の数学たり得るのみでなく、それ自身すでにライプニッツの形而上学を表出している。>(276頁)

 若干の蛇足を付記します。足立恒雄氏の『たのしむ数学10話』(岩波ジュニア新書)に、ライプニッツが命題に文字をあてはめた(命題変数を導入した)最初の人であったこと、<それどころか、原始的概念に素数を割り当て、合成数に積を割り当て、「論証を数の計算に還元する」という驚くべき構想まで書き残して>いたこと、そしてこの「論証の算術化」という構想の実現は二十世紀のゲーデルをまたなければならなかったことが書かれている。

 さらに同書によれば、デカルト、ライプニッツ、オイラーの三人で現行の数学的記号の主なものはほとんど発明しつくされているように見えること、それに対して彼らのライバルと目されるパスカル、ニュートン、ガウスは数学的記号の発明にほとんど寄与しておらず、これには彼らの世界観が大きく関係していることが指摘されている。

 以上二点、今後の「探究」のための備忘録として。──それにしても、紀元前四世紀のギリシアと十七世紀の西欧はつくづくすごい時代だったのだと思います。これに匹敵する時代を人類が再びもつには、三十七世紀まで待たなければならないのでしょうか。


【78】ペンローズと「プラトン的世界」

 ヘーゲルの「エンチクロペディー」の体系は論理(ロゴス)と自然と精神。この三つ組はデカルトの「永遠心理創造説」にも出てきました。ただし「論理」が「神」に置き換えられて。(ちなみに前回紹介したライプニッツの、というより下村寅太郎の哲学と論理学と数学の関係をめぐる叙述にも、この三つ組が異なる位相において反復されていたのではないかと私は考えている。)

 この西欧的思惟の骨格をなす(と私には思われる)存在の三つの相の関係をめぐって、デカルトともヘーゲルとも異なる説が「天才」数理物理学者ロジャー・ペンローズによって提唱されています。もっとも、そこで「神」や「論理」に相当するのは「プラトン的世界」です。

 『皇帝の新しい心』(林一訳、みすず書房)の中でペンローズは、<「真剣」な哲学的立場はいかなるものであっても,少なくともかなりの分量の「実在論」を含んでいるのは当たり前だ,と私はみなしている>(337-338頁)と書いています。そして「数学と実在」と題された同書第三章で、<数学的概念のプラトン的実在性>について次のように論じているのです。

 ペンローズはまず、<数学者の世界の対象はどれほど「実在的」なのか>という問いを立てます。

 <ある観点に立てば,それらには実在的なところは全然ないように見える.数学的対象は概念にすぎない.それらは数学者が行った心的な理想化であり,これはわれわれの周りの世界の諸側面の見かけと秩序と見えるものに触発されてなされることがしばしばだが,心的な理想化であることに変わりはない.それらは人間の心の単なる恣意的な構成物とは異なったものでありうるだろうか.それと同時に,これら数学的概念はだれか特定の数学者の思惑であることをすっかり越えた,何らかの深い実在性をもつように見えることもしばしばである.人間の思考はあたかも何らかの外的な真理──独自の実在性を備えており,われわれの中のだれにも部分的にしか露にならない真理──へ向けて導かれているように見えるのだ.>(108-109頁)

 そのような独自の実在性を備えた数学的概念としてマンデルブロー集合と複素数系に言及した後で、ペンローズは自らの立場を明らかにするのです。

 <数学は発明か,それとも発見なのか.数学者が彼ら自身の成果に出会うとき,彼らは現実的な実在性のない,精巧な心的構成物を作り出しているにすぎないが,ただそれらが十分な威力とエレガンスを備えているために,その発明者でさえあっさり騙されて,これらの心的構成物を「実在的」であると信じ込んでしまうのであろうか.それとも,数学者はすでに事実「そこに」存在している真理──数学者の活動とはまったく無関係に存在している真理──を本当に暴き出しているのだろうか.もはやこの段階では,少なくとも複素数やマンデルブロー集合のような構造に関しては,私が1番目ではなく2番目の立場に立っていることは,読者にはすでに明らかだと思う.>(110頁)

 そして、ボルヘスの「有名な詩人は発明者である以上に発見者である」という言葉が真の数学的発見にも妥当すること、つまり数学には<最初に持ち込んだものよりも,そこから出てくるものの方が多いような>独自性を備えた構造が存在しうることを踏まえて、次の結論が提示されます。

 <このようにいろいろ論じてはみたが,数学については,少なくともより深遠な数学的概念については,他の場合に比べて,玄妙な,外的な存在を信じる根拠はずっと強い,と私は感じないではいられない.このような数学的アイディアには,芸術あるいは工学に期待されるものとはまったく異なる,有無を言わせない独自性と普遍性がある.数学的アイディアが無時間の,玄妙な意味で存在しうるという見解を古代に(紀元前360年頃)提唱したのはギリシアの偉大な哲学者プラトンだった.そのためにこの見解はしばしば数学的プラトン主義と呼ばれている.後ほどこれはわれわれにとってかなり重要になる.>(111頁)

 私は、いま引用した文章の最後で示唆されている「後ほど」の議論に実はついていけなかったのですが、その後『ペンローズの量子脳理論』(徳間書店)に掲載された論文やインタビュー記事、訳者である竹内薫・茂木健一郎両氏の懇切丁寧な解説などを読んでいるうち、なんとなく理解できたように思います。(気のせいかもしれない。)

 しかし、その「理解」の内実を自分の言葉で表現することはいまの私にはとてもできそうにありませんし、また無用なことでもあります。ここでは引き続きペンローズ自身の言葉を紹介しておきましょう。以下の引用は、同書所収「ペンローズインタヴュー」(竹内薫・茂木健一郎訳)からのものです。

 <私の新しい本、『心の影』では、私はこのような問題を、もっと広い観点から取り上げました。つまり、私たちの心が物質的世界からいかに生じるかというのが唯一のミステリーではないということです。実は、ミステリーは三つあります。つまり、物質的世界、心の世界、そしてプラトン的世界の三つの世界の関係が謎なのです。>(72頁)

 <私が考える三つの世界の間の関係は、『心の影』の最後に図として表されています。つまり、第三の、プラトン的世界があって、それは本質的に数学的な世界なのです。もちろん、数学的な考えでは捉え切れない、プラトン的な概念がある可能性は否定しません。とにかく、そのようなプラトン的世界から、物質的な世界が生じると考えられるのです。/ここで、「生じる」というのは、適切な言い方ではないかもしれません。しかし、物質的な世界の構造が、数学に根差していることは確かなのです。一方、私たちの心の世界は、物質的な世界に根差しているように見えます。さらに、私たちの心は、プラトン的な世界の真実を認識する能力を持っているように見えます。この三つの世界の関係は、とても深遠なミステリーなのです。/私は、このようなミステリーの直接的な解答を求めようとしているのではありません。私が提案しているのは、これらの三つの世界を一度に考えるべきなのではないかということです。/たとえば、心の世界と物質的な世界だけに注目して、どうして心が物質から生じるのかと思い悩むだけでは駄目だということです。>(72-73頁)

 <物質的世界は、プラトン的世界の一部から生じます。だから、数学のうち、一部だけが現実の物質的世界と関係しているわけです。次に、物質的世界のうち、一部だけが意識を持つように思われます。さらに、意識的な活動のうち、ごく一部だけが、プラトン的世界の絶対的真実にかかわっているわけです。このようにして、全体はぐるぐる回っていて、それぞれの世界の小さな領域だけが一つにつながっているようなのです。>(73-74頁)

 これはほとんどエッシャーの世界ですね。(実際、ペンローズ少年が考えた不可能図形のアイデアが、その祖父を通してエッシャーに影響を与えたらしいのです。)丸写しの引用を重ねながら、スリリングな議論の展開に刺激を受けて、私の脳髄は激しく高揚していきます。そして私が最も感銘を受けたのは、<あなたの世界観は、完全に物質主義的というわけではないのですね>というインタビュアーの質問に対するペンローズの次の回答でした。

 <私が言いたいのは、「物質主義的」などという言葉は、少し古くさい、ということかもしれません。なぜなら、現在の「物質」のイメージは、昔とは全く異なるものになっているからです。「物質」とは何かということを真剣に考えたとき、今ではそれは数学的な存在だということになっています。/「物質主義者」とか、「イデア主義者」というような言葉が最初に考えられたとき、「物質」のイメージは、非常に具体的で、まさにそこに「ある」ものだというものでした。それに対立するものとして、人々はミステリアスな「心」というものを考えたわけです。/ところが、今では、物質そのものが、ある意味では精神的な存在であるとさえ言えるのです。/そのことを見るためには、私の図で、二つのステップを追う必要があります。つまり、物質はプラトン的世界の数学的構造に根差しており、そして数学的構造は、私たちの精神世界の中でつくりだされるものだということです。>(75-76頁)

 このようなペンローズの議論に対して納得がいかなければ、あるいは感じるところがなければ、無視すればいいのです。反実在論だとか反証可能性だとか、その他出来合いの言葉をもちだしてあれこれ(感動のない)言説を弄するのは時間の無駄というものです。──と、誰に対するわけでもなく毒づいて、今回は終わります。(『心の影』の訳書の出版が待ち遠しい。)