断想(4)──魂の濃度変化について・その他




【393】魂の濃度変化

▼田口ランディのコラムマガジン(2001年5月17日)に掲載された「アニミズムという希望・山尾三省さんのこと」という文章に、初めて屋久島で詩人の山尾三省氏(この8月、故人となられた)と会った時の会話が紹介されていて、そこでの山尾氏の発言「魂は濃度変化だ」がとても気に入ってしまった。[*]

 これまでから「濃度」という言葉には刺激を受け続けてきた。それはたとえば西欧中世哲学、とりわけドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」をめぐる思索やカントールの集合論、確率密度分布、細胞や神経伝達の生理(因果関係ならぬ浸透、もしくは前論理・古代論理としての分有[participation]?)等々を綯い交ぜにした勝手な連想を面白がっていただけなのだが、そのことと魂の本性や存在様式が結びつき、さらにそこに「変化」というキーワード(変質、変換、変容、変身、変形、変態、変装、変相、変奏、腐敗、相転移等々といったニュアンスも含めて)が加わったことで、何かしらとてつもない強度をもった見通しがそこから得られるのではないかと思ったのだ。

* 田口、山尾両氏の会話の部分を抜き書きしておく。[http://www.melma.com/mag/26/m00001926/a00000075.html]――なお、冒頭に出てくる「三作目の小説」とは『モザイク』のことで、この作品については後にふれることになると思う。

「つい最近、三作目の小説を書き終えて、今、新しいテーマに向かっているところです。でも、自分でもまだイメージの塊のようなものしかなくて、何かを探しています。自分が何を探しているのかすらよくわかっていないのですが、今年に入ってから私はずっと、水と音楽について考え、水と音楽に関わる旅をしています。自分がいま、とてもこだわっているのが水と音楽のようです」
「おもしろいですね。水ですか……」
「はい。それで、なんだか漠然と、水というのは魂ととても似ているのではないかと思い始めました。それは……なんというか、水は蒸気になったり、氷になったりして姿を変えるけれど、その本質は変らないでしょう? それが、魂と似ているなあと。だからもしかしたら、魂は水という性質を似せて作ったものなんじゃないか、なんて思ったりしました。こういう考えって変ですか? 水と魂は相似形なんじゃないか……って」
「いえいえ、ちっとも変じゃないですよ。わかります。その通りではないかと思います。私はいつも、魂は濃度変化だと言っているんですけどね、同じようなことだと思います。つまり、魂というのもその本質はいっしょで、ただ、その濃淡があるんじゃないかと。濃度がどんどん濃くなると、まあ神様のようなものになるし、人間もその濃度のなかのひとつ、というかね」
「ああ、なるほど。濃淡ですね、濃くなっても、霧散していても、その本質は同じなんですね」

▼「濃度=強度=内包量」という概念はドゥンス・スコトゥスの(そしてドゥルーズの)思索に色濃い陰影を落としている。

 山内志朗著『天使の記号学』はとてつもなく濃密で凝縮された内容をもつ書物だ。論理展開、というよりは濃度変化(饒舌と寡黙の?)とでも形容すべき精妙で「リリカルな」構図のうちに概念が潜在し、自らの強度変化によって「見えないもの」から「見えるもの」へと現実化=実在化を果たしていく。[*]

 たとえばイデアやゲノムのように、ネオ・プラトニズム的な流出論の衣装を纏ったプロセスを通じて、潜在的に最初に与えられたものが最後に実在として成就する生成のメカニズム(原?時間的な?)、あるいは聖霊を通じて祈ることと聖霊が祈ることとの一致といった「己有化」ないしは「反転可能性」に根ざした生成のメカニズム(原?空間的な?)、そして、こうした「内在的超越」プロセスの媒介を表現するキーワードがドゥンス・スコトゥスの「形而上学的濃度 gradus metaphysicus 」=「内在的様態 modus intrinsecus 」=「このもの性 haecitas,haecceitas 」である。

《実際、スコトゥスの個体化の議論は、「石」などの例を使いながら、ペルソナ・人格を論じる枠組みと重なるところが多い。そして、新プラトン主義の伝統の中では、「私とは何か」を問うことと、存在論、宇宙創造論、霊魂論が重なっていたことを思い出してもよい。
 話を先に進めよう、個体化は共通本性に新しい概念規定を加えないということ、にもかかわらず個体化はそこに生じている。そこに見られる錯綜をスコトゥスは「内在的様態」という概念で表現する。度(gradus)といっても、強度・内包量・濃度と言ってもよい。たとえば、「赤」を例に取れば、濃いものも薄いものもある。特定の赤色には必ず特定の濃さが備わっていて、その結果、特定の「赤」としてある。しかし、この濃度、つまり「赤さ」というのは、「赤」に何を付け加えているのだろう。
 スコトゥスは、個体化とは濃度・「赤さ」のようなものだと考える。概念規定の領野に最終的な概念規定が加わって、個体が析出してくるというのではなく、そのような最終的な概念規定は存在しないことを述べたのがスコトゥスの「このもの性」ということだ。》(212頁)

 祈りや聖霊、欲望と快楽、魂と肉体、「私」と「存在」、個体と普遍、受肉や三位一体や普遍論争をめぐるスリリングな議論、そして「コミュニカビリティ」や「私性」(「私は……である」ということを語りうる条件を形成するもの)といった斬新な概念が矢継ぎ早に出てくる。要約整理して先へ進むことなどできない。というか、先へ進むための「力」そのものを立ち上げているのが本書だ。――もちろん、これでは要約にも何にもなっていない。所詮、わかちゃいない。濃すぎるのだ。何度も咀嚼し希釈しなければ強すぎるのだ。

* 本書のさわりの部分を引用しておこう。――ここに出てくる「三項図式」や「ハビトゥスとしての私」については、チャールズ・サンダース・パースや永井均の議論に関連させて取り上げたいと思っているのだが、これだけは最後までいってみないとどうなるか分からない。

《可能性が現実性への志向性であり、現実性が可能性を含んでいるとしたら、可能性が未来に投影された場合、それは目的・テロスとして映じることになる。(略)目的・テロスは、観察し、記述する能力を持った存在者がいるという条件が満たされている場合には、可能性にとどまりながらも、現実性に含まれているばかりでなく、現実性の表現の中に登場する。その場合には、最後に現れるものが、最初にあたかも原因であるかのごとく、いやたぶん実際に原因として存在する。(略)この本の要点を取り出せば、意を尽くしていないが、だいたいこういうことになるだろう。こういう存在論や形而上学のモデルを通して、リアリティの問題に踏み入った場合、リアリティは、被限定項─限定項─限定態という三項図式においては、限定項に現象するものであると考えている。
 結局のところ、私は「私」とはハビトゥスであると言うことで表現したかったのだろう。「それをいっちゃあ、おしめいよ」で、事実を言っても仕方ない、いや言説の流通過程に流すべきではないのかもしれないが、「私」とは、肉体でも脳でも精神でも無意識でも関係でも幻でもないとすれば、少しは意味があるかもしれぬ。「私」は必ず具体的な姿で、形を持って存在するしかない。》(231-233頁)

▼本論と直接関係しないかもしれないが、八木雄二氏の『中世哲学への招待』は、スコトゥスの思索をめぐる刺激的な論考だった。とりわけ、「記憶」をめぐってスコトゥスとベルクソンの類似へと説き及ぶ叙述(135-145頁)は印象深いものだった。[*]

* 以下、本書から若干の引用をしておく。

 スコトゥスの自由意志説は、現実の世界を可能性(本質的偶然存在)として理解する。このような世界こそ、近代科学を成立させてきた世界だった。《ヨハネスのこの主張は、直接的には意志の自由の根拠を明らかにするためであったが、偶然的存在一般の性格として理解されていくことで、可能性についての新しい理解を生み出すものだった。つまり可能性は現実によって排除されるのではなくて、可能性は、現実とは別であって、それはそれとして存在する、という観念である。言い換えると、ヨハネスによって、可能的世界と現実世界が共存する世界理解が認められるようになったのである。》(192頁)

《ヨハネスにとって、この世界は神の創造物である。言い換えると神の意志によってはじめて在ることができる存在である。神がいないと考えれば、この世界は明日には無いだろう。この根源的な偶然性は、この世界の本質的な側面である。それはヨハネスの神学において、意志の自由性が、世界の必然性と同じように、原理的と見られることと連動している。ヨハネスの神学においては、根源的な偶然性と、ものの間に生じる必然性は、このように決して矛盾することはない。それは当然のように両立している。現代の量子力学の戸惑いは、ヨハネスの神学にはないのである》(209頁)

 スコトゥスは時間の空間的理解を否定し、神がこの世界に現実に関わる場面を「この今」すなわち「永遠性の瞬間 instans aeternitatis」だと考えた。《「瞬間」 instans とは、ラテン語では「とどまらない」を意味する。まさにここに、ヨハネスにおける空間思考の「破れ」の証拠がある。なぜなら、「永遠」とは元来、ある状態に「とどまる」stans ことを意味したからである。したがって、ヨハネスが言っている「永遠の瞬間」とは、「永遠なる神に属する瞬間」のことであり、それは神に、「とどまらないもの」が属することを、何と意味している。これはまったく驚くべきことである。(以下、略)》(221頁)



【394】実在する潜在性

▼濃度という語彙は、最後の形而上学的数学者カントールを想起させる。しかし「神の濃度」に関する議論は数理神学者に委せておくことにしよう。

 これは余談だが、数学と形而上学もしくは神学の関係を考えるとき「純粋数学は、宗教である」と断章に書き残したノヴァーリスの名が頭をよぎる。私はノヴァーリスの未完の思索のうちに「数学的形而上学、あるいは宇宙論」(パース)や「神が人と成ること」と「人が神に成ること」をめぐるテオロギア=アポロギア(落合仁司)、そして魂の経済学の先駆形態を見ている。

 たとえば「力は、さまざまな物質の物質。魂は、さまざまな力の力。精神はさまざまな魂の魂。神は、さまざまな精神の精神である」。中井章子氏によると、ノヴァーリス好みの「AのA」は累乗して(ポテンツを高めて)次元を高めていくという思考と表現のパターンであって、それは魔術的観念論における自己の高次元化──「ロマン化とは質的相乗にほかならない。この操作において、低次の自己がより良き自己と同一視される。私たち自身そのような質的相乗の数列なのである」──や、ガイスト的な理念が微分されて感覚的現象となり、現象が積分されて理念となるといったイメージとも響き合うものだろう。[*]

* ノヴァーリスの引用を始めたら切りがない。当面の私の関心に引き寄せて、次の一文の抜き書きで最後にするとしよう。

《スコラ哲学の普遍的表現は、数と大変良く似ている──それゆえ、[スコラ哲学の普遍的表現には]神秘的な使用法──擬人化──音楽的な楽しみ──無限のコンビネーションがある。/無から創造された実在的なもの、たとえば数や抽象的表現はすべて──別な世界のものと──独特な結合や関連の無限の連なりと──数学的で抽象的な世界そのものと──ポエティッシュで数学的で抽象的な世界と──不思議な親縁性をもつ。》

▼ところで、山内志朗氏は三項図式の例として、「生命[vita]─生きること[vivere]─生物[vivens]」や「存在である限りの存在─内在的様態=形而上学的濃度=このもの性─具体的なものとしての存在」、「本質[essentia]─存在[esse]・存在作用[actus essendi]─存在者[ens]」、さらに「伝達されうるもの[communicabile]─伝達作用[communicans,communicatio]─伝達結果[communicatum]」を挙げ、そこには「未規定的なものが自己限定すると語るしかない事態」が見られると指摘している。

 私自身が直接見聞したところでは、ニコラウス・クザーヌスの『神を観ることについて 他二編』に、神の愛が三一的なものであることを「愛する愛」(能動的愛)と「愛されるべき愛」(受動的愛)と「その両者の愛の結合」として論じている箇所が出てきたし、ジェスパー・ホフマイヤー(『生命記号論』)がパースの三項関係(原因・結果の二項関係に観測者を加えたもの)の応用例として示す「DNA─個体発生の軌道─受精卵」(発生)や「ニッチ(生態学的地位)─DNA─系統(進化の単位としての種)」(進化)もこれと大いに関係するに違いない。

 ちなみに、パースは中世普遍論争における「実在論」(スコトゥス派)を支持したのだが、それは「確定されないもの」(the indefinite)を原初の状態と見る立場であって、個に対する普遍のプライオリティを云々するステレオタイプ化された議論によるものではない。坂部恵氏(『ヨーロッパ精神史入門』)は、パースの実在論は個的なものを元来非確定で、したがって汲み尽くしえない豊かさをもったものと見る立場だったのではないかと示唆している。

 ここに出てきた「確定されないもの」は、これもまたスコトゥスの(そしてドゥルーズの)思索に色濃い陰影を落としている「潜在性」の概念に響き合うものであると私は思う。[*]

* パースは『連続性の哲学』で、すべての科学は形而上学へ、そして数学という中心へ向かってゆっくりと、しかし確実に収斂していくと述べている。それでは当の数学はどこへ向かっているのか。それは実在する潜在性あるいはイデアのコスモスである。

 付言すると、ロバート・E・ショウの次の発言(「知覚の数学、あるいは意図と場の力学系」,『現代思想』2000年10月臨時増刊号)は、パースの三項関係のさらなる高次展開の可能性を示しているのかもしれない。

《これらのカテゴリー[引用者註:パースの三つの形而上学カテゴリー]は、経験を論理的で理解可能なものにするために必要とされました。「質」(quality)というのが第一性もしくは自発性(spontaneity)で、「反応」(reaction)が第二性もしくは現実性(actuality)、「関係性(表象)」が第三性もしくは可能性(possibility)です。これらの三つに加えて、私自身は、「第四性」を加えるべきだと主張したいと思います。第四性とは、システムのテレオノミカルな(teleonomisally:目的的な)自己組織化、もしくは「意図性」(intentionality)のことを表しています。》

▼宇野邦一氏は『ドゥルーズ 流動の哲学』で、ベルクソニスムにおける「潜在的なもの」と「可能的なもの」(現実化されたものの方からの事後的な投射)との相違を踏まえ、「ドゥルーズの哲学の全体が、潜在性の哲学といってもいいくらいだ」と述べている。[*]

 また、宇野氏は同書で、新しい『資本論』を書くことをひとつの目標とした『アンチ・オイディプス』をめぐって、クロソフスキー(『生ける貨幣』)を引用しながら「欲望経済学」や「ただ一つの経済学=唯物論的精神医学」について語っている。

 ――これらのことを念頭に置きながら、私は、「魂の経済学」とでもいうべき新しい学、実在する潜在性をめぐる総合的な学の可能性を夢想している。

* ここでいう「潜在性」は、ヴァーチャリティに置き換えることができる(顕在性=アクチュアリティとの対比において)。――以下は、小原克博氏の「インターネット時代とキリスト教」(1996年11月、『キリスト教年鑑1997』、キリスト新聞社)から。

《…キリスト教信仰の根底には実に豊かなヴァーチャル思考が潜んでいるのだ。イエスは神の国の到来を告知し、神の国を多くのたとえで語った(マルコ4:34「たとえを用いずに語ることはなかった」)。たとえは〈誰にでも理解できる日常的な素材〉で構成されている。イエスはたとえで語ることによって、日常世界のただ中に神の国のリアリティをもたらし、聞く人々の間にそれを〈共有〉させようとした。
 その際、イエスの創出する神の国のリアリティは、熱心党やクムラン教団など、当時の諸集団の主義主張と異なり、何が現実で、何がヴァーチャルなのか、という二者択一的な問いを拒絶する。イエスの教えは聞き手の日常を異化することによって、聞き手を日常と非日常の間にできた空所へと引き込む。そして、まさにそこにおいて、ヴァーチャルなものをリアルに感じさせようとするのである。
 イエスが示した、このダイナミズムを、わたしたちは現代において活用するよう求められているのではなかろうか。》

 また、同氏の「教会とインターネット」(1996年11月、『福音と世界』、新教出版社)から。

《むしろ、わたしたちの課題は、歴史的に継承している豊穣な神学的遺産を現代の光のもとで活性化することである。ヴァーチャルという概念は、すでに中世の神学者ドゥンス・スコトゥスによって導入されていた。また、「見える教会」と「見えない教会」という区別は、リアルとヴァーチャルの間で展開されるダイナミズムを前提にしている。聖餐論争においても、パンとぶどう酒の中にキリストの体と血がどの程度リアルに存在しているかを論じて思索が重ねられていったのである。時代を先取りするような思考過程がキリスト教信仰の中には無数に存在しているのだ。インターネットは、そういった遺産を歴史の夾雑物の間から解放し、新たに活性化するための「触媒」となり得る。(略)イエスが宣べ伝えた神の国のリアリティに通じる者は、どのような時代の先進性より、なお先を洞察することができるという、ごく当たり前の信仰的事実を、インターネットは新鮮な形で思い起こさせてくれるのだ。》



【395】魂の経済学

▼山内氏による西欧中世存在論の三項図式、すなわち「被限定項─限定項─限定態」を参考に、魂の経済学の一側面を素描しておこう。[*]

 第一に、探求されるもの。魂の経済学の対象、すなわち魂の濃度変化。(念のために書いておくと、私は魂を実在として考えているわけではない。強いて言えば、実在するのは濃度変化であって魂ではない。だから魂の経済学は、魂を対象とする学でも魂による学でもない。強いて言えば、魂の経済と呼ぶしかない事象をめぐる総合的な学である。――念のため書いておくと、私は魂の経済を実在として考えているわけではない。強いて言えば……。以下、無限に続く?)

 第二に、探求するもの。魂の経済学の方法、すなわち媒介と生成、超越と内在、実験と伝導、屈折と浸透、分有と履歴、移動と往還、縮減[contractus]と引き寄せ[attrahere]、包含[complicatio]と展開[explicatio]、アポカータスターシス、アナロギア、パラレリズム、ハビトゥス、プロセス等々。

 パースによれば、われわれが何かを理解し探求しようとするとき、探求の対象自体がわれわれが使用する論理と基本的には同一の論理に従っているという想定が前提されている。演繹[deduction]・帰納[induction]・仮説形成[retroduction,abduction]に次ぐ第四の推論、すなわち生産[production]、あるいは第五の推論としての伝導[conduction]こそが魂の経済学にオリジナルな方法なのかもしれない。

 第三に、探求されてあること、探求態としての魂の経済学。古代ギリシャ的プシューケー(魂)と中世キリスト教的プネウマ(霊)のアマルガム。

 可能態や現実態としてのアクチュアルなものとヴァーチャルな潜在性。さらに後者が二つに分化するとき、フェリックス・ガタリの四つの機能体によって与えられる区域が生成される。すなわちアクチュアルで可能的なものの抽象機械状の「門」[Phylum]、アクチュアルで現実的なものの物質的で信号的な「流れ」[Flux]、潜在的で現実的なものの実存的「テリトリー」[Territoires]、潜在的で可能的なものの非物体的(意識的)「世界」[Univers]。この謎めいた四区分が解明されるとき、魂の経済学はさらなる深みへと駆動されるだろう。

 私自身は、アクチュアル=エネルゲイア、ヴァーチャル=デュナミスと置き換えたり、アクチュアルで可能的なものを知覚世界での「物自体」に、ヴァーチャルで可能的なものを想起世界での「過去自体」になぞらえて考えてみたり、デイヴィッド・ドイッチュに倣って、四つの区域をドーキンスの進化論やテューリングの計算理論、ポパーの認識論やエヴェレットの多宇宙論になぞらえて考えようとしているのだが、これらはいまだ喃語の域を出ていない。

* この魂の経済学をめぐる見取図は、スコラ的断面に偏しすぎている。とはいえ、目下の私の関心がスコラ的実在論に傾斜しているからには、これもまた仕方がないことだ。──まぎれもないスコラ学の相続人であるわれわれ(パノフスキー『ゴシック建築とスコラ学』)。

▼ジョルジュ・バタイユ(『呪われた部分』)ではないけれど、私には一個の見方があり、それによれば云々と、ここで一気に畳みかけたいところなのだが、バタイユの向こうをはって――供犠や教会の建立や財宝の贈与が麦の売買に劣らぬ関心事であるとか、富の消費=蕩尽が生産に比して第一目標となる「普遍経済」の原理を人々にわからせようと努めてみたが徒労に終ったとか――大見得を切ってみせるだけの考察の濃度も見通しの強度も欠けているのだから仕方がない。

 私の直観によれば、魂の経済学は循環=連続性を原理として、濃度=強度の生成変化やその媒介(媒質、媒体、触媒、溶媒、霊媒、風媒等々といったニュアンスも含めて)をめぐる総合的な学となるはずのものであって、強いて言えば、生産・貯蔵・流通・消費のうち貯蔵(時間的交換=記憶)と流通(空間的交換=表象)に連続性をもたらす操作(投資)、あるいは生成変化と媒介が綯い交ぜになった経済的循環の第五の要素(情報・システム)が第一目標となるものだ。

 さらに言葉を連ねるならば、それは普遍経済と普遍数学と普遍言語の三組が絡まった錯綜体の高次に位置する実在の学である。しかし、ここではこれ以上の妄言は差し控えて、当面の作業仮説として魂の経済学の四つの相を素描しておくことにしよう。

 第一、自然経済。あるいは普遍経済的様相のもとでの魂の経済学。――経済発展は自然発展の別の形態であり、自然が用いているのと同じ普遍的法則を用いている(ジェイン・ジェイコブズ『経済の本質』)。いまや、大地、貨幣、情報についで霊こそが人間にとっての「第四の自然」となりつつある(中沢新一『純粋な自然の贈与』)。悪循環を断ち切る新しい分岐(進化)の学。

 第二、宗教経済。あるいは普遍数学的様相のもとでの魂の経済学。――文字テクノロジーを駆使した古代神殿経済、農業技術センターとしての中世修道院経済、大聖堂を媒体とする投資と巡礼の経済、神道経済、仏教経済学等々。新しい結合(イノベーション)の学。

 第三、欲望経済。あるいは普遍言語的様相のもとでの魂の経済学。――心は一つの経済活動であり、一定の需給環境によって成り立っている(妙木浩之『心理経済学のすすめ』)。欲望とその対象物の生産とのあいだに、みずからの諸衝動との相関において理性的=合理的にうち立てられた経済(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)。ただ一つの経済学としての唯物論的精神医学(ドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』)。

 第四、魂の四学の掉尾にして究極の魂学。あるいは普遍情報的もしくは汎システム的様相のもとでの魂の経済学。[*]

* 魂の四学は、神経哲学、情報神学、言語数学(もしくは実験歴史学)、そして魂の経済学(狭義)で構成される実在の総合学なのだが、これらは私の妄想が紡ぎだしたものであって、いまだこの世のものではない。

▼そもそも魂とは何か。それが濃度変化を通じて語られるものであると定義してみせたところで、これでは情報量はゼロだ。

 私としては、器官なき身体としてのプシューケー論(古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』)や独在性の〈私〉論(永井均)、量子モナド論もしくは唯心論物理学(中込照明『唯心論物理学の誕生』)、フラクタルやカオスやホモロジーといった現代数学の(あるいは経済物理学や情報物理学の?)諸概念等々をアリアドネの糸として、独自の考察を加えたいと目論んでいる。

 だが、魂の定義をめぐる探究の軌跡それ自体が魂の経済学を析出する(=叙述する)という込み入った関係にあるのだとすれば、これ以上の贅言を加えることは断念して、ここでは「自由な精神の木に咲く最も美わしき花」エックハルトの言葉に耳を傾けることにしたい。[*]

 ――私は『エックハルト説教集』を退屈の虫を噛み殺しながら読んだ。だったら止めればいいようなものなのだが、読まずに済ませられない力がそこにあるのだから、仕方がない。

 小林秀雄に「退屈に堪える練習」という言葉がある(「偶像崇拝」)。「理解する事とは全く別種な認識を得る練習」とも書いている。それは「絵はただ見るものだ」「絵を見るとは一種の練習である」といった文脈で言われているのだが、エックハルトが解るということと「絵が解る」ということを、この際パラレルに考えておくことにする。(もちろんこれは乱暴な話だ。)

 エックハルトは、「わたしの体の内にわたしの魂はあるというよりは、わたしの体がわたしの魂の内にむしろあるのだ」(「神の根底にまで究めゆく力について」)と語っている。別の説教では、次のように語っている。本書を読んで、最も印象に残った箇所だ。

《ある師は、目が歌とは関係なく、耳が色と関係がないように、魂はその本性においては、この世界のすべてのものと関係がないのであると言っている。それゆえに自然学の師たちは、魂が体の内にあるというよりも、むしろ体が魂の内にあるのだと言っている。ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである。》(「自分の魂を憎むということについて」,98-99頁)

* 補遺。その一、清水哲郎著『パウロの言語哲学』から。――本書で面白かったのは、第4章「イエスは何者か」での「プシューケー」=「土でできたもの+神の息吹(プネウマ)」=「身」をめぐる議論や、第5章「復活と終末」と第7章「アテネのパウロとギリシア哲学」での次の記述。

《もし死に際して霊といったものが遊離し、それがどこかで生き続けるというならば、それが天国に行くというような至福の在り方をすればそれでいいのであって、復活は必要ないことになろう。だがパウロの背景にある死は人は死んでネクロス[死体・死者]状態に置かれるというものであった。そうであれば、ここでは「霊」と「肉」の意味は規定できなくなる。パウロ的に規定し直すためには、復活をも視野に入れた上で、死に際して身体から分離し、従って死後も生き続けるものとしてではなく、復活以後の人の在り方として「霊」を決め、これに対応して、死以前の人の在り方を「肉」とする外ないであろう。このようにしてパウロは霊肉二元論的用語を換骨奪胎して自家薬籠中のものとしたと私は考える。》(156-157頁)

《…アテネにおけるパウロの活動についての使徒行伝の記述は、日頃中世哲学を専門分野とする私にとって〈中世哲学〉という一つの探求ないしディスカッションの流れの源の検討という意義を持つ。アテネにおけるパウロの演説こそが、少なくともその後のギリシア教父のしていることの、さらには中世哲学という営みの枠を決めることになった、と私には思えるからである。(略)中世哲学に多大な影響を与えた五世紀の或る文書群が、パウロの演説を聞いて従った少数の者として名が挙げられた、アレオパゴスのディオニュシオスに擬して記されたものだったということが、このことを象徴的に表している。》(205頁,224頁)

 その二、山本七平著『小林秀雄の流儀』から。――小林秀雄はドストエフスキーという目標を、三つの線が交合する点で捉えようとしている。山本七平は本書に収められた「小林秀雄とラスコーリニコフ」で、帝国陸軍最新の「光学兵器」であった軽地上標定機をもちだして、小林はこの装置を据える大体の位置は知っていた、と書いている。「どこかって、そいつはまずプネウマティコンとプシュキコンとサルキコンの三点のはずだ」。

 ここに出てくる「サルキコン」を「肉・肉欲的」と訳し、「プシュキコン」を「肉体をもつ人格的霊魂的存在」の意味にとれば、一応は理解できる。だが「プネウマティコン」(神からの風)を「霊・神に属する者」と訳したところで、それがどんなものか、日本人には理解できない。「精神と肉体」とか「霊と肉」といった言葉をごく普通に使い、しかもこの「精神」や「霊」を「良心と理性の座」だと信じて疑わず、だから人間に「罪」(良心に反すること)を犯さすものは「肉の欲望」だと簡単に考えているからだ。

 ラスコーリニコフは「罪」を犯していない、従って「罰」はない、と小林は繰り返し言っている。しかし「最も良心的な個人全体主義」(山本の造語)を奉ずる者には、このことが理解できない。「個人全体主義、そこにあるのはプシュキコンの自問自答だけ」だからである。ある特定の対象へのプシュキコンの預託によって、自問自答の世界(他が一切ない全体主義の世界)は拡大する。それこそが『悪霊』のテーマである。

《プシュキコンの預託はプネウマティコンとは関係がない。だが預託した先からの影響…を人は天からの啓示いわばプネウマティコンと間違える。この間違いを思い知らされるのは、本物のプネウマティコンが来たときだ。それを否応なく経験させられたのが使徒パウロであろう。(略)一体、「神からの風」[プネウマティコン]が来るとはどういう心理状態なのか。それは確実に来た。来たがゆえにラスコーリニコフがムイシュキンになるという考えられないことが起こったのだ。そしてムイシュキンこそ、ラスコーリニコフの、シベリア以後の物語であることを、小林秀雄は明確に指摘している。ではこの「別人格への転回」はどのようにして起こったのか。そしてこの転回が、パウロのいう「自分のために生きないで……復活した者のために生きる」ということなのか。》(148-151頁)

 付録。小林秀雄特集を組んだ『ユリイカ』2001年6月号に、宇野邦一、山城むつみ両氏の対談「小林秀雄、その可能性の中心」が掲載されている。「非常に共有していることは多いのに、ベルグソン主義者としての小林とドゥルーズの違いは一体何なのか」と問う宇野は、「小林秀雄はドストエフスキーについて、電磁場の中にある人間のヴィジョンと言い、一つ一つの粒子、一つ一つの実体などない世界である、そういう見方をドストエフスキー論の結論で言うわけです」と述べている。(どの作品のことを言っているのだろう。)



【396】自然経済

▼魂の経済学の第一の相。――ジェイン・ジェイコブズの「高名」はかねてから耳に(いや、目に)していたが、著書に接するのは『経済の本質』が初めて。新潮クレスト・ブックスにジョン・L・キャスティの『ケンブリッジ・クインテット』が収録されていたように、五人のかなり年配の男女の対話で編まれた本書は文芸書として刊行されてもおかしくない第一級の香気を醸し出している。

 訳者はあとがきで、「八十歳を超える著者の探究心のみずみずしさ」に感嘆している。経済学にも生物学・生態学にも精通していない私は、本書で紹介され議論されている着想や概念や創見のすべてに感嘆し啓蒙された。

 経済発展(質的変化)の本質を、「動物、植物、三角州、法律や修理した靴底」等々に共通する「発展」の基本過程・普遍的法則──「一般から発生する分化」「分化したものが一般的なものとなり、その一般的なものからさらなる分化が起こる」「発展は共発展(co-development)による」──でもって示す第2章。

 経済成長(量的拡大)の本質をめぐって、熱帯雨林におけるバイオマスの拡大と種の多様性が、生態系(エネルギーが通過していく導管)の中に受け入れた太陽エネルギーの複合的利用によることを踏まえ、「経済拡大についてのエネルギー・フロー仮説」を提唱する第3章。[*]

 こうした「分化と結合による発展と再発展」や「エネルギーの多様かつ多角的な利用による拡大」に「活力自己再補給による自己保全」(第4章)を加えた、経済と生態系に共通な三つの過程の分析を経て、これらのシステムの動的安定性(絶えざる自己修正)を支える四つの手段──分岐(発展、技術革新)、ポジティブ・フィードバック(分岐と多様性が出現する構造・背景)、ネガティブ・フィードバック、そして緊急適応──を論じ、「経済的悪循環は経済的・政治的中毒だ。それを絶つには、現状の持続ではなく、分岐に拠るのがいちばん効果的だ」と処方箋を示す第5章。

 そして、経済生活と生息地維持との間のつながりをめぐって、「進化の過程で人類に授けられた抑止力」──美的鑑賞、報復への恐れ、畏敬、説得力、修繕工夫するくせ、加えて道徳感覚?──を提示する第6章。

 さらに、人間と自然とのつながりをめぐって、「意識の神秘」(どうして心は、心が外部に存在するかのように心を観察できるのだろう?)にまで説き及び、「真の経済学」は「超自然的でない経済学と人間ぎらいでない生態学の共生」から可能になるのかもしれないと示唆し、経済と言語の共通性──「予測できないように自己を形成すること」「文化や目的を実現するための多くの用途を発展させること」──を論じる第7章。

 いま駆け足でキーワードを抜き出してみたが、本書の豊穣さと深甚さはとても要約できない。──その他、「貨幣はネガティブ・フィードバックの媒体だ」とか「国際貿易における一国通貨のフィードバックは小国の数が増えているので改善される可能性がある」など、貨幣論にとっても有益な指摘がいくつかあった。

* エネルギー・フロー仮説について。――ジィコブズはまず、「経済発展は自然発展の別の形態である」という。経済成長は自然が用いているのと同じ普遍的法則を用いている、というのだ(39頁)。

 たとえば、熱帯雨林におけるバイオマスの拡大と種の多様性は、森林が、「エネルギーが通過していく導管」としての自らの生態系の中に受け入れた太陽エネルギーを複合的に利用することによってもたらされる。

《エネルギーを複合的に利用するには、多様な、相互に依存し合うエネルギー利用者が存在しなければならない。その原則はつぎのように言いあらわすことができる。『拡大は過渡的エネルギーの取り込みと利用に依存する。エネルギーがシステムから放出される前に、システムがエネルギーを繰り返し取り込み、利用し、回し合う手段を多くもっていればいるだけ、システムが受け入れるエネルギーの累積的効果が大きくなる』。》(58-59頁)

 これと同じ原則が、都市や地域という「導管」においても見られる。

《生態系にあっては、導管においてなされる本質的な貢献は多様な生物学的活動によってつくりだされる。繁栄する経済においても、導管の中でなされる本質的な貢献は多様な経済活動によって生み出される。どちらのシステムにおいても、受け入れられたエネルギーが多様に利用され、断片化され、再利用されるおかげで、そのエネルギーと物質は導管通過の証拠を多く残す。(中略)われわれは、集団それ自体が豊かにした環境の中でその集団が豊かになっていくのはなぜか、どうしてかを、いまや理解できるわけだ。集団が存在すること自体によって自らを豊かにする──これは手品みたいに思える。》(73-74頁)

 ジェイコブズの「経済拡大についてのエネルギー・フロー仮説」は、「多様性が経済の拡大を生む」と言い換えることができるだろう。そこには、「多様な集団は、それが受け入れたエネルギーの多様な利用や再利用によってつくりだした豊かな環境内で、拡大を遂げる」という、生態系と地域経済の両者に適用できる原則が働いているのである(77頁)。

 これに対して、単一作柄農場や単一の大製造業に依存する企業城下町のような「単純な地域経済」(単純で直接的なエネルギー導管をもった地域経済)には、「経済を拡大させる機構としての潜在能力」が欠けている。古い「規模の経済」ではなく、分散された生産としての地方的生産、すなわち新しい「地域の経済」こそが多様性をもたらすのである(100頁,207頁)。

▼本書のタイトルをめぐって。――ジェイコブズは、アダム・スミスによる“見えざる手”(財の価格と賃金率をフィードバック情報とするネガティブな経済フィードバック制御)の発見が経済学を科学的研究の最前線に立たせたのであり、初期の生態学者が自分たちの発見を説明するのに経済学を頼りとしたのは不思議ではないと書いている(131-132頁)。

 また、経済と自然、経済学と生態学の関係をめぐって、本書に登場するある人物(製品や製法の開発を自然から学ぶ「生物模倣法 biomimicry」を採用する科学者相手のコンサルタント)に次のように語らせている。[*]

《モノに焦点を合わせるのをやめて、モノを生み出す過程(プロセス)に注意を振り向けると、経済と自然との区別ははっきりしなくなる。これは新しいアイデアではない。初期の生態学者がすぐにも見てとったことなのだが──(中略)彼らのつくった新しい言葉[創始者ヘッケルによって「自然の経済」を研究する学と定義された ecology=oikos+logos のこと。ちなみに、oikos はギリシャ語で「家」のこと。これに「管理」を意味する nomy を組み合わせると economy になる。:引用者註]の音韻を聞くだけでも、それが経済と双子の関係であることは明らかだ。文字の意味はともかく、それが彼らの主張の眼目だった。彼らは自然の経済 the economy of nature を研究した。私は経済の自然(本質) the nature of economyを研究している。》(12-13頁)

* 宇宙のフラクタル構造が、当面の話題と関係するのかどうか。――デイヴィッド・ドイッチュは『世界の究極理論は存在するか』で、推論はそれ自体がひとつの自然現象である(54頁)と書いている。(この指摘はパースを思わせる。)あるいは多宇宙(マルチバース)間の知識の貿易をめぐる次の文章。

《知識の宇宙間「貿易」についてもっと正確に考える道は、われわれのすべての知識生成過程、われわれの文化と文明全体、あらゆる個人の心のなかの思考過程すべて、そして進化する生命圏全体を、ひとつの巨大な計算であると考えることである。》(280頁)



【397】大聖堂の経済学

▼魂の経済学の第二の相。――ベルナール・リエターは「地域通貨、21世紀の新たなツール」(森野栄一訳,『自由経済研究』第14号)で、「マイナス利子」をめぐる歴史的先例として次の事例を挙げている。

 西欧中世。1150年からおよそ1300年まで、ヨーロッパは例外的な繁栄期にあった。この時期は貨幣改鋳の通貨システム(brakteaten monetary system)が存在した時期と一致する。このシステムのもとでは、領主が発行した銀貨は平均6か月から8か月で回収され、この期間の1か月につきおよそ2%から3%の額になるデマレージ率だけ、少し薄くして再発行された。それゆえ人々は自ずから、ほぼ永久的に持続するであろうもの、たとえばカテドラル(大聖堂)に投資することとなった。[*]

《経済的視点からみると、カテドラルは将来に対する投資としての意味をもっている。キリスト教世界すべての巡礼者を惹きつけるため、都市の間ですさまじい競争が存在し、今日ならちょうどウォルト・ディズニー社がしているように、競ってカテドラルへの投資が行われたのである。もちろん、その違いは、カテドラルのほうが信仰のシンボルでもあり、数千人の名も知られぬ職人たちの傑作であり、永遠の美を表すものとして設計されたことにある。西欧史において、コミュニティの連帯性のもっとも巨大な象徴としてカテドラルは開花したが、改鋳貨幣のシステムが国王の貨幣創造の独占に置き換えられるや、それと同時に姿を消したのであった。》

* あらゆる取引が投資として行われる究極の資本主義。――『NAM生成』に掲載された鈴木健氏の「ネットコミュニティ通貨の玉手箱」が「ぶっ飛ん」でいて新鮮かつ刺激的だった。

 NAMやcode(坂本龍一主宰)が採用を決めた通貨発行ソフトウェアGETS(Glocal Exchange Trading System)の開発プロジェクトやInterGETSをめぐる話題、貨幣商品説や貨幣法制説の向こうを張った「貨幣評判説」(評判言語としての貨幣)の提示、そして、一次産品だけで生活できるような素朴な社会に適合的なLETS(すべての取引を販売‐購入型の絶対値取引として扱う)に対して、生産関係が複雑に絡み合う高度に分業化された経済システムに適合的な「相対値貨幣」(すべての取引を投資‐被投資型の相対値(=割合)取引として扱う。利潤を対価とする直接金融や利子を対価とする間接金融に対して、付加価値を対価とする第三の金融手段)のアイデアや「すべてが出資であるような経済圏」の構想。

 あらゆる取引が投資として行われる究極の資本主義の中ではNPOしか存在しえない。──この仮説ひとつ取り上げてみても大胆かつ魅力的なものなのだが、鈴木氏の奔放な構想力は、ネット貨幣と実世界インターフェイスをめぐる議論(脳とコンピュータの接続によるクオリアつき貨幣!)を経て、さらには経済的な問題を越え政治や法律の分野を取り込んだ「貨幣・投票・所有の情報論的融合」をめぐる議論へと、すなわち e-democracy の新しい形態、あるいは公私二項対立の図式を越えた共(コミュニティ:共同体)のパラダイムにおけるガバナンスをめぐる社会工学的な議論へと進んでいくのであって、まことに斬新かつ不羈にして説得力と問題提起力に満ちた論考だった。

 とりわけ最後に出てくる次の文章など、私はほとんど心脳問題(貨幣=魂=価値や心の形式・容器と置き換えるならば、「魂脳問題」)への示唆に満ちた言及として読んだ。(貨幣の問題は古代ギリシャ哲学、中世スコラ哲学以来の西欧形而上学の、そしておよそシステムをめぐる思考の根幹にかかわっている。)

《貨幣は心(志)の配置に影響を与えるだけであって、心そのものじゃない。つまりこういうことだ。ぼくは貨幣なんぞに、全く興味がない。そして、貨幣そのものは無価値だからこそ、ぼくは貨幣について考え、新しい貨幣をつくろうとしている。貨幣を考えるときの空しさは、ぼくが健康であることの証拠だ。》(215頁)

 なお、未編集版が鈴木氏のHP[http://sacral.c.u-tokyo.ac.jp/~ken/frame-j.html]で公開されている。

▼カテドラル(大聖堂)は楽器、それもピラミッドとともに地上最大級の霊的楽器なのではないか。

 私は、建築物は楽器である、と考えている。建築物がその内部や外部にかたちづくる空間は、音が宿り、生まれ、増幅し、通いあい、響きあう場として機能する。そして、建築物に宿る音は、非‐人間的な霊性や神性そのものなのではないか。それは、ギリシャ語のプネウマ(息)や、ヘブライ語のルーアハ(風)に相当するものなのではないか。建築物とは、そうした「音的存在」(形而上の存在)を捕獲し、培養し、顕現させる霊的器、霊的コミュニケーションの媒体として機能してきたのではなかったか。

 唐突ながら、ここでいう「霊的コミュニケーション」をめぐって、私の霊感ならぬ直感は、かのパウロを想起させる。「肉体の棘」(コリント人への第二の手紙)、つまりエゼキエルやドストエフスキー、ゴッホと同じ「癲癇」持ちのパウロ。──以下、二つばかり、註釈ぬきの素材(後の考察のための?)を羅列しておこう。

 その一。「フィリピ人への手紙」に、イエスを「聴き従う者」と表現する節が出てきた。そして、「パウロは、神から人への語りかけとして言葉をとらえ、人がそれをどのような姿勢で聴く、ないしは受容すべきかという場において論じている」とは、『パウロの言語哲学』(まえがき)での清水哲朗氏の言葉。神の語りかけに耳をすますことと信じることとの関係は、「祈り」の不可思議さともども、どこかしら深甚なものがある。[*]

 その二。パウロのアテネ演説(「使徒行伝」)に、ギリシャ人の神は「何かを欠いている(欲しがっている)」というくだりが出てくる。清水氏は前掲書で、そのようなものとして神をとらえる人間の目論見を「取引き」する姿勢と呼び、ここでのパウロのギリシャ的宗教批判の核心は、「取引き」しようとする態度に向けられていると書いている。

《パウロは取引きという姿勢を否定し、続いて、それに代わるものとして神を探求するという姿勢を提示している…。(略)取引きというのも人格間のコミュニケーションのあり方の一つである。パウロはこのようなコミュニケーションは神と人との間では成り立たないとして否定した。(略)…現実はコミュニケーションが成立していない状況にあること、したがって神とのコミュニケーションを拓こうと求めることこそがまずなされねばならないといっているのである。探求とは神と出会うこと、つまり私の言い方では神とのコミュニケーションを開始することを求める道行きにほかならない。》(212頁)

* 山内志朗氏の『天使の記号学』から、「祈りの言葉」をめぐる若干の抜き書き。

《…言葉が出来事としてあったことは、中世においては、しかも〈声の文化〉の影響を残している中世においては、当然のことだ。言葉のもつ出来事・力としての側面、しかも神の言葉ではなく、人間の言葉にそれらの側面が見出されるとした場合、ここで考えられるものの一つが「祈り」ということだ。もし祈りが神へのコミュニケーションとしてあるならば、祈りを声に出す必要はない。神は祈るものの心の内をすべて知っているからだ。(略)しかし、祈りはコミュニケーションではない。これが中世における標準的理解である。祈りとは行為なのであり、しかも自己へと帰ることによって、神に至る行為なのだ。そこでは言葉に発するということが大きな意味を持っている。》(26-27頁)

《「これは私の肉である」という言葉によって、パンが性質の上での変化を伴わないで、実体においてキリストの肉に変質するという議論は、…言葉に内在する力を強調する発想として、言葉を考える場合の原点におかれねばならないことだ。言葉とは、心の内で懐胎されたものの受肉した姿である以上、聖餐における実体変化(transsubstantiatio)との連関は当然のことだ。(略)中世が、身ぶりにおいても言葉においても儀式の秩序においても、形式的で定型的であったのは、心の姿は、具体的な「形」を持ったもの──音声もそこに含まれる──に転じる過程で徐々に現象することを前提していたからだと思われる。「形相・形は事物に存在を与える(Forma dat esse rei.)」という中世の格率は、形相(forma)が、予め存在する事物の原型・範型の側面(「かたち」)と、目や耳や触覚といった感覚が把握する「形(forma)」の両側面を有していたこと、しかもその場合、形相は初めにあってしかも最後に登場するものであること、つまり、渾然としたものが明確なものとなる過程を表すものと理解することができる。そして、このような現象する過程を担う力が意志であるし、また意志であると理解されていたと私は思う。》(28-30頁)

▼ここで私が想起しているのは、今村仁司氏が『交易する人間』で、「人と人との関係(相互行為または交易)は、必ず、神々と人間の関係によって媒介される」と書いていたこと、あるいは、中沢新一氏が「新贈与論序説」(『純粋な自然の贈与』)で、「キリスト教教理という形で、ヨーロッパが確立しようとしたのは、イエスの十字架上の死を、神にたいして人類がおこなった供犠とみなすことによって、社会の深層に、壮大な贈与の精神をセットすることにあった」と書いていたことなのだが、それにしても、とりとめもないまま話題が拡散してしまったので、このあたりで止める。[*]

* いま一つ私の脳髄をよぎったのが、エリック・スティーブン・レイモンドの『伽藍とバザール』(山形浩生訳)だ。訳者あとがきにあるように、本書は「オープンソース・フリーソフトの基礎文献が、同時にそれ自身オープンソース・フリーソフト的なビジネスモデルの実験となっている」し、翻訳そのものが「バザール方式」での実験によるもので、現にいまでも山形氏主宰の「プロジェクト杉田玄白」[http://www.genpaku.org/ ]で全文公開されている。



【398】カテドラルからモザイクへ

▼マイスター・エックハルト。生年は1260年頃。大聖堂で有名なケルンの神学大学でアルベルトゥス・マグヌスの最後の弟子(最初の弟子がトマス・アクィナス)として学び、「都市という新しい世界における托鉢説教者修道会」(上田閑照)であったドミニコ会高位の宗政家にして、ニコラウス・クザーヌスにヤコブ・ベーメ、フィヒテ、シェリング、さらにノヴァーリスに及ぶドイツ神秘主義の主峰をなし、1328年に没した。

 上田閑照著『エックハルト』には、アリストテレスの理性の哲学を思弁的基礎として、同時にアウグスティヌスの霊性から深く強い影響を受け、新プラトン主義的な「一(いつ)」への還帰と否定神学から親密かつ決定的な精神的洞察を得、さらにアラビアとユダヤの哲学にも深い親近性をもち、「そのような諸源流の合流と融合から、霊性によって荷電された知性、知性によって平常化された霊性とでも言うべき独特な立場──立場というよりは現実の只中での根源的な生の独特な質が開き出され、正にエックハルト以外の何者でもないエックハルトがそのような生を語ったのであり、また語りつつあるのである」と書いてあった。[*]

* 中沢新一氏の『純粋な自然の贈与』は「人間の霊性」を主題とした本(「あとがき」にそう書いてある)なのだが、「バイオテクノロジーと脳生理学と全面化された市場経済」の現代において、霊はふたたび新しい変態をとげつつあるのであって、「いまや、大地、貨幣、情報についで霊こそが人間にとっての「第四の自然」となりつつある。だから、いま私たちにもっとも必要なのは、新しい「霊の資本論」の出現ではあるまいか」と結ばれるその「序曲」で、著者は次のように述べている。

 中世を通じて、カトリックの世界では「三位一体のボロメオの輪のうち、聖霊の部分は大きく収縮して、父と子の超越性のほうに、大きなウェイトがおかれるようになってしまった。こういう世界では、商業しか発達することができない。貨幣は、交換のプロセスを超越するものとして生み出され、発達してきたが、その貨幣そのものは、霊のように、みずからを増殖させることができない。利子によっては、国民の富は増えないからである」。

《だが、ドイツ人が、このような事態を打ち破ったのである。ドイツ(チュウトン)人はその昔から、ローマの秩序に逆らって、霊(ガイスト)に大きな価値をあたえてきた民族であった。その彼らが、カトリックの秩序に反逆して、プロテスタントの運動を開始したとき、長いこと大地の下で眠っていた、自由な霊が目を覚ましたのだ。マルチン・ルターは、聖霊をドイツ語に翻訳するにあたって、「聖霊(サンクト・スピリトス)」の語を、ゲルマンの土俗にまみれた「ガイスト」の語をもってあてた。(略)貨幣は「プロテスタントの倫理」をくぐりぬけ、聖霊の洗礼を受けることによって、堂々とみずからを増殖する資本への転化をとげたのである。》

 ここに出てくる、宗教改革の精神を担った「チュウトン人」の思想的源流が、たとえばヤコブ・ベーメであり、さらにはユングが『アイオーン』で「自由な精神の木に咲く最も美わしき花」と称えたマイスター・エックハルトにほかならないと、私は確信している。

▼カテドラルに「霊感」を受けて、エックハルトという、古代と近現代を連結する西欧中世の、いわば「配電盤」もしくは「変電所」(あるいは、人を「熱き者」にする電子レンジ?)に到達した。その思想について、ここでは云々しない。以下、連想ゲームよろしく、若干の素材へとリンクを張っておくことにする。

 まず、上田閑照氏の「霊性によって荷電された知性」という語にヒントを得て、かつて大聖堂に充満していたはずの声(音的存在)を、電子的存在、あるいは電磁波的存在に置き換えるとどうなるだろうと考えた。

 山内志朗氏は『天使の記号学』で、現代を「電子的グノーシス主義=天使主義」の時代と規定し、そこに、「天使主義」(透明な存在への憧憬──現実への途方もない呪詛に発する、喪われた全能状態へのノスタルジー、母親の胎内への帰還願望、失われた始源としての純粋性への希求)と、1980年代以降の「新しいグノーシス主義」(失われた真実へのノスタルジー、黙示録的な予言、新世紀への希望を混在させたもの──世界や「私」への憎悪と世界や「私」を造ったものへの憎悪、そしてそういった憎悪に裏づけられた非現実的な未来への希望)、さらに「電子メディア」との重なり合い(現代の三位一体?)を見ている。[*]

《…もし現代がグノーシスの時代であるなら、そしてグノーシスを乗り越えたければ、グノーシスと格闘した教父、グノーシスを越えて成立した中世に戻る必要があるのではないか…。
 中世は、天使や奇跡に溢れた時代に見えるし、それを否定しようとするのではないが、最近の中世史研究が明らかにしているように、神について語り、知ること(テオロギア)ばかりでなく、現世の営み(オイコノミア)を重視し、現世との関わりで天上を語る時代でもあった。いつの時代でも人間にとって最も関わりがあるのは、やはり人間のはずだ。謎めいた言い方になってしまうのだが、中世は基本的に内在か超越かの一方を選ぶのではなく、「内在的超越」の時代であったと言える。
 私としては、媒介が経験の「前」や「後」にあるのではなく、「中」にあること、あえて言ってしまえば、リアリティは〈見えないもの〉と〈見えるもの〉のいずれのうちにあるのでもなく、その間にあることを述べていたのが、中世の実在論だったと思う。リアリティは直接与えられるものでも、目の前にあるものでもない。たぶん、後ずさりしながら、未来に向かうとき、背中に背負っているものなのだろう。》(序章)

* 田口ランディとの対談「魂と向き合いたい」(『鳩よ!。』2001年4月号)での鎌田東二氏の発言。

《…僕にとって、あなたがシャーマニズムの問題をコンピュータと比較しているところが非常に新鮮でリアルなんだ。シャーマニズムが現代のような形で浮上してくるのは、1950年代から60年代のカリフォルニアで、まさにコンピュータ産業が開花してきた頃なのね。その前は19世紀末期とか20世紀初頭にラジオが生み出されたとき、そのときにも古い形のスピリチュアリズムや心霊現象的なものが浮上していた。
 目に見えない世界とのチャンネルを合わせるというのは、ラジオのチャンネル合わせと同じなんだよ。それがさらに進化して、立体的になったものがコンピュータだと思う。コンピュータはチャンネルの合わせ方が非常に立体的だから、画面上でモザイクしたり編集することができる。それと同じ意味で、シャーマニズムの形態も、現代と百年前と変わってきているんじゃないかな。》

 あまり関係はないと思うが、ついでにフィリップ・K・ディックの文章を引用しておこう。1974年2月から頻発した神秘体験をめぐる膨大な「釈義」を抜粋した『我が生涯の弁明』から。

《マイスター・エックハルトがいうように、神の王国が個々の人間の魂のなかにあるなら、(すなわちまったく個人的な内心の出来事であるなら)、パルーシア[キリストの再臨]の領域全体、そのすべては、個々の人間の個人的な魂のなかにあるのではないのか。しかしそうであるなら、どうして他の人びとはわたしの体験を自分たちのものとして報告しないのか。二千年以上にわたって、おそらくエックハルトを除き、わたしのもののような個人報告はない。》(82頁)

▼ここで私が想起したのが、かの「歴史の天使」であり、ベンヤミンであった。(それと同時に、ドゥルーズを、また、エックハルトからノヴァーリスへという回路を経て、ベンヤミンへと至るもう一本の接線を見出したのだが、これらはまた別の話題だ。)

 そのベンヤミンは『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序章」で、「トラクタート」と呼ばれるスコラ哲学の入門教科書の叙述方法を、モザイクに喩えている。(ちなみに、三島憲一氏は『ベンヤミン』で、「ここではベンヤミンはそう述べていないが、トラクタートのモデルは実はイスラムのモザイクなのである」と書いていた。)

《モザイクも哲学的考察も、個別的なもの、そして互いに異なるものが寄り集まって成り来たるのである。超越的な力──聖像のそれであれ、真理のそれであれ──というものを、このことほど強力に教えてくれるものはほかにない。思考細片が基本構想を尺度として直接に測られる度合いが少なければ少ないほど、思考細片の価値はそれだけ決定的なものとなり、そして、モザイクの輝きがガラス溶塊の質に左右されるのと同じように、叙述の輝きは思考細片の価値にかかっている。細片のこまかな細工が造形的な全体また知的な全体という尺度に対してもつ関係に見てとれるのは、真理内実は事象内実の個々の細部のすみずみにまで沈潜していく場合にのみ捉えうる、ということである。モザイクとトラクタートは、ヨーロッパでそれらが最高度に完成された時代からすれば、中世に属している。両者の比較を可能にしているのは、真正なる親縁性なのである。》(浅井健二郎訳)

 思考細片という「ベンヤミン語」から私が連想するのは、いつもきまって「器の欠けた破片」(イサーク・ルリア)であり「割球」あるいは「卵割」といった語彙である。ここで、私の連想は一気に飛躍する。(割球から受精卵へ、そして古東哲明氏がプシューケーになぞらえた「器官なき身体」へ、さらにモザイクから「多様体」へといった連想から、ここでもまたドゥルーズの名が点滅するのだが、これもまた別の話題。)

 「モザイク卵」という言葉がある。広辞苑には、「受精卵で、その部分や割球が、種々の操作を加えても、予定されている特定の器官に発生する傾向を特に強く示すもの。軟体動物・環形動物・ホヤの卵の類。嵌工卵」と書いてある。──突然だが、ここで、とりとめもなく不連続な連想ゲームは中断。いくつかの切断面を縫合する作業は、もしそれが必要かつ可能であるなら、また別の機会に。(中沢新一著『フィロソフィア・ヤポニカ』の、たとえば130頁以下に叙述された「原腸形成」の話題などにも関連づけながら?)

* 鯨は、全身これ耳である。「すばらしい日本捕鯨」(中沢新一著『純粋な自然の贈与』)の書き出しの文章だ。田口ランディ著『モザイク』の主人公は「ミミ」という名を持つ女性で、「ミは、見であり、身であり、実である。そして弥勒の弥である。ミは第三の道の三である。重なる三は六であり、天、地、水、太陽、月、火である。その存在が、世界をバランスに導く」。

 ミミはまた「あしゅらおう」(『百億の昼と千億の夜』)であって、「この世界に『シ』を組み込んで崩壊に追いやっている者は誰なのか、それを探して過去から未来へと旅をしながら、ずっと戦う」。

 ミミは、古武術で鍛えられた性能のいいOS=身体をもつ「アース」でもある。「俺たちさ、身体全体が耳なんだよ。ミミがサウンドって呼んでいるのは、耳で聴いている音じゃなくて、もっとこう自分全部で聴いている音なんだよ。この音を聴くためには、性能のいい身体が必要で、身体ってのは心とセットなんだよ。」

 この小説は、「天使にチューニングが合う」人間が生まれる時代、つまり映像の世紀から情報の世紀へ向かう時代における、視覚と聴覚のシンクロによる霊覚化、いいかえれば水と波(電磁波)による浄化、ホツレとムスバレの同時化による生き霊化、すなわちOSの更新(復活)の物語だ。

 ところで「モザイク」とは何だろう。少なくとも12回以上は出てくる使用例のうち、もっとも印象に残った文章を記しておく。「人間の精神は無数の感情のひな型で構成されたモザイクである」。



【399】欲望経済

▼魂の経済学の第三の相。――トートロジーは「力」の表現である。エックハルトは、「命が命自身の根底から生き、自分自身から豊かに湧き出ている」とき「命はそれ自身を生きるまさにそのところにおいて、なぜという問なしに生きる」のであって、もし命が「あなたはなぜ生きるのか」との問いに答えることができるならば、それは「わたしは生きるがゆえに生きる」という以外答はないだろうと説いている(「なぜという問のない生き方について」)。

 ニーチェの永劫回帰とは、あるいはウィトゲンシュタインが「同語反復は諸命題の実体のない中心である」(『論理哲学論考』5.143,奥雅博訳)とか「論理の命題が同語反復であることは、言語の、世界の、形式的──論理的──性質を示している」(同6.12)と書いているのも、もしかすると世界の「力」の裏返しの表現だったのかもしれない。

 岩井克人氏は『貨幣論』(後書)で、「貨幣とは何か?」という問いにまともに答えてはいけない、もしどうしてもそれに答える必要があるならば、「貨幣とは貨幣として使われるものである」というよりほかにないと書いている。[*]

 同氏はこのことをマルクスの価値形態論と交換過程論の徹底的な読解を通じて、つまり「商品語」(全体的な相対的価値形態と一般的な等価形態との無限の循環論法によって成立する貨幣形態)とその「人間語」への翻訳(貨幣が今まで貨幣として使われてきたということによって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくというこの期待によって、貨幣が今ここで現実に貨幣として使われる)の両面から論証している。

 さらには、労働価値説に立脚し商品世界に実体的な根拠を確保しようとしたマルクスの「価値記号論」や「超越的な記号されるもの」の場を究極的に確保してきた古典ギリシャ以来の伝統的な記号論を、貨幣の系譜をめぐる歴史の事実(「本物」の貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」になってしまうという小さな「奇跡」のくりかえし)によって論駁し、最終的に資本主義の真の危機としてのハイパー・インフレーション(貨幣からの遁走)に説き及んでいる。

 「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである」。──マルクスの方法の徹底化、すなわち抽象化の極限値として摘出されたこのトートロジーが示す「世界の実体のない中心」から噴出する力とは「剰余価値」であり、岩井氏はこの力の創出を「原初の奇跡」と表現している。

《…わが人類は労働市場で人間の労働力が商品として売り買いされるよりもはるか以前に、剰余価値の創出という原罪をおかしていたのである。それは、貨幣の「ない」世界から貨幣の「ある」世界へと歴史が跳躍したあの「奇跡」のときである。
  その瞬間に、この世の最初の貨幣として商品交換を媒介しはじめたモノは、たんなるモノとしての価値を上回る価値をもつことになったのである。貨幣の「ない」世界と「ある」世界との「あいだ」から、人間の労働を介在させることなく、まさに剰余価値が生まれていたのである。そして、その後、本物の貨幣のたんなる代わりがそれ自体で本物の貨幣になってしまうというあの小さな「奇跡」がくりかえされ、モノとしての価値を上回る貨幣の貨幣としての価値はそのたびごとに大きさを拡大していくことになる。》(227頁)

* 本書を読んで強烈に印象に残ったこと。その一。一般的な交換の媒体としての貨幣が価値の保存手段としての役割も果たしていることに関連して、ケインズが「時間をえらばずにどのような商品にも交換できる容易さの程度」を「流動性」と名づけたこと。この周知の事実が、とりわけ「流動性(liquidity)」という語彙がなぜかとても新鮮に思われた。(『ドゥルーズ 流動の哲学』の方へ?)

 その二。木村敏氏の著作を示しつつ、不況(depression)、熱狂(mania)、解体(splitting)という「貨幣的な交換に固有な困難なあり方を形容する」言葉が、それぞれ鬱病(depression)、躁病(mania)、精神分裂病(schizophrenia=splitt ing of mind)といった精神病理学的な病名を想起させるのはけっして偶然ではないと岩井氏が註をほどこしていること。(宗教用語と経済用語の類縁性?)

▼「金属的想像力」と「from soup to nuts 」という二つの言葉が気になっている。

 前者は『サイアス』(2000年4月号)に「ここでは金属を、金属結合という様式で原子が結合している物質である、と定義する。金属結合は、イオン化した原子が「自由電子の海」の中に浸っているような状態である。理想的な金属結合は方向性がなく、電子は自由に物質の中を移動できる」(増子昇・千葉工大教授)と書かかれていたのを読んで、バシュラールの物質的想像力が扱ったテトラ・ソミアに「金属」を加えるならば(これでは五行説になってしまう?)何かしらまことしやかな議論を展開することができはしまいかとふと思いついたもの。

 後者は、茂木健一郎氏[http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html]との対談『意識は科学で解き明かせるか』で天外伺朗氏[http://www.so-net.ne.jp/TENGESHIRO/]が「素粒子というのは、…粒子と波動の両方の性質を持っている。これは豆を煮て作ったスープのようなものだと考えるとわかりやすい。豆を煮てスープを作ると、もう豆は見えなくてドロドロのスープの状態になる。素粒子は普段はスープの状態なわけですが、それを観察すると煮る前の豆に戻ってしまう。…つまり、観測をすると豆になる。観測をしないときにはスープの状態です。これが素粒子の非常に不可解な現象です」と語っているの読んで、この言葉── from soup to nuts ──を手がかりにすれば、たとえば中世普遍論争の意味を解き明かすことができはしまいかと突然閃いたもの。

 前置きがアンバランスなほどに長くなってしまったけれど、貨幣経済に関する書物をまとめ読みしようと思ってまず手に取った本書、今村仁司著『貨幣とは何だろうか』がはからずもこの二つの言葉にリンクを張っていた。[*]

 まず、著者が本書で論じているのは素材としての貨幣ではなく形式(媒介形式)としての貨幣(=墓=供犠=文字)なのだが、ここでいう素材の典型はいうまでもなく、十九世紀の金本位制から二十世紀の管理通貨制度へ、というときの「金」属のことだ。

 そしてジンメルの『貨幣の哲学』に準拠しつつ著者が示す「関係の結晶化」の定式(「無媒介なもの=渾沌」?「媒介形式=境界」?「差異関係=社会関係」)はまさに‘ from soup to nuts ’でもって表現できるものなのではないだろうか。

 これ以外にもジッドの『贋物つくり』の分析(貨幣小説論)など、本書は私の現在の関心事とあまりに合致しすぎていて、うっかりすると思考を決定的に規定されてしまいそうになる。こういう時は要注意。(それでなくとも本書の論述は少しできすぎているように思った。)

* 今村仁司氏の本を読んでいつも思うことだけれど、そこで提示される理論は少々できすぎている。氏の新刊に接するたびきまって知的興奮を覚えるのだが、それはひとときの熱気であって、読後の時間の経過とともにいずれは冷めていく。

 抽象度が足りないのだと思う。だから知的刺激を誘う読み物としては(少なくとも私にとって)最高の部類に入る書物なのに、私自身の経験の能力の核心部分には浸透していかない。これは決して批判の辞ではないし、抽象度の不足は本書の欠陥などではない。むしろその分、知的潮流への的確な目配りに支えられた豊富な素材と射程の広い創見がちりばめられていて、知的興奮が去った後、冷静に自前の思考を紡いでいく際の手引書として最適だ。

 『交易する人間』の理論的骨格をなす命題は、たとえば「交易は交換不可能な物を交換の場に引きずりださなくては開始しない。交易不可能なものが交易を可能にするのである」(222頁)というパラドクスでもって示される。この謎を解く鍵は「原媒介」とでもいうべきものの介在である。

《人と人との関係(相互行為または交易)は、必ず、神々と人間の関係によって媒介される。(略)人間たちは、人間だけで、社会関係を構築することが原理上できないのである。(略)人間関係のなかに「人間でないもの」が参加するときに、ようやく人間の相互関係が動きだす。「人間でないもの」が介入して「はじめて」、あるいはそれによる媒介と「同時に」、あるいは「その後で」、自分を人間であると称する存在たちがおもむろに互いに交渉しはじめるのである。》(144-5頁)

 こうした命題を支える今村氏の理論的構図そのものは、「労働と霊性の関係」という問いを踏まえて、たとえば次のように図式化されている。

《してみると、霊的世界(アニマ的世界、生ける自然)のなかから、祈りを媒介にして、聖なるものと俗なるものとが分離される事態が理解されるだろう。こうして供犠と祈りは一体となり、霊的な世界のなかに、一時的に開口部をこじあけて、霊的効力を宙づりにして、霊的世界を一時的に事物化するのである。事物化した世界が俗なるもの、すなわち生業であり、他の部分が聖なるものである。そして聖なるものは、擬人化的な神話的思考によって、霊的力が実体化されて神々の住まう領域に縮減される。霊的世界を聖なるものに「縮減する」ときに、想像的な神話的思考が強く関与する。祈りのなかに宗教的儀式と神話が不可分にからみあっている所以である。この神話がなければ、祈りの生産力をもってしても聖なるもの、すなわち神々を結果として生産することはできないであろう。》(102頁)

 このいかにもアルカイックな様相を帯びた社会理論に出てくる「霊性」を自然に、「祈り」をテクノロジーに、「聖」と「俗」を言語化可能な「制度」と無意識的な「構造」という社会を成り立たせる二つの要素にそれぞれ置き換え、さらに「擬人化的」で「想像的な神話的思考」をマスメディアの思考様式にあてはめてみるならば、それはそのまま情報資本主義段階へ以降しつつある現代にも妥当するだろう。

 それは「マルクスの所有論的な歴史的考察の成果とモースによる贈与体制の論理と倫理への考察の成果」(273頁)に基づく「人間学的な普遍的構造」の把握に向けた、著者の現時点での到達を示している。(付言すると、著者はエピローグで、「政治もまた社会的相互行為としての交易であるという事態」をめぐる著書を予告している。次なる知的興奮と速やかな冷却の読書体験を期待している。)

▼ピエール・クロソウスキー著『生きた貨幣』。フーコーが「私たちの時代のもっとも偉大な本」と称えた書物。フロイトとマルクスが紡いだ思考の上に「サドが決定的に刻印した真実」(フーコー)と「フーリエの奇妙な構築物」(クロソウスキー)を重ね合わせた本。一度や二度の通読では容易にその全貌を明らかにしない謎めいた著書。

 訳者解説によると、「主体の欲望の次元と産業社会の生産=消費の次元を重ね合わせることで、欲望あるいはファンタスムが広く社会的に流通する体制を思考しよう」とした本書の全体で、クロソウスキーが追及していることはただひとつ、「伝達も共有も交換も不可能である情欲[e'motion voluptueuse]を、交換可能なものとして思考するためにはどうしたらいいか」ということである。

 「クロソウスキーに対する裏切り」との非難を覚悟の上で「わかりやすさ」を旨として再構成されたこのよくできた「見取り図」を繰り返し読んでみても、本書に表現された何かしら思考し得ない事柄が要約整理の手捌きをすり抜けて、どこか深いところで息づいているのを感じてしまう。

 自ら「生きた貨幣」となって「情欲の普遍的コミュニケーション」(訳者)──「普遍的に真であるようなコミュニケーションはただひとつしかない、つまり身体的諸記号による秘密の言語によって身体が交換されることしかない」(本文117頁)──に身を投じることでしか理解できない何か。[*]

《いつの日か人間存在が、外的倒錯を、つまり諸「欲求」の病的肥大の怪物性を乗り越え、つまり減少させ、そのかわり内的倒錯に、つまりみずからの虚構の統一性を解体することに同意したならば、そのときには、欲望とその対象物の生産とのあいだに、みずからの諸衝動との相関において理性的=合理的にうち立てられた経済学というかたちで、調和が組織されることになるだろう。つまり、労力の無償性と非理性的なるものの価格とが、相互に釣り合うことになるだろう。サドの教えは、フーリエのユートピアには深い現実が隠されていることを証明する。しかし、現在からそのときに到るまでは、フーリエのユートピアがユートピアでありつづけ、サドの倒錯が産業の怪物性の原動力でありつづけることが、産業の利益にかなうことなのである。》(99頁)

* 『交易する人間』に出てくる次の文章は、とても「参考」になった。

《ここで言う霊性とは心理学的な「霊魂」の観念ではない。魂もまた一つのスピリット(精神)であるから、霊性をおびるとみなされるが、魂が霊的であるのは、それが霊的なものを受け取るいわば容器だからである。霊魂以前に「霊性」がある。霊性が人間のなかの何かに作用するとき、身体のある種のものが「魂」と呼ぶしかないようなものを生み出す。》(90頁)

《プラトンのコーラは、たとえば英語でレセプタクル(受容器)と翻訳されるが、それはイメージでしかない。受容器なるものが存在者として存在するわけではない。だから人間の言葉でもって言い表わすこともできない。それは「語ることのできないもの」である。「ある」とも「ない」とも言うことができない何かである。》(128頁)

 ついでに、中村雄二郎著『精神のフーガ』から抜き書き。

《しかし、捉えにくく問題なのは、この〈場〉(コーラー)がいかなるものか、ということである。それは一口でいえば、感覚的事物にかたちを与える母胎であり、一種の容れ物であるが、その中身の雑多な力によっていろいろと揺さぶられ、外観を変える。これは、或る外観がその〈なか〉で現われるものであり、ちょうど映像に対する〈鏡〉のような働きをする。そしてこのコーラーは、容れ物の類に譬えるなら、振動させることで穀物を選り分ける〈箕〉にもっとも近い。この振動によって、似た者同士が集められ、違ったものは相互に引き離されるようになり、その結果、宇宙が秩序づけられるときには、それらのものはそれぞれ違った場所を占めることになるのである。》(46-47頁)

▼妙木浩之著『心理経済学のすすめ』から。――「心」を経済的な現象とみる心理経済学。心は一つの経済活動であり、一定の需給環境によって成り立っている(181頁)。そもそも心は社会経済的状況の産物であるから、必然的に社会経済的枠組みに影響される(236頁)。著者の臨床での治療体験に根ざした「心の経済」という発想に立ち、フロイトとマルクスを起源とし、ニーチェを先駆者にもつ学問。

 フロイトやマルクスが生きた金本位制の時代(?1913)から固定ドル本位制(1945?70)へ、変動ドル本位制(1973?84)を経てプラザ合意以後の「ドル救済のためのマネーシステム」、そして「マネーゲーム」の時代へと、経済システムは変化してきた。

《構造主義が明らかにしてきたように、システムが違えば、そのなかの意味も異なったものになります。ということは、フロイトの時代と今では「お金」といっても意味が異なるのです。今日私たちの世界は、金本位制の時代のように、リアリズムと本質主義の時代ではありません。(中略)今や変動する差益を基準として、さらに大きなお金が動くというハイパー・マネーの世界なのです。ここでは家族や個人、つまり精神にもさまざまな循環が起きています。思想は構造主義、さらには相対主義の時代です。家族は多元化しています。》(15頁)

 多元化した現代の家族は、市場原理(貨幣の原理)に対する共同体原理(愛の原理)を割り振られた「共同体の最後の防波堤」として、かつて「妖怪」という恐れと不思議、脅威と驚異が同居する中間領域が果たしたショック・アブソーバーの機能(共同体の外部と内部の緩衝帯)を欠いたまま、共同体意識と市場原理の「心の戦場」になった。そこで闘われているのは、まさに心理戦、情報戦である。

《今、日本は、昭和初期と同じように外部のマネー経済に振り回されているのです。振り回されているのは当然です。庇護社会[母性的なものを期待し、それを求める社会]で失われやすいのは、先の金融マネー社会で必要な(一)市場原理に対応できる情報戦、(二)主体的なリスク・マネージメント、そして(三)個人主義的な意思決定、なのです。どれもハイパー・マネーの世界で必要なものばかりですが、日本では家族でも、学校でも教えてこなかったものです。庇護社会は、外部のマネー経済に二度目の侵襲を受けている危機的状況にあるのです。》(281頁)

 心理経済学は循環あるいは反復を前提として、「悪循環」の解消をめざす。そして、これからの社会経済状況のなかで生き残るための「心の戦略」を示す。[*]

《そもそも庇護社会は、主体的な行為と情報戦は苦手なのです。これは第二次世界大戦で起きた数々の失敗が証明しています。にもかかわらず、新しい外圧である外部のマネー経済が登場し、金融ビッグバン以降の日本はこの心理戦の世界に向かって金融の世界を開こうとしています。そこでは「経済主体」と「心の戦略」が不可欠なのです。心理経済学という領域が切に必要だと、今ここで考えているのは、こうした文脈からなのです。不幸な反復を避けるためには経済的な「心の戦略」が必要な時代になっているのです。》(294-295頁)

* 悪循環と予定調和。この両者の関係を解くことが、魂の経済学の(実用面での?)任務である。



【400】経済システムとしての魂・その他の備忘録

▼魂の経済学の第四の相。あるいは自然経済、宗教経済、欲望経済間の相転移のプロセスそのもの。――その実質はいまだ杳として知れないのだが、たとえばそれは「新しい物理学」(ノヴァーリスの「来るべき自然学」「ガイスト的自然学」「高次の自然学」「メタ自然学」あるいは「自然形而上学」にも通じる?)とでも名づけるべきものなのかもしれない。[*]

 魂の経済学がまず第一に解明しなければならない実在は、より高次で複雑なシステムとしての物質(魂の濃度変化によって析出=叙述される?)なのかもしれない。

* たとえば高安秀樹氏[http://www.kansai-cs.com/takayasu.htm]は、インフレのような大きなスケールのものも含めた市場価格の変動は、物理現象と同じように動力学と確率的な変動をミックスした比較的簡単な方程式で記述できるのであって、「何千万人もがかかわるマクロな経済量の方が、人間の個性の違いが打ち消され、かえって物理的な記述がしやくすくなるのだ」と述べている(「経済物理」,2001年10月16日付朝日新聞夕刊)。また、インターネットの中を絶え間なく流れる情報流の解析に物理学の概念や手法が活用できるとも(「情報物理」,2001年10月17日付朝日新聞夕刊)。

 あるいは、人間が「ひとつだけつくらなかったものがある。それは経済システムである」と記す『ボランタリー経済の誕生』末尾の文章。(より高次で複雑で精妙な経済システムとしての魂?)

《貨幣をつくり、為替をつくり、株式会社や取引所をつくりあげたはずなのに、実は経済システムについてはまだひとつとして総合体系をもちえないでいるままなのだ。もちろん「経済」は最初から動いていた。しかし。「経済システム」はつくれなかったのである。それは経済の理想が死後の理想社会からは演繹できなかったからである。死後の世界は消費一辺倒であり、それにくらべて現実社会は、小麦も稲作も、鉄も金も、価値も才能も、これを資源として安定させるのは容易ではなかったのである。》(403頁)

▼中込照明氏は、「われわれが物質として経験しているものは互いに組織化されていないモナドの集合体である」(『唯心論物理学の誕生』145-146頁)と言う。

 中込氏によると、量子力学的物質概念はじつはよく分からないものなのである(97頁)。そこで、量子力学が記述するものは物質現象ではなく心的現象である(99頁)というコペルニクス的転回によって、物理理論を唯心論モデルの上に乗せてみようというのが、中込氏の「唯心論世界モデル」の出発点だ。

 ここで、世界の基本システムとして導入される「モナド」はもちろんライプニッツのモナド論をヒントに発想されたものなのだが、中込氏の理解によれば、それは「基本的には人の精神現象にヒントを得た世界モデル」であり「存在するのは精神のみで、しかもその精神が複数存在するという世界モデル」である(103-104頁)。

 中込氏の議論は、以下、世界の基本システムから経験世界へと移行し、最終的には、基本モナド構造から物質化、さらに機械化(ここでいう機械とはアルゴリズムのことであり、機械化とはたとえば自動機械=オートマトンとしての原始生命体の発生である)を経て高次モナド構造(たとえば細胞)へ、さらに高次物質化、高次機械化(たとえば人間の身体?脳システム)を経て更なる高次モナド構造(たとえば人間)へ、そして以下無限に(?)続く存在論的プロセス(進化)へと説き及ぶ壮大なものである。

 しかし、私が中込氏の議論で決定的に重要だと思うのは、それがライプニッツのモナドロジーの理解として妥当なものかどうかは別として、「人の精神現象にヒントを得た世界モデル」であること、つまり高次構造のアナロジーとして基底構造を導き出している点だ。

 ここには、山内志朗氏がいう「見えないもの」から「見えるもの」へ、〈かたち〉から「形」へ、さらには〈私〉から「私」へというプロセスを駆動させる原理があると思う。[*]

* ここに出てくる〈私〉(二重否定の痕跡に囲まれた独在性の私)という表記は、永井均氏の議論を念頭に置いたものだ。私は、モナド=魂=〈私〉などと規定したいわけではないのだが、スコトゥスのハビトゥスやパースの「偶然」等々をからませてそのような仮説を設えてみたときに何が見えてくるかは大変興味深いと考えている。

 このこととはあまり関係がないが、以下、永井均氏の最新書『転校生とブラック・ジャック』に関する感想文を掲載しておく。

 ――この本には著者による前書きも後書きもない。つまりこの本には、〈私〉は、もう、いない。〈私〉は火星へ転送されたのかもしれないし、十字架上で死んだのかもしれない。だからこの本には、〈私〉がいなくなる前夜、最後の晩餐での出来事が綴られている。

 つまりAからLまで十二人の学生(使徒たち?)と先生N(猫のインサイトならぬイエス?)との最後のセミナーでの会話が記録されている。実際、四人の使徒(学生DからGまで)はそれぞれ福音書(レポート)を書いている。(そうすると、裏切り者ユダはいったい誰なのだろう。)

 この本の登場人物を示す記号にアルファベットのMが出てこないのには、実は意味がある(と思う)。Mはたとえば中間者・媒介であり、三つの精神鑑定(現実世界の犯罪者と可能的な法的責任主体《私》との関係を問う)を経て死刑判決を受けたMであり、あるいは三浦俊彦、もしくは森岡正博、ひょっとすると茂木健一郎である。ついでに言うと、NをはさんでMと対峙するOは大庭健、それとも大森荘藏のイニシャルではないか、と私はにらんでいるのだが、もちろんこれは冗談だ。

▼すべてはパースの『連続性の哲学』に書かれている。来るべき物理学、魂の経済学は、パースのパースペクティブから析出=叙述されるだろう。[*]

* パースに倣って、本書の「三項」構成、すなわち「推論」と「事物の論理」と両者の関係(カテゴリー論)を「縮減」的に概括しておこう。――この contraction というニコラウス・クザーヌス由来の、そしてニコラス・ルーマンにつながる語彙は、本書の肝の部分で使われていた。《そのような一切が普遍であり何も個物でないような存在の、潜在性の曖昧さが縮減するにつれて、諸形相の世界が出現するのである。》(256頁)

 第一項。パースは『連続性の哲学』第一章で「諸科学の分類」を試みている。諸科学をその対象の抽象度に応じて序列化するコントの分類原理に従い、「数学」─「哲学(論理学─形而上学)」─「特殊諸科学(法則的科学─分類的科学─記述的科学─技術)」という系列を提示した上で、すべての科学はより抽象的なものへ、つまり形而上学へ、次いで論理学へ、そして「数学という中心」へ向かってゆっくりと、しかし確実に収斂していくとパースは述べている。この探求の論理が演繹・帰納・仮説形成的推論の三つの推論であり、関係項(述語関数)の論理学である。それでは当の数学はどこへ向かっているのか。それは「実在する潜在性」あるいは「イデアのコスモス」である。

 第二項。具体的なものから抽象的なものへと向かうこのような「科学の歴史」、つまり認識活動の歴史とパラレルな関係を切り結ぶのが事物の論理であり、第六章で論じられる存在の歴史、つまり「進化の過程」の問題だ。この最終章には、とりわけ美しい文章がちりばめられている。たとえば「多数世界」もしくは「可能世界」と「現実世界」をめぐる次の文章。(ただし、ここに出てくるプラトン的世界云々は、「潜在性」をめぐる本書全体の叙述を踏まえて読まれなければならない。)

《原初の連続性からは、…相互作用するシステムが多数出現することができる。そして、これらのシステムのそれぞれがまた、…さらに大きなシステムを形成し、そのなかで元の線は個体性を溶融させていくことであろう。
 このようなことはすべて、現存するわれわれの宇宙の秩序について述べたのではなく、プラトン的な世界について述べたものであることを忘れないでほしい。こうしたプラトン的世界は、それ自身がひとつのシステムとして互いに並行し、あるいは階層をなす形で、多数存在していることになる。そしてこれらの多数のプラトン的世界にひとつから、最終的に分化し具体化してきたものが、われわれがたまたま存在している、この現実の宇宙ということになる。》(266-267頁)

 第三項。パースは、「われわれが何かを理解しようと試みるとき──何かを探求しようとするとき──、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論理と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前提されている」(254頁)と述べている。ここで言われているものこそ、探求(推論)と事物(存在)を通じる論理、すなわち第一性(質)、第二性(関係、作用・反作用)、第三性(表象)というカテゴリーの三肢構造に他ならない。

 パースの「見通し」にはさらに大きな仕掛けがあって、それは、感情や本能という「魂の実質的部分」(20頁)をなしているものと「魂の部分のなかでもっとも表層的で誤りやすい部分──理性」(46頁)による認識活動との関係をめぐる、パースのプラグマティシズムの根幹にかかわる(と私は思う)議論である。──それにしても、パースは深い。

 補遺。訳注(282頁)によると、「形而上学は論理学を導きとして、存在者一般が本来どのようなものである「はずであるか」を仮説的に推測し、その妥当性を将来の科学的検証に委ねるというのが、パースの根本的な形而上学観である」。

 パースはまた、トポロジーにおける連続体についての推論を形而上学に適用した「数学的形而上学、あるいは宇宙論」(275頁)の研究が、精神の新しい陶冶のためにもっとも有効であると述べている。

 私は、パースがいう形而上学の仕事(数学的形而上学)を「実験数学」という言葉でもって考えたいと思っている。それは、パース自身が演繹・帰納・仮説形成的推論の三つの推論の作業を実験過程として説明していること(54?58頁)──そこでは、仮説形成的推論は思考実験そのものであるとされている──、あるいはドゥルーズが『差異と反復』で「世界は、神が計算しているあいだに、「できあがってくる」」(訳書333頁)と書いたことなどを念頭においたものだ。

 実験数学の探求(それは魂の四学のうち第三の学の析出=叙述へとつながるだろう)は今後の課題として、ここでは『現代思想』(1997年8月)所収の鼎談「二〇世紀の数学」での上野健爾氏の発言を二つ引用しておこう。

《有限離散数学というのは確かに解けてみないと、その問題が易しいのか難しいのか分らない。非常に具体的でとっつきやすいので、即、実験数学として簡単にできるんだけれども、しかし、それを一般の人がやろうとすると非常に難しくなる。私は、離散的なものは今の数学では十分に扱えなくて、結局、いつでも無限にもっていって連続的なもので離散的なものを近似しているのではないかと思います。》

《…リーマンは、有名な講師資格講演「幾何学の基礎をなす仮説について」の中で、連続的な空間では距離を人為的に入れることができ、それが現実の物理的な空間と一致するか否かは実験によらなければならないとのべる一方で、離散的なものはそれ自身で構造を持っていて連続的なものとは違うとのべています。おそらく素数のことが念頭にあったのだろうと思うのですが、離散数学の難しさは、構造が隠されていて見えないということだと思います。》

▼こうして、魂の経済学をめぐる考察は今後の研鑽に委ねられることとなった。その場合、まず最初に取り組むべきは方法論の探求だろう。たとえば、縮減[contractus]と繰り込み[renormalization]の関係を見極めて無限の有限化の技法を確立する、あるいはそうしたアナロジーそのものを方法として磨き上げる、さらには探求の方法である同時に探求の対象そのものでもある実験について考察する、等々。

 私は、いつの日にか「実験理性批判」をまとめてみたいものだと思っている。こでいう「実験」には、もちろん自然科学の方法としての実験──小室直樹氏は『数学嫌いな人のための数学 数学原論』で、「実験であるためには、変数の分離が行われていなければならない」(184頁)と的確な定義を与えていた──を含めるが、より広く、たとえば思考実験やらノヴァーリスがいう「まことの実験術」=「能動的経験主義の学」(あるいは「内的な実験」「精神の実験物理学」「説教=神を考察することと神を実験すること」「内的宗教的な実験と観察」「実験宗教学」「神のなかでなす実験」)なども含めて、一回性、唯一性、個別性をもった事象をめぐる実験(実験歴史学?)の可能性とその限界を見極めてみたいということだ。[*]

 いま中岡成文氏の『臨床的理性批判』を読み進めている。その序章に次の文章が出てくる。《「哲学を行動に移す」のではなくて、フィールドで動く中から何かを発見したいと思う。そういう志向からすると、「理性批判」という基礎づけの発想は、従来の哲学にとってのスタンダードではあっても、何か内向きの響きが伴っていて、書名に掲げるには多少のためらいを覚える。ただ、反面でしっかり言っておかなければならないのだが、……思想を組み上げるために、他の人々と協同することが必要なネットワークの時代にも、「意味」を濃密化し、抽象度を高めていく各自の努力は省けるわけではない。…そこに「理性批判」の必要性がある。》

 私の実験理性批判は、概念の「濃度変化」の観察=実験=叙述を通じて「物質的なもの」(質料、元素とも)が析出されるプロセスそのものを叙述=析出する(ドイツ語の Darstellung には「叙述」のほか「析出」という化学的意味があって、このことはベンヤミンの「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」の最後で使われていた)もの、つまり魂の物理学序説のようなものだと考えているのだが、しかしこれでは何を言っているのか分からない。

* ノヴァーリスの「実験術」について、中井章子著『ノヴァーリスと自然神秘思想』から。

《「具象化」や「象徴化」は、[引用者註:ノヴァーリスによって]自然科学の実験に似た「実験」と呼ばれる。(略)
 「実験[エクスペリメント]」は、ヨーロッパ思想史のなかで本来宗教的な意味をもつ言葉である。自然科学の実験にしても、フランチェスコ会士であったロジャー・ベーコンや神的な智慧を求めた錬金術師にとっては、神を直接的に経験的に認識することにつながっていた[著者註:トマス・アクィナスにおいて神の体験的認識は、cognitio Dei experimentalis と呼ばれている]。敬虔主義者は、魂のなかでの自己の経験をとおして神を知ることを、「神の実験」とこころえていた。(略)ノヴァーリスも、敬虔主義の環境に育ったので、この「実験宗教学」には通じていた。
 ノヴァーリスの「実験」は、感覚的なものであると同時に、魂のなかのものであるという点で、自然科学の「実験」と敬虔主義の「実験」の両方の要素を合わせもつ、想像力による「ポエティッシュな実験」である。》(122-124頁)

 ちなみに、伊藤俊太郎氏の「近代化学の源流──スコラ自然学と近代」(『西欧精神の探求』下)によると、西欧十三世紀の「方法論革命」において「数学的な合理性」と「実験的な実証性」の総合(数学的実験科学の方法、すなわち今日いうところの仮説演繹法の確立)をなしとげたのは、オクスフォードのロバート・グローステストであった。